新しい天と新しい地(2018.6.17 礼拝)

2018-06-18 09:43:36 | 礼拝メッセージ
2018年6月17日礼拝メッセージ
『新しい天と新しい地』
【黙示録21:1~7】

はじめに
 先週の礼拝メッセージで予告した通り、きょうは黙示録21章の新しい天と新しい地の箇所を学びます。
 先週は創世記2章のエデンの園の箇所を開きました。今の世の中では国内でも国外でも様々な悪が平然と行われるようになり、悪の支配がどんどん加速しているように感じます。その中にあって私たちは気付かない間に悪の支配に慣らされてしまっているようにも思います。その悪の支配に慣らされないように、最高に聖い場所であるエデンの園と新しい天と新しい地に目を向けて思いを巡らしたいと思います。
 きょうは先ず、きょうの聖書箇所である黙示録21章の1~7節を簡単に見てから、黙示録の全体を概観することを考えています。これまで私がこの教会に着任してから黙示録を開いたことはほとんどないからです。廣瀬先生の時代には黙示録を開いたかもしれませんが、少なくとも私が来てからの5年間は黙示録をほとんど開きませんでしたから、ごく簡単に黙示録の全体を眺めてみたいと思います。そしてその後で、黙示録の最後の章の22章をご一緒に見て、メッセージを締めくくることにしたいと思います。

新しい天と新しい地
 では、黙示録21章の1節から見て行きます。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 この21章から、前の20章までとは全く異なる新しい時代が始まります。それまでがどうであったかは、後で見ることにして、とりあえず前に進めます。2節、

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降(くだ)って来るのを見た。

 これは壮大な光景ですね。天使が降(くだ)って来るとかでなく、都ごと降って来るということです。

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 神は人々とともに住み、人々は神の民となります。これはエデンの園の時代に帰るというように捉えることができるように思います。いつの時代にも神様は人々と共にいましたが、旧約の時代には聖所は垂れ幕で仕切られていました。その意味で、神様と人とは完全に共にいたわけではありません。ペンテコステの日以降に聖霊が降ってからは神様はより近い存在になりましたが、それでも聖霊は天におられる御父と御子から降って来ましたから、人と天との距離は相変わらず離れています。その天から新しいエルサレムが降って来て、22章の1節と3節によれば神と子羊の御座がこの新しいエルサレムの都の中にあるということですから、ペンテコステ以降よりもさらに神様は近い存在になるということですね。本当に素晴らしいことです。
 続いて4節、

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」、まさに新しい時代の始まりであり、アダムとエバが罪を犯す前のエデンの園も、そのようであったことでしょう。
 次に5節、

21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 今の汚れた世から考えると、まさにすべてが新しいことです。そして、「これらのことばは真実であり、信頼できる」という神様のことばがありますから、とても心強く感じます。

21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。

 いのちの水をいただくのに何のお金も要りません。ただイエス・キリストを信じれば、いのちの水をいただくことができます。

都に入ることができる者とできない者
 続いて7節をお読みします。

21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 ただし、イエス・キリストを信じない者は、この都に入ることができません。21章の26節と27節をお読みします。

21:26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

 いのちの書に記されていない者はどうなるかというと、それは20章の15節に書かれています。

20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

 そうして21章が始まりますから、新しい天と新しい地は、火の池に投げ込まれなかった、いのちの書に記されていた者だけが体験することができるのですね。
 聖書によれば、これが、この世の終わりの時に起こることです。
 だから火の池に投げ込まれないようにイエスさまを信じましょうということになるのですが、それだと何だか脅迫して信仰を勧めているようで、どうも私はそういう説教をする気にはなれません。それで、今までそのような説教をしたことがありませんでした。恐らく、これからもしないと思います。しかし、昨今のあまりにも悪の支配が進むひどい世界を見せ付けられている中にいて、この悪の支配に慣らされないようにしましょうという形でなら、脅迫ではなくて聖い神様の方に目を向けることをお勧めする形で、結果的に火の池に投げ込まれる道へ人々が進むことを引き止めることができるであろうと思うわけです。

黙示録の概観
 では、残りの時間で黙示録全体をごく簡単に見ることにしたいと思います。

 このヨハネの黙示録の最初、1章1節から3節までを交代で読みましょう。

1:1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。

 この黙示録には、これから起きることが書かれています。1節には「すぐに起きる」とあり、3節には「時が近づいている」とあります。この黙示録が書かれてから1900年以上が経っていますが、まだその時は来ていません。しかし、神様にとっては、千年が一日のようですから、まだわずか二日が経ったか経たないかということなのかもしれません。
 このことに備えて2章と3章には七つの教会へのメッセージが書かれています。3章20節のみことばは有名ですね。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 私たちはいつも、イエスさまの声に耳を澄ませていたいと思います。そして4章からはヨハネが見た幻が書かれています。これらについて、じっくり見る時間はありませんが、サタンが地上に投げ落とされた件(くだり)は見ておきたいと思います。

地上に投げ落とされたサタン
 12章の7節から9節までを交代で読みましょう。

12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、
12:8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
12:9 こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

 世の中がこんなにも悪に満ちているのは、サタンが地上に投げ落とされたからなのですね。それはこの黙示録が書かれた1世紀の末においても、21世紀の今も変わりません。続いて13章の13章の1節と2節を交代で読みましょう。

13:1 また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。
13:2 私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。

 1節に、海から上がって来た獣の頭には神を冒涜する様々な名があったとあります。そして2節には、竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えたとあります。竜というのは地上に投げ落とされたサタンです。サタンはこの獣に大きな権威を与えました。続いて3節と4節、

13:3 その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、
13:4 竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。「だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか。」

 全地は驚いてその獣に従い、竜を拝みました。そして獣も拝みました。サタンを拝み、サタンが権威を与えた獣も拝むとは、何と恐ろしいことでしょうか。これこそ神を恐れない行為です。それゆえ、この世はますます悪の支配が進んでしまいます。次に5節と6節を交代で読みます。

13:5 この獣には、大言壮語して冒瀆のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
13:6 獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。

 大言壮語して冒涜のことばを語る人は今の世にもいますね。本当に恐ろしいことです。7節と8節を交代で読みます。

13:7 獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。
13:8 地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。

 いのちの書にその名が書き記されていない者は、この獣を拝みます。しかしいのちの書に名が記されているなら、この獣を拝むことはしません。
 ですから、イエス・キリストを信じていのちの書に名が記される必要があります。私たちは火の池に投げ込まれないためにイエス・キリストを信じるのではなく、サタンと獣を拝むような恐ろしいことをせず、聖い神様の方向を向くことができるように、イエス・キリストを信じたいと思います。イエス・キリストを信じないなら火の池に投げ込まれると脅迫して信仰を勧めるのではなく、今のこの世のひどい悪に慣らされずに聖い神様の方向を向くことができるよう、信仰を持つことを勧めたいと思います。

天から降ってきた御座
 では最後に22章を見ることにしたいと思います。1節から5節までを交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 何と聖い世界でしょうか。私たちはこの聖い世界に、もっと目を向けることができるようになりたいと思います。ただし同時に、今の汚れた世からも目を離してはならないと思います。聖い世界に目を向けるのは悪の支配に慣らされないためであり、今の世に背を向けるためではありません。今の世に背を向けてしまったら、この世で苦しんでいる方々にイエスさまのことをお伝えすることができなくなってしまいます。
 ですから私たちは神様の聖い世界に目を向けつつ、悪に支配されたこの世からも目を離さないでいて、聖いイエスさまのことを多くの方々にお伝えして行きたいと思います。

おわりに
 最後に16節と17節を交代で読んで、メッセージを閉じます。
 
22:16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
22:17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

 お祈りいたしましょう。
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6月17日礼拝プログラム

2018-06-14 08:00:30 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月17日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年6月第3聖日礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉      253
 交  読  詩篇130篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  ゆだねます主の手に     327
 讃 美 ③  イエスの深い愛と      310
 聖  書  黙示録21:1~7
 説  教  『新しい天と新しい地』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  主とともに罪に死に     312
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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心の貧しい者は幸いです(2018.6.13 祈り会)

2018-06-14 07:14:26 | 祈り会メッセージ
2018年6月13日祈り会メッセージ
『心の貧しい者は幸いです』
【マタイ5:3】

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)

はじめに
 礼拝メッセージでは先聖日は創世記2章のエデンの園の箇所を開きました。そして、次の聖日礼拝のメッセージの箇所も予告しました。次の聖日は黙示録21章の「新しい天と新しい地」の箇所を開くことにしています。礼拝で創世記2章と黙示録21章を開くことにしたのは、今の世があまりに悪で満たされている様子を見ていて、私たちがこの悪の支配に慣らされてしまいつつあることを感じたからです。そこで神様が造られた聖い場所であるエデンの園と、新しい天と新しい地とに目を向けて、悪の支配に決して慣らされてはならないことを共に学びたいと思いました。
 この祈り会のメッセージも、礼拝メッセージと連動して行きたいと考えています。礼拝で黙示録21章を学んだ後は、イザヤ書やエゼキエル書を開いて、新しい天と地やエデンの園と関連する箇所を学びたいと願っています。礼拝では使徒の働きを学んだ後はルカの福音書を学んで、このところずっと新約聖書を開いて来ましたから、旧約聖書に目を転じようと思っています。一方、祈り会では、新約聖書を開くことにしたく思います。新約聖書の中に見られる、エデンの園のような聖い箇所を開くことにしたいと思います。

心の貧しい者とは
 きょうマタイ5章を開くことにしたのは、マタイ5章~7章の「山上の説教」が「エデンの園」のように感じるからです。どういうことかというと、例えばマタイ5章48節でイエスさまは、「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」とおっしゃいました。しかし、普通の感覚で言うなら、これは難しいと思うでしょう。イエスさまだけでなくジョン・ウェスレーも「キリスト者の完全」を説いていますから、牧師の私がこんなことを言ってはいけないのですが、天の父が完全であるように、自分もまた完全であるよう目指すことは、なかなかに難しいと考えていたのが正直なところです。
 しかし、先聖日に創世記2章のエデンの園を開き、我々は悪の支配に慣らされ過ぎているのではないかと説教した後、「キリスト者の完全」を難しいと感じている私こそが最も悪の支配に慣らされていると気付かされました。悪に慣らされてはいけないと説教で説いておきながら、実は自分自身が悪に最も慣らされているのかもしれないと示されました。そして、エデンの園を基準にしてマタイ5章~7章の「山上の説教」を読むなら、今までよりも「山上の説教」のことがよく理解できると感じました。
 ですから、きょうのマタイ5の3の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」も、エデンの園の観点から読んでみたいと思います。
 私は今まで、「心の貧しい者」のことをどうも上手くイメージできないでいました。ある注解書の注解者は、「『心の貧しい者』は自分の霊的な貧しさを知っている人である。自分の正しさを誇らず、心砕かれた者である」と書いています。言いたいことはわかりますが、「霊的な貧しさ」と「天の御国」が直結しないことが気になります。天の御国は霊的に豊かな者でなければ入れないはずです。ですから霊的な貧しさを自覚するなら聖霊に満たされて天の御国に入れるということが間に挟まっているのだと思いますが、それを補わなければならない点が、いま一つすっきりしません。それが、今回エデンの園の箇所の学びを終えて分かった気がしました。
 「心の貧しい者」とは、エデンの園にいた罪を犯す前のアダムとエバのことではないかということです。 まだ罪を犯す前の、まっさらな状態のアダムとエバであると考えたほうが分かりやすいように感じます。もちろん「霊的な貧しさを知っている人」のほうがイメージしやすい方は、そちらで理解していただいてかまいません。しかし、もし私と同じように上手く理解できない方がいたなら、参考にしていただきたいと思います。

神様から与えられたもの以外は何も身に着けていなかったアダムとエバ
 創世記2章の、まだ罪を知らなかった時のアダムとエバは、神様から与えられたもの以外は何も知らず、また何も身に着けていませんでした。それにも関わらず霊的には豊かにされていました。これこそが心が貧しい者だという気がしますが、いかがでしょうか。しかしエバが蛇に誘惑されて残念なことに二人は善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そのことでアダムとエバは知識が豊かになり、それと引き換えに霊的には死んだ者になってしまいました。貧しい者とは、余計な知識や衣服などを持たずに神様が与えて下さった霊だけで十分に満ち足りていて、その他は何も持っていないものだと理解するほうがわかりやすいと私は感じますが、いかがでしょうか。
 マタイ6章の25節から28節を、交代で読みましょう。

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 イエスさまは空の鳥や野の花を見るように言いました。これらの動物や植物は、(蛇を除けば)神様が最初の六日間で造られた動物や植物のままであると言えるでしょう。彼らは神様が与えて下さったものだけで十分に満足して日々を過ごしています。ですから、人もまた神様が六日目に造られて、「見よ。それは非常に良かった」と仰せられた時を手本にするのが良いのだと思います。

おわりに
 もちろん私たちは既に罪を犯した者たちですから、初めの状態には決してなれません。新品の白いシャツを汚してしまっても上手に洗濯をすれば、或いはクリーニング屋に持って行けば、白さは回復します。しかし、どんなにきれいになったとしても新品に戻すことはできません。それと同じで私たちは決して罪を犯す前のアダムとエバのようにはなることはできません。それでもやはり、私たちが手本とすべきは神様が「非常に良かった」と仰せられた初めの頃なのではないかと思います。そのようにしてエデンの園を思い浮かべることで今の世がいかに汚れているかが一層わかり、私たちが目指すべき場所を確認できるように思います。
 そうして私たちは悪から離れ、悪の支配に慣らされないように気を付け、この聖書が描く聖い世界を、周囲の方々にもお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
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エデンの園の安らぎ(2018.6.10 礼拝)

2018-06-11 09:25:31 | 礼拝メッセージ
2018年6月10日礼拝メッセージ
『エデンの園の安らぎ』
【創世記2:7~17】

はじめに
 先週は岩上先生にメッセージを取り次いでいただき、先々週はシオン教会での合同礼拝で野田先生にメッセージを取り次いでいただきましたから、私の礼拝メッセージは三週間ぶりということになります。三週間前まではルカの福音書を学んでいました。間が空いたところで、聖書の他の書に目を転じることにしたいと思います。

悪の支配に慣らされないために
 きょうは創世記2章のエデンの園の箇所を開くことにしました。そうして来週は黙示録21章の「新しい天と新しい地」を開きたいと考えています。なぜ、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたかというと、昨今の国内や国外のニュースを見ていると(特に国内)、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなことが平然と行われていて、世の中が悪の支配にどんどん取り込まれていることを感じるからです。そうして今や私たちは世の中で平然と行われている悪に段々と慣らされてしまっているように感じます。悪に支配されていることが当たり前の状態になり、聖さを求める感覚が麻痺して行ってしまう恐ろしさを感じます。
 そこで、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を共に学んで、これらに思いを巡らすことで、悪の支配に慣らされることがないようにしたいと思わされています。
 では先ず、創世記1章の最後の節の31節から見て行きたいと思います。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神は第一日から第六日まで六日間かけて天と地を創造され、そこに植物と動物そして人間を住まわせるようにしました。そうして31節にあるように神はご自分が造ったすべてのものを見られました。「見よ、それは非常に良かった」とあります。
 私たちは今の汚れた世の中に住んでいますから、その「非常に良かった」様子を思い描くことは残念ながらできません。一体それは、どれほど素晴らしいものだったのでしょうか。今の世でも大自然が残された場所などは、その場に身を置けば、心が洗われるような心地になります。テレビなどでそういう場所を画面を通して見ることもできます。しかし、それらの大自然よりも、はるかに素晴らしいものであったことでしょう。何しろ神様が「非常に良かった」と思われたのですから、想像を絶する素晴らしさであったことでしょう。
 きょう、私たちはこのような聖い場所について思いを巡らし、悪に慣らされてしまうことから遠ざかることができたらと思います。

聖日礼拝の素晴らしい恵み
 では、創世記の2章に進みましょう。1節から3節までをお読みします。

2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

 3節に「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」とあります。私たちの教会の週報の1ページ目には「聖日礼拝」と書かれています。私たちが毎週7日ごとに礼拝を捧げるのは、そもそもここから始まっていることを覚えたいと思います。このことに思いを巡らすなら、週1回の礼拝に出席することがどれほど大事なことか分かる気がします。私たちは週のうちの6日間は世間の様々な事柄の中で聖さから遠ざかってしまっています。しかし週に1回は神様が聖なるものとされた日に教会に集い、神様との交わりの時を持つことで聖い世界に再び近づくことができますから、本当に感謝なことだと思います。礼拝から遠ざかってしまうと、この神様の聖い世界からは、ずっと遠ざかったままになってしまうことになります。
 続いて4節から6節までをお読みします。

2:4 これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が、地と天を造られたときのこと。
2:5 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。
2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。

 この豊かな水は神様の霊のように聖い水であったことでしょう。続いて7節、

2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

 これが最初の人アダムですね。神様はアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれました。それでアダムは生きるものとなりました。この7節を味わうなら、創世記3章でアダムが神様の御顔を避けて身を隠したことが、どんなに残念なことであったかを痛感します。後で、創世記3章もご一緒に見ることにしたいと思います。

エデンの園の素晴らしさに思いを巡らす
 8節と9節、

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 このエデンの園がどれくらい聖く素晴らしい場所であったかを、思い巡らしたいと思います。既存の宗教画などに縛られる必要はないと思います。自分が思い浮かべることのできる最高の素晴らしい場所を思い浮かべたいと思います。ただし私たちの想像力には限りがありますから、エデンの園の本当の素晴らしさを思い浮かべることは決してできないでしょう。しかしそれでも、想像力の限界まで聖い場所を思い浮かべることは決して無駄ではないと思います。聖い場所を思い浮かべることで、私たちが今の時代の汚れた世にいかに慣らされてしまっているかに気付かせてもらえると思うからです。
 続いて10節、

2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 このエデンから湧き出た川には、非常に霊的なものを感じます。この川は源流となり、エデンの園の外にも流れ出していました。後に時おりは霊的に優れた信仰者が現れたのは、エデンの園から霊的な川が流れ出ていたからかもしれませんね。

 11節から14節、

2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。
2:12 その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

 この14節のティグリス・ユーフラテス川の流域からメソポタミア文明が生まれたのですね。

 次に15節から17節、

2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 アダムは、このエデンの園を守る役目を任されました。しかし、ご承知のようにアダムは3章で、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。次にこの3章を見ることにしますが、比較のために4章のカインもまた同時に見ることにしたいと思います。カインはアダムとエバの息子ですが、弟のアベルを殺してしまいました。3章のアダムも4章のカインも二人とも罪を犯したわけですが、きょう見てみたいポイントは、アダムが罪を犯した時はまだエデンの園の中にいた時であったこと、一方、カインが罪を犯した時はエデンの園の外にいた時であったことです。

罪を犯したアダム
 まず3章のアダムの場合を見ます。

3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

罪を犯したカイン
 次に、4章を交代で読みます。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。

 アダムとカインが罪を犯した箇所を読み比べると、二人の間には大きな違いがあることがわかります。

エデンの園の外にいて罪を認めなかったカイン
 アダムは妻のせいにしていますから、これは良くないことですが、それでもともかくも自分が木の実を食べてしまったことを認めています。それに対してカインは「知りません」と神様に嘘をついて自分の罪を認めようとしませんでした。神である主の御顔を避けて身を隠したアダムは、主を恐れていましたが、カインは「知りません」と言った時点では主を恐れていませんでした。カインのようにエデンの園の外にいると、人の心はこれほどまでに神から離れ、荒廃してしまうのだということを見せつけられて、暗澹たる気持ちになります。
 このようにエデンの園の外に出されてからの人類は、ずっと悪に支配され続けて来ました。たまにノアやアブラハムのように神様の目に適う者たちもいましたが、大多数は神から離れた者たちで世の中は満たされて来ました。その中にあって私たちは、悪に慣らされてしまいそうになります。世の中の悪に満ちたニュースに鈍感になっている自分を発見して、ハッとすることもあります。
 ですから、私たちは聖い世界をもっと見る必要があるのではないかと思います。それゆえきょうはエデンの園の箇所を開き、来週は黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたいと思います。再来週はシオン教会での合同礼拝がありますから、こちらでの礼拝はお休みになりますが、7月からはまた聖い世界を学ぶことができたらと思います。

おわりに
 最後に、創世記2章8節から10節までを交代で読んで終わりたいと思います。このエデンの園は平和で安らぎに満ちた場所であったことを覚えたいと思います。

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 お祈りいたしましょう。
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6月10日礼拝プログラム

2018-06-07 10:50:43 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月10日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年6月第2聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  丘に立てる荒削りの     118
 交  読  詩篇128篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  人生の海の嵐に       443
 讃 美 ③  救いのおとずれ       473
 聖  書  創世記2:7~17
 説  教  『エデンの園の安らぎ』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  主から受ける安らぎは    440
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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逆風に立ち向かう信仰(2018.6.6 祈り会)

2018-06-07 09:26:18 | 祈り会メッセージ
2018年6月6日祈り会メッセージ
『逆風に立ち向かう信仰』
【使徒21:7~14】

はじめに
 きょうは先ず、吹流しの話から始めます。
 その吹流しは、私のジョギングコースである海岸沿いの防潮堤の付近に設置してありますから、週3回ぐらいのジョギングの時には必ず目にするものです。

目に見えない風を知るためにある吹流し
 この吹流しを見ることで、風の方向とおよその強さを知ることができます。吹流しを見なくても体に当たる風でも、ある程度はわかりますが、それは風が強い場合です。風が弱い時は向かい風ならわかりますが、追い風の場合は風が弱いとほとんどわかりません。走るのが楽だなとは感じますが、背中に風が当たる感覚はありません。背中に風が当たるのを感じるのは風が強い時だけです。
 吹流しは風を知るためにありますから、凝った形やデザインにする必要はありません。原駅を越えて富士に近い方にまた別の吹流しがあって、そちらまで足を延ばした時には、その吹流しを目にするのですが、その吹流しはちょっと格好いい感じのデザインになっています。すると風を知るよりは、吹流しのデザインのほうに目がどうしても行ってしまいます。
 吹流しは目に見えない風を知るためのものですから、目によく見える必要は当然あります。しかし、必要以上に吹流しに目が行き、そのデザインを気にするようになるなら、風を知ることが疎かになってしまいます。

目に見えない神を知るためにある聖書
 聖書もまた同じではないでしょうか。聖書は目に見えない神様のことを教えてくれます。私たちは目に見える人物のことを聖書で読み、目に見えない神様のことを知ろうとします。大事なことは神様を知るということです。ですから、必要以上に人物の細部にわたって知ろうとするなら、神様を知るという大切なことが疎かになってしまう危険性があるのではないでしょうか。
 どうして、きょうはこんな話から始めているかというと、先日、ある方とヨハネの福音書の話をして、私の説くヨハネの福音書論のことをどうしても分かってもらえないという経験をしたからです。その方は聖書のことを良くご存じの方です。しかし、私の説くヨハネの福音書のことを、どうしても分かっていただくことができませんでした。いつも話しているように、ヨハネの福音書はイエスさまの地上生涯に旧約の時代の出来事と使徒の働きの時代の出来事が重ねられています。そうして、ヨハネの福音書はイエスさまの地上生涯よりもイエスさまがまだ受肉する前のことば(ロゴス)としてのイエスさまの働きと、天に帰った後で天から聖霊を遣わすという働き、つまり地上生涯の前と後の目に見えない時のイエスさまの働きのほうを重視している書です。その目に見えないイエスさまのことを読者に伝えるためにヨハネは目に見える地上生涯のイエスさまに旧約聖書と使徒の働きを重ねるというテクニックを使っています。しかし、やはりどうしても、読者の目は地上生涯のイエスさまに釘付けになってしまうという結果になってしまっています。地上生涯のイエスさまのことよりも、その前と後のイエスさまの働きのほうが大事なのだということを、どうしてもわかってもらえません。このことと、デザインが新奇な吹流しは似ているように感じます。

目に見えない原子空孔の動きを知るための原子空孔集合体
 きょうはこの吹流しの話から始めましたが、実は吹流しの例えに思い至る前に、もう一段階ありましたから、今度はその証をさせていただきます。
 私は大学4年生の時と大学院生の時、それから研究所の研究員と大学の助手の時の十数年間、主に金属材料の点欠陥の研究をしていました。点欠陥というのは原子サイズの最小単位の欠陥のことです。点欠陥の一つの例は、原子空孔です。空孔というのは空(から)の孔(あな)のことです。例えば、この教会にあるようなパイプ椅子を、もっと広い学校の体育館のような所に並べた様子を思い浮かべてみて下さい。学校の卒業式などの時には体育館にパイプ椅子をたくさんきれいに並べたりしますね。しかし並べた後で、パイプ椅子の一つが壊れていることに気付いたとします。そして、その壊れたパイプ椅子を抜き取ることにします。すると、椅子を取り去った場所に孔(あな)が空きます。これが原子空孔です。金属の原子は体育館に並べたパイプ椅子のようにきれいに並んでいますが、完全に原子で満たされているわけではなく、一定の割合で原子空孔を含んでいます。
 この原子サイズの孔は小さすぎるので、電子顕微鏡でも見ることはできません。技術が進歩しているでしょうから最新の事情は分かりませんが、少なくとも私が研究に携わっていた時には見ることはできませんでした。しかし、この空孔が移動して何個か集まると見えるようになります。空孔は材料の温度を上げてやると、よく動くようになります。パイプ椅子の列の孔が空いた場所も、隣の椅子をその孔の方に移動させてやると、孔が椅子一つ分動きますね。そんな風に原子空孔も動いて行きます。そうして別の原子空孔と出会うと空孔同士が合体して集合体になります。そして、その原子空孔の集合体はだんだん成長して大きくなり、電子顕微鏡で見えるようになります。
 このような研究が何の役に立つかというと、例えば原子炉の中では放射線などの高エネルギーの粒子が飛び交っていて、その高エネルギーの粒子が材料の原子に当たると材料の原子が弾き出されて、孔が空きます。その孔が集まると空洞状の大きな孔になり、材料が膨張したり、脆くなったりします。それで、その孔を動きにくくするために、その孔を動きにくくするための別の原子を混ぜてあげたりします。そうして、いろいろと条件を変えて実験をして、目に見える大きな孔の成長速度がどう変化するかを調べることで、目に見えない最小単位の原子サイズの孔がどれくらい動いているかを知ることができます。
 この研究で肝心なことは、目に見える現象から、目に見えない小さな空孔の動きをできるだけ正確に知るようにするということです。実験はお金も手間も掛かりますから、いくつかの条件でしか実験できません。あらゆる条件の実験をやり尽くすことはできません。しかし、目に見えない空孔の動き方の性質がわかるようになるなら、あとは実験をしなくても、別の条件の時にはどうなるかを予測できるようになります。目に見える現象はただ一つの特定の現象ですが、目に見えない原子空孔の動きがわかるなら、広くいろいろな条件について実験しなくてもわかるようになります。

神と聖書中の人物との関係から神を知る
 聖書の読み方も同じだと思います。使徒の働きにはパウロやペテロたちのことが書いてあります。この目に見えるパウロの働きはパウロだけのものですが、パウロと目に見えない神様との関係を見出すことができるなら、その関係を自分と神様との関係に適用することができるようになります。同じように目に見える地上生涯のイエスさまと目に見えない神様との関係を見出すことができるなら、そのイエスさまと神様との関係を私たちと神様との関係に適用することができるようになります。
 私が地上生涯のイエスさまよりも、地上生涯の前と後の目に見えないイエスさまのほうに目が行くようになったのは、かつて金属材料の点欠陥の研究者であった私の経歴を用いて下さっているのだなと最近になって気付かされました。ですから、前半は、そのことの証をさせていただきました。ただし、いきなり点欠陥の話をしても分かりづらいと思いましたから、いつもジョギングで目にしている吹流しの例えを最初に使わせていただきました。
後半は使徒の働きを開いて、その後でもう一度、吹流しの話 に戻りたいと思います。
 
(賛美歌を挟む)

風上と風下のどちらが神の方向でどちらが悪魔の方向か
 使徒の働き21章の7節から14節までを交代で読みます。この箇所は礼拝でも学びましたが、パウロの第三次伝道旅行の終わりのほうの場面です。
 20章でパウロはミレトスでエペソの教会の長老たちに別れを告げました。告別説教とか遺言説教とも言われますね。そして21章3節にツロに入港したとあります。そのツロの地の弟子たちは4節にあるように御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言いました。しかし、パウロはそれを聞き入れないでエルサレムへと向かって行きます。
 そして、ご一緒に交代で読む次の箇所でも、人々はパウロにエルサレムへ行かないようにと懇願します。7節から14節までを交代で読みます。

21:7 私たちはツロからの航海を終えて、プトレマイスに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
21:8 翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。
21:9 この人には、預言をする未婚の娘が四人いた。
21:10 かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。
21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」
21:12 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。
21:13 すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」
21:14 彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。

 私たちは目には見えない神の働きを知ることが大切だという話をしていますが、同時に私たちは目に見えない悪魔の働きも知る必要があると思います。
 いま世の中では目に見える形で悪が横行しています。前代未聞の大規模な公文書の改竄が行われた財務省では処分が行われるとのことですが、政治家は自らの責任をうやむやにしています。今、世の中は目に見える形でどんどん悪い方向に向かっています。この背後には目に見えない悪魔の働きがあることを認識していたいと思います。
 そこで、もう一度、吹流しの話に戻します。この吹流しは目に見えない風の向きを教えてくれます。この吹流しは風が来る方向、すなわち風上の方向を向いています。では、この風の方向を神様の方向と悪魔の方向に例えるなら、どちらが神様の方向でどちらが悪魔の方向だろうかということを今回、私は考えてみました。皆さんはどちらの方向が神様の方向だと思われるでしょうか。防潮堤の上を走っていると良くわかりますが、風上の方向は逆風になるので、進むのが困難です。一方、風下の方向を向けば、背中に追い風を受けて楽に前に進むことができます。

悪魔に支配されているこの世
 どちらが神様の方向で、どちらが悪魔の方向なのか、そのヒントは今ご一緒に読んだパウロが進んだ方向にあると言えるでしょう。パウロは進むのが困難な逆風の方向に向かって行きましたから、風上に向かって行きました。これが御心であるとパウロは確信していました。そしてローマに行くことができましたから、この風上が神様の方向だと言えるでしょう。しかしパウロは捕えられて苦難の道を歩むことにもなりましたから、この風上の方向は神様の方向であると同時に悪魔の方向でもあったと言えるでしょう。イエスさまが向かって行った十字架も同じですね。十字架の方向に進むことは父の御心でしたから神様の方向でしたが、それは同時に悪魔の手にご自身を明け渡す悪魔の方向でもありました。
 ここから分かることは神様の方向に向かうことは悪魔の方向に向かうことでもあるということです。悪魔は信仰者が神様に近づこうとすることを妨害します。その妨害は神様に近づけば近づくほど大きくなります。ですから、実は逆風は悪魔が吹かせているとも言えるかもしれません。この逆風に負けて神様に背を向ける人も多いでしょう。すると、背中から風を受けますから、神様から容易に離れ去って行くことができます。神様から離れるということは、悪魔の方向に行くということです。すると、風上の方向でも風下の方向でも、どちらを向いても悪魔の方向だと言うことになります。まさに、この世が悪魔に支配されているとは、こういう状況を言うのではないでしょうか。神様の方向は風上の方向だけですが、悪魔は風上の方向にも風下の方向にもいます。私たちが目指すべき方向は、もちろん風上の方向でなければなりません。私たちが伝道の働きをして人々を神様の方向にお連れしようとする時、逆風が吹きますが、それは悪魔が人々を神様に近づけまいとして妨害するからなのでしょう。しかし、私たちはこの逆風に立ち向かって行かなければなりません。
 信仰の道とは、困難に向かって歩んで行くことだということは、今ご一緒に読んだ使徒の働きの箇所に限らず、いろいろな箇所から読み取ることができると思います。ですから、いま私たちが直面している困難もまた、私たちが神様の方向に向かって進んでいるからこその困難だと言えるのではないでしょうか。ですから私たちは、この困難に立ち向かって行きたいと思います。

おわりに
 最後に、何度も開いている箇所ですが、エペソ人への手紙6章の10節から19節までを交代で読みましょう。

 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
6:19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

 お祈りいたしましょう。
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6月3日の礼拝について

2018-05-31 11:21:29 | 礼拝プログラム
6月3日の礼拝は、午前10時開始です。
通常より30分早くの開始となります。
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6月3日礼拝プログラム

2018-05-31 11:12:38 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月3日 礼拝 午前10時~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年6月第1聖日礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  救い主イエスと       409
 交  読  詩篇126篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  確かなもとい ただ主に置き 230
 聖  書  ヘブル12:1~3
 説  教  『イエスから目を離さないで』岩上祝仁 牧師
 讃 美 ③  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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神に帰れ、赦して下さるから(2018.5.20 ペンテコステ礼拝)

2018-05-22 08:12:59 | 礼拝メッセージ
2018年5月20日ペンテコステ礼拝メッセージ
『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』
【ルカ24:44~53】

はじめに
 きょうはペンテコステ礼拝です。使徒の時代のペンテコステの日にイエスさまの弟子たちが聖霊を受けた恵みを共に分かち合いたいと願っています。
 私たちクリスチャンにとって、毎週日曜日に教会に集い、神様を礼拝することができることは格別な恵みです。この素晴らしい恵みをいただくことができることに、心から感謝したいと思います。毎週毎週の礼拝はどれもとても大切なものです。しかし、中でもクリスマス礼拝、イースター礼拝そしてペンテコステ礼拝は格別に大切なものであると言えるのではないでしょうか。
 まずクリスマスの日にイエスさまがこの世に生まれることがなければ、そもそも私たちはイエスさまを信じることによって得られる恵みをいただくことができるようにはなりませんでした。ですから、イエスさまのご聖誕をお祝いするクリスマス礼拝は、とても大切なものです。では、イエスさまを信じることによって得られる恵みとは何でしょうか。それは聖霊の恵みですね。このようにクリスマス礼拝とペンテコステ礼拝は密接に関連しています。
 イエスさまを信じるとはイエスさまが神の子キリストであることを信じることです。このイエスさまが神の子キリストであることを信じることとイエスさまの復活(よみがえり)を信じることもまた、切っても切れないことです。神のひとり子であり救い主であるイエスさまは全世界の罪を背負って十字架に掛かって死にましたが、全能の神の力によって復活しました。このことを信じる者は聖霊を受けて永遠の命を得ます。
 そうして考えると、クリスマスの恵みもイースターの恵みも、どれもペンテコステの恵みへとつながって行きます。そういう意味では、ペンテコステ礼拝は年間を通した礼拝の中でも最も大切な礼拝であると言えるかもしれません。礼拝に大切さの順番を付けることはナンセンスかもしれませんが、いま私たちがルカの福音書から学んでいるように聖霊を祈り求めて受けることほど大切なことは他にない(ルカ11:13参照)のですから、それを覚えてペンテコステの恵みの素晴らしさを共に分かち合いたいと思います。
 さてしかし、それなのにどうしてメッセージのタイトルが『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』という訳のわからないものになっているか、不可解に思っている方もおられるかもしれません。以下、順次説明して行きたいと思います。

旧約聖書のどこに「三日目に死人の中からよみがえり」とあるのか
 いま私たちは礼拝でルカの福音書の学びをしています。毎度説明しているように、使徒の働きの視点でルカの福音書を眺めるということをしています。きょう開いているルカの福音書24章の最後の箇所は、使徒の働き1章と重複する箇所ですね。両者はルカの福音書と使徒の働きの「蝶つがい」とも呼ばれる箇所です。それで当初の予定としては、まずルカ24章をご一緒に読み、次いで使徒1章も開いて重なりを確認した上で、使徒2章のペンテコステの日の出来事の箇所をご一緒に読むことを考えていました。
 しかし、準備段階でルカ24章を読んでいる時に、途中で引っ掛かってしまいました。それで色々と思いを巡らしているうちにイザヤ55章(今朝の聖書交読の箇所)にたどり着きました。それで今日のメッセージでは、そのことを皆さんと分かち合いたいと思いました。
 ルカ24章44節から見て行きます。

24:44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

 モーセの律法と預言者たちの書と詩篇は旧約聖書の代表的な書ですから、旧約聖書の全体と考えて良いのだろうと思います。ここでイエスさまはご自身について旧約聖書に書いてあることはすべて成就しなければならないとおっしゃいました。
 続いて、45節から48節までは交代で読みたいと思います。

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 イエスさまは旧約聖書に次のように書いてあるとおっしゃいました。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』
 さてしかし、旧約聖書にこのように書いてある箇所はあるでしょうか。聖書のページの下にある脚注を見ても、旧約聖書の引照の箇所は書かれていません。私の手持ちの注解書を見ても、この件に関してはスルーしています。私はヨハネの福音書の注解書はたくさん、何十冊も持っています。しかし、ルカの福音書の注解書は数冊しか持っていません。ですから、他の注解書を調べれば何か情報が得られるかもしれません。しかし私の手元にある注解書ではこの件についてはスルーしていますから、困りました。それで説教でもスルーしようかと思いましたが、何となく気持ちが悪いので、聖霊によって何か示されないかと期待して、思いを巡らしていました。すると、以下で話すことが示されました。それが正解かどうかはわかりませんが、ぜひ皆さんと分かち合いたいと思います。

イザヤ書53章~55章
 イエスさまがおっしゃった46節の『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、云々』は旧約聖書のどこに書いてあるの?と疑問に思うのは、「三日目に死人の中からよみがえり」という箇所ですね。「キリストは苦しみを受け」という場面は有名なイザヤ書53章にあります。それで、ふと「三日目に死人の中からよみがえり」というのは、イザヤ書53章から55章に掛けてのことではないかと思いました。イエスさまの時代には、イザヤ書に53章とか55章とかの章の番号は付いていなかったと思いますが、区分はあったでしょうから、イザヤ53章で苦しみを受け、三章目の55章でよみがえったのではないかと思ったわけです。
 そして、そういう目で見てみると、そんな風に読めるのですね。まさに聖霊が働いたという気がして、私は大変に恵まれました。それで、ぜひペンテコステ礼拝で皆さんと分かち合いたいと思ったわけです。前回の礼拝メッセージで私は「大きなスケールで聖書を読む」ことをお勧めしましたが、このルカ24章とイザヤ書との関係も大きなスケールで読むことでイエスさまの働きのことがより明白に浮かび上がって来るようです。
 イザヤ書52章から見て行きたいと思います。このイザヤ書52章から55章に掛けては、やがて起きるバビロン捕囚とエルサレム滅亡の苦しみからの回復という希望の福音が預言されています。このイザヤ書52章から55章に掛けてを、先ほどのルカ24章45節から48節まで(週報p.3)の、

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

と重ねて読むと、バビロン捕囚とエルサレム滅亡の苦しみの中ではイエスさまもまたエルサレムの民と共に苦しんでいて、エルサレムの民の罪と咎に対する神の罰をイエスさまが引き受けて、回復の希望へと民を導いて下さっている様子が見えて来ます。
 ですから、イザヤ書52章から55章までとルカ24章のイエスさまのことばを重ねると、ペンテコステの日というのは、バビロン捕囚から続いて来たイスラエルの民の長い苦しみが漸く解放された日であったということが見えて来ます。それなのにユダヤ人たちは使徒たちが語るイエス・キリストの福音に耳を傾けようとしなかったためにパウロが嘆いていたことは、3月までの使徒の働きの学びで見た通りです。

キリストの受難
 では残りの時間でイザヤ書52章から57章までを見てみたいと思いますが、そんなに時間は残されていませんから、ところどころかいつまんで見て行きます。
 イザヤ52章1節、

52:1 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。

 ここでエルサレムの回復が預言されます。それは良い知らせです。7節、

52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

 この回復のためにはイエス・キリストによる罪の贖いが必要でした。9節ですね。

52:9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。

 それは十字架による贖いでした。13節と14節、

52:13 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。

続いて53章の4節から6節、

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 エルサレムの民の咎を主はすべてイエスさまに負わせました。そうして十字架で死にました。このイエスさまが受けた十字架の苦しみはエルサレムの民の苦しみに寄り添うものでもあったことがルカの福音書から見えて来ます。
 54章に進みます。この54章は福音書で言えば十字架の金曜日と復活の日曜日の間にある安息日の土曜日です。この備え日の土曜日では、やがて来る回復の時に静かに備えています。54章7節と8節、

54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

 7節で主は、「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てた」と言われました。すると、十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1、マタイ27:46、マルコ15:34)と叫んだ時のイエスさまは、苦しみの中にあったエルサレムの民と共にいた様子が見えて来ます。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」はエルサレムの民の叫びであり、十字架のイエスさまはそのエルサレムの民の叫びを代弁していた様子が見えます。

私たちの神に帰れ
 続いて、いよいよ復活の55章に進みましょう。

55:1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。

 「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」これはイエスさまがヨハネ4章でサマリヤの女に語ったことばと重なりますね。ここにある水とは聖霊のことと受け取りたいと思います。そして、「さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」ここからもイエスさまの十字架の姿が見えます。
 エルサレムの民、そして私たちは私たちの罪の代価を払わないで、赦しを得ました。代価のすべてはイエスさまの十字架によって支払われたからです。そして3節、

55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。

 神の声に耳を傾ければ聖霊を受けて永遠の命を受けるという預言が見えて来ます。続いて4節と5節、

55:4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
55:5 見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」

 福音はイスラエルの民だけでなく異邦人へと広がっていくことが、ここで語られています。5節ですね、「見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」こうして聖霊を受ける者は、イエス・キリストの証人となって地の果てまでイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。
 そうして、きょうのメッセージのタイトルにもした7節です。

55:7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

「私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」これは、最近私たちが礼拝で学んだ「放蕩息子の帰郷」を思い出しますね。聖書を大きなスケールで読むなら、父の家を出た放蕩息子とは、創世記の時代にアブラハムの家系から離れて行った異邦人のことです。その異邦人が使徒の時代のペンテコステの日以降に、聖霊が注がれた使徒たちの働きによって父の家に帰って来ました。父は、帰って来た放蕩息子を咎めることなく赦し、大歓迎しました。

すべてのことを教えて下さる聖霊
 私たちが日本で伝えているキリスト教は、仏教や神道を信じる日本人から見れば外国の宗教のように見えるでしょう。しかし、異邦人がイスラエル人の父であるアブラハムの家を出たのは仏教や神道が始まるよりも、遥かに前のことです。日本人も元々は聖書の神の家の者たちでした。このことを私たちは、もっと伝えて行く必要があると思わされます。
 そのためには、私たちは普段から聖書を大きなスケールで読むことをしなければならないこともまた思わされます。
 イエスさまが十字架で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、イエスさまは神から離れて苦しんでいた私たちすべてと共に苦しんで下さっていたということを、きょうは学ぶことができましたから感謝に思います。私たちはそのイエスさまを信じて神に帰り、赦していただくことができました。そうして、聖霊の素晴らしい恵みを受けることができました。
 週報のp.3にはもう一つ、ヨハネ14章26節のみことばも貼り付けておきました。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 聖霊を受けるなら、ルカ24章にあるイエスさまのことばも、さらに豊かに学べますから、感謝です。きょう話したバビロン捕囚とエルサレム滅亡に遭った民の苦しみを思い浮かべながら、もう一度、45節から48節までを交代で読みます。

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 47節にあるようにイエスさまの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられます。このことのために私たちはイエスさまの証人として働きたいと思います。

おわりに
 最後に、49節から53節までを交代で読んでメッセージを閉じます。53節はご一緒に読みます。

24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 お祈りいたしましょう。
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5月20日ペンテコステ礼拝プログラム

2018-05-17 10:39:41 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月20日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年5月第3聖日ペンテコステ礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  御霊は天より        173
 交  読  イザヤ55:1~13
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  あなたの願いのままに    175
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ルカ24:44~53
 説  教  『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  聖霊よ 主のそばに     171
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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大きなスケールで聖書を読む(2018.5.13 礼拝)

2018-05-17 08:02:04 | 礼拝メッセージ
2018年5月13日礼拝メッセージ
『大きなスケールで聖書を読む』
【ルカ13:6~9】

はじめに
 きょうは母の日ですが、来週はペンテコステの日ですから、ここまで続けて来たルカの福音書の学びのシリーズを、引き続き行うことにします。このシリーズでは使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということを試みています。
 ご承知の通り、使徒の働きは聖霊の働きとも言えるほど、使徒たちが聖霊によって力を受けて力強い働きをしたことが豊かに記されています。この使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めてみています。

先週までの学びの復習
 まず先週までの4回のメッセージを簡単に振り返ってみます。第1回目ではルカの福音書でイエスさまが中風で寝たきりの男が癒し、この男が起きて歩き始めた場面を、使徒の働きで聖霊を受けたペテロが足の不自由な人を癒した場面と重ねて見ることをしました。すると、使徒の働きで足の不自由な人を癒したのはペテロというよりは、聖霊を受けたペテロの中にいるイエスさまが足の不自由な人を癒している姿が見えてきます。
 第2回目は、ルカの福音書が神殿の場面で始まり、神殿の場面で終わるという話をしました。つまり、ルカの福音書のイエスさまの言動の全体が神殿という入れ物の中に納まっているという形になっています。そして、パウロの手紙によれば、聖霊を受けている私たちの体は神殿だということです。私たちの体は神殿で、その中に神である聖霊が住んで下さっています。それはつまり、神の霊としてのイエスさまが私たちの中に住んで下さっているということです。私たちの中にはルカの福音書のイエスさまが丸ごと入っていて、私たちに語り掛けて下さっているのだという話をしました。ルカの福音書のイエスさまは人間としてのイエスさまですが、そのイエスさまが今度は神の霊として私たちの中に入っていて下さり、語り掛けて下さっているのです。
 第3回目は、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の箇所を開きました。使徒の働きの視点から見ると、父の家を出た弟息子とは異邦人のことです。そして祝宴に加わらずに父の家に入ろうとしなかった兄息子とは、イエスさまが神の子キリストであることを信じようとしないユダヤ人たちのことです。この第3回目のメッセージの時には聖霊の話はあまりしませんでしたので、いま補足しておくと、父の家の外にいる状態では、聖霊はその人の中に入っていないでしょう。聖霊を受けるとは、父の家の中に迎え入れられて祝宴に加わることだと言えるでしょう。このことを、もう少し補足したいと思いますから、ルカ15章の20節をご一緒に読みましょう(週報p.3)。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 この箇所で私は以前から、弟息子の帰り道のことがどうして何も書かれていないのだろうと気になっていました。弟息子が我に返ったのは遠い外国でのことでしたから、父の家に帰り着くまでの旅は長い期間が掛かったはずです。それなのに、その帰り道のことが描かれていないのは何故だろうと思っていました。そうして気付いたことはイエスさまが神の子キリストと信じてから聖霊を受けるまでの間にはほとんど時間が掛からないということです。つまり自分の罪に気付いて悔い改めの方向転換をしたなら、時間を置くことなくイエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けるはずだから、ルカは帰り道のことを書かなかったのだろうと気付きました。自分の罪に気付いて悔い改めてから聖霊を受けるまでに時間が掛かるとしたら、イエスさまが神の子キリストであると信じていないことになりますから、本当に悔い改めたかどうか疑わしいということになってしまいます。
 ジョン・ウェスレーは聖職者になってからもなお、救いの確証を持つことができずに長い期間悩んでいました。それはきっと、兄息子のように、どこか父のことを心から信頼することができずにいたからでしょう。兄息子は、父の家の住人なら畑で真面目に働くべきだと考えていました。それゆえ働かないで遊んでばかりいた弟息子を父が喜んで迎え入れたことに納得できないでいました。ウェスレーも良い行いをすることを重視していました。学生時代からホーリークラブを作って仲間たちと良い行いに励んでいました。このように行いを重視する人は、自分が良いと思っている行いを自分と同じようにはしない人のことを批判的に見がちなような気がします。ウェスレーの場合もそれで祝宴に加わることができなかったのかもしれません。それゆえ、なかなか聖霊を受けることができなかったということなのかもしれません。
 聖霊を受けることは何にも増して、最も大切なことです。第4回目の先週は、このことを学びました。週報p,3に載せたように、先週はルカ11章の13節に注目しました。

ルカ11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 このように求めるべきものは聖霊であることを先週は話しました。

大きなスケールで聖書を読む
 さて、今週のメッセージのタイトルは、『大きなスケールで聖書を読む』です。「大きなスケールで聖書を読む」とは、例えば先ほど話した「放蕩息子の帰郷」で言えば、弟息子とは異邦人のことである、とするような読み方です。そうではなくて使徒の働きとの重なりを考えずにルカの福音書を単独で読むなら、放蕩息子が父の家を出てから戻って来るまでの期間は数年程度の短い間だと思って読むことでしょう。財産を湯水のように使ってしまうなら、お金はあっという間に無くなってしまうからです。しかし、使徒の働きでのパウロたちによる異邦人伝道のことを重ねて読んで、弟息子とは異邦人のことだと考えるなら、弟息子が父の家を出てから再び戻るまでには何千年もの歳月が流れています。イスラエル人と異邦人とが別々の道を歩み始めたのは創世記のアブラハムの時代のことですから、アブラハム以降、異邦人は旧約聖書の時代の間はずっと父の家の外にいました。そうして使徒たちの時代になってようやく父の家に戻って来たのでした。この何千年もの期間は人間にとっては長い時間ですが、神様にとっては短い時間だと言えるでしょう。
 以上のように聖霊の働きを考慮に入れて聖書を読むなら、神様の時間を共有することができます。そうして神様との親しい交わりの中に入れていただくなら、そうしない時の何倍、何十倍もの大きな恵みをいただくことができるでしょう。それが「大きなスケールで聖書を読む」ということです。
 では、きょうの聖書箇所はどんな風に読んだら良いでしょうか。もちろん正解があるわけではなく、人それぞれの読み方で良いのですが、この箇所でのスケールの大きな読み方をご一緒に味わってみたいと思います。ルカ13章の6節から9節までを交代で読みましょう。

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
13:8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
13:9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 皆さんは、この箇所をどのように読むでしょうか。7節のぶどう園の番人というのはイエスさまのことですね。では、6節の「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」は、どのように読むでしょうか。先ほども言いましたが正解があるわけではありませんから、人それぞれで良いのだと思いますが、私は、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えたおいたこと」を、神様がヨシュアの時代にイスラエルの民をカナンの地に入植させたことと読みたいと思います。イスラエルの民はそのカナンの地で時に繁栄もしましたが、多くの場合は神様から離れていて信仰の実を結ぶことができないでいました。結局のところ、人は聖霊を受けなければ信仰の実を結ぶことができないのですね。ですから、イエスさまはおっしゃいました。8節と9節です。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』そうして、使徒の働きの時代になって漸く実を結ぶことができるようになりました。
  いかがでしょうか。7節にある三年間を、ヨシュアの時代からイエスさまの時代までという大きなスケールで読むと、スケールの大きな神様により近づくことができると感じないでしょうか。私の場合は、そのことの恵みをとても強く感じます。神様は宇宙スケールの大きなお方ですから、聖書も大きなスケールで読むと神様をより近くに感じる恵みをいただくことができます。私はこの素晴らしい恵みを、是非とももっと多くの方々と分かち合いたいと願っています。
 私がヨハネの福音書の話をよくするのも、まったく同じ理由からです。これまでヨハネの福音書は、紀元30年頃の数年間の出来事として読まれて来ました。それはそれで恵まれますが、いつも私が話しているようにヨハネの福音書の背後には旧約聖書の全体と使徒の働きが重ねられていますから、数千年間が背後に隠されています。この数千年というスケールは神様のスケールですから、このスケールの大きな背後に気付くなら、神様にグ~ンと近づくことができて、何十倍もの大きな恵みをいただくことができます。

(中略)

 聖霊を受けて信仰の実を結ぶ私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5月13日礼拝プログラム

2018-05-11 10:05:14 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年5月第2聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  とうとき主のみ救いよ     14
 交  読  詩篇125篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  けがれ果てた身に      306
 讃 美 ③  恵みの高き嶺        414
 聖  書  ルカ13:6~9
 説  教  『大きなスケールで聖書を読む』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  ここにいます主は      392
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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求めるべきは聖霊(2018.5.6 礼拝)

2018-05-09 08:26:10 | 礼拝メッセージ
2018年5月6日礼拝メッセージ
『求めるべきは聖霊』
【ルカ11:5~13】

はじめに
 先月から始めたルカの福音書の学びでは、同じルカが書いた使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということをしています。いま私たちは今月20日のペンテコステの日に向かって歩んでいます。使徒の働きには、ペンテコステの日に弟子たちが天から聖霊を受けたことが記されています。このペンテコステの日のことを想いながらルカの福音書を学びたいと思いましたから、「聖霊」という言葉が出て来る今日の箇所のルカ11章を選びました。「聖霊」は13節で使われていますね。イエスさまは、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とおっしゃいました。

聖霊を求める
 先ずは、きょうのルカ11章の箇所を簡単に見てみましょう。イエスさまは弟子たちに、こう言われました。5節と6節、

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』

 時刻は真夜中でしたから、友だちにとっては迷惑な話でした。7節、

11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』

 昼間のことなら、この友だちの応対は冷たいということになりますが、真夜中なのですから、当然のことです。イエスさまは続けました。

11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。

 そうして、イエスさまは弟子たちに言いました。9節と10節、

11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

 イエスさまは弟子たちに、しつこく祈り求めることの大切さを説きました。さて、ではイエスさまは何を祈り求めることが大切だとおっしゃったのでしょうか。11節と12節、

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

 面白い例えですが、どうやらイエスさまはここで、自分が求めることをハッキリさせるように言っているようです。魚が欲しいなら、ちゃんと魚を求めるように、卵が欲しいなら卵を求めるようにと言っているようです。その上で、13節のようにおっしゃいました。

11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカの福音書のイエスさまはここで、聖霊をしつこく祈り求めるようにと言っておられます。まず、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与える」と言い、続いて「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と言われました。聖霊は良いものの中でも最上のものです。

聖霊を重視するルカ文書
 興味深いことに、マタイの福音書には「聖霊」という言葉は含まれていません。週報のp.3に載せたマタイの福音書7章の7節から11節までを交代で読みましょう。

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

 このようにマタイの福音書では、ただ単に「良いもの」を二回繰り返しているだけです。しかし、ただ単に「良いもの」と言われても、それを直ちに聖霊と結び付けるのは難しいですね。ルカの福音書のイエスさまの場合はハッキリと、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とおっしゃいました。ここに聖霊を重視しているルカの福音書の特徴がハッキリと表れています。
 ルカの福音書のイエスさまがハッキリと「聖霊」とおっしゃったことは、使徒の働きの視点から見れば、良く分かることです。使徒の働きとは「聖霊の働き」のことだとも言われます。それほど使徒たちの働きに「聖霊」は不可欠でした。聖霊の力が無ければ、使徒たちは何もできませんでした。ペンテコステの日まで、弟子たちはひたすら聖霊を祈り求めていました。聖霊を受けるまでの彼らは祈ること以外には、何の活動もしていませんでした。そうしてペンテコステの日に聖霊を受けて初めて、イエス・キリストの証人としての働きを始めたのでした。
 聖霊を受けると、聖霊を受けた者の中にはイエスさまが住んで下さるようになります。それゆえ、その者はイエスさまと霊的に出会うことができてイエスさまの証人になることができます。このことは、いつも話していることですね。その他にも、聖霊を受けた者の内に入ったイエスさまは、その者の心をきよめて下さいます。

心をきよめる聖霊の働き
 きょうは残りの時間で、同じルカの福音書11章を見ながら、イエスさまが聖霊を受けた者の心をきよめて下さることをご一緒に学ぶことにしたいと思います。11章の20節から26節までを交代で読みましょう。

11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 一つ一つ見ていきます。20節、

11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けた者は、イエスさまが悪霊どもをその者の中から追い出して下さいます。このイエスさまのきよめの働きがないとどうなるでしょうか。21節以降を見てみましょう。21節、

11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。

 強い意志を持つ人は、悪から遠ざかることがある程度は可能でしょう。意志の強い人は自分で自分の心を守ります。しかし、悪魔の力は強力ですから、時に悪魔はそのように意志の強い人の心にも侵入して、その人の心の中を荒らします。22節です。

11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。

 そして23節、

11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。

 こうしてイエスさまから離れている人の心は荒らされます。

きれいになっても聖霊が入らないと却って悪くなる
 しかし、何かの治療を受ければ汚れた霊が出て行くこともあるでしょう。例えばアルコール依存症の人が治療を受ければ一旦はアルコールから離れることができます。そんな時は汚れた霊も、その人から出ているでしょう。24節、

11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。

 この24節、25節そして26節は非常に不気味です。続いて25節と26節、

11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 せっかく悪霊が出て行っても、そこにイエスさまがいないのなら、とても悲惨なことになります。
 最近、世間を騒がせたニュースにジャニーズのグループのメンバーの事件がありましたね。この人は、アルコール依存症だそうで、事件を起こす前には入院して治療をしていたそうです。今のルカ11章で言うなら、24節で一度汚れた霊が出て行った状態と言えると思います。アルコール依存症の治療によって、汚れた霊は一時的に出て行きました。この汚れた霊が出て行った段階でイエスさまにしっかりと入っていただくことができるなら、汚れた霊が戻って来ないようにイエスさまが防いで下さいます。しかし、ただ単にきれいになっただけなら、汚れた霊は戻って来てしまいます。先ほどのグループのメンバーも、そのようなことになってしまったと言えるのかもしれません。

おわりに
 26節をもう一度お読みします。

11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 ですから聖霊は、単にイエスさまの証人になるために必要なだけでなく、心の中が汚れた霊によって悲惨な状態にならないためにも、是非とも必要です。このように聖霊が私たちの心をきよめて下さる働きを持つこともしっかりと心に刻んで、私たちはペンテコステに向かって歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5月7日礼拝プログラム

2018-05-03 11:21:31 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月7日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年5月第1聖日礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  詩篇122篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主は私を救うために     457
 讃 美 ③  祈れ、み父のみ顔見上げて  376
 聖  書  ルカ11:5~13
 説  教  『求めるべきは聖霊』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  ここにいます主は      375
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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天幕の杭を強固にするとは?(2018.5.2 祈り会)

2018-05-03 09:23:38 | 祈り会メッセージ
2018年5月2日祈り会メッセージ
『天幕の杭を強固にするとは?』
【イザヤ54:1~8】

54:1 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──【主】は言われる──
54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。
54:3 あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。
54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。
54:5 なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。
54:6 【主】はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──
54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

はじめに
 きょうはイザヤ書54章をご一緒に味わうことにしました。
 実は私自身は、これまでイザヤ書54章をじっくりと味わったことはありませんでした。また、礼拝や祈り会のメッセージで引用したことは一度もありません。今回が初めてです。53章は有名ですから、礼拝や祈り会で頻繁に引用していますが、54章からは初めてです。
 今回なぜ54章を開くことにしたかと言うと、実は少し前の教区会のディボーションの時に開かれた箇所だったからで、思いを巡らす機会があったからです。私は教区の書記をしていますから、議事録の作成を担当しています。そして、議事録にはディボーションのメッセージの要旨も記録することが教区の慣例になっています(ちなみに、前にいた教区の教区会の議事録では、単に聖書箇所を記録するだけでした。今はどうかわかりませんが)。このディボーションの要旨をまとめるのが、書記の私にとってはかなりの重荷になっています。それは私が要旨をまとめることを苦手としているからです。それで、レコーダーでメッセージの音声を録音して、何度も聞きなおしては議事録に要旨を書くことになります。

信仰の杭を強固に打ち込む
 そういうわけで、今回、このイザヤ書54章からのショートメッセージの録音を何度も繰り返し聞き直しました。今回のメッセージを担当された先生は、特に2節の「杭を強固にせよ」というフレーズに強い思い入れを持っておられました。この2節を見る前に、まず1節をご一緒に見ながら、この54章の背景を簡単に確認しておきましょう。

54:1 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──【主】は言われる──

 聖書には、不妊の女の精神的な苦しみが描かれている箇所がたくさんあります。ですから、この1節の「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え」は、精神的な苦しみの中にある人々への慰めと励ましのメッセージであると考えられます。具体的に言えば、バビロン捕囚の苦しみに遭ったユダヤの人々への慰めと励ましのメッセージと言えるでしょう。
 そうして2節に入ります。

54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。

 人々はエルサレムの周辺に戻って来て、そこに天幕を張り、杭を強固にして風に飛ばされないようにします。17日の教区会でメッセージを取り次いで下さった先生は、この「杭を強固にせよ」の杭は「信仰の杭」であり、簡単に抜けないように、しっかりと打ち込む必要があるとおっしゃっていました。なるほどなと思わされました。実は私はイザヤ書54章からのメッセージを聞くこと自体が初めてのことでした。この「杭を強固にせよ」が信仰に結びつくとは考えたことがありませんでしたから、とても新鮮に感じたメッセージでした。

捕囚の苦しみに遭った人々への慰めと励まし
 この2節の「杭を強固にせよ」には、後でまた戻って来ることにして、3節から8節までを急ぎ足で見てしまうことにします。3節、

54:3 あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

 バビロン軍の攻撃によって荒れ果ててしまった町々に人々は再び戻って来ます。主は、そこで右と左に増え広がって繁栄するようにと励まして下さいます。4節、

54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。

 やもめ時代の屈辱というのは、バビロン捕囚の時の屈辱ですね。続いて5節、

54:5 なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。

 主は創り主であり、人の命を造られた方です。ですから、エルサレムの民の命もまた主が造られました。その創り主の主は、贖い主でもあります。その主が次のように仰せられます。6節と7節、

54:6 【主】はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──
54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。

 主は少しの間、人々をバビロン捕囚にして見捨てました。しかし大いなるあわれみを持って再び集めます。そして8節、

54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

 主は「永遠の真実の愛をもって人々をあわれむと約束して下さいます。以上、8節までですが、このイザヤ書54章はバビロン捕囚の苦しみに遭ったエルサレムの人々への豊かな慰めと励ましのメッセージとなっていることが分かると思います。

天幕を移動する時には抜く杭
 ここで、もう一度、2節の「杭を強固にせよ」に戻ります。2節、

54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。

 教区会でメッセージを取り次いで下さった先生は、神学生の時代から、この2節の「杭を強固にせよ」で折々に自分の信仰がどれだけ深く強固に地に打ち込まれているかを確認して来たと語っておられました。救いの確信、きよめの経験の確信があるか、また召しの確信、自分の使命への確信が、地に深く打ち込まれた杭のように強固であるかを確認し、そこに至らない自分を神様によって修正されて来たということを証ししておられました。そして困難に遭った時に簡単に抜けてしまうような信仰ではなく、強固な信仰を持つ者として、教会の皆さんと共に歩ませていただきたいと語っておられました。
 このメッセージを私はとても新鮮な思いで聞きました。そして、私もこの2節の聖句を思い巡らす時を持ちました。すると、いささかの疑問が湧き起こって来ました。それは、天幕はそもそも移動を前提とした住居であるという点です。ですから移動する時には杭を抜くことになります。もし、メッセージを取り次いで下さった先生のように杭を信仰と解釈するなら、住む所を移動する度に信仰が抜けたようになってしまうが、それで良いのだろうかという疑問が少し湧きました。

行く先々で信仰の杭を深く打ち込んだアブラハム
 そうして思い至ったのは、アブラハムの箇所です。アブラハムもまた天幕生活をしていました。そして移動した先々でアブラハムは祭壇を築きました。そこを確認しましょう。創世記12章です。まず12章の1節と2節を交代で読みましょう。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

 この主の命令を受けて、アブラハムはハランの地を出発してカナンへと向かいました。そうして5節にあるように、カナンの地に入りました。次いで6節から8節までを交代で読みましょう。

12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに【主】のための祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。

 アブラハムは7節で祭壇を築き、8節でもまた祭壇を築きました。つまり移動する先々で、アブラハムは信仰の杭を深く打ち込んでいたのですね。このアブラハムの箇所を思い巡らすことで、信仰の杭とはこのようなものであると示されました。信仰の杭は必ずしも一箇所に住むために打ち込むのではなく、主の導きに従って歩んで行く、その先々で打ち込むものであるようです。

おわりに
 私たちもまた、この今沢の地にしばらくの間、信仰の杭を打ち込んで、祭壇を築き、この地で過ごして来ました。しかし、いま主は次の場所に移動するように促しておられるようです。様々に困難な問題がありますが、主が最善へと導いて下さることを信じて、進んで行きたいと思います。主の導きの声がさやかに聞こえるように整えていただけるよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
 
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