平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

平和という神公認のバベルの塔の建設を目指して(2014.9.28 礼拝)

2014-09-29 08:28:15 | 礼拝メッセージ
2014年9月28日礼拝メッセージ
『平和という神公認のバベルの塔の建設を目指して』
【創世記11:1~9/ヨハネ12:32】

はじめに
 先聖日は聖餐式の恵みに与ることができて感謝でした。イエス・キリストが十字架に向かう直前に持たれた最後の晩餐に私たちもまた招かれており、ともに食事をする特権がイエス・キリストを信じる者には与えられていることを心から感謝に思います。
 さて、この聖餐式を経て私の中でまた一段と聖書理解が進んだように感じていますので、きょうは、そのことについて話をさせていただきたいと思います。

もっと重要視されるべきバベルの塔の記事
 その、私の中で進んだ聖書理解とは、バベルの塔の建設は神が認めたものであれば良いことなのではないか、そしてその「神公認のバベルの塔を建設すること」とは「平和をつくること」ではないかということです。平和は黙って大人しくしていれば築かれるというようなものではなく、つくるものではないかと思います。だからこそイエス・キリストは「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言っておられるのだと思います。その「平和をつくること」とは「神公認のバベルの塔を建設すること」ではないかという思いが今私の中では強くしています。
 「バベルの塔」は、教会学校の教材の『成長』でも最近学ばれた箇所ですが、思うに、この箇所は悪いこととしてしか、これまで語られて来なかったと思います。神から離れた人間が自分たちの手で勝手に天に届く塔の建設を企てたことを、神を恐れぬ悪いこととして語られます。確かに神を離れてこのようなことを勝手にすることは悪いことでしょう。しかし、もしこの塔の建設が神公認の事業であったなら、人類皆が一つになって協力し合って天に届くような塔を作ることは、とても良いことなのではないでしょうか。
 そう考えると、このバベルの塔の記事が創世記12章の直前に置かれていることが、とても意味深く感じられます。バベルの記事の後ろの12章にはアブラハムが父テラの故郷を離れ、カナンの地に向けて出発したことが書かれています。イスラエルの歴史は、この創世記12章のアブラハムの出発から始まります。このアブラハムの出発は、バベルで散らされた人類が、もう一度イエス・キリストの十字架の下に集められて平和を建設するための出発点だったのではないか、と思うわけです。つまり人類がバベルから散らされたこととアブラハムの出発、そしてイエス・キリストの十字架とはワンセットで語られなければならないのではないかと思うわけです。イエス・キリストの十字架の出来事から2千年経った今でも未だに世界が混迷していて、混迷の度がますます深まっているように見えるのは、人類がバベルから散らされたままになっているからではないでしょうか。それはもしかしたら、教会で「バベルと十字架」がワンセットで語られることが無いからではないか、そんな思いが私の中では今、強くしています。私たちは聖書の部分部分を断片的に読んでしまいがちですが、聖書は全体のつながりを意識しながら読むべき書物です。そしてバベルの塔の記事は実は十字架と強いつながりを持つのではないかと思うわけです。

バベル、アブラハム、そして十字架
 後でもう一度もう少し詳しく話すつもりでいますが、今私が何を言おうとしていたのかを確認していただくために、鍵となる聖句を急ぎ足で見ておきたいと思います。まず創世記11章の8節と9節、

11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 この8節と9節には、主が人々をバベルの地から散らしたことが書かれています。そして、この11章の次の12章には、主がアブラハムに出発を促すことばが記されています。12章の1節と2節をお読みします。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 イスラエルの歴史は、ここから始まりました。そうしてイエス・キリストの十字架へと向かって行きます。イエス・キリストの十字架はすべての人々を一つに集めます。そのことがヨハネの福音書12章32節に書かれています(新約聖書p.205)。

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

 この後の33節に、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」とありますから、32節の「わたしが地上から上げられる」というのはイエスの十字架のことです。イエス・キリストは自分が十字架に付けられるなら、すべての人を引き寄せるとおっしゃいました。これは、創世記の時代に主がバベルの地から散らした人々を、もう一度集めるということではないでしょうか。こうしてイエス・キリストの十字架の下に人々が集まる時、平和が築かれます。しかし、十字架から2千年が経った現代においても平和が実現する気配は全くありません。それどころか、世界の混迷は一層深まっています。「イスラム国」というテロ組織の暗躍によって世界の混乱は一層拍車が掛かっていると言って良いでしょう。人類は未だに創世記のバベルの時代の主の介入による混乱が続いたままになっています。それは実は、私たちがバベルの塔の出来事をアブラハムの出発と十字架とをワンセットにして理解しようとしていないからではないかというのが、今の私の考えです。今の聖書の読まれ方では、ノアの洪水とアブラハムの出発に挟まれたバベルの塔の出来事は、何だか宙に浮いたような状態になってしまっています。聖書がこのように断片的な読まれ方をされているから、私たちは未だに平和を実現できないのではないか。聖書がこのように断片的に読まれがちなのは、私たちがヨハネの福音書を十分に理解していないからではないか。ですから、これから私たちはヨハネの福音書をもっと深く理解して聖書全体のつながりを意識した読み方をしなければならない、バベルの塔の出来事もアブラハムと十字架とのワンセットで理解すべきではないかと思うわけです。
 以上が、きょう話したいことの概略で、これからもう少し詳しく話して行くことにします。

言葉は一つ、時間は一つ、場所は一つ
 まずバベルの塔の話を、ごく簡単におさらいしておきましょう。創世記11章をもう一度、開いて下さい。飛ばし飛ばしに読みますが、まず1節、

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

 この11章の前には何が書かれていたかというと、創世記1章が天地創造のこと、2章にはエデンの園のこと、3章はアダムとエバがエデンの園で罪を犯して追放されたこと、4章はカインがアベルを殺したこと、5章はアダムからノアまでの家系図、6章から9章までがノアの洪水の話、そして10章にはノアの息子のヤベテとハムの子孫の系譜が記されています。そうして11章に入り、その頃の人々の話ことばは一つであったことが1節で述べられています。そして、少し飛ばして4節、

11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

 この天に届く塔を作ろうと人々が計画したことを神である主は非常に憂慮しました。6節と7節、

11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

 そうして、8節と9節で読んだように主は人々のことばを混乱させて、彼らをバベルから全地へと散らしました。そして現代に至るまで私たちの世界は混乱したままになっています。イエス・キリストの十字架は、このバベルの出来事による混乱を治めて人類が一つになるためのものであったのに、私たちがそれをあまり理解していないために、混乱が治まっていないのではないかと思います。ですから私たちがすべき平和を作ることとは、実は神公認のバベルの塔を建設することではないかと思います。
 ヨハネの福音書には、皆が一つになるべきことが書かれていますが、それは一つになって平和という神公認のバベルの塔を建設するためであると考えるとバベルの塔の記事が宙に浮いてしまわずに聖書全体を一まとまりにして理解することができます。
 週報のp.3のメモ欄の上に書きましたが、平和という神公認のバベルの塔の建設現場では、
 ①言葉は一つ(聖書)、
 ②時間は一つ(永遠)、
 ③場所は一つ(十字架)
です。
 言葉は聖書の神のことばによって一つになっています。時間も神の永遠の下で一つになっています。場所もまた十字架の下で一つになっています。つまり、これらは現実的な時間・空間のことではなく、霊的な時間・空間のことです。そしてヨハネの福音書には、私たちはこのような霊的な時間・空間において神のことばである聖書によって一つになるべきであることが書かれています。

言葉は聖書によって一つ
 では、残りの時間で、これらの三つのことについて、もう少し詳しく見て行くことにします。
 まず一つめの、①言葉は一つ(聖書)ということについて。
 キリスト教とユダヤ教とは、今は全く別々の宗教ですが、もともとは一つでした。イエス・キリストの教えはユダヤ教の教えの中から派生して、いつしか別々の道を行くようになりましたが、ペンテコステの日にペテロが説教をしていた段階では、まだまだユダヤ教の中に新たな一派が派生した程度のことでした。それが、いつの段階で袂を分かったのか、いろいろと論じられていますが、私はマタイ・マルコ・ルカによる共観福音書がギリシャ語で書かれたことが大きな分かれ道になったと感じています。そして私はヨハネの福音書が書かれた目的の一つは、別々の道を行こうとするユダヤ教とキリスト教とを、元の一つの教えに戻すことであったのではないかと考えています。ユダヤ教の側から見ればギリシャ語で書かれたマタイ・マルコ・ルカの福音書はもはや全く別の宗教として見えたことと思いますし、キリスト教の側でもギリシャ語の福音書を読んだり聞いたりして育った信徒はユダヤ教を全く別の宗教とみなしたことでしょう。バベルでの神の介入によってことばが一つではなくなったことが、十字架で一つになるべき時において悪い方向に働いてしまったと言うことができると思います。そこでヨハネの福音書はそれらを一つにする役割を担っていたと私は考えます。
 ヨハネの福音書が描く十字架の場面には、イエスの罪状書きがヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあったと記されています。ヨハネの福音書19章の19節と20節です(新約聖書p.221)。

19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

 イエス・キリストの十字架の下ではことばも一つになります。それは神は一つだからです。ヘブル語聖書の神も、ギリシャ語聖書の神も同じ一つの神です。ヨハネの福音書の冒頭が、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

で始まるのも、聖書の神のことばはヘブル語で書かれていてもギリシャ語で書かれていても一つなのだということを、先ずここで宣言しているのではないかと思います。そうして、ヨハネは旧約聖書の出来事と共観福音書の出来事と使徒の働きの出来事とを巧妙に重ねて行きます。それはつまり、ヘブル語で書かれた出来事もギリシャ語で書かれた出来事も全ては同じ一つの神によって為された御業であるということです。
 こうして平和という神公認のバベルの塔の建設のために集められた人々は、聖書という神のことばによって一つにされています。

時間は永遠によって一つ
 次に2番目の②時間は一つ(永遠)、ということについて。
 これは私たちが普段の日常生活の中で感じている「流れる時間」ではなくて、「降り積もる時間」の中に身を置くことで感じる【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観のことです。平和という神公認のバベルの塔の建設に従事する人々は、この永遠の時間の中にいます。「流れる時間」の中に身を置いたままでは、平和の実現は難しいことですが、「降り積もる時間」の中に身を置くなら、平和を実現することが可能になります。このことは先日の千本プラザでの特別集会でパワーポイントを使って説明しましたので、きょうは話しませんが、この集会で使ったスライドを教会のブログにアップしてありますから、インターネットを利用することができる方は、是非見てみていただきたいと思います。
 さてヨハネの福音書は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」を重ねることで、どの時代にもイエス・キリストが同時に存在していることを示しています。人間的な「流れる時間」の中にいるなら、「イエスの時代」という【現在】から見た「旧約の時代」は【過去】であり、「使徒の時代」は【未来】になります。しかし、ヨハネの福音書のイエス・キリストは、この三つの時代に同時に存在していますから【過去・現在・未来】は一体であり、時間は一つです。

場所は十字架によって一つ
 そして最後の3番目の③場所は一つ(十字架)ということについて。
 平和という神公認のバベルの塔の建設に従事する者は、十字架という一つの場所に集められています。教会はあちこちの場所にありますが、十字架という霊的な場所はただ一つです。そしてヨハネの福音書では、読者が愛弟子としてイエス・キリストの十字架のそばで現場に立ち会う機会が与えられています。ヨハネの福音書19章の25節から26節には次のように書かれています。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。

 ここにいる「愛する弟子」、すなわち「愛弟子」とは、私たち読者のことです。こうしてヨハネの福音書の読者は、1章でイエス・キリストに出会い、イエスの旅に同行し、そしてイエス・キリストの十字架に立ち会うことで、言葉は一つ、時間は一つ、場所は一つであることを知るようになっていると言えるでしょう。そうして平和という神公認のバベルの塔の建設に携わるように召されているとも言えるでしょう。

平和を実現するために
 ヨハネの福音書20章ではイエス・キリストが弟子たちに3度も、

「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)

と言っています。いつも言いますが、これは新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳されています。そうして21節では「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」とありますから、私たちは平和をつくるために遣わされた者たちです。
 それはつまり神は私たちが聖書の壮大な物語の中を生きるようにと、私たちを召しているのだとも言えるでしょう。聖書は一つ一つの出来事を断片的に読むのではなく、全体を理解することができるように読むべきです。今回私はバベルの塔の記事についての気付きを通して一層強くそのことを思うようになりました。バベルの塔の記事は、単に神を離れた人間の罪についての記事として読むなら、他の記事とのつながりがほとんど無い宙ぶらりんの記事になってしまいます。残念ながら今までは、そういう読まれ方をされていたのではないでしょうか。
 そうではなくて、創世記11章のバベルの塔の出来事は12章でアブラハムが故郷を出発した出来事、そしてイエス・キリストの十字架の出来事とワンセットで読むべきでしょう。神は、バベルにおいて人々を散らした後、イエス・キリストの十字架の下にもう一度人々を集めて一つとしようとしておられます。ヨハネの福音書17章の最後の晩餐におけるイエスの祈りも、今話して来たような聖書全体の物語の中でとらえるべきなのだと思います。最後に、ヨハネの福音書17章をご一緒に読んで、きょうのメッセージを閉じることにしたいと思います。ここでイエス・キリストは皆が一つとなるように父に祈っています。

おわりに
 ヨハネの福音書17章の20節から23節までを交代で読みます。21節では、「彼らが一つとなるため」と祈られ、22節では「わたしたちが一つであるように彼らも一つであるため」と祈られ、23節では「彼らが全うされて一つとなるため」というように、私たちが一つになることができるように、何度も何度も「一つとなるため」と祈られています。
 このことを味わいながら、20節から23節までを交代で読みましょう。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 お祈りいたしましょう。
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愛が欠落していた伝道者(2014.9.24 祈り会)

2014-09-24 11:37:50 | 祈り会メッセージ
2014年9月24日祈り会メッセージ
『愛が欠落していた伝道者』
【伝道者2:18~26】

はじめに
 きょうは伝道者の書の2章の残りの部分をご一緒に見ます。
 先週は伝道者の書の前半の部分を見るとともに、ルカの福音書11章の金持ちの農夫の例え話の箇所も、ご一緒に見ました。ある金持ちの畑が豊作だったので作物を蓄える場所がありませんでした。そこで、この金持ちはもっと大きな倉を建てることにして、自分の魂にこう言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。しかし神は彼に言いました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」そうしてイエスさまは最後に、こう付け加えました。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこの通りです。」
 伝道者の場合には、このことの空しさを良く知っていました。金持ちの農夫は、これから先何年も安心して食べて飲むことができることにワクワクしていましたが、伝道者は既にあらゆる楽しみを味わい尽くしていましたから、それが空しいことであることを知っていました。それから先週はまた、伝道者は愚かな者をさげすむ傾向があることも指摘しました。伝道者は愚かな者と一緒に楽しむことを知らず、愚かな者と同じ結末に行き着くことを嘆き、空しさを感じていました。伝道者のこのような傾向は、放蕩息子の兄と似ているようにも思います。

他の書との比較で見えてくる伝道者の姿
 先週、このようにルカの福音書を引用してみて、伝道者の書の書は、この書を単独で眺め回すよりも聖書の他の書と比較することで、伝道者の姿が一層クッキリと見えて来るようになることに気付きました。ですから、きょうも聖書の他の書を引用することにします。きょう引用するのも、やはりルカの福音書です。
 その前に、きょうの伝道者の書の箇所の始めのほうを見ておきたいと思います。きょうの箇所では伝道者は次のように嘆いています。2章の18節と19節、

2:18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。
2:19 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

さらに21節、

2:21 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。


 ここで伝道者は、自分が知恵を使って築いて来た物事を、後継者に譲ることの空しさを嘆いています。このような伝道者の姿を、きょうは放蕩息子の父親の姿と比べてみたいと思います。

放蕩息子の父親との比較
 ルカの福音書15章ですね(新約聖書p.147)。ルカ15章の11節と12節、

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

 ここで放蕩息子の父親は自分の後継者の二人の息子に財産をあっさりと分けてあげました。伝道者がブツブツ言っているのと比べると、随分と違いますね。また、放蕩息子が財産を使い果たして一文無しになって帰って来た時に、父親が息子をどのように迎えたのか、皆さんの多くが良くご存知の箇所ですが、改めて味わってみたいと思います。ルカ15章の20節から24節までを交代で読みましょう。

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 父親は、自分が分け与えた財産を使い果たして帰って来た息子を叱らなかったばかりか、祝宴を始めて祝福しました。父親は、この世の財産に対しては全く淡白です。伝道者がこの世のことに執着しているのとは全く180度異なると言って良いでしょう。すると、伝道者に欠落しているものが段々と見えて来ます。放蕩息子の父親には大きな愛がありましたが、伝道者にはこのような愛が欠落しているように見えます。

愛が欠落していた伝道者
 父親は愚かな弟息子のことを愛しており、また愚かな兄息子のことも愛していました。15章31節で父親は兄息子にこのように言いました。

「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」

 兄息子は弟息子の帰郷の祝宴に加わることができない狭い心の持ち主でしたが、父親はこのように愚かな兄息子のことも愛しており、「私のものは、全部おまえのものだ」と兄息子に言いました。伝道者にはこのような父親の愛が欠落しているように見えます。伝道者は神への信仰心は持っていましたが、神の豊かな愛を自分もまた身に付けるべきであるとは、全く考えていなかったようです。伝道者の書の2章に戻ります。24節から26節に掛けては、「神」ということばが4回も使われています。24節、

2:24 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。

25節、

2:25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

26節、

2:26 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。

 このように伝道者は何度も「神」に言及していますから、一応信仰心は持っています。しかし、最後には、またしても「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」と言って嘆いています。

聖霊が注がれた者が持つべき愛
 伝道者には聖霊が注がれていなかったようですから、これは仕方のないことなのでしょう。しかし、イエス・キリストを信じれば聖霊が注がれる新約の時代の私たちは、キリストに似た者へと変わって行くことが求められますから、神の愛も身に付けていかなければなりません。そうして神の愛を分け与えることができる者へとなって行かなければなりません。
 ヘンリ・ナウエンが書いた『放蕩息子の帰郷』という本には、レンブラントが描いた絵画の『放蕩息子の帰郷』を観たナウエンが思い巡らしことの、心の遍歴が克明に記されています。ナウエンは先ず、自分は弟息子だと思っていました。しかし、ある時、人から「あなたはむしろ兄息子に似ているのではないですか?」と指摘されて、以来、ナウエンは自分は兄息子だと思うようになりました。そんなある日、ナウエンにこう言った友人がいました。「あなたが弟息子であろうが兄息子であろうが、父となるように召されていることに気づくべきです。」
 ナウエンはカトリックの司祭でしたから、なおさら父となるように召されていました。ナウエンの友人はこのことをナウエンに指摘したのだと思います。私についても同様だと思います。キリスト教の伝道者は皆、放蕩息子の父親のような愛を持つように召されているのだと思います。しかし私は、それは伝道者に限らず、クリスチャンの皆が父になるように召されているのだと考えます。それは先ほども言ったように、私たちはキリストに似た者に変わって行かなければならないからです。聖霊が注がれた者は、御霊に導かれて生きるようになり、そのことにより御霊の実を自身の内に実らせるようになります。そうして、キリストに似た者にされて行きます。旧約の時代の伝道者の書の伝道者には聖霊が注がれていなかったようですから、このような御霊の実が実っていなかったと言えるのだと思います。

おわりに
 最後に、ガラテヤ5章の22節から26節までを交代で読んでメッセージを閉じることにします。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 お祈りいたしましょう。
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限りない欲望(2014.9.17 祈り会)

2014-09-18 13:18:12 | 祈り会メッセージ
2014年9月17日祈り会メッセージ
『限りない欲望』
【伝道者2:1~17/ルカ12:13~21】

はじめに
 先週から伝道者の書の学びを始めました。伝道者は「流れる時間」の中を生きているゆえに、苦悩が深いということを、先週はお話ししました。

無限の欲望
 きょうの2章の前半の箇所は、人間の欲望の限り無さを、よく表していると思います。特に2章1節ですね。

2:1 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。

 この1か節だけで、欲望を追求することの空しさをよく表していると思います。これは行き着く所まで行き着いた伝道者だからこそ、言えることなのでしょうね。ほとんどの人は、この書の記者の伝道者のような頂点にまで登り詰めることはないので、一生、欲望を追求し続けることでしょう。そして、その空しさに気付くこともなく死んで行くのかもしれません。
 この2章の前半に書かれている、伝道者が王であった時にしていたことを見ると、日本の豊臣秀吉の姿を思い浮かべたりもします。例えば4節と5節、

2:4 私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、
2:5 庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。

或いは8節、

2:8 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。

 いまNHKの大河ドラマの『軍師官兵衛』では、天下を取った秀吉がこんな感じですね。徳川家康を大坂城に挨拶に来させて従わせ、九州も平定した秀吉には、もはや逆らうことができる大名はいなくなりました。これは、秀吉が非常に優れた知恵を持っていたからであると言えます。伝道者の書の伝道者もそうですね。9節と10節、

2:9 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。
2:10 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。

 秀吉は、もともとが尾張中村の百姓の出だと伝えられていますから、労苦は厭わなかったと思います。優れた知恵を持つ者が労苦を厭わずに働いて、日本を統一することができました。そうして、秀吉はこの先、海外へと出兵して行きます。朝鮮出兵がそれですが、秀吉が目指していたのは朝鮮ではなく中国の明だと言われていますね。秀吉の欲望は、日本の天下を取っただけではまだまだ満たされず、朝鮮、明国にまで及んでいました。もし仮に明国を征服していたら、さらにインドやヨーロッパまで進出することを考えたことでしょう。このように人間の欲望とは果てしないものです。

伝道者の問題点
 伝道者の場合は、このことの空しさに気付いていました。11節です。

2:11 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。

 伝道者が全てを空しいと感じたことの理由の一つが次に書かれています。少し飛ばして14節と15節、

2:14 知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
2:15 私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい」と。

 この伝道者の問題は、知恵の無い愚かな者を見下している点であると言えるでしょうか。伝道者は自分の知恵を自分の欲望を満足させることだけのために使いたいようです。その点で、この書の伝道者は、ルカの福音書の愚かな金持ちの農夫に少し似ているように思います。ルカの福音書12章の13節から21節までを交代で読みましょう。

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 伝道者の書の伝道者は、このルカの福音書の金持ちの農夫と似ている点と似ていない点とがあります。似ている点は、まずは自分の楽しみのために財産を貯め込もうとしたことです。そうして財産を貯め込めば、19節にあるように安心して食べて、飲んで、楽しめると思っていました。しかし、伝道者はこのことの愚かさと空しさに気付きました。これが金持ちの農夫とは違うところです。金持ちの農夫は全く気付いていませんでしたから、20節のように、神に言われました。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
 伝道者は、このことの愚かさと空しさを知っていました。しかし、伝道者の苦悩が深いのは、この空しさからどう脱したらよいかが良くわからなかったからでしょう。伝道者は全ては神の御手の内にあることを知っていました。ですから、21節にあるような神の前に富むべきであることも、何となくわかっていたと思います。

「流れる時間」の中を生きる伝道者の苦悩
 しかし、伝道者は人間的な欲望から、なかなか自由になることはできませんでした。伝道者の書に戻って、2章の16節、

2:16 事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。

 伝道者は人々に記憶されることを望んでいました。これは非常に人間的な思いですね。信仰的には、神様に記憶されることが大事なことです。ルカの福音書の十字架の場面で、イエスさまの隣の十字架の罪人が言いましたね(ルカ23:42)。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 これが神の前に富む者のことばですが、伝道者は、神ではなく人々に記憶されていたいと思っていました。それは適わぬことと知っていたことに伝道者の苦悩がありました。17節、

2:17 私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。

 先週も話した通り、伝道者は「流れる時間」の中を生きていました。「流れる時間」の中を生きている時、全ては空しく、風を追うようなものです。「流れる時間」の中にいる人は常に人を見て、人に賞賛されることを望み、人に記憶されることを望みます。しかし、「流れる時間」の中では、すべてが忘れ去られてしまいます。カレンダーのようなものですね。日めくりにしても、月ごとにめくるカレンダーにしても、時がたてば紙がめくられてゴミ箱に捨てられ、忘れ去られてしまいます。

「降り積もる時間」の中を生きよう
 しかし、「降り積もる時間」の中を生きるなら、私たちが見る相手は人ではなくて神様です。そして神様は、私たちが「降り積もる時間」の中を生きるなら、いつまでも私たちを記憶していて下さいます。それは、イエスさまが隣の十字架の罪人にこう、おっしゃったことからもわかりますね(ルカ23:43)。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 私たちがパラダイスに入ることが約束されていることを感謝しつつ、来週以降も引き続き、「流れる時間」の中を生きる伝道者の苦悩について、学びを深めて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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特別伝道会を明日に控えて

2014-09-16 19:18:48 | 礼拝メッセージ
2014年9月14日礼拝メッセージ
『特別伝道会を明日に控えて』
【ヨナ3:1~10】

はじめに
 明日は「敬老の日」ですから、きょうの礼拝メッセージは「敬老の日」にふさわしいものにすべきであったのかもしれません。しかし、きょうの礼拝説教のテーマを決める時、私の頭の中は明日の特伝のことで一杯になっていましたので、きょうのメッセージの内容は明日の特伝のための心備えになるようなものでありたいと思いました。それで今日のメッセージは、「敬老の日」にちなんだメッセージにならなかったことを、ご容赦願いたいと思います。
 明日の特伝では、私はパワーポイントのスライドを使います。スライドは今の時点で、だいたい8割ぐらいが出来ています。そのスライドの最後の方で函南原生林森林の写真をお見せします。昨年の夏に私は林間聖会で箱根に行き、その時に私は函南原生林を散策しました。
 その時に森の中で撮ったスマートホンの写真を見返していたら、なかなか良かったので、何枚かをパワーポイントのスライドでお見せすることにしました。そして準備する中で、最初は数枚の森の写真を一枚のスライドに納めたものを作りました。そうすると、小さな写真を何枚も並べる形になりますから、一枚当たりの写真の大きさは当然、小さくなります。しかし、この森の写真がなかなか良いので、小さいサイズでお見せするのはもったいない気がして、一つ一つの写真をできるだけ大きく見せることができるように変更しました。森の写真は大きくすればするほど森らしくなります。これが、なかなか良い感じです。
 この森の写真が会場でどれだけきれいに写し出されるかは、会場のプロジェクタの性能にもよると思いますから、期待外れになる恐れもありますが、ぜひ楽しみにしていていただけたらと思います。

半端ではないニネベの人々の悔い改め方
 さて、きょうはヨナ書を開きます。伝道会に備えて、預言者または使徒たちが神の教えを人々に宣べ伝えている場面をご一緒に見たいと思いました。それで、使徒の働きにしようかなとも思いましたが、ヨナ書にしたのは、3章のニネベの町の人々の悔い改め方が半端ではなかったからです。使徒の働きでも多くの人々が悔い改めましたが、悔い改めない人々もたくさんいました。しかしヨナ書の3章には、身分の高い者から低い者まで皆が悔い改めた様子が記してありますから、悔い改め方が本当に半端ではないですね。そんなわけで、沼津の町もこんな風になると良いなと思って、ヨナ書を開くことにしました。
 さて、きょうの説教では、3つのポイントについて話します。それらは、週報のp.3にもメモしてある通り、

 ①私たちはヨナに似ている
 ②沼津もニネベのようであってほしい
 ③沼津がニネベになった後を想像しよう

の3つです。

私たちはヨナに似ている
 先ず、一番目の、「①私たちはヨナに似ている」について。
 私たちは、多かれ少なかれ、ヨナに似た面を持っていると思います。私たちは熱心に伝道したいという気持ちを持っていると思いますが、時には神様の指図に従わない、ということもあるのではないでしょうか。
 ヨナは、ニネベの町に行くように主が命じた時、最初はその命令に従いませんでした。
 ヨナ書の1章から簡単に見て行きたいと思います。1章の1節から3節までをお読みします。

1:1 アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。
1:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
1:3 しかしヨナは、【主】の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、【主】の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

 ニネベというのは、当時アッシリヤの首都であった大きな町でした。アッシリヤですから異教の地であり、ニネベには異教の民がいました。ヨナは、そんな異教の民にイスラエルの神のことばを伝えるのが、気が進まなかったのでしょう。それで、ニネベとは方向の違う海の方のヨッパに行き、そこでタルシシュ行きの船を見つけたので、その船に乗ってタルシシュに行こうとしました。タルシシュとは、スペイン方面の地のようです。3節で読んだように、ヨナは主の御顔を避けていました。私たちも、たまには主の御顔を避けて勝手な振る舞いをしてしまうことが、少しぐらいはあるのではないでしょうか。ですから、このヨナ書のヨナのことを他人事ではなくて、自分のこととして読むなら、主の語り掛けを一層豊かに感じられることと思います。
 さて4節にあるように、主が海に嵐を起こして、ヨナが乗った船は難破しそうになりましたから、この船の船長たちは非常に恐れました。それで、どうしてこんなことになったのか調べると、ヨナが主の御顔を避けてこの船に乗り込んだためであることがわかって来ました。それゆえ船長たちはヨナに聞きました。11節です。

1:11 彼らはヨナに言った。
 「海が静まるために、私たちは、あなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。

 ヨナは答えました。12節、

1:12 ヨナは彼らに言った。「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。
 この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」

 こうして、15節にあるように、船長たちはヨナを海に投げ込みました。すると、海の嵐は治まり、静かになりました。そして海に投げ込まれたヨナがどうなったかというと、何と、大きな魚に飲み込まれました。17節です。

1:17 【主】は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。

 そうして、ヨナが魚の腹の中で祈ったことが、きょうの最初の聖書交読でご一緒に読んだヨナ書の2章に記されています。先ほどの1章12節で、ヨナが「私を海に投げ込みなさい」と船長たちに言った時、ヨナは自分が助かるという確証は持っていなかったと思います。しかし、ヨナは心の中で主に必死に祈りました。そして、主は魚にヨナを飲み込ませるという方法で、ひとまずヨナを助けました。ヨナは魚の腹の中でさらに祈り、そうして2章の10節にあるように、魚はヨナを陸地に吐き出しました。

教会への愛着
 この2章のヨナの祈りをじっくりと味わってみると、一つ気付くことがあります。それは、ヨナがただ単に主に「助けて下さい」と祈っていたのではなく、4節にあるように『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです』と言って祈ったということです。
 これを私たちに当てはめてみると、「私はもう一度教会を見たいのです」ということになるのではないでしょうか。そう考えると私は、がぜんヨナに親しみが湧いて来ます。ヨナは預言者でしたから聖霊が注がれていたことと思います。ですから聖なる宮、すなわち神殿に行かなくても、聖霊の働きを通して主と交わることができたことと思います。しかし、ヨナはもう一度神殿を仰ぎ見たいと望みました。私たちはどうでしょうか。もし教会に愛着を感じているなら、ヨナのような苦しみの中にある時、もう一度教会を見たいと思うことは、十分に有り得るのではないでしょうか。
 私の出身教会の高津教会は、東急の田園都市線の高津駅のすぐ近くにあり、教会の十字架を高津駅のホームから見ることができます。神学院に入る前、私は高津教会の近くに住んでいて、毎日の通勤には高津駅を使っていましたから、毎朝、高津駅のホームから高津教会の十字架を見ることができました。そうして十字架を見ることで心の平安を得ていました。
 しかし神学院に入学した時、私は高津駅の近くの自宅のマンションを売却して神学院の寮に移り住みましたから、もう高津教会の十字架を毎日見ることもできなくなってしまいました。ところが神学生2年生の時の日曜日の私のご奉仕先は深川教会と高根教会で、3年生の時は船橋教会でしたから、これらの教会に行くために毎週日曜日、東急の田園都市線に乗って高津駅を通過して東京方面に行くことができました。それで私はいつも電車が高津駅のホームを通過する時に、電車の中から高津教会の十字架を眺めていました。そうすることで、やはり心が落ち着くんですね。それぐらい私は高津教会の十字架に、愛着を感じていました。
 ですから私は、ヨナが2章4節で、「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と言ったことに、とても親近感を覚えます。主もヨナが「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」というのを聞いて、「よし、よし」と思って下さったのではないかと、想像しています。
 ヨナが神殿を愛したように私たちも教会を愛しています。教会はキリストの体ですから、教会を愛する私たちを、主もまた喜んで下さいます。そのことを感じながら、喜びをもって礼拝を捧げる場所があることを、私たちは本当に感謝に思います。

主を恐れることは知識の初め
 二番目のポイントに進みましょう。
 二番目のポイントは、「②沼津もニネベのようであってほしい」、ということです。3章を見て行きましょう。1節から3節まで、

3:1 再びヨナに次のような【主】のことばがあった。
3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」
3:3 ヨナは、【主】のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。

 そしてヨナは叫びました。

「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」

すると5節と6節、

3:5 そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
3:6 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。

 ニネベの町の人々は身分の高い者から低い者まで、皆、悔い改めました。これはすごいことですね。さらに王と大臣たちによって、次のような布告が出されました。7節から9節まで、

3:7 「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
3:8 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。
3:9 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

 4節にあるように、ヨナは「もう四十日もすると、ニネベは滅ぼされる」と言っただけであり、「悔い改めなさい。そうすれば滅びを免れます」と言ったわけではありません。
 ニネベの町が滅ぼされることは、もう決まっていたことでした。しかし、ニネベの町の人々は9節にあるように神の憐れみを乞い願いました。すると10節、

3:10 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

 箴言には、「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)とありますが、ニネベの町の人々は、正に主を恐れることを知っていたのですね。このように主を恐れる者たちに対しては、主は憐れんで下さいます。1章で主が嵐を起こしても船が沈まなかったのは、船長たちが主を恐れていたからでもあるでしょう。沼津の街の人々も、こんな風に皆が主を恐れて悔い改めるようになったら、どんなにか素晴らしいことでしょう。そのために私たちは祈り、聖書の教えを広めなければなりません。
 この主を恐れ、主のことばを聞く上で大切なことは、「流れる時間」の中に身を置くのではなく、「降り積もる時間」の中に身を置くことだと思います。明日はパワーポイントのスライドを使って、このことを説明する予定です。これまでに私たちが配ったチラシが用いられて、一人でも二人でも、チラシを見て会場を訪れてくれる方がいることを願い、祈りたいと思います。

主の気前の良さをねたまない
 三つ目のポイントに進みます。
 三つ目のポイントは、「③沼津がニネベになった後を想像しよう」ということです。沼津の人々の皆が主を恐れ、悔い改めるとしたら素晴らしいことです。是非、このことを願い、そのようになった時のことも想像してみたいものだと思います。
 さてしかし、もし本当に沼津がニネベのようになったら、その時、私たちはどのように思うでしょうか。ヨナのようになることはないか、ヨナ書の4章を見てみましょう。
 4章1節には、次のように書いてあります。

「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた」

とあります。ヨナは、主がニネベの町に災いを下すことを思い直したことを不愉快に思いました。主は、ヨナ書の最後の4章11節で、このようにも言っておられます。

「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 主が災いを下せば、人々だけでなく家畜たちまで、すべての生き物が滅びます。それはノアの洪水の時もそうでしたし、アブラハムの時代のソドムとゴモラの時もそうでした。主が災いを下す時は容赦がありません。徹底的に滅ぼします。しかし、もし人々が主を恐れ、悔い改めるなら主は思い直して下さいます。ヨナはそのことを不愉快に思いました。
 では、私たちはどうでしょうか。もし沼津の人々が皆、悔い改めるなら私たちは大喜びしますね。決してヨナのようなことは無いだろうと、普通は思います。けれども放蕩息子のお兄さんが、弟息子が父の家に帰って来たときに祝宴に参加するのを拒んだように、人が救われることを素直に喜べない性質が私たちの心にも潜んでいるかもしれません。
 主の気前の良さを私たちは、どんな場合にも素直に喜べるでしょうか。ニネベの町の人々は、マタイの福音書に出てくる、夕方の5時頃に雇われたブドウ園の労務者と同じとも言えるでしょう。神様は、人々がそれまでの生活で、どんなに神様から離れていても、ひとたび悔い改めて神様の下に来るなら、誰でも気前良く受け入れて下さいます。主のそのあまりの気前良さを、私たちは、ねたんだりしないようにしたいと思います。
 或いはまた、後から主を信じた人々に対して、私たちは先輩面をしないようにもしたいですね。例えば、AKBのような人気があるアイドルグループを、まだ売れない時代から応援していた人々がいますね。そのように先に応援していた人々は、後から応援するようになった人々と一緒になって応援すれば良いのです。
 キリスト教も、日本ではまだまだマイナーです。しかし、いつかメジャーになることを信じて私たちは伝道します。そうして実際にメジャーになった時には、私たちは先輩面をしないで、皆と一緒になって喜びたいものです。そんなことを、ヨナ書は教えてくれているようにも思います。

おわりに
 特別伝道会を明日に控えて、きょうはヨナ書をご一緒に開きました。沼津の街中の人々が、ニネベの町の人々のように主を恐れ、悔い改めるようになることを祈り願い、明日の伝道会に臨みたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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「流れる時間」の中の伝道者(2014.9.10 祈り会)

2014-09-11 10:28:41 | 祈り会メッセージ
2014年9月10日祈り会メッセージ
『「流れる時間」の中の伝道者』
【伝道者1:1~18】

はじめに
 きょうから祈祷会で伝道者の書を開くことにしました。何回ぐらいのシリーズになるかは、まだわかりません。ある程度の回数を重ねて、伝道者の心情をより深く理解できるようになりたいと願っていますが、私の力不足のゆえに伝道者の心情に十分に迫れないまま途中で撤退することも有り得ます。
 伝道者の書からは、よく3章11節の、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

が引用されますね。説教などでよく聞く箇所ですが、私自身はまだ説教で引用したことはありません。それは、伝道者がどんな心情でこのように言ったのか、私には良くわからないでいるからです。伝道者は苦悩の中にいます。その苦悩をよくわからずに、この聖句だけを引用するわけにはいきません。しかし、いつまでもわからないままで放置するわけにもいきません。そして今が伝道者の心情の理解を深める好機かもしれないと感じています。というのは、伝道者は「流れる時間」の中で苦悩しているように見えるからです。

「流れる時間」の中で苦悩する伝道者
 このところ私たちは、「流れる時間」と「降り積もる時間」について学んでいますね。それで最近になって私は、伝道者の書の伝道者もまた、「流れる時間」の中で苦しんでいるのだということが少し見えて来ました。これを取っ掛かりにして、伝道者の心情をもっと深めて行くことができたらと思うわけです。
 そうして、もし伝道者の心情への理解を深めることができるなら、「流れる時間」の中を生きる苦悩が、よりわかるようになり、それによって「降り積もる時間」の中に身を置く恵みの大きさも、もっとわかるようになるのではないかという期待があります。多くの方々に聖書の豊かな恵みを伝道するために、この「流れる時間」と「降り積もる時間」は、使えそうだという手ごたえを私は感じ始めていますから、この伝道者の書の学びが、これらの時間への理解をさらに深めるきっかけになればと思っています。
 では、伝道者の書の1章を見て行きます。先ず1節、

1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。

 この伝道者とは誰であるか、伝統的にはソロモンですが、ソロモンだとすると、いろいろと不都合な点もあります。例えば、12節に、

1:12 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。

とあります。ソロモン以降、イスラエルは南北に分裂しましたからエルサレムの王はユダの国の王です。従ってエルサレムでイスラエルの王であったダビデの子はソロモンだけです。しかし、ソロモンは死ぬまで王位に就いていましたし、異教の神を礼拝して神の怒りを買っていましたから(Ⅰ列王11章)、伝道者を名乗るにはふさわしくありません。そんなわけで、この書を書いた記者はソロモンではなく、ソロモン以降、恐らくはバビロン捕囚期以降の何者かがソロモン風を装って書いたものであるというのが大方の見方です。しかし、その記者がどの時代のどんな人物なのかハッキリしたことはわかりません。ですから、この説教では私はこの書の記者を単に「伝道者」と呼ぶことにします。2節と3節、

1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

 伝道者は、すべてのことを空しく感じていました。どうしてでしょうか。そのヒントが次の4節にあります。

1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

 「一つの時代は去り、次の時代が来る」とありますから、伝道者は「流れる時間」の中にいたのですね。過去→現在→未来という「流れる時間」の中にいました。

循環の中にいる空しさ
 ただし、この伝道者の場合には直線的な時間の流れではなく、円環的・循環的な時間の中にいたようです。それは次の5節でわかります。

1:5 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。

 日は天空を横切り、地の下を一巡りしてまた戻って来ます。風もまた巡っています。6節、

1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。

 そして水も巡っています。7節、

1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。

 伝道者が水の循環のメカニズムをどれだけ理解していたかはわかりませんが、川の水が海に流れ込んでも海が満ちないのは、海の水が蒸発して水蒸気になるからですね。水蒸気の一部は陸側に運ばれて山に雨を降らせ、その雨の水が川に集まって再び海に流れ込みます。こうして日も、風も、水も私たちの周りをグルグル巡ります。
 それは東京の山手線に一生乗り続けているようなものなのかもしれません。8節、

1:8 すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。

 伝道者は山手線の電車の窓から、ただぼんやりと次々と移り変わって行く景色を眺めます。その景色は何度も同じことの繰り返しです。9節と10節、

1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

 一生の間、山手線の電車の乗り続けるとしたら、それは苦しいことです。また円環的・循環的とは言え、「流れる時間」の中にいるわけですから昔にあったことの記憶も残りません。11節、

1:11 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。

 この11節のことが、「降り積もる時間」との大きな違いですね。「降り積もる時間」の中で過去の事柄にしっかりと根を下ろすなら記憶はしっかりと残ります。しかし、伝道者は「流れる時間」の中にいました。

誰よりも多くの知恵と知識を持つ苦悩
 そして12節と13節、

1:12 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
1:13 私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。

 伝道者は、知恵を用いて、天の下で行われるいっさいのことについて探り出そうとしました。しかし、それは空しいことでした。14節、

1:14 私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

 この伝道者の書には、伝道者が空しさを嘆いて「風を追うようなものだ」という箇所が何度も現れます。17節にもあります。

1:17 私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。

 16節にあるように、伝道者は誰よりも多くの知恵と知識を持っていました。しかし伝道者にとって、それらの知恵は18節にあるように、

1:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。

というものでした。それはなぜか。15節に、

1:15 曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。

とありますから、どんなに自分に知恵や知識があっても神のように何かを変えたり、無から有を生み出したりすることができないということなのでしょうか。
 きょうのところは結論を急がずに、できれば次回以降もシリーズとして伝道者の書を開いて、理解を深めて行ければと、いま思っているところです。

おわりに
 この伝道者の書で私が一番よくわからないのは、伝道者がどれくらい神を愛しているのか、ということです。いちおう神を崇めていますが、ダビデのように神を熱烈に愛しているようには見えません。ダビデは神の箱の前で力の限り踊ったように(Ⅱサムエル6:14)、神を熱烈に愛していました。しかし伝道者の場合は、もう少し冷めています。伝道者が一体どのような神観を持っているのか。これからの学びを通して、伝道者の心情に近付いて行くことができたらと願っています。そうして、「流れる時間」の苦悩と「降り積もる時間」の恵みについての理解も深めて行くことができたらと思います。
 私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの恵みゆえに、この苦悩からは解放されています。イエス・キリストの恵みをさらに深く理解する上でも、伝道者の苦悩をもっと理解できるようになれたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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宇宙に突き抜ける平和の巨木(2014.9.7 礼拝)

2014-09-08 10:55:07 | 礼拝メッセージ
2014年9月7日礼拝メッセージ
『宇宙に突き抜ける平和の巨木』
【エペソ3:14~21】

はじめに
 戦争を振り返って平和の貴さを考える月の8月を越え、きょうは9月の第一の聖日です。私たちは「終戦の日」と言えば8月15日であると当たり前のように思っていますが、少し前の新聞記事によれば、国際的には必ずしも8月15日ではないのだそうですね。国際的には、9月2日に戦艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に署名した日を「終戦の日」とするのが大方の見方のようです。そして、中国はこの9月2日の翌日の9月3日を「抗日戦争勝利記念日」とすることを今年から公式に定めたというニュースもありました。これまでも非公式には祝われていたようですが、今年から公式の記念日にしたのだそうです。
 このニュースを聞いて、なぜ今さら過去の戦争の勝利を公式に祝うことにしたのだろうかと思い、私はザワザワとしたものを感じました。そして、なぜ私がこんなにも違和感を覚えるのか、私自身も興味があったので、その理由を考えてみることにしました。私がザワザワとしたものを感じるのは、中国が日本への対抗意識を剥き出しにしているからというような単純なものではなさそうです。

21世紀にふさわしい新しいこと
 それで、こんな例えを考えてみました。
 いま日本の科学の世界では、STAP細胞騒動で自殺者まで出てしまって、ガタガタしていますね。それで、政府がこんな提案をしたと仮に考えてみます。その提案とは、物理学の湯川秀樹博士が日本人初のノーベル賞を受賞した1949年の12月10日を日本の科学が勝利した日である勝利記念日として公式に定めようというものです。そうして1949年の精神で今の日本の科学を立て直そうという提案です。
 しかし、そんな提案があったら、「何言ってんだ」と思いますね。1949年の栄光を今さら持ち出して、どうするんだということになるでしょう。当時の精神を大事にすることは必要ですが、それだけではダメで、私たちは21世紀の現代にふさわしい新しい何かを切り開いて行く必要があります。
 そんなことを考えていたら、私たちの教会が2017年に行う50周年記念事業についても、同じであると思わされました。私たちは、この教会の設立当時の精神を大切にしながらも、21世紀の現代に必要な新しいことをしなければなりません。そのためにも新会堂を何としてでも実現したいと思います。
 そして、それはキリスト教においても同様ですね。キリスト教の教えは変わらなくても、伝道の方法は時代に合わせて変わることも必要です。ジョン・ウェスレーの弟のチャールズ・ウェスレーは多くの賛美歌を作って、それを伝道に活かしました。現代の教会でも若者が多い教会では今風の音楽を用いて伝道しています。それからインターネットも20世紀の終わり頃まではありませんでしたが、21世紀には活用することが必要です。

宇宙スケールの意識を
 それらに加えて、私は宇宙規模の意識を持つことも必要であろうと考えています。20世紀の後半から人類はロケットを使って地球の大気圏外に飛び出して行くことができるようになりました。ソ連のガガーリンの頃は地球に近い軌道を回っているだけでしたが、1968年にアメリカのアポロ8号が月の軌道を回って帰って来てからは、地球にいる私たちもカメラの目を通して、月から見た小さな星としての地球の姿を、見ることができるようになりました。
 今年に入ってからウクライナ情勢を巡ってロシアと欧米が対立するようになりました。しかし、そんな中、宇宙の国際宇宙ステーションの中ではロシアとアメリカの宇宙飛行士が協力して任務に当たっていました。宇宙とはそういう所です。
 ジャーナリストの立花隆がアメリカの多くの宇宙飛行士にインタビューをして書いた『宇宙からの帰還』(中公文庫 1985)という本があります。この本の中で著者の立花はジム・アーウィンとのやり取りに多くのページを割いています。ジム・アーウィンはアポロの月着陸船で月面に降りて調査活動をして地球に帰った後に宇宙飛行士を辞めてキリスト教の伝道者になった人物です。アーウィンは次のように語っています。

「結局、宇宙飛行士たちは、それぞれに独特の体験をしたから、独特の精神的インパクトを受けた。共通していえることは、すべての人がより広い視野のもとに世界を見るようになり、新しいヴィジョンを獲得したということだ。」(p.146)

 宇宙から地球を見る時、人はより広い視野で世界を見ることができるようになります。 続いてアーウィンは次のように言っています。

「私はミサイルの専門家だったが、いまの超大国の軍事的対立をとても悲しいことだと思うようになった。ソ連の脅威というが、ソ連もアメリカの脅威を感じている。お互いに脅威を与え合うというこの関係の底にあるのは、結局のところ観念的対立なのだ。目的を異にする観念体系をお互いに持っているというだけで、世界中の不幸な人々を全部救済してあまりあるような巨額の資金を投じて、お互いに殺し合う準備を無限に積み重ねているというこの現状は悲しむべきことだ。神のメッセージは『愛せよ』の一語であるのに。」(p.146)

 21世紀の今はもうソ連はありませんが、ロシアとアメリカは相変わらず対立しています。宇宙からの広い視野で地上の対立を見るなら、それは愚かで悲しいものに見えます。最初に話した、中国が今年から新たに9月3日を「抗日戦勝記念日」に公式に定めたことも、21世紀の現代にふさわしいものとは、とても思えません。日本が先の大戦で降伏した1945年や湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した1949年には人類はまだ誰も宇宙に行ったことはありませんでした。しかし、1961年のガガーリン以降、人類は宇宙に飛び出して行くようになりました。私たちは宇宙時代にふさわしい意識を身に付ける必要があるのだと思います。
 私たちのほとんどは実際にロケットに乗って宇宙に行くことはできませんが、意識の中でなら宇宙に行くことができます。人類の意識がもっと宇宙にあるなら、私は世界はもっと平和になるのに、と思っています。
 それゆえ今私は、信仰の種が発芽して育った木が、巨木となって宇宙に突き抜ける様子を想像することを始めています。それで、きょうの説教のタイトルは『宇宙に突き抜ける平和の巨木』として、週報の3ページ目に、そのようなイラストを載せてみました。



 きょうは、この図の説明を後で少し時間を掛けてしてみたいと考えています。話す内容は、新しいことはそれほど無く、多くは復習です。ですから、そんなに難しい話ではありません。私は21世紀のキリスト教は、このような宇宙を意識しながらの思い巡らしも必要だと思います。現代人の多くは、聖書は古臭い書物であると思っています。しかし聖書は宇宙規模の壮大なスケールを持つ書物ですから、むしろ宇宙時代の現代にふさわしい書物であると私は考えます。

読むと心の容量が大きくなるエペソ書
 きょうの聖書箇所のエペソ人への手紙3章は、この教会の礼拝でもよく開く、宇宙スケールの壮大な箇所です。週報の3ページ目のイラストを説明する前に、先ずこのエペソ人への手紙3章を読んで私たちの心の容量を大きく広げておきたいと思います。まず3章の14節と15節、

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

 天の父は万物を創造しましたから、天上のものも地上のものも全てのものの上に立つ方です。その方に対して、この手紙を書いたパウロはひざをかがめて祈ります。16節、

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

 御霊は神ですから、御霊は時間も空間も越えます。一方、神ではなく人間である私たちの日常生活は時間と空間とに縛られています。しかし、御霊に私たちの心を委ねるなら、私たちの心もまた御霊の力によって時間と空間を越えることができます。こうして、御霊の力を得て私たちは心の中で「宇宙に突き抜ける平和の巨木」になることができます。17節と18節、そして19節、

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 イエス・キリストは天の父とともに宇宙を造った方ですから、キリストの愛は宇宙スケールの愛です。宇宙は、私たちの銀河である天の川銀河だけでも十分過ぎるぐらいに大きいのですが、宇宙にはこの銀河が何千億個も何兆個もあるということです。宇宙の大きさは正に人知を越えています。そしてキリストの愛もまた、それほど大きな愛であるのでしょう。20節と21節、

3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 私たちのうちに働く御霊の力によるなら、私たちは人知を遥かに越えるスケールの神さまに語り掛け、祈ることで交わることができることは本当に幸いなことです。

「流れる時間」の中を生きる不安
 さて、このような宇宙スケールの目で見るなら、週報の3ページ目のイラストの地球も、実はそんなに大きいものではないとも言えます。私たちはこんな小さな地球の中で争いを続けているのだと言えます。
 では、イラストの説明をして行きます。ここに説明文も載せてありますから、この説明文の解説をして行きます。

「世界中の人々が『降り積もる時間』の中で、地中に堆積した過去の数多くの戦争の惨禍にしっかりと根を下ろし、国際宇宙ステーションよりも高い場所から地球を眺めるなら、世界はきっと平和になるだろう。」

 私たちの一人一人は、植物の種に例えられます。植物の種は風に飛ばされて運ばれて行きます。風次第で、どこに運ばれるかはわかりません。地に落ちても、大雨が降れば水に流されて、どこかに運ばれて行きます。こんな風に、私たちは「流れる時間」の中で、自分の人生がどこに向かって行くのか、よくわからない中で日々を過ごしています。しかし、一つだけハッキリしていることがあります。それは一日一日、時々刻々、「死」という人生の終わりに近付いているということです。この、一日一日、死に向かっているということは普段はそんなに意識はしていませんが、誰でもいつかは死ぬことは皆がよく知っていることですから、人はそのことに漠然とした不安を抱きながら生活しています。
 キリスト教の信仰について良く知らない人の多くは、キリスト教のような宗教は「死」の不安や恐怖から逃れるために存在するのだと思っていることと思います。そういう意味で、人が信じる宗教には寛容であったりします。信じることで安心が得られるなら良いんじゃないですか。信仰は個人の自由ですから、大いに信じたら良いでしょう。でも私は信じません、などと言ったりします。私もキリスト教を信じる前に、クリスチャンに対して、そんなことを言った覚えがあります。
 しかし、どうでしょうか。毎日が不安で不安で仕方なく、その不安から逃れるために教会の門をくぐったという人も、それなりにいるかもしれませんが、そうではない人も多いのではないでしょうか。何か漠然とした不安はあるけれども自分ではその不安の正体が何かはハッキリとはわからずにいて、しかし、ある時に偶然に教会を訪れたことで、こここそが自分の求めていた場所だったのだとわかり、不安が解消した、というケースも多いのではないかと思います。
 或いは、子どもの頃に教会学校に通って聖書を学んだ経験のある人たちの証しを聞くと、中学や高校に進んでから教会に行かなくなり、大人になってからも教会に行かなくても全然平気で毎日を過ごしていたけれども、順風満帆の人生に陰りがさした時に、ふともう一度教会に行ってみようと思い、心の平安を得た、というようなことが言われます。
 このように、毎日が不安で不安で仕方なく、その不安から逃れるために、すがるようにして教会の門を叩くという人は、それほど多くはなく、人に誘われたり、チラシを見たり、或いは昔のことをふと思い出したりなどと、ちょっとしたことで教会の門をくぐり、その結果、こここそが自分が無意識の中で求めていた場所であったと気付く場合も多いのではないかと思います。

「降り積もる時間」への移行により得られる平安
 このように、無意識の中で漠然と求めていた自分の居場所が実はキリスト教の教会だったのだと気付くことが、「信仰の芽生え」と言えるのではないかと思います。私自身も教会に通うようになるまでは、まさか教会が自分が求めていた場所などとは思ってもいませんでした。
 ちょっと余談になりますが、ラジオの沼津コーストFMの番組「潮風の中で」の、次の私の出番が10月の第二土曜日の10月11日にありますので、今度は、この「信仰の芽生え」について、私自身の経験も交えながら話してみようかな、と今思っているところです。この放送を聞いている沼津地域の方々のほとんどはキリスト教とは無縁の生活を送っていて、いつか自分にキリスト教の信仰が芽生える日が来るなどとは、全く思っていないと思います。しかし、そういう人でも、ある日、突然のように信仰が芽生える時が来ることも有り得るのだということを、話してみようかなと今思い始めています。
 さて、信仰が芽生えた種は根を張りますから、もはや風に飛ばされたり水に流されたりすることはなくなります。つまり「流れる時間」に流されることがなくなりますから、漠然とした不安からも解放されて心の平安を得ることができます。このような心の平安を得た人は、もはや「流れる時間」の中にいるのではなく、「降り積もる時間」の中を生きるようになります。
 この「降り積もる時間」の中に身を置くようになると、時間とは本来、流れるものではなく降り積もるものなのだ、ということが良くわかるようになります。実際、地面の土を見ても、私たちは「降り積もる時間」の中を生きていることがわかります。地面の土を掘れば、下へ行くほど昔に積もった土があります。それらの土は、過去の津波や洪水によって運ばれて来た土砂かもしれませんし、火山の噴火によって降り積もった火山灰かもしれません。都心部であれば、戦争の空襲によって焼け焦げた瓦礫が出てくることもあるでしょう。私たちは、そういう過去の自然災害や戦災を土台にして生きています。それなのに、「流れる時間」の中を生きていると、それらの過去のことは忘れてしまいがちです。そして過去の経験を活かすことができずに、またしても同じ過ちを繰り返すことになってしまいます。しかし、「降り積もる時間」の中を生きるなら、これらの過去の出来事に根を下ろし、そこから水分や養分を吸収しますから、過去の経験を活かすことができます。
 そして、さらに深く根を下ろして行くなら、そこには聖書の時代があります。地面に近い方に新約聖書の時代があり、もっと深い方に旧約聖書の時代があります。それらの聖書の時代に根を下ろし、そこから聖書のみことばを吸収するなら、次第に神様との個人的な関係を築いて行くことができるようになります。
 神様との個人的な関係は聖霊の働きによって築くことができます。聖霊とは先ほどのエペソ人への手紙のことばを使うなら「御霊」です。キリスト教の聖書の神は御父・御子・御霊の三位一体の神です。信仰の種が芽生え、聖書の時代に根を下ろして、聖書のみことばを自らの根で吸収できるようになると、御父・御子・御霊の三位一体の神との交わりが出来るようになります。御父・御子・御霊は時間と空間を超越した中にいますから、私たちの心もまた時間と空間を超越した中に入ることができます。

宇宙に突き抜ける平和の巨木
 この時、種から成長した地上部分は、宇宙に突き抜けて平和の巨木になっているのだと私は言いたいと思います。種から発芽した芽は根が下に伸びて行くのと同時に天に向かって伸びて行きます。「降り積もる時間」は、この天から降り注いでいます。根のある下の方が過去ですから、時間が降って来る天は未来と言っても良いでしょう。その天の未来に向かって私たちは枝を伸ばして行くと同時に過去にもしっかりと根を張っています。つまり私たちは現在にだけいるのではなく、過去にも未来にも同時にいます。
 この平和の巨木のイラストでは、私は木の高さを国際宇宙ステーションの軌道よりも高くしてみました。左の図の「ISS」と言うのがInternational Space Station、つまり国際宇宙ステーションです。私たちが霊的に三位一体の神様との交わりの中にある時には時間と空間を超越しているのですから、遠慮しないで、大きなことを考えたら良いのです。エペソ人への手紙を読んだ時にキリストの愛は宇宙スケールだと話しましたから、地球レベルの大きさでは、まだまだ小さいぐらいです。ですから、地球レベルの大きさの木を思い浮かべたとしても決して傲慢だとか誇大妄想などではありません。そして皆が、右側のイラストのように手をつなぐなら、私たちの世界はもっと平和になるのだと思います。
 私たちが宇宙スケールの想像をする時、そこに神の存在を感じます。宇宙を造った神が私たちの命も造った神でもありますから、宇宙を想像する時、神との一体感を感じることができます。宇宙飛行士からキリスト教の伝道者になったジム・アーウィンもまた、月面で神との素晴らしい一体感を感じたと語っています。それは本当に素晴らしく大きな喜びだったことでしょう。
 ベートーベンの交響曲第九番の第四楽章の合唱は、「歓喜の歌」や「喜びの歌」などと呼ばれていますね。
 この合唱のドイツ語の歌詞を日本語に訳すと、出だしはバリトンのソロで、

「おお友よ、このような音ではない!」

で始まります。そして、次のように続いて行きます。

「そうではなく、もっと楽しい歌をうたおう。もっと喜びに満ちたものを」。

 このようにして喜びの歌が始まります。そして中盤では、「創造主」、或いは「父」という言葉が出て来ます。それは、こんな歌詞です。

「あなたの創造主を、予感しているか、世界よ?
 探し求めなさい、その方を、星の天幕の彼方に!
 兄弟たち!星の天幕の彼方に必ずや、愛しき父はおられる」

 ですからベートーベンの第九の合唱も、宇宙スケールの神と交わる喜びを歌ったものなのですね。日本人はこのベートーベンの第九が大好きです。それは日本人がこの歌詞の意味を良く理解していなかったとしても、日本人の私たちを造ったのもまた創造主である神ですから、皆が無意識の内に天の父の愛を感じているのだと思います。

おわりに
 こうして世界中の私たち皆が宇宙スケールの意識を持ち、創造主である神を賛美するなら、私たちの世界はもっともっと平和になるであろうと思います。
 最後に、エペソ人への手紙3章の14節から21節までを交代で読んで、礼拝を終わりたいと思います。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

お祈りいたしましょう。
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不正の富で友を作る(2014.9.3 祈り会)

2014-09-04 10:17:22 | 祈り会メッセージ
2014年9月3日祈り会メッセージ
『不正の富で友を作る』
【ルカ15:25~32/16:1~11】

はじめに
 きのうの夜7時半からのNHKの『クローズアップ現代』では、とても興味深いテーマを取り上げていました。それは多くの企業で、これから管理職になって会社を引っ張って行ってもらわなければならない30代の社員が管理職になれるほどの器に育っていないということでした。その原因として番組の中で語られていたのは、バブル崩壊以降、企業はリストラを行い、経営の効率を上げることを最優先させたために余裕を失い、若い人を育てることを後回しにしてしまった。そのツケが、景気が回復する兆候が見えている今になって顕在化して来ているとのことでした。
 番組の解説者の大学の先生が言っていましたが、若い人を育てるには会社にある程度の余裕が必要だとのことでした。経験が少ない人に仕事を任せるのは効率が良くない。失敗をするリスクも高い。しかし、そこを大目に見て、ある程度大きな仕事を任せないと人は育たない。バブル崩壊後の企業は失敗を大目に見るような余裕は無かったので効率優先で、できる人にしか仕事を任せて来なかった。できない人でも育てればできるようになる人もたくさんいるのに、それをして来なかったので、管理職になれる人材が乏しいのだということでした。言われたことはきちんとこなすけれども、グループを引っ張って行けるようなリーダーが若い世代に不足しているということでした。

父の愛に気付いていない放蕩息子の兄、そして私たちは?
 この『クローズアップ現代』を見て、私は先日の礼拝説教でご一緒に開いたルカ15章の放蕩息子のお兄さんの記事を思い出しました。それで、きょうの祈祷会のこの時間にも再び開くことにしました。今話した『クローズアップ現代』が取り上げた若い世代の、言われたことはきちんとするけれどもリーダーになる器には育っていないというのは、この放蕩息子のお兄さんも、まさにその通りであると思うわけです。ルカ15章の29節で兄息子は父にこう言っていますね。

「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」

 これは、言われたことはしっかりやるというのと同じですね。これはこれで立派ですが、兄息子もやがては父の後を継いで家長にならなければなりません。しかし、兄息子はそのような器には、全く育っていませんでした。
 昨日の『クローズアップ現代』では、管理職になれる若い人材が育たなかったのは企業がそのように育てなかったからだということでした。では、兄息子が家長の器に育っていないのは父親の育て方が悪かったからでしょうか。
 私は、信仰の場合には、企業の管理職の場合とは、いささか異なるのではないかと思います。信仰の場合には、自分で父の愛に気付く必要があります。放蕩息子である弟息子は我に返って父の愛にぼんやりと気付くことができるようになりました。しかし、兄息子のほうは、この段階では父の愛に全く気付いていません。
 そして私は、私たちクリスチャンもまた、父の愛への気付きがまだまだ不十分であると感じています。私は常々そのことをヨハネの福音書を通して感じています。ヨハネの福音書の「イエスの時代」に、「旧約の時代」と「使徒の時代」が重ねられていることに人々が気付いていないのは、旧約の律法に込められている父の大きな愛を人々が十分に感じていないからだと考えています。
 そんなことを思いながらルカ15章を見ていたところ、15章の続きの16章の「不正な管理人」の箇所もまた、父の愛をたっぷりと感じ取るべき箇所であることがわかって来ましたので、きょうの後半は、この16章の不正な管理人の箇所をご一緒に見ることにしたいと思います。

(以上、前半。これより後半)

「不正の富」とは何か
 このルカ16章の1節から13節までの箇所は、難解な箇所と言われており、私も良く分からないでいたので、これまで私はこの箇所の解釈を保留していました。どこが難解かというと、先ずは8節の後半にある「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」というところですね。不正な管理人が不正をしたことを、どうして主人がほめるのか、よくわからないでいました。或いはまた、9節の「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」。これもまた、わかりにくいですね。友を作るのにどうして不正の富を使うことができるのでしょうか。これまで私にとっては意味不明でした。しかし、今回、父の愛のことを思いながら、この箇所を読み直してみたところ、この箇所に隠された意味が俄然わかって来た気がします。
 いくつかの注解書を調べてみると、ここにある「不正の富」を、この世の世的なお金や財産、つまり「世的な富」と考えるのが大方の考えのようです。しかし今回私は、この「不正の富」を「人同士の赦し合い」と考えたいと思います。そうすることで、ルカ15章とのつながりも良くなり、全体がすっきりと解釈できるようになると思います。
 まず1節、

16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。

 ここより前の15章の話は、イエスはパリサイ人・律法学者たちに対しての話でした。ですから放蕩息子の兄の兄息子とはパリサイ人たちのことです。一方、この16章ではイエスは弟子たちに話していますから、この「不正な管理人」とは弟子たちのことです。1節には「管理人が主人の財産を乱費している」とあります。これは弟子たちもまた罪人であることを示しています。それは、当然そうですね。この世で罪人でない者はいないのですから、弟子たちもまた罪人です。しかし、神様は、すべての罪人を赦したいと思っておられます。
 私たちの神に対する反逆の罪は、本来なら赦されるような罪ではない重罪です。神様はそんな私たちでも赦して下さいます。放蕩息子である弟息子の父親の財産を湯水のように使ってしまった罪も、本来は赦されるような罪ではありません。それでも父親は赦しました。そして兄息子も父が弟を赦したことを、とやかく言うべきではありませんでした。それは、父はこの兄息子の反逆の罪をも赦しているからです。なだめる父に反抗する兄息子もまた罪人です。そんな兄息子を父は赦しました。ですから、兄息子もまた弟息子を赦して祝宴に加わるべきでした。兄息子は弟息子がいなくなったことで仕事が増えてしまったことでしょう。弟息子は兄息子に大きな迷惑を掛けました。これは兄に対する弟の罪です。兄は、この弟の罪を赦す必要がありました。それは自分もまた赦されているからです。
 自分が神に赦されているのだから、自分も人を赦さなければならないというのは、マタイ18章の七度を七十倍するまで赦さなければならない、という箇所で既に私たちは学んでいますね。皆さん良くご存知の箇所だと思いますが、確認しておきたいと思います。マタイ18章21節からの箇所です(新約聖書p.37)。21節と22節、

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 こうしてイエスは、王がしもべの1万タラントの借金を免除してやった例え話を始めました。1万タラントは6000万デナリですから、1デナリを1万円とすると6000億円という大金です。それほどの借金を王は免除しました。つまり私たちはそれほど大きな罪を犯しているのに神様から赦されているということです。しかし、このしもべは仲間のわずか百デナリの借金を赦してあげませんでした。放蕩した末に帰郷した弟息子を赦さなかった兄息子は、このわずか百デナリを赦さなかったしもべと同じです。

「互いに赦し合うこと」が「不正の富」
 さてルカ16章に戻ります。不正な管理人は、債務者に債務の額を書き換えるように言い、債務者はそのようにしました。5節から7節までをお読みします。

16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。

 この債務者の債務も、マタイ18章と同様に罪と考えたいと思います。そして、ここで不正な管理人は自分で証文を書き換えたのではなくて、債務者自身に書き換えることを迫っていますから、こうすることで、「お互いの罪を減らしましょう」と言っていることになります。これは明らかに不正ですね。なぜなら罪を赦す権限は神にしか無いからです。しかし、主人はこの不正な管理人の抜けめ無さを褒めました。8節です。

16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

 つまり、人同士で互いに赦し合うなら神様はそれを褒めて下さるということです。人は皆、罪人ですから、罪人同士が赦し合うのは神様から見れば不正です。それでも赦し合わないよりは遥かに良いこととして、神様は褒めて下さいます。そうして罪を赦し合えば罪の全部を無くすことはできませんが、いくらかは減らすことができます。そして9節、

16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

 この「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」とは、互いに赦し合うことで、友を作りなさいということでしょう。そうしておけば、神に赦されて罪がなくなったとき、私たちが赦した相手は私たちを、永遠の住まいに迎えてくれます。ヨハネの福音書にも書いてありますね。ヨハネ20章23節を見ましょう(新約聖書p.224、あとでルカに戻ります)。

20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。

 ですから私たちは互いに赦し合わなければ永遠の住まいに入ることはできないと言えるでしょう。10節と11節、

16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

 私たちは忠実に、他人の罪を赦すことができる者でありたいと思います。そうして互いに赦し合える者たちでありたいと思います。そうすれば神様はまことの富である神の愛を宣べ伝えることを私たちに任せて下さるでしょう。
 このように神の愛を私たちがたっぷりと感じているなら、このルカ16章の前半の「不正な管理人」の記事もそれほど難解ではなくなるのだと思います。

おわりに
 きょうは『クローズアップ現代』から話を始めました。会社で管理職になれる人材が育たなかったのは会社の育て方が悪かったからのようです。しかし、信仰の場合は私たち自身が神の愛をもっと感じることができるようになるよう、私たち自身で育って行かなければならないのだと思います。私たちの罪は神の大きな愛によって赦されています。ですから私たちも互いに赦し合い、神の愛をもっと感じることができるようになりたいと思います。そして、地域の方々とこの素晴らしい恵みを分かち合いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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