インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

平和の引力(2018.8.19 礼拝)

2018-08-20 15:25:14 | 礼拝メッセージ
2018年8月19日礼拝メッセージ
『平和の引力』

【詩篇122篇】
1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。
2 エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。
3 エルサレム それは一つによくまとまった都として建てられている。
4 そこには多くの部族 の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。
5 そこにはさばきの座ダビデの家の王座があるからだ。
6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。
7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」
8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」
9 私たちの神 の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

はじめに
 先週の水曜日は祈り会を1回休みにして夏休みをいただきましたから、8月の14、15、16日の三日間、私は広島へ行って来ました。
 三週間前の礼拝メッセージで開いた詩篇42篇では、詩人はエルサレムへ行くことを渇望していました。そして私は広島へ行くことを渇望していたのですね。42篇の1節には、こうあります。

1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように
 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

 詩篇42篇の詩人はエルサレムの神殿に行って神を礼拝することを渇望していました。そして私は広島の平和公園に行って平和のために祈ることを渇望していました。
 しかし、神を礼拝することはエルサレムの神殿に行かなくてもできるでしょう。正式な礼拝ではないにせよ、エルサレム以外のどこにいても心を神に向けることはできます。でも、それでは満ち足りないものを詩篇42篇の詩人は感じていたのですね。同様に、平和のために祈ることは広島に行かなくてもできることです。沼津にいても平和のために祈ることはできますし、実際私はそうしています。

エルサレムへ、広島へ、続々と集まる人々
 そういうわけで私は今年の広島行きは秋の涼しくなってからにしようと思っていました。夏の広島は沼津に比べてずっと暑いです。ですから今年の夏はどこか別の所に行こうと思っていました。ところが8/6にテレビで広島の様子を見ていて、無性に広島に行きたくなりました。それで、暑くても良いから行こうと思い、宿泊の予約を入れました。そうして宿の予約を済ませた時、私は喜びを感じました。詩篇122篇の詩人のようです。122篇の1節、

1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。

 祭りの時には、イスラエルの多くの人々が各地からエルサレムの都に上って来ます。4節、

4 そこには多くの部族 の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。

 そうして詩人は祈りへと誘います。6節、

6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。」

 広島にもまた、多くの人々が世界中から続々と集まって来ます。そうして原爆ドームを見上げて原爆が投下された当時に思いを馳せ、慰霊碑の前で平和のために祈ります。さらに、平和記念資料館に入って原子爆弾がいかに邪悪な兵器であるかを知り、そして核兵器削減と廃絶のために、どのような取り組みが為されて来ているのかを学びます。この学びは自分で平和公園内の施設を見て歩いたり、資料館の展示物を見て回ったりすることでもできますが、ガイドの方に説明してもらうと、もっと深く学ぶことができます。平和公園では被爆体験を持つ語り部、語り部の被爆体験の証しを継承する伝承者、施設や展示物の説明をするピースボランティアの方々など、多くの地元の方々が平和のために働いています。これらの地元の方々もまた平和公園に引き寄せられた人々だと言えるでしょう。

平和の引力
 今回、広島に行くに当たり、私の心の中では旧約の時代の人々が続々とエルサレムに上って行く姿と、現代の世界中の人々が広島に続々と集まって来る姿がオーバーラップしていました。このオーバーラップから何か大切なことが学べるような気がして、それに期待して広島に向かいました。私自身もそうなのですが、広島へは日本中・世界中から人々が引き寄せられて来ます。そして地元の方々も平和の働きのために引き寄せられます。人はどうして広島の平和公園に引き寄せられるのか、このことを思い巡らしたくて、今回、私は平和公園のベンチに座って、ここに集って来る人々を見ていました。
 そうして思ったことが、きょうのメッセージのタイトルにした「平和の引力」のことです。どうやら平和には引力があるようです。この広島の平和公園には確かに平和があります。73年前には凄まじい被害があった場所ですが、今は公園内はきれいに整備されています。そうして世界から、日本各地から、そして地元からも人々が続々と集まって来ます。このように平和を願う人々が多く集うことで、引力が強まっているように感じます。この強まった引力がますます平和を求める人々を引き寄せ、平和公園の「平和の引力」はどんどん強まって行きます。惑星ができる時、物質が集まれば集まるほど重力も増して、それがまた多くの物質を引き寄せるのに似ています。
 平和公園に集まって来る人々を見ていると、人には本来的に平和を求める心が備えられていて、平和がある所に引き寄せられて行くように見えます。それは心の深い所にありますから、魂の中に平和を求める思いが備えられていると言っても良いかもしれません。そして詩篇にあるように、旧約の時代のイスラエルの人々がエルサレムに引き寄せられて行ったこととも、それは重なります。きょうは、このことを、もう少し掘り下げてみたいと思います。そうして教会のことについても考えてみることができたらと願っています。73年前の終戦の時からしばらくの間、人々は続々と教会に押し寄せたということです。それは人々が魂の平安を求めて、続々と教会に集まったということではないかと思います。戦時の過酷な体験を経て、真の平安を多くの人々が求めていたのではないかと思います。この教会のことについても、思いを巡らすことができたらと思います。

重力に似ている「平和の引力」
 さて今回、「平和の引力」というように「引力」という言葉を使ったのは、先ほども少し触れましたが平和が人を引き寄せる力が、太陽や惑星などの天体の間に働く重力にとても良く似ていると思ったからです。と言っても、ここであまり天体や物理の重力の話を多くすると皆さんも戸惑うと思いますから気を付けたいと思います。しかし天体の話が少し出て来ることは、ご容赦願いたいと思います。
 きょうはこれから、日本から遠く離れた国からも世界の平和を願う人々を引き付ける力を持っている広島のことを太陽と御父に例えたいと思います。そして、魂の平安を願う地域の人々を引き付ける力を持っている教会のことを地球と御子イエス・キリストに例えたいと思います。
 太陽は巨大ですから、太陽から遠く離れた地球や木星、土星などにも重力が及びます。ですからこれらの星は太陽に引き寄せられています。引き寄せられているのに地球が太陽に吸い込まれないのは、地球が太陽の周りを回っているからです。もし太陽の周りを回っていなかったら地球も木星も土星も皆、太陽に吸い込まれてしまいます。遠く離れた木星や土星、さらには天王星や海王星にも太陽の重力は及ぶのですから、すごいことだと思います。そして私たちは地球の重力圏の中でも生活しています。私たちは太陽の周りを回りながら、地球上で生活しています。つまり太陽と地球の重力圏の両方の中で生活しています。同じように広島やエルサレムは遠く離れた場所にいる人たちを引き付けています。そして教会は近隣の人々を引き付けています。つまり私たちは広島やエルサレムの「平和の引力」と、教会の「平和の引力」の両方の中で生活しています。

集う人が少ない教会
 さて太陽に例えた広島には現代においても人々が続々と集まって来ています。これは私が広島で毎年実際に見ていることですから、確かなことです。一方、地球に例えた地域の教会にはそんなに人が集ってはいないようです。たくさんの人々が集っている教会もありますが、多くの教会、特に地方の教会は人が減っている悩みを抱えていると思います。広島に集う人は大勢いる一方で、教会に集う人は少ないと感じます。どうもバランスが悪いように思います。同じように「平和の引力」が働いている筈なのに、教会の「平和の引力」はあまり働いていないのでしょうか。
 それは何故なのでしょうか。世界の平和を願う思いも、個人や家庭の平安を願う思いも、どちらも同じではないでしょうか。世界と個人では規模はまるで違いますが、平和を願う思いの根は同じではないかと私は考えます。このことを御子イエス・キリストを地球に、天の御父を太陽に例えて、さらに考えてみたいと思います。
 先ほども言ったように私たちは地球の重力圏の中で生活していると同時に、太陽の重力圏の中でも生活しています。同様に私たちは御子イエス・キリストの愛の中で生活していますが、同時に天の御父の愛の中でも生きています。この御子と御父の愛を感じさせてくれるのが聖霊です。私たちは聖霊の働きによって御子と御父の両方の愛を感じながら生きています。祈る時も、最初に天の御父に呼び掛け、最後に御子イエス・キリストの名によって祈ります。
 さてしかし、一般の人々の教会に対するイメージは専らイエスに偏っているのではないかと思います。しかも教会に導かれる前の私の経験から言うと、日本人はイエスにそんなには親しみを感じていません。クリスマスの赤ちゃんのイエスには親しみを感じるかもしれませんが、大人のイエスには興味のない人が大半だろうと思います。すると人々が教会に向かわないのは当然ということになります。しかし実際の多くの教会ではイエスだけでなく御父(と聖霊)についても語ります。教会に対する一般のイメージは、教会ではイエスだけが語られるというものですが、実際は御父・御子・聖霊が語られます。このギャップを埋めることができていないという気がします。
 平和公園にはイスラム圏の外国人もたくさん集っています。このような方々は正に御父の「平和の引力」に引き寄せられているのだと思います。私はもっと多くの日本の方々に御父のことを知っていただきたいと思います。それには、教会ではイエスだけが語られるというイメージを払拭する必要を感じます。このことが、今回の広島訪問で得られた収穫のように感じています。

御父についても知ることができる教会
 ここで私の大好きなエペソ人への手紙3章の14節から21節までをご一緒に読みたいと思います(新約聖書p.387)。このスケールの大きなキリストの愛が語られる箇所で注目したいのは、パウロも御父と御子と御霊(聖霊)に言及していて、御子イエスだけに言及しているのではないということです。エペソ3章の14節から21節までを交代で読みましょう。

14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 重力の例えが皆さんに分かりやすいかどうか分かりませんが、私たちは地球の重力圏の中で生活していると同時に、太陽の重力圏の中にもいます。この例えを使えば、私たちは御子イエス・キリストの愛の中にいると同時に天の御父の愛の中にもいます。そして聖霊の働きで私たちはこの御父と御子の愛を感じることができます。そうして心の平安を求めて教会に集う私たちは御子イエスの「平和の引力」に引き寄せられています。また、世界の平和を求めて広島に集う人々は天の御父の「平和の引力」に引き寄せられています。ただし現代においては個人の心にそれなりの平安をもたらすものは、たくさん存在します。もちろん真の平安は御子によってもたらされます。それでも御子でなくても平安がそれなりに得られるのなら、人は教会には向かわない、そのようなことになっているのかもしれません。
 一方、世界の平和のような大きな問題の解決には、大きな存在が必要とされていると、現代においても多くの人々が無意識に感じているのではないかという気がします。教会では、この大きな存在である御父のことを知ることができます。それなのに教会ではイエスのことしか語られないというイメージがあるために大きな存在について知りたい人が教会を訪れることはなく、御父のことはほとんど知られていません。ノアの洪水やエジプト脱出の物語を通じて多少は知られているかもしれませんが、単なる作り話だと思われているだけでしょう。ですから私は多くの方々に教会に来ていただいて、御父のことをもっと深く知っていただきたいと思います。

おわりに
 広島の平和公園には、きょうも世界中から多くの人々が続々と集っていることでしょう。神様がお造りになった人間の心には、平和を求める思いがもともと備わっています。ですから、教会に集う人が少なくなっていることをあまり悲観する必要はないと思います。どうしたら平和を求める人の心の琴線に触れることができるかは、人によっても異なります。御子イエスについてはもちろんですが、教会は御父についても(さらには聖霊についても)深く知ることができる場であることをアピールしつつ、いろいろと考えながら、地域の方々の心に平安が与えられるよう、働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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8月19日礼拝プログラム

2018-08-17 09:02:56 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月19日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年8月第3聖日礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  キリスト 教会の主よ    229
 交  読  詩篇138篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  あなたの平和の       485
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 聖  書  詩篇122:1~9
 説  教  『平和の引力』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  主から受ける安らぎは    440
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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戦災証言継承のための四福音書からの学び(2018.8.12 礼拝)

2018-08-13 09:21:16 | 礼拝メッセージ
2018年8月12日礼拝メッセージ
『戦災証言継承のための四福音書からの学び』
【マルコ1:1~3、マタイ1:1、ルカ2:28~32他】

はじめに
 戦争と平和を考える8月、今年新たに考え始めていることがあります。それは空襲や原爆などの戦災の証言をこれからも長い間に亘って継承して行くためには、四つの福音書のすべてから学ぶべきであろうということです。今までも私はヨハネの福音書からは多く学べると考えて来ました。しかし、ヨハネだけではなく新約聖書には四つの福音書があります。それぞれに特徴がある四つの福音書があることで、途中のどこかの時代で途切れてしまうということなく、約二千年後の現代まで継承されて来たのではないかと考えるようになりました。

意識されていた筈の証言の継承
 マタイ・マルコ・ルカの福音書がいつごろ執筆されたのかの執筆年代については、定説というものはありません。しかし、概ね紀元60年代から70年代に掛けて、まずマルコ、次にマタイまたはルカが書かれたと考える学者が多いようです。そしてヨハネの福音書は90年代に書かれたと多くの聖書学者は考えています。イエスの十字架が紀元30年頃ですから、マルコ・マタイ・ルカの福音書が書かれたのは十字架からだいたい30年後から50年後に掛けてということになります。当時の人々の寿命は、現代人よりもずっと短かったでしょうから、これらマルコ・マタイ・ルカの福音書が書かれたのは、イエスと直接の交わりを持った人々が、どんどんこの世を去って行っている頃だと言えるでしょう。そしてヨハネの福音書に至っては、もう最後の最後の頃であり、生き残っている人はほとんどいない頃ということになるでしょう。ですから、これらの福音書が書かれた背景には、イエスさまとの交流の体験者がいなくなった後にも、証言を継承して行かなければならないということが、当然意識されていたことと思います。
 二千年にも亘ってイエスに関する証言が継承され続けて来たのは、結果から見ると四つの異なる福音書が正典として大切にされて来たからではないかという気がします。正典の福音書が一つか二つだったら、果たして継承されて来たでしょうか。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書は、よく見ると時間の流れ方がそれぞれ違います。この異なる時間の組み合わせが長い期間に亘って継承されるために功を奏したのではないかという気がしています。きょうは、このことの概略を話しつつ、戦災体験の証言への応用についても考えることのきっかけになれば幸いだと思います。

マルコ:イエスの宣教活動の記述に集中
 さて、いま四つの福音書の時間の流れ方がそれぞれ異なると今言いましたが、まず簡単に四つの福音書の時間の違いを述べてから、その後で戦災証言との関係について話すことにします。
 最も単純なマルコの福音書から始めます。先ほど聖書朗読で司会者に読んでいただいたように、マルコの福音書は1章1節の、

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。

で始まって、専らイエスさまの宣教活動について記述しています。マタイとルカのようなイエスさまの生誕の物語をマルコは書いていません。また、1章の2節と3節にイザヤ書からの引用もありますが、マルコはマタイに比べると旧約聖書の引用は少ないです。旧約の時代に活動した「預言者」に言及することも、マルコはマタイに比べてずっと少ないという特徴があります。このようにマルコの福音書はイエスさまの地上生涯の記述に集中しています。
 このマルコの福音書のイエスさまに関する証言を広島の被爆証言に例えるなら、専ら8月6日の出来事だけを語っているということになるでしょう。8月6日の広島は、午前8時15分に原爆が投下されるまではいつもの市民の生活がそこにありました。マルコの福音書で言えば、イエスさまがエルサレムで逮捕されるまでです。そしてその後で、イエスの受難の場面になります。広島で言えば原爆が炸裂して多くの人々が亡くなり、また激しい苦しみを受けることになったことに相当します。マルコの福音書は短い期間だけにスポットを当てていますが、これはこれで大変に重要なことです。なぜなら、マタイとルカはもっと長い期間のことを書いていますが、その中でも特に重要なのはマルコと重なる期間であることをマルコの福音書は教えてくれているからです。

マタイ:過去→未来の時間順の記述
 次にマタイの福音書に移ります。マタイの福音書は系図から始まりますね。創世記のアブラハムから始まって、ダビデの時代、バビロン捕囚の時代を経てイエスさまの時代に至るまでの系図が1章の初めに記されています。そして、その次にイエスさまの生誕の物語が描かれています。また、マタイの福音書には「預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現が数多く使われています。このように、マタイの福音書では先ずはイエスさまの時代より前の旧約の時代に出発点が置かれて、そこからイエスさまの時代へと移って行く形になっています。そしてまた、将来入るべき天の御国についても多く語られています。つまりマタイの福音書は、過去から未来へという私たちが慣れ親しんでいる時間の流れの順番の通りにイエスさまの生涯が証言されています。
 広島の被爆の証言で言うなら、戦前の日本では明治以降に富国強兵の政策が取られて、日清戦争、日露戦争の勝利を経て軍部の力がどんどん強くなって行き、中国で始めた戦争が太平洋戦争にまで拡大し、次第に劣勢になって全国の都市が空襲の被害を受けるようになり、遂に広島への原爆投下に至るということになるでしょうか。1945年の8月6日以前のことについても多く証言しながら8/6を証言するという形になるでしょう。

ルカ:使徒の時代の恵みからイエスの受難を見る
 さて、次のルカの福音書も一見するとマタイの福音書と同じように過去から未来への私たちが親しんでいる時間の流れに沿って書かれているように、表面上は見えます。しかし、実はルカの福音書とマタイの福音書とでは時間の流れが逆方向であると見るべきだと私は考えます。なぜならルカは使徒の働きも書き、使徒の時代の聖霊の恵みの観点からイエスさまの時代を見ているからです。ルカは異邦人であったと考えられます。異邦人でも聖霊を受けて救いの恵みに与ることができるのは素晴らしい恵みであり、ルカもまた、この恩恵に与っていました。ルカの福音書は、この事実の上に立って書かれています。ルカの福音書2章の28節から32節までを交代で読みましょう。

2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

 幼子のイエスを抱いたシメオンは30節で神の御救いを見たと言ってほめ讃えました。それは31節にあるように万民に備えられた救いです。万民ですから異邦人をも含みます。そうしてシメオンは32節で「異邦人を照らす啓示の光」と言ってほめ讃えました。この異邦人の救いの恵みを、ルカ自身も味わったのでした。この恵みをルカはイエスさまの時代の後の、使徒の時代に受けました。ですからルカの福音書は、イエスさまの時代より後の使徒の時代から遡ってイエスさまの時代を見ていると言うことができるでしょう。
 日本の空襲や原爆被害の証言をこれからどう継承して行くべきかを考える時、ルカの福音書が使徒の時代の恵みの観点からイエスさまの時代を見ていることは、とても良い参考になると思います。ルカの福音書は一見するとマタイの福音書と同じ方向に時間が流れているように見えますが、実はそうではないと言えるでしょう。このことはマタイの系図とは逆方向のルカの系図からも言えると思います。
 ルカの福音書3章23節と24節を見て下さい。

3:23 イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、
3:24 マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、

 このように、ルカの系図はマタイとは逆に、遡って行く形になっていて、38節に至ります。38節、

3:38 エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。

 このルカの福音書は、イエス・キリストについての証言が長い期間に亘って継承されて来たことに、とても大きな役割を果たしたと私は考えます。それは、ルカが使徒の時代の聖霊の恵みの素晴らしさを知った上で、しかしそれはイエスさまの受難があったからこそであるという観点で書かれているからです。シメオンは母マリヤに言いました。ルカ2章34節と35節です。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 このようにシメオンはイエス・キリストの受難を予告します。しかし、この受難があったからこそ、使徒の時代の素晴らしい聖霊の恵みがありました。
 日本が1945年からの戦後73年間、戦争をして来なかったのは、戦時中の受難があったからです。日本は加害国でもありましたが、甚大な被害もまた多く受けました。しかし、この受難があったから、戦後は平和の恵みを受けることができました。ですから私のような戦後生まれの世代は戦争体験はありませんが、今の平和の恵みを噛み締めながらルカのように戦時の受難の時代についてもっと深く知り、そうして平和の貴さを訴えていかなければならないと思わされています。ルカ自身も地上生涯のイエス・キリストには会ったことがありませんでした。しかし、色々な人々に会って話を聞き、ルカの福音書を書き上げました。
 このルカの福音書があったことが、二千年にも亘ってイエス・キリストが宣べ伝えられて来たことに大きく貢献しているように私は感じています。なぜなら、クリスチャンの圧倒的多数はルカと同じ異邦人だからです。もし後世の私たちに残された福音書がマタイとマルコの福音書だけであったとしたら、今日までイエス・キリストが宣べ伝えられ続けることができたでしょうか。それは仮定の話ですから、もちろんハッキリとはわからないことですが、私はマタイとマルコだけであったら二千年もの長い間に亘ってイエス・キリストが宣べ伝えられ続けて来たかどうかは怪しいと思います。なぜならマタイもマルコも異邦人が受けた聖霊の恵みのことを、表面上はそんなには語っていないからです。私たちはルカが書いた福音書と使徒の働きによって異邦人の救いの恵みをよく知っているからこそ、マタイとマルコにも親しみを覚えることができる、そのような気がしています。

ヨハネ:愛弟子による証言
 では最後にヨハネの福音書にも触れたいと思います。ヨハネの福音書については、これまで多く語って来ましたから、きょうは詳しくは話しませんが、ヨハネの福音書では旧約の時代、イエスの時代、そして使徒の時代が並行して流れています。このヨハネの福音書の時間を深く理解するには、旧約聖書の知識と使徒の働きの知識も必要です。そうしてイエス・キリストが旧約の時代にも使徒の時代にも同時にいることがわかるなら、キリストの深い愛にどっぷりと浸ることができて読者自身がイエスの愛弟子となることができます。そうしてイエスの愛弟子として最後の晩餐に集い、イエスの十字架に立ち会うことが許されます。もちろん、これは霊的な領域のことですから、誰もが愛弟子になれるわけではありません。しかし、このことで例えイエスの地上生涯の時代には生きていなかった者も、イエスさまとの交流を霊的に経験し、そのことを証しできるようになります。
 戦災の証しも、戦災に遭った街を深く愛し、その街の歴史を深く知り、戦後の平和の時代の恵みも十分に知り、その街と深く関わるなら、例え戦争体験が無くても、その街を愛する人々との愛の交わりの中に入って一人の証し者となることも可能であろうと思います。これがヨハネ的な証し者です。

重要なルカ的な証し者
 以上、見て来た通り、四つの福音書の時間の流れ方は、一見同じようであっても、皆それぞれ違います。マルコはイエスさまの時代のみの描写、マタイは旧約の時代からイエスさまの時代、そして天の御国という過去から未来へという私たちが慣れ親しんでいる時間の流れの中でイエスさまを描いています。一方、ルカは使徒の時代の聖霊の恵みと異邦人の救いの恵みの観点からイエスさまの時代を見ています。そしてヨハネは旧約の時代、イエスの時代、使徒の時代が並行する時間の中で、これらすべての時代にいるイエスさまを描いています。この四つの異なる時間の中でイエスさまが証しされて来ましたから、これが二千年にも亘ってイエスさまが証しされ続けて来ることにつながったと私は考えます。
 戦災についての証しを今後、長い歳月に亘って継承して行くために、この四つの福音書の事例は大変に良い参考になると思います。特にルカ的な証し者そしてヨハネ的な証し者は、戦災の受難と平和の恵みの両方を知っている日本人しかなることができないと言えるでしょう。世界中で読まれている福音書のイエスさまの証しを手本にして戦災の受難の証し、そして平和の証しをするなら、平和の君であるイエス・キリストは必ずや用いて下さるのではないかと思います。そうして多くの日本人がもっと聖書に目を向けるようになるなら、素晴らしいことだと思います。
 戦争と平和を考える機会の多い8月をきっかけにして、これからもしばらく、皆さんとご一緒にこのことを考えて行くことができたらと願っています。特にルカ的な証しは大切だろうと思います。ヨハネ的な証しは霊的な領域を含みますから難しいかもしれませんが、ルカ的な証し者には日本人なら誰でもなることができる筈です。このことについても考えて行きたいと願っています。
 お祈りいたしましょう。
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8月12日礼拝プログラム

2018-08-10 07:01:57 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月12日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年8月第2聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  神はひとり子を        26
 交  読  詩篇136:1~5
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  かいぬしわが主よ      303
 讃 美 ③  ガリラヤの風かおる丘で   183
 聖  書  マルコ1:1~5
 説  教  『戦災証言継承のための四福音書からの学び』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  いのちのみことば      180
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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探究心の善用と悪用(2018.8.8 祈り会)

2018-08-09 13:42:10 | 祈り会メッセージ
2018年8月8日祈り会メッセージ
『探究心の善用と悪用』
【伝道者1:1~11】

1:1 エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
1:4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。
1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。
1:8 すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。
1:9 昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。
1:11 前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。

はじめに
 8月5日の礼拝は、6日の広島の原爆の日の前日で、平和のために祈ることについて主の祈りの「御国が来ますように」について黙示録の21章と22章を開いて共に思いを巡らしました。きょうの8日は、9日の長崎の原爆の日の前日です。きょうもまた、戦争と平和について考えたいと願っています。きょう開くことにしたのは『伝道者の書』です。この書は、以前も祈り会で学んだことがありましたが、きょうはまた新しい切り口で学んでみたいと願っています。

新しい物事に興味を示す人間
 きょう『伝道者の書』を開くことにしたのは、人類はどうして原子爆弾という恐ろしい悪魔の兵器を作り出してしまったのか、そのヒントがこの『伝道者の書』にあるように思うからです。
 伝道者は2節で言います。「空の空。すべては空。」 
 伝道者はどうして、こんなにも空しさを感じているのでしょうか。それは、9節と10節に要約されていると思います。

「日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。」

 人は新しい物事に興味を示します。年を取ると段々と新しい物事には興味を示さなくなりますが、子供たちは好奇心が旺盛です。一見ボーっとしているようなネコたちでも、近くに動くものがあれば好奇心を示し、子ネコたちは色々な物を遊び道具にして遊びます。人や動物は新しい物事に興味を示すようにできているんですね。これは命を守るためにも必要なことでしょう。新しい事態に直面した時に関心を示さずにボーっとしていたら命を失うかもしれません。
 このように新しい物事に興味を示す性質を備えているなら、毎日が同じことの繰り返しになってしまっていれば、特に知恵がある伝道者のような人は空しさを覚えて当然のことと言えるでしょう。伝道者は言います。4節と5節、

1:4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。

 確かに、伝道者の時代はそうだったのでしょう。「日の下には新しいものは一つもない」と伝道者が感じたとしても無理はないでしょう(実際には緩やかな変化はあったのだろうと思いますが)。

コペルニクス以降は新しいものが生まれ続けている
 しかし、コペルニクスの地動説以降、世界は変わりました。「日は昇り、日は沈む」、つまり太陽が昇り、太陽が沈むのではなく、動いているのは地球だと考えたほうが、天体の運行を上手く説明できることが分かって来ました。もちろん、天動説から地動説への移行が速やかに進んだわけではありません。地動説を主張したガリレオ・ガリレイが宗教裁判に掛けられたことは有名な話です。しかし、コペルニクスの死後100年以上経ってニュートン力学が確立された頃からは、科学技術が急速に発展して行くことになります。伝道者が「日の下には新しいものは一つもない」と言った時代は過去のものとなり、次々と新しいものが発見され、また新しいものが作り出されていきました。
 そうしてニュートンの時代から150年以上が経った19世紀の後半には、様々なことが物理学によって解明され、もはや新しい発見が為されることはないだろうとまで言う研究者もいたそうです。ところが20世紀に新たに誕生した量子力学によって、目には見えない素粒子や原子のことがよく分かるようになり、ウランに中性子を当てると核分裂が起きることが発見されるに至りました。これらは、人間が新しいことを知りたいという欲求に突き動かされて為されて来た事柄です。一つの新しい発見が次々にまた新しい発見を生むことにつながり、ウランの核分裂の発見へとつながりました。このウランの核分裂が発見されたのが1938年です。20世紀のはじめの1900年頃までは、まだ原子の存在は仮説に過ぎず、原子の存在を疑う研究者も少なくなかったそうであり、まして原子の構造などは全く分かっていませんでした。それがわずか30年ほどの間に急速に研究が進んで1932年には中性子が発見されて原子核が陽子と中性子から出来ていることが分かり、また、原子核に中性子を吸わせると原子核が不安定になることが分かり、ついに核分裂の現象が発見されました。そして、核分裂が起きると質量が減って膨大なエネルギーが放出されることもわかり、それからわずか7年で原子爆弾が製造されて広島と長崎に投下されることになりました。

新しい物事への欲求を善用する
 さて、ではこのことを、どう考えたら良いのでしょうか。人間の新しいことを知りたいという欲求を止めることは不可能でしょう。では、どうしたら良いのでしょうか。伝道者の書に戻って、もう少し考えてみたいと思います。7節に、

1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。

 この7節の二つめの文の「川は流れる場所に、また帰って行く」とは、どういうことでしょうか。何を言っているのか、よくわかりませんね。要するに、伝道者はどうして川は海に流れ込むのに海が満杯になってしまわないのかが分かっていないのです。川からどんどん水が流れ込めば、海の水位はどんどん上がるはずなのに、そうはなっていません。そのしくみが伝道者には分かっていません。しかし、現代の私たちには分かっています。海から大量の水蒸気が発生して空気中に取り込まれます。そして湿った空気は風によって陸地に運ばれ、山に多くの雨を降らせます。山では上昇気流が発生しますから雲ができやすく雨もまた降りやすくなります。そうして山に降った雨水は川に流れ込んで再び海に運ばれて行きます。大雑把に言えば、このように川の水は山と海との間を循環しています。そうして、現代では気象衛星を使って宇宙から雲の様子を観測できるようにもなりました。このことで台風などの気象災害にもある程度備えることができるようになりました。このように、新しい知識と技術を善用するなら、私たちの生活を安全にし、また便利にすることができます。しかし原爆のように悪用するなら、悲劇をもたらします。

神と歩むべき研究者
 ですから、新しい物事の研究に取り組む者ほど、神様と共に歩む必要があるでしょう。そうは言っても神様と共に歩んでいる研究者もいる一方で、多くの研究者は信仰を持っていないというのもまた事実です。
 では、どうしたら良いのでしょうか。私は、人間の新しい物事を知りたいという欲求を、もっともっと聖書の探求に振り向けるべきだと考えます。聖書からはまだ新しく汲み取ることができる新しい物事がたくさん含まれています。きょうは具体的な話は控えますが、従来にはない時間観、そして永遠観、さらには三位一体論と永遠観とがどう絡んで来るかなど、興味深いテーマがいくつもあります。これらのことの探求のために新しい事を知りたいという欲求を振り向ければ良いのだと思います。そうして新しいことが分かって来るなら、今まで聖書に関心を示さなかった人々も関心を示すようになり、聖書の理解がもっともっと深まって行くことが期待できます。
 先ほども言いましたが、19世紀の終わり頃には、この世界の物理的な現象は、その頃までに確立された物理学ですべて説明でき、新しい発見など無いだろうと考えていた研究者もいたということです。しかし、その予想に反してアインシュタインが相対性理論を唱え、さらに量子力学が誕生して19世紀までの物理学は古典物理学と呼ばれるようになりました。
 聖書の世界にも新しい発見など無いと思っている人も多いかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはありません。人々が聖書に見向きもしないのは古臭い書物だと思われているからで、新しい発見の宝庫であることが分かれば、もっと多くの人々が聖書と向き合うようになるでしょう。私はそう信じますから、これからも新しい探求を続けて行きたいと思います。そうして聖書の魅力を多くの方々と分かち合って行きたいと願っています。そういうわけで、きょうは伝道者の書を新しい切り口で読んでみました。

おわりに
 最後に、きょう話したことを簡単に復習したいと思います。
 伝道者の書の伝道者は、「日の下に新しいものは一つもない」と言い、それを空しく感じて「空の空」と言っています。しかし「日は昇り、日は沈む」のではないことが分かってからは、次々と新しいことが発見され、また新しい技術が生み出されて、ついに原子爆弾という悪魔の兵器を作り出してしまいました。人が新しいことを発見したい欲求は止められませんから、それが悪用ではなくて善用されるよう、新しい物事の発見に従事する人は神様と共に歩まなければなりません。しかし聖書に新しい発見が無いなら、新しいことを追い求める人々が聖書のほうを向くことはほとんどないでしょう。
 聖書にはまだまだ分からないことが多く、新しい発見の宝庫です。この聖書の魅力をお伝えして行きたいと思います。それが世界が平和に向かって行くためには必要だと思います。
 伝道者は新しいものは一つもないと言いましたが、現代においてはまったく違います。新しい物事が次々と発見され、また生み出されています。そして聖書もまた大きな可能性を秘めていることを覚えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:9 昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。
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平和のために祈る:御国が来ますように(2018.8.5 礼拝)

2018-08-08 06:26:33 | 礼拝メッセージ
2018年8月5日礼拝メッセージ
『平和のために祈る:御国が来ますように』
【マタイ6:9~10、黙示録21:1~4】

はじめに
 8月に入り、8月1日の祈り会から戦争と平和について考えることを始めています。
 皆さんは、今年の2018年のカレンダーの曜日の巡りが終戦の年の1945年と同じであることをご存知だったでしょうか。きょう8月5日が日曜日なので広島に原爆が投下された8月6日は月曜日でした。そして実は9.11が起きた2001年もまた今年と同じカレンダーです。つまり1945年と2001年は同じカレンダーです。
 1945年に初めて、戦争において原爆という核兵器が使用されたことは、戦争の歴史の中では一つの大きな節目になったと思います。そして2001年の9月11日に起きた同時多発テロもまた戦争の歴史の中では大きな節目となったと言えるでしょう。それまで戦争と言えば多くは、国対国、或いは民族対民族の対決でした。しかし、2001年以降、国際テロ組織が国家と対決するという新しい形態が鮮明になったと思います。この2001年と1945年のカレンダーの曜日の巡りが同じであることに私は不思議なつながりを感じます。
 そして私は、2001年の8月12日に私は初めて高津教会を訪れて、その年の12月23日のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。これらのことを考えると、やはり私は平和のために働くべく召し出されたことを感じないわけには行きません。
 この平和のための働きは私の個人的な使命ですが、私は世界が平和に向かうには多くの人々がもっと聖書の理解を深める必要があると考えています。聖書の理解がもっと深まるなら、誰でも今よりももっとずっと深い平安の恵みがいただけます。ですから私は皆さんとご一緒に聖書の理解を深めて、深い平安の恵みを多くの皆さんと分かち合って行きたいと願っています。

『夕凪の街 桜の国 2018』
 さて明日の8月6日は例年と同じように朝の8時から8時35分頃まで広島の平和公園で行われる式典のテレビ中継があり、8時15分からは1分間の黙祷が捧げられます。そして、夜にはNHKの広島放送局が製作したテレビドラマの放映があります。今年のドラマのタイトルは『夕凪の街 桜の国2018』です。原作の『夕凪の街 桜の国』は、昨年私が出した本の中でも紹介させていただきました。前半の『夕凪の街』の時代設定は昭和30年、つまり原爆が投下されてから10年後の1955年です。そして、後半の『桜の国』の時代設定は、この原作の漫画が書かれた頃の平成16年、すなわち2004年が中心です。今回の『夕凪の街 桜の国2018』も前半の『夕凪の街』は原作と同じ昭和30年(1955年)であるようですが、後半の『桜の国』が現代の平成30年(2018年)になっているということです。原作の味を残しながらも細部ではかなり違う脚本になっているようですから、どんなドラマになっているのか、私はとても楽しみにしています。
 前半の『夕凪の街』のヒロインは平野皆実という被爆者で、彼女は原爆投下の10年後の昭和30年に原爆症を発症して亡くなります。原爆は投下直後に多くの人々の命を奪っただけでなく、その後も何年も何十年にもわたって放射線障害や原爆症の発症の恐怖で被爆者を苦しめています。また、そのために被爆者は結婚相手としても敬遠されるという苦しみも受けました。さらに、『桜の国』の登場人物たちがそうなのですが、被爆2世たちも何らかの障害を持っているのではないかという世間の偏見のゆえに苦しむことになります。このような悪魔の兵器である核兵器は国際的に禁止して廃棄すべきです。しかし、核保有国の思惑によって核兵器の廃絶にはなかなか向かって行きません。ただし、そのような中でも不幸中の幸いは、戦争での核兵器使用は長崎が最後であることです。これは世界中で多くの祈りが積まれていることの成果であろうと思います。二度と核兵器が使用されないように、そして平和が実現するように世界中で多くの祈りが積まれています。

「平和」が3回使われている詩篇122篇
 平和のために私たちもまた祈り続けて行きたいと思います。きょうの聖書交読では詩篇の122篇をご一緒に読みました。この詩篇は150ある詩篇の中で私が最も好きな詩篇です。
 詩篇122篇6節、

122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 7節、

122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」

 8節、

122:8 私の兄弟友のためにさあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」

というように、詩篇122篇では「平和」ということばが3回使われています。以外なことに、詩篇では「平和」ということばは、あまり使われていません。その中にあって122篇では3回使われていて、これが150ある詩篇の中では最も多く使われています。そういうわけで私は詩篇122篇が最も好きな詩篇です。

究極の平和
 そして、きょうの聖書箇所はマタイ6章と黙示録21章としました。この聖書箇所は最近の私の中ではとても心に通っている箇所で、既に何度か開いていますが、きょうもまた、この箇所を開きたいと思います。この黙示録21章、そして22章にあるような御国が来ることが究極の平和です。単純に「平和になりますように」と祈るよりも、この究極の平和を目標にして祈るのが良いのではないかと私は感じています。しかも、マタイ6:10の「御国が来ますように」は主ご自身が「あなたがたはこう祈りなさい」とおっしゃった主の祈りの一部ですから、よけいに平和のための祈りとしてふさわしいと感じます。既に何度かご一緒に学んでいる箇所ですが、きょう改めて平和のための祈りという観点から、もう一度ご一緒に学んでみたいと思います。
 まず黙示録21章の1節と2節、

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 ここには、ヨハネが幻で見た新しい天と新しい地の光景が記されています。この新しい天と新しい地がもたらされる時、究極の平和が訪れます。この時、2節にあるように聖なる都、新しいエルサレムが天から降って来ます。つまり、御国が来ます。続いて3節、

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。これが御国です。御国が来る前から神様は私たちと共におられますが、天の御国が地上に降って来るのですから、もっとハッキリとした形で神様が私たちと共におられることがわかります。この時、究極の平和が訪れます。4節、

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この4節は、これこそが正に究極の平和であることをよく示しています。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。戦争によって、どれほど多くの涙が流されたことでしょうか。また、戦争によってどれほど多くの死があり、悲しみがあり、叫び声があり、苦しみがあったことでしょうか。御国が来るなら、死も悲しみも叫び声も、苦しみもすべて無くなります。
 少し飛ばして22節をお読みまします。

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。

 これは本当に素晴らしい光景です。この御国が来て、究極の平和が実現するよう、お祈りしたいと思います。この御国には異邦人の私たちも、もちろん入ることができます。しかし、子羊のいのちの書に記されていない者は、この御国に入ることはできません。少し飛ばして27節、

21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

黙示録22章の深い平安
 そして、黙示録22章も見ることにしましょう。22章の1節から5節までを交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 黙示録21章もそうでしたが、この22章の記述からも究極の平和が感じられ、心の深い平安が得られますから感謝に思います。私たちは多くの方々と、この深い平安を分かち合うことができるように働いて行きたいと思います。

深い平安を得ることの重要性
 私はこの深い平安を得ることの重要性を、今年はいつもの年と違った形で感じています。例年ですと、私は8月になる前の6月、7月から、今年も8月が近づいていることを感じて、自然と平和の祈りへと導かれていました。しかし、今年は8月になるまで、その平和の祈りへの導きを感じることができないでいました。そして8月1日の早朝になって、ようやくこ8月だから平和のために祈らなければならないと導かれました。
 どうしてかと考えると、それはどうやら私自身の心の平安の度合いが例年よりも深くないからのようです。それは今の私たちの教会が抱える問題によるのでしょう。それでも依然として私の心の中には平安があります。しかし、どうも例年と比べると深さが十分ではないようです。深い平安の中にどっぷり・どっしりと浸っているというよりは、どこに漂着するのか分からない漂流の不安を少し感じます。そういう中にいると平和への祈りも深まらないのだなということを改めて教えられています。
 だからこそ、平和が実現するためには、私たちの一人一人が深い平安の中にどっぷりと浸る必要があるのだと今年私は教えられています。世界中の多くの人々が毎日を不安の中で過ごしているとしたら、平和に向かって行くことは絶望的に難しいことです。
 ルカの福音書のイエスさまはパリサイ人たちに対して、週報p.3に載せたように言いました。

17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 究極の平和をもたらす神の国が私たちのただ中にあるのなら、多くの人々の心が深い平安で満たされない限り、「御国が来ますように」の成就は難しいだろうと思います。

おわりに
 最後にヨハネの福音書を2箇所開いて終わることにしたいと思います。まず、ヨハネ7章37節から39節までを交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 38節の生ける水の川は、黙示録22章1節のいのちの水の川を連想させます。この生ける水の川、そしていのちの水の川が私たちの内に入る時、私たちの内には大きな平安が与えられます。

 もう一箇所、ヨハネ14章の26節と27節を交代で読みましょう。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 聖霊を受けることで私たちには平安が与えられます。しかし、教会の問題や日常の様々な問題で私たちは心を騒がせたりしてしまいます。そのようなことなく、まず私たちはイエスさまの平安の中にどっぷりと浸って、そうして「御国が来ますように」と祈る者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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ドラマ『夕凪の街 桜の国2018』を観て

2018-08-07 10:04:01 | 牧師のつぶやき
 きのうNHKで放送された『夕凪の街 桜の国 2018』で感じた違和感を図にしてみました。



 原作は皆実と七波が同じ20代なので、時間の流れを感じさせません。原爆の惨禍は時間の流れとは無関係な永遠の中にあり、いつの時代の者も共有・共感が可能です。この永遠に目覚めることが平和をもたらすと私は考えます。
 一方、2018年版は七波が40代になったことで時間の流れが生じてしまっています。原爆が過去に遠ざかるなら将来的には共有・共感は困難になるでしょう。
 聖書のイエスも永遠の中にいますから、2千年が経った今でも多くの人々の間で共有・共感されて心の平安が与えられています。イエスを時間の流れの中に置いてしまうなら、世界は平和に向かいません。戦争は時間の流れの中で常に不安を感じている者たちが引き起こしているのだと思います。
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時代の3D立体像

2018-08-06 06:09:50 | 牧師のつぶやき
【時代の3D立体像】
 3D映画はメガネを通して左右別々の映像を見ることで奥行きのある立体像を得ることができます。
 『夕凪の街 桜の国 2018』も左の平成30年(2018)と右の昭和30年(1955)を左右別々に見ることで、奥にある昭和20年(1945)の原爆投下の惨禍が見えるようになっています。昭和20年は実際には見えていませんが、時代が立体化することで奥にあるものが心の眼で見えるようになります。



 新約聖書の『ヨハネの福音書』も同じです。「ヨハネの証しはこうである」(ヨハネ1:19)の「ヨハネ」はイエスの時代の「バプテスマのヨハネ」と使徒の時代の「使徒ヨハネ」の二人が重なっています。この二人の「ヨハネ」を左右別々に見ることで時代が立体化して、奥にある旧約の時代が心の眼で見えるようになります。すると、ヨルダンの川向こうでイエスがヨハネに近づいた出来事(ヨハネ1:29)の奥には、創世記の時代にハラン(ヨルダンの川向こう)で神(イエス)がアブラム(ヨハネ)に近づいて「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)と言った出来事が重ねられていることが、心の眼で見えるようになります。
 同様にしてヨハネ2章の奥には出エジプトの時代、3章の奥にはモーセの律法授与と荒野の時代、4章の奥には預言者エリヤの時代が重ねられています。これらは右欄の拙著(『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』 ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~)で説明しています)。

 なお、『夕凪の街 桜の国 2018』は、今夜7時半よりNHK総合で全国放送されます。
 http://www.nhk.or.jp/hiroshima/drama/
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8月5日礼拝プログラム

2018-08-03 08:26:11 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月5日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年8月第1聖日礼拝 順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  ここにいます主は      375
 交  読  詩篇122篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  ゆだねます主の手に     327
 讃 美 ③  主から受ける安らぎは    440
 聖  書  マタイ6:9~10、黙示録21:1~4
 説  教  『平和のために祈る:御国が来ますように』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  あなたの平和の       485
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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重なりを感じて分離する(2018.8.1 祈り会)

2018-08-02 09:07:36 | 祈り会メッセージ
2018年8月1日祈り会メッセージ
『平和のために:重なりを感じて分離する』
【ヨハネ3:16、ホセア11:8、エレミヤ18:1~8】

戦争と平和を考える8月
 8月に入りましたから、今年もまた戦争と平和について考えてみたいと思います。
 いま広島の平和記念資料館(原爆資料館)はリニューアルの工事中です。資料館は東館と本館とに分かれていますから、まず東館の内部の展示が新しくなりました。そして今は本館の内部の展示の入れ替えが進められています。それと同時に建物の耐震性を向上させる工事も行われているそうです。それに先がけて本館の周囲の発掘調査が行われて、深い場所からは江戸時代や戦前の物が出て来て、その上からは原爆が投下されて焦土となった時の様々な物が出て来たそうです。平和公園は原爆の後の火災で焼けた建物の残骸の上に土を盛って作られましたから、土を掘り返すと、下から被爆当時の物がいろいろと出て来るのですね。それらが今、先にリニューアルされた東館で展示されているそうです。

時代の重なりを感じる
 これは去年私が出した本にも書いたことですが、広島の平和公園の中にいると、これらの時代の重なりを感じることができます。今の平和公園の中の敷地は広々としていますが、原爆が投下される前には、ここには多くの民家や商家が立ち並んでいて、多くの人々が暮らしていました。一昨年公開されて大ヒットしたアニメーション映画の『この世界の片隅に』でも、原爆投下前のこの地域で人々が行き交う様子が生き生きと描かれています。広島の平和公園は、表面上は広々とした土地が見えていますが、その下には人々が生活していた時の地層と、原爆投下によって焦土となった地層があります。これらを同時に感じることで、私たちは平和の貴さをより深く感じることができると思います。平和公園の中にいると、言いようもない何かを感じますが、その言いようもない何かを分離するなら、戦前のこの場所と原爆投下時の場所と、戦後きれいに整備されたこの公園のそれそれから発せられているものの三つに分けることができるのだろうと思います。
 私たちは五感でいろいろなものを感じますが、たいていのものは単純ではなくて色々なものが重なっています。料理の味も単純に甘いとか辛いとかではなく、様々な味が重なり合って深い味を出しています。音楽もオーケストラの管弦楽曲などは管楽器、弦楽器、打楽器の重なりによって深くて重厚な音になります。面白いのは、管楽器と弦楽器とがまったく同じ旋律を演奏して重なっていても、人間の耳は聞き分けることができることです。人間の耳ってすごいなと思います。

音の重なりを分離できる人間の耳
 最近は、CDの登場によって一時は廃れていたアナログのレコード盤の人気がまた復活して来ているそうですね。このレコード盤に音を記録して再生する技術もすごいなと関心します。レコード盤の溝を針がなぞって音を再生するわけですが、溝の右と左にはステレオの右と左の違う音が記録されているのだそうですね。この溝が左右45度の角度で刻まれているので、互いに90度違う方向になっているということで、左右の音を分離できるようになっているそうです。そうして溝の左右の凹凸にはオーケストラの曲なら管楽器、弦楽器、打楽器の音が重なった凸凹が記録されています。ステレオの再生装置は、この凸凹を単純に増幅してスピーカーの紙の動きとして再生しているだけだということです。このスピーカーの紙の細かい振動が空気を振動させて音波になり、人間の耳の鼓膜は、このスピーカーの紙の細かい振動を再現します。ですから、耳の鼓膜の動きは、簡単に言えばレコード盤に彫られた溝の凹凸と同じ動きをするということです。この凹凸には先ほども言ったように管楽器の音と弦楽器の音などが重なっているのですが、人間の耳はそれらを分離することができるのですから、本当にすごいなあと思います。
 ただし、これらの楽器の音の重なりを分離することは、耳の感覚を研ぎ澄まさないと、できないでしょう。それぞれの楽器の音の特徴を知り、耳の感覚を研ぎ澄ますことで分かるものでしょう。そうして様々な音が重なり合っていることを感じるなら、より深い感動を得られることでしょう。これは勉強した上で感覚を研ぎ澄ますことで得られる感動です。勉強が必要だという意味では、「知的な感動」と言えるのかもしれません。

カレーの味の深さ
 カレーライスのカレーの味わいも、それと同様かもしれません。カレーは様々な香辛料が混ぜ合わされてカレー独特の味になります。ガラムマサラ、ターメリック、コリアンダーなどの名前を聞いたことがあると思います。そういうことを知らないで単純に「おいしい、おいしい」と言ってカレーを食べるだけでも私たちは十分に満足するかもしれません。しかし、香辛料のことを勉強して学び、これらが重なり合うと、こんなにも深い味になるのだということが分かると、もっとカレーの味に感動することができるようになるのだろうと思います。そういう意味で、深い感動というものは勉強を必要とする「知的な感動」と言えるのでしょう。そして、この感動を得るにはもちろん勉強だけでなく舌の感覚を研ぎ澄ますことが必要です。舌の感覚が研ぎ澄まされるなら、カレーを食べただけで、どの香辛料がどれぐらいの割合で使われているかが、ある程度はわかるようになり、カレーを極めることができるのだろうと思います。
 聖書から得られる感動も同じで、「知的な感動」の部分が大きいのかもしれません。聖書を創世記から黙示録までの66の書の通読をすることが推奨されるのも、聖書の記述には様々な重なり合いがあるからです。例えばマタイの福音書には「預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現がたくさん出て来ます。旧約聖書を知らずに新約聖書を読むだけでも、それなりの感動を得ることは可能だと思いますが、旧約聖書を知っているなら、新約聖書からより一層深い感動を得られるようになります。そのためには、旧約聖書を読むという学びが必要ですし、新約聖書の記述に旧約聖書のどこが重ねられているかを読み取る感覚を研ぎ澄ます必要があります。この感覚が研ぎ澄まされると、聖書の一つの記述には、実に多くの重なりがあること分かり、感動も深まることでしょう。

ヨハネ3:16に重なる聖句
 例として、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16を考えてみましょう。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16には聖書のエッセンスが凝縮されていることから「聖書の中の聖書」と呼ばれています。つまり、聖書の非常に多くの箇所がここには重ねられているということです。ちょっと考えただけでも多くの箇所が思い浮かびます。そして、それらとの重なりを思い巡らすなら深い感動が得られます。その感動の深さは聖書をどれだけ学んでいるかということと、重なりを分離できる感覚がどれだけ研ぎ澄まされているかによるのだと思います。カレーの知識を持たずに単純に「おいしい、おいしい」と言っているだけでなく、香辛料について学ぶなら、もっとカレーに感動することができるように、聖書も学びを進めることで、もっと深い感動を得ることができます。
 では、このヨハネ3:16からは、聖書のどの箇所の重なりを感じることができるでしょうか。まず14節からわかるように、ここでは十字架が語られていますから、創世記、出エジプト記、レビ記、詩篇、イザヤ書などから色々な箇所を思い起こすことでしょう。きょうは、それら十字架に関係した箇所でなく、「神が世を愛された」に関連した箇所から、二箇所だけ、ご一緒に読むことにしたいと思います。神の愛が感じられる箇所は旧約聖書には本当にたくさんありますから、二箇所だけでは少なすぎますが、時間の関係もありますから、二箇所だけにしておきます。

ホセア書とエレミヤ書から溢れ出す神の愛
 まず、ホセア11:8をご一緒に読みましょう(旧約聖書p.1547)。

11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 エフライムというのはイスラエルの北王国のことです。アデマとツェボイムというのはソドムとゴモラの近くにあった町で、神が創世記の時代にソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼした時に、一緒に滅ぼされてしまいました(申命記29:23)。神はイスラエルの民を愛していましたから、北王国をそれらの町のように滅ぼしたくはありませんでした。ですから、ホセアを通してイスラエルの民が神とともに歩むことができるように手を尽くしましたが、結局は上手く行かず、神はアッシリアを使って北王国を滅ぼすことになってしまいました。これは神にとっては大きな悲しみでした。
 もう一箇所、エレミヤ書を開きましょう。エレミヤ18章の1節から8節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1323)。

18:1 【主】からエレミヤに、このようなことばがあった。
18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」
18:3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
18:5 それから、私に次のような【主】のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──【主】のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
18:7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。

 6節の「イスラエルの家よ」というのは、今度は南王国のことです。主は既に北王国を滅ぼしていました。これはイスラエルの民を愛する主にとっては本当に悲しいことでした。ですから、南王国を北王国のように滅ぼすことは、決してしたくないことでした。それでエレミヤを通して8節のように仰せられました「もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
 しかし南王国の王と民は、エレミヤの警告に従わなかったので、結局は南王国を滅ぼすことになってしまいました。北王国の滅亡だけでも十分すぎるほどに悲しいのに、なお南王国をも滅ぼさなければならなかったことに、主はどれだけ悲しい思いをしたことでしょうか。

おわりに
 ヨハネ3:16には、これらすべてのことが重なっているのですね。主は北王国を滅ぼし、南王国をも滅ぼしました。しかし、それでもなお人々は主と共に歩むことが上手くできないでいました。南王国の滅亡を教訓にしてパリサイ人たちのようにモーセの律法をきっちりと守る人々もいましたが、主の目から見れば、パリサイ人たちも主から離れているように見えました。人々はどうしても主と共に歩むことが上手にできません。そこで主は聖霊を遣わして一人一人の内に住むようにすることにしました。しかし、神である聖霊、神の聖い霊を罪で汚れた人々の内に遣わすわけにはいきません。イエスさまの十字架は、その罪の聖めのために、どうしても必要なことでした。ひとり子を十字架に付けるような、むごいことは父なる神にとっても避けたいことだったことでしょう。しかし、人々を愛する神は、イエスさまにその役目を担わせることにして、イエスさまもそれを受け入れたのでした。
 この神の愛を深く味わうには、旧約聖書を学ぶことがどうしても必要です。神の愛の重厚さを深く味わうには、聖書の各書を丹念に読むとともに、いまヨハネ3:16からホセア書とエレミヤ書を分離したように、聖書の色々な箇所を分離して味わうことが必要です。オーケストラの曲やカレーの味を深く味わえるようになるには知識を増やし感覚を研ぎ澄ますことが必要なのと同様に、聖書に関する知識を増やし、感覚を研ぎ澄ますことで聖書はより深く味わえるようになります。
 戦争と平和を考える8月になりました。世界がなかなか平和に向かって行かないのは、聖書を深く味わうことができていないからだと私は感じています。平和のために、多くの方々と共に聖書を深く味わう恵みを分かち合うことができるよう、祈り働いていきたいと思います。
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渇いた魂が求める聖霊(2018.7.29 礼拝)

2018-07-30 07:56:32 | 礼拝メッセージ
2018年7月29日礼拝メッセージ
『渇いた魂が求める聖霊』
【詩篇42篇】

はじめに
 先週はシオン教会での合同礼拝でしたから間が空きましたが、先々週の詩篇22篇に続いて今週もまた詩篇を開くことにしました。きょうは42篇です。もう一度、1節から5節までを、今度は交代で読みましょう。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

魂を冷静に観察している詩人
 この詩人の置かれている状況は、どのようなものでしょうか。4節に、この詩人が祭りのために神殿があるエルサレムに上京した時の喜びを思い起こしていることが綴られています。4節、

42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

 しかし、2節を見ると、今はそのことがなかなか適わない状況にあることがわかります。2節、

42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 このように、神の御前に出られない状況が続いているので、魂が渇いているのですね。1節には、

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

とあります。
 私がこの詩篇42篇で最も感銘を受けるのは、この詩人が自分の魂の状態をかなり客観的に把握している点です。そして、このことから心と魂とは違うのだということを教えられました。
 この詩人は、自分の魂をやや突き放して、5節のように言います。

42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。

 この5節から、詩人の内で思い乱れているのは「心」ではなくて「魂」のほうであることがわかります。つまり精神的に乱れることがあった場合、それは必ずしも「心」が乱れているのではなく「魂」が乱れている場合も少なからずあるということです。この詩人は冷静沈着に自分の「魂」の状態を観察していますから、「心」は乱れていないと言えます。この詩人の内で乱れているのは「魂」であって、「心」のほうではありません。

魂を癒すことができるのは神だけ
 このように、「心」と「魂」を区別して観察することは、信仰についての理解を深める上でとても重要だと思います。心を制御することは、ある程度は可能でしょう。簡単ではありませんが、心が動揺している時にどうしたら良いかなど、いろいろと試してみることは可能です。そして上手くすれば動揺を静めることも可能でしょう。しかし、魂の領域には神様に入っていただかないことには、どうしようもありません。魂の領域を人が制御することは不可能です。私たちの魂を癒すことができるのは、神様だけです。きょうは、このことの理解をご一緒に深めることができたら幸いだと願っています。
 次に取り上げる人生相談は少し前の祈祷会のメッセージでも引用したものですが、最近、朝日新聞の人生相談欄に次のような相談が載っていました。
https://digital.asahi.com/articles/ASL6P6FQWL6PUCFI00B.html?iref=pc_ss_date

お読みします。

●相談者 女性 40代

 40代後半の独身女性です。東証一部上場企業に正社員として働いています。
 今まで結婚願望、出産願望があった時期があり、ありがたいことにプロポーズして頂いたことも何度かありましたが、結婚は決断できませんでした。現在は、結婚願望、出産願望は全くありません。
 仕事は心身ともにハードで辞めたいと思うことは多々ありますが、独りで生きていくためにはと腹をくくり、なんとか続けています。信頼できて、心を許せる女友達や食事に誘ってくれる男性がいて、生涯を通して楽しめる趣味を持ち、そこそこ資産もあります。
 ある程度の年齢になったら老人ホームに入ろうと考えています。自分で全て選択してきた人生に納得していますし、将来の不安もあまりありません。
 それなのに、なぜかいつも心が満たされず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります。自分でも理由が分かりません。
 どうしたら心が満たされるのでしょうか。
 また、私のような独身女性が充実して生きていくためのアドバイスをお願いいたします。上野千鶴子先生にご回答頂けたらありがたく存じます。
 上野先生の著書『おひとりさまの老後』は読ませて頂いたので、その他のアドバイスを頂けたらありがたく存じます。

 この相談に対する回答者の上野千鶴子氏の回答は以下のようなものでした。

 ○回答者 社会学者・上野千鶴子 「独身」が原因と思い込んでるのでは

 あなたのご相談を少々立場を変えてつくりかえてみましょう。
 「40代の専業主婦。夫は一部上場企業勤務で、順調に出世しています。子どもにも恵まれ、趣味や旅行を共にする女友達や、サークル仲間で男性の友人もいます。不本意なパート勤めに出ずにすみ、好きな稽古事にもうちこめる余裕のある暮らしを夫に感謝しています。老後を子どもたちに頼る気はないので、ふたりで有料老人ホームに入ろうねと夫とは話し合い、そのための蓄えもしています。自分で納得して選んだ人生、つつがなく過ぎたことを感謝していますし、将来の不安もあまりありません。それなのになぜか、いつも心が満たされておらず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります」
 ここまでくれば明敏なあなたにはとっくに察しがついているでしょう。性別を入れ替えても、職業や立場を変えても、同じ相談が成り立つと。
 あなたのご相談の問題は、前段が原因、後段がその結果という因果関係をもとに成り立っていること。空虚な気持ちに「自分でも理由がわからない」というあなたの落とし穴は、「もし独身でなければきっと人生は充実していただろう」と思い込んでいるところにあります。
 とりあえず、前段と後段の因果関係を断ち切ってください。そうすればあなたが向き合うべきは、いまこの時の空しさ、さみしさになります。
 40代後半。人生の盛りは過ぎ、とりかえしのつかない思いややりなおしのきかないことで過去はいっぱい。自分の人生が下り坂に入ったと痛切に思わざるをえないのが、この年齢です。女性なら閉経というカラダの変化が伴いますし、男性なら組織内の自分のポジションに見極めがついているころです。「自分で納得して選んだ人生」、後悔はなくとも、何か大事な宿題を忘れたような索漠とした思いを味わっていることでしょう。
 とはいえ、人生100年時代。まだまだ後半生は続きます。あなたの「ポッカリと穴が開いているような」気持ちは子どもの頃からつづいているわけではなさそうですし、「腹をくくって」つらい仕事を続けてきたときにも、そんな気持ちを味わう余裕はなかったでしょう。
 過去をふりかえってどんなときなら充実感を感じられたかを思い出してください。思い患うことのない今は、人生の踊り場。空虚さはその代償です。
(引用終わり)

 回答者の上野氏は、この相談者は「もし独身でなければきっと人生は充実していただろう」と思い込んでいると指摘しています。確かにそうなのでしょう。独身の上野氏に相談していることからも、そのことは伺えます。しかし、いずれにしても、この回答は私の目には物足りないものに映ります。なぜなら、この相談からは、相談者の魂が満たされていない様子が見てとれるからです。この相談者は、「どうしたら心が満たされるのでしょうか」と聞いていますが、実は満たされていないのは心ではなくて魂のほうだと思います。彼女は「生涯を通して楽しめる趣味」を持っているということですから、心を満たす術を知っています。熱心に仕事に取り組み、空いた時間には趣味に没頭すれば心の空しさを忘れることも可能でしょう。それなのに彼女は満たされないものを感じています。つまり自分の努力では埋めることができない空虚感を自分の内に感じているということです。ですから彼女の内で満たされていない場所は「心」ではなくて「魂」のほうです。しかし、相談者の彼女はそのことに気づいていません。回答者の上野氏もまた気づいていません。

神と出会あうことの大切さ
 それに対して詩篇42篇の詩人は自分の魂が満たされていないことを強く感じています。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 では、この新聞の人生相談欄の相談者の女性は、どうしたら自分の「魂」が空虚であることに気づくことができるのでしょうか。それにはやはり、神様との出会いを経験するしかないのだろうなと思います。詩篇42篇の詩人は、かつて祭りでエルサレムに上京して神殿で神との出会いを経験しました。それゆえに今の自分の魂の中には神がいないことを自覚しています。では、どうしたら神との出会いを経験することができるのか、私の経験に照らすと、それは至難の業のような気がします。しかし、それを追求して、少しでも神様との出会いを経験する手助けをすることが私たちのすべきことである筈です。それゆえ、もう少しこのことを掘り下げてみたいと思います。
 まず言えることは、出会うべき神は、書物などから知識として得た神ではなく、これまでずっと自分のそばにいて自分を守り導いてくれていた神であるということです。この相談者に限らず多くの人は、過去に自分が人生の分岐点に立たされた時に選んだ道は自分で選んだと思っていることでしょう。しかし、実は背後に神がいて、どちらかに導いています。そして、その導きにはっきりとは気づかなくても、何となく導かれるものを感じて道を選択する場合がほとんどではないかと思います。そういう何かを感じるから、人は神社でおみくじを引いたり、占いを気にしたりするのではないでしょうか。
 ただし、人を正しい方向に導くことができるのは、その人に霊を吹き込んだ万物の創造主しか有り得ません。この万物の創造主である神とどうしたら出会うことができるのか。聖書が浸透していない日本においては極めて難しいとしか言いようがありません。だから私たちは、もっと多くの方々に聖書の神様のことをお伝えして行かなければならないと改めて思わされます。

あなたがたは何を求めているのですか
 一時期、礼拝でよく開いた箇所を、きょうはまた改めて開きたいと思います。ヨハネの福音書1章35節から39節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 38節でイエスさまは二人の弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。そして「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃいました。こうして二人の弟子たちはイエスさまと出会うことができました。
 イエスさまは同じ質問を私たちに対してもして下さいました。そうして私たちはイエスさまの「来なさい」に応えて教会に来て、私たちが求めているのは魂が神様の霊で満たされることであることが分かるようになりました。
 新聞の人生相談の女性は、心が満たされることを求めています。しかし、実は満たされるべきは心ではなくて魂のほうです。この相談者の女性も、イエスさまの「来なさい」の声に聞き従うのなら、それがわかるようになるでしょう。
 イエスさまを信じる私たちでも、時には自分の内に満たされないものを感じることもあるでしょう。その時には、詩篇42篇の詩人のように冷静に自分の魂を観察したいと思います。そして満たされていないのは心のほうなのか、魂のほうなのかを理解したいと思います。そして、もし魂が満たされていないのであれば、神様に入っていただかなければなりません。つまり聖霊に満たされるということです。詩篇42篇の詩人の時代には、誰でも聖霊に満たされるとうわけではありませんでした。聖霊に満たされたのは限られた預言者たちだけでした。しかし、イエスさまを信じる私たちには聖霊が与えられ、聖霊に満たされることができますから、改めてこのことを感謝したいと思います。

おわりに
 最後にもう一度詩篇42篇の5節をご一緒に読んで、終わることにします。

42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 お祈りいたしましょう。
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7月29日礼拝プログラム

2018-07-26 11:36:32 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月29日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年7月第5聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  神はひとり子を        26
 交  読  詩篇135篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  御手の中で         405
 讃 美 ③  鹿のように(2回)      192
 聖  書  詩篇42:1~5
 説  教  『心と魂の違い』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                由紀姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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増える水と増えるパン(2018.7.25 祈り会)

2018-07-26 07:02:38 | 祈り会メッセージ
2018年7月25日祈り会説教
『増える水と増えるパン』
【エゼキエル47:1~12】

47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

はじめに
 少し間が空きましたが、きょうはまた、黙示録21章と22章の「新しい天と新しい地」と関係する箇所をご一緒に読むことにしたいと思います。

エゼキエル47章とよく似ている黙示録22章
 まず黙示録の21章の1節から4節までを交代で読みましょう。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 2節にあるように、新しいエルサレムが天からくだって来ました。そして、22節によれば、この都の中には神殿はなかったようです。22節、

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。

 この神殿はなかったというところは、エゼキエル47章とは異なりますね。黙示録が書かれたのは、ローマ軍の攻撃によって神殿が焼失した後のことですから、この神殿の焼失が関係しているのかなという気がします。しかし、逆に神殿が焼失したことで、イエス・キリストの恵みはイスラエル人だけでなく、全世界の人々に与えられるものであることが、いよいよハッキリしました。既にパウロたちによって神殿が存在していた時代にも異邦人たちに福音が宣べ伝えられていましたが、神殿が焼失したことで、礼拝とは霊とまことによって行われるべきものだということが、一層明確になりました。
 続いて、黙示録22章の1節と2節を交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 このいのちの水の川の描写はエゼキエル書の47章と非常によく似ていますね。エゼキエル書の場合は神殿から水が出たという違いはありますが、その他の点ではとてもよく似ています。それゆえ、この黙示録22章の川も、エゼキエル書47章のように、流れるに従って水は深くなって行ったと想像されます。

下流に行くに従って増える水かさ
 もう一度、エゼキエル47章に戻ります。先ほどご一緒に読んだように、この水は下流に進むに従って水かさが増します。以前も話したことがあるかもしれませんが、私は神学生の時、この描写に納得がいっていない時期がありました。なぜかと言うと、私たちの身近にある川が下流に行くに従って水量が増えるのは、たくさんの支流があって、それらの川から水が流れ込むことによって水量が増えるからです。或いはまたダムがあれば、そこで水が堰き止められて水かさは増えますが、この川の場合は8節にあるように海に流れ込みますから、堰き止められてはいません。支流がなくて水源は神殿からの一つだけ、しかも堰き止められていないなら、常識的には水量は増えない筈です。
 では、なぜ、この神殿から流れ出た水はどんどん増えるのか、私は神学生の時に、ある先生に質問しました。するとこの先生は、答えました。「信仰というのはそういうものではないですか。前に進んで行けばいくほど恵みが増し加わる、そういうものではないですか」それを聞いて私はなるほどと思い、納得しました。しかし今回、このエゼキエル47章からのメッセージを取り次ぐにあたって、もう少し何か加えることはできないだろうかと思いました。そうして、思い巡らしを始めた間もなく、次のことが示されました。

増えることで多くの人々が恩恵を受ける
 この川の流域では、多くの生き物や人々が、この川の水の恩恵を受けます。たとえば9節、

47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

 この川が入るところでは、すべてのものが生きます。そして10節のように漁師が魚を取ることで、流域の人々への豊かな食料になります。また、11節にあるように、沢と沼では水は良くなりませんが、その代わりに塩が取れますから、これも大変な恩恵です。塩は人々の生活には不可欠だからです。そして12節、

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 木の実は食物となり、葉は薬になります。こうして、多くの人々が養われます。このように多くの人に恵みをもたらすために、水かさは増えるのだ、と示されました。この水が増え、多くの人々が養われるという点では、福音書の五千人の給食が思い起こされます。最初はわずかのパンしかありませんでしたが、イエスさまによってパンは増えて多くの人々が満腹になり、なおパンは余りました。
 きょうは、エリシャの同様の箇所をご一緒に読むことにしたいと思います。第二列王記4章42節から44節までを交代で読みます。

4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。【主】のことばのとおりであった。

 エリシャはこうして、大麦のパン20個と新穀1袋で百人のお腹を一杯にして、なお余りました。神様は、そこにいる人々が何人いても、それぞれの人に十分な恵みを与えて下さいます。

何人いても十分な恵みを与える神
 福音書の五千人の給食も見ましょう。ヨハネの福音書6章8節から13節までを交代で読みましょう。

6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。

 このように神様は百人いれば百人に、五千人いれば五千人に十分な恵みを与えて下さいます。そして、なおその恵みはあり余ります。この沼津市には20万人もの人々がいて、神様はこの20万人に対しても十分な恵みを与えて下さいます。しかし、残念ながらなかなか行き渡りません。

おわりに
 最後にもう一度、エゼキエル書47章に戻ります。12節を、ご一緒に読みましょう。

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 この素晴らしい果樹の光景が霊的に見えるなら、人々はもっとイエスさまのみもとに集まって来ることでしょう。人々の霊的な目が見えるようになるには、どうしたら良いのか、このことについては礼拝メッセージの中でも考えて行きたいと願っています。
 聖霊が与えられている私たちには、このいのちの水の恵みが与えられていることを感謝し、多くの方々とこの恵みを分かち合うことができるように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月22日の礼拝について

2018-07-19 08:55:32 | 礼拝プログラム
7月22日は沼津シオン教会で合同礼拝を行います。

今沢での礼拝はありません。
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奥深い世界への招き(2018.7.18 祈り会)

2018-07-19 08:52:25 | 祈り会メッセージ
2018年7月18日祈り会メッセージ
『奥深い世界への招き』
【詩篇90篇】

はじめに
 西日本の豪雨で多くの方々が亡くなった報道に接してから、いくつかの詩篇に目が留まりました。それらの中から先週の祈り会では詩篇69篇を開き、先日の礼拝では詩篇22篇を開きました。

人の命のはかなさが綴られている詩篇90篇
 そして詩篇90篇もまた、目に留まった詩篇の一つです。この詩篇には、人の命のはかなささが綴られています。5節と6節、

90:5 あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。
90:6 朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。

 ほんの少し前までは日常の生活をしていた多くの方々が亡くなられました。これらの方々は一ヶ月前の大阪の大地震で4名の方が亡くなった報道に接して心を痛めていたことでしょう。或いはそれ以前の様々な災害の報道を見て心を痛めていたことでしょう。そして多くの人はまさか自分が災害に巻き込まれるとは思っていなかったでしょう。しかし、災害はいつどこで起こってもおかしくありません。ですから、この沼津の地でも、大きな災害があるかもしれません。或いは災害でなくても、急な病気や交通事故でいつ命を落とすかわかりません。それに対して私自身はどれだけの心備えができているだろうかということを思わされます。
 この詩篇90篇の詩人、表題にはモーセとありますが、この詩人は12節で神に訴えています。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」
 ここ何日か私は、自分はこの言葉を神様に向かって聞けるだろうかということを考えています。「神様、教えてください。私はあと何日この世で生きられるのですか」と私は聞けるだろうか、そんなことを考えています。信仰的には、「はい、聞けます」と答えられなければいけないのだろうと思います。今の私のように逡巡しないで、残された日々を無駄にしないで精一杯働くことができるように、神様に「どうか教えてください。自分の日を数えることを」と聞けるようでなければいけないのだと思います。私たちには永遠の命が与えられていて、この世においても天に召された後でも神様とずっと共にいるわけですから、召される日が早かろうが遅かろうが構わないはずです。というより、もしかしたら早く神様のみもとに行けますようにと願うぐらいでないといけないのかもしれません。しかし今の私は、「どうか教えてください。自分の日を数えることを」と神様にお聞きする勇気はありません。それが正直なところです。だから詩篇の69篇と22篇を先に開き、90篇は開かないようにしようかとも思っていたのですが、ずっと心に引っ掛かっていましたから、きょうご一緒に開くことにしました。

充実して生きても魂までは満たされない
 この12節の「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」について思い巡らしていて、がんの告知のことを思いました。今はがんに掛かったら本人に告知することは当たり前のようになっていますが、十数年前までは、がんは患者の家族には知らされましたが本人には知らされませんでした。2001年に亡くなった私の父にも私たち家族は父にがんであることを知らせませんでした。
 それが今では本人にも告知することが当たり前になっています。わずか十数年で、どうしてこんなに変わったのでしょうか。一つにはがんの治療法が格段に進歩して、以前に比べれば治るようになったということが挙げられるのでしょう。また、自分の余命がどれくらいかを本人以外の家族は知っているのに本人は知らないのはおかしいという考え方が一般的になったということも考えられるのでしょう。
 そうして、自分の余命があと何ヶ月かと知った人が、自分のやり残したことをしたりして、残された期間をできるだけ充実して過ごして亡くなって行ったというような例を、よくテレビで見たりする時代になりました。しかし、心配な面もあります。残されたことをすれば、心は満たされるかもしれませんが、魂までは満たされないのではないかということです。
 つい先日、7月14日付けの新聞の人生相談欄に、こんな悩み事を持つ女性の相談が寄せられています。お読みします。

「40代後半の独身女性です。東証一部上場企業に正社員として働いています。
 今まで結婚願望、出産願望があった時期があり、ありがたいことにプロポーズして頂いたことも何度かありましたが、結婚は決断できませんでした。現在は、結婚願望、出産願望は全くありません。
 仕事は心身ともにハードで辞めたいと思うことは多々ありますが、独りで生きていくためにはと腹をくくり、なんとか続けています。信頼できて、心を許せる女友達や食事に誘ってくれる男性がいて、生涯を通して楽しめる趣味を持ち、そこそこ資産もあります。
 ある程度の年齢になったら老人ホームに入ろうと考えています。自分で全て選択してきた人生に納得していますし、将来の不安もあまりありません。
 それなのに、なぜかいつも心が満たされず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります。自分でも理由が分かりません。
 どうしたら心が満たされるのでしょうか。」

 この相談に対する回答も載っていましたが、私にはその回答は的外れなものに思えましたから、ここではお読みしません。この女性は心を許せる友人もいるし、生涯を通して楽しめる趣味も持っています。しかし、なぜかいつも心が満たされないということです。それで、どうしたら心が満たされるのでしょうかと尋ねています。この相談に対する私の見立ては、この女性は心が満たされていないのではなくて、魂が満たされていないということです。私自身も教会に導かれるまでは、まったく同じ思いの中にいました。いろいろな趣味を持って楽しんでいました。剣道をしたり、バードウォッチングをしたり、野鳥の会のボランティアをしたり、スポーツ観戦をしに熱心に競技場に通ったり、韓国映画にはまったりと、いろいろなことをして、仕事も面白かったですし、心は満たされていました。しかし、どこかで満たされていないことを感じていました。それが、教会に導かれてからは、その「満たされない感」がまったくなくなりました。それは、空虚だった魂に神様が入って下さったからだと思います。

奥深い世界への招き
 この7/14付けの人生相談は、私が忘れていた大切なことを思い出させてくれましたから、感謝でした。どうしたら、こういう方々を神様のところにお連れする働きができるか、考えなければならないと思わされています。
 そういう初心者レベルに戻って詩篇90篇を読むなら、12節の、「どうか教えてください。自分の日を数えることを」も、あまり難しいことを考えずに、単純に神様との交わりを祈り求めることとして、とらえれば良いのかもしれません。
 教会に通い始めたばかりの頃の私は、聖書のことをほとんど何も分かっていなかったのに、深い平安を感じることができました。聖書の奥深さの具体的な中身は分からなくても、何か奥深そうな世界があると興味を示すだけでも、神様はその人の中に入って行って下さり、空虚な魂を満たして下さるのかもしれません。
 さきほどの人生相談の女性のような方々に、このような満たされた世界があることを、何とかしてお伝えできるようになりたいと思います。
 お祈りいたします。
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