2019年3月24日礼拝メッセージ
『十字架は河口の汽水域』
【ヨハネ12:37~41】
はじめに
私たちが、この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと二回となりました。先週のメッセージでは罪をテーマにして、中心聖句はヨハネ8:7 の「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」でした。イエスさまはパリサイ人たちに対して、もし自分に罪がないと思うなら、姦淫の罪を犯した女に石を投げなさいと言いました。この言葉を聞いた人々は、一人また一人とそこを去って行き、イエスさまと女だけがそこに残りました。つまり、人は誰もが罪人であるということです。
人は誰もが罪人です。神様の目から見て、正しい者など一人もいません。従って、本来であれば神の国に入ることができる者など一人もいません。罪人のままでは神の国に入れないからです。神の国に入れない者は滅びるしかありません。しかし、世の人々を愛している神様は、イエスさまを十字架に送ることで私たちの罪を赦して神の国に入ることができるようにして下さいました。ヨハネ3:16が書いている通りです(週報p.3)。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
私たちは誰でも「イエスは神の子キリストである」と信じるなら聖霊が与えられて永遠の命を得て、神の国に入ることができます。
分かりにくいキリスト教の教え
ただし、このキリスト教の教えは、21世紀の現代人にとっては非常に分かりにくいものです。特にキリスト教とは何の関係もなく子供時代を過ごして大人になった者には、極めて理解しづらいものです。きょう私が犯した罪を、明日イエスさまが十字架に掛かることで赦されるなら、話は分かります。しかし、きょう私が犯した罪が、なぜ2000年前の十字架で赦されるのでしょうか。もし、罪の問題が2000年前に解決していたなら、以降の世界はもっと平和になっていたはずです。ですから十字架以降の罪の問題は十字架では解決できていないのではないかという疑問が湧きます。これは当然の疑問であり、おかしな疑問ではありません。なぜなら、そもそも十字架は時間順で考えるなら、イエスさまが十字架に掛かる前に人々が犯した罪を赦すためだからです。それは、きょうの聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書53章を見れば分かると思います。イザヤの時代は旧約の時代ですから、当然のことながらイエスさまの十字架よりも前の時代です。イザヤ書53章の5節と6節をお読みします(週報p.3)。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
ここで「彼」とはイエスさまのことですね。そして「私たち」というのは旧約の時代の人々です。旧約の時代の人々はほとんどの場合、神様に背いていました。その背きの罪のためにイエスさまは十字架に掛かりました。そして、それによって人々に平安がもたらされました。
きょうの聖書箇所のヨハネ12章は、このイザヤ書53章を引用しています。ヨハネ12章の37節と38節を交代で読みましょう。
12:37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
38節の、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」というのはイザヤ書53章1節の引用ですね。イエスさまの時代の人々も神様から背いていて、イエスさまを信じようとしませんでした。
イエスさまの十字架は、まず第一にはイエスさまが十字架に掛かる「前に」人々が犯した罪を赦すためのものです。しかし、父・子・聖霊の三位一体の神は永遠の中にいますから、イエスさまの十字架よりも「後に」生まれた21世紀の私たちの罪もまた赦されます。イザヤ書53章5節の「私たち」には、21世紀の私たちも含まれます。
十字架を河口の汽水域に例える
このような分かりにくいキリスト教の教えを、どのように語れば、もっと分かりやすくなるでしょうか。このことに思いを巡らしていたところ、今回、タイトルに記したように十字架を川の汽水域に例えたらどうかと思いましたから、これからその説明をします。
川の汽水域とは川の河口付近で海水と真水とが交じり合っている場所です。この海水と真水が交じり合う汽水域は、多くの生物が生息する豊かな場所です。汽水域の生物で有名なのはシジミ貝ですね。ヤドカリやカニ、ゴカイなどもたくさんいます。また、これらの生物を食料とする鳥たちも、この汽水域に集まってお腹を満たします。特に長い距離を旅するシギやチドリなどの旅鳥は、川の河口付近にしばらく留まって羽を休めると同時に食糧補給をたっぷりと行います。汽水域は旅をする鳥たちにとっては、飛行機が羽を休めて燃料を補給する空港のようなものとも言えるかもしれません。空港では様々な国籍の人々が行き交い、人間が食事をするフードコートやレストランなどが充実している点とも似ていると言えるかもしれませんね。
この恵み豊かな汽水域を十字架と考えて、そこに向かって流れる川は旧約の時代であると例えてみたいと思います。川の源流にはアダムとエバの時代があります。そして川を上流・中流・下流の三つの区域に分けるとしたら、マタイの福音書の冒頭にある系図に習って、上流はアブラハムの時代からダビデの時代まで、中流はダビデの時代からバビロン捕囚の時代まで、そして下流はバビロン捕囚の時代からイエス・キリストの時代までということになるでしょうか。
汽水域一帯は十字架の出来事があったイエス・キリストの時代であり、川が流れ込む海は十字架以降の新約の時代です。新約の時代の私たちは、この海の方にいます。さてしかし、海は満潮になると海水が川を逆流して川の河口部に入り込み、それゆえに汽水域ができます。海にいる新約の時代の私たちの罪がイエスさまの十字架によって赦され、またその十字架の出来事を身近に感じることができるのは、この汽水域への逆流があるからです。
平安を得ていたマリア、得ていなかったマルタ
旧約の時代には川の流れのような時間の流れがありますが、海には流れがありません。海にも黒潮や親潮のような海流がありますが、それは風によって引き起こされるそうですから、海の深さに比べれば浅い部分だけの水の動きです。海の深い部分、すなわち深海では水の動きはほとんど止まっています。この深海部の海水のように時間が止まっている時、私たちは心の深い平安を得ることができます。
この教会の礼拝メッセージでは既に何度も開いた箇所ですが、礼拝メッセージもあと残り2回ですから、過去に何度も開いた箇所でも、どんどん開きたいと思います。ルカの福音書10章の38節から42節までを交代で読みましょう(新約聖書p.136)。マルタとマリアの箇所です。
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
ここで姉のマルタはイエスさまのもてなしの準備のために時間に追われていました。つまり川と海に例えるならマルタは川で、時間の流れに囚われ、時間の奴隷になっていました。一方のマリアは深い海の中にいて、時間の流れからは自由になっていましたから、心の深い平安を得ていました。私たちも、そのように時間の流れから自由になって、心の深い平安を得たいと思います。
時間に追われていて心に平安がなかったマルタに対してイエスさまは言いました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
深い平安が得られる御父と御子との交わり
一方、深い海のような心の深い平安を得ていたマリアは、御父と御子イエス・キリストとの交わりの中にいました。これも、何度も何度も開いた箇所ですが、もう一度開きたいと思います。ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.478)。
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
聖霊を受けた私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。私たちは父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じることで、心の深い平安を得られます。イエスさまだけ、御父だけ、聖霊だけを感じるのであっても、それなりの平安を得ることができますが、父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じるなら、もっともっと分厚く安定した心の平安を得ることができます。深海にある海水のように心が動かされることなく平安でいられます。傲慢と思われるかもしれませんが、私自身はかなりこの平安を獲得していると感じています。ですから、是非多くの方々と、この心の深い平安を共有したいと願っています。
行き巡る旧約と新約の時代
ここでもう一度、川と海との関係について考えてみたいと思います。海には川の水が流れ込んでいますから、新約の時代の深い海にも旧約の時代の川の水が流れ込んでいます。河口の汽水域の水も流れ込んでいます。私たちは聖霊の時代を生きていますが、旧約の時代の川の水とイエスさまの時代の汽水域の水も流れ込んでいる海の中にいますから、私たちの交わりは御父また御子イエス・キリストとの交わりです。そして、海の水は蒸発して水蒸気になり、雲を作り、その雲は風によって陸地の山に運ばれます。雲は山の斜面にぶつかると上昇して温度が下がり、水滴となって山に雨を降らせます。その山に降った雨水が山の地面深くに吸い込まれ、そうして水が再び地表にしみ出した場所が源流となって川の流れが作られます。
つまり川の水は海の水が元になっています。そういうわけで、旧約聖書の中にも新約の時代のイエスさまがあちこちに顔を出しています。その典型が、出エジプト記に記されている過越の羊ですね。きょうは、聖書をあちこち開いて申し訳ないのですが、最後の礼拝の一つ手前の礼拝ということで、ご容赦願いたく思います。出エジプト記の12章21節から24節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.119)。
12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
12:22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
12:23 【主】はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、【主】はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。
旧約のモーセの時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。そのイスラエルの民を神様は救い出して下さいました。その時に犠牲になったのが過越の羊です。22節にあるように、羊の血を家の鴨居と門柱に塗ることで、イスラエルの民は滅びから免れました。
ですからバプテスマのヨハネはイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのですね。最後に、ヨハネの福音書1章の29節と30節を交代で読みましょう。
1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまが自分より先にいたと言っていました。その通りですね。イエスさまは旧約の時代からおられました。そうして天の父と共に聖霊を通してモーセやイザヤなどの預言者たちに神のことばを伝えていました。その旧約の時代の川の水が海に注ぎ込んで新約の時代になります。その新約の時代の海の水が蒸発して、また旧約の時代に運ばれて行きます。
おわりに
神様の時間は私たち人間の時間とは異なります。神様の時間に思いを巡らしてみることは、人間社会の中で翻弄されがちな私たちの心を、その渦中から救い出す働きがあります。是非、神様の大きなスケールの時間にも思いを巡らしてみることを、お勧めしたいと思います。
きょうのメッセージをまとめると、きょうは大きく三つのことを話しました。
①2000年前の十字架によって私たちの罪が赦されるのは、十字架が汽水域にあるからで、海水側にいる新約の時代の私たちも満潮時には川の河口部に逆流して汽水域に入るからであること、
②川の流れの中にある旧約の時代と違って、新約の時代の私たちは深い海の中にいるので、心が乱されることなく深い平安が得られること、
③神様の時間は、人間の私たちの時間とは異なる中にあり、旧約と新約の時代、新約と旧約の時代の間を行き巡っています。そのようなスケールの大きな神様の時間を思い巡らすことによっても、人間社会の中で翻弄されがちな私たちは、その渦中から救い出される、
以上の三点を話しました。
このように旧約の時代と新約の時代の全体を見渡すことで、私たちは心の深い平安を得ることができるようになります。このような大きなスケールでの思い巡らしをすることも、ぜひお勧めしたいと思います。
お祈りいたします。
『十字架は河口の汽水域』
【ヨハネ12:37~41】
はじめに
私たちが、この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと二回となりました。先週のメッセージでは罪をテーマにして、中心聖句はヨハネ8:7 の「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」でした。イエスさまはパリサイ人たちに対して、もし自分に罪がないと思うなら、姦淫の罪を犯した女に石を投げなさいと言いました。この言葉を聞いた人々は、一人また一人とそこを去って行き、イエスさまと女だけがそこに残りました。つまり、人は誰もが罪人であるということです。
人は誰もが罪人です。神様の目から見て、正しい者など一人もいません。従って、本来であれば神の国に入ることができる者など一人もいません。罪人のままでは神の国に入れないからです。神の国に入れない者は滅びるしかありません。しかし、世の人々を愛している神様は、イエスさまを十字架に送ることで私たちの罪を赦して神の国に入ることができるようにして下さいました。ヨハネ3:16が書いている通りです(週報p.3)。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
私たちは誰でも「イエスは神の子キリストである」と信じるなら聖霊が与えられて永遠の命を得て、神の国に入ることができます。
分かりにくいキリスト教の教え
ただし、このキリスト教の教えは、21世紀の現代人にとっては非常に分かりにくいものです。特にキリスト教とは何の関係もなく子供時代を過ごして大人になった者には、極めて理解しづらいものです。きょう私が犯した罪を、明日イエスさまが十字架に掛かることで赦されるなら、話は分かります。しかし、きょう私が犯した罪が、なぜ2000年前の十字架で赦されるのでしょうか。もし、罪の問題が2000年前に解決していたなら、以降の世界はもっと平和になっていたはずです。ですから十字架以降の罪の問題は十字架では解決できていないのではないかという疑問が湧きます。これは当然の疑問であり、おかしな疑問ではありません。なぜなら、そもそも十字架は時間順で考えるなら、イエスさまが十字架に掛かる前に人々が犯した罪を赦すためだからです。それは、きょうの聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書53章を見れば分かると思います。イザヤの時代は旧約の時代ですから、当然のことながらイエスさまの十字架よりも前の時代です。イザヤ書53章の5節と6節をお読みします(週報p.3)。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
ここで「彼」とはイエスさまのことですね。そして「私たち」というのは旧約の時代の人々です。旧約の時代の人々はほとんどの場合、神様に背いていました。その背きの罪のためにイエスさまは十字架に掛かりました。そして、それによって人々に平安がもたらされました。
きょうの聖書箇所のヨハネ12章は、このイザヤ書53章を引用しています。ヨハネ12章の37節と38節を交代で読みましょう。
12:37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
38節の、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」というのはイザヤ書53章1節の引用ですね。イエスさまの時代の人々も神様から背いていて、イエスさまを信じようとしませんでした。
イエスさまの十字架は、まず第一にはイエスさまが十字架に掛かる「前に」人々が犯した罪を赦すためのものです。しかし、父・子・聖霊の三位一体の神は永遠の中にいますから、イエスさまの十字架よりも「後に」生まれた21世紀の私たちの罪もまた赦されます。イザヤ書53章5節の「私たち」には、21世紀の私たちも含まれます。
十字架を河口の汽水域に例える
このような分かりにくいキリスト教の教えを、どのように語れば、もっと分かりやすくなるでしょうか。このことに思いを巡らしていたところ、今回、タイトルに記したように十字架を川の汽水域に例えたらどうかと思いましたから、これからその説明をします。
川の汽水域とは川の河口付近で海水と真水とが交じり合っている場所です。この海水と真水が交じり合う汽水域は、多くの生物が生息する豊かな場所です。汽水域の生物で有名なのはシジミ貝ですね。ヤドカリやカニ、ゴカイなどもたくさんいます。また、これらの生物を食料とする鳥たちも、この汽水域に集まってお腹を満たします。特に長い距離を旅するシギやチドリなどの旅鳥は、川の河口付近にしばらく留まって羽を休めると同時に食糧補給をたっぷりと行います。汽水域は旅をする鳥たちにとっては、飛行機が羽を休めて燃料を補給する空港のようなものとも言えるかもしれません。空港では様々な国籍の人々が行き交い、人間が食事をするフードコートやレストランなどが充実している点とも似ていると言えるかもしれませんね。
この恵み豊かな汽水域を十字架と考えて、そこに向かって流れる川は旧約の時代であると例えてみたいと思います。川の源流にはアダムとエバの時代があります。そして川を上流・中流・下流の三つの区域に分けるとしたら、マタイの福音書の冒頭にある系図に習って、上流はアブラハムの時代からダビデの時代まで、中流はダビデの時代からバビロン捕囚の時代まで、そして下流はバビロン捕囚の時代からイエス・キリストの時代までということになるでしょうか。
汽水域一帯は十字架の出来事があったイエス・キリストの時代であり、川が流れ込む海は十字架以降の新約の時代です。新約の時代の私たちは、この海の方にいます。さてしかし、海は満潮になると海水が川を逆流して川の河口部に入り込み、それゆえに汽水域ができます。海にいる新約の時代の私たちの罪がイエスさまの十字架によって赦され、またその十字架の出来事を身近に感じることができるのは、この汽水域への逆流があるからです。
平安を得ていたマリア、得ていなかったマルタ
旧約の時代には川の流れのような時間の流れがありますが、海には流れがありません。海にも黒潮や親潮のような海流がありますが、それは風によって引き起こされるそうですから、海の深さに比べれば浅い部分だけの水の動きです。海の深い部分、すなわち深海では水の動きはほとんど止まっています。この深海部の海水のように時間が止まっている時、私たちは心の深い平安を得ることができます。
この教会の礼拝メッセージでは既に何度も開いた箇所ですが、礼拝メッセージもあと残り2回ですから、過去に何度も開いた箇所でも、どんどん開きたいと思います。ルカの福音書10章の38節から42節までを交代で読みましょう(新約聖書p.136)。マルタとマリアの箇所です。
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
ここで姉のマルタはイエスさまのもてなしの準備のために時間に追われていました。つまり川と海に例えるならマルタは川で、時間の流れに囚われ、時間の奴隷になっていました。一方のマリアは深い海の中にいて、時間の流れからは自由になっていましたから、心の深い平安を得ていました。私たちも、そのように時間の流れから自由になって、心の深い平安を得たいと思います。
時間に追われていて心に平安がなかったマルタに対してイエスさまは言いました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
深い平安が得られる御父と御子との交わり
一方、深い海のような心の深い平安を得ていたマリアは、御父と御子イエス・キリストとの交わりの中にいました。これも、何度も何度も開いた箇所ですが、もう一度開きたいと思います。ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.478)。
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
聖霊を受けた私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。私たちは父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じることで、心の深い平安を得られます。イエスさまだけ、御父だけ、聖霊だけを感じるのであっても、それなりの平安を得ることができますが、父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じるなら、もっともっと分厚く安定した心の平安を得ることができます。深海にある海水のように心が動かされることなく平安でいられます。傲慢と思われるかもしれませんが、私自身はかなりこの平安を獲得していると感じています。ですから、是非多くの方々と、この心の深い平安を共有したいと願っています。
行き巡る旧約と新約の時代
ここでもう一度、川と海との関係について考えてみたいと思います。海には川の水が流れ込んでいますから、新約の時代の深い海にも旧約の時代の川の水が流れ込んでいます。河口の汽水域の水も流れ込んでいます。私たちは聖霊の時代を生きていますが、旧約の時代の川の水とイエスさまの時代の汽水域の水も流れ込んでいる海の中にいますから、私たちの交わりは御父また御子イエス・キリストとの交わりです。そして、海の水は蒸発して水蒸気になり、雲を作り、その雲は風によって陸地の山に運ばれます。雲は山の斜面にぶつかると上昇して温度が下がり、水滴となって山に雨を降らせます。その山に降った雨水が山の地面深くに吸い込まれ、そうして水が再び地表にしみ出した場所が源流となって川の流れが作られます。
つまり川の水は海の水が元になっています。そういうわけで、旧約聖書の中にも新約の時代のイエスさまがあちこちに顔を出しています。その典型が、出エジプト記に記されている過越の羊ですね。きょうは、聖書をあちこち開いて申し訳ないのですが、最後の礼拝の一つ手前の礼拝ということで、ご容赦願いたく思います。出エジプト記の12章21節から24節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.119)。
12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
12:22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
12:23 【主】はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、【主】はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。
旧約のモーセの時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。そのイスラエルの民を神様は救い出して下さいました。その時に犠牲になったのが過越の羊です。22節にあるように、羊の血を家の鴨居と門柱に塗ることで、イスラエルの民は滅びから免れました。
ですからバプテスマのヨハネはイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのですね。最後に、ヨハネの福音書1章の29節と30節を交代で読みましょう。
1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまが自分より先にいたと言っていました。その通りですね。イエスさまは旧約の時代からおられました。そうして天の父と共に聖霊を通してモーセやイザヤなどの預言者たちに神のことばを伝えていました。その旧約の時代の川の水が海に注ぎ込んで新約の時代になります。その新約の時代の海の水が蒸発して、また旧約の時代に運ばれて行きます。
おわりに
神様の時間は私たち人間の時間とは異なります。神様の時間に思いを巡らしてみることは、人間社会の中で翻弄されがちな私たちの心を、その渦中から救い出す働きがあります。是非、神様の大きなスケールの時間にも思いを巡らしてみることを、お勧めしたいと思います。
きょうのメッセージをまとめると、きょうは大きく三つのことを話しました。
①2000年前の十字架によって私たちの罪が赦されるのは、十字架が汽水域にあるからで、海水側にいる新約の時代の私たちも満潮時には川の河口部に逆流して汽水域に入るからであること、
②川の流れの中にある旧約の時代と違って、新約の時代の私たちは深い海の中にいるので、心が乱されることなく深い平安が得られること、
③神様の時間は、人間の私たちの時間とは異なる中にあり、旧約と新約の時代、新約と旧約の時代の間を行き巡っています。そのようなスケールの大きな神様の時間を思い巡らすことによっても、人間社会の中で翻弄されがちな私たちは、その渦中から救い出される、
以上の三点を話しました。
このように旧約の時代と新約の時代の全体を見渡すことで、私たちは心の深い平安を得ることができるようになります。このような大きなスケールでの思い巡らしをすることも、ぜひお勧めしたいと思います。
お祈りいたします。