平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

「時間とは何か」のツイート

2013-06-28 20:11:54 | 折々のつぶやき
 「時間とは何か」について最近モヤモヤと考えていることを整理するために、ツイッターを利用してみました。ツイッターは、このような考察のツールとしても使えるかもしれないという感触を得ました。①~⑰のそれぞれが1回1回のツイートです。

①「時間とは何か」について、いろいろなことから、私には何となく分かってきた気がします。しかし、それらの「いろいろなこと」を一つに組み上げて、しっかりとした文章にするには至っていません。多分まだ何か考え方に抜けている点があるのでしょう。

②ツイッターは、それらの、まだ一つに組み上げることができない段階の「いろいろなこと」を細切れに提示して行くには、非常に優れた媒体かもしれません。
 ブログに書くには至っていない思い巡らしの断片の一つ一つを、今日の午前は放出してみようと思います。

③木村敏『時間と自己』(中公新書)の離人症患者の証言。「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない。」(p.27)

④下條信輔『〈意識〉とは何だろうか』には「ミクロの世界は常に『正しい』」とあります。
 「結局、脳内の神経過程に分け入っていくと『錯誤』はその定義ごと蒸発して、『正常』な神経過程だけが残ります。神経過程が仮に何らかの意味で異常だとしても、もう一段ミクロなレベルに下がってみると(続く)

⑤(続き)その作用は正常なはずです。たとえば、分裂病者の脳ではドーパミンという神経伝達物質が過剰であったり、また別の神経伝達物質が欠如していたりする。これは健常者と比べれば明らかに異常です。しかし(中略)、健常者と同じ神経薬理学的な法則に従っているという点で『正常』なのです。」

⑥ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』(草思社)
「アインシュタインが述べたように、『合理的な判断をする私たち物理学者にとって、過去、現在、未来の区別は、それがいかに執拗なものであれ、幻影にすぎない』のである。実在しているのは、全体としての時空だけなのだ。」

⑦真木悠介『時間の比較社会学』
「ムビティは(中略)、時間の観念こそが、アフリカの宗教と哲学を理解する鍵であることを述べている。それは時間の観念のうちに、伝統的なアフリカ諸部族と近代人との、発想の異質性が集約されているからである。…時間の観念が…近代文明の本質を理解する鍵でもある」

⑧以下は私の時間についての思い巡らし。
 素粒子・原子・分子の目に見えない世界には過去・現在・未来は存在せず、時間の概念は人間の脳内で形成されるものであることが、以上の本を読むとわかる。脳は五感で知覚したことを脳内に記憶として蓄積して、そこから時間の概念が形成される。

⑨では、目に見える世界では、なぜ過去・現在・未来が存在するのだろうか。こんな考察をしてみた。
 空の雲は時々刻々と形を変える。雲の形に特に意味付けをしないのであれば、そこには時間がほとんど存在しないだろう。意味の無い図形がたくさんあるだけなら、それらを時系列で並べる意味はない。
 
⑩しかし、雲の形から動物や乗り物を連想するなら、さっきは馬の形をしていたのに今は自動車のようになった、などと過去から現在への時間の流れが発生する。脳によって意味付けが為されることで時間が発生するのだ。

⑪地層の積み重ねも同様であろう。地層を観察するなら、そこにはいかにも歴史の積み重ねがあるように見えるが、それは、一つ一つの層に時代を当てはめるという意味付けをするからであろう。一つ一つの層に時代を当てはめなければ、地層はただの模様であり、地殻変動により、いずれは違う模様になる。

⑫時間は人間の脳内で形成されるものであるから、民族によって違う時間意識が形成される。グローバル化は均質な時間観をもたらしつつあるが、以前は多様な時間観が存在したのだ。
 このように時間は人間の意識の中で作り出されるので、神は人間の時間の中にはいないということは、正しいことなのだ。

⑬神は過去・現在・未来が一体の永遠の中にいる。もともと人間も神と同じ時間の中にいて平安に暮らしていた。しかし、知恵と知識を持つようになり、時間の概念を持つようになったために、心の平安を失ってしまった。そのことを聖書は、創世記のアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたことで表した。

⑭過去→現在→未来という時間観に縛られるなら、やがて死に至るという恐怖が顕在化しないまでも、潜在的には常につきまとって心の平安が得られない。また、過去に他者から受けた被害への恨みが消えずに報復して、それがまた未来の報復を招く。この報復の連鎖により人類には平和が訪れない。

⑮人類は知恵と知識を自分たちの欲望を満たすために使っている。この自分中心の意識が過去→現在→未来という時間観を生み出し、それゆえ人類は苦しんでいるのではないか。
 自分中心ではなく、神中心の信仰を持つなら、神の時間の中に入れられて心の平安を得ることができる。

⑯ヨハネの福音書には過去・現在・未来が一体の時間観が提示されている。しかし人類は、これまでヨハネの福音書の時間構造に気付かないでいた。これは、いかに人類が過去→現在→未来の時間観に強く支配されているかということを如実に示している。人類はこの時間観の奴隷状態にあると言えるであろう。

⑰私たちは過去→現在→未来の時間観から解放された状態で、もう一度ヨハネの福音書を学び直す必要があると思う。そのことによって私たちは互いに愛し合うことができるようになり、心の平安が得られ、そして世界の平和の実現に向かって歩んで行くことができるようになるであろう。

ツイッター:
 https://twitter.com/chissonosuke
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真の時間と人の時間②(2013.6.26 祈り会)

2013-06-27 05:40:10 | 祈り会メッセージ
2013年6月26日祈り会メッセージ
『真の時間と人の時間②』
【伝道者の書12:1~14、ヨハネ14:26,27】

はじめに
 きょうは先週に続いて、7/15の講演に向けて、論点を整理するために、この祈祷会のメッセージの時間を使わせていただきたく思います。講演のタイトルは、『真の時間と人の時間』にしました。この講演の聖書箇所は、ルカ10章のマルタとマリヤの箇所を予定しています。このマルタとマリヤの箇所は先週の祈祷会で取り上げましたから、きょうは伝道者の書とヨハネの福音書の2箇所からを選びました。伝道者の書は「人の時間」の典型ではないかと思います。そして、ヨハネの福音書は、「真の時間」とは、どのようなものかが記されています。

1.世が与えるのとは違う平安とは
 まず、ヨハネの福音書の14章27節から見て行きましょう。

14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 この27節は、よく取り上げられる箇所だと思います。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」とイエス・キリストはおっしゃり、さらに「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」とおっしゃいました。このことを、私たちイエス・キリストを信じる者は知っています。イエス・キリストを信じると実際に心が平安になるのを感じますから、私たちは、このことを知っています。そして、それは聖霊の働きによるのだということも、知っています。
一つ手前の26節でイエス・キリストはおっしゃいました。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 聖霊は私たちにすべてのことを教えてくださいます。では、私たちの心になぜ平安が与えられているのかということを、私たちはキリスト教の教えから、どのように教えられているでしょうか。それは、私たちの罪が赦されたからであると、私たちは教えられていますね。私たちの罪が赦され、神さまと和解して神さまと共に歩むことが許された。聖霊が内に入り、いつも神さまが私たちと共にいて下さる、そのことによって心の平安が得られるのだということを、教えられています。
 それは、確かにその通りだと思います。しかし、神様と共に歩むことで、どうして、心の平安が得られるのかということの説明が十分に為されていないように感じます。もちろん、何となくはわかります。神様が共にいて下さるのですから、平安が得られないはずはないでしょう。でも、それでは説明になっていない気がします。これまで、私たちは、このレベルの理解でも満足していたと思います。しかし、ヨハネの福音書は、もっと豊かなことを私たちに教えているのだということを、私たちは、この祈祷会で学びを通じて、知っています。イエス・キリストを信じて神と共に歩むようになるということは、神の永遠の時間の中に入れられることだということを、私たちは学んでいます。過去・現在・未来が一体の神の永遠の時間の中にいれられることで、私たちは心の平安を得ることができます。罪が赦されることも、もちろん心の平安が得られる大きな要因ですが、過去・現在・未来が一体の神の時間の中に入れられることも大きな要因であると言えます。

2.直線状の時間観がもたらす空しさ
 なぜ過去・現在・未来が一体の神の時間の中に入れられることで心の平安が得られるのか、このことを知るには、そうでない場合を考えるのが良いと思います。そうでない場合というのは、過去→現在→未来が直線上に並んで一方通行の時間の流れが存在する、という、これまでの一般的な時間観です。この直線状の時間観に縛られている限り、神を信じていても、なかなか心の平安を得ることができないということを、伝道者の書は示していると思います。そして、それは旧約の時代だけではなく、新約の時代にあっても、この直線状の時間観を持つ限りは神と共にいるという確信が十分に得られないために、一度イエス・キリストを信じても、やがて離れて行ってしまうということが起こるのだと思います。また、17世紀以降、科学が発達し、啓蒙思想が広まったヨーロッパにおいて多くの人々が神から離れて行ってしまったのは、人々が、直線状の時間観にとどまっていたことが大きいと私は考えます。すでに紀元1世紀の段階で過去・現在・未来が一体の時間観がヨハネの福音書によって提示されていたにも関わらず、人類がこれに気付くことができなかったために、多くの人々が神から離れてしまったのだと思います。この直線状の時間観がどれほど空しいものであるかを、伝道者の書は示しています。

 伝道者の書は、1章2節の、「空の空」で始まります。そして、締めくくりもまた、12章8節の「空の空。伝道者は言う。すべては空。」で閉じられます。12章の9節以降は編集後記のようなものだと思いますから、伝道者の書は「空の空」で始まり、「空の空」で終わると言って良いでしょう。この1章から12章までの間に伝道者は、何とかして「空」ではないものを見出そうとします。その一番の解決策は、神を恐れ、神への信仰を保つことです。このことにより、伝道者は心の平安を見出そうとします。しかし、結局は十分な平安を得ることができず、「空の空」で締めくくることになる、というのが伝道者の書の流れと言えるのではないかと思います。
 時間が直線状の一方通行の流れしか持たないことが、どれほど人を空しい気持ちにさせるかということを、伝道者の書は、良く示していると思います。この伝道者を最も空しくさせているのは、神を信じようが信じまいが人は皆、等しく死に至るということではないかと思います。3章19節から21節にそのことが色濃く表れています。

3:19 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
3:20 みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。
3:21 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。

 伝道者は、誰が知っているだろうか、と言っています。過去→現在→未来が直線状に並んでいる時間観では、結局は皆が死に至り、その死んだ後の世界のことは誰にもわからないのですね。伝道者は、9章3節のようにも言っています。

伝 9:3 同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

 過去・現在・未来が直線状に並んだ時間観にとどまっているなら、死とは、トンネルに突っ込んで行くようなものではないでしょうか。新約の時代にあって死後は天の御国に入れられることが約束されている我々であっても、もし直線状の時間観にとどまっているのであれば、一旦はトンネルに突っ込んで行き、その後にトンネルを抜けて天国に到達するということになるのでしょう。そうすると、トンネルの先に本当に天の御国があるのか、そんなものは存在しないのか、ただひたすら信じるだけの世界になってしまいます。
 それゆえ、この死後のことをひたすら信じることをやめてしまう人々が増えて行くことになってしまいます。そういうあまり当てにならない死後の世界は信じないで、死に至るまでの限られた生を真剣に生きて行こうという考え方が説得力を持つようになります。私もまだ勉強中で、しっかりしたことは言えないのですが、たとえば『存在と時間』を書いたハイデガーなどは、そのような考え方で、多くの人々に影響を与えました。

3.過去・現在・未来が一体のキリスト者
 死後の世界に期待を寄せるのではなく、現在を生きる力を得たいという気持ちは、確かに多くの人が抱く共通の気持ちだろうと思います。特に大震災で家族や財産を失った方々などには、現在を生きる力が必要だと思います。ですから、もし私たちが直線状の時間観にとどまり、死後の天の御国への希望だけを宣べ伝えても、今を生きる力が必要な方々には、なかなか届かないでしょう。命があとわずかしか残されていない、死の床に就いている方々には届くかもしれませんが、そうではない方々には、ほとんど届かないでしょう。
 しかし、私たちがこれまで、この祈祷会で学んで来たように、実はもう紀元1世紀の段階でヨハネの福音書は、イエス・キリストを信じる者は過去・現在・未来が一体の神の時間の中に入れられているのだということを教えています。過去・現在・未来が一体ですから、私たちは既に現在を生きながら、未来の天の御国にも既に入れられています。このことを私たちは霊的に感じていますから、心の平安を得ることができています。天の御国は死というトンネルを抜けた先にあるのではなく、既に私たちは現在を生きる中で未来の天の御国を霊的に感じながら生きています。心の平安により神様が共にいて下さる確信が与えられていますから、絶望することなく現在を生きて行くことができます。

 きょうもまた詳しく話す時間が無くなってしまいましたが、過去→現在→未来が直線状に並んだ一方通行の時間観というのは、人間の脳の中で作られるものであると言えます。それは、そのような時間観を持たない、たとえば精神科の治療を受けている人々を対象にした時間意識に関する研究や、或いはまた、西洋文明に染まる前の先住民族の時間意識に関する研究などについて書かれた本を読むとわかります。アメリカの先住民の時間観を紹介している『時間の比較社会学』(真木悠介・著)という本では、著者は、こんなことを書いています。

「自然の中で人間だけが、そしておそらくは文明化された人間だけが、<死の恐怖>という病に冒されている。」

 この本によると、先住民たちは、そもそも「未来」という概念は持ち合わせていなかったのだそうです。しかし、皮肉なことにキリスト教の宣教師たちが彼らに教育を施した結果、却って未来という概念を知るようになり、死の恐怖も感じるようになってしまったということです。これは、おかしなことですね。キリストの教えが正しく伝えられたのなら、死の恐怖が新たに生じることなど無いはずです。

おわりに
 これは、先住民への伝道だけでなく、日本への伝道についても同じです。もし、過去・現在・未来が直線状の時間観のままでイエス・キリストの福音を宣べ伝えても中途半端なものにしかならないでしょう。未来のことは、ただ信じるのではなく、確信できなければ、いつかまた信仰から離れて行ってしまう危険を伴います。
 イエス・キリストを信じて、神と共に歩むとは、どういうことなのかということを、私たちは人々に宣べ伝えていく上でも、まず私たちがしっかりと理解しなければならないと思います。
 その理解を神様が助け導いて下さいますよう、お祈りいたしましょう。
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真の時間と人の時間①(2013.6.19 祈り会)

2013-06-19 23:40:10 | 祈り会メッセージ
2013年6月19日祈り会メッセージ
『真の時間と人の時間①』
【ルカ10:38~42】

はじめに
 きょうはルカ10章のマルタとマリヤの箇所です。この箇所は、7/15で開きたいと考えている箇所です。タイトルは、お配りしたチラシ案のように、『真の時間と人の時間』を考えています。これから7/15までの祈祷会では、この特伝の講演内容として考えていることを、この祈祷会のメッセージの時間を使って話させていただきたいと思っています。そうすることで、7/15の講演内容が整えられて行くと考えています。ですから、7/15の当日の話は、この祈祷会に参加して下さっている皆さんにとっては既に聞いた話になってしまう可能性が高いですが、7/15の特伝を、より充実したものにできるよう、ご協力願えたら感謝です。

1.マルタとマリヤ
 初めに、きょうの聖書箇所を簡単に見ておきましょう。ルカの福音書10章の38節から42節です。交代で読みましょう。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 私が高津教会の一般信徒だった頃、初めてこの箇所のことを知った時、当時私はまだ職場で忙しく働いている身でしたから、マルタに同情していました。そして、イエスさまはどうしてマリヤを擁護するのか、マルタの言い分のほうが正しいのではないか、とさえ思っていました。しかし、退職して神学院に入学して、静かな環境の中で祈りとみことばの日々を送るようになってからは、なるほどマリヤでなければならない、と思うようになりました。それでもまだ、マルタに同情している面もあったと思います。けれども、ヨハネの福音書の時間構造は過去・現在・未来が一体であることに気付き、しかも人類が2世紀以降、このヨハネの福音書の時間構造に全く気付いていないことがわかってからは、もう断然、圧倒的にマリヤでなければならない、と思っています。

2.過去→現在→未来の時間観に支配されていたマルタ
 今回、7/15の特伝の聖書箇所で、このルカ10章のマルタとマリヤの箇所を与えられたことで、私は新しい攻め口が与えられたように感じています。これまで私が「ヨハネ!ヨハネ!」と騒いでもなかなかわかってもらえなかったことが、このルカ10章からなら、わかっていただけそうな気がして来ています。先週、私は7/15のことを一旦白紙にして、すべてを主に委ねるお祈りを皆さんとご一緒にしましたが、主はこのような形で応えて下さったように感じています。
 この箇所について簡潔に言うなら、マルタは過去→現在→未来という一方通行の時間の流れの中に身を置いており、マリヤは過去と現在と未来とが一体になったヨハネの福音書の時間構造の中に身を置いています。そして、イエス・キリストはルカ10:42で、「どうしても必要なことは…一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」と言っています。私は、人類がこれまでヨハネの福音書の時間構造に気付かなかったのは過去→現在→未来の一方通行の時間の流れに強く支配されているためだと考えています。ですから、この時間の中にどっぷりと浸っているマルタのことをイエス・キリストが注意したのは当然のことだと私は強く感じています。
 私は、クリスチャンはヨハネの福音書では過去と現在と未来が一体になっていることを霊的には何となく気付いているのだと思います。しかし理性は、過去→現在→未来という一方通行の時間の流れの中に完全に取り込まれてしまっているために、キリストの証人に上手くなることができていないと考えています。リバイバルなどで霊性が圧倒的に支配している時にはキリスト教は大変な勢いで広まりますが、霊性が弱まって理性が強くなると広がらなくなります。それは、理性が過去→現在→未来という一方通行の流れの時間観に支配されているからだ、と考えています。
 7/15の講演では、ここら辺りをどう分かりやすく話すかということが、大きな課題となりますが、とりあえず今の段階では、分かりやすくすることは置いておいて、もう少し考察を深めて行きたく思っています。

3.神の時間と人間の時間
 まず、はっきりさせておきたいことは、過去→現在→未来という一方通行の時間の流れは、人間の意識が作り出すものである、ということです。別の言い方をすると、この時間の流れは、人間の脳内に蓄積された過去の履歴によって作り出されているものである、ということです。下條信輔という認知心理学者が『〈意識〉とは何だろうか』という本で、人間の知覚は「脳の来歴」に強く依存しているということを書いています。誰にでもできる簡単な実験の例として、3つの容器に違う温度の水を入れて手を浸す実験を示しています。左側の容器には、やけどをしない程度に熱いお湯をいれ、右側の容器には氷水を入れます。そして真ん中の容器には、ぬるま湯を入れておきます。そして左手を熱いお湯に、右手を冷たい氷水にしばらく浸し、手がその温度に慣れたところで、両方の手を真ん中のぬるま湯に入れます。すると、左右の手は、同じ温度のぬるま湯に浸しているのに、熱いお湯に浸してあった手はぬるま湯を冷たく感じ、氷水に浸してあった手はぬるま湯を熱く感じます。物理的にはぬるま湯に浸された手は同じ温度なのに、脳では違う温度として感じているのですね。このように、人間の知覚は過去の履歴に強く依存しています。ですから、時間の流れは人間の脳の中で作り出されると言ってよいだろうと思います。下條氏の本は人の「意識」についての本であり、「時間論」についての本ではないので、そこまでは踏み込んでいませんが、時間の流れは人間の脳の中で形成されていると考えて間違いないと思います。私がそう考える理由は、まだまだ他にもあるのですが、きょうは、すべてを丁寧に説明する時間がありませんので、それらはまた来週にでも話せたらと思います。
 このように人間の時間は、過去→現在→未来という一方通行の流れが存在する時間です。それに対して神の時間は、このようなものではありません。神は、このような人間の時間の外側にいます。私は、ヨハネの福音書の時間構造がわかったことは、神の存在証明にも大きな寄与をすることになるだろうと考えています。神の時間が人間の時間の外にあることは、従来から言われていたことです。しかし、それはヨハネの福音書の時間構造が気付かれないまま、言われていたことです。ヨハネの福音書の時間構造が分かったことは、人間の時間とは異なる神の時間が存在することの有力な証拠となると思います。
 いまや、私たちは、ヨハネの福音書の時間構造がわかったことで、永遠の中を生きる神の時間に身をゆだねることができるようになりました。この神の時間こそが、ルカ10章のマリヤが身を置いていた時間です。一方、マルタが身を置いていた人間の時間は、段取りを重視して次々に仕事をこなしていく、時間の流れを重視した時間です。マルタは、イエスをもてなすために、短い時間の中で非常に多くのことをしなければなりませんでした。テーブルのまわりを片付け、食器を出し、飲み物を用意し、野菜や肉を洗って切って調理して皿に盛り付けることを、何をどの順番で行なえば最も効率良くできるかを頭の中で組み立てながら、忙しく働いていました。いくつものことを同時に進めながら、これが終わったら次は何をするかの順序を常に考えているわけです。マルタは、過去→現在→、未来の人間の時間の中にどっぷりと浸かっていました。
 もう一方のマリヤはどうでしょうか。39節に、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」とあります。先日私はヨハネの福音書のプロローグの1章1節の、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」、この1章1節だけで「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」の三つの時代を表しているということを話しました。ことばであるイエス・キリストは三つの時代が同時に存在する永遠の中にいました。イザヤ書も、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)と書いています。マリヤは、その永遠の中にいる主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。ただ聞いていたのでなく、「聞き入っていた」のですね。この時、マリヤもまた永遠の中にいました。

おわりに
 マルタとマリヤは同じ空間に身を置きながら、まったく違う時間の中にいました。マリヤはどんなに恵まれていたことでしょうか。イエス・キリストがマルタに、マリヤからこの恵まれた時間を取り上げてはいけませんと注意したのは、当然のことでした。
 これから私たちが為すべきことは、マルタとマリヤがどれぐらい掛け離れた時間の中にいたかを感じ、それを人々に伝えて行くことではないだろうか、今私は、そのように感じています。主がなお、さやかに私たちが為すべきことを示し、導いて下さるよう、一言お祈りしたく思います。
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大胆に信じて捧げる(2013.6.16 礼拝)

2013-06-17 16:33:53 | 礼拝メッセージ
2013年6月16日礼拝説教
『大胆に信じて捧げる』
【Ⅰ列王17:8~16】

はじめに
 きょうの会堂特別礼拝のテーマは会堂献金についてです。
 捧げ物をすることについて、聖書からしばらく学ぶ時を持ちたいと思います。
 まず確認しておきたいことは、会堂献金とは、教会に捧げるものではなく、神様に捧げるものであるということですね。
 新会堂ができた時には、私たちは献堂式を行います。献堂とは、会堂を神様に捧げることです。会堂は神様に捧げられて、神様の御用のために使われます。このように会堂は神様に捧げるものですから、その会堂を建てるための資金となる会堂献金もまた、神様に捧げるものです。

1.最上のものを捧げる
 神様に捧げ物をする時には何を心掛けるべきか、ということについて聖書が教えていることは、最上のものを捧げなさい、ということですね。このことを聖書は、アベルとカインの箇所という、とても早い段階で私たちに教えています。始めに、アベルとカインを見ておきましょうか。創世記の4章です。創世記の1章と2章には神が万物を創造したことが書かれており、3章には、アダムとエバが食べてはならないと神様から言われていた木の実を食べてしまってエデンの園を追放されたことが書かれています。アベルとカインの話はその、すぐ後の4章です。創世記4章の1節から5節までを交代で読みましょう。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 こうして、怒りに満ちた兄のカインは弟のアベルを殺してしまいました。神はカインとカインの捧げ物には目を留めず、弟のアベルとアベルの捧げ物に目を留めました。神がどうして、カインに目を留めなかったのか、それはカインは最上のものを捧げなかったからだと思われます。4節に、アベルは「最上のものを持って来た」とあります。しかし、カインについては「最上のもの」と書いてありませんから、恐らくカインは最上のものを捧げなかったのでしょう。
 神に最上のものを捧げなかったということは、最上のものは自分のものにした、ということです。まず自分を優先させ、神様の優先度を自分よりも低いものにしました。そのように、自分を第一にして神を第一にしない者を神さまは祝福しては下さらないということを、聖書は創世記の4章という、随分と早い段階で私たちに教えています。
 これは、私たちには、なかなか厳しい教えだと思いますが、箴言もまた「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)と言っていますから、神を恐れ、神を第一にすべきであることを、私たちは先ず、覚えておかなければなりません。
 そう考えると、新会堂の闘いということも、私たちはなかなか厳しいことを問われているのだということに気付きます。つまり、私たちは本当に神様を第一とする信仰を持っているのだろうかということを問われている、ということになります。もし私たちが本当に神様を第一と考えているのであれば、神様は私たちを豊かに祝福して下さり、新しい会堂を与えて下さるでしょう。その反対のことはあまり考えたくないことですから、私たちは、神様を第一として歩んで行きたく思います。

2.いただいた恵みへの感謝の応答
 では、私たちはなぜ、神を第一にして最上のものを捧げなければならいのでしょうか。それは、私たちは既に神様から恵みをいただいていて、捧げ物はその、いただいた恵みへの感謝の応答だからです。神さまから恵みをいただいていることに気付いていて感謝に感じているなら、捧げ物は自然と良い物を選ぶことになるのだと思います。もし最上のものを自分のものにするなら、神様からの恵みをあまり感じることができていないということになります。
 新約聖書の福音書には、貧しいやもめが献金をした時の様子が書かれています。ルカの福音書21章1節から4節(p.160)をお読みします。

21:1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
21:2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
21:3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
21:4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

 神さまは、こういう貧しいやもめのような者を、祝福して下さいます。ですから、きょうの聖書箇所の第一列王記のやもめが、なぜ豊かに祝福されたのかも、以上のことから、よくわかると思います。列王記のやもめも、乏しい中から持っていた全部をまず捧げたからですね。

3.大胆に信じて捧げたやもめ
 第一列王記17章の今日の箇所を見て行きましょう。17章8節(p.614)からです。
8節と9節、

17:8 すると、彼に次のような【主】のことばがあった。
17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 彼というのは、預言者のエリヤのことです。10節と11節、

17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

 この時、この地方は、ずっと雨が降っていませんでした。日照りが続き、農作物もできませんでした。それでも男手があれば、何とか食糧を確保できたかもしれません。しかし、やもめですから、男手がありませんでした。ですから、水もパンも、やもめにとっては、とても貴重なものでした。やもめは答えました。12節、

17:12 彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

 「死のうとしている」というのは、自殺すると解釈する必要はなく、もう食べ物が無いから、あとは死ぬしかないのだ、と捉えれば良いでしょう。それほど、このやもめは困窮していました。そんなやもめに13節と14節でエリヤは言いました。

17:13 「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
17:14 イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

 神の人エリヤは「恐れてはいけません」と言いました。聖書には、「恐れてはいけません」や、「恐れるな」、或いは「こわがることはない」ということばが良く出て来ます。多くの場合、信仰が試されている、信仰のチャレンジを受けている場で、これらのことばが使われています。神様がこれから、豊かな恵みを授けようとしている時、受け取る側が恐れて萎縮してしまっていては、その恵みを受け取れずに終わってしまいます。イエス・キリストの母となったマリヤにも御使いのガブリエルが現れて、「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」(ルカ1:30)と言いました。その御使いガブリエルにマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と答えました。この段階では、本当に御使いの言うようになるのか、全くわからないことでした。しかし、マリヤは大胆に信じて、この状況の中に、我が身を捧げました。
 エリヤから「恐れてはいけません」と言われた列王記17章のやもめもまた、大胆にエリヤのことばを信じて、パンを捧げました。15節と16節。

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 こうして、やもめは、食糧が尽きることがないという神様からの恵みを受けました。それは、まずやもめが神の人エリヤが言ったことを大胆に信じたからです。
 大胆に信じるということで、私が思い出すのは、ヘンリ・ナウエンが晩年に思いを巡らしていたサーカスの空中ブランコのことです。サーカスの空中ブランコでは、一人がブランコから空中に飛び出して、もう一人が反対側のブランコに乗った人が空中でキャッチするという曲芸がありますね。この時、空中に飛び出した側の人は、腕を動かさずに、完全にキャッチする側の人に自分を委ねるのだそうです。両方の人が腕を動かすと、位置がずれて上手くキャッチできないので、空中に飛び出した側の人は、腕を動かさないのだそうです。ヘンリ・ナウエンは、ここに大胆に神を信じて全てを捧げる信仰を重ねて見ていました。神のことばを大胆に信じて全てを委ねるということは、なるほど、こういうことなのでしょうね。

おわりに
 私たちは、どれぐらい大胆な信仰を持っているでしょうか。
 新しい会堂を願い求めるということは、私たちがどれくらい大胆な信仰を持っているかが試されているということでもあると思います。
 捧げるものはお金とは限りません。この会堂に集う人がもっと増えるように伝道活動に身を捧げることであっても良いと思います。いろいろな制約で献金も伝道活動も十分にできない方でも、祈りを捧げることはできるでしょう。会堂のために熱心に祈る時間を大胆に確保することも、大胆な信仰と言えるでしょう。
 私たち一人一人が大胆な信仰を持って何かを捧げるなら、主は私たちをきっと豊かに祝福して下さるでしょう。
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私の思い悩み(2013.6.12 祈り会)

2013-06-13 08:02:16 | 祈り会メッセージ
2013年6月12日祈り会メッセージ
『私の思い悩み』
【使徒17:32】

  死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、
 「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。
 (使徒の働き17:32)

はじめに
 きょうは、あらかじめ予告しておきますと、いつもとは違う形態で話をします。
 いま私が思い悩んでいることを、きょうのメッセージの原稿に書き連ねて、それを読むことで今日のメッセージとさせていただきたく思います。
 礼拝の説教では、私がこれからするようなスタイルは許されないと思います。なぜなら礼拝で牧師が行う説教は、牧師が神様からのメッセージを会衆に取り次ぐものであるとされているからです。
 しかし、きょうは礼拝ではありませんから、神様のメッセージを会衆に取り次ぐ形式を取らずに、詩篇にあるダビデの詩のように、自分の思い悩みを神様に告白して、そしてすべてを神様にお委ねして祈る、という形式にさせていただきたいと思います。
 ですから、これから話すことは、神様に向かって話すことです。皆さんにも聞いていただいていますから、皆さんにもわかるような話し方を心掛けるつもりです。そうすることで、皆さんに向かって話しているように聞こえることでしょう。しかし実際は、ダビデの詩のように神様に向かって話していることだと思って聞いていただければ幸いです。

1.7/15の特伝とリンクさせたい新会堂の問題
 いまの私の差し迫った思い悩みは、7月15日の特別伝道会をどういうスタイルにして、そして説教で語るメッセージをどのようにするか、ということです。先週の木曜日の伝道委員会で私は、きょうのこの祈祷会の時までには、基本方針を決めて報告すると担当の兄に話しましたから、ある程度のところまでは考えていますが、まだいろいろと確信が持てない点があります。
 私は7/15の特伝を、今の6月の一連の会堂特別礼拝とワンセットのものであると考えています。6月の特別礼拝で、教会員の信仰の一致を確認して結束を強め、その上で7/15の特伝に向けて外に向かって伝道活動をして行けたらと願っています。
 というのは、新会堂を実現するには、教勢と財勢が上向いて行くことの、最低限でも「兆し」が見えなければ、到底無理だろうと思うからです。「兆し」というのは、実際に教勢と財勢の向上をしっかりと確認できるようになるには、それなりの期間が必要であると思いますから、そんなに悠長には待てないという気もします。ですから、「兆し」が見えたなら発進してしまうということも、有り得る話だろうと思います。しかし、「兆し」すら見えないのであれば、発進することはできないでしょう。
 借金をして新会堂を建てるとなるとローンを組むわけですが、今の私たちの教会員の年齢構成では、とても20年のローンは組めないでしょう。長くてもせいぜい10年程度ではないでしょうか。そして、今の教会の財勢状態で10年で返せる金額は、そんなに多くはないと思いますから、そんなに多くは借りられないということになります。すると、新会堂は建ちません。ですから、借金をして新会堂を建てるなら、教勢と財勢の向上は欠かせません。
 一方、借金をほとんどしないで新会堂を建てることも、全く考えられないわけではないかもしれません。あまり現実的ではないと思いますが、教会の皆さんが万一の時のためにと思って使わないで大切に取っておいてある資産を、スッカラカンになるぐらいまで放出していただけば、新会堂を建てる資金は、もしかしたら集まるかもしれません。しかし、教会に勢いがなければ、そういうことにお金を出そうという気になる人はいないでしょう。教会の入れ物は新しくなっても、集まるメンバーは相変わらずで、この先もあまり増える見込みが感じられないのであれば、大切なお金を「どうぞ」と言って差し出す気には、ならないでしょう。
 ですから、借金をたくさんするにしても、借金をしないにしても、いずれにしても、教会には勢いが必要です。これから私たちの教会は成長して行くのだという勢いを私たちが感じられないのであれば、新会堂を実現することは無理だろうと思います。

2.神様のとてつもなく大きな贈り物
 では、勢いを得るための手立てはないのでしょうか。そんなことはありません。私たちの教会は、神様からとてつもなく大きな贈り物をいただいています。それは、ヨハネの福音書が、どのような書であるかということを、私たちは神様から教えていただいている、ということです。しかし、これは、本当にとてつもなく大きな贈り物であって、とんでもない可能性を秘めていますから、私も取扱いに苦慮しています。私の深い悩みというのは、実に、ここにあります。
 神様はどうして、こんなにも大きな贈り物を私たちに下さったのか、それは本当に想像を絶する大きさでした。普通、人は、こんなにも重大なことが、今まで気付かれずに来たなどとは思いませんから、ことの重大さをわかってもらうことが、なかなかできません。沼津教会の祈祷会に参加して下さっている皆さんには、このヨハネの福音書の新しい発見が、いったいどれくらい大きなものなのか、理解していただいているでしょうか。

 ヨハネの福音書は、1世紀の末頃に書かれたものと考えられています。それは、これまでに発見されたヨハネの福音書が記されたパピルスの断片の年代測定から、まず間違いのないことです。そのパピルスの断片の年代測定の結果は2世紀の初め頃ですから、どんなに遅くても2世紀の初めには書かれていたことは間違いなく、写本が伝わるのに要した期間などを考慮すると、1世紀の末が妥当であろうということになっています。マタイ・マルコ・ルカの福音書はヨハネよりも20~30年ぐらい前に書かれたと考えられます。
 そうやって1世紀の中頃から末に掛けて書かれた福音書や手紙類が集められて新約聖書が編纂されたのが2世紀以降で、キリスト教の教理が発展したのも2世紀以降のことです。三位一体論が唱えられたのも、私たちが告白している使徒信条ができたのも、2世紀以降のことです。そして、ここが大事なポイントですが、これらのキリスト教の教理は、ヨハネの福音書が本当はどんな書であるかが気付かれないままに発展しました。西方教会のキリスト教に大きな影響を及ぼしたアウグスティヌスは4世紀の後半から5世紀の前半に掛けての人ですが、アウグスティヌスのヨハネの福音書の講解説教を読むと、ヨハネの福音書の3つの時代が三重に重なった構造には全く気付いていません。ルターも気付いていませんし、20世紀の有名な聖書学者のバルトやブルトマンも気付いていません。21世紀になって書かれた注解書を読んでも、誰も気付いていません。
 いまキリスト教の教会は東方教会と西方教会に分かれており、西方教会はさらに、カトリックと聖公会、そしてプロテスタントなどに分かれています。プロテスタントはさらに多くの教派に分かれています。これらの枝分かれも、すべてヨハネの福音書が正しく理解されないままに為されたことです。ですから、もしヨハネの福音書が正しく理解されていたなら、分裂せずに済んだのかもしれません。なぜなら、東方教会と西方教会の分裂の主要な要因は、三位一体の教理の解釈の違いにあったからです。ヨハネの福音書の三重構造がわかると、三位一体の神のことが、これまでよりも、もっとずっと良くわかるようになります。ヨハネの福音書がどのような書であるかがわかったということは、それぐらい、とてつもなく重大なことです。

3.またいつか聞くことにしよう
 いま神様は私たちに、1世紀の末のヨハネの福音書が書かれた時代に立ち戻って、聖書をもう一回勉強し直しなさいとおっしゃっています。しかし、去年牧師になったばかりの私が先輩方にこんなことを言っても、聞いていただけるはずもありません。最初にお読みした、使徒の働き17章32節に、

 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。(使徒の働き17:32)

とあります。これは、パウロがアテネの人々に話をした時の、アテネの人々の反応です。私の場合は、幸いにして面と向かってあざ笑われたことはありませんが、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」という反応は、まさにその通りです。そして私の悩みが深いのは、そのような反応をするのがキリストを信じない人々ではなく、キリストを信じる人々であるから、というところにあります。
 しかし、幸いな面もあります。私のほうでも、どうしたら聞いていただくことができるか一生懸命に考えますから、それにつれて私のヨハネの福音書の理解もますます深まっています。もし簡単に聞いていただくことができていたなら、私はヨハネの福音書を今ほど理解できていなかったはずです。ですから、聞いていただけないことも悪いことばかりではありません。しかし、もうそろそろ聞いていただけると良いなあと思っているところです。

おわりに
 話を7/15の特伝に戻します。伝道会ですから、もちろん難しい話はできません。しかし、私たちは、とてつもない大きな贈り物を神様からいただいています。ですから、私は何とか、この贈り物が秘めた大きな力を用いることができたらと願っています。そして、この贈り物の力が、新会堂実現のために必要な教会の勢いを得ることと、上手く噛み合って、進めて行くことができたらと願っています。
 そのためには、どうしたら良いでしょうか。
 ここ何週間か、ずっと考えて来ていますが、きょう、このメッセージの時間に私の思い悩みを神様に告白しましたから、いったん白紙に戻して、神様にすべてをお委ねしたいと思います。もちろん、あまり悠長なことは言っていられませんから、できるだけ早くには決めたいと思います。その期限も含めて、いったん神様にお委ねして、祈り求めることができたらと思います。
 一言、お祈りいたしましょう。
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三つの時代を三度提示したヨハネのプロローグ

2013-06-06 05:20:47 | 祈り会メッセージ
2013年6月5日祈り会メッセージ
『三つの時代を三度提示したヨハネのプロローグ』
【ヨハネ1:1~18】

はじめに
 6月2日の礼拝の聖書交読では、このヨハネ1章1~18節のプロローグと呼ばれる箇所をご一緒に読みました。きょうのこの祈祷会のメッセージでは、このプロローグの部分がヨハネの福音書全体の中でどのような役割が与えられているかということを話したいと思います。
 このプロローグの部分は、ヨハネの福音書全体をこの短い部分で語っている、そのように感じている方は多いと思います。それは、その通りで間違いないと思います。しかし、単に全体をまとめているということにとどまらず、ここには私たちが思っている以上にもっと多くの情報が詰め込まれています。私自身もすべてを理解しているわけではありませんが、これまでにわかっていることをお話ししたいと思います。

1.三つの時代から一つの時代への滑らかな連結
 まず、このプロローグの部分はヨハネの福音書の全体の構造の縮図である、ということが言えます。ヨハネの福音書の全体がどのような構造になっているかは、これまでも説明して来ているように、まず1章から11章までは三つの時代が重ねられています。三つの時代とは、「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」の三つです。そして11章の終わりから12章に掛けて「イエスの時代」の一つの時代にまとまり、13章の最後の晩餐へと入って行き、イエス・キリストの受難へと続いて行きます。
 私は特に11章から12章に掛けて「旧約の時代」が「イエスの時代」に合流して行く連結部分が、読者にそのつなぎ目を感じさせずに滑らかにつながって行くことには、本当に感心しています。まず始めに、そこの所をご一緒に見てみようと思います。
 私は10章が好きですので、10章から説明させていただきますが、これまで何回も言っているように、ヨハネ10章1節の、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」というのは、「旧約の時代」にあってはエルサレムが滅亡する寸前の時代と重ねられていて、それは外国人の略奪隊、すなわち「カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊」(Ⅱ列王24:2)がエルサレムに攻め入った時のことです。そして、10章35節でイエスが「聖書は廃棄されるものではない」と言っているのは、エレミヤが語った主のことばが書かれた巻物を、エホヤキム王が暖炉の火で燃やしてしまったこと(エレミヤ36:23)と重ねられています。その後、エルサレムの人々は捕囚となってバビロンへ引かれて行ったため、ヨルダン川の東岸に移動します。そのことがヨハネ10章40節の、「イエスはヨルダンを渡って」で表されています。そして、11章でイエスは再びヨルダンを渡ってヨルダンの西側に戻ります。これはエルサレムの人々がバビロン捕囚を解かれてエルサレムに帰還したことと重ねられています。そして、ラザロのよみがえりはエズラ・ネヘミヤの時代の、エルサレムの神殿と城壁の再建のことです。
 ここまでが「旧約の時代」の出来事です。この後に「イエスの時代」へと連結部分を経て入って行くわけですが、その連結部分というのが、私は11章57節であると読んでいます。ヨハネ11章57節、
「さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」(ヨハネ11:57)
 このような文はマタイ・マルコ・ルカにはありませんから、ヨハネ独自の文です。私は、この文はイエスが生まれた時に、当時のヘロデ王がイエスを殺そうと探しまわったことと重ねていると考えています。ヘロデは幼子のイエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならない命令を出したはずです。しかし、結局見つからなかったので、2歳以下の男の子を全部殺してしまったのですね(マタイ2:16)。ヨハネ11:57は、そのことと重ねることで、ここでイエスが誕生したことを暗に示していると私は読んでいます。そうして12章では「イエスの時代」の一つだけの時代に収束しています。
 ヨハネのプロローグに戻ります。ヨハネのプロローグは、このヨハネの福音書の全体構造の縮小版でもあります。プロローグの1章1節から13節まででは、三つの時代が重ねられていることを示しています。そして、14節の、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」は、イエスが誕生したことを表していますから、ヨハネの福音書の11章の一番最後と、この1章14節は、ここで「イエスの時代」の一つに収束したことを示しています。

2.三度繰り返される三つの時代の存在の予告
 では次に、1章1節から13節までで、ヨハネが三つの時代の存在を提示しているということの説明をして行きます。私はこれまで、ヨハネの福音書には三つの時代が重ねられているということを、1章の19節以降で説明して来ました。しかし、実はそれ以前にもこのプロローグで、三つの時代が存在することをヨハネはちゃんと示していたのですね。
 ヨハネは1章1節から13節までで、三つの時代の存在を三度予告しています。一度目の予告は1章1節、二度目の予告は2節から8節までで、三度目の予告は9節から13節までに於いて、です。
 まず1章1節の、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と、「ことば」という単語を3回使うことで、ヨハネは三つの時代をこの書に重ねることを示し、しかも「ことば」であるイエス・キリストは、この三つの時代の全てに存在したことを示しています。この「ことば」はギリシャ語で「ロゴス」と言います。注解書を見ると、ギリシャ語の「ロゴス」は「理性」の意味も持ち合わせ、古代ギリシャ哲学では「世界万物を支配する理法・宇宙理性」をも示すという解説を良く目にします。確かに、そういう面もあるのかもしれませんが、私としては、そのようにギリシャ哲学に目を奪われてしまうことには、サタンの策略を感じます。この冒頭の1章1節でギリシャ哲学の方に目を向けてしまってヘブル語聖書、つまり旧約聖書の神のことばから目が離れてしまうなら、サタンの思うツボではないかと思います。私としては、ここは素直に、「ことば」はギリシャ哲学の「ロゴス」というよりは、単純に「神のことば」と理解して、イエス・キリストが「旧約の時代」にも「イエスの時代」にも「使徒の時代」にも存在して神のことばを人々に告げ知らせたのだと解釈すべきだと思います。
 そして1章2節から8節までで、また「三つの時代」が繰り返されます。2節の「この方は、初めに神とともにおられた」というのは、明らかに「旧約の時代」のことですね。続いて、3節の「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」。この3節は、「旧約の時代」のことを言いつつ、次第に次の「イエスの時代」へと徐々に移って行っています。なぜなら、「イエスの時代」の人々の命も、イエスが造ったものだからです。そして、4節の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」は、「旧約の時代」のことも残しつつも、ほぼ「イエスの時代」に移り、5節の、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」は、「イエスの時代」のことでしょう。そして次の6節の「神から遣わされたヨハネという人が現れた」は、「イエスの時代」と「使徒の時代」の両方が重ねられていると考えられます。この6節の「ヨハネ」は、バプテスマのヨハネと使徒ヨハネの両方のヨハネのことだと思います。7節の「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」というのも、バプテスマのヨハネと使徒ヨハネの両方についての説明だと思います。ただし、次の8節でわざわざ「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである」と書いているのは、この8節のヨハネは「使徒の時代」の使徒ヨハネのことだけであろうと私は考えます。こうして2節から8節までで、「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」の三つが存在することをヨハネは示しています。
 そしてさらに、9節から13節までで、もう一度、三つの時代が提示されています。9節の「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」というのは、「旧約の時代」ですね。続く10節の「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」は、「旧約の時代」と「イエスの時代」が混じり合っていると思います。次の11節「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」は、「イエスの時代」のことですね。そして12節の「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」は、「イエスの時代」を残しつつも、もう「使徒の時代」に移っていますね。そして13節の「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」というのは、「使徒の時代」に聖霊によって新しく生まれた人々のことを指します。
 このようにヨハネは、1章の1節から13節までで、三つの時代が存在することを三度も繰り返しています。ヨハネは三度繰り返すことで、この三つの時代は時間順に直列的につながって存在するのでなく、同時に並列的に並存しているのだということを示しているのだと思います。ヨハネはここまで入念に三つの時代が存在することを予告した上で、19節からの三つの時代を始めています。ちなみに19節の、「ヨハネの証言は、こうである」の「ヨハネ」は、「旧約の時代」のアブラハムと、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネと、「使徒の時代」の使徒ヨハネとが重ねられています。

3.霊的な目が曇らされていた私たち人類
 私は、1章のプロローグの1節から13節までで三つの時代を三度も繰り返すという、ヨハネがここまでしつこく説明していることを、かなり親切なことだと思っています。恐らくこれは、絶妙のサジ加減なのであろうと思います。親切に説明するのだったら、もっともっと親切に、丁寧に、「三つの時代を並べていますよ」と明白に分かる形で説明して欲しかったと思う方もいるかもしれません。しかし、あまりに丁寧に説明するなら、それは理性において理解することになってしまいます。ヨハネとしては、あくまで霊的に感じ取って欲しかったのだと思います。神の霊は理性では決して理解できるものではありません。神は霊ですから、霊性で感じるものです。ヨハネとしては、その理性と霊性の境い目のギリギリまでの大サービスで、親切に教えてくれているのだと、私は思います。
 では、この大サービスの説明を、2世紀以降、21世紀の現代に至るまでの1900年もの間、なぜ人類は気付くことができなかったのでしょうか。少し前まで私は、それは神が私たちの霊的な目を閉じていたからではないかと思っていました。しかし、どうもそうではなく、サタンの策略(Ⅱコリント2:11、エペソ6:11)が優れていたためのような気が、最近はしています。ヨハネも、ヨハネに霊感を与えた神さまも、ヨハネの福音書に三つの時代が重ねられていることを、隠す意図は無かったということが、この大サービスでわかると思います。ですから、人類はサタンの策略で霊的な目が曇らされて、三つの時代を霊的に感じることができなくなっていたのではないか、そんな気がします。
 サタンによって曇らされていた目が晴れて、私たちはヨハネの福音書1章の1節から13節までもわかるようになりました。そして、三つの時代を感じながら14節以降を読むなら、なお一層、三位一体の神のことをよく理解できるでしょう。14節、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」

 そして16節と17節、

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」

 この恵みの上にさらに恵みを受けたというのは、律法の恵みの上に聖霊の恵みを受けたということですね。

おわりに
 6月2日の礼拝の最後は、エレミヤ書31章で締めくくりました。そのエレミヤの箇所は、このヨハネ1章16節,17節とぴったりと重なります。ですから、ヨハネの福音書が大好きな私は、このエレミヤ31章の31節から34節も大好きです。しつこくて恐縮ですが、きょうもまたエレミヤ書31章の31節から34節までをご一緒に読んで、きょうの説教を閉じることにしたく思います。交代で読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 お祈りいたしましょう。
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ことばへの愛の応答(2013.6.2 礼拝)

2013-06-03 13:42:23 | 礼拝メッセージ
2013年6月2日礼拝メッセージ
『ことばへの愛の応答』
【詩篇119:1~16】

はじめに
 6月に入りました。今月は、会堂祈祷強化月間となっています。
 礼拝プログラムとしましては、特別礼拝は来週からで、今週は通常の礼拝ということになっています。しかし、私自身としては、きょうの礼拝は、会堂祈祷強化月間の中の特別な礼拝の一つとして位置付けていて、次の週から始まる特別礼拝に向けて心を整えるための礼拝であると考えています。
 先月までも、私たちは、新会堂実現のための祈りを捧げて来ました。また、来月の7月以降も、もちろん祈りを捧げ続けて行きます。しかし、今月は特に普段以上に意識をして、新会堂実現のための熱い祈りを捧げる私たちでありたいと思います。

1.神の愛への応答
 では、私たちには何故、会堂が必要なのでしょうか。それはもちろん、神様に礼拝を捧げるためですね。
 それでは、私たちは何故、神様に礼拝を捧げるのでしょうか。
 「なぜ私たちは神様に礼拝を捧げるのですか?」この質問に対する答え方は、一通りではなく、幾通りもあることでしょう。今月の教団の教報の神学院報の欄には、今年の授業風景の写真が出ていて、その写真の下には、「今年から始まった新しい科目『礼拝学』のクラスです」という説明書きが添えられています。生徒は二人だけの少し寂しい授業風景ですが、「礼拝学」という講義は私が在籍していた時にはありませんでしたから、とてもうらやましく感じます。きっと、この礼拝学の始めのほうで、私たちは何のために礼拝を捧げるのか、ということがきちんと整理された形で提示されるのでしょう。しかし、きっと先生は、その答を教える前に、生徒に対して、「私たちは何のために礼拝を捧げるでしょうか」と聞く気がします。私が先生だったら、そのように聞くだろうと思います。その先生の質問に対して、皆さんだったら、何と答えるでしょうか。
 もし私が今そのように質問されたなら、私は次のように答えたいと思います。
「それは、神様の私たちへの愛に、応答するためです」
これが私の答です。
「私たちが礼拝を捧げるのは、神様の私たちへの愛に応答するためです」
と私は答えたいと思います。
 神様は私たちを愛して下さっています。その神様の愛に私たちは力一杯応答したいと思います。
 ヨハネの福音書の21章には、イエス・キリストとペテロとのやり取りが記されています。この箇所は有名な箇所ですから、皆さんもご存知の方が多いと思いますが、イエスさまはペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と聞きました。それに対してペテロは、イエスさまに、こう答えました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
 「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
 私たちは、このことを形で示すために、礼拝を捧げます。4月の礼拝で私たちは、ダビデが神の箱の前で力の限り踊ったことを学びました。このダビデのように、私たちも神の愛に、力の限り応答できたらと思います。
 きょうの聖書の交読では、ヨハネの福音書1章のプロローグと呼ばれている箇所をご一緒に読みました。ヨハネの福音書のプロローグは、有名な書き出しの、

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

で始まります。そして、14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とヨハネの福音書は書いています。イエス・キリストはことばでした。神が人を造り、人に霊を吹き込んで命を与えて以来、神はみことばによって人に愛を伝えて来ました。神は主(おも)に、預言者たちを通じて、人々に神の愛を伝えて来ました。
 神様が私たちを愛して下さっている、ということがわかる最も直接的なみことばは、イザヤ書43章でしょうか。神様は、このようにおっしゃっています。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

 このみことばは、よく引用される、人気のあるみことばですね。神様は、このように私たちを愛して下さっています。旧約聖書には、このように「わたしはあなたを愛している」という直接的な表現を使う場面は、ほとんどありませんが、神様から人への熱心な語り掛けを読むと、いかに神様が私たちを愛してくださっているか、ということが、よく伝わってきます。そのように神様は、私たちにみことばによって熱心に語り掛けて下さり、私たちに愛を伝えて下さいました。

2.ことばへの愛の応答である詩篇119篇
 きょうの聖書箇所の詩篇119篇は、そのようなみことばに対する、人の側からの「愛の応答の詩」と呼ぶことができると思います。詩篇119篇の詩人は、みことばへの熱い愛を余すところなく、伝えています。
 詩篇119篇は全部で176節もある長大な詩篇ですが、節と節の間の空行の入り方を見ると、8節ずつが一つのグループになっていることが分かります。きょうの聖書箇所も8節と9節との間に空行が入っていて、1節から8節までと9節から16節までが、それぞれグループになっています。そして、そのグループは全部で22あります。8節×22グループで、全部で176節になります。
 日本語訳ではわかりませんが、もともとのヘブル語では1節から8節までは、全部、同じ文字で始まります。その文字は、ヘブル語のアルファベットの最初の文字のアレフです。そして9節から16節までは、全部、ヘブル語の2番目の文字のベートで始まります。そしてへブル文字は全部で22文字ありますから、22のグループというのは、へブル文字の数に相当します。
 英語のアルファベットはaからzまで26文字あります。ギリシャ語はアルファからオメガまで24文字です。ギリシャ語の1番目の文字をアルファ、2番目をベータと言いますから、アルファ・ベータでアルファベットです。ですからヘブル語のアルファベットをアレフベートと呼んだりもします。
 詩篇119篇はアレフベート22文字のそれぞれの文字を最初に持って来た8節を、1つのグループにした構成になっています。このことだけで、この詩篇119篇の詩人が、いかに、ことばを愛していたか、ということが良くわかると思います。
 このように、詩篇119篇は一つの文字を頭にした節が8節ずつあるという技巧を使ってことばへの愛を表現していますし、また「ことば」という単語も、この詩の中では数多く使われています。例えば、きょうの聖書箇所の1節から16節までうちの後半の9節から16節までの間に、3回、「ことば」という単語が使われています。9節に、
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたの【ことば】に従ってそれを守ることです。」

とあります。また、11節に、
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたの【ことば】を心にたくわえました。」

とあります。そして、16節に、
「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたの【ことば】を忘れません。」

 このようにして、119篇の詩人は9節から16節で、【ことば】への愛を表現しています。一方、1節から8節までには【ことば】という単語は見当たりません。ここには【ことば】という単語に代わる別の単語が使われています。それらは、【みおしえ】、【さとし】、【戒め】、【おきて】、【仰せ】、です。1節は、
「幸いなことよ。全き道を行く人々、【主】の【みおしえ】によって歩む人々。」

の【みおしえ】がそうですね。2節は、
「幸いなことよ。主の【さとし】を守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」

の【さとし】がそうです。3節は無くて、4節の、
「あなたは堅く守るべき【戒め】を仰せつけられた。」

の【戒め】、5節は、
「どうか、私の道を堅くしてください。あなたの【おきて】を守るように。」

の【おきて】、そして6節の、
「そうすれば、私はあなたのすべての【仰せ】を見ても恥じることがないでしょう」

の【仰せ】ですね。8節には、もう1回、【おきて】が出て来ます。また、先ほどは見ませんでしたが、10節にも【仰せ】があり、12節には【おきて】、14節には【さとし】、15節には、【戒め】、そして16節にはまた、【おきて】が使われています。

 これらの【みおしえ】、【さとし】、【戒め】、【おきて】、【仰せ】からわかることは、【ことば】というのは、実は律法のことなのですね。119篇の詩人は、律法のことばに対して愛の応答をしています。律法は神がご自身の民を愛しているがゆえに与えたものであり、詩篇119篇の詩人は、その神の愛に応答しています。

3.律法は神の愛の表現
 律法は神様の側からの、ご自身の民への愛の表現である、ということが分かると、聖書を、より豊かに理解することができるようになります。律法は、人を縛るために与えられたものでなく、神様が人を愛しているがゆえに、人の心が神から離れてしまうことがないように、神様が人に与えて下さったものです。
 このことを、神様は私に、不思議な聖霊体験を通じて教えて下さいました。この聖霊体験のお証しは、祈祷会では既にさせていただいたものですが、この礼拝でもさせていただきます。それは、ちょうど2年前の6月のことでした。当時、私は神学生の4年生で、インターン実習生として姫路教会に滞在していました。この時、姫路教会の主任牧師は竿代信和先生でしたが、竿代先生のご自宅は神戸にあって、先生は日曜日にだけ姫路教会に通って来ておられました。ですから私は一人で姫路教会に滞在していました。この時の私の朝の過ごし方は、だいたい朝食の前の1時間半ほどを、祈りと聖書通読とディボーションのために使う、というものでした。
 さて2年前の6月17日の金曜日の朝でした。私はひとしきりお祈りをした後で、その日の聖書通読の箇所を開きました。その日はレビ記の1章から10章あたりまでを読むことにしていました。当時はだいたい1日に10章ほど読むことを日課にしていましたから、そのつもりでいました。すると、レビ記の1章を読み始めてまもなく、涙がボロボロと出始めて、止まらなくなりました。
 私は神学生の4年生でしたから、それまでにレビ記はもう何度も繰り返し読んでいました。しかし、こんなことは初めてでした。というより、それまでの私にとって、レビ記は全く苦手な書でした。実は私は神学院を受験するために聖書を一生懸命読み始めるまでは、聖書の通読に一度も成功したことがありませんでした。それは、いつもレビ記で挫折してしまっていたからです。
 私は高津教会の一般信徒であった時に、2回ほど聖書通読に挑戦したことがありましたが、2回ともレビ記で挫折してしまっていました。創世記の1章1節から始める聖書通読では、出エジプト記のモーセの十戒の辺りまでは、物語風ですから、面白く読めますね。しかし、出エジプト記の後半の幕屋の作り方の箇所に入ると、「~しなければならない」、「~しなければならない」という文章の連続になります。しかも、幕屋の各パーツの寸法をこと細かく指示するだけの文章ですから、極めて退屈です。そうして、幕屋の作り方の退屈な話が終わってホッとしたのも束の間、レビ記に入ると、今度はいけにえの捧げ方の細かい説明という、現代の私たちとはほとんど何の関係もない儀式の細かい規定がくどくどと続いて、もうそれ以上、ページをめくる気力がなくなってしまうんですね。特に神学院に入る前の私は、自由を愛する人間でしたから、「~しなければならない」のオンパレードには、本当にウンザリしました。
 神学院の受験のために聖書を通読した時は、さすがに途中で挫折するわけにはいきませんでしたから、レビ記も何とか我慢して読みましたが、ほとんど頭の中には入って来ず、ただ機械的に目が字の上をなぞり、機械的にページをめくるだけでした。ただ、そんな私でしたが、神学院に入ってレビ記の授業を受けてからはレビ記の重要性がだいぶわかるようにはなりました。それでも、やはり好きな書ではありませんでした。
 私にとってレビ記とは、そのような書でした。しかし、2年前の6月17日の朝に不思議なことが起こり、この時から突然のように、私は律法のみことばから、天の父の愛を感じることができるようになりました。そして、天の父の大きくて深い愛に感動したことと、私がそれまでは天の父の愛を少しも理解していなかった申し訳なさから、涙がボロボロと出て来て、止まらなくなりました。それで、その日はレビ記1章の途中までしか読むことができませんでした。それまでの私は、レビ記とは退屈な書であると思っていたのですから、これは明らかに聖霊の働きによるものでした。この不思議な聖霊体験により、私は律法に込められた神の愛がわかるようになりました。
 律法は、神がご自身の民を愛しているがゆえに、まだ信仰が幼いイスラエルの民の心が神から離れないように、与えたものです。ですから、それは私たちの身近な例で言えば、親が子に門限などの規則を与えるようなものだと思えば良いでしょう。まだ一人前になる前の子どもは判断力が十分ではありませんから、親が子に門限などの規則を与えて、子供を危険から守ります。それは、親が子を愛しているからです。モーセの時代、イスラエルの民の信仰はまだ幼いものでした。ですから、神は愛するご自身の民のために律法を与えたのでした。律法のみことばが出エジプト記から始まってレビ記、民数記と延々と続き、そして申命記でまた繰り返されるのは、神様がそれだけご自身の民を愛しておられるからです。

4.ことばを愛することはイエスを愛すること
 詩篇119篇は、その神様の愛への応答の詩です。詩篇119篇の詩人は、神を愛し、神のみことばを愛していました。それは、すなわち詩人は、私たちの主イエス・キリストを愛していた、ということです。なぜなら、イエス・キリストはことばだからです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1,14)とヨハネが書いた通り、イエス・キリストはことばでした。
 イエス・キリストがペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と聞いた時、ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。詩篇119篇の詩人の応答は、このペテロの返答と同じと言ってよいでしょう。
 ペテロは主イエスを愛していました。それなのに、イエスがゲッセマネの園で逮捕されると逃げ出してしまい、その後、大祭司の家の庭では、鶏が鳴くまでに三度、イエスのことを「知らない」と言ってしまいました。ペテロは自分の心が主イエスから離れてしまうことなど、考えてもいませんでした。それなのに、イエスを知らないと三度も言ってしまいました。
 詩篇119篇の詩人も、神のみことばへの愛を熱烈に歌っています。しかし、この詩人といえども、時に神から離れてしまうこともあったのではないでしょうか。それゆえ5節、8節のように、主に頼んでいるのではないでしょうか。5節、
「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。」
8節、
「私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。」

 しかし私たち人間は弱いですから、どんなにそう願っていても、いつの間にか神から心が離れてしまうことがあります。そして、気付いた時には神様から大きく離れている、ということにもなりかねません。それゆえ、神様はそんな私たちのために、イエス・キリストを送って下さり、その後に聖霊を遣わしてくださり、私たちの心に、律法を書きしるして下さいました。エレミヤ書31章に書いてある通りです。前にも、このエレミヤ31章を開いたと思いますが、きょうもこのエレミヤ書をご一緒に読んで終わりたく思います。エレミヤ書31章の31節から34節までを交代で読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

おわりに
 私たちが神様を礼拝するのは、この神様の大きな愛に応答するためです。このようにおっしゃって下さる神様の御名を崇め、ダビデのように力の限り応答するためです。その礼拝のための場として私たちは新会堂を祈り求めています。この古くなった会堂に代わる、新しい会堂を祈り求めています。私たちは新しい会堂で神様の愛のみことばに応答したいと願っています。私たちが、熱心に祈り求めるなら、神様は必ずや、私たちの祈りに応えて下さることでしょう。
 そのために、一言、お祈りいたしましょう。
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