2014年9月28日礼拝メッセージ
『平和という神公認のバベルの塔の建設を目指して』
【創世記11:1~9/ヨハネ12:32】
はじめに
先聖日は聖餐式の恵みに与ることができて感謝でした。イエス・キリストが十字架に向かう直前に持たれた最後の晩餐に私たちもまた招かれており、ともに食事をする特権がイエス・キリストを信じる者には与えられていることを心から感謝に思います。
さて、この聖餐式を経て私の中でまた一段と聖書理解が進んだように感じていますので、きょうは、そのことについて話をさせていただきたいと思います。
もっと重要視されるべきバベルの塔の記事
その、私の中で進んだ聖書理解とは、バベルの塔の建設は神が認めたものであれば良いことなのではないか、そしてその「神公認のバベルの塔を建設すること」とは「平和をつくること」ではないかということです。平和は黙って大人しくしていれば築かれるというようなものではなく、つくるものではないかと思います。だからこそイエス・キリストは「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言っておられるのだと思います。その「平和をつくること」とは「神公認のバベルの塔を建設すること」ではないかという思いが今私の中では強くしています。
「バベルの塔」は、教会学校の教材の『成長』でも最近学ばれた箇所ですが、思うに、この箇所は悪いこととしてしか、これまで語られて来なかったと思います。神から離れた人間が自分たちの手で勝手に天に届く塔の建設を企てたことを、神を恐れぬ悪いこととして語られます。確かに神を離れてこのようなことを勝手にすることは悪いことでしょう。しかし、もしこの塔の建設が神公認の事業であったなら、人類皆が一つになって協力し合って天に届くような塔を作ることは、とても良いことなのではないでしょうか。
そう考えると、このバベルの塔の記事が創世記12章の直前に置かれていることが、とても意味深く感じられます。バベルの記事の後ろの12章にはアブラハムが父テラの故郷を離れ、カナンの地に向けて出発したことが書かれています。イスラエルの歴史は、この創世記12章のアブラハムの出発から始まります。このアブラハムの出発は、バベルで散らされた人類が、もう一度イエス・キリストの十字架の下に集められて平和を建設するための出発点だったのではないか、と思うわけです。つまり人類がバベルから散らされたこととアブラハムの出発、そしてイエス・キリストの十字架とはワンセットで語られなければならないのではないかと思うわけです。イエス・キリストの十字架の出来事から2千年経った今でも未だに世界が混迷していて、混迷の度がますます深まっているように見えるのは、人類がバベルから散らされたままになっているからではないでしょうか。それはもしかしたら、教会で「バベルと十字架」がワンセットで語られることが無いからではないか、そんな思いが私の中では今、強くしています。私たちは聖書の部分部分を断片的に読んでしまいがちですが、聖書は全体のつながりを意識しながら読むべき書物です。そしてバベルの塔の記事は実は十字架と強いつながりを持つのではないかと思うわけです。
バベル、アブラハム、そして十字架
後でもう一度もう少し詳しく話すつもりでいますが、今私が何を言おうとしていたのかを確認していただくために、鍵となる聖句を急ぎ足で見ておきたいと思います。まず創世記11章の8節と9節、
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
この8節と9節には、主が人々をバベルの地から散らしたことが書かれています。そして、この11章の次の12章には、主がアブラハムに出発を促すことばが記されています。12章の1節と2節をお読みします。
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
イスラエルの歴史は、ここから始まりました。そうしてイエス・キリストの十字架へと向かって行きます。イエス・キリストの十字架はすべての人々を一つに集めます。そのことがヨハネの福音書12章32節に書かれています(新約聖書p.205)。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。
この後の33節に、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」とありますから、32節の「わたしが地上から上げられる」というのはイエスの十字架のことです。イエス・キリストは自分が十字架に付けられるなら、すべての人を引き寄せるとおっしゃいました。これは、創世記の時代に主がバベルの地から散らした人々を、もう一度集めるということではないでしょうか。こうしてイエス・キリストの十字架の下に人々が集まる時、平和が築かれます。しかし、十字架から2千年が経った現代においても平和が実現する気配は全くありません。それどころか、世界の混迷は一層深まっています。「イスラム国」というテロ組織の暗躍によって世界の混乱は一層拍車が掛かっていると言って良いでしょう。人類は未だに創世記のバベルの時代の主の介入による混乱が続いたままになっています。それは実は、私たちがバベルの塔の出来事をアブラハムの出発と十字架とをワンセットにして理解しようとしていないからではないかというのが、今の私の考えです。今の聖書の読まれ方では、ノアの洪水とアブラハムの出発に挟まれたバベルの塔の出来事は、何だか宙に浮いたような状態になってしまっています。聖書がこのように断片的な読まれ方をされているから、私たちは未だに平和を実現できないのではないか。聖書がこのように断片的に読まれがちなのは、私たちがヨハネの福音書を十分に理解していないからではないか。ですから、これから私たちはヨハネの福音書をもっと深く理解して聖書全体のつながりを意識した読み方をしなければならない、バベルの塔の出来事もアブラハムと十字架とのワンセットで理解すべきではないかと思うわけです。
以上が、きょう話したいことの概略で、これからもう少し詳しく話して行くことにします。
言葉は一つ、時間は一つ、場所は一つ
まずバベルの塔の話を、ごく簡単におさらいしておきましょう。創世記11章をもう一度、開いて下さい。飛ばし飛ばしに読みますが、まず1節、
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
この11章の前には何が書かれていたかというと、創世記1章が天地創造のこと、2章にはエデンの園のこと、3章はアダムとエバがエデンの園で罪を犯して追放されたこと、4章はカインがアベルを殺したこと、5章はアダムからノアまでの家系図、6章から9章までがノアの洪水の話、そして10章にはノアの息子のヤベテとハムの子孫の系譜が記されています。そうして11章に入り、その頃の人々の話ことばは一つであったことが1節で述べられています。そして、少し飛ばして4節、
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
この天に届く塔を作ろうと人々が計画したことを神である主は非常に憂慮しました。6節と7節、
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
そうして、8節と9節で読んだように主は人々のことばを混乱させて、彼らをバベルから全地へと散らしました。そして現代に至るまで私たちの世界は混乱したままになっています。イエス・キリストの十字架は、このバベルの出来事による混乱を治めて人類が一つになるためのものであったのに、私たちがそれをあまり理解していないために、混乱が治まっていないのではないかと思います。ですから私たちがすべき平和を作ることとは、実は神公認のバベルの塔を建設することではないかと思います。
ヨハネの福音書には、皆が一つになるべきことが書かれていますが、それは一つになって平和という神公認のバベルの塔を建設するためであると考えるとバベルの塔の記事が宙に浮いてしまわずに聖書全体を一まとまりにして理解することができます。
週報のp.3のメモ欄の上に書きましたが、平和という神公認のバベルの塔の建設現場では、
①言葉は一つ(聖書)、
②時間は一つ(永遠)、
③場所は一つ(十字架)
です。
言葉は聖書の神のことばによって一つになっています。時間も神の永遠の下で一つになっています。場所もまた十字架の下で一つになっています。つまり、これらは現実的な時間・空間のことではなく、霊的な時間・空間のことです。そしてヨハネの福音書には、私たちはこのような霊的な時間・空間において神のことばである聖書によって一つになるべきであることが書かれています。
言葉は聖書によって一つ
では、残りの時間で、これらの三つのことについて、もう少し詳しく見て行くことにします。
まず一つめの、①言葉は一つ(聖書)ということについて。
キリスト教とユダヤ教とは、今は全く別々の宗教ですが、もともとは一つでした。イエス・キリストの教えはユダヤ教の教えの中から派生して、いつしか別々の道を行くようになりましたが、ペンテコステの日にペテロが説教をしていた段階では、まだまだユダヤ教の中に新たな一派が派生した程度のことでした。それが、いつの段階で袂を分かったのか、いろいろと論じられていますが、私はマタイ・マルコ・ルカによる共観福音書がギリシャ語で書かれたことが大きな分かれ道になったと感じています。そして私はヨハネの福音書が書かれた目的の一つは、別々の道を行こうとするユダヤ教とキリスト教とを、元の一つの教えに戻すことであったのではないかと考えています。ユダヤ教の側から見ればギリシャ語で書かれたマタイ・マルコ・ルカの福音書はもはや全く別の宗教として見えたことと思いますし、キリスト教の側でもギリシャ語の福音書を読んだり聞いたりして育った信徒はユダヤ教を全く別の宗教とみなしたことでしょう。バベルでの神の介入によってことばが一つではなくなったことが、十字架で一つになるべき時において悪い方向に働いてしまったと言うことができると思います。そこでヨハネの福音書はそれらを一つにする役割を担っていたと私は考えます。
ヨハネの福音書が描く十字架の場面には、イエスの罪状書きがヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあったと記されています。ヨハネの福音書19章の19節と20節です(新約聖書p.221)。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
イエス・キリストの十字架の下ではことばも一つになります。それは神は一つだからです。ヘブル語聖書の神も、ギリシャ語聖書の神も同じ一つの神です。ヨハネの福音書の冒頭が、
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
で始まるのも、聖書の神のことばはヘブル語で書かれていてもギリシャ語で書かれていても一つなのだということを、先ずここで宣言しているのではないかと思います。そうして、ヨハネは旧約聖書の出来事と共観福音書の出来事と使徒の働きの出来事とを巧妙に重ねて行きます。それはつまり、ヘブル語で書かれた出来事もギリシャ語で書かれた出来事も全ては同じ一つの神によって為された御業であるということです。
こうして平和という神公認のバベルの塔の建設のために集められた人々は、聖書という神のことばによって一つにされています。
時間は永遠によって一つ
次に2番目の②時間は一つ(永遠)、ということについて。
これは私たちが普段の日常生活の中で感じている「流れる時間」ではなくて、「降り積もる時間」の中に身を置くことで感じる【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観のことです。平和という神公認のバベルの塔の建設に従事する人々は、この永遠の時間の中にいます。「流れる時間」の中に身を置いたままでは、平和の実現は難しいことですが、「降り積もる時間」の中に身を置くなら、平和を実現することが可能になります。このことは先日の千本プラザでの特別集会でパワーポイントを使って説明しましたので、きょうは話しませんが、この集会で使ったスライドを教会のブログにアップしてありますから、インターネットを利用することができる方は、是非見てみていただきたいと思います。
さてヨハネの福音書は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」を重ねることで、どの時代にもイエス・キリストが同時に存在していることを示しています。人間的な「流れる時間」の中にいるなら、「イエスの時代」という【現在】から見た「旧約の時代」は【過去】であり、「使徒の時代」は【未来】になります。しかし、ヨハネの福音書のイエス・キリストは、この三つの時代に同時に存在していますから【過去・現在・未来】は一体であり、時間は一つです。
場所は十字架によって一つ
そして最後の3番目の③場所は一つ(十字架)ということについて。
平和という神公認のバベルの塔の建設に従事する者は、十字架という一つの場所に集められています。教会はあちこちの場所にありますが、十字架という霊的な場所はただ一つです。そしてヨハネの福音書では、読者が愛弟子としてイエス・キリストの十字架のそばで現場に立ち会う機会が与えられています。ヨハネの福音書19章の25節から26節には次のように書かれています。
19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
ここにいる「愛する弟子」、すなわち「愛弟子」とは、私たち読者のことです。こうしてヨハネの福音書の読者は、1章でイエス・キリストに出会い、イエスの旅に同行し、そしてイエス・キリストの十字架に立ち会うことで、言葉は一つ、時間は一つ、場所は一つであることを知るようになっていると言えるでしょう。そうして平和という神公認のバベルの塔の建設に携わるように召されているとも言えるでしょう。
平和を実現するために
ヨハネの福音書20章ではイエス・キリストが弟子たちに3度も、
「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)
と言っています。いつも言いますが、これは新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳されています。そうして21節では「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」とありますから、私たちは平和をつくるために遣わされた者たちです。
それはつまり神は私たちが聖書の壮大な物語の中を生きるようにと、私たちを召しているのだとも言えるでしょう。聖書は一つ一つの出来事を断片的に読むのではなく、全体を理解することができるように読むべきです。今回私はバベルの塔の記事についての気付きを通して一層強くそのことを思うようになりました。バベルの塔の記事は、単に神を離れた人間の罪についての記事として読むなら、他の記事とのつながりがほとんど無い宙ぶらりんの記事になってしまいます。残念ながら今までは、そういう読まれ方をされていたのではないでしょうか。
そうではなくて、創世記11章のバベルの塔の出来事は12章でアブラハムが故郷を出発した出来事、そしてイエス・キリストの十字架の出来事とワンセットで読むべきでしょう。神は、バベルにおいて人々を散らした後、イエス・キリストの十字架の下にもう一度人々を集めて一つとしようとしておられます。ヨハネの福音書17章の最後の晩餐におけるイエスの祈りも、今話して来たような聖書全体の物語の中でとらえるべきなのだと思います。最後に、ヨハネの福音書17章をご一緒に読んで、きょうのメッセージを閉じることにしたいと思います。ここでイエス・キリストは皆が一つとなるように父に祈っています。
おわりに
ヨハネの福音書17章の20節から23節までを交代で読みます。21節では、「彼らが一つとなるため」と祈られ、22節では「わたしたちが一つであるように彼らも一つであるため」と祈られ、23節では「彼らが全うされて一つとなるため」というように、私たちが一つになることができるように、何度も何度も「一つとなるため」と祈られています。
このことを味わいながら、20節から23節までを交代で読みましょう。
17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
お祈りいたしましょう。
『平和という神公認のバベルの塔の建設を目指して』
【創世記11:1~9/ヨハネ12:32】
はじめに
先聖日は聖餐式の恵みに与ることができて感謝でした。イエス・キリストが十字架に向かう直前に持たれた最後の晩餐に私たちもまた招かれており、ともに食事をする特権がイエス・キリストを信じる者には与えられていることを心から感謝に思います。
さて、この聖餐式を経て私の中でまた一段と聖書理解が進んだように感じていますので、きょうは、そのことについて話をさせていただきたいと思います。
もっと重要視されるべきバベルの塔の記事
その、私の中で進んだ聖書理解とは、バベルの塔の建設は神が認めたものであれば良いことなのではないか、そしてその「神公認のバベルの塔を建設すること」とは「平和をつくること」ではないかということです。平和は黙って大人しくしていれば築かれるというようなものではなく、つくるものではないかと思います。だからこそイエス・キリストは「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言っておられるのだと思います。その「平和をつくること」とは「神公認のバベルの塔を建設すること」ではないかという思いが今私の中では強くしています。
「バベルの塔」は、教会学校の教材の『成長』でも最近学ばれた箇所ですが、思うに、この箇所は悪いこととしてしか、これまで語られて来なかったと思います。神から離れた人間が自分たちの手で勝手に天に届く塔の建設を企てたことを、神を恐れぬ悪いこととして語られます。確かに神を離れてこのようなことを勝手にすることは悪いことでしょう。しかし、もしこの塔の建設が神公認の事業であったなら、人類皆が一つになって協力し合って天に届くような塔を作ることは、とても良いことなのではないでしょうか。
そう考えると、このバベルの塔の記事が創世記12章の直前に置かれていることが、とても意味深く感じられます。バベルの記事の後ろの12章にはアブラハムが父テラの故郷を離れ、カナンの地に向けて出発したことが書かれています。イスラエルの歴史は、この創世記12章のアブラハムの出発から始まります。このアブラハムの出発は、バベルで散らされた人類が、もう一度イエス・キリストの十字架の下に集められて平和を建設するための出発点だったのではないか、と思うわけです。つまり人類がバベルから散らされたこととアブラハムの出発、そしてイエス・キリストの十字架とはワンセットで語られなければならないのではないかと思うわけです。イエス・キリストの十字架の出来事から2千年経った今でも未だに世界が混迷していて、混迷の度がますます深まっているように見えるのは、人類がバベルから散らされたままになっているからではないでしょうか。それはもしかしたら、教会で「バベルと十字架」がワンセットで語られることが無いからではないか、そんな思いが私の中では今、強くしています。私たちは聖書の部分部分を断片的に読んでしまいがちですが、聖書は全体のつながりを意識しながら読むべき書物です。そしてバベルの塔の記事は実は十字架と強いつながりを持つのではないかと思うわけです。
バベル、アブラハム、そして十字架
後でもう一度もう少し詳しく話すつもりでいますが、今私が何を言おうとしていたのかを確認していただくために、鍵となる聖句を急ぎ足で見ておきたいと思います。まず創世記11章の8節と9節、
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
この8節と9節には、主が人々をバベルの地から散らしたことが書かれています。そして、この11章の次の12章には、主がアブラハムに出発を促すことばが記されています。12章の1節と2節をお読みします。
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
イスラエルの歴史は、ここから始まりました。そうしてイエス・キリストの十字架へと向かって行きます。イエス・キリストの十字架はすべての人々を一つに集めます。そのことがヨハネの福音書12章32節に書かれています(新約聖書p.205)。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。
この後の33節に、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」とありますから、32節の「わたしが地上から上げられる」というのはイエスの十字架のことです。イエス・キリストは自分が十字架に付けられるなら、すべての人を引き寄せるとおっしゃいました。これは、創世記の時代に主がバベルの地から散らした人々を、もう一度集めるということではないでしょうか。こうしてイエス・キリストの十字架の下に人々が集まる時、平和が築かれます。しかし、十字架から2千年が経った現代においても平和が実現する気配は全くありません。それどころか、世界の混迷は一層深まっています。「イスラム国」というテロ組織の暗躍によって世界の混乱は一層拍車が掛かっていると言って良いでしょう。人類は未だに創世記のバベルの時代の主の介入による混乱が続いたままになっています。それは実は、私たちがバベルの塔の出来事をアブラハムの出発と十字架とをワンセットにして理解しようとしていないからではないかというのが、今の私の考えです。今の聖書の読まれ方では、ノアの洪水とアブラハムの出発に挟まれたバベルの塔の出来事は、何だか宙に浮いたような状態になってしまっています。聖書がこのように断片的な読まれ方をされているから、私たちは未だに平和を実現できないのではないか。聖書がこのように断片的に読まれがちなのは、私たちがヨハネの福音書を十分に理解していないからではないか。ですから、これから私たちはヨハネの福音書をもっと深く理解して聖書全体のつながりを意識した読み方をしなければならない、バベルの塔の出来事もアブラハムと十字架とのワンセットで理解すべきではないかと思うわけです。
以上が、きょう話したいことの概略で、これからもう少し詳しく話して行くことにします。
言葉は一つ、時間は一つ、場所は一つ
まずバベルの塔の話を、ごく簡単におさらいしておきましょう。創世記11章をもう一度、開いて下さい。飛ばし飛ばしに読みますが、まず1節、
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
この11章の前には何が書かれていたかというと、創世記1章が天地創造のこと、2章にはエデンの園のこと、3章はアダムとエバがエデンの園で罪を犯して追放されたこと、4章はカインがアベルを殺したこと、5章はアダムからノアまでの家系図、6章から9章までがノアの洪水の話、そして10章にはノアの息子のヤベテとハムの子孫の系譜が記されています。そうして11章に入り、その頃の人々の話ことばは一つであったことが1節で述べられています。そして、少し飛ばして4節、
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
この天に届く塔を作ろうと人々が計画したことを神である主は非常に憂慮しました。6節と7節、
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
そうして、8節と9節で読んだように主は人々のことばを混乱させて、彼らをバベルから全地へと散らしました。そして現代に至るまで私たちの世界は混乱したままになっています。イエス・キリストの十字架は、このバベルの出来事による混乱を治めて人類が一つになるためのものであったのに、私たちがそれをあまり理解していないために、混乱が治まっていないのではないかと思います。ですから私たちがすべき平和を作ることとは、実は神公認のバベルの塔を建設することではないかと思います。
ヨハネの福音書には、皆が一つになるべきことが書かれていますが、それは一つになって平和という神公認のバベルの塔を建設するためであると考えるとバベルの塔の記事が宙に浮いてしまわずに聖書全体を一まとまりにして理解することができます。
週報のp.3のメモ欄の上に書きましたが、平和という神公認のバベルの塔の建設現場では、
①言葉は一つ(聖書)、
②時間は一つ(永遠)、
③場所は一つ(十字架)
です。
言葉は聖書の神のことばによって一つになっています。時間も神の永遠の下で一つになっています。場所もまた十字架の下で一つになっています。つまり、これらは現実的な時間・空間のことではなく、霊的な時間・空間のことです。そしてヨハネの福音書には、私たちはこのような霊的な時間・空間において神のことばである聖書によって一つになるべきであることが書かれています。
言葉は聖書によって一つ
では、残りの時間で、これらの三つのことについて、もう少し詳しく見て行くことにします。
まず一つめの、①言葉は一つ(聖書)ということについて。
キリスト教とユダヤ教とは、今は全く別々の宗教ですが、もともとは一つでした。イエス・キリストの教えはユダヤ教の教えの中から派生して、いつしか別々の道を行くようになりましたが、ペンテコステの日にペテロが説教をしていた段階では、まだまだユダヤ教の中に新たな一派が派生した程度のことでした。それが、いつの段階で袂を分かったのか、いろいろと論じられていますが、私はマタイ・マルコ・ルカによる共観福音書がギリシャ語で書かれたことが大きな分かれ道になったと感じています。そして私はヨハネの福音書が書かれた目的の一つは、別々の道を行こうとするユダヤ教とキリスト教とを、元の一つの教えに戻すことであったのではないかと考えています。ユダヤ教の側から見ればギリシャ語で書かれたマタイ・マルコ・ルカの福音書はもはや全く別の宗教として見えたことと思いますし、キリスト教の側でもギリシャ語の福音書を読んだり聞いたりして育った信徒はユダヤ教を全く別の宗教とみなしたことでしょう。バベルでの神の介入によってことばが一つではなくなったことが、十字架で一つになるべき時において悪い方向に働いてしまったと言うことができると思います。そこでヨハネの福音書はそれらを一つにする役割を担っていたと私は考えます。
ヨハネの福音書が描く十字架の場面には、イエスの罪状書きがヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあったと記されています。ヨハネの福音書19章の19節と20節です(新約聖書p.221)。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
イエス・キリストの十字架の下ではことばも一つになります。それは神は一つだからです。ヘブル語聖書の神も、ギリシャ語聖書の神も同じ一つの神です。ヨハネの福音書の冒頭が、
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
で始まるのも、聖書の神のことばはヘブル語で書かれていてもギリシャ語で書かれていても一つなのだということを、先ずここで宣言しているのではないかと思います。そうして、ヨハネは旧約聖書の出来事と共観福音書の出来事と使徒の働きの出来事とを巧妙に重ねて行きます。それはつまり、ヘブル語で書かれた出来事もギリシャ語で書かれた出来事も全ては同じ一つの神によって為された御業であるということです。
こうして平和という神公認のバベルの塔の建設のために集められた人々は、聖書という神のことばによって一つにされています。
時間は永遠によって一つ
次に2番目の②時間は一つ(永遠)、ということについて。
これは私たちが普段の日常生活の中で感じている「流れる時間」ではなくて、「降り積もる時間」の中に身を置くことで感じる【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観のことです。平和という神公認のバベルの塔の建設に従事する人々は、この永遠の時間の中にいます。「流れる時間」の中に身を置いたままでは、平和の実現は難しいことですが、「降り積もる時間」の中に身を置くなら、平和を実現することが可能になります。このことは先日の千本プラザでの特別集会でパワーポイントを使って説明しましたので、きょうは話しませんが、この集会で使ったスライドを教会のブログにアップしてありますから、インターネットを利用することができる方は、是非見てみていただきたいと思います。
さてヨハネの福音書は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」を重ねることで、どの時代にもイエス・キリストが同時に存在していることを示しています。人間的な「流れる時間」の中にいるなら、「イエスの時代」という【現在】から見た「旧約の時代」は【過去】であり、「使徒の時代」は【未来】になります。しかし、ヨハネの福音書のイエス・キリストは、この三つの時代に同時に存在していますから【過去・現在・未来】は一体であり、時間は一つです。
場所は十字架によって一つ
そして最後の3番目の③場所は一つ(十字架)ということについて。
平和という神公認のバベルの塔の建設に従事する者は、十字架という一つの場所に集められています。教会はあちこちの場所にありますが、十字架という霊的な場所はただ一つです。そしてヨハネの福音書では、読者が愛弟子としてイエス・キリストの十字架のそばで現場に立ち会う機会が与えられています。ヨハネの福音書19章の25節から26節には次のように書かれています。
19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
ここにいる「愛する弟子」、すなわち「愛弟子」とは、私たち読者のことです。こうしてヨハネの福音書の読者は、1章でイエス・キリストに出会い、イエスの旅に同行し、そしてイエス・キリストの十字架に立ち会うことで、言葉は一つ、時間は一つ、場所は一つであることを知るようになっていると言えるでしょう。そうして平和という神公認のバベルの塔の建設に携わるように召されているとも言えるでしょう。
平和を実現するために
ヨハネの福音書20章ではイエス・キリストが弟子たちに3度も、
「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)
と言っています。いつも言いますが、これは新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳されています。そうして21節では「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」とありますから、私たちは平和をつくるために遣わされた者たちです。
それはつまり神は私たちが聖書の壮大な物語の中を生きるようにと、私たちを召しているのだとも言えるでしょう。聖書は一つ一つの出来事を断片的に読むのではなく、全体を理解することができるように読むべきです。今回私はバベルの塔の記事についての気付きを通して一層強くそのことを思うようになりました。バベルの塔の記事は、単に神を離れた人間の罪についての記事として読むなら、他の記事とのつながりがほとんど無い宙ぶらりんの記事になってしまいます。残念ながら今までは、そういう読まれ方をされていたのではないでしょうか。
そうではなくて、創世記11章のバベルの塔の出来事は12章でアブラハムが故郷を出発した出来事、そしてイエス・キリストの十字架の出来事とワンセットで読むべきでしょう。神は、バベルにおいて人々を散らした後、イエス・キリストの十字架の下にもう一度人々を集めて一つとしようとしておられます。ヨハネの福音書17章の最後の晩餐におけるイエスの祈りも、今話して来たような聖書全体の物語の中でとらえるべきなのだと思います。最後に、ヨハネの福音書17章をご一緒に読んで、きょうのメッセージを閉じることにしたいと思います。ここでイエス・キリストは皆が一つとなるように父に祈っています。
おわりに
ヨハネの福音書17章の20節から23節までを交代で読みます。21節では、「彼らが一つとなるため」と祈られ、22節では「わたしたちが一つであるように彼らも一つであるため」と祈られ、23節では「彼らが全うされて一つとなるため」というように、私たちが一つになることができるように、何度も何度も「一つとなるため」と祈られています。
このことを味わいながら、20節から23節までを交代で読みましょう。
17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
お祈りいたしましょう。