インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

ヨハネの福音書注解の目次・リンク

2018-03-31 10:09:40 | ヨハネ注解目次・リンク
ヨハネの福音書注解の目次・リンク

●基本方針 平和の働きの一環であり、学術的な注解ではありません

●全体 更新順に、新しく追加したものが一番上にあります

第1章
●ヨハネ1:1 「聖書のことば」であるイエス・キリスト
●ヨハネ1:2 初めからいた御子イエス
●ヨハネ1:3 御子イエスは万物の創造主
●ヨハネ1:4 「いのちがある」とは?
●ヨハネ1:5 私たちの心を自由にしてくれるヨハネの福音書
●ヨハネ1:6-8 私たちの心の自由さ加減を試すヨハネ
●ヨハネ1:9-11 世界を平和に導くヨハネの福音書
●ヨハネ1:12-13 神の子どもとされる特権とは?
●ヨハネ1:14 「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるヨハネの手法
●ヨハネ1:15 ヨハネは「再臨のイエス」をも重ねているだろうか?
●ヨハネ1:16-17 「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」を重ねたヨハネ
●ヨハネ1:18 私たちにも神を見せてくれているヨハネの福音書
●ヨハネ1:19 21世紀まで引き継がれて来た「ヨハネ」の証言リレー
●ヨハネ1:20-21 マタイ・マルコ・ルカとは異なる書だというヨハネのサイン
●ヨハネ1:22-28 旧約聖書の舞台移動と同期しているイエスの東西南北への移動
●ヨハネ1:29 イスラエルの歴史の始まり
●ヨハネ1:30-34 読者に「ヨハネ」になるよう招く参加型の福音書
●ヨハネ1:35-42 霊的な世界へと私たちを招き入れるイエス
●ヨハネ1:43-51 ナタナエルは神と格闘したヤコブ
第2章
●ヨハネ 2:1 「それから三日目に」とは?
●ヨハネ 2:2-4 イエスの母ではないマリヤ
●ヨハネ 2:5-11 出エジプトと聖霊授与の「最初のしるし」
●ヨハネ 2:12 二番目~九番目の災い
●ヨハネ 2:13-16 過ぎ越された十番目の災いの「初子の死」
●ヨハネ 2:17 海の水に飲み込まれたエジプトの王の軍勢
●ヨハネ 2:18-22 使徒の働きに忠実なヨハネの福音書の「使徒の時代」
●ヨハネ 2:23 神を信じたイスラエル人とイエスを信じたユダヤ人
●ヨハネ 2:24-25 不平不満をつぶやく人の心の内を知っている神
第3章
●ヨハネ 3:1-8 「律法の恵み」と「聖霊の恵み」とを重ねたヨハネ
●ヨハネ 3:9-12 不信仰なイスラエルの民とユダヤ人を嘆き、叱責する神
●ヨハネ 3:13-14 ヨハネ3:14はジグソーパズルの「角」のピース
●ヨハネ 3:15-16 重層的な「永遠」の中でこそ感じられる豊かな神の愛
●ヨハネ3:17-21 「すでにさばかれている」とは?
●ヨハネ3:22 ヨシュア記の「ヨルダン渡河」の出来事
●ヨハネ3:23-24 「ヨハネはまだ投獄されていなかった」とは?
●ヨハネ3:31-36 誰も証しを受け入れない
第4章
●ヨハネ4:1-2 「使徒の時代」の弟子たちによるバプテスマ
●ヨハネ4:3-5 舞台は「旧約の時代」の北王国と「使徒の時代」のサマリヤ
●ヨハネ4:6 疲れていた第六時ごろのイエス
●ヨハネ4:7-8 芸が細かいヨハネ
●ヨハネ4:9-15 時間に縛られないヨハネの福音書
●ヨハネ4:16-18 魂に自由と平安を与える「永遠」の時間構造
●ヨハネ4:19-24 読者に向けられた「今がその時です」
●ヨハネ4:25-27 キリストとの出会いは魂の領域の個人的なこと
●ヨハネ4:28-30 信仰の第一歩
●ヨハネ4:31-34 イエスの証人に供給される霊的な食物エネルギー
●ヨハネ4:35-38 ピリポのサマリヤ伝道(使徒8章)と重ねたヨハネ
●ヨハネ4:39-42 ヨハネの法則第一および第二
●ヨハネ4:43-45 時間に縛られることの「罪」
●ヨハネ4:46-54 異邦人に聖霊が注がれた「第二のしるし」
第5章
●ヨハネ5:1 イエスの南北の移動は「旧約の時代」の南王国と北王国の間の移動
●ヨハネ5:2-9 十字架の年は「紀元33年」
●ヨハネ5:10-16 ユダヤ人たちから迫害されていたクリスチャン
●ヨハネ5:17-24 神の「永遠」の時間
●ヨハネ5:25-30 最後の審判
●ヨハネ5:31-35 振り出しに戻った背後の「使徒の時代」
●ヨハネ5:36-39 旧約聖書の中にいるイエス
●ヨハネ5:40-47 イエスについて書いたモーセ
第6章
●ヨハネ6:1-4 再び北方に移動したイエス
●ヨハネ6:5-15 エリシャとパウロの時代にも同時にいる永遠の中のイエス
●ヨハネ6:16-21 湖の上を歩いたイエス
●ヨハネ6:22-66 最後の晩餐と北王国の滅亡
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4月1日イースター・聖餐式礼拝プログラム

2018-03-29 09:52:40 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月1日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年4月 イースター・聖餐式礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  聖なる 聖なる 聖なるかな    1
 交  読  使徒1:1~11
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主イエスの名をほめたたえよ(2回)42
 聖  書  ヨハネ1:35~40、21:24~25
 説  教  『私たちは復活したイエスと出会った証人』 小島牧師
 聖 餐 式  しみも咎も         261
 讃 美 ③  私をゆるすために      314
 献  金
 感謝祈祷                西村兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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わたしにとどまりなさい(2018.3.25 礼拝)

2018-03-28 11:34:14 | 礼拝メッセージ
2018年3月25日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『わたしにとどまりなさい』
【ヨハネ15:1~8】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日です。聖書交読で開いたマタイ21章のように、イエスさまはロバの子に乗って、エルサレムに入京しました。この時に人々は棕櫚の木の枝を取ってイエスさまを迎え入れたことがヨハネの福音書には記されています。棕櫚の聖日はこの出来事に由来します。この日の出来事については過去の棕櫚の聖日の礼拝で何度も取り上げていますから、受難週の最初の日でもあるきょうは、最後の晩餐の記事の中のヨハネ15章を開くことにします。

ヨハネの福音書で多く使われている「とどまる」
 このヨハネ15章からのみことばの中には、2016年の私たちの教会の聖句であった、5節の「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」も含まれていますね。しかし、きょう注目したいのは、これではなくて、この15章に多く出てくる、「とどまる」ということばです。この「とどまる」ということばは、このヨハネの福音書には多く使われています。週報のp.3に載せておきましたが、例えば6章56節です。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

 或いはまた、8章31節でも「とどまる」が使われています。

 8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 この8章31節の次に続くのが有名な8章32節ですね。

32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 私たちはイエスさまのことばにとどまるなら真理を知り、真理は私たちを自由にします。

ヨハネ15章で繰り返される「とどまる」
 さて、それでは15章の「とどまる」を見て行きましょう。先ほども言いましたが、この15章のことばは最後の晩餐の中でのイエスさまのことばです。イエスさまは、やがてご自身が捕らえられて裁判に掛けられ、十字架に付けられて死ぬことをご存知でした。弟子たちは、そのことを知りませんでしたが、イエスさまはご自身がいなくなった後に残される弟子たちのために最後の晩餐で教えを説いていました。
 15章の4節から見て行きます。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 ここにある「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」というのはわかりやすいですね。イエスさまは枝である私たちに養分を届けて下さいます。この養分が無ければ私たちは生きていくことができません。ですから、もちろん実を結ぶこともできません。私たちが生きていくことができないというのは、もちろん霊的な意味においてです。イエスさまとつながっていなければ私たちは霊的に死んでしまいます。
 続いて5節、

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 ここでも、「とどまる」が繰り返されています。

イエスから離れやすい私たち
 それにしても、どうしてこんなに「とどまる」をイエスさまは繰り返すのでしょうか。この「とどまる」の繰り返しからは、私たちがいかにイエスさまから離れやすい者たちであるかということが見えて来るのではないでしょうか。
 弟子たちは、この後、イエスさまが捕らえられた時に逃げてしまいました。イエスさまとずっと一緒にいた弟子たちでさえ、イエスさまとつながっていることができなかったこの出来事から、私たちがいかにイエスさまから離れやすい者であるかということが、よくわかると思います。
 私も高津教会の一般信徒であった時には、そういう時期がありました。私は普段は礼拝も祈祷会もほぼ皆出席の信徒でした。しかし、ある時期、仕事がとても忙しくなって2週間ほど教会に行けなくなりました。それがズルズルと3週間、4週間と続きました。
 すると1ヶ月後ぐらいには教会に行ける状態になっていたのに、何となく教会の敷居が高くなったような気がして、なおズルズルと教会の集会を休み続けました。もともと私は40歳を過ぎてから教会に通うようになった者ですから、その何年か前までは教会に行かないのが普通でした。ですから、1ヶ月以上教会の集会を休み続けたことで普通の状態に戻ってしまったような感じになってしまいました。もともと教会に通っていなかったのですから、教会に行かないことを何とも思わなくなってしまいました。結局2ヶ月ぐらい休んだ後に牧師の藤本先生と交わしたメールをきっかけに、また教会に戻ったように覚えています。この私自身の経験から、人がいかに容易にイエスさまから離れてしまうか私にはよくわかります。もしかしたら、皆さんにも似たような経験があるかもしれません。

イエスを離れては何もできない私たち
 5節でイエスさまは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」とおっしゃいましたが、これは私たちクリスチャンの実感だろうと思います。例えば3月11日の礼拝メッセージでマタイの福音書の「山上の説教」をご一緒に開きましたね。この「山上の説教」でイエスさまは「平和をつくる者は幸いです」と言われました。この平和をつくる働きを、イエスさまから離れて行うことは難しいことです。平和の働きというと少し大げさに聞こえるかもしれませんが、私たちの日常生活の中の小さな出来事の一つ一つも同様です。私たちはイエスさまの声を聞きながら、一つ一つの小さな事を行って行きます。
 私たちの生活は、いろいろなことが複雑に絡み合って成り立っています。単純ではぜんぜんありません。たとえば雨が降れば喜ぶ人もいるし、残念に思う人もいます。
 小学校で明日運動会があるとして、運動が大好きな子は、「明日晴れますように」と神様にお祈りするでしょう。しかし運動が嫌いな子は、「明日雨が降りますように」と神様にお祈りするでしょう。神様は、この二人の子供のお祈りを同時に適えることはできません。しかし、神様は何とかして二人の子供の益になるように、働いて下さることでしょう。例えば天気を晴れにして、運動の嫌いな子には何か別のご褒美を与えるようにして下さることでしょう。反対に天気を雨にして運動の好きな子に何か別のご褒美を与えるかもしれません。天気のことは小学生だけのことではなく、農家の方や、その他にも無数の人々が関わっています。ですから、 ですから、たとえ全知全能の神様であっても、すべての人にとって同時に益になるようにするのは不可能でしょう。ですから神様はうめきながら、どうしたら皆の益に時間をずらしながらすることができるか、考えます。ローマ人への手紙8章を開きましょう(新約聖書p.302)。26節から28節までを交代で読みましょう。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 26節に「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」とあります。私たちの生活は大勢の人々のそれぞれの事情が複雑に絡んでいます。それを御霊ご自身がうめきながら、何とかすべての人にとって益になるように働いて下さっています。28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書いてある通りです。

これもまた益
 今回、私たちの教会は新会堂の建設を断念して、他教会との合流を目指すことになりましたが、このようになることが神様の最初からのご計画だったとは、私は少しも思っていません。恐らくある時点までは、会堂が建つ方向に進んでいたのだと思います。しかし、色々と複雑なことが絡んで軌道を修正する必要が生じて、神様がうめきながら、今のような方向へと導くことになったのだろうと思います。ですから、いま神様は私たちにとって最も益になるように働いて下さっていると私たちは信じなければなりません。
 例えば、もし計画通りに去年の終わり頃に新会堂ができていたら、今頃は献堂式のことや、50周年の記念誌のこと、そして地域の伝道のために本当に忙しくしていただろうと思います。それが、今は結構いろいろなことをする時間ができました。それで私自身について言えば、いま私は本をじっくり読んで思いを巡らし、ヨハネの福音書のことを世の人々にどうしたら知ってもらえるかの新たな戦略を練り、新たな書き物を執筆する時間を取ることができるようになりました。もちろん、私にとっては新会堂を与えていただけたほうが遥かにうれしいことでしたが、今はまた書き物をする時間ができたことは、これはこれで感謝なことだと思っています。
 世の中のことは様々なことが複雑に絡み合って常に変化していますから、私たちは常に祈りながら、最善の道を神様に導いていただかなければなりません。ヨハネ15章5節のイエスさまの言葉の「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とは、そういうことではないでしょうか。

真理の御霊
 イエスさまから離れないためには御霊の導きの声を聞いていなければなりません。この御霊は、真理の御霊です。ヨハネ16章の13節を、ご一緒に読みましょう。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

 真理の御霊は、私たちをすべての真理に導き入れて下さいます。ここでもう一度、週報p.3に載せた、ヨハネ8章の31節と32節に戻りたいと思います。お読みします。

ヨハネ 8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 ここにあるように、私たちはイエスさまのことばにとどまるなら、私たちは真理を知ります。この真理は「真理の御霊」が教えて下さいますから、「真理を知る」とは「真理の御霊」を知ると言い替えても良いと思います。そうして真理の御霊は私たちを自由にします。
 キリスト教にありがちな誤解として、キリスト教を信じると不自由になるという勘違いがあると思います。「~しなければならない」とか「~してはならない」という規則があって、それらに縛られて不自由になるという誤解があるように思います。確かに、律法主義的になってしまうなら、不自由になってしまうかもしれません。しかし、本当にイエスさまに付き従って行くなら、思い煩うことが少なくなりますから、心は平安で満たされ、悩み苦しみから解放されて、心の自由を得ることができます。その境地に達するのはなかなか難しいことかもしれませんが、真理の御霊の声に耳を澄まして、導かれて行くなら、心の自由を必ず得ることができるでしょう。

真理の証しをするために生まれたイエス
 最後に、18章37節をご一緒に読みましょう。これは最後の晩餐の後で捕らえられたイエスさまが総督のピラトの官邸で尋問されている場面です。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 ここでイエスさまはピラトに、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」とおっしゃいました。この「真理のあかしをする」を「真理の御霊のあかしをする」と読み替えたいと思います。
 イエスさまはクリスマスにこの世に生まれ、真理の御霊のあかしをして下さいました。そうして、イエスさまを信じる者には御霊が与えられるようにして下さいました。御霊が与えられるためには、まずは私たちの罪が赦されて、私たちが御霊を受けることができるように聖められる必要があります。この私たちの汚れた罪のために、イエスさまは十字架に掛からなければなりませんでした。

おわりに
 今週は受難週です。木曜日は最後の晩餐の日、金曜日は十字架の日です。私たちに真理の御霊を与えて下さるために十字架に掛かって下さったイエスさまの受難に思いを巡らしながら、受難週を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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3月25日 棕櫚の聖日礼拝 プログラム

2018-03-22 21:21:17 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月25日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年3月 棕櫚の聖日礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  とうとき主のみ救いよ     14
 交  読  マタイ21:1~11
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主と主のことばに      391
 讃 美 ③  日ごと主イエスを      393
 聖  書  ヨハネ15:1~8
 説  教  『わたしにとどまりなさい』 小島牧師
 讃 美 ④  ここにいます主は      375
 献  金
 感謝祈祷                由紀姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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恵みと真理の御霊に満ちていたイエス(2018.3.21 祈り会)

2018-03-22 20:28:12 | 祈り会メッセージ
2018年3月21日祈り会メッセージ
『恵みと真理の御霊に満ちていたイエス』
【ヨハネ1:14~18】

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

はじめに
 次の聖日はパーム・サンデー、棕櫚の聖日で、教会の暦は受難週へと入って行きます。いま一たびイエス・キリストに目を向けて行きたいと願っていますが、ヨハネの福音書の中で一つ新たに気づいたことがありますので、きょうはそれを分かち合いたいと思います。

「恵みとまこと」とは?
 今さっき、ご一緒に読んだ箇所はヨハネの福音書のプロローグの後半です。この中で2回、14節と17節に「恵みとまこと」という言葉が出て来ます。14節、

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 そして17節、

1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この「恵みとまこと」はどういう意味で使われているのでしょうか。これまで私は何となく、雰囲気的にはわかるような気がしていましたが、今一つはっきりしないモヤモヤしたものを感じていました。しかし、最近になって新たな気づきが与えられて、よくわかるようになったと感じています。そのヒントとなった箇所が、ヨハネの福音書の最後の晩餐の記事です。このヨハネの福音書の最後の晩餐でイエスさまは聖霊について弟子たちに教えていますが、その中で三回、「真理の御霊」ということばを使っています。今度はそちらを見ることにしましょう。

真理の御霊
 まず14章17節ですが、16節から読みましょう。16節と17節を交代で読みます。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 ここでイエスさまは御霊のことをただの「御霊」ではなくて「真理の御霊」と言い表しています。次に15章26節、ここはご一緒に読みましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

 ここでもイエスさまは御霊のことを「真理の御霊」と言い表しています。もう一箇所、16章の13節、

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

 「真理の御霊」は、私たちをすべての真理に導き入れます。この最後の晩餐での「真理の御霊」の記述を読んでいて私は、ヨハネの福音書で「真理」と書いてある箇所を「真理の御霊」と読み替えると、とても理解しやすくなることを示されました。きょう、お分かちしたいこととは、このことです。

「真理」の「真理の御霊」への読み替え
 たとえば有名な8章32節の場合で見てみましょう。8章の30節から32節までを交代で読みましょう。

8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 この32節の「真理」を「真理の御霊」に読み替えると、「あなたがたは真理の御霊を知り、真理の御霊はあなたがたを自由にします」となります。こうするとイエスさまが言っておられることが、とてもわかりやすくなるように感じると私は感じますが、皆さんもそのように感じないでしょうか。
 もう一箇所、18章の37節をご一緒に読みましょう。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 ここも、「真理」を「真理の御霊」に読み替えると、「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理の御霊のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理の御霊に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 イエスさまは神の王国の王です。王であるイエスさまは聖霊の証をするために、この世に生まれました。ヨハネの福音書のイエスさまは人々に対して、熱心に聖霊を説き明かしました。ニコデモやサマリアの女、そして弟子たちに熱心に聖霊の恵みを教えました。ですから、聖霊を証するために、この世に生まれたと言っても、決して言い過ぎではないと感じます。そしてイエスさまを信じて聖霊を受けた者は、イエスさまの声に聞き従います。
 その他にも、ヨハネの福音書では多くの箇所で「真理」ということばが使われています。それらの箇所も、検証してみていただけたらと思います。100%ピッタリ読み替えるのは難しいと感じる箇所もあるかもしれませんが、かなり良い線をいっていると感じられることと思います。

恵みと真理の御霊
 さてでは、きょうの聖書箇所の1章のプロローグの後半に戻りましょう。1章14節と17節には「恵みとまこと」とありますが、この「まこと」は原語のギリシャ語では「真理」と同じ「アレーセイア」が使われています。つまり「恵みとまこと」とは「恵みと真理」のことです。
 では、この「真理」を「真理の御霊」に読み替えてみましょう。すると14節は「この方は恵みと真理の御霊に満ちておられた」になります。これは、ものすごくピッタリあてはまると感じないでしょうか。例えばルカの福音書の4章1節には、「聖霊に満ちたイエスは」とありますから、ルカ4:1とヨハネ1:14とは良く合います。
 次に17節の、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」は、「律法はモーセによって与えられ、恵みと真理の御霊はイエス・キリストによって実現した」となります。この一つ前の16節には、「恵みの上にさらに恵みを受けた」とありますから、私たちは、律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みを受けたということがわかります。
 律法のことばもまた恵みです。いま私たちの教会の礼拝の聖書交読では、ずっと詩篇119篇を交読しています。この詩篇119篇を読むなら、この詩の作者がいかに律法のことばを愛していたかがヒシヒシと伝わって来ます。このように律法のことばは旧約の時代の人々にとって素晴らしい恵みでした。その律法のことばの素晴らしい恵みの上にさらにイエスさまによって聖霊の恵みが増し加えられました。
 この聖霊の恵みは、イエスさまが十字架に掛かって死んだ後に復活し、四十日後に天に帰ったことで、もたらされるようになりました。イエスさまの恵みは、イエスさまが地上にいる間は、イエスさまの近くにいる、ごく限られた者たちにしかもたらされませんでした。しかし、イエスさまが天に帰ったことで、世界中の人々が聖霊を受けることができるようになりました。私たち日本人のクリスチャンも、その聖霊の恵みに与っています。
 1章18節に、「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とあるように、天の父のみもとにおられるイエスさまが私たちに聖霊を遣わせて下さり、神を説き明かして下さっています。

おわりに
 これから棕櫚の聖日、受難週、イースターへと向かって行きます。そしてイースターから7週間後にはペンテコステの日があります。イエスさまは、この恵みを私たちに与えて下さるために、この世に来て下さり、十字架に掛かって下さったことを覚えたいと思います。私たちが聖霊の恵みを受けるためには、まずは十字架による罪の贖いが必要でした。
 このことに思いを巡らしながら、受難週とイースターへと向かって行きたいと思います。最後に、ヨハネ1章の16節から18節までを交代で読んで、終わりましょう。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 お祈りいたしましょう。
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3月18日礼拝プログラム

2018-03-15 10:47:03 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月18日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年3月第3聖日礼拝 順序

 司  会                小島 牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉(2回)   253
 交  読  詩篇119:145~160
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主から受ける安らぎは    440
 讃 美 ③  恵みの高き嶺        414
 聖  書  ゼカリヤ14:6~7
 説  教  『夕暮れに光がある』  荻野まり子牧師
 讃 美 ④  主よ、おわりまで      459
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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教会を維持する奉仕の喜び(2018.3.14 祈り会)

2018-03-15 10:18:08 | 祈り会メッセージ
2018年3月14日祈り会メッセージ
『教会を維持する奉仕の喜び』
【ローマ14:1~3、13~18】

はじめに
 今月に入ってから3度も大雨があり、その度に雨漏りがありました。3年ほど前に、屋根の修繕を徹底的にやり直して2年ぐらいの間はそれなりに良かったのですが、ここ1年ほどはまた、塗装面のあちこちにヒビが入って雨漏りがするようになりました。そこで、やがて迎える梅雨の時期を乗り切るためには、もう一度本格的な修繕を行う必要を感じましたから、一昨日と昨日(月曜と火曜)、まだ全体の1/4ぐらいしかできていませんが、かなりしっかりとした修繕を行いました。
 一昨日の月曜日は朝の9時から夕方の5時まで、昼食時の休憩を除いてずっと屋根の上にいて働いていました。そして夕方に屋根を降りてから、ホームセンターに行って、足りなくなったペンキを買って来ました。そして、昨日の火曜日は朝の8時から午後2時まで屋根に上がっていました。2時で終えたのは3時半から月に1回の通院があったからです。2時に屋根から下りて、ハシゴを縮めて収納し、ペンキの刷毛を洗って道具を片付け、シャワーを浴びるなどしていたら、すぐに3時になってしまいました。そうしてお医者さんに着いたら、すぐに採尿と採血がありました。
 すると、尿からいつもは検出されないケトンと蛋白が出ていました。お医者さんに「どうしましたか」と聞かれたので、「尿ケトンはどういう時に出ますか」と質問したら、ブドウ糖ではなくて脂肪を分解してエネルギーに変える時にケトンが出るのだそうです。それで屋根に上がってペンキ塗りの作業をしていたと話したらお医者さんは納得していました。それから尿蛋白については帰宅してからネットで調べたら、激しい運動をして脱水気味になると尿から蛋白が検出されやすいようです。
 屋根の上の修繕作業はかなり体力を使いますから、ヘトヘトになります。それがちゃんと尿の数値にも表れました。ただ私は、こういうヘトヘトになるほど体を使って教会の奉仕をすることが嫌いではありません。ですから雨漏りがあれば何度でも屋根に上がります。

教会を維持する奉仕の喜び
 神学生としてBTCにいた時に、一番体力的にきつかった作業は、秋から冬に掛けての落ち葉掃きでした。神学生の数が少なかったので、一人あたりが掃かなければならない面積はかなり広かったです。また、1年生の時の日曜日の実習先は神学院教会でした。この時には日曜日の礼拝前には一人で神学院教会のチャペルの前の駐車場の落ち葉の掃除をしなければなりませんでした。これは本当にきつかったです。でも、そのことに心地よさも感じていました。屋根の上の作業でも落ち葉掃きでも、体を使った教会での作業を無心で黙々と行う時、後から思うと神様と交わりを持っている時のように感じます。その時は無心でやっていますから神様のことを思いながら作業をしているわけではないのですが、後から考えるとそこには神様が共にいて下さり、交わりの時となっているように思います。神様との交わりは、聖書を読んだりお祈りしたりする時だけでなく、教会のメンテナンスの作業もまた神様との交わりの時なのだと感じます。
 教会のメンテナンスの作業はいろいろあります。ある方は、毎週日曜日の朝に教会の入口の掃除と植物の手入れをして下さいます。また、教会の皆さんは食事の後には食器を洗って下さり、子供が散らかしたゴミを掃除して下さいます。或いはまた、教会の規則の整備を丁寧にして下さった方もいます。毎月の定例の幹事会は、これもまた教会を維持するためのメンテナンスの一環であるとも言えるでしょう。教会の皆さんは、これらの奉仕に加わることで主のお役に立っていることを感じ、教会につながることの喜びを感じておられることと思います。
 つまり教会とは、単に礼拝や祈祷会に参加して主との交わりを感じる場だけではなく、教会を維持するためのメンテナンスにも関わることで、主のお役に立つ喜びを感じる場でもあると言えると思います。
 そのように考えると、二つの教会が一つになるのは容易なことではないなと改めて思いました。単に礼拝に参加させていただくだけのお客さんでいる場合には、それほど大きな問題にはならないかもしれません。それでも、馴染むのにそれなりの期間が必要でしょう。そうして礼拝に馴染んで来て初めて、何らかの奉仕のお手伝いをさせていただくということになるのだろうと思いますが、想像するに受け入れる側では、最初はあまり深入りして欲しくないと感じるだろうなと思います。ですから、本当に少しずつという形になるでしょう。そうして、ご奉仕のお手伝いができるようになるには、どれぐらいの期間が掛かるでしょうか。よくわかりませんが、かなりの期間が掛かるのではないしょうか。そうして運営面にも参加できるようになるには遥かに長い期間が必要であろうと思います。私たちはそういう、ずっと遠い将来のことも視野に入れておく必要があるのではないかと、昨日と一昨日の屋根の作業で足が筋肉痛になっている中で思いました。なぜなら、私はこの筋肉痛を苦痛と感じているのではなく、主のお役に立てているという喜びとして感じているからです。ずっと遠い将来のことであるにせよ、その喜びを感じるようにもなっていただきたいと思いました。当分の間は、お客さんとして礼拝に参加させていただくことになると思いますが、そこから先は少しずつでも、教会で奉仕する喜びもまた味わうことができるようになると良いなと感じています。

二つのグループが対立していたローマの教会
 しかし、先ほども申し上げたように、それは容易なことではないでしょう。異なる背景を持つグループが一緒になることが容易ではないことは、きょうのローマ人への手紙の14章からもわかります。
 ローマの教会の信徒の多くは異邦人クリスチャンであったと考えられますが、ユダヤ人クリスチャンも一部いたようです。そうして異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとが互いにさばき合っていたようです。異邦人クリスチャンは何でも食べてよいと信じていましたが、ユダヤ人クリスチャンは律法を守っていましたから、食べないものがありました。そうして互いにさばき合っていましたから、パウロは手紙に書きました。13節、

14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
 そしてパウロは15節で書きました。15節、

14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

 異邦人クリスチャンが食べ物のことでユダヤ人をさばいたために、ユダヤ人がつまづいて教会を離れてしまったのでしょうか。パウロは心を痛めていました。
 このようにパウロの時代の教会でも、異なる背景を持つグループが一つになることは容易なことではありませんでした。
 しかし、ローマ教会の中でこのような対立があったことでローマ人への手紙の14章が書かれて私たちも読むことができていることは、感謝なことだと思います。

おわりに
 きょうは、私が屋根の修理を昨日と一昨日に行ったことで、教会員であることの喜びは、単に礼拝や祈祷会に集うことだけでなく奉仕に参加することもまた大きな喜びであるという話をしましたが、遠い先のことまでを話し過ぎたのかもしれません。先ずは礼拝に参加することから始めます。礼拝参加に自然に溶け込めるようになるだけでも、それなりの期間が必要でしょう。このことは、ゆっくりと進めて行かなければなりません。しかし、遠い先の目標もまた見えているなら、方向を誤る心配がありませんから、頭の片隅に置いておいていただけたらと思い、話をさせていただきました。急いではなりませんから、ゆっくりと進まなければなりませんが、将来は教会で奉仕する喜びを再び味わえるような方向へと進んで行っていただけたらと思います。
 お祈りいたしましょう。

14:16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
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悲しむ者は幸いです(2018.3.11 礼拝)

2018-03-13 07:41:47 | 礼拝メッセージ
2018年3月11日礼拝メッセージ
『悲しむ者は幸いです』
【マタイ5:4】

マタイ5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

七年前の3.11
 2011年3月11日の東日本大震災から7年が経ちました。当時、私は神学生の3年生で、3月11日の金曜日の午後は神学校の1年先輩の卒業式が横浜の神学院教会のチャペルで行われていました。大きな揺れがあった時には、ちょうど野田秀先生の祝辞が述べられている時でした。チャペルの天井に吊り下げられている照明が振り子のように大きく揺れていて、天井から落ちて来る危険を感じました。それで卒業式は中断されて、私たちは一旦屋外へ退避して、揺れが治まるのを待ちました。
 そして20分後ぐらいだったと思いますが、卒業式は再開されて、式の後の祝会も食堂で持たれました。この時の私たちはまだ事態の深刻さが分かっていませんでした。しかし、祝会が終わって駅に向かった先生方が次々と神学院に戻って来て、次第に事態の深刻さが分かって来ました。電車がまったく動いておらず、運転がいつ再開されるかも分からないとのことでした。それで卒業式に出席した先生方の多くは、その晩は神学院に泊まりました。十分な布団はありませんでしたから、神学院教会の長いすの長い座布団がとても役に立ちました。この金曜日の晩は頻繁に起きる余震による揺れがまだまだたくさんありましたし、東北では津波で大きな被害があったことが報じられていましたから、私たちもとても不安な一夜を過ごしました。そして、次の土曜日の朝には電車の運転が再開されましたから、先生方はそれぞれの教会に戻って行きました。

イエスだからこそ言える「悲しむ者は幸いです」
 さて、土曜日の朝に、実習先の教会の先生から私に電話がありました。私は3年生の時は一年間、毎週日曜日にはその教会に行っていました。その教会では伝道会を毎週ずっと続けており、夜の伝道会の前の夕刻には路傍伝道に出ていました。翌日の日曜日、つまり3.11から二日後の13日にも伝道会は予定されており、路傍伝道でのメッセージは、私が担当することになっていました。そして土曜日の朝の時点での先生からの電話では、いちおう路傍伝道を行う予定でいるからメッセージの準備をしておくようにということでした。
 それで私は大いに悩みました。それ以前からメッセージの準備はしていましたが、大震災の後ですから、予定していたメッセージはやめて、一から考え直さなければならなくなりました。
 教会の中でのメッセージとは違い、路傍伝道はにぎやかな街の中で一般の方々に向けて話をします。下手な話をすれば教会に対するイメージを却って悪くして逆効果になります。ですからメッセージの準備には非常に気を遣います。まして東日本大震災で大きな被害が出た後に、一体どんなメッセージを語れば良いでしょうか。私は本当に悩みました。
 先に結末を話しておくと、結局、路傍伝道は日曜日になってから中止することに決まりました。福島の原発の電源が喪失して危険な状態にあることも報じられていましたから、屋外での路傍伝道は中止になりました。しかし中止が告げられたのは日曜日に教会に行ってからでしたから、私は土曜日には大いに悩みながらメッセージの準備をしました。
 そうして7年前の3月12日、悩みに悩んだ末に選んだみことばが、きょうの聖書箇所のマタイ5:4の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」でした。いま、この時のことを振り返ると、路傍伝道が中止になって本当に良かったなあ、と思います。「悲しむ者は幸いです」は、イエスさまだからこそ言えることで、当時神学生であった私が一般の方々に向かって「悲しむ者は幸いです」などと言えば、誤解を受けたかもしれません。そして、牧師になった今でも「悲しむ者は幸いです」と言うことは簡単なことではないと感じています。悲しいことがあることが幸いであるわけがありません。いくら慰めがあるとしても、悲しいことを経験しなくて済むなら、そちらのほうが遥かに幸いではないでしょうか。そう思うと、「悲しむ者は幸いです」などとは軽々しく口にしてはならないだろうと思います。しかし、そんな私たちでも聖められてイエスさまに似ている者にされるなら、「悲しむ者は幸いです」とイエスさまのように言っても良いのかもしれません。きょうは、そんなことに思いを巡らしながら、きょうの聖句の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」を味わうことにしたいと思います。

悲しみを知っていたイエス
 きょうは三つのポイントで話します。
 ①一つめは、イエスさまは悲しみを知っていたということ、
 ②二つめは、私たちは聖霊を受けるなら、より深い慰めを受けることができるということ
 ③三つめは、私たちもイエスさまのように「悲しむ者は幸いです」と言えるようになりたい、ということです。
 では、先ず一つめの「イエスさまは悲しみを知っていた」ということを見て行きましょう。これはイザヤ書53章に書かれていることです(旧約聖書p.1214)。1節から8節までを交代で読みましょう。

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 皆さんがよくご存知のイザヤ書53章ですが、3節に「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」とありますね。イエスさまは「悲しみの人」でした。イエスさまは悲しみを知っておられました。そのイエスさまが「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」とおっしゃっていますから、それは本当のことです。このイエスさまに心を開くなら、私たちは慰められます。

聖霊を受けることで得られる深い慰め
 次に二つめの ②私たちは聖霊を受けるなら、より深い慰めを受けることができるということに思いを巡らしたいと思います。すべてをご存知のイエスさまは、やがてご自身が十字架に掛からなければならないことをご存知でした。そうして、この十字架が無ければ、次の聖霊の時代への扉も開かれないことをご存知でした。このマタイ5章から7章のイエスさまのメッセージは「山上の説教」と呼ばれています。この「山上の説教」のほとんどは、聖霊の助けが無ければ不可能なことです。
 たとえば5章8節の「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」はどうでしょうか。私たちの心は罪で汚れています。この汚れは聖霊を受けることによってしか聖められることはありません。そうして聖霊を受けて心が聖められるなら、その人は神を見ることができます。
 9節の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」も同様です。聖霊を受けて心の深い平安が得られている者しか平和をつくることはできないでしょう。また聖霊を受けていなければ神の子どもになることもできません。また14節の「あなたがたは、世界の光です」。このみことばは昨年の私たちの教会の聖句でしたね。この世界の光になることも、私たちが聖霊を受けていなければ不可能なことですね。
 ですから、きょうの箇所の5章4節の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」もまた、聖霊を受けることで、より深い慰めを受けることができるのだと解釈すべきなのだろうと思います。
 聖霊を受けるなら、イエスさまが私たちの心の中に住むようになります。イエスさまは悲しみを知る人でした。そのイエスさまが私たちの心の中にいることで、より大きな慰めを受けることができます。

私たちも言えるようになりたい「悲しむ者は幸いです」
 三つめは、③私たちもイエスさまのように「悲しむ者は幸いです」と言えるようになりたい、ということです。きょうのメッセージの最初のほうで、この「悲しむ者は幸いです」はイエスさまだからこそ言えることで、私たちが軽々しく口にできるようなものではないと言いました。「悲しむ者は幸いです」と言えるようになることは、本当に難しいことだと思います。しかし、難しくてもやはり、私たちはこのことを目指すべきなのだと思います。それは私たちが聖められるなら、私たちはイエスさまに似た者にされるからです。そうして私たちもまたイエスさまのように「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と言えるようになりたいと思います。
 とても難しいことですが、決して不可能ではないだろうと思います。なぜなら私たちもまた悲しみを知っており、そしてまたイエスさまを信じる私たちには聖霊が注がれていて私たちの中にはイエスさまがいるからです。
 イザヤ書53章で見たようにイエスさまは「悲しみの人」でしたが、私たちもまた悲しみを知っています。お一人お一人がそれぞれの経験の中で悲しみを知っておられるだろうと思いますし、私たちの教会もまた悲しみを知っています。
 私たちの教会はやがて、この今沢の地から旅立って行きます。先週の祈祷会では創世記12章の始めの部分を開きました(週報p.3)。お読みします。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 私たちがこの今沢の地から旅立って行かなければならないことは、私たちにとっては悲しいことです。なかなか気持ちを整理できない方もおられるでしょう。イエスさまも十字架を前にして、なかなか気持ちを整理しきれないでいました。ルカの福音書のその場面をご一緒に見ましょうか(新約聖書p.164)。

22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

 イエスさまは、苦しみもだえて、そうして、これが父のみこころであるとして受け入れました。私たちも、イエスさまを見習いたいと思います。理不尽であると感じる面もあるかもしれませんが、イエスさまのようにすべてを受け入れたいと思います。イエスさまも人の子ですから、受け入れがたいと思うこともたくさんあったでしょう。イエスさまはやがて弟子たちが逃げてしまうことを知っておられました。イエスさまがガリラヤ地方で宣教を始めた頃から一緒にいて多くの教えを受けた弟子たちが最後の最後にイエスさまを裏切って逃げてしまうのです。あるいはまたエルサレムの民衆はイエスさまがエルサレムに入る時には熱狂的に歓迎しました。その民衆がわずか数日後には「十字架に付けろ」と騒ぐようになります。イエスさまはそのような人々のために十字架に掛からなければならないことに100%納得していたでしょうか。イエスさまも人の子ですから100%の納得はできなかっただろうと思います。しかし、イエスさまは受け入れました。
 私自身も苦悩の中を通りましたが、ここを旅立つことを受け入れました。しかし、このことによってイエスさまに近づくことができ、私は大きな慰めを得ることができました。そして私が望んでいることは、聖霊によって私がもっと聖められて、私もまたイエスさまのように悲しんでいる方々に対して「悲しむ者は幸いです」と言えるようになりたいということです。そして私は、教会の皆さんもまた今よりもさらに聖められて、そのような者になることを目指すことをお勧めしたいと思います。
(中略)
 私たちが聖霊に満たされるなら、神様は私たちを聖めて下さいます。そうして聖められていくなら、イエスさまに似た者にされていきます。

おわりに
 東日本大震災が起きたことで、多くの方々が今もなお悲しみの中にあります。そのような悲しみの中にある方々に向かって「悲しむ者は幸いです」と言うことはなかなかできないでしょう。しかし私たちは聖霊によって聖められ、イエスさまに似た者とされて、「悲しむ者は幸いです」と言える者になりたいと思います。多くの方々がイエスさまによって慰められるために、私たちは聖霊に満たされて聖められて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから
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3月11日礼拝プログラム

2018-03-08 10:40:45 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月11日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年3月第2聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                関 姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  詩篇119:129~144
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主を待ち望む者は(2回)   210
 讃 美 ③  朝つゆの園を        378
 聖  書  マタイ5:4
 説  教  『悲しむ者は幸いです』  小島牧師
 讃 美 ④  主のようになること     325
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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旅立ちの時(2018.3.7 祈り会)

2018-03-08 10:10:47 | 祈り会メッセージ
2018年3月7日祈り会メッセージ
『旅立ちの時』
【創世記12:1~4、ヘブル11:8~16、マタイ6:9~10】

創世記12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 年会を越えて最初の祈祷会では聖書のどの箇所を開くべきか、年会前からあれこれ考えていました。そうして今朝になって与えられたのは昨日まで考えていた箇所とは違い、創世記12章のアブラハムがハランの地を発った箇所でした。つまり私たちは、新しい旅立ちの時を迎えたということを示されたというわけです。ヘブル書のほうを簡単に見て行くことにしましょう。ヘブル11章8節、

8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 これから私たちは他教会との合流を目指します。まだ先方の教会の受け入れ態勢が十分に整っているわけではありませんから直ちにというわけではありませんが、この地を出て行くことを主の召しであると私たちは受け留めて、これから準備を整え、やがて出て行くことになります。アブラハムの場合も、主に言われた翌日にはすぐに出発したというわけではないでしょう。アブラハムは多くの家畜と金銀の財産を持っていましたから、天幕を畳んで出発するまでにはそれなりの期間が必要であったことでしょう。
 ですから、これから旅立ちの準備に入る私たちもまたアブラハムだと言えるのではないでしょうか。それは、私たちも信仰面においては天幕生活をしているからです。信仰面だけではありません。この世の生活においても生まれた時から死ぬまで一生同じ家に住み続ける人は、そんなに多くはないでしょう。木造であったり鉄筋コンクリートであったりで、天幕に住んでいるわけではないですが、移動して行くという点においては天幕生活をしていると言って良いでしょう。
 このように、この世の生活においても私たちはあちこち移動しながら生活をしているのですから、まして信仰面においては、なお一層ひとつの地にこだわり続ける必要はないのではないでしょうか。私たちは今回の旅立ちを主の召しと受け留めて、これからここを出て行く準備に入りたいと思います。
 ここにこだわり続ける必要はないと今言いましたが、その理由は、私たちには「さらにすぐれた故郷」、すなわち「天の故郷」があるからです。13節、

13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 アブラハムは地上では天幕生活をしている旅人であり、寄留者でした。私たちも同じです。私たちもこの地上においては旅人です。14節、

14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

 私たちもまた私たちの本来の自分の故郷を求めています。それが天の故郷です。15節、

15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 私たちも、この場所にどうしても留まりたいなら、この場所に徹底的にこだわって何としてでも留まるという選択肢も無いわけではなかったかもしれません。しかし、私たちには「さらにすぐれた故郷」、すなわち「天の故郷」があるのですね。16節に書いてある通りです。

16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 ただし、ここで一つ心に留めておいていただきたいことがあります。それは、私たちは単に天国に行くために信仰を持ち、信仰を保っているのではないのだ、ということです。そのことを最後に確認しておきたいと思います。マタイの福音書6章の9節と10節を交代で読みましょう。

9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

 注目したいのは10節です。イエスさまは、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさいとおっしゃっています。この一節は私たちが毎週の礼拝の「主の祈り」で、「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っている箇所です。「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」は文語体ですから、人によっては少しわかりづらいかもしれません。しかしマタイ6章10節は口語体で書かれていますから、わかりやすいだろうと思います。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさいとイエスさまはおっしゃっています。
 私たちが天国に行けますようにと祈るのではなくて、天国のほうがこの地に来ますようにと祈りなさいとイエスさまはおっしゃっています。そうして、この地が御国になることを神様は望んでおられます。それが黙示録の21章と22章に書かれている新しい天と新しい地です。このことのために、私たちはイエスさまと共に働いています。しかし、その時はなかなか来ません。その時がなかなか来ないのは、日本のクリスチャン人口が低いことを見ればわかるように思います。もし日本人の大半がイエス・キリストを信じるようになるなら、天の御国は自ずとこの地に来ることになるでしょう。そのことを信じて旅人である私たちは、イエスさまと共に伝道旅行の旅を続けるべきでしょう。

(中略)

 私たちは信仰面においては皆、旅人です。旅人は楽観的でなければ旅に出ることはできません。心配ばかりしていたら旅には出られません。私たちには共にいて下さるイエスさまがいます。ですから心配は要りません。イエスさまが共にいて下さるのですから、楽観的な旅人として恐れることなく、前に進んで行きたいと思います。
 最後に、創世記12章をもう一度、開きましょう(旧約聖書p.16)。12章の1節と2節を交代で読んで、メッセージを閉じます。

1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 お祈りいたしましょう。
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めげないパウロ(2018.3.4 礼拝)

2018-03-07 10:19:28 | 礼拝メッセージ
2018年3月4日礼拝メッセージ
『めげないパウロ』
【使徒28:23~31】

はじめに
 きょうで使徒の働きの学びは終える予定です。この使徒の働きの学びはおととしの2016年6月26日の礼拝から始めました。途中、アドベントの時期などでは他の箇所を開きましたが、約1年と8ヶ月、使徒の働きの全体像を皆さんと共に学ぶことができましたから、感謝に思っています。

ローマに到着したパウロ
 きょうの聖書箇所でパウロは、ローマに来ています。先週開いた27章では、パウロたちの乗った船が暴風に流されて漂流していました。簡単に振り返っておきましょう。
 27章20節に、

27:20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

とあります。この船にはルカも一緒に乗っていました。ルカは助かる最後の望みも今や絶たれようとしていたと書いています。そんな中でパウロは絶望せずに皆を励ましました。22節です。

27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。

 さらに26節、

27:26 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。

 そうしてパウロたちは実際に島に打ち上げられて助かりました。28章の1節、

28:1 こうして救われてから、私たちは、ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。

 そうして28章の中ごろで、パウロたちはマルタ島を出てローマに向けて移動して、遂にローマに到着しました。14節に、「私たちはローマに到着した」とあります。そして16節、

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。

 パウロは囚われの身ではありましたが監獄に入れられたわけではなく、家に住むことが許されました。

めげないパウロ
 そして、このローマの家でパウロはまず、ユダヤ人たちに向かって話を始めました。最初は17節にあるようにユダヤ人のおもだった人たちに対して話しました。すると、彼らはこう言いました。21節と22節です。

28:21 「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」

 ユダヤ人たちはパウロから直接話を聞くのが良いと思うということでしたから、23節にあるように、彼らはさらに大ぜいでパウロの宿にやって来ました。それでパウロは彼らに対して朝から晩まで語り続けました。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとしました。
 しかし24節にあるように、ある人々はパウロの語る事を信じましたが、ある人々は信じようとしませんでした。
 こうしてユダヤ人たちは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言いました。25節です。
「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
 そうしてパウロはイザヤ書を引用しました。26節と27節、

28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 そして、さらに続けました。28節、

28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 こうして使徒の働きは、次のことばで締めくくられて、閉じられます。30節と31節、

28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

 パウロのことばを信じないユダヤ人たちが多くいた中でも、パウロは少しもめげずに異邦人たちに向かって神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えました。

パウロが引用したイザヤ書6章
 使徒の働きの学びを終えるに当たり、きょうは二つのことに注目したいと思います。一つは、この28章の最後でパウロがイザヤ書を引用していること、そして二つ目は、記者のルカがパウロのその後のことについて触れないままで使徒の働きを閉じていることです。
 まず一つめの、パウロが引用したイザヤ書の6章をご一緒に見たいと思います(旧約聖書p.1134)。少し長いですが、1節から13節までを交代で読みましょう。

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

 8節は有名ですね。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 そしてパウロが使徒28章で引用したのは次の9節と10節ですね。

6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

「主が人々の目と耳を閉じる」とはどういうことか
 この主のことばに対してイザヤは聞きました。「主よ、いつまでですか」。すると主は答えられました。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」
 ここを単純に読むなら、「いつまで」とは「人々がバビロンへ捕囚として引いて行かれてエルサレムが滅亡するまで」と読み取れると思います。
 しかし、パウロはこれが紀元1世紀の自分たちの時代まで続いていると解釈していました。パウロだけではありません。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエスさまが種まきの例えでこのイザヤ6章を引用しています。ですから、イエスさまも、人々の目と耳が閉ざされている状態が紀元1世紀まで続いていると考えていました。ヨハネの福音書もまた、このイザヤ6章を引用しています。神のことばは永遠の中にありますからイザヤ6章の預言は、1世紀の人たちにまで適用されました。
 そして21世紀の現状を見るなら、現代においても今なお人々の目と耳は閉じられていると言わざるを得ません。イザヤ6章の預言の「いつまで」は今に至るまで、まだ続いているようです。
 しかし、ここに一つの疑問が湧きます。主がすべての人の目と耳を閉じてしまったら、誰も主を信じることができなくなります。主はすべての人を愛しておられ、すべての人が滅びを免れることを望んでおられます。それなのに、「主が人々の目と耳を閉じる」とはどういうことでしょうか。私はこのことについて長い間ずっとモヤモヤを感じていました。一部であったとしても信じる人もおこされているわけですから、これは一体どういうことなのでしょうか。このことの答えが私は最近になって得られたような気がしています。
 これは私の個人的な考えですが、「主が人々の目と耳を閉じる」とは、「主が悪魔の働きを妨げない」ということではないかと思います。悪魔は人々を誘惑して、人々が神様と共に歩むことを妨害します。この悪魔の働きを主は妨げないということでないでしょうか。
 主がなぜ悪魔の働きを妨げないのか、それは人々に選択の自由を与えているからなのでしょう。人々に選択の自由を与えないとしたら、神が人を愛しているということにはなりません。人を何でも神の思いの通りに動かすとすれば、人はただのロボットになってしまいます。神様は一人一人の個人としての尊厳を認め、それぞれに悪を選択する自由をも与えておられます。しかし、個人の尊厳を認めた上でやはり神様はすべての人が神様の方を自発的に向いて、神様と共に歩むようになることを望んでおられます。そうなってこそ、天の御国が地にももたらされるようになる、そのように考えておられるのではないかと私は考えます。私たちは毎週主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。私たちがロボットであれば、この地が天の御国と同じになることはできません。自由を与えられている私たちの多くが神様の方を向くようになる必要があります。

ルカはなぜパウロの最期を描かなかったのか
 そうすると、ルカがなぜ使徒の働きをこのような形で終わらせたかもわかるように思います。きょうの二つ目の注目点の、ルカはなぜ、その後のパウロを描かなかったかについてです。ルカが使徒の働きを書いた時には、パウロは既に天に召されていたと考えられます。パウロはまだ天に召されていなかったからルカはパウロの最期を書かなかったのだと考える聖書学者もいますが、私はそうは思いません。パウロは既に天に召されていました。ならばなぜルカはパウロの最期を描かなかったのでしょうか。
 それは、イエス・キリストを宣べ伝える働きは、パウロで終わったわけではなく、ずっと続けられていかなくてはならないことをルカが読者に伝えたかったからであろうと考えます。パウロたちの使徒の働きは現代に至るまで、ずっと引き継がれて来ています。ルカは28章の締めくくりに、めげないパウロを描くことで、読者にパウロを見習うように伝えているのだと思います。
 悪魔の働きは今もなお執拗に続いていますから、この沼津の地においても多くの方々の目と耳は閉じられたままです。しかし、私たちもパウロのようにめげずにイエスさまを証する働きを続けていきたいと思います。教会がどのような形になっても、それは可能ですから、私たちはイエスさまの証人として、働き続けたいと思います。
 使徒の働きの学びを終わるにあたり、まず、使徒1:8(週報p.3)をご一緒に読み、次いで使徒28章の30節と31節をご一緒に読むことにしましょう。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
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3月4日礼拝プログラム

2018-03-01 13:47:40 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月4日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年3月第1聖日礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  神はひとり子を        26
 交  読  詩篇119:113~128
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主にまかせよ        386
 讃 美 ③  人生の海の嵐に       443
 聖  書  使徒28:23~31
 説  教  『めげないパウロ』 小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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