平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

十字架は河口の汽水域(2019.3.24 礼拝)

2019-03-27 07:50:49 | 礼拝メッセージ
2019年3月24日礼拝メッセージ
『十字架は河口の汽水域』
【ヨハネ12:37~41】

はじめに
 私たちが、この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと二回となりました。先週のメッセージでは罪をテーマにして、中心聖句はヨハネ8:7 の「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」でした。イエスさまはパリサイ人たちに対して、もし自分に罪がないと思うなら、姦淫の罪を犯した女に石を投げなさいと言いました。この言葉を聞いた人々は、一人また一人とそこを去って行き、イエスさまと女だけがそこに残りました。つまり、人は誰もが罪人であるということです。
 人は誰もが罪人です。神様の目から見て、正しい者など一人もいません。従って、本来であれば神の国に入ることができる者など一人もいません。罪人のままでは神の国に入れないからです。神の国に入れない者は滅びるしかありません。しかし、世の人々を愛している神様は、イエスさまを十字架に送ることで私たちの罪を赦して神の国に入ることができるようにして下さいました。ヨハネ3:16が書いている通りです(週報p.3)。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 私たちは誰でも「イエスは神の子キリストである」と信じるなら聖霊が与えられて永遠の命を得て、神の国に入ることができます。

分かりにくいキリスト教の教え

 ただし、このキリスト教の教えは、21世紀の現代人にとっては非常に分かりにくいものです。特にキリスト教とは何の関係もなく子供時代を過ごして大人になった者には、極めて理解しづらいものです。きょう私が犯した罪を、明日イエスさまが十字架に掛かることで赦されるなら、話は分かります。しかし、きょう私が犯した罪が、なぜ2000年前の十字架で赦されるのでしょうか。もし、罪の問題が2000年前に解決していたなら、以降の世界はもっと平和になっていたはずです。ですから十字架以降の罪の問題は十字架では解決できていないのではないかという疑問が湧きます。これは当然の疑問であり、おかしな疑問ではありません。なぜなら、そもそも十字架は時間順で考えるなら、イエスさまが十字架に掛かる前に人々が犯した罪を赦すためだからです。それは、きょうの聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書53章を見れば分かると思います。イザヤの時代は旧約の時代ですから、当然のことながらイエスさまの十字架よりも前の時代です。イザヤ書53章の5節と6節をお読みします(週報p.3)。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 ここで「彼」とはイエスさまのことですね。そして「私たち」というのは旧約の時代の人々です。旧約の時代の人々はほとんどの場合、神様に背いていました。その背きの罪のためにイエスさまは十字架に掛かりました。そして、それによって人々に平安がもたらされました。
 きょうの聖書箇所のヨハネ12章は、このイザヤ書53章を引用しています。ヨハネ12章の37節と38節を交代で読みましょう。

12:37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

 38節の、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」というのはイザヤ書53章1節の引用ですね。イエスさまの時代の人々も神様から背いていて、イエスさまを信じようとしませんでした。
 イエスさまの十字架は、まず第一にはイエスさまが十字架に掛かる「前に」人々が犯した罪を赦すためのものです。しかし、父・子・聖霊の三位一体の神は永遠の中にいますから、イエスさまの十字架よりも「後に」生まれた21世紀の私たちの罪もまた赦されます。イザヤ書53章5節の「私たち」には、21世紀の私たちも含まれます。

十字架を河口の汽水域に例える
 このような分かりにくいキリスト教の教えを、どのように語れば、もっと分かりやすくなるでしょうか。このことに思いを巡らしていたところ、今回、タイトルに記したように十字架を川の汽水域に例えたらどうかと思いましたから、これからその説明をします。
 
 川の汽水域とは川の河口付近で海水と真水とが交じり合っている場所です。この海水と真水が交じり合う汽水域は、多くの生物が生息する豊かな場所です。汽水域の生物で有名なのはシジミ貝ですね。ヤドカリやカニ、ゴカイなどもたくさんいます。また、これらの生物を食料とする鳥たちも、この汽水域に集まってお腹を満たします。特に長い距離を旅するシギやチドリなどの旅鳥は、川の河口付近にしばらく留まって羽を休めると同時に食糧補給をたっぷりと行います。汽水域は旅をする鳥たちにとっては、飛行機が羽を休めて燃料を補給する空港のようなものとも言えるかもしれません。空港では様々な国籍の人々が行き交い、人間が食事をするフードコートやレストランなどが充実している点とも似ていると言えるかもしれませんね。
 この恵み豊かな汽水域を十字架と考えて、そこに向かって流れる川は旧約の時代であると例えてみたいと思います。川の源流にはアダムとエバの時代があります。そして川を上流・中流・下流の三つの区域に分けるとしたら、マタイの福音書の冒頭にある系図に習って、上流はアブラハムの時代からダビデの時代まで、中流はダビデの時代からバビロン捕囚の時代まで、そして下流はバビロン捕囚の時代からイエス・キリストの時代までということになるでしょうか。
 汽水域一帯は十字架の出来事があったイエス・キリストの時代であり、川が流れ込む海は十字架以降の新約の時代です。新約の時代の私たちは、この海の方にいます。さてしかし、海は満潮になると海水が川を逆流して川の河口部に入り込み、それゆえに汽水域ができます。海にいる新約の時代の私たちの罪がイエスさまの十字架によって赦され、またその十字架の出来事を身近に感じることができるのは、この汽水域への逆流があるからです。

平安を得ていたマリア、得ていなかったマルタ
 旧約の時代には川の流れのような時間の流れがありますが、海には流れがありません。海にも黒潮や親潮のような海流がありますが、それは風によって引き起こされるそうですから、海の深さに比べれば浅い部分だけの水の動きです。海の深い部分、すなわち深海では水の動きはほとんど止まっています。この深海部の海水のように時間が止まっている時、私たちは心の深い平安を得ることができます。
 この教会の礼拝メッセージでは既に何度も開いた箇所ですが、礼拝メッセージもあと残り2回ですから、過去に何度も開いた箇所でも、どんどん開きたいと思います。ルカの福音書10章の38節から42節までを交代で読みましょう(新約聖書p.136)。マルタとマリアの箇所です。

10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 ここで姉のマルタはイエスさまのもてなしの準備のために時間に追われていました。つまり川と海に例えるならマルタは川で、時間の流れに囚われ、時間の奴隷になっていました。一方のマリアは深い海の中にいて、時間の流れからは自由になっていましたから、心の深い平安を得ていました。私たちも、そのように時間の流れから自由になって、心の深い平安を得たいと思います。
 時間に追われていて心に平安がなかったマルタに対してイエスさまは言いました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

深い平安が得られる御父と御子との交わり
 一方、深い海のような心の深い平安を得ていたマリアは、御父と御子イエス・キリストとの交わりの中にいました。これも、何度も何度も開いた箇所ですが、もう一度開きたいと思います。ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.478)。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 聖霊を受けた私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。私たちは父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じることで、心の深い平安を得られます。イエスさまだけ、御父だけ、聖霊だけを感じるのであっても、それなりの平安を得ることができますが、父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じるなら、もっともっと分厚く安定した心の平安を得ることができます。深海にある海水のように心が動かされることなく平安でいられます。傲慢と思われるかもしれませんが、私自身はかなりこの平安を獲得していると感じています。ですから、是非多くの方々と、この心の深い平安を共有したいと願っています。

行き巡る旧約と新約の時代

 ここでもう一度、川と海との関係について考えてみたいと思います。海には川の水が流れ込んでいますから、新約の時代の深い海にも旧約の時代の川の水が流れ込んでいます。河口の汽水域の水も流れ込んでいます。私たちは聖霊の時代を生きていますが、旧約の時代の川の水とイエスさまの時代の汽水域の水も流れ込んでいる海の中にいますから、私たちの交わりは御父また御子イエス・キリストとの交わりです。そして、海の水は蒸発して水蒸気になり、雲を作り、その雲は風によって陸地の山に運ばれます。雲は山の斜面にぶつかると上昇して温度が下がり、水滴となって山に雨を降らせます。その山に降った雨水が山の地面深くに吸い込まれ、そうして水が再び地表にしみ出した場所が源流となって川の流れが作られます。
 つまり川の水は海の水が元になっています。そういうわけで、旧約聖書の中にも新約の時代のイエスさまがあちこちに顔を出しています。その典型が、出エジプト記に記されている過越の羊ですね。きょうは、聖書をあちこち開いて申し訳ないのですが、最後の礼拝の一つ手前の礼拝ということで、ご容赦願いたく思います。出エジプト記の12章21節から24節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.119)。

12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
12:22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
12:23 【主】はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、【主】はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。

 旧約のモーセの時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。そのイスラエルの民を神様は救い出して下さいました。その時に犠牲になったのが過越の羊です。22節にあるように、羊の血を家の鴨居と門柱に塗ることで、イスラエルの民は滅びから免れました。
 ですからバプテスマのヨハネはイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのですね。最後に、ヨハネの福音書1章の29節と30節を交代で読みましょう。

1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

 バプテスマのヨハネは、イエスさまが自分より先にいたと言っていました。その通りですね。イエスさまは旧約の時代からおられました。そうして天の父と共に聖霊を通してモーセやイザヤなどの預言者たちに神のことばを伝えていました。その旧約の時代の川の水が海に注ぎ込んで新約の時代になります。その新約の時代の海の水が蒸発して、また旧約の時代に運ばれて行きます。

おわりに
 神様の時間は私たち人間の時間とは異なります。神様の時間に思いを巡らしてみることは、人間社会の中で翻弄されがちな私たちの心を、その渦中から救い出す働きがあります。是非、神様の大きなスケールの時間にも思いを巡らしてみることを、お勧めしたいと思います。
 きょうのメッセージをまとめると、きょうは大きく三つのことを話しました。
 ①2000年前の十字架によって私たちの罪が赦されるのは、十字架が汽水域にあるからで、海水側にいる新約の時代の私たちも満潮時には川の河口部に逆流して汽水域に入るからであること、
 ②川の流れの中にある旧約の時代と違って、新約の時代の私たちは深い海の中にいるので、心が乱されることなく深い平安が得られること、
 ③神様の時間は、人間の私たちの時間とは異なる中にあり、旧約と新約の時代、新約と旧約の時代の間を行き巡っています。そのようなスケールの大きな神様の時間を思い巡らすことによっても、人間社会の中で翻弄されがちな私たちは、その渦中から救い出される、
以上の三点を話しました。
 このように旧約の時代と新約の時代の全体を見渡すことで、私たちは心の深い平安を得ることができるようになります。このような大きなスケールでの思い巡らしをすることも、ぜひお勧めしたいと思います。
 お祈りいたします。
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ヤコブの祈りの必死さに学ぶ(2019.3.21 最終祈り会)

2019-03-22 06:42:00 | 祈り会メッセージ
2019年3月21日最終祈り会メッセージ
『ヤコブの祈りの必死さに学ぶ』
【創世記32:22~30】

はじめに
 きょうの祈り会は、私たちがこの教会で行う最後の祈り会です。4月以降も、この会堂は伝道所として使われるということですから、これから先も祈り会が行われるかもしれませんが、インマヌエル沼津キリスト教会としての祈り会は、きょうのこの集会が最後のものになります。
 前半は、詩篇42篇を共に味わい、①この魂の飢え渇きは旧約の時代のものである、②新約の時代の私たちは聖霊が与えられているので、これほどの飢え渇きは無い。それゆえ却って神様から離れることになってはいないだろうか、③私たちは詩篇42篇の詩人のように霊性と感情とをしっかり区別できているだろうか、ということについて改めて確認してみることをしました。
 後半は創世記32章のヤコブの祈りの場面を共に味わって、私たちはヤコブのような必死さで祈って来ただろうかということを、ご一緒に考えてみたいと思います。まず、このヤコブの祈りの場面について短くに学びましょう。そのためには、ヤコブがどのような人物であったかも、簡単に復習しておく必要がありますね。

兄エサウに変装して父イサクを欺いたヤコブ
 ヤコブはイサクの子、イサクはアブラハムの子です。ヤコブには双子の兄のエサウがいました。双子の場合、最初に生まれた方が長男で、長子の権利がありました。ヤコブは生まれて来る時、何とかエサウが先に生まれるのを阻止しようとエサウのかかとをつかんでいました。ヤコブが生まれて来た時の場面を読みます。

25:24 月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。
25:26 その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。

 26節にあるようにヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれて来ました。ヤコブは生まれた時から長子の権利に執着していたのですね。それで、彼が成長した時、ヤコブは長子の権利を兄のエサウから奪い取ることを画策しました。いま読んだ25節に、エサウは全身が毛衣のようであったとあります。つまりエサウは非常に毛深い男の子でした。このことを利用してヤコブは父のイサクが年老いて目が見えなくなった時に兄のエサウに成りすまして、父のイサクから祝福を得ました。次にその場面を見ましょう。27章を開いて下さい。
 この変装は母のリベカが企てたものでした。母はヤコブの方を愛していたからでした。27章の15節と16節をお読みします。

27:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった、上の息子エサウの衣を取って来て、それを下の息子ヤコブに着せ、
27:16 また、子やぎの毛皮を、彼の両腕と、首の滑らかなところに巻き付けた。

 母のリベカはエサウの衣をヤコブに着せて、さらに子ヤギの毛皮をヤコブの肌の滑らかな所に付けて変装をさせました。イサクは目が見えないので、それだけの変装でだまされてしまいました。続いて27節の23節と24節をお読みします。

27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとして、
27:24 「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」

 こうしてヤコブは兄のエサウに替わって父のイサクから祝福を得ました。しかし、そこにエサウが戻って来ました。29節と30節をお読みします。29節はイサクの祝福の祈りです。

27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。

 こうして、ヤコブが本来はエサウが得るはずの父の祝福を横取りしましたが、そのことが兄のエサウにすぐにバレてしまいましたから、ヤコブは遠い土地に逃れることになりました。エサウが弟のヤコブを殺そうと思うほど怒ったからでした。

救いを必死で祈ったヤコブ
 それからヤコブは遠い土地で20年間を過ごしましたが、この20年が経った頃、主はヤコブに生まれ故郷に戻るように命じました。31章の3節をお読みします。

31:3 【主】はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」

 しかし、故郷に戻ることはヤコブにとって恐ろしいことでした。もし、まだ兄のエサウが怒っていたら、ヤコブは殺されてしまうかもしれないからでした。そこで、まずはエサウのところに使者を送りました。すると、戻って来た使者が言いました。32章の6節です、

32:6 使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」

 これを聞いてヤコブは非常に恐れ、不安になりました。四百人に襲われたら、とうてい勝ち目はなくてヤコブは殺されてしまうでしょう。ヤコブは神に祈りました。少し飛ばして32章の11節、

32:11 どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。

 そうして、きょうの聖書箇所の22節からを見て行きましょう。22節と23節をお読みします。

32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。

 ヤコブは妻と子供たちを先に行かせました。兄のエサウに襲われることが、あまりに恐ろしくて先頭に立つことができませんでした。そして、ヤコブは必死で祈りました。これは祈りの格闘でした。ヤコブの祈りは神様と格闘するほどまでに壮絶なものでした。24節から26節までをお読みします。

32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 ヤコブは神の人に、自分を祝福するまで去らせないと言いました。ものすごい祝福へのこだわりですね。神の祝福が得られれば兄のエサウに殺されることはないでしょう。すると、神の人はヤコブに尋ねました。27節です。

32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

 ヤコブは正直に「ヤコブです」と答えました。かつてヤコブはエサウに変装して父のイサクを欺き、祝福を横取りしました。しかし、神の人と格闘した時のヤコブは偽らずに正直に「ヤコブです」と言いました。このヤコブの正直な答を聞いた神の人は言いました。28節です。

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 こうして、ヤコブは神様からの祝福を得ました。そして自らが先頭に立ってエサウの方に向かって行きました。33章の3節と4節をお読みします。

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

私たちは必死に祈ったか?
 さて、私たちはこのヤコブのように必死で祈ったことがあるでしょうか?私たちは、会堂問題に関しては、これぐらい必死に祈ったのではないでしょうか。そうして新会堂が与えられる一歩手前まで漕ぎ着けることができました。これは私たちにとって大きな財産となったと私は考えています。人間社会は複雑ですから、新会堂建設には至りませんでしたが、神様は私たちの必死の祈りに応えて下さり、新会堂への道を開いて下さったのだと私は思っています。
 しかしながら、その他の祈りはどうだったでしょうか?例えば、今のこの会堂にもっと多くの新しい方々が来ますようにという祈りはどうだったでしょうか。この祈りを私たちはしなかったわけではありませんが、新会堂を与えて下さいという祈りに比べれば、全然足りていなかったのではないでしょうか。もし、新しい来会者が与えられますようにという祈りを、新会堂の祈りと同じくらいの必死さでしていたら、そうして新しい来会者が与えられていたなら、もしかしたら違う展開になっていたかもしれません。そういう意味での反省が私の中にはあります。
 必死になって祈ることの大切さは、ルカの福音書のイエスさまも説いておられますね。最後に、このルカの福音書の場面をご一緒に読んで、最後の祈り会のメッセージを締めくくることにしたいと思います。

18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

 神様は愛情深く優しいお方ですから、必死で祈る私たちのことを「うるさくて仕方がない」などとは決して思わないでしょう。しかし、そう思われるくらいに必死で祈るべきことが、このイエスさまの例え話から伝わって来ます。

おわりに
 これから私たちが進む先には、様々なことがあると思います。しかし、神様に必死に祈るなら、どんなことも乗り越えていくことができるでしょう。私たちには、会堂の祈りが神様に応えられたという財産がありますから、この時の祈りと同じくらいに一生懸命に祈りながら、これからのそれぞれの道を神様に導かれながら、進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神様はどんな罪を悲しむか(2019.3.17 礼拝)

2019-03-18 09:53:24 | 礼拝メッセージ
2019年3月17日礼拝メッセージ
『神様はどんな罪を悲しむか』
【ヨハネ8:1~11】

はじめに
 この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと3回となりました。その大切な3回の中の1回を使って、きょうは「罪」について語るように示されました。考えてみると、私はこれまでの礼拝説教や祈り会の説教の中で「罪」そのものをテーマにした説教はほとんどして来なかったような気がします。もちろん、「罪」については色々な機会に触れて来ました。しかし、それは「罪」がメインテーマではなくて、他のことがテーマの時に補足する形で罪について触れていた場合がほとんどであったような気がします。

逮捕者が出ると作品がお蔵入りになることへの疑問
 罪について皆さんとご一緒に考えてみたいと思わされたきっかけは、数日前に逮捕されたピエール瀧さんが出演した映画やドラマの作品が軒並みお蔵入りになってしまったからです。私はこのことを大変に憂慮しています。朝ドラで人気があった「あまちゃん」も、津波被害で不通になっていた三陸鉄道の全線開通に合わせて総集編の前編と後編が放送されることになっていましたが、何と前編だけが放送されることになって後編は放送されないことになってしまいました。後編にはピエール瀧さんが重要な役割で出演しているからなのでしょう。「あまちゃん」は前編と後編とで一つの作品なのに、ピエール瀧さんが出演していない前編だけを放送するというところに何とも言えない気持ちの悪さを感じます。
 この種の、逮捕者が出た作品がお蔵入りになることについては、私は約10年前に大変に苦く悲しい思いをしたことがあります。12年ほど前、私は酒井法子さん主演の『審理』という映画にエキストラで出演したことがありました。この映画は最高裁判所が企画・制作した裁判員制度をPRするための広報映画でした。酒井法子さんは裁判員に指名された主婦の役を演じていて、戸惑いながらも裁判員として裁判に参加して役割を果たし終えるまでを描いたフィクションです。映画では裁判官のアドバイスを受けながら複数の裁判員が議論する様子も描かれていて、この映画を観ることで裁判員制度について学べるようになっていて、裁判所では、この映画のDVDを無料で配布していました。しかし、10年前に酒井法子さんが覚醒剤使用の罪で逮捕されたことにより、DVDは回収されてお蔵入りになってしまいました。
 この映画を撮った原田昌樹監督は、この作品を完成させた後で癌のために亡くなりました。つまり、この『審理』という映画は原田昌樹監督の遺作でした。原田監督は癌に侵されていながら、そのことを周囲に隠してこの作品の完成のために全身全霊を傾けて、そうして完成後に間もなくして亡くなりました。それほどの渾身の作品なのに、酒井法子さんが逮捕されたことで、この作品のDVDはお蔵入りになってしまいましたから、私はとてもやり切れない気持ちになりました。ただ、この作品は酒井法子さんが主演でしたし、裁判員制度のPR映画という性質上から仕方がない面もあったかもしれません。
 しかし、今回お蔵入りになったピエール瀧さん出演の作品群は、ピエールさんが脇役のものばかりですし、官公庁によるPR映画でもありません。多くの人々の汗と涙で出来上がった作品を、脇役の一人の罪のために無にするようなことがあって良いものでしょうか?私はそのことの罪の方がよほど大きいのではないかと感じます。

人は誰もが罪人である
 私には理解不能ですが、逮捕者が出演した作品がお蔵入りになる理由の一つに、「犯罪者が出演していることで、それを観た人が不快に感じるから」というのがあるのだそうです。であるなら、不快に感じる人が観なければ良いだけの話です。そういう意見がSNS上で多く見られます。私もそう思います。ただし今日は視点を変えて、「犯罪者が出演している作品を観ると不快になる」という指摘には、人は誰もが罪人であるという意識の欠如が見え隠れしているように感じますから、そこをもう少し掘り下げてみたいと思います。
 その足掛かりとして、まず今日の聖書箇所を、ご一緒に読みたいと思います。有名な箇所ですから、ほとんどの皆さんの頭の中に入っていることと思いますが、改めて交代で読みたいと思います。

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 下の7章53節の脚注にあるように、この部分は古い写本には含まれていないということなので、私はヨハネの福音書を読む時、ここを飛ばして読むことが多いのですが、今回改めてこの箇所を読んでみて、この姦淫の女に石を投げずに去って行ったパリサイ人たちは偉かったなあ(褒め過ぎかもしれませんが)という感想を持ちました。現代の日本にいるような罪人を叩く人たちであれば、ここを去らずにいて女に石を投げたのではないか、そんな風に思うからです。少なくとも、この場にいた律法学者やパリサイ人たちは自分の中にある罪を自覚していました。作家の三浦綾子さんは『光あるうちに』の中で、「罪を罪と思わないことが最大の罪なのだ」と書いています。私もそう思います。自分の中にある罪に気付かず、人を罪人扱いすることは、とても大きな罪だと思います。

罪が赦されている私たち
 では仮に逮捕された俳優が出演している作品がお蔵入りにならずに放送されたなら、(私はそうなることを望みますが)、私たちは心の中でどう思ったら良いでしょうか。私なら、こう思うだろうと思います。「罪の種類は違っても、私も同じ罪人なのだから、その罪が赦されていることを感謝しよう。」
 私たちは罪人ですが、その罪はイエスさまの十字架によって赦されています。その赦されていることを忘れて人の罪を断罪することは、一万タラントの負債を免除してもらった家来がしたことと同じです。今度は以前にも開いたことがあるマタイの福音書18章の21節から35節までを少し長いですが交代で読みましょう。一万タラントの負債は、とても大きな負債です。王はその負債を免除しました。それは私たちが神様に背いていた大きな罪を赦していただいたのと同じことです。そのように大きな罪を赦していただいているのにも関わらず他人の罪を赦さないとしたら、それはさらに大きな莫大な罪と言えます。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 自分が罪人であり、自分が罪赦されている存在であることを覚えておくことは、とても大切なことです。そうでなければ今読んだ32節のように、「悪い家来だ」ということになってしまいます。

証し ~韓国人への差別意識を持っていた私
 人は、自分が育った環境によって、気付かないうちに罪人になっていて、自分でそのことに気付いていないことがあります。例えば差別の問題です。私が生まれ育った静岡市では、私の子供の頃には大人たちが普通に韓国人・朝鮮人を差別していました。そのことを思い出す出来事が最近ありましたから、次に証をさせていただきます。これから読むのは、最近私がFacebookに投稿した記事です。それを引用します。

(ここから引用)
 きのうJR清水駅前の清水マリナートで開催された映画『チルソクの夏』のチャリティー上映会と佐々部清監督のトークショー(主催:清水法人会)に参加して来ました。この映画は2003年に下関で先行上映された後、2004年に全国公開されました。2004年の春に新宿でこの映画を観て心をグサッと刺された私は上映最終日にもう一度新宿の映画館を訪れて、その時に野球帽をかぶった方が観客席の最後列にいるのを見て監督さんだと直感したので、声を掛けてパンフレットにサインをしていただきました。その後、自分の職場でこの映画の上映会と佐々部監督の講演会を企画・実施し、このことを通じて多くの映画ファンの仲間と知り合いになって交流が始まり、今に至っています。



 この映画は1977~1978年の下関と釜山が舞台で、両市の親善陸上競技大会で知り合った日韓の男女の高校生の交流を描いた純愛物語です。私が心を刺されたのは、ヒロインの下関の高校生の周囲の大人たちが韓国人・朝鮮人を差別している様子が自分の子供時代と重なったからでした。
 静岡の大人たちも普通に韓国人・朝鮮人を差別していました。その中で育った私はそれを特におかしいとは思わずにいて、差別意識が刷り込まれていました。そのことを示されたのが30代の後半に大学の留学生センターで働き始めてからでした。多くの留学生たちと接する中で自分の心の奥底には韓国人への差別意識があると気付き、何とかする必要を感じました。そんな時、当時所属していた日本野鳥の会が韓国バードウォッチング・ツアーを企画しているのを知って約1週間のツアーに参加しました。ツアーでは韓国南部の豊かな自然の中で野鳥観察や韓国料理を堪能するとともに地元の韓国人の方々とも交流することができました。そして、このツアーによって自分の中に根強くあった韓国人への差別意識はきれいに無くなり、かつて自分が親の差別意識を無批判に受け入れていたことを深く恥じ入りました。1999年頃の出来事です。
 そんなことがありましたから、映画『チルソクの夏』を初めて観た時、ヒロインの高校生が韓国人を差別する親に激しく反発するシーンに私は衝撃を受けました。自分は親たちの差別意識を当然のように受け継いでいたのに、このヒロインたちは違いました。自分の心の中に気付かないうちに存在する汚れについて、映画の高校生たちを通して改めて考える良い機会となりました。私にとって『チルソクの夏』はそういう大切な映画ですから、初めて観てから15年が経った今でも、少しも色褪せることがありません。
(引用おわり)

 自分とは違う環境で生まれ育った人々に根拠のない差別意識を持つ罪は、神様が最も悲しむではないかと思います。つい最近も白人至上主義者がニュージーランドのモスクで銃を乱射して多くの方々が亡くなるという痛ましい事件がありました。この事件があった町の名がクライストチャーチ(キリスト教会)という名であったことをイエスさまは本当に悲しんでおられることと思います。
 私の場合は幸いにもイエスさまと出会う前に職場の留学生センターで留学生たちと接することを通して、差別意識を持つことの罪に気付くことができました。そうして韓国バードウォッチング・ツアーに参加することで、このことの罪から離れることができました。このことで、やがて韓国人によって教会に導かれることになりましたから、イエスさまが導いていて下さったのだろうと思います。罪にどっぷりと浸かっている間はイエスさまが、そのことを悲しんでいることには気付くことができません。罪に気付くこととイエスさまの存在に気付くことは同じことと言えるのかもしれませんね。

他の人々を見下す罪は大きい
 ルカの福音書には、この差別の罪にどっぷりと浸かっているパリサイ人が登場しますね。次にルカ18章9節から14節を交代で読みましょう。

ルカ 18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

 どのような人たちにイエスさまは、この例え話をしたのか9節に書いてあります。それは「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」でした。これらの人々は、11節にあるようにこれらの人々心の中では自分が「奪い取る者、不正な者、姦淫する者」でないと思い込んでいました。このように自分の罪深さに気付かない人々が多くいることをイエスさまは悲しんでおられます。

おわりに
 最後にもう一度ピエール瀧さんが逮捕された事件に戻りたいと思います。犯罪者が出演している作品群はお蔵入りにすべきと考える人々からは、どこかこのパリサイ人たちが犯している罪の臭いが漂ってくるように感じます。
 ニュージーランドのクライストチャーチの事件、ピエール瀧さん出演の作品群をお蔵入りにした件など、世界も日本も神様からどんどん離れて行っているように感じます。神様はこのことをとても悲しんでおられることと思います。この神様の悲しみを感じることは信仰において、とても大切なことです。ですから来週も引き続き、神様が悲しむ罪について共に考えてみたいと思います。
 最後にヨハネ8章の7節から9節までを交代で読んで終わることにします。この現場を去って行ったパリサイ人たちは自分の中の罪を自覚することができましたから、少しホッとするのを感じます。

8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

 お祈りいたしましょう。
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これからの祈りの課題(2019.3.13 最後の水曜祈り会)

2019-03-14 10:31:34 | 祈り会メッセージ
2019年3月13日祈り会メッセージ
『これからの祈りの課題』
【ヨハネ20:29~31】

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。



はじめに
 きょうは、この教会で通常の形で行う水曜日の祈り会としては、最後の祈り会になります。この場で何を語るべきか私は悩みました。それで、まずはこの6年間に祈りの課題として挙げて来たことを簡単に振り返ってみました。すると、祈りが足りなかった点をむしろ示されましたから、その話から始めようと思います。

地域のために祈らなかった最初の一年
 祈らなかったことで最も悔やまれたことは、私が2013年に沼津教会に着任してからの最初の一年間は、小学生の登校下校時の交通安全について、一度も祈ることがなかったことでした。そんな中で2014年4月10日の朝、最寄のJR片浜駅に近い県道のT字路で片浜小学校5年生の嶌野瑛斗(しまのえいと)君が死亡した痛ましい交通事故が起きました。この事故のことを昼のローカルニュースで知った私は、午後に現場を訪れて祈りを捧げました。現場には多くの花が献花されていて、悲しみに包まれていました。この時、私はそれまでの一年間に、この教会で一度も小学生の交通安全について祈って来なかったことを激しく悔やみました。2013年に沼津に来る前に私は姫路教会の牧師をしていましたが、2012年の4月以降、姫路の祈り会ではずっと小学生の交通安全を祈りの課題に挙げて皆で祈っていました。それは、2012年4月23日に京都府の亀岡市で小学生の集団登校の列に車が突っ込んで3人が死亡するという事故があったからでした。この事故はもちろん全国ニュースになりましたが、関西のローカルニュースでは、その後もかなり長い期間、この事故の続報を報じていました。そういうこともあって姫路教会の祈り会では毎週ずっと小学生の交通安全を祈って来ました。それなのに私は沼津に来た途端、小学生の交通安全について祈ることを忘れてしまっていました。どうして、そんなにきれいに忘れてしまったのか、情けなくて申し訳なくて本当に激しく悔やみました。

新会堂建設のための熱い祈り
 しかし、ただの偶然か偶然ではないのか、今となっては分かりませんが、地域の小学生や人々のために祈り会で祈るようになってから、急速に会堂問題が動き始めました。新会堂が与えられますようにという祈りは、私が着任する前から既に熱く捧げられていました。沼津教会では2012年に5年後の2017年(教会創立50周年の年)に新会堂を献堂するという目標を掲げて、それに向けて全教会員が連日それぞれの自宅においても決まった時間に新会堂への祈りが積まれていました。しかし、新会堂が実現する見通しはまったくありませんでした。
 私が2013年4月に着任した時、2ヶ月後の6月は会堂強化月間になっているということを教えていただき、十和田から前任者の廣瀬邦男牧師をお招きして、会堂がテーマの説教をしていただくことになっているということでした。また5月には2人目のお孫さんが誕生して、ちょうど廣瀬善子師が何週間も沼津に滞在していましたから、やはりこの2013年の6月に善子師にも会堂がテーマの礼拝説教をしていただきました。つまり、牧師が私に交代したわずか2ヶ月後に前任の牧師の邦男師と善子師の両方に、会堂がテーマの説教をしていただいたわけで、それほど私たちは新会堂に向けて熱い思いを持って闘っていたということになります。それでも、新会堂への扉は一向に開かれる気配がありませんでした。それが2014年の4月以降、地域の小学生と人々のための祈りを開始してから、不思議なように新会堂建設への扉が開かれ始めました。それゆえ、地域のために祈る教会を志したことで、神様が扉を開いて下さったのだなと思いました。

足りなかった魂の救いのための祈り
 新会堂が与えられますように、という祈りは本当に皆さんと一緒に熱心に捧げたと思います。そして、それに神様が応えて下さったとも感じています(新会堂建設は取り止めになりましたが、着工できる直前の段階まで漕ぎ着けることができました)。しかし、今から思うとぜんぜん足りていなかった祈りがあったと反省させられています。それは、地域のもっと多くの方々がこの教会に集い、魂が救われますようにという祈りです。祈らなかったわけではありませんが、新会堂のための祈りに比べるとぜんぜん足りていなかったことは明らかです。
 祈りの人として有名なジョージ・ミュラーの伝記に、彼がイギリスで孤児院の働きを開始した頃の逸話が載っていますね。ミュラーはひたすら祈ることで与えられた建物・資金・物資で次々と孤児院を開設して、そこで多くの孤児たちを救うという大きな働きをしました。しかし、孤児院として使える家が最初に与えられて孤児の受け付けを開始した日は申込者が一人もいなかったそうです。なぜなのか、その理由を考えたミュラーたちは子供たちのために祈って来なかったことを示されて、その晩、夜を徹して子供たちのために祈ったところ、翌日には申込者があって、ほどなくして定員に達したということです。神様が祈りに応えて孤児院を与えて下さるなら、孤児も自動的に与えて下さるとミュラーたちは考えていたのだと思います。
 私自身も、もし神様が私たちに新会堂を与えて下さるなら、新しい来会者も神様が与えて下さるだろうと思っていたように思います。小さな教会の私たちが新会堂を建てることなど、ほとんど有り得ないことです。しかし、もし奇跡が起きて神様が新会堂を与えて下さるなら、当然新しい来会者も与えて下さるだろうと勝手に私は思い込んでいました。それゆえ新会堂のためのお祈りは熱心にしましたが、地域の方々が教会に来て救われますようにという祈りのほうは、しなかったわけではありませんが新会堂のための祈りに比べればぜんぜん足りていなかったと反省させられています。

多くの人々が教会を訪れた20世紀
 いま私は静岡教会の元牧師の松村導男先生が書かれた『恩寵の七十年』をまた読み返しています。この沼津教会も、宮崎兄弟姉妹のお宅の家庭集会に松村牧師が来られ、また日曜日にはその宮崎さんのお宅で静岡教会の説教の録音テープを聞いて礼拝を捧げていたことが始まりということです。その『恩寵の七十年』にも、松村牧師たちが、とにかくよく祈ったということが書かれています。そうして多くの魂が救われました。
 しかし、魂の救いに関する祈りは今でも多くの人々によって祈られているはずです(私自身の祈りは足りていませんが)。それなのに、松村牧師たちの時代に比べて現代では教会に人が来なくなったのはどうしてでしょうか。大きな要因として挙げられているのはオウム真理教の事件の影響ですね。多くの人々が宗教に対して警戒心を持つようになりました。また、それ以外にもいろいろな要因があるのだろうと思います。きょうは最後に、人々が教会に来なくなった要因として最近私が考えるようになったことについてお話して、メッセージを終えることにしたいと思います。
 少し前の礼拝メッセージで私は、2月22日の晩に放送されたテレビドラマの『約束のステージ』の紹介をしました。このドラマは2019年の現代の女性が1975年にタイムスリップするという物語です。このドラマの中では主人公たちが1970年代の歌謡曲をたくさん歌っていました。それで私自身も1970年代に引き戻された感覚になりました。そうして小学生時代の自分を思い返しました。あの頃、「21世紀」という言葉は、「明るいバラ色の未来」の代名詞のような使われ方をしていました。30年後の21世紀には科学がもっと発達していて、素晴らしい世の中になっていると小学生の私は夢想してウットリとしていました。私だけでなくほとんどの子供たち、そして大人たちの多くもそのように夢想していたと思います。未来になればなるほど科学がどんどん発達して行って、世の中はどんどん良くなっていく、そんな風に単純に信じられていた時代だったと思います。

未来を信じていない21世紀の現代人
 しかし、実際の21世紀は少しもバラ色ではありませんでした。そうして21世紀の現代人で「未来になればなるほど世の中がどんどん良くなっていく」と信じる人など、ほとんどいないでしょう。科学技術は私たちの生活を大きく変えて便利になりましたが、それで私たちが幸せになったかというと、ぜんぜんそんなことはありません。携帯電話があれば確かに便利ですから私も使いますが、電車に乗っている人がほとんど皆、携帯の画面をじっと見つめていたり忙しく指を動かしていたりする様子を見ると、これが幸せな社会だとは到底思えません。これから先、AIの進化によって生活はますます便利になることでしょう。しかし、それで私たちが今よりも幸せになれると思う人はほとんどいないでしょう。
 つまり、現代の我々は70年代の人々と比べて未来に対する希望をぜんぜん持つことができなくなっています。お金に関してもそうです。昔は定期預金にお金を預ければ利率が良かったですから、どんどんお金が増えました。今は定期預金に入れても入れなくても大して変わらないほどの利息しか付きません。お金を増やそうと思えばリスクを覚悟の上でハイリスクハイリターンの投資をする必要があるでしょう。
 預金がそういう状態ですから、年金に関してもほとんど期待ができなくなっています。将来受け取れるはずの見込み額は減り続けています。私は今年の秋に60歳になります。そうすれば一応年金の納付期間は終わります。それに当たって、年金機構は、さらに延長して65歳まで年金を納めれば、将来もっとたくさん年金を受け取ることができるとしています。しかし、今のGPIFによる積立金の運用の仕方を見ていると、それを信じることは私には到底できません。そんな風に21世紀の私たちは未来を単純には信じられなくなっています。
 イムマヌエル綜合伝道団が設立された終戦直後から何十年かの間、人々が続々と教会に来ていた時代は、人々が単純に科学を信じて未来を信じることができた時代であったことと無関係ではないのではないか、最近そんな風に私は考えるようになりました。明るい未来を信じることと明るい死後の世界を信じることは決して無関係ではないように思います。現代の人々は明るい未来を信じることができませんから、明るい死後の世界も信じることができなくて当然のような気がします。

喜びを持って今を生きているクリスチャン
 しかし、実は私たちクリスチャンが明るい希望を持って今を生きていられるのは、単に死後への希望を持って生きているからだけではなく、今現在をイエス・キリストと共に生きることができているからです。今現在その恵みの中で日々を生きていますから、未来のことをどうこう考える必要はありません。すでに永遠のいのちが与えられていますから、未来に期待も絶望もする必要がなく、単に今をイエス・キリストと共に喜びをもって生きることができます。
 しかし、このことが分かるには、まずはイエスさまを信じていただくことが必要です。きょうの聖書箇所のヨハネ20章29節でイエスさまが「見ないで信じる人たちは幸いです」とおっしゃったように、まずイエスさまと出会う前に「イエスは神の子キリストである」と信じる必要があります。そうして信じれば聖霊を受けてイエスさまと霊的に出会うことができます。
 ヨハネ4章でサマリア人たちがイエスさまに出会うことができたのは、彼らがサマリアの女の「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」(ヨハネ4:29)ということばを信じたからです。彼らはまだイエスさまを見ない段階で女の言うことを信じたからイエスさまと出会うことができ、さらにイエスさまから直接話を聞くことできて、その結果、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(同4:42)とサマリアの女に言えるほどになりました。

おわりに ~これからの祈りの課題
 現代の人々に教会に来ていただき、イエスさまを信じていただくには、どうしたら良いでしょうか。未来のことを信じにくい現代の人々に対しては、未来にある最後の審判(天国か地獄かの裁き)のことを話すよりも、今イエスさまを信じさえすれば、今すぐからでも素晴らしい恵みの中に入れられることをお伝えするのが良いだろうと私自身は考えています。
 そのためにはどうしたら良いのか、このことをどのようにお伝えしたら良いのか、これから私はかつて新会堂のために熱く祈った時以上にこのことを熱く祈り求めて行きたいと考えています。沼津と静岡とでこれからの働きの場所は皆さんと異なりますが、福音の宣教のために、これからも共に働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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真の礼拝とは何かを思い巡らす(2019.3.10 礼拝)

2019-03-11 09:34:55 | 礼拝メッセージ
2019年3月10日礼拝メッセージ
『真の礼拝とは何かを思い巡らす』
【Ⅰヨハネ4:13、ヨハネ7:37~39】

はじめに
 先週は月曜の午後から火曜の午前まで教団の若手牧師研修会が、火曜の午後から木曜の午前まで年会がありましたから、私は埼玉県のヌエックに車で行って来ました。行きも帰りも雨に降られながらの高速道路の走行となってしまいましたが、守られましたから感謝でした。皆さんのお祈りに感謝いたします。
 年会1日目の火曜日の晩には聖会Ⅰがあり、講師の先生が「真の礼拝を取り戻そう」というタイトルでメッセージを取り次いで下さいました。開かれた聖書箇所はイザヤ書6章の1節から8節までで、それに合わせて今日の聖書交読でも同じ箇所を交代で読みました。
 先生はご自身のこれまでの牧師人生を振り返り、礼拝を毎年50回、10年で500回、30年で1500回も捧げているうちに、いつの間にか真の礼拝から離れてしまっているのではないかと感じている、と話しておられました。決して他の牧師のことを言っているのではなく、自分自身のことであると言っておられました。しかし、多くの牧師がそれぞれに「自分も同じである」と講師の先生の話を聞いて示されましたから、メッセージの後で恵みの座が開かれた時には多くの牧師が続々と前方の恵みの座へと出て行きました。私もその一人です。
 イザヤ書6章でイザヤは主に出会い、主の臨在に触れました。それは圧倒されるほどの強烈な臨在感でした。もちろん、このような圧倒的な臨在感を普段の礼拝で毎週毎週感じるというわけには行かないでしょう。しかし、そこまでは行かなくても毎週の礼拝で私たちはほんの少しでも主とお会いすることができているでしょうか。主との出会いが少しもない礼拝を惰性で重ねてしまっていることはないでしょうか。それが先生の問い掛けでした。
 この聖会Ⅰが終わってから宿泊棟に戻り、私は同室になった先生たちといろいろなことを語り合いました。そして、その日の聖会メッセージについても話すことができました。年会ではBTCの卒業年が比較的近い牧師同士が同室になるように部屋割りが決められます。私たちの部屋は3人が泊まり、いろいろと語り合うことができましたから感謝でした。

真の礼拝を思い巡らす
 さて、その同室の先生の中の一人が、こんな話をしました。「自分はこれまでの牧師経験の中で一度だけ、これこそが真の礼拝ではないかと言える礼拝を経験したことがある」ということでした。それがどんな礼拝だったか、後で話しますから、皆さんも是非その時の礼拝の情景を思い巡らしてみていただきたいと思います。
 3週間前のメッセージで私はスポーツでも映画でも、ある程度自分の頭で考えることで、それらをより深く味わえるようになると話しました。100%受け身でスポーツ観戦や映画鑑賞をするのではなく、スポーツ選手や映画監督が何を考えながら一つ一つのプレーをしたり撮影をしているのか、その意図を探るなら、単に受け身で見るよりも選手や監督にぐっと近づけた気がして、そのスポーツや映画をより深く味わうことができます。もちろん素人がいくら頭を使っても、低レベルのことしか考えられません。しかし、それでも良いと思います。少しでも考えてみるなら、より理解が深まります。
 スポーツや映画だけでなく数学や物理などの学問でも同じですね。学問と言わず小学校の算数や理科の勉強でも同じです。学校の算数や理科では教師が何かを教えたら、その後で必ず練習問題を解くことになっています。そうして自分の頭を使って練習問題を解くことで、そのことが初めて身に付きます。
 聖書も同じです。聖書を算数や理科の教科書だとすると思い巡らしは練習問題です。単に聖書を読むだけでなく、その箇所について自分なりに思いを巡らしてみることで初めて聖書を深く味わうことができるようになります。

雪の日の礼拝
 これから話すことも皆さんの一人一人が自分なりの情景を思い浮かべながら聴いてみていただけたらと思います。年会の宿泊棟で同室だった先生は、次のように話して下さいました。

 その日、その地方では前日から多くの雪が降りました。普段は雪が降らない地域ですから、礼拝に無理をして出ると危険ということで礼拝は行わないことにしました。そうして礼拝を中止することを教会員に連絡しました。
 さてしかし、礼拝の時間になって一人のクリスチャンが教会を訪ねて来たそうです。その方は別の教会の会員で、雪のために自分の教会まで行くことができないために、近くの教会に来ることにしたということでした。それで、先生はその方のために礼拝を行うことにしたそうです。出席者は三人。先生と先生の奥様、そしてその日教会を訪ねて来た方です。奏楽は普段はピアノが上手な方が担当していますが、その日はピアノがあまり得意ではない先生の奥様が急遽行うことにしたそうです。

 以上が、その日にあったことのあらましです。先生は、この時の礼拝が今までの中で一番礼拝らしい礼拝であったと話していました。そうして、ご自分で次のように解説を付け加えました。

 礼拝とは捧げるものだ。捧げ物は神様に捧げる。この日は本当に「神様に捧げている」と感じた。自分は普段の礼拝のメッセージの御用では会衆の反応を気にしながら話している。つまり余計なことを考えている。きょうのメッセージは良いと思ってもらえるか、それともつまらないと思われてしまうか、そんな余計なことをつい考えてしまう。それが、この日はメッセージを聞いているのが他の教会の会員が一人いるだけだったから反応を気にすることなく話すことができた。また、妻のピアノが下手で、それがまた良かった。いつもの奏楽者はピアノがとても上手いので、その上手さをひけらかす傾向がある。それゆえ神様の方を向いているのでなく人の方を向いている。しかしピアノが下手な妻は一生懸命にピアノを弾いていて、本当に神様に捧げているという感じだった。礼拝は神様に捧げるものだから、これこそが真の礼拝だという気がした。

 こんな風に話して下さいました。これを聞いて、私はとても良い話を聞いたと思いました。しかし、ここで終わってしまっては、単に良い話を聞いたというだけで終わってしまいます。大切なのは、その先です。たぶん、その先生も気づいていない深い真理がそこには隠されています。私も聞いた直後はそれが何かは見えていませんでした。ただ何となく直感的に、そこには深い真理が隠されているように感じました。

そこに深い真理が隠されているかもしれない
 ここから少し脱線します。今から話すことは、雪の日の礼拝の話とは直接の関係はありませんから、雪の日の礼拝のことは、いったん脇に置いておいて下さい。
 皆さんは、「セレンディピティ」という言葉をご存知でしょうか。セレンディピティは科学の世界でよく使われる言葉で、「幸運な偶然を手に入れる力」というような意味で用いられます。科学では偶然が大きな役割を果たすことがしばしばあります。例えばたまたま犯したミスが大きな発見につながることがあります。実験で使う薬品を間違えたら未知の現象が起きて、大発見につながったというようなことです。薬品を間違えてしまえば、その実験は失敗ですが、大発見があったという意味では失敗ではないでしょう。肝心なのは未知の現象を目にした時に、そこには深い真理が隠されているという直感が働くかどうかで、そういう人がセレンディピティがある人と言うことができるでしょう。
 私自身にセレンディピティがあるか無いかは分かりませんが、私は小さな直感がきっかけで大きなことにつながって行くということを、しばしば経験しています。例えば私が初めて高津教会を訪れた日、その日は藤本満先生による「ガラテヤ人への手紙」の連続講解説教の初日でしたが、律法主義について藤本先生が語った「人は信仰に熱心になればなるほど神様から離れて行くことがある」ということばに不思議な魅力を感じました。その頃の私は聖書のことをほとんど何も知りませんでしたから、律法主義についても知るはずがありません。しかし「信仰に熱心になればなるほど神様から離れることがある」という逆説には何か大切なことが隠されていると直感したのだと思います。それが大切であるという意識もなかったと思いますが、そこには自分が求めている深い世界があるかもしれないと直感したのだと思います。その直感が、後に牧師になることにつながりました。
 ヨハネの福音書について深く思いを巡らすようになったことにも、小さなきっかけがありました。それはBTCの1年生の時に受けたヨハネの福音書を学ぶ授業で、講師の先生がヨハネはマタイ・マルコ・ルカと違って2章という早い段階で「宮きよめ」を書いたが、これは大きな謎だと話していました。この時私は、このヨハネの福音書の謎の背後には今まで誰にも知られていない深い真理が隠されていると直感して、それ以降、いつもヨハネの福音書の謎について思いを巡らすようになりました。そうしてそれが、この福音書が三つの時代の重なりの三層構造を持つという発見につながりました。
 聖書の人物たちの中にも、小さなことがきっかけで大きなことへとつながって行った人たちがいますね。ルツ記のルツなどは、その代表でしょう。最初に落ち穂拾いをした畑がボアズの畑でなかったなら、ルツとボアズが結ばれることはありませんでした。ルツが落ち穂拾いに出掛けた時、ルツは無意識の中でこの畑が良さそうだと直感したのだろうと思います。そういう意味でルツ記とはセレンディピティの物語とも言えるかもしれません。

私たちの外側と内側にいる神様
 脱線が長くなったので、元に戻します。私は年会の宿で同室だった先生から聞いた雪の日の礼拝の話には深い真理が隠されていると直感的に思いました。その話を聞いたのが年会1日目の夜のことでしたから、2日目の明け方、朝早くに目を覚ました私は布団の中でこの雪の日の礼拝の情景について思いを巡らしました。どうして、この先生はこの時の礼拝を、これこそが礼拝ではないかと感じたのか、このことを思い巡らしていた時に示されたのが、第一ヨハネの4章13節です。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 私たちが神の内にとどまるということは、神が私たちの外側にいて下さって私たちを包み込むようにして守っていて下さるということです。神様は翼を広げて私たちを覆って、私たちを外敵から守って下さいます。また、神様が私たちの内にとどまっているということは、神様が内側から私たちに声を話し掛けて下さっているということです。神様が私たちの外側にいて翼で私たちを守って下さっている時、私たちは守られていることを感じます。しかし、神様の声までは聞くことができません。神様の声を聞くことができるのは神様が私たちの内側に入って下さった時です。
 外側にいて守って下さる神様、そして内側にいて話し掛けて下さる神様、この両方を同時に感じる時、私たちは圧倒的な神の臨在に触れることができるのではないでしょうか。どちらか一方でも神様を感じることはできます。しかし、外側にいる神様の臨在感と内側にいる神様の臨在感が外と内の両方からがっちりと連結して噛み合う時、神様は圧倒的に私たちに迫って来るのではないかと思います。イザヤ6章で神様は正にイザヤの外側と内側の両方にいました。
 そして雪の日の礼拝で真の礼拝を捧げたと感じた先生も、外と内の両方に神様がおられることを感じたのではないかと思うのです。BTCにいる時に私たちは、牧師とは祭司であると同時に預言者でもあると教わりました。祭司と預言者とでは向いている方向が違います。祭司は人々の代表として神様に向かって祈りの言葉を捧げます。一方、預言者は人々の方を向いて神様のことばを人々に伝えます。祭司は神様に私たちを守って下さいと祈りますから、神様は祭司の外側にいます。一方、預言者は自分の内にいる神様の声を聞いて、それを人々に伝えます。
 礼拝を捧げる時、牧師は祭司として祈りを捧げ、そしてまた預言者として神の言葉を取り次ぎます。しかし、会衆が多いとつい余計なことを考えてしまいますから、神様との一体感がなくなってしまいます。神様との一体感がないなら真の礼拝からは離れてしまうでしょう。雪の日の礼拝においては会衆がたった一人しかおらず、しかもそれが他の教会の会員であったことから人間的な余計な思いからは解放されて神様との一体感を感じたのではないか、年会の2日目の朝、私は布団の中で思いを巡らしながら、そんな風に感じました。

私たちの内から流れ出す聖霊
 このことに思い至った時、牧師が受ける恵みの大きさに改めて感謝しました。祭司そして預言者として神様と一体になれることはとても大きな恵みです。ただし、それだと礼拝の恵みを牧師だけがたくさん受け取り、会衆の皆さんが受ける恵みは牧師よりもずっと少ないことになってしまいます。それで良いわけがありません。牧師と会衆の両方が共にたくさんの恵みを受けてこそ、初めて真の礼拝を捧げたということになるでしょう。牧師だけが真の礼拝を捧げたと感じて会衆が感じなかったとしたら、それを真の礼拝と呼ぶことはできないでしょう。そんな風に思っている時に示されたのが、ヨハネ7:37~39です。交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 聖霊はクリスチャンの心の奥底に入って内から外へと流れ出ます。これは牧師も会衆も同じです。礼拝にはクリスチャンではない方も集い、またクリスチャンであっても、まだ聖霊に満たされる恵みを知らないクリスチャンも集います。これらのまだ恵みを十分に知らない方々に向けて会衆から聖霊が流れ出て行くなら、それが真の礼拝ではないでしょうか。もしクリスチャンの会衆が礼拝で神と出会わないなら聖霊が溢れ出ることはなく、まだ恵みを知らない方々に向かって聖霊が流れ出ることはないでしょう。
 恵みをまだ知らない方々に向けて牧師だけが神様を語るのではありません。教会に集う信徒の皆さんもまた内から外へ聖霊が溢れ出て行くことでまだ恵みを知らない方々に向けて神様の恵みを何となく感じさせる。そうして、恵みを知らない方々が来週もまた礼拝に出席してみよう、そう思わせる雰囲気が自然と醸し出されるのが真の礼拝ではないでしょうか。もっと言えば、たとえ新しい方が会堂の中にいなくても、そこで真の礼拝が捧げられているならば聖霊が会堂の外にも流れ出て行って、会堂の外にいる方々がこの教会に入ってみようかなと思わせる力がある、それが真の礼拝と言えるのかもしれません。
 私が初めて高津教会を訪れた日は、藤本満先生のガラテヤ書の講解説教の初日の日であったことはもう何度も証ししました。しかし、私が翌週以降も高津教会に通い続けたのは実は説教だけが要因ではなかったのだと思います。教会の皆さんと共に賛美歌を歌い、祈りに加わることに何となく心地良さを感じていたのだと思います。礼拝の雰囲気は牧師だけが作るのでなく、教会の会員全体が作るものです。それは信徒の皆さんのお一人お一人の内に入った聖霊が外側に流れ出ることで作られる雰囲気なのだろうと思います。私はそれを心地良く感じたのだと思います。なぜなら教会に通い始めてから初めての聖餐式の日に大きな疎外感と孤独を感じたからです。私が初めて高津教会を訪れたのが2001年の8月12日で、それから私は一度も礼拝を休まずに通い続けて10月の第一聖日に聖餐式がありました。聖餐式が何かを知らない私は礼拝でパンを食べ、ぶどう液を飲むことを知ってワクワクしながらその時を待ちました。しかし、洗礼を受けていない者はパンとぶどう液が与えられないと知って愕然としました。そうして、今まで私に親しく声を掛けて下さっていた方のことが急によそよそしく感じられました。今までの親しげな様子は何だったのかと思いました。それで、もう教会へ行くのは止めようとすら思いました。しかし神様の憐れみによって踏みとどまり、その孤独感が却って洗礼を受けたいという気持ちに切り替わりました。

おわりに
 きょうは、真の礼拝とは何かについて、思いを巡らして来ました。真の礼拝においては出席者は神様と出会い、神様の臨在に触れることができます。その臨在感は、自分の外側におられる神様と内側におられる神様の両方を同時に感じる時に、強く感じることができます。外と内のどちらか一方でも神様の臨在を感じることはできると思いますが、両方を感じるなら、より一層神様の臨在を強く感じることができます。そうして、会員一人一人の内に入った聖霊が外に向かって溢れ出し、流れ出して行くほどになる、それこそが真の礼拝ではないか、そこまで思いを巡らすことができましたから感謝に思います。
 是非、皆さんのお一人お一人がご自身でも、真の礼拝とは何かについて、思いを巡らす機会を持っていただけたらと思います。
 お祈りいたしましょう。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。
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約束の聖霊 聖書の時代へのタイムスリップ(2019.3.3 礼拝)

2019-03-03 15:47:19 | 礼拝メッセージ
2019年3月3日礼拝メッセージ
『約束の聖霊 聖書の時代へのタイムスリップ』
【ルカ24:49、Ⅰヨハネ1:1~4】

はじめに
 3月に入りました。これからの1ヶ月間は、私たちの教会にとって締めくくりの時期であると同時に、次の4月からの新しいスタートに備える1ヶ月間でもあります。
 私自身も、この教会の締めくくりがきっちりとできるように、できる限りのことをするつもりでいますが、それと同時に次の4月からの新しいスタートに備えるための1ヶ月間でもあると考えています。

聖書を広いところに連れ出したい
 1ヶ月前の2月3日の礼拝のメッセージで私は恩田陸の小説の『蜜蜂と遠雷』について短く話しました。この小説では才能豊かな若いピアニストたちが、ある地方都市で開催された国際ピアノコンクールで互いに競い合いつつ、同時に互いに豊かな友情を育んで行く姿が描かれています。また彼らを支える多くの人々やコンクールの審査員たちの心の動きも豊かに描かれていて、本屋大賞と直木賞とをダブル受賞したことでも話題になりました。この国際ピアノコンクールは浜松国際ピアノコンクールがモデルになっているということですから、NHKが昨年の11月の実際の浜松での国際ピアノコンクールを取材した番組も放送されたりしました。
 先月の2月3日の礼拝メッセージの中で私は、この小説『蜜蜂と遠雷』の主人公の一人の風間塵が亡くなった自分の師匠と交わした約束がとても心に響いたという話をしました。その約束とは、「狭いところに閉じ込められている音楽を広いところに連れ出す」というものです。そして、これを私自身に与えられた使命であるとも感じるようになりました。それは、狭いところに閉じ込められている「聖書」を広いところに連れ出すというものです。
 先々週のメッセージでは、前半でスポーツの野球とカーリングの話、それから映画の『幸福の黄色いハンカチ』と『ラ・ラ・ランド』の話をしました。これらは、聖書を広いところに連れ出すための一環として取り入れたと私の中では考えています。スポーツや映画は多くの人々が親しんでいます。そういう場に聖書も連れ出すことで、もっと多くの方々に聖書を知っていただくきっかけにすることができないだろうか、そんな風に考えています。もちろん、道はそんなに簡単には開けないだろうとも思っています。道は険しいだろうと思います。しかし、少しずつでも、聖書を広いところに連れ出す働きに取り組んで行きたいと願っています。

約束されていた聖霊の授与
 そういうわけで、きょうも映画そしてテレビドラマと聖書とを絡ませることを考えています。先ほど、小説『蜜蜂と遠雷』の主人公の一人の風間塵が亡き師匠と約束を交わしたという話をしましたが、きょうは「約束」ということばを何回か使います。きょうのキーワードは「約束」です。そして最後に私たちには永遠の命が約束されていることを確認したいと思います。
 きょうの聖書箇所の一つめはルカの福音書24章からでした。もう一度、お読みします。

24:49 「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 ここに「約束」ということばが使われています。イエスさまは、「わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります」とおっしゃいました。この「父が約束されたもの」とは聖霊のことですね。そうして弟子たちは使徒の働き2章にあるように、ペンテコステの日に約束されていた聖霊を受けたことで聖霊から力が与えられてイエスさまの証人となってイエスさまについて人々に証をしました。
 この弟子たちは、実際に地上生涯のイエスさまと出会ってガリラヤでの日々、そしてガリラヤからエルサレムに至るまでの旅の日々をイエスさまと共に過ごした者たちでした。さらに、1世紀の末以降は弟子たちの弟子たちに受け継がれて2世紀以降へと引き継がれて、21世紀の私たちもまたイエスさまの証人となるべく日々を生きています。

聖霊を受けると福音書の世界に引き込まれる
 この1世紀の末から21世紀の現代までイエスさまの証人が絶えることなく脈々と引き継がれて来たことに、きょうのもう一つの聖書箇所のヨハネの手紙第一は大きな役割を果たして来たと言えるでしょう。第一ヨハネ1章1節、

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。

 このヨハネの手紙があることで、マタイ・マルコ・ルカそしてヨハネが描いた福音書のイエスさまは、こういうお方だったのだなと分かります。そして、私たちも聖霊を受けるなら、この交わりの中に入れていただくことができます。そして、私たちもまた喜びで満ちあふれます。3節と4節、

1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 聖霊を受けるなら、私たちはまるで自分もイエスさまの地上生涯と同じ時代を生きているような感覚になり、イエスさまとの交わりを経験することができます。例えば、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)というイエスさまのことばが、まるで自分に声を掛けて下さったことのように感じます。或いはまた、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)というイエスさまのザアカイへのことばを、まるで自分への声掛けのように感じる人もいることでしょう。
 ヨハネの福音書のイエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)、「来なさい。そうすれば分かります」(同1:39)ということばを自分への招きのことばと感じる人も、きっといるでしょう。このように聖霊を受けると私たちは1世紀の福音書の世界へと引き込まれていきます。それが、第一ヨハネ1章3節の「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」ということではないかと思います。
 こうして1世紀の過去に戻り、1世紀の時代の人々、そして御父と御子と交わることで私たちは喜びで満たされます。

タイムスリップの物語①『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
 このように過去にいる人々と交流して、また現代に戻って来ると現代での生活が喜びに溢れるものになるという話は、映画やテレビドラマ、小説や漫画などではタイムスリップ物として良く見られるものです。ここからは、聖書から少し離れて、三つの作品を紹介したいと思います。



 まず、とても有名な映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出してみましょう。この作品はパート3まで作られましたが、一つめのパート1を考えます。パート1は1985年に公開されました。主人公のマーティは現代の1985年を生きる高校生です。彼の父親は風采が上がらず、マーティが暮らす家庭の中はいつもどんよりとした感じです。ある時、マーティは年上の友人のドクがデロリアンという車を改造して作ったタイムマシンで30年前の1955年にタイムスリップしてしまいます。ここで彼は両親が結ばれることを助けます。そして1985年に戻って来たら、風采が上がらなかった父親は小説家として成功していて、どんよりしていた家庭も明るく洗練された雰囲気に変わっていました。この映画の面白い点はいろいろありますが、デロリアンという車が時速88マイルを越えないとタイムスリップできないこと、またそのためには莫大な電力が必要だったことが話を面白くしていましたね。1985年ではこの莫大な電力を得るためにプルトニウムを使っていましたが、1955年ではそれが得られなかったために、雷を利用しました。1955年にその町の時計台に雷が落ちることが歴史的に分かっていたからです。これは、よくできたフィクションで、ハラハラドキドキさせられる、とても面白い作品だったと思います。
 ただし、こういうデロリアンという車でタイムトラベルすることは現代の科学技術では不可能であることを私たちは知っています。ですから、この『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は単なるお話です。しかし、聖霊によって1世紀のヨハネたち、そして御父と御子との霊的な交わりに入れられるというのは現実に起きていることです。霊的な世界のことですから「現実」ということばは当てはまらないかもしれませんが、これは実際に私たちが経験していることです。イエスさまを信じないと経験できない世界のことですが、「イエスは神の子キリストである」と信じて聖霊を受けた私たちは、そのような霊的な交わりを経験して喜びで満たされますから、とても感謝に思います。

タイムスリップの物語②『コーヒーが冷めないうちに』
 次に、二つめのタイムスリップ物として、昨年公開された映画の『コーヒーが冷めないうちに』を紹介します。この映画を私は去年、清水町のサントムーンで観ました。ストーリー展開がとても面白く感じましたから、ネタバレをしてしまいますが、紹介したいと思います(ただし物語の細かい点は記憶が曖昧になった部分があるので、あまり正確ではないかもしれません)。この映画の舞台は、「フニクリ フニクラ」という変わった名前の喫茶店で、ヒロインは有村架純さんが演じた時田 数(ときた かず)という女性です。数(かず)はこの喫茶店でコーヒーを淹れていました。この喫茶店では、ある特定の席に座ってヒロインの数にコーヒーを淹れてもらうと、この喫茶店の中で、過去に戻ることができます。例えば、ある女性は交通事故で死んでしまった自分の妹がこの喫茶店に来ていた時代に戻って妹に会いたいと希望しました。或いはまた別の男性客は妻が若年性アルツハイマーに掛かってしまっていました。その妻の謎の行動を解き明かすために、この男性客は妻がアルツハイマーになる前にタイムスリップすることを希望します。そういう客の希望を聞いてヒロインの数は何人かの客にコーヒーを淹れてタイムスリップの手伝いをしてあげていました。
 さて、この数という女性は、いつも暗い表情をしていました。それは彼女がかつて自分の母親に見捨てられたと思い込んでいたからでした。そこで彼女に惹かれて付き合い始めたボーイフレンドは、本当に母親が彼女を見捨てたのかどうかを過去に戻って確かめたら良いのになと思っていました。ところが、このタイムスリップをするには時田家の血を引く女性にコーヒーを淹れてもらう必要があります。彼女が自分のために自分でコーヒーを淹れるという方法ではタイムスリップはできません。ですから、彼女自身が過去に戻って、本当に母親が自分を見捨てたのかを確かめることはできませんでした。
 そんな中、ボーイフレンドの彼は良いアイデアを思い付きます。このアイデアを彼は彼女には打ち明けないでいましたが、ある日、少女がこの喫茶店に現れて、ヒロインの数のためにコーヒーを淹れてあげます。それで数は過去に戻ることができて、実は母親は自分を見捨てたわけではないことを知ります。こうしてヒロインの数は現代に戻ってからは喜びに溢れて未来へと向かっていくことができるようになりました。もはや暗い表情で毎日を生きることはなくなりました。このからくりは、この映画の最後に種明かしされます。ヒロインの数にコーヒーを淹れてあげた少女は後に数とボーイフレンドが結婚して二人の間に生まれた娘でした。この少女も時田家の血を引くために、コーヒーを淹れて数のタイムスリップを助けてあげることができました。この少女にコーヒーを淹れてあげたのは未来で母親になっていたヒロインの数でした。未来の数は自分の娘にコーヒーを淹れてあげて娘を過去に戻し、そこで娘が数にコーヒーを淹れてあげて、数は過去に戻ることができました。このようにして数は自分の母親が自分を見捨てたわけではないことを知ることができたのでした。ちょっとややこしいですが、私はこの三世代にわたる母と娘の家族愛の物語をとても心地よく感じました。その他、数が淹れたコーヒーで過去にタイムスリップした客たちは皆が豊かな家族愛を持つ人々でした。これらの家族愛に私は心を洗われるような気持ちになりましたから、好きな映画の一つになりました。
 繰り返しますが、これはフィクションですから、単なるお話です。しかし、聖霊を受けた私たちは実際に1世紀のヨハネたちと交わり、御父と御子と交わることができます。

タイムスリップの物語③『約束のステージ』
 最後に三つめとして、もう一つ、最近感銘を受けたタイムスリップ物のテレビドラマを紹介したいと思います。ドラマのタイトルは『約束のステージ』です。このテレビドラマは私が応援している佐々部清監督が演出した2時間ドラマで、2月22日の金曜日の晩に放送されたものです。これもすみませんが、かなりネタバレをします。
 主演は土屋太鳳さんで、共演は百田夏菜子さん、向井理さん、石野真子さんらです。この物語は2019年の現代から始まります。土屋さん演じるヒロインの翼は、ある東北のさびれた田舎町に住む20歳の女性です。翼は石野真子さんが演じる母が営む小さな食堂で、母と共に働いています。母の名前は雪子といいます。翼は歌手になりたいという夢を持っていましたが、今一つ頑張れないでいました。そんな娘に対して母の雪子はまだ20歳なのだから目標に向かって頑張るように発破を掛けます。しかし、そんな母のことばに翼は反発して母に聞きます。「お母さんは今まで頑張って来たことがあるの?」すると母は答えました。「それなりに頑張って来たわよ」。この母のことばに対してつばさはひどいことを言います。「頑張って来た結果がこれ?」翼はさびれた田舎町で小さな食堂を経営して満足しているように見える母にひどいことを言って外に飛び出します。そして、友人の家に泊めてもらおうと向かう途中で1975年にタイムスリップしてしまいます。その1975年で翼は百田夏菜子さんが演じる同じ「つばさ」という名前の20歳の女性と出会います。1975年のつばさもまた歌手になりたいという夢を持っていました。そしてつばさは本気で自分の夢に挑戦したいと思っていました。一方の2019年からタイムスリップしたほうの翼は相変わらず自分の夢に本気で挑戦することには躊躇していました。そんな彼女でしたが、1975年のつばさが夢に向かって頑張ろうとしている姿に刺激を受け、また彼女たちを支えて応援する人々と交わるうちに次第に変えられて行き、自分も本気で歌手を目指そうと決意します。翼を本気で頑張る者へと変えた1975年のつばさは、実は翼の母親でした(ネタバレしてすみません)。そのことに翼が気付いた時、20歳の母のつばさは翼のもとを去ってしまっていましたから、もう会えませんでした。この悲しみが彼女を大きく変えて自分一人で夢に向かって頑張る力を彼女に与えたのでした。このドラマの最後で翼は再びタイムスリップして2019年の現代に戻ります。彼女は食堂の母親のもとに一目散に走って行って「会いたかった」と抱きつき、「ごめんなさい」と謝ります。そんな母親は彼女に優しく「お帰り」と言います。ドラマはここで終わりますが、翼はきっとこれからの自分の人生を前向きに生きて行くことでしょう。

神様にひどいことを言っていた私
 このドラマを見て私は、母親にひどいことを言っていた時の翼はイエス・キリストを知る前の私に良く似ているなと思いました(クリスチャンの多くがそうでしょう)。イエス・キリストを知る前の私は、神様に対してひどいことを言ってばかりいました。しかし、聖書と出会い、イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受け、1世紀の人々そして御父と御子との交わりに入れられることで、自分が神様に対してひどいことを言っていたことに気付かされて悔い改めました。そうして21世紀の現代でイエスさまと共に前向きに生きることができるようになりました。多くのクリスチャンが同じ経験を持っているでしょう。そしてクリスチャンには永遠の命が約束されています。
 ここまで3つのタイムスリップ物の例、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『コーヒーが冷めないうちに』、『約束のステージ』を見て来ました。この三つに共通するのは、主人公たちが過去にタイムスリップする以前は、現代を明るく前向きな気持ちで生きることができていないことです。しかし、現代から過去にタイムスリップして、過去の時間の中で生きている自分の家族に会うことで自分の心の内に変化が起こり、現代に戻って来た時には明るい気持ちで前向きに生きることができるようになりました。そのように明るく前向きに生きる者には、明るい未来が約束されています。

聖書を読むことは過去へタイムスリップして現代に戻ること
 今回、これらの映画やドラマを取り上げたのは、「聖書を広いところに連れ出す」ための試行錯誤の一環として行ったものですが、「聖書を広いところに連れ出す」ことはクリスチャンとクリスチャン以外の方々の双方にとって良いことではないかと感じています。「聖書を広いところに連れ出す」ことをすれば、まだ聖書についてよくご存知でない方々に聖書を知っていただく機会を広げることにつながるでしょう。しかし、それだけでなく私たちクリスチャンにとっても聖書以外のこととつなげて考え直してみることで、聖書の素晴らしさを改めて確認できる機会となるように思います。
 多くの方々が聖書の魅力を知ることができるように、そうして永遠の命の約束を神様からいただくことができますように、また私たちクリスチャンもさらに聖書への理解を深めて、御父と御子イエス・キリストとの交わりを深めて行くことができますように、そして永遠の命の約束をさらに確かにすることができますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
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