平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

1870年前後の化学とE.W.クラーク

2024-02-20 08:51:35 | 折々のつぶやき
【1870年前後の化学とE.W.クラーク】

 クラーク先生が静岡学問所の化学の授業に使った教科書を読む機会を得たので、次のような論考を書いてみました。

 1871年10月、E.W.クラーク(Edward Warren Clark 1849~1907)は日本へ向かう太平洋航路の蒸気船の中にいました。彼は静岡学問所で化学を教えることになっており、教科書にはG.F.バーカー(George Frederick Barker 1835~1910)の ”A Text-Book of Elementary Chemistry”(1870)を使用するつもりでいました。船上で書いた友人宛ての手紙の中でクラークは「これまで見た化学の教科書の中では、ただ一つ完全に満足できるものだ」と、バーカーの教科書を絶賛しています。それゆえバーカーの教科書を見れば、静岡学問所でのクラークの化学の授業がどのようなものであったかの一端を知ることができるでしょう。



 この教科書からクラークが何を学び、静岡学問所の若者たちに何を伝えようとしたのかを、次の二段階に分けて考えてみたいと思います。

 A.1870年前後の化学とバーカーの教科書
 B.クラークがバーカーから学んで伝えたこと

A.1870年前後の化学とバーカーの教科書
 エール大学教授のバーカーの教科書は1870年に出版されました。化学の発展史の中で1870年頃は、どのような時代だったのでしょうか?メンデレーエフ(1834~1907)が「周期表」の学説を発表したのは1869年のことだそうです。しかし、研究者の間で広く認知されるようになったのは、ずっと後の話です。バーカーの教科書も周期表説には触れていません。また同じ頃に、陰極線に関係する重要な発見が物理学でありましたが、電子の発見に至るまでにはさらに約30年を要しました。そして20世紀に入ってプランクらの物理学者によってようやく量子力学の扉が開かれ、ラザフォードが原子核を発見したのはさらに10年後の1911年のことです。周期表の理解には量子力学の原子構造の知識が必要ですから、1907年に没したメンデレーエフ自身も存命中は周期表の理解には至っていなかったことになります。これらのことを考えると、1870年の段階では原子についての理解はまだまだ乏しかったと言えるでしょう。

 そのような中ですが、バーカーの教科書は個々の元素の原子の化学的性質を深く理解することに重点を置いています。以下、あまり自信がありませんが目次を和訳してみます(誤訳があったら申し訳ありません)。



第一部 理論化学
Ⅰ.はじめに
 第1節 物質の物理的および化学的性質
Ⅱ.基本的な分子と原子
 第1節 分子についての一般論
 第2節 基本的な分子
 第3節 原子の性質
 第4節 原子の表記
Ⅲ.複合分子
 第1節 二原子分子
 第2節 2価原子が結合した三原子分子
 第3節 3価原子が結合した三原子分子
Ⅳ.分子の体積関係
 第1節 原子量と密度との関係
 第2節 原子量と気体の拡散との関係
 第3節 体積の組み合わせ
Ⅴ.化学量論
 第1節 化学反応式
 第2節 化学量論的計算
第二部 無機化学
Ⅰ.水素
Ⅱ.負の1価原子
 第1節 塩素
 第2節 臭素、ヨウ素、フッ素
 第3節 ハロゲン族の性質
Ⅲ.負の2価原子
 第1節 酸素
 第2節 硫黄
 第3節 セレン、テルル
Ⅳ.負の3価原子
 第1節 窒素
 第2節 リン
 第3節 ヒ素、アンチモン
 第4節 ビスマス
 第5節 窒素族の関係
Ⅴ.ホウ素
Ⅵ.負の4価原子
 第1節 炭素
 第2節 ケイ素
 第3節 スズ
Ⅶ.鉄族
 第1節 クロム
 第2節 マンガン
 第3節 鉄
 第4節 ニッケル、コバルト
Ⅷ.正の4価原子
 第1節 鉛、インジウム
 第2節 白金
 第3節 アルミニウム
Ⅸ.正の3価原子
 第1節 金
 第2節 タリウム
Ⅹ.正の2価原子
 第1節 銅
 第2節 水銀
 第3節 亜鉛、カドミウム
 第4節 マグネシウム
 第5節 カルシウム
 第6節 ストロンチウム、バリウム
Ⅺ.正の1価原子
 第1節 銀
 第2節 リチウム
 第3節 アンモニア
 第4節 ナトリウム
 第5節 カリウム
 第6節 ルビジウム、セシウム

 バーカーの教科書は大まかに言えば第一部は理論、第二部は実験という構成になっています。第二部には各元素の性質の説明に加えて、それぞれの元素やその化合物を実験室で得るための細かい方法が説明されています。例えば「水素」の章では、水にナトリウムを入れることで水素が得られることなどが記されています。

 1870年の時点で元素は63種類が発見されていて、第一部のⅡ章3節には各元素の記号と原子量が表で示されています。



 この表に載っている元素を現代の周期表と照らし合わせてアンダーラインを引いた図を作成しましたので、ご覧下さい。



 1870年の段階では希ガス(ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドン)のすべてとランタノイド元素の大半が発見されていなかったことが目に付きます。トリウムとウランの原子量が半分になっていることも気になります。その他、現在では元素と認められていないものも、いくつか含まれています(Cb、Ro、E、Gなど)。また、教科書本文には金属や塩化ナトリウム(NaCl)の「分子」についての記述がありますが、これらは分子ではありません(金属の結晶は金属結合、塩の結晶はイオン結合で、分子ではありません)。或いはまた、水素と窒素と酸素は液化しないことが書かれていますが、後には液体酸素と液体窒素が(1877)、さらに液体水素も得られるようになりました(1898)。

 これらのことから、1870年前後の化学は現代から見ればまだまだ発展途上であったことが分かります。しかし、これはいつの時代においても同じです。現代の2024年の科学も後世から見れば、まだまだ発展途上ということになるでしょう。例えば、宇宙に存在するとされるダークマター(暗黒物質)やダークエネルギー(暗黒エネルギー)は現代の観測技術では正体不明ですが、いずれは明らかになることでしょう。

B.クラークがバーカーから学んで伝えたこと
 今回、私はバーカーの教科書を読む機会を得たことで、E.W.クラークが静岡学問所の若者たちに伝えたかったことは、単に化学の表面的な知識ではなく、その根底にあるものではないかと考えるようになりました。

 バーカーの教科書の「まえがき」を要約すると、おおよそ次のようなことが書かれています。

「過去10年間に、化学は著しい変革を遂げた。単に新しい化合物や反応式を発見しただけではなく、これらに法則性があることを発見したのだ。この発見によって化学という自然科学の様相は一変した。この法則性の発見の重要性はいくら評価しても評価し過ぎることはない。あらゆる元素が形成するすべての化合物を確実に予測することができるようになったのだ。今や化学は様々な事実の寄せ集めではなく、堅固な哲学に基づいた真の科学になったのだ。」

 日本に向かう船の中でクラークが書いた友人宛ての手紙では、さらに何冊かの化学の教科書に言及しています。私はまだそれらを読んでいないので比較できませんが、クラークがバーカーの教科書を他の教科書よりも絶賛する理由は、この「まえがき」にあるような気がします。そしてクラークは静岡の若者たちには表面的な知識の習得ではなく、物事の本質を追究する姿勢を身に着けて欲しいと願っていたのではないかという気がします。クラークは静岡に到着して早々に聖書を学ぶ会も始めていますが、これも聖書に関する表面的な知識を伝えるというよりは、聖書の根底に流れる真理を静岡の若者と共に追究したかったのかもしれません。そしてクラークは明治政府による教育の中央集権化に抗議して「諸県学校ヲ恵顧スルコトヲ勧ムル建議」を静岡で書きます。当時の東京は目まぐるしく変化していました。その変化に目を奪われることなく、物事の本質をじっくりと追究するには地方で学ぶことが一番であるとクラークが考えた背後には、もしかしたらバーカーの「まえがき」の影響があったのかもしれません。

 そうして50代の半ばでクラークは勝海舟の小伝の『勝安房』を書きます。この書の中でクラークは勝海舟という人物の根底を探るだけでなく、徳川の時代から明治の世に移った日本の根底には何があったのかを探っています。この姿勢はクラークが静岡に着任した若い頃から身に着けていたものだと言えるでしょう。
 日本からアメリカに帰国してからのクラークは幻灯機を用いた講演会を全米各地で300回以上も開いたとのことですから、これまで私はクラークに対してやや軽い印象も実は少し持っていました。しかし、クラークは日本という異国の表面の姿をアメリカ人に面白く伝えたかったのではなく、日本人の根底にある善良な魂のことを伝えたかったのかもしれません。

 バーカーの教科書を少し読んだぐらいで想像を膨らませ過ぎだとは思いますが、クラークにとってこの教科書との出会いは、聖書と勝海舟との出会いと同じくらいに彼の精神形成に深い影響を及ぼしたような気がします。
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荘子とヨハネは似た者同士

2024-02-14 06:16:39 | 荘子と聖書
 荘子とヨハネは、とても良く似ています。例えば、前回の記事で説明したヨハネ4章1~5節の「イエス」が実は「弟子たち」であること、これは『荘子』の「胡蝶(こちょう)の夢」の話と似ていると思います。中公文庫のカバーの蝶の絵は、「胡蝶の夢」が題材です(写真)。



 この「胡蝶の夢」の話は『荘子 内篇』の斉物論篇の最後に出て来ます。今回は岩波文庫の金谷治氏の訳と注を引用します。「荘周(そうしゅう)」とは、荘子本人のことです。

【訳】むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう、自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。

【注】この章は「胡蝶の夢」として古来有名な章である。「物化」すなわち万物の変化とは要するにこうしたもので、因果の関係は成立せず、荘周と胡蝶との間には一応の分別相違はあっても絶対的な変化というべきものはない。荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地、それがここで強調される世界である。(金谷 治・訳注『荘子 第一冊[内篇]』岩波文庫 p.89)

 「荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地」に達するなら、敵味方や彼我の区別なく皆が平和に暮らせるのではないでしょうか。ジョン・レノンの『イマジン』の世界にも通じるものがあります。

 『ヨハネの福音書』においても弟子たちがイエスであり、イエスが弟子たちです。ヨハネはバプテスマのヨハネであり、使徒ヨハネであり、記者ヨハネであり、証人であり、愛弟子です。私たち読者も愛弟子であり、証人ですから、私たちもまたヨハネです。私たちは罪人であると同時に神の子でもあります。私たちは塵(ちり)や埃(ほこり)のような小さな存在であると同時に大鵬のようなスケールの大きな存在でもあります。

 聖書には堅苦しいイメージがあるかもしれません。しかし聖書を深く知れば知るほど、様々な束縛から解放されて自由になります。中でも『ヨハネの福音書』は『荘子』と同じで頭抜けて自由な書です。次回以降も、ヨハネが荘子と同じようにいかに自由人であるかを紹介して行きます。(つづく)
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木を見て森も見る

2024-02-12 07:38:00 | 荘子と聖書
 職場の地震防災センターの館内では、木造住宅の耐震性が補強の有無で大きく異なることを示す動画を流しています。左の家は「補強なし」、右の家は「補強あり」です。この二棟を起震台に載せて揺らすと、「補強なし」の家は倒壊してしまいます。



 この家が小さな模型ではなくて実際の大きさの家であることは、後方にいる見学者たちが一緒に写っていることで分かります。もしヘルメット姿の見学者たちが大きければ、家は小さな模型ということになるでしょう。しかし、ヘルメット姿の見学者たちが小さいので、家は実際の大きさの住宅であることが分かります。



 このように背景を併せ見ることで家の大きさを正しく認識することができます。ヘルメット姿の見学者たちを見なければ、「木を見て森を見ず」になってしまいます。
 聖書も背景を併せて読むこと、すなわち「森も見る」ことが大切です。例えば『ヨハネの福音書』4章1~5節には、次のように記されています。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。

 2節は不可解です。「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」とは、何を意味するのでしょうか?まず押さえておきたい重要な背景は、マタイ・マルコ・ルカの福音書では、バプテスマを授けていたのはバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)だけだったということです。イエスも弟子たちもバプテスマを授けてはいませんでした。また、さらに重要な背景として、ヨハネ2章~4章の流れがあります。

 ヨハネ2章ではガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じて、次いでユダヤ人たちもイエスを信じました。そしてヨハネ3章では、聖霊についての教えに戸惑うユダヤ人ニコデモの姿が描かれています。そして、ヨハネ4章ではサマリア人たちと異邦人たち(王室の役人と家の者たち)がイエスを信じました。このヨハネ2章~4章の流れは『使徒の働き(使徒言行録)』の2章~10章の流れと同じです。使徒たちの時代においても、人々はガリラヤ人→ユダヤ人→サマリア人→異邦人の順にイエスを信じて聖霊を受けました。そして、このことに戸惑うユダヤ人たちが怒り、弟子たちを迫害するようになりました。

 これらの背景を併せ読むなら、ヨハネ4章1~5節のイエスは十字架・復活の後に天に昇った「天国のイエス」であることが分かります。五旬節の日(使徒2章)以降、「天国のイエス」は地上の弟子たちに聖霊を遣わして、聖霊を通して様々なことばを天国から伝えました。弟子たちは天のイエスのことばを人々に語ってバプテスマを授けていたので、弟子たちの内にはイエスがいました。つまりヨハネ4章2節の「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」は、五旬節の日以降に、エルサレムの教会が急成長していた時期の状況を示しています。

 そうしてステパノ殉教をきっかけに激しい迫害が起きて、弟子たちはエルサレムから散らされて行きました。散らされた弟子の一人のピリポはサマリア人たちに伝道しました(使徒8章)。ヨハネ4章5節の「それでイエスは、・・・サマリアの町に来られた」とは、ピリポの内にいるイエスのことです。

 『荘子』の大鵬のように地上から飛び立ち、九万里の上空の視座からも聖書を読むことをお勧めしているのは、地上からの視座だけでは「木を見て森を見ず」になってしまうからです。それゆえ、地上と天上の両方の視座から聖書を読みたいと思います。すると、天国との距離がぐっと縮まり、死後まで待たなくても天国に近づくことができて、心の深い平安が得られるようになります。(つづく)
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天上から?地上から? ~聖書の読み方のコペルニクス的転回~

2024-02-08 11:43:43 | 荘子と聖書
【天上から?地上から?】

 視座の違いが聖書の読み方にもたらすコペルニクス的転回について、今回は書きます(前回からの続きです)。

 九万里の上空を飛翔する『荘子』の大鵬のように、天上からの視座で聖書を読んでみましょう。

 新約聖書の『ルカの福音書』の最終盤の24章50~51節には、イエスが「天に上げられた」ことが書かれています(写真)。



ルカ24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

 つまりイエスは大鵬のように九万里の上空に飛び立ちました。読者の私たちもイエスとともに飛び立ちましょう。そうして『ルカの福音書』から『ヨハネの福音書』に移ります。一般的な聖書の読み方では、この時点で読者の視座はまた地上に降り立ちます。しかし、私たちはこのまま天上を飛び続けましょう。すると、ヨハネ1章6~8節が、従来とは全く異なる光景で目に映ります。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 天上から『ヨハネの福音書』を読むなら、上記1章6節の証人の「ヨハネ」とは、この福音書を書いた記者のヨハネです。そして読者の私たちは九万里の上空を飛んでいますから、この福音書の最後の締めくくりの箇所も視界に入ります。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 前回、『ヨハネの手紙第一』の記者のヨハネが、私たちを天上の「御父また御子イエス・キリストとの交わり」(Ⅰヨハネ1:3)に招いていることを書きました。この交わりに入れられた者は皆、イエスの弟子であり、証人です。つまり、ヨハネ1:6の証人の「ヨハネ」とは、天上での神様との交わりに入れられた者たち全員であり、この皆がヨハネ21:24~25に記されている『ヨハネの福音書』の記者です。1世紀から21世紀に至るまで弟子たちの数は膨大ですから、「世界もその書かれた書物を収められない」とは決して誇張ではなく、事実です。

 このように『ヨハネの福音書』を天上からの視座で読むなら、この福音書のイエスは、降誕する前と昇天した後の「天上のイエス」です。一方、地上からの視座で読むなら、イエスはマタイ・マルコ・ルカが描いたのと同じ紀元30年頃の「地上のイエス」です。

 『ヨハネの福音書』のイエスを「地上のイエス」として読んでも良いと思います。しかし現状では、専ら「地上のイエス」としてのみ、読まれています。それゆえ、もう一方の「天上のイエス」も分かち合えるようになることを強く望みます。なぜなら「天上のイエス」との交わりによって、より深い平安が得られるからです。世界が平和に向かうためには、この読み方は不可欠でしょう。

 今回は『ヨハネの福音書』の冒頭の1章と締めくくりの21章しか紹介しませんでした。次回は4章について書き、この福音書のイエスが「天上のイエス」であるとヨハネが明記していることを明らかにします。(つづく)
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大鵬のように地上の縛りから離れる

2024-02-05 08:05:25 | 荘子と聖書
 今回から天国や極楽浄土の話を織り交ぜて行きます。

 4~5年前の60歳前後の頃、同年代の友人・知人の何人かが亡くなり、自分の余命もそんなに残されていないかもしれないと思いました。60歳にして漸くその心境に至ったのですが、寿命がもっと短かった時代には、「死」はもっと若い頃から意識されたことでしょう。世界では戦争・疫病・災害・貧困などによって現代においても寿命が短い地域があります。日本でも年明け早々の能登半島地震や羽田空港での衝突事故などを通じて、「死」は身近であることを改めて思い知らされています。

 最近、企業爆破事件の容疑者が「最期は本名で死にたい」と名乗り出たことが報道されて、とても考えさせられました。この世の汚れや罪や偽りから解放されて平安の中で最期を迎えたいという思いは誰の内にもあるでしょう。それが適わなくても普段から神や仏にすがることで「死後」は天国や極楽浄土で安らかに憩うことができると信じる人も多いと思います。

 その一方で『荘子』は、この世の汚れや罪や偽りからの解放が「現世」においても可能であることを説いています。「死後」まで待たなくても、何ものにもとらわれない自由な境地に至るなら、九万里の上空を飛翔する大鵬のように悠然と過ごすことができます。前回引用した『荘子』の冒頭の逍遥遊篇の書き出しの続きを引用します。

 地上には野馬(かげろう)がゆらぎたち、塵埃(ちり)がたちこめ、さまざまな生物が息づいているのに、空は青一色に見える。あの青々とした色は、天そのものの本来の色なのであろうか。それとも遠くはてしないために、あのように見えるのであろうか。おそらくは後者であろう。とするならば、あの大鵬が下界を見おろした場合にも、やはり青一色に見えていることであろう。

 そもそも水も厚く積もらなければ、大舟を浮かべるだけの力がない。杯の水を土間のくぼみに落としただけでは、芥(あくた)が浮かんで舟になるのがせいぜいであり、杯をおいても地につかえるであろう。水が浅くて、舟が大きすぎるからである。とするならば、風も厚く積もらなければ、鵬の大きな翼をささえるだけの力はない。だから九万里の高さにのぼって、はじめて翼にたえる風が下にあることになる。

 こうしていまこそ、大鵬は風に乗って上昇しようとする。背に青天を背負うばかりで、さえぎるものもない。こうしていまこそ、南をさして飛びたとうとする。(森三樹三郎・訳注『荘子 内篇』中公文庫 1974)

 このように「現世」においても様々な縛りから解放され得ることを『荘子』が説く一方、キリスト教では「死後」に可能になると一般的には理解されていると思います。

 しかし実は聖書も、「現世」においてそれが可能であることを説いています。たとえばヨハネの手紙第一1章1~4節です(写真)。



Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 3節に「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」とありますが、これは天の神様との交わりです。この手紙が書かれた時代、イエスは地上ではなく天にいます。つまり読者は『荘子』の大鵬のように九万里の上空を飛翔して、天の御父と御子と交わるのです。私たちは様々なことに縛られていますが、それらから少しずつ解放されるなら、やがては天の神様との交わりに「現世」においてでも、入れていただくことができます。

 地上の縛りは強烈ですから大鵬のように飛び立つことは容易ではありません。それゆえ聖書も地上からの視座で読まれがちです。しかし地上から離れた視座で聖書を読むなら、どれほど素晴らしい恵みに浸ることができるかを、次回は書きます。(つづく)
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九万里の上空を飛翔する大鵬

2024-02-05 07:59:29 | 荘子と聖書
 静岡出身の横山芳介氏が作詞した「都ぞ弥生」の歌詞の1番を前回紹介しましたが、2番も紹介します。

豊かに稔れる石狩の野に 雁(かりがね)遥々沈みてゆけば
羊群(ようぐん)声なく牧舎に帰り 手稲の嶺(いただき)黄昏こめぬ
雄々しく聳ゆる楡(エルム)の梢 打振る野分に破壊(はえ)の葉音の
さやめく甍(いらか)に久遠(くおん)の光
おごそかに 北極星を仰ぐかな

 北大キャンパスに隣接する農場の西には手稲山が見えました。毎日の通学では農場の東端を通りましたから、広大な農場と手稲山がセットになって私の目に焼き付いています。当時の北大生は大きな事ばかり考えている者が多かったですが、校訓のようになっている「青年よ大志を抱け」の精神だけではなく、目に見える形で広大なキャンパスと農場があり、その中で日々を過ごしていたことが大きく影響していたと思います。

 私も大きな事ばかり考えていました。そして大学2~3年の頃は『荘子』の壮大なスケールに憧れを抱いていました。読み始めたきっかけは、『荘子』がノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏の愛読書であることを知り、どんな書か興味を抱いたからでした。『荘子』の冒頭の逍遥遊篇の書き出しを、当時読んでいた森三樹三郎・訳注の中公文庫から引用します。



 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。

 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海にうつろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。」(森三樹三郎・訳注『荘子 内篇』中公文庫 1974)

 北海道に住んでいた私は自分を魚の鯤(こん)であると思い、いつか鳥の大鵬に化身して南に向かって羽ばたき、九万里の上空を飛翔することを夢想していました。この『荘子』を愛読していたことが、後に出会った聖書の読み方に大きく影響していると思います。(つづく)
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北の大地への憧れ

2024-02-05 07:25:32 | 荘子と聖書
 少し前からFacebookの私のタイムラインで、荘子と聖書について書き始めました。このブログでは当面の間は、Facebookの記事をこちらに転載することにします。小説はマニアックな方向に進んで行きそうなので、しばらく休載して練り直すかもしれません。Facebookでは、まずは「都ぞ弥生」の歌碑から話を始めました。



 いま住んでいる沓谷(くつのや)1丁目には長源院があり、このお寺の境内には「都ぞ弥生」の歌碑があります。「都ぞ弥生」は北大の恵迪寮(けいてきりょう)の明治45年度の寮歌です。作詞者の横山芳介氏が静岡出身で、この寺にお墓があるという縁があるとのこと。



 たとえ歌えなかったとしても、北大生で「都ぞ弥生」を一度も聞いたことがない者はいないでしょう。それほど愛されている寮歌です(最近のことは定かではありませんが)。歌詞は5番までありますが、歌碑には1番が刻まれています。



都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)
尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の
夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて
星影冴かに光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ


 上記の1番の歌詞には、北の国にあこがれる、まだ北海道に行く前の若者の心情が綴られています。そして私も、北に憧れて北海道に行きました。中学生の頃、図書館(今は歴史博物館がある所)に通って畑正憲さんのムツゴロウシリーズを読み漁っていましたから、北の大地への憧れはかなり大きなものでした。

 そして北海道で学生時代を過ごしたことが、私の聖書の読み方に大きな影響を及ぼすことになりました。今回は、ここまでにしておきます😊
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