2016年11月27日アドベント第1礼拝メッセージ
『主の恵みの年を知らせるために』
【ルカ4:16~21】
はじめに
きょうから主のご降誕を待ち望むアドベントに入ります。礼拝では福音書からイエスさまのことを学びながら、クリスマスまでの時を過ごしたいと思います。
ガリラヤで宣教を開始したイエス
きょう開いているルカ4章の箇所は、イエスさまがガリラヤで宣教活動を開始したばかりの時に、ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読んだ箇所です。イエスさまが宣教を開始したのは、およそ30歳の時であったことがルカ3章の23節に記されています。
どうして20歳ではなかったのか。或いは、どうして40歳ではなかったのか。もしイエスさまが20歳で宣教を開始していたら、どんな感じだっただろうか。40歳で宣教を開始いていたら、どんな感じだっただろうか。いろいろ想像してしまいます。いずれにしても30歳という年齢が一番ふさわしい年齢だったのでしょうね。イエスさまはおよそ30歳で宣教を開始されました。ルカ4章の14節から見て行きましょう。
4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
14節に、イエスさまの「評判が回り一帯にくまなく広まった」とあります。逆に言えば、それまではイエスさまは特に評判にはなっていなかったということですね。イエスさまはナザレでひっそりと暮らしていたようです。ルカはイエスさまが12歳の時にエルサレムの神殿で人々の注目を集めていたことを記していますが、ガリラヤではまったく注目されていなかったのですね。
ガリラヤで評判になった時、イエスさまは御霊の力を帯びていました。少し戻って、3章の21節と22節に、イエスさまがバプテスマを受けた時のことが記されています。21節と22節を交代で読みましょう。
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
この時からイエスさまは、自分がこれから為すべきことを、はっきりと自覚したのでしょうね。この時点で、やがて十字架に付くことまでを自覚していたかどうかはわかりませんが、きょうの聖書箇所でイザヤ書を開いて、これがご自身のことだとおっしゃいましたから、恐らくイザヤ53章のしもべがご自身のことだという自覚も持っていたのではないかなという気がします。
実際面での意味と霊的な意味
では、そのイエスさまがイザヤ書を読んだ箇所に進んで行きましょう。4章の16節と17節を交代で読みましょう。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
聖書のことばは、当時は巻物に記されていたと言われています。イエスさまはイザヤ書61章を読み始めました。18節から21節までを交代で読みましょう。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
まず21節から見ると、イエスさまは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」とおっしゃいましたから、18節の「わたし」がご自身のことであると、はっきりと宣言したということです。
18節、「わたしの上に主の御霊がおられる」。イエスさまは御霊の力を帯びていましたから、まさにその通りでした。そしてイエスさまは、まさに弱く貧しい人々に対して福音を宣べ伝えました。
そして、「捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために」、は実際的なことと、霊的なことの二つの意味で見ることができると思います。実際のこととして捕われ人を見るなら、たとえば貧しさの故に盗みを働いてしまい、捕われたような人々です。心が邪(よこしま)だから盗んだのではなく、不幸な境遇に生まれ育ち、どうしようもなくて盗んだような人々は憐れみをもって赦免されるべきでしょう。そして、霊的な意味で言えば、神様から離れる罪に囚われている人々ですね。昔も今も、神様に愛されていることを知らずに神様から離れている人々がたくさんいます。私たちもまた、そのような者たちでした。この不信仰の罪は本来なら赦されない大きな罪ですが、イエスさまが十字架に掛かることで、私たちはこの大きな罪を赦免されました。
盲人の目を開くことも同様です。イエスさまは実際に目が見えない人の目を見えるようにしましたし、私たちのように目が見えていても霊的には盲人であった者たちに聖霊を与えて下さり、霊的な目を開いて下さいました。
ザアカイの場面に見られるヨベルの年の恵み
「しいたげられている人々を自由にし」には、ザアカイの場面を思い出します。人々はローマ帝国が課す税金に苦しめられていました。そしてザアカイのような取税人は私腹を肥やして富んでいました。しかしザアカイはイエスさまと出会ったことで、自分が蓄えていた財産の半分を人々に分け与えることにしました。
ザアカイの箇所を、ご一緒に見てみましょう。ルカ19章です。まだ時間がありますから、1節から10節まで、ザアカイの箇所を全部、交代で読みましょう。
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
ここでイエスさまは罪人のザアカイを罪から救い出しただけではありません。ザアカイが蓄えた財産が人々に分け与えられることになりましたから、不公平が是正されることになりました。これは、先週まで3回にわたって学んだ、ヨベルの年の恵みと同じですね。
ルカ4章に戻って、4章19節をお読みします。
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。
まさにヨベルの年の恵みと同じ恵みがイエスさまによって告げ知らされました。この時、人間のイエスさまは紀元1世紀にいましたが、霊的なイエスさまは永遠の中にいて、イザヤ書の時代にもいて、ヨベルの年の恵みが告げられたレビ記のモーセの時代にもいました。
私たちにも託されている福音を伝える働き
そして霊的なイエスさまは21世紀の現代にもいます。イエスさまは聖霊が注がれた私たちクリスチャンの中にいます。そしてイエスさまは私たちにも福音を伝えるようにと私たちを促しています。
イエスさまが教えを宣べ伝えていた時代、ユダヤはローマ帝国に支配されていて、ザアカイの記事からもわかるように、一般庶民は苦しめられていました。一部の者はザアカイのように富んでいましたが、大部分の者たちの暮らしは苦しいものでした。
現代もまた格差社会と言われますから、似た一面があると思います。もちろん1世紀と21世紀では、いろいろと違う面がありますが、一部の大金持ちがいて、その他大勢は生活が苦しいという構造は似た面があると思います。これは、いつの世でもそうだったわけではないと思います。私が子供の頃は、一億総中流社会などと言われていましたから、今よりは格差が無かったのだろうと思います。しかし、今の日本は格差が広がっており、欧米においても、そのようになっているようです。
先日、アメリカで行われた大統領選挙でも、格差が大きくなったことに怒った貧しい白人層の多くがトランプ氏に投票したと言われています。
しかし、トランプ氏はイエスさまではありませんから、トランプ氏が大統領になっても格差が解消されることはないだろうと思います。
これから世界はどのような方向に向かって行くのかを考えると、私は本当に暗い気持ちになります。聖書に照らして考えてみれば、トランプ氏のように差別的な発言を繰り返して、それを罪と感じないような人物に多くの人が投票するとは、いったいどうなっているのだろうと思います。
私の予測が間違っていれば幸いですが、私は来年以降、世界はますます悪い方向に向かっていくだろうと思います。しかし、イエスさまとしっかりとつながっているなら、私たちは恐れることはありません。もしイエスさまがいらっしゃらないなら不安で仕方がない日々を過ごさなければなりませんが、イエスさまとつながっているなら、心に平安が与えられますから、本当に幸いなことだと思います。
おわりに
イエスさまは、こんな私たちに恵みを告げ知らせるために、この世に人として生まれて下さいました。
このことを、しっかりと心に刻んで私たちはイエスさまの福音を地域の方々にお伝えして行きたいと思います。最後に、ルカ4章の18節と19節を、もう一度ご一緒に読んで、終わることにします。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
『主の恵みの年を知らせるために』
【ルカ4:16~21】
はじめに
きょうから主のご降誕を待ち望むアドベントに入ります。礼拝では福音書からイエスさまのことを学びながら、クリスマスまでの時を過ごしたいと思います。
ガリラヤで宣教を開始したイエス
きょう開いているルカ4章の箇所は、イエスさまがガリラヤで宣教活動を開始したばかりの時に、ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読んだ箇所です。イエスさまが宣教を開始したのは、およそ30歳の時であったことがルカ3章の23節に記されています。
どうして20歳ではなかったのか。或いは、どうして40歳ではなかったのか。もしイエスさまが20歳で宣教を開始していたら、どんな感じだっただろうか。40歳で宣教を開始いていたら、どんな感じだっただろうか。いろいろ想像してしまいます。いずれにしても30歳という年齢が一番ふさわしい年齢だったのでしょうね。イエスさまはおよそ30歳で宣教を開始されました。ルカ4章の14節から見て行きましょう。
4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
14節に、イエスさまの「評判が回り一帯にくまなく広まった」とあります。逆に言えば、それまではイエスさまは特に評判にはなっていなかったということですね。イエスさまはナザレでひっそりと暮らしていたようです。ルカはイエスさまが12歳の時にエルサレムの神殿で人々の注目を集めていたことを記していますが、ガリラヤではまったく注目されていなかったのですね。
ガリラヤで評判になった時、イエスさまは御霊の力を帯びていました。少し戻って、3章の21節と22節に、イエスさまがバプテスマを受けた時のことが記されています。21節と22節を交代で読みましょう。
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
この時からイエスさまは、自分がこれから為すべきことを、はっきりと自覚したのでしょうね。この時点で、やがて十字架に付くことまでを自覚していたかどうかはわかりませんが、きょうの聖書箇所でイザヤ書を開いて、これがご自身のことだとおっしゃいましたから、恐らくイザヤ53章のしもべがご自身のことだという自覚も持っていたのではないかなという気がします。
実際面での意味と霊的な意味
では、そのイエスさまがイザヤ書を読んだ箇所に進んで行きましょう。4章の16節と17節を交代で読みましょう。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
聖書のことばは、当時は巻物に記されていたと言われています。イエスさまはイザヤ書61章を読み始めました。18節から21節までを交代で読みましょう。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
まず21節から見ると、イエスさまは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」とおっしゃいましたから、18節の「わたし」がご自身のことであると、はっきりと宣言したということです。
18節、「わたしの上に主の御霊がおられる」。イエスさまは御霊の力を帯びていましたから、まさにその通りでした。そしてイエスさまは、まさに弱く貧しい人々に対して福音を宣べ伝えました。
そして、「捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために」、は実際的なことと、霊的なことの二つの意味で見ることができると思います。実際のこととして捕われ人を見るなら、たとえば貧しさの故に盗みを働いてしまい、捕われたような人々です。心が邪(よこしま)だから盗んだのではなく、不幸な境遇に生まれ育ち、どうしようもなくて盗んだような人々は憐れみをもって赦免されるべきでしょう。そして、霊的な意味で言えば、神様から離れる罪に囚われている人々ですね。昔も今も、神様に愛されていることを知らずに神様から離れている人々がたくさんいます。私たちもまた、そのような者たちでした。この不信仰の罪は本来なら赦されない大きな罪ですが、イエスさまが十字架に掛かることで、私たちはこの大きな罪を赦免されました。
盲人の目を開くことも同様です。イエスさまは実際に目が見えない人の目を見えるようにしましたし、私たちのように目が見えていても霊的には盲人であった者たちに聖霊を与えて下さり、霊的な目を開いて下さいました。
ザアカイの場面に見られるヨベルの年の恵み
「しいたげられている人々を自由にし」には、ザアカイの場面を思い出します。人々はローマ帝国が課す税金に苦しめられていました。そしてザアカイのような取税人は私腹を肥やして富んでいました。しかしザアカイはイエスさまと出会ったことで、自分が蓄えていた財産の半分を人々に分け与えることにしました。
ザアカイの箇所を、ご一緒に見てみましょう。ルカ19章です。まだ時間がありますから、1節から10節まで、ザアカイの箇所を全部、交代で読みましょう。
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
ここでイエスさまは罪人のザアカイを罪から救い出しただけではありません。ザアカイが蓄えた財産が人々に分け与えられることになりましたから、不公平が是正されることになりました。これは、先週まで3回にわたって学んだ、ヨベルの年の恵みと同じですね。
ルカ4章に戻って、4章19節をお読みします。
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。
まさにヨベルの年の恵みと同じ恵みがイエスさまによって告げ知らされました。この時、人間のイエスさまは紀元1世紀にいましたが、霊的なイエスさまは永遠の中にいて、イザヤ書の時代にもいて、ヨベルの年の恵みが告げられたレビ記のモーセの時代にもいました。
私たちにも託されている福音を伝える働き
そして霊的なイエスさまは21世紀の現代にもいます。イエスさまは聖霊が注がれた私たちクリスチャンの中にいます。そしてイエスさまは私たちにも福音を伝えるようにと私たちを促しています。
イエスさまが教えを宣べ伝えていた時代、ユダヤはローマ帝国に支配されていて、ザアカイの記事からもわかるように、一般庶民は苦しめられていました。一部の者はザアカイのように富んでいましたが、大部分の者たちの暮らしは苦しいものでした。
現代もまた格差社会と言われますから、似た一面があると思います。もちろん1世紀と21世紀では、いろいろと違う面がありますが、一部の大金持ちがいて、その他大勢は生活が苦しいという構造は似た面があると思います。これは、いつの世でもそうだったわけではないと思います。私が子供の頃は、一億総中流社会などと言われていましたから、今よりは格差が無かったのだろうと思います。しかし、今の日本は格差が広がっており、欧米においても、そのようになっているようです。
先日、アメリカで行われた大統領選挙でも、格差が大きくなったことに怒った貧しい白人層の多くがトランプ氏に投票したと言われています。
しかし、トランプ氏はイエスさまではありませんから、トランプ氏が大統領になっても格差が解消されることはないだろうと思います。
これから世界はどのような方向に向かって行くのかを考えると、私は本当に暗い気持ちになります。聖書に照らして考えてみれば、トランプ氏のように差別的な発言を繰り返して、それを罪と感じないような人物に多くの人が投票するとは、いったいどうなっているのだろうと思います。
私の予測が間違っていれば幸いですが、私は来年以降、世界はますます悪い方向に向かっていくだろうと思います。しかし、イエスさまとしっかりとつながっているなら、私たちは恐れることはありません。もしイエスさまがいらっしゃらないなら不安で仕方がない日々を過ごさなければなりませんが、イエスさまとつながっているなら、心に平安が与えられますから、本当に幸いなことだと思います。
おわりに
イエスさまは、こんな私たちに恵みを告げ知らせるために、この世に人として生まれて下さいました。
このことを、しっかりと心に刻んで私たちはイエスさまの福音を地域の方々にお伝えして行きたいと思います。最後に、ルカ4章の18節と19節を、もう一度ご一緒に読んで、終わることにします。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」