2020年9月27日礼拝メッセージ
『七回へりくだって聖くなる』
【創世記33:3~4、列王記第二5:8~14】
はじめに
先週の礼拝メッセージでは、年老いた晩年のヤコブが主に「ヤコブよ、ヤコブよ」と語り掛けられて、「はい、ここにおります」と答えた場面をご一緒に見ました。この時、主はヤコブに対して「エジプトに下ることを恐れるな」(創世記46:3)と仰せられました。そうしてヤコブはエジプトに行って、ヨセフと再会しました。創世記46:29(週報p.2)にその場面があります。
46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
父と子の感動の再会の場面ですね。創世記のヤコブの記事には感動的な場面がいくつかあり、この父と子の再会の場面は最も感動的な場面と言えるかもしれません。が、もう一つ、これに負けず劣らず感動的な場面と私が感じているのが、きょうの招きの詞に引用した、兄と弟の再会の場面です。創世記33章3~4節をもう一度お読みします。
33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
これはヤコブがペヌエルで神様と格闘して祝福を勝ち取ったすぐ後のことです。神様と格闘する前のヤコブは四百人を引き連れた兄のエサウが自分たちを襲うのではないかと恐れていました。それで当初の作戦では贈り物を持った者たちを先頭にして、自分は最後尾を行く予定でした。しかし神様から祝福されたことで恐れが消えたのでしょう、ヤコブは一行の先頭に立って兄のエソウがいる所に向かいました。
その時ヤコブは七回地にひれ伏したと3節にあります。日本的な言葉を使うなら七回土下座したということです。私は「七回」という回数が重要な鍵であると感じています。一回や二回ではなく七回が重要であると考えます。このことを分かち合うために、きょうは先ずアラムの将軍のナアマンがヨルダン川に七回身を浸した記事を先に見ておきたいと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。
①心に鎧を着けていたナアマン
②心の鎧を脱ぐと浸みて来る神様の深い愛
③一回だけでは聖くなれない
④次の礼拝に向けて七朝(七晩)へりくだる
①心に鎧を着けていたナアマン
聖書朗読は列王記5章8節から読んでいただきました。8節、
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
この8節の前に何があったかを簡単に見ておきましょう。アラムの軍の長のナアマンはツァラアトに冒されていました。この病気をイスラエルの預言者なら治せるであろうという話を聞いて、ナアマンはアラムの王の手紙を携えてイスラエルの王の所に行きました。しかし7節、
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
アラムとイスラエルの間ではかつて戦いがあり、両国の関係は良くありませんでした。また、北王国の王たちは伝統的に不信仰な王ばかりで、エリシャのような預言者は目障りな存在でした。それでイスラエルの王は機嫌を悪くしたのでしょう。そんな王にエリシャは8節で、「その男を私のところによこしてください」と言いましたから、ナアマンはエリシャの家にやって来ました。8節、
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
ナアマンは戦車でやって来たとあります。ここから、ナアマンは軍人としてのプライドが非常に高い人物であったことが分かります。ナアマンは軍人のプライドという鎧を心にしっかりと着けていました。続いて10節、
5:10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」
エリシャは出て来ないで代わりに使いの者が出て来ましたから、ナアマンのプライドは激しく傷付けられました。しかもヨルダン川に入るようにということです。11節と12節、
5:11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。
ナアマンが激怒したのは無理もないことだと思います。ナアマンはアラムから遠路はるばるイスラエルにやって来ましたが、最初に会ったイスラエルの王に相手にされませんでした。そして次にやって来たエリシャの家ではエリシャに会うことができませんでした。プライドの高いナアマンが怒るのは当然です。しかし13節、
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
有能な将軍には有能な部下がいるものなのですね。部下は、ナアマンにヨルダン川に入るように説得しました。
②心の鎧を脱ぐと浸みて来る神様の深い愛
それゆえナアマンは部下の言うことを聞いてヨルダン川に入ることにしました。しかし、最初のうちは不平たらたらで、決して納得していたわけではないと思います。
「何でこのワシが、裸になってヨルダン川に入らなければならないのだ。ワシは将軍じゃぞ。」
こんな感じでしょうか。しかし、裸になって川に入ったことで心に変化が生じ始めます。何重にも着こんでいた心の鎧を一つ脱いで、心が少しだけ身軽になった気がしました。
「何だ、これは。何だか分からないけど、ちょっと気持ちが良いぞ」
と思ったかもしれません。ヨルダンの水はアラムのアマナやパルパルのようにきれいでなく、入るのは気持ちが悪かったかもしれません。それが何故か気持ち良く感じました。意地を張っていると疲れますが、意地を張ることを止めた時に、ふと感じる気持ち良さ、そんな感じでしょう。
そうして2回目からはナアマンは自ら進んで川に入るようになりました。そして入れば入るほど心の鎧が取り去れて行き、心が軽くなるのを感じて行きます。そうしてナアマンは次第に神様を感じるようになり、さらには神様の愛を感じるようになります。
人が心に鎧を着けるのは、自分で自分を守ろうとするからです。しかし神様が自分を守ってくれていると気付くなら、鎧を着ける必要がなくなります。ダビデが巨人のゴリアテと対戦した時、ダビデはサウルが与えた鎧を着けずに戦いの場に出て行きました。ダビデは主が守って下さると確信していましたから、彼に鎧は必要ありませんでした。
プライドが高かったナアマンは自分を守るために、何重にも心の鎧を着けていました。その心の鎧を脱ぐように神の人のエリシャは言っていたのですね。
そうして心の鎧を脱いだナアマンはヨルダン川の水の中で神様と対話するようになり、神様にへりくだるようになったことでしょう。そうするとヨルダン川の水に浸かることが、とても気持ち良く感じるようになります。聖書に戻ります。14節、
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
言うまでもありませんが、ナアマンの体が幼子のようになってきよくなったのは、ヨルダンの水が薬のように効いたからではありません。プライドの鎧を何重にも心に着けて、神様も信じないでいたナアマンが心の鎧を脱ぎ、神様に対してへりくだったから、神様がきよくして下さったのですね。ナアマンは神様によって心と体の両方がきよめられました。
③一回だけでは聖くなれない
私たちの心に着いている罪はとても分厚いものですから、一度や二度へりくだったぐらいで簡単にきよめられるようなものではないのでしょう。ナアマンも七回へりくだってようやくきよめられました。
この説教を準備していて私は12年前に勤めていた大学を辞めて神学生になった時に、何度もへりくだらされる経験をしたことを思い出しました。私自身は大学教員というプライドを持っているという自覚はありませんでしたが、実はかなり分厚いプライドの鎧を着込んでいたことが神学院で寮生活をするうちに思い知らされて、その度に鎧を脱ぐことを強いられました。
神学院に入ったばかりの頃、M先生とこんな会話をしたことを覚えています。神学院教会の奉仕で墓前集会に行った時だったと思います。神学院の中では先生と雑談をする機会などありませんでしたが、郊外の墓地へ行ったことで雑談できる状況だったのでしょう。
M先生は私に言いました。「神学院での生活は大変でしょう?」確かに大変でしたが、私は答えました。「大丈夫です。これまでいろいろな経験をしていますから」
それまで本当にいろいろ経験していました。特に専門を理工系の研究から文系の日本語教育に変えた時は大変でした。そういう経験をしていますから、神学院での生活も多少の苦労はあっても大丈夫だろうと思っていました。
するとM先生は言いました。
「神学院では、そういう経験が邪魔をすることもあるんだよ」
この言葉に私はムッとして、M先生のことを、何て嫌なことを言う人だろうと思いました。もちろんそれは嫌な言葉ではなく、親切な助言であったことが後になって分かりましたが、とにかくその時はムッとしました。自分の大学教員としての経験を否定されたからです。まるで軍人としてのプライドを傷つけられて激怒したナアマンのようです。
ナアマンとしてはアラムからイスラエルまで遠路はるばる自分のほうから出向いたというだけで、十分にへりくだっているつもりだったでしょう。しかし、エリシャの家に戦車で乗り付けるほど軍人としてのプライドをまだ持っていました。
私も神学院への入学が決まり、自宅のマンションを売却して多くの物を処分して少しの荷物で神学院の男子寮に入った時、大半のプライドを脱ぎ捨てて来たつもりになっていました。しかし、過去の自分の頑張った経験を誇りに思って「大丈夫です」と言った時に、M先生に「神学院ではそういう経験が邪魔をすることもあるんだよ」と言われてムッとしたということは、まだまだプライドの厚い鎧を着けていたということです。
主はそんな私のプライドを容赦なく何度も打ち砕いて下さり、何度もへりくだることを教えて下さいました。しかし、二度や三度打ち砕かれても、プライドの鎧はそんなには簡単に脱げるものではありません。ナアマンも七回ヨルダン川に身を浸すまでは体がきよめられませんでした。
今このメッセージを聞いてらっしゃる皆さんの中にはもしかしたら、自分にはそんなプライドは無いと思ってらっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、プライドが全く無い人などいないんだろうと思います。どんな人でも悔しかったり、みじめに思ったり、腹を立てたりすることがあるでしょう。それはプライドがあるから悔しかったり、みじめに思ったり、怒ったりするんだと思います。しかし、そんなマイナスの感情が心の中に湧いた時に神様のことを思うなら、神様がそれらを取り払って下さいます。ナアマンにもエリシャに軽く扱われた悔しさと腹立たしさ、そして裸になって水に入るみじめさが最初はありました。しかし、へりくだって水に入ることで神様がプライドを取り去って下さり、きよくして下さいました。
きょうの招きの詞のヤコブに戻りたいと思います。創世記33章3節、
33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
ヤコブは神様に祝福されて恐れが無くなっていました。しかし、まだまだプライドはしっかりと持っていたかもしれません。神様と戦って祝福を勝ち取ったというプライド、伯父のラバンの下で苦労して多くの財産を築いたというプライドなどなどです。そういうプライドも、七回地にひれ伏していく間に取り去られていきました。地にひれ伏すということは、エサウに対してへりくだると同時に、神様に対してもへりくだることでした。そうしてヤコブの心はナアマンと同じようにきよめられていきました。33章4節、
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
兄のエサウの目にも弟のヤコブのひれ伏す姿がただのパフォーマンスではなくて、純粋にへりくだっている姿に映ったのだと思います。この兄弟の再会の場面は本当に感動的だと思います。
④次の礼拝に向けて七朝(七晩)へりくだる
最後に、イエス様ご自身がへりくだったお方であったことを分かち合いたいと思います。私たちは毎週日曜日にここに集い、十字架のイエスさまを仰いで礼拝を捧げます。その際には私たち自身もへりくだった者として整えられて礼拝に臨みたいと思います。
イエス様は最後の晩餐でへりくだり、弟子たちの足を洗ったことがヨハネの福音書13章に記されています(週報p.2)。ヨハネ13章3節と4節、
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
そしてピリピ人への手紙2章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。6節から8節、
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
イエス様は裸にされて十字架に付けられました。ナアマンも裸になりましたが、周囲にいたのは部下など身内の者だけでした。しかしイエス様は過越の祭りでエルサレムに集まって来ていた多くの人々が見ている前で裸にされて十字架に付けられて、さらし者にされました。イエス様は神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
私たちの罪を赦すためにへりくだって十字架に掛かって下さったこのイエスさまを覚えて私たちは礼拝を捧げます。ですから私たちもまたへりくだって、整えられて礼拝に臨みたいと思います。
そのために私たちは礼拝が終わった翌日の月曜日の朝から次の礼拝の日曜日の朝まで七朝掛けてへりくだって備えます。それぐらいの気持ちで礼拝に臨みたいと思います。人によっては神様と向き合う時間帯が朝ではなく晩だという方もおられるでしょう。その場合は七晩掛けて備えます。
少し大げさに感じるかもしれませんが、これぐらいしないと十字架のイエス様を覚えて礼拝する者としてふさわしく整えられないのだろうと思います。もちろん私自身、そんなにしっかりと整えられているわけではありません。礼拝の時が近づけば近づくほど、まだ準備が出来ていなくて焦ってバタバタしてしまうことが良くあります。しかし、心掛けとしては七朝掛けて整えられて礼拝に臨む者でありたいと思います。
十字架のイエス様を覚えつつ、七回地にひれ伏したヤコブを思い、また七回ヨルダン川に身を浸して聖くされたナアマンを思い、私たちも毎週七回へりくだって聖くされて、礼拝に臨ませていただきたいと思います。
このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。