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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

法を守ることで守られる信仰生活(2018.11.21 祈り会

2018-11-22 07:06:22 | 祈り会メッセージ
2018年11月21日祈り会資料
『法を守ることで守られる信仰生活』
【ルツ1:15~17、2:1~4、4:1~12、18~22】

 私たちは宗教法人法に沿って教会活動を行なっている。宗教法人法は素人的な目で見ると、煩雑で面倒なことが書いてある法律のようにも見えるが、実は私たちの信仰生活を守ってくれている。このことを、ルツ記を共に読むことで分かち合いたい。なぜならルツたちの信仰生活は律法によって守られていたからである。
 聖書通読の初心者時代には、多くの者が出エジプト記の後半から申命記に至る律法の記述の「~しなければならない」の連続に困惑し、読み通すことに困難を覚えたであろう。しかし、これらの律法はイスラエルの民の信仰生活を守ってくれるものであった。

☆交読 ルツ2:1~4
1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。

 4節からはボアズが信心深い人物で彼らが模範的な信仰生活を送っていたことが伺える。またルツ1:15~17からは、ルツも信心深い女性であったことが伺える。

☆交読 ルツ1:15~17
15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」
16 ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

 2章の2~3節でルツは落ち穂拾いに出ることをナオミに申し出て出掛けて行った。この落ち穂拾いに関する規定が律法にはある。

☆レビ23:22 「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、刈るときに畑の隅まで刈り尽くしてはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい人と寄留者(在留異国人)のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

 ルツとナオミは律法に守られてベツレヘムでの生活を始めた。そして、ボアズはナオミの夫エリメレクの畑を買い戻し、ルツを妻に迎えた。これも律法に則って行なわれた。

☆レビ25:25 もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。

☆交読 ルツ4:1~12
1 一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこに座った。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類が通りかかった。ボアズは彼に言った。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」彼はそこに来て座った。
2 ボアズは町の長老十人を招いて、「ここにお座りください」と言ったので、彼らも座った。
3 ボアズは、その買い戻しの権利のある親類に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。
4 私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もし、それを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」彼は言った。「私が買い戻しましょう。」
5 ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」
6 するとその買い戻しの権利のある親類は言った。「私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。私は買い戻すことができません。」
7 昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。
8 それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。
9 ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。
10 また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」
11 門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、【主】が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。
12 どうか、【主】がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」
 2節のボアズが町の長老を招いたことや、7節の取引きを有効にするために自分の履き物を脱いだことなども律法に沿って行なわれたことである(脚注の引照)。こうして律法に守られてナオミとルツは困窮から救い出されて信仰生活を続けることができた。そして、ボアズの血筋からダビデが生まれてイスラエルの王となり、イエス・キリストへとつながって行った。ヨセフとマリアが住民登録でベツレヘムへ上って行き、そこでイエスが誕生したことも、この血筋による。さらに遡るとボアズはユダの息子ペレツの家系である。

☆交読 ルツ4:18~22
18 これはペレツの系図である。ペレツはヘツロンを生み、
19 ヘツロンはラムを生み、ラムはアミナダブを生み、
20 アミナダブはナフションを生み、ナフションはサルマを生み、
21 サルマはボアズを生み、ボアズはオベデを生み、
22 オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生んだ。

(以上)
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走るべき道のりを走り終える(2018.11.11 礼拝)

2018-11-12 11:58:55 | 礼拝メッセージ
2018年11月11日召天者記念礼拝メッセージ
『走るべき道のりを走り終える』
【Ⅱテモテ4:6~8】

4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

はじめに
 先ほど報告した通り、他教会との合併に向けて歩みを進めています。きょうはご遺族の方々が多数いらして下さっていますから、初めに、このことに至った経緯を少しお話ししておくことにします。

(中略)

注ぎの捧げ物
 さて、きょうの聖書箇所はテモテへの手紙第二の4章です。この手紙はパウロがテモテに宛てた手紙です。当時、パウロはローマの獄中で捕らわれの身になっていました。一方、テモテはエペソの教会を牧会していました。テモテはかつてパウロがアジアとヨーロッパ各地で伝道旅行をしていた時に一緒に連れて行った若者で、パウロにとっては弟子のような存在です。パウロと行動を共にすることでテモテは様々なことを学ぶことができました。
 この手紙をテモテに宛てて書いた時、パウロはそう遠くない時期に自分はローマ皇帝の迫害によって死ぬであろうことを覚悟していました。そのことが、4章6節からも伺えます。

4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。

 「私が世を去る時が来ました」は分かりやすいですから、パウロが自分の死を覚悟していることが分かると思います。では、その前の「私はすでに注ぎのささげ物となっています」とは、どういうことでしょうか。ここでパウロは、神殿で捧げられていた、いけにえの動物に自分を例えています。神殿では牛や山羊(やぎ)や羊などが犠牲のいけにえとしてささげられ、ほふられて、その血が祭壇や神の箱に注がれました。この動物の血を用いた儀式によって人間の罪が贖われました。これらの儀式については旧約聖書の『レビ記』に詳しく書かれていますから、機会があったら是非読んでみて下さい。なぜなら、この旧約の儀式は新約のイエス・キリストの十字架と密接に関係しているからです。イエス・キリストは十字架で血を流し、この十字架の犠牲によって私たちの罪が赦されるようにして下さいました。それゆえ、イエス・キリストが十字架で流した血は、しばしば旧約の儀式の動物の血に例えられます。そして、パウロもまた迫害の犠牲になって血を流して死ぬことを予感していましたから、この4章6節で、「私はすでに注ぎのささげ物となっています」と書きました。

走るべき道のりを走り終えたパウロ
 続いて7節、

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 パウロがどのような生涯を過ごしたのか、その概要は新約聖書の『使徒の働き』を読むと分かります。パウロはかつては、自身がキリスト教徒を暴力によって迫害する者でした。そんなパウロの前に、ある時、復活したイエス・キリストが現れて、彼に「なぜわたしを迫害するのか」と語り掛けました。この復活したイエスとの出会いによってパウロはそれからの人生が180度変わって、それ以降はキリスト教を伝道するようになりました。パウロは特にユダヤ人ではない異邦人への伝道に用いられて、アジアとヨーロッパで多くの教会を開拓しました。そんなパウロは、7節で、

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

と書きました。
 週報の3ページ目に記した、先に天に召された私たちの教会の先輩方も、勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。私たちもまた、信仰の先輩方に習いたいと思います。そうして先輩方は、「義の栄冠」を得ました。この「義の栄冠」について、パウロは次のように書いています。8節、

4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

 この「義の栄冠」には、キリスト教の教えが凝縮されているように感じますから、少し丁寧に説明してみたいと思います。

義の栄冠
 「義の栄冠」の「義」には「正しい」という意味があります。ですから、「義の栄冠」は正しい人に与えられます。「義の栄冠」が与えられた正しい人、すなわち神の御心にかなう人は天国に入り、「義の栄冠」が与えられなかった、神の御心にかなわなかった人は神から永遠に見離されます。では、神様はどういう基準で、その人を正しいか正しくないかを評価するのか、それは神様にしか分からないことですが、その基準が相当に厳しいことだけは確かです。
 例えばノアの箱舟の時代には、神様はノアとノアの家族以外の人間は、洪水によって滅ぼしてしまいました。そのことは旧約聖書の『創世記』に書いてありますから、是非読んでみて下さい。また、アブラハムの時代に神様はソドムとゴモラの町を滅ぼしました。このソドムとゴモラがどのくらいの人口の町だったのかは分かりませんが、大きな町であったことは確かです。その中に10人正しい人がいれば神様は滅ぼすことはしないとアブラハムに約束しましたが、結局ソドムとゴモラは滅ぼされましたから、正しい人は10人もいなかったことになります。このことも旧約聖書の『創世記』に書かれています。
 いずれにしても、どういう人が正しいのか、或いは正しくないのかは、非常に分かりづらいものでした。それで、神様は先ずイスラエルの民族にモーセを通して律法を与えることにしました。そして、律法を守る者が正しい者であるという基準を示しました。律法の代表は、モーセの十戒です。十戒とは十の戒めのことで、「わたしのほかに神々があってはならない」、「偶像を造ってはならない」、「主の御名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、聖なる日とせよ」、「あなたの父と母を敬え」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽りの証言をしてはならない」、「隣人の家を欲しがってはならない」というのがモーセの十戒です。このモーセの十戒は旧約聖書の『出エジプト記』に記されています。しかし旧約聖書の『列王記』によれば、結局、イスラエルの人々はこの律法を守らなかったので、イスラエルの王国とユダの王国は神様によって滅ぼされてしまいました。そうして、これに懲りた人々は律法を守るようになりましたが、形式的に守るだけで、大切なことが守られていませんでした。その大切なこととは、「神を愛すること」と、「隣人を愛すること」です。
 そこで神様は方針を大転換しました。神様は独り子のイエスを地上に送って、「イエスは神の子であり、救い主である」ということを信じる者が正しい者である、ということにしました。どんなに悪い者であったとしても、「イエスは神の子であり、救い主である」と信じる者は、正しい者であるということにしました。例えば、新約聖書の『ルカの福音書』の十字架の場面では、イエスさまの隣の十字架に付けられた罪人がイエスさまに、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」これはつまり、この罪人は「イエスは神の子であり、救い主である」と信じたということです。すると、イエスは彼に言いました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」つまり、彼は正しい人だと認められたということです。この十字架の罪人のように、それまでの基準では、とうてい正しい人だとは認められない者であっても、「イエスは神の子であり、救い主である」と信じるなら、神様は正しいと判定して下さるようになりました。

ワンセットの「命の創造」と「イエスの復活」
 さてしかし、こういう話は聖書が浸透していない日本では、なかなか分かっていただくことが難しいのが現状です。まず、どうして神が正しいか正しくないかを判定するのか、なぜそんな権威を持っているのか、ということが理解されません。それに対する答えは、神が人の命を造ったからです。しかし、日本では「生命は偶然によって誕生した」と学校で教えますから、「神が人の命を造った」と言ってもすぐには信じてもらえません。私自身もキリスト教の信仰を持ったのは41歳の時でしたから、当初は神様が人の命を造ったということを、どうしたら確信できるかということが、私の中で問題になりました。それに対する私の私自身への答えは、「命の創造」と「イエスの復活」はワンセットになっているというものでした。「イエスの復活」を信じるなら、「神が命を創造したこと」も信じられると思いました。十字架で死んだイエスを生き返らせることができる全能の神なら、命を創造できる筈です。ですから「イエスの復活」を信じた私は「神が命を創造した」ことも確信できるようになりました。
 では、私が何によって「イエスの復活」を信じたかというと、それはパウロの人生が180度変わったことによります。それまでキリスト教徒を迫害していたパウロが逆にキリスト教を伝道するようになりました。それは、よほどのことがあったということです。よほどのことが無ければ人の人生が180度変わることなど有り得ません。そのよほどのことが何であったか、それはパウロが復活したイエスと出会ったことだと彼自身が証言しています。ですから私はパウロの証言を信じて「イエスの復活」を信じました。そして信じたことによって私は聖霊を受け、私自身も聖霊を通して復活したイエスと出会うことができました。
 そのようにして復活したイエスと出会ったキリスト教徒は無数にいて、1世紀から21世紀の今日に至っています。例えば日本に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルですが、当時、ヨーロッパの宣教師たちが続々とキリスト教を宣教するために東アジアに船でやって来ました。ザビエルの後も宣教師たちが続々と日本にやって来ました。今ならヨーロッパから日本まで飛行機で1日で来られますが、当時は船で何ヶ月も掛かりました。しかも、まだスエズ運河などありませんでしたから、アフリカ大陸の南を通って来なければなりませんでした。このアフリカ大陸の南の海域は、海難事故が多いことで有名ですから、命がけでやって来ました。船が難破して途中で命を落とした者もいるでしょう。また、長い航海で体調を崩して亡くなった者もいたでしょう。それほどの危険を冒しても宣教師たちがやって来たのは、彼らが復活したイエスと出会ってパウロのように変えられたからだとしか考えられません。パウロが命がけで伝道したように、宣教師たちも命がけで伝道しました。現代でも危険な地域で伝道している宣教師がたくさんいます。もちろん、海外に出なくても国内で奮闘しているキリスト教徒もたくさんいます。
 そうして多くのイエスを信じる者たちが、勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通して、「義の栄冠」を得ました。先に天に召された私たちの教会の信仰の先輩方も同様です。

おわりに
 そして私たちのインマヌエル沼津キリスト教会も、この今沢の地で勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えつつあります。私たち一人一人の信仰生活は場所を変えてまだまだ続きますが、インマヌエル沼津キリスト教会としての活動は、走り終えつつあります。
 私たちは、この最後の走りを主の御心にかなう形で走り終えたいと思います。信仰の先輩方が建て上げて下さった教会を継続できないのは残念ではありますが、一人一人の信徒の信仰の走りはまだまだ続きますから、信仰の先輩の走りに習って、勇敢に戦い抜いて行きたいと思います。ご遺族の皆様には、是非このことをご理解いただき、私たちが最後の走りを主の御心にかなう形で走り終えることができるように、お祈りいただきたいと思います。
 ご一緒に、お祈りいたしましょう。

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
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国教化と同じ頃に始まった修道院(2018.11.7 祈り会)

2018-11-08 17:33:01 | 祈り会メッセージ
2018年11月7日祈り会メッセージ
『国教化と同じ頃に始まった修道院』
【マルコ1:35】

マルコ1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

はじめに
 前回の祈り会のメッセージでは、伝道者の書の3章11節のみことばの、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」ということを、紀元4世紀の当時のキリスト教の状況をご一緒に見ながら分かち合いました。

国教化による教会の世俗化
 簡単に復習すると、紀元4世紀はキリスト教がローマ帝国の国教になった世紀でした。まず4世紀の始めの頃にコンスタンティヌス帝によって国教化への道筋が付けられました。そして4世紀の中頃には揺り戻しがあって異端や異教を持ち込んだ皇帝もいましたが、4世紀の終わりの頃にはテオドシウス帝によってキリスト教が国教化されました。
 コンスタンティヌス帝がローマ帝国の領地の全域を支配するまでは、キリスト教徒への迫害がありましたが、それ以降、キリスト教徒への迫害はなくなりました。これはとても幸いなことでしたが、国教化されたことでイエス・キリストを本気で信じていなくても誰でもキリスト教徒になれるようになりましたから、マイナス面も多くありました。どういうマイナス面があったか、いろいろ考えられますが、分かりやすい例として、16世紀のルターの時代を考えると良いと思います。キリスト教が国の宗教になるという、紀元4世紀に始まったこの体制は16世紀のルターの時代でも続いており、現代でも国民の大半がクリスチャンであるというキリスト教国は、まだいくつもあるでしょう。
 ルターの時代、教会は免償符を販売していました(高校の世界史の授業では「免罪符」と習いましたが、「免償符」を使います)。イエス・キリストの十字架によって既に罪は赦されています。国教で皆がクリスチャンですから、既に罪は赦されています。しかし、カトリックの教えでは、その罪が赦されていることの償いを善行などによって行わなければならないとのことです。その善行などによる償いを免償符をお金で買うことで代替できるというものです。キリスト教が国教化されて教会が世俗化されると、どのようなことが起きるかの良い例だと思います。

時にかなっていたニカイア・コンスタンティノポリス条約

 4世紀の当時も教会が世俗化して腐敗する方向に向かっていただろうと思います。しかし、時にかなって美しい神の御業が為され、コンスタンティヌス帝によって紀元325年にニカイア公会議が召集されてニカイア信条が採択されました。ローマ帝国の全土から300名以上の教会関係者がニカイアに集められたということです。このような大規模な会議は皇帝の力が無ければ、とうていできないでしょう。このニカイア信条によって当時広まっていた異端のアレイオス主義が否定され、断罪されました。アレイオス主義は御子イエスの神性を否定するものでした。そして、テオドシウス帝が381年に召集したコンスタンティノープル公会議では、私たちが使っている使徒信条に近い、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されました。
 信徒はこの、ニカイア・コンスタンティノポリス信条信仰告白によってキリスト教の信仰の根幹をいつも確認でき、異端にそれて行くことを防ぐことができます。このニカイア・コンスタンティノポリス信条があったことで、4世紀の終わり頃から始まったゲルマン民族の大移動にも、また7世紀のアラブ人のイスラム勢力の台頭にも飲み込まれることなく正統派のキリスト教会が存続できたと考えますから、神のなさることは正に時にかなって美しいという話を先週はしました。

時にかなっていた修道院の始まり
 きょうは、この話をもう少し続けたいと思います。先週話したようにゲルマン民族の大移動後にはローマ帝国の西側は消滅してしまい、ゲルマン民族による王国が立ち並ぶようになりました。そのような中でも教会が消滅しなかったのはニカイア・コンスタンティノポリス信条が大きな役割を果たしたからだと思うのですが、実はそれだけではなく、他にも重要な要因がありました。それはフスト・ゴンザレスの著書の『キリスト教史・上巻』(石田学訳、新教出版社)によれば、修道院と教皇制が機能したことだ、ということです。きょうは、この修道院と教皇制の二つのうち、修道院について話したいと思います。4世紀から修道院の歴史が始まったこともまた、時にかなった神の美しい御業だと感じます。
 ここで、最初にご一緒に読んだマルコ1:35を、もう一度ご一緒に読みたいと思います。

1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

 この箇所は先月の静岡聖会の早天の時に当務の俣野先生が開いた箇所でもあります。泊り掛けの聖会の早天の時には良く開かれる箇所です。祈りはいつ、どこで行っても良いのですが、やはり騒々しい場所や忙しい時間帯は祈りに集中できませんから、あまりふさわしくないだろうと思います。イエスさまは一日の活動を始める前の時間帯のまだ暗いうちに起きて寂しい所に出掛けて行き、祈りました。
 このことが常時実践されるようになったのが、修道院です。コンスタンティヌス帝によってキリスト教が保護されて国教化に向かう中、教会は段々と世俗にまみれるようになって行きました。この頃、そのような世俗化された教会を嫌って寂しい荒野で質素な信仰生活を送るようになった者たちがたくさんいたということで、それが修道院の始まりとされています。当初は個人の救いを求めて砂漠に逃れて一人で暮らすことから始まったようですが、次第に集団生活を送る修道院ができて、場所も砂漠のように寂しい所ばかりでなく、都会にも作られるようになりました。
 このような修道院ができたことで、教会が世俗化していく一方で、祈り深い信仰生活を修道院で送った人々もたくさんいましたから、キリスト教会が存続して行くことができました。きょうは、この修道院の歴史の中で大きな役割を果たしたベネディクトゥスという修道士の働きについてフスト・ゴンザレスが『キリスト教史・上巻』の中で書いている箇所を少し長いですが、引用したいと思います。この本の記事を紹介するのは、ここには東方の修道院と西方の修道院の違い、そして当初の修道院と後の修道院の違いなどが記述してあって興味深く、良い学びになると思うからです。
 この箇所には、「ベネディクトゥスの修道院制度」という表題が付いています。

ベネディクトゥスの修道院制度
 『キリスト教史・上巻』(石田学訳、新教出版社)p.254-258より
(ここから引用)
 教会が帝国と結びついて権力者の教会となった時に、多くの人は修道院生活を通してキリストに完全に従う道を見いだした。修道院運動は、エジプトはじめ東方帝国の各地で盛んであったが、西方にも修道院生活を行う者がいた。西方の修道院制度は、東方のそれとは三つの点で大きく異なっていた。第一に、西方の修道院は、より実践的であった。西方の修道士たちは、ただ自己否定のためだけに肉体を痛める苦行を行うのでなく、むしろ、肉体と精神を鍛え、この世における宣教の働きのために苦行を行った。(中略)第二に、西方の修道院制度は、東方と異なり、孤独主義を重んじなかった。西方修道院は最初から、共同体における秩序だった生活を築くことを求めた。第三に、西方の修道院は、東方の修道院のように教会の制度との緊張を強いられることがなかった。(中略)西方の修道院はだいたいにおいて、教皇や司教、その他の教会指導者にとっての右腕となってきたのである。
 西方修道院制度の生成期に中心的役割を果たし、いろいろな意味で創立者とさえ言える人物はベネディクトゥスである。彼は、ヌルシアというイタリアの小さな町で480年頃に生まれた。したがって、東ゴート族が支配している時代に成長したことになる。彼の家系は古いローマ貴族だったので、彼自身も正統派とアレイオス派の争いや正統派への迫害など身をもって体験していた。(中略)
 何と言ってもベネディクトゥスの最大の業績は、共同体のために作った『会則』である。この『会則』は短いものにすぎないが、以後何世紀にもわたって修道会規則の原型となった。この『会則』は、極端な禁欲主義を要求するのではなく、厳格ではあっても決して過酷ではない修練を通して修道院生活の良識的な秩序を築くことを目指していた。砂漠の修道士たちがパンと塩と水だけで生活していたのに対して、彼は、修道士たちが一日二回の食事をきちんと摂り、毎回の食事には二皿の料理と、時には新鮮な果物と野菜を添えるべきことを定めた。また修道士には毎日、適量のワインが与えられ、ベッドには上掛けと枕も備えられていた。ただしこれは、物が十分に供給されている場合のことであって、物資が不足する場合には、その時に受けることのできる物で満足しなければならなかった。(中略)
 『会則』は、全員が肉体労働に従事すべきことも定めている。病気や特殊な賜物を持っている場合を除いて、全員があらゆる仕事を順番に受け持たなければならない。たとえば、一週間ごとの料理当番は、この仕事が蔑(さげす)まれないようにするために、礼拝の儀式の中で当番の交代が行われる。病人や老人、幼い者については、作業の配分において特別な配慮がなされるが、裕福な家庭出身の修道士が特別扱いを受けることがあってはならない。(中略)ベネディクトゥスは清貧を通して新しい秩序の共同体を築くことを目指した。修道士は清貧を守ることによって、清貧を生きる共同体に全員が結びつけられるのであり、この共同体では、すべての者がすべての必要を互いに依存し合うのである。(中略)
 ベネディクトゥスは、祈りが修道生活の核となるべきだと考えた。そこで、日ごとの個人的な祈りの時間が割り当てられた。しかし祈りの大部分は、礼拝堂での共同の祈りとして守られた。修道士たちは、詩篇の詩人が「日に七たび、わたしはあなたを賛美します」(119:164)、「夜半に起きて、あなたの正しい裁きに感謝します」(119:62)と歌ったとおり、夜八回、昼七回、真夜中に一回、礼拝堂に集まった。
 一日の祈りの集いは夜明け前から始まり、その後、昼の間に七回行われた。この祈りは中世のほとんどの修道院で守られた。これらの祈りの大部分の時間は、詩篇の朗誦(ろうしょう)とその他の聖書箇所の朗読に用いられた。詩篇は全員に配られ、一週間の間に朗誦されるように配慮された。その他の聖書箇所は、それぞれの祈りの時間、週の曜日、教会暦などによって選ばれた。その結果、ほとんどの修道士が、詩篇およびその他の聖書箇所を暗記するようになった。また信徒の多くも同じような祈りの時を持つことを楽しみにしていたので、彼らもまた聖書に深くなじむようになった。毎日の八回の祈りは「時祷」と呼ばれ、やがて、これらの祈りをささげることは「聖務日課」と呼ばれるようになった。
 ベネディクトゥス自身は特に学問を奨励したわけではないが、やがて学問が修道士のおもな務めの一つとなった。何よりもまず、聖務日課を守るためには、書物が必要だった。そこで修道士は、聖書やその他の書物を写筆することに熟達し、これらの書物は以後何世代にもわたって保存された。修道士の住居は教育の中心となった。特におおぜいの子供が彼らの手にゆだねられて、やがて修道士となるための教育を受けた。また、病院や薬局の働きをする修道院や、疲れた旅人をもてなす宿泊施設となる修道院もあった。
 次第に修道院は、経済的にも大きな影響を与えるようになってきた。僻地に建てられることが多かった修道院から、修道士たちの労働による産物が生み出されたからである。こうして、ヨーロッパ全体にわたって、広大な農地が開拓されていった。しかも、ともすれば金持ちが自分の手で働くことを軽蔑する風潮のあった世間に対して、修道院は、肉体労働が知的・精神的な最高の成果を得るために有益であることを示したのであった。
(後略、引用ここまで)

 このような修道院の働きと教会の働きは別々のものですが、教会のリーダーである司教(司祭の上に立つ役職)は、金権的な人物ではなく修道士のような者がふさわしいとされるようになっていったということです。そうして、修道院ができたことで国教化されたキリスト教の教会が過度に世俗化することから守られていったことも、神の時にかなった美しい御業であると感じます。

おわりに
 私たちは中世の修道士や修道女のような生活はできませんが、今の時代にふさわしいキリスト者としての生活を通して、人々にイエス・キリストに従う生活を送る素晴らしい恵みを周囲の方々にお伝えできる者になりたいと思います。なかなかそのようにはいっていないことを個人的には申し訳なく思いますが、そのような者へと整えられるように祈り、日々の信仰生活を送りたいと思います。
 お祈りいたします。

マルコ1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

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旧約聖書の魅力(2018.11.4 礼拝)

2018-11-06 08:03:28 | 礼拝メッセージ
2018年11月4日礼拝メッセージ
『旧約聖書の魅力』
【エズラ1:1~4】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは『旧約聖書の魅力』です。説教箇所はエズラ記にしましたが、旧約聖書の全体を眺める予定にしています。
 11月に入って今年も残すところ、あと2ヶ月になりました。年が明ければ年会まで2ヶ月となります。つまり年会まで、あと4ヶ月しかありません。
 私がこの教会に着任してからの5年半の礼拝メッセージでは、最初の3年はヨハネの福音書をよく開いていたと思います。そして使徒の働きの学びを約2年間続けて、その後はルカの福音書とヨブ記を短く取り上げました。また、その合間合間には単発的なメッセージも随時取り入れていました。
 さて、あと残り4ヶ月、3月を入れても5ヶ月、どのようなメッセージを取り次ぐべきかを考えた時、何か一つの書を何週間も開くよりは、一回あたり一つの書を取り上げて、私が一つ一つの書にどのような魅力を感じているかを皆さんと分かち合ってみたいなという気持ちになりました。しかし聖書は66の書がありますから、週に一つの書のペースではすべて話すことができません。それで、どうしようかと考えたのですが、とりあえず12月は私の説教の担当が4回ありますから、四つの福音書を一つずつ取り上げたいと思います。アドベント第一礼拝の12月2日は『マタイの福音書の魅力』を、アドベント第二礼拝の9日は『マルコの福音書の魅力』、16日はシオン教会での合同礼拝、そして23日のクリスマス礼拝は『ルカの福音書の魅力』にしたいと思います。クリスマスにルカの福音書はふさわしいでしょう。そして30日の年末感謝礼拝には『ヨハネの福音書の魅力』としたいと思います。年が明けてからどうするかは、もう少し考えたいと思います。

二つの転換点
 そして今日は『旧約聖書の魅力』です。11月は来週の11日は召天者記念礼拝ですから、このシリーズのメッセージはできません。18日はまり子先生のメッセージ、25日は合同礼拝ですから、12月に『福音書の魅力』を語る前にこのシリーズの話をできるのは今日だけです。それで、きょうは『旧約聖書の魅力』としました。
 では、本題に入ります。きょうの短い時間内で「旧約聖書の魅力」を語るとしたら、何を語ったら良いでしょうか。私が感じている魅力は、新約聖書へとつながって行く旧約聖書全体の壮大な物語です。どうしてイエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊の注ぎが必要だったのか、旧約聖書全体の流れを知るなら、そのことが分かって来ます。きょうは、そのような旧約聖書の壮大な物語を皆さんと分かち合いたいと思います。
 エズラ記の1章を選んだのは、ここが旧約聖書の最も重要な転換点の一つだと考えるからです。転換点というのは、それ以前とそれ以後で話が大きく変わる場所で、演劇の舞台で言えば、いったん幕が下りて、再び幕が上がる所だと言えるでしょうか。旧約聖書をいくつの区間に分けるか、人によって考え方は違うでしょう。細かく分けるなら、いくらでも分けることができます。しかし、できるだけ大きく分けるとしたら、私は二つの転換点を挙げたいと思います。一つは今日の聖書箇所のエズラ記1章であり、もう一つとして私は創世記12章を挙げたいと思います。
 まず、創世記12章をご一緒に開きましょう(旧約聖書p.17)。創世記12章の1節から4節までを交代で読みましょう。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 神である主はアブラハムを選んで語り掛け、カナンの地へと導きました。ここからイスラエルの歴史が始まりました。アブラハムの息子がイサク、イサクの息子がヤコブで、ヤコブの12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先になりました。
 イスラエルの人々の人数はエジプトで大いに増えて、十分に増えた時に主はモーセをリーダーにして彼らをエジプトから脱出させてシナイ山のふもとで律法を授けました。そしてヨシュアの時代に彼らをカナンの地に戻しました。律法を授けたのは彼らが神である主から離れないようにするためです。律法を守るなら、彼らは主から離れないでいることができます。創世記12章で主がアブラハムを召し出したのは、まずアブラハムの子孫のイスラエルの民に律法を与えて主から離れないようにし、やがて終わりの日が来る時にはイスラエルの民以外の異邦人も皆が主のもとに集うようにするご計画でした。その終わりの日のことはイザヤ書やミカ書などに書かれています。

主から離れる人々
 では、なぜ主は先ずは一つの民族を選んで律法を授け、主と共に歩めるようにしたのか、それは創世記11章までを見れば分かるように、人間たちが主と共に歩むことができずに、すぐに主から離れてしまったからですね。創世記1章と2章で主は人間を造りましたが、3章でアダムとエバが蛇に誘惑されて主が食べてはならないと命じていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そうしてエデンの園を追放されたアダムとエバはカインとアベルを生みますが、カインは弟のアベルを殺してしまいました。そしてカインの子孫たちも悪に傾きました。それで主は地上に人間を造ったことを悔やみ、ノアとノアの家族たち以外の人間を洪水で滅ぼしてしまいました。そのことが創世記の6章から9章までに書かれています。
 ノアは主の心にかなった正しい人でしたから、ノアの洪水以降のノアの子孫たちは主と共に歩むことが期待されていました。しかし、ノアの子孫たちは天に届くバベルの塔を築き始めました。これを放っておくと人間は増長しておごり高ぶってしまいますから、主は人間のことばを混乱させてバベルの塔を築くことを阻止しました。このことが創世記11章に書かれています。結局、ノアの洪水ではうまく行かなかったのですね。人間たちはすぐに主から離れてしまいます。それゆえ主は創世記12章でアブラハムを召し出して、先ずはイスラエルの民に律法を授けることにしました。これがイスラエルの物語の始まりです。
 このイスラエルの物語の中で、アブラハムの次はどこに区切りを入れるか。例えばマタイの福音書の系図では、ダビデの所で一旦区切りを入れていますね。それは人としてのイエス・キリストがダビデの家系の子孫だからです。しかし、きょう私はアブラハム以降の次の区切りをエズラ記1章にしました。それは、律法が与えられたイスラエルの民も結局のところは、主から離れてしまったということを、皆さんと共に分かち合いたいからです。
 ではアブラハムからエズラ記に至る旧約聖書の流れを、今度は「目次」を見ながら、ご一緒に確認したいと思います。

創世記~サムエル記
 創世記12章までを今、お話ししました。12章からアブラハムとイサクの物語があり、創世記の後半にはヤコブとヤコブの息子たちの物語が描かれています。ヤコブの息子のヨセフは、兄たちに恨まれたことでイシュマエル人の隊商に売られてしまい、エジプトに連れて行かれました。しかしヨセフはエジプトでファラオ(パロ)に国の政治を任される重要な地位に就きました。そうして豊作の時期に食糧を備蓄して、凶作になった時期に食糧に困ったヤコブの一家をエジプトに呼び寄せたので、エジプトでイスラエルの民族が増えることになりました。
 次の出エジプト記では、増えたヤコブの子孫たちがモーセに率いられてエジプトを脱出し、シナイ山のふもとで律法を授けられたことが記されています。次のレビ記では律法のことばが続いていて、主(おも)に祭儀的な律法が授けられました。そして次の民数記での重要な出来事と言えば、やはりカナン入りを目前にして偵察に行った族長たちがヨシュアとカレブを除いてはカナン人たちが強そうなことにおじけづいてしまったことでしょう。主が共にいて下されば恐れることはないのですが、イスラエルの民は「エジプトに帰ろう」と言い出して主を怒らせ、このことで荒野を40年間も放浪することになり、モーセもカナンの地に入れないことになってしまいました。この民数記を読むと、イスラエルの民の心は律法を授けられた後も、何かあるとすぐに主から離れてしまったことが分かります。人の心がいかに神から離れやすいものかが、よく分かります。そうして40年間荒野を放浪していよいよカナンの地に入る直前にモーセがイスラエルの民にもう一度言い聞かせたことばが申命記に記されています。モーセはこの申命記の最後に死にました。
 続くヨシュア記ではヨシュアに率いられてイスラエルの民がカナンの地に入って先住民たちと戦い、定住するようになりました。そして士師記とルツ記、サムエル記第一の始めの頃まではさばきつかさの時代が続きました。しかし、イスラエルの民はなぜか突然、王様を欲しがるようになりました。彼らは主の直下で生きるよりも間に王を入れて欲しがり、王の下で生きることを望みました。このことが主をまた怒らせましたが、主はイスラエル人の要望を聞き入れてサウルに油を注ぎ、サウルがイスラエルの初代の王になりました。このサウル王の時代がサムエル記第一に記されています。さてサウル王は主の期待に応えられませんでしたから、ダビデ王が立てられることになりました。このダビデ王の時代のことがサムエル記第二に記されています。ダビデは立派な信仰を持っていましたが、バテ・シェバの夫だった忠臣ウリヤを殺してしまったことで、以降のダビデの家庭はドロドロになってダビデは苦しむことになります。このドロドロの泥沼の中でもがくダビデと家族たちの物語を読むと、人間の罪の性質がよく分かると思います。

列王記~エズラ記
 そして列王記第一はダビデの最晩年と息子のソロモンがイスラエルの王を引き継いだことから話が始まりますが、ソロモンの不信仰のゆえに主が怒り、イスラエルの国が北王国と南王国の二つの国に引き裂かれたことが書かれています。そして北王国の王たちは初代のヤロブアムに始まって一貫して不信仰な王たちであり、従って北王国の人々も不信仰にならざるを得ませんでした。このことで、またまた主を怒らせて北王国のイスラエルはアッシリアに滅ぼされてしまいました。そして北王国のイスラエルの人々はアッシリアに捕囚として引かれて行きました。
 列王記第二のその箇所をご一緒に読みましょう。列王記第二17章の22節と23節を交代で読みましょう(旧約聖書p.684)。

17:22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので、
17:23 【主】は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 こうして北王国は滅んでしまいましたが、その後で南王国もやはり不信仰の罪で滅んでしまいました。これは歴代誌の方でご一緒に見ることにしたいと思います。歴代誌にはイスラエルの民族の系図と、後はサムエル記と列王記とだいたい同じことが書かれていますが、歴代誌はダビデの系譜の南王国のことが書かれていて、北王国のことは書かれていません。
 では、南王国が滅ぼされたことが書かれている歴代誌第二の箇所をご一緒に読みましょう(旧約聖書p.814)。歴代誌第二36章のまず11節と12節を交代で読みましょう。

36:11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。
36:12 彼はその神、【主】の目に悪であることを行い、【主】のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。

 ゼデキヤ王は、南王国の最後の王です。ゼデキヤ王はそれまでの大半の王と同じく、主の目に悪であることを行いました。それゆえ主を怒らせて、南王国は滅びました。少し飛ばして、17節から21節までを交代で読みましょう

36:17 主は、彼らのもとにカルデア人の王を攻め上らせた。彼は、聖所の中で若い男たちを剣で殺し、若い男も若い女も、年寄りも弱い者も容赦しなかった。主は、すべてのものを彼の手に渡された。
36:18 彼は、神の宮の大小すべての器、【主】の宮の財宝と、王とその高官たちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。
36:19 神の宮は焼かれ、エルサレムの城壁は打ち壊され、その高殿はすべて火で焼かれ、その中の宝としていた器も一つ残らず破壊された。
36:20 彼は、剣を逃れた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして彼らは、ペルシア王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。
36:21 これは、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。

 この地は安息を得たということばに、この地がいかにそれまでひどい状態にあったかが伺えると思います(この「安息を得た」には諸説あるようです)。
 続いて22節と23節を交代で読みます。

36:22 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。
36:23 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神、【主】がともにいてくださるように。その者は上って行くようにせよ。』」

 ここには、ページをめくっていただくとある、きょうの聖書箇所のエズラ記1章と同じことが書かれています。こうしてバビロンで捕囚になっていた民はエルサレムに帰還して神殿の再建を始めました。帰還後、人々は律法を守るようになりました。エルサレムの滅亡とバビロン捕囚に懲りていたからです。

ハガイ書~マラキ書
 ただし、神殿の再建はなかなか進みませんでした。それゆえ主がハガイを通して彼らを励まさなければなりませんでした。ハガイ書1章(旧約聖書p.1608)の2節から5節までを交代で読みましょう。

1:2 万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」
1:3 すると預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。
1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」
1:5 今、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」

 この励ましによって、ようやく神殿の再建がなされました。しかし、旧約聖書の最後にあるマラキ書を読むと、エルサレムの人々は表面上は律法を守っていても彼らの心はやはり主から離れていたようです。マラキ書の1章を開きましょう(p.1629)。1章の1節と2節を、私のほうでお読みします。

1:1 宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ【主】のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 人々は主の愛を感じていませんでした。続いて、6節から8節を交代で読みましょう。

1:6 「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。
1:7 あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『【主】の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。
1:8 あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。──万軍の【主】は言われる──

 祭司たちは形式的にしか主を敬っていませんでした。北王国の滅亡と南王国の滅亡、そしてバビロン捕囚で懲りたはずなのに、結局イスラエルの民の心はすぐに主から離れてしまうのでした。

聖霊を受けなければ主から離れる人々
 結局のところ、三位一体の神の聖霊が人の心の内に入らない限り、人の心はどうしても主から離れてしまいます。ですから主はイエスは神の子キリストと信じる者には誰でも聖霊を注いで下さるようにして下さいました。
 どうして主は無条件で全員に聖霊を注いで下さらないのでしょうか。それは聖霊は神だからでしょう。聖霊を受けた者は神の子とされます。無条件で神の子とされるなど、そんな虫の良い話はないでしょう。最低限、イエスは神の子キリストと信じる必要があります。たったそれだけのことで神である聖霊を受けて神の子としていただけるとは、神様は随分と気前が良いお方だと思います。それほどの気前の良さなのに、イエスは神の子キリストと信じることができない人がたくさんいます。それほど人間の罪は根深いのだと思います。旧約聖書を読むと、それが良く分かります。旧約聖書の魅力は、壮大な物語を通して、このような人間の根深い罪の性質を学ぶことができる点にあると思います。
 きょうは、このことを分かち合いたいと願い、『旧約聖書の魅力』と題して話をさせていただきました。

おわりに

 最後に、エレミヤ書31章の31節から34節までを交代で読みましょう。ここには新しい契約を主が結んで下さり、聖霊を授けて下さることが預言されています。

31:31 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。
31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 お祈りいたしましょう。
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時にかなって美しい神の御業(2018.10.31)

2018-11-01 18:21:54 | 祈り会メッセージ
2018年10月31日祈り会メッセージ
『時にかなって美しい神の御業』
【伝道者3:11】

伝 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

はじめに
 きょう10月31日は宗教改革記念日です。501年前の1517年の10月31日にマルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会の門に「95か条の提題」を貼り付け、このことをきっかけにして、やがてカトリックとプロテスタントが袂を分かつことになったとされています。

使徒信条を重んじたルター
 私はこれまでメッセージの中でルターに因んだ話をほとんどしたことがありませんでした。しかし、きょうはちょうど10月31日ですので、少しだけルターに関係のある話をしたいと思います。
 「少しだけ」と断ったのは、きょうはルターが重んじた使徒信条に少しだけ関係のある話をするからです。藤本満先生の著書の一つに『わたしの使徒信条』という本があります。これは高津教会の礼拝での使徒信条に関する説教をまとめた説教集ですが、この本の序文で藤本先生は次のように書いています。

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 使徒信条は、現代では、ほとんどのプロテスタント教会の礼拝で告白されていることでしょう。これは、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターにさかのぼることができます。彼は使徒信条を重んじ、『小教理問答』にも用いています。レーヴェニヒは、ルターが使徒信条を用いた理由として、この信条が持つ、教団教派を超えた公同性を挙げています。「宗教改革は、一つの分派としてではなく、一つの、真の公同の教会の更新として理解されることに最大の価値を置いたのである」(『わたしの使徒信条』p.4-5)
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 これを読んで私は改めて、使徒信条の果たしている役割の大きさに感慨を覚えました。キリスト教の教会はもともとは一つでしたが、東方教会と西方教会とに分かれ、西方教会はカトリックとプロテスタントとに分かれ、プロテスタントはさらに無数の教派に枝分かれしています。しかし、バラバラというわけではなくて、例えば沼津の教会はクリスマスのチラシをカトリックもプロテスタントも一緒になって合同チラシを作り、新聞に折り込んで配布しています。もし使徒信条が無かったらキリスト教はもっとバラバラになっていて、私たちがクリスマスの合同チラシを作ることなど考えられなかったかもしれません。使徒信条は単に信徒一人一人の信仰告白のためにあるだけでなく、考え方が違うキリスト教会を一つに束ねるという大きな働きをしているのだということを改めて感じています。

ニカイア信条

 さて、きょう取り上げるのは、使徒信条ではなくて、使徒信条の上流の方にあるニカイア信条です。きょうの聖書箇所を伝道者の書3:11にしたのは、このニカイア信条ができた時代が、まことに時にかなっていたと感じるからです。本当に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」なあと私は思いました。そのことを、きょうはご一緒に分かち合いたいと思います。
 ニカイア信条を採択したニカイア公会議は、紀元325年に開かれました。最近私は、使徒たちの時代の後の、2世紀以降のキリスト教の歴史を勉強し直したいと思って、キリスト教史の本を少し読み直しています。今日は後でニカイア公会議が開かれることになった経緯とその前後の歴史を簡単に分かち合いたいと思いますが、まずは325年に採択されたニカイア信条がどのようなものであったかを、ご一緒に見てみたいと思います。

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我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。

我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。

また我らは聖霊を信ず。

主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。
(Wikipedia「ニカイア信条」より)
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 このニカイア信条で強調されているのは、イエス・キリストがどのような存在であったかということで、「主は・・・造られずして生れ、御父と本質を同一にして」とあります。
 ここから分かることは、ニカイア信条は異端を排除するために作られて採択されたものだということです。その異端とはアレイオス(アリウス)主義のことです。
 アレイオスは、ロゴス(ことば、つまり御子)は存在しない時があったと考え、ロゴスは父と共に永遠なのではないと主張したそうです。アレイオスによれば、ロゴスは厳密には神ではなく、すべての被造物の第一の存在でした。彼は、すべてのものの創造に先だって、ロゴスが神によって創造されたと主張しました。なぜアレイオスがこのように主張したかというと、もしロゴスが神であるなら、父とロゴスの二人の神が存在することになり、それでは唯一の神ではなくなってしまうと考えたからだそうです。
 当時、このアレイオス主義はかなり広まっていたとのことです。ニカイア信条はこの異端を排除する目的で作られて採択されました。ただし、このニカイア信条を採択したニカイア公会議は、このアレイオス主義を排除するためだけに招集されたものではなく、これからのキリスト教について様々に話し合うための場として、300名以上の多くの教会関係者が集められたということです。
 このニカイア公会議325年を開催したのはコンスタンティヌスというローマ帝国の皇帝です。このコンスタンティヌス帝が325年にニカイア公会議を開いてニカイア信条を採択したことが、私はとても時にかなった美しい神の見業であると感じています。なぜそのように感じるかは、後半に話すことにします。

(賛美歌)

キリスト教の国教化
 前半は、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝が325年にニカイア公会議を開催して、ニカイア信条が採択されたことまでを話しました。コンスタンティヌス帝は313年にミラノ勅令を出したことでも良く知られています。このミラノ勅令にはキリスト教徒の迫害をやめて礼拝の自由を保証し、また教会・墓地・およびその他の財産を返還することが含まれていました。ただし、このミラノ勅令によって迫害が完全に終わったわけではないそうです。それは、この時にはまだコンスタンティヌスがローマ帝国領のすべてを掌握していたわけではないからです。この時、ローマ帝国には複数の皇帝がいて分割して統治されていました。しかし、やがてコンスタンティヌスはローマ帝国の全土を下図のように支配し、迫害は終了しました。


コンスタンティヌスの勢力拡大図(フスト・ゴンザレス『キリスト教史 上巻』石田学訳、新教出版社 p.128)

 コンスタンティヌスがローマ帝国の東側までを含めた全域を支配するようになったのは324年です。こうしてキリスト教に理解を示していたコンスタンティヌス帝がローマ帝国の全土を支配したことで迫害も終了しました。そしてコンスタンティヌスは翌325年にニカイア公会議を開催しました。300名以上もの教会関係者が集う大きな会議を開くことができたのは皇帝に大きな力があったからこそです。そうしてコンスタンティヌスの後、一時的にまた揺り戻しの時期もありましたが、テオドシウス帝の時の380年にキリスト教はローマ帝国の国教になりました。そして翌381年にコンスタンティノポリス公会議が開かれてニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されました。このニカイア・コンスタンティノポリス信条は、ニカイア信条に比べると今の使徒信条に、もっと近い形になっています。

――――――
 わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。
 また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
 また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます アーメン (日本聖公会の訳文)
――――――

 この西暦300年代に起きたことを、もう一度整理しておきたいと思います。

 313年 ミラノ勅令。コンスタンティヌス帝によるキリスト教の保護。
 324年 コンスタンティヌス帝がローマ帝国全土を支配。
 325年 ニカイア公会議。ニカイア信条の採択。
 380年 テオドシウス帝によるキリスト教の国教化。
 381年 コンスタンティノポリス公会議。ニカイア・コンスタンティノポリス信条の採択

ゲルマン民族の大移動
 私は今まで、キリスト教がローマ帝国の国教になったことのマイナス面ばかりを見ていました。ローマ帝国でキリスト教が国教になって他の宗教が禁止されてからは、イエス・キリストを本気で信じていなくても誰でもクリスチャンになれるようになりました。というより誰でもクリスチャンにならなければならなくなりましたから、口では誰でも「イエスを信じています」と告白するでしょう。しかし、どれぐらい本気で信じているかは分かりません。また、お金持ちも貧しい者も皆がクリスチャンになりました。それまでのクリスチャンは弱い立場の者が多く、救いを得て復活の希望を持つことに大きな喜びがありましたから、それだけに強い信仰を持っていました。一方、お金持ちは今の生活に十分に満足している者が多く、そのような者は弱い信仰しかありませんでした。そういう裕福な人々が教会につながることで教会は次第に腐敗して行きました。キリスト教の国教化には、こういうマイナス面がたくさんありました。
 しかし今回、キリスト教の歴史を学び直す中でゲルマン民族大移動が始まった頃のタイミングでニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されたことを知り、神のなさることは本当に時にかなって美しいなあという思いがしました。それは、次の「ゲルマン民族の大移動後のヨーロッパ」の図を見ていただくと分かっていただけると思いますが、ゲルマン民族の大移動後には西ローマ帝国が消滅してしまっています。


ゲルマン民族大移動後のヨーロッパ『キリスト教史・上巻』p.248

 ゲルマン民族は元々はヨーロッパの北方にいた民族です。ということはキリスト教の教えが十分には広まっていなかった地域にいた民族ということです。キリスト教は地中海沿岸の地域で広がっていたからです。そのゲルマン民族が地中海沿岸に南下して来ましたから、そこは異教徒が住む地になってしまいました。しかし、キリスト教の教会はゲルマン人が支配するようになっても地中海沿岸の地域に残りましたから、異教徒のゲルマン人への伝道が粘り強く行われたということです。そうしてゲルマン人もキリスト教の信仰を持つようになりました。
 そんな時、もしキリスト教会にニカイア信条が無かったら、どうなっていたでしょうか。私は西側のキリスト教会が消滅してしまったとしても、おかしくないだろうと思います。現代の私たちの教会では毎週、使徒信条の告白をしています。そうしてキリスト教の信仰がどのような信仰であるかの確認をしています。この使徒信条が無ければ私たちの信仰は、ぶれてしまうかもしれません。そうして道をはずれてしまったら教会は弱体化して消滅してしまうかもしれません。私たちの教会が合併できるのは、同じ使徒信条を告白している教会だからです。
 ゲルマン民族が移動して来た時代の西ローマ帝国領のキリスト教会も、ニカイア信条・またはニカイア・コンスタンティノポリス信条があったからこそ、教会は弱体化せずに生き残ることができたのではないか、そんな気がします。

時にかなって美しい神の御業
 一方、東ローマ帝国領にはゲルマン民族の侵入はありませんでした。しかし7世紀以降、イスラム教の勢力が急速に拡大して東ローマ帝国のビサンティン帝国は圧迫を受けるようになります。このアラブ人のイスラム勢力は裏の図で示したように西ヨーロッパのスペインにまで拡大して来ていました。


アラブ人による支配圏の拡大『キリスト教史・上巻』p.267

 もしゲルマン民族が支配する地中海沿岸にキリスト教会が無かったら、もしかしたらイスラム勢力が飲み込んでしまった可能性もあります。すると東ローマのビサンティン帝国は両側をイスラム勢力に挟まれてしまうことになり、ここもまた飲み込まれる危険があったことになります。そうすると、キリスト教会は西も東も消滅してしまって現代まで受け継がれることはなかったということになってしまいます。もちろんそうならなかった可能性もありますが、かなり危険であったのではないかと思います。
 ですから、私は紀元313年のミラノ勅令によってキリスト教が保護され、ローマ帝国の国教になる方向に向かい、そしてコンスタンティヌス帝によってニカイア公会議が開かれてニカイア信条が採択されたことを、素晴らしい出来事であったと今の私は考えています。これまで私はキリスト教が国教化されたことのマイナス面しか見ていませんでしたが、ゲルマン民族の大移動と7世紀のイスラム勢力の台頭のことを併せ考えると、これは時にかなって美しい神様の御業ではないかなと思います。

おわりに
 以上、宗教改革記念日とはあまり関係なかったかもしれませんが、宗教改革を始めたルターが重んじていた使徒信条の上流のほうにあるニカイア信条ができた頃について共に学び、神様がキリスト教会がニカイア信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条、そして使徒信条を与えて下さったことの恵みをきょうは分かち合うことができましたから、感謝に思います。
 私たちの教会が合併する方向に進んでいるのも、共に礼拝で使徒信条の告白をしている教会であるから、ということにも併せて感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

伝 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
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