平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

『大志を静かに抱く丘』目次

2024-10-04 23:26:37 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~


序章 『西国立志編』の炎に迎えられたクラーク
  
第一章 クラークの理化学の授業とバイブル・クラス
 最初のバイブル・クラス
 国内最高の教育機関からの招き
 クリスマス・イブ
 化学のことば

第二章 育まれた大志
 勝海舟による全面支援
 相良油田の発見
 石造りの洋館の建築
 クラーク邸での催し

第三章 静岡学問所の受難と廃校
 東京一極集中の政策と中村正直の転任
 文部省への異議申し立て
 クラークの涙
 大志の丘

終章 150年後の大志の丘

※本稿は明治初期の静岡学問所に関する史実を基にしたフィクションです。登場人物の多くは実在した人物ですが、信次と順三、大吉は架空の人物です。また、クラークが化学の授業とバイブル・クラスで参照した本は分かっているものの、講義の細かい内容は不明であるため、筆者の想像を多く含みます。

【参考文献】
・E・W・クラーク顕彰事業実行委員会編『エドワード・ウォレン・クラークと明治の静岡/日本/アメリカ』(E.W.クラーク来静150周年記念シンポジウム・パンフレット)、2021年。
・George Frederick Barker: A TEXT-BOOK OF ELEMENTARY CHEMISTRY THEORETICAL AND INORGANIC, John P. Morton & Company, Louisville, KY, 1870.
・エドワード・ウォレン・クラーク『日本滞在記』(飯田宏 訳)、講談社、1967年。
・エドワード・ウォレン・クラーク『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』(E・W・クラーク顕彰事業実行委員会 訳)、静岡新聞社、2023年。
・ジョン・エム・マキ『 W・S・クラーク その栄光と挫折(新装版)』(高久真一 訳)、北海道大学出版会、2006年。
・ポール・マーシャル『わが故郷、天にあらず この世で創造的に生きる』(レラ・ギルバート 協力、島先克臣 訳)、いのちのことば社、2004年。
・石田徳行「『西国立志編』と静岡~出版事情をめぐる一試論~」(上利博規・小二田誠二 編集『駿府・静岡の芸能文化』第4巻、所収)2006年。
・蝦名賢造『札幌農学校 日本近代精神の源流』新評論、1991年。
・大島正健『クラーク先生と その弟子たち(補訂増補版)』(大島正満・大島智夫 補訂)、教文館、1993年。
・影山昇『徳川(静岡)藩における近代学校の史的考察――静岡学問所と沼津兵学校および同附属小学校を中心として――』(非売品)、1965年。
・蔵原三雪「E.W.クラークの静岡学問所付設伝習所における理化学の授業――W.E.グリフィスあて書簡から――」(『武蔵丘短期大学紀要第5巻、所収』1997年。
・小島聡『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』ヨベル新書、2017年。
・今野喜和人「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その4)」(『翻訳の文化/文化の翻訳』第18号、静岡大学人文学部翻訳文化研究会、所収)、2023年。
・佐野真由子「日本の近代化と静岡――幕臣たちとキリスト教と」(上村敏文,・笠谷和比古 編『日本の近代化とプロテスタンティズム』教文館、所収)、2013年。
・刀根直樹『仲立ちとしての「お雇い外国人」――エドワード・ウォレン・クラークと明治日本――』(東京大学大学院総合文化研究科超越文化科科学専攻(比較文学比較文化)平成25年度修士論文)、2014年。
・刀根直樹・今野喜和人「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その1~3)」(『翻訳の文化/文化の翻訳』第5~7号、静岡大学人文学部翻訳文化研究会、所収)、2010~2012年。
・半藤一利『それからの海舟』ちくま文庫、2008年。
・樋口雄彦『静岡学問所』静新新書、2010年。
・藤本満『ウェスレーの神学』福音文書刊行会、1990年。
・松浦玲『勝海舟』筑摩書房、2010年。
・三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書、2024年。
・山下太郎『静岡の歴史と神話――静岡学問所のはなしを中心に』吉見書店、1983年。
・渡辺保忠「静岡におけるE・W・CLARKの住宅とその影響について」(『日本建築学会論文報告集』第63号、所収)、1959年。

【引用・参照サイト】
・静岡風景写真(クラーク撮影):早稲田大学図書館所蔵
  https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04240/ru04_04240.pdf
・相良油田について:牧之原市ホームページ
  https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/kanko/805.html
・和小屋(和風小屋組)について:不動産・住宅サイト SUUMO
  https://suumo.jp/article/oyakudachi/oyaku/chumon/c_knowhow/koyagumi 
・『自由之理』のクラーク手書きの序文:国書データベース
  https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300025534/15?ln=ja 
・静岡空襲について:静岡平和資料センター
  https://shizuoka-heiwa.jp/?page_id=9 
・「地球の出(Earthrise)」の写真:NASAホームページ
  https://science.nasa.gov/resource/image-earthrise/ 
・その他、多くの項目でWikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/)を参照した。
・また、Barkerの化学の教科書の序文と中村正直 訳『自由之理』の序文を和訳する際にはDeepL(https://www.deepl.com/ja/translator)の和訳を参考にした。
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来週から小説を連載します

2024-10-04 21:44:38 | 折々のつぶやき
 今夜、クラークの会の勉強会があり、クラークと静岡学問所の学生が主人公の小説について、いろいろ意見をいただくことができました。
 これらの意見を取り入れて修正を加えつつ、来週からこの小説を本ブログで公開して行くことにします。
 連載開始は来週の後半からになるかと思います。どうぞよろしくお願いします。
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ぼちぼち書き進めています

2024-09-06 08:22:44 | 折々のつぶやき
 ブログを更新しないまま、いつの間にか1ヶ月が経ってしまいました。小説のほうは、ぼちぼち書き進めています。仕事が休みの日は午前2時ぐらいから書いていますが、どう書いたら良いか悩むことも多いので、進捗は遅いです。今朝は第二章までをだいたい書き終えました。
 タイトルや各章節の見出しなどは少しずつ変化しています。

(仮題)大志を静かに抱く丘
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

序章 『西国立志編』の炎に迎えられたクラーク
  
第一章 クラークの理化学の授業とバイブル・クラス

 最初のバイブル・クラス
 国内最高の教育機関からの招き
 クリスマス・イブ
 化学のことば

第二章 育まれた大志
 勝海舟による全面支援
 相良油田の発見
 石造りの洋館の建設
 クラーク邸での催し

第三章 静岡学問所の受難と廃校
 東京一極集中の政策
 文部省への渾身の抗議
 クラークの涙
 大志の丘

終章 150年後の大志の丘
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今年の8月6日

2024-08-07 04:52:53 | 折々のつぶやき
 広島に原爆が投下された8月6日の昨日は勤務日でしたから8時からのテレビ放送は見られませんでしたが、通勤途上の8時15分に自転車を止めて1分間の黙祷を捧げました。七間町の吉見ビルの前の辺りでした。
 8月6日と8月9日、そして8月15日に祈る時にはいつも「私を平和のために用いて下さい」という祈りを付け加えます。すると昨日は、執筆中の小説の最後には平和について書くように示されました。
 小説は下記の構成で書き進めています。仕事が休みの日にしか書けませんし、どう書いたらよいか悩む箇所も多いのでなかなか進みませんが、それでも少しずつは前進しています。そして昨日は、終章の「静岡再興の大志(アンビション)」では平和について書くように示されましたから感謝でした。

(仮題)静岡発の大志(アンビション)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~


序章 『西国立志編』の火炎に迎えられたクラーク
  
第一章 クラークの理化学の授業とバイブル・クラス
 最初のバイブル・クラス
 国内最高の教育機関からの招き
 クリスマス・イブ
 化学の授業

第二章 育まれた大志
 相良油田の発見
 勝海舟の不安
 石造りへの挑戦
 クラーク邸での催し

第三章 静岡学問所の閉校
 東京一極集中の政策
 中村正直の東京転任
 渾身の意見書
 クラークの涙

終章 静岡再興の大志(アンビション)
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近況

2024-07-24 08:12:26 | 折々のつぶやき
 クラーク先生について思いを巡らしているうち、小説を書いてみようかとふと思い立って、このところ仕事が休みの日に少しずつ書き進めています。小説を書いた経験がほとんど無いので最初はなかなか進みませんでしたが、だんだん調子が出て来ました。まだ仮題の段階ですが、タイトルはこんなものを考えています。

仮題「静岡発の大志(アンビション)~『西国立志編』とクラークの弟子たち~」

 クラークが静岡の蓮永寺でのバイブル・クラスで何を語り、静岡学問所の化学の授業で何を語ったのか、大まかなことは分かっていても細かい内容はぜんぜん分かっていません。しかし、フィクションであれば分かっていないことでも大胆に書くことができます。今、そのことに挑戦中です。クラークが語った聖書と化学の両方について書くことが出来る人は僕以外でそんなにいるとは思えませんから、これが僕に与えられた役目なのかもしれません。



 小説には、上図のようなバーカーの化学の教科書の挿絵も、取り入れようかと思っています。この小説をどのような形で公表するかは、もう少し書き進めてから考えることにします。
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文系と理系の断絶が深い日本

2024-07-14 11:50:37 | 折々のつぶやき
「文系の信仰」と「理系の信仰」(2)

 日本のキリスト教は「文系の信仰」と「理系の信仰」の二つがあると感じます。海外のキリスト教をほとんど知らないので「日本のキリスト教は」と書きましたが、恐らく海外のキリスト教は日本のような文系・理系の分化はないと想像します。海外では日本ほど文系と理系の断絶が深くないという次の記事があるからです。『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社)の著書がある隠岐さや香氏へのインタビュー記事です。冒頭部分を引用します。

日本は海外に比べて文系、理系の断絶が深い
(聞き手)文系、理系に分けるのは日本だけと言われますが、そうなのでしょうか?

(隠岐)言葉の意味がずれていると思います。大学で自然科学と人文・社会科学を二つの文化に分ける発想があるのは、英語圏やドイツ圏、フランス圏でもそうです。中国や韓国など東アジアでは、文系、理系という言葉で理解してくれます。

ただ、海外では、日本のように断絶が深くありません。日本では大学入試の時に文系、理系に分かれたままですが、海外では分かれていても越境する仕組みがあります。海外では文系、理系という区別がないように見えるのです。

文理融合の学部をつくった教授が言っていましたが、日本では大学受験の段階で「自分は文系なので」「理系なので」というアイデンティティーを持ってしまうようです。大学入試が自己イメージを縛ってしまうのです。外国人留学生だと、そういうことはあまりありません。(朝日新聞EduAより)

 なぜ日本ではキリスト教が広まらないのか、もしかしたら文系・理系の断絶の深さも要因の一つかもしれません。個人の感想ですが、文系は理系よりも疑い深い人が多い傾向があるように感じます。一方、理系はそれほど疑い深くはないものの、日本の教会の多くで語られる「文系の信仰」にはあまり興味がなさそうな気がします。その結果、文系も理系もキリスト教を信じるに至らない、そういう構図があるかもしれません。

 ここで、私がイメージする「文系の信仰」と「理系の信仰」を表にしてみます(あくまでも個人の印象です)。

文系 理系
イエスに
心を寄せる
創造主に
心を寄せる
個人の救い
を重んじる
世界の救い
を重んじる
人間関係に
目を向ける
自然や宇宙に
目を向ける
高い視座は
望まない
高い視座を
望みがち

 讃美歌で言えば、「文系の信仰」は「いつくしみ深き」(教会福音讃美歌432)でしょうか。

1
いつくしみ深き 友なるイェスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下さぬ、負える重荷を。
2
いつくしみ深き 友なるイェスは、
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも、
祈りにこたえて 慰めたまわん。
3
いつくしみ深き 友なるイェスは、
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも、
祈りにこたえて 労りたまわん。

 そして「理系の信仰」は「つきぬ喜びを注がれる主よ」(教会福音讃美歌11)でしょうか。

1
つきぬ喜びを 注がれる主よ
栄光の神よ 愛のお方よ
罪と悲しみの 雲を溶かして
まことの光で 満たしてください
2
世界に満ちたる すべてもものは
神の輝きを 映して歌う
花咲く野原も さえずる鳥も
歓びの歌に われらをまねく
3
赦しといのちを 与える神は
歓び満たして 愛を教える
信じる者らは 家族とされて
清い交わりに 引き上げられる
4
息あるものみな ここに集まり
あかつきをさます 歌声あげよ
神の愛により かたく結ばれ
われらは進んで 勝利にいたる

 一般の信徒の頃の私は創造主である天の父に心を寄せる一方で、イエスに心を寄せることが、なかなかできずにいました。いま考えると、それは私が日本の理系出身だからのような気がします。人間関係の機微に疎かった私がイエスに心を寄せることができなかったのは、自然なことだったのかもしれません。そして、その人間関係への疎さは文系と理系の断絶が深いという土壌によって育てられたもののように思います。この深い溝が埋まって文理融合が進むなら、日本でもキリスト教がもっと理解されるようになるのではないか、そんな風に思い始めています。

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「文系の信仰」と「理系の信仰」

2024-07-08 10:41:18 | 折々のつぶやき

 静岡のクラーク先生も札幌のクラーク先生も理系の人です。この理系の二人のキリスト教信仰は、どのようなものだったでしょうか?このことに思いを巡らしていて、「理系の信仰」と「文系の信仰」について考えることが、自分に与えられた役割のような気がしてきました。

 私が学んでいた高校では、高2から高3に進級する時に「文系クラス」と「理系クラス」に振り分けられました。いわゆる進学校では、どこも同じではなかったかと思います。最近の状況は分かりませんが、進学先の大学の学部の多くが依然として文系・理系で大きく区分できることから、大きな変化はないのかもしれません。この文系・理系の振り分けが信仰にも影響を及ぼしているように感じます。

 そして教会で語られる説教にも文系的な説教と理系的な説教とがあり、私の受けている印象では、文系的な説教が圧倒的に多いのだろうと思います。私自身は理系的な説教を語ることが多かったですが、それで良かった教会もあれば、悪かった教会もありました。その辺りのことを整理できて、信仰における文系と理系の溝が少しでも埋まるような提言ができれば、何らかの役に立てるかもしれないと思い始めています。

・隠岐さやか『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書 2018)
・三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』(講談社ブルーバックス 2018)
・渡辺正雄『科学者とキリスト教』(講談社ブルーバックス 1987)

などの本を参考にしつつ、考えて行こうかと思います。

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原子・分子を驚異的な速さで理解した静岡学問所の学生たち

2024-07-02 06:42:53 | 二人のクラーク先生

静岡のクラーク先生と札幌のクラーク先生(2)

~化学・物理と聖書を中心に~

静岡のクラーク先生の化学教育への熱い想い

 既述の通り、クラーク先生が教師を務めていた静岡学問所には立派な実験室がありました。写真を再掲します。

 ここに写っている試薬や器具類はクラーク先生がアメリカで購入して静岡に船便で送ったものと、静岡学問所が彼に買い与えたものの両方があると思われます。親友のW.E.グリフィスに宛てて書いた手紙にはクラーク先生自身がニューヨークで実験用の資材を購入して日本に送付する手続きをしたことが書かれています。また、クラーク先生の著書には静岡学問所について次のように書かれています。

 当局は頗る気持ちよく科学器具や物理機械を与えてくれたので、物理、化学の諸原理と問題を、学生の前で例証することができた。実験は少々危険なものがあったが、日本人は夢中になって喜び、最も危険な実験にも平気で立ち向った。[E.W.クラーク著『日本滞在記』(飯田宏訳、講談社)p.46]

 静岡学問所の学生たちは実験だけでなく理論の習得にも熱心に取り組み、クラーク先生を大いに喜ばせ喜ばせました。1872年6月27日付のNew-York Evangelist紙に掲載されたクラークの友人宛の手紙(4月12日、静岡)で彼は次のように書いています。

 君にはいつか火曜か木曜か金曜の午後、2時から4時までの間、私の教室に足を踏み入れてもらいたいものだ。そうして、何人かの私の生徒が、バーカーの『理論化学』[George F. Barker, A Text Book of Elementary Chemistry: Theoretical and Inorganic, 1870]の原理を明晰至極に、ただもう単刀直入に解説する、なんとも素晴らしい様子に耳を傾けて欲しい。この本を修得するのに私は懸命に勉強して何ヶ月もかかったのに、この日本人たちの何人かは驚異的な速さで把握してしまう。毎日私は、長くてしばしばとても難解な学課を黒板に(一枚か二枚の非常に大きなものがあるのだ)書き連ねて、その後で全部を2時間かけて説明する。そのすぐ次の授業で、多くの学生は全体をすらすらと復唱してみせるのだ。彼らは私の実験を全部絵にも描いて、素晴らしく理解している。私は力が漲(みなぎ)る思いで、一生懸命に働いている。ここにいられることの特権をありがたく思っていて、最善を尽くしたいという思いが強く湧く。今我が家に4人の学生を同居させているが、彼らは急速に進歩している。[今野喜和人訳(『翻訳の文化/文化の翻訳』第18号 静岡大学人文社会科学部翻訳文化研究会 2023年3月 p.71)]

 このバーカーの化学の教科書については、本ブログの2024年2月20日の記事でも取り上げて紹介しています。原子・分子について静岡学問所の一部の学生が「驚異的な速さで把握してしまう」とは、まさに驚異です。原子・分子については何も知らなかったであろう学生たちが、なぜそんなに速く理解できたのでしょうか?このことにも興味が尽きません。

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「予告」は、やめます

2024-07-02 05:37:06 | 折々のつぶやき

記事の最後に、「次回は○○について書きます」と予告することが本ブログは多いのですが、今後はやめることにします 😔

新しく記事を書く時に、その予告に縛られて自由に書けなくなり、筆が進まなくなるからです。昨日の休日、記事を書いてアップするつもりが、けっきょく何も書けずに一日が終わってしまいました😅

これからは、日々新しい気持ちで、前回の記事にあまり囚われないで自由に書きたく思います。今後とも、よろしくお願いいたします😊

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開成学校に感心した札幌のクラーク先生

2024-06-26 06:04:46 | 二人のクラーク先生

静岡のクラーク先生と札幌のクラーク先生

~化学・物理と聖書を中心に~

(お断り:最初にアップした記事を少し書き替えました)

はじめに

 これから時おり、静岡学問所のE.W.クラーク先生と札幌農学校のW.S.クラーク先生について考えることにします。二人のクラーク先生は互いに似ている面が多くあります。両先生について考えることで、片方の先生を見ていただけでは気付かなかったことが分かるようになることを期待しています。取り上げる内容は、化学と物理、そして聖書が中心になると思います。本ブログの記事が二人のクラーク先生への理解が深まることに少しでも役立てるとしたら、それは私の専門に近い分野ではないかと思うからです。

 札幌のクラーク先生は言うまでもなく全国的に知られた存在で、北大構内には目立つ所に胸像があるだけでなく「クラーク会館」もあります。北大生には短く「クラ館」と呼ばれて親しまれているこの会館の書店や食堂を、私も学生時代には良く利用していました。一方、静岡のクラーク先生はほとんど無名で顕彰もされていません。

 昨年の12月にクラーク著『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』(E・W・クラーク顕彰事業実行委員会 訳、静岡新聞社)が出版されたのを機会に、静岡のクラークも知られる存在になることを願っています。

1.開成学校に感心した札幌のクラーク先生

 静岡のクラーク先生も札幌のクラーク先生も共にアメリカ東部の出身です。来日時には先ずフィラデルフィア発・シカゴ乗り換えの大陸横断鉄道でサンフランシスコまで行き、そこから汽船のグレイト・リパブリック号に乗って横浜を目指しました。札幌のクラーク先生の伝記には次のように記されています。

 6月1日、彼らは汽船グレイト・リパブリック号に乗船、金門湾口を通って太平洋に出る。この船は途中横浜に寄港するだけの、サンフランシスコ・香港航路の木造外輪汽船で、長さ386フィート、積載量4,300トン、150人収容の特別二等室と1,200人分の普通船室とを備えていた。[ジョン・エム・マキ著『W・S・クラーク その栄光と挫折』(高久真一訳、北海道大学出版会)p.164]

 一方、静岡のクラーク先生は札幌のクラーク先生よりも4年半早い1871年9月30日にサンフランシスコを出港しました。静岡のクラーク先生もやはりグレイト・リパブリック号に乗船していたことに、不思議なつながりを感じます。両先生は互いに会ったことはありませんでしたが、大相撲の小錦と曙のような関係が次の記述から見えて来ます。横浜に着いた札幌のクラーク先生は北海道に行く前に東京にしばらく滞在したのですが、その折に開成学校(東京大学の前身)を訪ねています。かつてグリフィスと静岡のクラーク先生が化学の教師をしていた学校です(なお、引用文中の下線は本ブログの筆者が付したものです)。

 東京では見物と公式の会合で忙殺され、仕事が何一つできそうもないというクラークの心配をよそに、彼らは札幌への出発までに相当な量の仕事をこなしている。彼らは、今の青山に当たる所にあった開拓使直轄の広大な官園〔試験農場のこと〕を見学したり、開成学校という、1872年に開学し、東京大学の前身に当たる学校を訪ね、そこの自然科学関係の施設や図書館、植物園を見て回った。ここで彼らは学校付設の工場を見学し、道具や器具類の製造を初め、授業で使うための化学薬品などもそこで作っているのにすっかり感心した。

(中略)

 彼らの印象では、日本は近代化に必要な物や技術を導入する上で驚くべき長足の進歩を遂げていた。三人が実際にその目で確かめた一般的な西洋化の高い水準から判断して、札幌は東京とは違うにしても、札幌にいる役人も東京の役人同様、良いものをどんどん受け入れるだろうと思った。[前掲書p.173-174]

 開成学校で札幌のクラーク先生たちが感心した「驚くべき長足の進歩」に、静岡のクラーク先生も関与していたことは間違いないでしょう。なぜなら静岡のクラーク先生がいた静岡学問所には下の写真のような立派な実験室があったからです。クラーク先生は約2年間を静岡で過ごした後に、東京の開成学校に転任しました。

早稲田大学図書館所蔵『静岡風景写真』(クラーク撮影)より

 この写真を眺めて感じたことなども時おり書きたいと思います。

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ツバメの巣から「永遠」への旅立ち

2024-06-17 07:03:24 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

イエス・キリスト=聖書の神のことば(4)

~ツバメの巣から「永遠」への巣立ち~

ヨハネ12:28 「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

1.ツバメやハトの子たちの巣立ち

 今年も静岡市内の何箇所かでツバメの子育てを見ることができました。お椀ほどのサイズのツバメの巣は、生まれたばかりの小さなヒナたちにとっては十分な大きさですが、成長すると狭くなって入りきれなくなり、やがて巣立って行きます。お椀サイズの小さな空間から大空という無限の空間への巣立ちです。

 以前、川崎市の高津区に住んでいた頃のことですが、東急・高津駅の構内の巣から飛び立ったツバメの子が、私の肩に「降りた」ことがありました。巣立ったばかりで十分な飛翔力がなかったために私の肩に「落ちた」と言ったほうが良いかもしれません。巣立ったばかりの鳥はまだ十分に飛ぶことができません。でも、やがて大空を自由自在に飛ぶことができるようになります。

 前任の教会で子育てをしていたキジハトの子たちも同様でした。巣立ったばかりの時は、危なっかしい飛び方で、高く飛ぶことができませんでした。下に落ちたために私が拾いに行って巣に戻してあげたこともあります。巣の外にはカラスやネコなどもいて、様々な危険があります。でも、親は巣立ちを促します。そうしてツバメやハトの子たちは親の期待に応えて、勇気を振り絞って巣から飛び立って行きます。

2.「永遠」への巣立ちを促すヨハネ12:28

 鳥の巣立ちについて書いたのは、ヨハネの福音書の時空間がマタイ・マルコ・ルカのそれとは大きく異なるからです。マタイ・マルコ・ルカのイエスは30歳の頃にほぼ限定されています(幼少時も含まれますが大半は30歳頃です)。従って空間もガリラヤ地方とユダヤ地方に限られています。言わば、お椀サイズのツバメの巣のようなものです。一方、ヨハネの福音書は、

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

で始まり、イエス自身も

ヨハネ8:58 「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

と言っています。つまり、イエスは天地創造の前から天の父と共に「永遠」の時空の中にいます。

 ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の書として読んでも構わないでしょう。しかし、それはもしかしたら巣の中で成長中のツバメの子の読み方かもしれません。やがてツバメの子は親に促されて、小さな巣から大空に向かって飛び立ちます。ヨハネの福音書の読者も天の父が巣立ちを促していますから、小さな時空から「永遠」に向かって飛び立つべきではないかと思います

 ヨハネの福音書の記事の進行が旧約聖書の進行と時代順に重なっていること、またイエスの言動が旧約聖書の預言者たちの言動と重なっていることに私が最初に気付いたのは2011年の6月です。ヨハネ12:28がきっかけでした。

ヨハネ12:28 「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

 この、天の父の「わたしはすでに栄光を現した」とは、どの出来事を指すのか。以前の私はイエスの地上生涯の中の出来事と思っていました。しかし、もしかしたら旧約の時代の出来事、具体的には「出エジプトの出来事」ではないかと、ふと思いました。2011年の6月のことでした。そうして、ヨハネの福音書の進行が旧約聖書の進行と重なっているのではないかと思い、直ちに検証を始めました。

3.基準点のヨハネ3:14(モーセ)、準基準点の4:7(エリヤ)と6:9(エリシャ)

 検証の【基準点】にしたのがヨハネ3:14です。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

 これが民数記21:9と重なっていることは誰の目にも明らかで、疑いようがありません。

民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 預言者モーセは聖霊を受けていました。つまり、モーセの内にはイエスがいました。ヨハネの福音書と旧約聖書との重なりの検証は、この疑いようのないヨハネ3:14が【基準点】になります。

 次いで、【準基準点】になるのがヨハネ4:7とヨハネ6:9です。ヨハネ4章でイエスはサマリアの女に、

ヨハネ4:7「わたしに水を飲ませてください。」

と言いました。これは、北王国の預言者エリヤからツァレファテの女へのことば、

Ⅰ列王記17:10「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

と重なっています。つまり、預言者エリヤの内にはイエスがいました。そして、もう一つの【準基準点】はヨハネ6:9です。ヨハネ6章でイエスが五千人を満腹にした記事は、列王記第二4章で北王国の預言者エリシャが百人を満腹にした記事と重なることが、「大麦のパン」(ヨハネ6:9とⅡ列王記4:42)から分かります。つまり、預言者エリシャの内にはイエスがいました。

 これらヨハネ3章の【基準点】とヨハネ4章と6章の【準基準点】から、ヨハネ1~2章とヨハネ7~11章が旧約聖書の記事とどこで重なっているかもまた、ジグソーパズルのピースが嵌まるように定まって行きます。【基準点】と【準基準点】から分かるように、ヨハネの福音書は旧約聖書が時代順に重なっているからです。たとえばヨハネ1章のイエスがナタナエルを見て、

ヨハネ1:47 「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

と言ったのは創世記32章の神の人とヤコブとの会話、

創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

と重なっていることが分かります。また、

ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

は滅亡寸前の南王国での預言者エレミヤの叫びであること、そして

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

のイエスはバビロンへ捕囚として引かれて行った預言者エゼキエルであることが分かります。聖霊を受けた預言者のエレミヤとエゼキエルの内にも、やはりイエスがいました。

 これらの重なりの全体像が見えるようになった最初のきっかけはヨハネ12:28でした。ツバメの親が子どもたちに巣立ちを促すのと同じ様に、ヨハネ12:28は天の父からの読者への「永遠」への巣立ちの促しであると思います。

 重なりの全体像は、拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書 2017)を参照していただけたらと思います。(つづく)

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ことばにできないほどの憤りと涙

2024-06-10 10:17:45 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

イエス・キリスト=聖書の神のことば(3)

~ことばにできないほどの憤りと涙~

1.憤り、動揺し、涙を流したイエス

ヨハネ11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

35 イエスは涙を流された。(新改訳第3版)

 上記の聖句は新改訳第3版から引用しました。ヨハネの福音書を読み込んだのは新改訳第3版の時だったからです。

 ヨハネの福音書をまだ良く理解できていなかった頃、私にとって上記の11章33~35節はモヤモヤ度が極めて高い箇所でした。他にもモヤモヤする節はもちろんありましたが、この箇所には特にモヤモヤ・ザワザワを強く感じて、気になって仕方がありませんでした。

 この箇所が何故そんなにモヤモヤするのか?まずは33節の「イエスは…心の動揺を感じて」がモヤモヤします。イエスは沈みそうになった舟の中で弟子たちが悲鳴を上げていた時にも平然と眠っていました。マタイから引用します。

マタイ8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。

24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。

25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。

26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

 このように、イエスはいつも落ち着いている印象があります。そんなイエスが「心の動揺を感じて」とは、どういうことでしょうか?その手前の「霊の憤りを覚え」(33節)もザワザワします。なぜ単に「憤りを覚え」ではなくて、「霊の憤りを覚え」なのでしょうか?「霊の憤り」とは何でしょうか?そして極めつけは35節の「イエスは涙を流された」です。イエスが死人をよみがえらせた場面はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書には複数ありますが、イエスはいつも落ち着いていました。それなのにヨハネ11章のラザロの死に限って、なぜイエスは動揺したのでしょうか?

 霊の憤りを覚え、動揺し、涙を流したイエス。この箇所からは「ラザロの死」だけでは説明し切れない何かがあり、尋常ではない何かが湧き立っていることを感じます。このモヤモヤ感、ザワザワ感の正体はいったい何なのでしょうか?

2.滅びへ向かう南王国

 このモヤモヤとザワザワの濃い霧は、ヨハネの福音書の構造が分かったことで晴れ上がって視界が開けました。前回の記事に書いたように、ヨハネの福音書のイエスの旅路は旧約聖書の舞台移動と同期しています。

 以下、前回よりも少し詳しく書きます。ヨハネの福音書1~11章と旧約聖書の各書との関係は次の通りです。

  ヨハネ1章  創世記(アブラハム・ヤコブ等)

  ヨハネ2章  出エジプト記(預言者はモーセ)

  ヨハネ3章  出エジプト記・レビ記・民数記・申命記(律法の授与と荒野放浪)、ヨシュア記・サムエル記

  ヨハネ4章  列王記の北王国のヤロブアム王~アハブ王(預言者はエリヤ)

  ヨハネ5章  列王記の南王国

  ヨハネ6章  滅びへ向かう列王記の北王国(預言者はエリシャ・ホセア等)

  ヨハネ7章  列王記の南王国のヒゼキヤ王の宗教改革(預言者はイザヤ)

  ヨハネ8章  列王記の南王国のマナセ王・アモン王の悪魔の時代(預言者は不在)

  ヨハネ9章  列王記の南王国のヨシヤ王の宗教改革(預言者はエレミヤ)

  ヨハネ10章 滅びへ向かう列王記の南王国(預言者はエレミヤ・エゼキエル等)

  ヨハネ11章 エズラ記・ネヘミヤ記のエルサレム再建(預言者はゼカリヤ・ハガイ等)

 1~11章を全て説明すると長くなるので、8章から簡単に説明します。

ヨハネ8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

 ヨハネ8章のイエスは「献金箱の近く」(20節)で「わたしは去って行きます」(21節)と言いました。これは南王国のマナセ王・アモン王の時代に【律法の書】が行方不明になっていたことに対応します。<イエス・キリスト=聖書の神のことば>ですから、神のことばが記された【律法の書】はイエス自身でした。この時代がマナセ王・アモン王の「悪魔の時代」であることは次のイエスのことばから分かります。

ヨハネ8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 この悪魔の時代に預言者たちは不在でした。マナセ王によって殺されたからです。そして、マナセの孫のヨシヤ王の時代に宮を修理している時、献金箱から律法の書が発見されました。この出来事をヨハネ9章は次のように表現しています。

ヨハネ9:5 「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、

7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

 【律法の書】に書かれた神のことばによってヨシヤ王の目は開かれ、宗教改革が進められました。しかし、ヨシヤ王以降の南王国は、再び不信仰の道を歩みます。それゆえ、神は南王国を滅ぼすことにして外国人の略奪隊をエルサレムに送ります。列王記第二24章です。

Ⅱ列王記24:1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。

2 そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

 外国人の略奪隊が城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して南王国を滅ぼすことはエレミヤが預言していたことでした。このことをヨハネ10章は次のイエスのことばで表しています。

ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 こうしてエルサレムの人々は捕囚としてバビロンへ引かれて行きました。バビロンはエルサレムから見ると「ヨルダンの川向こう」にありますから、このバビロン捕囚の出来事をヨハネ10章は次のように表しています。

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

3.戦災の廃墟の前で涙を流すイエス

 以上のヨハネ8~10章の流れを踏まえるなら、ヨハネ11章の「ラザロの復活」が捕囚後の「エルサレムの再建」を表すことは明らかです。それゆえ、

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

の「イエスの涙」が、戦災で廃墟になったエルサレムを見ての涙であることもまた明らかです。その当時、イエスは父と共に天にいて預言者エレミヤを通して再三にわたって不信仰を改めるように警告していました。しかしエルサレムの人々の不信仰が改まらなかったために、やむをえず外国人の略奪隊を遣わして南王国を滅ぼしたのでした。このことはイエスにとって、本当に悲しいことでした。イエスの霊の憤りと動揺と涙は「ラザロの死」ではなく、エルサレムが滅亡して廃墟になってしまったことによるのです。尋常ではないイエスの動揺ぶりは、このことで説明が付きます。

 21世紀の現代でもロシア軍がウクライナに侵攻して、多くの街が廃墟になりました。この悲劇が始まって2年以上が経ちましたが、いつになったら終わるのか見通しは立っていません。イスラエル軍によるガザ地区への攻撃も終わりが見えない状況にあります。イエスはこれらの戦災の廃墟の前でも涙を流しています。

 イエスは最後の晩餐でへりくだって弟子たちの足を洗い、

ヨハネ13:34 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

と言いました。そうしてイエスはすべてを手放して十字架に付き、死にました。この「十字架の死」についてパウロは次のように記しています。

ピリピ2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 へりくだったイエスの「十字架の死」から間もなく二千年になろうとしているのに、私たちは互いに愛し合うことができずにいて、争いが絶えません。人を自分より低い者と見て攻撃し、降参することを迫って少しでも自分が優位に立とうとします。これでは、いつまで経っても平和は訪れません。

4.平和への道は「永遠への覚醒」から

 世界にはイエス・キリストを信じるクリスチャンが大勢います。それなのに、どうして互いに愛し合うことができずにいて、争いが絶えないのでしょうか?

 争い事が絶えないのは、「イエスの涙」が二千年前の出来事にしか見えていないからではないでしょうか?私が調べたヨハネの福音書の注解書の数はせいぜい百冊程度で、すべてを調べたわけではもちろんありません。しかし、調べたすべての注解書が「イエスの涙」をイエスの地上生涯の時代に限定して考察しています。本ブログのように旧約の時代の南王国の滅亡と絡めた考察を私は見たことがありません。しかし、上記で明らかにしたように「イエスの涙」が旧約の時代のエルサレムの滅亡に絡んでいることは明白です。ヨハネの福音書のイエスは時空を超えた「永遠」の中にいるからです。

 拙著の『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書)では、イエスが「永遠」の中にいることを説明し、帯には「戦災の廃墟の前で涙を流すイエス」と入れてもらいました。私たちは時空を超えた「イエスの涙」をもっと身近に感じる必要があるのではないでしょうか?上述したようにイエスは21世紀の現代のウクライナやガザ地区でも涙を流しています。もちろん原爆が投下された広島・長崎でも涙を流し、あらゆる戦災の廃墟の前でイエスは涙を流しています。私たちが「永遠」に覚醒して時空を超えた「イエスの涙」に共感するなら、私たちは互いに愛し合うことの必要を今以上に痛感する筈です。そうして世界は平和に向かいます。

5.ことばにできないほどの憤りと涙

 きょうの記事のタイトルは「ことばにできないほどの憤りと涙」にしました。「聖書の神のことば」であるイエス・キリストはことばを尽くして人々に神の愛を伝えました。しかし、ヨハネ11章のラザロの墓の前のイエスはことばにできないほどの霊の憤りを覚え、動揺し、涙を流しました。私たちは「永遠」に覚醒して、ことばにできないほどのイエスの憤りと涙に共感し、平和への道の第一歩を踏み出したいと思います。(つづく)

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聖書の舞台移動と同期するイエスの旅路

2024-06-03 12:55:30 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

イエス・キリスト=聖書の神のことば(2)

~聖書の舞台移動と同期するイエスの旅路~

1.<わたし>と<聖書の神のことば>を置き換える

 昨日の記事で示したように、ヨハネの福音書には「わたしは(が)~です」(ギリシャ語でエゴー・エイミ)というイエスのことばが多く現れます。

ヨハネ6:48 「わたしはいのちのパンです。」

ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。」

ヨハネ10:9 「わたしは門です。」

ヨハネ10:14 「わたしは良い牧者です。」

ヨハネ11:25 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」

 この「わたしは~です」の<わたし>を<聖書の神のことば>に置き換えると、とても分かりやすくなります。

ヨハネ6:48改 「聖書の神のことばはいのちのパンです。」

ヨハネ8:12 「聖書の神のことばは世の光です。」

ヨハネ10:9 「聖書の神のことばは門です。」

ヨハネ10:14 「聖書の神のことばは良い牧者です。」

ヨハネ11:25 「聖書の神のことばはよみがえりです。いのちです。聖書の神のことばを信じる者は死んでも生きるのです。」

ヨハネ14:6 「聖書の神のことばが道であり、真理であり、いのちなのです。聖書の神のことばを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネ15:5 「聖書の神のことばはぶどうの木、あなたがたは枝です。人が聖書の神のことばにとどまり、聖書の神のことばもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」

 このこともまた、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>であることを裏付けていると言えそうです。

2.検証2:構造が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

 これまでに本ブログでは「ヨハネの福音書のイエスの旅路は旧約聖書の舞台移動と同期している」ことを繰り返し説明して来ました。本シリーズの<イエス・キリスト=聖書の神のことば>は、この【イエスの旅路と聖書の舞台移動の同期】のことも上手く説明できそうです。下図はもう何度も本ブログに掲載した図ですが、改めて簡単に説明します。

 上図で特に注目していただきたいのが、次の二点です。

A.ヨハネ4章~7章のイエスの「北→南→北→南」の移動

B.ヨハネ7章~11章のイエスの「南→東→西」の移動

 のイエスの「北→南→北→南」の動きは旧約聖書の列王記が北王国と南王国について交互に記述していることに対応しています。例えばヨハネ4章のイエスがサマリアの女に言ったことば、

ヨハネ4:7 「わたしに水を飲ませてください。」

は北王国の預言者エリヤがツァレファテのやもめに言った次のことば、

列王記第一17:10「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

に対応しています。

 そしてヨハネ6章のイエスが「大麦のパン5つと魚2匹」で5千人を満腹にした記事は北王国の預言者エリシャが「大麦のパン20個と新穀1袋」で100人を満腹にした記事(列王記第二4章42~44節)に対応しています。

 その後、ヨハネ7章~10章のイエスは南北間の移動が無く、ずっと南に留まっています。それは北王国が滅亡して人々が捕囚としてアッシリアに引かれて行ったからです。北王国が滅びたのは人々が神のことばに耳を傾けなかったためであり、このことをヨハネの福音書は6章の終盤で次のように記しています。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 滅亡後の北王国について聖書は何も記述しておらず、神のことばも記されていませんから、聖書の神のことばであるイエスも北にはいません。

 次にのイエスの「南→東→西」の動きは「南王国の滅亡→バビロン捕囚→エルサレムへの帰還」に対応しています。ヨハネ10章のイエスはエルサレムの人々に言いました。

ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 これは南王国の末期にバビロン軍などの外国人の略奪隊が城壁を乗り越えてエルサレムに侵入したことに対応しています。そうしてエルサレムの人々はバビロンに捕囚として引かれて行きました。このことをヨハネ10章はイエスの「ヨルダンの川向こう」への移動、つまり東への移動で描写しています。

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

 人々がバビロンに引かれて行った後で南王国は滅亡し、数十年後に人々はエルサレムへの帰還がペルシアのキュロス王によって許されます(エズラ記1章)。この東から西への移行のことをヨハネは11章で次のように描写しています。

ヨハネ11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

 以上のように、ヨハネの福音書のイエスの旅路は旧約聖書の舞台移動に同期しています。詳しくは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書)を参照願います。このイエスの旅路と旧約聖書の舞台の同期も、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>で説明できるでしょう。(つづく)

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イエス・キリスト=聖書の神のことば(1)

2024-06-02 15:03:29 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

1.はじめに

 三浦しをん『舟を編む』の「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」(文庫本p.34)という言葉に出会って<辞書と聖書の類似性>に思いを巡らしたことで、ヨハネの福音書について再び書くようにと神様から背中を押されていることを感じます。

 よく知られているように、ヨハネの福音書は

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

で始まります。

 そしてレオン・モリスはヨハネの福音書1章1~18節のプロローグについて、注解書(The New International Commentary on the New Testament)で次のように書いています。

「この書の最初の18節は、福音書全体へのプロローグとなっている。(The first eighteen verses of this Gospel form a Prologue to the whole.)」

 まさに、その通りでしょう。それゆえ、この最初の18節のプロローグを深く理解するためにはヨハネの福音書の全体を知る必要があります。このプロローグを案内役として全体を読み進め、全体を読んだらまたプロローグに立ち返ることでプロローグへの理解がさらに深まり、深まったプロローグへの理解を基にすることで全体への理解もさらに深まるという好循環の「ループ構造」になっていると言っても良いでしょう。

 そのため、プロローグの1節および14節の【ことば】、すなわち、

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

の【ことば】への理解もまたヨハネの福音書全体の理解を深めることによって、より深まります。ここで【ことば】とはイエス・キリストのことです。従って、<イエス・キリスト=ことば>という観点で福音書全体を読めば、理解は格段に深まります。しかし、従来の読み方では「イエス・キリスト=ことば」がプロローグだけは意識されるものの、それ以降はほとんど意識されていないようです。

 そこで本稿では、ヨハネの福音書全体を<イエス・キリスト=ことば>を意識しながら読むことで新しい気付きが与えられることを説明します。

2.イエス・キリスト=聖書の神のことば

 では、<イエス・キリスト=ことば>とは、どういうことでしょうか?本稿のタイトルで示したように、

<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

ということではないでしょうか。本シリーズでは、このことを検証して行きます。いま考えている検証項目としては、

検証1:聖句が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証2:構造が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証3:身を隠したイエスが示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証4:執筆年代の状況が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証5:プロローグとエピローグが示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

を予定していますが、途中で変わるかもしれません。気合いを入れて始めたシリーズが途中で息切れして中断することが本ブログではよくあるのですが、何とか完走できたらと思います。

3.検証1:聖句が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

 ヨハネの福音書には、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>を示す聖句がたくさんあります。たとえば、次のようなイエスのことばには、それを見ることができます。

ヨハネ8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

ヨハネ12:50 「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

 イエスによる上記のことばからは、イエスが天の父と一つの存在であり、天の父が話したことばはすべて御子イエスのことばであることを暗に示しています。御子イエスはヨセフとマリアの子として地上に生まれる前は天の父と共に天上にいました。ヨハネ12:50の「わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」は、旧約聖書に記されている天の父のことばがすべて御子イエスによって話されたことばであることを示しています。なぜならヨハネ8:28にあるように御子イエスは「わたしはある」であり、「父と一つ」(ヨハネ10:30)の存在だからです。

 それゆえ、創世記1章の天地創造の時の神のことばの

創世記1:3 「光、あれ。」

6 「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」

9 「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」

などは、すべて御子イエスのことばであったことになります。そしてヨハネの福音書1章の

ヨハネ1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

も、天地創造時のことばが天の父と共にいた御子イエスから発せられたことばであることを裏付けています。

 それはすなわち、旧約聖書に記されている「神」とは、天の父と一つの存在である「御子イエス」のことでもあることを示しています。すると、ヨハネの福音書のイエスの下記のことばにも納得できます。

ヨハネ 5:39 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」

 「最後の晩餐」での下記のイエスの有名なことばも、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>を意識するなら理解がさらに深まります。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 さらに言えば、「最後の晩餐」以前のイエスの「わたしは~です」のことば、

ヨハネ6:48 「わたしはいのちのパンです。」

ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。」

ヨハネ10:9 「わたしは門です。」

ヨハネ10:14 「わたしは良い牧者です。」

ヨハネ11:25 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

 これらのことばへの理解もまた、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>を意識するなら理解が深まるでしょう。(つづく)

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言葉の海を渡る舟

2024-05-27 06:02:37 | 折々のつぶやき
2024年5月24日静岡朝祷会・奨励

言葉の海を渡る舟

ヨハネ3:8「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 先月に続いて、また奨励の機会をいただき、感謝致します。きょうは先ず、テレビ番組の話をします。

 2012年に本屋大賞を受賞してベストセラーになった三浦しをんの小説『舟を編む』がテレビドラマになり、今年の2月18日(日)~4月21日(日)にNHK BSで『舟を編む ~私、辞書つくります~』というタイトルで放送されました(1話49分、全10話)。このドラマが私はとても気に入ったので4月に放送が終わった後も録画した1~10話を全話もう一度観て、今は三度目を視聴中です (^^;;。さらに原作の文庫本も購入して読了し、2013年公開の映画『舟を編む』もネット配信で観ました。

 なぜ『舟を編む』に、こんなにもハマったのか?いろいろありますが、理由の一つに、このドラマの中で繰り返し熱く語られる「辞書は言葉の海を渡る舟だ」というセリフへの共感があると思います。このドラマは、玄武書房という架空の大手出版社の辞書編集部が舞台です。ここでは十年以上の歳月を掛けて『大渡海(だいとかい)』という辞書を編さん中です。この『大渡海』には「大きな海を渡る」という意味が込められています。なぜ辞書の名前を『大渡海』にしたのか、この辞書の監修者である国語学者が熱く語る場面があります。

「辞書は言葉の海を渡る舟だと私は思うんです。多くの人が長く安心して乗れるような舟を、寂しさに打ちひしがれるような旅の日々にも、心強い相棒になれるような舟を作りたい。」

 また、原作には監修者と編集者による次のような会話があります。

「辞書は、言葉の海を渡る舟だ。」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう。」
「海を渡るにふさわしい舟を編む。」(文庫本p.34-35)

 『舟を編む』は、辞書編集部のスタッフたちが奮闘努力して『大渡海』を刊行する物語です。私自身のこれまでの人生を振り返っても、辞書があったから広くて深い言葉の海を渡って来られたのだと思います。若い頃は新しい言葉に出会うと紙の辞書を引きました。今はデジタルの辞書ですが、辞書は今でも身近な存在です。

 そして思うことは、【聖書】もまた「言葉の海を渡る舟」だということです。聖書が渡る海は「神の言葉」をも含む海ですから、辞書が渡る海よりもさらに広くて深い海です。辞書が渡る海を太平洋だとすれば、聖書が渡る海は太平洋だけでなく大西洋やインド洋、北極海や南氷洋をも含みます。しかも神の言葉は時空を超えた「永遠」の中にありますから、「永遠の言葉の海を渡る舟」、それが【聖書】だと言えるでしょう。

 先月の4月28日、詩画作家の星野富弘さんが亡くなられて天に帰りました。口にくわえた筆でかかれた星野さんの詩と絵は、これからもずっと、人々に愛され続けることでしょう。星野さんは膨大な詩を遺して、これからも読み継がれて行きますから、星野さんの詩の世界もまた「永遠の言葉の海」です。星野さんの詩はどれも簡単な言葉で綴られています。ですから、辞書の舟は要りません。でも、聖書の舟はあると良いでしょう。聖書があれば星野さんの詩の海へ漕ぎ出して行けます。星野さんの詩の根底には聖書の言葉があるからです。

 私はこれまでに2回、星野さんの詩画展を観に行ったことがあります。1度目は聖書にまだあまり親しんでいなかった頃、2度目は聖書に親しむようになってからです。2度目は聖書の舟に乗ることで、星野さんの詩の海を1度目よりも深く味わえるようになっていました。きょうは星野さんの詩を二つだけ紹介します。一つめは、「へくそかずら」という花の絵に添えられた詩です。

【へくそかずら】
  町も人も 美しい名前が 多くなりました
  でも 何だか 疲れます

  ここに 小さな 花が あります
  「へくそかずら」といいます

  「へくそかずら」
  呼べば 心が和みます

  「へくそかずら へくそかずら」
  「へくそかずら へくそかずら」

  つぶやきながら 夕べは ぐっすり眠りました

 この詩を読んで私はふとクリスマスの光景を思い浮かべました。クリスマスの日、イエス・キリストは家畜小屋で生まれました。家畜小屋ですから、動物の糞の匂いも漂っていたことでしょう。そのような中でイエス・キリストは赤ちゃんとして生まれました。赤ちゃんは自分では何もできません。星野富弘さんも事故で手足を動かせなくなりましたから、食事も下の世話もすべて人にやってもらっていました。クリスマスになると、街はきれいなイルミネーションで彩られます。もしかしたら星野さんにとっては、クリスマスの光景さえも、もしそれが家畜小屋からあまりに掛け離れた派手な装飾であれば、疲れを感じていたかもしれません。星野さんの心の内の本当の所は分かりませんが、聖書の舟に乗るなら、星野さんの心情に少し近づけるかもしれません。

 もう一つ、「たんぽぽ」の綿毛の絵に添えられた詩を読みます。

【たんぽぽ】
  いつだったか きみたちが 空をとんでゆくのを見たよ
  風に吹かれて ただひとつのものを持って
  旅する姿がうれしくてならなかったよ
  人間だってどうしても必要なものはただひとつ
  私も余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ

 星野さんは中学の体育教師になったばかりの24歳の時に、事故で首から下を動かすことができなくなりました。前途洋々だった星野さんは一瞬の事故で希望に満ちた人生のほとんどを失いました。星野さんほど多くのものを手放した人はいないでしょう(いたとしても、ごくわずかでしょう)。そんな星野さんでも「たんぽぽ」の綿毛が飛ぶのを見て「私も余分なものを捨てれば、空がとべるような気がしたよ」と綴っています。まして私たちは、どれだけ多くの余分なものを抱えていることでしょうか?

 では、星野さんが「どうしても必要なものはただひとつ」と綴った「ただひとつ」とは何なのでしょうか?それもまた、聖書という舟に乗ることで見えて来るのではないでしょうか。星野さんほどハッキリとは見えなくても、少しでも見えるようになれたらと思います。ヒントになりそうな聖句はいろいろあります。きょうの聖句のヨハネの福音書の3章8節もまたヒントの一つになりそうです。

ヨハネ3:8「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 聖書という永遠の言葉の海を渡る舟に乗ることで、星野さんが綴った「どうしても必要なものはただひとつ」を、私たちもまた知ることができたらと思います。
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