平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

捧げ物で造られた聖所

2015-07-31 09:15:46 | 祈り会メッセージ
2015年7月29日祈り会メッセージ
『捧げ物で造られた聖所』
【出エジプト35:20~29】

はじめに
 先週は出エジプト記31章を開きました。31章の1節から5節をもう一度見ておきたいと思います。

31:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
31:2 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、
31:3 彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。
31:4 それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、
31:5 はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。

 この31章の主がベツァルエルを名ざして召した箇所を開いたのは、シオン教会の兄がこのベツァルエル役割を担って下さっていると感じたからです。山本兄はわずか2週間足らずの間に今の私たちの教会の力でもできる礼拝堂の設計案を作り、その礼拝堂の模型までも作って持ってきて下さいました。この模型を囲んで私たちは一つになれるという希望を持つことができました。
 そして、この礼拝堂案をわずかな期間で作って教団の会堂委員会に提出したことで、私たちの本気度が教団にも伝わったのではないかなという気がしています。会堂建設は中途半端な気持ちでは取り組むことができない大変な事業ですから、私たちの本気度が試されていたのかなという気もします。それは昨日、他の教会の先生と話をしていて、そう感じました。その先生の教会もいずれは新会堂に取り組みたいが、よほどの覚悟がないと踏み出すことができないので、今はとてもその状況にはないということでした。それで私は沼津教会の1年前の状況を思い起こしていたのですが、私たちもよほどの覚悟がないと踏み出すことはできないと思っていましたが、会堂の屋根の腐食が深刻になっていて踏み出さざるを得ないというように背中を押されました。よほどの覚悟がなければできないことでも、背中を押されることで始まり、始まることで本気度が練られて行くのだなと今私は感じています。

捧げ物で造られた幕屋
 さて、出エジプト31章の後で「金の子牛の像」の事件などがありましたが、きょうはそこは飛ばします。そして、イスラエルの民は、きょうの35章でいよいよ幕屋造りに取り組み始めました。35章21節に、

35:21 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。

 そして、22節以降には、どんな奉納物を持って来たかが具体的に書いてあります。金、撚り糸、亜麻布、やぎの毛、雄羊の皮、じゅごんの皮、青銅、アカシヤ材、しまめのうや宝石、バルサム油とオリーブ油などが幕屋を造るために捧げられます。
 私たちの聖所である礼拝堂もまた会堂献金という捧げ物によって造られます。
(中略)
 このような支援者を主が備えていて下さったことも、本当に驚くべき恵みであると思います。
 やはり神さまというお方は、私たちが神さまの御業に期待して私たちには少しばかり大き過ぎるチャレンジかなと思うぐらいのチャレンジをするほうが喜んで下さるのだなと、つくづく感じます。私たちが信仰を持って大きなチャレンジをする時、神さまはA兄やB兄のような器を私たちの教会のために用いて下さいます。本当に感謝なことです。

おわりに
 年会の合同礼拝での説教を皆さんもDVDでご覧になったと思います。エリヤがやもめの女に水と一口のパンを持って来てくださいと頼んだ時に、このやもめは持っていたわずかな粉と油の全部を使ってパンを作り、エリヤに与えました。すると、その後で尽きない恵みが女に与えられました。私たちが持っているものもわずかですが、このわずかなものを捧げることで、その後に多くの恵みを与えられることを信じて会堂問題に取り組んで行きたいと思います。私たちは既に、いくつもの証を見せていただいていますから、これからも、迷うことなくまっすぐに歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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寂しい霊的イエス(2015.7.26 礼拝)

2015-07-27 21:38:21 | 礼拝メッセージ
2015年7月26日礼拝メッセージ
『寂しい霊的イエス』
【ヨハネ6:66~71】

はじめに
 前回はヨハネ4章の疲れていたイエスから、霊的イエスに親しむことについて共に学びました。このヨハネ4章を見る前にはヨハネ11章で涙を流したイエスについてもご一緒に見ました。これら、涙を流したイエスと疲れていたイエスに続いて、きょうは寂しいイエスについてご一緒に学びたいと思っています。

会堂問題について
 その前に会堂問題の進捗状況について話しておきたいと思います。今月から週報の4ページ目に会堂問題の進捗状況について記して、礼拝後の報告の時間に報告することを始めています。しかし、礼拝が終わった後は、落ち着いてじっくり話す時間はあまり取れませんから、きょうはこのメッセージの時間を使って話すことにしたいと思っています。
(中略)
 いま皆さんにきちんと説明しておかなければならないと私が示されていることは、この土地を購入することが本当に神様の御心なのだろうかということです。私自身は御心であると確信していますが、これは私自身の主観的なものです。そうではなくて皆さんにも納得していただけるように、ある程度客観的な説明をする必要があるのだと思います。ただし主の御心を知ろうとすることは霊的な世界なことですから、客観的に説明すると言っても限界があります。そのことをお断りした上で、こんな説明をしてみたいと思います。
 これは3月の年会の前のことですが、3月に地主さんと会って、最初の話し合いの時を持ちました。その時の私は、これはちょっと難しいかなと思いました。しかし3日後の聖日の午後に会堂問題勉強会がありましたから、その時にこのことを報告したら、特に反対意見は出ませんでした。それで、もしかしたらいけるのかなという思いがしてきて、年会中に本部の先生方にメールを送りました。いまこんな話があるのだけれども、どんなもんでしょうかというようなメールです。この時の私はこの土地を購入することにそんなに前のめりになっていたわけではありません。
 しかし年会から帰って来た私は、すっかり霊的に燃やされていたのですね。それは年会中にお会いした先生方に話をして励ましていただいたことがあります。しかし、それだけではないんですね。そもそも年会というのは牧師が聖会や宣教会で霊的に燃やされた上でまた新たな一年の任命を受けて教会に派遣されるようにプログラムが組まれているのですね。年会に出て、聖会や宣教会の説教を聞けば、自然と霊的に燃やされるようにできているわけです。これらの説教を聞いて霊的に燃やされないのであれば、むしろそのほうが問題です。そういうわけで私は霊的に燃やされて戻って来ましたから、この土地を購入する件についても積極的に臨むようになりました。
 すると、こういう説明ができるのではないでしょうか。霊的に燃やされるのが必然の年会の直前にこの土地を購入する話が出たのだから、これは主の御心なのだという説明です。もし年会とは全然違う時期にこの話が持ち込まれたのなら、この話はしぼんでしまったかもしれません。そうではなくて年会の直前に話があって霊的に燃やされ、教会の皆さんの協力も得て、ここまで来たのだから、御心なのだという説明ですが、いかがでしょうか。
 次に皆さんにお話ししておかなければならないことは、土地の購入予定金額と地主さんについてです。
(中略)
 きょうは会堂問題のことで、まだまだ話しておきたいことがあります。私は7月5日の説教でジョージ・ミュラーを取り上げ、そのジョージ・ミュラーの『祈りの力』という本の中で引用されていた詩篇81篇10節の「あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう」をこの日の説教箇所にして、私たちもまた口を大きく開けて大きなものを望んで祈るべきだという話をしました。
 私たちはジョージ・ミュラーのような器には到底ならないでしょう。しかし、だからと言って小さな口しか開けてはならないことにはならないでしょう。無謀ではない範囲で、大きな口を開けるべきです。私は決して無謀な冒険を勧めているわけではありません。無謀ではない範囲で大きな口を開けるべきであると、お勧めをしているつもりです。
 そして私はこの土地を購入して会堂の建設を目指すことは無謀ではないと考えています。それは私がこれまで、いろいろな人間関係に恵まれて過ごして来ましたから、今回もそのようになるだろうという思いを持っています。
(中略)
 そして、いま私がこの土地に会堂を建てるという大きな口を開けても差し支えないだろうと思っている最大の理由は、実は私がまだまだ経験の浅い牧師であるという点にあります。これは私自身もハッキリと気付いていなかったことですが、自分はどうして今回のことで大きな口を開けるべきと思っているのか自問自答する中で気付いたことです。
 私はまだ神学校を卒業してから3年ちょっとしか経っていない経験の浅い牧師です。ということは3年ちょっと前までは神学生だったということです。そして私は神学生の時に本当に多くの教会の信徒の方々にお世話になりました。(中略)これらの教会の方々の多くは、私が神学生だった頃に健気に奉仕をしていた時のことを、まだまだ覚えていて下さるのではないかと思います。もうあと2年ぐらい経つと昔のことになってしまうのかもしれませんが、今はまだギリギリ、比較的最近の出来事として覚えていて下さっているのではないかと思います。私はこれらの多くの教会の信徒の方々のお祈りとご支援に支えられて神学校を卒業することができました。そして、もし私たちがいよいよ新会堂の建設に取り組むことになるなら、多くのお祈りをいただけることと思います。
(中略)

寂しい霊的イエス
 会堂問題の話がだいぶ長くなりましたが、最後に短くヨハネ6章で霊的イエスが感じていた寂しさについて学びたいと思います。
 
 6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 この時、肉のイエスさまは北のガリラヤ地方にいました。ということは霊的なイエスさまは「旧約の時代」の北王国にいました。ヨハネ4章で霊的なイエスさまは北王国の預言者エリヤの時代にいました。そしてヨハネ5章で肉のイエスさまはいったん南に移動しますから、霊的なイエスさまは「旧約の時代」の南王国にいます。そしてヨハネ6章のはじめの「五千人の給食」の場面で霊的なイエスさまは北王国の預言者エリシャの時代にいます。「五千人の給食」というのは5つのパンと2匹の魚をイエスさまが増やして五千人の食事を賄った有名な話ですね。これととても良く似た出来事が預言者エリシャの時代にもありました。そこを見てみましょう。列王記第二4章42~44節です(旧約聖書p.638)です。

 4:42 ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。【主】のことばのとおり、それはあり余った。

 ここから、ヨハネ6章の「五千人の給食」がエリシャの時代に重ねられていることは確かです。つまり霊的イエスはエリシャと共にいました。そして、ヨハネ6章の終わりのほうの先ほどお読みした66節は、北王国が滅亡してイスラエルの民の多くがアッシリヤに連行されていった場面と重ねられています。その場面もご一緒に見てみましょう。列王記第二17章22節と23節です(旧約聖書p.665)。

17:22 イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、
17:23 ついに、【主】は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。

 バビロンに引かれて行った南王国の人々の場合は70年後にエルサレムへの帰還が許されました。しかし北王国のイスラエルの人々はアッシリヤに連れ去られたまま戻ることはありませんでした。それゆえ北の十部族は「消えた十部族」と言われることもあります。これはイエスさまにとって本当に寂しいことだったと思います。
 そしてヨハネ6章でイエスさまは十二弟子に言いました。67節、

「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

するとペテロが答えました。68節と69節、

「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

 しかし、イエスさまがユダの裏切りによって逮捕されるとペテロたちはイエスを見捨てて逃げてしまったことは皆さんご承知の通りです。この時のイエスさまは本当に寂しかったことでしょう。

おわりに
 「旧約の時代」も「福音書の時代」も一般の人々には聖霊が注がれませんでしたから、人々は何かあるとすぐに神さまから離れてしまいました。これは霊的なイエスさまにとって寂しいことであったことが今日のヨハネ6章の箇所からわかります。
 新約の時代の恵みの中を生きる私たちには聖霊が注がれています。私たちには霊的なイエスさまが共にいて下さいます。この喜びを噛み締めながら私たちは霊的な一致を保って、進んで行きたいと思います。イエスさまは私たちが一つになることを望んでおられます。最後に、よく開く箇所ですが、ヨハネの福音書17章の20節から22節までを交代で読みたいと思います。22節はご一緒に読みます。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

 お祈りいたしましょう。
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霊的イエスに親しむ(2015.7.19 礼拝)

2015-07-20 21:47:47 | 礼拝メッセージ
2015年7月19日礼拝メッセージ
『霊的イエスに親しむ』
【ヨハネ4:1~6】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージのタイトルは『霊的イエスに親しむ』です。きょう、これからお話しすることの半分ぐらいは、明日の千本プラザの特伝でも話をしようかなと思っていることでもあります。重複する部分が多いかもしれませんが、明日の特伝ではパワーポイントを使って話をするつもりですから、きょうの話がわかりにくかったとしても、明日はもう少しわかりやすくなるかもしれません。
 きょうの話がわかりにくいであろうと思う理由は、私の個人的な経験や様々な思いを含んでいるからです。今の私の中では様々な思いが渦巻いています。これらを整理して皆さんにわかりやすく話すことは、なかなか難しい気がします。しかし、私がなぜ『霊的イエスに親しむ』などというタイトルのメッセージを語ることにしたのかを、皆さんにぜひ理解していただきたいと思いますので、何とかわかりやすく話せるように務めたいと思います。

平和の先進国である日本
 これまで私は何度も、私が牧師として召しだされたのは「平和を告げ知らせる」(イザヤ52:7)ためであるということを話して来ました。しかし、私が「平和を告げ知らせる」ために仕事を辞めてBTCに入学した7年前は、今日のようなひどい事態になるとは全く予想していませんでした。今日のようなひどい事態とは、日本が専守防衛に徹することをやめて、再び戦争ができる国になろうとしていることです。安倍政権は既に昨年の7月1日に集団的自衛権の行使容認を閣議決定していますが、先週木曜日の16日にはこれを法律上可能にする安全保障法案を衆議院で可決させました。あとは参議院で可決させるか、参議院で可決できなくても衆議院の2/3以上の賛成で可決させれば、いよいよ日本は専守防衛から一歩外に踏み出して戦争ができる国になります。
 日本は70年間戦争から距離を置くことができていましたから、日本は世界に誇るべき平和の先進国になることができました。しかし、今やこの平和の先進国の誇りを捨てて平和の後進国になろうとしています。私は今こそ「平和を告げ知らせる」ための働きを加速させなければならないと強く感じています。
 ここで大事なポイントは、平和において日本は先進国であるということです。第二次世界大戦後、アメリカは朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタンの戦争、その他、各地の空爆など数多くの戦争行為をして来ました。この間、日本は沖縄の基地が利用されたり、戦闘が行われていない場所に自衛隊を派遣したりするなど一定の関与はしていましたが、直接的に戦争に関わっていたわけではありません。ですから、平和に関して日本は全く違う境地の中にいます。これを「平和ボケ」と呼んで揶揄する人々もいますが戦争で殺し合いをするくらいなら「平和ボケ」で構わないと私は思います。日本は70年掛けて、この境地に達しました。平和に関してはアメリカよりも日本のほうが遥かに進んでいるのです。
 アメリカというと何でもかんでも世界の先端を走っている先進国であるというイメージが一般的にはあるように思いますが、全然そんなことはありません。科学技術においても日本のほうが進んでいる分野はたくさんあります。ですから私は聖書の理解においても、これからは日本がアメリカやヨーロッパをリードするようになっても少しもおかしくないと思っています。おかしくないというよりは、日本は平和の先進国なのですから平和をリードするために平和を説く聖書の理解においても世界をリードすべきなのだと思います。
 日本は科学技術の分野では明治維新以降にアメリカやヨーロッパから技術を積極的に取り入れ、やがて一部の分野では欧米の技術を追い越して世界をリードするようになりました。これは抜きつ抜かれつの世界ですから、一旦トップに立ってもまた追い越されることもあるでしょう。しかし日本の科学技術はそうやって欧米と鎬を削ることで成長して来ました。ですから理工系の日本の研究者・技術者は欧米人と対等な関係にあると思っています。日本が欧米に比べて遅れているなどとは決して思っていません。
 ところがキリスト教の神学や聖書学の世界では事情がだいぶ違うようです。日本の研究者は欧米の研究者を崇め奉っているように私には見えます。昨年私は、東京で開かれたあるキリスト教関係の学会に参加してみて大変に驚きました。討論で発言している日本人研究者のほとんどが、いちいち欧米の研究者の名前を挙げては、「彼はこう言っている」という形で意見を述べていたのです。私がかつて所属していた理工系の学会では有り得ないことなのでとても驚きました。例えば日本の物理学会での討論であれば当然自分の物理観に基づいて質問したり答えたりするわけですが、日本の聖書関係の学会では自分の聖書観ではなく欧米の研究者の聖書観に基づいて討論が為されていましたから、本当に驚きました。物理学会で欧米の研究者の物理観で討論したりしたら馬鹿にされるだけですから誰もそんな討論はしません。

「霊的イエス」で平和をつくる
 このように、日本の神学や聖書学の世界では、まだまだ欧米と対等な関係には程遠い段階にあるようです。ですから私がこれまで説明して来ている「ヨハネの永遠観」や「霊的イエス」のことも、例えば欧米の有名な研究者が語れば、日本人は熱心に耳を傾けるだろうと思いますが、日本人である私、しかも聖書学の分野での研究歴がない私ごときが日本語で何か言っても、日本人はなかなか本気で耳を傾けてくれません。
 そこで今私は、平和の働きを加速させるために「霊的イエス」に関する英語のホームページを開設して世界の人々に読んでもらえるようにしたいと思っています。私は英語がそんなに得意ではないので変な英語になると思いますが、日本が再び戦争ができる国になろうとしている今、そんなことを気にしている場合ではありません。本当は、まず日本人の間で分かち合って日本で熟成させた後で世界に広まって行けば一番良いと思っていましたが、どうやらそれは難しいようです。ですから、「霊的イエス」について英語で世界に発信して行こうと思っています。
 さて、では何故「霊的イエス」であって「ヨハネの永遠観」ではないのか。私にとっては「霊的イエス」も「ヨハネの永遠観」もどちらも同じことなのですが、「霊的イエス」のほうがアピールしやすい気がしています。それは「史的イエス」という学術用語が既に存在するからで、実は「霊的イエス」は「史的イエス」を意識した言い方です。
 「史的イエス」、英語で「Historical Jesus」は英語のWikipediaにも項目として存在するほどに定着している言葉です。しかし、「霊的イエス」、英語で「Spiritual Jesus」は多少は使われているものの、皆が共通の理解を持つ言葉として言葉としては使われていません。「霊的イエス」のことはヨハネの福音書の理解が進めばわかってきますが、現状ではヨハネの福音書はそんなに理解されていませんから、「霊的イエス」は「史的イエス」のような定着した言葉にはなっていません。それだけに今私は「霊的イエス」という言葉が一般に定着するよう働くことにやりがいを感じ始めています。
 そして、もし多くの人々が「霊的イエス」についての理解を深めるようになるなら、世界はこれまでのように延々と戦争を繰り返すことから脱して平和に向かうことができると私は信じています。なぜなら「霊的イエス」は罪から脱け出すことができない人間のことを御父と共にいて深く憂えているからです。

「霊的イエス」に親しむ
 「霊的イエス」は、例えば滅亡して廃墟となったエルサレムの前で涙を流しています。これまで何度も話して来たように、ヨハネの福音書11章で肉のイエスはラザロの墓に向かう途中でラザロの死を悲しんで涙を流しますが、霊的イエスはエルサレムの滅亡を悲しんで涙を流しています。もう何度も開いた箇所ではありますが、ご一緒に開いて確認しておきましょう。ヨハネ11章の32節から35節までを交代で読みましょう。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

 33節でイエスさまが霊の憤りを覚えたのは、エルサレムの滅亡がイスラエルの民の不信仰によってもたらされたことに霊的イエスが憤りを覚えているからでしょう。エルサレムが滅亡に向かっている時に預言者のエレミヤは再三にわたってエルサレムの人々に警告を発しましたが、人々は耳を傾けなかったためにエルサレムは廃墟になってしまったのでした。
 さて、きょうはもう1箇所、ヨハネ4章の始めの部分をご一緒に見ながら、さらに霊的イエスに親しんで行きたいと思います。4章の3節と4節をお読みします。

4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 以前も話したことがあると思いますが、当時のユダヤ人がユダヤからガリラヤに行く場合にはサマリヤは通らずに迂回して行きました。それは9節にあるようにユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしていなかったからです。それはユダヤ人がサマリヤ人を軽蔑していたからです。サマリヤ人はイスラエル人と外国人との間に生まれた混血の民族です。ですから純血を重んじるユダヤ人は混血のサマリヤ人を軽蔑していました。
 混血の民族であるサマリヤ人がどのようにして生まれたかというと、それは北王国を滅ぼしたアッシリヤ帝国が混血政策を取っていたからだと言われています。アッシリヤは北王国のイスラエル人たちを捕囚としてアッシリヤに連行する一方で、周辺の外国人たちを北王国のあった地に移住させました。こうして北王国に残ったイスラエル人たちと外国人たちとの間に混血の民族であるサマリヤ人が生まれました。続いて5節と6節、

4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。

 6節に、イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられました。イエスさまは疲れていたんですね。先ほどご一緒に見たヨハネ11章ではイエスさまは霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、そして涙を流していました。そして、このヨハネ4章でイエスさまは疲れていました。どうして疲れていたのでしょうか。このことを紀元30年頃の肉のイエスさまの状況だけでなく、旧約聖書の時代や使徒の時代のイエスさまについて考えることが「霊的イエスに親しむ」ということです。ご一緒に考えてみましょう。

イエスはなぜ疲れていたか
 先ずは、先ほども話した混血のサマリヤ人が生まれた経緯と、サマリヤ人とユダヤ人が付き合いをしていないということにイエスさまは失望して疲れを覚えたのではないかと思います。北王国のイスラエルがアッシリヤに滅ぼされたのは北王国の民が不信仰であったからです。このことをイエスさまは悲しく思っておられたことでしょう。そして、そもそもイスラエルが北と南の二つの王国に分裂したこともソロモンの不信仰ゆえですから、そのこともまたイエスさまを悲しませていたことでしょう。また、ユダヤ人が混血のサマリヤ人を軽蔑していたということには愛が全く感じられません。イエスさまの「互いに愛し合いなさい」という戒めには、ユダヤ人は異邦人とも互いに愛し合いなさいという意味も込められています。ですからユダヤ人とサマリヤ人も互いに愛し合わなければなりません。それなのに愛し合うことができていないことにイエスさまは失望し、疲れを感じていたのではないかと思います。「霊的イエスに親しむ」とは、このように時間を越えたイエスさまの感情を感じ取ることであるとも言えます。
 このヨハネ4章の状況をさらに考えていきましょう。このあとイエスさまは7節でサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください」と言います。これは「旧約の時代」に預言者エリヤがやもめの女に「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列17:10)と言ったことと重ねられていることは、以前より話している通りです。預言者には聖霊が注がれていましたから霊的イエスは預言者エリヤと共にいました。そして、このエリヤの時代は極悪の王であるアハブと悪妻のイゼベルの時代でもあります。霊的イエスがこの極悪の王と悪妻の時代にいることもまたイエスさまを疲れさせた要因ではないかと思います。或いはまたエリヤはイゼベルの一言にふるえあがって、すっかり元気を失ってしまいますから(Ⅰ列王19章)、このこともイエスさまの疲れの要因になっているかもしれません。

使徒の時代の霊的イエスは?
 以上のことは「旧約の時代」の霊的イエスです。今度は「使徒の時代」の霊的イエスを考えてみましょう。ヨハネ4章の後半で、サマリヤの女は町に行ってサマリヤ人たちにイエスさまのことを伝えます。そうして、この女のことばによってサマリヤ人たちはイエスさまを信じました。このことは使徒の働き8章に記されているピリポによるサマリヤ伝道と重ねられているということを以前話しましたね。すると、このイエスさまが疲れていたヨハネ4章前半は「使徒の時代」で言えば、使徒の働き8章の少し手前であるということになります。すると目に留まるのは、使徒の働き7章でステパノがユダヤ人たちに石打ちにされて殺された記事です。ですからイエスさまが疲れていたのは、ステパノが迫害によって殺された時代に霊的イエスがいたことも一つの要因ではないかということに思い至ります。この時代に迫害を受けていたのはステパノだけでなくイエス・キリストを信じる者は皆が迫害を受けてエルサレムから散らされて行きました。このこともまたイエスさまを悲しませていたことでしょう。
 このようにヨハネ4章の前半の背後には、実に様々なことが隠されており、それらの時代のすべてに霊的イエスがいて悲しみ、それが肉のイエスさまの疲れにつながっていたのだろうと私は感じています。

おわりに
 私たちは霊的イエスに親しむことで、霊性が豊かにされて行きます。イエスさまは福音書の時代だけでなく旧約聖書の時代にも、使徒の働きの時代にも人々と共にいて罪から脱け出すことができない人々を憐れみ、愛を注いでいて下さいます。そしてイエスさまはもちろん、私たちとも共にいて下さいます。この私たちと共にいて下さるイエスさまは霊的なイエスさまです。この時間を超越して存在する霊的なイエスさまに親しむようになるなら、私たちは今よりももっと互いに愛し合うことができるようになるでしょう。そうして霊的なイエスさまを知る者が増えて行くことで世界は平和に向かって行くことができるでしょう。
 そのための働きに私たちが用いられるようにお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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霊的イエスを知ることが平和をつくる(2015.7.15 祈り会)

2015-07-16 04:25:13 | 祈り会メッセージ
2015年7月15日祈り会メッセージ
『霊的イエスを知ることが平和をつくる』
【マタイ5:9】

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)

はじめに
 今朝は富士山がくっきりと見えていました。とても平和な光景でした。きょうの国会の内と外は荒れるであろうことが朝から予想されていましたから、私にはこの平和な光景が嵐の前の静けさのようにも見えましたし、それと同時に、天もまた日本を再び戦争ができる国にしてはならないと教え諭しているようにも見えました。
 先週の金曜日に私は国会周辺のデモに1年ぶりで参加しました。1年前は7月1日に、安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした日に首相官邸前のデモに参加しました。私は政府の政策への反対の意思を伝えるためにはデモもまた一つの有効な手段であり、デモへの参加者が多ければ多いほど効果的だと思っていますから、参加者の一人となるために本当は今週、国会前に行きたいと思っていました。しかし、20日には特伝がありますし、新会堂の建設プランも作成しなければなりません。そんなわけで今週は東京に行くのはなかなか難しいですから先週のうちに行っておこうと思って国会前に行って来ました。そうして、国会前に集結した多くの人々の中で思ったことは、「ああ、これはマルタの行動だな」ということでした。

霊的イエスを知ることの大切さ
 私たちはマルタとマリヤ、動くマルタと静まるマリヤの両方が必要です。しかし、平和を実現するためにどうしても必要なのは、やっぱりマリヤだなと改めて思いました。日本が再び戦争ができる国にしようと政府がしていることに抗議するためにデモに参加することは、平和を作るために必要なことだと私は考えます。しかし、平和を作るために根本的に必要なことはマリヤのように主イエスの御もとに座って霊的なイエスを知り、霊的なイエスと交わることです。私は最近、この霊的なイエスを知り、霊的なイエスと交わることの大切さを以前よりも一層感じるようになりましたから、きょうは、このことを、お話しさせていただきたいと思います。
 先ほど、ご一緒に読んだマタイ5:9の、

 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

とは、どういうことか以前から私は折にふれて考えるのですが、最近よく思うのは、やはり、このみことばは霊的に理解する必要があるだろうということです。私たちは聖霊が注がれた時、「神の子ども」となることができます。神の子どもは神と霊的な交わりを持つことを許された者たちです。ですから、平和をつくることも霊的な意味において平和をつくる者でなければならないのだと思います。
 霊的な意味において平和をつくる者でなければならないとは、神さまとの霊的な交わりを持つことの喜びを知る者として、平和をつくることであろうと私は考えます。兄弟が私に対して罪を犯しても七度を七十倍するまで赦しなさいとか、あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさいとかいうことは、普通の者には到底できないことです。私もまだまだ、その境地には至っていません。しかし、神さまとの霊的に交わりを持つことの喜びを真に深く感じることができるなら、それは可能なのであろうということはわかります。なぜなら私も牧師という他の職業と比べると様々な制約が多い職に就いていて、それでもこの働きに就けたことを感謝に思っているのは、神さまとの霊的な交わりを持つ喜びをたくさんいただいているからです。

見えなかった物事が見えるようになる喜び
 特にヨハネの福音書で霊的イエスが見えるようになったことは大きな喜びです。ヨハネの福音書の霊的イエスとは、例えばこれまで何度も例として挙げていますが、ヨハネ11章で肉のイエスがラザロの墓に行く途中で涙を流している時、霊的イエスは滅亡したエルサレムが廃墟となっているのを見て涙を流していることや、ヨハネ9章で肉のイエスが盲人の目を開けた時、霊的イエスはダマスコ途上で目が見えなくなっていたパウロの目を開けた、というようなことです。このような霊的イエスが見えるようになることは、本当に大きな喜びです。なぜ、霊的イエスが見えるようになることが、そんなに大きな喜びかと言えば、見えなかった物事が見えるようになったからです。
 きょうのマタイ5:9の聖句、

 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

は有名な山上の説教の中にあることばです。
 この山上の説教は3節の、

 5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

で始まります。この「心の貧しい者は幸いです」の「心」は、ギリシャ語では「プニューマ」、つまり「霊」ですから、「心の貧しい者」というよりは「霊の貧しい者」です。英語訳では、NIV(新国際訳)もNKJV(新欽定訳)も、"Blessed are the poor in spirit.”になっています。つまり、「霊の貧しい者は幸いです。」
 私たちは、もし聖霊が注がれていないなら霊的には貧しい者たちです。旧約聖書のイスラエルの民はそのように霊的に貧しい者たちでしたから、神からすぐに離れてしまいました。これはとても不幸なことでした。しかし、イエス・キリストが肉となってこの世に来て下さり、このイエスを信じるなら霊的に貧しい者でも霊的に豊かにされるようになりました。これは本当に幸いなことです。霊的に豊かにされるなら天の御国を身近に感じることができますから感謝です。これは素晴らしく大きな喜びです。そして霊的なイエスが見えるようになるなら、より一層大きな喜びが与えられます。
 ですから9節の、

 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

の平和をつくる者の幸いも、聖霊を受けて霊的な目が開かれる者の幸いとして受け取るべきでしょう。
 きょうの話の最初のほうでマルタとマリヤを取り上げました。きょうはマルタとマリヤの両方が必要な日です。きょうは国会の周辺で多くのマルタたちが頑張っています。私たちは、これからマリヤとなって真に霊的な祈りを捧げたいと思います。

祈り
 お配りしましたのは、一昨日、多くのキリスト者が平和を祈るために国会に集まって祈った祈祷文です。これを用いてご一緒にお祈りしたいと思います。

PMPM@国会(Peace Makers’ Prayer Meeting at 国会)
日時:7月13日(月)18:00~20:00
場所 衆議院第一議員会館多目的ホール

司式:私たちの天の父なる神よ、いま、私たちの祈りを聞いてください。
会衆:私たちの平和を求める祈りを聞いてください。
司式:私たちの切なる祈りを聞いてください。
会衆:今、この国は大きな曲がり角に立っています。70年前の悲惨な戦争の反省に立ち、平和を希求する国として歩んで来た私たちのこの国が、大きく道を曲がろうとしています。
私たちには憂いがあります。私たちには恐れがあります。祈らずにはおれない心があります。どうか私たちをあわれんでください。この国をあわれんでください。私たちの平和を求める祈りを聞き、あなたの御腕を動かしてください。

司式:平和の主なるイエス・キリストよ、いま、私たちはあなたの平和を求めています。
会衆:私たちを平和をつくる神の子どもとしてください。
司式:私たちをあなたの子どもとしてください。
会衆:今、この国はまことの平和を必要としています。力による平和でなく、剣による平和でなく、威嚇による平和でなく、抑止力による平和でなく、互いに言葉をかわし、互いに耳を傾けあい、互いにへりくだることからはじまる平和を必要としています。しかし私たちにはそれができません。
どうか私たちをあわれんでください。あなたの愛が必要です。あなたの十字架が必要です。あなたの愛によって私たちを神の子どもとしてください。

司式:私たちのうちに来てくださる聖霊の神よ、いま、私たちにあなたの霊を注いでください。
会衆:私たちを聖霊で満たし、あなたの平和の器としてください。
司式:私たちを平和の器としてください。
会衆:今、この国には平和を求める声が鳴り響いています。若者たちが声を挙げています。母親たちが声を挙げています。戦争を経験した年老いた者たちが声を挙げています。学者たちが声を挙げています。宗教者たちが声を挙げています。声なき人々が声を挙げています。
どうか私たちにあなたの霊を注いでください。私たちに勇気を与えてください。言葉を授けてください。知恵を与えてください。行いを与えてください。へりくだってあなたの愛をあらわす器として私たちを用いてください。あなたの平和のために用いられる器として私たちをお遣わしください。

司式:父、子、聖霊の神よ、いま、私たちの祈りを聞いてください。
会衆:私たちの平和を求める祈りを聞いてください。
一同:この国に立てられた為政者に、あなたの恵みを注いでください。彼らがその与えられた務めと責任を果たすことができるように、上からの知恵と力と謙遜とをお与えください。
この国に生きる一人一人に、あなたのあわれみを注いでください。とりわけ虐げられている人々、弱い立場にいる人々、助けを必要としている人々、追い詰められている人々、希望を持てない人々、疲れ果てている人々に、あなたの愛と慰め、具体的な助けをお与えください。
世界の国々に生きる人々に、あなたの祝福を注いでください。差別や貧困に喘ぐ国々、迫害や抑圧の下にある国々、戦争とテロの只中にある国々に、あなたの平和をもたらしてください。私たちをそのために用いてください。平和の器としてください。平和の使者としてお遣わしください。
私たちは信じます。あなたの御心が天で行われるように地上でも行われることを。
私たちは告白します。あなたは真実であられ、あなたの御力がこの地に現れることを。
私たちは賛美します。あなたの御名があがめられますように。御国が来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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霊的イエスの語り掛けに応答する(2015.7.8 祈り会)

2015-07-09 10:36:08 | 祈り会メッセージ
2015年7月8日祈り会メッセージ
『霊的イエスの語り掛けに応答する』
【ヨハネ1:38,39/黙示録3:20】

はじめに
 きょうは、二箇所のみことばに目を留めたいと思います。一つ目は、ヨハネ1:38,39、そして二つ目は黙示録3:20です。

ヨハネ1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
ヨハネ1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

世界を変える力があるヨハネの福音書
 まず初めに、最近の私が何を考えているかについて簡単に説明しておきたいと思います。沼津教会に来てからのこの2年あまり、私の頭の中の大半を占めている問題が、ヨハネの福音書の多重時間構造をどうやったら広めることができるかということと、この教会の会堂問題をどうするかということです。私は2年前の、この教会に牧師として着任した当初から、この二つの問題は連動していると感じていました。そして、最近になって、この二つの問題、すなわちヨハネの福音書の多重時間構造の問題とこの教会の会堂問題がどのように絡み合って連動しているのかが、いよいよはっきりと見えて来た気がしていますので、きょうはそのことをお話ししてみたいと思います。
 まず、ヨハネの福音書についてですが、私は、このヨハネの福音書の多重時間構造は世界を変えるほどの大きな力を秘めていると確信しています。このヨハネの福音書の構造を多くの人が理解するようになるなら、私たちは互いに愛し合えるようになり、百年後か二百年後には戦争の無い平和な世界が本当に実現できるのではないかと思っています。ヨハネの福音書には、それほど大きな力があります。しかし、どうも、なかなかそれが伝わりません。5月の末に私はある先生に、ヨハネの福音書について新たに書いた原稿を送り、その先生もこの原稿を本にすることを真剣に考えて下さるとおっしゃって下さいました。しかし、この一ヶ月間は、特に何の連絡もありませんでした。それは先生がお忙しいからだということは良くわかっていますが、もしヨハネの福音書には世界を変える力があるのだということが先生にちゃんと伝わっていれば、たとえお忙しくても何らかのコメントがこの一ヶ月にあっても良いはずです。ですから、結局は、私が書いた原稿の書き方が悪かったために十分に伝わっていないのだなと思います。
 そうして、今私が思っていることは、世界を変えるほどの力がヨハネの福音書にある筈なら、まずはこの沼津教会が変わる筈ではないかということです。私が毎週祈祷会と礼拝でメッセージのご奉仕をしている沼津教会の皆さんが変わって行かないなら、私がいくら世界が変わると言ったところで、何の説得力もないわけです。ですから、ヨハネの福音書が世界を変える力を持っているということを、まず沼津教会が変わることで示す必要があるのだと思います。

成長する機会である会堂問題
 それから、もう一つの問題の会堂問題については、この大きな問題を乗り越えて行くには私たち教会員の信仰の成長が欠かせないと最近、私は強く感じています。今の教会の現状の延長線上では、将来的にこの教会の働きが祝福されるとは、どうしても思えません。教会の将来を考えるなら、私たちの信仰がもう一段階成長する必要があるでしょう。そして会堂問題は、私たちの信仰が成長する絶好の機会です。神様が私たちに成長する機会を与えて下さっているのだと感じています。そのために神様は、一見私たちには無理と思えるような大きな物件を見せて下さっているように思います。この神様が見せて下さっているチャレンジの機会を、私たちが恐れることなく受け入れるのか、それとも恐れをなして拒否するのかでは、教会の将来が大きく異なってくるだろうと私は思います。
 ですから私たちは、私たちの信仰がもう一段階引き上げられて成長する必要があります。そして私たちの信仰が成長するためにヨハネの福音書が用いられるべきなのだと今、私は強く感じています。
 さて、それでいよいよ、きょうの聖書箇所に入って行きたいと思いますが、ここ1ヶ月ほど私は、自分の信仰の足跡を振り返ることをしています。自分の信仰の成長がどの時点で何をきっかけにして段階が上がったのかを少し振り返ってみています。それまでと比べて急に信仰が成長した時期が私には何度かありました。先週はレビ記を読んで涙を流した経験を話しました。この経験は本当に大きなことでしたが、それ以前にも、いくつか大きな経験をしています。その一つが、ヨハネの福音書1章の38節と39節のみことばに応答した経験です。まず、38節をもう一度お読みします。

ヨハネ1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」

 これは私が神学生の2年生の時ですが、神学校の寮の祈祷会の説教で、この箇所から説教をすることにしました。それで私自身は、心の奥深いところで本当は何を求めているのだろうかということを真剣に考え始めました。そしてイエス・キリストは次の39節で、「来なさい。そうすればわかります」と言っておられます。それで、この私自身が何を求めているのだろうかの答は、きっとこのヨハネの福音書に書かれているのだなと思って、この福音書を、それまでよりも問題意識を持って読むようになりました。もちろん、それまでもヨハネの福音書は何度も読んでいましたが、特に問題意識を持つこともなく漫然と読んでいたと思います。しかし、この時から私は、私自身が何を求めているのか、そして、もっと一般化して、人は本来何を求めて生きているのだろうかという問題意識を持ってヨハネの福音書を読むようになりました。そうしてヨハネの福音書を深く読み込むようになっていましたから、1年半後の神学生の4年生の時にインターン実習先の姫路教会で、レビ記1章を読んで突然涙する経験をした時に、がぜんヨハネの福音書のことがわかるようになったんですね。もし、私がそれまでヨハネの福音書を深く読み込んでいなければ、レビ記を読んで涙を流したとしても、その後のヨハネの福音書の多重時間構造がわかるようにはならなかった筈です。

イエスへの応答が信仰の成長につながる
 このようにして、私の経験を振り返ってみると、私の信仰が大きく成長するきっかけになったのは、私がイエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすればわかります」という語り掛けに真剣に応答したことだと言えます。ただ単に傍観者的に聖書を読むのではなく、イエスさまの自分への語り掛けに本気で応答する時に、どうやら私たちは信仰の成長があるようです。この経験を、聖書を読み始めた比較的早い段階で持つことができるか、そうではなく、もっと遅くに持つかは人によって個人差があるだろうと思います。私の場合は、かなり遅かったと言えます。これは私が教会に通い始めた時に、ガラテヤ人の手紙の講解説教が行われていたことと関係していると思います。私はまず、パウロの手紙と使徒の働きから聖書の世界に入って行きました。それから、高津教会の次の説教シリーズは旧約聖書の『祈る人びと』でしたから、私はパウロの手紙の次は旧約聖書を学びました。もちろん、その間にクリスマスやイースターがあって福音書も開かれますから、イエス・キリストの学びもしましたが、イエスさまとの深い交わりに入れられたのは、神学生になって「あなたがたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすればわかります」に応答してからのことです。
 それでは、「それまではあなたは救われていなかったのではないですか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは大丈夫です。私は救われていました。私はパウロが信じるイエス・キリストをパウロの手紙を通して信じることで、ちゃんと救われていました。神様は気前の良いお方ですから、福音書の十字架のことがあまりちゃんとわかっていなくても、パウロが復活したイエス・キリストに出会ったと手紙に書いていることを疑いを挟まずに信じるなら、ちゃんとイエス・キリストを信じたことにして下さるんですね。
 しかし、本当に信仰が成長するのはイエス・キリストの直接の語り掛けにきちんと応答してから以降です。

霊的イエスの語り掛けに応答する
 イエス・キリストの直接の語り掛けにきちんと応答することの大切さは、黙示録の3章20節でも語られています。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 イエス・キリストはいつも私の心のドアをノックして下さっています。このノックを聞いてドアを開けるなら、イエスさまとの深い交わりが始まります。それは一方通行の交わりではなく、双方向の交わりです。心のドアを開くならイエスさまは私と食事を共にして下さり、私もまたイエスさまと食事をします。これは受身の交わりではなく私のほうからも積極的にイエスさまと交わり、イエスさまのことを、もっと深く知ろうとすることです。
 ヨハネの福音書の多重時間構造を知ろうとすることは、この黙示録3:20の「彼もわたしとともに食事をする」に相当するのだと言えるのかもしれません。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書のイエスさまを知ることは、イエスさまが私たちと共に食事をしようと言って下さっていることに応じて、食事をすることではないか。これももちろん大切なことですが、これだけでは、やや受身的ではないか。それに対して、私もイエスさまと共に食事をするというのは、ヨハネの福音書を通して、もっと積極的にイエスさまを知ろうとすることではないか、そのように感じます。
 それは霊的なイエスさまを知ろうとすることです。霊的なイエスさまは紀元30年頃だけではなく、「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもいます。霊的なイエスさまは「旧約の時代」のアブラハムとも共におり、モーセやエリヤとも共にいました。そして霊的なイエスさまは「使徒の時代」のペテロとヨハネ、そしてパウロとも共にいたことがヨハネの福音書の多重時間構造を理解するならわかります。
 旧約聖書を理解するなら、人間がいかにダメな存在かがよくわかります。しかし、そんなダメな人間にもイエスさまはともにいて下さり、愛して下さっていました。そして使徒の働きを読むなら、漁師であったペテロとヨハネたちが用いられ、またイエスを信じていた者を迫害していたパウロのような者でもイエスさまは用いるのだということがわかります。ですから、イエスさまは私たちのような者でも愛して下さり、救って下さり、福音の宣教のために用いようとして下さっていることが、ヨハネの福音書を理解するなら、より一層はっきりとわかるようになります。

おわりに
 私たちがもう一段成長するためには、霊的なイエスさまと深く交わることができるようになることが必要です。それがイエスさまと共に食事をするということなのだと思います。これから先の祈祷会と礼拝のメッセージでは、私たちが成長することを目指して霊的なイエスさまとの交わりを深めて行くことを学んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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あなたの口を大きくあけよ(2015.7.5 礼拝)

2015-07-06 05:24:10 | 礼拝メッセージ
2015年7月5日礼拝メッセージ
『あなたの口を大きくあけよ』
【詩篇81:10】

はじめに
 先週まで3回のシリーズでジョン・ウェスレーについて学びました。これは会堂問題の只中を歩んでいる私たちが霊の一致を保つことができるようになることを願っての学びでした。

祈りで孤児院の資金を得たミュラー
 きょうは、ジョージ・ミュラーについて、ご一緒に学びたいと思います。ジョージ・ミュラーは祈りの器として、非常に有名な人です。ミュラーは1805年にドイツで生まれ、後にイギリスに渡って妻と共に孤児院を作り、親のいない子供たちを引き取って聖書を教えました。このことだけでも、立派なことだと思います。ただ、このことだけを聞くなら、ミュラーのことを、何かの事業に成功して大金持ちになり、そのお金を社会貢献のために用いた人だろうかと思う人もいるかもしれません。もちろん、お金持ちがそのような社会貢献をすることは大変に立派な素晴らしいことです。しかし、ジョージ・ミュラーの場合は、全く違います。ミュラーのすごいところは、彼には全くお金が無かったことでした。お金が全く無かったのにも関わらず、ミュラーは孤児院を作る資金が与えられるように祈り、実際にお金が与えられて孤児院を設立することができました。そして、運営して行くことができました。これは本当にすごいことです。孤児院を設立するだけなら、設立に必要な資金が一回与えられれば始めることができます。しかし、一旦孤児院を始めて孤児たちの世話が始まったなら、孤児たちに食べ物を与えなければなりませんから、そのための資金がずっと与えられ続けなければなりません。もう明日食べる食べ物がないという危機的な事態に陥ったことも何度もあったそうですが、ミュラーはひたすら祈り、そうすると不思議と献金が与えられました。さらにもっとすごいことは、ミュラーが孤児院の規模を段々と大きくしていったことで、五番目の最後の孤児院は二千人の規模だったそうです。
 孤児院を始めた時、ミュラーには資金が全くありませんでしたが、ミュラーは祈れば必ず資金が与えられると確信していました。それは、親のいない孤児たちを孤児院で育て、そこで子供たちに聖書を教えることは神様の御心にかなっていると確信していたからです。そうしてミュラーが祈ると、神様は街の人の心を動かします。街の人は、なぜかミュラーの孤児院に寄付をしなければいけない気持ちになって寄付を申し出ると言うんですね。とても不思議なことですが、これは実際にあった話です。

御心に適っていたミュラーの願い
 このジョージ・ミュラーの実話のポイントは、何と言ってもミュラーがしたいと願っていたことが、神さまの御心に適っていたということではないでしょうか。御心に適うことを願って、そのことのために祈るなら、神様は必ず実現させて下さいます。ただし忘れてならないことは、お金さえ与えられれば、すべて上手く行くとは限らないことです。親のいない子供たちを引き取って育てることは大変なことです。一人の子供でも大変なのに、ジョージ・ミュラーは最後には二千人規模の孤児院を運営したということですから、本当に大変なことです。神さまの力が無ければ到底為し得ないことであることは言うまでもありません。
 さて、このジョージ・ミュラーの孤児院の働きは大変に祝されましたが、ミュラーが65歳の時に彼の妻のメアリーが亡くなってしまいました。その後、ミュラーは伝道師として世界中を説教で巡るようになりました。日本にも来たことがあるそうです。ミュラーが世界中を巡っていた時に実際にあったという話で、こんな有名な話があります。『神に用いられた生涯』(CS成長センター)という本から引用します(一部改変)。

 北アメリカに向け船旅をしていた時のこと。ミュラーの乗った船が、ニューファンドランド沖に近づいた時、非常に深い霧が立ち込めてきました。船長はスピードを落とすように命令しました。船は、だんだんゆっくりになって、ほとんど動かなくなりました。船長は心配で、自ら22時間もぶっ通しで甲板にとどまっていました。船長は突然、ぽんと肩をたたかれて、はっとしました。彼が振り向くと、そこにブリストルのジョージ・ミュラーがいたのです。
 「船長」と彼は言いました。「私はどうしても、土曜の午後にケベックにいなければならないので、そのことをあなたに知らせに来たのです。」その日は水曜日でした。
 「不可能ですよ、そんなこと。」
 「そうですか、まあいいでしょう。船長、あなたの船で連れていってもらえないなら、神さまが、別の方法で、私をそこへ連れていってくれますから。私は、57年間一度も説教の奉仕の約束を破ったことがないのですから。」
 「私の力ではどうにもならないことです。私に何ができると言うのですか?」と船長はむっとして言いました。
 「海図が広げてある下の部屋に行って、一緒に祈りましょう」とミュラーは言いました。
 船長は、甲板にいるその見知らぬ客を見て、気が狂っているのではないかと思いました。
 「この霧がどんなに深いか、あなたはわかっているのですか?」
 「いや、それはわかりません。でも私の見ているのは、霧の深さではなくて、生きておられる神さまです。そのお方は私のどんな状況をも支配しておられるのです。」
 それからミュラーは、自分が言ったことをそのとおり実行し、ひざまずいて、短く祈りをささげました。
 「主よ。もし御心にかなうことでしたら、5分間でこの霧を取り去ってください。」
 「なんて祈りだ。教会学校の子供の、それも幼児クラスの祈りだ。」そう思った船長は、自分が祈ろうとしました。しかし、ミュラーは立ち上がり、それを制止しました。
 「もう祈らなくてけっこうです。まず、あなたは神さまが霧を取り去ってくださるとは信じていないでしょう。それに、私はもう神さまが霧を取り去ってくださったと信じています。ですから、いずれにしてもあなたが祈る必要はないのです。船長、立ち上がって、ドアを開けてください。霧が晴れたことがわかります。」
 船長は立ち上がって、ドアを開けました。霧はすっかり消えていました。そしてミュラーは自分で言ったとおり、その週の土曜日にケベックにいたのです。
(引用ここまで)

 この話のポイントはやはり、ミュラーが予定通りにケベックに行って説教の奉仕をすることが、神さまの御心に適っていたということでしょう。ミュラーが単なる観光旅行でケベックに行くのであったら、神さまが霧を晴らして下さることはなかったでしょう。ミュラーが説教をすることで救われる者がいるから、神さまは霧を晴らして下さったのですね。
 それから、もう一つのポイントは、子どものように何の疑いも挟まずに祈るということだと思います。船長は、大人の人間的な考えで、この深い霧が祈りによって晴れるわけがないと思っていました。そのような疑いを持ちながら祈っても、祈りは聞かれないということです。
 2年前の千本プラザでの特伝においてだったと思いますが、私はアフリカの施設で女の子が、湯たんぽがすぐに必要だと神さまに祈ったら、本当にすぐに届いたという話をしました。生まれたばかりの赤ん坊を暖めるための湯たんぽが必要になった時、幼い女の子が祈ったら、その日のうちに湯たんぽが届きました。その女の子の祈りを聞いていた宣教師は、祈っても母国からアフリカに荷物が届くのに何ヶ月も掛かるのだから、すぐに届くわけがないと思っていました。ところが、この祈りが何ヶ月も前の過去に運ばれて、宣教師の母国から発送されていたのですね。時間を超越している神さまは、こういう不思議なことをすることができます。まさに神に不可能なことは一つもないということの良い証だと思います。

あなたの口を大きくあけよ
 ジョージ・ミュラーは、御心にかなっていると確信した祈りについては、人間的な考えでは不可能と思えることでも、神様が必ず祈りに応えて下さると信じて、疑いを挟まずにひたすら祈り、実際にミュラーの祈りは次々に応えられて行きました。
 このジョージ・ミュラーのメッセージを集めた『祈りの力』(マルコーシュ・パブリケーション)という本があります。きょうは最後に、この本の冒頭に載っている文章をお読みしたいと思います。この文章の最初には、きょうの聖書箇所の詩篇81篇10節が引用されています。
 では『祈りの力』の冒頭のメッセージをお読みします。

詩篇81:10 わたしが、あなたの神、【主】である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

 私たちは、絶えずこの御言葉に心をとめておかなければなりません。すべての神の子供には、神に話さなければならない多くの必要があります。だからこそ、私たちの恵み深い主は、御自分の子供たち一人ひとりにこの御言葉を与えてくださったのです。
 神はこう語っておられるかのようです。
「さあ、多くのものをわたしに求めなさい。わたしに大きなものを期待しなさい。大きな祈りの課題をもってわたしの前に来るのです。わたしは神であって、人ではありません。あなたに豊かに与えることは、わたしにとって喜びなのです。」
 私たちが、ある成功している実業家のところへ助けを求めに行ったとしましょう。そのような場合、決して1ペンスであるとか、10ペンスといった少額を求めてはいけません。それよりもずっと多額の援助を求めた方がよいと思います。というのも、そんなに少額しか助けを求めないということは、相手に対して失礼になるからです。まして相手が全知全能の神であるならば、なおさらのことではないでしょうか。その方から自由に求めてよいと許可がおりているのに、小さな問題の解決しか求めないとしたら、主に対してたいへん申し訳ないことです。少なくとも、そう思わなければならないでしょう。
 この地上でどんなに好き勝手に権力を振るっている者でも、ヤハウェの神の御前では無に等しい存在です。ですから、神をお喜ばせしたいと願うなら、私たちは主に大いなることを求め、主が確かに大いなることをしてくださると期待しなければなりません。このことが、「あなたの口を大きくあけよ」という聖句で比喩的に教えられています。そしてこの御言葉に応答する者への約束は、「わたしがそれを満たそう」というものです。誰であれ、この励ましの言葉に従って行動する者は、神がこの約束を守られるのをみるでしょう。この御言葉の原則に従って行動して、神がこの約束通りに働いてくださらなかったことがただの一度でもあったかどうか、今までの主との歩みを振り返ってみましょう。
 しかし、その時に決して忘れてはならないことがあります。祈りの応えが、まだ眼に見える形で与えられないとしても、決して失望することはないということです。神は御言葉の約束を決してお破りにならない方ですから、まだその成就が与えられていないということは、主はこれから応えようとしておられるということなのです。ですから皆さん、さらに継続して忍耐強く主を待ち望もうではありませんか。これには神の栄光がかかっているのですから、主イエス・キリストの御名によって、神に希望をおき続けるのです。その時に私たちは、「私がそれを満たそう」という約束の成就を見ることでしょう。
 同じ詩篇に書かれている次の御言葉を黙想する時に、胸が熱くなる思いがします。(81篇13節~16節です)

81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
81:15 【主】を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」

 神にとって、私たちに最善のものを与えることが最高の喜びであるということを心に刻みましょう。主はこの御言葉を通して、私たちに益となるものならすべてを与えると語っておられるのです。
(引用ここまで)

 ジョージ・ミュラーは資金も無いのに孤児院を設立することを願い、お祈りによって資金を得てそれを実現させ、さらに子どもたちの日々の糧もお祈りによって得て、子どもたちを飢えさせることはありませんでした。そしてミュラーは孤児院の規模を拡大させていきましたが、神さまはいつでも必要を満たして下さいました。そのジョージ・ミュラーが詩篇81篇10節の「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」を引いて、私たちに大きなものを期待しなさいと勧めています。小さなものしか期待しないとしたら、それは却って神さまに対して失礼なことだと言っています。

おわりに
 このことを私たちの教会の会堂問題に当てはめるなら、私たちも大きなものを期待しても良いということです。むしろ小さなものを期待してはならないということです。週報の1ページ目の今月の祈りの欄にも書きましたが、私たちは信仰者として成長したいと思います。私たちが成長すればするほど、主のお役に立つことができ、主に喜んでいただくことができます。ですから、主が私たちに大きなものを与えて下さろうとしている時には恐れることなく、それを受け取り、その受け取ったものを生かして主のお役に立てるようになりたいと思います。会堂は私たちが建てるものではなく、主が建てて私たちに与えて下さるものです。主は、この沼津地域の人々をもっとたくさん救いたいと願っておられます。会堂はそのために必要なものですから、必ず与えられます。
 ですから私たちは、主が与えて下さる場所が、もし私たちには大きすぎるのではないかと感じるとしても、恐れることなく受け取り、主のために働きたいと思います。
 お祈りしましょう。
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戦災の廃墟の前で憤り、涙を流したイエス

2015-07-03 10:55:26 | 折々のつぶやき
『七十年目の試練』(3)



 戦争は軍事力によっては無くなりません。戦争を無くすには私たちが互いに愛し合えるようにならなければなりません。そのためには、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言ったイエスについての理解を深めることが、どうしても必要です。そしてイエスを深く知るためには、紀元30年頃のイエスの言動を記したマタイ・マルコ・ルカの福音書だけでなく、アブラハムが生まれる前(ヨハネ8:58)の初めからいる(ヨハネ1:1)イエスについて記されたヨハネの福音書を霊的なレベルで深く知ることが、やはりどうしても必要です。
 前回のノートでも短く触れましたが、ヨハネの福音書11章のイエスは戦災で廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネ11章で肉のイエスはラザロの墓の前にいますが、霊のイエスはバビロン捕囚から帰還した人々と共に廃墟のエルサレムの前におり、また再臨前の戦争の廃墟の前にいます。肉のイエスは紀元30年頃にいますが、霊のイエスは天地創造以前の初めから現代、そして未来の終末に至るまでのあらゆる時代にいます。
 上の「ヨハネの福音書の多重時間構造」の図に示すように、霊のイエスはヨハネ1~11章においては「旧約聖書の時代」と「福音書の時代」と「使徒の働きの時代」の三つの時間の重なりの中にいて御父と聖霊と共にいます。そして、この三つの時間はヨハネ12章で一つに合流し、13章以降で霊のイエスはヨハネの福音書の読者と共にいます。この福音書の読者は「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席でイエスの話を聞き、十字架を霊的に目撃します。このイエスの愛弟子である読者にはもちろん現代の私たちも含まれており、さらに私たちがこれから伝える次世代の読者たちも含まれています。
 ヨハネ1~11章の三つの時間の重なりの例としては、例えばヨハネ4章で肉のイエスはサマリヤ地方にいますが、霊のイエスは旧約聖書のエリヤの時代の北王国におり、また同時に使徒の働き8章でピリポがサマリヤ人に伝道した時代のサマリヤにもいます。或いはヨハネ9章で肉のイエスは盲人の目を開けましたが、霊のイエスは旧約聖書のヨシヤ王の時代に律法の書が発見されて人々の目が開かれた現場にいます。また同時にダマスコ途上で目が見えなくなったパウロの目からウロコが落ちて目が見えるようになった現場にもいました。
 ヨハネ1~11章に肉のイエスと共に霊のイエスが「旧約の時代」と「使徒の時代」にも同時にいることは、たまたまそのように見えるのではありません。「旧約の時代」で言えば霊のイエスはヨハネ1章では創世記の時代におり、2章では出エジプト記の時代に、3章では出エジプト記~サムエル記の時代に、4章と6章では北王国の時代に、7章ではヒゼキヤ王の時代に、8章ではマナセ・アモン王の時代、9章ではヨシヤ王の時代に、10章では南王国が滅亡に向かった時代に、11章ではエルサレム再建の時代に霊のイエスがいるというように、時代順に説明付けすることができます。
 また「使徒の時代」で言えばヨハネ2章のカナの婚礼でガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じたこと(ヨハネ2:11)はガリラヤ人への聖霊の注ぎ(使徒2:2)のことであり、またエルサレムの人々がイエスを信じたこと(ヨハネ2:23)はエルサレムにいたユダヤ人たちがバプテスマを受けたこと(使徒2:41)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。同様にヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスを信じたこと(ヨハネ4:39)はサマリヤ人が聖霊を受けたこと(使徒8:17)であり、王室の役人と彼の家族がイエスを信じたこと(ヨハネ4:53)は異邦人のコルネリオと彼の親族たちに聖霊が下ったこと(使徒10:44)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。
 このように、ヨハネ1~11章で霊のイエスが時間を超越してあらゆる時代に存在することが霊的に見えるように読者がなるなら、その読者はヨハネ13章以降で「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席で十字架を霊的に目撃し、その霊的な体験を次世代の「愛弟子」たちに継承して行くことになります。
 国際テロ組織が勢力を拡大して混迷の度を深めている世界、そして再び戦争ができる国になろうとしている日本の中にあって私たちが「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの教えを守ることができるよう、紀元30年頃の肉のイエスだけではなく、あらゆる時代にいる霊のイエスについての理解を私たちは深めていかなければならないと思います。そして戦災による廃墟の前で憤り、涙を流したイエスの思いを霊的に共有して、私たちもまたこの霊的な体験を次世代に継承して行きたいと思います。(続く)
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すべての人を引き寄せるイエス(2015.7.1 祈り会)

2015-07-02 12:40:01 | 祈り会メッセージ
2015年7月1日祈り会メッセージ
『すべての人を引き寄せるイエス』
【マルコ9:7、Ⅰヨハネ1:3、レビ1:1~7、ヨハネ12:27~33】

はじめに
 きょうは7月1日です。ちょうど半年前の元旦礼拝で私たちの教会はマルコ9:7のみことばを今年の年間聖句としていただきました。このことの意味を、ちょうど半年が経った今日、私自身の証しも交えながら、改めて振り返ってみたいと思います。
 先ず、マルコ9:7です。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

 このみことばが今年の私たちの教会の年間聖句になった理由は、私たちが会堂問題の只中を歩んでいるからです。私たちの教会は小さくて私たちには力がありませんから、私たちが新しい会堂を建てることは到底無理なことのように思えます。しかし、会堂は私たちが建てるものではなくて、神様が建てて私たちに与えて下さるものです。神様は福音をこの地においても伝えたいと願ってらっしゃいますから、神様が会堂を建てて下さり、福音を伝える働きを私たちに託します。ですから私たちが神様の声に耳を澄ませて、その通りにするなら会堂は建ちます。そのためには、私たちは主イエス・キリストの言うことをしっかりと聞く必要があります。それゆえマルコ9:7が私たちの教会の今年の年間聖句になりました。そうして、この半年間にいろいろなことがありました。
 きょうのメッセージはしかし、この半年間を振り返ることはしません。この半年を振り返るのではなくて、マルコ9:7から出発して、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」について改めて考えてみたいと思っています。

御父と御子との交わりの大切さ
 では、もう一度マルコ9:7をお読みします。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

 このマルコ9:7を読んでみて改めて思うことは、これは御父ご自身のことばであるということです。御父ご自身が御子イエス・キリストの言うことを聞きなさいと言っておられます。福音書には御父ご自身のことばは数えるほどしかありませんから、非常に重みのある言葉です。ヨハネの手紙第一でヨハネは私たちを「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に招いていますね。その交わりに入れていただくのに、この御父ご自身のことばを噛み締めることは、どうしても必要なことです。これまでに何度も引用していますが、ヨハネの手紙第一でヨハネは次のように書いています。

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 私はこの「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を感じることが聖書を理解する上で極めて大切であることを神様ご自身から直接教えられていますから、この「御父および御子イエス・キリストとの交わり」の重要性については、これからもしつこく訴えて行きたいと思っています。

初めから御父と共にいた御子イエス
 私が「御父および御子イエス・キリストとの交わり」の大切さがわかるようになったきっかけは、もう何度もお証ししていることですが、聖書通読でレビ記の1章を読んでいて御父のイスラエルの民への大きな愛が急にわかるようになって涙が溢れて来たことです。レビ記1章の文章だけを見るなら、若い牛をほふって、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさいとか、いけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさいなどと書いてありますから、そこから御父の愛がわかるなどということは文章上からは有り得ないことです。しかし、その背後に御父のイスラエルの民への大きな愛があることがわかり、私は今まで御父の大きな愛に気付かないでいたことを申し訳なく思う気持ちと、私自身の父の子どもたちへの愛のことなどがいろいろな思いが重なって涙が溢れてきてしまいました。
 そうして直ちに私は、それまでわからないでいたヨハネ12:28のことがわかるようになりました。ヨハネ12章はご一緒に読みたいと思います(新約聖書p.205)。27節から33節までです。ここでも御父の声が天から聞こえます。そして私たちが「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に入れられるなら、この箇所が以前よりもわかるようになるでしょう。では27節から33節までを交代で読みましょう。

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

 このヨハネ12章では、12節以下に棕櫚の日のエルサレム入京のことが書かれていますから、十字架が目前に迫っている時のことです。次の章の13章からは最後の晩餐の場面に入ります。最後の晩餐は十字架の前日に持たれましたから、いま交代で読んだ27節から33節も十字架を目前にした時のことです。十字架を目前にしてイエスさまは12章27節で、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」と言いました。そして28節で、「父よ。御名の栄光を現してください」と言った時に、御父の声がしました。

「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

 このヨハネ12章28節の御父のことばの前半の部分、「わたしは栄光をすでに現した」の既に現した栄光とは何なのか、それまで私は新約の時代の出来事のどれかだろうと思っていました。注解書の注解者たちもまた新約の時代にそれを求めています。しかし、私はレビ記で涙す経験をした直後に、ヨハネ12:28の「御父の既に現した栄光」とは旧約の時代の栄光であることに気付きました。「御父の既に現した栄光」とは新約の時代のことではなく、旧約の時代のことであることに気付きました。そうしてヨハネの福音書の大きな時間構造がわかるようになり、ヨハネの福音書のことが以前と比べて格段によくわかるようになりました。イエス・キリストは天地創造の初めの時から御父と共にいて、あらゆる時代にいることがヨハネの福音書を読むとわかります。

すべての人を引き寄せるイエス
 今週の礼拝で私たちは創世記でアダムとエバが罪を犯した箇所を読み、人は神のかたちに造られたのに、アダムが犯した罪によって、そのかたちが著しく歪められたことを話しました。そして息子のカインの罪や、その後に延々と続くアダムの子孫たちの罪について話しました。さらには私たちもまたアダムの子孫であることを話しました。これらのすべての罪の現場、過去の現場、現在の現場、未来の現場、すべての罪の現場にイエス・キリストはおられます。
 そしてヨハネ12章32節は、このことを念頭において読みたいと思います。32節、

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

 イエス・キリストの十字架はアダムもカインも現代の私たちも未来の人々もすべてイエス・キリストに引き寄せられます。アダムもカインも十字架より前の時代の人々ではないかと思うかもしれませんが、それは人間の時間ではそうなりますが、神の時間ではすべてが現在ですから、十字架のイエス・キリストはアダムにもカインにも現れました。そうしてすべての人の罪を赦して下さいます。ただし、イエス・キリストを受け入れないなら、それに応じたさばきを受けることになります。
 私たちの教会の今年の聖句は、マルコ9:7の御父のことばの「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」ですが、私たちはヨハネ12:32のイエスさまのことばをしっかりと聞きたいと思います。イエスさまは、

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

とおっしゃいました。
 私たちは、このイエスさまのことばをしっかりと伝えて行きたいと思います。いま日本も世界もひどいことになっています。この、ひどい世の中にあってイエスさまは昔も今もこれからもご自身の十字架に、すべての人を引き寄せます。そして、このことを受け入れる者には平安が与えられ、受け入れない者には相応のさばきがあります。
 そして、このことを伝えて行く役割を私たちが自覚しているなら、新しい会堂は自ずと与えられることでしょう。

おわりに
 天の御父は、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」とおっしゃいました。そしてイエス・キリストは「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」とおっしゃいました。私たちはイエスさまに引き寄せられ、イエスさまを受け入れましたから平安が与えられました。このことに感謝しつつ、私たちはこの平安を宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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