インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

隣人愛と兄弟愛を強調した新約聖書(2016.7.31 礼拝)

2016-07-31 14:53:10 | 礼拝メッセージ
2016年7月31日礼拝メッセージ
『隣人愛と兄弟愛を強調した新約聖書』
【使徒2:36~38】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。きょうは使徒の働き2章の3回目の学びになります。使徒の働き2章では、まずペテロたちガリラヤ出身の弟子たちに聖霊が注がれました。そうして聖霊を受けたペテロたちは力強くイエス・キリストを宣べ伝え始めました。
 この使徒2章に収録されている説教でペテロは、旧約聖書を自在に引用した力強い説教を行っています。ペテロは元々は魚を獲る漁師でしたし、このペンテコステの日のわずか50日ちょっと前には、イエスさまのことを三度「知らない」と言ってしまうという、みじめな失敗を犯してしまいました。そんなペテロがどうして力強い説教者へと変えられたのか。使徒2章の1回目の学びではこのことを取り上げ、これこそが聖霊の力であることを話しました。聖霊は人にイエス・キリストの証人になる力を与えます。そして、その力は自分の心をすべてイエス・キリストに明け渡した者に最大限に与えられます。自力に頼っている間は、聖霊の力は働きません。イエスさまの弟子たちはイエスさまが逮捕された時に逃げ出してしまってことで、自分がいかに弱い人間であったかを思い知らされました。自分はもっと強い人間だと思っていたのに、イエスさまの前から逃げ出してしまうというみじめな失敗を犯してプライドが粉々に粉砕されました。しかし、そうして自尊心が粉砕されて自分の弱さが分かったからこそ、自分の心のすべてをイエスさまに明け渡すことが可能になりました。そうしてイエス・キリストに自分の心を明け渡して全てを委ねた者に聖霊の大きな力が与えられます。

イエスを十字架に付けた罪
 そして、先週の使徒2章の2回目の学びでは36節から38節までに注目しました。中でも特に36節の、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」というペテロの言葉に注目しました。きょうは、もう一度この箇所に注目します。
 36節から38節までを、もう一度交代で読みましょう。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 イエス・キリストを十字架に付けたのはユダヤ人たちでした。彼らはイエスさまを「十字架に付けろ」と叫び、ローマの総督のピラトはその声の大きさに押し切られてイエスさまを十字架に付けることにしました。ユダヤ人たちはイエスさまを神の子キリストと知らずに十字架に付けて殺してしまいました。ユダヤ人たちは神を愛し、神を恐れていましたから、神の御子を十字架に付けたのだとペテロに指摘されて心を刺されました。それで彼らはペテロたちに「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と聞きました。それでペテロは彼らに答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
 ユダヤ人たちはイエスさまを神の御子とは知らずに十字架に付けてしまうという重大な罪を犯しました。そして、このことはユダヤ人たちに限らずに私たちも同じことです。私たちも、そうとは知らずに神に背く重大な罪をかつて犯しましたし、もしかしたら今でも犯しているかもしれません。それはイエスさまを十字架に付けたのと同じことです。私たちもまたイエスさまを十字架に付けています。

「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」
 では、神に背く罪とは、具体的にはどういう罪を指すでしょうか。今日は、このことを少し詳しく見て行きたいと思います。ヨハネの手紙第一3章の4節から6節までを交代で読みましょう(新約聖書p.468)。

3:4 罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
3:5 キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 4節に、「罪とは律法に逆らうことなのです」と書いてあります。律法とは神がモーセを通じてイスラエルの民に与えた規則で、出エジプト記から申命記に掛けて記されています。ただし私たち異邦人の場合には、割礼を受けたり、神殿に動物のいけにえを捧げたりするような祭儀的な規定は守らなくてよく、専ら倫理的な規定を守ることが求められます。その倫理的な規定の代表が、モーセの十戒です。
 出エジプト記の20章をご一緒に見て確認しましょう(旧約聖書p.130)。ここにモーセの十戒が記されています。モーセの十戒は大きく分けると二つに区分することができます。第一の区分は第一の戒めから第四の戒めまでで、一言でまとめるなら「神を愛せよ」ということです。そして第五の戒めから第十の戒めまでが第二の区分で、それらを一言でまとめるなら「隣人を愛せよ」ということになります。第一の戒めから第十の戒めまでを私が所々省略しながら読みますから、皆さんは目で追って下さい。
 まず第一の戒めが3節の「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」、第二の戒めが4節の「あなたは、自分のために偶像を造ってはならない」、第三の戒めが7節の「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」、そして第四の戒めが8節の「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」です。以上の四つの戒めを一言でまとめると「神を愛せよ」となります。
 続いて第二の区分は、第五の戒めが12節の「あなたの父と母を敬え」、第六の戒めが13節の「殺してはならない」、第七の戒めが14節の「姦淫してはならない」、第八の戒めが15節の「盗んではならない」、第九の戒めが16節の「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」、そして第十の戒めが17節の「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」です。この第十の戒めは「むさぼってはならない」という言い方もされます。以上の第四から第十までの六つの戒めを一言でまとめるなら「隣人を愛せよ」ということになります。
 これら大きく分けて二つの戒め、すなわち「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」はイエスさまもマタイ・マルコ・ルカの福音書の中で大切な戒めであるとしています。
 イエスさまが隣人愛のことを、神を愛することと同じぐらい大切であると言ったことの背景には、律法学者やパリサイ人たちが神を愛することに熱心になるあまり、隣人を愛することができていないからでした。ルカの福音書の「良きサマリヤ人の例え」にも、強盗に半殺しにされた人の横を見て見ぬふりをして通り過ぎて行った祭司とレビ人が出て来ます。これは半殺しの人が介抱中に死んだら死体に触れたことになって自分が汚れてしまい、祭儀を行うことができなくなることを恐れたものと思われます。祭儀を行うという神を愛する行為を優先させて隣人を見捨てた祭司とレビ人のことをイエスさまは、この例えの中で批判しています。或いはまた父親の財産を使い果たして故郷に戻った放蕩息子を赦さなかった兄息子のことも、イエスさまは兄弟愛のない者としています。

隣人愛と兄弟愛を強調した使徒たちの手紙
 イエスさまの時代には、このような祭司や律法の専門家たちが隣人愛を持たない者として批判されていましたが、使徒の時代に使徒たちが教会に宛てて書いた手紙を読むと、教会の教会員たちも例外ではなくて、当時のクリスチャンたちもまた隣人愛と兄弟愛が不足していたようです。使徒たちの手紙の中で隣人愛と兄弟愛の大切さについて書いている聖書箇所の例を週報のp.3に挙げておきました。それらの箇所をいちいち開かなくて良いですから、聞いていて下さい。

・ローマ12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
・ローマ13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
・ガラテヤ5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
・Ⅰテサロニケ4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
・ヘブル13:1 兄弟愛をいつも持っていなさい。
・ヤコブ2:8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。
・Ⅰペテロ1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。
・Ⅰペテロ3:8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
・Ⅱペテロ1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
・Ⅰヨハネ2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
・Ⅰヨハネ3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
・Ⅰヨハネ4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
・Ⅰヨハネ4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 その他、隣人愛や兄弟愛という言葉は使っていなくても、パウロの手紙には「党派心」という言葉も出てきますから、教会の中が党派に分裂していたことがわかります。このように使徒たちの手紙が隣人愛・兄弟愛の大切さについて、これだけ強調しているということは、1世紀の教会の中でも愛のない行為がそれだけ目立っていたということでしょう。

新約聖書に偏ると見えなくなる神
 さて私は今回、これらについて調べていて気になったことが一つあります。それは、「神を愛せよ」という言葉がほとんど出て来ないことです。これは一体どういうことでしょうか。隣人愛を大切にすれば、神を愛することはそんなに大切にしなくても良いのでしょうか。そんなはずはありませんね。「神を愛する」ことの大切さが使徒たちの手紙に書かれていないのは、神を愛することは当然の前提となっていたからでしょう。
 1世紀には新約聖書はまだ編纂されていませんでしたから、福音書や使徒たちの手紙は聖書とは見なされていませんでした。1世紀の教会の人々にとっての聖書とは旧約聖書のことでした。この旧約聖書には神を愛することに失敗した人々の姿がたくさん描かれています。その結果、エジプトを脱出したイスラエル人は40年間も荒野を放浪することになり、或いはまたイスラエルの王国は南北に分裂し、北王国も南王国も両方とも滅びてしまいました。このことの教訓によりバビロン捕囚からエルサレムに戻ったユダヤ人たちは今度は律法を重視するようになりました。
 このような経緯から旧約聖書を正典として持つ1世紀のユダヤ人たちにとって神を愛することは当然のことでした。そして、それは異邦人たちにも、きちんと伝えられていたことでしょう。しかし人間の集まりである教会にはどうしても争いや分裂が起きてしまいます。それゆえ教会に宛てた手紙では隣人愛と兄弟愛を強調することになったのでしょう。そして、2世紀以降に新約聖書の編纂が進められて行った時に、これらの手紙が収録されることになりました。
 いま私たちが手にしている聖書には旧約聖書と新約聖書とが収められています。聖書は旧約聖書と新約聖書の二つが合わさって一つの聖書です。しかし一般的な傾向として、新約聖書は知っていても旧約聖書のことはあまり知らないという人も少なくないようです。するとどうなるでしょうか。
 隣人愛と兄弟愛を大切にすることは、もちろん大事なことであり、素晴らしいことです。しかし、新約聖書に偏ると紀元1世紀の何十年間という狭い時代しか見ることがありませんし、隣人という人間ばかり見ることになります。するとスケールの大きな神様の愛が見えづらくなってしまいます。そうしてイエスさまのことも人間としてのイエスさまばかり見るようになり、永遠の中にいる神様のことが見えづらくなってしまいます。

道徳の教科書になってしまった聖書
 神様が見えづらくなった結果、特に欧米では聖書とは隣人愛を説く道徳の教科書のような存在になっています。これは実際そうなっています。今は交友が途絶えていますが、私がアメリカに留学していた時にとてもお世話になった同年代のアメリカ人の友人がいました。彼はカトリックのクリスチャンでしたが、プロテスタントの女性と結婚しました。それで、結婚してから数年の間は、お互いに教会が違うということもあって、この夫婦は教会から遠ざかりました。しかし、子供ができて子供が4~5歳ぐらいになった時、夫婦で話し合って家族で旦那さんのほうのカトリックの教会に通うようになりました。なぜまた教会に通うようになったかというと、子供の道徳教育のために聖書を学ばせることが大事だと考えたからだということでした。しかし、彼自身は本気で神様を信じてはいませんでした。彼にとっての聖書とは道徳の教科書であり、そこに活ける神の言葉があるなどとは、彼は少しも思っていませんでした。このような欧米人はとても多いようです。
 新渡戸稲造の『武士道』の始めのほうにも、似たような話がありますね。新渡戸稲造の『武士道』の序文の冒頭部分を引用します。

「約十年前、私はベルギーの法学大家故人のド・ラヴレー氏の歓待を受け、その許で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。『あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか』と、この尊敬すべき教授が質問した。『ありません』と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩みを停め、『宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか』と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。」(矢内原忠雄訳、岩波文庫)

 こうして新渡戸稲造は『BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN』という英語の本を著しました。この本の出版のきっかけとなった、宗教なしでどうやって道徳教育を授けるのですか、という教授の驚きの声は、欧米人が聖書を道徳の教科書として見ていることを、よく表していると思います。
 こうして聖書は、子供にとっても大人にとっても説教臭い道徳の教科書になってしまい、魅力に乏しいものになってしまいました。聖書にスケールの大きな神の愛や時間を超越した永遠を感じることができないなら、聖書は本当につまらない書物だと思います。皮肉なことに新約聖書に隣人愛と兄弟愛を説く書が多く収録された結果、人々の目は人間ばかりに向き、神を見るのが下手になり、そして神の愛を感じることも下手になり、神を愛することもできなくなってしまったようです。
 そうして今や毎週のように凄惨な殺人事件のニュースを見なければならないような曲がった時代になってしまいました。

おわりに
 最後に、使徒の働き2章40節をご一緒に読みましょう。

2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

 この曲がった時代から人々が救われるように、私たちの働きは今まで以上に重要になっています。これまでももちろん私たちの働きは大事でしたが、テロや大量殺人事件が毎週のように起こる、こんなにも時代が曲がってしまった今、私たちは聖書をもっとしっかりと宣べ伝えて行かなければなりません。私たちのこの働きが祝され、用いられますよう、お祈りしたいと思います。お祈りいたしましょう。
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7月31日礼拝プログラム

2016-07-28 19:55:44 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月31日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第5聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  父なる神 力の主よ       4
 交  読  詩篇91篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  恵みにあふれる祈りのひと時 373
 讃 美 ③  主を待ちのぞむ者は(2回   210
 聖  書  使徒2:36~38
 説  教  『隣人愛と兄弟愛を強調した新約聖書』 小島牧師
 讃 美 ④  主から受ける安らぎは    440
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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イエスを十字架につけた私(2016.7.24 礼拝)

2016-07-24 16:56:48 | 礼拝メッセージ
2016年7月24日礼拝メッセージ
『イエスを十字架につけた私』
【使徒2:36~47】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。先週は使徒の働き2章の前半を学びました。聖霊の力によってペテロたちは、力強くイエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられました。聖霊の力は、自分の心のすべてをイエス・キリストに明け渡した者に最大限に働きます。自分の力に頼っている間は聖霊の力は与えられません。弟子たちはイエスさまが逮捕された時に、そこから逃げ出してしまうという、みじめな失敗を経験しました。特にペテロは自分はそんな風には絶対にならないと強がっていたのに、いざイエスさまが逮捕されてしまうと、ペテロは三度もイエスさまのことを知らないと言ってしまいました。このみじめな失敗によってペテロ、そして弟子たちの自尊心は粉々に粉砕されました。しかし粉々に粉砕されたからこそ、自力に頼ることを放棄することができたのですね。そうして自力に頼ることをやめて、イエス・キリストに自分の心のすべてを明け渡した者に聖霊の大きな力は与えられます。

イエスを十字架に付けた者たち
 さて、きょうは2章の後半です。前半からのペテロの力強い説教が続いています。まず、36節から38節までの3か節を交代で読みましょう。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 ここに書いてあることは、極めて大切なことですから、あまり急がずに、少しゆっくりと味わってみたいと思います。それゆえ、この2章の後半は今日の1回で終わらせるのでなく来週もう1回学ぶことにしたいと思いますし、まだわかりませんが場合によっては再来週もまた学ぶかもしれません。
 36節に、「イエスをあなたがたは十字架につけたのです」とあります。このことの意味を私たちは生涯を掛けて考え続ける必要があるでしょう。きょうは、なぜ私たちは生涯を掛けてこのことを考え続ける必要があるかということを、まずご一緒に考えたいと思います。
 イエスさまを実際に十字架に付けたのはローマ兵たちです。ルカの福音書の23章をご一緒に見ましょう。ルカ23章の33節をお読みします。

23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 ここでイエスさまを十字架に付けたのはローマ兵たちでした。そしてイエスさまは言いました。34節、

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 ローマ兵たちは神の子キリストを十字架に釘付けにしてしまいましたが、それは彼らが自分で何をしているかわからないからできたことでした。もしイエスさまが神の子キリストと知っていたら、釘付けにするなどという恐ろしいことは決してできなかったでしょう。
 それはユダヤ人たちも同じです。イエスさまを「十字架に付けろ」と叫んだのはユダヤ人たちでした。ローマの総督のピラトはイエスさまを釈放しようとしていましたが、ユダヤ人たちがそれを拒みました。ルカ23章の20節から24節までを交代で読みましょう。

23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。

 この時にユダヤ人たちが「十字架につけろ」と叫ばなければ、ローマ兵たちはイエスさまを十字架に付けることにはなりませんでした。ですからイエスさまを十字架に付けたのは実はユダヤ人たちであったと言えます。このユダヤ人たちもイエスさまが神の子キリストとは知りませんでした。ですからユダヤ人たちも自分が何をしているのかわからずにイエスさまを十字架に付けてしまったのです。
 そして、21世紀の私たちも同様のことをしているということを私たちは学んでいます。イエスさまが神の子キリストであることを知る前の私たちは、イエスさまをあざけり、また排除しようとしました。それはイエスさまを十字架に付けたのと同じことです。

聖霊を受けてわかり始める罪
 使徒の働き2章に戻ります。2章37節、

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

 この「人々」の中には、実際に「十字架に付けろ」と叫んだ人々も多く含まれていたことでしょう。それゆえ本当に心を刺されたのでした。イエスさまの遺体が墓から消えたことはエルサレム中で話題になっていましたから、この人々もそのことを知って不可解に思っていたことでしょう。それが、いま聖霊に注がれた弟子たちを目の当たりにし、そしてペテロの説教を聞いて、果たして本当にイエスさまがキリストであったことを知り、心を刺されたのでした。そうしてペテロたちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねました。そこでペテロは答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(38節)
 ここで注意すべきことは、私たちは、聖霊を受ける前には罪のことは大してわかっていない、ということです。私たちは聖霊を受けることによって初めて霊的な目が開かれます。ですから、罪のことも霊的な目が開かれなければ、実はそんなには分かりません。しかし、自分は、人生にとって大切なことがわかっていないようだということに気づくことは、とても大切なことです。心が刺されたとは、そのことに気付いたということで、深い意味はまだまだ分かっていません。
 私たちは聖霊を受けることで初めてクリスチャンとしての歩みを始めることができます。そうして、段々と聖書の深い真理を学んで行くことができるようになります。私たちはこのことを良く自覚しておく必要があると思います。
 ですから聖霊を受けるとは車の免許証のようなものとも言えるでしょう。車の免許は、車の運転が上手い人に与えられるわけではありません。最低限の交通ルールと最低限の運転技術を持っている人に与えられるものです。ですから、実際に運転の経験を積むことで運転は段々上手になって行きます。医者の免許や教員の免許も同じです。医者も学校の先生も最初のうちは経験が不足していますから、経験を積むことで医療のことや教育のことがわかって行きます。クリスチャンも同じです。クリスチャンは聖霊を受けることで初めてスタートラインに立つことができ、日々を聖霊と共に過ごすことで、色々なことを学んで行きます。

生涯を掛けて考えなければならない罪
 また、学ぶべきことは時代によっても異なります。医者で言えば、今は医学の進歩が一昔前に比べたら非常に速いと思います。新しい薬がどんどん開発されていますし、診断用の機械も進歩しています。昔は原因が不明だった病気もどんどん解明されています。それらの最新知識をお医者さんは常に吸収しておく必要があります。ベテランの域に達したら、もうあまり勉強をしなくても良いということはありません。常に新しい情報に接している必要があるでしょう。
 クリスチャンも、昔教わったことを大事にしていれば、それで良いということはないでしょう。聖霊と共に歩み、聖霊に教えを請いながら、一昔前には無かったことに、どう対処して行ったら良いか、考えなければならないこともあるでしょう。
 これから罪について考えて行きたいと思います。罪とは何でしょうか。これも、生涯を掛けて考えなければならない問題です。聖霊との歩みが深まれば深まるほど、罪に対する理解も深まりますから、昔教わった罪の知識にとどまっていては、ならないと思います。そうして、今のこの曲がった時代にクリスチャンとして、どのように振舞うべきか、聖霊に教えを請いながら歩まなければならないと思います。今のこの曲がった時代ではテロが頻発しています。或いは今の世は同性愛に関して寛容になって来ており、同性のカップルの結婚を行政が認めるようにもなって来ています。このような傾向は今までは無かったことです。このような時代の変化の中で私たちが罪について、どのように考えて、クリスチャンとしてどのように振舞うべきか、試行停止をしていてはならないのだと思います。
 ここから先は、罪について私が最近になって気付かされていることを話します。きょうは、一部だけを話して、来週もさらに、その続きを話させていただきたいと思います。
 ヨハネの手紙第一の、罪について書いてある箇所をご一緒に読みましょう。第一ヨハネ1章の5節から10節までを交代で読みましょう。

1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 いま、交代で読んだ中で9節は特に有名です。

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 では、ヨハネは何を罪と考えているでしょうか。それには、このヨハネの手紙第一の全体から読み取る必要がありますが、きょうは時間の関係で、一部だけを見ることにして、来週また改めてご一緒に考えることにします。

互いに愛し合わないことの罪
 ヨハネの手紙第一2章の7節から10節までを交代で読みましょう。

2:7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。
2:8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

 ヨハネは9節で「兄弟を憎んでいる者は、今もなお闇の中にいる」と書き、10節では「兄弟を愛する者は光の中にとどまり、つまずくことがない」と書いています。それはつまり互いに愛し合いなさいということであり、互いに愛し合わないことは罪であるということと受け取ることができます。私たちはヨハネの福音書でイエスさまが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃたことを何度も確認して来ましたが、ヨハネの手紙第一も私たちが互いに愛し合うことの大切さを熱心に説いています。このことについては、来週また、改めて見ることにしたいと思います。

おわりに
 最後に、使徒の働き2章にまた戻ります。2章の44節から47節までを交代で読みましょう。

2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

 ここには、初代教会の教会員になった者たちが互いに愛し合っていた様子が、よく描かれていると思います。イエスさまの弟子たちは互いに愛し合い、そのことがすべての民に好意を持たれ、そのことによって、毎日救われる仲間が増えて行きました。
 私たちの教会もまた、そのような教会でありたいと思います。そのために互いに愛し合うことの大切さを、来週以降も学んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月24日礼拝プログラム

2016-07-22 08:45:48 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月24日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第4聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  詩篇90篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  カルバリ山の十字架     120
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  使徒2:36~47
 説  教  『イエスを十字架につけた私』 小島牧師
 讃 美 ④  神なく望みなく       367
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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神様を感じる聖書の眺め方(2016.7.20 祈り会)

2016-07-21 08:40:00 | 祈り会メッセージ
2016年7月20日祈り会メッセージ
『神様を感じる聖書の眺め方』
【黙示録1:8】
 
1:8 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

はじめに
 この1週間の間にも、平和を揺るがす大きな事件がいくつも報じられました。先週の金曜日の朝には、フランスのニースで起きたテロの事件が報じられました。そして翌日の土曜日の朝にはトルコでクーデターが起きたことが報じられました。昨日はまた北朝鮮がミサイルを発射したということです。また南シナ海の領有権を主張して人工の島の造成を進めている中国に対して仲裁裁判所が法的根拠が無いという判決を出したことについて中国は反発しており、今後ますます緊張が高まって行くことが懸念されます。或いはロシアが組織的にドーピングに関わったということで、リオのオリンピックへのロシアの参加が認められないことになるかもしれず、ロシアが激しく反発していることも、世界の緊張を高めることにつながって行くことが心配されます。イギリスのEU離脱は移民の受け入れの問題が大きな要因の一つと言われていますし、アメリカでも移民に不寛容なトランプ氏が共和党の大統領候補に正式に指名されました。世界は一つになるどころか、ますますバラバラになる方向に向かっています。
 このようにして、世界は今、平和からどんどん遠ざかって行っているように見えます。このような時代にあって私は、聖書を宣べ伝えることの大切さを益々強く感じています。多くの人々は聖書を読んでも神様をあまり感じていないのではないかと思います。クリスチャンとは名ばかりでイエス・キリストの復活を本気で信じていない人もたくさんいます。それらの人々は一応クリスチャンですから聖書は読んでいます。しかし聖書を読んでも神様を感じていないのだと思います。このような状況では、これから聖書を読む次の世代の人々も、聖書を読んでも神様を感じないということになってしまいます。
 いま私たちに与えられている使命は、聖書がもっと神様を感じることができる書物であることを広く知っていただくことだろうと思います。
 先週も似たようなことを話したと思いますが、今週は先週よりもさらに平和から遠ざかろうとしていますから、さらにこのことについて話したいと思います。きょうは旅行に行った時などに撮る記念写真の例えから入ります。

空間に遍在する神
 旅行で写真を撮る時など、私たちは人物と背景とのバランスをどのように決めているでしょうか。恐らく大抵の人は無意識にバランスを調節していることでしょう。旅館などの屋内でくつろいでいる様子などは、人物が画面一杯に入ることが多いでしょう。一方、屋外の観光地では背景の景色がなるべくたくさん画面に入るようにするでしょう。すると人物の大きさは相対的に小さくなります。背景が大自然であれば、人物はさらに小さくなるかもしれません。そして人物が小さくなればなるほど、背景が占める割合は大きくなります。
 今度は飛行機の窓から見える景色を考えてみましょう。飛行機が駐機場を離れる時には地上の作業員の人々が手を振って見送ってくれます。この地上の人々の姿は、飛行機が離陸するとすぐに小さくなって見えなくなります。次には空港バスなどの車両も見えなくなり、やがては建物も小さくなって見えなくなります。そして、よく晴れた日であれば地形が良く見えるようになって来ます。海沿いを飛んでいる時などは地図にあるとおりの海岸線を見ることができて、ちょっとした感動を覚えます。この眼下の地上には大勢の人々が暮らしている筈ですが、人の姿は小さ過ぎて見ることはできません。見えるのは山や川や海、山林や田畑、市街地や埋立地の臨海工業地域というような大雑把な地勢だけです。人が全く見えないので何となく殺伐とした感じがしないでもありません。では、この時に私たちの目に映る景色は本当に殺伐とした景色なのでしょうか。それともそれ以上のものが何かしら存在するのでしょうか。
 次に、飛行機よりもさらに高い所を飛ぶ宇宙船から見える景色について考えてみましょう。私たち自身は宇宙に行けなくても、宇宙飛行士が写真を撮って一般に公開してくれていますから、私たちはそれらを目にすることができます。国際宇宙ステーションから見える地球の姿はとても美しくて感動的です。また、アメリカのアポロ宇宙船が月と地球との間を往復していた時には、宇宙飛行士たちが月から見た地球の写真をたくさん撮ってくれました。月から見た地球は小さいですが、宝石のような美しさがあります。これらの宇宙から撮った地球の写真を見ると、何か神々しいものを感じます。宇宙から見た地球の姿には、もはや単なる景色以上のものを感じます。そして私自身の場合はここに神様の存在を感じます。
 以上のことを整理すると、こういうことになります。人物が写真の中で大きな割合を占めている間は、背後の神々しい存在は見えません。しかし、ズームアウトして人物が小さくなり、背景の方が大きくなって来ると、背後の神々しい存在が段々と見えて来るようになります。そして宇宙から見た地球の写真を見ると、ここには確かに神様が存在することを私自身は感じます。私たちの身長はせいぜい1~2メートル程度で、体の横幅や厚みは太っていてもせいぜい0.5メートル前後ですから、一人の人間が占める体積は1立方メートル以下でしかありません。一方、神様は宇宙サイズです。神様は宇宙空間の全体に広く普く遍在していますから、写真の画面に入る空間の容積が大きくなればなるほど、見えやすくなるのです。

時代を越えて働く神
 聖書の神様に関しても上記と同様のことが言えるでしょう。ただし聖書の場合には「空間」の大きさではなくて、「時間」の範囲の大きさが問題になります。人間の寿命は長く生きても、せいぜい100年程度です。一方、神様は宇宙の誕生以前から存在しています。ですから写真の場合の「空間」と同じように、聖書の時代の「時間」の範囲が大きくなればなるほど神様は見えやすくなると言えるでしょう。すると聖書を読む場合には、聖書中の特定の人物にあまり注目しないほうが神様は見えやすくなる、ということになります。 これは従来あまり言われて来なかった聖書の読み方だと思いますから、戸惑う人もいるかもしれません。それゆえ、できれば、これから何週間かにわたって、この特定の人物にあまり注目しない聖書の読み方について、じっくり説明してみたいと思います。
 さてしかし、特定の人物にズームインして聖書を読むことにも、もちろん大きなメリットがあります。モーセやダビデの波乱万丈の生涯を深く学べば学ぶほど、信仰の奥深さが理解できるようになります。そして自分もモーセやダビデのような信仰を持ちたいものだと思わされます。このようにモーセやダビデの信仰は私たちの信仰の良いお手本です。それゆえにモーセやダビデに注目して聖書を読むことは、とても大切なことです。しかし一方で、彼らの人間性にあまりにも注目し過ぎると、かえって神様が見えにくくなります。神様と人間とは違うのですから、彼らの人間臭さを知れば知るほど神様が見えにくくなってしまいます。モーセにとっての神様、ダビデにとっての神様は見えるかもしれませんが、「私」にとっての神様は却って見えなくなります。信仰において最も大切なことは、「私」にとっての神様を知ることです。
 では、どうしたら「私」にとっての神様を聖書の中から読み取ることができるようになるでしょうか。私は「時代を越えた神様の働き」を聖書の中から読み取るようにすることだと考えます。私たちの一人一人は一つの時代しか生きることができません。長生きをすれば二つか三つの時代を跨いで生きることもあるかもしれませんが、それ以上となると不可能です。しかし神様は宇宙が誕生する以前の過去から未来に至るまでの全ての時代を越えて存在し、働いています。この時代を越えた働きに注目すれば、神様が現代の私たちに対しても時代を越えて働いていることが段々と見えて来るようになります。

言葉・奇跡・召命で存在を示す神
 時代を越えた神様の働きを観察する視点は色々とあると思いますが、これから言葉、奇跡、召命の三つをキーワードにして考えてみたいと思います。きょうは言葉のさわりの部分を話します。
 言葉とは神様の言葉のことです。聖書には神様の言葉が数多く記されています。例えば新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、次のような神様の言葉が記されています。ここで「わたし」とは神自身のことです。

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)

「アルファ」はギリシャ語のアルファベットの最初の文字で、英語のアルファベットで言えばAに当たります。そして「オメガ」は最後の文字ですから英語のZに当たります。つまり、「わたしはアルファであり、オメガである」とは「わたしは最初であり、最後である」という意味です。神様は最初にも最後にも「同時に」存在しています。それは神様が、私たち人間が感じているような、【過去 → 現在 → 未来】というような一方通行の時間の中にはいない、ということです。
 この「わたしはアルファであり、オメガである」という神自身の言葉は、特定の人物からズームアウトして聖書を読む時に頭に入れておくべき最も大切な言葉と言っても良いかもしれません。神様にとっては聖書の初めから終わりまで全部が同じ時なのです。聖書の中の人物は時代の経過に従って次々と入れ替わって行きますが、神様はいつも同じです。

おわりに
 このように時代を越えて存在する神様が発する言葉は、たとえ特定の時代の特定の人物に向けた言葉であったとしても、時代を越えた影響力を持ちます。来週以降、さらにこのことを見て行きたいと思います。
 お祈りいたします。
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聖霊がペテロに与えた力(2016.7.17 礼拝)

2016-07-18 09:11:53 | 礼拝メッセージ
2016年7月17日礼拝メッセージ
『聖霊がペテロに与えた力』
【使徒2:14~24】

はじめに
 先聖日は聖餐の恵みに与ることができ、私たちの信仰を整えることができましたから、とても感謝でした。
 今週からまた、使徒の働きの学びに戻りたいと思います。今日から2章の学びに入ります。学びのペースとしては、一つの章の学びにだいたい2回ぐらいを掛ける感じかなと思っています。使徒の働きは28章までありますから、単純計算では56回の学びになります。また、一つの章に3回ぐらい掛ける時もあるかもしれませんし、先聖日のような聖餐式礼拝や召天者記念礼拝、宣教聖日礼拝、またクリスマスやイースターの前後には、使徒の働きを離れると思いますから、だいたい1年半ぐらいの学びになるでしょう。すると、来年のクリスマスの頃までということになりますから、使徒の働きのおしまいのほうを学ぶ頃には、新しい礼拝堂で礼拝を守るようになっていたい、というのが私たちの願いです。

五旬節の日に降った聖霊
 さて、きょうは2章の前半を学びます。聖書朗読では14節からを司会者に読んでいただきましたが、1節から見て行きましょう。1節、

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 この日はイエス・キリストが復活してから50日目のペンテコステの日で、みなが一つの場所に集まっていました。「みな」というのは、1章の13節から15節に掛けて書かれている人々のことでしょう。

1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
1:15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

 ここから、集まっていた「みな」とはガリラヤの人々であったことがわかります。イエスさまはガリラヤで宣教を始めて、12弟子を任命しましたから、彼らはガリラヤ人でしたし、イエスさまの母マリヤもイエスさまの兄弟たちもガリラヤのナザレの人々でした。

 2章に戻ります。2節、

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 これは聖霊が天から降って来た時の描写です。聖霊は神の霊ですから、これは霊的な世界の話で、響きというのも魂への響きが家全体への響いたように感じたのかなと思ったりもするのですが、6節には「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た」とありますから、霊的な世界の音だけでなく、実際に耳に聞こえる大きな音が生じたようです。
 神様は何でもお出来になる方ですから、これは大勢の人々を集めるために、音を立てて聖霊を遣わしたのかなと思います。
 続いて3節と4節、

2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 これもまた、人々が興味を引くように、神様がされたことでしょうか。色々と興味は尽きませんが、きょうはペテロに注目したいと思っていますので、先へ進むことにします。  

旧約聖書を引用して説教したペテロ
 きょうの聖書箇所の14節へ飛びます。14節と15、16節、

2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

 「酔っているのではありません」とは、いま飛ばした13節にあるように、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいたからです。そしてペテロは、旧約聖書のヨエル書を引用しました。17節と18節、

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 旧約の時代には、聖霊は預言者たちだけにしか注がれませんでした。しかし、すべての者に聖霊が注がれる日が来ることを、ヨエルは預言していました。ヨエル書をご一緒に見て確認しておきましょう(旧約聖書p.1495)。ヨエル書2章の28節と29節を交代で読みましょう。

2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

 ペテロは、このヨエル書をそらんじていたのでしょうか。この後でペテロは詩篇のダビデの詩も引用します。使徒の働きに収録されているペテロやパウロの説教を見ると、旧約聖書からの引用が数多く見られます。パウロの場合は、わかります。パウロは律法の学びを熱心にしていましたから、旧約聖書に通じていても少しも不思議ではありません。一方、ペテロは漁師でしたから、少し不思議な気がします。
 しかし、これこそが聖霊の働きだと言えるでしょう。ペテロはイエスさまに付き従っている間に様々な学びをして、ペテロの内に様々な知識が蓄積されて行ったのだと思います。それらは断片的な知識であり、聖霊が注がれるまではペテロの中でもイエス・キリストと上手く結び付いてはいなかったことだろうと思います。使徒の働きの1章の学びの時にも指摘しましたが、使徒1章6節で彼らは、こう言っていました。

「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興して下さるのですか」

 この時点では、まだペテロたちはイエス・キリストがどのようなお方かが分かっていませんでした。しかし、聖霊が注がれた時に、これまでイエスさまを通してバラバラに学んで来た断片的な事柄が一瞬にして整理統合されて、よく理解できるようになったのでしょうね。何とも不思議な気がしますが、これこそが聖霊がペテロたちに与えたイエス・キリストの証人になるための力であると言えるでしょう。
 聖霊にこのような力があることは、CS教師の経験がある方々はご存知のことと思います。人に聖書について教えることが自分にできるだろうかと、あまり自信がなくても、その役割が与えられると不思議とできるようになる、ということを味わっておられるのではないかと思います。イエス・キリストの証人にならんとする者には、聖霊によって不思議な力が与えられます。

堂々と説教をしたペテロ
 さてしかし、ペテロの場合には、聖書知識のこと以外にも、もう一つ不思議に思うことがあります。ルカの福音書の、イエスさまが逮捕された時のペテロの様子を、ご一緒に読みたいと思います。ルカの福音書22章の54節から62節までを交代で読みましょう(p.165)。

22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

 そして、この後で、イエスさまは十字架に付けられて殺されてしまいました。その三日後に復活したとは言え、ペテロが受けたダメージは相当に大きかった筈です。そんなペテロが、どうして立ち直って、こんなにも堂々と説教できるまでになったのでしょうか。
 その秘密は、やはりヨハネの福音書21章にあるのでしょうね。きょうは、聖書をあちこち開くことになってしまいました。申し訳ありませんが、最後にヨハネの福音書21章をご一緒に読むことにしましょう(新約聖書p.225)。

すべてをイエスに明け渡したペテロ
 ヨハネ21章の15節から17節までを交代で読みましょう。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 このイエスさまとペテロとのやり取りの中には、いろいろと注目すべきポイントがありますが、きょうはペテロが言った「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」という言葉に注目したいと思います。
 最後の晩餐でイエスさまはペテロに言いました。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 そして、実際にその通りになりました。ペテロは、イエスさまに「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われた時、決してそんなことはないと思っていました。しかし、その通りになってしまいました。このことによってペテロは、イエスさまは自分の心の中を全部ご存じなのだということを知りました。
 そのイエスさまに向かってペテロはヨハネ21章で「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と言いました。ここで私は、ペテロが自分の心のすべてをイエスさまに委ねたのだということを感じます。自分は確かにイエスさまを愛している。しかし、自分の中には自分でもコントロールできない領域がある。それをも含めて自分の心のすべてをイエスさまに明け渡してお委ねする、ペテロはそのような気持ちでイエスさまに答えたのではないでしょうか。この時のペテロは決して強がってはいませんでした。ペテロのプライドや自分をよく見せようという心は一度完全に粉々に粉砕されましたから、強がることなどできません。だからこそペテロは自分の心の内のすべてをイエスさまに完全に明け渡すことができました。
 イエスさまを三度知らないと言った時のペテロは、まだイエスさまに自分を明け渡してはおらず、自分の心を自分でコントロールしようとしていました。もしこの時のペテロが自分のすべてをイエスさまに明け渡していたなら、自分を支配しているイエスさまのことを知らないなどとは決して言わなかったでしょう。しかし、このみじめな失敗を通してペテロの心は粉々に粉砕されましたから、ペテロは自分のすべてをイエスさまに明け渡すことができました。

すべてを明け渡した者に与えられる聖霊の力
 聖霊の力は、このようにイエスさまに自分の心のすべてを明け渡した者に最大限に働きます。自力で何とかしようと思っている者には、聖霊の力はなかなか働きません。すべてをイエスさまに明け渡した者に、聖霊は大きな力を与えて下さいます。
 ペンテコステの日に聖霊が注がれたペテロが旧約聖書を自在に引用しながら人々に力強く説教することができたのは、ペテロが自分の心のすべてをイエスさまに明け渡したからです。私たちもそのような者となって、イエスさまの証人になり、イエスさまのために働きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

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7月17日礼拝プログラム

2016-07-15 02:35:18 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月17日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第3聖日 礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  恵みの高き嶺        414
 交  読  詩篇86篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  ここにいます主は      375
 讃 美 ③  主とともに罪に死に     312
 聖  書  使徒2:14~24
 説  教  『聖霊がペテロに与えた力』 小島牧師
 讃 美 ④  御霊は天より        173
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聖書全体を見渡せるように(2016.7.13 祈り会)

2016-07-15 02:19:13 | 祈り会メッセージ
2016年7月13日祈り会メッセージ
『聖書全体を見渡せるように』
【イザヤ43:4】
 
イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

はじめに
 かつては夢物語でしかなかったようなことでも、それをいったん先駆者が成し遂げたなら、やがていつかは一般人もその恩恵に与ることができるようになります。飛行機、電子計算機、移動式電話などは、その代表でしょう。
 飛行機を例に挙げて少し話をします。大空を鳥のように飛ぶことは、人類の長い間の夢でした。この夢はなかなか実現しませんでしたが、20世紀になって間もなくの1903年に、有名なライト兄弟によってようやく成し遂げられました。そして何十年か後には、一般の庶民でも当たり前のように飛行機に乗ることができるようになりました。最初のうちは一人か二人ぐらいしか乗れなかった飛行機でしたが、やがて一つの機体にたくさんの乗客が乗れるようになりましたから、それだけ安く利用できるようになりました。また、エンジンもプロペラ式からジェットエンジンになって、より速く目的地に着くようになりました。こうして利便性が向上しましたから、ますます多くの人々が利用するようになり、航空会社も増えて、庶民でも乗れる料金で利用できるようになりました。現代では格安の航空会社もあって利用されていることは皆さんご承知の通りです。

宇宙から見た地球は美しい
 では、飛行機よりももっと高い場所にある宇宙へ行くことについてはどうでしょうか。これは残念ながら、まだ一般庶民が宇宙に行けるという所までは来ていません。でも、ひと頃に比べたら、宇宙は私たち一般人にも随分と身近に感じられる場所になって来たと思います。例えば、つい先日も日本人宇宙飛行士の大西卓哉さんが国際宇宙ステーションでの長期滞在を開始しました。昨年の2015年の後半には油井亀美也さんが長期滞在し、2013年から2014年に掛けては若田光一さんが、長期滞在して、後半の三ヶ月間はキャプテンも務めたということで話題になり、報道で目にする機会も数多くありました。また、今の時代は宇宙飛行士が国際宇宙ステーションから見た地球の様子の画像を頻繁にツイッターなどに投稿してくれたりもします。そして、その投稿に「いいね」をしたり、コメントをすることもできます。このように宇宙は以前に比べると格段に身近な場所になりました。ですから、まだ少し時間が掛かるにしても、いずれは一般庶民が宇宙に行くことができる時が来るのかもしれません。私は、是非そうなって欲しいと思います。宇宙へ行く方法は何でも良いと思います。現段階ではロケットが一番現実的なのかもしれませんが、ロケットの場合は加速する時に体に掛かるGの負担が大きいですし、地球の周回軌道に入って無重力になった時の体への影響も心配されます(たとえば宇宙酔いなど)。ですからロケットの場合には誰でも宇宙に行けるということにはならないかもしれません。その点から言えば、もし宇宙に行けるエレベーターが出来れば、技術的には難しくても体への負担はロケットに比べればずっと小さいように思いますから、誰でも利用できるものになるのかな、などと私は空想しています。
 もし宇宙へ行くことが飛行機を利用するのと同じぐらい手軽になるなら、素晴らしいことだと私は思います。なぜなら、そうすれば私たちは、今は写真や動画でしか見ることができない宇宙から見た地球の姿を今度は自分の目で実際に見ることができるようになるからです。宇宙から見た地球の姿はうっとりするほど美しく、眺めているだけで幸せな気分になります。そして、こんなに美しい星で生まれ育ったことを感謝に思う気持ちが湧いて来ます。このことを、写真を通してではなく、自分の目で直接見て感じることができれば、どんなに幸いなことでしょうか。このように誰もが宇宙に気軽に行けるようになることが実現すれば、この美しい星を眺めることで私たちは大らかな気持ちになり、世界はもっと平和になるのではないか、私はそんな期待を持っています。宇宙へ行くことは現時点ではまだ、一部の選ばれた人たちのみにしか許されていません。ですから私は世界の平和のために、誰でも気軽に宇宙に行ける時代が来たら素晴らしいなという思いを持っています。
 地上にももちろん、美しいものは数多く存在します。これらの美しいものに目や耳を向けることで私たちの心は癒され、平和な気分になることもできます。しかし私たちの周囲には、それを上回る数の美しくない物事で溢れています。人々の間には様々な争いや憎しみや妬みの心があり、いたたまれない気分になります。そういう美しくない物事に地上にいる私たちの目は奪われ、心の平安は乱されがちです。だからこそ、私たちは宇宙という地上から離れた高い位置から私たちが住む地上を見渡す必要があります。そうして私たちが、こんなにも美しい星に生まれ育ったのだということを再確認して、争いや憎しみ合いの連鎖から抜け出し、世界が一つになる方向へと向かって行かなければならないと思います。
 そのためには誰もが手軽に宇宙に行ける、エレベーターのような昇降機が必要なのだと思います。ただし技術的な困難さを考えれば当分の間は実現不可能でしょう。だとするとロケットを利用するしかありませんが、それだと宇宙飛行士や大富豪などの一部の人しか利用できません。このように私たちの体を物理的に宇宙の高みにまで運ぶことは、とても難しいことです。

精神世界の高みに昇った荘子
 しかし物理的には無理でも、実は精神世界においては心を宇宙の領域にまで運ぶことは遥か昔に実現されています。たとえば紀元前四世紀頃の中国の戦国時代に「荘子」という思想家がいました。戦国時代ですから武力衝突はもちろんのこと、謀略や調略、だまし打ちや暗殺、謀反、身内同士の争いなど様々な醜いことがあったことでしょう。日本の戦国時代でも、そのような醜い暗闘が繰り返されていたことが大河ドラマの『真田丸』などを見ていると良くわかります。荘子という思想家は精神世界において、そういうドロドロした醜い事で溢れる地上を超越した場所にいました。私が大好きな『荘子』の冒頭の部分を日本語の口語訳で引用します(岩波文庫・金谷治訳)。

「北の果ての海に魚がいて、その名は鯤(こん)という。鯤の大きさはいったい何千里あるか見当もつかない。〔ある時〕突然形が変わって鳥となった。その名は鵬(ほう)という。鵬の背中は、これまたいったい何千里あるか見当もつかない。ふるいたって飛びあがると、その翼はまるで大空一ぱいに広がった雲のようである。この鳥は、海の荒れ狂うときになると〔その大風に乗って飛びあがり、〕さて南の果ての海へと天翔る。南の果ての海とは天の池である。」

 そうして、次にはさらに、この大鵬は九万里の上空を飛ぶということが書かれています。私は、この大鵬が羽を広げて九万里の上空を飛ぶ姿と、国際宇宙ステーションが太陽電池パネルを広げて地球の上空を周回している姿が重なるような気がしています。先ほど私は、私たちが誰でも手軽に宇宙に行けるようになれば上空から美しい地球の姿を眺めて心の平安が得られるようになるという話をしました。荘子は、精神世界において、それを実現した思想家であると私は感じています。ただし凡人が荘子のような高みの境地に達することは極めて難しいことです。それは私たちが宇宙飛行士に選ばれるのと同じぐらいか、或いは、もっとそれ以上に難しいことだと言えるでしょう。そうすると、結局は『荘子』の方法によって心の平安を得ることもほとんど不可能だということになります。

聖霊が連れて行ってくれる高い場所
 前置きが長くなりましたが、ここから聖書の話に入ります。私はクリスチャンになってから、荘子の方法のどこが良くなかったのかが段々とわかるようになりました。荘子の方法は自力で精神世界の高みに昇って行かなければなりません。これは凡人には不可能なことです。しかしクリスチャンは、自力を放棄して神様に全てを委ねることで、荘子の精神世界のような高みに昇って行くことができます。もちろん聖書の神様が連れて行って下さる高い場所は荘子が昇った場所とは違う場所でしょうし、当たり前ですが国際宇宙ステーションがある宇宙とも異なります。しかし、例えとして提示する分には、なかなか良い例えなのではないかと私は思っていますから、今回、国際宇宙ステーションと荘子の話を最初にさせてもらいました。聖書の世界の高い所と言っても、なかなかイメージが湧きにくいと思いますから、国際宇宙ステーションがある宇宙とか、大鵬が飛ぶ九万里の上空とかは、聖書を理解する上での手がかりとして、良い例えなのではないかと思います。
 さて、きょう私が言いたいことは、聖書を読む時にも、もっと高い場所から聖書を眺める視点が必要ではないかということです。地球を宇宙から眺めると地上で見ているのとは全く違う美しい星として地球を見ることができるように、聖書ももっと高い場所から眺めるなら、もっと素晴らしい景色が見えるはずです。聖書を高い場所から眺めると聖書の全体像が見えます。この聖書の全体像が放つ宝石のような美しさに、私たちはもっと目を留める必要があると思います。
 この聖書の全体像を見渡すことは、旧約聖書の時代には預言者という一部の者たちにしかできませんでした。人は聖霊が与えられると、時間を超越して聖書の全ての時代を見渡すことができるようになります。これが許されたのは旧約の時代においては、預言者たちだけでした。預言者はまるで現代の宇宙飛行士のようです。宇宙飛行士は優れた能力を持つ選ばれた者たちであり、預言者もまた優れた霊性を持つ選ばれた者たちでした。
 しかし、新約の時代になって誰にでも聖霊が注がれるようになりましたから、私たちのような凡人でも、聖霊さえ注がれれば聖書の時代の全体を見渡すことができるようになりました。このことを、もっと私たちは意識して聖書を読む必要があると思います。きょうの聖句のイザヤ43:4を、もう一度ご一緒に読みましょう。

 イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 私は牧師になる前、色々な集会で何人もの牧師先生たちがこの聖句を引用して、神様は私たちを愛して下さっているということを熱弁しているのを聞きました。しかし当時の私には、神様の愛のことがあまりわかりませんでした。それは何故か、今ならその理由がわかります。それは私が聖書の全体像を理解していなかったからです。神様が私たちを愛して下さっていることの素晴らしさは、宇宙のような高い場所に出て聖書全体を眺めることができるようになって初めてわかることです。
 一つ一つの聖句を味わうことももちろん大切ですが、地上に醜い物事が溢れているのと同様に、聖書の記述もまた醜いことで溢れています。神様から顔を背け、神様の声に耳を傾けずに好き放題にして神様を怒らせる人々、そんな人々の姿が聖書には数多く目に付きます。それらに気を取られていると、聖書全体が発している宝石のような素晴らしいメッセージを受け取り損ねてしまいます。せっかく聖霊を受けて聖書全体を見渡す力が与えられているのに、多くの人がその素晴らしいメッセージを受け取ることができずにいることは本当に残念なことです。世界がなかなか平和にならないのも、そのためだと私は思っています。

おわりに

 ですから、これからの私の役割は、聖書を高い所から眺めることができる場所に多くの方々をお連れすることだろうと思い始めています。「ヨハネの福音書の永遠観」も、まず高い所からの眺めを体験していただかないと、理解していただくことはなかなか難しいであろうことに気付かされました。一昨日の月曜日にある方とお会いして、いろいろと話をしていて、そのことがわかりましたから、感謝でした。
 これから、祈り会のメッセージはしばらくの間、このことを意識しながらのものにしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月10日聖餐式礼拝プログラム

2016-07-07 08:26:09 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月10日 聖餐式礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第2聖日 聖餐式礼拝順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽                 関姉

 前  奏
 讃 美 ①  とうとき主のみ救いよ     14
 交  読  詩篇84篇 全  
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主イェスの御業を      105
 讃 美 ③  イェスの十字架の深き恵み  132
 聖  書  ルカ22:14~30
 説  教  『わたしを覚えて』    蔦田牧師
 聖 餐 式  しみも咎も         261
 讃 美 ④  私を祝して         463
 献  金
 感謝祈祷                西村兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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神と人との境界領域

2016-07-07 06:32:38 | 祈り会メッセージ
2016年7月6日祈り会メッセージ
『神と人との境界領域』
【ヨハネ12:27,28】

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

はじめに
 今ご一緒に読んだヨハネ12:28の「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」は、ヨハネの福音書が「イエスの時代」と「旧約聖書の時代」とを重ねていることに私が初めて気付くきっかけとなった聖句です。そしてその何ヶ月か後には、さらに「使徒の時代」も重ねられていることに気付き、ヨハネの福音書の深さ広さに驚くとともに感動しました。
 きょうはまた、「ヨハネの永遠観」の話をしたいと願っています。何度もくどいぐらいに話していますが、私は多くの人々がヨハネの福音書を深く理解できるようになるなら、世界は平和へと向かうであろうと固く信じています。ですから私はヨハネの福音書がどのような書であるかを人々に伝えるという私に与えられた使命を地道に進めて行こうと思っています。
 7月1日の夜にバングラディッシュのダッカで起きた襲撃事件は、世界をますます平和から遠ざける方向へ向かわせる悲しい事件でした。日本人で亡くなられた方の中の一人の20代の女性は、東工大の大学院の出身だそうです。彼女が所属していた研究科の建物は、私の研究室があった建物のすぐ隣にあり、私はいつも研究室の窓から、この建物を見ていました。彼女が東工大に在学していた時には私はすでに退職していましたから同じ時を過ごしたわけではありませんが、彼女の学園生活の様子を思い浮かべることができますから、悲しみも一層増し加わります。
 報道によれば犯行グループの若者たちはイスラムの過激思想に染まっていたようで、イスラム教徒ではない者を選別して殺害したようです。また、イスラムの過激派は「十字軍同盟」を激しく憎み、今や日本も「十字軍同盟」に入れられているとのことです。私はヨハネの福音書への理解が深まっていれば、十字軍の遠征などという出来事は無かっただろうと考えています。以下のことは、これまでにも何度も話して来たことですが、ヨハネの福音書の最後の晩餐の17章では、イエスさまは皆が一つになるように天の御父に祈っています。しかし、ヨハネの福音書の霊的な深い理解が為されないままにキリスト教は東方教会と西方教会とに分裂し、西方教会はカトリックとプロテスタントとに分裂し、プロテスタントはさらに無数の教派に分裂しました。このようにキリスト教が分裂して行く中でイスラム教が勃興し、勢力を拡大して行きました。
 世界が平和な方向に向かうようになるために、現状ではキリスト教はあまり力になっていません。しかし私はヨハネの福音書が霊的に深く理解されるようになるなら、この方向は必ず変わるはずだと信じていますから、これからも私に与えられた役割を果たして行くつもりです。

新たな気付き
 今年の5月の末に、アメリカのオバマ大統領が広島の平和公園を訪問しました。その直前に私はヨハネの福音書についての新しい原稿を書き上げましたから、二、三人の方に原稿を送って読んでもらいました。その中の一人から、「これまでに人に知られていない新しいことを説明するには新しい造語を作って説明したほうが良いのではないか」というアドバイスをもらいました。「時間」とか「永遠」とか、これまでにある単語と全く同じ単語を使うと、どうしても従来の単語の意味に引っ張られてしまい、せっかく新しいことを説明しようとしているのに、それを新しいことは受け取ってもらえないでしょうということでした。その方も、当初は私が新しいことを説明しようとしているとは考えなかったそうです。ナルホドと思いましたから、いま私は新しい造語をあれこれ考えています。そして、来週の月曜日に、そのアドバイスを下さった方とお会いすることにしていますから、その方にヨハネの福音書がどのような書であるかということを、新しい造語を使って説明しようと思っています。きょうは後で、その新しい造語について話すことにしていますが、この新しい造語を考える過程で私は新たな気付きが与えられ、「ヨハネの永遠観」に関する理解を、もう一歩進めることができたように感じています。そして、そのことと私の経歴とが重なるように感じました。それゆえ私はヨハネの福音書のことを人々に伝える使命が与えられたのだと思いました。きょうは先ず、このことを少し話させていただきます。
 これまで私はヨハネの福音書の時間は「神の時間」或いは「天の時間」であるというように話して来たと思います。しかし、どうやらヨハネの福音書の時間は完全な「神の時間」ではなく、「神の時間」と「人の時間」の中間、或いは「境界(境い目)」に位置するものであるようです。従って、「永遠」に関しても完全な「永遠」ではなく「半永遠」とか「準永遠」などと呼んだほうが良いのだと思います。私たち人間は完全な「神の時間」や「永遠」を知ることは不可能でしょう。しかし、その玄関口ぐらいまでは行けます。それをヨハネの福音書は説明している、というわけです。

神と人との境界領域のことを伝える使命
 ヨハネの福音書の時間観・永遠観が「神」の領域と「人」の領域の境界領域に属するものであるとすれば、私にそのことを伝える役割が与えられたことが、よく理解できると私は感じ始めています。と言うのは、私は一つの領域の中のことを深く追求するよりは、境界領域のことに昔から関心があるようだからです。私の経歴を振り返ってみると、だいたいそのようになっています。私に深い考えがあってそのような道を辿って来たわけではありませんが、どうやら私はそのような境界領域を好む傾向があるようです。
 まず私が大学で所属していた学科が精密工学科です。今はもう組織の改変で、この名称の学科はありませんが、この精密工学科は、機械工学と電気電子工学の境界分野の領域を学ぶことを謳い文句にしていました。今はもう死語だと思いますが、「メカトロニクス」という造語が使われ始める少し前のことです。私は機械工学を学ぶことを志していましたが、電気電子工学にも憧れがありました。ただし憧れてはいたものの電気電子工学は私には華やかな気がして、泥臭い自分には機械工学が合っているなどと機械工学に対して失礼なことを考えていました。ただ依然として電気電子工学への憧れもありましたから、機械と電気電子の両方を学べるという精密工学を選びました。こうして私は機械と電気電子の境界領域の学びを始めました。
 そして精密工学科入った後で、この学科では機械と電気電子だけでなく、金属などの材料科学も学ぶということを知り、4年生の卒業研究では材料科学の研究室に入りました。この材料科学の研究室の教授は工学部出身ではなくて理学部出身の先生でしたから、私はその時以降、すなわち学部の4年生の時から大学院生、そして大学の助手の時代までは理学と工学の境界領域のような所にいました。理学と工学の違いを荒っぽく言うなら、理学とは純粋に自然科学の探求を行う学問で、工学は理学で得られた自然に関する科学的な知識を技術に応用することを考えます。私はこの理学と工学の境界領域のような分野で研究をしていましたが、教授は理学志向で私はどちらかと言えば工学志向でしたから、やがて私は教授に付いて行けなくなって研究室を離れることになりました。
 そうして次に私は日本語教育の分野で働き始めることになりました。日本語教育の先生はほとんどが文系の先生でしたが、私は理工系の出身ということで重宝されて採用してもらうことができました。そして、この日本語教育の分野では私は文系と理工系の境界領域で教育と研究を行いました。
 このような境界領域を私は歩んで来ましたから、神様はそれゆえに私を召し出して、神の領域と人の領域の境界領域のことを人々に伝える役割を私に与えたのかもしれないと最近になって私は考えるようになりました。

三つの時間の重なりのトリクロノス
 さて、ヨハネの福音書を新しい造語を使って説明することについて、私は今、ヨハネの福音書に流れる時間を「トリクロノス(三重時間)」と呼ぶのはどうだろうかと考えているところです。
 「トリ」はギリシャ語やラテン語で「三」を表し、「クロノス」はギリシャ語で「時間」を表します。ヨハネの福音書の1~11章では、「旧約聖書の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が重ねられていて、これは「イエスの時代」を【現在】として「旧約聖書の時代」を【過去】、「使徒の時代」を【未来】とするなら、【現在】と【過去】と【未来】とが重なっているということになります。この【現在】と【過去】と【未来】の三つの時間が重なっていることを、新しい造語を使って説明したらどうかと思い、「トリクロノス」はどうだろうかと思っています。このヨハネの福音書の三つの時間の重なりのことは今まで知られていないことでした。この、今まで知られていないことを、今まで使われて来た言葉で説明しようとしたから、今まではあまりよくわかってもらえなかったのではないか、というわけです。
 そうして、このヨハネの福音書の【現在】と【過去】と【未来】の三つの時間の重なりのことを考えていたら、これは「神の時間」と「人の時間」の境界の領域に属する時間であろうということに気付きました。というのは、ヨハネの福音書の【旧約聖書の時代】は、時間順に並んでいるからです。ヨハネ1章には創世記の時代のこと、ヨハネ2章には出エジプト記の時代のこと、というように旧約聖書の順番の通りに並んでいます。しかし、「神の時間」においては、このような順番は存在しないのだろうと思います。ヨハネの福音書で「旧約聖書の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が同時並行で進んで行くことは、そのような重なりが存在しない「人の時間」とは明らかに違いますが、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記などの順番がヨハネの福音書の中に残っていますから、それは「人の時間」に近いと言えるでしょう。ですから、これは「神の時間」と「人の時間」の境界領域の中間的な時間であり、「神の永遠への玄関口」であると言えるのではないかと思います。
 こうして、神の永遠への玄関口に立って「神の時間」に近づくことができるなら、私たちの心にはもっと平安がもたらされ、平和へと向かって行くことができるのではないかと私は期待しています。

おわりに
 世界が平和からどんどん遠ざかって行くように感じられる昨今、ヨハネの福音書がどのような書かを伝える働きは、ますます重要になって来ていると思います。このことを教会の祈祷会と礼拝とで皆さんに繰り返し話すことで私の考察も深められて来ていますから、私はとても感謝に思っています。皆さんには忍耐していただいていますが、これからも共にヨハネの福音書を共に学んで行きたいと願っています。
 お祈りいたしましょう。
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再び来られる主イエス(2016.7.3 礼拝)

2016-07-04 10:35:42 | 礼拝メッセージ
2016年7月3日礼拝メッセージ
『再び来られる主イエス』
【使徒1:8~14】

はじめに
 礼拝メッセージでは、これから1年半ぐらい掛けて、新約聖書の使徒の働きをじっくりと学びたいと願っています。この使徒の働きから、イエスさまの弟子たちが「霊に燃えて主に仕えた」ことを学び、私たちの新しい礼拝堂での働きに備えたいと思います。使徒の働きの最後の章の28章を学ぶ頃には新しい礼拝堂が完成していて、この新しい礼拝堂で礼拝を捧げることができるようになっていることを願っています。

私たちはイエス・キリストの証人
 先週はその第1回目として使徒1章の1節から8節までを、ご一緒に読みました。使徒1章8節は、とても有名な聖句ですから、きょうもまた聖書箇所に含めました。1章8節、

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 教会の働きのほとんどは、この使徒1章8節で言い尽くされていると言っても過言ではないほど、この節は重要だと思います。イエス・キリストを信じて聖霊を受けると私たちは霊的なイエスさまと出会うことができます。これは素晴らしい恵みです。この霊的なイエスさまと出会って素晴らしい恵みを受けたことを私たちは証ししますから、私たちはイエスさまの証人です。2000年前のイエスさまの弟子たちもまた、イエスさまについて証しをしました。この弟子たちの中には、人間として人々に教えを説いていた時のイエスさまに会ったことがない者たちも多くいました。使徒パウロは、その代表です。或いはまた、パウロを助けたプリスカとアクラの夫妻も人間のイエスさまには会ったことがありませんでした。しかし、パウロも、そしてプリスカもアクラもイエスさまの証人です。それは霊的なイエスさまと出会っているからです。
 21世紀の現代の私たちもまた人間のイエスさまには会っていませんが、聖霊を受けたことで霊的なイエスさまには出会って恵みをいただいていますから、私たちはそのことを証しするイエスさまの証人です。

イエスが天に上ったことで遣わされた聖霊
 続いて9節、

1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 こうしてイエスさまは天に上げられました。このことはイエスさまが十字架に付けられる前の最後の晩餐の段階で、既に弟子たちに対して予告されていました。ヨハネの福音書16章の5節から7節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.213)。

16:5 しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。
16:6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 5節の「わたしを遣わした方のもとに行こうとしている」とは、イエスさまが天に上げられて天の父のみもとに行くこと、すなわち使徒1章9節のことです。そして16章7節でイエスさまは、イエスさまが去って行くことは弟子たちにとって有益なのだとおっしゃいました。それは、イエスさまが去って天に行かなければ、助け主の聖霊を遣わすことができないからです。聖霊はイエスさまが天の御父の御もとに上ることで初めて、遣わすことができるようになります。
 これは本当に益であり、素晴らしいことです。なぜならイエスさまと出会う恵みは、イエスさまが人間として地上にいた時は、1世紀の初めにパレスチナの地にいた人々しか受けることができなかったからです。しかし霊的なイエスさまと出会う恵みは、パレスチナの地に限らず全世界の人々が受けることができますし、1世紀に限らず、2世紀でも3世紀でも、そして21世紀の現代の私たちも、その恵みを受けることができます。

再び来られる主イエス
 続いて10節と11節、

1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 11節の「またおいでになります」とは、終末のイエスさまの再臨のことですね。きょうは、このイエスさまの再臨について、少しおさらいをしておきたいと思います。私はこれまで礼拝の説教では、皆さんが一定の聖書知識を持っておられるものとして説教する傾向がありました。語学で言えば中級レベルぐらいで説教していました。伝道説教の場合は初級にしますが、礼拝説教では中級ぐらいにしていました。しかし、これからは初級と中級の間ぐらいを目指そうかなと思います。そして、もし皆さんのほうから、次の礼拝には新しい方をお連れしますという情報をいただければ、その時には、なるべく初級レベルで話をするように心がけたいと思います。実際、どれだけ話をわかりやすくできるかはわかりませんが、心がけとしては、そうありたいと思います。
 では、イエスさまの再臨について、初級と中級の間ぐらいの話を、これから少しすることにしたいと思います。
 この11節の最後の、「またおいでになります」という所に3)という注が付いていて、下の11節の脚注の③を見ると、参考としてマタイ16章27節、28節という引照が付いています。この箇所は、週報のp.3に記しておきました。これから、いくつか再臨に関係する箇所を開きます。あちこち開くのは大変ですから、週報のp.3に記しておきました。まずマタイ16章27節、

16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

 ここでイエスさまは再臨のことに言及しています。そして再臨の時には、おのおのその行いに応じて報いをするとおっしゃっています。それは、一人一人について、永遠の命の中に入れるか、永遠の滅びの中に入れるかの審判を下すということですね。次に28節、

16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

 この28節は、普通に読めば、弟子たちがまだ生きている間、すなわち1世紀の中頃か、遅くとも1世紀の末には再臨があるとイエスさまが予告したと受け取ることができるかもしれません。しかし実際には、2000年が経った21世紀の今でも、まだ再臨はありません。これは、どう解釈したら良いでしょうか・・・・・・。私はヨハネの福音書に基づいて解釈すれば良いと思います。すなわち、イエス・キリストを信じて聖霊が与えられ、永遠の命を得るなら、決して死を味わわないということです。

現代に至るまでない再臨
 1世紀の時点では、イエスさまの弟子たちは皆、再臨がすぐにでもあると信じていました。パウロも自分が生きている間に再臨があると思っていました。パウロは第一テサロニケ4章15節から17節で次のように書いています(週報p.3)。

4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 ここでパウロは自分たちのことを「生き残っている私たち」と書いていますから、自分が生きている間に再臨があると思っていました。しかし、パウロが生きている間に、再臨はありませんでした。では、再臨はいつあるのでしょうか。それは天の御父だけがご存知のことです。マタイの福音書の中でイエスさまは、このように言っています(マタイ24:36)。

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、誰も知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 ですから、すぐにでもあると思っていた再臨がなかなかなくても、おかしいことはないのですが、再臨がなかなかないことを気にしている人々もいました。ペテロの手紙第二の3章9節でペテロは次のように書いています(週報p.3)。

3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 私も、ここにペテロが書いている通り、まだまだイエスさまが再び来る状況が整っていないから、再臨がないのだろうと思っています。

再臨できる状況にない?
 たとえば、21世紀の現代でも聖書の存在を知らない人々がかなり存在します。国家がキリスト教を禁止しているために、国民が聖書を知る状況にない国もあります。或いはまた、聖書は多くの言語に翻訳されているとは言え、まだまだすべての言語に翻訳されているわけではありませんから、翻訳されていない言語を使っている民族には、まだ届いていません。日本ウィクリフ聖書翻訳協会のホームページを見ると、聖書翻訳の現状分析として、次のような説明があります。

「この世界にある、約6900の言語のうち、聖書全巻(創世記~黙示録)の翻訳が終わっているのは、たった550言語あまりです。日本語は、そのうちの一つです。日本語を母語とする私たちは、その意味で大変恵まれています。
 約4650言語では、新約聖書もしくは聖書の部分訳があるか、出版されている聖書は未だ無くても聖書翻訳プロジェクトが既に始まっています。約1800語で聖書翻訳が必要ですが、未だ聖書翻訳プロジェクトが始まっていません。この約1800の言語を話す人口の合計は約2億人です。
 いつ世界のすべての人々は母語で聖書を持つようになるでしょうか。 これまでのペースで行くと、残り約1800の言語に聖書を翻訳する働きが終了するまでに後150年はかかります。どんなに速いペースで頑張っても、100年はかかるでしょう。」

 この説明文から、世界にはイエスさまの福音を知らない人々がまだまだいることがわかります。しかも、聖書はそんなにわかりやすい書物ではありませんから、たとえ自分の民族の言葉で書かれた聖書があっても、すぐには理解できないという問題もあります。
 私は個人的には、ヨハネの福音書の理解の問題が大きいと思っています。ヨハネの福音書には人間のイエスさまだけでなく霊的なイエスさまもいるのに、今のところ人間のイエスさましか認識されていません。人間のイエスさまは紀元1世紀にしか存在しませんでした。それゆえイエス・キリストと言えば1世紀の人と思われていて、多くの人々は聖書とは古くさい書物だと思っています。ですから、この認識が改められる必要があります。聖書は古くさい書物ではなく、霊的なイエスさまが現代の私たちにも語り掛けて来る、瑞々しい書物です。この瑞々しさを感じるためには霊的な目が開かれ、霊的に成長する必要があります。イエスさまの再臨が予告されてから2000年が経った今でも再臨がないのは、多くの人々の霊的な成長がまだまだであるために、イエスさまが再臨する状況にはないのかもしれません。
 聖書は古くさい書物ではありませんから、使徒の働きもまた古くさい書物ではなく、瑞々しい書物です。使徒の働きに記されているイエスさまの弟子たちが聖霊を受けた出来事は2000年前の出来事でしたが、この聖霊の注ぎは21世紀の現代も続いています。私自身もまた21世紀になってから聖霊を受けた者です。
 使徒の働き1章に戻ります。12節から14節までを交代で読みましょう。

1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 このようにイエスさまの弟子たちは祈りに専念して、これから起きることに備えていました。この時から間もなくして、イエスさまの弟子たちには聖霊が注がれました。この使徒の働きに記されている聖霊を受ける恵みを私たちもまた、いただいています。聖書に書かれていることと同じ恵みを私たちはいただいていますから、聖書は古びることなく、いつも私たちに霊的な活力を与えてくれます。それゆえ私たちもまたイエスさまの弟子たちのように、霊に燃えて主に仕えることができます。

おわりに
 この沼津の地域の人々も、世界の人々も、多くの方々はまだ霊的な目が開かれていません。あるいは霊的な目は開かれていても霊的な成長ができていません。ですから私たちは多くの方々が霊的に成長して、聖霊の恵みをたっぷりと感じることができるようになるよう、霊に燃えて主に仕えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月3日礼拝プログラム

2016-07-01 05:40:03 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月3日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第1聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  望みも消えゆくまでに    413
 交  読  詩篇81篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主のために生きる      461
 讃 美 ③  川のような平安が      438
 聖  書  使徒1:8~14
 説  教  『再び来られる主イエス』 小島牧師
 讃 美 ④  とうとき主こそ私の     392
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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