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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

福音が全世界に宣べ伝えられてから(2018.10.21 礼拝)

2018-10-22 08:20:28 | 礼拝メッセージ
2018年10月21日礼拝メッセージ
『福音が全世界に宣べ伝えられてから』
【マタイ24:14、ルカ10:38~42】

はじめに
 先週は静岡聖会でいただいた恵みを分かち合い、ペテロの手紙第一とヘブル人への手紙、そしてマタイの福音書を開きました。マタイの福音書ではマタイ11章28節の、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」に注目しました。
 クリスチャンであるかないかを問わず、私たちの多くは重荷を負い、疲れているのではないでしょうか。イエスさまは疲れている私たちに向かって、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言って下さっています。しかし、このイエスさまの声が自分に向けられていると感じる人はクリスチャンであっても、それほど多くはないようです。それはどうしてでしょうか。きょうはまず、このことを考えてみたいと思います。

なぜ「休ませてあげます」が届いていなかったか?

 先週の繰り返しになりますが、静岡聖会の講師を務められた小平先生は、牧師になって10年目の1995年に、牧会しておられる西宮で阪神淡路の大地震に遭いました。そして、ご自分の教会の心配をするだけでなく関西地区で被災した教会を支援するネットワークの事務局を務める中で疲弊して行き、燃え尽きたようになった正にその時に、マタイ11:28のイエスさまのことばの「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」が目に入り、その時に初めて、このみことばが自分に語られていると感じたということでした。この小平先生のお証しに私は深く共感しました。私は牧師になってから6年目の今年の元旦に、この「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」というみことばが自分に語り掛けるのを感じました。
 どうして、小平先生も私も、このイエスさまの声が響いて来なかったのでしょうか。休むことが下手なのでしょうか?

『うつ病九段』
 今月の教報の聖宣神学院報の巻頭言で院長の河村先生が『自己ケア九段』というタイトルの文章を寄せていました。先生は最近、『うつ病九段』という本を読んだということで、その本の紹介から文章を始めておられました。実は、私もこの本を最近読んでいたのでした。この『うつ病九段』は今年の7月に出版されて話題になっていました。単に話題になっているだけなら、新刊本をわざわざ買って読まなかったと思います。私は大抵は中古本を買うことにしていて、新刊本はあまり買いません。出版から1年も経てば中古本で安く買うことができるからです(出版されてから2~3ヶ月では中古本の値段はあまり下がらず送料を入れたら新刊本と値段は大して変わりません)。しかし、この『うつ病九段』はすぐに読んでみたいと思い、新刊本を買って読みました。なぜかと言うと、この夏、私はもしかしたら、自分がうつ病の初期状態にあるのではないかと思っていた時期があったからです。教会の将来について色々と考え、幹事の皆さんと様々なことを相談して教団に提案するのですが、いろいろな事情があってそれらの大半が却下されましたから、気分的に低調になりました。それでもしかしたら、自分はうつの初期にあるのではないかと思い、うつ病のことをもっと知りたいと思ったのです。
 それまで私がうつ病のことをまったく何も知らなかったわけではありません。出身教会では、うつ病を患った経験のある方が何人もいて体験談も聞いていました。また、私が応援している佐々部清監督が撮った映画『ツレがうつになりまして。』がヒットして私も劇場で観ていましたし、原作の細川貂々さんの同じ題名の漫画『ツレがうつになりまして。』も買って読んでいました。それで、うつに関してまったく何も知らなかったわけではありません。ただ、私自身は自分自身がうつ的になっていることを感じたことなど、一度もありませんでした。それが、自分もひょっとしたらという気になったので、『うつ病九段』の新刊本を買って読みました。
 この『うつ病九段』は将棋のプロ棋士の先崎学九段が書いた本です。将棋の棋戦の解説などで私もテレビやネットで何度も見たことがあった有名な棋士です。今年になって、ふと、そう言えば最近見ていないなと思っていたら、うつ病で約一年間休養をしていたということでした。原因は、あまりに働き過ぎていつの間にか脳がダメージを受けていたということのようです。
 将棋界は今でこそ高校生棋士の藤井聡太プロの中学生の頃からの大活躍などで大いに盛り上がっていますが、その少し前までは不正疑惑問題で大揺れになっていました。不正疑惑とは、プロの棋戦の対戦中に頻繁に席をはずしていた棋士が、こっそりとスマホを使ってAIの指す手を参考にしていたのではないかというものでした。スマホ自体にはそれほどの計算能力はありませんが、自宅のPCに計算させてスマホでそれを見ることはできるわけです。その疑惑を週刊誌に書かれて対応を迫られた将棋連盟は、結局、その棋士のタイトル戦への出場を認めずに、別の棋士がタイトル戦に出場しました。しかし第三者調査委員会が出した結論は不正は行われていなかったというものでした。この不正疑惑によって疑われた棋士はタイトル戦を戦う機会を逃しただけでなく名誉を著しく傷つけられ、また対戦料の収入も得らませんでしたから、結果的に対応を誤った将棋連盟は各方面から厳しく批判されることになりました。そういう中で『うつ病九段』を書いた先崎学九段は将棋界の建て直しと将棋人気回復のために休みなく働き続け、気付かないうちに、うつ病を発症していたのでした。以前読んだ『ツレがうつになりまして。』になったツレさんにしても、出身教会の兄弟たちの話を聞いても、休みなく働き続けることは、うつ病発症の大きな要因となるようです。
 そうして思ったことは、どうも私たちはクリスチャンであってもなくても休むことが下手なようである、ということです。

福音は正しく宣べ伝えられているか?
 ここで、きょうの聖書箇所のマタイ24:14をご一緒に読むことにしたいと思います。

24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

 このマタイ24:14をきょうのメッセージの聖書箇所にしたのは、水曜日の祈り会でその次のマタイ24:15を取り上げた時に、とても気になったからです。マタイ24:15をお読みします。

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──

 このマタイ24:15を取り上げたのは、教会員から、この「読者はよく理解せよ」はどういうことですか、との質問を受けたからです。それで、この質問を祈り会のメッセージで取り上げて私なりの解答を話してブログにアップしました。ごく簡単に言えば、「読者はよく理解せよ」とは「ダニエル書を読者はよく理解せよ」ということだと思います。ただしダニエル書は旧約聖書ですから、ユダヤ教的な読み方とキリスト教的な読み方とがあります。イエス・キリストの福音について書いているこの福音書の読者は、そこらへんのところをよく理解せよ、ということではないかという話を水曜日にしました。この問題については、これ以上話すときょうの本題からはずれますから、これぐらいにしておきます。
 きょうマタイ24:14を取り上げたのは、一つ後の15節について思いを巡らしている時に、この14節がとても気になったからです。もう一度、14節をお読みします。

24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

 イエスさまは、御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、それから終わりの時が来るとおっしゃっています。いま世界各地に宣教師が入って行って伝道活動が行われているのも、また世界のあらゆる言語で聖書が翻訳されるように活動が続けられているのも、このことのためです。私たちは、このことのためにお祈りし、また自分にできることをしなければなりません。
 しかし、このマタイ24:14について思い巡らしているうちに、私たちクリスチャンは福音を正しく伝えているだろうかということが段々と気になって来ました。日本にも多くの教会があり、表面上は確かに福音が宣べ伝えられています。しかし、もしクリスチャンが休むことが下手で、イエスさまの「わたしがあなたがたを休ませてあげます」がクリスチャンの心にはそれほど響いていないとしたら、果たしてクリスチャンは福音を正しく宣べ伝えているのだろうか、と思ってしまいました。

一番大切なのは聖霊を受けること

 ここで、ひと頃よく開いたルカの福音書10章のマルタとマリアの箇所を、改めてご一緒に読んでみたいと思います。ルカ10章の38節から42節までです。

10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 この箇所を読むと、マリアの姉のマルタはあまりにも忙しくしていたために、霊的ではなくなっていたことが分かります。妹のマリアは霊的に整えられていましたが、マルタは霊的ではなくなっていました。
 ここで改めて御国の福音とは何かを考えたいと思います。御国には、どういう者が入ることができるのでしょうか。御国に入れるのはイエスは神の子キリストと信じて聖霊を受け、神の子とされて永遠の命を受けた者です。
 御国には聖霊を受けてきよめられなければ入ることができません。ですから、聖霊を受けることが最も大切なことです。極端なことを言えば、イエスさまは私の罪のために十字架に掛かったと信じたとしても、イエスは人であって神ではなかったと思っているとしたら、聖霊は与えられないでしょう。聖霊を受けるにはイエスは神の子キリストと信じる必要があります。ですから、自分はイエスの十字架の贖いを信じているクリスチャンであると思っていても、実は聖霊を受けていないかもしれません。

イエスの証人になる力を与える聖霊
 その人が聖霊を受けた人かどうか、分かりやすい人もいますが、分かりにくい人もいます。分かりやすい例は、聖霊を受けてイエスさまに似た者にされた人ですね。
 そして、もう一つの分かりやすい例は、イエス・キリストの証人となる力が与えられている人です。この力が与えられると少々のことではへこたれない強さが与えられます。それゆえ使徒たちは力強くイエス・キリストを宣べ伝えました。
 ここで今一度、小平先生の証しについて考えてみます。先生は牧師になって10年目に阪神淡路大震災で燃え尽きそうになるまでは、イエスさまの「わたしがあなたがたを休ませてあげます」が自分に掛けられたことばだと思ったことはなかったと証しされました。それはつまり、それまでの10年間の先生はずっと聖霊の力によって強められていたということではないでしょうか。それが、あまりにも忙しくなってしまったために、霊的ではなくなってしまった。それゆえに聖霊の力を十分に受けることができなくなって疲れ果ててしまった。そのような気がします。しかし、そういう時にこそ、イエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という声を掛けて下さり、励まして下さいます。
 ですから、このイエスさまの声は、霊的に渇いて脱水状態になっている時にこそ響いて来ると言えるでしょう。そうして、このイエスさまの声に応答するなら、聖霊が新たにまた注がれて、再び元気を取り戻すことができます。

神の子キリストであるイエスに応答する
 では、まだクリスチャンになる前の聖霊を受けていない人が、もし今イエスさまのこの声を聞いて応答したら、聖霊を受けることができるでしょうか。私はできると考えます。なぜならイエスさまは今は地上にはいませんから、もしイエスさまの声を聞いたとしたら、それは神の子イエスの声を聞いたことになるからです。その神の子イエスに応答するなら、その人は聖霊を受けるでしょう。そうして、その人は御国に入ることが約束されます。
 教報の聖宣神学院報で『自己ケア九段』を書いた河村先生は、今年の4月から神学院の院長だけでなく神学院教会の主任牧師も務めるようになりましたから、大変だったようです。『自己ケア九段』で先生は次のように書いています。
 「春から奉仕環境が変わり、仕事量よりは心を用いる範囲が広がったという意味で忙しい4か月を過ごしました。仕事はこなしたものの今までとは何か違うなと感じ、メンタルなバランスと自己ケアに心を用いました。あらためて、人間は弱いと感じました。お祈りに支えられたと思います。」
 先生は、忙しさの中で自分がメンタルなバランスを崩しかけていることを感じたようです。そうして弱さを素直に認めています。そして続けて、次のように書いています。
「恵みに生きるとは、自分の弱さを認めていることです。もっと霊的ぶらないでいいんじゃないか。もっと正直でいいんじゃないか。神の国にエリートはなじみません。人の上に立つのではなく、人の気持ちと弱さに寄り添える、『自己ケア九段』でありたいと思います。」
 忙しさの中でメンタルなバランスを崩しかけた先生もきっと、無意識の中ではあったかもしれませんが、イエスさまの「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という声を聞いたのではないかなと私は感じています。

おわりに
 私たちが弱さを認める時、イエスさまは強めて下さいます。パウロもコリント人への手紙第二に、そのことを手紙に書いていますね(週報p.3)。

12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 パウロをキリストの力がおおったのも、聖霊の力によるものです。聖霊には疲れて弱っている者に力を与える働きがあります。聖霊は神の子キリストであるイエスの声に応答する者に与えられます。そうして聖霊を受けた者は御国に入ることが約束されています。
 このような御国の福音を伝えて行くべきなのだろうと思います。そうして、全世界で福音が宣べ伝えられてから終わりが来るとイエスさまはおっしゃいました。
 この聖霊の恵みに感謝して神の子キリストであるイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
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読者はよく理解せよ(2018.10.17 祈り会)

2018-10-18 13:35:23 | 祈り会メッセージ
2018年10月17日祈り会メッセージ
『読者はよく理解せよ』
【マタイ24:15】

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──

はじめに
 きょうは申命記はお休みにして、マタイ24:15を取り上げます。
 先日、聖書通読に励んでいる方から、このマタイ24:15にある「読者はよく理解せよ」とはどういうことですか?という質問を受けました。このマタイ24:15を私は説教で取り上げたことがなかったので、これまであまり深く考えたことがありませんでした。それで即答することができませんでしたから、「調べてから答えます」と言って、解答を保留しました。それで早速調べてみましたが、少し時間を掛けて自分でも考えてみたいと思いましたので、今回の祈り会のメッセージを準備するための時間を、この質問者への解答を考える時間に充てさせてもらうことにしました。
 このマタイ24:15の「読者はよく理解せよ」は、新改訳第3版では「読者はよく読み取るように」となっていました。何をよく読み取り、何をよく理解せよとマタイは書いているのでしょうか。単純に読むなら、それはやはり「ダニエル書をよく理解するように」ということだろうと思います。それで、あとでダニエル書をご一緒に見ることにしたいと思っていますが、まずはこのマタイ24章を見ておきたいと思います。

終わりの時に聖所に立つ『荒らす忌まわしいもの』
 24章の1節から見ます。イエスさまと弟子たちは、既にエルサレムまで来ていました。そして弟子たちはエルサレムの宮、すなわち神殿を指し示しました。するとイエスさまは言いました。「ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」それで弟子たちは3節で聞きました。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
 そうしてイエスさまは終わりの時の前に、何が起きるのかを弟子たちに話しました。4節から10節までは省略して、11節から16節までを交代で読みたいと思います。

24:11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
24:16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。

 このように、24章の始めの方から読むと、この15節は「終わりの時」に起きることが語られていることが分かります。そして、その終わりの時がダニエル書で預言されているということも分かります。15節にある「聖なる所」というのはエルサレムの神殿のことです。終わりの時には神殿に『荒らす忌まわしいもの』が立つとイエスさまはおっしゃいました。

キリスト教的な読み方とユダヤ教的な読み方
 それではダニエル書を見ることにしたいと思いますが、下の脚注を見ると(15節の②)、ダニエル9:27、11:31、12:11と引照が三つあります。この三つのうちの最初の9章27節をご一緒に見ることにします(旧約聖書p.1527)。26節を見てから27節を見ることにします。
 26節に、「六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない」とあります。この「油注がれた者」はキリスト教的にはイエスさまのことだと読み取れます。そして、このイエスさまが「断たれ、彼には何も残らない」とは、イエスさまが十字架で断たれることだと読み取れると思います。そして、「次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する」というのは紀元70年にローマ軍がエルサレムを攻撃して神殿を破壊することの預言と読み取れと思います。イエスさまが先ほどのマタイ24章の2節で「ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」と言っていたのも、この紀元70年のローマ軍によるエルサレムの攻撃のことですね。その時にダニエル9章27節にあるように、「忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる」ことになります。これがマタイの福音書24章15節でイエスさまがおっしゃったことだというわけです。
 しかし、これはキリスト教的な読み方であって、ユダヤ教的にはダニエル書9章26節の「油注がれた者」をイエスさまのこととは考えません。マタイが「読者はよく理解せよ」と書き加えたのは、このようにキリスト教的な読み方とユダヤ教的な読み方の違いがあることを指摘しているのではないかと私は考えました。
 それから注解書を調べると、この神殿が汚される事件はイエスさまが地上に使わされる前の紀元前167年に一度起きているということがいくつかの注解書に書かれています。このことは旧約聖書の外典の『マカベア書』とヨセフスの『ユダヤ古代誌』に書かれていて、セレウコス王朝のアンティオコス・エピファネスによってゼウス神の祭壇がエルサレムの神殿の上に立てられたそうです。この神殿の汚れがマカベア戦争の勝利によって取り払われて、きよめられたことを記念する祭りがヨハネの福音書の10章にも出て来る「宮きよめの祭り」です。
 そういうわけで、『荒らす忌まわしいもの』が神殿に立つことは、ゼウス神の祭壇によって神殿が汚されたことの預言という見方もできるわけです。そうして、このダニエルの預言は既に一度成就したという見方もできます。そういう見方もあることも含めて、マタイは24章15節で「読者はよく理解せよ」と書き添えているようです。
 読者の中にはユダヤ教的な聖書の読み方に慣れ親しんでいる者もいるかもしれません。しかし、マタイの福音書はイエス・キリストの福音を語っている書です。そのことをマタイは「読書はよく理解せよ」と添え書きすることで注意を促しているのではないか、そんな風に読み取れるように思います。
 私が先日受けた質問に関しては、以上のような考えるための材料を提供して、あとはその質問者の方自身にも思い巡らしてみていただきたいと思っています。

聖書のことばの思い巡らしを通した神との交わり
 さて、これから先は、今回私がこの「読者はよく理解せよ」について思ったことを分かち合うことにしたいと思います。
 マタイは、このマタイ24章15節のイエスさまのことばについて、読者によく理解して読んでほしいと願っているから「読者はよく理解せよ」と書いたと思うのですが、それなら、もう少し丁寧に解説してくれれば、もっとよく理解できるはずです。ここは、こういう風に読み取るべきだ、と具体的に書いてくれれば遥かに分かりやすくなります。なぜマタイは具体的に解説してくれなかったのでしょうか?
 このことを思い巡らしていて、ふと思ったのは、マタイはここに限って読者によく理解してほしいと思っているのでなく、すべての箇所でそうしてもらいたいのだろうということでした。マタイ24章15節ではダニエル書が引かれています。すると読者がよく理解するためにはダニエル書を調べる必要があります。そのようにして、常に旧約聖書と照らし合わせながらイエス・キリストを深く理解して欲しいというメッセージを発しているのかもしれないと思いました。
 他の福音書も同様ですが、マタイの福音書にはよく分からない箇所がいろいろとあります。そういう箇所を懇切丁寧に解説するのでなく、読者に旧約聖書も併せ読んでもらって思いを巡らしてもらう。そのことで神様と豊かに交わることができるようになります。そのような豊かな交わりを感じられるようになって欲しい、マタイは読者にそのようなことを期待しているのかもしれません。

不思議なマタイの系図
 マタイの福音書で私が特に不思議に思っているのは、冒頭の系図のことです。最後に、この系図ことを分かち合って終わることにします。マタイの福音書1章17節で、マタイは、「アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる」と書いています。しかし、アブラハムからダビデまでは約1000年の期間があります。ダビデからバビロン捕囚までが約400年、バビロン捕囚からキリストまでは約600年です。この1000年、400年、600年がすべて同じ14代というのは、ちょっと不思議です。さらに不思議なのは5節に「サルマがラハブによってボアズを生み」、とマタイが書いていることです。ラハブはヨシュア記の始めのほうに登場する女性で、ボアズはルツ記に登場する男性です。すると、ヨシュア記とルツ記の間の士師記の時代はどこにどう納まるのでしょうか。マタイはなぜ、こうした系図を福音書の冒頭で示しているのでしょうか。本当に不思議です。
 今回、「読者はよく理解せよ」について思いを巡らす中で、マタイはこの福音書全体について読者が旧約聖書との関連について思いを巡らして、神様との豊かな交わりを読者には感じてほしいと願っていることを感じました。
 このような思い巡らしができたことを感謝して、皆さんと分かち合いたいと思いました。
 お祈りいたしましょう。

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
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わたしがあなたがたを休ませてあげます(2018.10.14 礼拝)

2018-10-15 13:45:12 | 礼拝メッセージ
2018年10月14日礼拝メッセージ
『わたしがあなたがたを休ませてあげます』
【マタイ11:28~30】

はじめに
 きょうは先週の7日と8日に磐田で開かれた静岡聖会でいただいた恵みを皆さんと共に分かち合いたいと願っています。
 小平先生が講師の三回の集会ではペテロの手紙第一が開かれました。それぞれの集会で数か節ずつが開かれましたが、1日目の聖会Ⅰの始めのほうで、小平先生はとても大切なことを言いました。「皆さんは、人から手紙をもらったら、少しずつ読みますか?きょうは、ここまで読んで明日はここまでなどというように、何日間も掛けて読みますか?そんなことはないでしょう。ですからペテロの手紙第一も、そんなに長い手紙ではないですから、今夜ホテルの部屋に戻ったら、或いは明日の朝でも良いですから、ぜひ全体を通して読んでみて下さい。」と言われました。
 確かにその通りですね。説教では時間の制約もありますから部分的に取り上げざるを得ません。ですからメッセージを聞く側が普段から聖書に接して備えておくことも大切だということですね。ただ、なかなかそうはできない方も多いと思いますから、説教する側もできるだけ聞く側が全体を理解しつつ、部分を聞けるようにする配慮も必要なんだろうと思います。今年のはじめまで、この教会で連講をしていた『使徒の働き』の説教では、私はそのことを意識して語ったつもりです。ところどころで、この先はどうなるかという予習の話を織り交ぜて、また、それまでの復習も織り交ぜて、できるだけ『使徒の働き』の全体像を見失わないようにしながら話をしたつもりです。エルサレムで始まった教会の働きが、どのような経緯を経てエルサレムの外に広がり、異邦人への救いへとつながって行ったか、そしてパウロのヨーロッパ伝道にもつながって行ったのか、できるだけ全体像を見失わないようにしたつもりです。
 しかし、聖書を理解するのは、そんなに簡単なことではありませんから、一つ一つの書の全体像をつかむことは一朝一夕では、なかなかできないですね。何回も繰り返し読んで思いを巡らし、そうして全体像を把握できるようになりたいと思います。

散らされた寄留者に宛てられたペテロの手紙
 さて、きょうはまず、聖会Ⅰで開かれた聖書箇所のペテロの手紙第一1章をご一緒に見ることにしたいと思います。そうして最後のほうで、司会者に朗読していただいたマタイ11章を見ることにします。
 聖会Ⅰではペテロの手紙第一1章の3節から9節までが聖書箇所となりました。きょうの礼拝の聖書交読では1節から9節までを交代で読みました。1節と2節には次のように記されています。

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 1節にあるポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアというのは、「ガラテヤ」とあることから分かるように、使徒の働きを学んでいた時に地図を開いて確認したアジアの地域のことです。2017年の聖書になってから、まだ地図をじっくり眺めていない方もいるかもしれませんから(というか、それは私のことですが)、この機会にご一緒に見ることにしましょうか。後ろの地図13のパウロの第1次、第2次伝道旅行の地図を見ましょう。ここに、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアが載っています。ポントスが地図の右上にあり、ガラテヤがその南西の方向にあります。そしてガラテヤの東側にカパドキアがあり、西側にアジアとビティニアがあります。パウロたちがヨーロッパに渡る前、当初はビティニアに進もうとしていましたが、イエスの御霊がそれを許さなかったと使徒の働きには記されていましたね。
 ペテロの手紙第一は、これらのアジアの地域一帯に散らされていた信徒たちに宛てた手紙です。ペテロの手紙第一に戻ります。もう一度1章1節をお読みします。

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、

 これらの人々は迫害を受けて散らされていたようです。ペテロはそれらの人々を手紙で励まそうとしていました。ペテロは宛て先人々のことを「散って寄留している選ばれた人たち」と書いています。ここに散らされて来て寄留していますから、このポントス、ガラテヤなどの土地は彼らが元々住んでいた場所ではありません。

アブラハムも寄留者だったと記すヘブル人への手紙
 この「寄留」ということばはヘブル人の手紙にも出て来ましたね。週報のp.3にも載せましたが、べブル人の手紙11章13節には、

11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

と記されています。このヘブル11章13節は、アブラハムの信仰について書かれている箇所ですね。ヘブル人への手紙13章をご一緒に確認しておきたいと思います(新約聖書p.452)。ヘブル人への手紙11章8節と9節を交代で読みましょう。

11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

 アブラハムは元々は父テラと共に、ヨルダン川の遥か東にあるユーフラテス川沿いのウルの地で暮らしていました。しかし、父テラと共にハランの地まで来て、そこでカナンの地へ向かうように召しを受けました。そうしてイサクやヤコブと天幕生活をしていました。アブラハムは13節にあるように地上では、旅人であり、寄留者でした。

天の故郷に憧れていたアブラハムたち
 続いて14節と15節を交代で読みましょう。

11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。

 この15節にある「出て来た故郷」というのはユーフラテス川沿いにあるテラの地でしょう。ユーフラテス川沿いはメソポタミア文明が発展した肥沃な土地です。アブラハムはそこに帰る機会もあったでしょう。しかし、16節でヘブル人への手紙は次のように書いています。ご一緒に読みましょう。

11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

 旅人である寄留者としての生活は、苦労も多かったことでしょう。しかし、アブラハムたちが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。神は彼らのために都を用意されました。ペテロが手紙を書いた宛て先の人々も同様でした。彼らは散らされて寄留者になっていましたが、選ばれた人たちでした。すなわち天の故郷に入ることが約束されていました。

神の御力によって守られている私たち
 ペテロの手紙第一1章に戻ります。5節をご一緒に読みましょう。

1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

 ここにあるように、イエス・キリストを信じる彼らは終わりの時に現される救いをいただくことが約束されています。そして、彼らは信仰により、神の御力によって守られています。迫害を受けて散らされて寄留者になっていますから、いろいろと苦しいことがあるかもしれませんが、信仰により、神の御力によって守られています。
 私たちは自分が苦しい目に遭っている時、神様は守って下さっていないと感じる時もあるかもしれません。しかし、神様はちゃんと守って下さっています。神様は私たちが地上で良い思いをするために守って下さっているわけではありません。ですから苦難の中を通っても神様は私たちを見離しているわけではありません。私たちが神様から離れないように守って下さっています。ただ、苦難から何とか抜け出そうと頑張っている時、私たちは視野が狭くなってしまっていますから、神様が守って下さっていることが見えにくくなっているかもしれません。そういう時にふと力を抜くなら、まわりが見えるようになって、神様が自分を守って下さっていることに気付くでしょう。
 神様はどんな風に私たちを守って下さっているのか、聖会Ⅰでは小平先生がご自身の体験のお証しをして下さいました。そのお証しに私はとても共感しましたから、最後にそれを分かち合いたいと思います。
 小平先生は西宮の教会の牧師を務めておられますが、この教会は先生のご両親が開拓された教会だそうです。ですから先生は子供の頃から、この教会で過ごしておられました。大学時代と神学生時代には、西宮を離れましたが、1986年に牧師の任命を受けてからは、再びこの西宮教会に戻って来たそうです。そうして牧会を始めてからの10年間は、とにかく懸命に働いたそうです。実は先生は十代の頃に、いろいろあって西宮の教会の礼拝に出なくなってしまったそうです。そのため、救いの恵みに与ったのは東京の大学に進学して以降の学生時代だったそうです。そういう過去があったせいもあるでしょう。ご両親に自分は牧師としてちゃんとやっていけるというところを見せたいという気持ちがあったと思います。教会の仕事だけでなく、近畿福音放送伝道協力会の事務局長もしていたそうです。そうして懸命に働いていた時、阪神淡路大震災が起きたそうです。
 それで関西では、この近畿福音放送伝道協力会のネットワークを活かして復興支援協力会ができたそうです。先生はその働きも担うことになりました。さらには「阪神大震災復興ミニストリー」が結成されて、先生はその事務局も務めることになったそうです。そうしてますます忙しくなりましたが、ご自身の教会でも複数の信徒の方々が家を失い、それは教会の財勢が危うくなることを意味していました。自分が牧会している教会の将来も見えない中、関西の被災した教会の重荷も負わなければならなくなり、先生は次第に燃え尽きたようになってしまって行ったということです。
 そんなある時、震災の被害調査のために、まだ電車が復旧していない地区の教会に三時間掛けて歩いて行ったところ留守だったそうで、本当に疲れ果てて立ち上がれなくなってしまったそうです。そして、「もうだめだ」と思ったそうです。これからまた三時間歩いて帰らなければならないと思ったら、泣きたくなったそうです。そんな時に、その教会の看板にマタイ11:28のみことばの「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と記されているのを見て、先生はこのみことばが「私に語られている」と初めて思ったそうです。その時まで先生は、このみことばは人生において失敗した人や心の弱い人に語られていると思っていたそうです。自分はこういうみことばが当てはまらない生き方をする人間であると、何となく思っていたそうです。しかし、この時、先生は「神様、私は疲れました」と言ったそうです。そうして、この時から自分が癒されていくのがわかったということでした。
 このマタイ11:28のみことばを改めて、ご一緒に読みたいと思います。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 小平先生の証しを聖会で聞いて、私は今年の元旦礼拝での自分自身の経験を思い出して、「ああ、同じだ」と思い、とても共感しました。今年の1月1日、私たちの教会では元旦礼拝を行いませんでした。それで、私は出身教会の高津教会の元旦礼拝に出席しました。そして礼拝中に、このマタイ11:28のみことばが私の中で聞こえてきて、大変に癒されました。マタイ11:28は私がここに通っていた頃に用いられていた高津教会のトラクトの表紙に印刷されていましたから、よく目にしていたみことばでした。しかし、私は今年の元旦礼拝の時まで、このみことばが自分に語られていると思ったことは一度もありませんでした。しかし、この元旦礼拝で初めて私はこのみことばによって自分が癒されるのを感じました。ですから、小平先生のお証しにとても共感を覚えました。

わたしがあなたがたを休ませてあげます
 去年の三月まで、私たちは隣の土地に新しい会堂を建てることを祈り願って懸命に動いて来ました。教団からストップが掛かって以降も、何とか可能な範囲で新しい会堂を建てられないか話し合いを続けました。新会堂がダメなら、せめて今の会堂のリフォームをして、とにかく教会を存続させたいと思いました。しかし、それをも教団は望んでいないことが分かりましたから、最早これまでと思って幹事の皆さんと相談して教団の意向を受け入れることを決めて、教会の皆さんにお伝えしました。けれども内心では、なかなか気持ちを整理することができないでいました。
 今は毎月一回はシオン教会で合同礼拝をしていますから、その時には説教の準備をする必要がなくて私は月に一回は力を抜かしてもらっています。しかし、それまではずっと、毎週礼拝で説教をしていましたから、力を抜くことができませんでした。聖餐式礼拝で外から先生をお招きする時だけは説教準備をしなくて良いですから少しは力を抜くことができましたが、外の先生をお招きするのは、それはそれで気を遣いますから、やはりそんなに力は抜けません。そういう中で、私は牧師になって初めて、今年の元旦礼拝では純粋に信徒の立場で礼拝に出席することができました。そうして昔に戻って高津教会の皆さんと一緒に賛美歌を歌い、メッセージに耳を傾け、そうして聖餐の恵みに与りました。その時にこのマタイ11:28のイエスさまのことばが、ふと聞こえて来て、イエスさまが私を休ませてくれたことを感じました。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 疲れてもなお自分で頑張ろうとしている間は、せっかくイエスさまが「わたしがあなたを休ませてあげます」と言って下さっているのに、それをなかなか素直に受けることができません。自分で自分を守ろうとして神様の御守りに身と心を委ねることができません。私たちの周囲には疲れている人、重荷を負っている人がたくさんいます。しかし、特に日本人の場合には休むことに罪悪感を感じて休むことが下手な人も多いことを覚えます。
 そんな中、《幸いにも》と言うべきでしょう、沼津教会の私たちは力を抜いて休むことができることになりました。
 そうして「わたしがあなたを休ませてあげよう」というイエスさまのことばに素直に従うことで、私たちはイエスさまをより一層近くに感じることができるようになったと思います。つらい決断をしなければなりませんでしたが、実はこれは恵みであったと考えたいと思います。

おわりに
 「わたしがあなたを休ませてあげます」というイエスさまに従うことでいただけた恵みを噛み締めながら、私たちはこれからもイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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罪を墓に葬り去る(2018.10.10 祈り会)

2018-10-11 14:10:48 | 祈り会メッセージ
2018年10月10日祈り会メッセージ
『罪を墓に葬り去る』
【申命記21:22~23】

21:22 ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、
21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。

はじめに
 前回は申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべての生きる」に注目しました。きょうは21章ですから、だいぶ飛ぶことになります。それは、この聖句がたまたま目に留まったからです。ですから、もしかしたらまた戻ることもあるかもしれません。いずれにしても、きょうは21章の22節と23節に目を留めます。

木にかけられた者は神に呪われた者
 特に23節の、「死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」に注目したいと思います。
 この掟は、ヨシュアの時代にしっかりと守られていたことがヨシュア記を読むとわかります。下の脚注の引照にも出ていますが、ヨシュア記8章29節には、次のように記されています(旧約聖書p.394)

ヨシュア8:29 ヨシュアはアイの王を夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ人々に命じた。それで彼らはその死体を木から降ろし、町の門の入り口に投げ捨て、その上に大きな石塚を積み上げた。今日もそうである。

 また、ヨシュア10章26節と27節には次のように記されています。

10:26 その後、ヨシュアは王たちを討って殺し、五本の木にかけ、夕方まで木にかけておいた。
10:27 日の入るころになって、ヨシュアは命じて彼らを木から降ろし、彼らが隠れていた洞穴の中に投げ込んだ。その洞穴の口には大きな石が置かれ、今日に至っている。

 イスラエルの民にとって、木にかけられた者は神にのろわれた者でした。ですから、イエスさまが木の十字架にかけられて死んだ後で、使徒たちがイエスこそがイスラエルが待ち望んでいた救い主キリストであると説いてもユダヤ人たちは信じようとしませんでした。パウロが同胞のユダヤ人たちがイエスさまを信じようとしないことを嘆いていることは、ご承知の通りです。

その日のうちに墓に葬られたイエス
 そして、この申命記21章23節の掟は、イエスさまが十字架にかけられた後に、その日のうちに十字架から降ろされたことの根拠にもなりました。ヨハネの福音書の19章31節を、ご一緒に読みましょう。

19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。

 翌日の安息日は、過越の祭りの中での安息日で、一年の中でも最も大切な日でした。そんなに大事な日に罪人の死体を残して、相続地として与えられた土地を汚すわけにはいきませんでした。しかし、この十字架刑はユダヤを統治していたローマによる刑でしたから、ユダヤ人たちの判断で死体を降ろすことはできませんでした。ですからローマの総督のピラトに願い出ました。ピラトがそれを許したということは、ユダヤ人たちがよっぽど必死で頼んだからでしょうか。或いはユダヤ人たちが暴動を起こすことをピラトが恐れたからでしょうか。いずれにしてもピラトはイエスさまの遺体を十字架から降ろすことを許して、イエスさまはアリマタヤのヨセフたちによって墓に埋葬されました。
 今回私は、この申命記21章23節の掟とイエスさまの十字架との関係を思い巡らしていて、もしこの申命記の掟が無ければ十字架のイエスさまはどうなっていただろうかということに思いを馳せました。
 この申命記の掟が無ければ、イエスさまは死んだ後でも十字架にそのまま付けられていたでしょう。すると、たとえ復活しても、誰も復活とは考えないで、実はイエスは死んでいなかったということになるでしょう。死んだように見えたけれども、実は生きていたんだということになるでしょう。
 しかし、イエスさまは十字架から降ろされて墓に埋葬されました。すでにローマ兵たちによってイエスさまが死んだことが確認されていましたが、アリマタヤのヨセフやニコデモたちがイエスさまの遺体に亜麻布を巻きましたから、そのことによっても確かにイエスさまは死んだことをしっかりと確認することができました。もし死んだことがはっきりと確認できていなかったら、復活しても実は死んでいなかったということになってしまいますから、復活の希望も語れません。ですから、この申命記21章23節の掟は、イエスさまの十字架と復活のために備えられていたと思えるほどです。或いは単にそう思えるというのでなく、実際に神様のご計画の中で、イエスさまの十字架と復活のために備えられていた掟なのかもしれません。

聖会の恵みの分かち合い
 さて今日は最後に、この十字架のイエスさまのことと、今週の静岡聖会でいただいた恵みとを絡めて、分かち合うことにしたいと思います。聖会の講師の先生は基督兄弟団の西宮教会の牧師で、教団の理事長も務めておられる小平牧生先生でした。私は今回初めて小平先生の説教をお聞きしました。聖書はペテロの手紙第一が開かれて、三回の説教とも前半はまずみことばの解説が為されて、後半は聖会Ⅰと聖会Ⅱでは小平先生のご自身の体験のお証しが、宣教会では例話が語られました。
 聖会Ⅰと聖会Ⅱでの小平先生のお証しを聞き、そして、こちらに戻った後できょうの聖書箇所の思い巡らしをする中で、小平先生は過去の罪深い自分をしっかりと十字架に付け、その罪の息の根を止め、そして十字架から降ろして墓にしっかりと葬り去ったのだなと感じました。
 それに対して私のほうは、なかなか自分の罪を墓に葬り去ることができていないなと感じています。私の中には昔からプライドの罪が根強くあります。このプライドが葬り去るべき罪であることを知ったのはクリスチャンになってからですが、自分の中にはあまり好ましくないプライドがあることは教会に通う前の昔から知っていました。このプライドの罪を私は聖宣神学院に入学して、神学生として過ごすうちに葬り去ることができたと感じました。私は職場を辞め、自宅も売却し、持っていた家財の大半を処分して、ごく少ない持ち物だけ持って聖宣神学院の寮に入りました。このことだけでも、だいぶプライドが削ぎ落とされたと思いますが、寮に入ってからの学びと奉仕、また実習先の教会での経験を通して、自分の中に根強くあったプライドを葬り去ることができたと感じていました。しかし、神学院を卒業して姫路教会の主任牧師の任命を受けてからは、一旦は葬り去ったはずのプライドが再びよみがえって来ました。神学生の時には、基本的には上の先生の言うことを聞いて行動するのが良しとされていました。ですから先生の指示に従順に従うことで謙虚さも培われて、プライドもどんどん削ぎ落とされて行きました。しかし、自分が主任牧師になり、教会の運営を任されるようになると、上の先生の言うことを聞くのではなくて、自分で考えて行動しなければなりません。もちろん、お祈りしながら神様の導くを仰ぎながらの行動ではありますが、何かを決めなければならない局面が随所で出て来ます。特にインマヌエルの場合は監督制ですから、教会の責任は自分が負います。そういう中で、またしても私の中ではプライドがよみがえって来ました。それは今日のメッセージを例えに使うなら、十字架に付けたプライドが一旦は死んだように見えても実は死んでいなかったということです。そして、このプライドは十字架から降ろされることなく、いつまでも十字架に付けられたままで生き続けています。いつまでたってもしっかりと墓に葬り去ることができないのです。

自分の罪を墓に葬り去る
 それに対して、聖会の講師を務められた小平先生はご自身の罪をしっかりと墓に葬り去ることができたのだなと感じました。一日目の聖会Ⅰで小平先生は、牧師の息子としてのご自身の経験の証しをされました。この先生の証しは次の聖日でも分かち合いたいと願っていますが、きょうも短く分かち合いたいと思います。
 小平先生は基督兄弟団の西宮教会の牧師を務めておられますが、この教会は先生のご両親が開拓された教会だそうです。ですから子供の頃から、この教会で過ごしておられました。大学時代と神学生時代には、西宮を離れましたが、1986年に牧師の任命を受けてからは、再びこの西宮教会に戻って来たそうです。そうして牧会を始めてからの10年間は、とにかくご両親が建て上げた教会が縮小してしまうようなことだけはあってはならないと、懸命に働いて来たそうです。しかし、10年後に阪神淡路大震災によって様々なことが崩れ去って先が見えなくなり、燃え尽きたようになってしまったということです。
 そして、その時に訪ねた先の教会の看板にマタイ11:28のみことばの「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と記されているのを見て、先生はこのみことばが「私に語られている」と初めて思ったそうです。先生は、このみことばは人生において失敗した人や心の弱い人に語られていると思っていたそうです。自分はこういうみことばが当てはまらない生き方をする人間であると、何となく思っていたそうです。しかし、この時、先生は「神様、私は疲れました」と言ったそうです。そうして、この時から自分が癒されていくのがわかったということでした。
 先生は、かつてのご自分が、人生に疲れた人の気持ちをまったく理解できないままにイエス・キリストを宣べ伝えていたことを素直に告白されました。このお証しを聞き、先生はご自身の罪をしっかりと十字架に付けて、葬り去ったのだなと思いました。そして、私もそうありたいと思いました。なかなか難しいことですが、主に祈り、お委ねして、そういう者になりたいと思わされました。

おわりに
 イエスさまは私たちの罪を負い、十字架に掛かり、完全に死んで私たちの罪を墓に葬り去って下さいました。このことを覚え、きよめの道を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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わたしが飲む杯を飲むことができますか(2018.10.7 礼拝)

2018-10-10 07:37:43 | 礼拝メッセージ
2018年10月7日聖餐式礼拝メッセージ
『わたしが飲む杯を飲むことができますか』
【マタイ20:17~23】

はじめに
 聖餐式礼拝のきょう、私たちはイエスさまと共にパンとぶどう液の食事をします。その前に、きょうはマタイの福音書20章の22節に目を留めて、思いを巡らしたいと願っています。22節、

20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。

 イエスさまは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と彼らに聞きました。彼らは「できます」と答えました。イエスさまが飲もうとしている「杯」とは何でしょうか。このことに共に思いを巡らしたいと思います。

受難と復活の予告
 その前に、この22節に至る前の状況を見ておきたいと思います。17節から見ます。

20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。

 イエスさまの一行はエルサレムに向かっていました。その途中、十二弟子だけを呼んで話をされたというところに、次に話すことの重大性が匂わせられます。18節と19節、

20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 イエスさまの受難とよみがえりの予告は、既に三度目でした。一度目は16章21節です(週報p.3)。

16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

 二度目の予告は17章の22節と23節にあります(週報p.3)。

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。

 そうして、この20章で受難とよみがえりの三度目の予告がありました。いくらか期間は空いていたと思いますが、それでも三度も同じことを繰り返すということは、よほど重大なことであるということです。

イエスが飲もうとしている杯
 しかし、弟子たちはこの予告の重大性が分かっていませんでした。20節と21節、

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」

 ゼベダイの息子たちとはヤコブとヨハネの兄弟のことです。ヤコブとヨハネの母親が、イエスさまに頼みごとをしました。これからエルサレムでどういうことが起こるか、彼らは何も分かっていませんでした。22節、

20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。

 イエスさまが飲もうとしている杯とは、イエスさまが最後の晩餐の後でゲッセマネの園で「どうか、この杯をわたしから取り去って下さい」と天の父に頼んだ杯のことです。この杯を飲むことが、どれほど苦悩に満ちているものであるか、イエスさまは汗が血のしずくのように地にしたたり落ちるほどでした。そのことをヤコブもヨハネも分かっていませんでした。
 しかし、後に彼らは理解するようになりました。使徒たちの時代になり、ペンテコステの日に聖霊を受けた彼らはイエスさまの教えを宣べ伝えるようになりました。そして、このことで激しい迫害を受けて使徒の働きにはヨハネは投獄され、ヤコブは殉教したことが記されていますから、彼らはまさにイエスさまの杯を飲むことになりました。イエスさまが「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」とおっしゃったのも、そういう意味なのでしょう。

この杯が飲めますか?
 さて、では私たちは、イエスさまの杯を飲むことができるでしょうか?
 きょうの聖餐式礼拝のメッセージのタイトルを、『わたしが飲む杯を飲むことができますか』にしたのは、実はつい最近、ヘンリ・ナウエンの著書の『この杯が飲めますか?』(広戸直江訳、聖公会出版 2001)を読み返したからです。このナウエンの本をこれまで私は何回か読んだことがありました。この本を読み返したのは、ちょうど一週間前に私の出身教会の高津教会で葬儀があり、その葬儀の写真がfbに上がっていて、その写真を見て、このナウエンの本のことを思い出したからです。葬儀は私と同年代の兄弟の「お別れの会」でした。8月のお盆休みの頃に奥秩父の山の沢登りに出掛けて、そのまま帰ることなく天に召されました。同年代ですから同じ組会に所属していて、私がこの組会の交わりに初めて入れていただいた時に、組会の学びで読まれていたのが、このナウエンの『この杯が飲めますか?』でした。
 当時、組会の交わりに入れていただいたばかりの頃は、この本の内容をぜんぜん理解していませんでした。その後、何回か読み返すことで理解できるようになったと思います。そして、一週間前に、また改めて読み返してみました。
 この本でナウエンは、イエスさまの杯のことを受難の時の杯だけでなく、もっと広い範囲に広げています。「悲しみの杯」だけでなく、「喜びの杯」、「恵みの杯」、「救いの杯」についてもナウエンは書いています。つまりナウエンが考える「イエスさまの杯を飲む」とは、イエスさまのすべてを共有するということです。
 今回、このナウエンの本を読んでいて、特に目に留まった箇所がありましたから、以下に少し長めですが引用することにします。この本を書いた時のナウエンはカナダにあるラルシュ・デイブレイクという知的ハンディのある障害者の施設に滞在していて、彼らと生活を共にしていました。知的ハンディのある人々の中には体はまったく健常で元気な人もいましたが、中には体をほとんど動かすことができないほどの重度の身体障害を持つ人もいました。ナウエンはその重度の身体障害を伴うアダムという青年と生活を共にしていました(この青年のことを書いた『アダム』という著作もナウエンにはあります)。『この杯が飲めますか?』の中の「悲しみの杯」という章でナウエンは、これらの重度の障害も持つ人々のことに触れた後に、次のように書いています。
(ここから引用)
 カナダの小さな共同体で私たちが体験する悲しみは、都会の人々の悲しみや、国中の悲しみ、ひいては世界中にある全ての悲しみに比べてどうだと言うのでしょう?トロントの街角で、通りがかりの人にお金を求めるホームレス、エイズで死んでゆく若者、刑務所や精神病院や介護施設で暮らす何千何万もの人々の悲しみは、想像を絶します。崩壊した家庭、失業者、そしてデイブレイクのような安全な場所が与えられない無数の障害者の悲しみを、どう考えればよいのでしょう?
 そして、私の住んでいる都会や国の外に目を向けると、そこにはもっと恐ろしい現象があるのです。サンパウロの町を狼の群れのようにうろつきまわる孤児たち、バンコクでは若い男女が売春のために売られていき、ユーゴスラビアのキャンプでは、捕虜が見る影もなくやせ細り、エチオピアやソマリアの人々は裸のまま砂漠を当てもなくさまよっています。世界中には、飢えている孤独な人々、部族紛争や残酷な戦争で放棄された死体の山が・・・・・・。そうです。数限りのない悲しみの姿が、そこにはあるのです。これは一体誰の杯なのでしょう?私たちの人類の苦しみの杯なのです。一人ひとりにとっての悲しみは、その人にとっての悲しみであると同時に、皆のものなのです。
 今、十字架にかけられ、悲しみに打ちひしがれている一人の人に目を向けましょう。その人はポンテオ・ピラトから宣告を受け、ローマ兵の手によって十字架につけられ、ユダヤ人からも異邦人からも罵りを受けたイエスなのです。また同時に、彼の姿は時間と空間を超えて、さらし者として十字架にかけられ、苦悩している全ての人々、私たちの姿でもあるのです。
(引用ここまで)
 ナウエンはここで、十字架にかけられた悲しみの人のイエスさまは「苦悩している全ての人々、私たちの姿でもあるのです」と書いています。私たちの十字架理解は、「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かった」というものです。私たちの罪がイエスさまを十字架に付けた、もっと言えば私たちがイエスさまを十字架に付けた、というものです。或いは、自分もイエスさまと共に十字架に掛かっていると考える場合も、それは自分の罪のためである、と考えるでしょう。いずれにしてもイエスさまの十字架は私自身の罪と関係していると考えます。ナウエンももちろん、そう考えているでしょう。
 しかしナウエンは十字架を他の見方でも見ていました。弱い私が苦悩の中にいる時、私は十字架に付けられているという見方です。すると、苦悩する弱い私が十字架にあるのは私の罪のゆえではなく、私を苦しめる社会の罪のゆえであるということになります。これは私にとって目からウロコが落ちる考え方でした。なぜなら、こう考えることで私たちはより一層イエスさまとの一体感を感じることができるからです。イエスさまは正に、イエスさまを苦しめた者たちの罪によって十字架に付けられました。ですから私が苦しむ時、私は十字架のイエスさまと一つになっています。

イエスのすべてと一体になる
 ナウエンにとってイエスさまの杯を飲むとは、イエスさまのすべてと一体になるということです。悲しみのイエスさまとも、喜びのイエスさまとも、イエスさまのすべてと一体になるということです。私もまた、そのように地上のイエスさまのすべてと一体になりたいと思います。そして皆さんにも、そのようにお勧めしたいと思います。
 そして私はさらに、天上のイエスさまとも一体になりたいと思います。天に昇ったイエスさまは天上で御父と共にいて、聖霊を地上の私たちに遣わしています。天上のイエスさまは地上のすべての人々の内に聖霊を送りたいと願っておられます。この天上のイエスさまの「願い」とも一体になりたいと思います。
 私たちは地上のイエスさまと天上のイエスさまの喜びと悲しみのすべてを共有したいと思います。そうしてイエスさまと共に日々を歩む私たちでありたいと思います。
 お祈りいたします。
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人はパンのみで生きるのではなく、(2018.10.3 祈り会)

2018-10-04 11:42:23 | 祈り会メッセージ
2018年10月3日祈り会メッセージ
『人はパンのみで生きるのではなく、』
【申命記8:1~6】

8:1 私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、【主】があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。
8:2 あなたの神、【主】がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
8:4 この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを知らなければならない。
8:6 あなたの神、【主】の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。

はじめに
 きょうは申命記の8章を開くことにしました。最初に注目したいのは3節の、「人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きる」です。
 ご承知の通り、福音書のイエスさまは、悪魔の試みにあった時に、このみことばを引用しています。ルカの福音書のイエスさまは悪魔に対して「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」と申命記のみことばの前半部分を引用して言いました。また、マタイの福音書のイエスさまは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」と、後半部分も引用して言いました。

一般にも使われていることば
 このことばは、クリスチャンだけではなく、一般の人々の間でもしばしば使われることばです。ですから、教会に通うようになる前の私、まだ聖書を知らなかった頃の私も、このことばのことは知っていました。ただし前半部分のみで、「人はパンのみにて生くるにあらず」という文語体で知っていました。しかも、このことばの意味するところをあまりよく理解していなかったように思います。クリスチャン的な意味で理解していなかったのはもちろんですが、一般的な意味でも、よく理解していなかったと思います。
 一般的な意味とは、ことわざ的な意味ということですが、例えば『デジタル大辞泉』には次のようにあります。「人は物質的満足だけを目的として生きるものではない。」
 「人は物質的満足だけを目的として生きるものではない。」確かに、一般には、このような意味で使われていると思います。ただ、後半部分が省略されていますから、後半部分は自分で補って考える必要があります。物質的な満足だけではなく、精神的な豊かさ、心の領域の豊かさも人生においては大切なのだ、というようなことです。しかし、教会に通うようになる前の私は、この一般的な意味すらも、よくわかっていなかったように思います。私は子供の頃から理工系に興味があり、機械、車のエンジンや建設用の重機、或いはまたロボットのような目に見える形の機械に興味を持っていました。それが大学に入ってからは目に見えない領域を扱う物理学にも興味を持つようになり、目に見える自然現象の背後にある目に見えない法則のほうに段々と興味が移って行きました。しかし、目に見えない心の領域のほうには、なかなか想像力が働きませんでした。ですから、「人はパンのみにて生くるにあらず」の一般的な意味での、「人は物質的満足だけを目的として生きるものではない」の後ろに何を補って考えるべきかということにも、なかなか考えが及んでいなかったと思います。

一朝一夕にはできない霊的な糧の理解
 そんな私でしたが、教会に通うようになり、毎週礼拝と祈祷会のメッセージを聞いて次第に心の面が豊かにされて、一般的な意味での「人はパンのみにて生くるにあらず」の後ろの部分に何を補うべきかも理解するようになって行ったと思います。しかし、ここでまた「しかし」が入るのですが、クリスチャン的な意味での後半のことば、すなわちイエスさまがおっしゃった、「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」を理解するまでには、多くの年月を要したと感じています。それは、この「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」を理解するためには、日々をみことばと共に生きる生活を、ある程度の期間続ける必要があるからです。日々をみことばと共に生きていない者には「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」を理解することはできません。それは神のことばは心の糧というだけでなく、心よりももっと深い、魂の領域の霊的な糧だからです。この霊的な糧について理解することは一朝一夕ではできません。
 何でもそうですが、何かを習得するには、とにかく続けることが大切です。スポーツでも、楽器で、語学でも、学問でも、みんなそうだと思います。最初はぎこちなくて上手くいかなくても、続けるうちにいつのまにか、それなりのことができるようになります。私は大学院生の時に電子顕微鏡を操作して金属の内部のきれいな写真を撮る技術を習得しました。私の師匠だった先生は電子顕微鏡の名手として世界的にも知られる先生でした。私は大学4年生の時から先生の後ろに付いて先生が電子顕微鏡を操る様子を見ていました。学部生の4年生の間は電子顕微鏡に触らせてもらえませんでしたから、ひたすら先生の後ろにいて、先生が何の写真を撮っているのかの説明を聞きながらメモを取るだけでした。そうして、大学院生になって初めて電子顕微鏡を触らせてもらえるようになりましたが、思っていたより操作がずっと難しいことが分かって愕然としました。先生は自由自在に操っていましたが、そんな風に自分ができるようになる気がぜんぜんしませんでした。しかし、毎日のように電子顕微鏡の前に座って格闘するうちに、段々と操作できるようになって、2、3年後にはかなりの腕前になりました。
 最近も私が自分でも上手くなったなと感じることがありました。それは屋根の上のペンキ塗りです。ペンキは買った状態のものに少しシンナーを加えて薄めてやると、よく伸びて塗りやすくなります。薄めないと塗りにくいばかりでなく、少しの面積を塗っただけですぐに減ってしまうので、ペンキがたくさん必要になります。ですから薄める必要があります。ただし薄めすぎてもダメです。それで薄め加減がけっこう大事なのですが、最初はそういうことも分からなくて、ただ闇雲にペンキを塗っていました。それがペンキ塗りを続けるうちに良い塩梅が分かって来ました。
 みことばと共に歩むということも、そういう面があると思います。みことばとの良い関係を築くには、みことばと共に歩む生活を長く続ける必要があります。そうすることで霊性が整えられて行きます。

訓練の期間であった荒野の四十年間
 申命記に戻ります。2節をお読みします。
 
8:2 あなたの神、【主】がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

 イスラエルの民も四十年間、荒野で主のことばと共に歩む訓練をさせられていたのですね。四十年間も荒野を放浪することになったのは、十二部族のリーダーたちがカナンの地を偵察して帰って来た時にイスラエルの民がすっかりおじけづいて、「エジプトに帰ろう」と言い出したために、その時の大人がヨシュアとカレブ以外は死に絶えるまでカナンに入れなくなってしまったから、ということもありますが、この申命記8章を読むなら、イスラエルの民にとっての訓練の期間でもあったということが分かります。次に3節、

8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

 主はイスラエルの民にモーセを通じてことばを与えるのと同時に天からマナを降らせて彼らを養って下さいました。そうしてイスラエルの民は、この世のすべてのものは物質的な糧も霊的な糧もすべて主が与えて下さるものだということを、学んで行きました。続いて4節から6節まで、

8:4 この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを知らなければならない。
8:6 あなたの神、【主】の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。

 5節に、「神が・・・訓練される」とありますね。主のみことばと共に歩むことは一朝一夕でできることではなく、訓練が必要であることが、ここからも分かります。

習得の過程を楽しむ
 そういう訓練が必要であることを考えると、福音を宣べ伝える伝道の難しさを余計に感じたりもしてしますが、逆にこのことを売りにすることも考える必要があるだろうということに今回、気付かされたように感じています。
 どういうことかと言うと、毎週日曜日に教会に通うということは日本人の目から見ると、とても奇異なことに見えると思います。日曜日の休みの日に、趣味の時間に充てるのでもなく、休養に充てるのでもなく、何が楽しくて教会に通うんだろうと思っている人はたくさんいると思います。一般の人々の間では、休養に充てるのでなければ、多くの人が日曜日を趣味の時間に充てます。スポーツの練習や試合、楽器の練習や演奏会を重ねることで、それらが段々と上達して行きます。上達すると楽しくなり、ますますのめり込んで行きます。自分でするのでなく鑑賞する側でも、映画や音楽鑑賞を継続的に続けると、見る目や聞く耳が養われて、より深く楽しむことができるようになります。
 神様のみことばと共に歩むということも、同じだということを、もっと日本人に分かっていただく努力が必要かもしれないと思い始めています。教会に通うようになると、霊的な領域のことが少しずつ分かるようになります。それは大きな喜びです。そうして神様のことをもっと知りたくなり、神様との深い交わりの中に入れていただきたいと思うようになります。これらを通して深い平安が得られるなら、もっともっとそれを追求したくなります。そうして、一見すると残酷に見える十字架にも神様の深い愛を感じることができるようになり、復活について、聖霊の働きについても段々と理解できるようになります。これは素晴らしい恵みです。何が楽しくて教会に通っているんだろうと思っている人々に対して、教会にはこんな楽しみがあるんだということを、もっとお伝えできるようになりたいと思います。

おわりに
 どんなことでも、物事に上達するには長い年月が必要です。しかし、たとえ初心者であっても上達して行く過程には楽しみが伴います。神様との関係を深めていくことにおいても、たとえ初心者であっても少しでも神様との関係が深まるなら、喜びを感じることができます。その喜びを多くの方々と分かち合えるようになれたらと思います。
 きょうのみことばに思いを巡らすことで、神様からそのような語り掛けをいただいたことに感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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あなたは勇士のように腰に帯を締めよ(2018.9.30 礼拝)

2018-10-01 11:36:13 | 礼拝メッセージ
2018年9月30日礼拝メッセージ
『あなたは勇士のように腰に帯を締めよ』
【ヨブ38:1~3、40:6~7】

はじめに
 きょうはヨブ記からのメッセージの3回目です。来週は聖餐式がありますから、ヨブ記からは離れます。再来週、ヨブ記にまた戻って来るかどうかはまだ分かりませんが、戻って来ない可能性のほうが高いかなと思っています。
 ヨブ記は長いですから少なくとも4~5回は続けられるかなと思っていました。しかし、ヨブ記の中身の大半はヨブの泣き言ですから、泣き言からのメッセージを延々と続けても恵まれませんね。それで、ヨブ記は今日で一区切りにするかもしれません。きょうの聖書の箇所も、ヨブの泣き言からではなく、最後のほうにある、主からヨブへの励ましのことばの箇所を選びました。

「帯を締めよ」と言って励ます主
 もう一度、ヨブ記38章1節から3節までを読みます。今度は交替で読みましょう。

38:1 【主】は嵐の中からヨブに答えられた。
38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

 3節の、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」は40章の7節でも、もう一度出て来ます。この「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」という主のことばは、精神面でヨブの心を励ましているのはもちろんですが、床に伏しているヨブに対して肉体的にも床から起き上がるように促していると受け取れると思います。つまり、ヨブの病気を癒すという主からのメッセージと受け取りたいと思います。
 この「帯を締める」という表現は、聖書にはいくつもの箇所で見出すことができます。すべてを挙げることはできませんが、二つの箇所を週報のp.3に挙げました。その箇所をご一緒に開いて、前後の箇所も見たいと思います。まずエレミヤ書の1章17節です(旧約聖書p.1284)。ここに、

1:17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。

とあります。この箇所の前の、1章6節でエレミヤは、「ああ、【神】、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません」と言って尻込みしています。そんなエレミヤに主は7節で「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ」と仰せられ、続いて8節で「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」と仰せられました。ですから、17節の「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり」は、まだ若くて経験がないエレミヤを奮い立たせて預言者の働きを始めることを促し、励ますためのことばだということがわかります。

帯を固く締めて気合を入れる
 もう一箇所、今度は新約聖書のエペソ書6章を開きましょう。ここは以前も開いたことがある箇所です(新約聖書)p.392)。14節に、

6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

 とありますね。このエペソ書6章は、以前、礼拝メッセージで使徒の働きの連講をしていた時の最後のほうで開きました。パウロのことばを聞いてイエス・キリストを信じた人々もいましたが、信じない人々もたくさんいました。パウロがエルサレムで逮捕されてからは、ほとんどが信じない人々でした。それゆえ、パウロの戦いは正に悪魔との戦いでした。悪魔が人々の霊的な目と耳とを塞いでいるからです。その悪魔と戦うためには、主の大能の力によって強められ、神のすべての武具を身に着けなければなりません。
 このエペソ6章の10節から18節までを、きょうも共に味わいたいと思います。交代で読みます。

6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

 ここには帯だけでなく胸当てや兜などの武具も出て来ます。それゆえ、これまで私はそちらに目を取られて、この箇所の帯のことを緩く考えていたことに気付かされました。しかし、腰に締めるこの真理の帯は、単に腰に緩く巻き付けるのでなく、ギュッと固く締めて気合を入れるという意味合いもありますね。柔道の選手も帯をギュッと締めます。相撲の力士もまわしをギュッと締めます。重量挙げの選手もベルトをギュッと締めます。戦いの場に出る時は、誰でも腰の帯をギュッと締めます。信仰もまた戦いです。エレミヤもパウロも帯をギュッと締めて戦いの場に出ました。主はヨブに対しても床から起きて信仰の戦いの現場に復帰するように促したのかもしれません。
 さて、帯を締める話と悪魔の話をしたところで、最近の私の近況について少し話すことにしたいと思います。他教会との合併へ向かう中で、私たちの教会では今、近隣の地域の方々への伝道活動はしていません。また、礼拝出席者も少なくなってしまいましたから、私はここ何ヶ月か、精神的に低調な日々が続いていました。しかし最近、新しい書き物を始めたことで、また元気が出て来ました。つまり、腰の帯を再びギュッと締めることができました。この書き物はまだ始めたばかりで、完成までに少なくともあと一ヶ月は掛かると思いますし、完成後に世に出すことができるか、出ずに終わるかはまだ分かりませんが、とにかく今は書くことで気持ちに張りが出て来ました。やはり私は書き物をすることが好きなようです。
 それで、少しだけこの書き物の内容の話をしようと思います。

(中略)

全知全能で唯一の神様だからこその祝福
 ここでヨブ記38章に戻ることにします。38章を見ると、神が天地を創造し、海を造り、光を造り、雪や雹や雨を降らせ、風を吹かせ、雷を落とし、天の星も造り、獣や鳥も造ったことが分かります。正に神様は万物を創造した全知全能のお方です。全知全能の方だから、人を励まし、良い方向へと導いて行って下さるのですね。ヨブ記の結末をご一緒に読みたいと思います。42章の12節から17節までを交代で読みましょう。

42:12 【主】はヨブの後の半生を前の半生に増して祝福された。それで彼は羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
42:13 また、息子七人、娘三人を持った。
42:14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハ・プクと名づけた。
42:15 ヨブの娘たちほど美しい女は、この地のどこにも見つからなかった。彼女たちの父は彼女たちに、その兄弟たちの間で相続地を分け与えた。
42:16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
42:17 こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。

 ヨブの後半生を、神様は以前に増して祝福して下さいました。もし、神様が分業制だったら、ヨブはこんなにも祝福されることはなかったでしょう。ヨブの家畜は大いに増えました。もし神様が分業制だったら家畜の守り神を信じなければなりません。ヨブはまた息子七人と娘三人にも恵まれました。分業制の神なら安産の神と家内安全の神を信じなければなりません。ヨブはこの後百四十年生きましたから、長寿の神への信仰も持たなければなりません。子孫の四代目まで見たということですから、自分の子供たちに良縁があるように縁結びの神への信仰も持たなければなりません。こんなに色々な神々に祈り願い、すべての神から素晴らしい祝福を受けるなど有り得ないことです。神様が全知全能で唯一の方だからこそ、ヨブの後半生はこんなにも祝福されました。

おわりに
 この全知全能で唯一の神様が「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」と励まして下さることは素晴らしい恵みです。明日の10月から、いよいよ私たちの教会は合併の手続きに入ります。これまで合同礼拝を重ねて来て、話し合いの場も持って来ましたが、書類上の手続きには入っていませんでした。その書類の手続きにもいよいよ取り掛かることになります。
 このことに関しても、主は私たちに「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」と言って下さっていると感じます。今の古い会堂を新しくする願いが適わず、この教会を存続することができないことになった時にはヨブのような泣き言を言いたくなり、気力も萎えて元気がなくなった時期もありました。しかし、そういう期間は過ぎました。今は腰の帯をギュッと固く締めて再び立ち上がるべき時です。
 主は素晴らしいタイミングで、このみことばを与えて下さったと感謝したいと思います。主は私たちを力強く励まし、私たちを導いて行って下さいますから、その導きに従って行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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