2017年10月22日教団創立記念礼拝メッセージ
『恐れないで「霊的イエス」を証言し続ける ~聖書って、こんなに面白いんだ!』
【使徒18:4~11、ヨハネ2:1~4】
はじめに
きょうの礼拝は教団創立記念礼拝です。前半は連講中の使徒の働きの18章を見て、後半は教団と日本のキリスト教会の現状と将来についての話につなげて行きたいと思います。教団の創設時を振り返るよりは、日本のキリスト教会の将来について今の私が示されていることを、お話しできたらと願っています。
コリントで教え続けたパウロ
では、いつものように使徒の働きの学びから始めます。前回は使徒18章の1節から3節までを見た後で少し先回りをして、パウロの第二次伝道旅行と第三次伝道旅行のこの先の足取りを確認し、そこにアクラとプリスキラがどのように関わって行ったかについて学びました。アクラとプリスキラの夫妻はパウロと共にコリントで1年半、エペソで約2年を過ごして、強い信頼関係が築かれました。
それでは先週の続きの4節以降を見て行きましょう。まず4節、
4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。
ここまではパウロはコリントの町にシラスとテモテを伴わないで来ていました。彼らとはベレヤの町で別れたままになっていました。しかし、ここでシラスとテモテとまた合流することができました。5節です。
5 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。
しかし、ユダヤ人たちはパウロのことばを受け入れようとしませんでした。6節、
6 しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。
そして、異邦人であるコリント人の多くが信仰に入ったことが次に書かれています。
7 そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。8 会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。
パウロが後に書いたコリント人への手紙第一と第二は、この第二次伝道旅行のコリント伝道の時に信仰に入った人たちに向けた手紙ですね。
恐れないで語り続ける
さて、ある夜にパウロは主から語り掛けを受けました。9節から11節です。
9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。11 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
9節は有名な聖句ですね。説教などでよく引用されます。ここまでパウロは、ユダヤ人たちから様々な迫害や妨害に遭って来ました。それで、どの町においても、そんなに長く滞在することはありませんでした。テサロニケとベレヤでは大きな騒ぎがあったことを、少し前にご一緒に学びました。きょう見た箇所でも、「彼らが反抗して暴言を吐いた」とあります。ですから、このコリントの町でも大きな騒動が起きる心配があったと思います。しかし主は10節で、「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」とおっしゃって下さいました。こうして、パウロはコリントに一年半じっくりと腰を据えて、コリントの人々の間で神のことばを教え続けました。
なぜ、ユダヤ人たちはパウロを迫害したのか。それは、かつてパウロがイエスを信じる者たちを迫害していた理由と同じだろうと思います。十字架に掛かって死んだイエスはユダヤ人から見れば神から呪われた者でしたから、そんな者がメシヤ/キリストであるはずがありません。迫害は過激ですが、ユダヤ人たちが容易にイエスを信じなかったのは、ある意味では仕方のないことだとも言えるかもしれません。
その点、異邦人のギリシャ人たちはそもそも旧約聖書のバックグラウンドを持っていませんから、かえって伝道しやすかったとも言えるでしょう。ここで多くのコリント人たちが信仰に入りました。
状況を変える力を秘めている『ヨハネの福音書』
さて、きょうは教団創立記念礼拝です。いまご一緒に読んだ箇所に、私は一筋の光明を見たように思いますので、後半は今の教団と日本のキリスト教会が置かれている状況とパウロが置かれていた状況とを絡めながら話を進めてみたいと思います。
ご承知のように、教団は牧師不足の問題を抱えており、今のところ改善する兆しは見られません。ですから牧師は今後ますます不足する見通しになっています。これは私たちの教団だけの話ではなくて、キリスト教の大半の教団が抱えている問題です。それだけに深刻な問題です。
今のキリスト教会の年齢構成は、ほとんどの教団において牧師も信徒も高齢側に偏っていることと思います。牧師も信徒も若い人が足りません。この状況が続くなら、今の教会の数を維持することは困難ですから、教会の数は減って行かざるを得ません。
こういう状況の中に今の日本のキリスト教会はありますが、そんな中で私は『ヨハネの福音書』が、この状況を変える大きな力を秘めていると確信しています。ヨハネの福音書は、これまで私たちが教えられて来たような書ではないことが、いよいよハッキリして来ました。あとでまた説明しますが、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく異なる目的で書かれた書です。ただし、このことが多くの人に理解されるまでには長い時間が掛かるだろうと私は思っていました。しかし、そんな悠長なことは言っていられなくなりました。なぜなら、私たちの教会自体がこの深刻な問題の大水に飲み込まれそうになっているからです。きょうの聖書交読は詩篇69篇を交代で読みましたが、私たちはまさに大水の底に陥り、奔流が私たちを押し流そうとしています(詩篇69:2)。
「聖書って、こんなに面白いんだ!」
私たちは、今の状況を変える可能性を秘めた『ヨハネの福音書』の秘密を知りながら、このまま大きな波に飲み込まれて行くわけにはいきません。それで、教団創立記念礼拝の今日のメッセージのタイトルは、『恐れないで「霊的イエス」を証言し続ける』としました。きょうの使徒18章9節で主はパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」と語り掛けました。私も同様の語り掛けを主から受けていると感じていて、ヨハネの福音書の「霊的イエス」を恐れないで証言し続けなければならないと示されています。
日本のキリスト教会がなぜ、今のような状況になってしまったのか。一つの要因は、聖書が「つまらない書物」だと思われているからだと思います。きょうは衆議院選挙の投票日ですから、選挙のことと併せて考えてみたいと思います。今の日本人は選挙も「つまらない」と思っている人が多いようです。昨年の参議院選挙の投票率は約55%でした。45%もの人々が投票しませんでした。特に若い人が投票所に行きません。選挙がつまらないものだと思われるようになった責任の大半は政治家にあるでしょう。同様に、聖書がつまらないものだと思われている責任の大半は牧師にあるのだろうと思います。
選挙はつまらないものではなく、一人一人が期待を持って投票所に足を運んで一票を投じることで、日本は変わります。聖書もつまらないものではなく、一人一人が期待を持って聖書を開くことで日本は変わり、さらに聖書の場合には世界までもが変わります。聖書は「世界のベストセラー」とも呼ばれますから、それくらい大きな力を秘めています。
きょうはヨハネ2章を開いて、残りの時間で「聖書ってこんなに面白いんだ」という話ができたらと思います。この面白さを感じてもらえないとしたら、私の力不足ということになります。
主役は「霊的イエス」であるヨハネの福音書
ヨハネは「霊的イエス」を「人間イエス」の上に重ねる手法で私たちが神を見ることができるようにしてくれました。ヨハネの福音書の主役は「霊的イエス」であって、「人間イエス」は脇役です。
一方、マタイ・マルコ・ルカの福音書の主役は「人間イエス」です。マタイ・マルコ・ルカの福音書の「人間イエス」に関する証言を受け入れてイエスが神の子キリストと信じるなら、その者は聖霊を受けます。そして聖霊を受けた者は「霊的イエス」が見えるようになることをヨハネの福音書は教えてくれています。
また記者のヨハネはさらに、この福音書の読者に「霊的イエス」の新たな証人として加わるように求めています。そうして証言が増えていくなら、世界は証言が記された書物を収めきれないほどになります(ヨハネ21:25)。
さて、「霊的イエス」は主に旧約の時代の預言者の内と、使徒の時代のクリスチャンの内にいます。預言者もクリスチャンも聖霊が注がれていますから、その者の内にはイエスさまが住んでいます。これが「霊的イエス」です。きょうはこの「霊的イエス」の例をヨハネ2章で見ることにしたいと思います。
ヨハネ2章の背後にある「旧約の時代」は、出エジプト記の時代です。従って、「霊的イエス」は預言者のモーセの内にいます。この2章には「使徒の時代」のペンテコステの日の「霊的イエス」も重ねられていますが、きょうは「旧約の時代」だけを見ることにします。
聖霊を受けたモーセの内にいる「霊的イエス」
ヨハネ2:4でイエスさまは母に、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いました。ここで記者のヨハネは、この福音書の主役は「霊的イエス」であって、「人間イエス」ではないことを読者の私たちに教えてくれています。もし主役が「人間イエス」であったら、母に向かってこんな失礼な言い方はしないでしょう。しかし母のマリヤはモーセの母ではありませんから、モーセの内にいるイエスさまにとってマリヤは何の関係もありません。また、記者のヨハネはここに、モーセがエジプトの王女の息子として育てられたという事情も重ねているかもしれません。ここにはヨハネ流のユーモアがあります。このヨハネの福音書独特のユーモアを、ぜひ多くの方々に理解していただきたいと思います。
次にイエスさまが水をぶどう酒に変えた最初のしるし(ヨハネ2:11)は、神様がナイル川の水を血に変えた「最初の災い」に重ねられています。モーセがナイル川の水を杖で打つと、ナイル川の水は血に変わりました(出エジプト7:20)。この時のモーセの内には「霊的イエス」がいたとヨハネの福音書は記しています。カナの婚礼の祝い事を「災い」と重ねることに違和感を覚える方もいるかもしれませんが、この災いによってイスラエルの民はエジプトを脱出できる恵みに与ったのですから、出エジプトの場合には祝福と災いを重ねても構わないでしょう。
十の災い
この災いは「十の災い」の中の最初の災いです。そして、二番目から九番目の災いは
②カエル、③ブヨ、④アブ、⑤家畜の疫病、⑥腫れ物、⑦雹、⑧イナゴ、⑨暗闇です。この二番目から九番目の災いをヨハネは、12節に重ねています。
その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(ヨハネ2:12)
ここに「長い日数ではなかった」とありますね。これは二番目から九番目の災いには長い日数が掛からなかったということです。
そして十番目の災いは「初子の死」の死ですね。この初子の死をイスラエル人たちは「過越」によって免れました。このことをヨハネは13節の
ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。(ヨハネ2:13)
で表しています。イスラエル人たちは、かもいと門柱に羊の血を塗って目印を付けましたから、神はそのイスラエル人の家を過ぎ越して行きました。しかし、エジプト人の家では王家の初子も家畜の初子も、ことごとく死にました。こうしてエジプトの王はイスラエル人たちにエジプトを出て行くように命じました。
海の水に飲み込まれたエジプトの王の軍勢
しかし、皆さんご存知のように、この後、エジプトの王の軍勢がイスラエル人たちを追い掛けます。そうして二つに割れた海の水に飲み込まれて死んでしまいます。そのことが、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」という詩篇69篇9節の引用で表しています。
きょうの聖書交読で読んだように、詩篇69篇の1節と2節には次のようにあります。
1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、入って来ましたから。2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。(詩篇69:1-2)
こうしてエジプトの軍勢は海の水に飲み込まれてしまいました。この主の御業を見て、イスラエル人たちは神を信じました。ここは出エジプト記をご一緒に見ましょう。出エジプト記14章の29節~31節です。
29 イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。31 イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14:29-31)
こうして、イスラエルの民は主とモーセを信じました。そのモーセの中には「霊的イエス」がいます。このことをヨハネは2:23で表しています。
イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。(ヨハネ2:23)
人の心の内をすべて知っている神
しかし、イスラエル人たちは水と食べ物のことで、すぐに不平不満をつぶやくようになりました。出エジプト16章の2節と3節を交代で読みましょう。
2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。(出エジプト16:2-3)
このつぶやきは、モーセとアロンに対するもので、イスラエル人たちは神に直接不平不満をぶつけたわけではありませんでした。しかし、神は彼らの心の内をすべてご存知でした。それがヨハネ2:24-25に表されています。新改訳第3版ではわかりにくいので、新改訳2017を週報のp.3に載せておきました。
24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:24-25、新改訳2017)
25節にあるように、イエスさまは人の心の内に何があるか、不平不満があるのか、感謝があるのか、神への愛があるのか、すべてをご存知でした。
このように、ヨハネの福音書の2章の背後には、こんなにも細かく出エジプト記の出来事が重ねられています。そして、ヨハネはさらにこのヨハネ2章に、「使徒の時代」も重ねていますが、ややこしくなるので、きょうは省略します。
おわりに ~聖書って本当に面白い
このようなヨハネの福音書のことを私は、本当に面白いと思います。この面白さが皆さんに上手く伝わっていないとしたら、とても残念ですし、責任を感じます。こんなに面白い聖書を私たちに与えて下さった神様に申し訳なく思います。
このヨハネの福音書の面白さは、まだほとんど知られていません。6月に「『ヨハネの福音書』と「夕凪の街 桜の国」』という本を出しましたが、特に話題になったわけではありませんから、ヨハネの福音書の面白さは相変わらず知られていません。このことを私は神様に申し訳なく思います。しかし逆に言えば、まだまだ知られていないからこそ、今の困難な状況を大きく変える大きな力を秘めているとも思っています。特に若い人々が、「聖書って、こんなにも面白い書だったんだ!」と思ってくれるようになるなら、状況は大きく変わると思います。
ヨハネの福音書は、こんなにも大きな力を秘めています。ですから私は悲観する必要はないと思っています。皆さんはいかがでしょうか。共に、このヨハネの福音書の面白さを分かち合うことができると、うれしく思います。
お祈りいたしましょう。