平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

著書

2017-05-28 17:57:22 | 折々のつぶやき
  『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』
  ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~

  小島 聡・著、ヨベル新書 1,080円(税込み)



【目次】
はじめに  8

序章 「永遠」への招き 14
 魂を揺さぶる広島の平和公園
 『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』の時間
 深い平安を得ていないクリスチャン
 気付かれていない「イエスの涙」の深層部

第1章 『夕凪の街 桜の国』と
    『ヨハネの福音書』の紹介 31
 『夕凪の街』の紹介
 『桜の国(一)』の紹介
 『桜の国(二)』の紹介
 『ヨハネの福音書』の紹介

第2章 罪悪感と向き合った者たち 44
 「愛する者の死の現場」への回帰
 平野皆実の場合
 石川旭の場合
 石川七波の場合
 ペテロとヨハネと愛弟子の場合

第3章 過去を過去に閉じ込める罪 55
 原爆を落とした側の重大な罪
 これほどの悪を為し得るのはなぜか?
 私たちに語り掛ける過去と未来
 アルファでありオメガである方
 克服すべき【過去→現在→未来】の固定観念
 溶け合って一つになった「旧約の時代」と
  「新約の時代」―私の体験
  
第4章 『ヨハネの福音書』の「永遠」 77
 「永遠」への入口
 《人間イエス》と《霊的イエス》
 旧約の預言者の内にいる《霊的イエス》
 新約のクリスチャンの内にいる《霊的イエス》
 神の下では一つの『旧約聖書』と『新約聖書』
 
第5章 分裂を繰り返す者たち 97
 『旧約聖書』に見られる分裂
 『新約聖書』に見られる分裂
 分裂した者たちを一つにする十字架
 表層部と深層部との関係(旧約編)
 表層部と深層部との関係(新約編)

第6章 疲れ、憤り、涙するイエス 120
 ひどいなあ
 疲れているイエス
 離れて行った者たちを悲しむイエス
 戦争の惨禍に涙を流すイエス

第7章 暗闇の時代に必要な「永遠」への覚醒 131
 分裂がない「永遠」
 「永遠」の中にある十字架
 イエスの「愛弟子」は読者の私たち自身
 「世の光」が見える「永遠」

終章 平和の実現に必要な「永遠」への覚醒 139
 「永遠」は平和実現の最強の切り札

あとがき  145
参考図書  150
付表 『ヨハネの福音書』の重層構造 155

【カバー折り返し部の紹介文】
 聖書はなぜ平和の役に立っていないのか。大統領の就任式で聖書を用いるアメリカが広島と長崎に原爆を投下し、戦争を繰り返しているのはなぜか。
 「永遠」に目覚めて、聖書の『ヨハネの福音書』の深層部への理解を深めるなら、これらの疑問が解けるであろう。
 本書は広島の被爆者とその家族を描いた漫画の名作『夕凪の街 桜の国』(こうの史代・作)を導き役に読者を「永遠」へと招き、『ヨハネの福音書』の隠された深層部を明らかにしていく。
コメント

旧約聖書が土台の使徒たちの説教(2017.5.28 礼拝)

2017-05-28 14:40:03 | 礼拝メッセージ
2017年5月28日礼拝メッセージ
『旧約聖書が土台の使徒たちの説教』
【使徒13:13~23】

はじめに
 使徒の働き13章の学びを続けます。まず13章の始めの方を簡単に復習しておきます。
 アンテオケ教会でパウロやバルナバたちが、2節にあるように主を礼拝して断食をしていると、聖霊が「バルナバとサウロを私のために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言いました。それでアンテオケ教会の人々はバルナバとパウロを送り出しました。こうしてパウロの第1次伝道旅行が始まりました。
 二人は聖霊によって異邦人伝道の任務に遣わされました。そして前回のメッセージで私は、この箇所を他人事のようにして読んではならないという話をしました。聖霊はアンテオケ教会だけではなく、私たちの教会にもまた語り掛けて下さっていて、伝道の任務を与えて下さっていますから、私たちはこの聖霊の声に耳を澄まさなければなりません。
 さて、この第一次伝道旅行で彼らはヨハネと呼ばれるマルコも助手として一緒に連れて行きました。彼らはアンテオケからセルキヤに下り、船でキプロス島に渡りってサラミスから上陸し、島全体を巡回してパポスまで移動しました。(地図で地理を確認)

パウロの説教
 きょうの箇所は、このキプロス島のパポスからです。13章の13節です。

13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。

 ヨハネと呼ばれるマルコがなぜ一行から離れたのか、その理由はわかりませんが、このことが後にパウロとバルナバとが別行動を取ることの原因になったことを、前々回のメッセージで話しました。
 続いて14節、

13:14 しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。

 この地方にもアンテオケという地名の場所がありました。これはアンテオケ教会のアンテオケとは別の場所ですから、混同しないようにして下さい。ここで彼らはユダヤ人の会堂に入りました。
 前のページの5節には、キプロス島においても彼らはユダヤ人の会堂で神のことばを宣べたことが書いてありますから、これが彼らの宣教のスタイルだったのですね。
 新しい土地に行ったら、彼らはまずユダヤ人の会堂に行って、そこで神のことばを宣べ伝えました。ピシデヤでも同様でした。そして15節と16節、

13:15 律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」
13:16 そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。

 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々」とありますから、ここにはイスラエル人たちだけでなく、異邦人たちも集っていたことがわかります。
 これらの人々に向かってパウロは話し始めました。まず出エジプトの出来事が語られます。17節です。

13:17 この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。

 次に荒野での四十年間の放浪のこと、そしてヨシュアの時代にカナンの地に入ったことが語られます。18節と19節、

13:18 そして約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました。
13:19 それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。

 次いで士師記の時代が語られて、その後にサウルが王位に就いたことが語られます。20節と21節です。

13:20 その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。
13:21 それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。

 このキスの子サウロというのがイスラエルの初代王のサウルのことです。そして次にダビデが二代目の王となり、そのダビデの子孫からイエス・キリストがお生まれになりました。22節と23節、

13:22 それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
13:23 神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。

 このように、パウロは先ず旧約の時代のことについて語り、次いでイエス・キリストの話へとつなげて行きました。

旧約聖書を土台にした使徒たちの説教
 このパターンは、ペテロの説教においても、ステパノの説教においても同様でした。
 簡単に確認しておきましょう。7章のステパノの説教の2節と3節をお読みします。

7:2 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、
7:3 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。

 このようにステパノはアブラハムから説教を始めました。そして、使徒2章にあるペテロの有名なペンテコステの日の説教では、ペテロはヨエル書を引いて説教を始めています。2章の16節から18節までをお読みします。

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 このように、使徒の働きに収録されている説教は皆、旧約聖書が土台になっています。新約聖書が旧約聖書の土台の上にあることは、いくら強調しても強調し切れない、とても大事なことだと言えます。

旧約聖書と新約聖書を土台にすべき私たちの時間観
 私たちは、【過去→現在→未来】の時間観に縛られていますから、週報のp.3の左側に書いたように、

 旧約聖書 → 新約聖書 → 現代

という、川の流れのような時間の流れがあると思いがちです。しかし、このような川ではなくて、右側にある深い海のような、

   現代
 ↑新約聖書↑
 ↑旧約聖書↑

という時間の重なりがあると考えるべきです。
 左側においては旧約聖書も新約聖書も過去に置き去りにされてしまっています。そうして、現代の人々の多くは、自分たちの人生は聖書とは無関係だと思い込んでいます。しかし、私たちの人生の土台には旧約聖書と新約聖書の土台がしっかりとあることを、私たちはよく知っています。その良く知っている筈の私たちであっても、ついつい左側のような時間の流れになっていると思ってしまいます。
 このように私たちは川の流れのような【過去→現在→未来】の時間観に強烈に縛られています。私たちの心がなかなか平安で満たされないのも、このような時間観に縛られているせいであることを、私は今週刊行される本の中に書きました。そうではなくて私たちは深い海のような右側の時間観を持つべきです。
 週報のp.3に載せた(a),(b),(c)の三つのグラフの図は、本で使用した図です。



 この図の横軸が、普段私たちが日常生活の中で感じている、【過去→現在→未来】の時間観です。もちろん、この時間観がまったく間違っているわけではありません。私たちの肉体はこの時間の流れの中で確かに老いる方向へと向かっています。若かった時と比べていろいろな機会に自分が年を取ったことを思い知らされます。そして、この肉体の老いの行き着く先は死であることを(a)の図は示しています。それゆえ、死へ向かう横軸の時間は(b)のように、死の不安という方向へ向かう時間です。このような不安の中にいると、私たちはなかなか人に対して寛容になることができません。人を赦すこともできにくくなります。世界で戦争が絶えないのは、結局は私たちがこの横軸の時間の中でいつも不安を抱えながら生きているからだということを、私は本の中で指摘しました。
 一方、魂が目覚めて、永遠を感じることができるようになるなら、心は(b)のように平安で満たされて、(c)のように平和へと向かって行くでしょう。この縦軸の方向の「永遠」は、旧約聖書と新約聖書を土台にしなければ目覚めることができません。
 私たちが設立を目指す「へいわ深海聖書館」は、このような縦軸の方向の「永遠」へと多くの方々が目覚めることを助ける働きをしたいと思います。

おわりに
 もう一度、使徒の働きに戻ります。使徒たちは聖霊に満たされて、旧約聖書を土台とした縦軸の方向の時間の中にいました。イエス・キリストを信じて聖霊を受けるなら、私たちは「永遠」に目覚めて、縦軸の方向の聖書を土台にした「永遠」の中を生きることができるようになります。それは不安から解放された平安に満ちた時間です。
 この素晴らしい恵みを地域の多くの方々と分かち合う働きができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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周囲の目に縛られている私たち(2017.5.24 祈り会)

2017-05-26 10:45:21 | 祈り会メッセージ
2017年5月24日祈り会メッセージ
『周囲の目に縛られている私たち』
【ヨハネ12:37~43】

はじめに
 祈り会では、ヨハネの福音書の学びを続けています。ここ何回か、「イエス・キリストは聖書のことばである」ということを主題にして話して来ましたが、このテーマでのネタがそろそろ尽きて来ましたから、少し話題を変えながら、なおヨハネの福音書の学びを続けて行きたいと願っています。

なぜヨハネの福音書の三層構造が気付かれずに来たのか?
 今の私の頭の中にある最大の疑問は、なぜヨハネの福音書の重層構造、すなわち「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」が三層に重なっている構造、この構造のことが、今まで気付かれずに来たのか、ということです。私のような足りない者が気付くことができたことなのに、なぜ長い間にわたって気付かれないまま今日に至ったのでしょうか。(私が足りない者であると自己評価していることは、決して謙遜ではありません。もし私が前職または前々職において十分な成果を挙げていたなら、私はその職にとどまっていた筈です。しかし、私は前職においても前々職においても十分な働きが出来ませんでした。このことを私はとても残念に思い、コンプレックスを感じています。恐らく神様は、私を牧師に召し出すために、前の職場で活躍するための能力を十分に与えて下さらなかったのだと思います。ですから、それは仕方のないことだったと思っています。そして神様が私を召し出して下さったことを今では感謝しています。しかし、前の職場で他の人々が活躍しているのにも関わらず、自分が十分な成果を挙げられないでいたことは、けっこうつらいものがありました。そして、もし私に優れた能力があるなら、ヨハネの福音書のことも、もっと上手に皆さんにお伝えできている筈です。そのことが上手くできていないことも残念に思っています。ですから私が自分を高く評価していることはありません。)
 話を元に戻すと、ヨハネの福音書の深層部に「旧約の時代」と「使徒の時代」があることは、他に何の文献も要りません。ですから、誰でもこのことを発見する可能性はあったわけです。それにも関わらず、これまでヨハネの福音書の深層部の存在が知られずに来たのは、本当に不思議なことです。

聖書一冊あれば発見できること
 一般的に言って、何か新しい発見をするには、莫大な費用が掛かるのが普通です。自然科学の実験・計算系では装置にお金が掛かります。ネットで調べた装置では、スーパーカミオカンデ(巨大な水槽を神岡鉱山の廃坑に設置したもの)が約100億円、すばる望遠鏡(空気が澄んだハワイの山の上に設置したもの)が約400億円だそうです。或いはまた、スーパーコンピュータ「京」の総開発費は1,120億円だそうです。装置が要らない理論系でも専門性を身に付けるまでの大学・大学院の学費がそれなりに掛かりますし、人文社会系においても調査費が掛かるでしょう。つまり、これらの分野では個々の研究者の能力の問題以外にも費用の問題というハードルが先ずありますから、新しい発見が簡単に得られないことは良く理解できます。
 一方で聖書は、自国語に翻訳された聖書を比較的安価に入手できます。翻訳者は多大な労力と時間をつぎ込んでいますが、読者は一般の書店で数千円程度で聖書を購入することができますから、現代では多くの人々が自分の聖書を持っていて、日常的に読むことができます。ですから、聖書を一冊持っていれば誰でも発見するチャンスがあったヨハネの福音書の深層部がこれまで知られずに来たのは、本当に不思議なことです。

主が私たちの目を閉じている?
 どうしてでしょうか。一つの可能性としては、いつも私が言っているように、皆があまりに【過去→現在→未来】の直線的な時間観に縛られているために、「イエスの時代」、「旧約の時代」、「使徒の時代」の三つの時代が重なっていることに気付きにくくなっているのだろうと思います。しかし、それにしても誰か他に気付いても良さそうにも思います。それゆえ、もしかしたら主が私たちの目を依然として閉じているのではないかという気もしています。
 お開きにならなくて結構ですが、主はイザヤに次のように仰せられました。

「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(イザヤ6:9,10)

 このような『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』の時代が今でも続いているのだろうかという気もします。しかし、イエス・キリストを信じる者にとっては、もうこのような時代は過ぎ去ったはずです。それなのに、ヨハネの福音書の深層部が知られずに来たのは、いったいどうしてなのか。これはとても不思議なことです。
 ただ、ヒントになりそうな箇所がありますから、その箇所を、ご一緒に読むことにしたいと思います。今のイザヤ6章を引用しているヨハネ12章です。ヨハネ12章の37節から43節までを、交代で読みましょう。

12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

 38節の「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」は、有名なイザヤ53章からの引用ですね。そして、40節の「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」はイザヤ6章からの引用です。

周囲の目に縛られると到達できない真理
 このイザヤ6章が引用されたのは、ユダヤ人たちがイエスさまを信じなかったからです。彼らがイエスさまを信じなかったのは、主が彼らの目を盲目にし、また、彼らの心をかたくなにしたからだとヨハネ12章40節は書いています。
 しかし、ヨハネは12章42節のようにも書いています。

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。

 この箇所からは、たとえ主が人の霊的な目を盲目にしても、その目が絶対に開かないということはなく、何かをきっかけにして開くこともあるのだということがわかります。私の場合もそうでした。私の霊的な目は堅く閉じられていましたが、16年前に、父の死をきっかけにして少しずつ開きました。そうして高津教会に通うようになって、しばらく経ってから、イエス・キリストを信じるに至りました。
 ただし、洗礼を受けるには、もう一つの心のハードルを乗り越える必要がありました。家族や世間がどう思うだろうかということを心配して、このことが心のハードルになっていました。今の42節の前半に続く後半、そして43節とまったく同じです。お読みします。

ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

 この箇所は、日本人のクリスチャンならよくわかると思います。私の場合も、家族がどう思うだろうかというハードルがありました。それでも、家族の問題は何とかクリアして洗礼の恵みに与りましたが、世間の目ということに関しては、未だに完全に自由になれてはいないと思います。たとえばチラシの投函では、私は玄関先で犬に吠えられると退散してしまいます。悪いことをしているわけではないのに、犬に吠えられると何だか悪いことをしているような気持ちになってしまいます。世間体を全く気にしていなければ、たとえ犬に吠えられても堂々と投函できるはずですが、つい気持ちが萎えてしまいます。
 或いはまた、世間の目だけではなく、私は教団の目も気にしています。今度出版する本の内容を代表以外の教団の先生方が知ったら(代表には知らせてあります)、どういう反応を示すか、私はけっこう気にしています。私は今回の本の働きは、主から与えられた使命だと確信していますから、たとえ教団の先生方がどう思おうとも構わないという強い気持ちで出版に踏み切り、Facebook上でも報告していますが、それでも先生方の目を恐れる気持ちから完全に自由になれているわけではありません。
 ただし、この種のことは、恐らくは私に限ったことではないだろうと思います。周囲のあらゆる種類の目から100%完全に自由になれている人は稀有であろうと思います。
 そういう点でヨハネ12章の42節と43節は、すべてのクリスチャンに当てはまると言っても過言ではないでしょう。様々な人の目の中で暮らしている私たちは、それほど精神的に不自由な存在であるとも言えるのだと思います。この箇所は、決して不信仰を批判しているのではなくて、誰にでもこういう傾向があるのだということを教えてくれているのだと思います。
 聖書の真理に到達するためには、これらの縛りから完全に自由にならなければならないのでしょう。このことを教訓として、きょうの学びとしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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とても不思議なこと

2017-05-23 13:42:34 | 折々のつぶやき
【とても不思議なこと】
 何か新しい発見をするには、莫大な費用が掛かるのが普通です。自然科学の実験・計算系では装置にお金が掛かります。いまネットで調べたら、スーパーカミオカンデが約100億円、すばる望遠鏡が約400億円、或いはまた、スーパーコンピュータ京の総開発費は1,120億円だそうです。装置が要らない理論系でも専門性を身に付けるまでの大学・大学院の学費がそれなりに掛かりますし、人文社会系においても調査費が掛かるでしょう。つまり、これらの分野では個々の研究者の能力の問題以外にも費用の問題というハードルが先ずありますから、新しい発見が簡単に得られないことは良く理解できます。
 一方で聖書は、自国語に翻訳された聖書を比較的安価に入手できます。翻訳者は多大な労力と時間をつぎ込んでいますが、読者は一般の書店で数千円程度で聖書を購入することができますから、現代では多くの人々が自分の聖書を持っていて、日常的に読むことができます。それなのに、未だ知られていないことがあります。
 これは、とても不思議なことです。なぜでしょうか。「聞き続けよ、だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」(イザヤ6:9)が、今でも続いているのでしょうか?
 『ヨハネの福音書』の深層部に『旧約聖書』のきれいな流れがあることも、未だ知られていません。ヨハネ1章の深層部には『創世記』の時代が、ヨハネ2章の深層部には『出エジプト記』のエジプト脱出の時代が、ヨハネ3章の深層部には『出エジプト記』の律法授与の時代から『ヨシュア記』のヨルダン渡河を経て『サムエル記』に至るまでの時代が、ヨハネ4~10章には『列王記』の時代が、そしてヨハネ11章の深層部には『エズラ記』・『ネヘミヤ記』の時代があります。このことを知るのに聖書以外の文献は必要ありません。
 これらの説明は近刊本に書きましたが、どの時代が深層部にあるかはイエスの東西南北の位置によって知ることができます。イエスがヨルダン川の東側にいたヨハネ1章はアブラムがウル・ハランの地にいた時代、イエスが北方のサマリヤ地方に行ったヨハネ4章は北王国の預言者エリヤの時代、イエスが北方のガリラヤ地方にいるヨハネ6章は預言者エリシャの時代、そして6章の終わりで多くの弟子たちがイエスから離れ去った箇所は北王国滅亡の時代です。7章以降のイエスが専ら南にいるのは北王国が存在しないからであり、ヨハネ9章でイエスが盲人の目を開いたのは南王国のヨシヤ王の時代に律法の書が発見されたことが深層部にあります。またヨハネ10章の終わりでイエスがヨルダン川の東側に行ったのはバビロン捕囚の時代が深層部にあり、ヨハネ11章でイエスがヨルダン川の西側に戻ったのはエルサレム帰還後の神殿と城壁が再建された時代が深層部にあります。
 以上の『ヨハネの福音書』の深層部の流れを知るなら、ヨハネ11章35節の「イエスは涙を流された」では、バビロン軍の攻撃によって廃墟となったエルサレムを前にしたイエスが戦災を嘆き悲しんでいる姿を感じるはずです。
 2世紀以降の無数の戦災は「イエスの涙」の深層部を知ることなく、もたらされてものです。広島と長崎に原爆を投下したアメリカもまた、この「イエスの涙」の意味を知らずにいて、21世紀の今もなお多くの戦災を他国に与え続けています。
 なぜ『ヨハネの福音書』の深層部に『旧約聖書』の時代があるのかの解釈はさておき、先ず私たちは「戦災の廃墟の前で涙を流すイエス」の姿を感じることができるようになりたいと思います。

コメント

新刊本の目次

2017-05-23 13:40:13 | 折々のつぶやき
いま印刷中の本の目次です。

『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』
~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~

はじめに  8

序章 「永遠」への招き 14
 魂を揺さぶる広島の平和公園
 『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』の時間
 深い平安を得ていないクリスチャン
 気付かれていない「イエスの涙」の深層部

第1章 『夕凪の街 桜の国』と
    『ヨハネの福音書』の紹介 31
 『夕凪の街』の紹介
 『桜の国(一)』の紹介
 『桜の国(二)』の紹介
 『ヨハネの福音書』の紹介

第2章 罪悪感と向き合った者たち 44
 「愛する者の死の現場」への回帰
 平野皆実の場合
 石川旭の場合
 石川七波の場合
 ペテロとヨハネと愛弟子の場合

第3章 過去を過去に閉じ込める罪 55
 原爆を落とした側の重大な罪
 これほどの悪を為し得るのはなぜか?
 私たちに語り掛ける過去と未来
 アルファでありオメガである方
 克服すべき【過去→現在→未来】の固定観念
 溶け合って一つになった「旧約の時代」と
  「新約の時代」―私の体験
  
第4章 『ヨハネの福音書』の「永遠」 77
 「永遠」への入口
 《人間イエス》と《霊的イエス》
 旧約の預言者の内にいる《霊的イエス》
 新約のクリスチャンの内にいる《霊的イエス》
 神の下では一つの『旧約聖書』と『新約聖書』
 
第5章 分裂を繰り返す者たち 97
 『旧約聖書』に見られる分裂
 『新約聖書』に見られる分裂
 分裂した者たちを一つにする十字架
 表層部と深層部との関係(旧約編)
 表層部と深層部との関係(新約編)

第6章 疲れ、憤り、涙するイエス 120
 ひどいなあ
 疲れているイエス
 離れて行った者たちを悲しむイエス
 戦争の惨禍に涙を流すイエス

第7章 暗闇の時代に必要な「永遠」への覚醒 131
 分裂がない「永遠」
 「永遠」の中にある十字架
 イエスの「愛弟子」は読者の私たち自身
 「世の光」が見える「永遠」

終章 平和の実現に必要な「永遠」への覚醒 139
 「永遠」は平和実現の最強の切り札

あとがき  145
参考図書  150
付表 『ヨハネの福音書』の重層構造 155
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聖霊から与えられた任務(2017.5.21 礼拝)

2017-05-21 15:15:06 | 礼拝メッセージ
2017年5月21日礼拝メッセージ
『聖霊から与えられた任務』
【使徒13:1~13】

はじめに
 きょうから、いよいよパウロの第一次伝道旅行の箇所に入って行きます。『使徒の働き』の全体で言うと、ちょうど中間地点にさしかかろうという所です。これ以降の『使徒の働き』の主役はパウロです。それゆえ『使徒の働き』の前半には、パウロの異邦人伝道への神の備えについて書かれていると言っても過言ではないと感じます。

私たちの教会にも任務を与えている聖霊
 先週のメッセージでも少し先回りして読んだ箇所ですが、まず、1節と2節を交代で読みましょう。

13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。

 この時、アンテオケ教会では異邦人への伝道が熱心に行われていて、多くの者たちがイエス・キリストを信じて教会に加えられていました。そして、2節にあるように彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われました。
 この「聖霊が言われた」という表現は、『使徒の働き』独特の表現ですね。実は私は長い間、この表現にはなかなか馴染めないでいました。「主が言われた」とか「神が言われた」、或いは「父が言われた」とか「イエスが言われた」という表現には、もちろん違和感を感じませんが、「聖霊が言われた」という表現には何となく違和感を感じていました。しかし、『ヨハネの福音書』では『旧約聖書』と『使徒の働き』とが重ねられていて、この重なりの中に父・子・聖霊の三位一体の神の存在を感じるようになってからは、この『使徒の働き』の「聖霊が言われた」という表現に違和感を感じることはなくなりました。聖霊の神は三位一体の神ですから、この「聖霊が言われた」は、「父が言われた」や「イエスが言われた」と受けとめても良いと言えるでしょう。
 さて、きょうのメッセージの中で私が最も強調しておきたいことは、この聖霊によるアンテオケ教会への命令を他人事として読んではならないということです。聖霊は私たちのインマヌエル沼津キリスト教会にも、任務を与えて下さっています。それはもちろん地中海方面へ行って伝道しなさいということではなくて、この地域で伝道しなさいということです。そして具体的な指示も与えて下さっているのでしょう。その具体的なことの細かい内容までを私たちが霊的に受け取ることはなかなか難しいことです。しかし難しいことではあっても私たちはできる限り霊性を整えて聖霊の声を聴くことができるようにしなければならないと思います。

地図で地理を確認しよう
 次に、3節から6節までを交代で読みましょう。

13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。
13:5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。
13:6 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。

 ここに四つの地名が出てきました。セルキヤ、キプロス、サラミス、パポスです。これらのカタカナの地名は、文字で読んでいるだけですと、ひどく味気ないものです。しかし、後ろの地図で地理を確認すると、がぜん身近に感じることができるようになると思います。『使徒の働き』という書は、地図を見ながら読むことで、理解を深めることができますから、これからは毎回、地図を見ることにしたいと思います。では、後ろの地図を見て下さい。

(地図でセルキヤ、キプロス、サラミス、パポスの地理を確認)

 さて、キプロス島のパポスに、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師がいました。続いて7節と8節を交代で読みます。

13:7 この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。
13:8 ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。

 そして、次の9節から『使徒の働き』はサウロの名をパウロと呼ぶようになります。サウロというのはユダヤ名でしたから、ここまではユダヤの狭い世界の中での物語であり、ここから、いよいよ世界に向けての伝道の物語が始まるとも言えるのでしょう。
 9節から12節までを交代で読みましょう。

13:9 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、
13:10 言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。
13:11 見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。
13:12 この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。

 この出来事を見た総督は、信仰に入ったとありますが、もう一方の魔術師がこの後で、どうなったかは書いてありませんね。この魔術師が盲目になった出来事は、サウロがダマスコ途上で目が見えなくなったことと非常によく似ています。ですから、もしかしたら、この魔術師もサウロのように回心してキリストの教えを宣べ伝えるようになったのかもしれませんが、それはわかりません。

宣教の力を与える聖霊
 さて、きょうご一緒に読んだ13章の1節から12節までの間では、「聖霊」ということばが三回使われています。2節では聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われました。4節にはサウロとバルナバの二人が聖霊に遣わされたことが書いてあります。そして9節に「パウロは、聖霊に満たされ」とあります。このように、聖霊はいつもパウロと共にいて、イエスの証人になるための力を与えていました。この聖霊の力を受けていたので、パウロたちはどんな困難があっても、前に進んで行くことができました。
 マルコがパウロとバルナバから離れてエルサレムに帰ってしまったのは、もしかしたらマルコが聖霊の力を十分に受けていなかったからなのかもしれません。13節をお読みします。

13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。

 さて、これ以降の『使徒の働き』の記述からも、パウロは聖霊から力を受けていた様子がわかります。
 私たちもまた聖霊から力をいただいていますから、聖霊の導きを仰ぎながら力強く進んで行きたいと思います。ただし、どの方向が正しい方向なのか、御心を知るのはそんなに簡単なことではありません。ですから、私たちは霊性をしっかりと整える必要があります。
 とは言え、この御心を知るのがそんなに簡単ではないことは、パウロたちもまた同様でした。これまでも何度か開いたことがありますが、きょうは最後に『使徒の働き』16章の始めの部分を読んで、終わることにします。

誤った方向へ行くことを禁じる聖霊
 まず16章1節に、パウロがデルベに、次いでルステラに行ったとあります。ここには第二次伝道旅行が始まったばかりのことが書かれています。ここも地図で確認しておきましょう。

(地図で確認)

 ここからパウロたちはヨーロッパ方面に向かって行きます。その辺りの事情を、使徒16章では次のように書いています。16章の6節と7節を交代で読みましょう。

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

 6節に「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ」とあり、また7節には「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」とあります。つまり、パウロが行こうと思っていた方向は御心ではなかったということです。このように優れた霊性を持っていたパウロでさえ、いつも御心の通りの方向に進んでいたわけではなく、誤った方向に進むこともあったということです。しかし、その後のことは、さすがパウロだと思います。パウロはきっちりと軌道修正することができました。パウロのような優れた霊性を持っていない鈍感な者なら、誤った方向に進み続けることでしょう。
 ここからは一つ、とても大切なことが学べると思います。それは、聖霊が禁じていることを霊的に感じることも難しいことだとは思いますが、御心に適う方向を感知するよりは禁じている方向を感知するほうが、多少は感知しやすいようであるということです。御心に適う方向がどちらの方向かは、選択肢が多すぎてなかなかわかりませんが、この方向はダメという御心は、少しは感知しやすいようです。

おわりに
 ですから、私たちは霊性を整えつつ、ともかくも前進するべきなのだろうと思います。何もしないでいれば誰も救いに導くことはできませんから、ともかくも前進し、誤っていれば聖霊がそれを教えて下さいますから、それを感じて修正する、その繰り返しなのではないでしょうか。
 聖霊は1世紀のパウロたちのアンテオケ教会だけでなく、21世紀の私たちの教会にも語り掛け、任務を与えています。私たちは、霊性を整えて、御心をしっかりとキャッチしながら進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。
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いのちのパン(2017.5.17 祈り会)

2017-05-18 13:09:45 | 祈り会メッセージ
2017年5月17日祈り会メッセージ
『いのちのパン』
【ヨハネ6:26~35】

はじめに
 祈り会のメッセージでは、「イエス・キリストは聖書のことばである」ということを深めて行きたいと願っています。
 きょうはヨハネ6章で「わたしがいのちのパンです」とおっしゃった箇所を取り上げたいと思います。

人はパンだけで生きるのではない
 26節と27節を交代で読みましょう。

6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

 ここでイエスさまは「なくなる食物」のことと「永遠のいのちに至る食物」のことについて、話しました。私はここで、イエスさまが悪魔から誘惑を受けた時に答えたみことばを連想します。その箇所を、ご一緒に読みましょう。マタイ4章です。1節から4節までを交代で読みましょう。

4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 有名な箇所ですから、皆さんが良くご存知の箇所です。4節でイエスさまは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
とおっしゃいました。イエスさまはここで、旧約聖書の申命記(8章3節)を引用して言っていますが、このみことばの前半の「人はパンだけで生きるのではなく」のパンとは、食べるパンのことですから、ヨハネ6章のイエスさまがおっしゃった「なくなる食物」のことです。一方、後半の「神の口から出る一つ一つのことば」とは、「永遠のいのちに至る食物」のことですね。
 ですから、このマタイ4章のイエスさまのことばを念頭に置いてヨハネ6章を読むなら、イエスさまが6章35節でおっしゃったことを、一層よく味わえるだろうと思います。35節をご一緒に読みましょう。

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 ヨハネの福音書は、1章1節で「初めに、ことばがあった」と書いてイエス・キリストが聖書のことばであることを宣言しています。そうして6章でイエスさまは「わたしがいのちのパンです」とおっしゃいますから、私たちは聖書のことばを、パンを食べるようにしっかりと私たちの内に取り入れなければなりません。それはもちろん霊的な意味においてです。私たちはみことばを私たちの魂の内にしっかりと取り込まなければなりません。そうすれば、私たちは決して霊的に飢え渇くことはありません。

いのちのパンとは聖書のことば
 いま話したことは、論理学の三段論法を参考にするとわかりやすいかもしれません。三段論法では、A=B且つB=CであるならA=Cであるとします。これをヨハネの福音書が書いていることと置き換えると、こうなります。イエスさまは聖書のことばであり、且つイエスさまはいのちのパンです。ゆえに、聖書のことばは、いのちのパンです。或いは、いのちのパンとは聖書のことばのことであると言っても良いでしょう。私たちが持っている聖書に書かれていることばがイエスさまであり、且ついのちのパンであるという認識を持つなら、聖書をもっと大切にしなければならないという気持ちになります。
 それからまた、「主の祈り」にある「我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ」も、また違って響いて来ることを感じます。この日用の糧は肉的な糧と霊的な糧の両方の意味があって両方とも大事だと思いますが、霊的な糧の意味の重みを一層感じる気がします。
 そして、自分のことだけでなく、地域の方々にみことばをお伝えする働きの重さも、また違って感じるように思います。
 貧困の問題が深刻ですから、「なくなる食物」が不足している方もいますが、しかし多くの方々は、「なくなる食物」はある程度しっかり食べることができていると思います。一方、「永遠のいのちに至る食物」を食べることができている方はほとんどいません。
 いま教会では、「へいわ深海聖書館」の準備室を作って、このための議論を始めようとしていますが、きょう話したことを踏まえるなら、「聖書館」を設立するという方向性は良いのではないかと思います。ですから、どういう展示をするかということが、より重要になるだろうと思います。「永遠のいのちに至る食物」を、どう食べてもらうか、食欲をそそるものにしなければなりません。
  そのために、まだまだ工夫すべきことが色々とあると思います。戦後に限っても、72年前と現代とでは、世の中の様子は全く異なります。ですから、大切にすべきことは残しながら、様々に工夫すべきだろうと思います。

おわりに
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働くこと、この基本を大切にしながら、人々にみことばを宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
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パウロの異邦人伝道におけるマルコの役割(2017.5.14 礼拝)

2017-05-16 14:08:49 | 礼拝メッセージ
2017年5月14日礼拝メッセージ
『パウロの異邦人伝道におけるマルコの役割』
【使徒11:27~30、12:25】

はじめに
 『使徒の働き』の学びを続けます。この学びで私が重視していることは、使徒の働き全体の流れを皆さんにわかっていただくことです。説教を連講形式で行う場合、一回当たりのメッセージの聖書箇所はそんなに長いものではありません。その場合、前の説教とのつながりをきちんとお話ししないと、それぞれの説教が切れ切れの断片的なものになってしまい、使徒の働き全体の流れがどうなっているのかわからなくなってしまいます。

全体の流れを押さえるべき『使徒の働き』
 私が高津教会で一般信徒だった時、何人かの神学生が半年周期ぐらいで入れ替わりながら教会に実習に来ていました。その中の一人の神学生が祈祷会で『使徒の働き』の連講を毎週してくれたことがありました。当時、私は聖書通読をまだきちんとしていませんでしたから、私の聖書知識は専ら教会の藤本先生の説教を聞くことで豊かにされていました。最初に聞いた藤本先生の『ガラテヤ人への手紙』の説教は、まだ1年目ということでそんなに理解できませんでしたが、『祈る人びと』のシリーズの説教では旧約聖書に関する知識を増し加えることができました。ですから、たとえ神学生の説教であったとしても、それがきちんとした説教であったなら、私の『使徒の働き』についての知識も増し加わっていて良かったはずです。しかし、そうはなりませんでした。今思い返してみると、その時の神学生の説教が切れ切れの断片的な説教であったからだろうと思います。『使徒の働き』には、いろいろな人物が登場して、主役も入れ替わって行きます。使徒1章の主役は復活したイエスさまであり、2章以降はペテロが主役ですが、途中でステパノが主役になることもあります。そして後半の主役はパウロです。そして主役以外にも様々な人物が登場しますから、全体像を押さえておかないと、『使徒の働き』がどういう書であるかを見失うことになります。ですから、今回の『使徒の働き』の学びでは、全体の流れを大切にして行きたいと願っています。
 ただし全体の流れを大切にすると言っても、どういう観点から『使徒の働き』を見るかによって、見えて来る全体の流れも異なってくるだろうと思います。今回、私が大切にしたいと思っている全体の流れは、「パウロの異邦人伝道」という観点からのものです。きょうはマルコに注目することにしていますが、マルコについても「パウロの異邦人伝道」において彼の役割がどんなものであったのか、という視点から見てみたいと思います。

マルコを連れて帰ったバルナバとパウロ
 まず、マルコが登場する前の11章27節から30節までを交代で読みましょう。

11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
11:28 その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
11:30 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

 28節に、クラウデオの治世に大ききんが起きたとあります。クラウデオというのはローマの皇帝です。このクラウデオ帝の時代に起きた大ききんがどういうものであったか、それについて詳しく説明する説教もあるでしょう。それもまた一つの説教です。しかし、今回は全体の流れを大切にしていますから、そういう細部のことはスルーすることにして、着目するのは30節です。
 ユダヤが大ききんで困窮していたために、アンテオケ教会では救援の物を送ることにしました。それをユダヤのエルサレムに届けたのがバルナバとサウロでした。そして、途中を大幅に飛ばして次に12章の終わりの25節を見ていただくと、

12:25 任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。

とあります。きょう注目したいのは、バルナバとサウロがエルサレムに行って、その帰りにマルコを連れて来たということです。そして、その後、マルコがどうしたかということについても、きょうの後半に見たいと思います。

エルサレムの実家が家の教会だったマルコ
 但し、いま12章のほぼ全体を丸々飛ばしてしまいました。飛ばしたままにしておくのも少し気持ちが悪いので、簡単に12章の内容を見ておきたいと思います。12章の1節から3節までをお読みします。

12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。

 ちょうどバルナバとサウロがエルサレムに向かったころ、ヘロデ王はヨハネの兄弟ヤコブを殺し、そしてペテロも捕らえて牢に入れてしまいました。もしペテロがそのまま牢に入れられたままであったなら、ペテロも殺されてしまったことでしょう。しかし、不思議なことが起きました。7節です。

12:7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 なんとペテロは御使いに導かれて牢の外に出ることができました。そして12節を見ていただくと、「ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った」とあり、「そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた」とありますから、マルコの家は人が集まる家の教会であったらしいことがわかります。マルコはそのような家庭で育った若者であったようです。そして、マルコはペテロにかわいがられていたことが、ペテロの手紙の最後の挨拶から見て取れます。第一ペテロ5章13節(p.459)を、今度はご一緒に読みましょう。

5:13 バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。

 ペテロは「私の子マルコ」と書いていますから、ペテロはマルコをかわいがっていたようです。そしてコロサイ4章10節(p.394)を見ると、ここにはマルコがバルナバのいとこであると書いてあります。こうしてバルナバはいとこのマルコをアンテオケに連れて帰りました。

第1次伝道旅行の途中で脱落したマルコ
 さて、きょうは少し先回りをして、マルコがその後どうしたかを、見たいと思います。13章の1節から5節までを交代で読みましょう。

13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。
13:5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。

 ここでバルナバとサウロは第一次伝道旅行に出発しました。このことは次回また改めてゆっくり見ることにして、きょうは5節の、彼らがマルコを助手として連れていたことに注目します。この5節のヨハネというのがマルコのことです。
 そして、このマルコが一行とずっと一緒にいたかというと、そうではありませんでした。13節です。

13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。

 なんとマルコはエルサレムに帰ってしまいました。なぜ帰ってしまったのか、ここにはその理由が書かれていませんから、色々なことが言われています。エルサレムが恋しくなってホームシックになったとか、過酷な船旅に耐えられなかったとか、異邦人クリスチャンに律法は必要ないというパウロの過激な考え方に付いて行けなかったとか、等々です。本当のところは本人に聞いてみなければわかりませんが、とにかくマルコは一行から離れてエルサレムに帰ってしまいました。

マルコを巡って対立したバルナバとパウロ
 さて、この第一次伝道旅行の時は、この問題はこれで済んだのですが、第二次伝道旅行を開始するのに当たってマルコを巡って大問題になりました。パウロの第二次伝道旅行は、15章の36節から始まります。36節から41節までを交代で読みましょう。

15:36 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」
15:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。
15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
15:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。
15:41 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。

 ここにはマルコを巡ってパウロとバルナバとの間で意見が分かれてしまったことが書かれています。39節には、激しい反目となって、その結果、二人は別行動をとることになったと書かれています。マルコはバルナバのいとこでしたから、マルコに対して寛容でした。前のことは大目に見てやろうよ、そしてもう一度チャンスを与えてやろうよ、という感じでしょうか。しかし、パウロは妥協せず、許しませんでした。ここにパウロの性格の一端が見えるように思います。マルコは、こういうパウロの激しい気質に付いて行けなくなって、第一次伝道旅行では一行から離れてしまったのかもしれません。

マルコが果たした重要な役割
 さてしかし、私はこの一件でマルコがとても重要な役割を果たしたという気がしています。それは、バルナバとパウロが別々に行動することになったことで、これ以降、パウロの能力が存分に発揮されることになったであろうと思うからです。
 パウロにとってバルナバはかつて大変にお世話になった恩人でした。まだパウロの回心から、そんなに時が経っていなかった頃、エルサレムの兄弟たちはパウロを恐れて受け入れませんでしたが、バルナバは受け入れました。そして、アンテオケ教会が成長している時にバルナバはパウロを探しにタルソへ行き、アンテオケに連れて帰りました。そうしてパウロの働きが本格的に始まりましたから、パウロにとってバルナバは大恩人でした。しかもバルナバは聖霊と信仰に満ちた立派な人でした。こういう立派な信仰者と一緒にいると、パウロがどんなに優れた使徒であっても、パウロの良さが半分ぐらいは消されてしまっていたのではないかという気がします。しかし、二人が別れたことで、パウロはいよいよ神様に与えられた賜物を発揮できるようになりました。これはマルコがいたからこそであって、もしマルコがいなかったら、パウロとバルナバはずっと一緒だったかもしれません。
 このことの背後にもまた、神様の働きがあったのかもしれません。
 コロサイ書でパウロは、

4:10 私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです──この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。──

と書いています。このコロサイ書からは、後のパウロがマルコに信頼を寄せるようになっていた様子が見てとれますから、パウロがずっと後まで、「マルコは使えない奴だ」と思っていたわけではありません。ですから、マルコの一件は、パウロがバルナバから離れて存分に能力を発揮するための、神様の奇しい御業だったように思います。

おわりに
 これからも『使徒の働き』の学びは、きょうの学びのように全体を見るようにして、切れ切れではない学びをして行きたいと願っています。そして、そこに神様の働きを見て、御名を崇め、いつも主を賛美し、主に感謝している私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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預言者たちの中にいるイエス(2017.5.10 祈り会)

2017-05-11 21:31:42 | 祈り会メッセージ
2017年5月10日祈り会メッセージ
『預言者たちの中にいるイエス』
【ヨハネ10:30、12:49-50】

10:30 わたしと父とは一つです。

12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。

はじめに
 今年の四月から祈り会に協力牧師の先生も参加して下さり、共に祈る恵みをいただいています。そして説教者の私にとっては、メッセージを先生に毎回聞いていただけるということもまた大変な恵みです。これは神様のご配慮ではないかという気がしています。それゆえ祈り会ではまた、ヨハネの福音書を学ぶことを4月から始めました。
 今月の終わりか来月の始めには『ヨハネの福音書』に関する本が出版されますが、先生とは、この福音書の深層部にはどんなメッセージが隠されているかということについて、是非分かち合いたいと願っています。それは、今まで気付かれていなかったヨハネの福音書の深層部には世界を変える力があると私は確信しているからです。

変えられるべき世界
 「世界を変える」なんて、随分と大げさなことを言う人だとお思いだと思います。しかし私は本気でヨハネの福音書の深層部によって世界が変えられる必要があると思っています。
 「世界を変える」とか「世界が変わる」とか言いますが、世の中には変わらなくても良いこともあると思います。例えば携帯電話はどうでしょうか。携帯電話の普及によって私たちの生活は劇的に変わりました。携帯電話があることで私たちの生活は随分と便利になりました。しかし携帯電話はどうしても必要な物でしょうか。例えば、世界の中にはまだ携帯電話を使っていない未開の地域もあることと思います。それらの地域の人々も携帯電話を使うべきと思うでしょうか。それらの地域の人々も携帯電話を使うことで変わるべきだと思うでしょうか。携帯電話会社の人々は(採算さえ合えば)使ってほしいと思うでしょう。でも私たちは別に携帯電話会社に勤めているわけではありませんから、未開の地域の人々にも携帯電話を使って欲しいとまでは思わないでしょう。携帯電話は便利である一方で、私たちの生活をとても忙しいものにしてしました。ですから、それらの未開の地域の人たちには、のんびりとした生活を送ってほしいという気持ちが私の中にはあります(自分勝手な思いかもしれませんが)。
 では未開の地の人たちが聖書を読むことはどうでしょうか。これは是非そうあってほしいですね。万物を創造し、私たちの一人一人に命を与えて下さった神様とは、すべての人が聖書を通してつながっていただきたいと思います。未開の地の人々の生活はゆったりしているでしょうから、聖書の世界に静かに思いを巡らすことで、きっと神様と豊かにつながることができるようになるでしょう。

忙しい現代人には届きにくい聖書のメッセージ

 ここで、今の私たちの忙しい生活と、ヨハネの福音書の深層部のことをつなげて考えてみたいと思います。かつて、パソコンも携帯電話も使っていなかった頃ののんびりしたアナログの時代の人々には聖書のメッセージが今よりも深く届いていただろうと思います。ヨハネの福音書の深層部のことなど明らかになっていなくても、魂で何となくそれを感じることができていたのだと思います。
 しかし、現代の忙しいデジタル時代の人々は違って来ているのだろうと感じます。現代のデジタルの時代の現代の人々は、たとえパソコンや携帯電話を使っていなくても大部分の人は、テレビぐらいは見るでしょう。現代のテレビ番組は万事情報量が多くて、画面の切り替えも多くて、のんびりした番組は少ないと思います。私たちは、もうそういう忙しさにすっかり慣らされてしまっています。聖書の深いメッセージが魂に届きにくいのは、こういう背景があるのではないでしょうか。マルタとマリヤの姉妹のマルタのように、バタバタと忙しくしていてはイエスさまのみことばを深く理解することができません。現代は世の中全体がマルタのようになってしまっている気がします。そうして今の世界はどんどん平和から遠ざかって悪い方向に向かっています。
 ですから現代の人々にも届くような聖書のメッセージを語る必要に迫られているのではないかと私自身は思っています。今までの伝道の良い面は残しつつも、様々に工夫する必要もまたあるのではないかと思います。その一つが、ヨハネの福音書の深層部を語ることです。昔の人々が魂で感じていたことを、現代の人々は感じにくくなっているようですから、感じることができるように助けて差し上げなければならないだろうと思います。そうして多くの人々が聖書の深い世界を知るようになるなら、世界は変わるだろうと私は確信しています。

「旧約の時代」の重なりは何を示すのか?
 では、きょうの聖書箇所を見てみたいと思いますが、

10:30 わたしと父とは一つです。

12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。

 ここで「父と一つ」とおっしゃっているイエスさま、そして「父が言われたとおりをそのまま話している」とおっしゃっているイエスさまは、紀元30年頃の人間のイエスさまのことだけではなく、あらゆる時代のイエスさまについてであることを覚えたいと思います。あらゆる時代のイエスさまと言うのは、聖霊が注がれた人の内に住んでいる霊的なイエスさまのことをも含むということです。
 きょうは、どうして、そういうことが言えるのかについて、お話ししたいと思います。

 もう6年も前のことになりますが、2011年に私はヨハネの福音書には「旧約の時代」がきれいに重ねられていることに気付きました。後に「使徒の働き」の時代もまた重ねられていることに気付きましたが、まずは「旧約の時代」が重ねられていることに気付きました。ヨハネ1章には創世記の時代が重ねられており、ヨハネ2章にはイスラエル人がエジプトを脱出した出エジプトの時代、3章には律法が授けられた時代からヨシュア記、サムエル記にまで至る広い時代が、4章にはソロモン王からアハブ王に至る列王記第一の時代、5章にはその頃の南王国が、6章には列王記第二に入ってエリシャの時代と北王国が滅んだ時代、7章にはヒゼキヤ王の宗教改革の時代、8章にはマナセ王・アモン王の悪魔の時代、9章には律法の書が発見されたヨシヤ王の時代、10章にはエホヤキム王・ゼデキヤ王の南王国が滅んで行く時代、そして11章にはペルシアのクロス王以降のエルサレムが再建された時代が重ねられていて、12章からは新約のイエスさまの時代に合流します。
 注解書にはこういう「旧約の時代」との重なりのことは全然書いてありませんでしたから、私はこれは大発見だと思い、有頂天になった何人かの先生方にメールで報告しました。しかし、反応は薄く、スルーした先生も複数いました。そして、反応して下さった先生にも、「仮にそういう重なりがあったとしても、ヨハネはどうしてそういう構造にしたの?」と聞かれました。その問いに対して私は答えることができませんでした。そういうことは私などよりも、もっと偉い先生が考えるべきことで、私ごときが無い知恵を絞って考えるようなものではないと思っていました。
 しかし、ヨハネの福音書の時代の重なりについての反応が薄かったことから、「なぜヨハネがそうしたか」については私が考えることにしました。そうして辿り着いた結論が、モーセやエリヤやエレミヤのように聖霊が注がれた預言者たちの中には霊的なイエスさまがいて、預言者たちが語る神のことばは、預言者たちの中にいるイエスさまが語っているのとだということでした。

預言者たちの中にいるイエス

 もう一度、12章の49節と50節をお読みします。

12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。

 50節でイエスさまは、「父がわたしに言われたとおりを、そのままに話している」とおっしゃっています。そうして、たとえばヨハネ10章1節を読みます。

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

 「羊の囲い」というのはエルサレム市街を囲む城壁のことであり、「盗人で強盗」というのはカルデヤ人たち外国人の略奪隊のことです(Ⅱ列王24:2)。すると、ここからはイエスさまがエレミヤの口を通してエホヤキム王たちにエルサレムが滅ぶことの警告をしている様子が見えて来ます。たとえばエレミヤ25章の8節と9節をお読みします(旧約聖書p.1289)。

25:8 それゆえ、万軍の【主】はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、
25:9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。──【主】の御告げ──すなわち、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。

 ここでエレミヤは神のことばを人々に伝えていますが、預言者のエレミヤには聖霊が注がれていてエレミヤの内にはイエスさまが住んでいますから、エレミヤが語る神のことばはイエスさまが語っているのと同じだということになります。
 これらが感じられるようになると、ヨハネ11章35節のイエスさまが涙を流された場面も、イエスさまが単にラザロの死を悲しんでいるだけではなく、神の警告を無視したエルサレムがバビロン軍によって滅ぼされて廃墟になってしまったことを悲しんでおられるのだということも感じられるようになります。

現代人のほうが受け入れやすいであろう「重なり」

 アメリカやヨーロッパの国々は、いわゆるキリスト教国でありながら、戦争を繰り返して来た歴史があります。これらの戦争は、ヨハネの福音書の深層部にあるイエスさまの深い悲しみを知ることなく繰り返されて来ました。そして現代においても、なお繰り返されています。
 ヨハネの福音書の深層部を多くの人々が知れば世界が変わるであろうと私が確信しているのは、以上のような理由からです。これは戦争と平和の問題のことだけではなく、聖霊が注がれた者たちの内にはイエスさまがいるということが「旧約の時代」にも当てはまるということを感じることができるようになると、聖書をもっと身近に感じることができるようになります。
 もう一度始めに言ったことに戻ると、現代の人々には、聖書のメッセージは伝わりにくくなっていると思います。しかし一方で、何かの複数の「重なり」ということに関しては、現代人のほうが昔の人々よりも受け入れやすくなっているという面もあると思います。例えば、光は「波」と「粒子」の両方の性質を持っているというようなことです。「波」は広がりを持ち、「粒子」は局所的な存在ですから、まったく合い反する性質です。その両方の性質を併せ持つということは、なかなか受け入れ難いことですが、もうこのことがわかってから百年が経ちますから、現代人の多くはこのことを受け入れていると思います。ですから、イエスさまも紀元30年頃の人間のイエスさまと、それ以外のあらゆる時代にいる霊的なイエスさまが重なって存在するのだということも、昔の人々よりも現代人の方が案外受け入れやすいのでないかという気もします。
 ですから、私たちは伝統的な伝道方法の良い面は残しつつ、新しい工夫も取り入れて、救霊のため、平和のために働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖霊理解を深めていったサウロ(2017.5.7 礼拝)

2017-05-08 10:38:45 | 礼拝メッセージ
2017年5月7日礼拝メッセージ
『聖霊理解を深めていったタルソのサウロ』
【使徒11:19~26】

はじめに
 先週から『使徒の働き』の学びを再開しました。先週は11章の前半を読みました。この11章前半は10章の内容の繰り返しのようになっていることを先週見ました。使徒10章でペテロは異邦人のコルネリオたちに聖霊が注がれた現場に立ち会いました。この出来事はカイザリヤでありましたが、エルサレムに上ったペテロは、このことをエルサレムの使徒たちや兄弟たちに報告しました。『使徒の働き』が10章の出来事をペテロの口を通して11章でもう一度復唱しているということは、異邦人への聖霊の注ぎがそれほどまでに重要で画期的な出来事であるということを示していると先週は話しました。

サウロ(パウロ)の再登場
 そうして、この後、サウロ(後のパウロ)がまた再登場します。そして、以降、使徒の働きの記述のほとんどはパウロの異邦人伝道のことになって行きます。このパウロの異邦人伝道への備えとして、異邦人への聖霊の注ぎは必要不可欠のことでした。神様はこのような準備を一歩一歩備えて下さる方だということも先週話しました。パウロの異邦人伝道への備えとして、最初にガリラヤ人への聖霊の注ぎ、次いでユダヤ人たちへの聖霊の注ぎ、そしてサマリヤ人への聖霊の注ぎがあり、さらに異邦人への聖霊の注ぎがありました。そうして、いよいよパウロの異邦人伝道が始まります。
 使徒の働き11章19節から見て行きましょう。

11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。

 使徒の働きには、ペテロとステパノがイエス・キリストを宣べ伝えた説教が載っています。これらの説教では旧約聖書が引用されています。ですから旧約聖書の基礎知識がない人々には伝えることがなかなか難しかっただろうと思います。それゆえユダヤ人以外の者にみことばを語らなかったことは仕方がないことであったろうと思います。
 ところが、20節と21節、

11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。

 このアンテオケは、この後、パウロの異邦人伝道の拠点となった重要な場所ですから、巻末の地図で確認しておきましょう。
 そうしてここにバルナバが派遣されて異邦人伝道の拠点となるアンテオケ教会ができました。22節から24節、

11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

 こうしてアンテオケ教会が発展する中で、もっと働き人が必要でした。それで25節と26節、

11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

 こうして、サウロが使徒の働きに再び登場しました。

故郷のタルソに戻ったサウロ
 これより前のサウロに関する記述は9章にあります。9章の1節から22節までには、ダマスコへ行く途中でサウロが復活したイエス・キリストと出会ったことで回心したことが書かれています。22節をお読みします。

9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

 その後、サウロはエルサレムに行きました。26節、

9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

 そうしてこのエルサレムでバルナバがサウロを引き受けました。27節です。

9:27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。

そして28節と29節、

9:28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。
9:29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。

 それで兄弟たちはサウロをタルソへ送り出しました。30節です。

9:30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。

 そうして、この時から長い期間が経った後、先ほど見たように使徒11章でバルナバがサウロを捜しにタルソへ行き、アンテオケに連れて帰りました。
 では皆さん、サウロがバルナバと共にアンテオケに来て、アンテオケ教会での異邦人伝道を始めたのは、サウロがダマスコで回心してから何年後のことでしょうか。それは約13年後のことでした。タルソに送り出されるまでが約3年で、サウロはそれから約10年をタルソで過ごしました。

タルソの10年間をどのように過ごしたのか
 では、サウロはタルソでの10年間をどのように過ごしていたのでしょうか。これについては、ほとんどわかっていません。それゆえ確かなことは言えません。しかし、この10年間をサウロはどうやって過ごしていたのだろうかと思いを巡らすことは決して無駄なことではなく、とても有益なことだと思います。わずかなヒントを手掛かりにサウロに迫ろうと努力することで、聖書をより一層身近に感じることができるようになる、という効用があると思います。聖書を身近に感じるとは、すなわちイエス・キリストを身近に感じるということですから、このサウロの箇所に限らず、聖書に書かれていないことにまで思いを巡らすことを私は大いに奨励したいと思います。
 さて、ではサウロはタルソでの10年間をどう過ごしていたかですが、重要な手掛かりになる記述が一箇所、聖書の中にあります。その箇所をご一緒に読みたいと思います。第二コリント12章です(新約聖書p.360)。1節から5節までを交代で読みましょう。

12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

 パウロは、このパラダイスに引き上げられた人のことを2節で「この人」と呼んで、「私」のことであるとは明言していません。しかし、これはパウロ自身の体験であるとされています。パウロは、この神秘体験を、コリント人への第二の手紙を書く14年前に体験しました(2節)。
 パウロがどの手紙をいつ書いたかの年代は、使徒の働きと照合することでかなり詳しくわかっています。そしてパウロが第二コリントを書いた14年前とはパウロがタルソにいた時期です。ですから、パウロはこの神秘体験をタルソで経験したことになります。

聖霊への理解を深めていった10年間
 このような神秘体験は聖霊の働き抜きでは考えられませんから、パウロはタルソにおいて聖霊についての理解をどんどん深めていたのだと推測します。特にこのような神秘体験を経験した後では、聖霊についての理解が格段に深まったのではないかと思います。私も神秘体験と言えるであろうことを経験していて(レビ記で涙を流して以降、ヨハネの福音書のことが急によくわかるようになった不思議な体験のこと)、その後から聖霊への理解が深まりましたから、そのように思います。
 パウロはタルソからアンテオケに移ってから2~3年後にはガラテヤ人への手紙を書いています。このガラテヤ人の手紙5章には、有名な御霊の実のことが書いてあります。この箇所を見てみましょう(新約聖書p.371)。22節と25節までを交代で読みましょう。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 旧約の時代には、聖霊は預言者にしか注がれませんでした。それゆえ聖霊によって預言の賜物が与えられることはわかっていました。しかし、新約の時代に入ってからは、誰でもが預言者になるわけではありませんから、聖霊の賜物にどのようなものがあるかは、最初の頃はそんなにハッキリとはわかっていなかったことと思います。使徒1:8で主は、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と仰せられましたから、聖霊が注がれた者は力を受けてイエスさまの証人になることはわかっていました。しかし、ガラテヤ5章でパウロが書いたような御霊の実に関するようなことは、最初の頃はほとんどわかっていなかっただろうと思います。
 こういう聖霊の働きに関する理解を、パウロはタルソで過ごしていた時代に深めていたのであろうと私は推測します。そうしてバルナバによってアンテオケに呼び出されてから間もなくして、パウロの深められた霊性が一気に用いられるようになった、そのように私は考えます。
優れた霊性を持っていたパウロ
 パウロはほとんどの手紙において御霊について言及しています。パウロは飛び抜けて深い霊性を持つ使徒でした。パウロはローマ人への手紙1章11節で、次のように書いています。ここもご一緒にみましょう(新約聖書p.289)。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

 ローマ1章の説教を聞くと、12節について語られるのをよく聞きます。12節、

1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 この12節の「ともに励ましを受けたい」ということを強調する説教を何度か聞いたことがあります。私自身は、この12節よりも11節のほうがずっと重要であろうと感じています。12節は、11節が強くなり過ぎないように薄めたものであって、パウロが本当に言いたかったことは12節ではなくて11節であっただろうと考えています。パウロは、自分以外の人々が霊的に鈍感であることを、とてももどかしく思い、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて強くしたいと切に願っていたのだと思います。
 それぐらいパウロは優れた霊性の持ち主であり、その霊性が磨かれたのがタルソでの10年間であったのではないか、私はそのように思っています。

おわりに
 これはもちろん推測であって、正しいとは限りません。しかし、このように聖書には書いていないことにまで思いを巡らすことで、聖書はもっと身近なものになります。特に霊的なことに思いを巡らすなら、霊性を深めて行くことにつながり、イエス・キリストとの深い交わりに入れていただくことにもつながって行くことと思います。
 お祈りいたしましょう。

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聖書を棄てた人々(2017.5.3 祈り会)

2017-05-04 06:21:18 | 祈り会メッセージ
2017年5月3日祈祷会メッセージ
『聖書を棄てた人々』
【エレミヤ36章、ヨハネ10章】

はじめに

 きょうは憲法記念日です。日本国憲法の前文には崇高な理念が書かれています。ある人々は、これは理想に過ぎて現実的ではない「きれいごと」であると考えているようです。確かにそういう面はあると思います。しかし、理想を見失うと人間は進むべき方向を見失って右往左往し、結局は堕落する方向に向かって行くことになります。
 聖書もまた、同様の見方がされていると思います。聖書には「きれいごと」が書かれていて現実に合わないと思われることが多いようです。よく槍玉に挙がるのがマタイの福音書の山上の説教で、例えば「あなたの右の頬(ほお)を打つような者には、左の頬も向けなさい」ですね。この教えは、私たち一般の常識を越えていますから、人によっては反感すら持つようです。これを戦争と平和の問題に適用して、敵が攻めて来た時に反撃しないでどうするのかという人も多くいます。
 こういう人々の意見もわからないではありません。しかし、聖書を批判することは聖書の神を批判するということでもあり、批判する人がそれをどれだけ自覚しているかというと、そんなに自覚してはいないだろうと思います。一般の書籍の批評・批判をするのと同じように、聖書を批評し批判しているようにも感じます。それが何を意味するのか、ということを憲法記念日の今日、ご一緒に考えてみたいと思います。

主のことばを記した巻き物を焼いた王
 きょうの前半はまず旧約聖書のエレミヤ書36章を開くことにします。1節から4節までを、交代で読みましょう。

36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなみことばがあった。
36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。

 主はエレミヤに、主が語られたことばを巻き物に書き記すようにと仰せられました。それでエレミヤはバルクを呼んで、主のことばを書き記させました。続いて5節から8節までを交代で読みます。

36:5 そしてエレミヤは、バルクに命じて言った。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。
36:6 だから、あなたが行って、【主】の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした【主】のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。
36:7 そうすれば、彼らは【主】の前に祈願をささげ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからである。」
36:8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの巻き物を読んだ。

 こうしてバルクは閉じ込められていて主の宮に行けないエレミヤの代わりに、主の宮に行って、民に主のことばを読み聞かせました。ただし、ここに王のエホヤキムはいませんでした。途中の経緯は省きますが、この主のことばは、エホヤキム王に読み聞かせることになりました。少し飛ばして21節から25節までを交代で読みます。

36:21 王はエフディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。エフディはそれを、王と王のかたわらに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
36:22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
36:24 王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。
36:25 エルナタンとデラヤとゲマルヤは、巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れなかった。

 このようにして、エホヤキム王は巻き物を暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。

最高法規を守らない国は滅びる
 もう一度、36章の3節の主のことばをお読みします。

 36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」

 主はユダの国が悪の道から立ち返ることを期待して、ことばを巻き物に書き記させて読み聞かせることを行わせました。その巻き物をエホヤキム王は焼いてしまったわけですから、もはやユダの国が滅亡から免れることはできませんでした。こうしてユダの国はバビロン軍の攻撃を受け、エルサレムの人々はバビロンに捕囚として引かれて行き、やがて国は滅亡しました。
 日本国憲法には「最高法規」と題した章の第10章があります。この10章にある憲法第98条第1項の条文は次の通りです。「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」このように憲法98条は、憲法が国の最高法規であると定めています。
 そして旧約の時代の最高法規はモーセの律法でした。エホヤキムは、この最高法規である律法を守りませんでした。最高法規を為政者が守らない国は滅びるということを旧約聖書は示しています。これは現代においても言えることではないかと、憲法記念日の今日、私は改めて感じています。

(賛美歌を挟む) 福180「いのちのみことば」

聖書は廃棄されるものではない

 後半は、ヨハネの福音書10章を開きます。祈り会ではしばらくの間、ヨハネ1章1節の「初めに、ことばがあった」はイエス・キリストは聖書のことばであることを宣言したものであることを意識して、ヨハネの福音書を読むことをしたいと願っています。
 きょう開くヨハネ10章の深層部には、先ほど前半に読んだエレミヤの時代があります。これまでに何度も繰り返し語っていますが、ヨハネ10章1節の、

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」

というのは、外国人の略奪隊がエルサレムの城壁を乗り越えて攻め込んで来ることを警告したものです。旧約聖書には、この外国人の略奪隊は、ユダの国が律法を守らないことに怒った主が送り込んだものであると記しています(Ⅱ列王24:2)。主はエレミヤを通してユダの人々に悪から立ち返るように警告を発しましたが、ユダの人々は従いませんでした。
 さて、きょうご一緒に見たいのは、ヨハネ10章の22節からです。22節と23節をお読みします。

10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。

 宮きよめの祭りは冬にありました。つまり、暖炉の火を燃やす寒い季節であるということです。ですから、このヨハネ10章後半の深層部には、エレミヤの時代にエホヤキム王が暖炉の火で巻き物を燃やしてしまった出来事が隠されています。
 さて、このヨハネ10章では、ユダヤ人たちがイエスさまを石打ちにしようとしていました。31節です、

10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

 そしてユダヤ人たちは、イエスに言いました。33節、

10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

 これに対してイエスさまが言ったことばの中で、きょうのポイントの部分だけ取り出します。イエスさまは35節で、「聖書は廃棄されるものではない」とおっしゃいました。つまり、この箇所の深層部で、主のことばの巻き物が暖炉の火に廃棄されて燃やされてしまいました。それで、エルサレムの民はバビロンの捕囚に引かれて行くことになります。それが、ヨハネ10章40節の、「イエスはまたヨルダンを渡って」で表されています。バビロンはヨルダンの向こう側にあるからです。ここでヨルダンの向こう側に行ったイエスさまは今度はエレミヤの中にいるのではなく、エゼキエルの中にいます。エゼキエルはエルサレムの民と共にバビロンへ捕囚として引かれて行きました。

イエス・キリストを十字架に付けた罪

 さて、ここでイエス・キリストが聖書のことばであるという視点から、きょうこれまでに見て来た箇所を振り返ってみたいと思います。まず、エホヤキム王が主のことばが書かれた巻き物を暖炉の火で燃やしたことですが、これはイエス・キリストを火の中に投げ込んで焼き殺したに等しいと言えます。それはつまり、イエス・キリストを十字架に付けて殺したのと同じだとも言えます。エホヤキム王はそのようにイエス・キリストを十字架に付けたに等しいことをしました。そしてイエス・キリストを十字架に付けた人々と同様に、自分の罪深さに気付いていませんでした。
 このヨハネ10章のユダヤ人たちも自分たちの罪深さに気付いていませんでした。このイエスさまの時代のユダヤ人たちは律法を守っていました。その意味では、エレミヤの時代の人々とは全く異なります。エレミヤの時代の人々は律法を守っていませんでした。一方、イエスさまの時代のユダヤ人たちは律法を守っていました。しかし、ユダヤ人たちはイエスさまが神の子キリストであることに気付いていませんでした。そうして神の子であるイエスさまを十字架に付けて殺してしまいました。

深層部までを深く理解すべき聖書

 これらのことを重ねて思いを巡らす時、聖書を深く理解することがいかに大切なことであるかということを感じることができると思います。聖書の表面上の字面を理解するだけでは不十分であり、それではイエスさまを十字架に付けたユダヤ人たちと同じことになってしまいます。このユダヤ人たちは律法を重んじていたつもりでも、実は主のことばを燃やしたエホヤキム王と同じようなことをしていました。
 ですから、私たちは聖書の深い所をもっと感じ取れるようにならなければならないと思いますし、準備室の設置を決めた「へいわ深海聖書館」もまた、そのように聖書の深層部を学べるものでなければならないと思います。
 聖書は私たちの最高法規ですから、この最高法規を深く学び、大切にして行きたいと思います。

おわりに
 最後に、ヨハネ10章28節から30節までを交代で読みましょう。その手前の27節でイエスさまは、

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

とおっしゃいました。イエスさまの羊である私たちはイエスさまに付いて行きます。続いて28節からを交代で呼んで終わります。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」

 お祈りいたしましょう。
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パウロの異邦人伝道への備え(2017.4.30 礼拝)

2017-05-03 11:47:31 | 礼拝メッセージ
2017年4月30日礼拝メッセージ
『パウロの異邦人伝道への備え』
【使徒11:1~4】

はじめに
 きょうは、ここまで3曲の賛美歌を歌いました。これらの3曲の賛美歌は、いずれも3年前の4月30日、K兄の告別式において賛美された曲です。K兄は長い闘病期間を経た後の3年前の4月27日に天に召され、29日に前夜式を行い、そして30日に告別式を行いました。
 あれから3年を経て、K姉にも色々と感慨がお有りかと思いますが、本日は恐縮ですが、牧師の私の立場から3年前を振り返らせていただきたいと思います。

葬儀の司式の経験
 3年前の4月の時点で、私はまだ牧師としての経験を2年間しか積んでいませんでした。私が4年間の神学校での学びを終えて牧師になったのは2012年の4月で、それから姫路教会で1年間牧師としての経験を積み、それから2013年にこの沼津教会の牧師になりました。そして、この2012年と2013年の2年間で私は葬儀の司式を一度も経験しませんでした。ですからK兄のご葬儀が私が牧師になって始めて行う葬儀でした。それで、3年前の4月27日にK兄が天に召された時、ついに来るべき時が来たなと思いました。と言いますのは、葬儀を執り行うことが牧師にとってどれだけ大変かということを、私はBTCの神学生の時に実習先の教会の葬儀の裏方のお手伝いをして学んでいたからです。教会員が天に召されたら、牧師にはやらなければならないことがたくさんあります。中でも重要なのが、葬儀のプログラムを作ることと説教の原稿を作ることです。しかも葬儀は前夜式と告別式の2回ありますから、2つの葬儀の準備を短期間でしなければなりません。ですから睡眠時間も十分に取ることはできません。神学生時代に実習先の教会の葬儀の裏方のお手伝いをした時、司式の牧師先生が、葬儀の参列者の前では疲れた顔を見せなくても、裏方では、ひどく疲れた表情をしていたことを、今でも鮮明に思い出すことができます。
 それゆえ3年前にK兄のご葬儀を執り行うことになった時、遂に来るべき時が来たと思ったのでした。そして、葬儀がすべて終わった時には私も本当に疲れ切っていました。しかし、同時に牧師として大切な役割を果たすことができた充実感も覚えていました。教会の皆さんのご協力で無事に2回の葬儀を執り行うことができ、K姉からも御礼の言葉をいただくことができ、経験が浅かった私が多くの方々に支えられて無事に葬儀を行うことができたことは本当に感謝なことでした。そして、このことを通して、牧師としてやっていけそうだという、ささやかな自信が与えられました。

会堂問題に取り組むための備え
 これが3年前の4月の終わりの出来事でした。そうしてそれからわずか1ヵ月足らずの後、すなわち3年前の5月の下旬に、この会堂の屋根の鋼板の腐食が思っていたよりも深刻であることがわかって、会堂問題への本格的な取り組みが始まりました。この会堂問題に関しては、私が沼津に着任した最初の1年目にこの会堂の土地と建物の所有権移転の登記、すなわち廣瀬先生の所有になっていたものを教会の所有に移転する登記の手続きを行ったことが、会堂問題に取り組むための良い備えとなったということは何度か皆さんに話して来ました。それに加えて今回、教会のご葬儀があったこともまた備えになっていたのだということに気付かされました。土地と建物の所有権移転の手続きに関しては、関わっていたのは西村兄と私の二人だけでしたが、ご葬儀ではもっと多くの皆さんが関わりました。
 神様は、こうして一つ一つ踏むべきステップを備えていて下さり、それらのステップを一段一段上って行くことで高い所にも到達できるようにして下さるということを感じます。ですから私たちは、神様が備えて下さったステップを踏み外すことなく、一歩一歩、歩みを進めて行けば良いのだと思います。

パウロの異邦人伝道への備え
 さて、きょうからまた『使徒の働き』の学びに戻ります。これまで『使徒の働き』の10章までをご一緒に学んで来ました。そして、きょうから11章の学びを始めます。これまでの10章までの振り返ると、パウロが異邦人伝道を開始するまでに神様が使徒たちに備えのステップを一歩一歩用意して下さっていたことを感じます。11章の25節と26節を見ていただくと、ここにバルナバがサウロを捜しにタルソへ行き、そしてサウロに会ってアンテオケに連れて来たことが書いてあります。こうして、サウロ、後のパウロはアンテオケで異邦人伝道を始めました。そして、これ以降、『使徒の働き』の記述はパウロの異邦人伝道のことが中心になります。それゆえ、『使徒の働き』の10章までの記述は、パウロの異邦人伝道のための準備が、神様によってどのように整えられて行ったかについての記述だと言っても過言ではないという気がします。

三度繰り返された主のメッセージ

 それでは、11章を始めから、きょうは11章の前半までを見ることにします。『使徒の働き』の学びは少し間が空いて久し振りですから、普通ならその前の10章の復習をするべきですが、実は11章の前半はほとんど10章の出来事の繰り返しになっています。10章では異邦人のコルネリオたちへの聖霊の注ぎの出来事がカイザリヤでありましたが、11章ではペテロがそのことをエルサレムの人々に報告しています。まず11章1節、

11:1 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。

 カイザリヤでの出来事はエルサレムにいる使徒たちや兄弟たちにも、すぐに伝わったようです。そこで2節と3節、

11:2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
11:3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。

 当時のユダヤ人たちにとって、異邦人は汚れた存在でしたから、そのような者たちと一緒に食事をしたということでペテロは非難されました。そこで4節、

11:4 そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。

 続く5節以降の記述は、10章の繰り返しになります。まず5節から8節までを交代で読みましょう。

11:5 「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。
11:6 その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。
11:7 そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』と言う声を聞きました。
11:8 しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません』と言いました。

 この天から降りて来た大きな敷布のような入れ物には、食べてはならないと律法のおきてに書いてある汚れた物も含まれていたのですね。天からの声はペテロにそれらの汚れた物をも、ほふって食べなさいと命じました。それでペテロは8節のように「主よ。それはできません」と主に答えました。そして、9節と10節を交代で読みます。

11:9 すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』というお答えがありました。
11:10 こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。

 先ほどのやり取りが三回繰り返されたとペテロは言っています。今回私はこの、「こんなことが三回あって」という箇所を読んでいて、ペテロがイエスさまから「あなたはわたしを愛しますか」と三度聞かれたヨハネの福音書の場面を連想しました。
 その場面も、ご一緒に読むことにしたいと思います。ヨハネの福音書21章の15節から17節までを、交代で読みましょう。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 ここでイエスさまはペテロに三度、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃったことに目をとめたいと思います。イエスさまにとっては異邦人もまた「わたしの羊」でした。その羊を飼うようイエスさまはペテロに三度言いました。先ほどの使徒の働きのペテロの見た幻とヨハネ21章のイエスさまとペテロとの三度のやり取りと、どことなく関係があるように私には感じられました。いずれにしても両者が関係あるなしに関わらず、同じことが三回繰り返されるということは、よほど大切なことであるということです。

異邦人への聖霊の注ぎ

 続いて使徒の働き11章の11節から14節までを交代で読みましょう。

11:11 すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。
11:12 そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家に入って行きました。
11:13 その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。
11:14 その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます』と言ったというのです。

 すでに10章で学んだように、カイザリヤにいた異邦人のコルネリオは、ヨッパにいたペテロの所に使いをやってペテロをカイザリヤに招きました。続いて15節と16節、

11:15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。
11:16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。

 こうして異邦人のコルネリオたちに聖霊が注がれました。そして17節と18節、交代で読みましょう。

11:17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
11:18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。

 使徒の働き11章の学びは、きょうはここまでとしますが、今見て来たように、11章のここまでは、ほとんど10章に書かれていたことの繰り返しでした。10章の直後に再び同じ内容を繰り返し記述するということから、この異邦人への聖霊の注ぎが、いかに画期的な重要な出来事であったかということが、よくわかると思います。

あらゆる国の人々を弟子とする
 先週の火曜日に静岡教区会がありました。この教区会の最初にあったディボーションではマタイの福音書の最後にある宣教大命令の箇所が開かれました。この宣教大命令でイエスさまは弟子たちに、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃいました。この場面もご一緒に読みましょう。マタイ28章の18節から20節までです。

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 19節でイエスさまは弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃいました。異邦人に聖霊が注がれないのなら、あらゆる国の人々を弟子とすることはできませんから、異邦人に聖霊が注がれることは、神様の側からすれば、予め決まっていたことです。
 しかし、そもそも旧約の時代には、聖霊は預言者たちという、ごく限られた者たちにしか注がれませんでした。ユダヤ人たちでさえ、一般の者たちに注がれることはありませんでした。ですから、まずはユダヤ人たちだけであったとしても、イエス・キリストを信じる者には誰にでも聖霊が注がれるということは画期的なことでした。これだけでも驚くべきことでしたから、まして異邦人までもが聖霊が注がれる対象になろうとは、途方もない想像を絶することであったでしょう。
 それゆえ神様は、まずはガリラヤ人の弟子たちに聖霊を注ぎ、次いでエルサレムのユダヤ人たちに聖霊を注ぎ、それからサマリヤ人たちに聖霊を注ぐというように、ペテロたちに一歩一歩ステップを踏ませて学ばせて行きました。そうした備えがあったからペテロたちは、主が異邦人をも救いの対象にしているのだということが理解できたのですね。こうして、いよいよパウロが異邦人伝道も始めるための準備が整えられました。神様のご計画というのは、本当にすごいなあと思うことです。

おわりに
 私たちの会堂問題も、ここまで様々な備えが為されて来ました。先週の礼拝メッセージでは「へいわ深海聖書館」の構想について、お話ししました。そして、先週の午後の幹事会では、この「へいわ深海聖書館」の準備室を設置することが承認されました。ここに至るまで、様々なことがありましたが、それらは皆、これからのことのために主が備えて下さったものであると私は確信しています。ここまでの備えが為されて、建物を何も建てずに終わるということは、まったく有り得ないことです。来週の礼拝後の会堂問題勉強会では、この「へいわ深海聖書館」の構想について、改めてお話ししたいと思っています。

(中略 船橋教会の献堂式での出来事)

 パウロの異邦人伝道についても、そして私たちの会堂建設についても、主は一つ一つ備えのステップを準備して下さっています。ですから私たちこれからも一歩一歩、主が備えて下さった道を前進して行きたいと思います。お祈りいたしましょう。

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
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