平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

特別でない中にある温かさ(2019.1.30 祈り会)

2019-01-31 18:43:56 | 祈り会メッセージ
2019年1月30日祈り会メッセージ

(前半)
『特別でない中にある温かさ』
【Ⅱヨハネ1~4】

1 長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。
2 真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。
3 父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。
4 御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。

はじめに
 うまく伝えられるか分かりませんが、この一週間私は「特別でない中にある温かさ」ということを感じ、思い巡らしましたので、前半はそのことをお証ししたいと思います。いろいろな例を挙げるので話があちこち飛びますが、最後は収束させて行きますから、ご辛抱いただきたいと思います。

合併に備えた前年の一年間

 一週間前の私は、教会総会の資料のコメント欄に何を書くべきかで非常に焦っていました。沼津教会の総会資料では前任の広瀬先生の時代から教勢(各集会の出席者数の動向)のページと財勢(各献金の額の動向)のページにコメントを書き入れることになっていて、最後のページには前年に関する総合評価を書くようになっています。私も広瀬先生の時代からの資料を踏襲して前年の教勢と財勢に関するコメントを記入して来ました。それらは、だいたい、「この数字が上がったのは感謝であった」とか「この数字が下がったので今年はもっと励みましょう」とか、そんなことでした。
 さてしかし、去年の一年間はA教会との合併に備える一年間でしたから、外向けの伝道活動はネットでの伝道を除けば特にしませんでした。合同礼拝でA教会に出掛けて行ったり、また、A教会や教団本部の先生に来ていただいてメッセージを取り次いでいただいたりするという特別な機会はありましたが、それらはいわば内輪の事情によるもので、外向けに何かをするということはありませんでした。クリスマスにも合同チラシには加わりましたが、私たちの教会でチラシを作って配布するということはしませんでした。そういう一年間を過ごしましたし、この教会としての活動はあと2ヶ月しかないのですから、去年の一年間の教勢と財勢の増減に関して何か私から偉そうにコメントをしても仕方のないように思いました。じゃあ、何をコメント欄に書けば良いか、何も思い浮かびませんでしたから、一週間前の私は焦っていました。

特別でない中にある温かさ
 そんな時に、ふと私のコメントでなく「みことば」を書いたらどうかと示されました。そうして試しに、ヨハネの手紙第二の1節から4節までを記入してみたところ、うまく当てはまった気がしました。そうして1世紀の教会の温かみを感じると共に、最初に言った「特別でない中にある温かさ」みたいなものを感じました。この独特の感覚を皆さんと分かち合うには、もっと説明が必要だと思いますから、少し話が飛びますが、今度は映画の話をします。
 去年の11月から『パウロ 愛と赦しの物語』という映画が全国で順次公開されています。聖書のパウロが主人公です。柿田川公園の向かいにあるシネプラザ・サントムーンでは昨年の11月頃に上映されていました。静岡市の東宝会館では今まさに上映中です。私はこの映画を観ようか観まいか少し迷いましたが、ネットで予告編を見て、観に行かないことに決めました(申し訳ありません)。なぜなら予告編で観るパウロが私の中にあるパウロのイメージとあまりに異なるからです。映画を観ることで私の中にあるパウロのイメージが壊されると困りますから映画は観ないことにしました。では私の中のパウロとは一体どんなイメージなのかと言うと、それは極めて漠然としたボワ~ンとしたものです。しかし私はそこにパウロの温かさを感じています。映画を観て、もしそのボワ~ンとしたものがシャープになってしまったら大変です。
 私が分かち合いたい「特別でない中にある温かさ」とは、そういうものです。映画のパウロは特別なパウロであって、そこに温かさを感じるのは難しいだろうと思います。また、温かさだけでなくパウロの大きさも矮小化されてしまうだろうと危惧します。ただし、パウロのことを全く知らない人にとっては、良い入口になるかもしれません。ですから、私は映画を全面的に否定する者ではありません。

ボワ~ンとしていることの大切さ
 さらに映画の話を続けます。先々週、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』という小説の話をしました。私はこの小説をとても気に入っています。この小説の主人公の若きピアニストたちは、ピアノを演奏することで聴衆に宇宙を感じさせるような凄い人たちです。これまでの音楽の概念を打ち破る壮大な時空間を感じさせる、そういう描写に溢れたこの小説を読むと私はうっとりしてしまいます。それほどすごいこの小説が、何と映画化されるということです。ネットで検索してみたら、既にキャストも発表されていて撮影が進められているようです。どんな映画になるか興味がないわけではありませんが、私はこの映画を恐らくは観に行かないだろうと思います(申し訳ありません)。小説が描く壮大な世界が限定化されて矮小化されてしまうのは嫌だからです。私の中では主人公たちの顔もボワ~ンとしていますが、特定の俳優の顔がそこに入るのは困ります。私は、このボワ~ンとしていることが、とても大事だと考えます。
 今度は逆のプロセスの話をしたいと思います。今の私の中のイエスさまはボワ~ンとしたとても大きな存在です。しかし、教会に通い始める前、そして通い始めてからもしばらくの間は、よく見るステレオタイプのイエス像(長髪で髭を生やしていて、裾の長い着物を着ていて、など)に私は縛られていました。そのようなイエス像に縛られている間は、私はイエスさまには一切親しみを感じていませんでした。それがいつからか、私の中のイエスさまと絵画などで見るステレオタイプのイエス像とが区別することができるようになり、私はイエスさまに親しみを感じるようになりました。絵画のイエス像というのは画家のイエス像であり、私のイエスさま像ではありません。その画家のイエス像に支配されている間は自分のイエスさまにはなっていませんでした。

普段の営みの中の温かさ
 今度は死んだ父の写真の話をします。死んだ父の写真はたくさんあります。しかし、写真というのは、だいたい特別な時に撮ります。私が父のことを思い出して温かさを感じるのは特別でない時の父です。そういう時には写真を撮っていませんが、私の心の中にはそういう時の父の姿が残っていますから、ときどき特別でない時の父を思い出しては父の温かさを懐かしんでいます。
 また話が飛びますが、『男はつらいよ』という映画が私はとても好きです。この映画の魅力は、やはり団子屋の「とらや(くるまや)」のお茶の間の特別でない日常的な風景にあるのではないかと思います。寅さんが恋をするマドンナたちも「とらや」のお茶の間に迎え入れられて、ほっとする時間を過ごします。とらやの人たちもマドンナに対して特別に接するのでなく、普段通りにごく自然に接します。
 そうして、教会の良さも、そういう普段の交わりの中にある温かさのようなものが大切なのだろうなと思いました。新しい方々に来ていただくためには、もちろん特別な集会を行うこともまた必要です。しかし、普段の教会生活での交わりの中にある温かさもまた、とても大切であろうと思いました。ですから特別な集会を催した時にも、できるだけ普段の温かさを感じていただけるようにすることもまた、大切なのだろうなと思いました。
 昨年の私たちの教会は、教勢も財勢も下がりましたが、「特別でない中の温かさ」というボワ~ンとしたものを感じる経験ができたことは、とても感謝なことではなかったかなと感じました。

(後半)
『神様がすべてを与えて下さる』
【マタイ6:25~34】

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

葬儀で感じたこと
 後半は、先週の火曜日に私が参加した葬儀で感じたことを、少し細かい事情も含めて、お証ししたいと思います。

(中略)

 信仰がなければ、自力でお金を何とかしなければならないと当然思うでしょう。ですから、相続の機会にできるだけ多く譲り受けたいと考えるのは当然でしょう。信仰があっても、できるだけ多く譲り受けたいと考えるとは思いますが、あまりガツガツしなくても神様が何とかして下さると私たちは信じます。
 誰でも、よほどお金があり余っている人でなければ、ほとんどの人は、もう少しお金があったら良いのになと思っていることでしょう。しかし、神様が与えて下さるという信仰を持っているなら、比較的淡白でいられるでしょう。一方、自力で何とかしなければならないと思っている人たちは、どうしても、もらえる時には、もらえるだけもらっておこうということになるのではないでしょうか。
 イエスさまはマタイ6章31節でおっしゃいました。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」

そして33節でおっしゃいました。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

 どうしたら、このようにおっしゃるイエスさまに多くの方々が心を寄せることができるようになるでしょうか。

自分自身のイエスのイメージを持つことの大切さ
 少し強引かもしれませんが、きょうの前半の話とつなげたいと思います。それは、多くの人がイエスさまをボワ~ンとした大きな存在として感じられるようになっていただくことが必要だろうと思います。イエスさまのイメージがシャープであればあるほど、自分とは関係ないと感じるのではないかと思うからです。
 前半で私はパウロの映画を観ないと言いました。ネットにある予告編の映像は非常にシャープにパウロの姿を描いています。その映像がシャープであればあるほど私の中のパウロと掛け離れます。私の中のパウロはもっとボワ~ンとしています。ボワ~ンとしているからこそ、私はパウロに心を寄せることができます。
 イエスさまも同じです。ステレオタイプのイエス像が私を縛っていた時には、私はイエスさまに心を寄せることはできませんでした。そんなイエスに自分の将来を委ねるわけにはいきません。ステレオタイプのイエスが「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と言っても私は言うことを聞きません。しかし、ボワ~ンとした私の中のイエスさまが「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」とおっしゃるなら、そのことばに従いたいと思います。
 私たちは自力で何とかしようとするのでなく、神様にすべてをお委ねする信仰生活を共に歩んで行きたいと思います。そのためには、人から与えられたイエス像ではなくて、自分の中でしっかりとイエスさまに出会う必要があります。そのようにしてイエスさまと交わることができるようになることも含めて、私たちは神様にすべてをお委ねして歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
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新しい契約(2019.1.27 礼拝)

2019-01-29 08:06:42 | 礼拝メッセージ
2019年1月27日礼拝・教会総会メッセージ
『新しい契約』
【マタイ18:21~27、26:26~29、ヨハネ17:21~23】

はじめに
 教会総会を前に短く(15分程度)、メッセージを取り次がせていただきます。
 先週の礼拝メッセージでは旧約の時代の古い契約について共に学びました。そして今日は新しい契約について共に学びます。

人々が神を信頼したから結ばれた古い契約
 先週話したメッセージの重要なポイントは、古い契約であっても新しい契約であっても神様に対して全幅の信頼を寄せることが前提になっているということです。そうして先週はアブラハムの時代とモーセの時代の事例をご一緒に学びました。神様はアブラハムに対して、彼の子孫が星の数のように増えるとおっしゃいました。その時、アブラハムにはまだ子供がいませんでしたし、しかもかなりの高齢になっていました。もし彼が疑い深い人間だったら神様の言うことを信じなかったでしょう。しかし、アブラハムは神様を信じました。神様はそれを義と認めてアブラハムと契約を結びました。そしてモーセの時代の人々も神様を信頼して、「主の言われたことをすべて行います」と口をそろえて言いました。それゆえ神様はモーセを通じてイスラエルの人々に律法を授けました。
 このように旧約の時代の古い契約は、まず人間の側が神様を信頼したからこそ結ばれたものです。決して神様が一方的に人間と契約を結んだものではありません。しかし旧約聖書の最後にあるマラキ書の時代の人々は、この前提を忘れていました。神様はマラキの時代の人々も愛していたのに、彼らは「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと言っていました。このマラキ書1章2節からは神様の深い失望を感じ取りたいということを先週は話しました。

新しい契約のために必要だった罪の赦し
 旧約の時代には神様のことばは預言者を通して人々に伝えられました。預言者は聖霊を受けていましたから、天の神様のことばを受け取ることができました。その神様のことばを預言者たちは人々に伝えていました。しかし、そのような間接的な方法では人々はどうしても神様から離れてしまうことになります。そこで神様は新しい契約を結んですべての人々に聖霊を授けることにしました。一人一人に聖霊を授ければ、人々は神様のことばを聖霊を通して直接受け取ることができます。預言者を通して間接的に神様のことばを受け取るのでなく、自分の内に入って下さった聖霊を通して直接神様のことばを聞くことができます。そうすれば神様から離れることはないでしょう。
 しかし、この新しい契約が結ばれるためには「罪の赦し」が必要でした。人々が聖霊を受けるには、人々はあまりにも罪で汚れていました。人がいかに罪深い存在であるかは、旧約聖書を読むと良く分かります。アダムとエバは神様が食べてはならないと言った善悪の知識の木の実を食べてしまい、アダムの息子のカインは弟のアベルを殺してしまいました。モーセの時代の人々は「主の言われたことをすべて行います」と言ったのに、わずかな期間の後に早くも神様から離れてしまいました。旧約の時代の人々の罪深さの事例を挙げ始めたら切りがありません。それぐらい旧約聖書には人間の罪深さを示す記述で溢れています。

罪の赦しのために十字架で流された血
 さて、ここからは新しい契約の話に進みます。新しい時代の契約においても人間の側が神様に全幅の信頼を寄せていることが必要です。それゆえイエスさまと弟子たちはガリラヤからエルサレムまでを時間を掛けて共に旅する中で信頼関係を築いていきました。そして、イエスさまは最後の晩餐の場で新しい契約を結ぶ時に、このようにおっしゃいました。マタイ26章28節です。

26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

 イエスさまは十字架に掛かって血を流しました。それによって人々の罪が赦されることになりました。
 この罪とは旧約の時代の人々が神から離れて犯した罪であり、そしてそれは現代の私たちの罪でもあります。現代の私たちもまた古い契約の時代の人々と同じくらいに神様から離れているという罪を犯しています。カインのような殺人は犯していないかもしれませんが、カインと同じくらいに神様から離れています。いえ、カイン以上かもしれません。
 その重い罪を神様は赦して下さるというのです。それがどれほど気前の良い話かということを例え話で伝えているのが、マタイ18章の21節から27節です。まず21節と22節を交代で読みましょう。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。

 なぜイエスさまが七回を七十倍するまで赦すべきとおっしゃったのか、それはペテロそして私たちがこれまで神様に何度も何度も赦していただいて来たからです。ペテロも私たちも、神様から離れる罪を犯した回数は七回では利かないでしょう。私たちは何度も何度も神様から離れる罪を犯し続けて来ました。七回を七十倍してもまだ足りないのではないでしょうか。そんな私たちを神様は赦して下さったのですから、私たちも他の人々を赦さなければなりません。

返済できないほどの負債を抱えている私たち
 多くの罪を赦していただいたペテロと私たちは一万タラントの負債を免除してもらった者に例えられます。23節と24節を交代で読みましょう。

18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。

 「清算」ということばが出て来ましたね。これは古い契約の時代の罪を清算して新しい契約の時代に入るということです。まず連れて来られた者は一万タラントの負債がありました。一万タラントがどれぐらいの金額か、下の脚注を見ると、「一タラントは六千デナリに相当。一デナリは当時の一日分の労賃に相当」とあります。これを現代の金額に直すと、最近は一日分の労賃が安いと思いますから一万円ももらえないと思いますが、計算し易くするために仮に一万円としましょう。すると一タラントは六千万円です。したがって一万タラントは一万×六千万円で、六千億円です。一日の労賃がこの半分だとしても三千億円です。年末ジャンボ宝くじが一等前後賞合わせて十億円ということですから、その何百倍もあります。
 私たちが犯した罪の大きさはそれほどまでに大きいのですね。これほどの大きな罪を償うことなど私たちには到底できません。つまり負債を返済することはできません。25節と26節を交代で読みましょう。

18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。

 テレビドラマなどでおなじみですが、26節の、「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」は、借金の返済を迫られた人なら誰でも言うことですね。言わば決まり文句です。しかし、そんな何千億円もの負債を返せるわけがありません。それで、27節。

18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

 何という気前の良さでしょうか。神様は素晴らしく気前の良いお方です。私たちが犯した神様から離れていた罪も、この神様の気前の良さによって赦されたものです。ただし、そのためにはイエス・キリストが十字架で血を流す必要がありました。

私たちが一つになるよう天の父に祈ったイエス・キリスト
 マタイ26章の26節から29節までを交代で読みましょう。

26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

 こうして私たちの罪が赦されたから、私たちは聖霊を授かることができたのですね。私たちが聖霊を受けるには、まずはイエスさまが十字架で血を流すことによって罪が赦される必要がありました。そうして初めて私たちは聖霊を受けることができるようになりました。
 イエスさまはまた、この最後の晩餐の場で私たちに一つになるようにおっしゃいました。最後に、ヨハネの福音書17章の21節から23節までを交代で読みましょう。

17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 これから私たちは教会総会を開いて、A教会と一つになるための議決を行います。このヨハネ17章でイエスさまが「一つになる」ことを天の父に祈ったのは、もちろんもっと大きなことのためです。教会同士が一つになるということよりも、もっと大きな単位で私たちが一つになるということです。しかし、その大きなことの中には私たちの教会がA教会と一つになるということもまた、含まれています。
 十字架によって罪が赦された私たちは、イエスさまの下で一つになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
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契約の前提となる神への全幅の信頼(2019.1.20 礼拝)

2019-01-21 08:10:34 | 礼拝メッセージ
2019年1月20日礼拝メッセージ
『契約の前提となる神への全幅の信頼』
【マラキ1:1~2】

はじめに
 この会堂で礼拝を捧げるのも、あと10回程度となりました。まだ細かい日程を決めていませんから、あと何回と正確に言うことはできませんが、概ねあと10回程度だろうと思います。
 この約10回の礼拝のメッセージで何をお話しするか、先週からあれこれ考えていました。去年の11月の段階では、聖書の書を一つずつ取り上げて「マタイの福音書の魅力」とか「ヨハネの福音書の魅力」などとすることを考えていました。しかし、ここへ来て、もう少し大きな観点からメッセージを取り次がせていただきたいと思いました。それで、これからの何回かは、旧約聖書と新約聖書とを交互に1回ずつ取り上げる形式にすることを考えています。 

誰もが聖霊を授かる恵み
 昨年の11月に『旧約聖書の魅力』というタイトルで1度お話をして、12月には4回、四つの福音書の魅力について私が感じていることを話しました。11月の『旧約聖書の魅力』においては、旧約の時代のイスラエルの民が、いかに神様から離れていたかということを話しました。イスラエルの民は、時々は悔い改めて神様と共に歩もうとしますが、すぐにまた神様から離れてしまいました。それは、彼らが聖霊を受けていなかったからだという話をしました。聖霊を受けないと内側からの神様の語り掛けがありません。ですから預言者を通して神様のことばを受け取るということになります。旧約の時代には預言者には聖霊が注がれていましたから、神様のことばを受け取ることができました。それを聖霊が注がれていない一般の人々に伝えていました。しかし、そういう間接的な方法では、人々はどうしても神様から離れてしまうことになります。そこで神様は、方針を大々的に変えて、一般の人々にも聖霊を授けることにしました。ただし無条件に聖霊を授けるわけではありません。これまで神に背を向けていた罪を認めて「イエスが神の子キリストである」ということを信じる者に聖霊を授けるという条件を設けました。
 これはものすごく気前の良い話です。どんな極悪人であったとしても、それまでの罪を認めて「イエスは神の子キリストである」と信じさえすれば救われて聖霊が授けられます。そうして聖霊を授かった者は神様からの語り掛けを自身の内側から直接受けることができるようになりますから、素晴らしい恵みの中に入れられます。去年の12月の四つの福音書の魅力を語るメッセージでは、そのような聖霊の観点から話をさせていただきました。

「契約」の観点から旧約と新約の時代を眺める
 さて今回と次回は「契約」という観点から旧約の時代と新約の時代を眺めてみたく願っています。ご承知のように旧約と新約の「約」は「契約」の「約」です。来週の教会総会では、私たちは合併契約書案に基づいてA教会と合併する契約を結ぶことについての承認の議決を行います。それゆえ、今週と来聖日は「契約」という観点から旧約と新約の時代を眺めるよう導かれました。

大きな悲劇を経験して来たイスラエルの民
 それでは、その入口として先ずは今日の聖書箇所を、もう一度、今度は交代で読みたいと思います。マラキ書1章の1節と2節です。

1:1 宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ【主】のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──【主】のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。

 マラキ書は旧約聖書の最後の書です。預言者マラキの時代まで、イスラエルの民はいろいろなところを通って来ました。彼らが神様から離れてしまうことが多かったことで、彼らは悲惨な目にも遭いました。どれが一番の悲劇か、一番とか二番とか順番を付けられるようなものではないかもしれませんが、敢えて順番を付けるとすれば一番の悲劇はノアの時代に洪水によってノアの一家以外の人類が滅ぼされてしまったことでしょうか。二番目に悲惨だったのは北王国の滅亡でしょうか。そして三番目は南王国の滅亡でしょうか(個人的な感想です)。
 なぜ北王国が二番目で南王国が三番目かというと、南王国の民はバビロンに捕囚に引かれてから約70年後にエルサレムに帰還することが許されたからです。一方で北王国の民はアッシリアに引かれた後、帰還することが許されず「失われた十部族」などとも呼ばれています。イスラエルの部族は12ありますが、ヨセフ族がマナセ族とエフライム族の二つの半部族に分かれましたから、「失われた十部族」を考える時には13の部族を考えると分かりやすいと思います。北王国がアッシリアに滅ぼされた時、南王国にいたユダ族、ベニヤミン族とレビ族の3部族だけが残りました。そして、これらの三つの部族は南王国の滅亡後も失われることなく残りました。これは不幸中の幸いだったと思いますから、十部族が失われた北王国の滅亡のほうが、より悲劇的であったと言えるのではないかと思います。

神の深い失望
 これらの悲劇を通して、イスラエルの民は神様との関係について様々なことを学んだはずです。しかし、結局は何も学んでいなかったのだなという、何とも言えないガッカリ感が、このマラキ1章2節からは漂って来ます。神様の失望感の深さは、いかばかりだったでしょうか。私たちは、神様の深い失望を、このマラキ1章2節から感じ取りたいと思います。

1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 このようにマラキの時代のエルサレムの民からは、契約の前提となる神様への信頼が全く感じられません。南王国のエルサレムはバビロン軍によって滅ぼされ、人々は捕囚としてバビロンに引かれて行きました。しかし約70年後にエルサレムへの帰還が許されてエズラの時代には神殿が再建され、ネヘミヤの時代には城壁が再建されました。これらはすべて、神様による守りと助けと励ましがあったからこそ、できたことです。そうしてマラキの時代に至っています。このように神様は人々を愛していて、再びエルサレムの神殿で礼拝を捧げることができるようにして下さいました。その神様に対して人々は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと寝ぼけたことを言っています。このようなイスラエルの民の不信仰に対する神様の失望感の深さはいかばかりだったでしょうか。
 旧約聖書を読み込まないと、このような人々に対する神様の深い愛とガッカリ感を感じることは、なかなか難しいかもしれません。しかし、このような旧約の時代における神様の深い失望があったからこそ、新約の時代を生きる私たちは父・子・聖霊の三位一体の神様から素晴らしい恵みをいただくことができるようになりました。このことを是非とも皆さんと分かち合いたいと思います。ですから旧約聖書を読み込むことを私は皆さんに強くお勧めしたいと思います。そうして神様の深い愛と失望感への共感を深めていただきたいと思います。

契約の前提となる「信頼」
 私たちが誰かと契約を結ぶ時、契約を結ぶ前に、先ず相手を信頼する必要があります。相手が信頼できるか分からないけれど、とりあえず契約してみて、ダメだったら破棄しましょうということはしないでしょう。相手が信頼できるからこそ契約書を交わして契約します。時おり報道される会社同士の合併などを見ていても、会社のトップの社長同士の話し合いで「合併しましょう」ということになっても、そのまま合併契約に至るとは限らないことが分かります。両方の会社の担当者が合併に向けて協議を重ねる中で信頼関係が醸成されて、互いに信頼できるということになれば、合併契約を結ぶことになるでしょう。しかし、協議の過程で相手をどうしても信頼できない、或いは互いの利益にならないということになれば契約には至らないでしょう。
 では教会の合併の契約の場合はどうでしょうか。会社の合併と似ている点もありますが、異なる点もあります。教会の合併の場合は、どちらの教会も神様に対して全幅の信頼を寄せていることを確認し合うことが、先ずは大前提となるのではないでしょうか。そのことが確認できていれば、二つの教会の間にある多少の違いは神様の御守りと御助けと励ましによって乗り越えて行くことができるでしょう。去年の教会総会からの私たちの1年間は、それを確認するための1年間であったということができるかもしれません。
 信仰生活においては、先ずは神様に全幅の信頼を寄せることが大切です。古い契約の時代においても、このことが大前提になっています。しかし、マラキの時代の人々は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと言っていましたから、契約の前提ができていませんでした。

アブラムが神を信じたので結ばれた契約
 私たちが神様と契約を結ぶ時、契約書の文言は神様によって与えられます。会社の合併のように二つの会社の間で契約書の文言を刷り合わせて契約書を作成するということはしません。神様が私たちを愛していて下さり、守って下さっていることが分かりますから、その神様に全幅の信頼を寄せることで契約が結ばれます。マラキの時代にはそれができていませんでしたが、創世記の時代のアブラムにはできていました。創世記15章の5節と6節を交代で読みましょう(旧約聖書p.21)。

15:5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
15:6 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 主はアブラムに、彼の子孫は星のように増えると仰せられました。この時、アブラムにはまだ子供がいませんでしたし、既にかなりの高齢になっていましたが、主のことばを信じました。続いて7節と8節を交代で読みます。

15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した【主】である。」
15:8 アブラムは言った。「【神】、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」

 すると主は言われました。9節と10節を交代で読みます。

15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。

 これは契約を結ぶ儀式のための準備でした。アブラムが主を信じたので、契約が結ばれることになったのですね。そして17節で契約の儀式が執り行われました。

15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

 こうして契約が結ばれました。まずアブラムが主を信頼したという前提があったから契約が結ばれました。

イスラエルの民が神を信じたので結ばれた契約
 モーセの時代の契約も同様です。まずイスラエルの民が主を信頼して契約を守ると言ったので、主はモーセを通して契約のことばを伝えて、その後に契約が結ばれました。今度はモーセの時代を見ましょう。まず19章5節をお読みします。

19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

 主がモーセを通してイスラエルの民に律法を授けるのは20章からですから、この19章の段階ではまだ律法は与えられていません。まず5節で主は、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」とモーセを通して仰せられました。それに対してイスラエルの民は8節のように答えました。19章8節、

19:8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは【主】の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて【主】のもとに帰った。

 それゆえ主は20章から、モーセを通して十戒から始まる律法を授けました。ただし、まだ契約は結ばれていません。契約が結ばれたのは24章です。24章3節、

24:3 モーセは来て、【主】のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「【主】の言われたことはすべて行います。」

 そうして契約を結ぶ儀式が行われました。4節から8節までを交代で読みましょう。

24:4 モーセは【主】のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
24:5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を【主】に献げた。
24:6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
24:7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
24:8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」

 こうして契約が結ばれました。今ご一緒に読んだように、神様と旧約の民との間の契約は、決して神様の側から一方的に結んだ契約ではありません。民が神様を信頼して契約を結ぶ意志を示したから結ばれた契約です。しかし、イスラエルの民はこの契約を守ることができませんでした。マラキの時代に至っては、このモーセの時代の初心をまったく忘れてしまっていました。

おわりに
 契約を結ぶに当たっては、先ずは神様に全幅の信頼を寄せることが大前提となります。それは古い契約であっても新しい契約であっても同じです。次回の来聖日には、新しい契約について短く共に学びたいと思います。イエスさまが弟子たちと新しい契約を結んだのは最後の晩餐においてでした。このことを学び、その後に教会総会を開催して、A教会との合併契約書案に基づく合併を承認するかの議決を行うことにします。私たちは心を整えて来週の教会総会に臨みたいと思います。これからの一週間、イエスさまが私たちを整えていて下さいますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

24:6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
24:7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
24:8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」
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1月17日起工式勧話

2019-01-18 09:00:25 | 祈り会メッセージ
2019年1月17日A家・B店起工式勧話

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 本日は良いお天気の下で、このようにA家およびB店の新しい建物を建設する起工式を執り行うことができますから、とても感謝に思います。
 Aさんからお話を伺ったところでは、今お住まいの建物を建てる時にも、前任の牧師の広瀬先生が起工式を執り行って下さったということです。ということは、今の建物もまたイエス・キリストが土台として据えられているということです。
 そうしてイエスさまが、ここまでずっと、A家・B店の皆さんを祝福して下さっていたことを思い、大変にうれしく思います。これから建てられる建物での働きも、イエスさまが豊かに祝福して下さることを、お祈りしたいと思います。
 先ほどお読みしたマタイの福音書にあるように、イエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とおっしゃいました。これはイエス・キリストが弟子たちに対して言った言葉ですが、時間を越えて現代の私たちにもまた向けられている言葉だと私たちは受け留めています。なぜならキリストは永遠の中にいて、時間には縛られていないお方だからです。
 私たちがクリスマスを盛大にお祝いするのもそのためです。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いするものですが、それは救い主キリストの誕生が、過去の人々へのプレゼントだっただけでなく、現代の私たちへのプレゼントでもあるからです。そうして、イエスさまは現代の私たちに「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と語り掛けて下さっています。
 イエスさまは現代の人々を使って、このように語り掛けます。例えば私のような教会の牧師を使って、イエス・キリストがこのように言っていることを、伝えさせます。そして、今回Aさんから新しい建物を建設するという話を伺った時に、この地でのB店の働きにもまた、イエスさまが関わっていると感じました。なぜなら、今の建物の起工式は広瀬牧師が執り行い、その土台にはイエス・キリストが据えられているからです。そうしてイエスさまはこのB店で働いている方々を通して、ここを訪れる方々の心と体をほぐして、疲れた人・重荷を負っている人を休ませる働きをしているのだと、感じました。
 おととし、恩田陸が書いた『蜜蜂と遠雷』という小説が直木賞と本屋大賞をダブル受賞して話題になりました。この小説は浜松の国際ピアノコンクールがモデルになっているということです。そして、この小説の主人公の一人が「A」という若いピアニストなんですね。こちらのAさんと同じ苗字ですね。このA少年はピアノコンクールに新しい風を吹き込み、従来の枠に囚われないスケールの大きな演奏で多くの人々の心を動かしました。
 このA少年は自分の師匠と、こんな約束をしていたということです。それは「狭いところに閉じ込められている音楽を、広いところに連れ出す」という約束でした。そうしてA少年は国際ピアノコンクールに新しい風を吹き込みました。
 この小説を読んだ後で私は、イエス・キリストが疲れた人々を休ませる働きも、もっと広い場所で行われているのだなと思いました。教会の中で牧師が聖書を語る働きを通してだけでなく、B店で働く方々をも通して、疲れた人々の心と体をほぐして休ませる働きをして下さっているのでしょう。
 なぜなら、今ある建物にはイエス・キリストが土台として据えられているからです。そしてまた、この土地に新たに建てられる建物での新しい働きもまた豊かに祝福しようとして下さっているのだと思います。
 これから始まる建物の建設が、どうか安全に行われますように。きょう1月17日は阪神淡路大震災があった日でもあります。災害にも備えることができますようにお祈りしています。 そして、この地での新しい働きが豊かに祝福されますようにも、お祈りしています。
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新年の聖句の証し(2019.1.9 祈り会)

2019-01-10 11:23:23 | 祈り会メッセージ
2019年1月9日祈り会メッセージ
『新年の聖句の証し』
【エゼキエル1:25~28】

1:25 彼らの頭上にある大空から声があった。彼らが止まったとき、その翼は垂れた。
1:26 彼らの頭上、大空のはるか上の方には、サファイアのように見える王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。
1:27 私が見ると、その腰と見えるところから上の方は、その中と周りが琥珀のきらめきのように輝き、火のように見えた。腰と見えるところから下の方に、私は火のようなものを見た。その方の周りには輝きがあった。
1:28 その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに【主】の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。

はじめに
 1月6日の礼拝では聖餐式の恵みに与ることができて感謝でした。私が沼津に来てから新年を6回迎えましたが、この6年間で新年に聖餐式を行ったのは初めてでしたね。やはり新年早々に他から教職の先生に来ていただいて聖餐式を執り行っていただくという感じには、なかなかなりませんから、私が昨年の3月に教職に任じられて聖餐式を執行できるようになったことは感謝だと思いました。

厳粛な気持ちになった時
 そのことは、とりわけ朝の礼拝の始まる前にパンとぶどう液の準備をしている時に感じました。お祈りをしてパンとぶどう液の準備をする時には非常に厳粛な気持ちになります。それは、どの季節であろうと変わりません。しかし今回初めて新しい年が始まってすぐの聖餐の準備をしていて、新年の聖餐の準備はまた格別に厳粛な気持ちになるなと感じました。
 そして、以前にも同じような厳粛な心持ちで似たようなことをしていた時のことを思い出しました。それは宗教的な儀式ではなくて、実験室で電子顕微鏡観察用の試料を週に何度も作っていた時のことです。
 実験では薄くした金属片をカミソリで切り出して観察していました。切り出す金属片の大きさは1mm×2mm程度です。大きさはぜんぜん違いますが、聖餐式用のパンを包丁で切る時に、金属片をカミソリで切っていた時のことを思い出しました。また、金属片を切り出す前には小さなシャーレに洗浄用のアルコール液を注いできれいに洗っていました。そのことを、ぶどう液を小さなカップに注いでいる時に思い出しました。どうして、聖餐式の準備の時に、実験室での作業のことを思い出したかというと、電子顕微鏡用の試料を作る作業も、心を整えて厳粛な気持ちで行う必要があるからです。
 ここで、その顕微鏡観察用の試料作りについて少し説明させていただきます。電子顕微鏡にも走査型電子顕微鏡のように試料の表面を観察するタイプと、透過型電子顕微鏡のように試料の内部を観察するタイプがあります。私が使っていたのは後者の透過型で、電子が試料の中を透過していくタイプです。ですから試料があまり厚いと電子が透過しません。そのために試料をペラペラに薄くする必要があります。薄くする方法はいろいろありますが、私が主に用いていたのは電解研磨です。硫酸や酢酸などの化学薬品に金属の試料を浸して電気を流すと金属が薬品の中に溶け出して薄くなるというものです。使う薬品は試料によって異なります。私が主に担当していたのはアルミニウムとニッケルでした。アメリカの研究所にいた時には銅の電解研磨もしていました。難しいのは電圧と薬品の温度のコントロールです。電圧と温度が高すぎると金属の試料はあっという間に溶けてしまって無くなってしまいます。かと言って電圧と温度を低くしてゆっくり研磨すれば良いというわけでもありません。金属の表面には酸化膜が付いていますから、電圧と温度が低すぎると酸化膜がきれいに取れてくれなくて、電子顕微鏡観察に適さないからです。
 ですから研究室に配属されたばかりの大学4年生の頃は、電解研磨がなかなか上手くできなくて苦労しました。また、電解研磨が上手くできても1mm×2mm程度の小さな切片に切り出して観察用のメッシュに置く作業を上手に行う必要があります。何しろペラペラに薄いですから、両手に持ったピンセットの手元が狂うとすぐにクシャクシャになってしまいます。これも4年生の時には苦労しました。手がちょっと震えただけで、試料はクシャクシャになってしまいます。大学院生になった頃には落ち着いてできるようになり、手の震えも止まるようになりました。もう一つ、試料作りで神経を使うのが試料のアルコール洗浄です。アルコールにゴミが混じっていると試料が部分的に見えなくなってしまいます。倍率で良く使っていたのは5万倍と10万倍でした。10万倍で観察すると小さなゴミでも巨大なゴミになります。そういうわけで、電子顕微鏡観察用の試料作りは、とても気を使う繊細な作業でした。
 ただし、まだ何の実験操作も加えていない試料の場合は電子顕微鏡の試料にする際に失敗してもまた何度でも作り直すことができます。金属や薬品が少し無駄になる程度です。しかし、私が携わっていた原子炉を使った中性子照射実験などの試料の電解研磨は失敗するわけに行きません。研磨する時の温度が高すぎて試料が全部溶け出してしまったとか、カミソリで切り出す時にクシャクシャにしてしまったとか、アルコール洗浄に失敗して試料がゴミだらけになってしまったからと言って、もう一回原子炉を動かしてもらって中性子照射をしてもらうというわけにはいきません。すべてが一回限りの実験です。
 そういう絶対に失敗できない試料作りには、本当に心を落ち着かせて厳粛な心持ちで臨む必要があります。そういう日々を過ごしていた時のことを図らずも聖餐式の準備をしている時に思い出しました。そして、電子顕微鏡の観察もまた厳粛な気持ちで臨む必要があります。電子顕微鏡の調整が上手くできていないと、原子レベルの細かい観察ができないからです。心が整っていないと細かい観察はできません。そのこともまた、今回思い出しました。

神聖な雰囲気が漂う入試会場
 それから今日はもう一つ、私が大学に勤めている時に経験していた厳粛な雰囲気の場について証したいと思います。それはセンター試験などの大学入試の試験会場です。大学の教員はだいたい毎年試験監督を務めます。その試験会場にはやはり独特の厳粛な雰囲気が漂います。特に入試の一日目の最初の科目では非常に張り詰めた雰囲気になります。試験も二日目になれば、だいぶ柔らかい雰囲気になりますが、一日目の最初の科目は非常に厳粛な雰囲気が漂います。特に試験問題と解答用紙を配り終えてから試験が始まるまでの数分間は神聖な雰囲気すら感じます。受験生の将来がこの試験で決まりますから、そこに神様の臨在が強く現れているのかもしれません。
 こういう神聖な雰囲気が味わえる試験監督の業務が私は嫌いではありませんでした。試験監督は大変だし、その間は仕事もできないので嫌いだという先生が多かったですが、私は神聖な雰囲気が味わえる試験監督が嫌いではなく、好きだったと言っても良いかもしれません。もしかしたら、そういう点も牧師に適していて、召し出されたのかもしれません。電子顕微鏡用の試料作りと電子顕微鏡観察、そして入学試験の会場で味わう厳粛な雰囲気に慣れ親しんでいたことが牧師に召し出されることの要因の一つになっていたかもしれません。そして私が中古の住宅を会堂にするのではなく、専用の会堂を建てることにこだわったのも、そういう要因があったのかもしれないなと思いました。

新年に与えられたエゼキエル書の聖句

 さて前置きが長くなりましたが、ここからようやく、みことばの話に入って行きます。と言っても、きょうはすべて私のお証です。6日の新年礼拝で、1月2日に防潮堤の上から虹を見た話をしました。虹を見ていた時、私はとても厳粛な雰囲気に包まれていました。聖餐式の準備、電子顕微鏡の試料作り、電子顕微鏡観察、入学試験の会場で厳粛な心持ちになっていた話を長々と前置きとして話したのは、1月2日に虹を見ていた時の私もまた、厳粛な心持ちであったことを証ししたかったからです。そうして私に個人的に与えられた新年の聖句が、エゼキエル1章の28節です。

1:28 その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに【主】の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。

 というわけで、きょうのこの時間はすべて私のお証になってしまいますが、それだと申し訳ありませんから、学びの要素も少しだけ入れるようにします。
 エゼキエルが、いつどこでこの光景を目にしたのか、それは1章の始めのほうに書いてあります。

1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
1:2 それはエホヤキン王が捕囚となってから五年目の時であった。その月の五日に、
1:3 カルデア人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルに【主】のことばが確かに臨んだ。その場所で【主】の御手が彼の上にあった。

 この時、エゼキエルはバビロンに捕囚として引かれて来たエルサレムの民と共にいました。ただし、この時のエルサレムはまだ滅亡までには至っていませんでした。2節にエホヤキン王が捕囚となってから5年目とあることから、それが分かります。この前後の出来事を列王記第二の記事で確認しておきたいと思います。列王記第二24章8節を見て下さい(旧約聖書p.699)。

24:8 エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。

とありますから、エホヤキン王は三ヶ月間在位しただけで、バビロンに引かれて行きました。13節から15節に次のように記されています。

24:13 バビロンの王は、【主】の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、【主】の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。【主】が告げられたとおりであった。
24:14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
24:15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。

 そうして、その年のうちにエホヤキンに代わってゼデキヤが王になりました。そうして25章1節と2節を見ると、

25:1 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。
25:2 こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。

とありますから、エルサレムが滅亡したのはゼデキヤ王の11年です。8節から10節までをお読みします。

25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
25:9 【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。
25:10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。

 この焼かれた主の宮がエズラ記の時代に再建され、打ち壊された城壁がネヘミヤ記の時代に再建されたのですね。
 さてエゼキエル1章28節に戻ります。

1:28 その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに【主】の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。

 この時、エルサレムはまだ滅亡していませんでした。この段階で主はエゼキエルを召し出して言いました。2章の3節と4節、

2:3 その方は私に言われた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。
2:4 彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『【神】である主はこう言われる』と言え。

 当時のエルサレムと現代の日本はもちろん全然違います。しかし人々が4節にあるように「厚かましく、頑なである」点においては、あまり変わらないようにも思います。
 それゆえ1月2日に虹を見て私は、これからも聖書のことばを宣べ伝えるように主から励ましを受けているように感じています。幹事の方が配って下さった「恵みの分かち合い」の紙には、このことを書こうと思います。
 今年も皆さんと、恵みの分かち合いができることを感謝に思います。
 お祈りいたしましょう。

1:28 その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに【主】の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。
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新年の天の虹からのメッセージ(2019.1.6 新年聖餐式礼拝)

2019-01-07 08:46:45 | 礼拝メッセージ
2019年1月6日新年聖餐式礼拝メッセージ
『新年の天の虹からのメッセージ』
【ヨハネ15:1~5】

はじめに
 きょうはまず、1月2日の夕刻にあったことから話を始めたいと思います。
 私は夕方はなるべく海岸の防潮堤の上か下をゆっくり走るようにしています。ただし天気が悪い日は走りません。1月2日の夕刻は、あられ混じりの小雨が降っていて天気はあまり良くありませんでした。ですから走るかどうか迷いましたが、年末年始に食べ過ぎていたので運動をしておきたかったことと、西の空は良く晴れていたので雨が強くなることはないだろうと判断して走り始めました。この日は風はそれほどありませんでしたが、小雨という気象条件でしたから、防潮堤の上ではなくて、向こう側の下側を走りました。防潮堤の下は上よりも風が弱く、所々で松林の下を通ります。松林の下では雨をしのぐことができます。ですから風や雨の時は私は防潮堤の向こう側の下を走ります。ちなみに私は防潮堤のこちら側の松林の中は走りません。こちら側の道からは海も富士山も見えないからです。

沼津の天空に現れた大きな虹

 この日もいつものように、まず西に向かって走り、大きくて目立つマンションのベルメゾン原の辺りで引き返して来ました。ここからベルメゾン原まで約2.5kmです。ですから私が走る距離はいつも往復5km程度です。以前は、もう少し長く走っていたこともありましたが、疲れるのでやめました。5km程度が私にはちょうど良いようです。
 さて、この日、ベルメゾン原で引き返して途中の松林を抜けた所で、北東の空に虹が架かっているのが見えました。東に向かって走っていましたから、西南方向からの西日を受けて虹が架かっているのが見えたのです。それで、私は防潮堤の上に上がることにしました。防潮堤の下では、虹の下の方が見えなかったからです。この時はまだ、虹は半円にはなっておらず、半円の1/3程度でした。しかし、しばらくすると半円状になりました。やはり半円になるかならないかでは、美しさがぜんぜん違うと思いました。そして、この日何よりも素晴らしかったのは、防潮堤の上から見たことで、南西に沈む夕陽と北東に架かる虹の両方を楽しむことができたことです。防潮堤のこちら側にいたら、建物に隠されて虹の一部しか見ることができなかったでしょうし、夕陽は松林と防潮堤に隠されていたでしょう。防潮堤の上にいたことで、虹の全体と夕陽の両方を楽しむことができました。
 ただし少し残念だったのは、カメラを持っていなかったことです。私は走る時には携帯電話は持って出ません。走る時にポケットの中で上下に動くと走りにくいからです。それで、教会に急いで携帯を取りに帰ることも考えましたが、防潮堤に戻る前に虹が消えてしまうかもしれませんから、取りに帰るのはやめて自分の目に虹を焼き付けることに専念することに決めました。私の役割は、この素晴らしい光景を写真で人々に示すことではなくて、ことばで伝えることだと思ったからです。
 とは言え、ことばはそう簡単には出て来ませんでした。聖書で虹が出て来る記事ではノアの洪水の後の場面が有名ですが、3.11の津波被害のこともありますし、最近でもインドネシアで津波の大きな被害があったばかりですから、メッセージとしては誤解を招く恐れがあって、あまりふさわしくないと思いました。それで2日の晩から3日、4日と思い巡らし、昨日の5日の朝からようやく今日のメッセージとしてお伝えできることはが示されたように感じています。それは、きょうの週報にも書きましたが、

 「虹は父・子・聖霊の三位一体の神が太陽のプロジェクターを使って天の水滴のスクリーンに投影した、壮大な聖書のメッセージ」

ではないかということです。

太陽のプロジェクターで投射された天からのメッセージ
 虹は、太陽の光が水滴の中で反射した光が見えているものです。太陽の光は色々な色の光が重なり合っています。そうして水滴がプリズムとして働きますから、太陽の光は水滴の中に入った時に屈折して様々な色に分かれます。そして、出て来る時も屈折しますから、幅が広がって大きな幅を持った帯状の虹が現れます。
 さて虹の色は七色に例えられることが多いですが、実は色の数は無限にあります。そして聖書のことばも光を放っています。詩篇119篇の詩人は、「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」(詩篇119:105)と詩っています。その光の色もまた、無限にあると言えるのではないでしょうか。まず聖書の光は最低でも66の色があります。聖書には66の書があるからです。そして、一つ一つの書からも様々な色の光が出ています。例えば、詩篇は一つの書としてカウントしますが、詩篇の一つの書だけでも150もの詩が収められています。また、一つの詩でも例えば詩篇119篇には176もの節があります。そうすると、やはり聖書のことばの光の色は無限であると言えるでしょう。
 そして、この聖書の光の無限の色は、父・子・聖霊の三位一体の神が作り出しています。プロジェクターの光の色は、赤・緑・青の光の三原色が作り出していて、赤・緑・青のそれぞれの色が多いか少ないかで様々な色が作り出されていると思います。聖書の光も父・子・聖霊が様々に重なり合って多様な色の光が出ていると言えるのではないでしょうか。例えば旧約聖書では父の光の成分が多く、福音書は子の成分が多く、使徒の働きやパウロの手紙は聖霊の成分が多いといった具合です。
 そして感嘆すべきは天の虹のプロジェクターとスクリーンとの距離です。太陽がプロジェクターですから地球上の水滴のスクリーンまで、その距離の大きさに感動します。三位一体の神様は宇宙という大きな空間を使って私たちに大きなメッセージを送って下さっていると受け留めたいと思います。もちろん宇宙全体の大きさから言えば、太陽と地球の距離など取るに足りない短い距離でしかありません。しかし太陽系を超える銀河や、それらすべてを含む大宇宙の大きさは想像を絶しますから、とりあえずは太陽と地球との距離を想像するだけでも良いのではないかと思います。と言うのは、普段の私たちは神様のメッセージをとても狭い範囲でしか捉えておらず、大きくてもせいぜい地球レベルでしか捉えていないだろうと思います。ですから太陽系レベルの大きさでも、なかなか考えることができていないと思います。

スケールの大きなキリスト教
 元旦礼拝でお伝えした今年の教会のメッセージは、こういう大きなスケールで捉えていただけると感謝だなと思います。今年の私たちの教会の聖句は、ローマ人への手紙12章10節の、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」です。今年私たちは他教会と一緒になりますから、私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合わなければなりません。そういうわけで、この聖句が示され、今年の教会の聖句としました。しかし、キリスト教とはこのように真面目できよい生活を尊ぶ宗教だと世間からは思われているふしがあり、中にはクリスチャンでも、そのように思っている人がいることに、私は常日頃から若干の危惧を抱いています。
 私たちがきよい生活を目指すのは、乱れた生活では霊性が整わずに、その結果、神様との豊かな交わりができなくなるからです。マタイの福音書5章8節でイエスさまはおっしゃいました(週報p.3)。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」。心をきよく保つなら霊性が整えられて神を見ることができます。すなわち三位一体の神様との豊かな交わりの中に入れていただくことができます。イエスさまを信じないで聖霊を受けていない人々は、このことの豊かな恵みを知りませんから、クリスチャンのきよい生活の表面だけを見て、キリスト教とは真面目できよい生活を尊ぶ宗教だと思っていると思います。それゆえキリスト教が矮小化されてしまって、三位一体の神様が宇宙スケールの壮大なお方であることが伝わっていないことを私自身はとても残念に思っています。キリスト教はそんな小さな宗教ではありません。
 きょうの聖書交読でエペソ人への手紙3章をご一緒に読んだのは、それゆえでもあります。このエペソ人への手紙からはキリスト教がいかにスケールの大きな宗教であるかが分かると思います。もう一度、エペソ3章の14節から21節までを交代で読みましょう。

3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 私たちは18節と19節にあるように、人知をはるかに越えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかをしっかりと理解できる力を持ちたいと思います。決して小さなものに矮小化してはならないと思います。

スケールの大きなイエスにとどまる
 ローマ12章10節でパウロは「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」と書いていますが、「互いに愛し合いなさい」はもともとはイエスさまがおっしゃっていたことです。元旦礼拝でも共に読みましたが、ヨハネ13章の34節をご一緒に読みましょう。

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 このように言われたイエスさまは大きなお方であることを覚えていたいと思います。そしてイエスさまは15章12節でも、互いに愛し合うようにおっしゃっています。ご一緒に読みましょう。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 そして、もう一ヵ節、15章17節も、ご一緒に読みましょう。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 イエスさまは15章でこのようにおっしゃる前に、きょうの聖書箇所の1節から5節までのことをおっしゃいました。15章の1節から5節までを交代で読みます。

15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 イエスさまは4節で、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。このように「互いに愛し合いなさい」と言い、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃったイエスさまはパウロがエペソ人への手紙3章で書いたように、人知をはるかに越えた大きさの愛を持つお方であることを、しっかりと覚えておきたいと思います。一度信仰を持っても教会から離れて行く方々もいますが、その方々はイエス・キリストが人知をはるかに越えた愛を持つお方だということを実感できていなかった方々ではないかなあという気がします。実感していれば、イエスさまからの巨大な引力を感じて離れることはないのではないかとも思います。
 人知をはるかに越える愛を持つイエス・キリストが「わたしにとどまりなさい」とおっしゃるのですから、私たちはイエスさまにとどまっていたいと思います。他教会と一緒になると、この会堂での礼拝がなくなりますから、これまでと違って来ます。なかなか礼拝に出席できなくなる、ということもあるかもしれません。しかし、イエスさまは「わたしにとどまりなさい」とおっしゃっています。ですから私たちはイエスさまにとどまりたいと思います。

おわりに
 これから聖餐式を執り行います。聖餐式はイエスさまとの食事の場です。イエスさまと共に食事ができることは、イエスさまにとどまっている者の特権です。イエスさまは最後の晩餐の場で「わたしにとどまりなさい」とおっしゃり、そうして十字架へと向かっていきました。このイエスさまの人知をはるかに越えた大きな愛に思いを巡らし、聖餐式に臨みたいと思います。
 お祈りいたします。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
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兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい(2019.1.1 元旦礼拝)

2019-01-04 11:01:12 | 礼拝メッセージ
2019年1月1日元旦礼拝メッセージ
『兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい』
【ローマ12:9~12】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。
 新年の最初の礼拝では毎年、その年の教会の聖句を発表することにしています。今年の私たちの教会の聖句はローマ人への手紙12章10節の、

「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」

 今年の教会の聖句をこのローマ12:10にしたのは何ゆえか、皆さんはもう気づいておられると思います。言うまでもなく、それは今年の春に私たちの教会が他教会と一緒になる運びになっているからです。私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いたいと思います。
 教会が異なれば、文化の違いのようなものが生じることは避けられないことです。同じ教団の教会でも、かなりの違いがあります。私は神学生の頃に実習で様々な教会に遣わされましたが、本当にいろいろでした。同じ教団の教会とは思えないというギャップを感じたこともありました。まして教団が違えば、さらに違いは大きくなるでしょう。しかし、違うとは言っても同じイエス・キリストを主と仰ぐキリスト教会であることに変わりはありませんし、私たちの教会は様々な点で非常に近い関係にあります。ですから私たちは今年の春に一緒になる教会の皆さんと兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いながら信仰の道を共に歩んで行きたいと思います。
 きょうは、パウロがこのような手紙を書いたことの背景を共に学び、それからその他の書などからも関連することを学んで行くことにしたいと思います。

食事の問題を抱えていたローマの教会
 以前、礼拝メッセージの中でも取り上げたことがありましたが、ローマの教会では信徒同士が対立する問題を抱えていました。パウロがこのローマ人への手紙を書いた時、パウロはまだローマを訪れたことがありませんでした。それなのにパウロがローマの教会が抱えていた問題を伝え聞いて知っていたということから、この問題がかなり深刻であったことが伺えます。対立点として具体的に書かれているのは、食事の問題です。以前も取り上げたことがありますが、ローマ14章を、ご一緒に見て行くことにしましょう。
 14章の1節から4節までを交代で読みましょう。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
14:4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

 野菜しか食べない弱い人とは、どういう人なのか、ここだけだと分かりにくいですが、14節と15節を読むと、もう少しはっきりします。14節と15節、

14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

 ここを読むと、野菜しか食べない人は、肉が汚れていることを気にしている人のようです。例えば市場に出回っている肉は、一度偶像に捧げられた肉かもしれませんし、捧げられていない肉かもしれません。それは買う側にはなかなか分からないことです。そのことを気にして肉を食べない人がいたと言われています。コリント人への手紙を読むと、この辺りの事情がもう少し分かりますが、きょう、ご一緒に分かち合いたいことは、偶像に捧げた肉を食べるか食べないかの問題についてではなく、異なる考え方を持つ多様な人々が集う教会の教会員が、いかにして一つにまとまって行くかということですから、そちらのほうに集中することにします。

兄弟愛をもって互いに愛し合うために
 ローマ人への手紙を12章から見て行きます。兄弟愛をもって互いに愛し合うためには、自分中心であってはなりません。パウロはまず、自分のからだを神にささげることを勧めます。1節、

12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

 教会に集う者たちは、自分中心ではなくて神中心になる必要があります。そのように神中心になった者は、この世と調子を合わせて、世の人々のように争い事に明け暮れることはありません。2節、

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 自分で自分を変えるのでなく、神に自分を変えていただきなさいとパウロは勧めます。自分で自分を変えようとしている間は、神のみこころは何かが分かりません。しかし自分を神に捧げてすべてを神に委ねるなら、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるようになります。
 牧師の私自身は一緒になる教会に皆さんと行くわけではありませんが、いま私は私自身も一緒に行くつもりになって、パウロの勧めを読んでいます。そのように、具体的なことを思い浮かべながら、このローマ12章を読むと、心への響き方が全然違いますね。一昨日の賛美歌で、「人生の海の嵐に」を歌った時も、昨年の一年間にあったことを思い浮かべながら歌ったら、この賛美歌がとても心に響いてきました。やはり聖書や賛美歌はただ漠然と読んだり歌ったりするのでなく、具体的な事柄を思い浮かべながら読んだり歌ったりすべきだということを改めて教えられた気がします。

思い上がってはいけない
 続いて3節、

 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。

 霊的に整えられて神との交わりが深まると、ついつい気が大きくなってしまうかもしれません。私などはそういう傾向がありますが、そんな風に思うべき限度を超えて思い上がってはいけないのですね。神様が私に与えて下さった信仰の量りも、思い上がっていると大きな量りが与えられていると勘違いしてしまうかもしれませんが、慎み深く考えなければいけないのでしょう。この点は私自身は大いに反省させられます。
 続いて4節と5節、

12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

 同じような表現は第一コリントにもありますね。教会の中にあって私たち一人一人はひとつの器官です。心臓には心臓の働きがあり、胃には胃の働きがあり、腸には腸の働きがあります。6節から8節、

12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。

 このように、それぞれに与えられた賜物に応じて私たちは教会で奉仕します。ただし、今年の私たちの場合は、最初は様子を見たほうが良いだろうと思います。様子をみながら少しずつなじんで行くべきだろうと思います。

へりくだることの手本を示したイエスさま
 そうして、きょうの聖書箇所に入って行きます。9節と10節、

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 兄弟愛をもって互いに愛し合うためには思い上がらずに自分を低くする必要があります。そうして相手をすぐれた者として尊敬しなければなりません。
 この、自分を低くすることのお手本を示しているのが、イエスさまですね。一昨日の年末感謝礼拝のメッセージの時にも開きましたが、ヨハネの福音書13章を、きょうもご一緒に読むことにしたいと思います。ヨハネ13章の4節と5節を、交代で読みましょう。

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 このようにイエスさまは最後の晩餐の場で弟子たちの足を洗い、自分を低くすべきであることを率先して示されました。そうして14節でおっしゃいました。14節、

13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

 それからイエスさまは弟子たちに新しい戒めを与えました。34節ですね。

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 人々の間で争い事が生じる時には、だいたいの場合、自分が相手よりも上だと思っていることが多いのではないでしょうか。イエスさまは自分を低い立場に置くことを勧め、互いに愛し合いなさいという戒めを弟子たちに与えました。

神であるにもかかわらずへりくだったお方
 イエスさまは神であるにも関わらず、弟子たちの足を洗うという自分を低い場所に置くことができるお方でした。イエスさまがへりくだった方だというと、ピリピ人への手紙2章を思い起こす方も多いでしょう。今度はピリピ2章の1節から8節までを交代で読みましょう。

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 このピリピ人への手紙も、ただ漠然と読むのでなく、これから一緒になる教会の皆さんと一緒になって信仰の道を歩んで行くことを具体的に考えながら、読みたいと思います。

おわりに
 このピリピ2章に書かれているイエスさまのことを思い、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったイエスさまのことを思い、そうして今年の私たちの教会の聖句のローマ12章10節を読むなら、これから一緒になる教会の皆さん方と共に信仰生活を送る上で、このことが大切であることが、一層よく分かるでしょう。教会はキリストの体ですから、へりくだったイエスさまの御姿をお慕いしながら、今年私たちは新しい場所へと踏み出して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」
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