インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

重なりを感じて分離する(2018.8.1 祈り会)

2018-08-02 09:07:36 | 祈り会メッセージ
2018年8月1日祈り会メッセージ
『平和のために:重なりを感じて分離する』
【ヨハネ3:16、ホセア11:8、エレミヤ18:1~8】

戦争と平和を考える8月
 8月に入りましたから、今年もまた戦争と平和について考えてみたいと思います。
 いま広島の平和記念資料館(原爆資料館)はリニューアルの工事中です。資料館は東館と本館とに分かれていますから、まず東館の内部の展示が新しくなりました。そして今は本館の内部の展示の入れ替えが進められています。それと同時に建物の耐震性を向上させる工事も行われているそうです。それに先がけて本館の周囲の発掘調査が行われて、深い場所からは江戸時代や戦前の物が出て来て、その上からは原爆が投下されて焦土となった時の様々な物が出て来たそうです。平和公園は原爆の後の火災で焼けた建物の残骸の上に土を盛って作られましたから、土を掘り返すと、下から被爆当時の物がいろいろと出て来るのですね。それらが今、先にリニューアルされた東館で展示されているそうです。

時代の重なりを感じる
 これは去年私が出した本にも書いたことですが、広島の平和公園の中にいると、これらの時代の重なりを感じることができます。今の平和公園の中の敷地は広々としていますが、原爆が投下される前には、ここには多くの民家や商家が立ち並んでいて、多くの人々が暮らしていました。一昨年公開されて大ヒットしたアニメーション映画の『この世界の片隅に』でも、原爆投下前のこの地域で人々が行き交う様子が生き生きと描かれています。広島の平和公園は、表面上は広々とした土地が見えていますが、その下には人々が生活していた時の地層と、原爆投下によって焦土となった地層があります。これらを同時に感じることで、私たちは平和の貴さをより深く感じることができると思います。平和公園の中にいると、言いようもない何かを感じますが、その言いようもない何かを分離するなら、戦前のこの場所と原爆投下時の場所と、戦後きれいに整備されたこの公園のそれそれから発せられているものの三つに分けることができるのだろうと思います。
 私たちは五感でいろいろなものを感じますが、たいていのものは単純ではなくて色々なものが重なっています。料理の味も単純に甘いとか辛いとかではなく、様々な味が重なり合って深い味を出しています。音楽もオーケストラの管弦楽曲などは管楽器、弦楽器、打楽器の重なりによって深くて重厚な音になります。面白いのは、管楽器と弦楽器とがまったく同じ旋律を演奏して重なっていても、人間の耳は聞き分けることができることです。人間の耳ってすごいなと思います。

音の重なりを分離できる人間の耳
 最近は、CDの登場によって一時は廃れていたアナログのレコード盤の人気がまた復活して来ているそうですね。このレコード盤に音を記録して再生する技術もすごいなと関心します。レコード盤の溝を針がなぞって音を再生するわけですが、溝の右と左にはステレオの右と左の違う音が記録されているのだそうですね。この溝が左右45度の角度で刻まれているので、互いに90度違う方向になっているということで、左右の音を分離できるようになっているそうです。そうして溝の左右の凹凸にはオーケストラの曲なら管楽器、弦楽器、打楽器の音が重なった凸凹が記録されています。ステレオの再生装置は、この凸凹を単純に増幅してスピーカーの紙の動きとして再生しているだけだということです。このスピーカーの紙の細かい振動が空気を振動させて音波になり、人間の耳の鼓膜は、このスピーカーの紙の細かい振動を再現します。ですから、耳の鼓膜の動きは、簡単に言えばレコード盤に彫られた溝の凹凸と同じ動きをするということです。この凹凸には先ほども言ったように管楽器の音と弦楽器の音などが重なっているのですが、人間の耳はそれらを分離することができるのですから、本当にすごいなあと思います。
 ただし、これらの楽器の音の重なりを分離することは、耳の感覚を研ぎ澄まさないと、できないでしょう。それぞれの楽器の音の特徴を知り、耳の感覚を研ぎ澄ますことで分かるものでしょう。そうして様々な音が重なり合っていることを感じるなら、より深い感動を得られることでしょう。これは勉強した上で感覚を研ぎ澄ますことで得られる感動です。勉強が必要だという意味では、「知的な感動」と言えるのかもしれません。

カレーの味の深さ
 カレーライスのカレーの味わいも、それと同様かもしれません。カレーは様々な香辛料が混ぜ合わされてカレー独特の味になります。ガラムマサラ、ターメリック、コリアンダーなどの名前を聞いたことがあると思います。そういうことを知らないで単純に「おいしい、おいしい」と言ってカレーを食べるだけでも私たちは十分に満足するかもしれません。しかし、香辛料のことを勉強して学び、これらが重なり合うと、こんなにも深い味になるのだということが分かると、もっとカレーの味に感動することができるようになるのだろうと思います。そういう意味で、深い感動というものは勉強を必要とする「知的な感動」と言えるのでしょう。そして、この感動を得るにはもちろん勉強だけでなく舌の感覚を研ぎ澄ますことが必要です。舌の感覚が研ぎ澄まされるなら、カレーを食べただけで、どの香辛料がどれぐらいの割合で使われているかが、ある程度はわかるようになり、カレーを極めることができるのだろうと思います。
 聖書から得られる感動も同じで、「知的な感動」の部分が大きいのかもしれません。聖書を創世記から黙示録までの66の書の通読をすることが推奨されるのも、聖書の記述には様々な重なり合いがあるからです。例えばマタイの福音書には「預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現がたくさん出て来ます。旧約聖書を知らずに新約聖書を読むだけでも、それなりの感動を得ることは可能だと思いますが、旧約聖書を知っているなら、新約聖書からより一層深い感動を得られるようになります。そのためには、旧約聖書を読むという学びが必要ですし、新約聖書の記述に旧約聖書のどこが重ねられているかを読み取る感覚を研ぎ澄ます必要があります。この感覚が研ぎ澄まされると、聖書の一つの記述には、実に多くの重なりがあること分かり、感動も深まることでしょう。

ヨハネ3:16に重なる聖句
 例として、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16を考えてみましょう。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16には聖書のエッセンスが凝縮されていることから「聖書の中の聖書」と呼ばれています。つまり、聖書の非常に多くの箇所がここには重ねられているということです。ちょっと考えただけでも多くの箇所が思い浮かびます。そして、それらとの重なりを思い巡らすなら深い感動が得られます。その感動の深さは聖書をどれだけ学んでいるかということと、重なりを分離できる感覚がどれだけ研ぎ澄まされているかによるのだと思います。カレーの知識を持たずに単純に「おいしい、おいしい」と言っているだけでなく、香辛料について学ぶなら、もっとカレーに感動することができるように、聖書も学びを進めることで、もっと深い感動を得ることができます。
 では、このヨハネ3:16からは、聖書のどの箇所の重なりを感じることができるでしょうか。まず14節からわかるように、ここでは十字架が語られていますから、創世記、出エジプト記、レビ記、詩篇、イザヤ書などから色々な箇所を思い起こすことでしょう。きょうは、それら十字架に関係した箇所でなく、「神が世を愛された」に関連した箇所から、二箇所だけ、ご一緒に読むことにしたいと思います。神の愛が感じられる箇所は旧約聖書には本当にたくさんありますから、二箇所だけでは少なすぎますが、時間の関係もありますから、二箇所だけにしておきます。

ホセア書とエレミヤ書から溢れ出す神の愛
 まず、ホセア11:8をご一緒に読みましょう(旧約聖書p.1547)。

11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 エフライムというのはイスラエルの北王国のことです。アデマとツェボイムというのはソドムとゴモラの近くにあった町で、神が創世記の時代にソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼした時に、一緒に滅ぼされてしまいました(申命記29:23)。神はイスラエルの民を愛していましたから、北王国をそれらの町のように滅ぼしたくはありませんでした。ですから、ホセアを通してイスラエルの民が神とともに歩むことができるように手を尽くしましたが、結局は上手く行かず、神はアッシリアを使って北王国を滅ぼすことになってしまいました。これは神にとっては大きな悲しみでした。
 もう一箇所、エレミヤ書を開きましょう。エレミヤ18章の1節から8節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1323)。

18:1 【主】からエレミヤに、このようなことばがあった。
18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」
18:3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
18:5 それから、私に次のような【主】のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──【主】のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
18:7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。

 6節の「イスラエルの家よ」というのは、今度は南王国のことです。主は既に北王国を滅ぼしていました。これはイスラエルの民を愛する主にとっては本当に悲しいことでした。ですから、南王国を北王国のように滅ぼすことは、決してしたくないことでした。それでエレミヤを通して8節のように仰せられました「もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
 しかし南王国の王と民は、エレミヤの警告に従わなかったので、結局は南王国を滅ぼすことになってしまいました。北王国の滅亡だけでも十分すぎるほどに悲しいのに、なお南王国をも滅ぼさなければならなかったことに、主はどれだけ悲しい思いをしたことでしょうか。

おわりに
 ヨハネ3:16には、これらすべてのことが重なっているのですね。主は北王国を滅ぼし、南王国をも滅ぼしました。しかし、それでもなお人々は主と共に歩むことが上手くできないでいました。南王国の滅亡を教訓にしてパリサイ人たちのようにモーセの律法をきっちりと守る人々もいましたが、主の目から見れば、パリサイ人たちも主から離れているように見えました。人々はどうしても主と共に歩むことが上手にできません。そこで主は聖霊を遣わして一人一人の内に住むようにすることにしました。しかし、神である聖霊、神の聖い霊を罪で汚れた人々の内に遣わすわけにはいきません。イエスさまの十字架は、その罪の聖めのために、どうしても必要なことでした。ひとり子を十字架に付けるような、むごいことは父なる神にとっても避けたいことだったことでしょう。しかし、人々を愛する神は、イエスさまにその役目を担わせることにして、イエスさまもそれを受け入れたのでした。
 この神の愛を深く味わうには、旧約聖書を学ぶことがどうしても必要です。神の愛の重厚さを深く味わうには、聖書の各書を丹念に読むとともに、いまヨハネ3:16からホセア書とエレミヤ書を分離したように、聖書の色々な箇所を分離して味わうことが必要です。オーケストラの曲やカレーの味を深く味わえるようになるには知識を増やし感覚を研ぎ澄ますことが必要なのと同様に、聖書に関する知識を増やし、感覚を研ぎ澄ますことで聖書はより深く味わえるようになります。
 戦争と平和を考える8月になりました。世界がなかなか平和に向かって行かないのは、聖書を深く味わうことができていないからだと私は感じています。平和のために、多くの方々と共に聖書を深く味わう恵みを分かち合うことができるよう、祈り働いていきたいと思います。
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