インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

祝福を求める格闘(2014.6.29)

2014-06-30 09:37:08 | 礼拝メッセージ
2014年6月29日礼拝メッセージ
『祝福を求める格闘』
【創世記32:22~32】

はじめに
 先週はアブラハムの信仰について学びました。アブラハムは旅人であり、旅の生涯を送りました。アブラハムは父テラと共にウルの地を出て、そしてハランの地にしばらく留まっていました。そのハランの地において主の声を聞いてハランを出発して、カナンの地に入りました。アブラハムはカナンにおいても天幕暮らしをしながら旅を続け、行く先々で祭壇を築いて、主に捧げ物をして祈りました。
 私たちもまた、この世においては旅人です。私たちの目的地は天の御国であり、私たちが真に安らぐことができるのは天の御国においてのみです。私たちは、今、天の御国に入るまでの旅の途中にあります。ですから、旅人の先輩であったアブラハムに習うなら、一つの祭壇に留まっている必要はなく、時が来たならアブラハムのように移動して次の祭壇を築けば良いのです。今が正にその時であり、次の祭壇、すなわち新しい会堂を築くための第一歩を踏み出すべき時であることを、先週はお話ししました。
 きょうはヤコブの箇所から、やはり新会堂に向けて私たちの心を整える時を持ちたいと思います。今日のヤコブの箇所は、以前もヨハネの福音書との絡みで取り上げたことがあると思いますが、きょうはヨハネの福音書とは絡ませずに、創世記だけを見ることにします。

エサウになりすましたヤコブ
 きょうの前半は先ず、きょうの箇所の創世記32章に至るまでのヤコブの歩みを簡単におさらいしておきたいと思います。
 ヤコブはアブラハムの息子のイサクの子であり、アブラハムの孫に当たります。イサクの妻のリベカはエサウとヤコブの双子の兄弟を生みました。エサウが先に生まれたのでエサウが兄で、ヤコブは弟でした。このエサウとヤコブの兄弟は仲が良くありませんでした。
 創世記25章21節を見て下さい。21節の最後に、イサクの妻リベカがみごもったことが書いてあります。そして22節、

25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。

 なんと、エサウとヤコブは母のお腹の中にいる時から、争っていたのですね。どちらが先に生まれて兄になるかで、争っていたのでしょうね。結局、エサウが先に生まれたのですが、26節に、

25:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。

 とありますから、ヤコブはエサウの踵をつかんで、何とかしてエサウを先に出すまいと頑張っていたのでしょうね。そんなヤコブでしたから、生まれた後でも、兄から長子の権利を奪う機会を虎視眈々と狙っていました。そして、29節から34節までに、ヤコブがエサウから長子の権利を得たいきさつが書いてあります。ヤコブはエサウの腹が減っている時を上手く利用して、長子の権利を食べ物と引き換えに手に入れることに成功しました。
 そしてヤコブは父イサクからの祝福も、父を欺いて手に入れました。ここも、聖書で確認しておきましょう。創世記27章を見て下さい。1節に、「イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき」とあります。この時、ヤコブは父イサクの目が見えなくなっていたのを利用して、兄のエサウになりすまして、父の祝福をエサウから横取りしてしまいました。これはヤコブを愛していた母のリベカがヤコブに指示してやらせたことですが、ヤコブは見事にエサウを演じきったのですから、ヤコブ自身も納得して行ったことです。18節と19節をお読みします。

27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねた。
27:19 ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために」と答えた。

 19節でヤコブは、「私は長男のエサウです」と自分の口でハッキリと言いました。ヤコブが自分で「私は長男のエサウです」と言ったことは、とても重要ですから、覚えておいて下さい。こうしてヤコブは父イサクから祝福を受けました。ヤコブは母のお腹の中にいた時からのエサウとの争いに逆転勝ちしたのでした。しかし、このことで兄のエサウはヤコブを激しく恨むことになりました。少し飛んで、41節をご覧下さい。41節、

27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

 このエサウの言ったことが母のリベカに伝えられると、リベカはヤコブに、逃げるように言いました。43節と44節、

27:43 だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。
27:44 兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。

 こうしてヤコブは、リベカの兄、つまり伯父のラバンの所に身を寄せました。そしてヤコブは、ラバンの二人の娘を妻にして、子供が出来ました。また、ヤコブは知恵を働かせて家畜を増やすことが出来ました。

ヤコブのピンチ
 そして20年が過ぎた時、主はヤコブに仰せられました。31章の3節です。

31:3 【主】はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」

 この20年間、伯父のラバンとヤコブとの間にはいろいろなことがありました。それらのことは29章と30章に記されています。そして、31章でヤコブが故郷に帰ることになった時、ラバンとの間にまた一悶着ありましたが和解して、故郷に向かうことができるようになりました。そうして、きょうの聖書箇所の創世記32章に入って行きます。
 ヤコブが父を欺いて兄のエサウから祝福を横取りしてから、20年が経っていました。そして、20年ぶりで故郷へ向かっていたヤコブでしたが、兄のエサウがヤコブを赦してくれるか、ヤコブは不安で仕方がありませんでした。この時、エサウはエドムにいたので、ヤコブは前もって使者を送り、自分が故郷に戻ることを伝えました。そして、その使者がヤコブのところに戻って来て、次のように言いました。32章の6節です。

32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

 これを聞いて、ヤコブは非常に恐れ、心配しました。エサウがいたエドムは、ヤコブが目指している故郷のカナンとは離れた所にありますから、ヤコブにとっては、エサウは来てくれないのが一番ありがたいのですね。ヤコブは兄に黙ってカナンに戻ることも出来たと思います。しかし、いずれは分かってしまうことです。兄に黙ってこっそり故郷に戻っていたことが後で知れるのも、まずいことです。ですから、ヤコブは兄に予め知らせておいたのでしょう。そうして、ヤコブとしては、兄に会わずにカナンに戻れれば、一番よかったわけです。しかし、兄のエサウはヤコブを迎えに出てくるとのことでした。しかも、少人数ではなくて、四百人を引き連れて出迎えるということでした。
 もしエサウとの間で再び争いになって闘いになってしまった場合、相手が四百人では、とても勝ち目はありません。ヤコブにとって、人生最大のピンチでした。20年前にヤコブがカナンから逃げた時には、ヤコブは一人で逃げました。一人でしたから心細くはありましたが、身軽でしたから、どこにでも逃げることができました。しかし、20年後の今は、ヤコブは二人の妻と子供たち、家財や奴隷、そして多くの家畜を伴って故郷に戻って来る途中にありました。ですから兄のエサウが攻めて来ても、簡単には逃げられません。最悪の場合、家族を殺され、財産を奪われてしまうかもしれません。ヤコブにとっては絶体絶命のピンチでした。
 そこでヤコブは、彼が得意とするところの頭を使った策略をめぐらしました。まず多くの贈り物を何回かに分けて兄に贈り、兄をなだめる作戦を考えました。そうしてヤコブ自身は一番最後に付いて行く作戦です。32章の13節からをお読みします。

32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。
32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳(ちち)らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」

 1回贈り物を贈ったぐらいでは兄をなだめることはできないかもしれませんが、何度も贈り物を繰り返すことで、兄をなだめることができるかもしれないとヤコブは考えたのですね。そうして群れと群れとの間に距離を置いておけば、万一相手が攻めて来ても、逃げる時間を稼げるかもしれません。ヤコブは、このように生まれつき非常に知恵の働く者でした。
 こうして、明日はいよいよ兄のエサウと再会するという前の晩にヤコブは贈り物を先に行かせました。21節、

32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。

 さらに22節と23節、

32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

 これで兄のエサウを贈り物でなだめる作戦の準備は整いました。

祝福を求めて格闘したヤコブ
 しかし、それでもヤコブは不安で不安で仕方がなかったのですね。24節、

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 ヤコブは祝福を求めて神と格闘しました。26節でヤコブは言いました。

「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 祝福してくれなければ去らせないとは、ヤコブらしい貪欲さだと思いますが、これはスゴイことだと思います。このヤコブの格闘は霊的な格闘であると言われます。つまり祈りです。祈りでヤコブは神と格闘していました。私たちもよく祈りますが、私たちが祈る時、自分の前に神がいるでしょうか。自分では神に祈っているつもりでも、もしかしたら自分の前に神はおらず、空しく祈りのことばを発しているだけのこともあるかもしれません。もし形式的なだけの祈りになっているのであれば、自分の前に神はいないでしょう。真剣な祈りであればあるほど、神は私たちの前にハッキリと現れて下さることと思います。しかし、それにしてもヤコブのように取っ組み合いの格闘をするほどにハッキリと神様が私たちの前にいて下さるでしょうか。
 先週は、祭壇を築きながら旅を続けたアブラハムの信仰を学びましたが、今週は、ぜひ祝福を求めて神と格闘した、このヤコブの信仰に学びたいと思います。
 私たちの多くは、スポーツでも芸術でも学問でも何事においても、まずはその事と真剣に向き合って格闘しなければ初心者レベルを脱して上のレベルには行けないことを知っています。初心者レベルというのは、たとえば自転車で言えば補助輪を付けた自転車のようなものですね。きのう私は補助輪付きの自転車に乗った子供を見かけましたから、今でもそうなのでしょう。私が子供の頃も皆、先ずは補助輪付きの自転車に乗り、それから補助輪をはずしてもらいました。しかし、補助輪無しだとすぐに転んでしまいます。それで、補助輪無しでも転ばずに走れるようになるまで泣きながら練習をしました。つまり、泣きながら自転車と格闘しました。自転車の初心者は、初めのうちはどうしても体に力が入ってしまって、上手くバランスが取れません。しかし、格闘しているうちに段々とコツをつかみ、力が抜けてきて、転ぶ前にバランスを取ることができるようになるのですね。あらゆるスポーツや楽器も同じでしょう。楽器もスポーツも、体に力が入っている間はなかなか上達しませんが、力の抜き加減がわかって来ると軟らかい動きができるようになって、一段上のレベルに行くことができます。そのように一段上のレベルに行くためには、先ずは格闘があります。

格闘を経て自力から他力へ
 先日、NHKのテレビを観ていたら、「クローズアップ現代」だったでしょうか、四国の八十八箇所を巡るお遍路さんのことが取り上げられていました。いろいろと問題・課題を抱えて悩み苦しんでいる人々が、お遍路で四国の山道を歩いているうちに不思議と悩み苦しみから解き放たれて行く、その不思議を科学的に解明しようという取り組みが始まっているのだそうです。番組に出演していた研究者によると、お遍路さんは険しい山道を歩きますから、最初の何日間かは単純に肉体的にきつくて、自分の肉体との闘いになるのだそうです。しかし、体ができてきて、その苦しい期間を乗り越えると気持ちに余裕が生まれ、お接待さん(お茶や食べ物をご馳走してくれる地元の人々)の親切が身に浸みて心を開くようになり、また、他のお遍路さんとも自然と打ち解けて話ができるようになり、精神的な悩みからも解放されて行く、というような解説がされていました。ですから、お遍路さんにおいても、先ずは険しい山道との格闘があるんですね。格闘しているうちに、力が抜ける時が訪れます。
 以上は肉体や精神の格闘の話でしたが、霊的な格闘も同じであると言えるのでしょう。霊的な祈りであっても、まずは格闘があり、そして力が抜ける時が訪れます。ヤコブの場合も、その通りでした。創世記32章に戻ります。27節、

32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

 ヤコブは神に名前を聞かれて「ヤコブです」と答えました。この時のヤコブは力が完全に抜けて素直になることができたのですね。かつてのヤコブは力が入っていました。母のお腹の中にいる時には兄の踵をつかんで兄が先に生まれるのを何とか阻止しようとしました。それに失敗すると、今度は頭の知恵の力を使って食べ物と引き換えに兄から長子の権利を取ってしまいました。そして、父イサクを欺き、兄のエサウになりすまし、「私は長男のエサウです」と言って祝福を横取りしました。そして、20年ぶりの兄との再会を前には、頭を猛烈に使って作戦を練り、贈り物を何回にも分けて贈ることにしました。このようにしてヤコブはこれまで、自分の知恵と力で世渡りをして来ました。しかし、人生最大のピンチを前にしてヤコブは神と格闘して、遂に力を手放す時が来たのでした。ヤコブは神の前で力むことを止め、素直に「ヤコブです」と、ありのままの自分をさらけ出しました。そして28節、

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

 こうしてヤコブは、神から祝福を受けることができました。そしていよいよ兄のエサウとの再会の時が来ました。33章も見ましょう。1節、

33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。

 この時、ヤコブは先頭に立ってエサウの方に進んで行きました。3節です。

33:3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。

 前の晩に考えた作戦では、ヤコブは一番最後に行くことにしていました。しかし、神との格闘を経て力が抜け、祝福の確信を得たヤコブは、もはや自分の作戦に頼ることをやめて、すべてを神に委ねて先頭を進んで行きました。この時、もしヤコブに力が入っていたならエサウも身構えたことでしょう。しかしヤコブは力が抜けていましたから兄に対して自然とへりくだり、地に伏しておじぎをすることができました。それゆえ兄のエサウもまた心を開くことができました。4節、

33:4 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。

 もし、ヤコブが自分の力に頼っていたら、このような良い結果にはならなかったでしょうね。しかし、ヤコブは神との格闘を経て力が抜け、すべてを神さまに委ねることができるようになっていました。

おわりに
 私たちの会堂の闘いも、まずは格闘が必要でしょう。生半可な気持ちで取り組んでいたのでは、決して一段上のレベルに行くことはできないでしょう。もし私たちに新しい会堂を建てる力が十分にあるなら、私たちは自分の力で会堂を建設することができます。しかし、そんな力は私たちにはありません。神様の御業が為されなければ、私たちが新しい会堂を建てることなど、全く無理な話です。そのためには、私たちの信仰が一段上のレベルに引き上げられる必要があり、そのためには、先ずは神様の祝福を求めて、真剣に格闘しなければなりません。これから祈る時には、お一人お一人、自分は真剣に格闘しているだろうかと自分の祈りを点検してみていただければ幸いです。
 私たちに新しい会堂が与えられるよう、祝福を求めて神様との格闘を始めましょう。そして私たちの信仰が一段引き上げられて、祝福が与えられたという確信が得られる時を、待ち望みましょう、
 お祈りいたします。
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常にイエスが中心(2014.6.25 祈り会)

2014-06-27 09:13:54 | 祈り会メッセージ
2014年6月25日祈り会メッセージ
『常にイエスが中心』
【使徒3:1~16】

はじめに
 これまで3度に亘って使徒の働き3章を見て来ました。きょう、もう一度だけ3章を見て、3章の学びは終わらせたいと思います。それから、きょうはギリシャ語の文法的な説明はしないことにします。

イエス・キリストが中心
 この使徒3章の日本語訳からだけでも言えることは、何事においても全てイエス・キリストが中心であるということです。或いは聖霊と言っても良いと思います。ここで重要な働きをしているのは、目に見える形ではペテロとヨハネですが、実際に働いているのは目に見えない聖霊でありイエス・キリストであるということです。使徒3章4節でペテロはヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言いました。そこで男は、ふたりに目を注ぎました。その男に対してペテロは、「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。すると、この男の足が強められて立って歩けるようになったのですね。
 ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言ったら、この男が歩けるようになったのですから、この男を歩かせたのは、イエス・キリストでした。ペテロが歩かせたわけではありません。ペテロ自身も、12節で言っています。

「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」

 ペテロはこのように言って、自分がこの男を歩かせたわけではないと言っています。そして、これまで問題にして来た16節のことをペテロは言っています。

「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

 きょうは、この訳の問題の細かいことには立ち入りませんが、この日本語訳を見てもわかることは、ここでもイエスの御名、すなわちイエスが、この男を強くしたのだということです。中心にいるのは常にイエス・キリストです。ペテロや男の信仰が中心にあるのではなくて、中心には常にイエス・キリストがいます。

ずれやすい神中心
 今回、私はこの使徒3章の学びを通して、私自身、すべてはイエス・キリストが中心、或いは神が中心であるということの意味を考えさせられ、反省させられています。私の場合、神中心であるべきだと思っていながら、知らず知らずのうちにペテロの信仰とか男のの信仰とか、誰かの信仰を中心に持って来て考えてしまっていたということです。誰かの信仰ということを意識すると、神が中心からはずれて誰かの信仰が中心に座ってしまいます。しかし、それではダメだということです。誰の信仰であろうと、いかなる場合にも神が中心にいて、決して人が中心になってはいけないのだと思います。
 例えば創世記1章では神が六日間で光と天地と生物とを創造したことが書いてあります。人間の時間では六日で天地と生物を創造することは奇妙なことですが、神中心の神の時間で考えるなら、人間にとっては何億年分にもなる時間が神にとってはたったの1日でしかないのだと考えるべきでしょう。ペテロの手紙第二には、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とありますが、千年どころか一億年、十億年も、主にとっては一日なのだということでしょう。
 私が良く言う、ヨハネの福音書の愛弟子も、愛弟子とは誰のことだろうと人間に焦点を当ててしまうと、神から中心がはずれてしまいます。神を中心に据えるなら、神が愛しておられる全ての者が愛弟子であるということになります。
 私たちが互いに愛し合って一つにならなければならないのも、すべて神を中心に考えなければならないことだと思います。神を中心に置かずに人間同士が互いに愛し合うことは、ひどく難しいことです。

神中心になるために
 どうしたら人間中心ではなくて神中心になれるのか。それには、私はやはり私たちの時間に対する考え方を一旦、徹底的に破壊しなければダメなのではないかなと思います。人間が過去→現在→未来という時間の流れの考え方を一旦壊さないと神中心にはなれないのではないかと思います。人間が後とか先とか考えていることは、神にとってはどうでも良いことなのだと思います。
 イエスさまが先の者があとになり、あとの者が先になることが多いと福音書で言っておられるのは、人間が考える後先と神が考える後先は違う、そもそも後とか先とかいう概念はないのではないか、そのように思わされます。そして、人間が考える時間の長さの、長いとか短いとかも神にとっては、たいして違いのないことに見えるのでしょう。
 マタイの福音書を見ておきましょうか。マタイの福音書19章30節です(新約聖書p.39)。

19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

 こう言って、イエスさまは、ぶどう園の労務者と主人のたとえ話を始めます。このぶどう園の主人は、朝早くから長い時間働いた労務者にも、午後5時ごろから短い時間しか働かなかった労務者にも、等しく1デナリを与えたという話をして、最後に、20章の16節で、

20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

と言いました。このように、神にとっては後とか先とかは問題ではなく、長く働いたとか短い時間しか働かなったということも、神にとっては問題ではないのですね。人間にとっては朝早くから働くのと午後の5時ごろから働くのとでは大きな違いですが、神にとっては大した違いではないのではないかと思います。

おわりに
 最後に、もう一度、使徒3:16に戻って、終わりたいと思います。

3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

 ここで私は、ここでペテロが言っているのはペテロの信仰なのか、施しを求めた男の信仰なのか、どちらだろうということで引っ掛かってしまいました。男の信仰のことを言っているように見えるのですが、男の信仰がそんなに優れているようにも見えなかったので、わからなくなってしまいました。しかし、神中心で考えれば、ペテロの信仰と男の信仰を比べるべきでなく、ましてどちらの信仰か、などと考える必要はありません。どちらの信仰かなどと考え始めたとたんに中心が神からはずれて人間中心になってしまいます。
 少し油断すると、すぐに神中心から人間中心になってしまうこと、このことを戒め、常に神中心に物事を考えることができる者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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6月29日礼拝プログラム

2014-06-26 12:03:15 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月29日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第5聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  栄光あふれるシオンの町は  228
 交  読  詩篇30篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  御名をほめたたえる歌声より 245
 讃 美 ③  God bless you 382
 聖  書  創世記32:22~32
 説  教  『祝福を求める格闘』   小島牧師
 讃 美 ④  いつも私を支え       418
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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祭壇を築きながら旅を続ける(2014.6.22 礼拝)

2014-06-23 01:18:01 | 礼拝メッセージ
2014年6月22日礼拝説教
『祭壇を築きながら旅を続ける』
【へブル11:8~16/創世記12:1~9】

はじめに
 きょうの聖書交読ではへブル人への手紙11章のアブラハムの信仰に関する箇所をご一緒に読み、聖書朗読では、その箇所に相当する創世記12章を司会者に読んでいただきました。
 へブル人への手紙11章には私たちの信仰の先輩たちの信仰が列挙されています。アベルに始まって、エノク、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、…と続いて行きます。その中で特にアブラハムの信仰に関しては、多くのことばが費やされています。このへブル11章は40節ありますが、そのうち8節から19節までの12節、40節中の12節はアブラハムに関係したことが書かれています。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれて祝福された信仰者ですから、アブラハムの信仰には、私たちが見習うべき点がたくさんあります。
 きょうは、このへブル11章と創世記12章に記されているアブラハムの信仰を見ながら、次の3つのことを学びたいと思います。

 ①私たちの目的地は天の御国(天の故郷)である
 ②私たちはこの世においては旅人である
 ③私たちは祭壇を築きながら旅を続ける

これらの3つのポイントは、週報の3ページ目のメモ欄にも書いておきました。
 きょう、これらのことを学ぶことにしたのは、言うまでもなく私たちの教会の会堂の問題を考えるためです。私たちの会堂の問題のことを頭に置きながら、きょうのメッセージを聞いていただけると感謝に思います。

真に安らげるのは天の御国においてのみ
 まず、一つ目のポイントは、
  ①私たちの目的地は天の御国(天の故郷)である
ということです。これは言うまでもないことかもしれませんが、ここで改めて確認しておきたいと思います。
 例えばマタイの福音書には、イエスさまの天の御国についての例え話がたくさん載っています。イエスさまは私たちが天の御国について知り、そこに入ることができるように、「天の御国は、~のようなものです」で始まる、多くの例え話をして下さいました。私たちは天の御国の主のみもとに行くことによってのみ、真の安らぎを得ることができます。それは、私たちが神様によって造られたからです。神様は私たちの体を造り、私たちの体に霊を吹き込んで下さいました。ですから私たちが本当に安らぐことができるのは、天の御国の主のみもとにおいてのみです。
 この世において私たちは様々な困難の中を通ります。どうして神様はこのような苦しみを私に与えるのだろうかと、理不尽に思うことも多々あるでしょう。しかし私たちの真の安らぎの場は天の御国にしか無いのですから、この世の苦しみについて不平不満を言っても、仕方の無いこととも言えます。アダムとエバがエデンの園で平和に暮らしていた時には、苦しみも困難もありませんでしたが、二人がエデンの園を追放されてからは、私たちに困難なことがあるのは、仕方の無いことであると言えるでしょう。
 聖書のことを良く知らない人は、聖書は聖なる書だから、聖書には素晴らしい世界のことがたくさん書いてあると想像するかもしれません。しかし、素晴らしい世界のことが書いてあるのは、創世記の最初の2章と黙示録の最後の2章だけなんですね。創世記は聖書の最初の書で、黙示録は最後の書ですから、分厚い聖書の中で素晴らしい世界のことが書いてあるのは最初の2章と最後の2章だけです。あとの残りは、醜くドロドロとしていて困難に満ちた、この世のことが書いてあります。もちろん、その合間合間には素晴らしい天の御国のことも書かれています。しかし、ドロドロのこの世のことに混じって書いてありますから、この世の醜さに埋もれたような形になってしまっています。一方、聖書の最初と最後の2章には、純粋に素晴らしい世界のことが書いてあります。
 創世記1章の27節から31節までを、交代で読んでみましょう(旧約聖書p.2)。

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 31節に、「見よ。それは非常に良かった」とあります。神がお造りになった全てのものは、非常に良かったのですね。しかし、アダムとエバが神様から離れてしまったことにより、私たち人類は困難の中を歩まなければならなくなりました。創世記3章でアダムとエバはエデンの園から追放されますから、私たち人類は聖書の始めから3つめの章で早くも非常に良い世界を離れてしまったわけです。そうして聖書のほぼ全編に亘って私たちがいかに神様から離れ易い者たちであるかが書かれていますが、聖書の最後の2章である黙示録21章と22章で、私たちは再び非常に良い世界に戻ることができます。神との関係を私たちは回復して、再び素晴らしい世界に入ることができます。では次に、黙示録21章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.500)。

21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 21節に、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります。アダムとエバが住んでいたエデンの園も、「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」所でした。人類は創世記3章でこのような素晴らしい世界を追い出されてしまいましたが、黙示録21章で、再びこの素晴らしい世界に戻ることができます。ですから最初と最後の2章を除く聖書の大部分は、この素晴らしい世界、すなわち天の御国を追放されてから再び戻るまでの長い旅路を描いているのだと言えます。いま、私たちは天の御国に入るまでの長い旅の中にいるのですね。

私たちは天の御国を目指す旅人
 では、2つめのポイントに進みましょう。それは、
 ②私たちはこの世においては旅人である
ということです。
 いま話したように私たちの目的地は天の御国ですから、私たちはそこを目指す旅の中にいる旅人です。最初と最後の2章を除く聖書全体がそのことを示していますし、アブラハムの人生もまた、その通りでした。アブラハムの人生は旅そのものでした。へブル人への手紙11章を見ましょう(新約聖書p.438)。11章8節をお読みします。

11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 ここから先はへブル書と創世記とを、少し行ったり来たりします。今のへブル11:8に書かれていたことは創世記12章に書いてあります(旧約聖書p.16)。創世記12章1節から4節までを交代で読みましょう。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

 この時アブラハムはハランの地にいましたが、主の声を聞いて、ハランを出て行きました。この時アブラハムはどこに行くのかを知らないで出て行き、主の声に導かれて進んで行きました。
 続いてへブル書11章の9節、

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 アブラハム・イサク・ヤコブたちは天幕生活をしていましたから、常に旅をしていた旅人でした。彼らは羊や牛を飼っていましたから、牧草を求めて常に移動して行かなければなりませんでした。少し飛ばしてへブル11章13節、

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 アブラハム・イサク・ヤコブたちは約束のものを手に入れることはありませんでした。イスラエルの民が約束のものを手に入れたのはヨシュアに率いられてヨルダン川を渡った時であり、ダビデ・ソロモンの父子が王国を築いた時でした。しかし、本当の意味でこの約束が成就するのは、黙示録21章のことが成就する時ですね。そのことは、続くへブル11章14節以降に書かれています。14節と15節、

11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 出て来た故郷というのは、先ほどの創世記12章でアブラハムが神に声を掛けられて出発したハランであり、さらに遡るならアブラハムの父のテラが住んでいたウルの地のことです。アブラハムも出て来た故郷のことを思っていたのであれば、ハランやウルに帰る機会はあったでしょう。しかし、16節、

11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 この天の故郷が黙示録21章と22章に描かれている天の御国であり、それはアダムとエバが追放されたエデンの園であるとも言えるでしょう。ですから、アブラハム・イサク・ヤコブたちは旅人であり、私たちもまた天の御国を目指して旅をしている旅人です。

一つの祭壇にとどまる必要はない
 3つめのポイントに進みます。3つめのポイントは、
 ③私たちは祭壇を築きながら旅を続ける、
ということです。
 創世記12章を見ましょう。創世記12章の7節から9節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.17)。

12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
 
 アブラハムがこのように旅を続けていたのは、先ほども言ったように、アブラハムが多くの羊や牛を飼っていたからでしょう。ここで注目すべきは、アブラハムが行く先々で祭壇を築きながら旅を続けたということです。7節にも8節にもアブラハムが祭壇を築いたことが記されています。
 このように、行く先々で祭壇を築いていたアブラハムの姿に学ぶなら、この世にあっては旅人にすぎない私たちもまた、一つの祭壇にとどまっている必要は無いということです。天の御国を目指す旅の中で一つの所にとどまる期間もありますが、時が来たなら、また別の場所に移動して行って次の祭壇を築けば良いのです。

最上のものを捧げる者を祝福する神
 さて、祭壇には神様への捧げ物を置きます。へブル書に戻って、へブル11章4節を見ましょう。11章4節、

11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

 アベルの捧げ物はカインの捧げ物よりも優れていました。何が優れていたのでしょうか。それは、アベルは最上のものを捧げたということでしょう。最上のものを自分のものにせず、最上のものは神に捧げる信仰を持つ者に神様は目をとめて下さり、祝福して下さいます。
 ですから私たちが日曜日に礼拝を捧げることも、神様は喜んで下さっています。礼拝を捧げる習慣が無い日本の人々にとっては、私たちが毎週日曜日に教会に集うことを不思議に思うでしょう。せっかくの休みの日曜日に旅行をしたりレジャーを楽しんだりするのではなく教会に行って何が楽しいのだろうと思うことでしょう。しかし、私たちにとっては、神様が喜んで下さることが、そのまま私たちの喜びになるのですね。旅行やレジャーなど自分が楽しむことを優先するのではなく、神様が喜んで下さる礼拝を第一にするなら、それが私たちの喜びです。
 献身者を送り出す教会が祝福されるのも、それゆえでしょう。教会にとって献身者は出すのが惜しい存在です。献身者は多くの場合、もしそのまま教会に留まっているなら、教会の奉仕の中心的な役割を担って行くことが期待されている人物です。その期待の人物が抜けてしまうのは教会にとっては大きな痛手です。財勢面でも、その人が抜ければ献金の額が減ります。しかし、そのような痛みを伴いながらも、教会は喜んで献身者を送り出しますから、主はそのような教会を祝福して下さるのですね。そういうわけですから、廣瀬いずみ先生を送り出した私たちの沼津教会を、神様が祝福して下さらないわけがありません。

主の祝福を信じて新しい祭壇を築こう
 ですから今、私たちは主の祝福を信じて勇気を持って次の祭壇を築くべきです。老朽化した祭壇を修理しながら使い続ける時期は今や過ぎ、次の新しい祭壇を築くべき時が来たと言えるでしょう。老朽化した祭壇を騙し騙し使い続けていて、最上の礼拝を捧げることができるでしょうか。献身者を送り出したこの沼津教会が主に祝福されない筈が無いのですから、私たちは勇気を持って次の祭壇を築くべきでしょう。
 最後に、へブル書の13章15節を、ご一緒に読みたいと思います。

13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

 私たちは、これからもずっとキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげたいと願っています。私たちが主を賛美し、御名を讃えるのは、これまでに主が多くの御業を私たちに為して下さったからです。先週も話した通り、主がこの今沢の地でして下さったことを、いちいち書き記すなら、それらの書物はこの会堂に入りきれないほどになるでしょう。それゆえ私たちは主を賛美し、ほめたたえます。
 しかし、老朽化した今の会堂でいつまでも礼拝を捧げ続けることは不可能です。そして、もし次の会堂を建てる力が私たちに無いとしたら、主がこの今沢の地で私たちにして下さったことの証は全く立ちません。ですから私たちは主の祝福を信じて次の祭壇を築くために、信仰を持って新しい一歩を踏み出さなければなりません。

おわりに
 私たちが御霊の一致を保って新しい一歩を踏み出すことができるよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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イエス・キリストの真実(2014.6.18 祈り会)

2014-06-19 10:03:09 | 祈り会メッセージ
2014年6月18日祈り会メッセージ
『イエス・キリストの真実』
【使徒3:16、ローマ3:21,22、1:17,18】

使徒3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

はじめに
 前回は、この使徒3:16の解釈の問題が思ったより大きな問題であるらしいということから、ローマ人への手紙の中で似たような文がある箇所についての説明をしました。この使徒3章では、ペテロが神殿の「美しの門」で施しを求めていた男に対して「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言ったら歩き出した記事があります。このことについてペテロは3:16で「(イエスの)御名を信じる信仰のゆえに、…この人を強くした」と言いました。この、イエスの御名を信じたのがペテロなのか、施しを求めた男なのか、或いはその両方なのか、この新改訳の訳文では良くわかりません。それで、ギリシャ語に遡って調べてみると、ペテロの信仰でも施しを求めた男の信仰でもなくて、直訳的には「イエス・キリストの信仰」なのだという話をしました。そして、このことを理解するにはローマ人への手紙の解釈の問題を取り上げるのが良いだろうと思いましたので、先週はローマの3章と1章とを見ました。始めに、先週のローマ書の学びを復習しておきたいと思います。

「神の義」についての2つの解釈
 ローマ3章の21節と22節を交代で読みましょう。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 この22節にある「イエス・キリストを信じる信仰」のギリシャ語を直訳すると「イエス・キリストの信仰」になります。この「イエス・キリストの信仰」とは一体何なのかを理解するためには、この21節と22節にもある「神の義」をどう解釈するかの議論が参考になるということで、ローマ1章の16節と17節も見ました。今度はローマ1章の16節と17節を交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 この17節にある、福音のうちに啓示されている「神の義」には、二通りの解釈があるという話を先週しました。ローマ・カトリックの考え方である神様の側の義、すなわち「神様の正しさ」なのか、ルターの考え方である神様に対する私たちの側の義、すなわち「私たちの正しさ」なのかということになります。ただし私たちには「正しさ」などは元々は有りませんから、あるとすれば神様が私たちに与えて下さった「正しさ」ということになります。
 そして、先週のおしまいと方で私は、これら、神様の側の義(カトリック)なのか、神様に対する私たちの側の義(ルター)なのか、どちらの場合にしても、「義」を裁判所の法廷で裁く基準として捉える傾向があったようだという話をさせていただきました。そして、そのような法廷的な意味での「義」ではなく、「義」とは、もっと広い意味の「救い」という概念を含むのではないか、という話を先週しました。
 この問題に関して、おととい東京で行われた講演会で岩上敬人先生による詳しい説明が聞けるとのことで、私も聞いて来ました。きょうは、その講演を引用しながら説明させていただきます。と言っても、講演は1時間以上の長いものでしたから、ほんの一部分しかご紹介できないことを、予めお断りしておきます。

「義」と「救い」の同等性
 神の義が法廷における正義よりも、もっと広い「救い」の意味が含まれるのではという考え方は、旧約聖書から導かれます。例えば、イザヤ書51章5節を見ると、

「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている」

とあります。ここでは、「わたしの義」が「わたしの救い」に言い換えられていますから、「義」と「救い」が同等であることが伺えます。また、詩篇98篇の2節にも、

「主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現された」

とありますから、ここでも「義」と「救い」とが近い関係にあることがわかります。そしてさらに3節では、

「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている」

とありますから、神の救いは神の恵みと真実によるものであることがわかります。
 このように、「神の義」を法廷の裁きにおける正義と限定せずに、もっと広い意味での「救い」と捉えるなら、私たちの理解の幅は随分と広がると思います。そして、そのような広い意味での神の義なら、ルターの「神に対する私たちの義」という考え方は、あまり考えなくても良くなります。このことに関しては賛否両論があるようですから、今後この考え方が支持を広げて行くのかどうか、その行方はわかりませんが、私は個人的にはこの広い意味での「神の義」を支持したいと思います。

イエス・キリストの真実
 私がこの広い意味での「神の義」を支持したい理由は、このことにより、ローマ3:22の「イエス・キリストの信仰」も説明でき、さらには使徒3:16も同様に説明できるからです。
 では、今度はローマ3:22の説明に移ります。ローマ3:22をもう一度、お読みします。

ロマ3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 ここにある「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」は、最初の方でも話したようにギリシャ語を直訳すると「イエス・キリストの信仰による神の義」となります。この、「イエス・キリストの信仰による神の義」の先ず「神の義」を先ほど話したようにルター的に解釈するなら「神に対する私たちの義」になります。その場合その前にある、イエス・キリストの信仰も、ルター的に解釈して、イエス・キリストに対する私たちの信仰ということになります。新改訳が採用している「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」という訳し方は、このルター的な「イエス・キリストに対する私たちの信仰という、神に対する私たちの信仰による義」であるということになります。
 一方、「神の義」をもっと広い意味での「救い」のことと解釈するなら、「イエス・キリストの信仰」とは、「イエス・キリストの真実」であると訳すことができます。「信仰」のギリシャ語のピスティスは、そのような広い意味を持つということです。「イエス・キリストの真実」とはイエス・キリストが神の契約に対する誠実さ・真実さです。
 詩篇98篇3節をもう一度思い起こしていただくと、詩人は詩篇98篇3節で、

詩篇98:3 主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。

と詩っています。ここで言われているのは主のイスラエルの家への契約のことですね。主は救いの契約の恵みに対して真実であられました。そしてイエス・キリストもその契約に対する真実さにより十字架に掛かって死に、私たちを救って下さったということになります。それゆえ「イエス・キリストの信仰」とは「イエス・キリストの真実」と訳すことができる、「信仰」のギリシャ語のピスティスは、そのように広い意味を持つものであるということです。
 このように、イエス・キリストの神の契約に対する誠実さ・真実さという考え方をするなら、使徒の働き3章16節もペテロの信仰でも施しを求めた男の信仰でもなく、イエス・キリストの信仰、すなわちイエス・キリストの神の契約に対する誠実さ・真実さのことなのだと考えることができます。

おわりに
 来週もう1回、今度はローマ書中心ではなく、使徒3章を中心にして、もう一度、「イエス・キリストの真実」に関して、ご一緒に考えることにしたいと思います。
 お祈りしましょう。
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6月22日礼拝プログラム

2014-06-19 08:00:05 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月22日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第4聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花        55
 交  読  へブル11:8~16
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  鹿のように(2回)     192
 讃 美 ③  あなたの平和の      485
 聖  書  創世記12:1~9
 説  教  『祭壇を築きながら旅を続ける』 小島牧師
 讃 美 ④  父の神の真実        40
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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会堂に入りきれない愛弟子の証(2014.6.15 礼拝)

2014-06-15 20:58:19 | 礼拝メッセージ
2014年6月15日礼拝メッセージ
『会堂に入りきれない愛弟子の証』
【ヨハネ21:20~25】

<エペソ3:16~19>
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

はじめに
 きょうの聖書箇所はヨハネの福音書の一番おしまいの箇所です。ここで、「証が立つ」ということについて話してみたいと思います。「証が立つ」とはどういうことか、皆さんとご一緒に考えてみたいと思いますが、その前に礼拝の始めの方で交読したエペソ人への手紙3章から話を始めたいと思います。

スケールの大きなエペソ書とヨハネ伝
 私はきょう交読したエペソ3章の箇所が大好きです。特に18節から19節に掛けての、「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」という箇所を読むと、一体キリストの愛はどれくらい大きいのだろうかと想像力を刺激されて、ワクワクして来ます。この時、私は宇宙の大きさを思い浮かべるわけですが、先ずは太陽系を想像し、次いで私たちの銀河である天の川銀河を思い浮かべ、そして銀河が無数に存在する大宇宙を想像します。しかしキリストの愛の大きさは人知を遥かに越える大きさですから、銀河が無数に存在する大宇宙よりも遥かに大きいのでしょう。そのようなキリストの愛を思い浮かべる時、私はその恵みの大きさにウットリとしてしまいます。私は昔から大きなことを考えるのが好きでしたから、この沼津の地に来て、雄大な富士山と駿河湾を日常的に眺めることができる環境にいることを本当に感謝に思っています。都会のゴチャゴチャした所に住んでいると、大きなことを考えるのはなかなか難しいと思いますが、広々とした所に住むと、想像力も大きくなるように思います。
 私は学生時代、大学の学部と大学院の通算10年間を北海道で過ごしました。この時も大きなことを考えるのが好きでした。この時の私の愛読書は『荘子』でした。『荘子』の冒頭には、こんなことが書いてあります。北の果てに鯤という魚がいて、その大きさは何千里あるかわからないぐらいに大きい。ある時、鯤は突然形が変わって、鳥になった。その鳥の名は鵬という。この大鵬の背の大きさも何千里あるかわからないぐらいに大きい。そして、この大鵬が飛びたつと九万里の上空を飛翔するのである、…というような調子です。私は、この『荘子』のスケールの大きさにウットリしていました。
 こんな風に、私は昔から大きなことを考えるのが好きでしたから、聖書においても、先ほど読んだエペソ3章のような雄大な箇所が好きなのですが、皆さんはいかがですか。このエペソ3章の「広さ、長さ、高さ、深さ」からは空間的なスケールの大きさを感じますし、一方、ヨハネの福音書からは時間的なスケールの大きさを感じます。私がヨハネの福音書が大好きなのは、時間のスケールが、やはり人知を遥かに越えた雄大さを持つからです。

私が文語訳で聖書を読むと…
 このようにして私は聖書のスケールの大きさから多くの恵みをいただいているのですが、皆さんはいかがでしょうか。最近私が思うのは、どうも他の方々と私とでは、聖書のスケールの大きさの感じ方に乖離があるかもしれないということです。ヨハネの永遠観のことがなかなか伝わらないのは、そのせいかもしれないという気がしています。このギャップをどうしたら埋めることができるのだろうか、というのが今の私の課題のようです。
 そうして、この課題について、あれこれ考えながら過ごしているわけですが、最近ふと思い立って、文語訳聖書を読み始めています。私が教会に通い始めたのは2001年ですから、私は文語訳に全く不慣れです。その不慣れな文語訳でエペソ人への手紙やヨハネの福音書などを読むことを始めています。例えば先ほどのエペソ3章16~19節ですと、文語訳では次のようになっています。

3:16 父その栄光の富にしたがひて、御霊により力をもて汝らの内なる人を強くし、
3:17 信仰によりてキリストを汝らの心に住まはせ、汝らをして愛に根ざし、愛を基(もとい)とし、
3:18凡ての聖徒とともにキリストの愛の廣さ・長さ・高さ・深さの如何ばかりなるかを悟り、
3:19 その測り知るべからざる愛を知ることを得しめ、凡て神に満てる者を汝らに満たしめ給はん事を。

というようになります。信仰歴が長い方にとっては、こっちの文語訳のほうが良いという方もいらっしゃるかもしれませんが、私にとっては、どうもピンと来ません。この文語訳から宇宙スケールのキリストの愛を想像することは私にとっては難しいことです。
 もう一つ、私が大好きな箇所である、ヨハネの福音書1章でイエスさまが「あなたがたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃっている箇所を見てみたいと思います。まず私たちが今使っている新改訳で見ておきましょう。ヨハネ1章38節と39節です(p.174)。私のほうでお読みします。

1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

 この箇所を読むと、私はイエス・キリストが直接私に、「あなたがたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすればわかります」と声を掛けて下さっているように感じます。では、文語訳ではどうなるでしょうか。文語訳では、次のようになります。38節と39節です。

1:38 イエス振り反(かえ)りて、その從ひきたるを見て言ひたまふ『何を求むるか』彼等いふ『ラビ(譯(と)きていへば師)いづこに留まり給ふか』
1:39 イエス言ひ給ふ『きたれ、さらば見ん』彼ら往きてその留まりたまふ所を見、この日ともに留まれり、時は第十時ごろなりき。

 この『何を求むるか』『きたれ、さらば見ん』という箇所を読んでも私はイエスさまが直接私に語り掛けているように感じることは、なかなかできません。文語訳であっても、もちろん意味はわかります。しかし、意味を理解するだけにとどまって、イメージを膨らませるまでには、なかなか至りません。

イメージを膨らませることの大切さ
 このように、聖書を読む場合には、イメージを膨らませることが大事なんですね。イメージを膨らませるとは、書かれている文(或いは音声)の情報を、想像を膨らませることによって映画のような映像と音声に置き換えることと言っても良いかもしれません。私の場合、文語訳だと意味を理解するのが精一杯で、映像を思い浮かべるまでには至らないということです。エペソ3章の文語訳にしても、「キリストの愛の廣さ・長さ・高さ・深さの如何ばかりなるかを悟り、その測り知るべからざる愛を知ることを得しめ」の意味はもちろんわかりますが、そこから人知を遥かに越えた宇宙スケールの愛を思い浮かべることは、なかなかできません。
 ですから、聖書を読む場合、単に書いてある文の意味を理解するだけでなく、イメージを膨らませることが極めて大事であることがわかります。私の場合は文語調の文がそれを邪魔しているわけです。でもそれは、単に私が聖書の文語訳に慣れていないだけで、文語自体が悪いわけではないのだろうと思います。私が学生時代に愛読していた『荘子』も文語で書かれていましたし、中学や高校で習った古文も、原文で想像を膨らませることができました。例えば、私が中学生の時に使っていた国語の教科書には松尾芭蕉の『奥の細道』が載っていました。その最初のくだりの、

「月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、・・・云々」

なども、中学生の頭の柔らかかった頃にいろいろと思いを巡らせた覚えがありますから、文語でも大丈夫です。このように文を深く理解する上で問題になるのは、文語であるか口語であるかではなく、そこからイメージを豊かに膨らませることができるかどうかが問題であるということになります。

文字・言葉は情報量が少ない
 私の知り合いに将棋が強い人がいます。その人はアマチュアですが、将棋の棋譜を見れば、盤面を思い浮かべることが出来ると言います。棋譜というのは、たとえば先日の羽生 対 森内の名人戦第4局の最初の10手は、こんな感じです(第72期名人戦第4局先手:羽生善治三冠 後手:森内俊之名人)。

  1 ▲2六歩
  2 △8四歩
  3 ▲2五歩
  4 △8五歩
  5 ▲7八金
  6 △3二金
  7 ▲2四歩
  8 △同 歩
  9 ▲同飛車
  10 △2三歩打

 この棋譜を見ても、私は頭の中で将棋盤を再現してイメージすることはできません。しかし意味だけならわかります。初手の「2六歩」は、将棋盤の右から2つ目・上から6つ目のマス目に歩を移動させることであるというように、その棋譜が何を意味するかだけならわかります。しかし、私はこの棋譜から実際の将棋盤をイメージすることはできません。でも将棋が得意な人は、この棋譜から名人戦の熱い闘いのドラマを頭の中で再現することができるんですね。
 このように、文字そのものが持つ情報量というのは、そんなに多くはないということになります。私たちは少ない情報量の文字からでもイメージする力を使って多くの情報を引き出すことは可能ですが、元々の文字そのものが持つ情報量は少ないと言えます。俳句や短歌などは、文字の情報量が少ないことを逆手に取って、読み手側の想像力を引き出す所に味わい深さがあるのですね。先ほどの『奥の細道』の中に、芭蕉が越後路で詠んだ、

 荒海や佐渡によこたふ天河

という俳句があります。この、ひらがなで僅か十七文字の、「荒海や佐渡によこたふ天河」から私たちは、様々にイメージを膨らませることができます。芭蕉が見ていた日本海は、天の川が見えるぐらいの暗さの中でしたから、海が荒れている様子は目でもそれなりに見えたと思いますが、この俳句からは波の音の大きさから海が荒れている様子が伝わって来ます。また、そのように暗い海でしたら佐渡島の島影も見えてはおらず、佐渡島の集落の灯りが見えていたのではないか、そんなことも想像できます。そしてその集落の灯りの上には天の川が横たわっていて、無数の星の光が見えます。静かに光る星と荒れ狂う海という全く対照的な情景が不思議に良く溶け合っている所に味わいがあります。このように、文字そのものが持つ情報量は少ないのに、そこから私たちは多くのイメージを引き出すことができます。

情報量に大きな差がある言葉と絵
 アニメーションの宮崎駿監督も、こんなことを言っています。宮崎駿監督のことを知らない方はいないとは思いますが、念のため説明しておくと、『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』、そして昨年の『風立ちぬ』などの長編アニメーション映画を作った監督さんです。以下は、宮崎監督の講演からの引用です。

「映画をつくるとき、僕はだいたいの場合、シナリオは書かずに絵コンテという形で絵から入ってしまうんですが、頭の中でこういうストーリーで、ああなって、こうなって、そうやって終わるんだというふうに、いちおうは言葉で考えるわけです。(ところが)言葉で考えて映画をつくるうちに、言葉で考えた部分は確実に役に立たなくなって来るんです。」

 監督はこのように言っています。宮崎監督の映画が封切りされる頃になると、主にNHKだと思いますが、監督に密着取材した様子が放映されますね。宮崎監督は頭をかきむしりながら苦しみに苦しんで絵コンテと格闘しています。言葉の持つ情報量が絵コンテと比べると遥かに少ないので、言葉から絵コンテを描き起こすには、大変な苦労があるのですね。
 これらのことを考えると、聖書のメッセージを取次ぐという牧師の仕事も、なかなか大変なことに取り組んでいるわけですね。聖書の記者は神様から霊感を受けて膨大な情報量を受け取っているわけです。例えばヨハネの黙示録でヨハネが見た幻の情報量はもの凄い量のものでしょう。それをヨハネは言葉にしたわけですから、言葉にしたことでヨハネの見た幻の情報量はガクンと下がってしまいます。それを牧師が読んで、一生懸命にイメージを膨らませてヨハネが見た幻を再現しようとするわけですね。でも牧師が再現できるイメージは、わずかでしかありません。そしてそれを説教にして伝える時には、もう一度、言葉にしなければなりませんから、会衆に伝わる情報量はさらに少なくなってしまいます。ですから会衆の皆さんには、できるだけ聖書から直接イメージを膨らませてもらうのが良いことになります。牧師の説教はその手助けをするためのものであると言えるでしょう。

愛弟子とは私たちとイメージしたい
 さて、これでようやく、今日の聖書箇所について説明するための準備が整いました。ヨハネの福音書の最後の部分の、21章の20節以降を見ることにしましょう。いま言ったように、皆さんは私が話したことについてイメージを膨らませるのでなく、聖書から直接、イメージを膨らませるようにして下さい。私が話すことは、そのイメージを膨らませる手助けに過ぎません。では、まず20節、

21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。

 前にも話したことがあると思いますが、ここに登場する「イエスが愛された弟子」、すなわち「愛弟子」とは、私たち一人一人のことです。このことを、是非皆さんお一人お一人が聖書と向き合って、聖書から直接イメージを膨らませて確認していただきたいと思います。私の言ったことを信じるとか信じないとかいうのでなく、是非とも聖書のことばから直接イメージを膨らませていただきたいと思います。
 このヨハネの福音書を書いたヨハネももちろん、愛弟子のうちの一人ですが、愛弟子は一人だけではなく、この福音書を読んでイエス・キリストを信じた無数の人々が愛弟子です。そして私たちの一人一人もこの愛弟子の中に含まれています。そうでなければ、ヨハネがわざわざ「イエスが愛された弟子」などという表現を使うはずがありません。もし愛弟子がヨハネただ一人であるなら、ヨハネは自分がイエスに愛されていたことを自慢していることになってしまいます。そんな自慢をこの大切な福音書でするはずがないでしょう。ヨハネは、この愛弟子を最後の晩餐ではイエスの隣というイエスに最も近い席に座らせ、また十字架の場面では十字架のそばに置きました。そのようにして、愛弟子である私たちは特等席に座ってイエスの重要な場面の目撃者となることができました。私たちは神に愛されているのですから、私たちが愛弟子であることに間違いはありません。ヨハネの手紙第一4章をご一緒に読みましょう。9節から11節までを交代で読みましょう(新約聖書p.469-470)。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 皆さん、11節にあるように神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちが「愛弟子」であることに疑いを持ってはなりません。
 ヨハネの福音書21章に戻ります。しつこく言いますが、ここに登場する愛弟子は、ヨハネのことでもありますが、私たち一人一人のことでもあります。もし、ここに登場する愛弟子を文字通り、この福音書を書いた記者ただ一人と限定するのであれば、文語訳の聖書を読んで、表面的な意味を理解しただけで満足するのと同じことです。それは将棋盤をイメージできずに、ただ棋譜だけを眺めているのと同じとも言えるでしょう。或いは宮崎駿監督のアニメーションを観ないで「あらすじ」だけを読んでいるのと同じです。宮崎監督が描く豊かな映像の世界を「あらすじ」からは全くと言って良いほど味わうことはできません。
 同様に、ヨハネの福音書に登場する「愛弟子」がただ一人だと思っているうちは、この福音書の持つ豊かさを、味わっていないのと同じことです。無数の「愛弟子」がいて、私たちの一人一人もまた「愛弟子」なのだとイメージを膨らませることができて初めて、私たちはヨハネの福音書が持つ素晴らしく豊かな恵みを受け取ることができます。

次の会堂を建てなければ立たない証
 さて、きょう残された時間はもう少ないですから、おしまいの24節と25節に進みたいと思います。24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 イエスの愛弟子は世界中に無数にいますから、その愛弟子の一人一人がイエスの行われたことをいちいち書きしるすなら、世界も書かれた書物を入れることができないでしょう。 
 そして私たちもまた、イエスと出会ってイエスが行われたことを、たくさん見て来ました。私たちのインマヌエル沼津教会がこの今沢の地で私たちの会堂を持つことができたことも、イエス・キリストの行われたことの一つです。以来、31年にわたって、主イエスの御業が様々な形でこの会堂で為されて来ました。それらをいちいち書きしるすなら、この会堂も、書かれた書物を入れることができないほどでしょう。今やもう満杯の状態です。それほど多くのイエスの御業が、この今沢の会堂で為されて来ました。そして私たちは、この証を後世に残さなければなりません。それはつまり、新会堂の建設に着手しなければならないということです。この教会で為されて来た御業の証が立てられるのは、次の会堂ができた時です。もし万一、何年か先に、新会堂が建たないまま、この教会が閉鎖されるようなことになるなら、イエスがこの沼津教会で為された多くの御業の証は立たないままで終わってしまうことになります。この教会に新しい会堂を建てる力が無いのなら、イエスの御業は行われなかったのと同じことになりますから、証を立てることはできません。 もし屋根の葺き替えを行うなら、屋根だけは20年から30年は寿命が延びるでしょう。しかし、屋根の下の部分は明らかに20年も30年も持ちはしません。ですから、もし新会堂の建設に着手しないのなら、恐らく10年ぐらいの内には、この教会の歴史を閉じなければならないことになります。教会を閉じることも選択肢の一つだと思いますが、それではイエスさまの御業の証は全く立ちません。

おわりに
 以上の事柄を思いながら、もう一度、24節と25節を交代で読みたいと思います。

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 この今沢の会堂でイエス・キリストが行われた御業は、たくさんあります。それは、書物にすれば、この会堂に入りきれないほどの膨大な御業です。その証が本当の証になるのは新会堂ができた時です。新会堂を建設せずに教会を閉鎖するなら、イエスの御業は行われなかったのと同じにことになってしまいます。霊に燃え、主に仕えるべき私たちが、主の証が立たない道へ進んで行くことがあってはなりません。
 1週間後には幹事会がありますから、この1週間、幹事の方々も幹事でない方々も、私たちが、どの道を進んで行くべきか、お祈りしながら考えていただきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。
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信仰の岩盤(2014.6.11 祈り会)

2014-06-12 08:25:35 | 祈り会メッセージ
2014年6月11日祈り会メッセージ
『信仰の岩盤』
【使徒3:1~16】

はじめに
 先週の祈り会のメッセージでは使徒の働きを離れて黙示録を開きました。今日はまた、使徒の働き3章に戻ります。
 3章で先々週、ちょっと引っ掛かった箇所がありましたから、そこの問題を解決しておきたいと思い、少し調べてみました。すると、この問題は思ったよりも大きな問題であることがわかって来ました。
 その箇所とは、使徒3章16節です。

3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

 ここに出て来る「信仰」が、ペテロの信仰のことを言っているのか、門の所に座っていて施しを求めた男の信仰のことなのか、先々週、私のほうで混乱してしまいました。先々週の時点では私は小石に躓いてよろけた程度に思っていましたから、少し調べればペテロの信仰なのか施しを求めた男の信仰なのか、或いは両方の信仰なのかは、すぐに決着が着くだろうと思っていました。それで、この小石を拾い上げようとしたら、そんなに小さな石ではなくて地面に埋まっている部分があり、もっと大きな石であることに気付いたわけです。それで地面を掘ってみたら、石どころではなくて、もっと大きな岩、それも信仰の礎とも言える、とてつもなく大きな岩盤であるらしいことがわかって来ました。ですから、このことの説明は、きょうの1回だけでなく、少なくとも2回は必要で、場合によっては、もっと必要になって来るかもしれません。信仰の岩盤に関わることですから、1回で終わらせるのでなく時間を掛けることで、信仰の奥深さをご一緒に味わうことができたらと願っています。

「信じる」という動詞は使われていない
 まず最初に言っておきたいのは、この使徒3:16の新改訳の日本語訳には訳者の解釈が入っているということです。16節には、「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、…この人を強くした」とありますね。「御名を信じる信仰のゆえに」とありますから、御名を信じたのはペテロのほうなのか施しを求めた男のほうなのか、という話になって来るわけです。しかし、そもそも原語のギリシャ語には、「信じる」という動詞は使われていません。
 ここで「御名」があると少しややこしくなるので、少々強引ですが「御名」を取ってしまいましょう。すると、この新改訳の日本語訳は、「イエスが、イエスを信じる信仰のゆえに、…この人を強くした」となります。しかし、ギリシャ語には「信じる」という動詞は使われていません。ギリシャ語では、(ここでも「御名」は省いて)「イエスが、イエスの信仰のゆえに、…この人を強くした」となります。「イエスの信仰」というとわかりにくいので、新改訳では「イエスを信じる信仰」としているようです。しかし、そもそも「信じる」という動詞は無いのですから、原語のギリシャ語では、ペテロの信仰か施しを求めた男の信仰なのかが問題なのではなく、「イエスの信仰」がこの男を強くしたということになります。

「イエス・キリストの信仰」とは何だろうか
 今、「信仰」ということばを使いましたが、これもまた問題で、ギリシャ語の「ピスティス(πιστιs)」をここで「信仰」と訳すべきかという問題もあります。このギリシャ語の訳の問題に、なぜ私が気付いたかと言うと、全く同じような問題がローマ人への手紙の訳にもあるからです。私は昨年の5月から、東京の本部の会議室で行われているローマ人への手紙をギリシャ語で学ぶ会に初回を除いて1度も休まずに出席して、良い学びをさせていただいています。いま5章までの学びが終わったところです。そして、今の使徒3:16の訳の問題と同じような問題が、ローマ3:22にあります(新約聖書p.293)。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 ここで新改訳の日本語訳は「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」としていますが、ギリシャ語を直訳するなら、「イエス・キリストの信仰による神の義」となります。じゃあ、「イエス・キリストの信仰」とはどういうことか、ということになりますので、ギリシャ語の「ピスティス(πιστιs)」を「信仰」と訳すのは、ふさわしくなさそうだという話になります。
 きょうの話はだいぶわかりにくいと思いますから、きょうだけではなく、来週も話しますから、今はまだわからなくても、何が問題になっているのかの、だいたいを把握しておいていただければ良いと思います。
 今の時点では、「イエス・キリストの信仰」とは何だろうかという問題意識を持っておいていただければ良いと思います。それで、きょうは「イエス・キリストの信仰」については、一旦置いておいて、「神の義」についての話をしたいと思います。この「神の義」についての話をした後でのほうが、「イエス・キリストの信仰」について理解していただき易いと思いますから、そのようにさせていただきます。

主格属格か目的格属格か
 このローマ3:22にも「神の義」ということばが出て来ますが、きょうは1:17にある「神の義」を使って説明したいと思います。ローマ1:17を見て下さい。私が16節を読みますから、皆さんで17節を読んで下さい。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 このローマ1章の16節と17節は、この手紙の主題、メインテーマであって、16章から成る、この長い手紙はこの16節と17節を説明するための手紙であると言われます。そして、この17節のほうにある「神の義」をどう解釈するか、このことの理解を深めることで、信仰の理解を一層深めることができると私は感じています。とは言え、私もまだまだ十分にわかっていない点があります。しかし、ここに含まれる問題点を皆さんと共有することで、学びが深まるであろうという期待感がありますので、不十分な理解ではありますが、敢えて取り上げさせてもらいます。
 このローマ1:17の「神の義」については、ルターが苦悩の末に「信仰義認」の理解に至ったという有名な箇所ですので、或いは皆さんの中にもご存知の方がいらっしゃるかもしれません。
 この「神の義」は、ギリシャ語では、「ディカイオスネー セウー(δικαιοσυνη θεου)」と言います。ディカイオスネー(δικαιοσυνη)が「義、正しさ」で、セウー(θεου)が「神の」です。この「神」が、主語として使われる時には「主格」のセオス(θεοs)が用いられますが、今は「義」を修飾する「神の」の意味で使われていますから、「属格」のセウーになっています。「属格」の「属」は「属する」の「属」です。
 さて、この属格のセウーの解釈の仕方が、なかなかの曲者です。曲者という表現は適当ではないかもしれませんが、私にとっては、やはり曲者です。恐らく皆さんも曲者と感じると思います。なるべく曲者と皆さんが感じないようなわかりやすい話し方にしたほうが良いのかもしれませんが、先ほどのローマ3:22と使徒3:16の訳も、同じ問題を抱えていると思いますから、ここでは敢えて曲者ぶりを覆い隠さずに説明することにします。
 この「神の義」の「神の」という属格の解釈を、ローマ・カトリックの教会では主格属格として解釈しています。ルターはその解釈に悩み苦しんだ末に目的格属格で解釈することを見出し、それがプロテスタントの信仰の起源と言われています。
 カトリックの主格属格の解釈、すなわち「神の」という属格を主格的に解釈すると、神が持つ、神の側の義ということになります。この場合の「義」あるいは「正しさ」とは、裁判の判断の基準となる正しさです。そのような神様の側の正しさを基準にすると、とてつもなく高い基準になります。そして人間の側では、その基準に達するように一生懸命に善行と告解を行わなければなりません。ルターは、このことに苦しんだのだそうですね。ルターは真面目でしたから、本当に一生懸命に善行と告解に励みましたが、どんなに励んでも、罪人である自分がとうてい神の基準には達し得ないことに苦しんでいました。
 そんなある時、「神の義」の「神の」という属格を、目的格的に解釈する方法をルターは見出したのだそうです。その場合、「神に対する義」と解釈できることになります。それは神が持つ神の側の義ではなく、私たちに与えられる義です。神が罪人の私たちにも義を与えて下さり、義と認めて下さる、そのようにして与えられる義が「神に対する義」という解釈です。そのような「神の義」をルターは見出したと言うんですね。罪人の私たちにも、神が一方的に与えて下さる義というものがあるのだということです。

もっと広い意味を持つ「神の義」
 あまりわかりやすい話ではないので、このことは、来週また復習したいと思いますが、カトリックの解釈にしてもプロテスタントの解釈にしても、両方とも神の義の「義」を、神を裁判官としてイメージしているのではないかという問題がここにはあります。
 しかし、そのような裁判における神の義ではなく、神を豊かな愛を注ぐ父親としてイメージするなら、神の義の「義」をもっと広い意味での「救い」とすべきではないか、そんなことを私は昨年からの東京で学んでいます。そのように広い意味での「救い」と解釈するなら、敢えて目的格的に解釈しなくてもよくなります。
 このように、この神の義の「義」を法廷で裁く基準としての「義」ではなく、もっと広い意味での「救い」と考えるなら、聖書から得られる恵みは一段と豊かになります。そして、その豊かな恵みはヨハネの永遠観の豊かな恵みともつながっています。ですから、このことに関しては引き続き、来週もまた話をさせていただきます。

おわりに
 きょうは話す時間がありませんでしたが、ローマ3:22の「イエス・キリストの信仰」の「信仰」のピスティスも、人間が持っている小さな信仰ではなく、イエス・キリストのピスティスは、もっと豊かなイエス・キリストの真実さ・誠実さというように解釈するなら、もっと豊かにイエス・キリストの愛の恵みを受け取ることができます。きょうはピスティスの話は全然できませんでしたから、来週はピスティスの話もできたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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6月15日礼拝プログラム

2014-06-12 08:12:10 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月15日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第3聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉(2回)  253
 交  読  エペソ3:14~21
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
       God bless you (382) の練習
 讃 美 ②  God bless you 382
 聖  書  ヨハネ21:20~25
 説  教  『会堂に入りきれない愛弟子の証』 小島牧師
 讃 美 ③  行きて告げよあまねく   476
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の      271
 祝福の御言葉
 後  奏
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熱く燃えなければ伝わらない(2014.6.8 礼拝)

2014-06-08 19:46:33 | 礼拝メッセージ
2014年6月8日ペンテコステ礼拝メッセージ
『熱く燃えなければ伝わらない』
【黙示録3:14~22】

はじめに
 きょうは五旬節、ペンテコステの礼拝です。ペンテコステはイエス・キリストが復活したイースターから50日目に当たります。この日、まずペテロやヨハネなどのガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれました。
 きょうは聖書交読でも聖書朗読でも使徒の働き2章の有名な箇所を読みませんでしたが、やはり、この箇所はペンテコステの礼拝には欠かせないと思いますから、ご一緒に見ておきたいと思います。使徒の働き2章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.228)。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 このように、聖霊は天から地上の弟子たちに下りました。聖霊は復活したイエス・キリストが天に上った10日後に、天の父の御もとから遣わされました。

聖霊により一つになる
 この聖霊については、ヨハネの福音書のイエス・キリストは次のように言っています(ヨハネ14:26、週報p.3)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 聖霊は天の御父がイエス・キリストの名によって遣わす神の霊です。聖霊は私たちにすべてのことを教え、またイエス・キリストが弟子たちに話したすべてのことを私たちにもまた、思い起こさせて下さいます。ですから私たちが天の御父の愛、そしてイエス・キリストの愛を感じることができるのは、私たちの内に聖霊が入り、住んでいて下さるからですね。以前の私たちは神から離れていた者たちでしたが、そのことを悔い改め、イエスが神の子キリストであることを信じましたから私たちには聖霊が注がれ、神の愛を豊かに感じることができるようになりました。
 私たちには一つの神である聖霊が注がれていますから、御霊の一致を保つことができます。私たちは同じ地域に住んでいますが、育った環境は色々と違いますし、性格も違います。年齢も違いますし、得意な分野も能力も違います。こんなに違う私たちですがバラバラにならずに一つになることができるのは、一つの神である聖霊が注がれて一つになることができるからですね。ただ、どれくらい一つになっているかは、教会によって大きな幅があると思います。一つになっているとは言え、かろうじてバラバラにならない程度でしかない教会から、本当に皆が御霊の一致を熱心に保って一つになっている教会まで、いろいろでしょう。私たちの教会は、どの辺りにあるのでしょうか。
 きょう始めに聖書交読で読んだローマ人への手紙ではパウロがローマの教会の人々に、聖霊によって一つになることを勧めています。たとえば12章の4節と5節でパウロは次のように書いています。

12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 そうして、それぞれの賜物を活かして教会のために働くように勧めています。6節から8節までをお読みします。

12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 そして、聖書交読では読みませんでしたが、パウロはまた15節と16節で次のように書いています。

12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 これらのことをパウロが随分と熱心に勧めているところを見ると、ローマの教会は、一見すると一つにまとまっているようでいて、内実は結構バラバラだったのかな、という気もしますね。パウロはこの手紙の書き出しのほうでは、ローマの教会を持ち上げて褒めています(週報p.3のローマ1:8)

1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 このようにパウロはローマの教会のことを賞賛していますが、内実は分裂含みだったのかもしれません。

霊に燃えるなら一つになる
 特にユダヤ人のクリスチャンと異邦人のクリスチャンの間の対立が深刻であったことが伺えます。今度は14章を見てみましょう。14章の1節と2節でパウロはこのように書いています。

14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

 ここにある野菜よりほかに食べない弱い人とは、律法を守るユダヤ人クリスチャンのことのようです。律法によれば豚肉は食べてはいけませんが牛や羊や鳥の肉は食べても良いので、どうして野菜よりほかに食べないのかは良くわかりませんが、いろいろと心配なことがあるのでしょう。ローマはユダヤから遠く離れていてローマの人々は豚肉も平気で食べるでしょうから、牛肉や鶏肉に豚肉が混入している恐れがあるのかもしれません。その辺りの事情はよくわかりませんが、キリスト教には何かを食べてはいけないという食物の規定はありませんから、食べ物のことを気にするクリスチャンは、信仰の弱いクリスチャンであるということになります。そしてパウロは、そういう信仰の弱い人も受け入れなさいと手紙に書きました。そして3節、

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 食べる人も食べない人も、神様は両方の人を受け入れて下さっています。そして、少し飛ばして15節でパウロは、

14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

とまで書いていますから、このローマの教会はほとんど分裂し掛かっていたのかもしれません。このようなローマの教会の人々に対して、パウロは12章で「霊に燃え、主に仕えなさい」と書いています。12章に戻って、11節をご一緒に読みましょう。

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 霊に燃えて主に仕えるとき、私たちは一つの同じ方向を向くことができます。霊に燃えていない時は分裂しそうであっても、霊に燃えるなら一つの方向に向かって進んで行くことができるのではないでしょうか。

生ぬるい信仰ではいずれバラバラに
 では、霊に燃えていない教会とは、どのような教会でしょうか。ローマの教会がそうだったのかもしれませんし、きょうの聖書朗読で読んだ黙示録3章のラオデキヤの教会のような、生ぬるい信仰の教会も霊に燃えていない教会と言えるでしょう。
 黙示録3章の15節と16節を見てください。ラオデキヤの教会に対して、主はこのように言っておられます。

3:15 わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

 教会の信仰が生ぬるいものであれば、その時はたまたまバラバラになっていなかったとしても、ゆるい結束しかありませんから、いずれはバラバラになってしまうでしょう。20節の有名な聖句で主は、

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

と言っておられますね。この有名な聖句の最後にある、「彼もわたしとともに食事をする」には、いろいろな解釈の仕方があると思いますが、今日これまで話して来たことに沿って解釈するなら、「彼もわたしとともに食事をする」とは、教会の者が皆、主の方向という一つの方向を向くことと解釈することができると思います。
 そうなるように主は19節で、

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

と言っておられます。主は「熱心になりなさい」と言っておられます。これはローマ人への手紙の「霊に燃え、主に仕えなさい」と同じですね。
 生ぬるい信仰しか持てないのであれば教会はいつかバラバラになりますが、熱心になるなら、教会は一つにまとまることができます。

良い結果をもたらす熱心さ
 信仰に限らず何事も、熱心にならないよりは熱心になった時のほうが大抵の場合は、良い結果をもたらすことは、皆さんも良くご存知のことと思います。
 熱心で私が思い出したのは、私が前の職場の大学の留学生センターで、日韓プログラムという韓国人留学生を受け入れる留学プログラムの担当になった時のことでした。その留学プログラムは、日本と韓国が国費で半分ずつ費用を出して、韓国の高校を卒業したばかりの韓国人を毎年100名、日本の大学に受け入れるというものでした。大学によって受け入れる人数は異なりましたが、私が勤めていた大学では毎年5~6名を受け入れました。この韓国人留学生に中級・上級の日本語教育(初級は韓国で既に学んで来ていますから)と、高校レベルの数学と理科を日本語で教える教育プログラムの担当に私はなりました。
 その頃の私は、韓国のことをあまり知りませんでしたから、かなり不安になりました。大学院生ですと、かなり大人ですが、高校を卒業したばかりですと、まだまだ幼さもあります。そのような若い韓国人たちの保護者のような役割を務めなければならないということで、私はともかくも、韓国について学ぶことにしました。まずプライベートで韓国に旅行に行きました。それですっかり韓国が気に入りました。それはちょうど2000年のことで、まだ『冬のソナタ』が放送される前のことでしたが、韓国ブームが起きる気配が漂い始めているような時期でした。その頃に『シュリ』という韓国映画が日本でもヒットして、東京では韓国映画を掛ける映画館が増えていた時期でしたから、私はなるべく韓国映画を観に行くようにして、そして韓国語の勉強も始めて、どんどん韓国が好きになって行きました。それは無理をして好きになったわけではなく、韓国映画を本当に面白いと感じましたし、韓国語の勉強も楽しかったですから、熱心に学びました。そんな風に私が韓国のことを熱心に学んでいることが学生にも自然と伝わりますから、彼らの方でも私に好感を持ってくれて、良い関係が築けたと思います。このことがやがて、私が韓国人クリスチャンに教会に連れて行ってもらうことにもつながって行くわけですが、何事においても熱心であることは、時と場合にもよると思いますが、大抵の場合、良い結果をもたらすと思います。
 韓国に熱心になったおかげで私はクリスチャンにもなりましたし、その後は、下関と釜山の日韓の高校生の交流を描いた『チルソクの夏』という映画を応援するようになり、そのことから映画関係の友人が出来て、また映画の応援だけでなく映画音楽の作曲家や演奏家のコンサートにも行ったり、俳優の舞台公演も観に行ったりして、音楽や演劇の応援もするようになりました。これらは私の世界を広げてくれて、とても良い経験をさせていただいたと思っています。私が応援した映画関係者や、音楽家や俳優さんたちは、皆さん本当にご自身の仕事に熱心に取り組んでおられますから、なおさら応援したくなるのですね。何かに熱い想いで取り組んでいる人々は本当に魅力的で、その魅力に引き込まれて応援したくなります。

『アオギリにたくして』
 いま私は、この会堂にもチラシを貼った、『アオギリにたくして』という映画を応援したいと思っています。先週の5日の木曜日に沼津で無料の試写会がありましたから、観て来ました。そして7月17日の沼津で空襲があったという日には有料の上映会があります。7月17日は木曜日で私は特に予定もありませんから、また必ず観にいくつもりでいますし、1000円の前売券を余分に買ってありますから、皆さんの中で観に行って下さる方がいれば、お分けしたいと思います。この『アオギリにたくして』のアオギリとは、広島の原爆で被爆した木のことです。このアオギリの木は被曝して黒焦げになりましたが、何とその翌年に新芽を吹いて葉っぱを付けて、広島の多くの人々に希望を与えたと言われています。この映画のヒロインのモデルになった沼田鈴子さんという広島の原爆被害の語り部も、このアオギリの若葉を見て勇気をもらい、ドン底から立ち上がることができました。このように人々に希望を与えた黒焦げのアオギリを、私は復活したキリストのようにも感じます。ですから、この映画を私は沼津の上映においてはもちろん応援しますし、これからも全国各地で上映されますから、応援し続けて行きたいと思います。
 この映画は原爆と被爆者という重い内容の映画ですので、一般の映画館ではあまり興行収入が見込めず、商業ベースには全く乗らない映画です。それでも、この映画の製作者たちは、この映画はどうしても世に出さなければならないという熱い想いを持ち続け、最終的に何千万円掛かったかわかりませんが、借金をして撮り、今回の7月17日の沼津での上映会のように1日単位の上映会を全国で行いながら、細々と資金を回収して借金を返済しているのだと思います。会場を借りるにも使用料が掛かりますし、舞台挨拶をされるプロデューサーさんの交通費や滞在費も掛かるわけですから、もし観客が集まらなければ却って赤字が膨らんでしまいます。それで少しでも資金を回収できるように会場ではアオギリのイラストが入ったTシャツやエコバックを募金用ということで、少々高い値段で販売しています。そういう涙ぐましい努力をしてでも、何としてでも、この被爆者の体験を世に伝え、平和のために働くんだという熱い気持ちがありますから、その熱い想いが全国各地のボランティアの心を動かして上映会が開かれています。来年には海外での上映も行いたいとプロデューサーさんは挨拶で言っておられました。その熱い想いに触れると、私のようにお金があまり無い者でも心を動かされて前売券を何枚も買ったり、Tシャツを買ったりします。

熱い想いで前進したい
 人の熱い気持ちには、このように周囲の人々を動かす力があります。逆に熱くなっていない人には、誰も協力しようという人はいません。私は教会の会堂の問題も同じであろうと思います。先日の幹事会で、この会堂の屋根の葺き替えにどれくらいの費用が掛かるかの見積りを取ることになりました。BAからもそのような助言がありましたから、一応私も業者との連絡を取り始めていますが、見積りをしに来てもらうには至っていません。それは、私が屋根の葺き替えだけを行うことには、あまり熱心でありませんから、その雰囲気が業者さんにも伝わってしまっているのだと思います。もし他の選択肢が無くて屋根の葺き替えだけが唯一の選択肢であれば私も熱心に業者さんと交渉をして、良い工事をしてもらえるように頑張ると思います。しかし、屋根の葺き替えだけを行うことに私は熱心になれません。それはそうですよね。廣瀬先生の時から新会堂、新会堂と言い続けて来たわけですから、新会堂の建設に着手せずに屋根の葺き替え工事だけを行うことに熱心になれるわけがありません。そんな雰囲気が業者さんにも伝わってしまって、来てもらえないのだろうと思っています。
 私たちは、屋根の葺き替えという、熱くも冷たくもない選択肢を残しておくべきでしょうか。私たちは、いつかは熱くなる時を持たなければなりません。だったら早いほうが良いのではないでしょうか。ですから私は屋根の葺き替えという熱くも冷たくもないことには熱心になれません。もっともこれは、私の個人的な考えですから、皆さんと共に考えて行かなければなりません。
 一つ、今の私たちにハッキリと分かっていることは、私たちにはあまりお金が無いということです。では、お金が無い時には、あまり熱くなって動かないほうが良いのでしょうか。私は必ずしもそうではないと考えます。何故なら、私たちには「ヨハネの永遠観」という素晴らしい宝物が与えられているからです。これを上手に活用するなら、私たちは多くのものを得ることができると私は信じています。
 私は今年の2月まで半年以上掛けて、『ヨハネの福音書の永遠観』というA4で約100ページの原稿を書き上げました。残念ながら、この原稿はあまり理解していただくことができませんでしたから、いま私は第二弾に取り掛かり始めているところです。この第二弾にどれくらい時間を掛けるかわかりませんが、同じく半年ぐらい掛けてみて、それでもダメなら第三弾に取り組もうと思います。そうしていつかはヨハネの永遠観という宝物は私たちに必ずや多くのものをもたらすと信じています。
 最近になって私が取り組み始めた第二弾では、私はヨハネの第一の手紙に返信するという形式を取っています。ヨハネの永遠観の場合、私は2世紀以降のオリゲネスやアウグスティヌス、ルターやカルヴァン、そして20世紀や21世紀の注解者たちのヨハネ文書に関する注解はほとんど参考にならないという立場を取っています。そういう傲慢なことを言っていては、なかなか聞いてもらえませんね。それで私は、ヨハネの第一の手紙に直接返信するという手法で文章を書き始めています。ヨハネの第一の手紙には宛先が書いてありませんから、私に直接宛てて書かれた手紙だと思って私もヨハネに直接返信を返すことにすれば、途中の時代のアウグスティヌスやルターを飛ばしても構わないわけです。
 この試みが上手く行くかは、私の文章力に掛かっています。あまり自信がありませんが、いまNHKの朝ドラで放送している『花子とアン』の花子も自分で書いた新しい小説が編集者に認められたところですから、私も、こぴっと頑張らねばと思っています。このヨハネへの返信はツイッターでもつぶやき始め、それらをまとめたものを教会のブログにもアップさせていただいていますから、皆さんにも応援していただけたらと思います。

おわりに
 このように、いまお金が無くても、私たちが何かに熱く取り組み始めるなら、事態は少しずつ良い方向に動いて行くのではないか、そんなふうに私は思っています。特にインターネットの活用には皆さんにも熱心に参加していただければ感謝だなと思っています。いずれにしても、どんな方向に行くにしても、私たちはもちろん、御霊の声に耳を傾けなければなりません。
 最後に、3章22節をご一緒に読みましょう。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

 御霊の言われることを聞き、霊に燃えているなら、御霊は必ずや私たちを良い方向へと導いて行って下さると思います。ペンテコステの日の今日、そのことを信じて、御霊の導きに従って行く私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

ヨハネの手紙第一への返信(3)

2014-06-07 07:52:20 | 牧師のつぶやき
Togetterでのまとめ http://togetter.com/li/677017

2014-06-07 06:26:25
拝復ヨハネ様(19)
貴兄のヨハネの福音書から御父・御子・聖霊の三位一体の神の愛が豊かに溢れ出ていることを霊的に感知している人は大勢いるのに、この書は御父が主役の旧約時代・御子イエスが主役の時代・聖霊が主役の使徒の時代の三つを重ねていることに人々が気付いていないのは何故でしょう。

2014-06-07 06:36:55
(20)
例えば貴兄はヨハネ2章のカナの婚礼でイエスが水をワインに変えた場面をモーセがナイル川の水を血に変えた旧約の時代と、ガリラヤ人の弟子たちに聖霊がが下った使徒の時代とを重ねていますね。ペンテコステの日は水のきよめからイエスの血によるきよめに変わった記念すべき祝祭の日ですね。

2014-06-07 06:49:15
(21)
この最初の聖霊の恵みの日を貴兄は「最初のしるし」(ヨハネ2:11)と呼ぶことにしたのですね。聖霊は御父がイエスの名によって遣わしますから(ヨハネ14:26)、貴兄は旧約の時代・イエスの時代・使徒の時代の三つを重ねることで新約の聖霊の恵みを表現したのだと私は捉えています。

2014-06-07 07:03:46
(22)
また貴兄はヨハネ3章のニコデモに旧約の時代の律法の授与と使徒の時代のユダヤ人への聖霊の注ぎとを重ねましたね。サマリヤの女が登場する4章では旧約のエリヤ・アハブ王の時代と、使徒の時代のサマリヤ人への聖霊の注ぎとを重ねましたね。貴兄は1~11章で三つの時代を重ねています。

2014-06-07 07:14:59
(23)
ヨハネの福音書のイエスは東西南北を頻繁に移動しますが、それは旧約聖書の舞台の移動と同期していますね。イエスが1章と10章でヨルダンの東にいる時に旧約の舞台はハランとバビロンにあり、4章と6章でイエスが北にいる時には旧約の舞台は北王国にありますね。御父と御子とは一つです。

2014-06-07 07:32:23
(24)
貴兄は使徒の時代も1~4章では聖霊のガリラヤ人→ユダヤ人→サマリヤ人→異邦人への注ぎを背後で描き、この異邦人への聖霊の注ぎが「第二のしるし」(4:54)ですね。これら旧約の時代と使徒の時代は聖霊の働きが無ければ見えて来ないと思いますが、それは貴兄の意図でしょうか。在主
コメント

ヨハネの手紙第一への返信(2)

2014-06-06 19:38:09 | 牧師のつぶやき
Togetterでのまとめ http://togetter.com/li/676777

2014-06-06 15:33:21
拝復ヨハネ様(7)
貴兄の手紙に直接の返信をすることを思い付いて、本当に良かったです。どうも私が考えていることは、なかなか人に理解してもらえません。『ヨハネの福音書の永遠観』という本の原稿を半年以上掛けて書いたのに、原稿を送付した方々からはほとんどコメントを頂けませんでした。

2014-06-06 15:39:14
(8)
もちろん神様は私のことを理解して下さっています。神様が私にヨハネの福音書について宣べ伝える使命を私に与えたのですから、それは当然です。しかし、神様以外の誰にも理解してもらえないことを言い続けるのはシンドイです。でも貴兄なら、私の考えが間違っていない限り理解してもらえます。

2014-06-06 15:50:28
(9)
そして貴兄に直接返信することの最も良い点は、2~21世紀の先人たちから自由な立場でいられることです。私の考えることの多くはこれまで誰も考えたことが無いことですが、それを言うと傲慢と思われるか無視されるかのどちらかです。偉い先生の成果を土台にしないと取り合ってもらえません。

2014-06-06 16:00:02
(10)
例えば(3)~(6)に書いた、手紙と福音書はセットで考えるべきということを無名の私が学問の場で発表しても耳を傾けてもらえないでしょう。しかし手紙と福音書がセットということは聖霊の働きによってわかることですから、そもそも聖霊の働きを信じない学者には理解不能なことなのです。

2014-06-06 16:21:53
(11)
聖霊の働きによって私に与えられた貴兄の手紙と福音書についての新発見を世の人々に説明するのは本当に難しいことで、どうしたら良いのか私も大いに悩みましたが、貴兄とのこのような対話自体が聖霊の働きの中でしか成り立たないことですから、聖霊に導かれて上手く行きそうな気がします。

2014-06-06 16:33:58
(12)
聖霊のことは聖霊に任せよというわけですね。霊的なことを人にわかりやすく説明することは非常に困難ですが、このように聖霊の働きの中で貴兄と対話をしながらなら、できるかもしれません。遅い歩みになると思いますが、忍耐強くお付き合いいただけると感謝です。よろしくお願いします。在主

2014-06-06 17:50:36
拝復ヨハネ様(13)
これまでの返信文を通して、貴兄の手紙と福音書は聖霊の働きを通してのみ理解できることを私自身も改めて確認できましたから感謝です。貴兄の手紙によればヨハネの福音書は御父と一つの御子を通して私達が永遠の命を知るための書ですから理解には本当に聖霊の働きが必要ですね。

2014-06-06 17:58:06
(14)
ですから貴兄が書いたヨハネの福音書は、マタイ・マルコ・ルカの福音書とは全く目的が異なる書なのですよね。マタイ・マルコ・ルカは御子の言動を読者が知ることが目的ですが、ヨハネの福音書は永遠の命について霊的に知ることが目的ですね。ですから霊性が眠ったままの人には理解不能です。

2014-06-06 18:08:26
(15)
ヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは根本的に異なる書であることを私は人になかなか理解してもらえなくて苦労していますが、人々が四福音書を一くくりにして考えるようになったのは何時からなんでしょう。貴兄の時代にはもちろん、貴兄の福音書は別の書とされていたでしょう。

2014-06-06 18:29:23
(16)
しかしエイレナイオスやオリゲネスの時代には既にヨハネの福音書を貴兄の手紙に沿って解釈することが出来ていないように見えますから、私達が貴兄の福音書を正しく理解するには、2世紀以降の注解はほとんど参考にならないことになりますね。このことを理解してもらうのは本当に難しいです。

2014-06-06 18:39:43
(17)
貴兄の手紙に沿って福音書が理解されなかったことは残念なことでしたが、そこにも主の御心があるのでしょうか。いずれにしても、貴兄の手紙と福音書の理解が今からでも進むよう、何とかしなければなりません。私自身の理解もまだまだですから、多くの人々が交わりに入ることを願っています。

2014-06-06 18:43:43
(18)
次回の返信文から、いよいよ貴兄の手紙に沿った形でのヨハネの福音書の理解の仕方について提示し、それらを貴兄に確かめていただきたいと思っていますから、どうぞよろしくお願いします。在主
コメント

ヨハネの手紙第一への返信(1)

2014-06-06 12:48:20 | 牧師のつぶやき
 ツイッターで、「ヨハネの手紙第一への返信」という連続ツイートを始めました。
 Togetter↓で読めますが、こちらでも読めるようにします。
 http://togetter.com/li/676675

2014-06-05 06:51:10
ヨハネの手紙第一への返信1
拝復ヨハネ様
お手紙ありがとうございました。いただいたお手紙を何度も何度も読み返しました。初めは何が書いてあるのか、さっぱりわかりませんでしたから(笑)、返信が遅れてしまって、すみませんでした。これから時々お便りしますので、よろしくお願い致します。在主

2014-06-05 07:06:37
返信2
拝復ヨハネ様
私たちに永遠のいのちを伝えて下さるとのこと、本当に感謝です。お手紙によれば貴兄たちは、このいのちのことばが現れた時に、単に見たり聞いたりしただけでなく、手でさわりもしたそうですね。今の私たちにそれはかなわないことですが、貴兄が詳しく伝えて下さり感謝です。在主

2014-06-06 10:23:37
拝復ヨハネ様(3)
そろそろ本題に入ります。貴兄は「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝える」(1:3)と書きましたが、「見たこと」はこの手紙のどこにも見当たりません。ということは、この手紙は福音書とセットと解釈して良いですか?「見たこと」は福音書にあるのですね?在主

2014-06-06 10:46:38
拝復ヨハネ様(4)
つまり貴兄が「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます」(1:2)と書いた証は、この手紙ではなく福音書の方に書いてあると理解してよろしいですね。手紙と福音書がセットと考えると俄然わかりやすくなります。在主

2014-06-06 11:13:19
拝復ヨハネ様(5)
すると福音書には「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」(1:2)のことが書いてあることになりますね。これは福音書を解読する上で極めて重要な情報ですね。福音書は

旧約の時代
イエスの時代
使徒の時代

が並行すると手紙が示していると理解できます。在主

2014-06-06 11:47:19
拝復ヨハネ様(6)
貴兄の手紙の「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり」(1:3)は福音書の構造がわかって初めて理解できるものなのですね。一つである御子と御父(ヨハネ10:30)から聖霊が遣わされて私たちは交わりに入れられ、全き喜びが得られるのですね。在主
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なまぬるさの行き先(2014.6.4 祈り会)

2014-06-05 08:51:21 | 祈り会メッセージ
2014年6月4日祈り会メッセージ
『なまぬるさの行き先』
【黙示録3:14~22】

3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

はじめに
 次の聖日は、ペンテコステ礼拝です。ペンテコステ礼拝では、御霊の一致について語ることを随分前から考えていましたが、昨日から、黙示録のこの箇所から語ることを示されています。特に15節の、

3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

がずっと、私の心の中で響いています。ただし、礼拝でここから語るのは、少々過激な気もするので、躊躇する思いもあります。そこで、まず今日のこの祈り会で語らせていただくことにしました。そうして、なお礼拝でも語る必要を感じるのであれば、そうして、祈り会だけにとどめておくべきと示されたなら、そのようにしたいと思います。

なまぬるさの悪
 さて、昨日、何があったかと言うと、屋根にまた上がって、雨漏りが心配な箇所を補修する作業をしました。それで、この今の会堂を維持し続けて行くことは、冷たくもなく熱くもないことをしている、そんな風に思ったわけです。
 これまで私は、神学生の時から、黙示録3:15の、「あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」が、今ひとつわからないでいました。熱いのが良いのはよくわかります。しかし、なまぬるいのと冷たいのでは、冷たいほうが良いというのが、今ひとつわかりませんでした。なまぬるいのが良くないのはわかりますが、冷たいよりはマシではないかという気がしていました。そんな私でしたが、屋根の補修を黙々としているうちに、なまぬるさの悪がわかって来た気がしました。
 なまぬるさの悪さで良く言われるのが、カエルをぬるま湯に入れて、段々熱くしていく例えですね。カエルはお湯の温度に慣れて逃げ出さず、やがて茹でガエルになってしまうという話です。このことに、会堂問題も少し似ているような気がします。
 私は今、50代の半ばで、まだまだ体力はあるつもりでいますが、屋根の補修作業をしていて、やはり30代、40代の時よりも体力が落ちたことを感じます。それで、60代になったら、この作業はできないだろうと感じています。もしこの先も何年間か続けて会堂の補修作業を黙々と行っているうちに、気付いたら体力的にも、財勢的にも、会堂を維持して行くことができなくなる可能性が大きいと思います。
 この機会に、この作業が60代では何故厳しいかを話しておきたいと思います。
 まず、重量が約16キログラムあって延ばすと7メートルになる2連ハシゴを、狭い敷地の中で建物にぶつけない様に、慎重に立てるのに、けっこう力を使います。建物が箱型なら、壁にハシゴを立て掛けたままでハシゴを伸ばせは良いのですが、この教会の建物は屋根が大きく張り出していますから、壁からハシゴを離した不安定な状態でハシゴを伸ばさなければなりません。このハシゴを伸ばす過程で万一ハシゴを倒してしまって、隣か裏のお宅にぶつけたりしたら大変なことになります。ハシゴが自分の予定していない方向に倒れ始め、倒れる角度がある程度以上になるなら、腕力では支え切れなくなります。ですから狭いスペースの中で上手にバランスを取りながら慎重にハシゴを立てます。そしてまた、一人でハシゴに上っても絶対に横倒れしないように、足場をしっかりと固めるので、この準備段階で1時間は使います。そうして、屋根に上って補修作業をするのですが、心配な箇所は無数にありますから、黙々と補修を続けます。立ったりしゃがんだりしながら移動して行きますから、スクワットをしているのと同じで、だんだん腿がパンパンになって来ます。熱いですから、熱中症にならないよう、こまめに水分も取ります。そして、上での作業であまり体力を使ってしまうと降りる時が心配ですし、ハシゴを撤去する時も隣のお宅にぶつけないようにバランスを取りながら慎重にハシゴを倒して移動させますから、終わった後は、ヘトヘトになっています。ですから、60代になったら、この作業はできないだろうと思います。もし隣に家が無くて、もっとハシゴを立て易い状況にあれば、60代になってもできるかもしれませんが、今のこの敷地では、無理だと思います。或いはまた、前任の先生がしていたように、2階のベランダにハシゴを立てるなら、もっと短くて軽いハシゴになりますから、60代でも扱えるかもしれません。しかし、今の2階のベランダは腐食が進行してハシゴをガッチリと固定できない状況にありますから、私はベランダにハシゴを立てるつもりはありません。今私たちは、屋根の葺き替えを選択肢に入れてこれからの方向を探っていますが、もし屋根を葺き替えるとしたら、今後、屋根の状態を頻繁にチェックできるよう、ベランダも補修したほうが良いのかもしれません。そんな風にして、この会堂を維持し続けることは、熱くもなく冷たくもない状態を維持して行くような気がしてなりません。
 これまで私は、熱くもなく冷たくもない状態とは、ずっと生ぬるい状態が続くことと思っていましたが、そうではなく、生ぬるい状態とは、緩やかに終わりに向かって行くことなのだと、今回、気付かされました。

霊に燃えよう
 では、私たちは、どうしたら良いのでしょうか。それは、まず精一杯熱くなることしかないのではないでしょうか。そして、もし精一杯熱くなる努力をしても結果が出ないなら、教会としては冷たくなることを選択することも視野に入れるということになります。もちろん、今はそんな段階ではありませんから、精一杯熱くなりたいと思います。
 とは言え、私たちにはお金がありません。お金が無い私たちは、どうしたら良いのでしょうか。お金が無い私たちが精一杯熱くなるには、まず霊に燃えることではないか、そんな風に思います。
 ローマ人への手紙12章11節と12節を、交代で読みましょう。

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 霊に燃えるには、まず霊性を高める必要があると思います。霊性を高めるには、どうしても、過去→現在→未来という直線的な時間の流れの縛りから自由になる必要があります。
 私は昨年、半年以上掛けて、ヨハネの永遠観に関する本の原稿を書きましたが、どうもわかってもらえませんでした。それで、この原稿はボツにすることにしましたが、それは決して無駄ではなくて、この書き方ではダメだという収穫を得ることができました。
 それで、いま私は第2弾を書く準備を進めています。今度は、「永遠」という言葉はなるべく使わないつもりですが、書くことは、やはり「永遠」についてです。永遠の時間の中を縦横無尽に自由に思い巡らすことができるようになることは、本当に素晴らしい恵みですから、何とかして多くの方々と同じ恵みを分かち合いたいと願っています。そして、この恵みを多くの方々と分かち合えるなら、キリスト教の将来は、全く心配する必要はないと思っています。
 この恵みを分かち合うことで皆の霊性が高まり、霊的な一致を熱心に保つことができるなら、たとえ私たちにお金が無くても、いま私たちが全く考えてもいない新しい道が示されるだろうと私は楽観しています。ただし私たちの霊性が高まっていないのなら、主が私たちに掛けて下さっている声も、聞き取ることができないでしょう。

御霊が言われることに耳を傾ける
 黙示録に戻りたいと思います。3章22節に「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とあります。
 このことばは、7つの教会のすべてに書き送られています。2章1節に「エペソの教会の御使いに書き送れ」とあり、7節に、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とあります。同様に、8節に「スミルナの教会の御使いに書き送れ」とあり、11節に「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とあります。こうして、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤの7つの教会のすべてに「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」と主は言っておられます。

おわりに
 ですから、私たちは御霊の声を聞くことができるように、霊的な耳を研ぎ澄まさなければなりません。もし私たちが永遠と言う時間の中を、縦横無尽に思い巡らすことができるようになるなら、霊性が高まり、霊的な耳を研ぎ澄ますことができるであろうと思います。
 しかし、霊的に熱くも冷たくもない状態を保つなら、それはなかなか難しいであろうと思います。ぜひ霊性を高め、御霊の声に耳を澄ますことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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6月8日ペンテコステ礼拝プログラム

2014-06-05 08:05:50 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月8日 ペンテコステ礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第2聖日ペンテコステ礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             関姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖霊よ 主のそばに    171
 交  読  ローマ12:1~12
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  御霊は天より       173
 讃 美 ③  スピリット・ソング     57
 聖  書  黙示録3:14~22
 説  教  『熱く燃えなければ伝わらない』 小島牧師
 讃 美 ④  あなたの願いのままに   175
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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