インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

5月1日礼拝プログラム

2016-04-29 05:40:49 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月1日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第1聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  父の神の真実         40
 交  読  詩篇51:1~13
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主イエスの名をほめたたえよ(2回) 42
 讃 美 ③  ガリラヤの風かおる丘で
 聖  書  Ⅰ歴代誌28:19~21
 説  教  『共におられる主が完成させて下さる』 小島牧師
 讃 美 ④  主よ、おわりまで      459
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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《時計の支配》からの脱出

2016-04-27 22:16:04 | 祈り会メッセージ
2016年4月27日祈り会メッセージ
『《時計の支配》からの脱出』
【ヨハネ4:3~7】

はじめに
 きょうは、また別の切り口から聖書の世界の独特の時間について話したいと思います。
 きょうのテーマは、「《時計の支配》からの脱出」ということについてです。
 私は3年前の7月の千本プラザでの特別伝道会で、『真の時間と人の時間』というタイトルで話をしました。そして、私たちが日常的に感じている時間と聖書に書かれている神の時間について考える機会を持ちました。
 私はヨハネの福音書の独特の時間の世界を知って以来、私たちの世界に平和が無いのは、私たちが日常的に感じている「人の時間」に縛られているからだと確信しています。この確信はずっと変わることがありません。それで、何とかして多くの人に日常の時間の縛りから解放されてヨハネの福音書の独特の時間を知っていただきたいと、あれこれ試行錯誤を重ねて来ました。そして、「時間」について説明することに、いつも難しさを感じています。どう説明したら良いのか、いつも悩んでいます。
 すると最近になって、「時間」を「時計」に置き換えたら、わかりやすくなるのではないかというアイデアが与えられました。そうして少し思いを巡らせてみたところ、いろいろ面白いことがわかって来ました。それは、私たちは「人の時間」に縛られる以前に、時計に縛られ、時計に支配されているのではないかということです。きょうは、この《時計の支配》ということについて話したいと思います。

《時計の支配》とは?
 私たちが、どんな風に時計に支配されているのか、先ずは身近な、この会堂の壁に掛かっている時計のことから話を始めます。この時計は遅れがちです。それで私はこの時計の遅れが1分以上になった時には直すようにしていますが、たまに 気が付かずにいて2分ぐらい遅れている時もあります。そういうわけで私たちの教会の集会は、だいたい少し遅れて始まることになります。このように私たちは、この遅れ気味の時計の中で集会の営みを毎週行っていますから、私たちの教会はこの時計に支配されています。
 では、この教会の時計を最新式の電波時計にして、1秒のくるいもない正確な時計に置き換えたら私たちは時計の支配から脱することができるでしょうか。たとえば私の出身教会の高津教会の壁には電波時計が掛かっています。私たちの教会でも電波時計にすれば時計に支配されなくなるでしょうか。残念ながら、そういうわけには行きません。依然として私たちは時計に支配され続けます。
 そのことを考えるために、そもそも時刻がどのようにして決められたかを考えたいと思います。ご承知のように、時刻は天体の動きによって決められました。夜の星は地球の自転に伴って日周運動を行います。北半球であれば北極星を中心にして星は動いています。その北極星の方向が北の方向で、その反対側が南の方向になります。そして太陽が南に来た時が昼の正午の時刻になります。私たちが住む沼津では正午になると市役所がスピーカーから音楽を流しますね。では、沼津の正午の音楽が流れた時に太陽がちょうど真南にあるかというと、太陽は既に南を過ぎてしまっています。それは日本では東経135度にある兵庫県の明石市で太陽が南に来た時に正午になるということに決めているからです。そういうわけで、明石市のある東経135度より東にある地域では正午の時刻には太陽は既に南を通過しており、東経135度より西にある地域では、太陽はまだ南に来ていません。
 ですから太陽の位置が示す時刻を本来の時刻とするなら、日本にあるほとんどの時計は本来の時刻を示していません。普段、私たちはそのことを忘れて時計の示す時間の中で生活しているのではないでしょうか。ですから私たちは《時計の支配》の下で生活しています。

人間が作った時計に支配されることの深刻さ
 さて、ここからが大事なのですが、時計は人間が作ったものです。この、人間が作った時計に支配されているうちに、神がこの宇宙のすべてを支配しているのだということが見えにくくなってしまっているのではないでしょうか。神は万物を創造しましたから、空の星も太陽も地球も神が創造しました。そして地球の公転や自転の動きも神様が与えたものです。人間が日時計を使っている間は、太陽の動きによって時刻がわかりますから、神が宇宙を支配していることを意識できていたかもしれません。しかし、やがて機械式の時計が使われるようになり、機械式の時計の時間に支配されるようになってからは、神が宇宙のすべてを支配しているということを忘れがちになってしまったのではないでしょうか。
 そうして《神の支配》の下ではなく《時計の支配》の下で暮らすようになると神の存在が見えにくくなりますから、「神は存在しない」と考える人が増えるようになります。そうして聖書に書いてある神の奇跡を信じない人々も増えて行くことになります。これはとても深刻な問題だと思います。
 ですから私たちは《時計の支配》から脱出しなければなりません。旧約聖書の時代にイスラエルの民はモーセに率いられて《エジプトの支配》から脱出しました。イエスの地上生涯の時代に人類はイエス・キリストの十字架によって《罪の支配》から解放されました。そして、聖霊が注がれるようになった私たちの時代に、私たちは《時計の支配》から脱出しなければなりません。その《時計の支配》からの脱出を導いてくれるのが聖霊です。ヨハネの福音書は、そのことを教えてくれています。
 私たちは《時計の支配》の下にあるのではなく、《神の支配》の下にあることを知らなければなりません。そのためには先ず、太陽の動きが時刻を決めているのだということを再認識する必要があります。しかし、それだけでは足りません。私たちは霊的な世界の時間も知る必要があります。霊的な世界の時間は、太陽の動きのような目に見える時間だけではなく、目に見えない時間も存在します。

聖霊に導かれて《時計の支配》を脱出する
 きょうの聖書箇所のヨハネ4章は、礼拝でも祈祷会でもよく読む箇所ですから、繰り返しになりますが、目に見える人間イエスは、イエスの地上生涯の時代にサマリヤ地方にいました。イエスがスカルというサマリヤの町の井戸のかたわらに腰をおろした時、それは第六時ごろであったと6節にあります。これは正午ごろだということです。
 ヨハネがこうして第六時という時刻を記していますから、この福音書の読者はこのイエスの地上生涯の時代だけに注目してしまいがちですが、いつも話している通り、ここには旧約聖書の時代の北王国の預言者エリヤの時代が重ねられています。そして、使徒の時代のサマリヤ伝道の時代も重ねられています。これらの時代には目には見えない霊的なイエスがいて、イエスの地上生涯の時代の人間イエスと同時に存在しています。
 このような霊的な世界は《時計の支配》の下にあるなら、決して見えないでしょう。モーセの時代の人々が《エジプトの支配》の下にあった時に人々が苦しんでいたように、《時計の支配》の下にある人々も苦しんでいます。しかし、聖霊に導かれて、《時計の支配》を脱出して目には見えない霊的な世界が見えるようになると、心に平安がもたらされます。
 世の中には、このような霊的な世界があることを知らずに様々な不安やストレスで苦しんでいる人々がたくさんいます。私は是非多くの方々に《時計の支配》を脱出して霊的な世界の恵みに与っていただきたいと願っています。

おわりに
 モーセが率いた《エジプトの支配》からの脱出も様々な困難が伴いましたから、《時計の支配》からの脱出も容易なことではないと思います。しかし、イエス・キリストの十字架によって《罪の支配》から解放されていながら《時計の支配》から脱出できていないばかりに、いまだに目に見える世界だけにとどまって苦しんでいる人々が多いことは本当に残念なことだと思います。
 是非、多くの人々に聖霊に導かれて霊的な世界の恵みに与っていただきたいと思います。
 最後にヨハネ4章の13節と14節を交代で読みましょう。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 お祈りいたしましょう。
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御霊により示された仕様書(2016.4.24 礼拝)

2016-04-25 04:11:34 | 礼拝メッセージ
2016年4月24日礼拝メッセージ
『御霊により示された仕様書』
【Ⅰ歴代誌28:9~13】

はじめに
 礼拝メッセージでは、きょうから何回かソロモンの神殿について、主に歴代誌から学ぶことにしたいと思います。
 きょうの箇所は晩年のダビデが息子のソロモンに神殿の仕様書を授けた箇所です。仕様書とは設計図のことと思って良いでしょう。きょうは歴代誌第一28章のこの箇所について学んだ後で、私たちの教会の会堂問題のこれからについても、少し話をしたいと思います。

ソロモンに託された神殿建設
 では、先ずは歴代誌28章を1節から見て行きましょう。この28章の時点では、ダビデは既に王ではなく、王位は息子のソロモンに継承されていました。
 そして28章1節にダビデがイスラエルのすべての司(つかさ)たちをエルサレムに召集したことが書かれています。そしてダビデは司たちに、自分が神殿を建てる志を持っていたことを明かします。2節のダビデのことばをお読みします。ここでダビデの言う、「安息の家」というのが神殿のことです。

「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は【主】の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を建てる志を持っていた。私は建築の用意をした。

しかし、主は神殿の建設をダビデにお許しになりませんでした。3節、

28:3 しかし、神は私に仰せられた。『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』

 このように主は仰せられましたが、先日の礼拝メッセージで話したように、主はダビデに神殿建設を遥かに上回る素晴らしい恵みをお与えになりました。

28:4 けれども、イスラエルの神、【主】は、私の父の全家から私を選び、とこしえにイスラエルを治める王としてくださった。ユダの中から君たる者を選ばれたからである。私の父の家はユダの家に属している。主は私の父の子どもたちのうちで、私を愛し、全イスラエルを治める王としてくださった。
28:5 【主】は私に多くの子どもを授けてくださったが、私のすべての子どもの中から、私の子ソロモンを選び、イスラエルを治める【主】の王座に着けてくださった。

 そして6節、

28:6 そして、私にこう仰せられた。『あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を建てる。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。

 主がこのようにおっしゃってくださっていることはダビデにとっても大変に喜ばしいことであったと思います。主がダビデに与えた王国はダビデ一代限りのものではなくてソロモンにも受け継がれます。主がダビデの子にも祝福を約束して下さっていることは、本当に大きな喜びであったと思います。しかも、その祝福はとこしえに続くと主は仰せられます。7節です。

28:7 もし彼が今日のようにわたしの命令と定めを行おうと堅く決心しているなら、わたしは彼の王位をとこしえまでも確立しよう。』

 そしてダビデはエルサレムに招集した司たちに言いました。

28:8 今、【主】の集会、全イスラエルの前で、私たちの神が聞いてくださるこの所で、あなたがたは、あなたがたの神、【主】の命令をことごとく守り、求めなさい。それは、あなたがたがこの良い地を所有し、あなたがたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるためである。

 こうして、王国はダビデの子孫たちに継承されて行き、それがイエスの父のヨセフまで連なり、イエス・キリストが真の王となられました。そして、この王国は現代にまで継承されて私たちの教会もまた、その一員に加えられています。私たちの教会の会堂建設も、この流れの中にあることを覚えたいと思います。

勇気を出して実行しなさい
 さて、次にダビデはわが子ソロモンに話し掛けました。9節と10節、

28:9 わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。【主】はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
28:10 今、心に留めなさい。【主】は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

 この9節と10節を読む時、私たちは厳粛な気持ちになります。9節に、「全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。」とあります。私たちはこのような心で主に仕えたいと思います。そして、もう一度、10節を読みたいと思います。今度は、ご一緒に読みましょう。

28:10 今、心に留めなさい。【主】は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

 33年前に、この今沢の会堂を取得した時の中心メンバーは廣瀬先生ご夫妻と宮崎兄弟姉妹方でした。そして今回、隣の土地に新しい礼拝堂を建てる中心メンバーは私たちです。主は聖所となる礼拝堂を建てさせるために、私たちを選ばれました。ですから私たちは勇気を出して実行しなければなりません。

御霊により示された仕様書
 続いて11節から13節までを交代で読みましょう。

28:11 ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。
28:12 御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、【主】の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、
28:13 祭司とレビ人の組分けのこと、【主】の宮の奉仕のすべての仕事のこと、【主】の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。

 仕様書というのは、先ほども言ったように設計図です。この設計図はダビデが御霊により示されていたものです。ダビデの上には主の霊が激しく下ったことがサムエル記に書いてありますから(Ⅰサムエル16:13)、ダビデには聖霊が注がれていました。それゆえダビデは御霊から仕様書を受け取ることができました。
 そこには神殿の中の間取りと神殿の周囲のこと、さらには神殿で奉仕する人々のこと、そして器具のことまでのすべてのことが書かれていました。この仕様書に従って、これから神殿が建設されて行くことになります。

私たちにも示された設計図
 そして私たちにも御霊により設計図が示されています。私たち沼津教会の教会員には、皆、聖霊が注がれています。新約の時代においてはイエス・キリストを信じる者には誰でも聖霊が与えられますから、イエス・キリストを信じる私たちには聖霊が注がれています。そして私たちは昨年の12月に新会堂に関するアンケートを実施し、元旦礼拝では「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」のみことばをいただきました。これは御霊の一致を保ちなさいという主のご命令です。そうして私たちは設計担当のA兄にアンケート結果を伝え、A兄はそれを設計図として表してくれました。A兄もまた聖霊が注がれたクリスチャンですから、主にあるぶどうの枝の一員です。
 A兄が引いて下さった図面は、これからも多少は修正が入ると思いますが、今のもので、ほぼ完成形であると考えて良いと思います。ダビデが主から仕様書を授けられたように、いま私たちにも設計図が授けられています。ですから私たちは、この設計図の建物を、隣の土地で実際の建物の形にしたいと願っています。
 そのためには、まだ資金が不足していますが、幸いなことに私たちは今年一杯、祈りを積みつつ様々に動く期間が与えられています。当初は来年1月に着工して3月に完成というスケジュールを考えていました。着工前には様々なことを具体的に準備する期間として半年間は必要だということですから、来年の1月に着工するためには2ヶ月後の6月には全体の設計図と建設費用とを固めなければなりませんでした。しかし来年3月の完成予定を約半年先に延ばして9月の完成を目指したいと思います(このことについては、今日の午後の幹事会で議論します)。来年中には必ず完成させたいと思いますから、ゆとりを持って9月完成を目指すのが良いと思います。
 このように半年間先に延ばすことで私たちには今年一杯、資金繰りの算段をするための期間が与えられます。これは大変に幸いなことだと思います。先ずは私たちはお祈りしなければなりません。これは絶対に必要なことです。授けられた仕様書の礼拝堂を建設することができるように、私たちは礼拝と祈祷会でお祈りしますし、それぞれのご家庭でも是非熱心にお祈りしていただきたく思います。
 そして次には、祈ることの他に何かご自分でできることがないか、考えていただきたいと思います。それは皆さんのお一人お一人で異なることだと思います。

平和に役立つことについての証
 さて、ここからは少しの間、私個人に示されていることをお話しさせていただきたいと思います。
 私が個人的に与えられている今年の聖句は、ローマ14:19の、

「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」

です。
 私はこの「平和に役立つこと」の働きの時が、いよいよ満ちて来ているなと感じています。私が平和の働きのために伝道者の職に召し出されたことは、これまで何度かお証しさせていただいています。今のところ成果は上がっていませんが、いよいよ時が満ちて来ているような気がしています。
 私が3年前にこの沼津教会に着任した時、この教会の会堂問題のために働くことと、私の個人的な使命である平和のための働きは連動しているはずだと当初から思っていました。その連動がいよいよ形になって現れ始めているように感じています。
 時が満ちて来ていることを何によって感じているのか、会堂問題の方は、きょうも話した通り、隣の土地が既に与えられて、そして建物も仕様書である設計図が授けられるところまで来ました。
 もう一方の平和の働きのほうはどうでしょうか。いま私が大きな出来事として感じているのは、今月の4月11日に(個人的に私は4.11と呼んでいます)、G7の外相が広島の平和公園を訪れ、原爆資料館と原爆ドームを見学したことです。この時、アメリカの国務長官のジョン・ケリー氏は心に深く感じるものがあったようです。帰国してオバマ大統領に熱心に報告したことと思います。そうして、どうやら来月の伊勢・志摩サミットの後でオバマ大統領が広島を訪問することが非常に濃厚になって来ています。もし現職のアメリカ大統領のオバマ氏が広島から世界に向けて平和のメッセージを発信するなら、これは本当に大きな出来事です。ですから私は、それまでに今執筆中のヨハネの福音書を用いた平和のための働きの原稿を何としてでも書き上げるつもりです。
 以下はかなりのこじつけだと思いますが、思い返してみると私がBTCで学んでいた時期とオバマ大統領の有名なプラハ演説(核廃絶への具体的な目標を語った演説)の時期とはよく重なっています。
 私がBTCに入学したのは2008年で、この年にアメリカでは大統領選挙があってオバマ氏が当選しました。そして有名なプラハ演説があったのが2009年の4月です。そして私がこの沼津教会を初めて訪れたのが2009年の7月です。そのすぐ後で私はヨハネの福音書を深く学ぶことを示されて、2009年の9月からBTCの男子寮での祈祷会の説教ではヨハネの福音書からの説教を始めました。こうしてヨハネを深く学び始めたことで2011年にヨハネの福音書の深い真理を示されました。
 さて2009年には、もう一つ大きな出来事がありました。2009年の10月にノーベル平和賞がオバマ大統領に授与されることが決まり、12月に授与されました。そうして、核兵器廃絶に向けた働きが動き出すことが期待されましたが、残念ながら、目立った成果をオバマ大統領は挙げることができませんでした。しかし、来月の5月のサミット後の広島訪問が実現すれば、これは本当に大きな働きになると思います。
 そして私のヨハネの福音書を用いた平和の働きも、これまで目立った成果を上げることが出来ていませんでしたが、ボツにした原稿の執筆を積み重ねて来たことで、ようやく時が満ちて来ていることを感じています。そして私はこの平和の働きがこの教会の会堂建設の問題と連動していることを、ずっと感じて来ていますから、今年は両者が共に大きく前進するのではないかと、かなりの期待を持っているところです。
 以上が、私の個人の使命に関することです。皆さんのお一人お一人についても、会堂問題と個人的なこととがつながっていることがあるのではないかと思います。それらのすべてが合わさって、私たちの会堂問題は前進して行くのだと思います。なぜなら私たちはぶどうの木であるイエス・キリストにあって一つとされているからです。

おわりに
 いま私たちは仕様書を授けられたところですから、勇気を持って礼拝堂建設に向かって進んで行きたいと思います。最後に、歴代誌第一28章10節をもう一度ご一緒に読んで、メッセージを閉じることにします。

28:10 今、心に留めなさい。【主】は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

 お祈りいたしましょう。
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4月24日礼拝プログラム

2016-04-22 08:04:48 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月24日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第4聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なるかな          16
 交  読  詩篇127篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  いつくしみ深き       432
 讃 美 ③  主よ、みもとに近づかん   407
 聖  書  Ⅰ歴代誌28:9~13
 説  教  『御霊により示された仕様書』 小島牧師
 讃 美 ④  御霊は天より        173
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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見えない神を可視化する工夫(2016.4.20 祈り会)

2016-04-20 20:54:16 | 祈り会メッセージ
2016年4月20日祈り会メッセージ
『見えない神を可視化する工夫』
【ヨハネ20:24~31】

はじめに
 熊本で最初の大きな地震があったのは先週の木曜日の夜でした。ですから1週間前の水曜日の祈祷会の時点では、九州の地震によって日本全体がこれほど大きな不安に包まれるとは思っていませんでした。
 先日の日曜日の礼拝でも話しましたが、こういう時、永遠の命を与えて下さる神様としっかりとつながっているなら恐れることはありませんから、多少の不安があったとしても、不安が増大することはありません。ですから、この恵みをお伝えする働きをもっと確かなものにして行かなければならないと、私は今、強く思わされています。

目に見えない神を可視化する試み
 ただし神様は目に見えませんから、神様を信じるのはそんなに簡単なことではないという問題があります。一旦は神を信じた筈のクリスチャンであっても信仰が揺らぐことがあります。信じた時には神様の存在を強く感じていたものの、その後の生活の中で神様を感じることが段々となくなって来て、信仰から離れてしまう人も少なくありません。
 これまで私はヨハネの福音書について色々な切り口で語って来ましたが、ここ何ヶ月かの間で、ヨハネの福音書は見えない神を何とかして見えるようにする工夫がたくさん盛り込まれた書であると感じるようになっています。神が見えるという場合、それは霊的に見えるということですが、霊的に見えるとはどういうことか、霊的に目覚めていない人に説明することは大変に難しいことです。しかし、それを何とかわかってもらうようにしなければならないと思い、先日は「太陽光の例え」の話をしました。太陽の光には目に見える可視光線の他に目に見えない赤外線と紫外線が含まれています。このことが目に見える人間イエスと目に見えない霊的なイエスとに良く似ているという話をしました。そして今回はこの「太陽光の例え」に加えて「囲碁の例え」の話をしたいと思います。
 今年に入って囲碁が何かと話題になっています。コンピュータの「アルファ碁」が世界最強レベルの韓国のプロ棋士を四勝一敗で破ったことは大きなニュースになりました。そしてまた、今日の4月20日は、日本の囲碁の十段戦五番勝負の第4局がちょうど今行われているところです。この十段戦では伊田篤史十段に井山裕太六冠が挑んでいます。いま井山六冠が2勝1敗ですので、きょう井山六冠が勝てば七つのタイトルを独占する七冠になります。先週の第三局でもチャンスがありましたが敗れてしまい、きょう再び七冠に挑んでいます。きょうは後で碁盤の図を見ていただきながら見えない神が見えるようになるとはどういうことか、「囲碁の例え」を使って説明したいと思います。



太陽光の例え
 まず「太陽光の例え」の復習を簡単にします。図1(a)を見て下さい。太陽の光にはご存知の通り、赤や緑や青の可視光線だけでなく、目に見えない赤外線や紫外線も含まれます。そして私たちの多くは赤外線には加熱効果があり、紫外線には殺菌効果があることを何となく知っています。それは、赤外線ヒーターや紫外線消毒装置などの製品が販売されていますから、赤外線や紫外線にはそのような効能があることを何となく知っています。そして、天気の良い日に布団を外で天日に当てて干す時なども、それらの効果を期待します。布団の中の空気が温まって布団がフカフカになるのは赤外線の効果だと思いますし、ついでに紫外線で殺菌されることをも何となく期待します(どれぐらい効果があるかはわかりませんが)。或いは冬の寒い日に日なたに出て太陽の光に当たると体が温まりますから、その時は赤外線の恩恵を受けています。或いは夏に直射日光に当たって日に焼けて皮膚が痛む時、殺菌作用を持つ紫外線の高いエネルギーが皮膚にダメージを与えたことを、身をもって知ります。このように私たちが太陽の光を浴びる時、そこには目に見える光だけでなく目に見えない光である赤外線や紫外線があることを、私たちは感じています。太陽光はこれらのすべてを含めて太陽光です。
 そしてイエスも図1(b)のように、目に見えるイエスと目に見えないイエスとがいます。目に見えるイエスは【イエスの時代】の人間イエスです。【イエスの時代】とはイエスが母マリヤから生まれて十字架で死ぬまでの約30年間です。また、イエスは【旧約聖書の時代】にもいます。イエスはご自身で「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)と言っていますから、紀元前の【旧約聖書の時代】にもいました。ただし、それは霊的な存在としてのイエスです。さらにイエスは十字架で死んで復活した後の【弟子たちの時代】にも霊的なイエスとして存在し、弟子たちを励ましました。そして霊的なイエスは21世紀の現代にも私たちと共におられて、私たちを励ましています。イエスは、これら見えるイエスと見えないイエスをすべて含めてイエスです。それはイエスが神の子キリストだからです。イエスとは1世紀の最初の30年間に生きていた人間イエスだけではなくて霊的なイエスをすべて含めた存在がイエスです。
 私たちが太陽の光を浴びている時に赤外線と紫外線も何となく感じているように、私たちがマタイやマルコやルカの福音書で人間イエスについて読む時に霊的イエスの存在も何となく感じています。 それを教えてくれているのがヨハネの福音書です。では私たちは、人間イエスを通してどのように霊的イエスを感じているのでしょうか。今度は図2の囲碁の例えを使って説明します。

囲碁の例え
 図2(a)は石が何も置かれていない碁盤の図です。一見すると、ここには何も無いように見えます。(b) しかし、実はここには目に見えない神が存在しています。(c) そして神は人を造って地上に置き、(d) 人間イエスを地上に遣わしました。そして (e) マタイ・マルコ・ルカの福音書に書いてあるような人と人間イエスとの交わりが始まります。ただし人と人間イエスとの交わりが十分でない間は、依然として神は見えません。(f) しかし段々と人とイエスとの交わりが進んで囲碁で言うところの「地」が出来ると、そこに霊的なイエスが見えるようになります。ここでは黒の地を【旧約聖書の時代】の霊的イエスとして示しています。つまり、それは霊的イエスを通して天の父を霊的に見ていることになります。また白の地は【弟子たちの時代】の霊的イエスとして示してみました。そして、これは聖霊との交わりを見ていることになります。このように私たちは先ずマタイ・マルコ・ルカの福音書を読んで人と人間イエスとの交わりについて学び、それが進むと霊的イエスが霊的に見えるようになります。
 囲碁の場合、最終的に勝負が決するのは地が多いほうですから、石が置いてある場所よりも置いていない場所のほうが重要だということになります。イエスの場合も私は人間イエスも大事だけれど石が置かれていない霊的イエスの領域のほうがもっと大事であろうと思います。ただし、もちろん実際の囲碁では(f)のような石の置き方には絶対にならず、もっと複雑なものになります。しかし人と人間イエスとの関係もまた(f)のような単純なものではなくて、もっと複雑に絡み合っていますから、そういう意味でもこの「囲碁の例え」は人と人間イエスと霊的イエス、さらには三位一体の神との関係を、なかなか良く表しているのではないかと私は感じています(囲碁をよく知らない人にとっては、どうかわかりませんが)。

「見ずに信じる者は幸いです」とは?
 さて、ヨハネの福音書はこの「囲碁の例え」のように人と人間イエスとの関係を通して見えない霊的イエスが見えるようにしようと様々な工夫が盛り込まれている書です。たとえば、ヨハネ2章4節でイエスは母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いました。イエスの母のマリヤは【イエスの時代】にはイエスの母でしたが、それ以外の時代ではイエスの母ではありませんでした。このヨハネ2章4節でイエスが母に言った「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」は、図2(f)の石が置かれていない霊的なイエスの領域の話をしているのだということを暗に示していまず(ヨハネ2章の前半では霊的イエスは【旧約聖書の時代】のモーセの中におり、また【弟子たちの時代】ではガリラヤ人の弟子たちにペンテコステの日に聖霊を注ぎました)。
 そして、これまで礼拝や祈祷会で説明して来たように、ヨハネの福音書には様々な形で霊的なイエスが描かれています。これらの霊的イエスは目には見えませんが、確かに存在しています。
 きょう最初にご一緒に読んだ箇所でトマスは、自分で見なかったことを信じようとはしませんでした。そんなトマスの前にイエスは現れて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」、「見ずに信じる者は幸いです」と教えました。これは見えないことを盲目的に信じなさいということではなくて、目で見えていなくても他に様々なサインがあるのだから、それらを感じて信じることの大切さを説いていると私は理解しています。
 私たちもまた見ずに信じる幸いに与りたいと思います。それは見えないことを盲目的に信じるのではなくて、様々なサインをしっかりと感じて信じるなら幸いな恵みに与ることができるということです。私たちは、まずは人間イエスに注目する必要があります。取っ掛かりとして人間イエスについて学ぶことは非常に大切です。そして、そこから霊的イエスを感じることへとステップアップする必要があります。いつまでも人間イエスにとどまっていては、霊的な恵みをいただくことはできません。霊的な恵みをいただくとは、三位一体の神の恵みをいただくということです。人間イエスだけしか知らない間は、三位一体の神の恵みをいただくことができません。見ずに信じる幸いな者とされて、霊的なイエスさまから三位一体の神の豊かな恵みに与りたいと思います。

おわりに
 最後に、礼拝の最後にいつもお読みしている第二コリント13章13節の祝福のみことばをご一緒にお読みしましょう。これは三位一体の恵みについてのパウロの祝福の祈りです。

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 お祈りいたしましょう。
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たとい山々が移り、丘が動いても(2016.4.17 礼拝)

2016-04-17 16:03:21 | 礼拝メッセージ
2016年4月17日礼拝メッセージ
『たとい山々が移り、丘が動いても』
【イザヤ54:2~10】

はじめに
 きょうの礼拝説教からはソロモンの神殿建設についての学びを始めることにしていました。しかし、木曜日の夜から九州で地震が頻発しており、震源が熊本から大分方面に移動していることもあって日本全体に大きな不安が広がっています。教会の皆さんも不安に思っておられる方が多いだろうと思います。そこで、きょうは予定を変更して、このような不安な時に私たちの心の拠り所になるみことばに目をとめたいと思います。

たとい山々が揺れ動いても
 まず、みことばを見ましょう。一つ目は、聖書交読で読んだ詩篇46篇の1節から3節までです(旧約聖書p.950)。私のほうでお読みします。

46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。

 詩篇46篇の詩人は、神は私たちの避け所であるから、たとい地が変わり、山々が揺れ動いても恐れないと詩っています。神様への信仰を持っていれば、私たちは恐れることはありません。
 ただし、詩篇の詩は人間が書いた詩ですから、このような詩は人間の側の一方的な思い込みではないのかと思われる方もいるかもしれません。或いは、そこまでは思わなくて、自分もこの詩人のような揺るがない信仰を持ちたいと思っても不安の方が勝ってしまって、なかなか、この詩人のような心境にはなれないという方もおられるかもしれません。
 一方、きょうの聖書箇所のイザヤ書54章のみことばは人間の側の信仰告白ではなくて、これは主ご自身のみことばです。10節で主はこのように仰せられています。

54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

 これはイザヤを通して語られた主のことばです。詩篇は人間の詩ですが、イザヤ書54章は主ご自身のことばです。ここにある、「たとい山々が移り、丘が動いても」は地震のことを言っているというよりは、主の愛は変わらない、移らないということを強調するための表現だと思います。しかし大地が動く地震列島と呼ばれる日本に住む私たちは、このみことばからいくつか学べる点があると思います。きょうは、この聖書箇所から示された3つのことをお話ししたいと思います。

①一つめは、山々が移り、丘が動いて地震が起きるのは自然現象であって神の怒りの表現ではないといこと、
②二つめは、神の変わらない愛は、神がひとり子をお与えになるほどのものであること、
③そして三つめは、神の愛が変わらないから私たちには永遠の命が保証されているということをお話ししたいと思います。神の愛が変わるものであるなら、永遠の命は保証されていないということになってしまいます。
 以上の三つについて話をして、最後に今日の礼拝後の新会堂に関する説明会への備えも短くしたいと思います。

地震が起きるのは自然現象
 まず一つめは、山々が移り、丘が動いて地震が起きるのは自然現象であって神の怒りの表現ではないということについて話します。
 地震などの自然災害が起きると、これは神による天罰だなどと言う人が現れますが、そんなことはないでしょう。私たちが住む地球に地が動く仕組みを与えたのは確かに神様ですが、それは人間を懲らしめるために、このような仕組みを作ったのではありません。人間が生きていくのに必要だから与えた仕組みです。地が動くのは地球の表面のプレートが、それより内部にあるマントルの熱移動に乗って動くためです。地震のメカニズムの説明として、プレートが大陸の下に沈み込んでできる海溝付近でプレートが跳ね上がる解説図をテレビでよく見ると思います。今回の熊本地震は海溝型の地震ではなくて断層型の地震とのことですが、断層もプレートが動くことで地表付近にシワが出来て、このシワの部分が滑って断層ができると考えてよいのだと思います(素人的な考察ですが)。このようにプレートが動くことによって地球上に凹凸ができて山や海が形成されます。この起伏に富んだ山と海の地形があるからこそ、多様な生物が地球上に住むことができ、この生物の多様性によって地球の生命が保たれ、私たちの命も支えられています。
 仮に地球に海が無くて陸地だけだったら水分が不足して多くの生物は生きていけないでしょう。その反対に海しか無ければ哺乳類は鯨やイルカやアザラシの類しか生きられず、人間は生きられないでしょう。それ以前に、海しかなければ塩分の濃度が高くなり過ぎて生物は生きるのが難しいとも言われています。イスラエルの死海は塩分の濃度が高すぎて生物が住むことができないので、死の海、死海と呼ばれていますね。地球上には岩塩などの形で陸地にもかなりの量の塩分があります。もし地球上に凹凸がなくてすべてが海になっているなら、いまは岩塩として陸地に存在している塩分も水に溶け込みますから、海の塩分の濃度は今よりもかなり高くなります。すると生物が生きていくには大変に厳しい環境になります。今の海に生物が豊かに存在するのは、塩分がちょうど良い塩梅に調節されているからです。
 このように、私たちが住んでいる地球は、表面のプレートが動いているがゆえに地表に起伏ができて山や海が形成され、それによって多様な環境が作られ、生物の多様性が保たれて多くの命が生きることができ、人間もまた生きていくことができるのですね。ですから地球上のプレートが動く以上、地震が起きることは避けられないことです。それゆえ私たちは地震が起きても大きな被害が出ないように備えながら生活することが必要になります。
 それゆえ、地震があったとしてもそれは神が人間を懲らしめようとしているわけではありません。人を造ったのは神様ですから、神様は人を愛しています。

神は御子を与えるほど人を愛している
 そして、この神様の愛はひとり子をお与えになったほどの愛です。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました(ヨハネ3:16)。これが二つめのポイントです。
 いま私たちが開いているのはイザヤ書54章ですが、この一つ前の53章では皆さんがご存知のとおり、イエス・キリストの十字架が予言されています。53章の4節から6節までを交代で読みましょう。6節はご一緒に読みます。
 
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 このように神がひとり子をお与えになったのは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。御子イエスを信じる私たちには、永遠のいのちが与えられています。

変わらない神の愛によって保証されている永遠の命
 そして三つめのポイントは、私たちに永遠の命が保証されているのは神の愛が変わらないからだということです。
 もう一度、イザヤ書54章の10節をご一緒に読みましょう。

54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

 主は、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らないと仰せられます。このように主が仰せられるから、私たちには永遠の命が保証されていると言えるのだと思います。天においても地においても私たちは主に支配されていますから、もし主が心変わりする方であったら、天の御国に行ったとしても安心できないということになってしまいます。でも、そんなことはありませんね。

永遠の命を与えられているので恐れることはない
 イエスが神の子キリストと信じる者には、永遠の命が与えられます。これは本当に素晴らしい恵みです。もし大規模な災害が起きるならクリスチャンといえども、この世では命を失うでしょう。クリスチャンは永遠の命を約束されていますが、この世での永遠の命が約束されているわけではありません。このことを私たちはよく覚えておく必要があると思います。他の方々を救いに導くための働きが長くできるように、この世の命を長く与えられ、様々に守られることは確かに多いだろうと思います。しかし、逆に早くにこの世を去ることで一粒の麦となって他の多くの人々を救う場合もあります。イエス・キリストの地上生涯も30年でしたから、人の一生としては短いものでした。
 クリスチャンの地上生涯は長い場合もありますし、短い場合もあります。しかし、永遠の命が与えられていることに変わりはありません。このように永遠の命が与えられているのですから、災害の危険があったとしても恐れることなく、しかし、しっかりと備えて暮らすようにしたいと思います。
 いざ本当に自分の身に危険が迫った時に、どのように行動できるのか私自身も自信はありません。ペテロのような、みじめな行動を取ってしまうのかもしれません。それは、その時になってみなければわかりません。しかし、何があっても恐れることはないという信仰を持ち、危険に備えているなら、主が取るべき行動を教え導いてくれることでしょう。難しいことかもしれませんが、主にすべてをお委ねして恐れることなく備えていたいと思います。そのように備えていることがキリストの香りを放ち、他の方々を救いに導くことにもつながって行くのでしょう。

説明会への備え
 さて、きょうは礼拝の後で私たちの新しい礼拝堂の最新の設計案の建設費について設計担当の兄から説明をしていただきます。そのことにも短く備えたいと思います。
 きょうの聖書箇所のイザヤ書54章の2節と3節を交代で読みましょう。

54:2 「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
54:3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

 2節に、「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし」とあります。そのようなるように、主は私たちの教会に隣の土地を与えて下さいましたから、私たちの教会の敷地は増えました。そして3節、「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ」とあります。
 神様から離れている人々の心の中は荒野のように荒れ果てています。そのような人々が住んでいる町もまた霊的には荒れ果てていると言えます。荒地には避け所がありません。神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けと先ほど詩篇46篇で読みましたが、霊的な荒地に住む人々は、避け所となる神を持たず、不安に恐れおののいています。
 その荒地の真ん中に私たちの教会は建ち、人々を避け所である神へと導いてさしあげます。これから私たちが建てる礼拝堂は、その働きのために用いられます。その働きのために最善の礼拝堂が与えられるように私たちは祈りを積んで行かなければなりません。しかし、ただ単に祈るのでなく、私たちの現状をしっかりと把握した上で祈るべきです。そのための資料を週報に挟みましたので、ご覧下さい。
(以下、省略)

おわりに
 最後にもう一度イザヤ書54章の2節と3節を交代で読み、それからもう1箇節、10節をご一緒に読んで終わりたいと思います。

54:2 「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
54:3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

 お祈りいたしましょう。
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神の子どもと呼ばれる幸い(2016.4.13 祈り会)

2016-04-15 06:50:16 | 祈り会メッセージ
2016年4月13日祈り会メッセージ
『神の子どもと呼ばれる幸い』
【マタイ5:9】

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

はじめに
 一昨日の4月11日に広島で大きな出来事があり、ニュースでも大きく取り上げられました。私はこの4月11日の出来事を4.11と呼ぶことにしました。3.11と9.11は皆さんも良くご存知のことです。6.11は個人的なことで、15年前の6月11日に私の父が死にました。それら3.11、6.11と9.11に加えて今回新たに4.11が加わりました。

『平和のキャラバン』の前でのG7外相の記帳
 その一昨日の4.11の出来事というのは広島でG7の外相の会議があり、G7とEUの閣僚が揃って広島の平和公園の中の原爆資料館、原爆慰霊碑、原爆ドームを訪れたことでした。これらの中でとりわけ私がうれしく思ったのは、各国の外相が原爆資料館を見学した後の記帳を資料館の玄関ロビーで行い、そのバックに『平和のキャラバン』のタイル画があったことでした。





 前にも話したことがあると思いますが、この平山郁夫・作の『平和のキャラバン』のタイル画の左右方向のど真ん中に私の名前を刻んだタイルがはめ込まれています。このタイルがあることで私はこの原爆資料館に私の分身があるように感じています。このタイルは1985年の筑波科学万博の国連平和館で購入し、その場ではめ込まれたものです。そして科学万博の後でこの『平和のキャラバン』のタイル画は広島の原爆資料館の玄関ロビーに移されました。ただ私は、その後広島に行く機会がありませんでしたから、このタイル画のことはいつの間にか忘れていました。しかし、1995年に原爆資料館を訪れた時に10年前に私の名を刻んだタイルがこの絵にはめ込まれたことを思い出し、記憶を頼りに自分のタイルを一生懸命探しました。30分近く探したと思いますが、見つからなかったように覚えています。それであきらめてトイレに行ったような覚えがあります。しかし、トイレから出て、もう1回探してみようという気になって探し始めたら、今度はすぐに見つけられたと覚えています。とてもうれしかったですが、この時はただ単純にうれいしと思っただけでした。
 しかし、次に訪れた時は違いました。1995年の次にこの原爆資料館を訪れたのは、さらに10年後の2005年でした。そして、それ以降は、ほぼ毎年、ここを訪れています。それは、ここに自分のタイルがあることに特別な思いを持つようになったからです。なぜ1995年の時は特別な思いを持たず、2005年には特別な思いを持つようになったかと言うと、それはその間に私がクリスチャンになっており、聖書を読むようになっていたからです。10年ぶりの2005年、クリスチャンになって初めて原爆資料館を訪れた私は、先ず自分のタイルを確認し、それから資料館の中の展示を見ました。そして資料を見ている間、ずっとマタイ5:9の

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(新改訳第2版)

のみことばが心の中に響いていました。それで私は資料館を出てから平和公園のベンチに座り、かばんから持参していた小型の新約聖書を取り出して改めてこのマタイ5:9を読み返し、そして「私を平和のために用いて下さい」と祈りました。この時以来、私は「私を平和のために用いて下さい」と祈るようになり、それが聖宣神学院の入学へと押し出されることにつながったのだと思います。牧師になることなど全く考えていませんでしたが、私が牧師になったのは私が「私を平和のために用いて下さい」と祈り、その祈りが応えられたのだと私は解釈しています。

幅がある「平和をつくる」ことへの考え方
 そういう経緯がありましたから、私は一昨日、G7とEUの外相が私の分身であると感じているタイルの前に並んで座っている写真を見て本当にうれしく思いました。そして、この二日間の間で私は、マタイ5:9のみことばへの思い巡らしが深まったと感じていますから、きょうはそのことを分かち合いたいと願っています。それは「神の子どもと呼ばれる」とはどういうことか、についてです。なぜ平和をつくる者は神の子どもと呼ばれる幸いが与えられるのでしょうか。このことについて今まで私はモヤモヤした思いを持っていましたが、きのう一日思いを巡らしていて、少しすっきりしました。それをきょうは分かち合いたいと願っています。
 「平和をつくる」と言っても考え方は様々です。例えば昨年の秋に国会で可決されて、つい先日の3月29日に施行になった安保法制は、「平和安全法制」と呼ばれています。共産党などの野党は「戦争法」と呼んでいますが、与党は平和と安全のための法律だと言っています。単純化すると、与党は抑止力を高めることが平和と安全につながると考え、野党は抑止力を高めることは却って戦争の危険を高めるだけだと考えます。平和に関する考え方はこのようにとても幅があります。クリスチャンでも抑止力を高めることが「平和をつくる」ことだと考える人も少なくないと思います。しかし私は軍事力を増強して抑止力を高めることは平和から遠ざかることだと考えますから、反対です。
 こんな風にクリスチャンの間でさえ平和への考え方が分かれる中、平和のためにどのように働いたら良いのか、私は悩ましく感じています。しかし、4.11の出来事を通して私は大いに励まされましたから、昨日は平和について思いを巡らしました。そして、次のように思いは進んで行きました。

広島は放蕩息子の父親の家
 まずアメリカの国務長官のジョン・ケリー氏が記者会見で次のように言っていたことをニューヨーク・タイムズの電子版で読みました。ケリー氏はオバマ氏も広島を訪問するかという記者の質問に次のように答えということです。まず英語で読みます。

“Everyone should visit Hiroshima, and everyone means everyone.”

 ケリー氏は、「everyone」つまり「誰もが」広島を訪れるべきだと言いました。そして「everyone means everyone」と付け加えました。「『誰もが』とは『誰もが』という意味だ」と言って、誰もが広島を訪れるべきだということを強調しました。つまりオバマ氏も広島を訪れるべきだという意味です。ただしケリー氏は、それがオバマ氏の大統領在任中であるかどうかは分からないとも述べたということです。
 この「誰もが広島を訪れるべきだ」というケリー氏の言葉をインターネットで読んで私は、放蕩息子の帰郷のことを思いました。広島は父親の家であり、誰もが父親の家へ帰るべきだと感じました。そして父親の家へ帰るべきというのは父親の気持ちを理解すべきだということではないかと思いました。
 父親の家にいても、兄息子のように父親の気持ちを理解できていない者もいます。兄は弟のことを快く思っていませんでした。兄は弟との間に壁を作っていました。そして父親との間にも壁を作っていました。私はこのことを個人的には、軍事力を増強して抑止力を高める考え方と同じだというように感じています。つまり、どんな国とでも一つになることを目指すのではなく、一つになることを最初からあきらめて抑止力を高めようとする考え方は放蕩息子の兄のような考え方ではないかと感じています。
 父親の願いは兄弟が一つになることです。そして、やがては兄も弟も父親になることが父の願いです。兄と弟が仲良く暮らせないうちは父は悲しい思いでいます。私は父親の家へ帰るということは、単に体が家へ帰るだけでなく、心も帰って、父親の心を理解することだと思います。それが神の子どもと呼ばれることではないでしょうか。
 ヨハネの福音書1章をご一緒に見ましょう。ヨハネ1章12節に、次のように書いてあります。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 そして18節に、

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 父のふところにおられる御子が聖霊を通して私たちに父親の心を教えて下さいます。父と御子とは一つです。御子イエスは私たちが一つになることを願っており、父もまた願っています。私たちが一つになるとは、兄も弟も一つになるということです。私たちは、どの国の者であっても敵対することなく一つになるべきことを目指すべきです。それが父と御子の願いです。

父の御心を理解できるのが「神の子ども」
 ヨハネの福音書の17章をご一緒に見たいと思います。22節と23節をお読みします。

17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 聖霊を受けて神の子どもとされた私たちは、私たちが一つになるべきだという父の思いをもっとしっかりと理解すべきです。それが父の家に帰るということではないでしょうか。
 新約の恵みをいただいている私たちは大胆に恵みの御座に近づくことがゆるされています。ですから父の思いも、もっと理解できる者たちでありたいと思います。それが神の子とされるということであり、そのような者が平和をつくることができるのだと思います。
 私たちは小さい者たちですから、父の大きな御心はなかなか理解できないのかもしれません。しかし小さい小さいとばかり言って小さく縮こまっていると父の御心を知り損なってしまいます。ですから、小さくなってばかりいないで父の御心を大胆に推し量ることも時には必要だと思います。

おわりに
 神の子であれば父の御心がよくわかる筈です。父は私たちが一つになり、この世が平和になることを望んでおられます。ですから私たちは平和をつくり、神の子と呼ばれる幸いを与えられたいと思います。そして、この幸いを多くの皆さんと分かち合いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月17日礼拝プログラム

2016-04-15 06:44:41 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月17日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第3聖日 礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  詩篇46篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  救いのおとずれ       473
 讃 美 ③  川のような平安が      438
 聖  書  イザヤ54:2~10
 説  教  『たとい山々が移り、丘が動いても』 小島牧師
 讃 美 ④  御前につどい        251
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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空前の大きな恵み(2016.4.10 礼拝)

2016-04-11 21:46:43 | 礼拝メッセージ
2016年4月10日礼拝メッセージ
『空前の大きな恵み』
【Ⅱサムエル7:4~9】

はじめに
 礼拝のメッセージでは、幕屋の学びを終えてソロモンの神殿の学びに入る前の準備として、ダビデについて学んでいます。
 ソロモンの神殿についての学びは、この教会では2014年の1月から3月に掛けての祈祷会で、既に一度行っていますが、祈祷会のメンバーは限られていますので、また改めて学びたいと思っています。また、私自身も当時の2014年の初めの頃とは、だいぶ心境が変わって来ていますから、また新たな気持ちで学びたいと思っています。
 2014年の1月から3月というのは、私が2013年の4月にこの沼津教会に着任してから、ようやく1年になろうとしている時期でした。私は2013年に着任した時から新会堂の建設に取り組むことが自分に与えられた重要な使命だと思っていましたが、着任したばかりの2013年はさすがに右も左もわからない状態でしたから、とりあえずは、廣瀬邦男先生個人の所有になっていた教会の土地と建物の所有権の移転の手続きを始めることで、会堂建設に備え始めました。そして2013年の年末頃までには、だいたいの目途が付き、2014年の1月の末には所有権の移転が完了する運びになりましたから、いよいよ新会堂の建設に本格的に備えなければならないと感じていました。と言っても、具体的に何をしたら良いかは依然としてわかりませんでしたから、ともかくも毎月第二聖日には会堂祈祷会を行うことにして、祈祷会ではソロモンの神殿について学ぶことにしました。
 このソロモンの神殿の学びを始めた頃の2年前の私は、神殿の建設も会堂の建設も人間の側が行うものだと思っていました。お祈りでは「会堂を与えて下さい」という祈り方をしていましたが、会堂は主に与えていただくものというよりは、自分たちの力で建設するものだという思いが強かったような気がします。
 しかし、それから2年が経ち、隣の土地が与えられた経験を通して、会堂建設というのは神様が与えて下さる恵みなのだということを、つくづく実感しています。皆さんもそうだろうと思います。2年前の私たちは、まさか隣の土地が与えられるとは、誰一人として思っていなかったと思います。しかし、2年後の今は、このように隣の土地が与えられています。ですから、まだ建物はありませんが、建物もきっと与えられるだろうと思います。それは、会堂建設は神様が与えて下さる恵みだからです。この恵みが今の中途半端なままで途絶えるはずはありません。これまでの流れを見ていて私は、それを確信しています。その一つは、玄関の集会案内板が真っ二つに裂けたことです。このプラスチックの案内板が真っ二つに裂けたことはイエスさまが十字架で死んだ時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことを思い起こさせ、新しい時代の始まりを予感することができました。
 そしてソロモンの神殿の建設ももちろん、神様が与えた恵みでした。このことがわかって私は、ダビデの神殿を建てたいという願いをなぜ神様が許さなかったかが、よくわかった気がします。

ダビデの神殿建設をゆるさなかった主
 第二サムエル7章の学びに入って行きましょう。先ず、先週読んだ1節から3節までを、もう一度おさらいしておきたいと思います。

7:1 王が自分の家に住み、【主】が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、
7:2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」

 ダビデは自分だけが立派な宮殿に住み、神の箱が幕屋という布製のテントの中にとどまっていることを申し訳ないことだと思い、やはり杉材を使った神殿を建設したいと願いました。そして預言者のナタンも、このことに賛成しました。3節、

7:3 すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。【主】があなたとともにおられるのですから。」

 ナタンはダビデに、「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい」と言いましたから、ダビデの考えに大賛成だったのですね。しかし、その夜、次のような言葉がナタンにありました。5節から7節までを交代で読みましょう。(7節はご一緒に)

7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。
7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。
7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。

 7節で主は、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」などとは一度も言ったことがないと仰せられました。つまりダビデが杉材の神殿を建設する必要はないということです。
 どうして主は、ダビデの神殿建設を許さなかったのか。歴代誌には次のように書いてあります。歴代誌第一22章の7節と8節をお読みします(旧約聖書p.720)。

22:7 ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、【主】の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。
22:8 ある時、私に次のような【主】のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。

 この理由は、何となくは、わかります。モーセの十戒には「殺してはならない」とありますから、ダビデの神殿建設を主が許さなかったのは、ダビデが戦いで多くの血を流して来たからだ、というのもわからないではありません。でも、何となく腑に落ちない点もあります。ダビデを王に立てたのは主です。そしてイスラエルの王国の繁栄を揺るぎないものにするためには、この時代にあっては戦いは避けられないことでした。その戦いのリーダーとなる役割を主はダビデに与えました。その主が与えた役割を果たしたダビデが、神殿の建設を願った時に、ダビデが多くの血を流したからと言って神殿の建設を許さなかったのは、今一つすっきりしないと私はずっとモヤモヤとしていました。

神殿建設を遥かに上回る恵み
 しかし、この沼津教会の会堂建設に携わるようになり、会堂は人間の側が建てるものではなくて主が与える恵みなのだとわかった時、主がなぜダビデに神殿建設の恵みを与えなかったのかが、納得できた気がしました。
 主は、神殿建設の恵みを与えることをソロモンが王になるまで取っておいて、ダビデには神殿建設を遥かに上回る、もっともっと大きな恵みを与えました。第二サムエル7章に戻ります。8節と9節を交代で読みましょう(旧約聖書p.535)。

7:8 今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の【主】はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。
7:9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。

 9節を読むと、敵を絶ち滅ぼしたのは神である主なのだということがわかります。イスラエルの戦いは主の戦いであり、主が敵を倒したのでした。それゆえダビデが血を流したから、神殿の建設を許さなかったというのは、今一つすっきりしません。でも神殿建設は主が与える恵みであり、主はダビデに神殿建設を遥かに上回る恵みを与えたのだということがわかると、すっきりします。少し飛ばして12節と13節を交代で読みましょう。

7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 12節の「あなたの身から出る世継ぎの子」というのは、旧約聖書の狭い範囲だけで読むなら、この「世継ぎの子」とは、ソロモンのことです。しかし、新約の恵みをいただいている私たちは旧約聖書に新約の恵みの光を当てて読みます。すると、この「世継ぎの子」というのは、イエス・キリストのことであると読み取れます。
 新約聖書の一番始めのページには、何が書いてあるでしょうか。新約聖書の1ページをご一緒にみましょう。1章1節、

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

と書いてあり、アブラハムからの系図が書かれています。そして6節に

1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、

とあります。そして16節と17節を交代で読みましょう。

1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

 このようにダビデの子孫がイエス・キリストにまで、つながって行きます。これは、神殿建設を遥かに上回る空前の素晴らしい恵みでした。もう一度、第二サムエル7章の12節と13節を、私のほうでお読みします。

7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 13節の彼はわたしの名のために一つの家を建て、というのは使徒の時代にキリスト教会が建て上げられたことと読み取れます。そして、王であるキリストの教会はとこしえまでも堅く立ち、21世紀の私たちもその恩恵に与っています。ダビデは、そのキリスト教会の父祖になりました。何と言う祝福でしょうか。

どのような状況でも主を第一にしたダビデ
 これほどの祝福が、どうしてダビデに与えられたのか、それはダビデが、どのような困難の中にあっても、主への信仰を失わなかったということが大きかったと私は考えます。例えばダビデがサウル王に仕えていた頃、ダビデの人気を妬んだサウルがダビデの命を狙って追い回していた時期が長くありました。その時期にもダビデは主を恐れることを忘れていませんでした。
 ダビデがサウルから逃げ回っている時、ダビデにはサウルを殺す絶好のチャンスが少なくとも二回、訪れました。ダビデの部下は、これを主が与えて下さったチャンスだからサウルを殺すべきだと進言します。しかしダビデは、サウル王は主が油を注がれた方だから、その主が油を注いだサウル王を殺すことなど絶対にできないと言いました。
 自分がどんなにピンチにあっても、そこから抜け出すために主が油を注いだ方を自分で取り除くことがあってはならないという信仰をダビデは持っていました。どんな状況にあっても、主を恐れ、主を第一とすること。これは、なかなかできることではありません。
 ダビデは、どんな状況でも主が自分と共にいて下さることを信じていましたから、ダビデが信仰から離れることはありませんでした。それゆえ主はダビデに、サウル王の時よりも広大な領土を与え、ダビデの後継者のソロモン王には、ダビデの時よりもさらに広大な領土を与えました。そしてまた、真の後継者のイエス・キリストは全世界を支配しています。これは素晴らしい恵みです。

おわりに
 さて、私たちの教会も敷地を広げることができました。私たちもまた素晴らしい恵みをいただいています。この恵みは中途半端で終わるはずはありませんから、主は必ず素晴らしい会堂をも与えて下さることでしょう。このことを信じて、私たちはダビデのように何があっても主を恐れ、主を信じ、主を第一にして進んで行きたいと思います。
 最後にもう一度、第二サムエルの12節と13節を交代で読んで、メッセージを閉じたいと思います。

7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 お祈りいたしましょう。
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4月10日礼拝プログラム

2016-04-07 20:05:17 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月10日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第2聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  かいぬしわが主よ      303
 交  読  詩篇122篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主を待ち望む者は(2回)   210
 讃 美 ③  主にまかせよ        386
 聖  書  Ⅱサムエル7:4~9
 説  教  『空前の大きな恵み』    小島牧師
 讃 美 ④  恵みの高き嶺        414
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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主と共に歩み続けたダビデの信仰(2016.4.3 礼拝)

2016-04-03 14:23:16 | 礼拝メッセージ
2016年4月3日礼拝メッセージ
『主と共に歩み続けたダビデの信仰』
【Ⅱサムエル7:1~3】

はじめに
 1月と2月は幕屋の学びをしました。4月からはソロモンの神殿建設について学びたいと願っていますが、ソロモンの時代に行く前にダビデの時代のことも、もう少し見ておきたいと思います。
 先週のイースター礼拝では第二サムエルの6章を開き、神の箱がダビデの町に運び入れられた時、ダビデが全身全霊で喜びを表したことを学びました。14節に、「ダビデは、主の前で、力の限り踊った」とありますね。それは妻のミカルがダビデをさげすむほどの踊り方でした。
 このようにしてダビデが激しく踊ったことを、これはダビデの政治的なパフォーマンスだと解説する注解書もあるようですが、私はダビデは純粋に神の箱を運び入れることができたことを、大喜びしていたと考えます。それはダビデがまだサウル王に仕える前の羊飼いだった頃から、ダビデは主と一心同体のようにして、これまでの人生を生きて来たからです。きょうは、後で、そのダビデがまだ若かった頃の箇所をご一緒に見ることにしています。

主と一心同体で過ごして来たダビデ
 さて、神の箱をダビデの町に運び入れた後で、ダビデは神殿を建設したいと願うようになりました。第二サムエル7章の1節と2節を交代で読みましょう。

7:1 王が自分の家に住み、【主】が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、
7:2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」

 ここでダビデは、自分が杉材の家に住んでいるのに神の箱は天幕の中にとどまっていると言っています。このように言ったダビデは、これまで主と一心同体のようにして、いつも共に過ごして来たという思いがあったのだと思います。
 特にダビデは、もともとは羊飼いでした。そしてダビデは詩篇23篇で「主は私の羊飼い」と詩っています。もともとは羊飼いだったダビデが主を羊飼いに例えているということは、ダビデは本当に主をとても身近に感じていたのだと思います。
 きょうはダビデがまだ羊飼いだった若い頃に少し遡って見てみたいと思います。まずサムエルがダビデに油を注いだ場面です。第一サムエル16章です。1節をお読みします。

16:1 【主】はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」

 サムエルは、イスラエルの初代の王のサウルが王にふさわしくないことを知って、悲しんでいました。そんなサムエルに主は、ベツレヘムのエッサイのところへ行くように命じました。主はエッサイの息子たちの中に王を見つけたのでした。途中は省いて12節と13節を交代で読みましょう。

16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。【主】は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。【主】の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

 主の霊がダビデの上に激しく下ったとありますから、ここでダビデに聖霊が注がれました。ですから、この日以来、主はいつもダビデと共におられました。そしてダビデもいつも主が共にいて下さることを感じていました。

普段の信仰の延長だったゴリヤテとの戦い
 そうしてダビデはゴリヤテと戦うことになりました。17章の1節から4節までを交代で読みましょう。

17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。
17:2 サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。
17:3 ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。
17:4 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。

 1キュビトは約44センチでしたから、六キュビト半は286センチです。ゴリヤテは、このようにとんでもない大男でした。ですから、イスラエル人は皆ゴリヤテを恐れて、誰も彼と戦おうとはしませんでした。11節には、このように書いてあります。

17:11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。

 しかし、ダビデが、この戦場にやって来て、ゴリヤテを見た時、ダビデはゴリヤテを全く恐れませんでした。少し飛ばして32節、

17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」

 ダビデがゴリヤテを全く恐れなかったのは、ダビデには主の霊が激しく下っていたからでしょう。主が共にいて下されば、何も恐れることはありません。続いて34節から37節までを交代で読みましょう。ここでダビデは、自分の羊飼いとしての経験をサウルに語りました。

17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった【主】は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。【主】があなたとともにおられるように。」

 こうして皆さんご存知の通り、ダビデはゴリヤテと戦って勝利しました。
 ダビデは普段の羊飼いとしての生活の中で、主が自分を守って下さっていると感じていました。ですから、ゴリヤテと戦っても、主がきっと守って下さると確信していました。ダビデにとってのゴリヤテとの戦いは、自分の普段の生活の延長戦上にあるものでしかありませんでした。

会堂建設も普段の信仰の延長
 このことがわかると、新会堂を建設する戦いも、普段の私たち一人一人が日々の生活の中でどのように主と歩んでいるのか、それを現しているのに過ぎないのだなということが分かって来ます。会堂建設は、普段の私たちの信仰生活の総和が現れる場なのだと思います。総和というのは、すべてを足し算した合計ということです。マイナスも含めて私たちの普段の信仰がすべて足し合わさって結果として出て来るのだと思います。全ての和の総和ですから、教会員の数が多ければ大きな教会が建ちますし、教会員の数が少なければ小さな教会が建ちます。すごく単純なことですね。ただし教会員が少ない教会でも建てられる会堂の大きさは小さいなりに様々だと思います。そこに普段の信仰が現れるのだと思います。ただし教会員が少ないのに、あまりに大きな会堂を建てようとするなら、そこには人間的な見栄のようなものが入り込んでしまうのだと思います。我々の信仰は立派だから、これぐらい大きな会堂でも建つのだと思い込んでしまうなら、それは違うんじゃないかということになります。
 一方で、あまりに現実的な、本当に小さな会堂しか建てないのであれば、その場合は主の御業を信じていないということになりますから、それもまた違うということになります。大きすぎてもダメですし、小さすぎてもダメです。ですから、どれくらいの規模の会堂を建てるかという問題は、本当に難しいと思います。
 そして結局は、普段の私たちがどれだけ主と共に歩んでいるかということが決め手になるのだと思います。
 詩篇23篇を交代で読みたいと思います。この詩篇23篇から、普段のダビデがどのように主と共に歩んでいたかということが読み取れると思います。そのことを感じながら、交代で読みましょう。

< 23 > ダビデの賛歌
23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

 ダビデの人生は、常に戦いの中にある人生でした。
 羊飼いだった頃は、羊を襲う獣たちと戦いました。
 サウル王に仕えるようになってからのダビデはペリシテ人たちと戦いました。
 そして戦いに勝利してダビデの人気が上がるとサウルは嫉妬するようになり、ダビデを殺そうとしました。そうしてダビデはサウルから命を狙われる危険と戦わなければならなくなります。
 その後、ダビデは王となりました。すると今度はダビデの心の中におごりが生じて罪を犯します。今度はダビデは自分の心の中の罪と戦わなければならなくなりました。そして、罪の結果、家族の間には亀裂が生じて家庭が崩壊して行きます。その家族の中のドロドロの戦いの中にもダビデは巻き込まれて行きます。
 そんなダビデでしたが、自分の罪深さに気付いて、決して信仰を失うことはありませんでした。
 これがダビデの信仰でした。

神殿を遥かに上回る祝福を与えた主
 今回私は、このメッセージのために思い巡らしをしていて、主がどうしてダビデが神殿を建てることを、お許しにならなかったのか、わかったような気がします。ダビデの信仰は立派すぎて、ダビデの信仰にふさわしい神殿など大きすぎて建たないということではなかったかなと感じています。ソロモンの神殿はとても立派なものでしたが、ダビデの信仰はそれを上回るもので、地球上にダビデの神殿を建てることなど不可能であったということなのかもしれません。
 この辺りのことは、来週、改めてご一緒に考えてみたいと思いますが、予告編的に、最後に7章16節を、ご一緒に読みたいと思います。

7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

 主は、ダビデが神殿を建設することをお許しにはなりませんでしたが、主はダビデの家とダビデの王国とは主の前にとこしえまでも続き、ダビデの王座はとこしえまでも堅く立つと仰せられました。
 何と素晴らしい祝福でしょうか。このように主は、ソロモンの神殿とは比較にならないくらいに大きな祝福をダビデに与えました。

おわりに
 さて私たちには、私たちの信仰にふさわしい会堂があります。私たちの信仰はダビデほどではないかもしれませんが、私たちもまたダビデのように、普段の生活の中で常に主と共にいるという、信仰を持っていたいと思います。ダビデは常に戦いの中にありましたが、詩篇23篇のような心の平安を得ていました。
 そういう心の平安をいつも心の中に持ちながら、私たちは会堂建設の道を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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