2022年4月24日召天者記念礼拝メッセージ
『永遠の中の主が共にいる御国』
【マタイ1:18~23】
はじめに
この教会に私が遣わされてから早いもので3年が経ちました。この教会で召天者記念礼拝を行うのは今年で4回目になります。
3年前にこの教会で初めて召天者記念礼拝を行った時、このように召天した先輩方の遺影を前方に並べるのを見て、それまでに神学生や牧師として遣わされた教会では、このようなスタイルでの召天者記念礼拝を行ったことはありませんでしたから、とても新鮮に感じました。
2年前の2020年の春は4月から5月に掛けてコロナの緊急事態宣言が発令されましたから、召天者記念礼拝は秋の10月に延期しました。この年は5月にN兄が天に召され、さらにその1ヶ月後の6月にS兄が天に召されました。ですから10月の召天者記念礼拝は、このお二人の兄弟のことを格別に強く思いながらの礼拝となりました。皆さんはそれぞれのご家族のことを思いながらの礼拝だったと思いますが、私自身はやはりNさんとSさんを強く思いながらの礼拝でした。
去年の2021年の4月は、その1ヶ月前の3月20日にM兄を天に見送ったばかりでしたから、やはりMさんのことを強く思いながらの礼拝となりました。
そして、この1年間は守られて天に見送った方はいませんでしたから感謝でしたが、しかし、今年は今年でまた特別な感慨があります。先週の礼拝の後、皆さんがこの写真を載せるための台を準備して下さり、写真が並べられました。それで私はこの写真を見ながら1週間を過ごしたわけですが、この写真の信仰の先輩方は今、平和に満ちた永遠の中の御国におられるのだなということを、これまでになく、とても強く感じました。それは今、ウクライナが戦場となって悲惨なことが起きているからです。戦争のニュースをこの2ヶ月間、毎日のように見ていて心を痛めていますから、先輩方は平和に満ちた御国にいるんだな~ということを、今年はとても強く感じました。
私は戦後の生まれです。生まれた年の1959年以降も世界では多くの紛争や戦争がありました。しかし、今年のロシアとウクライナの戦争は今までの戦争と決定的に違う点があると思います。それは、ウクライナの市民がスマホとSNSなどを用いて戦場となった国の悲惨な様子を直接世界に向けて発信しているということです。それまでの戦争は報道記者が戦場に入るという形でしか報道されませんでした。一般市民には発信する術がありませんでした。それが今はスマホやSNSで報道記者ではない一般の市民によって直接、悲惨な様子が伝えられています。或いはまた、日本にいるウクライナ人が現地に残っている家族とテレビ電話で通話している様子なども報じられています。現地の家族は本当に危険な中にいる様子が表情と声から良く分かりますし、日本にいるウクライナ人も現地の家族のことが心配で心配でたまらない様子も表情と声から分かります。
こういう生々しい映像を毎日のように見ていますから、信仰の先輩方は平和に満ちた御国にいるんだな~ということを、今年はとても強く感じています。御国が平和なのは、そこに主がおられるからです。聖書には、神が私たちと共におられると書かれている記事があちこちにあります。きょうの中心聖句は、その中の一つのマタイ1章23節です。
マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。
①後の者と先の者が混ざって時間の前後がない御国
②「先→後」の時間の前後関係が平和を妨げる要因
③主が共にいる御国の平安の恵みに、地上で与る
①後の者と先の者が混ざって時間の前後がない御国
きょうの聖書箇所のマタイ1章は、クリスマスの時期によく開く箇所ですが、きょうの召天者記念礼拝のこの機会を、神様が私たちと共におられるというインマヌエルの恵みに改めて思いを巡らす機会としたいと思います。ここに並んでいる信仰の先輩方は今もう神様が共におられる恵みにどっぷりと浸かっています。この状況を用いさせていただいて、私たちも改めて、神様が私たちと共におられるインマヌエルの恵みについて、改めて思いを巡らす機会としたいと思います。
イエス様は、私たちが神様と共にいることができるようにして下さるために、天からこの世に遣わされました。そうして十字架で死んで復活した後はまた天に帰り、今も天におられます。この天におられるイエス様をとても身近に感じて、神様が私と共におられることを感じるなら、それは既に天国に入れられているのと同じで、自分は救われているという「救いの確証」が得られます。この「救いの確証」を得ることで私たちは深い平安を得ることができます。ですから、「救いの確証」を得ることはとても大事なことです。
少し極端なことを言えば、「救いの確証」が得られるなら、キリスト教の教理の難しいことはそんなに知らなくても良いと言えるでしょう。英語や中国語、韓国語などの外国語を学ぶ時のことを考えれば分かると思いますが、文法などを知らなくても、その外国語が自然と身に着くなら、それが一番良いでしょう。しかし、ある程度の年齢になると外国語を自然に身に着けることは難しくなりますから、その外国語の文法を学ぶことをします。
キリスト教の十字架の教理なども外国語の文法のようなものだと言えるでしょう。教理を学ばなくても、イエス様の方をしっかりと向くことで義と認められ、そのことで神様が共にいて下さることを感じるようになり、「救いの確証」を得るなら十字架の意味も何とはなしに分かる、むしろそのほうが自然ではないかなと思います。
私は牧師になる前は大学の留学生センターという所にいて、外国人に日本語を教えていました。18歳ぐらいで日本に来て日本語を学ぶ学生は、文法などはあまり気にしないでどんどん日本語が上手になります。しかし30歳を越えて博士の学位を取ってから研究のために日本に来た、というような人は文法から入りますから、なかなか上手になりません。キリスト教も、神様が共におられるということを自然に感じることができるようになるなら、それが一番ではないかと思います。
さてしかし、神様が共におられると感じることを妨げるものがあります。それは私たちの多くが次のように考えていることです。
「私たちの信仰の先輩方は今、天の御国にいます。私たちよりも先に天の御国に入っていて、今まだ地上にいる私たちはイエス様を信じれば天の御国に入ることが許されて、地上生涯を終えたら先輩方よりも後から天の御国に入ります。」
こう考えることは、間違ってはいないのかもしれませんが、私たちはあまりにも「先」とか「後」とか、「先輩」とか「後輩」とか、時間の後先にとらわれ過ぎているように思います。
一つ質問をします。私たちが先輩たちの後から天の御国に入ったら、先輩たちを「先輩」と呼ぶでしょうか?「先輩」と呼んで敬うでしょうか?
答は、天の御国は先輩も後輩もありませんから、「先輩」と呼ぶことはありません、それが答でしょう。
イエス様は福音書で、「後の者が先になり、先の者が後になる」と何度か話していますね。例えば週報p.2に載せたように、マタイ19:30では、
マタイ19:30 先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
とおっしゃり、マタイ20:16では
マタイ20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。
とおっしゃいました。トランプのカードを混ぜることを考えると分かりやすいと思いますが、カードを混ぜる時、後のものが先になり、先のものが後になります。それを何回か繰り返す間に、カードはきれいに混ざって後も先もなくなります。天の御国も、後の者が先になり、先の者が後になることが繰り返される間に、後も先もなくなって、先輩も後輩もなくなります。
ですから、ここ(写真台)におられる信仰の先輩方は地上においては先輩ですが、天の御国に入れば先輩も後輩もありません。皆が平等です。
②「先→後」の時間の前後関係が平和を妨げる要因
天の御国では先輩も後輩もありません。トランプのカードのように、よくシャッフルされていて、時間の前後関係はありません。何故このことを強調するかというと、この後先の問題が神様が共におられると感じることを妨げるだけでなく、平和の実現をも妨げる要因になっているからです。争い事はどちらかが先に、相手に不快な思いをさせることから始まります。でも争い事の多くは些細なことから始まりますから、どちらが先に相手を不快にさせたのか、よく分からないことも多いのではないでしょうか。
或いは、先輩と後輩という関係があると、よくあるパターンとしては先輩がいばって後輩に不快な思いをさせるということがあります。
4月から新年度が始まって、今の時期、夕方に外を走っているとランニングコースの近くの高校の部活の生徒たちにも新しい1年生が加わっているのが見られます。様子を見ていれば、ああこれは新入生だなというのが大体は分かります。10日ぐらい前でしたが、新入生が先輩に何かの歌を歌わされていました。たぶん中学の校歌を歌わされていたんだと思います。なぜ分かるかというと、私も静岡の別の高校で1年生の時に先輩に中学の校歌を歌わされたことがあるからです。そして、2年生になった時は今度は後輩の1年生に中学の校歌を歌わせました。どこの高校でも同じのようですね。
この春、新入生が歌を歌わされている様子を見ながら、懐かしいというよりは、過去の自分の罪は棚に上げて、まだこんなことやってるんだと思いました。先輩・後輩という時間の前後関係があると、この様な先輩が威張るということが起きて心の平和を乱します。
或いはまた、言い争いになった時に古いことを持ち出されることもよくあるパターンではないでしょうか。古いことを持ち出されると、カチンと来て、争いがエスカレートすることも、よくあるパターンです。時間の前後関係があると、こういうことになります。
大学の留学生センターで働いていた時、日韓留学プログラムを担当するようになって、日韓関係の歴史も少し学びました。20世紀の前半に日本は朝鮮半島を植民地化して、そこに住む人々に日本語を使うように強制しました。軍隊にも徴兵して日本兵として出征させました。日本の軍需工場でも働かせました。多くの女性が日本の従軍慰安婦にもなりました。20世紀の前半にそういうことを日本は朝鮮半島の人々に対してしていましたから、このことを韓国の人々が不快に思っていることは以前から知っていました。でも、韓国の人々が豊臣秀吉の朝鮮出兵に対しても21世紀になっても不快感を持っているということを日韓留学プログラムを担当するようになってから知りました。
日本と韓国はお隣同士で、どちらも中国から強い影響を受けた歴史がありますから、日本と韓国は兄弟国と言えるかもしれません。そして韓国の方が地理的には中国に近くて、国らしい国ができたのは韓国の方が早かったですから、韓国が兄で日本は弟ということになります。朝鮮半島に百済・新羅・高句麗の三国が成立したのが紀元前1世紀で日本に邪馬台国ができたのはそれより200~300年ぐらいも後ですから、韓国のほうが圧倒的にお兄さんです。韓国にはお兄さんとしてのプライドもあることでしょう。
ロシアとウクライナも兄弟国であると言われていますね。ウクライナの方が、モスクワが首都のロシアよりも地中海や西ヨーロッパに近くて早くに発展したので、ウクライナのほうがお兄さんなのだそうです。ウクライナがロシアの侵攻に徹底的に抵抗しているのは、お兄さんとしてのプライドもあるのかもしれません。どちらが先に発展したかということは、国のプライドに大きく関わっているように思います。
でも私たちは、イエス様が「後の者が先になり、先の者が後になります」とおっしゃったことを、しっかり心に留めて、どちらが先でどちらが後かということからは自由になりたいと思います。後先の問題から皆が自由になるなら、世界は平和に向かって行くことでしょう。
③主が共にいる御国の平安の恵みに、地上で与る
きょうの中心聖句のマタイ1:23をもう一度お読みします。
マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
イエス様は人の子として地上に遣わされて、ペテロやヨハネ、マタイたちと共に地上で過ごしました。マタイは取税人でしたがイエス様の12弟子の一人になりました。その時のことをマタイは9章9節で書いています(週報p.2)。
マタイ9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
こうしてマタイはイエス様の弟子の一人になってからは、いつもイエス様と共に過ごすようになりました。そうして、イエス様が天に帰られた後のペンテコステの日に聖霊を受けましたから、今度は聖霊を通していつも天のイエス様を近くに感じるようになりました。きょうの中心聖句のマタイ1:23は、そういう中で書かれたものです。ですから、「神が私たちとともにおられる」とマタイが書いた時、マタイはきっと天のイエス様を身近に感じていたことでしょう。マタイにとって天の御国とは、死んで地上生涯を終えてから入る所ではなくて、既に入っているも同然でした。
ヨハネもイエス様の十二弟子の一人ですから、地上生涯のイエス様と共にいて、イエス様が天に帰ってからは聖霊を通してイエス様との交わりの中に入れられていました。礼拝で良く引用するヨハネの手紙第一1:3は、そのことを書いています。
Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネにとっても天の御国は地上生涯を終えてから入る場所ではなくて、既に入っているのも同然でした。そのヨハネは御国がどんなに素晴らしい場所であるかを幻で見る恵みに与り、その御国の光景を黙示録の21章と22章に書きました。その一部をもう一度読むことにしましょう。ヨハネの黙示録21章22節から26節までを私のほうでお読みします。聞いていただくだけでも良いですが、開ける方は開いて下さい(新約p.517)。
ヨハネ21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
23節には、この御国は太陽も月も必要としないとありますから、太陽が昇ったり沈んだりすることがありません。ですから25節にも書いてありますが、ここには夜がありません。太陽が昇ったり沈んだりの繰り返しがありませんから、昼と夜の繰り返しがありません。つまり、ここには「昨日→今日→明日」という日付の前後関係がありません。時間の後先がありません。
そして、私たちの教会の信仰の先輩たちは、この後先の前後関係がない御国の中にいます。この黙示録21章の始めには天の御国が地上に降って来る光景が書かれていますから、これは未来のことと思うかもしれません。でも御国に入っている先輩方にとっては既に時間の前後関係がない場所にいますから、既にこの御国の中にいます。
そして、私たちもイエス・キリストを信じることで、ヨハネが第一の手紙1:3に書いたように、父と御子イエス様との交わりに入れられますから、私たちもまた後先の時間関係から自由にされています。普段の日常生活では時間に縛られて後先の関係から自由になることはなかなかできませんが、お祈りをして聖書を開いてみことばに触れ、ディボーションの時を持って神様との交わりに入れていただくなら、後先の前後関係からは自由になれます。
この後先の関係から自由になることで、私たちは平和を実現できます。どちらが先に相手を侮辱したとか、どちらが先に暴力をふるったとか、どちらが先に生まれた兄だから弟よりも偉いんだとか、そういう後先の関係から自由になるなら、争い事に発展することはずっと少なくなり、平和を実現できるでしょう。
おわりに
きょうのメッセージを締めくくります。きょうは召天者記念礼拝で、多くの信仰の先輩方がここにおられます。その中のお一人にNさんのお兄さんのKさんがいます。Kさんは24歳の若さで天に召されましたから、この写真だけ見ると、弟のNさんのほうが、ずっと年上に見えます。これだけを見ても、御国には後も先もないことが分かると思います。
Mさんはイエス様を信じたのが私たちよりも後ですが御国には先に入りました。そうしてイエス様のみもとで憩っておられます。やはり御国には後も先もありません。
この、後も先もない御国におられる信仰の先輩方、そしてイエス様、そして天の御父に心を寄せることで、私たちはこの地上にいながらにして、時間の後先の関係から自由になり、永遠の神様が共におられることを感じて深い平安を得ます。
日頃、時間に縛られて生きている私たちは、御国での平安が得られるのは地上生涯を終えてからだと思ってしまいがちですが、そんなことはありません。イエス様を信じてイエス様が身近にいることを感じ、神様が共におられることを感じるなら、いつでも、この世の後先の関係から解放されて深い平安を得ることができます。
この深い平安を得て、戦争が絶えないこの世にあって、イエス様が与えて下さる深い平安を証しできる私たちでありたいと思います。
お祈りいたしましょう。