平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

人知を超えたキリストの愛の泉の平和(2022.8.28 礼拝)

2022-08-29 13:43:54 | 礼拝メッセージ
2022年8月28日礼拝メッセージ
『人知を超えたキリストの愛の泉の平和』
【ヨハネ4:7~15】

はじめに
 8月24日はロシアがウクライナに侵攻してから半年であることをテレビや新聞が報じていました。そして、この戦争がすぐには終わりにくい状況にあるという解説などもされていました。この24日の前日の23日の晩に私は、ふと「そうだ 広島、行こう」という思いが与えられたので24日と25日の両日、広島の平和記念公園と、その中にある原爆資料館に3年ぶりで行って来ました。

 この原爆資料館の玄関ロビーには「平和のキャラバン」(平山郁夫・作)の絵を大きく引き延ばしたタイル画が掛かっています。縦4.8メートル×横6メートルの非常に大きな絵で、ここには約8万個のタイルがはめ込まれています。一つ一つのタイルは2cm弱の小さな正方形のタイルで、それぞれに名前が刻まれています。私の「S.KOJIMA」という名前のタイルもこの中にあります。このタイル画が造られた1985年に確か1300円ぐらい?で購入して名前を刻んでもらって、はめ込まれました。



 ですから、原爆資料館には1980年代の半ば以降から自分の名前を刻んだタイルがずっとあって、自分の分身がここにあるような気がしています。それで広島の平和公園に行ったら必ず原爆資料館へも行って自分のタイルを見ます。左右の真ん中の大人の目の高さの所にありますから、とても見つけやすいです(左の写真の点線の交点)。そうして「私を平和のために用いて下さい」と祈りながら、展示資料を見て回り、見た後は平和公園のベンチに座って、また「私を平和のために用いて下さい」と祈ります。

 しかし、今回は違いました。展示してある原爆被害の悲惨な状況が今のウクライナの状況と重なり、自分が平和のためにぜんぜん働けていないことを申し訳なく、また情けなく思い、神様と被爆者に「申し訳ありません」と謝りながら、展示資料を見て回りました。多くの人の心に深い平安が与えられるなら、世界は必ず平和へと向かって行くはずです。神様はそのために私にヨハネの福音書の奥義を教えて下さり、この奥義を平和のために用いるようにと励まして下さっています。しかし私の力不足のために、その奥義をぜんぜん伝えることができていません。そればかりか、むしろ逆効果になっています。このことを皆さんに申し訳なく思うと共に、神様に申し訳なく思っています。また、被爆者の方々と今もウクライナなどで戦災に苦しんでいる方々に申し訳なく思います。

 そして広島から戻り、改めて神様から私に託されているヨハネの福音書の奥義を皆さんにお伝えするように促されました。皆さんのお一人お一人の心に深い平安が与えられることを願い、そしてやがては多くの方々の心に平安が与えられることを願い、きょうのメッセージを取り次がせていただきます。きょうの聖書の中心聖句はヨハネ4章14節です。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエス様は「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます」とおっしゃいました。きょうはこれからいろいろな話をしますが、細かいことは分からなくても大丈夫です。分かち合いたいことは「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とかの無限の時間を生きるということではない、ということです。「永遠」とは人間が慣れ親しんでいる時間の流れとは関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。そうして多くの方々がこの深い平安を得るなら、この世は少しずつ平和な方向へと向かって行くでしょう。

 きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
 ②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
 ③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉

①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
 まず、古い映画ですが、山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977)について考察します。その後で本題のヨハネの福音書の奥義に入って行きたいと思います。『幸福の黄色いハンカチ』を例として取り上げるのは、多くの人がこの映画のことをご存知だと思うからです。まずは多くの皆さんが知っている映画の話から入って、ヨハネの福音書の奥義へとつなげて行きたいと思います。



 この映画のことは、たぶん昭和生まれであれば、ほとんどの方が知っているのではないかと思いますが、平成生まれだと知らない方もいると思いますから、簡単に説明します。映画の中の役名より俳優さんの名前のほうが分りやすいと思いますから、俳優名で説明します。

 この映画の主な登場人物は高倉健とその妻の倍賞千恵子、そして当時は若者だった武田鉄矢、桃井かおりです。あらすじを思い切り簡単に言えば、この映画は殺人の罪を犯して網走の刑務所に入った高倉健の服役前と服役後の物語です。

 つまり、時間順で書けば(1)の

   服役前 → 服役後 (1)

という順番になっています。でも、この映画は、このような単純な時間の流れにはなっていません。刑務所を出た服役後の高倉健が、偶然出会った武田鉄矢と桃井かおりと同じ車に乗って旅をする中で、少しずつ自分の過去を二人に語るという構成になっています。つまり、この映画は(2)のような重なりになっています。

   服役後
   服役前  (2)

 この映画は高倉健に関して言えば彼の「服役後」から始まって「服役前」と「服役後」の間を行ったり来たりしますから、(2)のような重なりになっています。

 さてここで、(1)ではあまりに単純過ぎるので、もう少し膨らませて(3)のようにします。

   妻との幸せな日々 → 殺人の罪・服役 → 若者の励まし → 不安 (3)

 この(3)は高倉健の人生を時間順に並べたものです。服役前の彼は妻となる女性の賠償千恵子と夕張のスーパーで出会い、結婚して幸せな日々を送っていました。しかし、妊娠した妻が流産してしまいました。そのことでヤケ酒を飲んだ挙句に殺人の罪を犯してしまいました。そうして、服役中に離婚しましたが、刑期を終えて出所した彼は夕張の彼女あてに葉書を出します。もしまだ一人でいて、自分を待っていてくれるなら、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチを目印としてぶら下げておいてほしい、というものでした。でも葉書を出したものの、彼の心の中には不安しかありませんでした。武田鉄矢と桃井かおりの二人の若者に励まされて夕張に向かいはしますが、彼はずっと不安に支配されていました。

 一方、映画を観ている観客は違います。そもそも映画のタイトルが『幸福の黄色いハンカチ』ですから、最後には高倉健が幸福になると分かった上で観ています。神様の目で映画を観ていると言っても良いかもしれません。人間は服役後と服役前を行ったり来たりはできませんが、神様はできます。そして、映画も神様のように自由に時間の中を行ったり来たりできます。そうして、(4)のような重なりの上に幸福が生まれる様子が分かります。現実の中を生きている高倉健は分かりませんが、映画の観客は高い位置から見ているので、それが分かります。



 この(4)では「妻との幸せな日々」が土台として、しっかりとあります。「殺人」という大きな罪は犯しましたが、「幸せな日々」が土台にあり、夕張への旅では武田鉄矢と桃井かおりの「若者の励まし」があって、これらの上に幸福が生まれます。

 一方、高倉健は(3)の時間の流れの中にいます。この流れの中では「殺人の罪」があまりにも大きくて「妻との幸せな日々」が遠い過去のことになってしまっています。これでは夕張への旅で武田鉄矢と桃井かおりがどんなに熱心に励ましても幸福は見えて来ません。不安だけが高倉健を支配していました。でも映画を観ている観客は違います。ハッピーエンドの映画と分かっていますから、スクリーンの中の高倉健がどんなに不安な表情をしていても、観客は不安に陥ることはなく、むしろ彼に「大丈夫だよ」と声を掛けて励ましたくなります。イエス様が弱い人々を励ますように、高倉健を励ましたくなります。

 そして、聖書にも『幸福の黄色いハンカチ』のような重なりがあることを教えているのがヨハネの福音書です。これがヨハネの福音書の奥義です。この重なりを見ながら聖書を読むなら読者は神様の領域に入れていただくことができますから、深い平安を得ることができます。こうして聖書から深い平安を得る読者が増えて行くなら、世界は平和な方向に向かうでしょう。

②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
 世界には聖書の読者がたくさんいます。特にひと昔前までの欧米諸国では国民の大半がクリスチャンであり、教会と家庭で聖書が読まれていました。それなのに世界に平和はなく、戦争が絶えることなく繰り返されて来ました。それは聖書の読者の多くが真の心の平安を得ていないからでしょう。心に平安がないから争い事を起こします。そうして悪くすると戦争へと発展します。相手から攻撃を受けるのではないかと不安になり、その不安から先制攻撃を仕掛けて戦争が始まります。

 ですから、もし多くの人がヨハネの福音書の奥義を知って心の深い平安を得るなら、世界は少しずつ平和な方向へ向かい始めるはずです。そういうわけで、ヨハネの福音書とは、ものすごく大きな可能性を秘めた書です。この2番目のパートでは、このヨハネの福音書の奥義である重なりを、1番目の『幸福の黄色いハンカチ』を参照しながら、説明したいと思います。

 まず、(5)を見て下さい。

 天の父のことば → 子の降誕・十字架・復活 → 聖霊の励まし → 不安・争い (5)

 この(5)は聖書の時代に起きたことを左から順に書いたものです。そして現代の私たちも、この時間の流れの中を生きています。まず《旧約の時代》に天の父のことばが預言者を通して語られました。そして次に御子のイエス様が天から降誕して十字架で死んで復活しました。その後、ペンテコステの日以降に弟子たちと私たちに聖霊が注がれるようになり、私たちは聖霊に励まされながら、日々を生きています。私たちは正にこのような時間の流れの中を生きています。しかし、この時間の流れの中にいる限り私たちには常に明日への不安がつきまとい、その不安が争いなどを引き起こします。

 どうして、このような時間の流れの中にいると不安から抜け出せないのでしょうか?それは(3)の『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健が抱えていた不安がとても参考になります。服役を終えて出所した彼は、できることなら元妻の賠償千恵子と暮らしたいと思っていました。しかし、彼の犯した殺人の罪があまりに大きく、それが昔の妻との幸せな日々を遠い過去のことにしてしまっていて、不安に支配されていました。そうして、若者の励ましによっても、励まされることはほとんどありませんでした。殺人の罪があまりに大きくて過去の幸せな日々が見えなくなっていましたから、その幸せを回復できる希望が全く見出せませんでした。

 そして(5)の場合には、御子イエス様の降誕・十字架・復活の恵みがあまりに大きいために、《旧約の時代》が遠い過去のことになってしまっていて、天の父のことばが聴こえづらくなってしまっています。イエス様の恵みがあまりに大きいので、旧約聖書の父は怒ってばかりいるようにも感じられます。だから旧約聖書はあまり恵まれないと考えるクリスチャンも少なくないのではないでしょうか。神学生になる前の私はそんな感じでした。旧約聖書は恵まれないとまでは考えなくても、イエス様の恵みが大きすぎて、その分、天の父の深い愛が見えづらくなっていることは否めないのではないでしょうか。

 でも(4)の『幸福の黄色いハンカチ』では「妻との幸せな日々」が土台にあり、この土台があったからこそ幸せを回復できたのと同じで、聖書においても「天の父のことば」が土台にあることが非常に重要です。「天の父のことば」が土台としてあるからこそ、私たちは天の父との関係をイエス様の十字架によって回復して、深い平安を得ることができます。それを表しているのが(6)です。
 


 (6)では「天の父と子のことば」としてありますが、それはイエス様が「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃっているからです。そして、「天の父と子のことば」が土台にあることで、「聖霊の励まし」も(5)の場合よりもよく聴こえます。こうして、父・子・聖霊の神の重なりによって私たちは神の領域に入れていただくことができて、深い平安をいただくことができます。

 私たちは『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健のように、毎日を不安の中で生きてしまっています。でも映画を観る観客のように、時間の流れから自由になるなら神様の領域に入れていただくことができて、心の深い平安を得ることができます。それを教えてくれているのがヨハネの福音書です。たとえばヨハネ2章の前半は、表面上はアンダーラインで示したように「カナの婚礼」のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の「出エジプト」と《新約の時代》の「ガリラヤ人への聖霊の注ぎ」の場面が透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。



 また、ヨハネ3章の前半には、表面上はアンダーラインで示したようにイエス様とニコデモとの会話ですが、ここからは《旧約の時代》の「モーセの律法の授与」と《新約の時代》の「ユダヤ人への聖霊の注ぎ」が透けて見えています。

 そしてヨハネ4章には、表面上はサマリアでのイエス様のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の預言者エリヤと《新約の時代》のサマリア人への聖霊の注ぎが透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。

③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉
 きょうの中心聖句のヨハネ4:14をお読みします。イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 きょうの説教の最初にも言いましたが、「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とか無限の時間を生きることではありません。「永遠」は人間が慣れ親しんでいる時間の流れとはぜんぜん関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、その人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。

 その、人知を超えた「永遠」とはこういうことではないか?という一端を示しているのが、『幸福の黄色いハンカチ』とヨハネの福音書で見た重なりです。「永遠」とは、この重なりの方向であるとも言えるでしょう。この重なりの方向は、左から右へ流れる時間の方向に縛られずに、自由になっています。映画の中の高倉健はこの流れに縛られていますが、観客の私たちは自由です。イエス様も自由に《旧約の時代》と《新約の時代》を行き巡ります。時には《旧約の時代》と《新約の時代》に同時にいます。これは正に人知を超えたことであり、これがイエス様がおられる「永遠」です。そうして私たちも、イエス様が与えて下さる水を飲むなら、その「永遠」の一端が分かるようになります。「永遠」は人知を超えた神様の領域の中にあり、その領域のほんの一端でも分かるなら、私たちは深い平安を得ることができます。それは人知を超えたキリストの愛を知ることでもあります。

 キリストの愛というと私たちは「十字架の愛」を思い浮かべますが、キリストの愛は「十字架の愛」だけでなく、聖霊の励ましもキリストの愛であり、天の父の愛もキリストの愛でしょう。パウロは、このキリストの愛を私たちが知ることができますようにと天の父に祈っています。エペソ人への手紙3章の16節から19節までをお読みします。

エペソ16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 パウロは19節で私たちが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますように」と祈りました。このことは、イエス様が与えて下さる水を飲むことで実現します。イエス様が与える水は、飲む人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。そうして、神の満ちあふれる豊かさに満たされるなら、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになります。

 そのような者へと変えていただくことができますように、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
コメント

ウクライナ侵攻半年に平和への道を思う①

2022-08-24 07:41:13 | 折々のつぶやき
ウクライナ侵攻半年に平和への道を思う①
~『幸福の黄色いハンカチ』、『カムカムエヴリバディ』と『ヨハネの福音書』~

 ロシアがウクライナに侵攻してから8月24日で半年になることがテレビ・新聞などで報じられています。この機会に私も思うところを書き記しておきます。

 5年前に「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」(ヨベル新書)という本を私は書きました。副題は「~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~」です。多くの人が「永遠」に目覚めるなら、世界は平和へ向かうであろうと書きました。



 本ブログでは新たに『幸福の黄色いハンカチ』と『カムカムエヴリバディ』の考察を付け加えて、「永遠とは何か」に厚みを持たせたいと思います。きょうはその第1回です。

『幸福の黄色いハンカチ』
 山田洋次監督作品のこの映画についての考察を加えるのは、若い人も含めてこの映画は多くの人に知られていると思うからです。多くの皆さんが知っている映画で先ず、「永遠」の考え方を説明したいと思います。

 この映画で主に描かれているのは殺人罪を犯した勇作(高倉健)の「服役前」と「服役後」の人生です。つまり時間順としては、

→ 服役前 → 服役後 →

という時間の流れがあります。

 しかし、この映画はご承知のように「服役前→服役後」という単純な時間順では描かれていません。網走の刑務所を出所した勇作が二人の若者(武田鉄矢・桃井かおり)と一緒に車で夕張へ向かう中で、服役前の出来事を少しずつ語るという構成になっています。つまり、

→ 服役後 →
→ 服役前 →

というように、「服役前」と「服役後」が重なり合う形で時間が進行して行きます。ここには時間軸とは垂直な方向に厚みがあります。この時間軸に直交する「厚みの方向」が拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」で書いた「永遠」です。なぜ「永遠」に目覚めると平和な方向に向かうのか、『幸福の黄色いハンカチ』で説明してみたいと思います。

 上記では単純に「服役前」と「服役後」の二つだけにしましたが、「服役前」をもう少し細かく分けます。服役前、勇作は妻となる女性の光枝(倍賞千恵子)と出会って、幸せな日々を過ごしていました。しかし、光枝の流産で彼女の過去を知った勇作はヤケ酒を飲んだ挙句に殺人を犯してしまい、服役します。すると時間順では、

→ 光枝との幸せな日々 → 殺人・服役 → 服役後 →

という流れになりますが、この図式では「殺人」によって「光枝との幸せな日々」が完全に断ち切られて、服役後は暗い人生を歩むしかないという気持ちにさせられます。すなわち、

→ 光枝との幸せな日々 → ××殺人・服役×× → 暗い日々 →

という図式になります(ここで××は断絶を表します)。しかし、この映画には、

→ 服役後 →
殺人・服役
→ 光枝との幸せな日々 →

という時間軸と垂直な方向への厚みがあり、ここに<愛>が介在する余地が生まれます。そして、再び幸せな日々を歩み始める希望が生まれます。すなわち、

→ 幸せな日々 →
<愛>殺人・服役<愛>
→ 光枝との幸せな日々 →

という図式です。「殺人」という大きな罪を犯しても、<愛>が介在するなら罪を悔い改めた上で再び幸せな日々を送る希望が生まれます。

 この世に戦争が絶えないのは多くの人々が時間軸の方向だけで生きているために、いったん戦争によって平和な日々が断ち切られるなら、戦争が終わっても不安な日々が続き、その不安が再び戦争を引き起こす、ということを延々と繰り返しているからではないでしょうか?つまり、多くの人々が、

→ 不安な日々 → ××戦争×× → 不安な日々 → ××戦争×× → 不安な日々 → …… →

という時間軸の中でしか生きていないために、<愛>が介在する余地がなかなか生まれません。しかし、垂直方向の「永遠」に目覚めるなら次の図式のように<愛>が介在することで「戦争」を悔い改めて、再び平和な日々を築くことが可能だろうと思います。

→ 平和な日々 →
<愛>戦争<愛>
→ 平和な日々 →

 次回(9/13現在、まだ推敲中です)は朝ドラの『カムカムエヴリバディ』を取り上げて、考察をさらに深めてみたいと思います。(続く)
コメント

「天のイエス」が主役のヨハネの福音書

2022-08-22 17:36:55 | 礼拝メッセージ
 前回の『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』の補足をします。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 ここにはペンテコステの日以降のパリサイ人と弟子たち、そして天のイエス様のことが描かれています。イエス様が地上にいた時代にバプテスマ(洗礼)を授けていたのはバプテスマのヨハネだけでした。マタイ・マルコ・ルカはイエス様と弟子たちがバプテスマを授けていたことを書いていませんから、2節の「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」とは、ペンテコステの日以降のことです。ペンテコステの日以降、天のイエス様は聖霊を受けた弟子たちの中にいましたから、弟子たちがバプテスマを授けたことは、イエス様がバプテスマを授けたのと同じことでした。

 以上のことを『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』で書きました。しかし、これだけでは分かりにくかったかもしれませんから、補足します。

 そもそもヨハネの福音書は【イエス=ことば】とした、次の有名なことばで始まります。ここには天のイエス様のことが書かれています。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 冒頭に天のイエス様のことを書くということは、ここでヨハネは「この福音書の主役は天のイエス様である」と宣言しているということです。マタイ・マルコ・ルカの福音書の主役が地上のイエス様であるために、次のヨハネの福音書の主役も地上のイエス様と思いがちですが、ヨハネはちゃんと最初に「主役は天のイエス様である」と宣言しています。

 そして、【イエス=ことば】の意味についても、ヨハネは福音書の中でイエス様のことばによって説明しています。それらを列挙します。下記はすべてイエス様のことばです。

8:26 「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」

8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

10:30 「わたしと父とは一つです。」

12:50 「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

14:10 「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 このように、父と一つであるイエス様のことばは、父が話したことばをそのまま話したものであることが繰り返し語られています。

 つまり、【聖書の神のことば=イエスのことば】です。それゆえ、【イエス=ことば】であると、ヨハネは冒頭の1章1節で書いたのでしょう。

 旧約の預言者たちが人々に語った神のことばはイエス様のことばであると、ヨハネの福音書は書いています。天のイエス様は父と共に預言者たちに聖霊を遣わし、聖霊を通して父のことばを伝えました。そして新約の時代の弟子たち、21世紀の私たちも聖霊を通して天のイエス様の助言のことばを聴きます。

14:16 「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。……この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

14:26 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

15:26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」

 天のイエス様は、聖霊を通して私たちにすべてのことを教え、助言して下さいます。ですから、困難があってもイエス様が最善の方向に導いて下さいます。ヨハネの福音書は、その天のイエス様が主役です。天のイエス様の声に耳を傾けて日々歩んで行きたく思います。
コメント

洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?(2022.8.21 礼拝)

2022-08-22 05:44:52 | 礼拝メッセージ
2022年8月21日礼拝メッセージ
『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』
【ヨハネ4:1~8】

はじめに
 礼拝では7月からヨハネの福音書を開いて、この書では天にいるイエス様が見えているという話をしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上のイエス様を描いていますが、ヨハネの福音書は地上に来る「前」と「後」の、天にいるイエス様を描いています。つまり、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書から、イエス様が地上に来る前、地上にいる時、天に帰った後のすべての時代のイエス様を知ることができます。きょうはヨハネ4章の最初の8節に見えている天のイエス様について話します。

 きょうの中心聖句はヨハネ4章2節です(週報p.2)。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 バプテスマ(洗礼)を授けていたのはイエスご自身ではなかったとは、どういうことでしょうか?このことを説き明かしつつ、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
 ②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
 ③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様

①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
 先週は十字架の場面のマタイ・マルコ・ルカとヨハネの描き方の違いから、マタイ・マルコ・ルカは目に見える地上のイエス様を描き、ヨハネは目に見えない心の中のイエス様を描いていることを話しました。マタイ・マルコ・ルカは女性たちが十字架を遠く離れた場所から見ていたと書きました。

マタイ27:55 そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。

 これが2千年前の地上で実際にあったことでしょう。でも女性たちの心の中にはイエス様がいて、彼女たちはイエス様と一緒に苦しんでいました。この、心の中のイエス様を描いたのがヨハネです。ヨハネ19:25は女性たちが十字架のそばに立っていたと書いていますが、これは心の中のことです。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

 このようにマタイ・マルコ・ルカの福音書は目に見える地上のイエス様を描いています。一方、ヨハネの福音書は私たちの心の中に現れて下さる天のイエス様を描いています。この両方がイエス様です。イエス様はもともとは天の父と共に天にいて、モーセやエリヤなどの預言者たちに聖霊を遣わし、聖霊を通して父のことばを預言者たちに伝えていました。その天のイエス様が2千年前に地上に遣わされてヨセフとマリアの子として地上に生まれました。大人に成長してからはペテロやヨハネたちと同じ時を過ごし、十字架に付けられて復活した後に天に帰られました。そうして、天に帰った後は今度は弟子たちに聖霊を遣わして弟子たちの中に現れました。そして、現代の21世紀の私たちの中にも現れて下さいます。

 私たちは2千年前の地上にいたイエス様にお会いすることはできませんが、心の中に現れて下さる天のイエス様にはお会いできます。天のイエス様は私たちの心の中に聖霊を通して入って下さり、天からのことばを私たちに伝えて下さいます(ただし「天」とは現代風に言えば異次元です。「天」は雲の上ではなく、もっと身近に存在するのでしょう)。

 ヨハネの福音書は、預言者たちや弟子たち、そして私たちの心の中に入って下さる天のイエス様が主役です。きょうはヨハネ4章でそのことを見て行きましょう。まず4章1節と2節、

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 ここにはペンテコステの日以降のパリサイ人と弟子たち、そして天のイエス様のことが書かれています。

 7月の最後の礼拝では、ヨハネ2章のガリラヤ人の弟子たちが参加したカナの婚礼の場面を開きました。ここからは、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。母のマリアが「ぶどう酒がありません」と言ったことは、旧約の時代の終わりを表し、きよめの水がぶどう酒に変わったことは、水ではきよめられなかった心の内が、イエス様の血によってきよめられるようになったことを表すことを話しました。

 そして、先週開いたヨハネ3章ではイエス様がニコデモに聖霊の話をしている場面を読みました。ニコデモはユダヤ人ですから、ここからはペンテコステの日にガリラヤ人たちの次にユダヤ人たちにも聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。このようにヨハネ2章から4章に掛けては使徒の働きに書かれている出来事が順番通りに並んでいます。まずガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれ、次にユダヤ人たちに聖霊が注がれたことで教会が誕生し、教会は急成長しました。しかし、ステパノが石打ちにあって死んだことをきっかけにして教会は迫害を受け、弟子たちはエルサレムから散らされて行きました。そして散らされる中で例えばピリポはサマリアでイエス様を宣べ伝えました。

 ヨハネ4章1節でヨハネはイエス様がバプテスマ(洗礼)を授けていたと書いています。マタイ・マルコ・ルカの福音書によれば、イエス様が地上にいた時代にバプテスマを授けていたのはバプテスマのヨハネだけでした。イエス様も弟子たちもバプテスマを授けていませんでした。ですから、続く2節でヨハネが「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いたのは、ペンテコステの日以降の使徒の働きの時代のことであることが分かります。ペンテコステの日以降、天のイエス様は聖霊を受けた弟子たちの中にいました。ですから、弟子たちがバプテスマを授けていたことは、イエス様がバプテスマを授けていたのと同じことでした。

 ペンテコステの日以降、教会には多くの弟子が加えられました(使徒2章)。4章1節の「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている」とは、使徒たちの時代にエルサレムの教会が急成長していた様子を表しています。

 このように、ヨハネの福音書は聖霊を受けた人々の中にいる天のイエス様が主役の書であり、地上のイエス様を描いたマタイ・マルコ・ルカとは視点がまったく異なる書です。ですから、マタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネを読まないように注意しなければなりません。このことを頭に入れていただいて、次のパートに進みます。

②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
 3節と4節をお読みします。

3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 ペンテコステの日に誕生したエルサレムの教会は、その後急速に成長しました。その急成長の最中に、使徒の働きによれば、ステパノが石打ちに遭って殺されました。そして教会に対しても激しい迫害が起こりました。聖書交読でも読み、週報p.2にも1節と5節を載せましたが、使徒の働き8章は次のように書いています。

使徒8:1 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 従って、ヨハネ4章4節でサマリアを通って行ったイエス様とは、ピリポの中にいた天のイエス様です。ピリポも聖霊を受けていましたから、ピリポの中には天のイエス様がいました。

 さてしかし、永遠の中にいるイエス様はどの時代にもいることができるお方ですから、使徒の働きの時代にいると同時に旧約の時代にもいます。ここからヨハネ4章は舞台が移動してイエス様が北王国のエリヤの中にいるイエス様を描き始めます。エリヤも聖霊を受けた預言者でしたから、イエス様はエリヤの中にもいました。5節から7節に掛けては地理的な舞台は同じサマリアです。しかし、時代的な舞台は使徒たちの時代からエリヤの時代に移ります。この辺りの舞台移動はスマホを持つ21世紀の私たちだからこそ、見えるものなのでしょう。5節から7節。

5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 7節でイエス様はサマリアの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われました。この場面で天のイエス様は、エリヤがツァレファテのやめもに「水を飲ませてください」と言った時代のエリヤの中にいました。列王記第一17章10節です(週報p.2)。

列王記第一17:10 エリヤは彼女(ツァレファテのやもめ)に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 この場面の時代的な舞台が使徒の時代ではなくて旧約のエリヤの時代であることは、8節からも分かります。8節、

8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 弟子たちは使徒の時代にいました。彼らは人間ですから天のイエス様とは違って旧約の時代に同時にいることはできません。それで弟子たちは旧約の舞台から退場しました。弟子たちは、舞台がまた使徒の時代に戻った時に、町から戻って来ます。このことは9月の礼拝で話します。

 さて6節には、「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた」とあります。ここにはイエス様が疲れていたことが記されています。このイエス様の疲れは、使徒の時代とエリヤの時代の不信仰から来る疲れでしょう。イエス様は人々の不信仰に失望して疲れていました。

 使徒の時代においてはステパノが石打ちで死に、教会が激しい迫害に遭って弟子たちがエルサレムから散らされました。この激しい迫害はユダヤ人たちがイエス様を信じない不信仰によるものですから、イエス様はひどく失望していたことでしょう。

 そしてイエス様は旧約の時代の北王国の不信仰にも失望していました。今年の5月から6月に掛けて、エリヤの時代の北王国の不信仰を共に学びました。イスラエルの王国は、ソロモン王の不信仰によって北と南の二つの王国に引き裂かれました。そうして北王国は初代のヤロブアム王が、北の国民が南のエルサレムの神殿に礼拝に行かないようにしました。このことで北の人々の不信仰の度合いが増して行き、七代目のアハブ王の時代には本当にひどいことになっていました。天のイエス様はこの状況に失望して、疲れていたのでしょう。

 天のイエス様が見えるようになったことで、私たちは地上のイエス様だけでなく、その前の時代と後の時代の天にいるイエス様も、この世の状況に失望して悲しむ様子が分かるようになりました。ヨハネの福音書でイエス様が最も悲しんでいる場面は11章35節です(週報p.2)。

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

 この11章の涙を流しているイエス様については、何週間か後でまた改めて説明します。覚えておきたいことは、天におられるイエス様は、今の私たちの2022年の状況も悲しんでおられるということです。私たちは、このことをしっかりと感じ取りたいと思います。そうすれば、この世はきっと、もっと良い方向に向かって行くと思います。

③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様
 きょうの中心聖句のヨハネ4:2に改めて目を留めます。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 このヨハネ4章2節の時代はイエス様が地上にいた時の時代ではなく、ペンテコステの日以降にエルサレムの教会が急成長していた時代のことだと話しました。このことは21世紀になってから分かったことです。もっと前に気付いていた人もいるかもしれませんが、記録は残っていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の終わりごろの読者はこのことを知っていたと思いますが、ヨハネの福音書はいつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上のイエス様を描いた書として読まれるようになりました。

 でも、それは仕方のないことです。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書があって、その次にヨハネの福音書があれば、誰だってヨハネの福音書は地上のイエス様のことを書いた書だと思うでしょう。そうして私たちはマタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネの福音書も読んで来ました。

 でも20世紀以降、私たちは様々な異なる視点を獲得しました。ロケットで宇宙に行けるようになり、宇宙から地球を見ることができるようになりました。それまでは地球上から地上を見ることしかできませんでしたが、宇宙からの視点を獲得しました。そうして20世紀の終わりに国際宇宙ステーションが建設されて、21世紀に入ってからは、いつも必ず誰かが宇宙に滞在するようになりました。しかも宇宙飛行士だけでなく、今や民間人もお金を払えば宇宙に滞在できます。そうして、宇宙に滞在する人々が発信する動画や写真を手元のスマホやパソコンで見て、コメントや質問を地上から宇宙に送ることもできます。宇宙だけでなく世界中にいる知人や家族、会ったことがない人ともスマホやパソコンで通信できるようになりました。こうして私たちは従来の物事の見方から解放されて来ました。

 ですから私たちは、20世紀までの福音書の読み方から解放されて、21世紀の目で福音書を読みたいと思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書は従来通り、地上のイエス様を描いた書として読んで良いですが、ヨハネの福音書は、地上の時代の前後の天にいるイエス様が主役の書として読むべきです。

 21世紀の目によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになったことは、現代の人々に聖書に興味を持ってもらうことにも、つながります。なぜなら現代人の多くが聖書とは古臭い読み物であって、そこから新たに得られるものなど無いと思い込んでいるからです。しかし、科学技術の発達、特に通信手段の発達によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになりました。このことは今まで聖書に興味がなかった方々に聖書を知っていただく大きなチャンスの時が来たことを意味します。私たちは、このチャンスを無駄にすることなく活かしたいと思います。

おわりに
 2022年の今の世は、本当にひどい事になっています。コロナ禍、異常気象、戦争、天のイエス様はこの状況を悲しんでおられます。そして、私たちも多くの不安を抱えて生きています。良い事がぜんぜん無くて、悪い事ばかりが起きているようにも感じます。でも、実は今、素晴らしいことが起きているんですね。それは、今までは見えていなかった天のイエス様がハッキリと見えるようになったということです。これは本当に素晴らしいことです。ヨハネ4章の1節と2節を、もう一度、お読みします。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 この4章1節と2節のイエス様とは、天のイエス様のことだということが、ハッキリと見えるようになりました。そうして、使徒の働きの時代のことを、そのまま今の私たちの時代に当てはめることが容易になりました。

 ここに集っている私たちの多くが、かつてそれぞれの教会の牧師から洗礼を受けました。私たちそれぞれに洗礼を授けて下さった牧師の中にはイエス様がいて、イエス様が私たちに洗礼を授けて下さいました。そうして、お一人お一人に聖霊が注がれてイエス様が私たち一人一人の中に入って下さっています。

 このことは21世紀になる前から分かっていたことですが、21世紀になって天のイエス様が見えたことで、いっそうハッキリしました。私たちは単に信じているのではなく、天のイエス様がハッキリと見えているのですから、確信を持ってイエス様のことをお伝えすることができます。以前からも確信をもってお伝えしていましたが、見えているのと見えていないのとでは、確信の度合いが大きく違います。

 21世紀の今を生きる私たちは1世紀の地上のイエス様にお会いすることはできませんが、聖霊を通して天のイエス様にお会いすることができます。その天のイエス様は見えないお方ではなくて、ヨハネの福音書にハッキリと見えているお方です。ですから私たちは、確信をもってイエス様のことをお伝えすることができます。

 21世紀の今は悪い事ばかりのように思えますが、天のイエス様が見えているという素晴らしいことが起きています。このことを覚えて、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書が記すイエス様をお伝えして行きたいと思います。地上にいた時のイエス様のことと、地上に来る前と天に帰った後のイエス様のことをお伝えして行きたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──


視点を変えると、ヨハネの福音書の風景が全く異なって見え、天のイエス様が見えて来ます。
聖書は本当に面白いです。
コメント

聖書は人生の応援団、イエス様が団長(2022.8.18 祈り会)

2022-08-21 19:36:51 | 祈り会メッセージ
2022年8月18日祈り会メッセージ
『聖書は人生の応援団、イエス様が団長』
【創世記15:1~6】

 きょうは、創世記15章の1節から6節までを、ご一緒に見ます。まず交代で読みましょう。

創世記15:1 これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
2 アブラムは言った。「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
3 さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
4 すると見よ、のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
6 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 1節に、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ」とあります。「これらの出来事」とは何だったのか、簡単に見ておきます。カタカナの名前がたくさん出て来て分かりにくいので、カタカナは無視して漢字とひらがなの箇所を中心に見ます。14章9節の後半に「対峙した。この四人の王と、先の五人の王とであった」とあります。この14章では、四人の王と五人の王との間で戦いがありました。この戦いに、アブラムの甥のロトが巻き込まれてしまいました。12節です。

12 また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。

 これを聞いたアブラムは甥のロトを助けに行きました。14節から16節、

14 アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。
15 夜、アブラムとそのしもべたちは分かれて彼らを攻め、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで追跡した。
16 そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。

 アブラムは大きな戦いに勝利しました。主が共におられたからでしょう。でも、ここで思い出すのはエリヤのことです。少し前の礼拝で開いた列王記第一で見たように、エリヤはバアルの預言者450人と戦って勝利した後で、燃え尽きてしまいました(列王記第一18~19章)。エリヤの燃え尽き症候群を念頭に置いて、このアブラムの記事を読む時、アブラムもまた、燃え尽きの危機にあったと感じます。信頼できる部下はいましたが、アブラムには子供がいなかったので、後継ぎに関する不安が常につきまとっていました。妻のサライも子供がいないことで精神的に不安定でしたから、支え合うという感じではなく、アブラムは孤独ではなかったかという気がします。

 ユーフラテス川流域のウルの町から父のテラと共に出て来たアブラムでしたが、途中、父のテラはハランで死んでしまいました。それ以来、アブラムがリーダーとなって故郷のウルとは反対方向のカナンの地に主に導かれて来ましたが、主が約束して下さった子孫はなかなか与えられませんでした。様々な苦労もありました。そういう中で大きな戦いに勝利した後、孤独だったアブラムが燃え尽きてしまったとしても、おかしくはないでしょう。そんなアブラムを主は励ましました。

1 「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

 こう励ます主にアブラムは言いました。2節と3節、

2 「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
3 「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」

 2節のダマスコのエリエゼルとは、アブラムの部下の一人のようです。この2節と3節のアブラムのことばからも、彼がほとんど燃え尽きかけている様子が分かります。すると主は仰せられました。4節と5節、

4 「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」

 そうして、6節、

6 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 こうして燃え尽きかけていたアブラムは再び立ち上がり、アブラムの信仰は義と認められました。このアブラムが主に励まされた箇所を読むと、私たちもまた励まされます。

 今回、この創世記15章のアブラムが励まされた箇所を読んで、「聖書は人生の応援団であり、団長はイエス様である」と感じました。聖書は私たちの人生を応援してくれる応援団であり、団長はイエス様、アブラムは応援団員です。私たちはモーセやエリヤの箇所からも励まされますから、彼らも応援団員です。ペテロやヨハネ、パウロも応援団員であり、現代の私たちクリスチャンもまた、応援団員の末席に加えていただいています。先に教会に導かれた私たちは、まだ教会に導かれていない方々を聖書のことばを通して応援します。

 どうして「応援」ということばを突然使ったのか、残りの時間で説明させていただきます。先週私は、日本アルプス縦断レースの応援を楽しみました。この日本アルプス縦断レースは2年に1回、今の時期に開催されていて、今年は8月7日(日)の午前0時にスタートして14日(日)の夜12時までの8日間行われていました。スタートは日本海側の富山湾で、ゴールは太平洋側の静岡の大浜海岸です。全長415kmの距離を選手はすべて自分の足で走破して北アルプス・中央アルプス・南アルプスを越えて、静岡市街地に入り、県庁・市役所前、静岡駅の横を通って最後は大浜街道を走って海岸のゴールに至ります。

 この日本アルプス縦断レースのことを初めて知ったのは2012年のNHKの番組ででした。当時の私は姫路にいましたが、故郷の静岡の大浜の海岸が何度もテレビに映って興奮しました。大浜へは小学生の時にはプールへ泳ぎに行っていましたし、実家があった大岩の家の前はバスの大浜麻機線が走っていて、いつも「大浜」という行先表示を見て育ち、高校を卒業して静岡を離れた後も、帰省した時に駅から乗るバスは大浜麻機線でしたから、「大浜」との心の距離はいつもとても近かったです。

 それで2012年以来、いつか大浜のゴールで選手を応援したいと思っていたところ、今年10年目でようやく念願がかないました。ちなみに2020年のレースはコロナで2021年に延期して開催されましたが、台風が来て2日目に中止になりました。

 今回のレースで私は1位と4位、19位と20位の選手を大浜街道とゴールの海岸で応援しました。30人出場して完走したのは20人でしたから、19位と20位は最後から2番目と最後の選手でした。1位の選手と4位だった静岡の望月将悟選手は是非応援したいと思っていましたが、最後の選手も応援したかったので、それができて良かったです。

 応援を堪能して大満足でしたから、ネットで知人たちにこの喜びを伝えましたが、何で応援にそんなに熱くなるのか分からないという反応が少なからずありました。それで思ったのですが、私は応援することが好きなのだなと思いました。頑張っている人たちを応援することで、自分も励まされます。映画を作っている人たちを応援して来たのも、その人たちが、とても苦労して頑張って作品を作り上げているからです。それらの人々を応援することで、自分自身もまた励まされました。

 そんなことを考えていて、聖書もまた人生の応援団であり、団長はイエス様、応援団員はアブラムやモーセ、ダビデやペテロやパウロ、そして私たちもその応援団員の末席に加えられていると示されました。私の場合は応援が好きなのですから、福音の伝道においても応援団員として伝道の働きに携われば良いのだと気付かされました。

 最近の報道で、コロナ禍で自殺者が増えたこと、特に20代と30代の女性の自殺者が増えたと報じられていました。コロナ禍で仕事ができなくなり、また孤独感が増していることが主な原因ではないかと分析されていました。

 このように孤独を感じている方々に、聖書という応援団があることをお伝えしたいと思います。団長はイエス様です。イエス様が団長となって励まして下さるとは何という幸いでしょうか。イエス様は天の父と一つのお方です。天地を創造し、私たちの命も造った天の父と一つのお方が私たちを応援して下さるのですから、これほど心強いことはありません。私たちもイエス様の応援によって、ここまで歩んで来ることができました。

 アブラムも天の父とイエス様の応援によって、まだ子孫が与えられていない状況の中でも、主のことばを信じました。そして、義と認められました。私たちも天の父と一つであるイエス様が応援団長であり、いつも私たちを励まし、応援していて下さることを分かち合うことができたら幸いであると思います。お祈りいたします。

創世記15:1 これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
5 「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」
コメント

十字架の真下が狭い門(2022.8.14 礼拝)

2022-08-15 11:30:45 | 礼拝メッセージ
2022年8月14日礼拝メッセージ
『十字架の真下が狭い門』
【ヨハネ3:1~16】

はじめに
 先週はマタイの福音書の「山上の説教」の場面から、「神の国」のことと「狭い門」について、講師の先生が語って下さいました。これらのことについて以前よりも考えを深めることができましたから、とても感謝でした。

 きょうは先週の説教の「神の国」と「狭い門」のことも踏まえて話をします。きょうの中心聖句は1つの節ではなく、3つの節にまたがります。ヨハネ3章14節から16節です。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 ヨハネ3章16節は「聖書の中の聖書」とも呼ばれるほどに、聖書の中にあって重要とされる聖句です。このヨハネ3:16は単独で引用されることが多いですが、実はこの聖句の背後にはモーセの時代の荒野が色濃く存在しています。ですから14節からのセットで引用すべき聖句だと思います。そのこともまた、分かち合いたいと思います。

 きょうは、次の三つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①御霊の風が時代を超えて吹く壮大な場面
 ②遠くで眺めず十字架の真下で主を見上げる
 ③狭い門のイエス様は一人ずつしか通れない

①御霊の風が時代を超えて吹く壮大な場面
 このイエス様とニコデモの会話の場面の舞台は小さな部屋だと思いがちかもしれません。でも実は、この場面の舞台はもっと壮大です。御霊の風はモーセがいた荒野で吹き、同じ風がそのまま時代を超えてニコデモの時代にも吹き、さらには21世紀の私たちの時代にも吹いて来ています。モーセの時代の御霊の風と21世紀の私たちの時代の御霊の風は別の風ではなく同じ風です。なぜなら御霊は一つだからです。8節でイエス様がおっしゃっているように、「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」私たちは、このことを不思議に思わずに、そのまま受け入れたいと思います。すると、大きな恵みに包まれます。

 1節から見て行きましょう。まず1節から3節、

ヨハネ3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 ここでイエス様は「神の国」に言及しています。先週の河村先生の説教で開かれたマタイ6章のイエス様も、神の国について話していましたね。マタイ6:33です(週報p.2)。

マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 神の国は目に見えない世界です。この見えない世界を大切にすべきであることを河村先生は行っておられましたね。ヨハネ3章のイエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とおっしゃいました。つまり、人は新しく生まれることで、神の国を見ることができます。でも、ニコデモはこのイエス様のことばを理解できませんでした。4節、

4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 ニコデモはこのように頓珍漢なことを言っています。でもニコデモが分からなかったのは当然です。この時のニコデモはまだ御霊を受けていないからです。御霊のことは御霊を受けなければ分かりません。5節、

5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

 人は水と御霊によって生まれるなら、神の国に入ることができます。バプテスマを受けて御霊が注がれ、新しく生まれるなら、永遠の命を得て神の国に入ることができます。次に6節と7節、

6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 そして8節、

8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 御霊は天のイエス様が天の父のもとから遣わします。この、天におられる父とイエス様は、地上とは全く違う時間の中におられます。14節でイエス様はモーセの時代の荒野のことをおっしゃっていますから、御霊の風はモーセの荒野の時代にも吹いており、同じ風が21世紀の私たちの時代にも吹いています。御霊は一つだからです。このように時代を超えて吹く御霊の風がどこから来て、どこへ行くのかは人知を超えたことですから、私たちには分かりません。分かりませんが、そのまま信じて受け入れたいと思います。信じて受け入れるなら、その人は聖霊で満たされて、大きな恵みに包まれます。でも、パリサイ人たちは、信じていませんでした。少し飛ばして12節と13節、

12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

 3章1節にニコデモはパリサイ人であったことが書かれていますから、「あなたがた」とは、パリサイ人のことでしょう。先週の説教もパリサイ人について語られましたね。パリサイ人は律法の行いを重視します。モーセの律法を厳格に守ることで人は救われると信じています。しかし、行いを重視する人が霊的なことを理解するのは難しいようです。行いは自分でするものですが、御霊は受けるものだからです。自分の行いへのこだわりを捨てなければ御霊は受けられません。御霊を受けなければ霊の世界は見えません。ですから霊の世界が見えるようになるためには、新しく生まれる必要があります。新しく生まれるなら、このイエス様とニコデモの会話の場面も、御霊の風が時代を超えて吹く、壮大な場面であることが見えるでしょう。そうしてイエス様がスケールの大きな壮大なお方であることが見えるでしょう。私たちが心を寄せるイエス様が壮大なお方であるからこそ、私たちは深い平安をいただくことができます。

②遠くで眺めず十字架の真下で主を見上げる
 目に見えない霊の世界のことをことばで伝えることは、とても難しいことです。イエス様でさえ苦労しておられました。ヨハネもまた苦労していたのでしょう。そんなヨハネに神様は霊感を与えてヨハネの福音書を書かせたのだと思います。この福音書は、目に見えない霊の世界のことを何とかしてことばで伝えようとしている書です。そして、このヨハネの福音書の中で最も霊の世界がはっきりと見えるようにしているのが、きょうの中心聖句のヨハネ3章14節から16節でしょう。この箇所はヨハネ3:16が単独で引用されることが多いですが、14節から16節までをセットで読むことで、霊の世界がはっきりと見えて来ます。14節から16節をお読みします。

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 イエス様は16節に先立って、まず14節でモーセが荒野で蛇を上げた民数記の時代のことを話しました。この3章14節はヨハネの福音書の中で唯一、ここにいるイエス様が旧約の時代にいる天のイエス様でもあることを具体的にはっきりと示している箇所です。それ以外の箇所では透けて見えているだけです。

 たとえばヨハネ1章のナタナエルの記事からは創世記のヤコブの時代にいる天のイエス様が透けて見えています。ヨハネ2章のカナの婚礼の後で、過越の祭りの牛や羊をイエス様が追い出した宮きよめの場面からは、出エジプトの過越の時代にいる天のイエス様が透けて見えています。また、きょうのヨハネ3章のイエス様とパリサイ人のニコデモとの会話の場面では、神様がイスラエルの人々に律法を授けた時の天のイエス様が透けて見えています。律法が授けられたのは過越の恵みによってエジプトを脱出した後ですから、ちゃんと時代順に並んでいます。

 そして、律法の授与の後でモーセが荒野で蛇を上げた民数記の時代の出来事がありました。このヨハネ3:14では天のイエス様がはっきりと見えています。透けて見えているのではなく、むき出しになっています。

 このように、ヨハネの福音書は目に見えない霊の世界を私たちが見ることができるようにしてくれています。この霊の世界の大半は透けて見えているだけですが、ヨハネ3:14は唯一むき出しの形で、民数記の時代の天のイエス様が見えるようになっています。

 ここで、聖書交読で読んだ民数記21章の4節から9節までを、もう一度見ましょう(旧約p.277)。この場面では荒野を放浪していたイスラエルの民が神とモーセに逆らって不平・不満をぶつけていました。この神様に逆らうイスラエルの民の姿は、私たちの姿でもあります。私たちもかつては神様に逆らっていたからです。彼らは言いました。「パンもなく、水もない、われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」そこで6節、

民数記21:6 そこでは民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

 神様に逆らう罪深い者は滅びます。しかし、この罪を彼らは悔い改めました。7節、

7 「私たちはとあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるように祈ってください。」モーセは民のために祈った。

 すると8節と9節、

8 するとはモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた

 神様に逆らう重大な罪を犯したイスラエルの民でしたが、モーセが荒野で上げた青銅の蛇を仰ぎ見ると、彼らは死なずに生きました。これはまさに、かつて神様に逆らっていた私たちのことですね。私たちも滅びるしかなかった者たちです。しかし、そんな私たちでも、イエス様を信じて、十字架の真下に行ってイエス様を仰ぎ見るなら、私たちは罪が赦されて滅びることなく、永遠の命を得ます。

 もう一度、ヨハネ3:14~16に戻ります。ここで注意したいのは、この14節から16節に掛けては民数記のモーセの時代からニコデモの時代、そして21世紀の私たちの時代にもまたがる壮大な場面であるということです。それゆえイエス様は、モーセの時代にもニコデモの時代にも私たちの時代にもいる壮大なお方です。この壮大さは、十字架の真下までイエス様に大胆に近づいて初めて実感することができるものでしょう。十字架を遠くから眺めているのではなく、イエス様に大胆に近づいて、十字架のすぐ下からイエス様を仰ぎ見る必要があるでしょう。



 週報p.2に東京スカイツリーを下から見上げている写真を載せました。去年の秋、東京スカイツリーに行き、写真を撮って来ました。スカイツリーの高さは634メートルです。高さを覚えてもらいやすいように、ちょうど634(むさし)にしたそうです。634メートルは、人の身長を1.6メートルとすると400倍です。人の400倍の高さは下から見上げると圧巻で圧倒されます。でも、遠くから眺めるなら、高さに圧倒されることはありません。周囲の建物よりも高いことは分かりますが、遠くからでは小さく見えているだけです。圧倒されるのは、下から見上げた時だけです。同じ様に、もし私たちがイエス様を遠くから眺めているだけならイエス様は小さくしか見えません。ですから私たちはモーセの時代の人々が青銅の蛇を見上げたように十字架の真下に行って、イエス様を見上げたいと思います。

 イエス様は天の父と一つのお方であり、同時に御霊とも一つのお方であり、アブラハムが生まれる前の天地創造の初めの時からおられ、現代にもおられ、終わりの時にもおられる壮大なお方です。これほど大きなお方に守られているからこそ、私たちは大きな平安を得ることができます。

③狭い門のイエス様は一人ずつしか通れない
 先週の午後は「狭い門」について語られました。週報p.2のマタイ7章13節と14節をお読みします。

マタイ7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 マタイの福音書とヨハネの福音書を合わせて読むなら、この狭い門とはイエス様のことでしょう。なぜなら、ヨハネ10章でイエス様は「わたしは門です」と言っておられるからです。ヨハネ10章9節です(週報p.2)。

ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。

 門であるイエス様を通って神の国に入るには、イエス様の十字架のすぐ下にまで行く必要があります。すると、そこは意外と広い門であることが分かるでしょう。スカイツリーも遠くからではマッチ棒や針のような細い棒でしかありませんが、近づくなら人が余裕で通れる広い門があります。門であるイエス様も近くに行けば広い門です。ただし、イエス様の門は一人ずつしか通れません。一人一人がイエス様と出会って、イエス様に通していただく必要があります。ですから、もし急に「終わりの時」が来て、人々が殺到してしまうと、狭い門になってしまいます。でも普段の時なら余裕で門の中に入れていただくことができますから、まだイエス様と出会っていない方には、早く出会っていただきたいと思います。

 先週の午後の説教のサブタイトルは「狭い門はスッと通る」でした。講師の先生は、狭い門をスッと通れるのは、自分は無力で小さな者だと自覚する者だとおっしゃっていました。自分を無力で小さい者だと認めない者はイエス様から遠く離れていますが、弱さを認める者はイエス様に近づいて行きますから、門は大きく広がります。この「遠い・近い」は、もちろん心の中の話です。人間同士の場合でも、隣にいる人でも心は離れていることがありますね。イエス様も同じです。イエス様はいつも私たちと共におられ、すぐ近くにいて下さいますが、私たちの心がイエス様から離れていれば、イエス様の門は狭い門になります。

 イエス様が十字架に付けられた時、女たちは「遠く」から見ていたとマタイ・ルカ・ヨハネの福音書は書いています。たとえばマタイ27:55(週報p.2)、

マタイ27:55 そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。

 マタイだけでなくマルコとルカも、女たちはイエス様の十字架を遠くから(マルコ15:40)、或いは離れた所から見ていた(ルカ23:49)と書いています。しかし、ヨハネは女たちが十字架の「そば」にいたと書いています。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

 どちらが実際にあったことでしょうか?もちろんマタイ・マルコ・ルカのほうでしょう。十字架は見るに耐えない残酷な死刑ですから、女性が近くで見ることができたとは到底考えられません。特に母のマリアには耐えられないことだったでしょう。では、なぜヨハネは女たちが十字架のそばに立っていたと書いたのでしょうか?

 それは、ヨハネの福音書がイエス様との遠い・近いの距離を肉の物理的な距離でなく、心の距離、霊的な距離で書いた書だからです。そうしてヨハネは読者が十字架のイエス様に霊的に大胆に近づくことができるようにしました。マタイ・マルコ・ルカの女たちも物理的な距離は離れていましたが、心は十字架のイエス様のすぐそばにいて、イエス様と一緒に苦しんでいました。ヨハネはこの心の中を描きました。そうしてヨハネはこの福音書によって読者が単にイエス様と出会うだけでなく、十字架に大胆に近づいて狭い門から神の国に入ることができるようにしました。そうして、イエス様の十字架の真下に大胆に近づいた読者はイエス様の門を通って滅びを免れ、永遠の命をいただくことができます。

おわりに
 最後にもう一度、きょうの中心聖句に戻ります。ヨハネ3章14節から16節です。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 14節と16節は切っても切れない深い関係にあります。14節の「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、民数記21:9の出来事のことです(週報p.2)

民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた

 ここからはイエス様がモーセの時代にもいて、ニコデモの時代にもいて、21世紀の現代にもいる永遠の中におられるお方であることが、はっきりと見えています。イエス様が永遠の中におられるお方だからこそ、イエス様を信じる私たちは永遠の命をいただくことができます。

 この永遠の中におられるイエス様を遠くから眺めるだけの針のような小さなお方にすることなく、十字架の真下まで大胆に近づいて、スカイツリーよりももっと大きなお方として仰ぎ見て、イエス様の門の中に入れていただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りいたしましょう。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
コメント

目に見えない世界は無限

2022-08-13 08:24:39 | 祈り会メッセージ
2022年8月11日祈り会メッセージ
『目に見えない世界は無限』
【創世記13:17】

 先聖日の7日の特別集会の説教では講師の先生を通してマタイの福音書の「山上の説教」の箇所から、様々な示唆をいただくことができましたから感謝でした。

 この7日の説教は、きょうの創世記の記事にも関連していることを準備する中で感じました。きょうの聖書箇所は藤本先生の『祈る人びと』の2章の冒頭で引用されている創世記13章17節です。

創世記13:17 「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

 この創世記13章は、これまでアブラムがずっと行動を共にして来た甥のロトと別々の方向に行くことにした時のことが記されています。3節と4節にあるように、アブラムは最初に天幕を張って祭壇を築いた場所に来ました。そして、そこで主の御名を呼び求めました。この「主の御名を呼び求めた」には*印があって、ページの下の脚注に別訳として「主に祈った」とあります。これは前回の12章8節の「主の御名を呼び求めた」と同じで、やはり下の脚注には別訳で「主に祈った」とありました。

 このことから、前回は祈りとは先ず、主の御名を呼び求めて主を意識することから始まるという話をしました。アブラムはどこに行っても祭壇を築いて主の御名を呼び求めて祈りましたから、心がいつも主の方を向いていました。神様は目に見えない存在ですが、天地万物を創造した、とてもスケールの大きなお方です。アブラムの心はいつも、そのスケールの大きなお方がいる目に見えない世界の方を向いていました。

 先日の礼拝説教では講師の先生がイエス様の「山上の説教」のマタイ6: 33「まず神の国と神の義を求めなさい」から、目に見えない世界を大切にすることの重要性を説いて下さいました。アブラムは、この見えない世界の方を向いていました。一方、甥のロトはそうでは無かったようです。

 この時、アブラムとロトの家畜の数が増えて一つの場所では飼うことができなくなったため、二人は別々の方向に行くことにしました。アブラムは9節でロトに言いました。

創世記13:9 「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」

 このアブラムの提案を受けて、ロトは見た目が良い方の土地を選びました。10節と11節、

10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。

 この箇所を読んで思うことは、アブラムはどちらの方向へ行ったとしても、主に祝福されたであろう、ということです。アブラムはどこへ行っても、まず祭壇を築いて主の御名を呼び求め、そうして祈りました。アブラムは目に見える世界ではなく、目に見えない世界に重きを置いていました。そういう者を主は祝福して下さいます。

 さて、ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われました。14節から17節までをお読みします。

14「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

 この17節が、藤本先生の本の『祈る人びと』の第2章の中心聖句です。ここから示されたことを今夜は分かち合いたいと思います。藤本先生は、全然違う話をこの本の中でしていますが、この祈り会では同じ聖句から、今の私が導かれていることを話したいと思っています。この『祈る人びと』は20年近く前の説教が基になっていますから、藤本先生ご本人も、きっと20年後の今は同じ聖句からでも違うことを語られることと思います。

 さて、今夜私がイエス様から宣べ伝えるようにと示されていることは、「目に見えない世界は無限である」ということです。私たちはどうしても目に見える世界の物事に囚われがちです。ロトもそうでした。でも目に見える世界の物事は有限です。それに対して目に見えない世界は無限の世界です。聖書の神様もとてもスケールの大きなことをおっしゃっています。それなのに私たちは、目に見える世界に支配されてしまっているために、神様のスケールの大きなことばを小さくしてしまっていることが多いのではないでしょうか。難しい言葉を使うなら私たちは神様のことばを「矮小化する」傾向があります。矮小化するとは、本当は大きいのに、小さくまとめてしまうことを言います。

 今回の思い巡らしで私は創世記13章の14節から17節までを新約の光を当てて読むことで、もっと大きなスケールで読むことを示されました。このことで、このアブラムへの主のことばが、イエス様の大宣教命令のことばとして聴こえて来ました。たとえば14節と15節の、

14「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。」

 ここからは、使徒の働き1章8節のイエス様のことばが聴こえて来ました。使徒1章8節、

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 そして16節と17節の、

16 「わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

からは、マタイ28章のイエス様のことばが聴こえて来ました。マタイ28章18節から20節、

マタイ28:18 「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 新約の光を当てて創世記13章を読むなら、アブラハムの子孫は肉的な子孫ではなくて霊的な信仰の子孫として見えて来ます。アブラハムの肉的な子孫はイスラエルの民ですが、信仰の子孫であれば私たち日本人のクリスチャンをも含む、全世界のクリスチャンがアブラハムの子孫です。

 マタイの福音書の1章にある系図はアブラハムから始まってダビデ王を経てイエス様の父親のヨセフの代までが記されています。そうしてイエス様はヨセフの子としてこの世に生まれて最後のマタイ28章でイエス様は今お読みしたように弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃいました。

 こういう大きなスケールで読むことができるのが聖書の醍醐味だと思います。1世紀の使徒たちもそうやって、新約の光を旧約聖書に当てて読んでいました。たとえばマリアが聖霊によって身ごもった時、それはイザヤ書7章14節の「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」が成就するためであったとマタイは1章で書きました。それは新約の光を当ててイザヤ書を読んでいるということです。その他にも福音書には「主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現がたくさん出て来ますね。

 新約の光を旧約聖書に当てて読む時、目に見えない世界のスケールは無限に広がって行きます。これが聖書の醍醐味だと思います。でも私たちは目に見える世界に縛られていて、聖書の神様のことばを小さな私たちと同じ程度に小さくしてしまう傾向があるようです。

 77年前の終戦後、キリスト教の教会には多くの人々が集まりました。戦争によってほとんど全てを失った日本人にとって聖書の神様のスケールの大きなみことばが無限の可能性を示してくれて、人々に大きな希望を与えました。でも段々と物質的に豊かになり、目に見える宝物が増えて行ったことで、次第に目に見えない世界のスケールの大きさが見えづらくなって来たのではないか、そんな気がしています。そうして、聖書の神様のことばを小さくして、いただける恵みも小さくして、聖書を魅力に乏しい書物にしてしまっているのかもしれません。

 教会から人が減り、牧師が減って教会自体が減っている中、私たちは今一度、神様のみことばのスケールの大きさに思いを巡らす必要があるのではないか、イエス様はそのようにおっしゃっていることを感じます。ですから祈り会と礼拝では、大きなお方に目を向けることをして行きたいと思います。お祈りいたします。

14「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
コメント

東京スカイツリーとイエス

2022-08-08 06:13:07 | 折々のつぶやき
 学生時代から2022年の今に至るまで40年以上愛読している漫画『三丁目の夕日』(ビッグコミックオリジナルで連載中)が映画化された2005年、私は封切り後すぐに映画『ALWAYS三丁目の夕日』を観に行きました。建設途中の東京タワーのシーンがとても印象に残る映画でした。東京タワーが完成したのは1958年、私は翌年の1959年の生まれで、建設途中の東京タワーのことなど想像したこともありませんでしたから、『ALWAYS三丁目の夕日』には意表を突かれました。

 その建設途中の東京タワーのシーンが印象に残っていたからでしょうか、東京スカイツリーが建設されていた当時、段々と上に伸びて行く様子を興味深く眺めていました。神学校の2年生だった2009年はインマヌエルの深川教会、3年生だった2010年は船橋教会へ日曜日ごとに通いましたから、建設途中の東京スカイツリーを見ることができました。スカイツリーの建設期間は2008年~2012年とのことで、私が神学生だった4年間と時期がピタリと一致しますから、何だかとても親しみを感じます。

 東京スカイツリーの高さは634メートルだそうです。武蔵の国に立つ、この塔の高さを覚えてもらいやすいように、634(むさし)としたそうです。この高さは身長が1.6メートルの人の約400倍です。スカイツリーのすぐ下に行って上を見上げる時、この高さには圧倒されます。しかし当然ですが、遠く離れた所から見るスカイツリーは小さいですから、その高さに圧倒されることはありません。


東京スカイツリー(2021年10月18日筆者撮影)

 このことは聖書の読み方と通じるところがあるように思います。たとえばヨハネの福音書3章にはイエスとニコデモの会話の場面があります。読者はイエスをニコデモと同じ人間サイズで思い浮かべることが多いと思います。でも、ここにいるイエスは時空を超えた天のイエスです。天のイエスのスケールは壮大ですから、ニコデモよりも遥かに大きくて、太陽と月ほどの違いがあります(本当はもっと大きな違いがあると思いますが、違いすぎると分かりづらいので太陽と月の違いに留めておきます)。

 太陽の直径は月の直径の約400倍です。しかし、地球から見ると太陽と月は同じぐらいの大きさに見えます。太陽は地球から離れていますが、月は地球の近くにあるからです。それゆえ離れた所にある太陽は月と同じくらいに見えます。東京スカイツリーが人間の身長の400倍もあるのに、遠くからだと小さく見えるのと同じです。

 ヨハネの福音書3章の登場人物のニコデモはパリサイ人であると書かれていますから、モーセの律法を厳格に守っています。その、律法を守るニコデモにイエスは聖霊の話をしています。律法はモーセを通して天の父から人々に与えられました。7月の礼拝説教で話したように、天のイエスは聖霊を父のもとから預言者たち(旧約の時代)と弟子たち(新約の時代)に遣わしています(ヨハネ15:26)。この聖霊を通してイエスは父のことばを預言者たちと弟子たちに伝えています。つまり、律法は天のイエスが旧約の時代のモーセに伝えました。そして天のイエスは新約の時代の弟子たちと私たちにも聖霊を通してことばを伝えています。

 ヨハネ3章のイエスは旧約の律法を守るニコデモに新約の聖霊の話をしていますから、旧約と新約の両方の時代に同時にいる時間的スケールが大きな天のイエスです。それゆえ、もしヨハネ3章のイエスをニコデモと同じ人間サイズで読むなら、それは太陽を地球から見るようにイエスを離れた所から見ていることになるでしょう。イエスのすぐそばにもっと大胆に近づくなら、スカイツリーを下から見上げるように、スケールの大きなイエスが見えるだろうと思います。

 次の8月14日の礼拝説教ではヨハネ3章のイエスとニコデモの会話の場面を、さらに深めたいと願っています(なお、8月7日の礼拝説教は特別講師が担当しましたから、本ブログにはアップしません)。
コメント

主に意識を向けることから始める祈り(2022.8.4 祈り会)

2022-08-06 04:32:40 | 祈り会メッセージ
2022年8月4日祈り会メッセージ
『主に意識を向けることから始める祈り』
【創世記4:26、12:8】

<前半>
創世記4:26 セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々はの名を呼ぶことを始めた。
 
 きょうの祈り会から、藤本満先生の『祈る人びと』(いのちのことば社 2005)を基にした説教をします。この『祈る人びと』は「アブラハムの祈り」から始まりますが、その前にきょうの前半は、アブラハムの前のセツの箇所を見ておきたいと思います。

 セツは25節に書いてあるように、アダムとエバの息子です。そして、セツにエノシュが生まれた頃から、人々はの名を呼ぶことを始めたと26節にあります。この「の名を呼ぶことを」には*印がありますからページの下の脚注を見ると、別訳として「に祈ることを」とあります。

 実は新改訳第3版では、本文に「に祈ることを始めた」とありました。そして別訳として「の御名を呼ぶことを」が脚注にありました。ここからは「祈りとは何か」、或いは「祈るとは、どういうことか」について大切なことが学べるように思います。

 それは、「祈る」とは自分の願い事を並べ立てる以前に、まず主の名を呼ぶことが大切であるということです。イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えた時も、まず「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)から始めることを教えましたね。ですから私たちは「主の祈り」では「天にまします我らの父よ」と、父を呼ぶことから祈りを始めます。

 父の名を呼ぶ、或いは主の名を呼ぶとは、意識を天の神様に向けるという意味合いが大きいのだと思います。私たちは、ともすると決まり文句的に「天の父なる神様」と言ってしまって、自分の意識を天の父にしっかりとは向けていないことがあるかもしれません。私自身を振り返ると、そのようなことが多いと思います。特に、祈祷会や礼拝で人前で祈る時などは、そういう傾向があります。自分一人で祈る時には天の父に意識を向けていても、人前で祈る時には、つい人を意識してしまいます。

 また、現代の私たちは人工物に囲まれていますから、意識を神様に向けにくい状況にあります。セツの時代には人工物がほぼ無かったでしょうから、意識を神様にしっかりと向けやすかったでしょう。セツたちは大自然の中で暮らしていましたから、神様が造られた物の中で暮らしていました。すると、意識も神様のほうに向けやすいでしょう。私たちの場合は、周囲に人工物があることで神様に意識を向けることに苦労しますが、セツの時代にはそのようなことがありませんでした。

 さらに言うなら、人工物に囲まれて暮らしている現代の私たちは、神様を小さな存在にしてしまうことにも注意しなければならないでしょう。「天の父なる神様」と呼び掛けておきながら、大きな神様を意識することなく、自己の狭い範囲の願望だけを祈るとしたら、神社で祈るのとあまり変わらない気がします。教会に導かれる前に神社で祈っていた時の私は、その神社の神がどんな神なのかも知らずに、ただ自分の願望だけを並べていました。ですから、今はそうならないように大きな存在である天の父とイエス様を意識して祈ります。但し、人前で祈る時には、つい人を意識してしまう傾向がありますから、気を付けるようにしたいと思います。いつでもスケールの大きな天の父とイエス様を意識しながら、祈れるようになりたいと願っています(前半は、ここまでにします)。

<祈りの時>

<後半>
創世記12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 今夜からしばらくの間、祈り会では藤本満先生の著書『祈る人びと』を基にして、この本から示されたことなどを分かち合いたいと願っています。この本の最初の章の聖句が創世記12章8節です。

 この『祈る人びと』は高津教会の2003年の元旦礼拝からの1年あまりの礼拝説教をまとめたものです(「あとがき」には2002年の元旦とありますが、正しくは2003年の元旦です)。私が高津教会に通い始めたのは2001年の8月で、その頃はガラテヤ書の講解説教が2002年まで続いていました。そうして、2003年から旧約聖書の「アブラハムの祈り」から始まる『祈る人びと』の一連の説教シリーズが始まりました。2002年まではガラテヤ書が中心で、クリスマスやイースターの時期には福音書が開かれましたから、私が高津教会に通い始めてからの礼拝説教は1年以上、新約聖書からがほとんどだったと思います。当時の私はまだ自宅で聖書を読む習慣がなかったので、2003年からの『祈る人びと』のシリーズによって、初めて旧約聖書の世界に本格的に足を踏み入れました。それゆえ私個人にとっても思い入れの深い説教シリーズです。

 さて、いま読んだ12章8節の最後には「彼」、すなわちアブラムが「のための祭壇を築き、の御名を呼び求めた」とありますが、ここにもページの下に脚注があり、別訳として「に祈った」とあります。

 藤本先生はここで、アブラムが行く先々で「祭壇を築いた」ことに注目しています。8節の手前の7節にも、「祭壇を築いた」とありますね。7節、

7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

 祭壇には、いけにえを献げます。祈る側の人間は罪で汚れていますが、神様は完全できよいお方です。神様は汚れた人間が近づくことができないほどに、きよいお方ですから、神様と人間との間には大きな隔たりがあります。その隔たりを埋めるのが祭壇であり、祭壇を築いていけにえを献げることで、罪深い者であっても主の御名を呼び求めて祈ることが許されます。

 この祭壇とは、現代の私たちにとっては十字架です。私たちも罪で汚れた者たちですが、イエス様の十字架によって天の父に大胆に近づくことが許されるようになりました。この祭壇の意識、すなわち十字架の意識を常に持ちつつ、祈る私たちでありたいと思います。

 以上の祭壇意識、十字架意識は『祈る人びと』に書かれていることですが、今回、このこと以外で示されたことがありますから、それを分かち合いたいと思います。それは、祭壇と十字架の背後におられる神様は天地万物を創造したスケールの大きなお方である、ということです。アブラハムがいけにえを献げるために築いた祭壇は、そんなに大きなものではないでしょう。動物を一頭置けるぐらいの小さなものではないかと思います。しかし祭壇は小さくても、祭壇の周りは大自然です。祭壇は周囲に人工物がほとんどない大自然の中に築かれていて、スケールの大きな神様と一つになっています。

 一方で、現代の私たちが祈りを献げる場の十字架は人工物に囲まれていますから、アブラハムの時代のようにはスケールの大きな神様を想像できていない気がします。しかし、昔も今も天の父なる神様は大きなスケールのお方です。そして、十字架に掛かったイエス様はその大きな神様と一つのお方です。イエス様は、エルサレムの宮でユダヤ人たちに言いました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(ヨハネ8:58)。十字架の背後におられる「わたしはある」であるとおっしゃる神様はスケールの大きなお方です。スケールが大きいとは空間的に大きいだけでなく、時間的にも初めから終わりまでの大きさのスケールです。私たちは自分の小さなスケールの中に神様を当てはめてしまうことがないよう、気を付けたいと思います。

 イエス様は、すべてを手放し、すべてを天の父にゆだねました。イエス様は十字架で息を引き取る時、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」とおっしゃいました。私たちも、十字架の前で祈る時には、できる限りの思いを手放して、祈ることができたらと思います。イエス様はすべてを手放しましたが、私たちは私たちの小さな生活を守るためにすべてを手放すことはできません。でも、できる限り手放すことができたらと思います。

 イエス様は、十字架を目前にした最後の晩餐の後で、このように祈りました。

マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様は、「この杯をわたしから取り去ってください」という、たった一つの願いさえも手放して、天の父にすべてをゆだねました。私たちは、イエス様のようにはすべてを手放すことはできませんが、せめて神様を自分の小さなスケールの中に当てはめてしまうことは手放したいと思います。スケールの小さな神様ではなく、大きな神様に意識を向けることができる時、いただく恵みもまた大きなものになります。きょうの前半では、祈ることとは、まずは神様の御名を呼び求めて意識を神様に向けることだと話しました。そこから祈りが始まります。その神様に意識を向ける時、神様を小さくしてしまわないように、気を付けたいと思います。

 アブラハムが祭壇を築いた場所は大自然の中にあり、祭壇は天地万物を創造したスケールの大きな神様と一つになっていました。そうしてアブラハムたちはの御名を呼び求めて、大きなお方である神様に意識を向けながら祈りました。このことを覚えて、私たちも十字架に向かう時は主の御名を呼び求めて、大きなお方に意識を向けたいと思います。お祈りいたします。

創世記12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。
コメント

天のイエスに会える福音書(2022年7月の礼拝説教のまとめ)

2022-08-02 04:44:27 | 礼拝メッセージ
天のイエスに会える福音書

 7月の5回の礼拝説教で伝えたかったことを、短くまとめておきたいと思います。

 20世紀まで見えていなかった天のイエスが、21世紀になって何故か急に見えるようになりました。たとえるなら土砂の流入で濁っていた海の水が澄んで透き通るように、21世紀になってヨハネの福音書が透き通って来て、天のイエスが透けて見えるようになりました。

 なぜ急に透けて見えるようになったのか?このことを通して、神様は現代の私たちに向けてどのようなメッセージを発しているのか?神様のメッセージが分かれば、コロナ禍、異常気象、戦争などで悪くなる一方の今の世を、正しく歩んで行くことができるはずです。

 私が強く望んでいることは、まずは天のイエスが透けて見えている事実を多くの方々と共有することです。天のイエスを共有できれば、神様が今どんなメッセージを発しているのかについての意見交換ができます。

 しかし、大半の人が20世紀までの読み方で福音書を読んでいます。すなわち、ヨハネの福音書もマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じ様に地上生涯のイエスを描いた書であると思い込んだ上で読んでいます。それゆえ、ヨハネの福音書の中にいる天のイエスに気付かないようです。先ずはこの現状が変わって、ヨハネの福音書の中にいる天のイエスに会ってほしいと強く望みます。

 このことを望みながら、7月は次の5回の説教を行いました。

・7/3「わたしは決して追い出しません」(ヨハネ6:27~32)
・7/10 「わたしのことばは霊であり、いのちです」(ヨハネ6:60~69)
・7/17 「いまだかつて神を見た者はいないとは?」(ヨハネ1:18)
・7/24 「古い自分から解き放って下さるキリスト」(ヨハネ1:43~51)
・7/31 「あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました」(ヨハネ2:1~11)

 ヨハネの福音書を読む上で最も大事なことは、この福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の書であるという先入観を捨てて読むことでしょう。記者のヨハネもわざわざ「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)という極めて独創的な書き出しを用いてマタイ・マルコ・ルカとは根本的に違う書であることを明示しているのですから、素直にヨハネ独自の世界に入り込むべきです。

 まず先入観を捨てて、その上でこの福音書を始めから終わりまで何十回か読むなら、天のイエスが地上の預言者たちや弟子たちに聖霊を通してことばを伝えている様子が段々と見えて来るでしょう。詳しくは7月の5回の説教を読んでいただきたいのですが、簡単に言えば、ヨハネの福音書のイエスは多くの場合、父(神)と共に天にいて、天から地上に聖霊を遣わしています。そうして聖霊を通して父のことばを旧約の時代の預言者たち、そして新約の時代の弟子たちや私たちに伝えています。従って、旧約聖書の神のことばは天のイエスが聖霊を通して預言者たちに伝えたものだと、記者のヨハネは書いています。

 つまりヨハネの福音書は天にいるイエスを描いている書であり、地上のイエスを描いているマタイ・マルコ・ルカの福音書とは根本的に異なる書です。そして、このことが分かって天のイエスが見えた読者は、天のイエスに会ったことになります。私たちは地上での生涯を終えて天に召される前から、天のイエスに会うことができるのです。そうして、心の深い平安を得ることができます。

 多くの人が天のイエスに会って心の平安を得て、そうして神様からのメッセージを受け取るなら、この世は平和になるはずです。今の悪くなる一方の流れから方向転換して、良い方向へと向かう筈です。このことを信じて、もうしばらくの間はヨハネの福音書からの説教を続けることにしたいと思います。


澄んで透き通っている沼津・大瀬崎の海。対岸の山は愛鷹山と富士山(2018年7月20日筆者撮影)
コメント