2019年4月28日礼拝メッセージ
『子どものように神を受け入れる者』
【マルコ10:13~27、Ⅱ列王記5:9~14】
はじめに
本日は献児式を執り行ったことに合わせて、メッセージのタイトルを『子どものように神を受け入れる者』としました。
礼拝の始めのほうの聖書交読で開いたマルコ10章15節でイエスさまはおっしゃいました。
マルコ10:15 「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
ここでイエスさまは「子どものように『神の国』を受け入れる者」とおっしゃいましたが、タイトルでは「『神』を受け入れる者」としました。タイトルを「神の国を受け入れる者」としなかったのは、「神の国」に関する少しややこしい話があるからです。きょうは、そのややこしい話はしないで、単純に『子どものように「神」を受け入れる者』について話をしたいと思います。
神と財産の両方に仕えることはできない
子どものように神を受け入れる者とは、どのような者でしょうか。そのことを考える上で、聖書交読で読んだ17節以降の、いわゆる「金持ちの青年」の話はとても参考になると思います。今回私自身も初めて気付いたのですが、マルコだけでなくてマタイもルカも、子どもについての記事と金持ちの青年の記事とが連続しています。ということは、子どものように神を受け入れる者と財産とは切り離すことができない関係にあると言えそうです。
そこで、まず第一に思い浮かぶのは、マタイの福音書の「山上の説教」の中にある、「空の鳥を見なさい」とイエスさまがおっしゃったことです。週報のp.3にも載せましたから、お読みします。
マタイ6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。
子どもも同じですね。子どもは自分で働いて食べ物を調達しませんが、親が食べ物を与えて養ってくれます。
イエスさまがマタイ6:26をどういう文脈の中で話したのか、同じく週報p.3に載せた24節、31節、33節を読めばだいたいのことが分かります。お読みします。
マタイ6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。…一方を重んじて他方を軽んじることになります。神と富とに仕えることはできません。
マタイ6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
要するに、食べ物のためにあくせく働いていると神様から心が離れてしまうから、それらは空の鳥や子どもように神様にすべて委ねなさいということです。
もちろん現実的には、私たちの皆が仕事をしなくなると、たちまち私たちは食べる物に困ることになるでしょう。しかし、心のありようは子どものようでありたいと思います。
イエスさまは金持ちの青年に対しても、そういうことを分かって欲しかったのだと思います。金持ちの青年はマルコ10章17節でイエスさまに質問しました。
「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
するとイエスさまは答えました。少し飛ばして21節、
マルコ10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
現実問題としては、現代の私たちが自分の持っている物をすべて売り払うことはなかなかできないことだと思います。しかし、自分の持ち物の多くを手離すなら、その分だけ神様の方に目を向けることができるのは事実です。
鍵を持たない生活で気付かされたこと
例えば私自身の経験で言えば、私は神学校の寮で生活をしていた時には、ドアの鍵を一つも持たない生活をしていました。鍵を持つということは、そのドアの中にある部屋の財産を管理する責任を持つということです。そのことを私は鍵を持たない生活をすることで、初めて気付かされました。
神学校の寮に入る前、大学に勤めていた時には、私は常時たくさんの鍵を持ち歩いていました。自宅のマンションの鍵、大学の留学生センターの教員室と留学生用のコンピュータ室の鍵、工学部の学生室がある建物の鍵と工学部の私が担当する学部生と大学院生の学生室と実験室の鍵です。実験室には私の研究室専用の電子顕微鏡がありました。そうして、これらの部屋とその中にある機器の管理には常に気を配っていなければなりませんでした。
留学生用コンピュータ(パソコン約10台)では絶えずトラブルがありました(あまりに管理が大変なのでパソコンが古くなった時点でサービスを止めました)。電子顕微鏡も冷却系でよくトラブルがあってメンテナンスが大変でした。こういうことに絶えず神経をすり減らしていると、神様に目を向けることなど、なかなかできません。
しかし、神学校の寮では一つの鍵も持ち歩きませんでした。寮の玄関に鍵を掛けるのは日曜日だけだからです。月曜から土曜までは絶えず誰かが寮の中にいました。授業は学年によって時間割が違いますし、若手の先生も住んでいたからです。
日曜日は皆が寮を離れますから、その時だけは玄関に鍵を掛けましたが、鍵は一つだけで、その鍵を秘密の場所に置いておくことになっていました(今はどうかわかりません)。ですから私は3年間、本当に鍵を持たない生活をしていました。その分だけ神様に目を向ける生活をすることができたと思います。
今は外出する時には、この教会の玄関の鍵を持って出ます。この教会の財産を管理して運営する責任は私にあります。教会の財産を管理して運営することは祈りとみことばの働きとはまた違いますから、教会の財産と運営に心を向ければ、その分だけ神様に心を向ける時間が少なくなります。イエスさまが金持ちの青年に分かって欲しかったのは、そういうことだと思います。
プライドの厚い鎧を着けていたナアマン
さて、ここまでは物質的な財産を多く持つ金持ちの青年の話をしました。ここから先は霊的なことに関する話に移ります。きょうの聖書箇所に登場するアラム王の軍の長のナアマンは心に高いプライドを持つ人物でした。財産は処分しようと思えば処分できるかもしれません。しかし、プライドという心の問題は、そう簡単には処分できないやっかいな問題です。プライドが高すぎると神様を心に受け入れることはできません。
では、きょうの聖書箇所の列王記第二5章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.657)。5章の1節をお読みします。
Ⅱ列王記5:1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、【主】が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。
ナアマンはツァラアトに冒されていました。ツァラアトという病気がどんな病気か、ハッキリしていませんが重い皮膚病と言われています(ハッキリしないからヘブル語のままの表記の「ツァラアト」です」。途中経過を省きますが、ナアマンは預言者エリシャにツァラアトを治してもらうことになりました。それで9節、
9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
この9節からは、ナアマンが軍人としてのプライドが目茶苦茶に高い人だったということが伝わって来ます。エリシャは預言者ですから武力で闘う人ではありません。ですからエリシャの家に戦車でやって来る必要はまったくありません。ここからはナアマンの弱さも垣間見えます。ナアマンは軍人という肩書きなしには生きていけない人だったのでしょう。戦車に乗ってやって来たナアマンは鎧の防具も身に着けていたかもしれません。仮に体に鎧を着けていなくても、心は確実に厚い鎧で武装していました。
そんなプライドの高いナアマンでしたから、10節にあるようにエリシャが自ら現れずに使いの者を出して「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい」と言って来たことに激怒しました。11節、
11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」
そうしてナアマンはアラムに帰ろうとしました。
プライドの鎧を脱ぎ捨てて神に喜ばれたナアマン
しかし、彼の部下たちが言いました。13節、
13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
そうして14節には、こう書いてあります。
14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
この13節のしもべのことばと、14節の冒頭の「そこで」との間に、ナアマンの葛藤がどれぐらいあったことでしょうか。すさまじい葛藤があったと読み取るべきでしょう。エリシャの家の前に戦車で乗り付けたナアマンは、恐らくは彼自身も鎧を着て武装していたことでしょう。その誇り高いナアマンが裸になって、あまりきれいには見えない濁ったヨルダン川に入るまでには、どれほどの心の葛藤があったことか、容易ではなかった筈です。
しかしナアマンは心に着けていた厚いプライドの鎧を脱ぎ捨てて、心身ともに身も心も裸になってヨルダン川に身を浸しました。
この裸のナアマンの姿を見て、神様はこうおっしゃったのではないでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21、23)。この週報p.3にも載せた「よくやった。良い忠実なしもべだ」はマタイの福音書25章で五タラントのしもべと二タラントのしもべに主人が言ったことばですが、ナアマンに対しても神様はこのようにおっしゃったのではないかと思います。それゆえナアマンの重い皮膚病は癒されて、幼子のからだのようにきよくなりました。
教会を守るため?プライドを守るため?どちらか分からなくなる
プライドは脱ぎ捨てたと思っても、すぐにまたまとわり付く、やっかいなものです。再び神学生の時代の私自身の証をしますが、私は一旦はプライドの大半を脱ぎ捨てることができたと思います。神学生になったばかりの頃の私は大学の教員であったというプライドを捨て去ることができずに苦労しました。しかし、やがてはプライドを持たないことに心地良さを覚えるようになりました。プライドを捨てて上の人の言うことに「はい」と答えて、その通りに動きました。
しかし、牧師になると責任を伴いますから、人の言うことに黙って従うだけでは教会を運営していけません。自分の意見を言うことも時に必要になります。その場合に、その自分の意見が本当に教会を守るための意見なのか、自分のプライドを守るための意見なのか、分からなくなる時があります。だからプライドの問題は、とてもやっかいだと思います。
詳しい話はしませんが、前任地での教会の合併問題でも、そういうプライドに関わる部分がありました。単純に分類すると、前任地の教会には四つの道がありました。①何としてでも教会を存続させる、②自主的に解散する、③他教会と対等合併する、④他教会に吸収合併される、の4つです。
紆余曲折があって結局は教会総会で、四番目の他教会に吸収合併される道を全会一致で決議しました。一番目と二番目なら、財産について、自分たちで決めることができました。三番目の対等合併でも、相手方の教会との話し合いはあるものの、自分たちの財産をどうするかを自分たちで決める余地はあります。しかし吸収合併の場合には財産を相手方の教会に全面的に委ねなければなりません。
最初のうちは自分たちの財産は自分たちで何とかする方法を何とか見出せないか教会の皆さんと随分と議論しました。しかし、財産の処分にはいろいろと難しい問題があることが分かりました。それでも私はあきらめきれずに何とかしたいと思いました。すると教会の幹事会で幹事の皆さんが、「吸収合併で良いですよ」と言って下さいました。そのことばに私は助けられて、それ以上頑張る必要が無くなりました。
プライドから自由になると聞こえて来る神の声
振り返って見ると、私は自分自身のプライドのために教会を守ろうとしていたのかもしれません。そのプライドのゆえに自分たちの教会の財産は自分たちで処分したいと思っていたのかもしれません。しかし教会の皆さんは、そういうプライドにはこだわらずに「吸収合併で良いですよ」と言って下さいました。そうして私は教会の皆さんに助けられました。教会の皆さんが「吸収合併で良いですよ」と言って下さらなければ、私はいつまでもプライドを捨てられずにいただろうと思います。
そうして、プライドから自由になった時に聖書のみことばが響いて来ました。それらのみことばは、近いうちにまた、この礼拝で取り上げたいと思います。これらの経験を通して、プライドが神様の声を聞くことの邪魔をすることを私は学びました。神学校では良い学びをさせていただきましたし、合併問題においてもまた、教会の皆さんに助けられたことで神様の声を聞くことができました。
子どもであってもプライドからは自由になってはいないでしょう。彼らにもまた小さなプライドがあることでしょう。しかし大人に比べればそれらは遥かに小さなものです。ですから子どもは素直に神様を受け入れます。私たちも、子どものように神様を受け入れる者たちでありたいと思います。そうして神様の声を霊的に聞くことができる者たちでありたいと思います。
霊的な聖書読解の七つのレベル別目標(案)
神様は霊的な存在ですから、神様と交わり、神様の声を聞くには霊的に整えられなければなりません。それゆえ聖書の読み方もまた、霊的なものでなければなりません。これから先、静岡教会で伝道を行っていくに当たって、私は霊的な聖書の読み方をお勧めして行きたいと願っています。それに当たって七つのレベルを案として考えてみました。週報のp.3に、それら七つのレベルの案を載せてみましたから、最後にこの案の説明をして、きょうのメッセージを閉じたいと思います。
これらは私の経験に基づくものですから、どれぐらいの一般性があるかまだ分かりませんが、キリスト教の初心者に対して霊的に聖書を読むこととはどういうことかを示して興味を持っていただくために、それなりに意味があるのではないかと思います。
信仰にレベル付けを行うことに疑問を持つ方もおられるかもしれませんが、英語や中国語などの語学では現に初級・中級・上級のレベル別の教育が為されていて、上のレベルに進むことを励みとして学ぶ意欲も高まります。それゆえ聖書の読解においても、このようなレベル別の指針を示すことで聖書を読む励みにしていただければと思います。
①の入門レベルでは「守護神」という言葉を使ってみました。キリスト教では「守護神」という言葉は使いませんが、伝道対象の入門レベルの方には「守護神」という言葉の方が身近に感じていただけるのではないかと思いました。霊的な読解では、自分を守っていたのは聖書の神であったと気付くことがとても重要ではないかと思います。この気付きが無いと、どんなに聖書知識があったとしても「霊的な読解」という意味では、いつまで経っても入門レベルに達しないということになるのではないかと思います。
②の初級レベルにはイエスさまではなくて天の御父を挙げてみました。日本人にとってはイエスさまよりも天の御父のほうが、より近い存在として感じるのではないかという気がします。ただし、これは年齢にもよると思います。子どもにとってはイエスさまのほうが御父よりも身近に感じるかもしれません。しかし大人にとっては天の御父のほうがイエスさまよりも身近に感じるのではないかと思います。この初級レベルでは、御父の愛が「何となく」分かる程度で良いのではないかと思います。
そうして③と④の初中級と中級レベルで初めてキリスト教の核心に迫ることになります。初中級でイエスさまは神の子キリストと分かって、それを信じるなら人は聖霊を受けます。聖霊を受けて初めて人間の罪、そして自分の罪の深さが分かるのではないでしょうか。聖霊を受けない間は十字架のことは難しくてなかなか分かりません。そして、聖霊を受けると聖霊の働きのことも段々と分かるようになります。これが中級レベルではないかなと私は考えます。
インマヌエルが大切にしている、きよめの信仰も、中級レベルではないかという気がしています。ですから私たちは、さらにもっと上のレベルを目指すべきだというのが私の考えです。それが中上級のレベルであり、上級のレベルであり、超上級のレベルです。
誤解を与えないように予め言っておきますが、私自身はせいぜい中級レベルで、それより上のレベルに達しているわけではありません。しかし、その上のレベルがどういうものかは想像できます。
平和実現のために必要な中級より上のレベル
⑤の中上級のレベルは、自分は「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26他)だと時空を超えて自覚できることとしました。「イエスの愛弟子」とはヨハネの福音書に登場する「イエスが愛された弟子」のことです。この弟子が最初に登場するのは最後の晩餐の場面で、次に登場するのは十字架の場面です。その十字架の場面のヨハネ19章26節を週報p.3に載せました。お読みします。
ヨハネ19:26 (十字架に掛かっている)イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
この愛する弟子、すなわち「イエスの愛弟子」はイエスさまの十字架のすぐそばにいました。霊的な読解の中上級では、この「イエスの愛弟子」とは自分のことだと自覚できるようになれたら良いなと思います。
そうして、「イエスの愛弟子」とは1世紀の人物のことだけではなく、読者である私たち自身のことでもあると感じたいと思います。そのためには時空を超えて1世紀の世界に入る必要があります。私たちの肉体は時間に縛られていますから、肉の体は1世紀に戻ることはできません。しかし、霊的には可能です。
そしてヨハネ21章24節の弟子もまた自分のことであると感じるようになるでしょう。これも週報p.3に載せましたから、お読みします。
ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
霊的なレベルが上がるなら、ヨハネの福音書は1世紀のことを書いただけでなく、21世紀の私たちのこともまた描かれていると感じることができるようになるでしょう。そのように霊的な読解レベルが上がって行くのなら⑥の上級にあるように御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられて、大きな喜びを感じるでしょう。
そして⑦の超上級に至るなら、永遠の中にいる父・子・聖霊と一体になり、真の平安・平和に至るでしょう。繰り返しますが私はせいぜい中級レベルで、それより上のレベルに達しているわけではありません。しかし、目指すべき高いレベルがあることは分かります。
なぜ分かるようになったのか、私自身にも分かりませんが、たぶん私が平和の働きのために召し出されたからだろうと思います。ですから私は未だ中級レベルですが、多くの方々と共に上のレベルを目指したいと思います。そうして超上級レベルの人が増えるなら、世界は平和になることでしょう。
おわりに
きょうは子どもの話から始めて、最後は少し難しい話になってしまったかもしれませんが、私たちが目指すべきは霊的なレベルを上げることだということが分かっていただければ幸いです。そのためには、まずは子どものように神を受け入れる者でなければなりません。自力で頑張らず、財産にも執着せず、そしてプライドを脱ぎ捨てるなら霊的に神様と共に歩むことができ、霊的に成長して行くことができるでしょう。
これらのことに思いを巡らしながら、しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
『子どものように神を受け入れる者』
【マルコ10:13~27、Ⅱ列王記5:9~14】
はじめに
本日は献児式を執り行ったことに合わせて、メッセージのタイトルを『子どものように神を受け入れる者』としました。
礼拝の始めのほうの聖書交読で開いたマルコ10章15節でイエスさまはおっしゃいました。
マルコ10:15 「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
ここでイエスさまは「子どものように『神の国』を受け入れる者」とおっしゃいましたが、タイトルでは「『神』を受け入れる者」としました。タイトルを「神の国を受け入れる者」としなかったのは、「神の国」に関する少しややこしい話があるからです。きょうは、そのややこしい話はしないで、単純に『子どものように「神」を受け入れる者』について話をしたいと思います。
神と財産の両方に仕えることはできない
子どものように神を受け入れる者とは、どのような者でしょうか。そのことを考える上で、聖書交読で読んだ17節以降の、いわゆる「金持ちの青年」の話はとても参考になると思います。今回私自身も初めて気付いたのですが、マルコだけでなくてマタイもルカも、子どもについての記事と金持ちの青年の記事とが連続しています。ということは、子どものように神を受け入れる者と財産とは切り離すことができない関係にあると言えそうです。
そこで、まず第一に思い浮かぶのは、マタイの福音書の「山上の説教」の中にある、「空の鳥を見なさい」とイエスさまがおっしゃったことです。週報のp.3にも載せましたから、お読みします。
マタイ6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。
子どもも同じですね。子どもは自分で働いて食べ物を調達しませんが、親が食べ物を与えて養ってくれます。
イエスさまがマタイ6:26をどういう文脈の中で話したのか、同じく週報p.3に載せた24節、31節、33節を読めばだいたいのことが分かります。お読みします。
マタイ6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。…一方を重んじて他方を軽んじることになります。神と富とに仕えることはできません。
マタイ6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
要するに、食べ物のためにあくせく働いていると神様から心が離れてしまうから、それらは空の鳥や子どもように神様にすべて委ねなさいということです。
もちろん現実的には、私たちの皆が仕事をしなくなると、たちまち私たちは食べる物に困ることになるでしょう。しかし、心のありようは子どものようでありたいと思います。
イエスさまは金持ちの青年に対しても、そういうことを分かって欲しかったのだと思います。金持ちの青年はマルコ10章17節でイエスさまに質問しました。
「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
するとイエスさまは答えました。少し飛ばして21節、
マルコ10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
現実問題としては、現代の私たちが自分の持っている物をすべて売り払うことはなかなかできないことだと思います。しかし、自分の持ち物の多くを手離すなら、その分だけ神様の方に目を向けることができるのは事実です。
鍵を持たない生活で気付かされたこと
例えば私自身の経験で言えば、私は神学校の寮で生活をしていた時には、ドアの鍵を一つも持たない生活をしていました。鍵を持つということは、そのドアの中にある部屋の財産を管理する責任を持つということです。そのことを私は鍵を持たない生活をすることで、初めて気付かされました。
神学校の寮に入る前、大学に勤めていた時には、私は常時たくさんの鍵を持ち歩いていました。自宅のマンションの鍵、大学の留学生センターの教員室と留学生用のコンピュータ室の鍵、工学部の学生室がある建物の鍵と工学部の私が担当する学部生と大学院生の学生室と実験室の鍵です。実験室には私の研究室専用の電子顕微鏡がありました。そうして、これらの部屋とその中にある機器の管理には常に気を配っていなければなりませんでした。
留学生用コンピュータ(パソコン約10台)では絶えずトラブルがありました(あまりに管理が大変なのでパソコンが古くなった時点でサービスを止めました)。電子顕微鏡も冷却系でよくトラブルがあってメンテナンスが大変でした。こういうことに絶えず神経をすり減らしていると、神様に目を向けることなど、なかなかできません。
しかし、神学校の寮では一つの鍵も持ち歩きませんでした。寮の玄関に鍵を掛けるのは日曜日だけだからです。月曜から土曜までは絶えず誰かが寮の中にいました。授業は学年によって時間割が違いますし、若手の先生も住んでいたからです。
日曜日は皆が寮を離れますから、その時だけは玄関に鍵を掛けましたが、鍵は一つだけで、その鍵を秘密の場所に置いておくことになっていました(今はどうかわかりません)。ですから私は3年間、本当に鍵を持たない生活をしていました。その分だけ神様に目を向ける生活をすることができたと思います。
今は外出する時には、この教会の玄関の鍵を持って出ます。この教会の財産を管理して運営する責任は私にあります。教会の財産を管理して運営することは祈りとみことばの働きとはまた違いますから、教会の財産と運営に心を向ければ、その分だけ神様に心を向ける時間が少なくなります。イエスさまが金持ちの青年に分かって欲しかったのは、そういうことだと思います。
プライドの厚い鎧を着けていたナアマン
さて、ここまでは物質的な財産を多く持つ金持ちの青年の話をしました。ここから先は霊的なことに関する話に移ります。きょうの聖書箇所に登場するアラム王の軍の長のナアマンは心に高いプライドを持つ人物でした。財産は処分しようと思えば処分できるかもしれません。しかし、プライドという心の問題は、そう簡単には処分できないやっかいな問題です。プライドが高すぎると神様を心に受け入れることはできません。
では、きょうの聖書箇所の列王記第二5章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.657)。5章の1節をお読みします。
Ⅱ列王記5:1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、【主】が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。
ナアマンはツァラアトに冒されていました。ツァラアトという病気がどんな病気か、ハッキリしていませんが重い皮膚病と言われています(ハッキリしないからヘブル語のままの表記の「ツァラアト」です」。途中経過を省きますが、ナアマンは預言者エリシャにツァラアトを治してもらうことになりました。それで9節、
9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
この9節からは、ナアマンが軍人としてのプライドが目茶苦茶に高い人だったということが伝わって来ます。エリシャは預言者ですから武力で闘う人ではありません。ですからエリシャの家に戦車でやって来る必要はまったくありません。ここからはナアマンの弱さも垣間見えます。ナアマンは軍人という肩書きなしには生きていけない人だったのでしょう。戦車に乗ってやって来たナアマンは鎧の防具も身に着けていたかもしれません。仮に体に鎧を着けていなくても、心は確実に厚い鎧で武装していました。
そんなプライドの高いナアマンでしたから、10節にあるようにエリシャが自ら現れずに使いの者を出して「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい」と言って来たことに激怒しました。11節、
11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」
そうしてナアマンはアラムに帰ろうとしました。
プライドの鎧を脱ぎ捨てて神に喜ばれたナアマン
しかし、彼の部下たちが言いました。13節、
13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
そうして14節には、こう書いてあります。
14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
この13節のしもべのことばと、14節の冒頭の「そこで」との間に、ナアマンの葛藤がどれぐらいあったことでしょうか。すさまじい葛藤があったと読み取るべきでしょう。エリシャの家の前に戦車で乗り付けたナアマンは、恐らくは彼自身も鎧を着て武装していたことでしょう。その誇り高いナアマンが裸になって、あまりきれいには見えない濁ったヨルダン川に入るまでには、どれほどの心の葛藤があったことか、容易ではなかった筈です。
しかしナアマンは心に着けていた厚いプライドの鎧を脱ぎ捨てて、心身ともに身も心も裸になってヨルダン川に身を浸しました。
この裸のナアマンの姿を見て、神様はこうおっしゃったのではないでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21、23)。この週報p.3にも載せた「よくやった。良い忠実なしもべだ」はマタイの福音書25章で五タラントのしもべと二タラントのしもべに主人が言ったことばですが、ナアマンに対しても神様はこのようにおっしゃったのではないかと思います。それゆえナアマンの重い皮膚病は癒されて、幼子のからだのようにきよくなりました。
教会を守るため?プライドを守るため?どちらか分からなくなる
プライドは脱ぎ捨てたと思っても、すぐにまたまとわり付く、やっかいなものです。再び神学生の時代の私自身の証をしますが、私は一旦はプライドの大半を脱ぎ捨てることができたと思います。神学生になったばかりの頃の私は大学の教員であったというプライドを捨て去ることができずに苦労しました。しかし、やがてはプライドを持たないことに心地良さを覚えるようになりました。プライドを捨てて上の人の言うことに「はい」と答えて、その通りに動きました。
しかし、牧師になると責任を伴いますから、人の言うことに黙って従うだけでは教会を運営していけません。自分の意見を言うことも時に必要になります。その場合に、その自分の意見が本当に教会を守るための意見なのか、自分のプライドを守るための意見なのか、分からなくなる時があります。だからプライドの問題は、とてもやっかいだと思います。
詳しい話はしませんが、前任地での教会の合併問題でも、そういうプライドに関わる部分がありました。単純に分類すると、前任地の教会には四つの道がありました。①何としてでも教会を存続させる、②自主的に解散する、③他教会と対等合併する、④他教会に吸収合併される、の4つです。
紆余曲折があって結局は教会総会で、四番目の他教会に吸収合併される道を全会一致で決議しました。一番目と二番目なら、財産について、自分たちで決めることができました。三番目の対等合併でも、相手方の教会との話し合いはあるものの、自分たちの財産をどうするかを自分たちで決める余地はあります。しかし吸収合併の場合には財産を相手方の教会に全面的に委ねなければなりません。
最初のうちは自分たちの財産は自分たちで何とかする方法を何とか見出せないか教会の皆さんと随分と議論しました。しかし、財産の処分にはいろいろと難しい問題があることが分かりました。それでも私はあきらめきれずに何とかしたいと思いました。すると教会の幹事会で幹事の皆さんが、「吸収合併で良いですよ」と言って下さいました。そのことばに私は助けられて、それ以上頑張る必要が無くなりました。
プライドから自由になると聞こえて来る神の声
振り返って見ると、私は自分自身のプライドのために教会を守ろうとしていたのかもしれません。そのプライドのゆえに自分たちの教会の財産は自分たちで処分したいと思っていたのかもしれません。しかし教会の皆さんは、そういうプライドにはこだわらずに「吸収合併で良いですよ」と言って下さいました。そうして私は教会の皆さんに助けられました。教会の皆さんが「吸収合併で良いですよ」と言って下さらなければ、私はいつまでもプライドを捨てられずにいただろうと思います。
そうして、プライドから自由になった時に聖書のみことばが響いて来ました。それらのみことばは、近いうちにまた、この礼拝で取り上げたいと思います。これらの経験を通して、プライドが神様の声を聞くことの邪魔をすることを私は学びました。神学校では良い学びをさせていただきましたし、合併問題においてもまた、教会の皆さんに助けられたことで神様の声を聞くことができました。
子どもであってもプライドからは自由になってはいないでしょう。彼らにもまた小さなプライドがあることでしょう。しかし大人に比べればそれらは遥かに小さなものです。ですから子どもは素直に神様を受け入れます。私たちも、子どものように神様を受け入れる者たちでありたいと思います。そうして神様の声を霊的に聞くことができる者たちでありたいと思います。
霊的な聖書読解の七つのレベル別目標(案)
神様は霊的な存在ですから、神様と交わり、神様の声を聞くには霊的に整えられなければなりません。それゆえ聖書の読み方もまた、霊的なものでなければなりません。これから先、静岡教会で伝道を行っていくに当たって、私は霊的な聖書の読み方をお勧めして行きたいと願っています。それに当たって七つのレベルを案として考えてみました。週報のp.3に、それら七つのレベルの案を載せてみましたから、最後にこの案の説明をして、きょうのメッセージを閉じたいと思います。
これらは私の経験に基づくものですから、どれぐらいの一般性があるかまだ分かりませんが、キリスト教の初心者に対して霊的に聖書を読むこととはどういうことかを示して興味を持っていただくために、それなりに意味があるのではないかと思います。
信仰にレベル付けを行うことに疑問を持つ方もおられるかもしれませんが、英語や中国語などの語学では現に初級・中級・上級のレベル別の教育が為されていて、上のレベルに進むことを励みとして学ぶ意欲も高まります。それゆえ聖書の読解においても、このようなレベル別の指針を示すことで聖書を読む励みにしていただければと思います。
《霊的な聖書読解の、レベル別目標(案)》
①入門レベル:自分の守護神は聖書の神であったと気付き、真理の探求を始める。
②初級レベル:全知全能の神である天の御父の愛が何となく分かるようになる。
③初中級レベル:人として生まれたイエスが神の子キリスト(救い主)だと分かる。
④中級レベル:人間(及び自分)の罪と十字架との関係、聖霊の働きが分かる。
⑤中上級レベル:自分は「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26他)だと時空を超えて自覚する。
⑥上級レベル: 御父また御子との交わりに大きな喜びを感じる(Ⅰヨハネ1:3~4)。
⑦超上級レベル:永遠の中にいる父・子・聖霊と一体になり、真の平安・平和に至る。
①入門レベル:自分の守護神は聖書の神であったと気付き、真理の探求を始める。
②初級レベル:全知全能の神である天の御父の愛が何となく分かるようになる。
③初中級レベル:人として生まれたイエスが神の子キリスト(救い主)だと分かる。
④中級レベル:人間(及び自分)の罪と十字架との関係、聖霊の働きが分かる。
⑤中上級レベル:自分は「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26他)だと時空を超えて自覚する。
⑥上級レベル: 御父また御子との交わりに大きな喜びを感じる(Ⅰヨハネ1:3~4)。
⑦超上級レベル:永遠の中にいる父・子・聖霊と一体になり、真の平安・平和に至る。
①の入門レベルでは「守護神」という言葉を使ってみました。キリスト教では「守護神」という言葉は使いませんが、伝道対象の入門レベルの方には「守護神」という言葉の方が身近に感じていただけるのではないかと思いました。霊的な読解では、自分を守っていたのは聖書の神であったと気付くことがとても重要ではないかと思います。この気付きが無いと、どんなに聖書知識があったとしても「霊的な読解」という意味では、いつまで経っても入門レベルに達しないということになるのではないかと思います。
②の初級レベルにはイエスさまではなくて天の御父を挙げてみました。日本人にとってはイエスさまよりも天の御父のほうが、より近い存在として感じるのではないかという気がします。ただし、これは年齢にもよると思います。子どもにとってはイエスさまのほうが御父よりも身近に感じるかもしれません。しかし大人にとっては天の御父のほうがイエスさまよりも身近に感じるのではないかと思います。この初級レベルでは、御父の愛が「何となく」分かる程度で良いのではないかと思います。
そうして③と④の初中級と中級レベルで初めてキリスト教の核心に迫ることになります。初中級でイエスさまは神の子キリストと分かって、それを信じるなら人は聖霊を受けます。聖霊を受けて初めて人間の罪、そして自分の罪の深さが分かるのではないでしょうか。聖霊を受けない間は十字架のことは難しくてなかなか分かりません。そして、聖霊を受けると聖霊の働きのことも段々と分かるようになります。これが中級レベルではないかなと私は考えます。
インマヌエルが大切にしている、きよめの信仰も、中級レベルではないかという気がしています。ですから私たちは、さらにもっと上のレベルを目指すべきだというのが私の考えです。それが中上級のレベルであり、上級のレベルであり、超上級のレベルです。
誤解を与えないように予め言っておきますが、私自身はせいぜい中級レベルで、それより上のレベルに達しているわけではありません。しかし、その上のレベルがどういうものかは想像できます。
平和実現のために必要な中級より上のレベル
⑤の中上級のレベルは、自分は「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26他)だと時空を超えて自覚できることとしました。「イエスの愛弟子」とはヨハネの福音書に登場する「イエスが愛された弟子」のことです。この弟子が最初に登場するのは最後の晩餐の場面で、次に登場するのは十字架の場面です。その十字架の場面のヨハネ19章26節を週報p.3に載せました。お読みします。
ヨハネ19:26 (十字架に掛かっている)イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
この愛する弟子、すなわち「イエスの愛弟子」はイエスさまの十字架のすぐそばにいました。霊的な読解の中上級では、この「イエスの愛弟子」とは自分のことだと自覚できるようになれたら良いなと思います。
そうして、「イエスの愛弟子」とは1世紀の人物のことだけではなく、読者である私たち自身のことでもあると感じたいと思います。そのためには時空を超えて1世紀の世界に入る必要があります。私たちの肉体は時間に縛られていますから、肉の体は1世紀に戻ることはできません。しかし、霊的には可能です。
そしてヨハネ21章24節の弟子もまた自分のことであると感じるようになるでしょう。これも週報p.3に載せましたから、お読みします。
ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
霊的なレベルが上がるなら、ヨハネの福音書は1世紀のことを書いただけでなく、21世紀の私たちのこともまた描かれていると感じることができるようになるでしょう。そのように霊的な読解レベルが上がって行くのなら⑥の上級にあるように御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられて、大きな喜びを感じるでしょう。
そして⑦の超上級に至るなら、永遠の中にいる父・子・聖霊と一体になり、真の平安・平和に至るでしょう。繰り返しますが私はせいぜい中級レベルで、それより上のレベルに達しているわけではありません。しかし、目指すべき高いレベルがあることは分かります。
なぜ分かるようになったのか、私自身にも分かりませんが、たぶん私が平和の働きのために召し出されたからだろうと思います。ですから私は未だ中級レベルですが、多くの方々と共に上のレベルを目指したいと思います。そうして超上級レベルの人が増えるなら、世界は平和になることでしょう。
おわりに
きょうは子どもの話から始めて、最後は少し難しい話になってしまったかもしれませんが、私たちが目指すべきは霊的なレベルを上げることだということが分かっていただければ幸いです。そのためには、まずは子どものように神を受け入れる者でなければなりません。自力で頑張らず、財産にも執着せず、そしてプライドを脱ぎ捨てるなら霊的に神様と共に歩むことができ、霊的に成長して行くことができるでしょう。
これらのことに思いを巡らしながら、しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。