インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

6:22-66(ヨハネの福音書注解)最後の晩餐と北王国の滅亡

2018-04-07 09:10:01 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:22-66 最後の晩餐と北王国の滅亡

22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
 34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
 41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。42 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。46 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。48 わたしはいのちのパンです。49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
 52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」
 66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。


 イエスによる「いのちのパン」の話が長く続くこの箇所は、「使徒の時代」のパウロ編がまだ続いている。ここにはパウロがまだイエスに会っていない時代の「最後の晩餐」のことが重ねられていて、イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」を何度も繰り返す。
 このイエスのことばを「ひどい話だ」(60節)と言って、「弟子たちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」(66節)。記者ヨハネは、この弟子たちがイエスから離れ去ったことを、「旧約の時代」に北王国が滅亡してイスラエルの民がアッシリアに捕囚として引かれて行ったことと重ねている。列王記第二には次のように書かれている。

主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。(Ⅱ列王17:23)

  南王国が滅亡する時にバビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民は約70年後に帰還して神殿と城壁を再建した。しかし、アッシリアに引かれて行った北王国の民は戻ることがなかったので「失われた十部族」などと呼ばれている。それゆえ列王記の記者は「今日もそのままである」と書き、ヨハネの福音書の記者も「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」(ヨハネ6:66)と書いたのである。
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6:16-21(ヨハネの福音書注解)湖の上を歩いたイエス

2018-04-07 09:00:23 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:16-21 湖の上を歩いたイエス

16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。

 イエスが湖の上を歩いた記事はマタイ14:22-32とマルコ6:45-51にも並行記事がある。ここは依然として「使徒の時代」のパウロ編で、パウロがイエスに出会う前の「人間イエスの時代」のことが描かれていると考えられる。
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6:5-15(ヨハネの福音書注解)エリシャとパウロの時代にも同時にいる永遠の中のイエス

2018-04-07 08:30:18 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:5-15 エリシャとパウロの時代にも同時にいる永遠の中のイエス

5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。


 有名な「五千人の給食」の場面だが、永遠の中のイエスは「使徒の時代」のパウロ編と「旧約の時代」のエリシャの時代にも同時にいる。
 6節でイエスが「ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた」のは、イエスがパウロの時代にもいるからだ。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とイエスが言ったのは、ヨハネの福音書独特のユーモアだ。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」(ヨハネ2:4)など、ヨハネの福音書には随所にユーモアが見られる。7節でピリポが「二百デナリ」に言及したのは、記者のヨハネがマルコ6:37の記述を知っていたからであると考えて良いであろう。
 このヨハネの福音書の「五千人の給食」の記事においては共観福音書では使われていない「大麦のパン」という表現が用いられている。これは、「旧約の時代」の預言者エリシャの次の記事と重ねているからだ。

42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。【主】のことばのとおりであった。(Ⅱ列王4:42-44)

 Ⅱ列王4:42の「神の人」とはエリシャのことだ。ここでは二十個の「大麦のパン」と新穀一袋で百人の空腹が満たされた。預言者のエリシャには聖霊が注がれていたので、エリシャの中には「霊のイエス」がいたのだ。そしてイエスが「再びただ一人で山に退かれた」記述によって、エリシャの時代が終わったことが告げられている。
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6:1-4(ヨハネの福音書注解)再び北方に移動したイエス

2018-04-06 11:20:53 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:1-4 再び北方に移動したイエス

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。


 5章では南方のユダヤ地方にいたイエスは、6章で再び北方に移動した。この移動は「旧約の時代」で北王国に舞台が移ったことを示す。
 また4節では「過越」の祭りに言及しているが、この背後には「使徒の時代」のパウロ編で、パウロがまだイエスと出会う前の「最後の晩餐」の場面がある。この6章の後半でイエスは「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6:51)と言い、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:54)と言った。これは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の最後の晩餐の場面と重ねられているのだ。
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5:40-47(ヨハネの福音書注解)イエスについて書いたモーセ

2018-04-05 11:16:23 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:40-47 イエスについて書いたモーセ

40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。41 わたしは人からの栄誉は受けません。42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」
(5章40節より『新改訳2017』に移行しました)

 モーセは「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を書いたとされ、創世記1章には神が天と地とを創造したことが書かれている。そしてヨハネの福音書1章にも「すべてのものは、この方によって造られた」(1:3)とあり、御子イエスが天地創造の初めから神と共にいて万物を創造したことが記されている。イエスが「モーセが書いたのはわたしのことなのです」と46節で言ったことは、この万物の創造を含めたすべての神の働きは、神と共にいたイエスの働きでもあったことを示している。
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5:36-39(ヨハネの福音書注解)旧約聖書の中にいるイエス

2017-12-22 08:09:13 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:36-39 旧約聖書の中にいるイエス


36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

 39節にある「聖書」とは旧約聖書のことだ。イエスは「その聖書が、わたしについて証言している」と言っている。これまで解説してきたようにヨハネの福音書の背後には「旧約の時代」が隠されている。そしてヨハネ1章では霊的イエスが神としてアブラハムとヤコブと関わり、或いはまたヨハネ2章と4章では霊的イエスがモーセとエリヤの中にいることを説明した。このように旧約聖書の背後には常に霊的イエスが存在している。それゆえ「聖書がわたしについて証言している」と言ったのだ。
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5:31-35(ヨハネの福音書注解)振り出しに戻った背後の「使徒の時代」

2017-12-18 08:39:14 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:31-35 振り出しに戻った背後の「使徒の時代」

31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。

 ここにはバプテスマのヨハネのことが書かれている。前節までは「最後の審判」のことが書かれているので、背後の「使徒の時代」は双六(すごろく)の振り出しに戻った形だ。
 バプテスマのヨハネは「イエスの時代」であり、「使徒の時代」の人物ではない。背後の「使徒の時代」に「イエスの時代」がどのように用いられているのかは、後の箇所で少しずつ説明して行くことにしたい。
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5:25-30(ヨハネの福音書注解)最後の審判

2017-12-11 09:40:57 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:25-30 最後の審判

25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。30 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

 ここでは「最後の審判」のことが語られており、次の31節からはバプテスマのヨハネの証言について語られ始める。それゆえ背後の「使徒の時代」は30節までで一旦終了してリセットされ、すごろくの振り出しに戻るような構成になっている。
 このようにヨハネの福音書1~12章の背後の「使徒の時代」は二部構成になっている。これは使徒の働き(使徒行伝)がペテロ編とパウロ編の二部構成になっているのを模しているのかもしれない。ヨハネの福音書の背後の「使徒の時代」もペテロ編とパウロ編になっているとも言えるからだ。このことについては、次回以降で説明することにしたい。
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5:17-24(ヨハネの福音書注解)神の「永遠」の時間

2017-12-07 03:19:02 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:17-24 神の「永遠」の時間
 
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 イエスは10章で「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言っており、この5章には、イエスと父がどのように一つであるかが具体的に書かれている。ユダヤ人たちがイエスを捨て置けなかったのは当然のことであろう。自分を神と同一と主張する者など通常の感覚で言えば、おかしいと見られても仕方がないであろう。しかし、固定観念に囚われている者に救いは届かない。ここに信仰を伝えることの難しさがある。
 24節の「信じる者は……死からいのちに移っている」は、時間の束縛を受けない神の「永遠」に移されているということだ。神の「永遠」は「過去・現在・未来」が渾然一体となっている。
 「イエスの時代」を【現在】とすれば、ヨハネの福音書は、

→ 使徒の時代【未来】 →
→ イエスの時代【現在】 →
→ 旧約の時代【過去】 →

というような三層構造になっていて、過去と現在と未来とが同時並行で進む。これは「過去・現在・未来」が一体の神の「永遠」と人間の「過去→現在→未来」という時間とを混合したような時間だと言えるだろう。私たちは「過去→現在→未来」という時間の流れの固定観念にあまりにも縛られているので、ここから解き放たれなければならない。
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5:10-16(ヨハネの福音書注解)ユダヤ人たちから迫害されていたクリスチャン

2017-11-30 13:46:00 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:10-16 ユダヤ人たちから迫害されていたクリスチャン

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。(ヨハネ5:10-16)

 使徒の働きにはパウロがユダヤ人たちから迫害を受けた様子が多く記されている。エルサレムの神殿が焼失して以降も、ユダヤ人たちのクリスチャンに対する迫害はなお続いていたであろうから、この箇所は「使徒の時代」の迫害と重ねられていると考えて良いだろう。
 ただしイエスへの迫害があったことはマタイ・マルコ・ルカの福音書にも書かれているので、敢えて「人間イエスの時代」以外の時代と重ねる必要もないのかもしれない。この5章は「旧約の時代」との重なりを見出すことも難しく、ヨハネの福音書の中では解釈が最も困難な章である。
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パウロとエペソ教会(2017.11.26 礼拝)

2017-11-27 04:14:50 | ヨハネの福音書注解
2017年11月26日礼拝メッセージ
『パウロとエペソ教会』
【使徒19:8~10、20:17~21】

はじめに

 先週は、宣教聖日礼拝でビデオを観ましたから、使徒の働きの学びはごく短く、19章の1節から7節までを簡単に見て、教会の働きには聖霊が注がれることが不可欠であることを話しました。

教会員の信仰によって異なるパウロの手紙の深さ
 この19章の始めの箇所で、パウロはエペソに来ていました。パウロは、このエペソ教に約3年間、滞在しました。そうして、パウロとエペソの教会の人々との間には深いつながりができました。きょうは、そのことに焦点を当てたいと願っています。そして最後にパウロのエペソ人への手紙を短く見てみたいと思います。
 パウロが書いた手紙は、宛て先の教会によって内容も様々に異なります。それぞれに味わいがありますから、どれが一番好きかなどとは言うべきではないのかもしれませんが、もし私が、パウロの手紙の中でどの手紙が一番好きですかと問われるなら、私はエペソ人への手紙が一番好きですと答えたいと思います。エペソ人への手紙はパウロが囚われの身になっていたローマで書かれたものだと言われていますが、この手紙がスケールの大きさと深い味わいを持つのは、パウロがエペソに長く滞在したことで教会の人々との間に深い信頼関係が育まれ、且つ教会の人々の信仰が成長したからこそのものであると感じることです。きょうは、そこら辺りのことを見ることができたらと思います。

エペソに約三年間滞在したパウロ
 では、まず使徒の働き19章の8節から10節までを見たいと思います。これはエペソの町でのことです。8節、

19:8 それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。

 会堂というのはユダヤ人の会堂でしょう。パウロはここに集っている人々に大胆に語り、彼らを説得しようと努めました。しかし9節と10節、

19:9 しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。
19:10 これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

 ツラノとは地名ではなくて人名らしいのですが、確かなことはわかっていないそうです。アジヤに住む者は皆、主のことばを聞いたとありますから、このツラノの講堂は当時のアジヤの人々の多くが集っていた講堂のようです。パウロは二年間に亘って、この講堂で論じました。
 さて、続く11節以降は、また次の機会に読むことにして、きょうはその先のほうを読むことにします。次の機会と言っても来週からはアドベントに入りますから、少し先になります。

ミレトで長老たちに会ったパウロ
 きょう見ておきたいのは、20章の17節からのミレトにおけるパウロのことばです。この時、パウロは第三次伝道旅行を終えてエルサレムへ向かう途中でした。後ろの地図を見ておきましょう。
(地図で確認)

 パウロはエルサレムに向かう途中、エペソには寄らないでミレトにエペソの教会の長老たちを呼びました。17節です。

20:17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。

 それは16節にもあるように、もしエペソに寄ってしまうと、そこで様々な人に会って時間を取られてしまうかもしれませんし、パウロを迫害した人々にパウロが再び来たことが知られれば、また何か騒動が起きてエルサレム行きが遅くなってしまうことを恐れてのことのようです。
 続いて18節、

20:18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。

 エペソの教会の長老たちは、パウロがエペソに来た初期の頃から、パウロとのつながりができた人たちでした。次に19節、

20:19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。

 この使徒の働きはルカが書いた文書ですから、19節のようにパウロが本当に自分で「私は謙遜の限りを尽くし」と言ったかどうは、私はどうなのかなと少々疑問に思いますが、パウロが謙遜の限りを尽くしたというのは本当のことでしょう。そして様々な困難にも遭いました。続いて20節と21節、

20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

 そして、なおパウロは語りました。この話の内容は、後日また見ることにして、次に31節と32節を交代で読みましょう。

20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 そして、36節から38節までを交代で読みましょう。

20:36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。
20:37 みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、
20:38 彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。

コリント人への手紙とエペソ人への手紙の違い
 このようにパウロとエペソの教会の長老たちの間には強くて深い信頼関係がありました。そして教会の人々は霊的に成長していました。後で開くエペソ人への手紙の内容がとても深いものであるのは、それゆえだろうと私は思います。少し前にご一緒に見たコリント人への手紙第一とはだいぶ違います。
 それで、エペソ人への手紙を見る前にコリント人への手紙第一の3章の始めの部分をもう一度見てみたいと思います(新約聖書p.320)。第一コリント3章1節と2節を交代で読みましょう。

3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

 このように、パウロがこの第一の手紙を書いた時のコリント人たちの信仰はまだ幼いものでした。そうすると手紙の内容も必然的にそんなに深いものにはなり得ません。一方、エペソ人への手紙の内容は非常に深いと思います。それはエペソの教会の人々の信仰がとても深まっていたからだと思います。

スケールが大きくて深いエペソ人への手紙

 エペソ人への手紙の1章10節をご一緒に読みましょう(新約聖書p.373)。

1:10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

 このように、エペソ人への手紙は内容が深いだけでなくスケールが壮大であるという特徴があります。そのスケールの大きさが最もよく表われているのが、私がよく引用する、エペソ3章の16節から19節までを交代で読みましょう(新約聖書p.376)。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 このようにエペソ人への手紙のスケールの大きさは人知を遥かに越えるものです。そして、このエペソ人への手紙でパウロは御霊の一致も説いています。4章の3章から6節を交代で読みましょう。

4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 この御霊の一致は、神様のスケールの大きさを感じることができて初めて為されるものだと思います。スケールの大きな神様は私たちのすべてを包み込んで下さっています。だからこそ私たちは御霊の一致が可能になります。神様がちっぽけな存在であったなら、私たちが包まれることはありませんから、私たちが一致することは難しいでしょう。神様が人知を越える大きな存在であり、人知を越える大きな愛を持つ方だからこそ、私たちはその愛の中で一つになることができます。
 エペソの教会の人々の信仰は、これらのことを理解できるほどに十分に成長できていたのだと思います。一方、もしコリント人のように信仰が幼ければ、御霊の一致を理解することはできないでしょう。それゆえパウロはコリント人への手紙第一では御霊の一致について書いていません。

おわりに
 私たちの教会はどうでしょうか。人知を遥かに越えたキリストの愛の大きさをどの程度まで知ることができているでしょうか。人知を越えているのですから、もちろん全てを知り尽くすことは不可能です。それでも、せめてその一部でも私たちはキリストの愛の大きさを知ることができる者たちになりたいと思います。エペソの教会の人々のように信仰が成長し、御霊の一致を保つことができる私たちでありたいと思います。そして、この素晴らしい恵みをもっと多くの方々と分かち合えるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5:2-9(ヨハネの福音書注解)十字架の年は「紀元33年」

2017-11-25 22:08:36 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:2-9 十字架の年は「紀元33年」

2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(ヨハネ5:2-9)


 このベテスダの池の病人が癒された記事が、旧約聖書または使徒の働きとどのように重なるのかを見出すことは他の箇所に比べると難しい。ここで鍵となるのは「三十八年」という数字であろう。これがもし「四十年」という丸めた数字であったなら鍵にはなりにくいだろう。しかし「三十八年」という半端な数字であることから、ここには重要な意味が秘められている匂いがする。
 そうして私がたどり着いた結論は、この箇所の背後の時代は「使徒の時代」であり、この病人はモーセの律法に縛られていた人々に重ねられているということだ。イエスの十字架の年からは、「イエスは神の子キリスト」と信じる者は誰でも聖霊を受けて救われるようになった。しかし、古い考えに縛られていたユダヤ人クリスチャンの中には、異邦人クリスチャンもモーセの律法を守らなければ救われないと考える者が少なくなかった。そして、特にガラテヤ人などはそのような考えに惑わされていた。同様にベテスダの池の病人も、池に入らなければ病気が癒されないと思い込んでいた。それゆえイエスが「よくなりたいか」と聞いた時も単純に「よくなりたいです」と答えないで、見当外れの受け答えをしていた。
 さてクリスチャンであってもモーセの律法を守らなければならないと考えていた人々は当然のことながらエルサレムの神殿での礼拝も欠かせないと考えていただろう。しかしエルサレムの神殿は紀元70年にローマ軍の攻撃によって焼失してしまい、もはやここで礼拝を捧げることができなくなった。この時にモーセの律法の縛りから解き放たれたクリスチャンも多かったのではないだろうか。イエスが十字架に掛かったのが紀元33年だとすると、彼らは38年間、モーセの律法に縛られていたことになる。
 イエスの十字架の年は紀元30年または33年というのが有力であるが、ヨハネ5章のベデスダの池の病人の記事は十字架の年が紀元33年であったことを示していると言えよう。
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5:1(ヨハネの福音書注解)イエスの南北の移動は「旧約の時代」の南王国と北王国の間の移動

2017-11-24 11:04:43 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:1 イエスの南北の移動は「旧約の時代」の南王国と北王国の間の移動

1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(ヨハネ5:1)

 5章の冒頭でイエスは北のサマリヤから南のエルサレムに移動する。ヨハネの福音書のイエスは、南(3章)→北(4章)→南(5章)→北(6章)→南(7章)というように南北間の移動を繰り返している。聖書学者の中にはこの南北の動きを不自然として、写本が伝わる過程で誤ってページが入れ替わってしまったのではないかと考える者たちもいる。
 人間イエスだけを見れば、確かにこのように南北間の移動を繰り返すことは不自然かもしれない。しかし、この南北間の移動は「旧約の時代」に南王国と北王国が並存していた時代があったことを示すものだ。旧約聖書の列王記も南王国と北王国のことを併記している。イエスが7章からは専ら南にいるのは、6章の最後に北王国が滅亡してしまったからだ。6章終盤の次の記述は北王国の滅亡を示すものだ。

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。(ヨハネ6:66)

 北王国を滅ぼしたのはアッシリヤ帝国だ。そして北王国イスラエルの民はアッシリヤに捕囚として引かれて行った。このことを列王記第二は次のように記している。

アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。(Ⅱ列王18:11)

 アッシリヤに引かれて行った北王国の民は二度と故郷のイスラエルに戻ることはなかった。ヨハネ6:66の「多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」とは、この状況を描いたものだ。
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4:46-54(ヨハネの福音書注解)異邦人に聖霊が注がれた「第二のしるし」

2017-11-23 14:51:21 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:46-54 異邦人に聖霊が注がれた「第二のしるし」

46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 王室の役人とは異邦人であろうから、これは「使徒の時代」に異邦人に聖霊が注がれた出来事(使徒10章)と重ねられている。53節の「信じた」とは「聖霊が注がれた」ということだ。ヨハネはガリラヤ人が聖霊を受けたことを「最初のしるし」(ヨハネ2:11)と呼び、異邦人が聖霊を受けたことを「第二のしるし」と呼んだ。ユダヤ人だけでなく異邦人もまた救われるということは、それほど画期的なことなのだ。
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4:43-45(ヨハネの福音書注解)時間に縛られることの「罪」

2017-11-22 09:02:38 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:43-45 時間に縛られることの「罪」

43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。(ヨハネ4:43-45)

 44節の「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言したイエスは「イエスの時代」の「人間イエス」だ(マタイ13:57、マルコ6:4、ルカ4:24)。一方、43節のガリラヤへ行ったイエスとは「使徒の時代」のクリスチャンの内にいる「霊的イエス」だ。この読み分けができるようになると、読者はヨハネの福音書への理解を格段に深めることができるであろう。
 しかし、ヨハネの福音書の読者の多くは時間に縛られていて「過去→現在→未来」の一方通行の時間の流れから自由になれていない。それゆえヨハネの福音書の主役が時間に縛られていない「霊的イエス」であることに気付けないでいる。43~45節のイエスもすべて「人間イエス」であると思い込んで読んでしまう。すると、故郷で尊ばれないイエスがどうしてガリラヤ人に歓迎されたのか、理解できなくて悩むことになる。
 人の心を神の方に向けることを妨げるものを「罪」という。例えばプライドの高い人や自己中心的な人は自分を第一とするので神を第一にすることができない。それゆえプライドや自己中心は「罪」だ。だとすれば、「過去→現在→未来」の時間に縛られることもまた「罪」と言えるだろう。時間に縛られている人は、時間から自由になっている神を理解することが難しいからだ。
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