平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

心に灯る父・子・聖霊の温かい光(2016.12.25 クリスマス礼拝)

2016-12-27 08:29:25 | 礼拝メッセージ
2016年12月25日クリスマス礼拝メッセージ
『心に灯る父・子・聖霊の温かい光』
【ヨハネ1:1~18】

はじめに
 今年のカレンダーでは、12月25日のクリスマスの日と日曜日とが重なって、クリスマス礼拝に最もふさわしい日程になりましたから、感謝です。
 クリスマスを待ち望む12月のアドベントの期間、今年は「光」に注目して、メッセージの御用をさせていただきました。きょうのクリスマスのメッセージは、その総決算とも言えると考えています。

心を温かくし、希望を抱かせる光
 11月の終わり頃からクリスマスに掛けては、日本中、多くの場所でイルミネーションの光を見ることができます。昔は一般家庭のイルミネーションと言えば、せいぜいクリスマスツリーを電球で飾る程度で、建物の外のイルミネーションに関しては、街の繁華街で見るぐらいのものでした。しかし今では一般家庭でも、多くの家で建物の外にもイルミネーションの配線を張り巡らしていて、外を歩く人の目を楽しませてくれています。暗い闇の中で光を見ると、私たちはとても温かい気持ちになります。そしてその明るい光は、明るい希望をも抱かせてくれます。
 映画やテレビドラマなどでも、光を非常に効果的に使った表現が多く見られます。例えば、週報(プログラム)の3ページ目に載せたNHKの朝のドラマの『あまちゃん』のラストシーンも秀逸だったと思います。

 

 このトンネルの向こう側に向かって走っている二人の女性は、東北の岩手県の小さな町の高校の同級生でした。二人は東京でアイドルになるために、この小さな町を出ることにしましたが、一人は家庭の事情で東北に残ることになってしまいました。そうして二人の間に溝ができてしまいました。しかし二人の間の溝も埋まり、家庭の問題も解決して、東北に残ったほうの女性がもう一度上京しようとした時に今度は東日本大震災が起きて、上京どころではなくなってしまいました。地震による津波の被害は深刻で、二人の地元の町も震災の直後は暗い雰囲気に包まれました。しかし上京してアイドルになっていた主人公が地元に戻り、復興のために懸命に頑張りました。そうして町が再び明るさを取り戻して、このラストシーンとなりました。
 このトンネルは、二人が暗い闇の中を通って来たことを表しているのだと私は感じました。震災の直後は、本当に暗い中にありました。しかし、二人は闇の期間を通り抜けて明るい未来に向かって再び走り出すことができました。このドラマのラストシーンでは、若い二人が明るい未来に向かって走って行く様子を、トンネルの向こう側で明るく輝く光を使って見事に表現していると思いました。

道の光である聖書のことば
 さて、聖書のことばもまた、明るく輝く光です。旧約聖書の詩篇119篇の詩人は、週報(プログラム)3ページ目に載せたように、

 詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

と詩っています。「あなた」というのは神様のことです。聖書の神様のことばは私たちの足のともしびであり、道の光です。暗闇の中を進む時、光が無ければ私たちはどちらに向かって歩いたら良いのかわかりません。無理して歩こうとするなら、道に迷ったり、躓いたり、溝に落ちたりと、様々な危険があります。しかし、道の光である神様のことばは私たちを正しい方向へと導いてくれます。それは明るい希望の方向でもあり、暗いトンネルの先にある光でもあります。
 そしてヨハネの福音書は、イエス・キリスト自身が「ことば」なのだと書いています。ヨハネの福音書1章1節(新約聖書p.172)を観ましょう。

 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この「ことば」とは、イエス・キリストのことです。下の脚注の星印の所を見ると、

「『ことば』はキリストのこと。したがって、『初めに』はキリストの永遠的存在を意味する。」

と書いてありますね。これは一体どういうことでしょうか。ここには、とても深い意味が隠されているように感じます。きょうは、このイエス・キリストが「ことば」であり、また「光」であるということの意味、そしてクリスマスの日にこの「ことば」であり「光」であるイエス・キリストが人として生まれたことの意味を、ご一緒に考えてみたいと思います。

闇に打ち勝つ「光」
 きょう、主(おも)に見る聖書の箇所は、ヨハネの福音書1章の1節から18節までです。このうち13節までは礼拝の始めの聖書交読で交代で読み、14節から18節までは先ほど司会者に読んでいただきました。
 さて1節から13節までは、主にイエス・キリストが人として生まれる前と十字架で死んだ後の光としてのイエスさまのことが書かれていると言ってよいでしょう。もう一度、1節から見て行きます。1節と2節、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

 イエスさまは神の御子でした。神である御子には肉体がありませんでしたから聖霊が注がれた預言者たちの中に入り、御父のことばを預言者たちに伝えました。預言者たちはそのことばを神のことばとして、人々に伝えました。神のことばは、御子が内にいる預言者たちだけしか語ることができませんでした。ですから御子ご自身がことばなのだと言うことができます。御子が御父である神のことばを預言者の内で伝えることができたのは、御子が肉体を持たない存在で御父と共にいたからです。御子は宇宙が造られる前の初めから御父と共にいました。
 続いて3節、

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 御子は御父と共に、この宇宙の天体のすべて、そして地球上の生き物のすべてをお造りになりました。この方によらずにできたものは一つもありません。そして4節と5節、

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 御子はすべてを造った方ですから、すべてを支配しています。それゆえ闇の中で輝いており、闇はこれに打ち勝つことができません。御子は神ですから、何ぴとも御子に勝つことはできません。

弱かった人間のイエス
 しかし、そのようには見えなかった時がありました。暗い闇のほうが光に勝ったかのように見えた時がありました。それは、イエスさまが十字架に付けられて死んだ時ですね。これは、イエスさまが人として生まれて地上生涯を過ごした時のことです。14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあるように、御子イエスは人として、この世に生まれました。それを祝うのがクリスマスです。しかし、世の人々は御子イエスを受け入れませんでした。9節から11節をお読みします。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 11節にある、「民は受け入れなかった」とは、人々がイエスを十字架に付けて殺してしまったことを指します。
 御子イエスは、神ですから、易々と逮捕されて十字架に付けられて殺されるような存在ではない筈です。それなのに、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
 この「なぜ」の問題は、一人一人が考えてみるべき問題だろうと思います。そして、神は正にこの問題を人に突きつけるために、神である御子をこの世に人として遣わしたということもできるかもしれません。
 なぜイエスは神なのに易々と逮捕されて十字架に付けられて死んだのか、この問題に対する考え方は人それぞれでしょう。
 まず、そもそも神の存在を信じない人であれば、イエスはただの人間なのだから易々と逮捕されて十字架で死んだことは別に不思議ではないでしょう。これは一番わかりやすい考え方だと思います。そして、こういう考え方の人は世の中には少なくないのだと思います。
 次に、神の存在は信じるけれども、イエスはただの人間であり、神の御子などではなかったと考える人もまた大勢いることでしょう。イエスを十字架に付けたユダヤ人たちは、このようの考え方でした。ユダヤ人たちは、そんな風に易々と逮捕されて殺されるような者が神であるはずがないと思っていました。これは、一見、その通りであるというような気もします。しかしキリスト教は、このような考え方はしません。
 易々と逮捕されて十字架で死ぬような者は神ではないという考え方には、神はスーパーマンであるという考え方が潜んでいるように思います。これが行き過ぎると、強さばかりを追い求めることになるように思います。これはとても危険なことだと思います。トランプ氏を次の大統領に選んだアメリカには、このような危険な臭いがします。トランプ氏は、アメリカを再び強くて偉大な国にするのだと言います。強いことはとても素晴らしいことだと考えているようです。確かに強いことは素晴らしいことかもしれません。しかし、これはキリスト教的な考え方ではありません。アメリカはクリスチャンが多い国ですが、キリスト教の根幹の一番大切なツボをわかっていない人が多いような気がしてなりません。

「弱いイエス」はキリスト教の根幹
 キリスト教は、主イエスご自身が易々と逮捕されるような弱い存在として生まれ、そして弱い人々に寄り添い、弱い人々と共に過ごした事実を大切にしています。このことを私たちは心に留めたいと思います。
 肉の体を持たない時の御子は、確かにスーパーマンのような存在と言えるかもしれません。しかし、御子は神であるにも関わらず、弱い肉の体を持つ人間となりました。それも先ずは赤ちゃんという最も弱い存在となって貧しいヨセフとマリヤの子として生まれました。しかも生まれたのは、家畜小屋であり、寝かされたのは飼い葉おけでした。ヨセフは大工でしたからイエスさまもまた大工の子として育ちました。都会の裕福な家庭の子供としてではなく、ナザレという田舎町の貧しい大工の子供として育ちました。
 人として生まれた御子イエス・キリストは、このような弱い者として育ちました。一方、肉の体を持たない光としての御子イエスは、闇に打ち勝つ強い存在です。このように人の弱さも知り尽くした上で御子が光として私たちの内に入ってくださり、内から励ましてくれるのですから、これほど心強いことはありません。
 ただし、私たちの心の中へ御子に入っていただくためには、御子は神の子であったにも関わらず十字架で死んだ弱い存在であったことを信じなければなりません。そして神がこの死んだ御子をよみがえらせ復活させる力を持つことを信じなければなりません。それらを信じるなら、その者には聖霊が注がれて光であるイエスが心の内に入って下さいます。それが12節と13節です。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 神の御子が心の内に入った者は、その者もまた神の子どもとされる特権が与えられます。このようにしてイエスが神の子キリストであると信じて新しく生まれた者は、神がどのようなお方であるかも、次第にわかるようになります。なぜなら、18節にこのように書いてあるからです。

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 父のふところにおられる一人子の神である御子が神を説き明かすから、私たちは神がどのようなお方かがわかるようになります。

私たちを愛している神
 神は私たちを愛しておられます。神は私たちを愛しておられるから、御子を遣わしたのだということがわかるようになります。週報(プログラム)の3ページ目に有名なヨハネ3:16の聖句を載せておきましたから、ご一緒に読みましょう。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 天の父は神である御子を、弱い体を持つ人間としてこの世に送りました。このことを信じる者には心の内に聖霊の光が灯りますから、心が神の愛で満たされて、温められます。この聖霊の光は父・子・聖霊の光と言っても良いでしょう。聖霊の光が心の内に入った者には、父のことばが御子を通して伝えられます。これは旧約の時代の預言者たちと同じですね。旧約の時代には、預言者という限られた者たちだけにしか聖霊が注がれませんでしたから、心の内で御子が神のことばを伝えてくれる恵みを味わうことができた者は少ししかいませんでした。しかし、新約の時代になってからは、イエスが神の子キリストと信じる者には誰でも、心の内で神のことばが御子から伝えられる恵みを味わうことができるようになりました。これは聖書の活字を目で追って頭で理解するのとは全く違う恵みです。
 アメリカはクリスチャンが多い国ですが、戦争ばかりしています。それは形ばかりのクリスチャンが多いからでしょう。イエスが神の子キリストであるとは本気で信じておらず、ただ単に聖書の活字を目で追って頭で理解しているだけのクリスチャンが多いのだと思います。私にはそのような友人がいますから、そのことがわかります。
 今年もまた、世界では悲惨なテロ事件が多く起きました。シリアやスーダンの内戦も続いています。今の平和のない悲惨な世界が平和になるためには、多くの人々の心の内に父・子・聖霊の光が灯される必要があります。この温かい光が多くの人々の心の内に灯されるなら、世界は平和な方向に向かって行くであろうと私は確信しています。

おわりに
 神は強いだけの超越した存在ではなく、弱い私たちに寄り添い、共にいて下さるお方です。この恵みを多くの方々と分かち合うことができる、出発点となる今年のクリスマスでありたいと願います。そのために、ご一緒にお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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整えられた道(2016.2.21 祈り会)

2016-12-22 12:00:25 | 祈り会メッセージ
2016年12月21日祈り会メッセージ
『整えられた道』
【ルカ3:1~6】

3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

はじめに
 きょうの祈り会は、今年最後の祈り会となります。そこで、今年1年を振り返りながら、来年の展望へとつなげて行きたいと思います。
 今年1年を振り返ることは、いつもですと年末感謝礼拝の時に行っています。しかし、今年は年末感謝礼拝は日程的に無くて、クリスマス礼拝の次が元旦礼拝になります。次の聖日のクリスマス礼拝でも多少は今年を振り返りたいとは思いますが、クリスマスのメッセージも入れなければなりませんから、そんなに振り返ってばかりはいられません。そこで、きょうの祈り会で多少振り返っておくことにしたいと思います。

主の道が整えられた1年
 今年の1年は、今ご一緒に読んだルカ3章の中で引用されているイザヤ書のことばのような年であったという気が私はしています。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」

 来年、隣の土地に新しい礼拝堂が建てば、ここから半径何百メートルぐらいかの限られた地域の方々だけでなく、もっと多くの方々にここに教会があることが知られるようになり、神の救いを見ることができるようになると思います。今年は、そのための備えの年であったと思います。
 今年の始め、隣にはまだアパートという大きな山があり、この教会はこの山の陰に隠れていました。しかし、その山は低くされました。地面の中にあった建物の基礎も浄化槽も取り除かれて埋められました。そうして重機が入って、でこぼこだった所は平らになりました。また、下水の問題も解決しました。トイレのために浄化槽を設置すると下水よりも費用がかさみますし、将来下水が通った時に切り替えると、まるまる浄化槽設置に要した費用が無駄になりますから、どうしたものかと思っていたところ、新会堂の着工前に下水が通ることになりました。自己資金が不足している問題をどうするか、祈りを積む期間を半年間置いたところ、この問題に関しても主の御名を崇めることが起きました。
 或いはまた、隣に建設予定なのは礼拝堂だけですから、今のこの会堂の修繕もしなければならないと考えていました。しかし、その際には物置も撤去したいと思っていましたから、その前には物置の整理をしておかなければならないということで、それが精神的な障壁になってなかなか取り掛かれないでいました。すると、春の嵐で屋根の囲いの一部が脱落しましたから、これがきっかけで大規模な修繕をすることができました。しかも、この春の嵐があったのが、設計担当の兄弟がいた時でしたから、信頼できる業者を速やかに紹介していただくことができました。さらに保険金を使って足場を組むことができましたから、外壁の塗装もすることができ、外観がきれいになりました。本当に主の御業を見せていただきました。また、風の被害に関しては、玄関のプラスチックの看板も強風によって破壊されましたが、ちょうど隣の土地に駐車場の看板を立てる時期と重なりましたから、同じ業者に同じ時期に発注することができたことも、とても良かったです。
 隣の土地の前の地主さんとの売買に関する交渉や、宗教法人の土地として非課税にするための県庁の担当者さんとのやり取りも簡単には進まなかった時期もありましたが、その都度、良い解決法が示されて無事に売買契約と非課税での登記ができましたから、本当に感謝でした。

あらゆる人が神の救いを見るために
 さて、こうして来年の礼拝堂の建設への道が整えられて来ましたから、いよいよあとは着工に向けてしっかりと準備を進めて行かなければなりません。そして、やはり一番大切なのは、6節の、「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる」ことです。このために私たちは働かなければなりません。
 ただし、これは神のメッセージを受け取る側が心を閉じたままでは、いくら私たちが頑張ってもメッセージは届きません。とは言え、伝え方によって受け取りやすくもなれば、受け取りにくくもなることは確かです。ですから工夫することが大切です。私自身ももちろん色々と考えていて、様々な形でメッセージを発信して行きたいと考えていますが、教会全体でも考えて行く必要があります。
 いまは第1聖日に会堂問題勉強会を行い、第2聖日に会堂祈祷会を行っていますが、会堂建設が本決まりになったなら、今度はこれらの時間を使って、どのようにしてもっと地域の方々が多く集う教会にして行くべきかを話し合い、祈る機会として行くことも考えるべきでしょう。来年の1月末の教会総会では、そういうことも決める必要があるのではないかと思わされています。
 どうしたら、「あらゆる人が、神の救いを見るようになる」ことができるでしょうか。あらゆる人に聖霊が注がれるなら、あらゆる人が神の救いを見るようになります。そして人に聖霊が注がれるためには、その人がイエスさまを神の子キリストと信じる必要があります。
 では、どうしたら、イエスさまが神の子キリストであると信じるように導いて差し上げることができるのか、私自身も考えますが、来年の教会総会以降の第1聖日または第2聖日には、そのようなことを考える機会にもできたらと思います。或いはまた今は聖書を読む会を行っている第3聖日をそのようなことを考える機会としても良いかもしれません。
 いずれにしても建物だけ新しくして、建物の中で行うことは今まで通りということは有り得ないでしょう。日曜日の午前中に礼拝を捧げることだけは、変わりませんが、その他のことに関しては、変えることも考えて良いのだろうと思います。この1年は、隣のアパートが解体されて更地になったことや、この会堂の大規模な修繕が行われるなど、土地と建物という目に見える部分で主の道が整えられました。しかし、今度は教会の活動の面でも、主の道が整えられなければなりません。

おわりに
 もう一度、ルカ4章の今度は4節から6節までを、交代で読みましょう。

3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

 教会の活動において、でこぼこ道になっていることはないでしょうか。伝道の妨げになっている山や谷や曲がりくねった道はないでしょうか。もしあるなら、それらをどうやって、まっすぐにすれば良いでしょうか。
 来年は、これらの課題にも果敢に取り組んで行く年にしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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「良い行い」とは何か(2016.12.18 礼拝)

2016-12-19 10:28:39 | 礼拝メッセージ
2016年12月18日アドベント第4礼拝メッセージ
『「良い行い」とは何か』
【ヨハネ4:19~24、マタイ5:14~16】

はじめに
 今年のアドベントでは祈祷会においても礼拝においても、イエスさまが光であることを学び、その光がイエスさまを信じる私たちの心の内にも灯されていることを学んでいます。光は人の心も体も温かくしてくれます。たとえば冬の寒い部屋の中にいる時、室温が低くても窓の外が晴れていて明るければ、そんなに寒さを感じません。逆に室温がある程度あっても夜であったり昼でも外が曇りや雨で暗かったりすると体は寒く感じます。
 私は2階の居室にデジタルの温度計を見やすい場所に置いていて、いつも部屋の温度と湿度をチェックしていますから、そのことがよくわかります。特に今年は南側にあったアパートの大きな建物がありませんから、寒い冬の今の時期は、たっぷりと注がれる光を、とてもありがたく感じています。この教会の北隣に住んでおられる方も、そのことを感じているのではないかと思います。

光であるイエス・キリスト
 イエスさまが光であることは、ヨハネの福音書で言えば、まず1章にそのことが書かれています。4節と5節、

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

それから9節、

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 そして、この5節と9節に挟まれた6節から8節に、バプテスマのヨハネのことが書かれています。6節から8節、

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

 このヨハネの証詞が、もう少し後に書かれています。32節から34節までをお読みします。

1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

 ヨハネは光であるイエスさまについて証するために来ました。そしてヨハネは33節でイエスさまのことを聖霊によってバプテスマを授ける方であると言い、そしてイエスさまが神の子であると証言しました。このイエスさまが神の子キリストであることを信じる者には聖霊が与えられて、その者の内には世の光であるイエスさまが入って下さいます。そして世の光が内にある人には、その光が外にあふれ出て、周囲を照らします。たとえば暗い夜道を歩いている時など、家の窓から明るい光が漏れ出ているとホッとするような温かさを感じます。イエスさまが内にいて、イエスさまの光が外に漏れ出ている人からは、そういう温かさを感じます。

あなたがたは、世界の光です
 このようにイエスさまが内にいて、聖霊の光が灯っている人がマタイの福音書でイエスさまがおっしゃっている「世界の光」と言えるのではないかと思います。
 このアドベントの期間中、祈祷会と礼拝とで繰り返しご一緒に読んでいますが、きょうもまたマタイ5章の14節から16節までを交代で読みたいと思います。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 イエスさまは、「あなたがたは、世界の光です」とおっしゃいました。
 この「あなたがたは、世界の光です」を私たちの教会の来年の年間の聖句としたいと考えています。いつもですと、年間の聖句は元旦礼拝の時に発表しますが、来年は教会設立50周年の年であるだけでなく、新会堂の建設に取り組むであろう格別に大切な年となります。この特別な年を前にして、アドベントの時期から、来年の年間の聖句の候補を挙げて、ご一緒に来年に向けて備えて行きたいと願っています。
 それで、きょうは14節だけではなくて16節のほうにも目を留めたいと思います。16節でイエスさまは、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とおっしゃいました。このイエスさまのことばの中にある、「良い行い」とは何かということを、きょうはご一緒に考えたいと思います。

主を愛して礼拝することも「良い行い」
 「良い行い」と聞くと、「人に優しくする」ことや「人に親切にする」ことなどを真っ先に思い浮かべる人が結構いらっしゃるのではないかと思います。これらはもちろん大切なことです。イエスさまは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という命令のことを、とても大事であるとおっしゃっていますから(マルコ12:31他)、私たちが隣人に優しく接して親切にすることはとても大事なことです。
 しかし、イエスさまは同時に、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛する」こともまた大切であるとおっしゃっています(マルコ12:30他)。私は、この「主を愛する」こともまた「良い行い」として挙げたいと思います。私たちが心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛して、心一杯主を賛美して礼拝を捧げるところを地域の人々が見て、地域の人々もまた天におられる私たちの父をあがめるようになると良いと思います。またそうなる必要があると思います。
 私は2001年に父が死んでから教会に通うようになりましたが、学生時代にも会議室のような場所で聖書の話を聞く機会が何度かありました。その時は霊的な雰囲気はまったく感じませんでした。しかし、高津教会に通うようになってから、そこに霊的な雰囲気を感じるようになりました。もちろん、その頃は自分が感じている雰囲気が「霊的」という言葉で表せるものであるという自覚は持っていませんでしたが、単なる形式的な儀式とは異なる独特の何かを感じました。
 私たちの礼拝もまた、霊的な礼拝でありたいと思います。ここでヨハネの福音書4章の19節から24節までを交代で読みましょう。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 23節と24節にあるように、天の父は霊とまことによって礼拝する者を求めておられます。
 そして、この霊とまことによる礼拝を捧げる恵みは、イエスさまを神の子キリストと信じて聖霊が注がれた者に与えられます。聖霊が注がれてイエスさまが内に入って下さった者は、御父と御子との親しい交わりの中に入れていただくことができますから、霊とまことによる礼拝を捧げることができるようになります。

なぜ礼拝を捧げるのか
 では、私たちは一体なぜ礼拝を捧げるのでしょうか。それは神様からの命令であり、私たちが為すべき義務だから、でしょうか。そういう面も多少はあるかもしれません。でもそれが主(おも)な理由ではないでしょう。礼拝は強いられて捧げるものではなく、私たちが自発的に捧げるものではないでしょうか。私たちの内側から主を賛美し、礼拝したいという欲求が沸々と湧き上がって来るからではないでしょうか。言葉では上手く言い表せませんが、そういう内側からの熱い気持ちが存在することを私は確かに感じます。
 そして、その気持ちは自分では上手く表現できなくても、詩篇の詩人たちが的確に言い表してくれています。たとえば、きょう交読した詩篇116篇を見てみましょう。全部見ると時間が掛かりますから、とりあえず1節から4節までを交代で読みましょう。

116:1 私は主を愛する。【主】は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
116:4 そのとき、私は【主】の御名を呼び求めた。「【主】よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

 詩篇116篇の詩人は、私の心を的確に表現してくれていると感じます。かつての私は自分で明確にここまではっきりと主を意識してはいませんでしたが、心の奥底では確かに主を愛し、主を呼び求め、助けを求めていたのだと思います。それは、きっと私が教会に通うようになる前から、そうだったのだろうと思います。私は教会に導かれる前から、誰かに守られているような気がずっとしていたということを、この教会でもお証したことがあります。それが聖書の神様であることを知っていなくても、そのように自分を守ってくれている存在がいることを知っていましたから、自分が危機に瀕した時に心の奥底で助けを求めていたのだと思います。
 続いて5節から8節までを交代で読みましょう。

116:5 【主】は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
116:6 【主】はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。【主】はおまえに、良くしてくださったからだ。
116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

 この部分を改めて読んでみて、私は自分が神学院に入る前に勤務していた職場のことを思い出しました。

苦境から救い出して下さる主
 私が所属していた組織は大学の中の小さな教育施設でしたが、2016年の春、つまり今年の春に、この組織は無くなりました。私がここに職を得たのが1995年で退職したのが2008年です。1990年代の前半までは、どこの大学も、一部の大学を除けばだいたい似たような組織の形態をしていたと思います。しかし90年代の後半に大学の学部から大学院に重点を置くようになってから組織の大胆な編成替えが始まり、2004年に国立大学が法人化されてからは、各大学が生き残りを掛けてより特徴的な大学であろうとして組織の改編がいっそう激しくなりました。私が所属していた弱小組織の教育施設はその組織改編の激しい渦の中で絶えず翻弄されていて、2016年の春に遂に消滅しました。何だか分裂した挙句に消滅したイスラエルの王国のような感じがしないでもありません。イスラエルも弱小国家であり、周囲の強大なエジプトやアッシリヤ、バビロニアなどの国々に絶えず翻弄されていました。
 それはともかく、私は弱小な教育施設の中でもさらに力のない立場の一教員でしたから、様々に精神的に疲弊していました。しかし、主は私を神学院に入る道を開いて下さいました。8節の、

116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

は本当に私のことだなあと思います。私は肉体的な死に瀕していたわけではありませんが、精神的な死に瀕していて、たましいも弱っていました。主は私をそのようなところから救い出して下さり、今はこのように主のために働くことができていますから、本当に感謝にしています。だから私は主を心から賛美して、礼拝します。
 皆さんのお一人お一人もそのような気持ちで礼拝に臨んでいらっしゃることと思いますし、もしまだそのことをハッキリとは自覚していなくても、心の奥底ではそのような主への感謝の思いがあって礼拝に出席されているのだろうと思います。
 そして、この地域には、自分では気付かなくても心の奥底で主を礼拝することを渇望しておられる方々がたくさんいます。そのような方々を私たちは教会にお招きして、共に礼拝を捧げる恵みに与かることができるようになりたいと思います。

おわりに
 そのためには、先ずは私たちの一人一人が何のために自分が礼拝を捧げているのかをハッキリと自覚して、霊とまことによる礼拝を捧げるようにしたいと思います。
 最後にもう一度、詩篇116篇の1節から8節までを交代で読みましょう。

116:1 私は主を愛する。【主】は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
116:4 そのとき、私は【主】の御名を呼び求めた。「【主】よ。どうか私のいのちを助け出してください。」
116:5 【主】は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
116:6 【主】はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。【主】はおまえに、良くしてくださったからだ。
116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

 お祈りいたしましょう。
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聖霊を授けるために来たイエス(2016.12.14 祈り会)

2016-12-15 10:31:31 | 祈り会メッセージ
2016年12月14日祈り会メッセージ
『聖霊を授けるために来たイエス』
【マルコ1:1~8】

マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

はじめに
 先週から話している通り、来年の教会の御言葉はマタイ5:14の「あなたがたは、世界の光です」とすることを検討中です。この後にもう少しみことばを続けて、それを来年の御言葉にしたいと思いますが、それで本当に良いか祈りつつ確かめています。教会の一年間の御言葉は毎週、週報の1ページ目に掲げられ続けます。また多くの教会では会堂に毛筆で書いた御言葉を一年間掲げます。この教会でも以前はそうしていたと聞きます。いずれにしても、一年間ずっと目立つ所に掲げられて私たちを導く言葉となりますから、年間の御言葉を定める任務の重さを感じます。特に来年は会堂建設の着工・完成をと願っている格別に重要な年ですから、元旦にいきなり発表するのでなく、予め候補をお伝えして心備えをしておきたいと願っています。
 私たちが「世界の光」であるとは、イエスさまを信じて聖霊が注がれている私たちの内には世の光であるイエスさまが住んでいて下さるからであり、その私たちの内にある聖霊の光が世の人々を導く光となります。イエスさまはそのために、クリスマスにこの世にお生まれになったということを、このアドベントの期間にしっかりと噛み締めたいと思います。

イエスは聖霊のバプテスマを授ける(マルコ1:8)
 今ご一緒にお読みしたマルコの福音書1章の冒頭では、イエスさまが私たちに聖霊を授けて下さるということが「福音のはじめ」として書かれています。1章1節の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」の「福音」は人によって様々に解釈されていますが、私自身は8節にある「イエスさまが私たちに聖霊のバプテスマを授けて下さること」こそが福音であると考えています。その聖霊を受けるためにはイエスさまが神の子キリストであることを信じ、十字架で死んだイエスさまが復活したことを信じる必要があります。それは使徒の働き2章にも書いてあることですし、私自身の体験からしても、確かなことです。福音書を大切に思っている人でも、復活は科学的に有り得ないということで復活までは信じないという人もいますが、そのような人には残念ながら聖霊は与えられません。それではほんの少ししか恵みを受けられません。ですから聖霊を授かることこそが福音であると言えると私は考えます(単に「聖霊を授かること」と「聖霊のバプテスマを授かること」とは違うのか、違うとしたら何が違うのかの議論は、ここではしません)。

ペテロの説教
 ここで、イエスさまを神の子キリストと信じ、イエスさまが復活したことを信じると聖霊を受けることが書かれている使徒の働き2章を確認しておきましょう。
 ペテロの説教の箇所です。まず使徒2章23節と24節を交代で読みましょう。

使徒2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

 ここでペテロは神がイエスさまをよみがえらせたことを人々に話しました。イエスさまは復活したということです。少し飛ばして今度は32節と33節を交代で読みましょう。

使徒2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

 32節でペテロはもう一度、神がイエスさまをよみがえらせたと言いました。そして33節で、イエスさまが神の右に上げられたことを話しています。つまりイエスさまは神の御子であるということです。そして、36節でペテロは言いました。お読みします。

36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

 ここで心を刺された者たちは、ペテロのことばを信じた者たちです。つまりイエスさまが神の子キリストであることを信じ、イエスさまが復活したことを信じた者たちです。この者たちは聖霊を受けました。
 こうして聖霊を受けた者たちは、霊とまことによって父を礼拝する(ヨハネ4:23,24)ことができるようになって神を愛することができるようになり、そして御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22,23)を結ぶようになって隣人を愛することができるようになります。それは聖霊の働きによってイエスさまに似た者にされて行くということであり、それが世界の光になるということです。

聖霊を受けたイエスが伝えた福音
 ここで、再びイエスさまの宣教の働きの最初の頃に戻りたいと思います。今度はルカ4章を開きましょう。既に礼拝で開いた箇所ですが、もう一度、開きましょう。お読みします。

ルカ4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 この恵みを本当に受け取るためには受け取る者が聖霊を受ける必要があります。ですから、福音とは聖霊を受けることであると言えると私は考えます。そして、聖霊を受けた者は、今度はこのイエスさまと同じ働きをすることが、期待されます。それが世界の光となるということです。

おわりに
 最後に、「あなたがたは、世界の光です」の箇所をご一緒に読んで、終わりたいと思います。マタイ5章の14節から16節までです。

マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 イエスさまは私たちの内に聖霊の光を灯すために、クリスマスにこの世にお生まれになって下さいました。このことの恵みを噛み締めながら、アドベントを歩んで行きたいと思います。そして来年は新しい礼拝堂を建てて、地域の多くの方々とこの恵みを分かち合うことができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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あなたがたは、世界の光です(2016.12.11 礼拝)

2016-12-12 10:13:10 | 礼拝メッセージ
2016年12月11日アドベント第3礼拝メッセージ
『あなたがたは、世界の光です』
【ヨハネ8:12、マタイ5:14~16】

はじめに
 きょう、これから話すことは、7日の水曜日の祈り会で既に話したことと重複する部分が多いですが、このことは多くの皆さんと共有したいと願っていますので、既に水曜日に話を聞いたい皆さんには、ご容赦いただきたいと思います。

神を感じた夕暮れ時
 先週は、良いお天気の日が多い週でした。水曜日の前日の火曜日も良いお天気で、雲一つない快晴でした。この日、私は夕方4時20分ごろに海岸の防潮堤に出て、ジョギングを始めました。いつも大体20~25分ぐらい西の原方面に向かって走り、それから戻って来ます。今はもう4時半頃には日が沈みますので、この日は日没を見ながら西へ向かい、日没後ももう少し西へ向かって走り、それから暗さがどんどん増して行く中を今沢まで戻って来ました。
 日が沈んだ後の清水方面の陸地の上空と駿河湾の水平線の上空がオレンジ色に染まって本当にきれいでした。富士山も薄暗い中でも、まだ良く見えていました。月もきれいで、やがて星も見えて来ました。
 そうして詩篇8篇のみことばが心に浮かびました。3節と4節、

8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

 きのうの土曜日の夕方もそうでしたが、防潮堤の上からの日没前後の眺めは本当に素晴らしくて、私は、いま今沢の地でご奉仕ができていることの幸せを感じます。防潮堤の北側には松林がありますから、4~5階ぐらいの高さの建物なら松林に隠れて見えません。松林の上に顔を出しているのは原にあるマンションのベルメゾンぐらいしかありません。ですから、ベルメゾンから離れていれば360度、素晴らしい景色を見渡すことができます。そして空に雲がない時には暗くなるにつれて宇宙が現れます。火曜日は快晴でしたから、その様に暗くなるにつれて宇宙が出現しました。そして私は、宇宙を支配している神様が、この地球も支配していることを感じました。すっかり暗くなる前には、カラスやトビもまだ飛んでいて、ネコもまだ歩いていました。ススキの穂が揺れている様子も、まだよく見えました。それで神様は私たち人間を愛して下さっているのはもちろん、鳥や動物たちや植物たちのこともまた愛しておられることを感じました。宇宙を支配している神様が、私たちの一人一人、鳥たちの一羽一羽、動物たちの一匹一匹、植物の一本一本を愛しておられることを感じました。

預言者の側に身を置くとわかってくる神の御心
 話は少し飛びますが、近頃私はエレミヤ書を時おり開くようにしています。それは数ヶ月後の『つばさ』誌の「日々の聖句」でエレミヤ書の担当になったからです。私は牧師になってから、エレミヤ書のことがよくわかるようになって、とても身近に感じる書になりました。エレミヤ書の大部分には、霊的に鈍感な人々に神が怒り、滅びの警告を人々に発することばが並んでいますから、あまり良い気分にはならない書です。それゆえエレミヤ書を「好きな書」と言うには躊躇がありますが、とても大切な愛すべき書だと私は思っています。
 どうしてエレミヤ書を身近に感じるようになったかというと、以前の私は神様の愛も、そして御心も何もわからないような者でしたから、エレミヤ書(他の預言書も同様ですが)のことを、警告される人々の側に自分の身も置いて読んでいました。すると、何が書いてあるかほとんどわからないけれど、神様が怒っていることだけはわかるので、怒られてばかりいるつまらない書だという感想を持っていました。しかし、牧師になって毎週のようにメッセージの御用をするようになってからは、神様のことばを預かって人々に伝える預言者のエレミヤの側にも身を置くことができるようになりました。すると、エレミヤ書のことばが以前に比べて格段によくわかるようになりました。もちろん、まだまだわからないことも多いですが、以前に比べたら格段にわかるようになりました。すると、神様は怒ってばかりいるのではなく、それ以上に嘆き悲しんでいるのだということもわかるようになり、神様の愛と御心が一層わかるようになって来ました。すると、今度はエレミヤの立場に身を置くというよりは、エレミヤを通り越してさらに神様に近づき、神様との直接の交わりを感じることができるようになりました。これは聖霊の働きによるものですが、このような神様との交わりを霊的に感じるようになれることは素晴らしい恵みです。
 ですから私は『つばさ』誌の「日々の聖句」でも、エレミヤの側に身を置いて読むことを読者の方々に勧めたいと思っています。そして、できればエレミヤを通り越してさらに神様に大胆に近づく恵みも分かち合うことができたらと思っています。ただし『つばさ』誌が対象とする読者は一般の信徒の方々ですから、牧師のような神様のメッセージを取り次ぐご奉仕をするわけではありません。それゆえ、エレミヤの側に身を置くことは、なかなか難しいであろうことが予想されます。それでも私は、何とかエレミヤの側に身を置くことを読者にお勧めして、さらにはエレミヤを通り越す恵みをお伝えしたいと願っています。そうして神様の御心に近づく恵みを分かち合うことができたらと願っています。

地上ではなかなかわからない神の御心
 さて、ここで、もう一度先ほどの防潮堤の話に戻ります。私は防潮堤に立ち、駿河湾の沿岸の景色を眺め、富士山を眺め、そして月と星を見て、この宇宙と地球とを支配している神様の愛を感じたと話しました。ここでエレミヤ書の話と足し合わせて考えてみていただきたいのですが、防潮堤に立っている私は、実はまだまだ預言者の話を聞くだけの民の側に身を置いています。しかし、その民の側では、神様の御心はなかなかわからないのです。それは専ら神様のことばを受け取る側にしか身を置いていないからです。
 それで、ふと会堂問題のことを思いました。私たちは、どのような礼拝堂を建てるべきか神様の御心を知りたいと願っていますが、地面に立っていて神様から見られるだけの立場に身を置いているだけでは、神様の御心はなかなかわからないのではないかということを示されました。
 では、どうしたら神様の目線でこの地域を見ることができるのか、ドローンでも飛ばせばできるのかなと考えていたところ、Google Earthのことが頭に浮かびましたので、さっそく見ることにしました。
 ご一緒に見てみましょう。

(プロジェクタを使う)
















あなたがたは世界の光です
 ここで聖書のみことばに目を留めたいと思います。先週も開きましたが、まずヨハネ12章8節です。ご一緒に読みましょう。

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 イエスさまは世の光です。しかし、この光は目に見える光とは違います。霊的な領域で私たちを導いて下さる光です。よく開く箇所ですが、ヨハネ14章26節です。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 世の光であるイエスさまは聖霊として私たちの内に入って下さり、内側から私たちにすべてのことを教えて下さり、霊的に導いて下さいます。
 そうして聖霊が内に入り、イエスさまにすべてのことを教えている私たちは、地域の方々を導く光になることが期待されています。それがマタイ5章のみことばです。14節から16節までを交代で読みましょう。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 私たちの内に灯された聖霊の光が、地域の方々にとっての光ともなります。この聖霊の光は私たち一人一人の心に灯っているとともに、キリストの体である教会にも灯っています。ですから、もちろん、このインマヌエル沼津キリスト教会にも灯っています。
 私たちはこの世界の光である聖霊の光が私たちの教会に灯っている様子を、地上で想像するだけでなく、先ほどご一緒に見たGoogle Earthの画像も参考にして想像したいと思います。
 つまり、神様の目線で、神様はこの今沢の地で、インマヌエル沼津キリスト教会の光をどのように灯したいと願っているか、想像したいと思います。私たち一人一人の小さな光が集まれば、もっと明るくて強い光になります。今の私たちの教会の光は、弱い光です。私たちはもう少し明るく輝くようになりたいと思います。ただし、強ければ強いほど良いというものでもなくて、ちょうど良い加減の光があるのだろうと思います。それは、どれぐらいの光でしょうか。それもまた、イエスさまが教え導いて下さるはずです。ですから私たちは心を整えて、イエスさまの御声に耳を澄ましたいと思います。

おわりに
 ただし、もっぱら御声を聞くだけの側に身を置くなら、御心はなかなかわかりません。聖霊を与えられている私たちは神様に大胆に近づく恵みもまた与えられていますから、神様に近い位置からも神様の御心を知るように努めたいと思います。
 そうして狭い限られた視野の中で考えるのでなく、広い視野で、これからの伝道活動と会堂建設のことを考えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「あなたがたは、世界の光です。・・・。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

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神の目線で地域を見る(2016.12.7 祈り会)

2016-12-08 11:24:26 | 祈り会メッセージ
2016年12月7日祈り会メッセージ
『神の目線で地域を見る』
【詩篇8篇、マタイ5:14~16】

はじめに
 先週に続いて今週も私が前半の司会も担当しますから、きょうも前半と後半と関連を持たせて話して行くことにします。そして今日これから話すことは、次の礼拝でも、また話したいと願っています。きょう一度話しておいて、次の日曜日には、もっとわかりやすいものにできたらと思っています。

神を感じた夕暮れ時
 きのうの午後の沼津のお天気は、雲一つない快晴でした。私は夕方4時20分ごろに海岸の防潮堤に出て、ジョギングを始めました。いつも大体20~25分ぐらい西の原方面に向かって走り、それから戻って来ます。今はもう4時半を過ぎると日が沈みますので、きのうは日没を見ながら西へ向かい、日没後ももう少し西へ向かって走り、帰りはもう暗くなりましたから、安全のために自発光式のライトを点けて目立つようにして戻って来ました。
 きのうは日没後の清水方面の陸地の上空と駿河湾の水平線の上空がオレンジ色に染まって本当にきれいでした。富士山もよく見えていました。月もきれいで、やがて星も見えて来ました。
 そうして詩篇8篇のみことばが心に浮かびました。3節と4節、

8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

 きのうの防潮堤の上からの日没前後の眺めは本当に素晴らしくて、いま私がこの今沢の地でご奉仕ができていることの幸せを感じました。これはいつも感じていることですが、きのうはまた格別に強く感じました。空に雲が何もありませんでしたから、暗くなるにつれて宇宙が現れて、宇宙を支配している神様が地球も支配していることを感じました。そして、まだ明るさが残っている時刻でしたから、カラスやトビもまだ飛んでいて、ネコもまだ歩いていました。ススキの穂が揺れている様子も、まだよく見えました。それで神様は私たち人間を愛して下さっているのはもちろん、鳥や動物たちや植物たちのこともまた愛しておられることを感じました。創世記1章の26節には、

1:26 「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

と神様が仰せられたことが書かれています。昔の、神様の愛がまだわかっていなかった頃の私は、この創世記のみことばを読んで、人間があらゆる者たちの中で一番えらいのだということを聖書は言っているのだと解釈していました。しかし、今は違います。神様はすべての地上の生き物たちを愛しておられ、それゆえ、この神様が愛するものたちが失われることがないようにしっかりと治めるようにと人間に託しているのだと感じています。

聞くだけの側にいるとわからない神の御心
 話は少し飛びますが、近頃私はエレミヤ書を時おり開くようにしています。それは『つばさ』誌の「日々の聖句」でエレミヤ書の担当になったからです。私は牧師になってから、エレミヤ書のことがよくわかるようになって、とても身近に感じる書になりました。エレミヤ書の大半は、霊的に鈍感な人々への警告のことばですから、読んでいて、あまり良い気分にはならない書です。それゆえ「好きな書」と言うには躊躇がありますが、とても大切な愛すべき書だと思っています。
 どうしてエレミヤ書を身近に感じるようになったかというと、以前の私は神様の御心も何もわからないような者でしたから、エレミヤ書(他の預言書も同様ですが)のことを、警告される側に身を置いて読んでいました。すると、何が書いてあるかほとんどわからないけれど、神様が怒っていることだけはわかるので、人が怒られてばかりいるつまらない書だという感じを持っていました。しかし、牧師になって毎週のようにメッセージの御用をするようになってからは、神様のことばを預かる預言者のエレミヤの側に身を置くことができるようになりました。すると、エレミヤ書のことばが以前に比べて格段によくわかるようになりました。もちろん、まだまだわからないことも多いですが、以前はほとんどわかりませんでしたから、以前に比べたら格段にわかるようになりました。そうして、神様の御心も少しずつ理解できるようになって来ました。神様は人々を愛しておられますから、何とかして人々が神様の方を向くように再三にわたってエレミヤを通して人々に警告していることを感じることができます。この神様の愛が少しでもわかって来ると、エレミヤ書のように神様の怒りばかりが目立つ書でも、恵まれるようになります。
 そして、いま私は『つばさ』誌の「日々の聖句」でも、エレミヤの側に身を置いて読むことを勧めたいと思っています。ただし『つばさ』誌が対象とする読者は一般の信徒の方々ですから、牧師のような神様のメッセージを取り次ぐご奉仕をするわけではありません。それゆえ、エレミヤの側に身を置くことは、なかなか難しいであろうことが予想されます。それでも私は、何とかエレミヤの側に身を置くことを読者にお勧めして、この恵みを分かち合いたいと願っています。エレミヤの側に身を置くことで神様の御心にずっと近づくことができる恵みを味わうことができるからです。
 さて、ここで、もう一度先ほどの防潮堤の話に戻ります。私は防潮堤に立ち、駿河湾の沿岸の景色を眺め、富士山を眺め、そして月と星を見て、この宇宙と地球とを支配している神様のことを感じたと話しました。ここでエレミヤ書の話と足し合わせて考えてみていただきたいのですが、防潮堤に立っている私は、実はエレミヤの話を聞く側の民に身を置いています。しかし、その民の側では、神様の御心はなかなかわからないのです。

地面にいるだけではわからない神の御心
 それで、ふと会堂問題のことを思いました。私たちは、どのサイズの礼拝堂を建てるべきか神様の御心を知りたいと願っていますが、地面に立っているだけでは、神様の御心はなかなかわからないのではないかということを示されました。
 では、どうしたら神様の目線でこの地域を見ることができるのか、ドローンでも飛ばせばできるのかなと考えていたところ、Google Earthのことが頭に浮かびましたので、さっそく見ることにしました。
 ご一緒に見てみましょう。












 これらの写真は、まだ隣のアパートある時のものですし、しかも教会の屋根もまだ私が青いペンキを塗る以前のものです。カラスがゴミを散らかした一番ひどいタイミングでGoogleの車が通って写真を撮って行きましたから、残念すぎます。
 さて、こうしてGoogle Earthの画像を見ていて私はもう一つ新たなことに気付きました。このGoogle Earthの画像を見始めたきっかけは、神様はこの地にどのような礼拝堂が建つことを望んでいらっしゃるかを知る手掛かりとしたいということでしたが、一般の人々も、この画像を利用するということです。何かのきっかけで教会に行ってみようと思い、このインマヌエル教会を知ったとします。そして、ブログも見てくれるかもしれませんが、このGoogle Earthを使って、どんな教会かを見ようともするかもしれません。今はまだ、そういう人はそんなに多くはないかもしれませんが、5年後10年後には、みんな当たり前のように、このような教会の側が提供する写真ではなくて、Googleのような私たちの意図のまったく及ばない会社が提供する写真を見て、この教会に行こうか行くまいかを判断するかもしれません。その場合、こんなゴミだらけのタイミングで写真を撮られたら最悪ですね。それはともかく、こういうインターネットの画像の見映えも考えた上で新しい会堂を考えるべき時代になりつつあるのだということは意識する必要があると感じます。

神の目線で地域を見る
 そして、これから建設する新しい礼拝堂が、私たちのこれからの伝道の拠点になります。イエスさまはマタイの福音書で、次のようにおっしゃいました。マタイ5章の14節、

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

 そして16節、

5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 この16節にある「良い行い」は、とりあえずは「神様を愛する」ということができれば良いのではないかと思います。「隣人を愛する」ことももちろん大切ですが、それだと皆さんにプレッシャーになり過ぎるかもしれないからです。
 プレッシャー云々というのは、実は私はこのマタイ5章の14節と16節を来年の私たちのみことばにしたらどうかと思っているからです。まだ最終的に決めたわけではありませんが、このように、今年のうちに皆さんに候補をお示しして反応を見るのも良いかなと思って、次の礼拝でも、この考えを話そうかと思います。
 先日の礼拝メッセージでも話しましたが、神様が私たちに「あなたがたは、世界の光です」とおっしゃる時、私たちの心には聖霊が与えられていて、私たちの内には「聖霊の光」が灯っています。神様から見て、私たちには「聖霊の光」が灯っています。そして教会にも「聖霊の光」が灯っています。この神様の目線から見て、私たちの一人一人、そして教会には「聖霊の光」が灯っています。
 この神様の目線を共有するメリットもあって、私は「あなたがたは、世界の光です」を来年の私たちの聖句にすることを示されています。私たちは狭い範囲しか見えない時、羊のように迷いやすくなります。そんな風に迷ってばかりでは、地域の方々を神様の御許にお招きすることはなかなかできません。しかし、「あなたがたは、世界の光です」という神様のことばを神様の目線で味わうなら、私たちは自分たちのことを、もう少し広い視野で見ることができるようになると思います。
 この今沢の地に建てる会堂は、どのような会堂がふさわしいのかについても、Google Earthの画像を参考にして、神様の目線も参考にすることができるならば、神様の御心も知りやすくなるのではないかと思います。
 会堂の設計においては、大きさを先ず決めなければなりませんが、その他にも細かく考えなければならないことがいろいろとあります。そのような時に、狭い視野で考えるのでなく、広い視野で考えたいと思います。

おわりに
 今度の礼拝でも、きょうと同じようなことを話しますが、ご一緒に分かち合い、礼拝後には会堂祈祷会がありますから、共にお祈りをしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
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「聖霊の光」が心に灯るキリスト者

2016-12-05 10:17:36 | 礼拝メッセージ
2016年12月4日アドベント第2礼拝メッセージ
『「聖霊の光」が心に灯るキリスト者』
【ヨハネ8:12、マタイ5:14~16】

・ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
・マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

はじめに
 いまヨハネとマタイの御言葉をお読みしましたが、この箇所は次回もまた取り上げたいと思います。と言うのは、きょうは礼拝後の会堂問題勉強会で皆さんと意見交換する時間をなるべく多く取りたいと思いますから、説教は短くします。ですから、きょうは導入的な話にして、来週もう少し詳しく話すことにします。そして、再来週も同じテーマにします。今回のテーマは、それほど大切なことです。
 それは、「これからのキリスト教会は何を目指すべきか」ということについて私が考えていることを、皆さんと共有したいと私が強く願っているからです。私は必ず共有できると信じていますが、私の説明の仕方がまずくて、すぐには理解できないかもしれません。ですから回数を掛けて説明したいと思います。

弱い方々にどう寄り添うべきか
 おととい私は沼津コーストFMのスタジオで、12月10日放送予定の「潮風の中で」のメッセージの収録に行って来ました。今回で6回目の収録でした。いつもは放送日の前日に収録をしますが、今回は録音の技師さんの都合で、12月3日の放送分と10日の放送分の2回分を収録しました(12月は毎週放送があります)。それで私は自分の収録の前に、もう一人の先生のメッセージをすぐ近くでお聞きする機会に恵まれました。そして、この先生は本当に名説教者だなと思うと同時に、信徒さんの日常に身近に寄り添っている牧師先生だなとしみじみと思いました。
 ご承知の通り、私は信徒の皆さんのお一人お一人に寄り添うということができていませんし、説教にしても私の説教のキーワードは「平和」であったり「永遠」であったりで、平和関連の国際情勢や国内情勢、それに科学的なことや時間論の話などは多くしますが、人の日常生活に寄り添う話はほとんどしません。この点は、私自身も気にはしています。弱い方々にもっと寄り添う牧師にならなければいけないという思いは私も持っています。しかし、私はそうはしていません。なぜなら、やはり私は「平和」を告げ知らせることで召し出された者ですから、それを最優先にする責務があると思っているからです。
 そうは言っても、今回、FMラジオのスタジオで、もう一人の先生の、信徒さんに寄り添う姿勢に感銘を受け、私がそれをしていない問題点を改めて突き付けられていると感じました。そして皆さんの中でも私が信徒に寄り添うタイプの牧師でないことに疑問を持っておられる方もいると思います。ですから、今月は私が考えていることを、じっくりとお話したいと思います。

二つの寄り添い方
 私がなぜ、「平和」や「永遠」にこだわるのか、もう何度もご一緒に開いている箇所ですが、ヨハネの福音書11章を開いて下さい。32節から38節までをお読みします。ここはイエスさまが死んだラザロの墓に来られた場面です。

・ヨハネ11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」35 イエスは涙を流された。36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。

 もう何度も説明しましたから今日は詳しい説明はしませんが、ここには人間のイエスさまと同時に霊的なイエスさまもいて、霊的なイエスさまはエルサレムが廃墟になってしまったことを深く悲しみ、涙を流しています。そして前章の10章で、エレミヤの中にいる霊的なイエスさまが人々に警告していたにも関わらず、人々の霊的な鈍感さのためにエルサレムが廃墟になってしまったことに憤りを覚えています。表層部の人間のイエスさまはラザロを愛していましたが、深層部の霊的なイエスさまはエルサレムを愛していました。 
 このようなヨハネの福音書の深層部の霊的なイエスさまはヨハネ11章だけではなく、1章の深層部の創世記、2章の深層部の出エジプト記に始まって、11章に至るまでのすべての章にいます。ヨハネ4章のイエスさまは表層部ではサマリヤの女に寄り添っていますが、深層部ではエリヤの時代のやもめに寄り添い、アハブ王とイゼベルの不信仰を深く嘆いています。
 表層部の人間のイエスさまも深層部の霊的なイエスさまもどちらもイエスさまです。そして、キリスト教会では、これまでは専ら表層部の人間のイエスさまだけに注目して、説教ではサマリヤの女やラザロに寄り添うイエスさまについて語って来ました。そうして教会の牧師は信徒に寄り添って来ました。一方、私は深層部にいる霊的なイエスさまに注目して、人々の不信仰ゆえに滅んでしまった北王国や南王国のことをイエスさまが深く悲しんでいることを語り、平和の大切さを語ります。
 私は表層部のイエスさまももちろん語られなければならないと思っています。しかし、我田引水的に言うなら、私はこれからのキリスト教会は、もっと霊的なイエスさまを語る必要があるだろうと考えています。こう言うと私が信徒さんに寄り添う牧会ができていないことへの言い訳とも聞こえるかもしれません。確かにそういう面もあるかもしれません。しかし、21世紀の現代は行政面でもNPO活動などにおいても、マスコミの報道においても、弱い方々に寄り添う活動が20世紀の昔と比べれば為されていると思います。もちろん、まだまだ不十分でしょう。ですから、もっともっと弱い方々に寄り添う活動が為されなければなりません。しかし、こう言ったら何ですが、それは教会でなくてもできることです。

霊的に寄り添うことができるキリスト者
 一方、人々に霊的に寄り添うことは聖霊が与えられたキリスト者の私たちにしかできないことです。「霊的に寄り添うこと」とは言葉で言い表すのは難しいですが、霊的な恵みを知っている者が、その素晴らしさを伝えるべく努力することと言えるでしょう。霊的な恵みの素晴らしさは、聖霊が注がれた者にしかわかりません。聖霊が注がれるとこんなに素晴らしい恵みがあるのだということを伝えて、その人にも聖霊が注がれるように導く働きに、キリスト者はもっと取り組む必要があるだろうと私は考えます。
 このことは来週以降、さらに深めますが、きょうの聖書箇所の一つめの、ヨハネ8:12をご一緒に読みましょう。

・ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 聖霊が注がれて霊的な目が開かれた者は、「世の光」であるイエスさまが内にいることを感じます。聖霊によって光であるイエスさまが内にいることがわかるのですから、これを「聖霊の光」が灯ると呼びたいと思います。イエスさまは、この「聖霊の光」を私たちの心に灯すために、人として、この世にお生まれになりました。
 そして、もう一つのきょうの聖書箇所のマタイ5:14~16を交代で読みましょう。

・マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 イエスさは、「あなたがたは、世界の光です」とおっしゃいました。この「世界の光」とは「聖霊の光」が内に灯っているキリスト者のことです。このように聖霊が注がれている者なら、マタイ5:9にある「平和をつくる者」になることができます。逆に言えば、私たちの内に聖霊の光が灯っていないなら、敵を愛して迫害する者のために祈ること(マタイ5:44)など、到底できませんから、平和をつくる者になることは難しいでしょう。私たちの内にイエスさまがいないなら自分に対して罪を犯した兄弟を、七度を七十倍するまで赦すこと(マタイ18:22)など、絶対にできないでしょう。人を赦すことができない者が平和をつくることはできません。

おわりに
 私たちはこのように「聖霊の光」が内に灯っている者として、人々に霊的に寄り添うことができる者たちでありたいと思います。それが、これからのキリスト教会が目指すべきことだと私は考えます。
 さて最後に、このことを念頭に置いて、会堂問題勉強会への備えを少ししておきたいと思います。
(後略)

 お祈りいたしましょう。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
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心に灯される「聖霊の光」の励まし(2016.11.30 祈り会)

2016-12-01 09:31:23 | 祈り会メッセージ
2016年11月30日祈り会メッセージ
『心に灯される「聖霊の光」の励まし』
【ヨハネ1:5、9】

はじめに
 いま教会は、イエス・キリストの誕生を待ち望むアドベントの期間の中を通っています。きょうは、今年の出来事を振り返りながら、クリスマスのメッセージへとつなげて行きたいと思います。

「励まし、励まされる」関係
 2016年の今年の夏にはリオデジャネイロでオリンピックとパラリンピックが開催されました。この大会には日本からも大勢の選手が参加しましたが、今大会では10代の若い選手の活躍が目立ったと思います。この10代の若い選手たちのインタビューを聞いていると、彼ら/彼女らは、自分が頑張っている姿を通して人々を励ましたいというようなことを言います。高校野球の選手たちなどからも、よくこういう言葉を聞ききますが、今年はオリンピック・パラリンピックの年だったということで、野球以外の競技の若い選手たちも、このように語る姿をテレビで何度か見ました。
 ここからは、若い選手たちが、人を励ますことができる存在に自分がなることに非常に憧れていることが見て取れると思います。この若い選手たちの中にも自分が憧れている先輩の選手がいて、その先輩の選手の頑張りに自分が励まされているので、今度は自分が活躍して、人を励ましたいと思うのでしょう。
 これは、とても貴いことだと思います。そして、人は本当に励ましを必要としているのだなということを私は改めて感じ入りました。興味深いのは、人を励ましたいと言うのは専ら若い選手たちであって、既に活躍しているベテランの選手になると、人を励ましたいとは、滅多に言わないことです。ベテランの選手は、励まされているのはむしろ自分のほうであると感じているからなのだろうと思います。
 被災地の支援ボランティアの経験者なども、そのような話をします。被災地の人々を励ますつもりでボランティアに参加したら、被災地の人々が頑張っている姿を見て逆に自分のほうが励まされたということをよく聞きます。このように謙虚な気持ちを持つボランティアの人々の存在は地元の人々にとって、大きな励ましになっていることは言うまでもないと思います。このような「励まし、励まされる」関係は本当に貴いことだと思います。

『君の名は。』と『この世界の片隅に』に見られる励まし合う関係
 今年話題になっていることについての話を、もう少し続けます。今度は、二つのアニメーション映画の『君の名は。』と『この世界の片隅に』についてです。
 まず、8月の末に公開が始まった『君の名は。』に関しては、興行収入が約200億円になるなど、製作者側も驚くほどの予想外の大ヒットとなったことでメディアを賑わしています。なぜこれほどの大ヒットになったのか、様々に論じられていますが、私は一つの要因として、登場人物たちが「励まし、励まされる」関係の中にあり、それを観る観客の私たちもまた励まされることを挙げたいと思います。『君の名は。』の主人公の二人の男女の高校生は、時間と空間を越えて励まし合います。そして、この励まし合いの関係は、都会と田舎という二人のそれぞれの地元においても仲間たちとの間で見られます。この励まし合いの関係に勇気付けられる観客も少なくないのではと私は思いました。
 もう一つ取り上げたいのは、11月の中旬に公開が始まった『この世界の片隅に』というアニメーション映画のことです。静岡県の東部での上映は今のところ来年の1月からとなっていますが、この映画の評判が大変に良いことから、いま新たに上映する劇場が全国で続々と増えています。この映画にも、様々な励まし合いの関係があります。『この世界の片隅に』は広島市と呉市が舞台で、時代は昭和8年の戦前から昭和20年の戦後に掛けてです。ご承知のように昭和20年に広島には原爆が投下され、呉市も軍艦が出入りする軍港と造船所があったことで空襲による甚大な被害を受けました。この映画の登場人物たちは、このような暗い時代の中にあっても決して絶望することなく励まし合いながら、日々を過ごして行きます。この姿に、観る側の私たちもまた励ましを受けます。
 また、この作品は映画の中身以前に、その外側で様々な励まし合いがあった映画でした。『この世界の片隅に』は同名の漫画が原作となっていますが、映画の製作を始めた当初は十分な資金が得られず、製作を進める過程で資金難に陥りました。それでインターネットのクラウドファンディングで出資を募ったところ、原作の漫画のファンや映画ファンの多くが出資に応じて短期間で目標金額に達しました。この原作ファンと映画ファンの応援に大いに励まされた製作者たちは、無事に映画の完成と上映に漕ぎ着けることができました。そして、この映画は、NHKの朝のドラマの『あまちゃん』で主役を演じた能年玲奈さんが芸名を「のん」と改めてからの初めて本格的な仕事をした復帰作となりました。のんさんは長い期間、女優の仕事から遠ざかっていたため、多くのファンがやきもきしていましたが、復帰したことで励ましの意味も込めて、この映画を熱烈に応援しています。このファンの応援に、のんさんも、きっと大きな励ましを受けていることと思います。
 そして、このアニメーション映画の『この世界の片隅に』には、私はキリスト教会の牧師としてもう一つ、励ましを受けていることがあります。 アニメーション映画の『この世界の片隅に』は、昭和8年12月の広島から物語が始まります。12月ということで広島市の中心部の商店街では、歳末の大売出しがされていて、クリスマスのサンタクロースの姿も映画では描かれています。そして、この映画の音楽では、今も聞いていただいた賛美歌の「神の御子は今宵しも」のメロディーが流れます。私は教会の牧師ですから、まず、この賛美歌のメロディーが映画の中で流れたことに励ましを受けました。そして、昭和8年という時代には、日本でもまだ街中でクリスマスを祝う飾り付けが為されていたのだなということに、しみじみと感じ入るものを感じました。このアニメーション映画では、監督のこだわりで広島の繁華街の街並みも、できる限り当時の様子を忠実に再現しています。そして、この映画で描写している人々が賑やかに行き交う商店街が原爆によって完全に失われたことに大きな悲しみを覚えます。この商店街のすぐ近くにある産業奨励館の立派な建物も原爆ドームになってしまいました。
 しかし、まだ暗い時代に突入する前の昭和8年の当時には、まだ広島の街にもクリスマスを祝う雰囲気があったことを、今回のアニメーション映画の『この世界の片隅に』で観て、キリスト教会の牧師の私は大いに励ましを受けました。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスには、人の心を明るくして、励ます力があります。それはどうしてでしょうか。それは、イエス・キリストが「光」であるからです。

私たちを内から励ます「聖霊の光」
 ここで聖書をお読みします。新約聖書のヨハネの福音書1章の5節と9節です。

 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 9 すべての人を照らす、そのまことの光が世に来ようとしていた。

 イエス・キリストは闇を照らす光でした。二千年前、ユダヤの人々の多くはローマ帝国の支配の下で苦しんでいました。その苦しみから人々を救う救い主としてイエス・キリストはこの世に生まれました。赤ちゃんのイエスが家畜小屋で母マリヤから生まれた時、このことを天使から知らされた羊飼いたちは、この家畜小屋に駆け付けて、大きな励ましを受けました。母マリヤと父ヨセフもまた、励ましを受けたことでしょう。
 そして、この励ましは21世紀の私たちもまた受けています。それは、このイエスの物語を信じる者には神から聖霊が注がれるからです。聖霊は神の霊であり、イエスの霊ですから「光」です。この「聖霊の光」が私たちの心の内に入り、私たちを内側から明るくしてくれます。
 映画の『この世界の片隅に』では、日本が昭和20年に向かって次第に暗くなって行く様子が描かれていますが、私は21世紀の現代も、今や急速に暗さが増し加わっているように感じています。戦後の20世紀後半に子供時代を過ごした私にとっては、21世紀の未来は、バラ色の明るい未来であるように予想していました。しかし、実際に21世紀になってみると、予想とはまったく異なりました。21世紀になったばかりの2001年の9月11日にアメリカで同時多発テロが起こり、これをきっかけにしてイラク戦争が起きました。そして、この混乱に乗じて過激な国際テロ組織がますます勢力を強めるようになりました。このことで多数の難民が出ましたが、その受け入れを巡ってEUの結束が弱まっています。さらにアメリカも来年1月に大統領が交代したら国際的な協調よりも内向きの姿勢が強まる方向に進みそうです。
 このような国際情勢は日本にも大きな影響を及ぼすことでしょう。また日本国内においても今年の2016年だけでも凶悪な事件があったり、台風や火山噴火、地震やそれに伴う津波などの自然災害があったりして、この先、さらに大きな事件や災害に巻き込まれる不安があります。私たちは予測が困難な暗闇の中を歩いているようなものです。
 しかし、そんな中においても私たちの心の内に灯される「聖霊の光」は、私たちの心に大きな励ましを与えてくれます。外の世界、すなわち国際情勢や国内情勢がどんなに暗く、不安に満ちたものであっても、「聖霊の光」は私たちを内側から励まし、私たちに不思議な心の平安を与えてくれます。このことは本当に感謝なことです。
 ですから私たちは、この恵みをもたらしてくれたイエス・キリストの誕生を心一杯、賛美してクリスマスもお祝いをします。

おわりに
 このクリスマスの恵みに感謝して、最後にまた、ヨハネの福音書1章の5節と9節を読みましょう。

 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 9 すべての人を照らす、そのまことの光が世に来ようとしていた。
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