インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

主の恵みの年を知らせるために(2016. 11.27 礼拝)

2016-11-28 08:45:10 | 礼拝メッセージ
2016年11月27日アドベント第1礼拝メッセージ
『主の恵みの年を知らせるために』
【ルカ4:16~21】

はじめに
 きょうから主のご降誕を待ち望むアドベントに入ります。礼拝では福音書からイエスさまのことを学びながら、クリスマスまでの時を過ごしたいと思います。

ガリラヤで宣教を開始したイエス
 きょう開いているルカ4章の箇所は、イエスさまがガリラヤで宣教活動を開始したばかりの時に、ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読んだ箇所です。イエスさまが宣教を開始したのは、およそ30歳の時であったことがルカ3章の23節に記されています。
 どうして20歳ではなかったのか。或いは、どうして40歳ではなかったのか。もしイエスさまが20歳で宣教を開始していたら、どんな感じだっただろうか。40歳で宣教を開始いていたら、どんな感じだっただろうか。いろいろ想像してしまいます。いずれにしても30歳という年齢が一番ふさわしい年齢だったのでしょうね。イエスさまはおよそ30歳で宣教を開始されました。ルカ4章の14節から見て行きましょう。
 
4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。

 14節に、イエスさまの「評判が回り一帯にくまなく広まった」とあります。逆に言えば、それまではイエスさまは特に評判にはなっていなかったということですね。イエスさまはナザレでひっそりと暮らしていたようです。ルカはイエスさまが12歳の時にエルサレムの神殿で人々の注目を集めていたことを記していますが、ガリラヤではまったく注目されていなかったのですね。
 ガリラヤで評判になった時、イエスさまは御霊の力を帯びていました。少し戻って、3章の21節と22節に、イエスさまがバプテスマを受けた時のことが記されています。21節と22節を交代で読みましょう。

3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 この時からイエスさまは、自分がこれから為すべきことを、はっきりと自覚したのでしょうね。この時点で、やがて十字架に付くことまでを自覚していたかどうかはわかりませんが、きょうの聖書箇所でイザヤ書を開いて、これがご自身のことだとおっしゃいましたから、恐らくイザヤ53章のしもべがご自身のことだという自覚も持っていたのではないかなという気がします。

実際面での意味と霊的な意味
 では、そのイエスさまがイザヤ書を読んだ箇所に進んで行きましょう。4章の16節と17節を交代で読みましょう。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

 聖書のことばは、当時は巻物に記されていたと言われています。イエスさまはイザヤ書61章を読み始めました。18節から21節までを交代で読みましょう。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 まず21節から見ると、イエスさまは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」とおっしゃいましたから、18節の「わたし」がご自身のことであると、はっきりと宣言したということです。
 18節、「わたしの上に主の御霊がおられる」。イエスさまは御霊の力を帯びていましたから、まさにその通りでした。そしてイエスさまは、まさに弱く貧しい人々に対して福音を宣べ伝えました。
 そして、「捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために」、は実際的なことと、霊的なことの二つの意味で見ることができると思います。実際のこととして捕われ人を見るなら、たとえば貧しさの故に盗みを働いてしまい、捕われたような人々です。心が邪(よこしま)だから盗んだのではなく、不幸な境遇に生まれ育ち、どうしようもなくて盗んだような人々は憐れみをもって赦免されるべきでしょう。そして、霊的な意味で言えば、神様から離れる罪に囚われている人々ですね。昔も今も、神様に愛されていることを知らずに神様から離れている人々がたくさんいます。私たちもまた、そのような者たちでした。この不信仰の罪は本来なら赦されない大きな罪ですが、イエスさまが十字架に掛かることで、私たちはこの大きな罪を赦免されました。
 盲人の目を開くことも同様です。イエスさまは実際に目が見えない人の目を見えるようにしましたし、私たちのように目が見えていても霊的には盲人であった者たちに聖霊を与えて下さり、霊的な目を開いて下さいました。

ザアカイの場面に見られるヨベルの年の恵み
 「しいたげられている人々を自由にし」には、ザアカイの場面を思い出します。人々はローマ帝国が課す税金に苦しめられていました。そしてザアカイのような取税人は私腹を肥やして富んでいました。しかしザアカイはイエスさまと出会ったことで、自分が蓄えていた財産の半分を人々に分け与えることにしました。
 ザアカイの箇所を、ご一緒に見てみましょう。ルカ19章です。まだ時間がありますから、1節から10節まで、ザアカイの箇所を全部、交代で読みましょう。

19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 ここでイエスさまは罪人のザアカイを罪から救い出しただけではありません。ザアカイが蓄えた財産が人々に分け与えられることになりましたから、不公平が是正されることになりました。これは、先週まで3回にわたって学んだ、ヨベルの年の恵みと同じですね。
 ルカ4章に戻って、4章19節をお読みします。

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。

 まさにヨベルの年の恵みと同じ恵みがイエスさまによって告げ知らされました。この時、人間のイエスさまは紀元1世紀にいましたが、霊的なイエスさまは永遠の中にいて、イザヤ書の時代にもいて、ヨベルの年の恵みが告げられたレビ記のモーセの時代にもいました。

私たちにも託されている福音を伝える働き
 そして霊的なイエスさまは21世紀の現代にもいます。イエスさまは聖霊が注がれた私たちクリスチャンの中にいます。そしてイエスさまは私たちにも福音を伝えるようにと私たちを促しています。
 イエスさまが教えを宣べ伝えていた時代、ユダヤはローマ帝国に支配されていて、ザアカイの記事からもわかるように、一般庶民は苦しめられていました。一部の者はザアカイのように富んでいましたが、大部分の者たちの暮らしは苦しいものでした。
 現代もまた格差社会と言われますから、似た一面があると思います。もちろん1世紀と21世紀では、いろいろと違う面がありますが、一部の大金持ちがいて、その他大勢は生活が苦しいという構造は似た面があると思います。これは、いつの世でもそうだったわけではないと思います。私が子供の頃は、一億総中流社会などと言われていましたから、今よりは格差が無かったのだろうと思います。しかし、今の日本は格差が広がっており、欧米においても、そのようになっているようです。
 先日、アメリカで行われた大統領選挙でも、格差が大きくなったことに怒った貧しい白人層の多くがトランプ氏に投票したと言われています。
 しかし、トランプ氏はイエスさまではありませんから、トランプ氏が大統領になっても格差が解消されることはないだろうと思います。
 これから世界はどのような方向に向かって行くのかを考えると、私は本当に暗い気持ちになります。聖書に照らして考えてみれば、トランプ氏のように差別的な発言を繰り返して、それを罪と感じないような人物に多くの人が投票するとは、いったいどうなっているのだろうと思います。
 私の予測が間違っていれば幸いですが、私は来年以降、世界はますます悪い方向に向かっていくだろうと思います。しかし、イエスさまとしっかりとつながっているなら、私たちは恐れることはありません。もしイエスさまがいらっしゃらないなら不安で仕方がない日々を過ごさなければなりませんが、イエスさまとつながっているなら、心に平安が与えられますから、本当に幸いなことだと思います。

おわりに
 イエスさまは、こんな私たちに恵みを告げ知らせるために、この世に人として生まれて下さいました。
 このことを、しっかりと心に刻んで私たちはイエスさまの福音を地域の方々にお伝えして行きたいと思います。最後に、ルカ4章の18節と19節を、もう一度ご一緒に読んで、終わることにします。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
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11月27日アドベント第1礼拝

2016-11-25 08:22:08 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月27日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2016年 アドベント第1礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  久しく待ちにし        59
 交  読  詩篇115篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  ベツレヘムに生まれて    103
 讃 美 ③  神の御子は今宵しも      91
 聖  書  ルカ4:16~21
 説  教  『主の恵みの年を告げ知らせるために』 小島牧師
 讃 美 ④  天なる神には         90
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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11月20日宣教聖日礼拝プログラム

2016-11-17 01:43:56 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月20日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第3聖日 宣教聖日礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                関 姉

 前  奏
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  詩篇114篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 D V D  宣教ビデオ
 聖  書  イザヤ61:1~3
 説  教  『ヨベルの年の恵み(3)』 小島牧師
 讃 美 ④  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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ヨベルの年の恵み(2) (2016.11.13 礼拝)

2016-11-15 04:16:46 | 礼拝メッセージ
2016年11月13日礼拝メッセージ
『ヨベルの年の恵み(2)』
【レビ記25:23~28】

はじめに
 きょうはヨベルの年の恵みの学びの2回目です。このシリーズは来週までの3回のシリーズの予定です。
 きょうの前半は先週の学びの復習をします。そして後半はレビ記の次の民数記を見て、イスラエルの民が神様の愛に全く応答することができていなかった様子について、ご一緒に学ぶことにしたいと思います。

神の愛がたっぷりと含まれている律法
 では、まず先週の学びの復習を簡単にします。
 使徒の働きの学びを中断して「ヨベルの年」について学ぶことにしたのは、来年の月定献金の献金袋に、教会の設立50周年にちなんでレビ記のヨベルの年についてのみことばを刷り込むことにしたからです。レビ記25章10節には、「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である」とあります。このレビ記25章のみことばを刷り込んだ献金袋は12月に献金袋をお返しする時に一緒にお渡しします。
 ヨベルの年の説教を3回のシリーズにするのは、1回だけだと、たまたまその日に礼拝を欠席した方と、ヨベルの年の恵みについて分かち合うことができなくなってしまうからです。
 そして先週はまず、律法には神様の愛がたっぷりと含まれているという話をしました。この神様の愛を感じるなら、律法もまた神様がイスラエルの民に与えた素晴らしい恵みであることがわかります。例えばレビ記の1章には次のような記述があります。

「若い牛は、【主】の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。」(レビ記1:5-6)

 このような、いけにえについての細かい命令は、この部分の表面的な字面だけを眺めていても恵まれることは決してないでしょう。しかし、主はイスラエルの民を愛していましたから、人々がご自身から離れてしまうことがないように、一つ一つの命令に愛を込めて人々に与えました。ですから、膨大な数の律法の命令には神様の莫大な愛が含まれています。このことを私たちは是非とも、感じ取りたいと思います。イスラエルの民の信仰はまだ幼いものでしたから、ちょっと目を離すとすぐに迷い出てしまうような者たちでした。そんな信仰の幼いイスラエルの民に対して神様は幼子に言い聞かせるように、愛を持って多くの律法を与えました。

神の恵みの中で生きるイスラエルの民
 レビ記25章の命令でも、神様はご自身の民が神様から離れることがないように、神様の恵みの中を生きることができるようにと、7年目には収穫をしてはならないと命じています。25章の2節から4節までをお読みします。

25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。

 では、収穫がない7年目はどうしたら良いかというと、それは20節から22節までに書いてあります。

25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、
25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。

 7年目に収穫を得なくても6年目に7年目の分までたっぷりと収穫を与えてあげるから心配するなと主は仰せられます。畑の収穫物はイスラエルの民が自力で得るものではなく、主が与えて下さるものです。こうしてイスラエルの民は主の恵みの中で生きることができます。

ヨベルの年の恵み
 そして、この7年のサイクルを7回繰り返して49年が経った翌年がヨベルの年になります。少し飛ばして10節、

25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。

 ヨベルの年には人も土地もリセットされます。49年の間に、いろいろな事情で人が奴隷になってしまっていたり、土地が人手に渡っていたりしても、50年目のヨベルの年にはリセットされて人も土地も元に戻ります。それは、人も土地も全ては主に属するからです。
 23節で主は「地はわたしのものである」と仰せられています。23節、

25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。

主の下ではすべての人は平等です。ですから色々な事情で特定の人が富み過ぎたり、貧しくなり過ぎたりしたとしても、主は50年ごとにリセットして、平等にして下さいます。これがヨベルの年の恵みです。このヨベルの年を学ぶと、律法には神様の愛がたっぷりと含まれていることがさらに良くわかると思います。

入ることが保証されている約束の地
 この土地に関する命令で注意しなければならないことは、このレビ記の段階では、イスラエルの民は、まだ約束の地に入っていないということです。25章2節をもう一度お読みします。

25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。

 「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき」とありますから、この土地に関する命令は、約束の地に入って初めて実行することができるものです。
 モーセの十戒の第一の戒めの「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というような命令でしたら、今すぐに始められることです。しかし、土地に関する命令は、その土地に入らなければ始められないことです。ですから、約束の地に入ってから与えても良さそうなものです。それにも関わらず、主が前もってイスラエルの民に土地に関する命令も与えたということは、主は必ず約束の土地を与えて下さるということです。
 主はこれらの律法の命令を、シナイ山のふもとでモーセを通じて人々に与えました。レビ記の最後の27章34節に書いてある通りです。27章34節、

27:34 以上は、【主】がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。

 このシナイ山に至るまでの道中では、主は数々の奇跡を行って下さいました。一番派手な奇跡は、海を二つに割って、乾いた場所を歩くようにして下さったことでしょうね。その後で主は海の水を元に戻してイスラエルの民を追って来たエジプトのパロの軍勢をすべて流してしまいました。或いはまた人々が水が欲しいとつぶやけば岩から水を出して下さり、おなかがすけば、天からマナを降らせて下さり、腹を満たして下さいました。こうして目に見える形で奇跡を行って、約束の地のカナンへと導こうとして下さっています。そして、さらに先ほど見たように、まだ約束の地に入る前から土地に関する命令をイスラエルの民に与えました。つまり、約束の地には必ず入れるということです。

不信仰なイスラエルの民
 しかし、このレビ記の後の民数記で、イスラエルの民はどうしたでしょうか。既に何度も見ていますから、皆さんご存知だと思いますが、もう一度簡単に見ることにしましょう。
 民数記の13章の1節と2節を、交代で読みましょう(旧約聖書p.252)。

13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

 主はイスラエルの民の族長たちに、約束の地のカナンを偵察に行かせました。そして、偵察から戻って来た族長たちは言いました。27節と28節を交代で読みます。

13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

 続いて30節と31節を交代で読みます。

13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

 このようにカナンを偵察して来た族長たちは、ヨシュアとカレブを除いて、カナンの地に入ってそこに住むことは無理だと決め付けました。そうして全会衆は泣きました。14章の1節から4節までを交代で読みます。

14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
14:3 なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 このイスラエルの民の不信仰ぶりは本当にひどいなあと、いつここを読んでも思うわけですが、ヨベルの年の箇所を読んだ後では、格別にそれを感じます。主は、約束の地のカナンに入る前から、50年ごとのヨベルの年についての命令までをもイスラエルの民に与えていました。カナンの地に入っても、すぐにまた先住民に奪い返されたり、他の民族に奪われたりすることなく、末永くカナンの地に安住できるのだということをイスラエルの民に伝えていました。しかも、これらの命令を与える前には多くの奇跡をも見せて下さっていました。ですから、主がカナンの地を与えて下さることは確実なことでした。
 それなのに、イスラエルの民は一晩泣き明かした後で言いました。
「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
 これでは主がお怒りになるのは当たり前ですね。このことで、イスラエルの民は40年間、荒野を放浪することになってしまいました。

次の50年も保証されている
 さて、今の時期に私たちの教会の礼拝で、50年目のヨベルの年について説教することに導かれたことについて、先週は、こんな話をしました。
 私たちの教会は、教団の100を越える教会の中でも貧しい部類に入ります。そして会堂も、普段の生活の場を礼拝の時に礼拝堂として使う教会は、今はもう少ないです。そんな私たちの教会でも、50年になるのを機会に、主は他の教会と平等になるように専用の礼拝堂を与えて下さろうとしているのではないか、というような話をしました。
 そして、きょうの礼拝メッセージを準備する中で思ったことは、次の50年のことです。先週の礼拝後の会堂問題勉強会の中でも共に考えましたが、私たちは会堂建設のために融資を受けた場合に、将来返済ができなくなることを心配しています。10年後には返せなくなってしまっているのではないか、そんな心配をしています。しかし、今回、ヨベルの年について学んでいて、主は50年先のことまで保証して下さっているのではないか、そんな気がしています(50年経つ前に主の再臨があるかもしれませんが、それはそれで良いわけです)。
 レビ記25章23節を、もう一度お読みします。

25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。

 主は、「地はわたしのものである」と仰せられています。この地球上の土地は、すべて主の土地です。しかし一応は、人間の地主が存在します。そんな中でも、この教会の土地は、法務局の登記においても、イムマヌエル綜合伝道団沼津基督教会が所有者になっていますから、確かに主の土地になっています。ですから私たちは既に約束の地の中に入っています。そういうわけですから、むこう50年間は保証されているのではないか。今の時期にヨベルの年の学びに導かれたことで、いま私はそんな風に思っています。

おわりに
 皆さんはどう考えるでしょうか。いま私たちは隣の土地への会堂の建設をどのようにすべきか、判断をしなければならない大切な時期の中を通っています。一人一人が霊性を整えて、主の御声がさやかに聞こえるようにしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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11月13日礼拝プログラム

2016-11-11 08:07:12 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第2聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  小羊をばほめたたえよ!   158
 交  読  詩篇113篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  うるわしき王なるイエス    33
 讃 美 ③  御前につどい        251
 聖  書  レビ記25:23~28
 説  教  『ヨベルの年の恵み(2)』 小島牧師
 讃 美 ④  うたいつつあゆまん     402
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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ヨベルの年の恵み(1) (2016.11.6 礼拝)

2016-11-07 16:19:04 | 礼拝メッセージ
2016年11月6日礼拝メッセージ
『ヨベルの年の恵み(1)』
【レビ記25:10~12】

はじめに
 礼拝メッセージでは6月の第4聖日から使徒の働きの学びを始めて、10月の後半からは使徒8章の学びに入っていますが、ここで一旦、使徒の働きの学びのシリーズはお休みにしたいと思います。きょうから3回ほどは、レビ記から「ヨベルの年」について、ご一緒に学ぶことにしたいと思います。

「ヨベルの年」の学びについて
 なぜ、使徒の働きの学びを中断して「ヨベルの年」について学ぶことにしたかと言うと、来年の月定献金の献金袋に、教会の設立50周年を記念して、きょうのレビ記25章からのみことばを刷り込むことにしたからです。それで、皆でご一緒にレビ記25章を開いて、この恵みを分かち合うことにしました。この学びを1回で終わらせないで3回ほどのシリーズを考えている理由は、1回だけだと、いろいろなご都合でたまたま礼拝を欠席された方がいた場合、その方とは、このヨベルの年の恵みについて、分かち合うことができなくなってしまうからです。
 さらにはレビ記の恵みは1回の説教では味わうことは難しいとも思うからです。なぜなら、レビ記には始めから終わりまで全編に亘って「~しなければならない」、「~しなさい」という律法の掟の言葉が、みっちりと書かれているからです。レビ記の前後の出エジプト記の民数記にもやはり律法の掟の言葉がたくさん書かれていますが、それでも出エジプト記の場合にはエジプトを脱出する時のハラハラドキドキする場面がありますし、民数記にはヨシュアやカレブらによるカナン偵察の場面や或いはまたモーセが蛇を上げた場面など、物語風の記述を楽しめる場面もあります。しかしレビ記は始めから終わりまで「~しなければならない」と「~しなさい」の連続ですから、飽きてしまいます。また、それ以前の問題として、だいたい私たちは人からあれこれ色々と指図されることが好きではありません。ですから、いくら神様の命令とは言え、延々と「~しなければならない」、「~しなさい」が続くと嫌になってしまうということがあるでしょう。高津教会の一般信徒であった時の私が、まさにそうでした。ですから牧師を志す以前の私はいつもレビ記でつまずいていて、聖書の通読には一度も成功していませんでした。神学校の入学試験を受ける前にようやくレビ記を通して読むことができ、聖書の通読に成功したのでした。

律法の命令にたっぷりと込められている神の愛
 これは既に何度もお証ししたことがあることですが、そんな風にレビ記を苦手としていた私でしたが、インターン実習していた時に、レビ記1章から神様から注ぎ出される圧倒的な量の愛を感じて、涙を流すという経験をしました。
 この時の私は、レビ記の命令に書かれている内容に感動したのではなく、命令のことばの一つ一つに神様の大きな愛が込められているのだということに気付かされて感動し、涙を流したのでした。一つ一つの命令には神様の大きな愛が込められていて、それらを重ね合わせると、圧倒的な量の愛が注ぎ出されています。その愛の大きさに私は圧倒されました。
 現代の私たちも、身近な小さな子供に対して、守る必要がある最低限のルールや、してはいけないことなどを教えることをします。それは、その子供が危険な目に遭ったり、人に迷惑を掛けたりしないようにするためです。私たちはその子供を愛していますから、守らなければならないルールを教えます。
 例えば、道路を横断する時には、小さな子供には必ず横断歩道がある場所で大きく手を上げて渡るように指導します。小さな子供は車の走行スピードと自分の歩くスピードとを勘案して、安全に道を渡れるかどうかの判断をすることができません。ですから必ず横断歩道を渡るように指導します。横断歩道のある場所なら車のドライバーも注意を払っていますし、手を上げれば小さな子供でも目立つようになります。そして道を渡りたいという意志表示にもなります。しかし、大人の場合は、あまり、そこまではしません。大人は道路を渡るタイミングを計ることができますし、体も大きいので手を高く上げなくても、ある程度は目立ちます。また、体を使ってドライバーとコミュニケーションすることができる人も多いですから、横断歩道でない場所でも比較的安全に道を渡ることができます。その反対に小さな子供の場合は判断力が十分に育っておらず、色々な点で危険が伴います。私たちは愛する子供たちが危険から守られるように、必ず横断歩道を渡るように指導します。
 神様がイスラエルの民に律法を授けたのも、まだ信仰が幼かったイスラエルの民を神様が愛していたからです。この信仰の幼い民が、神から離れて生きることがないよう、いつも神様と共に歩むことができるよう、一つ一つの命令に愛を込めて神様はモーセを通じて人々に律法を授けました。旧約の時代には預言者以外の人々には聖霊が注がれませんでしたから、信仰の幼かった彼らが神様から離れずに共に歩むには、これだけ多くの命令が必要だったのでしょう。私はここから神様のイスラエルの民に対する圧倒的な量の愛を感じ、その莫大な愛が私にもまた注がれているのだということを感じたのでした。
 一方、新約の時代を生きる私たちには聖霊が注がれますから、いちいち律法のような命令がなくても、聖霊が私たちの内から教え導いて下さいます。これもまた大きな愛です。神様はイエス・キリストを信じる者には聖霊を与えるようにして下さいました。ただし、そのためには十字架の死と復活が必要でした。ここに神様の大きな愛が示されました。
 ですから私たちには旧約の時代の律法からも新約の時代の聖霊からも同じように莫大な量の愛が注がれています。旧約の時代の大きな愛と新約の時代の大きな愛とが重なり合って圧倒的な量の愛となって私たちに注がれています。
 以上の、旧約の時代の「律法」にも神様の愛がたっぷりと詰まっているということを前提にして、きょうのヨベルの年の学びに入りたいと思います。もし律法に神様の愛が含まれていないのなら、ヨベルの年の学びをしても仕方のないことです。律法は人を縛る規則であるというようなマイナスのイメージを持ってヨベルの年についての学びをしても、少しも恵みを得ることはできませんから、そのようなマイナスのイメージは持たずにヨベルの年の恵みを分かち合いたいと思います。

収穫も主が与えて下さる物
 では、レビ記25章の1節から見て行くことにしたいと思いますが、きょうは、この後の会堂問題勉強会の時間をなるべく長く取りたいという思いもありますから、短く見るだけにしておいて、続きの学びはまた来週行うことにします。まず25章の1節から5節までを、交代で読みます。

25:1 ついで【主】はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
25:5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。

 ここには、7年目ごとに種まきと収穫を休まなければならないことが書いてあります。では、7年目には何を食べたら良いのかというと、それは20節から22節までに書いてあります。交代で読みましょう。

25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、
25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。

 7年目に収穫を得なくても6年目に7年目の分までたっぷりと収穫を与えてあげるから心配するなと主は仰せられます。こうしてイスラエルの民は、畑の収穫物もまた自分たちが自力で得るものではなく、主が与えて下さるものだということを学びます。

人も土地もリセットされるヨベルの年の恵み
 そして、この7年のサイクルを7回繰り返して49年が経った翌年がヨベルの年になります。少し飛ばして10節、

25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。

 ヨベルの年には人も土地もリセットされます。49年の間に、いろいろな事情で人が奴隷になってしまっていたり、土地が人手に渡っていたりしても、50年目のヨベルの年にはリセットされて人も土地も元に戻ります。それは、人も土地も全ては主に属するからです。主の下ではすべての人は平等です。ですから色々な事情で特定の人が富み過ぎたり、貧しくなり過ぎたりしたとしても、主は50年ごとにリセットして、平等にして下さいます。これがヨベルの年の恵みのあらましです。このヨベルの年を学ぶだけでも律法には神様の愛がたっぷりと含まれていることが良くわかると思います。
 このヨベルの年の細かいことについては、来週と再来週にまた聖書を見ながら改めて学ぶことにしたいと思いますが、今回、私たちの教会の設立50周年を前に、このヨベルの年の学びをするよう示されたことに関して、私は次のように思いました。
 私たちの教団の100以上ある教会の中で、教会間の貧富の差ということで言えば、私たちの教会はかなり貧しい部類に属します。そして会堂内の礼拝と祈祷会をする場も、普段の生活の場を使っていますから聖別された場所ではありません。中古の物件を教会として使用している教会はたくさんあります。それでも、ほとんどの教会は聖別された礼拝堂を持っています。私が沼津に来る前にいた前任地の教会でも、その前に1ヶ月間だけいた教会でも中古の物件を教会にしていましたが、それでも礼拝をする場は普段の生活とは切り離された聖別された場所でした。しかし、私たちの教会は、普段私が食事をしている場を礼拝堂として使用しています。これでは霊性を整える場としては良くありません。
 このような中で私たちは礼拝を守って来ましたが、この教会が設立50周年を迎えるのを機に、神様は私たちの教会も他の教会と同じように、なるべく平等になるように、専用の礼拝堂を与えて下さろうとしているのであろうと、そんな風なことを私は考えています。
 時期的には、いつになるかわかりませんが、隣の土地がこれから先5年も6年も駐車場のままであり続けることは、絶対に有り得ません。主が必ず新しい礼拝堂を与えて下さいます。
 ただし私たちが何もしないでいても主が与えて下さるというものではなく、私たちが2年前に一歩を踏み出し始めたら主が御業を見せて下さったように、今回も私たちの側で何らかのアクションを起こさなければならないのだと思います。

おわりに
 このことについて、この礼拝の後の会堂問題勉強会で話し合うことにしたいと思います。きょう、ヨベルの年の恵みの学びを始めることができたことに感謝し、この後の会堂問題勉強会を主が豊かに導いて下さいますよう、お祈りしたいと思います。

25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
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11月6日礼拝プログラム

2016-11-04 07:28:26 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月6日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第1聖日 礼拝順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  詩篇112篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  朝つゆの園を        378
 証  詞                中原兄
 讃 美 ③  主イエスの名をほめたたえよ(2回) 42
 聖  書  レビ記25:10~12
 説  教  『ヨベルの年の恵み』   小島牧師
 讃 美 ④  神はひとり子を        26
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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天の星のように増えてほしい愛弟子(2016.11.2 祈り会)

2016-11-03 10:12:07 | 祈り会メッセージ
2016年11月2日祈り会メッセージ
『天の星のように増えてほしい愛弟子』
【ヘブル11:11~16】

はじめに
(前略)
 ヨハネの福音書の「深層部」を理解する人々が星の数ほど、海辺の数えきれない砂粒ほどに増えてほしいと私は願っています。

天の星のように増えてほしい愛弟子
 ここで、きょうの聖書箇所をご一緒に読みたいと思います。ヘブル人への手紙11章の11節から16節までを交代で読みましょう。

11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 今回、私はこのヘブル人への手紙の箇所を読んで、「ここにはヨハネの福音書がある」と感じました。
 ヨハネの福音書では、このヘブル人への手紙の箇所のアブラハムがイエスさまの愛弟子に当たります。一人のアブラハムからは多くの子孫が増えました。そしてイエスさまの愛弟子もまた、最初は一人です。しかし、その愛弟子の弟子が愛弟子に育ち、その愛弟子の愛弟子から新たな愛弟子が育つことで愛弟子は星の数のように増えて行くことを神様は願っています。そうして星の数ほどに増えた愛弟子の一人一人が霊的なイエスさまとの出会いについての証を書物に書いて残せば、世界も書かれた書物を入れることはできないでしょう。ヨハネの福音書の一番おしまい(ヨハネ21:25)に書いてある通りです。
 しかし、もし私たちがヨハネの福音書の表層部しか理解しないなら、ヨハネの福音書の愛弟子は一人しかいません。紀元1世紀を人間のイエスさまと共に生きた愛弟子の一人だけです。一方、もしヨハネの福音書の霊的な領域の深層部を理解して、霊的なイエスさまとの交わりを持つなら、その者は新たな愛弟子に加えられ、こうして愛弟子は増えて行きます。

地上でイエスと共に旅する私たち
 これまでも説明して来ましたが、ヨハネの福音書には「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が重ねられています。そして「使徒の時代」は今も続いています。つまりヨハネの福音書の中には創世記の1章から黙示録の22章までのすべての時代があります。そうして私たちは霊的なイエスさまと共にこれらの時代の中を旅する旅人です。ヨハネの福音書で私たちがイエスさまの弟子として共に旅をして、その中で霊的な学びをして愛弟子へと育つことができたと意識できるなら、その愛弟子は地上生涯の後に天の故郷に入ることは確実です。その愛弟子には、やがて天の故郷に入ることが確約されていますから、この世にあっても少しも心配することなく旅人としてイエスさまと共に旅を続ければ良いわけです。
 この「旅人」ということばは、ヘブル人への手紙11章13節にも出て来ますね。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 私たちもまた地上では旅人です。この地上での旅にイエスさまが共に歩んで下さっていますから、何の心配も要りません。ヨハネの福音書の深層部を霊的に理解するなら、そのことがよくわかって来ます。
 ヨハネの福音書はそんなに長い書ではありません。この大して長くない書の中に旧約聖書と新約聖書の全体がコンパクトに収まっています。この全体像を理解すると、私たちが聖書の中におり、聖書も私たちのうちにあることがわかると思います。ヨハネの手紙第一で、ヨハネは、

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(第一ヨハネ4:13)

と書きましたが、この「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」の神を聖書に置き換えて、「私たちが聖書のうちにおり、聖書も私たちのうちにある」と言うこともできると思います。
 後半の「聖書が私たちのうちにある」というのはわかりますね。私たちは聖書を読み、聖書の聖句を心の中にとどめて蓄えますから、聖書は私たちのうちにあります。そして、私たちは霊的なイエスさまと共にヨハネの福音書の中で聖書の中を旅しますから、私たちは聖書のうちにあります。

ヨハネの福音書の深層部
 これまでも話して来たようにヨハネ1章は深層部の「旧約の時代」にあっては創世記の時代、ヨハネ2章は出エジプトの時代、ヨハネ3章は律法が授けられた時代とヨシュア記・サムエル記の時代、ヨハネ4章以降は列王記の時代です。或いはまた深層部の「使徒の時代」にあってはヨハネ1章では弟子たちが復活したイエスさまに会い、イエスさま天に帰った時まで、ヨハネ2章はペンテコステの日のガリラヤ人とユダヤ人たちへの聖霊の注ぎがあった時、ヨハネ3章はステパノの迫害があった時、ヨハネ4章はサマリヤ人と異邦人に聖霊の注ぎがあった時というように、私たちは霊的なイエスさまと共に聖書の各時代の中を旅します。こうして私たちが聖書のうちにあることがわかります。
 このように地上においてもイエスさまと一体になり、聖書と一体になる旅の中にいるなら、天の故郷に入ることができることは確実ですから、何の心配も要りません。
 そうして心の平安が得られるなら、争い事もずっと減って行くであろうと私は信じています。それが百年後なのか千年後なのかわかりませんが、イエスさまの愛弟子の数が星の数ほどに増えて行くなら、そのようになるでしょう。そして教会も一つになるでしょう。
 アブラハムも、アブラハムが生きていた時には、アブラハムの子孫はまだ少ししかいませんでした。しかし、アブラハムが地上での生涯を終えた後に、アブラハムの子孫であるイスラエルの民はおびただしく増えました。ですからイエスさまの愛弟子も、百年後か千年後かはわかりませんが、いずれは、星の数のほどに増えるであろうと私は思っています。そのための準備となる働きをしなければ、一タラントのしもべのようなことになってしまいますから、ちゃんと神様からお預かりしたタラントを増やしてお返しできるようにしなければならないと思っています。

おわりに

 この教会は、その働きのための拠点であると私は考えています。まずは私たちがイエスさまの愛弟子になり、そして私たちの周囲の方々が愛弟子になり、やがて、その数が増し加えられて行くことを願っています。周囲の方々というのは、この今沢の地域の方々ももちろんですが、現代はインターネットの時代ですから、ネットを通じてつながっている方々もまた、周囲の方々です。
 こうして、イエスさまの愛弟子の数が天の星のように、また海辺の数え切れない砂のように増えて行くことを願っています。
 お祈りいたしましょう。

11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

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