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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

『福音の再発見』を再読して

2020-09-29 09:27:13 | 折々のつぶやき
『福音の再発見』を再読して

 スコット・マクナイト著『福音の再発見』(中村佐知・訳、キリスト新聞社)が新装改訂版で復刊されると聞き、2013年版(2刷)を改めて読み直してみました。



 内容が濃く、考えさせられる箇所が多くて一気には読めないので、しばしば本を閉じて思いを巡らしました。そうして本を閉じる度に目に入ったのが表紙にある、

The King Jesus Gospel

という原題の”King”という英語でした。

 「そうか、イエスはなんだ」と表紙を見る度に思い、これまでの私は「イエスはである」という意識が希薄であったことに気付かされました。確か2013年に最初に本書を読んだ時にも、そんな風に思った記憶があります。それなのに、今回改めて「そうか、イエスはなんだ」と思ったということは、なお相変わらず「イエスはである」という意識が私の中では希薄であったということを思い知らされています。

 著者のマクナイトは本書の「おわりに」でC.S.ルイスの『ライオンと魔女』(ナルニア国物語1)のアスランのイメージを借りて、次のように勧めています。

ライオンが歩くのを見よ。
ライオンが石の台の上で死ぬのを見よ。
石の台が新たなる創造の力によって砕かれるのを見よ。
ライオンが吠えるのを聞け。
ライオンを愛せ。
ライオンのために生きよ。

 ライオンは百獣のです。原題の”The King Jesus Gospel”と「ライオンを愛せ。ライオンのために生きよ」に背中を押されて、今度こそ私の中に「イエスはである」というイメージをしっかりと築き上げるべきであると思わされています。

 試してみなければ分かりませんが、もしかしたら日本人には「イエスは神の子キリストである」と語るよりも、まずは「イエスはである」と語ったほうが伝わりやすいのかもしれません。日本人は天皇一家の皇室に親しみを持ち、イギリスを始めとする海外の王室にも親しみを感じているからです。

 或いはまた、温暖化による気象災害の問題、パンデミックの問題、核兵器廃絶の問題など、世界が一つになって取り組むべき問題に日本人がもっと貢献するためにも、世界の多くの人々と共に私たち日本人もに仕えるべき時が来たとして、「今がその時です」と伝えるべきなのかもしれません。

 そこで、『ヨハネの福音書』を「イエスはである」という観点から改めて眺め直すことを始めています。拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」』(ヨベル新書 2017)で明らかにしたように、『ヨハネの福音書』のイエスの旅路の東西南北の行程は、旧約聖書の舞台移動との良い一致を示しています。

 例えばヨルダン川の東と西で言えば、ヨハネ1章の舞台はヨルダン川の東ですから、イエスは神の声を聞いてハランを出立したアブラムと共にいます。3章22節でユダヤに行ったイエスはヨルダン川を渡ったヨシュアと共にいます。10章1節で門から入らない盗人・強盗を警告するイエスは外国軍によるエルサレム攻撃を警告するエレミヤと共にいて、10章40節でヨルダン川の東に行ったイエスはバビロンに捕囚として引かれたエゼキエルと共にいます。

 また南と北の旅路で言えば、ヨハネ4章で北のサマリアにいるイエスは北王国の預言者エリヤと共にいて、6章で北のガリラヤにいるイエスはエリシャと共にいます。そしてイエスが7章以降はずっと南のエルサレム付近にいて二度と北に向かわなかったのは6章66節で北王国が滅亡したからです。66節の「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」とは、北王国の民がアッシリアに捕囚として引かれて戻ることがなかったことを表しています。

 これらの概略を示したのが下図です。



 この『ヨハネの福音書』のイエスの旅路を「イエスはである」の観点から考察してみます。

 信頼されるとは、いつの時代どこの国においても、御座に鎮座しているだけではなく、民衆のいる場所に出て行って民衆に寄り添う者なのでしょう。御子イエスは天の御父に代わって民衆のいる所に出て行って寄り添う者であった、というメッセージもここには込められているのかもしれません。

 とは威厳を持って御座から被造物全体を統治すると共に、民衆のいる所にへりくだって出て行って寄り添う、この両方を行うことができる者であり、御父と御子と聖霊の三位一体の神はこれを見事に実現しているのだと思います。

 “The King Jesus Gospel”、『福音の再発見』で著者のマクナイトは、福音が「個人の救い」に矮小化されていることを憂慮しています。本当にその通りだと思います。一人一人にへりくだって寄り添うイエスももちろん大切ですが、同時にコスモス(世界・宇宙)の被造物全体を統治するイエスも、それに劣らず大切です。そうでなければ、温暖化による気象災害、パンデミック、戦争の問題は解決しないでしょう。

 としてのイエス・キリストは自然災害や病気、戦争に苦しむ民衆に寄り添うと同時に、これらの災いを鎮めて下さるお方でもあります。「個人の救い」のみを伝えていては、問題は解決しないでしょう。問題が解決しないなら、日本人の共感もなかなか得られないでしょう。ですから、「イエスはである」ことをしっかりと語って、そのに仕える者となるべきことを、お伝えして行こう、今そんな風に思っています。
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七回へりくだって聖くなる

2020-09-28 05:19:37 | 礼拝メッセージ
2020年9月27日礼拝メッセージ
『七回へりくだって聖くなる』
【創世記33:3~4、列王記第二5:8~14】

はじめに
 先週の礼拝メッセージでは、年老いた晩年のヤコブが主に「ヤコブよ、ヤコブよ」と語り掛けられて、「はい、ここにおります」と答えた場面をご一緒に見ました。この時、主はヤコブに対して「エジプトに下ることを恐れるな」(創世記46:3)と仰せられました。そうしてヤコブはエジプトに行って、ヨセフと再会しました。創世記46:29(週報p.2)にその場面があります。

46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。

 父と子の感動の再会の場面ですね。創世記のヤコブの記事には感動的な場面がいくつかあり、この父と子の再会の場面は最も感動的な場面と言えるかもしれません。が、もう一つ、これに負けず劣らず感動的な場面と私が感じているのが、きょうの招きの詞に引用した、兄と弟の再会の場面です。創世記33章3~4節をもう一度お読みします。

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

 これはヤコブがペヌエルで神様と格闘して祝福を勝ち取ったすぐ後のことです。神様と格闘する前のヤコブは四百人を引き連れた兄のエサウが自分たちを襲うのではないかと恐れていました。それで当初の作戦では贈り物を持った者たちを先頭にして、自分は最後尾を行く予定でした。しかし神様から祝福されたことで恐れが消えたのでしょう、ヤコブは一行の先頭に立って兄のエソウがいる所に向かいました。

 その時ヤコブは七回地にひれ伏したと3節にあります。日本的な言葉を使うなら七回土下座したということです。私は「七回」という回数が重要な鍵であると感じています。一回や二回ではなく七回が重要であると考えます。このことを分かち合うために、きょうは先ずアラムの将軍のナアマンがヨルダン川に七回身を浸した記事を先に見ておきたいと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①心に鎧を着けていたナアマン
 ②心の鎧を脱ぐと浸みて来る神様の深い愛
 ③一回だけでは聖くなれない
 ④次の礼拝に向けて七朝(七晩)へりくだる

①心に鎧を着けていたナアマン
 聖書朗読は列王記5章8節から読んでいただきました。8節、

5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

 この8節の前に何があったかを簡単に見ておきましょう。アラムの軍の長のナアマンはツァラアトに冒されていました。この病気をイスラエルの預言者なら治せるであろうという話を聞いて、ナアマンはアラムの王の手紙を携えてイスラエルの王の所に行きました。しかし7節、

5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

 アラムとイスラエルの間ではかつて戦いがあり、両国の関係は良くありませんでした。また、北王国の王たちは伝統的に不信仰な王ばかりで、エリシャのような預言者は目障りな存在でした。それでイスラエルの王は機嫌を悪くしたのでしょう。そんな王にエリシャは8節で、「その男を私のところによこしてください」と言いましたから、ナアマンはエリシャの家にやって来ました。8節、

5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。

 ナアマンは戦車でやって来たとあります。ここから、ナアマンは軍人としてのプライドが非常に高い人物であったことが分かります。ナアマンは軍人のプライドという鎧を心にしっかりと着けていました。続いて10節、

5:10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」

 エリシャは出て来ないで代わりに使いの者が出て来ましたから、ナアマンのプライドは激しく傷付けられました。しかもヨルダン川に入るようにということです。11節と12節、

5:11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。

 ナアマンが激怒したのは無理もないことだと思います。ナアマンはアラムから遠路はるばるイスラエルにやって来ましたが、最初に会ったイスラエルの王に相手にされませんでした。そして次にやって来たエリシャの家ではエリシャに会うことができませんでした。プライドの高いナアマンが怒るのは当然です。しかし13節、

5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 有能な将軍には有能な部下がいるものなのですね。部下は、ナアマンにヨルダン川に入るように説得しました。

②心の鎧を脱ぐと浸みて来る神様の深い愛
 それゆえナアマンは部下の言うことを聞いてヨルダン川に入ることにしました。しかし、最初のうちは不平たらたらで、決して納得していたわけではないと思います。

「何でこのワシが、裸になってヨルダン川に入らなければならないのだ。ワシは将軍じゃぞ。」

 こんな感じでしょうか。しかし、裸になって川に入ったことで心に変化が生じ始めます。何重にも着こんでいた心の鎧を一つ脱いで、心が少しだけ身軽になった気がしました。

「何だ、これは。何だか分からないけど、ちょっと気持ちが良いぞ」

と思ったかもしれません。ヨルダンの水はアラムのアマナやパルパルのようにきれいでなく、入るのは気持ちが悪かったかもしれません。それが何故か気持ち良く感じました。意地を張っていると疲れますが、意地を張ることを止めた時に、ふと感じる気持ち良さ、そんな感じでしょう。

 そうして2回目からはナアマンは自ら進んで川に入るようになりました。そして入れば入るほど心の鎧が取り去れて行き、心が軽くなるのを感じて行きます。そうしてナアマンは次第に神様を感じるようになり、さらには神様の愛を感じるようになります。

 人が心に鎧を着けるのは、自分で自分を守ろうとするからです。しかし神様が自分を守ってくれていると気付くなら、鎧を着ける必要がなくなります。ダビデが巨人のゴリアテと対戦した時、ダビデはサウルが与えた鎧を着けずに戦いの場に出て行きました。ダビデは主が守って下さると確信していましたから、彼に鎧は必要ありませんでした。

 プライドが高かったナアマンは自分を守るために、何重にも心の鎧を着けていました。その心の鎧を脱ぐように神の人のエリシャは言っていたのですね。

 そうして心の鎧を脱いだナアマンはヨルダン川の水の中で神様と対話するようになり、神様にへりくだるようになったことでしょう。そうするとヨルダン川の水に浸かることが、とても気持ち良く感じるようになります。聖書に戻ります。14節、
 
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 言うまでもありませんが、ナアマンの体が幼子のようになってきよくなったのは、ヨルダンの水が薬のように効いたからではありません。プライドの鎧を何重にも心に着けて、神様も信じないでいたナアマンが心の鎧を脱ぎ、神様に対してへりくだったから、神様がきよくして下さったのですね。ナアマンは神様によって心と体の両方がきよめられました。

③一回だけでは聖くなれない
 私たちの心に着いている罪はとても分厚いものですから、一度や二度へりくだったぐらいで簡単にきよめられるようなものではないのでしょう。ナアマンも七回へりくだってようやくきよめられました。

 この説教を準備していて私は12年前に勤めていた大学を辞めて神学生になった時に、何度もへりくだらされる経験をしたことを思い出しました。私自身は大学教員というプライドを持っているという自覚はありませんでしたが、実はかなり分厚いプライドの鎧を着込んでいたことが神学院で寮生活をするうちに思い知らされて、その度に鎧を脱ぐことを強いられました。

 神学院に入ったばかりの頃、M先生とこんな会話をしたことを覚えています。神学院教会の奉仕で墓前集会に行った時だったと思います。神学院の中では先生と雑談をする機会などありませんでしたが、郊外の墓地へ行ったことで雑談できる状況だったのでしょう。

 M先生は私に言いました。「神学院での生活は大変でしょう?」確かに大変でしたが、私は答えました。「大丈夫です。これまでいろいろな経験をしていますから」

 それまで本当にいろいろ経験していました。特に専門を理工系の研究から文系の日本語教育に変えた時は大変でした。そういう経験をしていますから、神学院での生活も多少の苦労はあっても大丈夫だろうと思っていました。

 するとM先生は言いました。

「神学院では、そういう経験が邪魔をすることもあるんだよ」

 この言葉に私はムッとして、M先生のことを、何て嫌なことを言う人だろうと思いました。もちろんそれは嫌な言葉ではなく、親切な助言であったことが後になって分かりましたが、とにかくその時はムッとしました。自分の大学教員としての経験を否定されたからです。まるで軍人としてのプライドを傷つけられて激怒したナアマンのようです。

 ナアマンとしてはアラムからイスラエルまで遠路はるばる自分のほうから出向いたというだけで、十分にへりくだっているつもりだったでしょう。しかし、エリシャの家に戦車で乗り付けるほど軍人としてのプライドをまだ持っていました。

 私も神学院への入学が決まり、自宅のマンションを売却して多くの物を処分して少しの荷物で神学院の男子寮に入った時、大半のプライドを脱ぎ捨てて来たつもりになっていました。しかし、過去の自分の頑張った経験を誇りに思って「大丈夫です」と言った時に、M先生に「神学院ではそういう経験が邪魔をすることもあるんだよ」と言われてムッとしたということは、まだまだプライドの厚い鎧を着けていたということです。

 主はそんな私のプライドを容赦なく何度も打ち砕いて下さり、何度もへりくだることを教えて下さいました。しかし、二度や三度打ち砕かれても、プライドの鎧はそんなには簡単に脱げるものではありません。ナアマンも七回ヨルダン川に身を浸すまでは体がきよめられませんでした。

 今このメッセージを聞いてらっしゃる皆さんの中にはもしかしたら、自分にはそんなプライドは無いと思ってらっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、プライドが全く無い人などいないんだろうと思います。どんな人でも悔しかったり、みじめに思ったり、腹を立てたりすることがあるでしょう。それはプライドがあるから悔しかったり、みじめに思ったり、怒ったりするんだと思います。しかし、そんなマイナスの感情が心の中に湧いた時に神様のことを思うなら、神様がそれらを取り払って下さいます。ナアマンにもエリシャに軽く扱われた悔しさと腹立たしさ、そして裸になって水に入るみじめさが最初はありました。しかし、へりくだって水に入ることで神様がプライドを取り去って下さり、きよくして下さいました。

 きょうの招きの詞のヤコブに戻りたいと思います。創世記33章3節、

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

 ヤコブは神様に祝福されて恐れが無くなっていました。しかし、まだまだプライドはしっかりと持っていたかもしれません。神様と戦って祝福を勝ち取ったというプライド、伯父のラバンの下で苦労して多くの財産を築いたというプライドなどなどです。そういうプライドも、七回地にひれ伏していく間に取り去られていきました。地にひれ伏すということは、エサウに対してへりくだると同時に、神様に対してもへりくだることでした。そうしてヤコブの心はナアマンと同じようにきよめられていきました。33章4節、

33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

 兄のエサウの目にも弟のヤコブのひれ伏す姿がただのパフォーマンスではなくて、純粋にへりくだっている姿に映ったのだと思います。この兄弟の再会の場面は本当に感動的だと思います。

④次の礼拝に向けて七朝(七晩)へりくだる
 最後に、イエス様ご自身がへりくだったお方であったことを分かち合いたいと思います。私たちは毎週日曜日にここに集い、十字架のイエスさまを仰いで礼拝を捧げます。その際には私たち自身もへりくだった者として整えられて礼拝に臨みたいと思います。

 イエス様は最後の晩餐でへりくだり、弟子たちの足を洗ったことがヨハネの福音書13章に記されています(週報p.2)。ヨハネ13章3節と4節、

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 そしてピリピ人への手紙2章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。6節から8節、

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 イエス様は裸にされて十字架に付けられました。ナアマンも裸になりましたが、周囲にいたのは部下など身内の者だけでした。しかしイエス様は過越の祭りでエルサレムに集まって来ていた多くの人々が見ている前で裸にされて十字架に付けられて、さらし者にされました。イエス様は神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 私たちの罪を赦すためにへりくだって十字架に掛かって下さったこのイエスさまを覚えて私たちは礼拝を捧げます。ですから私たちもまたへりくだって、整えられて礼拝に臨みたいと思います。

 そのために私たちは礼拝が終わった翌日の月曜日の朝から次の礼拝の日曜日の朝まで七朝掛けてへりくだって備えます。それぐらいの気持ちで礼拝に臨みたいと思います。人によっては神様と向き合う時間帯が朝ではなく晩だという方もおられるでしょう。その場合は七晩掛けて備えます。

 少し大げさに感じるかもしれませんが、これぐらいしないと十字架のイエス様を覚えて礼拝する者としてふさわしく整えられないのだろうと思います。もちろん私自身、そんなにしっかりと整えられているわけではありません。礼拝の時が近づけば近づくほど、まだ準備が出来ていなくて焦ってバタバタしてしまうことが良くあります。しかし、心掛けとしては七朝掛けて整えられて礼拝に臨む者でありたいと思います。

 十字架のイエス様を覚えつつ、七回地にひれ伏したヤコブを思い、また七回ヨルダン川に身を浸して聖くされたナアマンを思い、私たちも毎週七回へりくだって聖くされて、礼拝に臨ませていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
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俳句と信仰の共通点①(2020.9.23 聖書と祈りの会)

2020-09-25 14:14:20 | 祈り会メッセージ
2020年9月23日 聖書と祈りの会・勧話
『俳句と信仰の共通点①』
【ルカ10:38~42】

 月1回の水曜日(最終木曜日の前日)の午前の聖書と祈りの会では、これから下記の4回シリーズの予定で、「俳句と信仰の共通点」について話してみたいと考えています。

 1.「心の余裕」が大切(9月)
 2.五感と霊性が磨かれる(10月)
 3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)
 4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)

 私の俳句歴はまだ1年ちょっとで、それも年4回の教会の「お季楽俳句会」に合わせて、一つの季節に少ない数しか作りませんから、まだまだ初心者の域を脱していません。しかしそれでも、「俳句」と「信仰」には共通点が多いことに気付く程度には、俳句に馴染んで来たと感じています。

 今日は「1.『心の余裕』が大切」という俳句と信仰との共通点について考えてみたいと思います。

 聖書箇所は、ルカの福音書10章38~42節です。

10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 心の余裕が無い時にも、もちろん俳句は作れると思いますし、信仰生活を送ることもできると思います。いや、むしろ苦しくて心に余裕が無い時ほど俳句や信仰が心の支えになるということもあるでしょう。

 K姉が貸して下さった「秋元不死男句集」には、昭和16年に治安維持法違反の容疑で逮捕された不死男が獄中で作った句が多く収められています。2年間の苦しい獄中生活の中では俳句を作ることが不死男の心を慰めたのだろうと想像します。

 ちなみに何が治安維持法に引っ掛かったかと言うと、昭和12年作の

 冬空をふりかぶり鉄を打つ男

という俳句だそうです。製鉄所で鉄板を打つ男の逞しさに感動して作った句だそうですが、逮捕理由は、この句の「鉄」は資本主義を象徴し、それを労働者が打つのだから、プロレタリア革命を暗示した俳句とされた、とのことだったそうです。それで2年間も投獄されたのですから、まったく理不尽ですね。

 私たちのインマヌエル教団の創設者の蔦田二雄牧師も、戦時中に2年間投獄されていました。獄中に聖書を持ち込むことはもちろん許されなかったと思います。しかし、そんな中でも蔦田牧師の頭の中には聖書のみことばがしっかりと入っていたと思いますから、聖句を通して神様との交わりを維持して慰めを得ていたことだろうと思います。

 そんな風に、心に余裕が無い苦しい時にこそ、心の支えになるという一面が俳句と信仰にはあると思います。しかしもう一方で、心の余裕がないと、上記の2~4の点において成長することは難しいのではないかとも考えます。

 今年の5月と6月、私は天に召される時が近づいていたY兄とH兄へのお見舞いと葬儀で、俳句を作る心の余裕が全くありませんでした。ですから、7月の初めが投句の締切だった夏の季語の第5回お季楽俳句会は全く不調でした。心に余裕が無いと、季節を感じることがなかなかできず、従って俳句もなかなか作れないと感じました。そして上記の2~4を感じることも難しくなると思いました。すると2~4の点で成長することも難しいでしょう。

 きょうは予告編的に上記の2~4の俳句と信仰の共通点をごく簡単に話しておきます。

 まず「2.五感と霊性が磨かれる(10月)」について。
 五感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のことですが、中では私は俳句も信仰も「触覚」が極めて大事だと最近感じています。「触覚」の中でも、自分で触わるほうの能動的な側ではなく、触れられるほうの受動的な皮膚感覚、肌感覚です。四季の暖かさや涼しさは全身の肌で感じるものですし、日光も全身で浴びます。蝉の声や虫の声などの音も聞くのは耳ですが、音は全身を包みます。良い音楽を聞いて感動した時など全身に鳥肌が立つことがありますね。或いはまた花火のすぐ近くでは大きな音の振動が体全体に響きます。花の香りも嗅ぐのは顔に付いている鼻ですが、香りは全身で浴びます。焼肉屋に行って来た時などは焼肉の臭いが全身に付いています。味覚も味わうのは舌ですが、おいしい物を食べて感動すると全身がゾクゾク震える至福感があります。神様の愛もまた全身で感じるものです。神様の大きな愛に全身が包まれていることを感じる時、全身がゾクゾク震える感動を覚えます。詳しくは来月話すことにします。

 次に「3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)」について。
 時空スケールというのは時間と空間のスケールのことです。俳句で時間と空間のスケールの大きいものと言うと、私は中学か高校の国語で習った、『おくのほそ道』の俳句を思い起こします。例えば、芭蕉が平泉で詠んだ有名な

 夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つはものどもが ゆめのあと)

です。この句は、源義経を匿った奥州藤原氏を頼朝が滅ぼしたことに芭蕉が思いを馳せて涙を流した時に作った句です。奥州藤原氏が滅んだのが1189年で、芭蕉が平泉を訪れたのが1689年さということですから、芭蕉は500年前の兵(つわもの)たちの戦(いくさ)の様子に思いを馳せて涙を流したことになります。ここに、この俳句の時間のスケールの大きさを感じます。

 或いはまた、越後路で芭蕉は

 荒海や佐渡によこたふ天河
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ)

という俳句を詠みました。この句には空間のスケールの大きさを感じます。

 一方、スケールの小さな俳句にも、もちろん味わいがあります。先ほどの秋元不死男の

 冬空をふりかぶり鉄を打つ男


槌を持った腕を振りかぶったその一瞬を切り取ったものですから、時間のスケールは小さなものですが、ここにも深い味わいがあると思います。このように俳句はスケールの大きいものと小さいものの両方に深い味わいがあります。

 聖書ももちろん同じですね。特に旧約聖書全体には時間と空間のスケールの大きさを感じると共に、ヤコブなど一人一人の登場人物に焦点を当てている時には、小さいスケールでの味わいがあります。

 そしてもう一つの「4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)」は、俳句を作る作らないに関わらず、山や川、花や虫たちや空の鳥を見ると、これらすべてをお造りになった創造主は本当にすごいなあと思い、感謝の思いが自然に湧きますね。そうして聖書を読んだ時にももちろん創造主への感謝の思いが湧きます。

 これらの2~4のことは、心の余裕が無いとなかなか感じられないことです。

 最初にご一緒に読んだマルタとマリアの箇所では、マルタがイエス様のもてなしの準備で心の余裕を失っていました。心の余裕を失っていては、イエス様が語る福音に心を向けることはできません。ゆったりとした心持ちでいることは、とても大切なことだと思います。

 今年の5月から私は、礼拝の前に週報を二つ折りにすることを止めました。これを止めると心に余裕ができることを、無会衆礼拝の期間に気付いたからです。

 無会衆礼拝の期間中は週報をメールで送信できなかった人には郵送で送っていました。近隣の方には自転車で直接届けましたが、遠方の方には郵送しました。遠方の方でも最低一回は車で直接お届けしましたが、それ以外は郵送していました。その場合の切手代は、二つ折りだと定形外の140円ですが、三つ折りなら定形ですから84円で送れます。10名ぐらいのことですが、期間が長引けば郵送代がかなり違って来ます。最初のうちは無会衆礼拝をいつまで続けなければならないか分からない状況でしたから、切手代を節約して三つ折りにしました。その場合、予め二つ折りにしてあると折り目だらけになってしまいますから、折らないようにしていました。

 そして、このことで礼拝前に週報を折らないことでゆったりとした気分でいられることに気付きました。週報の数は30数枚程度のことですが、ゆっくり折っていると時間が掛かってしまいますから、パッパと手早く折ります。すると、自然と気が急いて来てしまうのですね。礼拝前に気が急くようなことをすることは良くないことだと、無会衆礼拝の期間中に気付かされました。それで通常の礼拝に持ってからも、週報を折るのを止めました。そうして礼拝にはできるだけ、ゆったりした心持ちで臨めるように備えています。

 イエス様も心の余裕を失っていたマルタに言いましたね。最後に41節と42節をご一緒に読んで終わりたいと思います。

10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
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公私で祝福して下さる主(2020.9.20 礼拝)

2020-09-21 10:16:36 | 礼拝メッセージ
2020年9月20日敬老感謝礼拝メッセージ
『公私で祝福して下さる神様』
【創世記46:1~4】

はじめに
 きょうは敬老感謝礼拝です。そこで聖書に登場する人物の、年老いてからの晩年に注目してみたいと思います。

 聖書には様々な人物の晩年が描かれていますね。アブラハムの晩年、イサクの晩年、ヤコブの晩年、ヨセフの晩年、モーセの晩年、ヨシュアの晩年、サムエルの晩年、ダビデの晩年などなど、多くの人物の晩年が描かれています。

 それらの人物の中で、きょうはヤコブの晩年をご一緒に見ることにします。7月26日に藤本満先生が午前と午後の2回にわたってヤコブについて語って下さいましたから、その後の年老いてからのヤコブについて見るのは、ちょうど良いだろうと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①ペヌエルで神様と格闘して以降のヤコブ
 ②年老いてからも苦労が絶えなかったヤコブ
 ③なぜ「イスラエルよ」ではなくて「ヤコブよ」か?
 ④「はい、ここにおります」と答えられる幸い

①ペヌエルで神様と格闘して以降のヤコブ
 早いもので藤本満先生がヤコブを語って下さってから8週間が経ちました。午前の聖会ではベテルでの出来事が語られました。父イサクからの兄への祝福を、ヤコブは兄のエサウになりすまして横取りしました。このことにエサウは激怒して弟のヤコブを殺そうと考えます。そこでヤコブは遠く離れたハランの地に住む伯父のラバンの所に逃げます。逃げる途中のベテルで、神様は石を枕にして眠りに就いたヤコブの夢の中に現れて言いました。創世記28章15節です(週報p.2)。

創世記28:15 「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

 素晴らしい祝福ですね。父親を欺いて兄への祝福を横取りした、言わば罪びとのヤコブを神様はどうしてこんなにも愛されたのでしょうか?そのことが午後の聖会で明らかにされました。

 午後はその20年後のペヌエルでの出来事についてでした。伯父のラバンの所で20年を過ごしたヤコブに神様がまた現れて、生まれ育ったカナンの地にまた戻るように命じました。そこでヤコブは家族と共に伯父の家を離れてカナンに向かいますが、その途中で兄のエサウが四百人を引き連れてヤコブを迎えに来るという情報が入ります。

 四百人を引き連れたエサウに襲われることを恐れたヤコブは祝福を求めて神様と格闘しました。それまでのヤコブはずる賢い人物でしたが、とにかく祝福を得ることに貪欲だったのですね。父を欺いてまでも、本来エサウに与えられるべき祝福を得ました。そして20年後のペヌエルでは神様と格闘してまでも祝福を得ました。この祝福への貪欲さが、神様がエサウよりもヤコブを愛した理由であろうと午後の聖会では語られました。この神様の祝福への貪欲さが無いと、いつの間にか神様から離れてしまいます。私たちも神様と格闘するぐらいに貪欲に祝福を祈り求めたいと思います。

 さて、カナンに戻ってからのヤコブには、さらにいろいろな出来事が待っていました。中でも、溺愛していた息子のヨセフを失ったことはヤコブにとって最も悲痛な出来事でした。ヨセフの兄たちがヨセフをエジプトに向かっていた商人に売ってしまったのですね。しかし兄たちはヤコブに嘘をついて、ヨセフは獣に食い殺されたことにしました。その箇所をご一緒に見ておきたいと思います。創世記37章の31節から35節までをお読みします(旧約p.70)。31節の「彼ら」というのはヨセフの兄たちのことです。兄たちは血の付いたヨセフの服をヤコブに見せました。

37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。
37:32 そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
37:33 父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」
37:34 ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
37:35 彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。

 ヤコブはヨセフのために何日も嘆き悲しみました。ヤコブにはレアとラケルの二人の妻がいました。レアとラケルは姉妹で、姉のレアは早くから多くの子を生みました。それがヨセフの兄たちです。一方、妹のラケルの胎は長く閉じられていました。ヨセフはその長く胎が閉じられていたラケルにようやく与えられた子で、ヤコブはレアよりもラケルを愛していましたから、ヤコブはヨセフを溺愛しました。

 しかしヤコブがヨセフを溺愛した理由は、ヨセフがラケルの子であるということだけではない気がします。神様がヨセフと共にいることにヤコブは気付いていたのではないかと思います。ヨセフはとても利発で、霊性も豊かな少年でした。

 ヤコブは神様と格闘するほど神様と近い関係にありましたから、自分の息子たちの中でもヨセフがとりわけ霊性に恵まれた者であることに気付いていたんだろうと思います。そんなヨセフの将来に、ヤコブは大いに期待を寄せていた筈です。それだけにヨセフを失ったショックはあまりにも大きかったのではないか、そんな気がします。

②年老いてからも苦労が絶えなかったヤコブ
 そして年老いてからの晩年のヤコブにはさらなる困難が待ち受けていました。それは全地が飢饉になったことでした。カナンの地もエジプトの地も作物が獲れなくなりました。しかし、エジプトには備蓄した穀物が豊富にありました。それは皆さんご承知のように、エジプトに売られたヨセフがエジプトの王のファラオの夢の解き明かしをして、不作になる前の豊作の年に食糧をしっかりと蓄えていたからですね。

 それで全地の人々は食糧を買いにエジプトへと向かいました。ヤコブの一家も、食べ物に困ったために、息子たちがエジプトに行って穀物を買うことにしました。貧乏な家庭では穀物を買うお金すら無いと思いますから、ヤコブの一家は裕福であったということですが、裕福なら裕福なりに一族を養うことは大変なことだったでしょう。

 後にヤコブの一家はエジプトに向かいます。きょうの聖書箇所の46章にそのことが書かれていますが、46章の26節にその一家の人数が書いてあります。26節、

46:26 ヤコブに属する者、彼の腰から生まれ出た子でエジプトにやって来た者は、ヤコブの息子たちの妻を除いて、全部で六十六人。

 大変な数ですね。これに息子の妻たちや使用人たちも加わります。飢饉でなくても、大家族を養うことには苦労があったと思います。ですから、飢饉になって本当に困っただろうと思います。ヤコブは若い時は伯父のラバンの下で苦労して、カナンに戻ってからも愛していた息子のヨセフを失い、年老いてからも食糧が無くなるという苦労をしました。ヤコブの人生は、苦労の多い生涯であったと思います。

 そんな苦労の多かったヤコブに、エジプトに行って穀物を買って来た息子たちから朗報がもたらされました。死んだと思っていた息子のヨセフが実はエジプトで生きていて、王のファラオに次ぐ地位に就いているというのです。45章の26節と27節をお読みします。

45:26 彼らは父に告げた。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。
45:27 彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。

 これは、苦労の多い生涯を歩んで晩年に至ったヤコブへの、神様からのプレゼントとも言えるかもしれませんね。28節、

45:28 イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」

 イスラエルというのはヤコブのことです。ヤコブはペヌエルで神様と格闘した時に、イスラエルという名前を与えられていました。

③なぜ「イスラエルよ」ではなく「ヤコブよ」か?
 こうして、イスラエルの一族は食糧のないカナンを逃れてエジプトへ行くことにしました。46章の1節と2節、

46:1 イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」

 ここからは、神様はなぜイスラエルに「イスラエルよ、イスラエルよ」ではなくて、「ヤコブよ、ヤコブよ」と語り掛けたのかを、考えてみたいと思います。かつてペヌエルでヤコブと格闘した時に神様は、創世記32章28章のように仰せられました(週報p.2)。

創世記32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。

 さらに35章10節でも、もう一度同じことを仰せられました(週報p.2)

創世記35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。

 それなのに、なぜ神様は「ヤコブよ、ヤコブよ」と呼び掛けたのでしょうか?

 考えられることは、「イスラエル」とは公の公人としての名前であり、「ヤコブ」は私の私人としての名前であるということです。

 ヤコブはイスラエル12部族の父です。ヤコブの12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先になり、モーセの時代を経てヨシュアの時代に占領した地がそれぞれの部族に割り当てられました。ヤコブは公には、そのイスラエル12部族の父でした。そして、主はイスラエル12部族を大いに祝福しましたから、それは公の顔の、イスラエル12部族の父としてのヤコブを、主は大いに祝福したということです。

 一方で、主は一個人としての私人のヤコブも祝福して下さいました。それが「ヤコブよ、ヤコブよ」という呼び掛けに表れているのではないでしょうか。

④「はい、ここにおります」と答えられる幸い
 ヤコブが生まれた時、ヤコブは先に生まれた双子の兄のエサウのかかとをつかんで生まれて来ました。それゆえヤコブの名が付けられました。母のリベカのお腹の中で、ヤコブはエサウを先に出すまいと懸命にかかとをつかんでいました。先に生まれた方が長子の権利を得ますから、ヤコブはそれを阻止しようと生まれる前から必死でした。ヤコブはそれほどまでに長子として祝福を受けることに貪欲でした。

 主の「ヤコブよ、ヤコブよ」には、両親が赤ちゃんのヤコブに語り掛けるような優しい響きがあったのだと思います。年老いていたヤコブでしたが、彼は幼子のような素直さで答えました。

「はい、ここにおります」

 私たちは子供から大人になると、社会の中で様々な公の顔を持つようになります。仕事だけでなく、町内の掃除当番や防災係、組長などの係も順番に回って来ます。それらの係を公人として務めます。教会も一つの社会であり、私たちはそれぞれに与えられた賜物に従って奉仕をします。それも公の私の働きでしょう。その働きに対して主は「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってほめて下さり、祝福して下さいます。

 しかし同時に主は、赤ちゃんのように、ただそこに存在しているだけの個人としての私もまた祝福して下さり、優しく呼び掛けて下さいます。年を取って様々な働きの第一線から退くと、私たちは段々と公の公人としての私から、私人としての私に戻って行きます。そうして主は私人となった私のことも豊かに祝福して下さいます。

 このメッセージの準備をしていて、3月まではH兄がいつもこの会堂の一番前の席におられたことを思い出しました。

 H兄は電器屋のご主人として働き、教会でも役員を務めて公人として重要な働きをされました。そして、それらすべての公の働きから退いた後のH兄は、ヤコブのように幼子に戻って「はい、ここにおります」と返事をしに礼拝に集っていたのだなと思いました。

 私たちはH兄を天に見送りましたが、この教会にはなお多くのご高齢の方々がここに集い、「はい、ここにおります」という姿を見せて下さっていることを、とても感謝に思います。これからもできるだけ長く、お元気に礼拝に集い続けることができますように、お祈りしています。

 創世記46章に戻ります。「はい、ここにおります」と答えたヤコブに神様は仰せられました。3節と4節、

46:3 すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
46:4 このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」

 神様はヤコブに、「エジプトに下ることを恐れるな」と言い、「このわたしが、あなたとともにエジプトに下る」と仰せられました。どこに行っても神様は、私たちと共にいて下さいます。H兄も今年の4月以降は、住み慣れたご自宅を離れて、病院と施設とを行ったり来たりしておられました。そのようにご自宅を離れて教会の礼拝に出席できなくなってからも、神様はいつも兄弟と共におられました。そして天に召された日は、息子さん夫妻がずっと側に付いていて、そこにはイエス様も共にいて下さいました。

 私もその場にいさせていただき、神様は私たちが母親の胎の中にいる時から天に召される時まで、そして召された後もずっと共にいて下さる方であることを改めて感じました。

 ですから、例え様々な事情で家族に看取られることなく天に召されるとしても、イエス様はいつもそばにいて下さいます。H兄も、他のご家族は臨終に間に合いませんでしたし、もしコロナウイルスによる面会規制が一番厳しい時だったら誰も看取ることができなかったかもしれません。しかし、例えそうだったとしてもイエス様はいつもそばにいて下さいます。このことはとても心強いことだと思います。そして、このことを神様に感謝しつつ賛美して礼拝できるクリスチャンの幸いを改めて感じました。

おわりに
 神である主は私たちが年老いて公人としての働きができなくなってからも個人的に話し掛けて下さり、どこへ行っても共にいて下さることを約束して下さっています。

 そのことに心から感謝したいと思います。そして年老いてからも幼子のように「はい、ここにおります」と答えられる幸いが与えられていることにもまた、心一杯感謝したいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。

46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
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生まれ変わらせて下さる主(2020.9.17 祈り会)

2020-09-19 09:19:45 | 祈り会メッセージ
2020年9月17日祈り会メッセージ
『生まれ変わらせて下さる主』
【詩篇22篇】

22:1 わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
22:2 わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。
22:3 けれどもあなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。
22:4 あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。
22:5 あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。
22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
22:8 「に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9 まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
22:11 どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。
22:12 多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。
22:17 私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
22:18 彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。
22:19 よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。
22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。
22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。
22:23 を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ主の前におののけ。
22:24 主は貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず御顔を彼から隠すことなく助けを叫び求めたとき聞いてくださった。
22:25 大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。
22:26 どうか貧しい人々が食べて満ち足り主を求める人々がを賛美しますように。──あなたがたの心がいつまでも生きるように──
22:27 地の果てのすべての者が思い起こしに帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。
22:28 王権はのもの。主は国々を統べ治めておられます。
22:29 地の裕福な者はみな食べてひれ伏しちりに下る者もみな主の御前にひざまずきます。自分のたましいを生かすことができない者も。
22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
22:31 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。

 今週は、この詩篇22篇が心に通っています。
 1節の「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」は、イエス様が十字架で叫んだ言葉として有名です。天の父と霊的に切り離されて陰府に下らなければならなかったことは、イエス様にとってもどんなにか恐ろしいことだったでしょう。しかし、イエス様は三日目によみがえって死を滅ぼして下さいました。それゆえ私たちはもはや死を恐れる必要はなくなりました。

 とは言え、私たちはしばしば困難に直面します。祈っているのに、なかなか応えられず苦難の時が続くと、神様に見捨てられているように思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、もし神様から見放されているように感じるとしたら、それはむしろ自分の方が御心から離れた方向に歩んでいると考えたほうが良いのだろうと思います。自分では正しいと思っていても、実は御心から段々離れているということは有り得ることです。神様はそんな私たちを新しく生まれ変わらせて下さる方です。

 7節と8節、

22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
22:8 「に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」

 ダビデを嘲る者たちは主を信じていませんから、主はいないと思っています。そうして「に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。」と言ってあざけりました。しかし皮肉なことですが、彼らの言っていることは全く正しいのですね。主は確かにおられ、主は決して私たちを見捨てるお方ではありませんから、主に身を任せて助け出してもらえば良いのです。

 神様は敵をも使って私たちを新しく生まれ変わらせて下さる不思議なことを為さいます。主は不信仰なエルサレムをバビロン軍によって滅ぼし、バビロン捕囚を経てエルサレムを復興させて新しく生まれ変わらせ、イエス・キリストの降誕に備えさせました。9節にあるように、主は「私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方」です。ですから主は何度でも私たちを霊的に刷新させて生まれ変わらせることができる方です。14節と15節、
 
22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。

 作り変えられる時、私たちは一旦はますますボロボロになり、徹底的に砕かれます。そうして砕かれた中で「救い出してください」と叫ぶ時、主の答が再び聞こえるようになります。20節と21節。

22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。

 信仰の歩みとは、生まれ変わっては砕かれ、また作り直されては砕かれの繰り返しなんだろうなと思います。信仰を持って主から豊かな恵みを注がれると、どこか奢り高ぶりが出て来ます。パウロもそのことをローマ人への手紙で警告しています。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

 このように他人を見下したり、さばいたりする人の祈りを主は聞かれないでしょう。そうして祈りが聞かれないことがしばらく続くと、見捨てられたように感じるかもしれません。実際には主は私たちを決して見捨てたりはしません。しかし、私たちの中に奢り高ぶりがあるなら、祈りに応えないという方法で、へりくだることを促すのだろうと思います。そうして、おのれを低くして主に助けを求めるなら、主はその人を新しく作り直して下さいます。

 そして新しく作り変えられた私たちは再び主を賛美するようになります。22節と23節、

22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。
22:23 を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔(すえ)よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔(すえ)よ主の前におののけ。

 私たちは新しく作り変えられる度に、以前に増して主をまっすぐに賛美できるようになります。それが聖められるということなのでしょう。そうして聖められると聖書の言葉が以前にも増して響くようになり、もっと恵まれるようになります。しかし、そのことでまた奢り高ぶりが生じて、また砕かれるということの繰り返しなのではないでしょうか。

 砕かれることは苦しいことですが、その後には以前よりも素晴らしい恵みがいただけます。

 今の新型コロナウイルスの災いでは、一人一人の個人はもちろん、教会もまた変わることを強いられていると感じます。教会の何がどう変われば良いのか、それが何かは、なお祈りつつ主の導きを仰ぐべきだと思いますが、向かうべき方向はハッキリしています。それは、27節のようになることです。27節、

22:27 地の果てのすべての者が思い起こしに帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。

 そして、このことを次の世代にしっかりと伝えて行くことができるようにすることです。30節と31節、

22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
22:31 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。

 このことのために、私たちは作り変えられ続けなければならないのだと思います。主はバビロン軍という敵を使ってエルサレムを作り変えました。そうしてイエス様の到来の準備をしました。それと同じように、主は新型コロナウイルスという敵を使って私たちをそして教会を作り変えようとしているのだと思います。

 具体的にどうしたら良いのか、砕かれながら、へりくだって祈り求めたいと思います。
 お祈りしましょう。

22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
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御父と一つだから御子の愛は深く人の心を癒す(2020.9.13 礼拝)

2020-09-14 15:59:59 | 礼拝メッセージ
2020年9月13日礼拝メッセージ
『御父と一つだから御子の愛は深く人の心を癒す』
【マタイ11:25~30】

はじめに
 きょうの中心聖句はマタイの福音書11章の27節と28節です。

11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 28節のみことばは、とても有名ですから、皆さんも良くご存知だと思いますし、ご自身がこのみことばによって癒されたという経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。この28節に加えて27節も中心聖句とするのは、27節の前半にあるように、すべてのことが天の父からイエス様に渡されているから、イエス様はすべての疲れた人、重荷を負っている人を癒すことができる、このことを皆さんと分かち合うためです。きょうのメッセージのタイトルに示したように、御父と一つだから御子の愛は深く人の心を癒します。

 このことを今日は次の四つのパートで話して行きます(週報p.2)。

 ①多くの人々の心を癒して来たマタイ11:28
 ②羊飼いの父(詩篇23)と一つの子(ヨハネ10:30)
 ③大人に成長して子や教え子を持つと分かる親の愛
 ④震災で家族の絆が見直された日本で伝えたい父と子の愛

①多くの人々の心を癒して来たマタイ11:28
 2年前の静岡聖会は10月7日と8日に磐田グランドホテルで持たれました。講師は基督兄弟団・西宮教会牧師の小平牧生先生でした。この時の聖会Ⅰで小平先生は阪神大震災への対応で燃え尽きそうになった時に、このマタイ11:28のみことばに癒され励まされて、再び立ち上がることができたという先生ご自身の体験のお証しを語って下さいました。

 この説教の後で、私は小平先生に話し掛けて、私自身もまたこのマタイ11:28に励まされた経験があることを話しました。沼津教会が他教団の教会と合併して解散することは、信徒の皆さんにとってとてもショックの大きいことでしたが、牧師にとっても大きなストレスが掛かることで、私は燃え尽きかけていました。そんな時に、このマタイ11:28のみことばにとても癒されました。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 人間にとって休むことはとても大切なことです。休まないと人は壊れてしまいます。仕事の休みを取って体を休めても心が休まらないでいると、やがて心は壊れてしまいます。イエス様が私たちの心を休ませて下さることは、とても感謝なことです。

②羊飼いの父(詩篇23)と一つの子(ヨハネ10:30)
 それにしても、イエス様の言葉はどうしてこんなにも私たちの心を癒すのでしょうか?

 イエス様の言葉がどうしてこんなにも私たちの心に響くのか、それはイエス様が天の父と一つのお方だからです。きょうの中心聖句のマタイ11章27節と28節をもう一度通してお読みします。

11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 27節の前半でイエス様はおっしゃいました。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。」つまり、イエス様は天の父と一つのお方です。だからこそ疲れた人、重荷を負っている人を癒すことができます。

 イエス様が天の父と一つのお方であることは、イエスさまご自身がおっしゃっています。きょうの招きの詞のヨハネ10章28節から30節までをもう一度お読みします。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」

 このように30節でイエス様は、「わたしと父とは一つです」とおっしゃっています。きょうの聖書交読では詩篇23篇を開きました。ダビデは羊飼いである天の父に癒されていました。イエス様はこの羊飼いである天の父と一つのお方なのですね。

23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

 イエス様は、この羊飼いである天の父と一つのお方ですから、疲れた人、重荷を負っている人を癒すことができます。

③大人に成長して子や教え子を持つと分かる親の愛
 ただし、羊飼いである天の父の愛がどれほど大きいものであったかを知るには、私たちの信仰が子供から大人へと成長する必要があります。

 私たちが子供だった頃、私たちは自分に注がれる親の愛を当たり前のように思って育ちました。しかし、成長して大人になると、親が多くの犠牲を払って苦労して子供の自分を育ててくれたのだなということが分かるようになります。さらに自分も子供を持って親になると、さらに親の苦労がよく分かるようになります。

 私には子供がありませんが、これは学校の教師と生徒の師弟関係でも同じことが言えると思います。私は大学の研究室で、恩師から研究のイロハを教えていただきました。そうして自分も大学の教員になって自分の教え子を持った時、恩師の先生は苦労して学生の私たちを育てて下さったんだなと初めて分かって、とても感謝に思いました。研究者の卵である大学院生が成長するためには、学内での日頃の研究ももちろん大切ですが、学外で持たれる国内の学会や国際会議、また海外での国際会議に出席することはとても大切なことです。これらの場で一流の研究者と討議し、また同年代の若い研究者と親交を持つことで研究へのモチベーションが一層高まります。しかし学生は貧乏ですから自分で旅費を出すことはできません。ですから大学の先生は苦労して資金援助して学生に学会出席などの貴重な経験を積ませます。

 私が大学教員になって教え子を持った時、私はあまり多くの資金援助ができませんでしたから、そういう貴重な経験を自分の教え子に少ししか積ませてあげることができませんでした。ですから、自分の教え子にはとても申し訳なく思うと同時に、自分を育てて下さった恩師に感謝しました。また、苦労して学費を払い続けてくれて私に好きなだけ勉強させてくれた自分の親に対しても、とても感謝に思いました。

 このように私たちの多くは子供の頃には親の愛をあまり理解せずにいて、大人に成長して初めて親の大きな愛が分かるようになります。信仰も同じなのでしょう。信仰が成長して初めて天の父の大きな愛が分かるようになるのでしょう。ですから私たちは天の父の大きな愛が分かるよう、信仰において成長したいと思います。

 話をマタイ11章に戻します。マタイ11章25節でイエス様は、

11:25 「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。」

とおっしゃいました。天の父は「天地の主」です。父は天地を創造して動植物を造り、私たち人間の命も造りました。だから天の父は私たちを愛して下さっています。

 今年私は朝顔の種とコスモスの種を駐車場の脇に蒔きました。自分で種を蒔くところから始めると、やっぱりとても愛おしく感じます。今年の夏は暑かったですから、朝と晩に水やりをすることが欠かせませんでした。午後に用事で外出した時なども、以前だったら外でゆっくりしてから帰ることもありましたが、夕方に水やりをするために急いで戻っていました。

 まして皆さんの多くはご自分のお子さんを育てられ、或いはまた教え子を育てられましたから、どんなに多くの愛情をお子さんに注いだことだろうかと思います。

 そういうわけで私たちの命を造った天の父も私たちの一人一人にたっぷりと愛情を注いで下さっています。そして天の父はもちろんイエス様のことも愛していました。イエス様がバプテスマを受けた時、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声がありましたね。マタイ3章16節と17節です(週報p.2)。

3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 そして天の父は愛するイエス様に大きな重荷を負わせていました。それは天の父ご自身の言葉を人々に伝えることと、最終的には十字架に付かなければならないという重荷でした。イエス様はヨハネ12章の49節と50節でおっしゃいました(週報p.2)。

12:49 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

 このように天の父はイエス様に話すべき言葉を授けて、その父の言葉をイエス様は人々そして弟子たちに伝えていました。しかし、聖霊を受ける前の弟子たちにとってはイエス様の言葉を理解することは難しいことでした。罪によって弟子たちの目と耳は閉じられていたからです。

 イエス様はご自身が教師となって弟子たちに教えました。そして自分の言葉を弟子たちが理解できていないことを通して、段々と十字架に付かなければならないという最大の重荷を受け入れていったのではないかなと思うことです。十字架に付くことは神の御子であるイエス様にとっても途轍もなく恐ろしいことだったでしょう。肉体的に激しい痛みを受けなければならないだけでなく、霊的にも天の父から切り離されて死に、陰府(よみ)に下らなければなりません。それはイエス様にとっても想像を絶する恐怖だったことでしょう。しかしイエス様が十字架で血を流さなければ弟子たちの罪はきよめられず、罪がきよめられなければ聖霊を受けることができず、聖霊を受けることができなければ霊的な目と耳は決して開かれません。

 ですからイエス様は十字架に付くという天の父からの重荷をどうしても負わなければなりませんでした。この重荷を負う苦悩をイエス様ご自身が味わっていたからこそ、イエス様は疲れた人々、そして重荷を負っている人の心を自分のことのように分かり、そして癒すことができます。

 どうしてイエス様の言葉は私たちを癒すのか、それはイエス様ご自身が十字架の重荷を負っているからでもあるのですね。

④震災で家族の絆が見直された日本で伝えたい父と子の愛
 このイエス様の十字架の重荷は、有名なヨハネ3:16のみことばのように、天の父が私たちを愛していたゆえにイエス様に負わせたものです。ヨハネ3:16(週報p.2)、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 そしてイエス様がこの十字架の重荷を負うことを受け入れたのも、イエス様が私たちを愛して下さっているからです。

 この父と子の大きな愛を、静岡の方々、日本の方々にお伝えしたいと思います。

 あと半年で東日本大震災から10年になります。9年半前の東日本大震災では津波によって多くの方々が家族を失いました。そして悲しみの中で家族の絆が見直されました。この家族の絆が見直された日本で、天の父と子の愛をお伝えしたいと思います。天の父と御子イエス・キリストもまた太い愛の絆で結ばれていました。そして十字架の悲しみを経験しました。この父と子の愛と悲しみを日本の方々と分かち合いたいと思います。

 東日本大震災の悲しみもまだ癒えない中で、今はさらに地球温暖化による気象災害と新型コロナウイルスの感染により人々はさらに悲しみを負い、また疲れています。災害からの復興に当っている方々、医療に従事している方々、被害に遭った方々への補償に当っている方々が負っている重荷もまた大変なものです。悲しんでいる方々、疲れている方々、重荷を負っている方々の心をイエス様が癒して下さり、休ませて下さいますように、お祈りしたいと思います。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。

11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
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主は私たちの魂を守って下さる(2020.9.10 祈り会)

2020-09-11 15:45:10 | 祈り会メッセージ
2020年9月10日祈り会メッセージ
『主は私たちの魂を守って下さる』
【詩篇121篇・122篇】

◎詩篇121篇 <都上りの歌。>
121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
121:2 私の助けはから来る。天地を造られたお方から。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず あなたを守る方はまどろむこともない。
121:4 見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。
121:5 はあなたを守る方。はあなたの右手をおおう陰。
121:6 昼も日があなたを打つことはなく 夜も月があなたを打つことはない。
121:7 はすべての災いからあなたを守り あなたのたましい(魂)を守られる。
121:8 はあなたを行くにも帰るにも 今よりとこしえ(永遠)までも守られる。

◎詩篇122篇 <都上りの歌。ダビデによる。>
122:1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。
122:3 エルサレム それは一つによくまとまった都として建てられている。
122:4 そこには多くの部族の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。
122:5 そこにはさばきの座 ダビデの家の王座があるからだ。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。
122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」
122:8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」
122:9 私たちの神の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

 きょうは詩篇の121篇と122篇を続けて読みました。
 122篇の1節で詩人は

詩篇122:1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。

と歌っています。

 主の家(神殿)に行って礼拝できることは、大きな喜びです。私たちの教会も、この春は新型コロナウイルスの感染拡大のためにライブ配信だけの無会衆の礼拝を経験しました。そうして1ヶ月半後に通常の礼拝に戻した時に、多くの方々が、教会に皆で集って礼拝をささげることができる喜びを語って下さいました。

 静岡では大都市圏よりはコロナウイルスの感染拡大が抑えられていますから、こうして教会で礼拝に集う喜びを皆さんと共有できていることを、とてもうれしく感謝に思います。

 さて、では主の家(旧約の時代は神殿、新約の時代は教会)に行って礼拝をささげることに、どうしてこんなにも大きな喜びを感じるのでしょうか。理由はいろいろあると思いますが、大きな理由の一つは「私の助けが主から来る」からでしょう。詩篇121篇の詩人は2節で、

121:2 私の助けはから来る。天地を造られたお方から。

と歌っています。

 主は私たちを助け、そして守って下さっていますから、そのことに感謝し、賛美して、引き続き守って下さるようにお祈りします。主は天地を造り、私たちの命も造り、万物を支配しておられますから、私たちを守ることができます。このことを私たちは日々感じていますから、日曜日ごとに教会に集って神様を賛美して礼拝します。

 続いて3節と4節、

121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
121:4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。

 3節で詩人は「私の足をよろけさせず、私を守る方」ではなくて、「あなたの足をよろけさせず、あなたを守る方」がまどろむこともないと歌っています。ここからは、詩人が一人で神殿がある都に上っているのでなく、多くの人々と一緒に連れ立って都を目指している様子が見て取れます。一人で神殿に礼拝することも喜びですが、多くの人々と喜びを共有できることは、もっと大きな喜びなのですね。私たちが礼拝で感じる喜びと同じですね。

 少し飛ばして7節と8節、

121:7 はすべての災いからあなたを守り あなたのたましい(魂)を守られる。
121:8 はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえ(永遠)までも守られる。

 主は万物を造って万物を支配しているお方ですから、すべての災いから私たちを守ることができます。じゃあ、今の新型コロナウイルスの災いからも守ってくれるはずだから、すぐに終息させてくれないのはおかしいじゃないか、主はどうして静観しているのか、と思う方もいるかもしれません。

 このことについて、小さな私たちには主の大きな御心は計り知れませんが、一つ言えることは7節にあるように主は私たちの「たましい(魂)」を守って下さるということです。主は私たちの肉体を守るよりも魂を守ることを優先します。それは悪霊(悪魔)の攻撃によって魂がダメージを受けて天の御国(天国)に行けなくなることほど、恐ろしい災いはないからです。肉体がダメージを受けても魂がダメージを受けなければ天の御国に入ることができます。しかし、魂が回復不可能なまでにダメージを受けて悪化してしまうと天の御国には決して入れません。

 ですから私たちは、魂を守って下さっている主に感謝して礼拝します。

 今年の1月1日に私は午前の元旦礼拝をこの教会で終えた後で、午後は日本基督教団の駿府教会で持たれた市内のクリスチャンの合同新年礼拝に出席しました。駿府教会は静岡鉄道の日吉町の駅の近くにありますから、私は田町から自転車で駿府公園の近くを通って行きました。そして途中、多くの人々が続々と浅間神社を目指して歩いて行くのを見ました。皆さん初詣に行くのですね。詩篇の<都上りの歌>で旧約の時代の民が連れ立ってエルサレムの神殿に上って行くように、静岡の市民も続々と浅間神社を目指します。その様子を見ていて、教会にもこれくらい続々と人が押し寄せてくれると良いなあと思ったものでした。

 私も41歳の時に高津教会に導かれる前までは毎年欠かさず初詣のお参りを神社でしていましたから、続々と神社に押し寄せる市民の気持ちはよく分かります。災いから守られて、一年を健康に過ごすことができるように祈ります。その他にも特別な祈りの課題があれば、そのことも祈ります。つまり教会で祈るのと表面的にはあまり変わりはありません。

 しかし、神社で祈るのと教会で主に祈るのとは大きな違いがあります。それは、神社で祈る人の多くはその神社に祀られている神がどんな神かを深く知りませんから、祀ってある神に向かって祈るというよりは、漠然とした対象に祈ります。そして自分が神によって造られたという意識を持たずに祈ります。

 一方、主は天地を創造し、動植物を造り、私たち人間をお造りになったことが聖書の冒頭の創世記1章に記されています。ですから教会では祈る対象の神様がどのようなお方かを、聖書を通してしっかりと知った上で祈っています。神である主は万物を創造し、万物を支配して私たちの命を造った方ですから、私たちの魂を守ることができます。私たちの肉体はダメージを受けることもあるかもしれませんが、主に守られているなら私たちの魂までもがダメージを受けることは決してありません。

 明日は9月11日で、19年前の2001年に9.11の同時多発テロが起きた日です。たくさんの乗客が乗ったジェット機を乗っ取って建物に突っ込むようなテロ行為は、魂が悪霊に乗っ取られた者しかできない残虐なことです。悪霊による魂への攻撃は、これほど深刻なダメージを魂に与えます。そして、これほど大きくはないにしても、私たちは全員、悪霊からの攻撃を大なり小なり受けています。ですから私たちは、主に魂を守っていただかなければなりません。

 詩篇に戻りましょう。122篇の6節、

122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 私たちも静岡の平和のために祈りたいと思います。「静岡を愛する人々が安らかであるように」と祈りたいと思います。主は私たちの魂を守って下さいますから、私たちは安らかでいられます。たとえ肉体は危険にさらされたとしても魂は守られますから、私たちには平和な心が与えられます。続いて7節、

122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」

 静岡の街の内に平和があるように、それぞれの家庭の内が平穏であるように祈りたいと思います。8節、

122:8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」


 主は魂を守って下さるお方ですから、私たちの心の内を守ることができます。心が悪霊の攻撃によって深刻なダメージを受けないように守られること、そうして心の内に平安を得ることが、最も大切なことではないでしょうか。

122:9 私たちの神の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

 明日の9.11の同時多発テロの日を前にして、私たちは改めて、神様が私たちの魂を守っていて下さっていることに感謝したいと思います。また「さあ 主の家に行こう」と誘い合って礼拝をささげる喜びが与えられていることにも感謝したいと思います。

 そうして平和のために祈って行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

詩篇121:7 はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。
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聖霊の礼服が必要な天の御国(2020.9.6 礼拝)

2020-09-07 07:44:25 | 礼拝メッセージ
2020年9月6日礼拝メッセージ
『聖霊の礼服が必要な天の御国』
【Ⅰヨハネ1:7(招詞)、マタイ13:1~16(交読)、マタイ22:1~14(朗読)】

はじめに
 クリスチャンではない方から良く言われることの一つに、「神様が愛に溢れている方であるなら、どうして全員が天国に行けるようにしないのか。イエスを信じなければ天国に行けないのなら、それは愛の神じゃないんじゃないの?」というのがありますね。皆さんの中にも、お知り合いからそう言われたことがある方も、いらっしゃるのではないでしょうか。私も複数の友人・知人から言われたことがあります。

 それに対して以前の私は教わったことの受け売りで答えていました。「神様は人に自由を与えているんです。神様が人の自由を奪って強制的に天国に入れるなら、それは<愛>ではありません」、と答えていました。しかし、そう答えながら、これは自分自身の言葉になっていないなと感じていました。教わったことを受け売りで言っているだけですから当然です。相手にも理解してもらえません。

 それが最近、このことは<天の御国>の「聖さ」に関係していると示されています。M先生から「もっとウェスレーを勉強するように」というアドバイスをいただき、また7月26日には藤本満先生が聖会で聖めのメッセージを語って下さり、聖めについて改めて考えるようになりました。そうした中で、神様の側では全員を救いたいと願って聖霊の礼服を与えようとしているけれども、人の側で拒んでいることが見えるようになりました。聖所である<天の御国>の聖さを汚さないことだけは神様としては譲れない一線ですから、神様は人に聖霊の礼服を与えようとしています。しかし拒否する人たちがいます。

 きょうはこのことを、次の四つのパートで話して行きます。

 ①聖書の中で透けて見えている天の御国
 ②聖霊を受けないとハッキリ見えない御国
 ③聖所であるがゆえに聖霊の礼服が必要
 ④地上の礼拝は天の結婚披露宴の予行演習

①聖書の中で透けて見えている天の御国
 <天の御国>は聖い場所、すなわち聖所ですから、入るには聖霊の礼服が必要です。このメッセージが与えられたのは、先月の8月にEテレの「100分de名著」で紹介されたファンタジー小説の『モモ』について思いを巡らしていた時でした。ミヒャエル・エンデ作のこの小説の中で、主人公のモモは天国のような場所の<時間の国>に行きます。この天国のような場所には神様のようなマイスター・ホラという人がいます。ですから、『モモ』と聖書は一見すると良く似ています。しかし、実はとても大きな違いがあります。それは、『モモ』の<時間の国>の入口はとても分かりづらい場所にあり、しかも、こちら側とあちら側との境い目には目に見えないバリアーがあって、あちら側の<時間の国>に近づくことは容易ではありません。

 一方、聖所である<天の御国>と地上の私たちの間にバリアーはありません。旧約の時代には私たちの側と聖所の間には垂れ幕があって仕切られていましたが、イエス様が十字架で死なれた時にこの垂れ幕は真っ二つに裂けましたから、バリアーはなくなりました。それゆえ、<天の御国>の様子は透けて見えています。ですからクリスチャンの私たちは、地上にいながらにして、聖所である<天の御国>に大胆に近づくことができます。ヘブル人への手紙4章16節に書いてある通りです(週報p.2)。

ヘブル 4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 私たちの<天の御国>は遠い所にあるのではありません。近づくことを邪魔するバリアーもありません。<天の御国>は私たちのすぐ近くにあって透けて見えています。これが私たちの<天の御国>の大きな特徴であると言えるでしょう。
 
②聖霊を受けないとハッキリ見えない御国
 たった今、私たちの<天の御国>は透けて見えていると話しました。しかし、実は透けて見えているのは聖霊を受けたクリスチャンだけで、聖霊を受けていないと<天の御国>の様子は見えて来ません。不思議なことですが、これは私たちが実際に経験していることですね。まだイエス様を信じていなかった頃、聖書に何が書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。それがイエス様を信じてからは少しずつ段々と分かるようになります。同じ聖書なのにイエス様を信じる前は分からず、イエス様を信じると分かるようになります。

 その意味では聖書も『モモ』と同じなのかもしれません。『モモ』では、こちら側とあちら側の<時間の国>との間にはバリアーがあります。聖書も、イエス様を信じていない間はこちら側とあちら側の<天の御国>との間にはバリアーがあります。

 さて、イエス様を信じないと聖書が分からないのは、イエス様を信じない者には奥義を知ることが許されていないからです。きょうの聖書交読では、マタイの福音書13章の「種蒔きの例え」の記事の前半部分を読みました。マタイ13章に戻りましょう(新約p.25)。

 ここでは道端に落ちた種、岩地に落ちた種、茨の間に落ちた種、また良い地に落ちた種がどうなったかが書かれています。良い地に落ちた種は実を結んで何十倍、或いは百倍にもなりましたが、それ以外は実を結びませんでした。

 そしてイエス様がこの例えを話すと、弟子たちは10節でイエス様に聞きました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか?」するとイエス様は答えました。

13:11 「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。

 イエス様を信じない者には天の奥義を知ることが許されていません。ですからイエス様を信じる前の私たちは聖書を読んでも、何が書いてあるのかさっぱり分かりません。これはイザヤ書で預言されていたことでした。少し飛ばして14節と15節、

13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』

 そうしてイエス様はおっしゃいました。16節、

13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

 21世紀の私たちもイエス様を信じて聖霊が与えられているなら、奥義を知ることが許されていますから幸いです。

 さて、きょうのメッセージの冒頭で、「神様が愛に溢れた方なら、全ての人が天国に行けるようにすべきではないか」、とクリスチャンではない方からよく言われるという話をしました。今の種蒔きの例えに当てはめるなら、「神様が愛に溢れた方であるなら、全ての人に<天の御国>の奥義を知らせるべきではないか」、ということになります。次にこのことを考えましょう。

③聖所であるがゆえに聖霊の礼服が必要
 <天の御国>の奥義を知ることが許されていることは、<天の御国>に入ることが許されているのと同じことです。そうすると、やはり誰でも無条件で<天の御国>に行けるようにするというわけにはいきません。いくら神様が愛に溢れたお方であってもフリーパスで全ての人を<天の御国>に入れることはしないでしょう。なぜなら<天の御国>は最高に聖い「聖所」だからです。ですから罪人である私たちは聖められなければ<天の御国>に入ることはできません。神様に背いていた私たちの罪は自分で償って神様に赦していただけるほど軽いものではありません。

 例えば旧約聖書の最後の書であるマラキ書1章2節には、このように書かれています。
 
マラキ1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 主はイスラエルの民を愛しておられます。それなのに民の側は全く分かっておらず、「どのように愛して下さったのですか?」などと聞き返しています。何という不信仰でしょうか。これが八百万の神々の話なら分からないでもありません。例えばサッカーの神様が野球の選手に「わたしはあなたがたを愛している」と言っても、野球選手の側は???(はてな)でしょう。しかし、私たちの神である主は万物を創造して支配しているお方ですから、神様は私たちの一人一人を造り、私たちの何から何まで全てをご存知であり、その上で私たちを守って下さっています。万物の創造主である神様は私たちを愛し、私たちのすべてに関係して下さっています。

 この神様の愛を知らずに神様に背いて自分勝手にやりたい放題をすることは重大な罪です。神様によって滅ぼされても少しもおかしくないほどに重い罪ですが、憐み深い神様はひとり子のイエス様に私の罪を負わせて十字架に付けて私の罪を赦して下さり、聖めて下さり、<天の御国>に入ることを許して下さいました。このことをヘブル書は10章の19節と20節で次のように記しています(週報p.2)。

ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 私たちはイエス様が十字架で流した血によって罪が赦され、その十字架のイエス様を信じるなら聖霊を受けて、聖霊が私たちを聖めて下さいます。そうして初めて聖所である<天の御国>に入ることが許されます。罪にまみれたままでは決して<天の御国>に入れていただくことはできません。ですから私たちが<天の御国>に入るためには、聖霊の礼服を着る必要があります。

④地上の礼拝は天の結婚披露宴の予行演習
 きょうの聖書箇所のマタイ22章にこの「礼服」という言葉が出て来ます。この「礼服」とは聖霊のことであると読み取れます。1節から見て行きましょう

22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。

 この例え話も他の例え話と同じように聖霊を受けていない者には分かりづらい話ですが、聖霊を受けているなら理解できます。

22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。

 この箇所は旧約の時代のイスラエルの民が神様にくり返し背いていた様子が見て取れると思います。王が遣わしたしもべとは、エリヤやイザヤ、エレミヤなどの預言者たちです。4節から6節、

22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。

 イスラエル人たちは預言者たちを迫害して侮辱して、殺してしまいました。特に南王国のマナセ王は残虐で、多くの血が流されたことが旧約聖書に記されています。7節と8節、

22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。

 イスラエルの北王国もまた南王国も、不信仰のゆえに主を怒らせて、主が送った外国軍によって滅ぼされてしまいました。続いて9節と10節、

22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。

 ここから新約の時代に入ったのでしょう。新約の時代にはイエス・キリストを信じるなら、誰でも聖霊を受けて<天の御国>に入ることが許されます。しかし11節、

22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。

 どういうわけか、聖霊を受けていない者が紛れ込んでいたようです。新約の時代に入って多くの人々がイエス・キリストを信じましたが、中には信じない人もいました。特にユダヤ人たちの多くは信じようとしませんでした。こういう人は神様がせっかく礼服を与えようとしているのに拒否している人です。神様は当然、怒ります。13節と14節、

22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

 <天の御国>は聖所ですから、誰でもフリーパスで入れるわけではないのですね。聖霊の礼服を着て聖められた者でなければ聖所に入ることはできません。

 もちろん罪深い私たちは地上で生きている限りは完全に聖められることは難しいでしょう。地上生涯を終えて天に召される時には完全に聖められますが、地上にいる間は様々な誘惑があって困難が伴います。しかし、だからと言って、どうせ完全に聖められないなら地上での信仰生活は真似ごと程度でいい加減に済ませておけば良いということにはならないでしょう。地上の礼拝は天の結婚披露宴の予行演習とも言えます。ですから、私たちは日曜日に教会に集って礼拝をささげて、召される日に備えたいと思います。今年天に召された横山兄と萩原兄も召される少し前まで礼拝出席に励み、備えておられました。兄弟たちがこのような善き証しを立てて下さったことは本当に感謝なことでした。

 きょうの招きの詞の第一ヨハネ1章7節をもう一度お読みします。

1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 私たちが光の中を歩み、良い交わりを持つなら、イエス様は私たちを洗礼を受けた頃よりもさらに聖めて下さいます。そうして聖められれば聖められるほど、<天の御国>が以前よりも、もっとハッキリと見えるようになります。奥義を知ることが許されたことで、聖書をより深く理解できるようになり、<天の御国>が透けて見えるようになります。聖霊を受ける前はバリアーがあって見えなかった<天の御国>が、良く見えるようになります。そうすれば地上にいながらにして<天の御国>に入ったも同然ですから、深い平安が得られます。

 死んで初めて<天の御国>を見ることができるのではありません。聖霊の礼服を着て礼拝出席に励み、聖められて行くなら<天の御国>が見えるようになりますから、必ず御国に入れるという確信を持つことができます。

 私たちは毎週礼拝で主の祈りをささげて、「御国を来たらせたまえ」すなわち「御国が来ますように」と祈ります。しかし実はもう御国は半分は来ているのですね。毎週の礼拝で結婚披露宴の予行演習をして、私たちは毎週<天の御国>を確認したいと思います。

おわりに
 新型コロナウイルスの感染拡大で、大都市圏の教会の多くは今、予行演習の礼拝がオンラインでしかできないでいます。幸いにも私たちはこうして集う形での礼拝ができています。しかし安全のために礼拝出席を控えている方々もおられます。或いはまた、クリスマスの季節に近隣の方々を招待する働きも残念ながらできません。神様が早く今のコロナの災いを終息させて下さり、多くの方々を結婚披露宴の予行演習にお招きできるようにしていただきたいと思います。

 すべての人はやがては地上生涯を終えます。ですから、すべての方が<天の御国>での本物の結婚披露宴に門前払いされずに出席できるよう願い、祈りつつ、礼拝に励みたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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成長させたのは神です(2020.9.3 祈り会)

2020-09-04 16:04:23 | 祈り会メッセージ
2020年9月3日祈り会メッセージ
『成長させたのは神です』
【Ⅰコリント3:6~9、出エジプト18章】

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 ちょうど4ヵ月前の5月3日の日曜日の午後に、私は教会のフェンスの下に朝顔の種を、そして通りに近い方のトイレの窓の下にコスモスの種を蒔きました。1週間ぐらいで芽が出て、5月の間はまだまだ2~3cmぐらいの高さでしたが、6月から8月に掛けてグングン成長しました。今コスモスは背丈がバスケットボールやバレーボールの選手ぐらいあります。肥料を月に1回与えましたが、あとは朝晩欠かさず水やりをしたぐらいのことしかしていませんから、正に成長させたのは神様だなと感じています。

 きょう、この第一コリント3章の御言葉に目を留めることにしたのは、この祈り会に集っている私たち自身の成長ももちろん大切ですが、それ以上に若い人たちの成長が必要だと感じているからです。みことばにあるように、成長させて下さるのは神様ですから、神様が若い人たちを成長させて下さるように、祈らなければならないと思わされています。

 では、成長するってどういうことでしょうか?そのことについて思いを巡らしていて示されたことを、きょうは分かち合いたいと思います。祈りに成長すること、聖書理解の面で成長することなど個人の成長も不可欠ですが、きょうは教会の成長という観点から考えてみたいと思います。

 教会の成長にとって必要なことは、教会員の一人一人が神様の御声に耳を傾けることで神様が自分に与えている役割を知り、それを証ししつつご奉仕に当ることではないかと思います。証ししつつ、ご奉仕に当る、この組み合わせが重要ではないかと思わされています。

 去年、Y兄が何度か礼拝の後、そしてクリスマスの折に証しをして下さいましたね。そうして教会運営に関して様々な提言をして下さいました。また、H兄は言葉による証しは少なかったですが、会堂の先頭に立つ背中が良い証しとなっていました。ご高齢になってからは教会の奉仕からは退きましたが、礼拝の時に先頭に立つこと自体が証しになり、私たちの良い励みになりました。
 N姉も、存在自体が良い証しとなってらっしゃいますね。それだけでなく、教会学校では言葉による良い証しもして下さっていますから、感謝です。ご奉仕面でも、今年の聖句を書いて下さっています。相当なご負担になっているようですから、来年の聖句はどなたかに引き継いでいただけると良いなと思っています。

 さてしかし、存在自体が証しというN姉やH兄の域に達するには長い歳月が必要です。ですから私たち、そして若い人たちに必要とされる証しは、やはり御言葉の証しだろうと思います。どんな御言葉を与えられたから、私はこういう奉仕をしたいという、御言葉の証しをしつつ教会の奉仕に当るというのが、教会の成長という観点から見た成長ではないかと今回、思わされています。

 この点で私がとても尊敬しているのが、N兄です。他教会の方のことで恐縮ですが、少しN兄について話させていただきます。N兄は牧師から重要な仕事を頼まれた時にすぐに返事をしないで、お祈りをして考える期間をもらったそうです。そうして祈っていて与えられた御言葉が、出エジプト18章だそうです。出エジプト記18章をご一緒に見たいと思います(旧約p.131)。

 ここには、モーセのしゅうとのイテロがモーセにアドバイスしたことが書かれています。まず18章1節にイテロの名前が出て来て、5節に荒野にいるモーセの所にやって来たことが書かれています。その翌日、13節にあるようにモーセは民をさばくために座に着きました。そして、この様子を見ていたイテロはモーセに言います。17節、

「あなたがしていることは良くありません」

 モーセは何から何まで全部ひとりでやっていましたから、それは良くないとイテロは言いました。そうして21節にあるように、モーセに千人の長、百人の長などを立てるように言いました。そして22節、

18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。

 そうしてモーセはイテロの助言を聞いて、モーセの負担は大幅に軽減されました。この出エジプト18章の御言葉を与えられたN兄は、モーセを助けた千人の長、百人の長のように自分も忙しい牧師を助けようと思い、教会の重責を担うことにしたそうです。

 この重責を務めた後、N兄は様々な事情で都会を離れて地方で暮らしたいと考えて、地方に引っ越して、引っ越し先の地方の教会でも牧師を助ける善い働きをしました。それはやはり、事あるごとに自分は出エジプト18章の御言葉をいただいているという善い証しがあったからだと思います。御言葉の証しが無かったら、東京から地方に引っ越してすぐに中心的な働きをすることは絶対にできなかっただろうなと思います。御言葉の証しがあったから、皆が納得してN兄に信頼を寄せました。

 第一コリント3章に戻ります。6節と7節、

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 4節を見ると、コリントの教会では「私はパウロにつく」、「私はアポロに」という人々がいました。しかし、成長させたのは神です。静岡教会でも他教団の教会で洗礼を受けた方もいれば、おなじ静岡教会でも導男先生、伊作先生、高桑先生、尾澤先生、河村先生など違う先生方から洗礼を受けています。しかし、成長させて下さるのは神様です。そして8節と9節、

3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 皆、違う先生方から洗礼を受けましたが、私たちは一つになって働きます。それは私たちを成長させて下さったのは神様であり、私たちは神様の御声を聞きながら教会生活の道を歩んでいるからです。ですから御言葉の証しをしつつ奉仕するのは、とても大切なことであると改めて思わされています。

 この祈り会に集っている皆さんは交代で司会を務めていますから、その際にそれぞれ証しをして下さっています。若い方々にも、それができるように成長してもらいたいと思います。単に成長するように神様に祈るのでなく、御言葉の証しをしつつ奉仕ができるよう成長して欲しいと願います。神様が若い方々をそのように育てて下さるよう、お祈りしたいと思います。

 一言お祈りいたします。

「成長させたのは神です。」
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