2022年8月28日礼拝メッセージ
『人知を超えたキリストの愛の泉の平和』
【ヨハネ4:7~15】
はじめに
8月24日はロシアがウクライナに侵攻してから半年であることをテレビや新聞が報じていました。そして、この戦争がすぐには終わりにくい状況にあるという解説などもされていました。この24日の前日の23日の晩に私は、ふと「そうだ 広島、行こう」という思いが与えられたので24日と25日の両日、広島の平和記念公園と、その中にある原爆資料館に3年ぶりで行って来ました。
この原爆資料館の玄関ロビーには「平和のキャラバン」(平山郁夫・作)の絵を大きく引き延ばしたタイル画が掛かっています。縦4.8メートル×横6メートルの非常に大きな絵で、ここには約8万個のタイルがはめ込まれています。一つ一つのタイルは2cm弱の小さな正方形のタイルで、それぞれに名前が刻まれています。私の「S.KOJIMA」という名前のタイルもこの中にあります。このタイル画が造られた1985年に確か1300円ぐらい?で購入して名前を刻んでもらって、はめ込まれました。
ですから、原爆資料館には1980年代の半ば以降から自分の名前を刻んだタイルがずっとあって、自分の分身がここにあるような気がしています。それで広島の平和公園に行ったら必ず原爆資料館へも行って自分のタイルを見ます。左右の真ん中の大人の目の高さの所にありますから、とても見つけやすいです(左の写真の点線の交点)。そうして「私を平和のために用いて下さい」と祈りながら、展示資料を見て回り、見た後は平和公園のベンチに座って、また「私を平和のために用いて下さい」と祈ります。
しかし、今回は違いました。展示してある原爆被害の悲惨な状況が今のウクライナの状況と重なり、自分が平和のためにぜんぜん働けていないことを申し訳なく、また情けなく思い、神様と被爆者に「申し訳ありません」と謝りながら、展示資料を見て回りました。多くの人の心に深い平安が与えられるなら、世界は必ず平和へと向かって行くはずです。神様はそのために私にヨハネの福音書の奥義を教えて下さり、この奥義を平和のために用いるようにと励まして下さっています。しかし私の力不足のために、その奥義をぜんぜん伝えることができていません。そればかりか、むしろ逆効果になっています。このことを皆さんに申し訳なく思うと共に、神様に申し訳なく思っています。また、被爆者の方々と今もウクライナなどで戦災に苦しんでいる方々に申し訳なく思います。
そして広島から戻り、改めて神様から私に託されているヨハネの福音書の奥義を皆さんにお伝えするように促されました。皆さんのお一人お一人の心に深い平安が与えられることを願い、そしてやがては多くの方々の心に平安が与えられることを願い、きょうのメッセージを取り次がせていただきます。きょうの聖書の中心聖句はヨハネ4章14節です。
イエス様は「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます」とおっしゃいました。きょうはこれからいろいろな話をしますが、細かいことは分からなくても大丈夫です。分かち合いたいことは「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とかの無限の時間を生きるということではない、ということです。「永遠」とは人間が慣れ親しんでいる時間の流れとは関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。そうして多くの方々がこの深い平安を得るなら、この世は少しずつ平和な方向へと向かって行くでしょう。
きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。
①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉
①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
まず、古い映画ですが、山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977)について考察します。その後で本題のヨハネの福音書の奥義に入って行きたいと思います。『幸福の黄色いハンカチ』を例として取り上げるのは、多くの人がこの映画のことをご存知だと思うからです。まずは多くの皆さんが知っている映画の話から入って、ヨハネの福音書の奥義へとつなげて行きたいと思います。
この映画のことは、たぶん昭和生まれであれば、ほとんどの方が知っているのではないかと思いますが、平成生まれだと知らない方もいると思いますから、簡単に説明します。映画の中の役名より俳優さんの名前のほうが分りやすいと思いますから、俳優名で説明します。
この映画の主な登場人物は高倉健とその妻の倍賞千恵子、そして当時は若者だった武田鉄矢、桃井かおりです。あらすじを思い切り簡単に言えば、この映画は殺人の罪を犯して網走の刑務所に入った高倉健の服役前と服役後の物語です。
つまり、時間順で書けば(1)の
服役前 → 服役後 (1)
という順番になっています。でも、この映画は、このような単純な時間の流れにはなっていません。刑務所を出た服役後の高倉健が、偶然出会った武田鉄矢と桃井かおりと同じ車に乗って旅をする中で、少しずつ自分の過去を二人に語るという構成になっています。つまり、この映画は(2)のような重なりになっています。
服役後
服役前 (2)
この映画は高倉健に関して言えば彼の「服役後」から始まって「服役前」と「服役後」の間を行ったり来たりしますから、(2)のような重なりになっています。
さてここで、(1)ではあまりに単純過ぎるので、もう少し膨らませて(3)のようにします。
妻との幸せな日々 → 殺人の罪・服役 → 若者の励まし → 不安 (3)
この(3)は高倉健の人生を時間順に並べたものです。服役前の彼は妻となる女性の賠償千恵子と夕張のスーパーで出会い、結婚して幸せな日々を送っていました。しかし、妊娠した妻が流産してしまいました。そのことでヤケ酒を飲んだ挙句に殺人の罪を犯してしまいました。そうして、服役中に離婚しましたが、刑期を終えて出所した彼は夕張の彼女あてに葉書を出します。もしまだ一人でいて、自分を待っていてくれるなら、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチを目印としてぶら下げておいてほしい、というものでした。でも葉書を出したものの、彼の心の中には不安しかありませんでした。武田鉄矢と桃井かおりの二人の若者に励まされて夕張に向かいはしますが、彼はずっと不安に支配されていました。
一方、映画を観ている観客は違います。そもそも映画のタイトルが『幸福の黄色いハンカチ』ですから、最後には高倉健が幸福になると分かった上で観ています。神様の目で映画を観ていると言っても良いかもしれません。人間は服役後と服役前を行ったり来たりはできませんが、神様はできます。そして、映画も神様のように自由に時間の中を行ったり来たりできます。そうして、(4)のような重なりの上に幸福が生まれる様子が分かります。現実の中を生きている高倉健は分かりませんが、映画の観客は高い位置から見ているので、それが分かります。
この(4)では「妻との幸せな日々」が土台として、しっかりとあります。「殺人」という大きな罪は犯しましたが、「幸せな日々」が土台にあり、夕張への旅では武田鉄矢と桃井かおりの「若者の励まし」があって、これらの上に幸福が生まれます。
一方、高倉健は(3)の時間の流れの中にいます。この流れの中では「殺人の罪」があまりにも大きくて「妻との幸せな日々」が遠い過去のことになってしまっています。これでは夕張への旅で武田鉄矢と桃井かおりがどんなに熱心に励ましても幸福は見えて来ません。不安だけが高倉健を支配していました。でも映画を観ている観客は違います。ハッピーエンドの映画と分かっていますから、スクリーンの中の高倉健がどんなに不安な表情をしていても、観客は不安に陥ることはなく、むしろ彼に「大丈夫だよ」と声を掛けて励ましたくなります。イエス様が弱い人々を励ますように、高倉健を励ましたくなります。
そして、聖書にも『幸福の黄色いハンカチ』のような重なりがあることを教えているのがヨハネの福音書です。これがヨハネの福音書の奥義です。この重なりを見ながら聖書を読むなら読者は神様の領域に入れていただくことができますから、深い平安を得ることができます。こうして聖書から深い平安を得る読者が増えて行くなら、世界は平和な方向に向かうでしょう。
②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
世界には聖書の読者がたくさんいます。特にひと昔前までの欧米諸国では国民の大半がクリスチャンであり、教会と家庭で聖書が読まれていました。それなのに世界に平和はなく、戦争が絶えることなく繰り返されて来ました。それは聖書の読者の多くが真の心の平安を得ていないからでしょう。心に平安がないから争い事を起こします。そうして悪くすると戦争へと発展します。相手から攻撃を受けるのではないかと不安になり、その不安から先制攻撃を仕掛けて戦争が始まります。
ですから、もし多くの人がヨハネの福音書の奥義を知って心の深い平安を得るなら、世界は少しずつ平和な方向へ向かい始めるはずです。そういうわけで、ヨハネの福音書とは、ものすごく大きな可能性を秘めた書です。この2番目のパートでは、このヨハネの福音書の奥義である重なりを、1番目の『幸福の黄色いハンカチ』を参照しながら、説明したいと思います。
まず、(5)を見て下さい。
天の父のことば → 子の降誕・十字架・復活 → 聖霊の励まし → 不安・争い (5)
この(5)は聖書の時代に起きたことを左から順に書いたものです。そして現代の私たちも、この時間の流れの中を生きています。まず《旧約の時代》に天の父のことばが預言者を通して語られました。そして次に御子のイエス様が天から降誕して十字架で死んで復活しました。その後、ペンテコステの日以降に弟子たちと私たちに聖霊が注がれるようになり、私たちは聖霊に励まされながら、日々を生きています。私たちは正にこのような時間の流れの中を生きています。しかし、この時間の流れの中にいる限り私たちには常に明日への不安がつきまとい、その不安が争いなどを引き起こします。
どうして、このような時間の流れの中にいると不安から抜け出せないのでしょうか?それは(3)の『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健が抱えていた不安がとても参考になります。服役を終えて出所した彼は、できることなら元妻の賠償千恵子と暮らしたいと思っていました。しかし、彼の犯した殺人の罪があまりに大きく、それが昔の妻との幸せな日々を遠い過去のことにしてしまっていて、不安に支配されていました。そうして、若者の励ましによっても、励まされることはほとんどありませんでした。殺人の罪があまりに大きくて過去の幸せな日々が見えなくなっていましたから、その幸せを回復できる希望が全く見出せませんでした。
そして(5)の場合には、御子イエス様の降誕・十字架・復活の恵みがあまりに大きいために、《旧約の時代》が遠い過去のことになってしまっていて、天の父のことばが聴こえづらくなってしまっています。イエス様の恵みがあまりに大きいので、旧約聖書の父は怒ってばかりいるようにも感じられます。だから旧約聖書はあまり恵まれないと考えるクリスチャンも少なくないのではないでしょうか。神学生になる前の私はそんな感じでした。旧約聖書は恵まれないとまでは考えなくても、イエス様の恵みが大きすぎて、その分、天の父の深い愛が見えづらくなっていることは否めないのではないでしょうか。
でも(4)の『幸福の黄色いハンカチ』では「妻との幸せな日々」が土台にあり、この土台があったからこそ幸せを回復できたのと同じで、聖書においても「天の父のことば」が土台にあることが非常に重要です。「天の父のことば」が土台としてあるからこそ、私たちは天の父との関係をイエス様の十字架によって回復して、深い平安を得ることができます。それを表しているのが(6)です。
(6)では「天の父と子のことば」としてありますが、それはイエス様が「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃっているからです。そして、「天の父と子のことば」が土台にあることで、「聖霊の励まし」も(5)の場合よりもよく聴こえます。こうして、父・子・聖霊の神の重なりによって私たちは神の領域に入れていただくことができて、深い平安をいただくことができます。
私たちは『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健のように、毎日を不安の中で生きてしまっています。でも映画を観る観客のように、時間の流れから自由になるなら神様の領域に入れていただくことができて、心の深い平安を得ることができます。それを教えてくれているのがヨハネの福音書です。たとえばヨハネ2章の前半は、表面上はアンダーラインで示したように「カナの婚礼」のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の「出エジプト」と《新約の時代》の「ガリラヤ人への聖霊の注ぎ」の場面が透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。
また、ヨハネ3章の前半には、表面上はアンダーラインで示したようにイエス様とニコデモとの会話ですが、ここからは《旧約の時代》の「モーセの律法の授与」と《新約の時代》の「ユダヤ人への聖霊の注ぎ」が透けて見えています。
そしてヨハネ4章には、表面上はサマリアでのイエス様のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の預言者エリヤと《新約の時代》のサマリア人への聖霊の注ぎが透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。
③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉
きょうの中心聖句のヨハネ4:14をお読みします。イエス様はおっしゃいました。
きょうの説教の最初にも言いましたが、「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とか無限の時間を生きることではありません。「永遠」は人間が慣れ親しんでいる時間の流れとはぜんぜん関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、その人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。
その、人知を超えた「永遠」とはこういうことではないか?という一端を示しているのが、『幸福の黄色いハンカチ』とヨハネの福音書で見た重なりです。「永遠」とは、この重なりの方向であるとも言えるでしょう。この重なりの方向は、左から右へ流れる時間の方向に縛られずに、自由になっています。映画の中の高倉健はこの流れに縛られていますが、観客の私たちは自由です。イエス様も自由に《旧約の時代》と《新約の時代》を行き巡ります。時には《旧約の時代》と《新約の時代》に同時にいます。これは正に人知を超えたことであり、これがイエス様がおられる「永遠」です。そうして私たちも、イエス様が与えて下さる水を飲むなら、その「永遠」の一端が分かるようになります。「永遠」は人知を超えた神様の領域の中にあり、その領域のほんの一端でも分かるなら、私たちは深い平安を得ることができます。それは人知を超えたキリストの愛を知ることでもあります。
キリストの愛というと私たちは「十字架の愛」を思い浮かべますが、キリストの愛は「十字架の愛」だけでなく、聖霊の励ましもキリストの愛であり、天の父の愛もキリストの愛でしょう。パウロは、このキリストの愛を私たちが知ることができますようにと天の父に祈っています。エペソ人への手紙3章の16節から19節までをお読みします。
パウロは19節で私たちが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますように」と祈りました。このことは、イエス様が与えて下さる水を飲むことで実現します。イエス様が与える水は、飲む人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。そうして、神の満ちあふれる豊かさに満たされるなら、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになります。
そのような者へと変えていただくことができますように、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
『人知を超えたキリストの愛の泉の平和』
【ヨハネ4:7~15】
はじめに
8月24日はロシアがウクライナに侵攻してから半年であることをテレビや新聞が報じていました。そして、この戦争がすぐには終わりにくい状況にあるという解説などもされていました。この24日の前日の23日の晩に私は、ふと「そうだ 広島、行こう」という思いが与えられたので24日と25日の両日、広島の平和記念公園と、その中にある原爆資料館に3年ぶりで行って来ました。
この原爆資料館の玄関ロビーには「平和のキャラバン」(平山郁夫・作)の絵を大きく引き延ばしたタイル画が掛かっています。縦4.8メートル×横6メートルの非常に大きな絵で、ここには約8万個のタイルがはめ込まれています。一つ一つのタイルは2cm弱の小さな正方形のタイルで、それぞれに名前が刻まれています。私の「S.KOJIMA」という名前のタイルもこの中にあります。このタイル画が造られた1985年に確か1300円ぐらい?で購入して名前を刻んでもらって、はめ込まれました。
ですから、原爆資料館には1980年代の半ば以降から自分の名前を刻んだタイルがずっとあって、自分の分身がここにあるような気がしています。それで広島の平和公園に行ったら必ず原爆資料館へも行って自分のタイルを見ます。左右の真ん中の大人の目の高さの所にありますから、とても見つけやすいです(左の写真の点線の交点)。そうして「私を平和のために用いて下さい」と祈りながら、展示資料を見て回り、見た後は平和公園のベンチに座って、また「私を平和のために用いて下さい」と祈ります。
しかし、今回は違いました。展示してある原爆被害の悲惨な状況が今のウクライナの状況と重なり、自分が平和のためにぜんぜん働けていないことを申し訳なく、また情けなく思い、神様と被爆者に「申し訳ありません」と謝りながら、展示資料を見て回りました。多くの人の心に深い平安が与えられるなら、世界は必ず平和へと向かって行くはずです。神様はそのために私にヨハネの福音書の奥義を教えて下さり、この奥義を平和のために用いるようにと励まして下さっています。しかし私の力不足のために、その奥義をぜんぜん伝えることができていません。そればかりか、むしろ逆効果になっています。このことを皆さんに申し訳なく思うと共に、神様に申し訳なく思っています。また、被爆者の方々と今もウクライナなどで戦災に苦しんでいる方々に申し訳なく思います。
そして広島から戻り、改めて神様から私に託されているヨハネの福音書の奥義を皆さんにお伝えするように促されました。皆さんのお一人お一人の心に深い平安が与えられることを願い、そしてやがては多くの方々の心に平安が与えられることを願い、きょうのメッセージを取り次がせていただきます。きょうの聖書の中心聖句はヨハネ4章14節です。
ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
イエス様は「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます」とおっしゃいました。きょうはこれからいろいろな話をしますが、細かいことは分からなくても大丈夫です。分かち合いたいことは「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とかの無限の時間を生きるということではない、ということです。「永遠」とは人間が慣れ親しんでいる時間の流れとは関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。そうして多くの方々がこの深い平安を得るなら、この世は少しずつ平和な方向へと向かって行くでしょう。
きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。
①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉
①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
まず、古い映画ですが、山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977)について考察します。その後で本題のヨハネの福音書の奥義に入って行きたいと思います。『幸福の黄色いハンカチ』を例として取り上げるのは、多くの人がこの映画のことをご存知だと思うからです。まずは多くの皆さんが知っている映画の話から入って、ヨハネの福音書の奥義へとつなげて行きたいと思います。
この映画のことは、たぶん昭和生まれであれば、ほとんどの方が知っているのではないかと思いますが、平成生まれだと知らない方もいると思いますから、簡単に説明します。映画の中の役名より俳優さんの名前のほうが分りやすいと思いますから、俳優名で説明します。
この映画の主な登場人物は高倉健とその妻の倍賞千恵子、そして当時は若者だった武田鉄矢、桃井かおりです。あらすじを思い切り簡単に言えば、この映画は殺人の罪を犯して網走の刑務所に入った高倉健の服役前と服役後の物語です。
つまり、時間順で書けば(1)の
服役前 → 服役後 (1)
という順番になっています。でも、この映画は、このような単純な時間の流れにはなっていません。刑務所を出た服役後の高倉健が、偶然出会った武田鉄矢と桃井かおりと同じ車に乗って旅をする中で、少しずつ自分の過去を二人に語るという構成になっています。つまり、この映画は(2)のような重なりになっています。
服役後
服役前 (2)
この映画は高倉健に関して言えば彼の「服役後」から始まって「服役前」と「服役後」の間を行ったり来たりしますから、(2)のような重なりになっています。
さてここで、(1)ではあまりに単純過ぎるので、もう少し膨らませて(3)のようにします。
妻との幸せな日々 → 殺人の罪・服役 → 若者の励まし → 不安 (3)
この(3)は高倉健の人生を時間順に並べたものです。服役前の彼は妻となる女性の賠償千恵子と夕張のスーパーで出会い、結婚して幸せな日々を送っていました。しかし、妊娠した妻が流産してしまいました。そのことでヤケ酒を飲んだ挙句に殺人の罪を犯してしまいました。そうして、服役中に離婚しましたが、刑期を終えて出所した彼は夕張の彼女あてに葉書を出します。もしまだ一人でいて、自分を待っていてくれるなら、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチを目印としてぶら下げておいてほしい、というものでした。でも葉書を出したものの、彼の心の中には不安しかありませんでした。武田鉄矢と桃井かおりの二人の若者に励まされて夕張に向かいはしますが、彼はずっと不安に支配されていました。
一方、映画を観ている観客は違います。そもそも映画のタイトルが『幸福の黄色いハンカチ』ですから、最後には高倉健が幸福になると分かった上で観ています。神様の目で映画を観ていると言っても良いかもしれません。人間は服役後と服役前を行ったり来たりはできませんが、神様はできます。そして、映画も神様のように自由に時間の中を行ったり来たりできます。そうして、(4)のような重なりの上に幸福が生まれる様子が分かります。現実の中を生きている高倉健は分かりませんが、映画の観客は高い位置から見ているので、それが分かります。
この(4)では「妻との幸せな日々」が土台として、しっかりとあります。「殺人」という大きな罪は犯しましたが、「幸せな日々」が土台にあり、夕張への旅では武田鉄矢と桃井かおりの「若者の励まし」があって、これらの上に幸福が生まれます。
一方、高倉健は(3)の時間の流れの中にいます。この流れの中では「殺人の罪」があまりにも大きくて「妻との幸せな日々」が遠い過去のことになってしまっています。これでは夕張への旅で武田鉄矢と桃井かおりがどんなに熱心に励ましても幸福は見えて来ません。不安だけが高倉健を支配していました。でも映画を観ている観客は違います。ハッピーエンドの映画と分かっていますから、スクリーンの中の高倉健がどんなに不安な表情をしていても、観客は不安に陥ることはなく、むしろ彼に「大丈夫だよ」と声を掛けて励ましたくなります。イエス様が弱い人々を励ますように、高倉健を励ましたくなります。
そして、聖書にも『幸福の黄色いハンカチ』のような重なりがあることを教えているのがヨハネの福音書です。これがヨハネの福音書の奥義です。この重なりを見ながら聖書を読むなら読者は神様の領域に入れていただくことができますから、深い平安を得ることができます。こうして聖書から深い平安を得る読者が増えて行くなら、世界は平和な方向に向かうでしょう。
②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
世界には聖書の読者がたくさんいます。特にひと昔前までの欧米諸国では国民の大半がクリスチャンであり、教会と家庭で聖書が読まれていました。それなのに世界に平和はなく、戦争が絶えることなく繰り返されて来ました。それは聖書の読者の多くが真の心の平安を得ていないからでしょう。心に平安がないから争い事を起こします。そうして悪くすると戦争へと発展します。相手から攻撃を受けるのではないかと不安になり、その不安から先制攻撃を仕掛けて戦争が始まります。
ですから、もし多くの人がヨハネの福音書の奥義を知って心の深い平安を得るなら、世界は少しずつ平和な方向へ向かい始めるはずです。そういうわけで、ヨハネの福音書とは、ものすごく大きな可能性を秘めた書です。この2番目のパートでは、このヨハネの福音書の奥義である重なりを、1番目の『幸福の黄色いハンカチ』を参照しながら、説明したいと思います。
まず、(5)を見て下さい。
天の父のことば → 子の降誕・十字架・復活 → 聖霊の励まし → 不安・争い (5)
この(5)は聖書の時代に起きたことを左から順に書いたものです。そして現代の私たちも、この時間の流れの中を生きています。まず《旧約の時代》に天の父のことばが預言者を通して語られました。そして次に御子のイエス様が天から降誕して十字架で死んで復活しました。その後、ペンテコステの日以降に弟子たちと私たちに聖霊が注がれるようになり、私たちは聖霊に励まされながら、日々を生きています。私たちは正にこのような時間の流れの中を生きています。しかし、この時間の流れの中にいる限り私たちには常に明日への不安がつきまとい、その不安が争いなどを引き起こします。
どうして、このような時間の流れの中にいると不安から抜け出せないのでしょうか?それは(3)の『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健が抱えていた不安がとても参考になります。服役を終えて出所した彼は、できることなら元妻の賠償千恵子と暮らしたいと思っていました。しかし、彼の犯した殺人の罪があまりに大きく、それが昔の妻との幸せな日々を遠い過去のことにしてしまっていて、不安に支配されていました。そうして、若者の励ましによっても、励まされることはほとんどありませんでした。殺人の罪があまりに大きくて過去の幸せな日々が見えなくなっていましたから、その幸せを回復できる希望が全く見出せませんでした。
そして(5)の場合には、御子イエス様の降誕・十字架・復活の恵みがあまりに大きいために、《旧約の時代》が遠い過去のことになってしまっていて、天の父のことばが聴こえづらくなってしまっています。イエス様の恵みがあまりに大きいので、旧約聖書の父は怒ってばかりいるようにも感じられます。だから旧約聖書はあまり恵まれないと考えるクリスチャンも少なくないのではないでしょうか。神学生になる前の私はそんな感じでした。旧約聖書は恵まれないとまでは考えなくても、イエス様の恵みが大きすぎて、その分、天の父の深い愛が見えづらくなっていることは否めないのではないでしょうか。
でも(4)の『幸福の黄色いハンカチ』では「妻との幸せな日々」が土台にあり、この土台があったからこそ幸せを回復できたのと同じで、聖書においても「天の父のことば」が土台にあることが非常に重要です。「天の父のことば」が土台としてあるからこそ、私たちは天の父との関係をイエス様の十字架によって回復して、深い平安を得ることができます。それを表しているのが(6)です。
(6)では「天の父と子のことば」としてありますが、それはイエス様が「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃっているからです。そして、「天の父と子のことば」が土台にあることで、「聖霊の励まし」も(5)の場合よりもよく聴こえます。こうして、父・子・聖霊の神の重なりによって私たちは神の領域に入れていただくことができて、深い平安をいただくことができます。
私たちは『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健のように、毎日を不安の中で生きてしまっています。でも映画を観る観客のように、時間の流れから自由になるなら神様の領域に入れていただくことができて、心の深い平安を得ることができます。それを教えてくれているのがヨハネの福音書です。たとえばヨハネ2章の前半は、表面上はアンダーラインで示したように「カナの婚礼」のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の「出エジプト」と《新約の時代》の「ガリラヤ人への聖霊の注ぎ」の場面が透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。
また、ヨハネ3章の前半には、表面上はアンダーラインで示したようにイエス様とニコデモとの会話ですが、ここからは《旧約の時代》の「モーセの律法の授与」と《新約の時代》の「ユダヤ人への聖霊の注ぎ」が透けて見えています。
そしてヨハネ4章には、表面上はサマリアでのイエス様のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の預言者エリヤと《新約の時代》のサマリア人への聖霊の注ぎが透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。
③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉
きょうの中心聖句のヨハネ4:14をお読みします。イエス様はおっしゃいました。
ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
きょうの説教の最初にも言いましたが、「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とか無限の時間を生きることではありません。「永遠」は人間が慣れ親しんでいる時間の流れとはぜんぜん関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、その人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。
その、人知を超えた「永遠」とはこういうことではないか?という一端を示しているのが、『幸福の黄色いハンカチ』とヨハネの福音書で見た重なりです。「永遠」とは、この重なりの方向であるとも言えるでしょう。この重なりの方向は、左から右へ流れる時間の方向に縛られずに、自由になっています。映画の中の高倉健はこの流れに縛られていますが、観客の私たちは自由です。イエス様も自由に《旧約の時代》と《新約の時代》を行き巡ります。時には《旧約の時代》と《新約の時代》に同時にいます。これは正に人知を超えたことであり、これがイエス様がおられる「永遠」です。そうして私たちも、イエス様が与えて下さる水を飲むなら、その「永遠」の一端が分かるようになります。「永遠」は人知を超えた神様の領域の中にあり、その領域のほんの一端でも分かるなら、私たちは深い平安を得ることができます。それは人知を超えたキリストの愛を知ることでもあります。
キリストの愛というと私たちは「十字架の愛」を思い浮かべますが、キリストの愛は「十字架の愛」だけでなく、聖霊の励ましもキリストの愛であり、天の父の愛もキリストの愛でしょう。パウロは、このキリストの愛を私たちが知ることができますようにと天の父に祈っています。エペソ人への手紙3章の16節から19節までをお読みします。
エペソ16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
パウロは19節で私たちが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますように」と祈りました。このことは、イエス様が与えて下さる水を飲むことで実現します。イエス様が与える水は、飲む人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。そうして、神の満ちあふれる豊かさに満たされるなら、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになります。
そのような者へと変えていただくことができますように、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」