平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

「我に返る」ことができる幸い

2024-03-15 05:39:29 | 折々のつぶやき
 このブログでは今月(2024年3月)から、「水蒸気」を使って「聖霊」を理解することを試み始めています。私たちを取り巻く空気中には大量の水蒸気が含まれています。それは氷を入れたコップの表面に水滴が付くことや、上空に昇った水蒸気が雲を作って大雨を降らせることからも分かります。しかし、普段の生活の中で私たちは水蒸気の存在にほとんど気付いていません。同様に、すぐ近くにいる聖霊の存在にも気付いていません。それでも聖霊は、いつも私たちの心のドアをノックしています。

黙示録3:20 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 私たちは、このノックの音にもなかなか気付かずにいます。それでも聖霊は粘り強くドアをノックし続けますから、やがて気付くことができます。このことを聖書では「我に返る」(申命記30:1、Ⅰ列王8:47、Ⅱ歴代6:37、ルカ15:17)という表現で表しています。たとえば「放蕩息子の帰郷」の物語で有名なルカ15章では、イエスが次のように言っています。

ルカ15:17 「しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。』」

 そうして、放蕩息子は父親の家に帰って行きました。

ルカ15:20 「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」



 このルカ15章でイエスは、羊と銀貨のたとえ話も「放蕩息子の帰郷」の前にしています。

ルカ15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 羊も銀貨も捜した人によって見つけられ、元の場所に戻りました。しかし放蕩息子の場合、父親は捜しには行かずに家で待っていました。羊・銀貨と放蕩息子とでは何が違うのでしょうか?それは羊・銀貨は「我に返る」ことができないけれど、放蕩息子は「我に返る」ことができる、という違いがあるのではないでしょうか。聖霊による心のドアへのノックに反応して「我に返る」ことができるのは放蕩息子だけです。羊も銀貨も「我に返る」ことはできないでしょう。

 そうして我に返って心のドアを開けるなら、神が内に入って来て下さいます。ヨハネの手紙第一はこのことを次のように表現しています。

Ⅰヨハネ4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 聖霊は水蒸気のようにいつも私たちと共にいますから、私たちは神の内にいます。そして、心のドアを開けて神を内に迎え入れるなら、神は私たちの内にとどまって下さいます。神は私たちの内にも外にもおられます。そうして私たちは聖霊に満たされます。

 私たちの体の約8割は水分だそうですから、水蒸気に囲まれている私たちは内も外も水分で満たされています。同様に、内にも外にも聖霊がいるのが私たちの本来のあるべき姿です。私たちの内に聖霊がいないなら前々回の記事で引用したエゼキエル37章の「干からびた骨」になってしまいます。

エゼキエル37:1 主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
2 主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
3 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。
5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」

 羊や銀貨と違って私たちには「我に返る」幸いが与えられていますから、心のドアを開けて神を内に迎え入れたいと思います。
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