平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

国際宇宙ステーションの時代の水と霊

2024-03-04 13:20:55 | 折々のつぶやき
国際宇宙ステーションの時代の水と霊
~21世紀の目に映る天地創造2日目とは~

はじめに
 昨年の『どうする家康』もそうでしたが、これまでNHKの大河ドラマでは戦国時代や幕末が何度も繰り返し描かれて来ました。その度に新しい解釈が示されて、最初は違和感を覚えつつも次第に馴染んで行くということを視聴者の私は、繰り返して来ました。そうして歴史的な人物や出来事に関する解釈の仕方は一つではなく、様々であることを見る度に思わされています。そこがまた、大河ドラマの大きな魅力の一つなのでしょう。

 聖書もまた、様々な解釈が為されて来ました。多くの教派があることが、そのことを如実に示しています。教派間の戦争すらあるので能天気なことは言えないのですが、一歩引いた位置から眺めるなら、様々な解釈が可能なこともまた聖書の魅力の一つなのだろうと思います。しかし、この魅力に富んだ聖書のことが、日本ではあまり知られていません。そのことを私は聖書の読者の一人として、とても残念に思います。

 そこで聖書の魅力を少しでも分かってもらうために、旧約聖書の天地創造2日目に関して、これまでとは違った解釈を示してみたいと思います。その前に、天地創造の1日目について、少し触れておくことにしましょう。聖書の冒頭には、次のように書かれています(新改訳2017)。

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 これが天地創造の第1日目のことです。3節にあるように、神が「光、あれ」と言って、光が造られました。この「光、あれ」を宇宙の初めの「ビッグバン」と結び付けて考える人も少なくないと思います。しかし、「ビッグバン」ということばが登場したのは20世紀の半ばのことですから、それ以前は「光、あれ」を「ビッグバン」と結び付けて考える人は誰もいませんでした。それが今は、結び付ける人が少なからずいます。このように、聖書は時代とともに新しい解釈が登場します。この新しさを失わないところがまた、聖書の大きな魅力なのだろうと思います。

1.水は空気中にも大量に存在する
 それでは、本題の天地創造2日目に進みましょう。第二日には、次のことがありました。

創世記1:6 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
7 神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。
8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。

 7節の「大空の下にある水」と「大空の上にある水」を普通に解釈するなら、それぞれ「海の水」と「雨の水」ということになるでしょう。海水と雨水が大空によって分けられました。しかし、現代人にはよく知られているように、水は空気中にも大量に存在します。たとえば夏に冷えた飲み物をコップに注ぐと、コップの表面は水滴で覆われて、少し後にはテーブルを濡らすほどになります。これは空気中に含まれていた気体の水蒸気がコップの表面で冷やされて液体の水に戻ったためです。水の分子は気体としてバラバラの状態にある時は小さすぎて私たちの目には見えません。しかし液体になって、ある程度の数量の分子が集まると目に見えるようになります。つまり水は大空の下の海から上空の雲に至るまで連続して存在していて分け目はありません。海では液体として、空気中では気体として、雲の中ではまた液体として、あるいは固体の氷として水は存在しています。気体、液体、固体という状態の違いはありますが、どれも同じ水です。

 空気中にどれほど大量の水蒸気が存在するかは、近年になって頻繁に起きるようになった豪雨の被害からも良く分かります。地球が温暖化していることで海水の温度も上がり、蒸発する水の量が増えています。そうして気体の水蒸気が上昇して上空で冷やされると液体に戻って雨雲を作り、大量の雨を降らせます。私が住む静岡市でも一昨年の秋には台風15号の通過時に豪雨の被害がありました。空気中に含まれる水蒸気の量は半端ではないのです。

2.21世紀の目で見た聖書の【大空】は宇宙?
 このように、現代の目で聖書の創世記1章6~8節を改めて読み返してみると、水が存在しない分け目の【大空】とは大気圏外の「宇宙」ではないか、ということが見えて来ます。人類が初めて宇宙を飛行したのは1961年、ガガーリンが乗ったソ連のボストーク1号でした。また1969年にはアメリカのアポロ計画によって人類は初めて月面に降り立ちました。当時、私は小学4年生で、この時に家族と一緒に見たテレビ中堅のことは今でもよく覚えています。そして21世紀の現代では、国際宇宙ステーション(ISS)に人が常駐しています(NASAのサイトの写真を貼り付けます)。



 ISSの搭乗員たちはSNSを通じて宇宙から見た地球の様子を頻繁に発信してくれていて、私たちは気軽にそれらを見られるようになっています。これらの画像からは、地球には多くの水が存在していることが分かります。そして、これもNASAのサイトの写真ですが、日の丸が見える日本の実験棟「きぼう」の下には大量の雲があります。これらの雲は皆、液体の水滴または固体の氷の粒です。



 この水がどこからもたらされたのかは、まだよく分かっていないそうです。水は月にも存在します。火星にも水が流れた痕跡が残っています。小惑星にも水は存在するようです。もしかしたら水は、太陽系外からもたらされたのかもしれません。宇宙は広大です。地球がある太陽系は銀河系にあり、私たちの銀河の外にはアンドロメダなどの無数の銀河があります。この大宇宙を神は創造して、支配しています。それゆえ天は太陽系も銀河系も超えた所にあるのでしょう。この大宇宙に目を向けるなら、水の分け目の【大空】とは宇宙であるとも読み取れるのではないでしょうか。つまり私たちは【大空】の下の水の中で暮らしています。水蒸気も水ですから、私たちは水にいつも包まれています。

3.聖書の水は、しばしば「神の霊」を表す
 水は聖書では「神の霊」の別表現として、しばしば用いられます。たとえば新約聖書のヨハネの福音書7章には次のような記述があります。

ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。

 この例のように聖書では多くの場合、「水=神の霊」です。念のために申し添えると、そうではない場合もあるので注意が必要です。しかし、水が神の霊を表す聖書の箇所はたくさんあります。すると、地上で水蒸気に囲まれて暮らす私たちは、神の霊に包まれていると考えることも可能でしょう。つまり、神は私たちとともにおられます。そして、このことは私たちの実感とも良く合います。キリスト教に限らず、信仰は霊的な雰囲気を感じるところから始まると言っても良いでしょう。たとえば四国のお遍路さんが巡るのは八十八ヶ所の「霊場」です。また、富士山・白山・立山を「日本三霊山」と呼ぶそうです。富士山を眺める時や、お寺や神社の境内に身を置く時に霊的な雰囲気を感じるのは、私たちがいつも神の霊に包まれているからである、とも言えるかもしれません。

4.神の呼び掛けに応答する
 ただし、神の霊は多くの場合、私たちの外側にとどまっていて私たちの内に入って来ることはありません。それは私たちが、神が内に入ることを拒んでいるからです。それゆえ神はいつも私たちの心の扉をノックしています。

黙示録3:20 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 この神のノックに応答して心の扉を開けるなら、神は私たちの内に入って来て下さいます。或いはまた、イエス・キリストは「あなたがたは何を求めているのですか?」と言って私たちに近づいて来ます。

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 イエスに「あなたがたは何を求めているのですか?」と問われても、私たちはすぐには答えられません。人生において自分が何を求めているのかは難しい問題です。金持ちになりたい、というような浅い願望ではなく、心の深い領域に関することは、すぐに答えられるようなものではありません。それゆえ私たちは戸惑い、「先生、どこにお泊りですか?」などと逆に質問をしたりします。するとイエスは「来なさい。そうすればわかります」と私たちを招きます。この招きに素直に応じるなら、神であるイエスは私たちの心の扉の内側に入って来て下さいます。そうして、自分が心の奥底で本当は何を求めているのかが段々と分かるようになります。

おわりに
 私自身が教会に通うようになったのは2001年のことで、41歳の時でした。後から考えると、それまでもイエスは常に「あなたは何を求めているのですか?」と私に声を掛け続けて下さっていたのだと思います。私たちは神の霊に包まれて生活しています。このことを国際宇宙ステーションと地球の写真を見ると、しみじみと感じます。そうして、神はいつも私たちの心の扉をノックして、応答するように促し、招いています。
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