インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

本日(4/30)の祈り会は休みます

2014-04-30 07:29:18 | 祈り会メッセージ
 本日(4/30)の祈り会は、会員の告別式がありますので、お休みです。

 なお、昨日の前夜式と本日の告別式の説教は、後日、こちらのブログにもアップする予定です。
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4月27日礼拝プログラム

2014-04-24 13:32:19 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月27日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第4聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花    55
 交  読  詩篇121篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  鹿のように(2回)       192
 讃 美 ③  主から受ける安らぎ       440
 聖  書  詩篇122篇 全
 説  教  『地域のために祈ろう』 小島牧師
 讃 美 ④  あなたの平和の        485
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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初代教会の始まりの日のペテロの説教(2014.4.23 祈り会)

2014-04-24 13:27:24 | 祈り会メッセージ
2014年4月23日祈り会メッセージ
『初代教会の始まりの日のペテロの説教』
【使徒2:14~47】

はじめに
 先週は受難週の中にありましたので、使徒の働きの学びはお休みしましたが、今週からまた、使徒の働きの学びに戻ることにします。先々週の学びでは、使徒の働き2章の1節から13節までを読みました。ここではペンテコステの日に、ガリラヤ人の弟子たちに聖霊が降ったことが書かれています。
 よく言われているように、キリスト教の教会は、このペンテコステの日に始まったとされています。きょうは14節から47節までを読みますが、きょうの箇所の終わりのほうを読めば、どうしてペンテコステの日が教会の始まりの日とされているかが、よくわかると思います。

重視されるべき初代教会の説教
 また、きょうの箇所にはペテロの説教が記されています。少し長いですが、全部を読んで味わいたいと思います。なぜなら、これが初代教会が始まった日の最初の説教だからです。キリスト教の教会は、このペテロの説教によって始まったとも言えるでしょう。ですから、この説教は、極めて重要な説教だと言えると思います。しかし、その割には、この説教はそれほど注目されていないようです。せいぜい、ペンテコステの日に引用される程度で、それ以外の時の説教では、このペテロの説教が取り上げられることは、あまり無いようです。
 『福音の再発見』を書いたスコット・マクナイトは、この使徒の働きに記されている、いくつかの説教をもっと重視すべきであると説いています。これらの初代教会の説教を読むと、イエス・キリストが旧約の時代から預言されていたメシアであることが、よくわかります。しかし、今日の多くの教会(特にアメリカの教会においてその傾向が強いそうですが)、新約聖書だけで、こと足りるようになってしまっているようです。それは、現代の教会ではイエス・キリストの十字架の贖いが突出して強調される傾向にあるからです。十字架の贖いはもちろん大切ですが、イエス・キリストの十字架の死で終わってしまったのでは、私たちがイエス・キリストに出会うことはなかったでしょう。先日のイースター礼拝の説教でも話したように、イエス・キリストがよみがえったからこそ、私たちは、今も生きておられるイエス・キリストにお会いすることができます。そして、私たちに聖霊が注がれることで、復活したイエスさまが私たちの魂にいつも語り掛けて下さっていることを聖霊を通して知ることができ、様々な教えと導きを得ることができます。
 ですから私たちは、救いの全体像を新約聖書だけからではなく、旧約聖書も含めて知る必要があります。私はヨハネの福音書を通じて、旧約聖書と新約聖書の全体を知ることの重要性を示されていましたが、スコット・マクナイトの『福音の再発見』という本によって、さらに使徒の働きに収録されている初代教会の説教にももっと注目すべきであることを教えられましたから、大変に感謝に思っています。

ペンテコステの日のペテロの説教
 では、前置きが長くなりましたが、この使徒の働きに収録されている説教にももっと注目すべきであることを念頭において、使徒2章14節から47節までを交代で読むことにしたいと思います。少し長いですが、ペテロの説教も全文を読んで、全体像を知ることにしたいと思います。そして、きょうは全体像を知るにとどめ、来週もう一度、同じ説教を読んで、今度はもう少し細かいところも見るようにしたいと思います。

2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

 まず、終わりの方から見て行くと、44節以降で、信者たちがいっさいの物を共有し、そして毎日、心を一つにして宮に集まり、パンを裂いたことが書かれていますから、ここから教会が始まったと言って良いことが、よくわかると思います。

旧約聖書で預言されていたキリスト
 そして、全体の流れとしては、まず聖霊の注ぎはヨエルによって預言されていたことが語られます。次いで、十字架で死んだイエスは死んだままではいずに、よみがえることがダビデによって預言されていたことが語られます。そして、再び聖霊の注ぎについて語られ、聖霊は天の父の右の座に着いたイエスが約束された聖霊を父から受け、人々に注いだことが語られます。
 そしてペテロは、36節で、

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

と言いました。すると人々は心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と聞いたので、ペテロは、38節のように言いました。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 ここでも、聖霊の恵みが語られています。人は聖霊を受けなければ救いには至りません。そのために、まず悔い改める必要があります。旧約聖書で預言されていたキリストを十字架に付けてしまったことを悔い改める必要があります。

おわりに
 きょうは、全体の流れを知ることにとどめたいと思いますから、これくらいにしておきたいと思いますが、私は現代における悔い改めでも、旧約聖書に基づいた悔い改めがもっと為されるべきではないかなあと思っています。現代の教会での悔い改めは、だいたいが新約聖書に基づいて悔い改めが説かれると思います。しかし私は、このペテロの説教のように、旧約聖書に基づいた悔い改めがもっと為されても良いのではないかと思います。そうすることで、私たちは、日常生活における罪よりも、もっと大きな観点から罪を知ることができ、それが平和な世界を作ることにつながって行くのだと思います。日常生活における罪を扱うことも大切ですが、それでは、いつまでたってもキリスト教は、いつまで世界の平和に十分には貢献できず、却ってキリスト教があるから世界が平和にならないのだ、などという誤解を受け続けることになってしまうのだと思います。
 このことについては、また次回、改めて考え直してみたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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復活したイエスと出会う喜び(2014.4.20 イースター礼拝)

2014-04-20 18:50:13 | 礼拝メッセージ
2014年4月20日イースター礼拝メッセージ
『復活したイエスと出会う喜び』
【ルカ23:33~46/ヨハネ1:35~40】

はじめに
 きょうは十字架で死んだイエス・キリストがよみがえったことを祝うイースターの日です。日本語では復活節や復活祭などとも呼ばれます。復活祭の「祭」は「祭り」ですから、クリスチャンが多い国では文字通り「お祭り」として賑やかに祝われます。
 では、十字架で死んだイエス・キリストがよみがえったことが、どうしてそんなに、お祭りをしてまで祝うべき、喜ばしいことなのでしょうか。聖書とはあまり縁の無い暮らしをしている日本人の目には奇妙なこととして映るかもしれませんね。死んだ者が生き返るなどという非科学的なことを信じて、それをお祭りしてお祝いするなんて、ちょっとおかしいのではないかと思う方もあるかもしれませんね。

私たちは自分がしていることをわかっているか
 きょうのこのメッセージでは、イエス・キリストがよみがえったことが、どうして、そんなに喜ばしいことなのかについて、お話ししてみたいと思います。
 このことを考える上で、最初の鍵となる聖句が、きょうの礼拝の始めのほうで交代で読んだルカの福音書の中にあります。ヨハネの福音書は、また後で見ますから、何かを挟んでおいていただいて、ルカの福音書の23章を開きましょう(新約聖書p.167)。
 まず33節、

23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 この、「どくろ」と呼ばれている所というのは、エルサレムの町の城壁の外にある場所で、ゴルゴタの丘やカルバリの丘とも呼ばれる場所です。ここでイエス・キリストは十字架に付けられました。続いて、34節、

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 このイエスが言われた、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉は、きょうのメッセージの鍵となる言葉ですので、週報の3ページ目の上にも書いておきました。
 まず、このイエス・キリストの言葉について、ご一緒に考えてみましょう。
 イエス・キリストは神の子ですから、天の神さまのことを「父」と呼んでいました。ですから、人々は、神の子のイエスを十字架に付けるという大変なことをしていました。十字架刑はとても残酷な刑ですから、人々が何をしていたのか、これはとてもわかりやすいと言えるかもしれません。しかし、こういう特別な現場のことではなく、もう少し日常的なことではどうでしょうか。私たちは毎日の暮らしの中で、自分が何をしているのか、自分でわかっているでしょうか。まず、このことを考えてみたいと思います。
 私たちは、自分が何をしているのかが、わかっているのかどうか、まず私たちが朝起きたら何をしているか、考えてみましょう。
 私たちは、朝起きたら、顔を洗って、歯を磨きます。それから男の人だったら、髭を剃ったり、女の人だったらお化粧をしたりするかもしれません。それから朝ごはんを作って食べて、トイレへも行きます。そうして、それぞれ学校へ行ったり、会社へ行ったり、或いは主婦の方でしたら、家事をするでしょう。食器を洗ったり洗濯をしたり、掃除をしたりします。
 これらのことに関しては、私たちは、自分が何をしているのか、よく分かっていますね。しかし、これらの歯を磨いたり朝ごはんを食べたりしていることが分かっているなら、自分が何をしているのかが、わかっていることになるのでしょうか。そうではなくて、聖書は、もっと深いレベルのことを私たちに問い掛けているのではないでしょうか。
 私たちが顔を洗ったり、歯を磨いたりする時、私たちは、そのことの意味をあまり深く考えずにしています。それと同じで、2千年前にイエス・キリストを十字架に付けた人々は、そのことの意味をあまり深く考えずにイエスを十字架に付けていました。聖書はそのようなことを私たちに問い掛けているのではないでしょうか。
 このことに関しては、一旦置いておきます。あとでまた考えることにして、次へ進みたいと思います。

十字架で死んだ後に復活したイエス
 いま開いているルカの福音書には、十字架に付けられたイエスが死んだ時の様子も書かれています。次に23章の44節から46節までを、私のほうでお読みします。

23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 このようにイエスは大声で叫んだ後に息を引き取られたことが書かれていますから、ここでイエスは死にました。そして、この後、イエスの遺体が墓に葬られたことが書かれています。そして、24章には、死んだイエスがよみがえって弟子たちの前に現れたことが書かれています。そして、ルカの福音書の続編として、同じルカが書いた使徒の働き(使徒行伝)には、よみがえったイエスに出会った弟子たちが、その後、どのような働きをしたかが書かれています。皆さんには、是非、ご自身で聖書を読んでいただいて、弟子たちがどのような働きをしたかを味わっていただきたいと思います。
 きょうのメッセージでは、2000年前のイエスの弟子たちのことについては、これぐらいにしておきます。それは、弟子たちとイエスとの出会いのことよりも、私たちとイエスとの出会いのほうが、実はもっともっと重要だからです。

現代の私たちに語り掛けるイエス
 それでは、次にヨハネの福音書を開きましょう。ヨハネの福音書1章の35節から40節までです(新約聖書p.174)。まず35節から37節までを、私のほうでお読みします。

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 ここには、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行ったことが書かれていますね。そして、少し飛ばして40節には、次のように書いてあります。

1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 ここには、ふたりの弟子のうちの一人はアンデレであったことが書いてあります。しかし、もう一人は誰であったのかについては、書いてありません。
 実は、この名前が明かされていないもう一人とは、私たちのことです。
 そんな馬鹿な!だってこれは2千年前の話でしょ、と思う方もいるかもしれませんね。しかし、イエス・キリストは十字架で死んでからよみがえり、今も生きておられる方ですから、このヨハネの福音書に書かれていることが現代のことであったとしても、少しもおかしくはありません。
 逆に、もしイエス・キリストが2千年前に死んでしまっていたなら、2千年後の現代において、世界中でクリスマスやイースターをお祝いするようなことにはなっていなかったでしょう。イエスの弟子たちによってキリスト教の教えが広められることもなく、イエスの教えはイエスの十字架と共に死に、その教えも葬り去られたことでしょう。しかし、イエス・キリストはよみがえり、弟子たちに現われて力を与えましたから、力を得た弟子たちは力強く教えを広め始めました。そして、その教えは、弟子たちの次の弟子たちに受け継がれて行きました。そうしてイエス・キリストはその次の弟子たちにも力を与えましたから、迫害などの困難なことがあっても、弟子たちはイエスの教えを後の時代においても、次々に広め続けて行くことができました。
 日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもまた、その弟子たちの一人です。ザビエルもまた、よみがえったイエス・キリストと出会って力をもらいました。そのような力をもらっていなければ、どうしてスペインからわざわざ危険な目に遭いながら、東洋の片隅の日本にまでキリストの教えを伝えることができたでしょうか。
 いまNHKの朝の連続ドラマで『花子とアン』を放送中ですね。ヒロインの花子は明治26年生まれの村岡花子という実在の女性です。彼女は若い時にキリスト教系の女学校で学びました。その女学校には外国人の女性宣教師が何人もいました。この女性宣教師たちも、よみがえったイエス・キリストと出会って力をもらい、キリストの教えを日本に伝えるために外国から日本に来た人たちでした。明治時代の話ですから、今のように飛行機もありません。そんな時代に女性が外国から船に乗ってキリストの教えを伝えに日本に来ることができたのは、彼女たちがよみがえったキリストと出会ったからこそです。よみがえったキリストに力をもらったのでなければ、西洋の女性が外国の東洋での宣教に一生を捧げることなど、とうてい考えられないことです。
 或いはまた、もう少し現代に近い話で言えば、マザー・テレサもそうですね。マザー・テレサはヨーロッパのマケドニア地方で生まれ育ちましたが、18歳の頃にインドに赴き、やがて、よく知られているようにインドの貧しい人々の最後を看取るための施設を作って、インドで生涯を終えました。マザー・テレサももちろん、よみがえったイエス・キリストに出会って力をもらい、生涯をインドの貧しい人々のために捧げたのでした。
 ですから、ヨハネの福音書の1章で弟子たちがイエスと出会った場面は、決して2千年前だけの出来事ではなく、この2千年の間に無数の人々に次々と受け継がれ続けて来たことです。そうして現代に至り、現代でも起こっている出来事です。この教会に集っている人々の多くもまた、今も生きておられるイエス・キリストと出会っていますし、私もまたその中の一人です。
 ただし、よみがえった後のイエス・キリストは2千年前の最初の弟子たちの前には目に見える形で姿を現わしましたが、その後は目には見えない霊的な存在として、私たちの魂に語り掛ける存在となりました。ですから、ザビエルにしてもマザー・テレサにしても、イエスと出会ったと言っても自分の目ではっきりと見たというよりは、魂でイエスとの出会いを感じたのだと思います。私もそうですし、この教会の教会員の皆さんの多くもそうだと思います。
 そういうわけで、多くのクリスチャンの場合、イエスと出会ったと言っても、出会った時にはっきりと、出会ったことがわかったというよりは、後から振り返ってみると、あの時に出会っていたのだなと分かる場合がほとんどではないかと思います。
 よみがえったイエス・キリストは、そんな風にして、私たちの魂に語り掛けて来ます。

私たちの魂は何を求めているのか
 では、どんな言葉で語り掛けて来るのでしょうか。その代表的な言葉が、38節の、

「あなたがたは何を求めているのですか。」

であると言えるでしょう。イエス・キリストは、このように私たちが何を求めているのかを、問い掛けて来ます。
 では、私たちは何を求めて、何のために毎日を生きているのでしょうか。私たちは、毎朝起きると、顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを作って食べて、トイレに行きます。私たちは、そのように顔を洗うために生きているのでしょうか。歯を磨くために生きているのでしょうか。もちろん、そんなことのために生きているのでは、ありませんね。
 では私たちは、何を求めていて、何のために生きているのでしょうか。どんな願望を持って毎日を生きているのでしょうか。
 私たちが普通に持っている願望として、おいしい物を食べたいなあとか、もっとお金があると良いなあ、などという願望がありますね。お金がたくさんあれば、より一層おいしい物を食べることができますから、給料がたくさんもらえる会社で働きたいという願望もあるかもしれませんね。
 では、私たちは、おいしい物を食べるために、毎日を生きているのでしょうか。もしイエス・キリストに、「あなたがたは何を求めているのですか」と聞かれたら、私たちは、イエス・キリストに、

「私はおいしい物を食べることを求めています」

などと答えるでしょうか。誰も、そんな風には答えないでしょう。イエスさまがそんな答を期待して、私たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞いているとは思えませんね。イエスさまは、もっと心の奥底の、深い所にある魂のレベルで私たちが何を求めているのかを聞いているのでしょう。
 では、私たちは、どう答えたら良いでしょうか。
 一体どう答えたら良いのか、そのことを改めて考えてみると、どうも答に困ります。そんな心の奥深い所にある願望のことなんて、そんなに簡単には答えられそうもありませんね。それで、弟子たちも思わず全然関係ないことを聞いてしまったのではないでしょうか。弟子たちはイエスさまに聞き返しました。「先生。今どこにお泊まりですか。」しかし、これでは、全く返事になっていませんね。でも、こんな風に質問を返すのが精一杯だったのでしょう。
 「あなたがたは、何を求めているのですか」
という質問は、それほどまでに答えくいに質問だということです。それは、つまり、私たちが何を求めて何のために生きているのか、良くわからずに生きているということです。
 このことは十字架のイエス・キリストが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言ったことと、強く関係しています。私たちは、朝起きて顔を洗ったり歯を磨いたりしていることは良くわかっていますが、もっと深いレベルで何をすべきかがわかっていないので、結局、自分が何をしているのか、よくわからないでいます。

イエスに従えばわかる
 では、自分が何をしているのかが、よくわかっていない私たちは、一体どうしたら良いのでしょうか。戸惑う私たちにイエス・キリストはこのようにおっしゃいます。39節です。

「来なさい。そうすればわかります。」

 「来なさい。そうすればわかります。」これは、今は自分が何を求めているのかがわからなくても、イエス・キリストについて行けば、いずれはわかるようになるということです。
 私たちには、それぞれに心の奥深い所で求めていることがあるはずです。おいしい物が食べたいとか、お金が欲しいとかいうような表面的な願望ではなくて、もっと心の奥深い所にある魂が求めていることがあるはずです。
 それは一体何でしょうか。それは、イエス・キリストに付いて行くことで、段々とわかって来ます。ですから、イエスさまは私たちに、「来なさい。そうすればわかります」と、おっしゃって下さっています。
 このことは、すぐには、わからなくても、少しずつわかって来るものです。教会学校のお友達なら、そのことがわかるのではないでしょうか。聖書についての話や、イエスさまのことは、1回や2回ぐらい話を聞いたぐらいでは、よくわからないでしょう。でも、毎週、教会学校に出席していると、自分の奥深い所にある魂が何を感じて、何を求めているのかが、何となくわかって来るでしょう。

神の領域である魂のこと
 では、イエス・キリストに付いて行って、聖書の言葉に親しむようになると、どうして心の奥深くにある魂の求めていることが、わかるようになるのでしょうか。それは、イエス・キリストが永遠の中を生きる神の子だからです。魂のことは、神の領域のことですから、神にしか扱えません。人間は残念ながら魂を自分では扱えません。自分の魂であっても自分では扱えません。しかし神さまなら扱えますから、神さまに付いて行くことで、私たちは自分の魂のことが段々とわかるようになります。十字架の死からよみがえった神の子イエス・キリストはこれまで、遠い昔から現代に至るすべての人々の魂に語り掛けて来ました。
 2千年前の人々は、その神の子であるイエス・キリストを十字架に付けてしまいました。そんな人々を見て、イエスさまは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言ったのでした。
 そしてイエスさまは、現代においても、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言っています。現代の「彼ら」というのは、私たちのことです。私たちの多くは、自分の魂が何を求めているのかを知ろうとしていません。そして、私たちの魂に語り掛けている聖書の神さまのことも知ろうとしないで、ただ表面的な満足感だけを求めて、日々を暮らしています。神の子のイエスさまは、いつも私たちの魂に「あなたがたは何を求めているのですか」と問い掛けているのですが、私たちの多くはそのことに気付かずにおり、或いは気付いていても無視をして好き勝手に暮らしています。そのようにイエス・キリストを無視したり軽視したりする態度は、2千年前の人々が神の子イエスを十字架に付けてしまったのと変わりありません。ですから、イエス・キリストは現代においても、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言っています。
 しかし、もし私たちが「あなたがたは何を求めているのですか」というイエスの魂への語り掛けに耳を傾け、そして「来なさい。そうすればわかります。」という招きに従って行くなら、やがて自分の心の奥深い所にある魂が何を求めているのかがわかるようになります。魂の領域のことがわかるようになることは、大きな喜びであり、素晴らしい恵みです。
 ですから、この大きな喜びを知ったクリスチャンは、イエス・キリストが十字架の死からよみがえったイースターをお祝いします。私たちはクリスマスも盛大にお祝いしますが、クリスマスに生まれたイエスが十字架で死んだきりになってしまっていたなら、私たちはこの大きな喜びを味わうことはできませんでした。ですから、イースターはクリスマスよりも、もっともっと喜ばしい日なのです。クリスチャンがイースターを盛大にお祝いするのは、それ故です。

おわりに
 こうしてクリスチャンは、朝起きた時には、単に顔を洗ったり、歯を磨いたりするだけでなく、神様にお祈りをして、魂に平安を感じながら、一日を始めることができます。これは本当に素晴らしい恵みです。
 神の子のイエスは私たちの魂に、
 「あなたがたは何を求めているのですか。」
と問い掛け、
 「来なさい。そうすればわかります。」
と私たちを招いています。この招きに従うなら、私たちは自分の魂が何を求めているのかがわかる、素晴らしい喜びを味わうことができます。
 「あなたがたは何を求めているのですか。」
 「来なさい。そうすればわかります。」
 このように私たちに話し掛けて下さっているイエス・キリストに付いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2014イースター招待礼拝

2014-04-18 09:10:13 | 特集
2014年4月20日午前10時半~

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4月20日イースター招待礼拝プログラム

2014-04-17 10:44:49 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月20日 イースター招待礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 イースター招待礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                  関姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉       253
 交  読  ルカ23:33~46
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  つきぬ喜びを注がれる主よ    11
 讃 美 ③  主とともに罪に死に      312
 聖  書  ヨハネ1:35~40
 説  教  『復活したイエスと出会う喜び』 小島牧師
 讃 美 ④  私をゆるすために       314
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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上からも下からも力を与えて下さるキリスト(2014.4.16 祈り会)

2014-04-17 08:34:24 | 祈り会メッセージ
2014年4月16日祈り会メッセージ
『上らも下からも力を与えて下さるキリスト』
【ピリピ2:6~11/マルコ15:13~32】

はじめに
 いま私たちは受難週の中を歩んでいます。先日の日曜日はパーム・サンデー、棕櫚の聖日でした。明日の木曜日は最後の晩餐、明後日の金曜日はキリストが十字架に付けられた日、そして次の日曜日はイースターです。
 ですから今週は使徒の働きの学びはお休みにして、十字架について学ぶことにします。後でマルコの福音書を開きますが、その前に、まずピリピ書を開きます。

人間になった神
 ピリピ人への手紙2章6~11節です。新約聖書のp.384(第二版はp.352)です。交代で読みましょう。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 6節から8節までを読むと、キリストの受肉と十字架での死がどのようなものであったかがわかります。6節、

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

 人間は、神よりも遥かに劣った存在です。聖書の神は万物を創造して人に命を与えましたから、神は人間と比べたら遥かに大きな存在です。日本人の多くは神社の神を少し軽く見ているような所があると思いますから、神がいかに大きな存在かが、わかっていないだろうと思います。
 日本の神社は、大きな神社になると、一つの敷地の中に、神殿の他にいくつもの小さな社があったりします。大きな神殿の前には大きな賽銭箱が置いてありますが、小さな社にも小さな賽銭箱が置いてあります。私はキリスト教の信仰を持つ前、それらの小さな社が気になって仕方がありませんでした。大きな賽銭箱だけでなく、小さな賽銭箱にもすべて賽銭を入れないと神様に申し訳ないような気がしていました。小さな社の賽銭箱にも賽銭を入れないと、小さな社の神様を無視しているようで気が休まりませんでした。しかし、私の周囲の人々は、あまり気にしていないようでした。それはつまり、普通の日本人は、小さな社の神々をけっこう軽く見ていると言って良いのだと思います。
 或いは、資源ゴミの置き場として地元の小さな神社の境内が使用されるケースなども見掛けます。ペットボトルや空き缶を回収する大きなカゴがいくつも置かれますが、それらが神社の鳥居の前に置かれたりします。そうして、神社の参道を複数の大きなカゴで完全にふさいでしまいます。私の目には、これは神社の神に失礼ではないかという気がします。私は神社の神を信仰していませんから、私が気にする必要はないのかもしれませんが、他人の家の玄関の前に大きなカゴを置いているようで何となく落ち着きません。
 このように一般の日本人は神社の神々を少し軽く見ているように思います。それが聖書の神様をも軽く見てしまうことに、つながっているのかもしれません。しかし、聖書の神様は万物を創造した神様ですから、決して軽く見てはなりません。聖書の神様は人よりも遥かに大きな存在です。その人間よりも遥かに大きな存在である神の御子イエス・キリストについてパウロはピリピ人への手紙の2章6節と7節で、

「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」

と書いています。神様の側から見れば、人間は非常に劣った存在です。イエス・キリストは驚くべきことに、自分よりも遥かに劣った人間になったのです。そして、それだけでなく、人間の中でも、最も低い位置にまで遜りました。8節、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 イエス・キリストはご自身よりも遥かに劣る人間の姿になり、さらに逮捕された後には自分よりも遥かに劣った人間に鞭打たれ、傷だらけになった挙句にさらに侮蔑・嘲笑の声を浴びせられながら十字架に付けられて死にました。人々がイエス・キリストに対してどのようなことをしたかを、今度はマルコの福音書を開いて読みましょう。

最も低い位置に身を置いたキリスト
 少し長いですが、マルコ15章の13~32節を交代で読みましょう。新約聖書のp.100(第二版はp.92)です。

15:13 すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。
15:14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。
15:15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
15:16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。
15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
15:22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。
15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 この時、イエスの弟子たちは逃げてしまっていましたから、イエスは全くの孤独でした。こうして、イエス・キリストは肉体的な苦痛だけでなく、精神的な苦痛も受けていました。そしてイエスは、叫びました。

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ15:34)

 受難週の今週、私たちはイエス・キリストがこれほどの苦しみを味わい、ドン底の中におられたことを、改めて胸に刻みたいと思います。
 イエスさまは、このドン底にいる時、自分を嘲る人々に向かって一言も反論しませんでした。どうして反論しなかったのでしょうか。それは、もし反論して批判し返すとしたら、ご自身をそれらの人々よりも高い位置に置いてしまうことになるからでしょう。イエスさまは敢えて、人間の中でも最も低い位置にご自身を置きました。
 だからこそ、イエス・キリストは世界中のドン底の中にある人々の心に寄り添い、救うことができます。ドン底を味わったからこそ、ドン底の中にある人々を下から支えることができます。そしてイエス・キリストはドン底から私たちを支えるのと同時に、上からも私たちに力を与えることができます。なぜならイエス・キリストは天の御父と一つだからです。

下からも上からも私たちを支えるキリスト
 ヨハネの福音書は、イエス・キリストについて、「この方は、初めに神とともにおられた」(ヨハネ1:2)と書いています。また、イエスは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言いました。さらにイエスは、御父への祈りの中で御父に対して「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいる」とも言っています。
 このように、イエス・キリストは天の御父と一つの存在です。それゆえイエスさまは私たちを一番下から支え、且つ、上からも私たちに力を与えて下さいます。下からも上からも私たちを支え、力を与えて下さるとは何と素晴らしいことでしょうか。このことを念頭に置いて、もう一度、ピリピ人への手紙2章6~11節を交代で読みたいと思います。新約聖書のp.384(第二版はp.352)です。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 私たちはこの、ほめたたえられるべき天の御父と御子イエス・キリストのお役に立てるように、もっと励まなければならないと思います。そのために、この地域の方々のために、もっともっとお祈りできる教会になりたいと思います。

おわりに
 先週の祈祷会の翌日の木曜日に、片浜駅の近くの交差点で小学5年生が交通事故で亡くなる悲しい事故がありました。そして、昨日の火曜日の夕方、沼津駅の近くの三芳町で火事があり、一人の方が亡くなりました。わずか1週間足らずの間に、このような悲しい事故があって残念でなりません。そして私は個人的にも、また祈祷会や週報で祈りの課題を挙げる教会の牧師としても、地域のための祈りが足りなかったことを悔やんでいます。
 私たちは、地域の方々の魂の救いのためにも、もちろん祈らなければなりません。しかし、それ以前に、先ずは地域の方々が安全に暮らして行くことができるように祈らなければならないと思います。
 神様は下からも上からも私たちを支え、力を与えて下さる方です。この力ある素晴らしい神様が地域の方々を守って下さるよう祈り、そして、その上で、地域の方々が、この神様を知ることが出来るように、伝道に励んで行きたいと思います。そうして地域伝道の中心となるこの教会の会堂も与えられますように祈って行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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熱狂的な歓迎と激しい批判(2014.4.13 棕櫚の聖日礼拝)

2014-04-14 09:57:17 | 礼拝メッセージ
2014年4月13日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『熱狂的な歓迎と激しい批判』
【マルコ11:6~11、15:6~15】

はじめに
 イースターの聖日の1週間前のきょうは、棕櫚の聖日です。イエス・キリストがエルサレムの近くまで来た時、人々は木の葉を枝ごと切って来て、これを打ち振ったり、道に敷いたりして、熱狂的に歓迎しました。きょう開いているマルコの福音書には、この木が具体的に何だったのかは書いてありませんが、ヨハネの福音書には「しゅろの木」(ヨハネ12:13)と書いてあります。それで、教会では、この日を記念して「棕櫚の聖日」と呼びます。このようにしてユダヤの人々はイエス・キリストを熱狂的に歓迎しましたが、聖書朗読で読んでいただいた通り、人々は、わずか数日後には一転してイエスを激しく批判をして十字架に付けてしまいました。どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。きょうは、しばらく、そのことを、ご一緒に見て行きたいと思います。

イエスを十字架に付けた民衆
 きょうは順番としては、まず群衆がイエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んだ場面から見てから、時間を遡ることにしたいと思います。まず15章の6節から15節までを見ます。6節、

15:6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。

 ピラトとは、ユダヤを統治していたローマの総督のことです。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマとユダヤとは離れていましたから、ローマ帝国は総督を置いてユダヤを統治していました。この時、イエス・キリストは逮捕されてピラトの所に連れて来られていました。
 そして、「祭り」というのは過越の祭りのことです。逮捕される前の晩、イエスは最後の晩餐で弟子たちと過越の食事をしていました。この過越の祭りでは囚人を赦免するのが通例だったので、ピラトはイエスを釈放することを提案しました。しかし、11節、

15:11 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。

 この11節には、祭司長たちが群衆を扇動したと書いてあります。そして、13節に、祭司長たちに扇動された群衆が「十字架につけろ」と叫んだとあります。そして14節には、
「彼らはますます激しく『十字架につけろ』と叫んだ」ことが書いてあります。そして15節、

15:15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。

 ピラトが群衆の機嫌を取ろうと思ったのは、群衆がこれ以上騒いで暴動に発展したりすると、ピラトの総督としての地位が危うくなるからです。この事態を収拾できないとピラトには統治能力が無いとローマの皇帝に判断されて総督の職務を解かれてしまう、つまり首になることをピラトは恐れたのでしょう。
 さてしかし、イエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆は、どうして祭司長たちにあっさりと扇動されてしまったのでしょうか。イエスがエルサレムに近付いた時に人々は熱狂的に歓迎したのに、どうして手の平を返すように「十字架につけろ」と叫ぶようになってしまったのでしょうか。
 それは、イエスがユダヤの人々にとっては期待はずれの人物だったからでしょう。ユダヤの人々はユダヤの国がローマに支配されるのではなく、独立した国であることを望んでいました。自分たちが使っている銀貨にカイザルの肖像があるのは、ユダヤの人々にとっては屈辱的だったでしょう。また税金をローマに納めることも我慢ならないことだったでしょう。それゆえザアカイのような取税人は人々に嫌われていました。ですから人々は、このローマの統治から自分たちを解放してくれるダビデのような強い王が現われることを願っていました。そして、遂にその強い王が現われたと思ってユダヤの人々はイエスを熱狂的に歓迎しましたが、イエスは簡単に捕まって、ローマの総督にも何も抵抗できないような弱々しい姿をさらしていました。人々の期待が大きかっただけに失望も大きく、それで群衆は簡単に扇動されて「十字架につけろ」と叫ぶことになってしまったのだと思います。

民衆を期待させたイエス
 では、そもそもどうしてユダヤの人々は、そんなに期待を膨らませてしまったのでしょうか。次に、マルコ11章を見てみましょう。さきほど聖書朗読で読んでいただいた箇所は11章の6節からですが、1節と2節をお読みします。

11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

 ここにあるように、イエスは二人の弟子に、ろばの子を引いて来るように言いました。そうして7節で読んだように、弟子たちはイエスさまの所にろばを引いて行って、イエスはろばの子に乗りました。この光景を見たユダヤの人の中でゼカリヤ書の預言を知っていた人が少なからずいたのでしょうね。人々は、「ホサナ」、「救ってください」と言って、イエスを熱狂的に歓迎しました。このゼカリヤ書の預言を、マタイとヨハネは引用していますが、マルコは引用していませんので、直接、見てみることにしましょう。ゼカリヤ書の9章9節(旧約聖書p.1555)です。ご一緒に読みましょう。

9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 このゼカリヤ9:9には、あなたの王がろばに乗ってあなたの所に来て、救いを与えるから喜び叫べと書いてあります。だから、イエスがろばに乗ってエルサレムに向かっている光景を見て、人々は自分たちに救いをもたらす王が遂に来たと思って熱狂的に歓迎したのですね。
 では、もしイエスがエルサレムにろばの子に乗らずに歩いて行ったらどうだったでしょうか。それは容易に推測できることですが、人々が、これほどまでに熱狂的に歓迎することはなかったでしょうね。つまり、イエスは人々が熱狂するよう、わざとろばに乗ってエルサレムに向かったのだと言うことができると思います。
 それは、何故なのか。それは、神の御子イエス・キリストは十字架に掛かるために、この世に生まれ、30歳になった頃にガリラヤで宣教を始めて、そうしてエルサレムに入ったからでしょう。もし目立たない形でエルサレムに入ったなら、十字架に掛かるという目的を達することができなくなってしまいます。イエスがわざわざ、ろばの子に乗って人々の期待を大きく膨らませることに成功したからこそ、この熱狂的な歓迎という民衆のエネルギーを、今度は「十字架につけろ」と激しく叫ばせるエネルギーに転換させることができたのだと思います。ローマの総督のピラトはイエスには罪が無いことに気付いていました。ですから、通常ならイエスが十字架に付けられることはありませんでした。しかし民衆の大きなエネルギーがイエスを十字架に付けさせたのでした。

賞賛から批判へ転じる人々
 民衆の大きな期待が大きな失望に変わり、期待をさせた者が激しく批判されることは、現代にも良くあることでしょう。日本の政治で言えば、民主党が「政権交代」を掲げて戦った2009年の総選挙では国民の支持を得て圧勝して政権を取りました。しかし、国民の期待は間もなく失望へと変わり、2012年の総選挙では自民党に惨敗して政権を失いました。或いはまた前の東京都知事の猪瀬さんは、個人としては選挙史上最多の得票数を獲得して当選しましたが、わずか1年後に、徳洲会から資金提供を受けた問題で激しく批判されて辞任しました。また、音楽の世界では佐村河内さんが、科学の世界では小保方さんが大きく賞賛された後に激しく批判されるという目に遭っています。
 これらの事について、私のごく個人的な意見を言わせてもらうなら、もし始めに支持を表明したなら、たとえ世間が批判に転じても支持し続けてあげたら良いのにと思いますし、もし失望して支持し続けることが困難なら、支持した自分に人を見る目が無かったことを恥じて、激しく批判することは控えたら良いだろうにと思います。激しく批判する資格があるのは始めから支持していなかった人だけで、始めは支持していた人が批判する時には少しは控えたら良いのにと思います。そうすれば、熱狂的な賞賛が激しい批判に転じることはないだろうと思います。ですから私は民主党や猪瀬さん、佐村河内さんや小保方さんを激しく批判する人々を見ると、まるでイエス・キリストを激しく批判して十字架に付けた民衆を見るようで、苦々しい気分になります。それは私自身がキリストを十字架に付けた身であるから、余計にそのように感じるのでしょう。
 しかし、民衆というのは、昔も今もそのようなものですから、イエス・キリストはその民衆のエネルギーを利用して、十字架に付くという目的を達したのだと思います。ですから、ろばに乗って民衆に熱狂的に歓迎されたイエスさまは、一体どんな気持ちでいたのだろうかと想像すると、私はとても切ない気持ちになります。イエスさまは最後の晩餐の後で、ゲッセマネの園で「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)と天の父に祈っていますが、十字架に付くことは、もはやイエスさまご自身が敷いたレールに乗った既定路線となっていました。

心変わりする私たちを赦すイエス
 先週の聖餐式礼拝で私たちは聖餐の恵みに与ることができました。イエスは私たちの心がいかに変わりやすいかということを十分にご存知の上で私たちにパンを裂いて与えて下さいました。このことを思うなら、私たちはそんなに簡単に人を批判できないのではないかと思います。この食事の後でイエスはペテロに、「あなたは、きょう、今夜、鶏が鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」と言われました(マルコ14:30)。このイエスの言葉に対してペテロがどう答えたか、マルコの福音書は次のように書いています。

14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

 しかし、イエスの予告通りのことをペテロはしてしまいました。そんなペテロをイエスは一言も批判しなかったことは、皆さんご承知の通りです。図らずも心変わりしてしまったペテロは結果的に嘘をついてしまったことになりますが、イエスはそんなペテロを赦しました。それはイエスがペテロを愛していたからですね。イエスはペテロを裁かずにペテロを愛しました。 人がいかに心変わりをしやすいかは、旧約聖書を読んでいても良くわかります。しかし、神さまは忍耐強く私たちを愛し続けて下さっています。

非寛容になっている社会
 私は最近の世の中の大きな流れとして、過ちを犯した人への批判が激しさを増す方向にあることを、とても残念なことと思いながら見ています。猪瀬さん、佐村河内さん、小保方さんへのバッシングもそうですし、或いはまた裁判などで犯罪の加害者に厳罰を求める傾向にあることも、いかがなものかと思っています。
 例えば、犯罪の被害者の家族が、加害者への厳罰を求めるのは、ごく自然なことだとは思います。しかし、その家族の気持ちをマスコミが大々的に報道するのは、いかがなものでしょうか。殺人事件で家族を失った遺族が、犯人が死刑になることを望むのは自然なことだと思います。しかし、それは自然なことではあっても当然のことではないと思います。死刑になって欲しいのは人が持つ自然な感情ですが、それに対して神様は赦しなさいとおっしゃっています。ですから殺人犯は死刑になって当然だと思ってはなりません。それなのにマスコミは、家族の心情を大々的に報道したりするので、いつの間にか日本人の多くの心情は、罪を犯した者は厳罰に処せられて当然だという方向に移って行っているように感じます。一般の市民が裁判に参加する裁判員制度では、法律の専門家だけによる裁判に比べて量刑が重くなる傾向があることも、そのことを示しているでしょう。猪瀬さんや佐村河内さん、小保方さんへのバッシングもそのような流れの中で、激しいものになってしまっているのではないかと私は感じています。
 しかし、マタイの福音書の山上の説教でイエス・キリストは、このように言っています(マタイ7:1,3,4)

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:3 なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください」などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

 人の悪い所を探してばかりいると、自分の大きな欠けに気付かないことになってしまします。クリスチャンも気を付けていないと、聖書の神様を信じようとしない人々を批判的に見てしまう場合があると思います。しかし、人を批判的に見る前に、もっとやるべき事があるのかもしれません。

私に足りなかったこと
 3日前の4月10日木曜日の朝、片浜駅の近くの2つの県道が交わるT字路で交通事故があり、小学5年生の男の子が死亡しました。事故があった時、母親も近くにいたとのことですから、お母様の悲しみはどれだけ大きいか、計り知れません。その現場はこの教会からそれほど離れていませんから、私はその日の午後、現場へ行って祈りを捧げて来ました。そして、それ以来私は、地域の子ども達の安全のための祈りや、地域の人々のための祈りが足りなかったことを悔やんでいます。
 2年前の2012年の4月23日、京都府の亀岡市で登校中の小学生の列に自動車が突っ込んで二人が死亡する事故がありました。当時、私は姫路教会の牧師でしたから、その時以来、姫路教会の祈祷会ではほぼ毎週のように地域の小学生の交通の安全のためにお祈りをしました。しかし、沼津に来てからは、私は地域の子どもたちの安全のための祈りをしなくなってしまっていました。地域の人々の魂の救いのためには祈りましたが、地域の人々の交通の安全や、その他のあらゆる危険から守られるようにというお祈りはしなくなってしまっていました。私は、このことをとても悔やんでいます。
 事故のあった木曜日の夕方、いつものように私は海岸の堤防の上をジョギングしました。駿河湾と富士山、夕陽と広い空を見ながら、私は、いつも以上に神様がこの地域の人々を愛していることを強く感じました。そして、私たちの教会が、この地域での働きを担っているのは、神様がこの地域の人々を愛しているが故であることを改めて思わされました。ですから、私たちの教会は、もっともっと、この地域の方々と神様のお役に立てる教会にならなければならないと思います。
 私がこの教会に着任してからのこの1年、この地域の方々のお役に立てていないことを、私は神様に申し訳なく思います。
 まずは、私個人として、そして教会としても、この地域の方々のために、もっともっと祈ることができる教会でありたいと思います。そして、やはり、今のような普通の住宅ではなくて、専用の礼拝堂がある会堂が、どうしても必要だと思います。この地域で、いろいろな思い悩みを抱えた方々も、一歩礼拝堂に入ってそこに身を置くなら思い悩みから解放されて心の平安が得られるような、そんな礼拝堂を備えた会堂が欲しいと思います。そして、先日の交通事故のように、この地域で悲しい出来事があった時には、皆が礼拝堂に集ってお祈りを捧げることができるような教会になると良いなと思います。
 人の批判や争い事のニュース、そしてまた悲しい事故のようないたたまれないニュースが多い中、神様の愛をたっぷりと感じられる、癒しと平安が与えられる空間としての礼拝堂があったら、どんなに良いだろうかと思います。

おわりに
 きょうの聖書交読で読んだイザヤ書53章の5節には、

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

とあります。
 事実として、私たちは十字架のイエス・キリストによって平安と癒しを得ています。この癒しと平安はとても霊的な恵みですから、教会に来てイエス・キリストと出会うのでなければ決して得られない恵みです。キリストへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、キリストの打ち傷によって、私たちはいやされます。この不思議な平安と癒しは霊的なものであるが故に理屈では説明できませんから、教会でイエス・キリストと出会う必要があります。
 この霊的な平安と癒しを私たちにもたらすために、イエス・キリストはろばの子に乗ってエルサレムに向かい、そして十字架に掛かりました。
 受難週の今週、この時のイエスさまの気持ちに思いを巡らしたいと思います。そうして私たちの教会は、イエスさまのお役に立てる教会へと成長して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月13日 棕櫚の聖日礼拝プログラム

2014-04-10 09:30:48 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 棕櫚の聖日礼拝 順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに        134
 交  読  イザヤ書53章 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  カルバリ山の十字架      120
 讃 美 ③  丘に立てる荒削りの      118
 聖  書  マルコ11:6~11、15:6~15
 説  教  『熱狂的な歓迎と激しい批判』 小島牧師
 讃 美 ④  若葉のもえるナザレの里    106
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
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一人一人に着せられる力(2014.4.9 祈り会)

2014-04-09 23:46:47 | 祈り会メッセージ
2014年4月9日祈り会メッセージ
『一人一人に着せられる力』
【使徒2:1~13】

はじめに
 先聖日の聖餐式礼拝は多くの恵みをいただけて感謝でした。
 祈祷会では「使徒の働き」を学んでいます。きょうから2章に入ります。先週は1章の14節までを読みました。15節から26節までは、飛ばします。この箇所には、イエスの12人の弟子のうちの一人のイスカリオテのユダが死んで欠けができましたから、代わりにマッテヤが選ばれて11人の使徒に加えられたことが書かれています。
 イエスが天に上った後、彼らはこのようにして過ごしていました。先週も学びましたが、12弟子の他にも婦人たちやイエスのマリヤ、およびイエスの兄弟たちも集って、みな心を合わせ、祈りに専念していました。
 そうして、2章1節に、五旬節の日の出来事が書かれています。この使徒の働き2章の出来事については、毎年の五旬節の日、すなわちペンテコステの日には必ずと言って良いほど引用される箇所だと思います。今年のペンテコステの日は6月8日です。きょうは、その2ヶ月前に当たりますが、この箇所の学びをしておきたいと思います。

五旬節の日にくだった聖霊
 1節と2節、

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 聖霊がくだる時というのは、本当にこのような響きが起こるものだと思います。私も、一度、このような経験をしました。
 神学生の2年生の時、私は聖日のご奉仕は深川教会でしていました。そして、この1年間のご奉仕も終わりに近づいた頃に、礼拝で説教をする機会を与えていただきました。そして、説教が終わった後の感謝祈祷では、横山先生が祈りを捧げて下さいました。そのお祈りの最中に、私は正に使徒2:2にあるように、会堂全体が響き渡るようにして聖霊がくだるのを感じました。この日の説教の後で、説教に恵まれたとおっしゃって下さった教会員の方がいらっしゃいましたが、実は一番恵まれたのは説教者である私だったと思っています。横山先生の霊的な祈りを聞けたことは、本当に素晴らしい経験でした。実は、この日の説教はヨハネの福音書の2章のカナの婚礼の場面からでした。当時、私は神学生の2年生でしたから、まだヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼の背後には使徒の働き2章のガリラヤ人への聖霊の注ぎがあることには気付いていませんでした。そのことに頭で気付いたのは、この時から2年後のことですが、既にその2年前に、霊的には横山先生の祈りによって気付きが与えられていたのかもしれません。霊的な気付きというのは、そうやって天から与えられるものだと思います。

キリストの証し人になる力を与える聖霊
 3節、

2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

 こうして、この五旬節の日に、イエスの弟子であるガリラヤ人たちに聖霊がくだりました。このことは、1章8節でイエスさまが予告された通りですね。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 このイエスさまの予告通り、弟子たちには聖霊がくだりましたから、弟子たちは力を受けました。その力とは、イエス・キリストの証し人になるための力です。先週、ルカの福音書の24章を開きましたが、きょうは、もう一度、ルカ24章の終わりの方を開きたいと思います。45節から49節までを交代で読みます。49節は、ご一緒に読みます。

24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 ここにも、先ほどお読みした、使徒の働きの箇所と同じことが書いてあります。48節までに、弟子たちはイエス・キリストの証し人であり、弟子たちはその証しをするための力を着せられるとイエスさまは弟子たちにおっしゃいました。

力を着せられる私たち
 この、「力を着せられる」という表現は、面白い表現だなと思います。力とは正に上から与えられるものであって、何かの鍛錬によって自分で力を付けるのとは全く違うのだということを、しっかりと読み取りたいと思います(以降、「着せる」の解釈はギリシャ語までは遡らず、新改訳の「着せる」で感じたことを語ります)。
 この「着せられる」で思い出したのは、私の兄の娘である姪が、まだ小さかった頃のことです。この姪は、今では結婚して子供も一人います。この姪が、まだ3歳ぐらいの時だったと思いますが、家族で箱根への一泊旅行に行った時でした。私の父もまだ健在で、私の両親と、兄と妹、そして兄の家族と皆で箱根旅行に行きました。そして旅館で一泊して次の日の朝、兄のお嫁さんが姪に、前の日と違う服を着せようとしたんですね。すると、姪は、この服が気に入らなくて「着るのは嫌だ」と言い出しました。でも旅行中で他に着せる服がありませんから、親は娘に、「この服しか無いから着なければダメ」と言って、強引に着させようとしました。そうしたら、姪はワンワン泣き出して、着ることを拒否しました。結局どうしたか、良く覚えていませんが、こんな我儘な子だったら将来が思いやられると思ったことを覚えています(しかし、この姪は立派に成長しましたから、私の心配は杞憂でした)。
 先週も話ましたが、教報の院報の欄に「私の神学生時代」というコラムがあって、私に5月号への原稿依頼が来ています。明日の10日が原稿の締切日なので、きのう原稿を書きました。そして、冒頭の聖句を、このルカ24:49の、「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」としました。伝道のご奉仕をするためには、本当に、神様に力を着せていただかなければ、何事も為し得ないと思います。神学院という所は、その伝道のご奉仕をする力を神様に着せていただくための訓練の場だと思います。その訓練の場は、いろいろと規則の多い所で、その規則に自分を当てはめて行くことは、大変であり、多くの苦痛を伴いました。しかし今では、それは神様に力を着せていただくために必要なことであったと思っています。神様が私に着せようとする服がLサイズである時に、もし私の体のサイズがLLだったら、Lまで体を絞らなければ神様に力を着せていただくことはできません。

一人一人に着せられる力
 そして伝道の使命が与えられている教会においても同じように考えるべきであろうと私は考えます。私たちに聖霊が与えられているのは、私たちがイエス・キリストの証し人となるためです。4節に、

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 弟子たちは皆、ガリラヤ人であったのに、9節以降にあるように、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たちの言葉で、話し始めました。これは皆、イエス・キリストの証しをするために与えられた外国語を話す力です。
 10年ほど前、まだ私が洗礼を受けてから間もない頃のことですが、高津教会の同世代の兄弟たちの集まりの中で、私は、このガリラヤ人たちのように聖霊によって韓国語を話せるようになりたいと発言したことがあります。それは当時の私が韓国人留学生への留学生教育をしていたからです。これを聞いていた藤本先生は、きっと心の中で、「こいつは全然わかっていないな」と思っていたことでしょう。もし私が韓国人に韓国語でイエス・キリストを宣べ伝えたいと思っていたなら、神様は私が韓国語を話せるようにして下さったかもしれません。でも私は、単に自分の仕事が上手く行くために韓国語が話せるようになりたいと思っていただけですから、私は、この使徒の働き2章の意味が全くわかっていませんでした。
 神様が私たちの教会に、聖霊の力という服を着せて下さろうとしているのは、この地域の方々に、イエス・キリストを宣べ伝えるためです。このことを、私も含めて私たちが勘違いするとしたら、力を着せていただくことは不可能であろうと思います。何か勘違いをしているようでしたら、3歳の頃の私の姪が、この服を着るのは嫌だと我儘を言ったのと同じことになってしまうと思います。
 神様がこの教会に求めていることは、一体何なのか、神様の御心を知るのは簡単ではありませんが、神様が着せて下さろうとしている力とは何かを、私たちは霊性を整えて知る努力をしなければならないと思います。

おわりに
 先日の聖日の午後、私は河村先生に、ヨハネの永遠観をどう広めて行ったら良いかについて相談しました。そして、先生からいくつかの有益なアドバイスをいただくことができました。それで私は、少し戦法を変える必要があるかなと思っているところです。
 これは私に関することですが、神様が私たちに聖霊の力を与えようとしていることは確かなことですから、皆さんのお一人お一人にとっても、神様が着せようとしてらっしゃる服が、それぞれにあるのだと思います。お一人お一人が異なる賜物を与えられていますから、それに合った力を神様は着せようとしておられると思います。それが何なのかを見誤ると、伝道の働きが思ったように進まないということになります。
 私たちの一人一人に神様が何を求めていらっしゃるのか、さやかに神様の声を聞くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月6日聖餐式礼拝プログラム

2014-04-03 10:44:31 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月6日 聖餐式礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第1聖日 聖餐式礼拝順序

 司  会             小島牧師
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なる 聖なる 聖なるかな    1
 交  読  詩篇23篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  われらはキリストのもの    232
 讃 美 ③  主が備えられた        411
 聖  書  第一コリント11:17~34/ヘブル4:14~16
 説  教  『聖餐の心備え ~恵みによって近づく』 河村牧師
 聖 餐 式  しみも咎も          261
 讃 美 ④  川のような平安が       438
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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御父と御子と交わる喜び(2014.4.2 祈り会)

2014-04-03 09:50:50 | 祈り会メッセージ
2014年4月2日祈り会メッセージ
『御父と御子と交わる喜び』
【使徒1:12~14】

1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

はじめに
 使徒の働き1章の学びを続けて行きます。
 きょうの箇所は、イエス・キリストが復活して40日後から50日後の間の10日間に弟子たちがどのように過ごしていたかが書かれています。

変えられた弟子たちとイエスの家族
 弟子たちは12節にあるように、オリーブ山からエルサレムに帰りました。安息日の道のりほどの距離ということですから、せいぜい1kmほどの近い距離です(安息日に長い距離を移動することは禁じられています)。
 そして13節にあるように彼らは屋上の間に上がりました。ここに挙げられている名前は、12人の弟子たちからイスカリオテのユダを除いた11人の弟子たちの名前ですね。この11人の弟子たちと、婦人たちとイエスの母マリヤ、それにイエスの兄弟たちは、みな心を合わせ、祈りに専念していました。イエスの母マリヤとイエスの兄弟たちは、かつてイエスが人々に教えていた時にイエスをナザレの家に連れ戻そうとしたこともありました。この時の母と兄弟たちは、イエスがどのような存在かをわかっていませんでしたが、イエスの十字架と復活を経て、わかるようになっていました。
 イエスさまが十字架に付けられて死んだ時の衝撃は、肉親である母と兄弟たちのほうが弟子たちよりも大きかったことと思います。特に母マリヤの悲しみは想像を絶するものであったと思います。そのイエスがよみがえったことで、母マリヤと兄弟たちは変えられ、弟子たちも変えられました。

喜びを抱いた弟子たちと家族たち
 この弟子たちとイエスの家族たちの変えられ方で注目すべきこととして、彼らが非常に喜びを抱いていたことを挙げたいと思います。ルカの福音書の最後の方を見てみましょう。44節から53節までを交代で読みましょう。

24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 52節に、彼らは非常な喜びを抱いてエルサレムに帰ったとあります。普通の人間的な感覚では、イエスさまが天に上って去って行ってしまったら、喜びよりも寂しさを感じるのではないかなあと思います。しかしルカは、彼らは非常な喜びを抱いてエルサレムに帰ったと記しました。イエスさまは地上を離れて天に去って行ってしまわれたのに、どうして彼らは寂しく思わずに喜びを抱いたのでしょうか。

御父と御子との交わりに入れられる喜び
 それは、彼らがイエス・キリストが神の御子であることがわかり、自分たちが神の御子と実際に交わることができたという喜びなのであろうと思います。ヨハネは福音書に、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)と書いています。またヨハネの手紙第一でヨハネは、

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

と書いています。私たちもまた御父および御子イエス・キリストとの交わりが大きな喜びをもたらすことを知っていますから、弟子たちとイエスの家族たちも、御父と御子との交わりに入れられた喜びを感じていたのだろうなと思うことです。だからこそ、ペンテコステの日に聖霊が注がれるとただちにペテロが力強く説教を始めることができた(使徒2章)のではないかと思います。そうでなければ、そんなにすぐに使徒2章14節以降にあるような説教はできなかっただろうと思います。聖霊の注ぎは、まさにイエス・キリストを証しするための力を与えるものであり、その証しの力を与えられる以前から喜びは与えられていたのだろうと思います。
 先日の礼拝で私は、ヨハネ4章から、霊とまことによって礼拝することの大切さを語らせていただきました。霊とまことによる礼拝がどのようなものなのかは、非常に分かりづらいのですが、このルカの福音書と使徒の働きで弟子たちとイエスの家族たちが非常な喜びを抱いていたことは、大きなヒントになるだろうと思います。弟子たちとイエスの家族たちは、御父と御子との交わりの中に入れられたことを感じて非常な喜びを感じていたのだろうと先ほど話しましたから、私たちも御父と御子との交わりの中にいる喜びを感じながら神を礼拝することが、霊とまことによる礼拝を捧げることと言えるのではないかと思います。イエス・キリストは旧約の時代にも使徒の時代にも現代にもいる、つまり永遠の中にいるイエス・キリストを思い、そのことに喜びを感じるなら御父と御子との交わりの中に入れられており、私たちがその喜びの中で礼拝を捧げるなら、霊とまことによる礼拝を捧げることができているのではないかと思います。そのような喜びに溢れた礼拝を捧げることができるなら、私たちには大きな贈り物が与えられるのではないでしょうか。

おわりに
 使徒の働き1章に戻ります。もう一度、14節をご一緒に読みましょう。

1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 この心を合わせ、祈りに専念していた時の皆の心の中には喜びがありました。そうして喜びと期待をもって約束の聖霊が与えられることを祈っていました。私たちの礼拝にも、こういう喜びと期待が必要なのだろうと思います。
 パウロも、テサロニケ人への手紙に、

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)

と書いています。
 私たちが喜びと期待をもって礼拝を捧げることができますように、お祈りいたしましょう。
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2014年1月~12月の行事予定

2014-04-02 13:56:24 | 行事予定
2014年1月~12月の行事予定(インマヌエル沼津キリスト教会)

 1月 1日(水) 元旦礼拝 午前10時半~ (午後の祈り会はありません)
 1月 5日(日) 新年礼拝
 4月 6日(日) 聖餐式礼拝
 4月20日(日) イースター礼拝 →チラシを見る
 5月11日(日) 母の日礼拝
 6月 8日(日) 五旬節礼拝
 9月15日(祝) さんびと聖書の集い →チラシを見る
10月26日(日) 召天者記念礼拝
12月14日(日) クリスマスの集い 午後1時半~
12月21日(日) クリスマス礼拝  午前10時半~
12月24日(水) キャンドル・サービス 午後7時~
12月28日(日) 年末感謝礼拝

2015年
 1月 1日(木) 元旦礼拝 午前10時半~
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