2024年4月26日静岡朝祷会・奨励
いつもお祈りをありがとうございます。きょうまた静岡朝祷会の奨励の機会が与えられたことを感謝しています。きょうの聖句は新約聖書のルカの福音書23章43節です。きょうは十字架の話です。
神奈川県の川崎市にあるインマヌエル高津教会に私が導かれたのは2001年の8月12日です。以来、十字架を見ると心が和むようになりました。最初の頃は聖書をほとんど知らなかったのに、それでも心が和みました。そのため、なぜ十字架を見ると心が和むのか、ずっと不思議に思って来ました。それは神学生になり、そして牧師になってからも続きました。十字架を見ると心が和むのはなぜなのか、その理由を人に尋ねると、「それは罪が赦されたからですよ」と教えてくれます。それはそうなんだろうなと思いますが、理由はそれだけではない気がずっとしていました。そして、この沓谷(くつのや)の地に来て、段々とその理由が分かって来たような気がしています。
去年の3月にアパート探しをして、この教会(朝祷会の会場の静岡その枝キリスト教会)のすぐ近くの沓谷1丁目のアパートに導かれました。最初は子供の頃にいた大岩に住みたいと思って大岩のアパートへの入居の手続き進めていました。しかし、ちょっとしたトラブルがあったために大岩をあきらめ、再びアパート探しをして、この沓谷の地に導かれました。まさに神様の導きであったと感じています。
沓谷に来て、近所を散歩して抱いた最初の感想は、随分と墓地が多い地域だなということでした。沓谷霊園や愛宕霊園だけでなく、長源院や蓮永寺、元長寺などのお寺にそれぞれ墓地があって、谷津山のこちら側の一帯は本当にお墓だらけだなと思いました。でも、ぜんぜん嫌な気はせず、むしろ心の平安を感じました。子供の頃は墓地を気味の悪い場所だと思っていましたが、沓谷に導かれて、お墓に平安を感じました。なぜだろうと思いを巡らし、次のように思いました。人は、この世にいる間は神様に逆らって悪いことばかりしているけれど、死んでこの世を去れば皆、神様の支配のもとで誰も逆らわずにいるからだろう、ここに葬られている者の大半が神様によって魂の平安を得ているからだろう、と思いました。
そうして近所を散歩する時は私も心の平安を得ていましたが、仕事が決まるまでの間は本当に大変で、桜やツツジを楽しむ余裕などぜんぜんありませんでした。ハローワークに登録して自宅のパソコンで毎日、新着の求人情報をチェックする日々でした。そして、この仕事ならやってみたいと思う求人があるとハローワークに行って先方に連絡を取ってもらって面接に臨みました。でも、結果は不採用の連続で、連戦連敗の状態が続きました。
しかし幸いにして今の職場に採用されて、7月から働き始めることができました。でも思っていた以上に大変な職場で、苦労の連続です。特に感じているのが、自分自身の「老い」の問題です。うっかりミスが私はとても多いです。若い頃は今ほどはミスをしませんでした。たとえミスをしても人が気付く前に自分で気付きましたから、修正することができました。今は毎日のように人からミスを指摘されて、情けなく思います。ただ、それでもまだ何とか仕事ができていますから良いのですが、親の老いは、いまどんどん進行していて、深刻な領域に入りつつあります。障害がある兄弟の状態も、かなり悪いです。でも多分まだまだ良いほうなのでしょう。これから先は、もっともっと大変になって行きます。家族の介護の大変さは、人から聞いてはいましたが、しょせんは他人事でした。それがいよいよ自分事になって来たのだと感じています。
そうして、やがて家族の介護の期間が終わった頃には、今度は自分自身の老いの問題が深刻になっていることでしょう。神様が私を何歳まで生かして下さるのか分かりませんが、今でも自分の老いを職場で日々感じていますから、これからのことを思うと、とても不安になります。そうして思ったことは、人は生きて年を重ねて行くと、いろいろな事ができなくなって苦悩がどんどん増して行くものなのだな、ということです。これが最近の私の偽らざる実感です。
ヨハネの福音書のイエス様は、21章でペテロに言いました。
これはペテロに限らず、私たちのほとんどに当てはまることではないでしょうか。人は皆、長く生きれば生きるほど生きて行くことが大変になり、自分で出来ることが少なくなり、苦しみが多くなる。家族の状態は今でも大変ですが、この先、もっともっと大変になって行きます。この大変さを思う時、人生とは、十字架に向かって歩んでいるようなものではないかと、ふと、思いました。生きれば生きるほど苦しみが増し、その苦しみの頂点が死の直前にあるとすれば、それはまさしく十字架です。でも、その苦しみの頂点でイエス様がすぐ隣にいて、
と言っていただけます。何と幸いなことでしょうか。この気付きが与えられた時、私は家族の老い、そして自分自身の老いの問題の重荷がスッと軽くなるのを感じました。そうして、その時以来、世の中を見る目が一変しました。人は皆、全員、老いも若きも、イエス様を信じる人も信じない人も一人残らず、十字架に向かって歩んでいて、そうして苦しみの頂点である人生の最後にイエス様がすぐ隣にいて下さり、魂の平安を得ます。
では私はどちらの側の十字架にいるのでしょうか?イエス様の右と左には、イエス様と同じように十字架に付けられた犯罪人がいました。この二人の犯罪人の一人はイエス様をののしりました。
私はこの39節のイエス様をののしる側でしょうか?それとも43節でイエス様に、
と言っていただける側でしょうか?自分は後者であると思いたいですが、もしかしたら前者の、ののしる側になっているのかもしれません。老いの苦しみが増すに連れて不信仰に陥り、ののしる側に回っていることも有り得ます。でも大丈夫です。44節に、次のように記されているからです。
つまり、イエス様をののしった犯罪人には、悔い改めのための時間がなお3時間も与えられていました。彼はイエス様ともう一人の犯罪人との会話を聞いていたはずです。そして、もう一人がイエス様に、
と言っていただけたのを聞いて、きっと心を動かされた筈です。苦しみの頂点の中にあって、このイエス様のことばに心を動かされない者がいるでしょうか?そうしてイエス様をののしったことを悔い改めるなら、彼は赦されてパラダイスに行けます。すると、十字架を見ると心が和むことも、お墓を見ると平安を感じることにも合点がいきます。人は誰もが皆全員、十字架に向かって歩んでいて、苦しみの頂点である死の直前にはイエス様が隣にいて、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言っていただけます。たとえイエス様をののしったとしても、悔い改めのための時間が与えられます。
でも人によっては事故や事件、災害や戦争で即死する人もいるでしょう。では即死すると、悔い改めの時間が与えられないのでしょうか?しかし、即死というのは健康な人間の普段の時間感覚であって、死を目前にした者には、もっと長い時間が与えられているでしょう。人は死を目前にすると走馬灯のように自分の人生を振り返る時間が与えられると言われますね。この時間は看取る側にとっては一瞬でも、看取られる側にとっては永遠に近い長い時間ではないかと思います。なぜなら神様は永遠の中におられて、イエス様の十字架も永遠の中にあるからです。そうして、人は死の直前に悔い改めのための時間が与えられます。そのことがルカ23章44節の「時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた」から読み取れると思います。
こうして、ほとんどの者がパラダイスに行き、神様の平安に包まれます。23年前の2001年に高津教会に導かれた私が、まだ聖書をよく知らなかったのに十字架を見ると心が和んだのも、昨年この沓谷の地に導かれてお墓を見ると平安を感じたのも、人は誰でも十字架に向かって歩み、地上生涯を終えた者の大半がパラダイスに行って神様の平安に包まれている、そのメッセージが十字架から発信されているからではないか、と思わされています。
このことを、これからなお深めて行くことができたらと願い、きょう皆様と分かち合うことにさせていただきました。お祈り致します。
苦しみの頂点からパラダイスへ
いつもお祈りをありがとうございます。きょうまた静岡朝祷会の奨励の機会が与えられたことを感謝しています。きょうの聖句は新約聖書のルカの福音書23章43節です。きょうは十字架の話です。
ルカ23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
神奈川県の川崎市にあるインマヌエル高津教会に私が導かれたのは2001年の8月12日です。以来、十字架を見ると心が和むようになりました。最初の頃は聖書をほとんど知らなかったのに、それでも心が和みました。そのため、なぜ十字架を見ると心が和むのか、ずっと不思議に思って来ました。それは神学生になり、そして牧師になってからも続きました。十字架を見ると心が和むのはなぜなのか、その理由を人に尋ねると、「それは罪が赦されたからですよ」と教えてくれます。それはそうなんだろうなと思いますが、理由はそれだけではない気がずっとしていました。そして、この沓谷(くつのや)の地に来て、段々とその理由が分かって来たような気がしています。
去年の3月にアパート探しをして、この教会(朝祷会の会場の静岡その枝キリスト教会)のすぐ近くの沓谷1丁目のアパートに導かれました。最初は子供の頃にいた大岩に住みたいと思って大岩のアパートへの入居の手続き進めていました。しかし、ちょっとしたトラブルがあったために大岩をあきらめ、再びアパート探しをして、この沓谷の地に導かれました。まさに神様の導きであったと感じています。
沓谷に来て、近所を散歩して抱いた最初の感想は、随分と墓地が多い地域だなということでした。沓谷霊園や愛宕霊園だけでなく、長源院や蓮永寺、元長寺などのお寺にそれぞれ墓地があって、谷津山のこちら側の一帯は本当にお墓だらけだなと思いました。でも、ぜんぜん嫌な気はせず、むしろ心の平安を感じました。子供の頃は墓地を気味の悪い場所だと思っていましたが、沓谷に導かれて、お墓に平安を感じました。なぜだろうと思いを巡らし、次のように思いました。人は、この世にいる間は神様に逆らって悪いことばかりしているけれど、死んでこの世を去れば皆、神様の支配のもとで誰も逆らわずにいるからだろう、ここに葬られている者の大半が神様によって魂の平安を得ているからだろう、と思いました。
そうして近所を散歩する時は私も心の平安を得ていましたが、仕事が決まるまでの間は本当に大変で、桜やツツジを楽しむ余裕などぜんぜんありませんでした。ハローワークに登録して自宅のパソコンで毎日、新着の求人情報をチェックする日々でした。そして、この仕事ならやってみたいと思う求人があるとハローワークに行って先方に連絡を取ってもらって面接に臨みました。でも、結果は不採用の連続で、連戦連敗の状態が続きました。
しかし幸いにして今の職場に採用されて、7月から働き始めることができました。でも思っていた以上に大変な職場で、苦労の連続です。特に感じているのが、自分自身の「老い」の問題です。うっかりミスが私はとても多いです。若い頃は今ほどはミスをしませんでした。たとえミスをしても人が気付く前に自分で気付きましたから、修正することができました。今は毎日のように人からミスを指摘されて、情けなく思います。ただ、それでもまだ何とか仕事ができていますから良いのですが、親の老いは、いまどんどん進行していて、深刻な領域に入りつつあります。障害がある兄弟の状態も、かなり悪いです。でも多分まだまだ良いほうなのでしょう。これから先は、もっともっと大変になって行きます。家族の介護の大変さは、人から聞いてはいましたが、しょせんは他人事でした。それがいよいよ自分事になって来たのだと感じています。
そうして、やがて家族の介護の期間が終わった頃には、今度は自分自身の老いの問題が深刻になっていることでしょう。神様が私を何歳まで生かして下さるのか分かりませんが、今でも自分の老いを職場で日々感じていますから、これからのことを思うと、とても不安になります。そうして思ったことは、人は生きて年を重ねて行くと、いろいろな事ができなくなって苦悩がどんどん増して行くものなのだな、ということです。これが最近の私の偽らざる実感です。
ヨハネの福音書のイエス様は、21章でペテロに言いました。
ヨハネ21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
これはペテロに限らず、私たちのほとんどに当てはまることではないでしょうか。人は皆、長く生きれば生きるほど生きて行くことが大変になり、自分で出来ることが少なくなり、苦しみが多くなる。家族の状態は今でも大変ですが、この先、もっともっと大変になって行きます。この大変さを思う時、人生とは、十字架に向かって歩んでいるようなものではないかと、ふと、思いました。生きれば生きるほど苦しみが増し、その苦しみの頂点が死の直前にあるとすれば、それはまさしく十字架です。でも、その苦しみの頂点でイエス様がすぐ隣にいて、
ルカ23:43 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
と言っていただけます。何と幸いなことでしょうか。この気付きが与えられた時、私は家族の老い、そして自分自身の老いの問題の重荷がスッと軽くなるのを感じました。そうして、その時以来、世の中を見る目が一変しました。人は皆、全員、老いも若きも、イエス様を信じる人も信じない人も一人残らず、十字架に向かって歩んでいて、そうして苦しみの頂点である人生の最後にイエス様がすぐ隣にいて下さり、魂の平安を得ます。
では私はどちらの側の十字架にいるのでしょうか?イエス様の右と左には、イエス様と同じように十字架に付けられた犯罪人がいました。この二人の犯罪人の一人はイエス様をののしりました。
ルカ23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
私はこの39節のイエス様をののしる側でしょうか?それとも43節でイエス様に、
ルカ23:43 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
と言っていただける側でしょうか?自分は後者であると思いたいですが、もしかしたら前者の、ののしる側になっているのかもしれません。老いの苦しみが増すに連れて不信仰に陥り、ののしる側に回っていることも有り得ます。でも大丈夫です。44節に、次のように記されているからです。
ルカ23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
つまり、イエス様をののしった犯罪人には、悔い改めのための時間がなお3時間も与えられていました。彼はイエス様ともう一人の犯罪人との会話を聞いていたはずです。そして、もう一人がイエス様に、
ルカ23:43 「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
と言っていただけたのを聞いて、きっと心を動かされた筈です。苦しみの頂点の中にあって、このイエス様のことばに心を動かされない者がいるでしょうか?そうしてイエス様をののしったことを悔い改めるなら、彼は赦されてパラダイスに行けます。すると、十字架を見ると心が和むことも、お墓を見ると平安を感じることにも合点がいきます。人は誰もが皆全員、十字架に向かって歩んでいて、苦しみの頂点である死の直前にはイエス様が隣にいて、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言っていただけます。たとえイエス様をののしったとしても、悔い改めのための時間が与えられます。
でも人によっては事故や事件、災害や戦争で即死する人もいるでしょう。では即死すると、悔い改めの時間が与えられないのでしょうか?しかし、即死というのは健康な人間の普段の時間感覚であって、死を目前にした者には、もっと長い時間が与えられているでしょう。人は死を目前にすると走馬灯のように自分の人生を振り返る時間が与えられると言われますね。この時間は看取る側にとっては一瞬でも、看取られる側にとっては永遠に近い長い時間ではないかと思います。なぜなら神様は永遠の中におられて、イエス様の十字架も永遠の中にあるからです。そうして、人は死の直前に悔い改めのための時間が与えられます。そのことがルカ23章44節の「時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた」から読み取れると思います。
こうして、ほとんどの者がパラダイスに行き、神様の平安に包まれます。23年前の2001年に高津教会に導かれた私が、まだ聖書をよく知らなかったのに十字架を見ると心が和んだのも、昨年この沓谷の地に導かれてお墓を見ると平安を感じたのも、人は誰でも十字架に向かって歩み、地上生涯を終えた者の大半がパラダイスに行って神様の平安に包まれている、そのメッセージが十字架から発信されているからではないか、と思わされています。
このことを、これからなお深めて行くことができたらと願い、きょう皆様と分かち合うことにさせていただきました。お祈り致します。
ルカ23:43 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」