平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

常識を打破してイエスに近づく(2020.12.27 礼拝)

2020-12-28 09:22:40 | 礼拝メッセージ
2020年12月27日年末感謝礼拝メッセージ
『常識を打破してイエスに近づく』
【マルコ2:1~5】

はじめに
 きょうは今年最後の礼拝ですから、今年一年を振り返りつつ、来年への展望を語りたいと思います。但し、きょうの礼拝後には大掃除もありますから、長い話はできません。今年を振り返ることは1月の教会総会の折にもできますから、振り返りはそこそこにして、来年への展望に重点を置きたいと願っています。
 きょうは次の四つのパートで話を進めます。

 ①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
 ②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
 ③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
 ④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント

①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
 聖書は極めて霊的な書物です。そのことは「霊」ということばがたくさん使われていることからも明らかです。但しやっかいなのは、「霊」は目に見えないために「霊」とは何かを共有することが難しいということです。聖書の「霊」という活字をいくら眺めていても「霊」は分かって来ません。「御霊」を連発するパウロの手紙を何十回読んでも「御霊」のことは分かりません。

 それほど「霊」のことは分かりにくいのですが、聖書に「霊」ということばがたくさん用いられているからには、霊への感受性を高めて、教会の皆さんとの間で霊的な事柄を共有することは必須だと考えます。なぜなら、心の平安を求める人は神の霊によって魂に癒しを感じるからです。

 19年前の2001年8月に初めて高津教会を訪れた時、私はそこに霊的な雰囲気を感じました。そうしてクリスマス礼拝まで一度も休まず礼拝に出席して受洗に至ったのも、高津教会の持つ霊的な雰囲気に引き付けられていたからだと思います。静岡教会の皆さんも、上手く言葉にはできないにせよ、恐らくは神の霊を感じていて、魂の癒しを感じているから、礼拝出席を続けているのだろうと思います。

 その、何となく感じる神の霊による魂の癒しの恵みを、言葉を通して明らかにして静岡教会の皆さんと分かち合えるようになるなら、まだその恵みを知らない方々にも、言葉を通してお伝えできるようになるでしょう。そうすれば、新しい方に来ていただけるようになるかもしれません。そのことを願って、今年の標語聖句を第二コリント13章13節にしました。きょうの招きの詞です。お読みします。

第二コリント13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 神の霊による魂の癒しを言葉で伝えることは難しいですから、どうしたら良いのか、よくは分かりませんでしたが、先ずは神の愛の大きさを分かち合うことから始めて、今年一年の歩みを始めることにしました。そうして2月までを過ごしましたが、2月の後半から日本の国内でも新型コロナウイルスの感染者が増えて来て、3月は学校が一斉休校となりました。

 経験したことがない事態の中で誰もが戸惑い、どうしてこんなことになったんだろうと私も思いました。そうして、この事態を神様はどうご覧になっているのだろうかと思い悩みました。そして、そうこうしているうちに、お二人の兄弟の病状が悪化して天に見送りました。そんなこんなで礼拝の説教のテーマは一貫性を欠いて迷走状態になっていたようです。それゆえ神の霊による魂の癒しの恵みを皆さんと分かち合いたいという目標にも近づけていませんでした。

②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
 そんな中で、11月1日の礼拝説教は、この悪い流れをある程度変えることができたのではないかと私自身は考えています。11月1日の説教では冒頭で聖宣神学院でのK先生の授業の思い出を話しました。

 私が神学生の1年生の時、K先生は教室にいる神学生に向かって「皆さんは聖霊が内にいることを確信していますか?」と聞きました。その時私は、「聖霊が内にいると感じる時もありますが、感じない時もあります」と答えました。するとK先生はおっしゃいました。「人間の心は安定しないから聖霊を感じる時と感じない時とがありますが、聖書にはイエスを信じた者の内には聖霊がいると書いてあるのですから、自分の内にはいつも聖霊がいると信仰によって信じるべきです。」

 細かい表現は違ったかもしれませんが、そのようなことを河村先生はおっしゃいました。それまでの私は聖霊をとらえどころのない、良くわからないものだと感じていました。それで聖霊が内にいることも感じたり感じなかったりで、私にとって聖霊はとても曖昧な存在でした。しかし聖霊が内にいることは信仰によって信じるものなのだということを教わってからは、聖霊が内にいることを確信できるようになり、聖書の理解が深まるようになって行きました。

 聖書の理解が深まったのは、聖霊の内住を信じたことで助け主の助けが得られるようになったからです。きょうの聖書交読の箇所でもあるヨハネの福音書14章26節でイエス様はおっしゃいました。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 神学院での経験を通して私は、聖霊の内住を信じるなら助け主の助けが得られることを学びました。ですから、教会の皆さんにも聖霊の内住を、信仰を持って信じるようにお勧めしました。

 この11月1日の説教で聖霊の内住を信じることをお勧めしたことで、それ以降の聖霊に関する説教が、とてもしやすくなりました。分かりにくい聖霊の話をどうしたら分かりやすくできるのかが大きな課題でしたが、それはお一人お一人の中にいる助け主の助けにお委ねすることにしましたから、随分と話しやすくなったと感じています。

 そうして11月22日の礼拝説教では『序盤から「聖霊」を強調する福音書』というタイトルで話しました。この、序盤から「聖霊」を強調する傾向は特にマルコの福音書において顕著です。マルコは1章の8節という非常に早い段階で、バプテスマのヨハネの次のことばを記しています。

マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 これほど早い段階でマルコが聖霊に言及しているということは、福音書は霊的なメッセージを発信している書であるとマルコが宣言していると受け留めるべきです。バプテスマのヨハネは、もっと多くのことを人々に語ったはずです。マルコは、その多くのことの中から、「イエス様は聖霊のバプテスマを授けるお方である」ということに焦点を絞って、このことだけを書き記しました。このことから、福音書は霊的なメッセージを発信している書であることが分かります。

 福音書が発信している霊的なメッセージを受信するためには、そのためのアンテナを立てる必要があります。この霊的なアンテナを立てると、なぜ福音書の記者たちがイエス様の風貌を描かなかったのかも分かります。イエス様の背は高かったのか低かったのか、目は何色だったのか、そういうことを福音書の記者たちは一切書いていません。読者がイエス様を信じて聖霊を受けるのに、それらの情報はぜんぜん必要ないからでしょう。

 イエス様はおよそ30歳の頃に宣教を始めたと福音書は書いていますが、私は10代、20代のイエス様のことももっと知りたいと思っています。しかし福音書は書いていません。それらの情報は読者が聖霊を受けるためには必要がないからでしょう。

 福音書はイエス様の伝記ではなくて、読者がイエス様を信じて聖霊を受けるために必要な情報が書かれている書だと頭を切り替える必要があります。そうして霊的なアンテナを立てて福音書を読みたいと思います。

③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
 きょうの聖書箇所のマルコ2章の記事も、霊的なアンテナを立てているか立てていないかで、受け留め方がだいぶ違って来ます。マルコ2章1節から見て行きます。

マルコ2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。

 これはイエス様が宣教の拠点としていたカペナウムの家での出来事です。2節、

2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。

 家の中には人々がぎっしりといて隙間もないほどでした。3節と4節、

3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。

 この記事を読むと、私たちは穴が開いた家の屋根のことが、どうしても気になってしまいますね。しかし、イエス様は穴が開いた屋根のことなど、ぜんぜん気にしていませんでした。5節、

5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 私たちは常識的な人間ですから、屋根をはがして穴を開けた乱暴さが、どうしても気になってしまいます。しかし、常識に縛られている限りイエス様に霊的に近づくことはできません。次の金曜日の元旦礼拝では、マルコの福音書の長血の女の記事を開く予定です。長血の女は血を漏出する病を患っていましたから、律法的には汚れていて、群衆の中に紛れ込むなど常識的にはとんでもないことでした。しかし、長血の女はイエス様に病気を治していただきたい一心で人々をかき分けて近づいて行って、イエス様の衣に触りました。長血の女は常識を破って大胆にイエス様に近づき、イエス様はその信仰をほめました。

 21世紀の今はイエス様は地上にはおらず天にいます。ですから人としてのイエス様に近づくことはできません。しかし、天のイエス様に霊的に近づくことならできます。イエス様を遠巻きに眺めている間は救いを得られないという霊的なメッセージを、私たちはしっかりと受け取りたいと思います。

 長血の女の記事は元旦に開きますから、きょうはマルコ2章をもう少し見ておきたいと思います。2章16節をお読みします。

マルコ2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
 
 パリサイ派の律法学者たちは当時の常識に囚われていて、罪人や取税人と一緒に食事をすることは決してありませんでした。或いはまた、パリサイ人たちはイエス様の弟子たちが断食をしないことも咎めました。18節です。

18 「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

 常識に縛られていると、聖霊を受けることはできません。石板に律法が刻まれた古い時代から、心の中に律法が刻まれる聖霊の新しい時代には、新しい常識を受け入れなければなりません。イエス様はおっしゃいました。21節と22節、

21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 新しい時代には古い常識を捨てなければ聖霊を受けることはできません。安息日を守るべきという律法の常識も、聖霊の時代には頑なに守る必要はありません。もっと柔軟に対応すべきです。27節と28節、

「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」

 律法主義者にとって安息日を守ることは絶対です。しかし、聖霊の時代にはもっと柔軟になりました。実際、クリスチャンは安息日をそれまでの土曜日から、イエス様が復活した日曜日に移しました。イエス様が十字架に付けられた時、安息日は土曜日でしたから、イエス様の復活を祝って安息日を日曜日に移したクリスチャンは、それほどまでに律法の常識から自由になっていました。

 私はこの律法を柔軟に解釈しているイエス様の記事の中に、マルコのパウロへの思いも見えると感じています。マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、途中で脱落しました。使徒の働き13章13節には、次のように記されています(週報p.2)。

使徒13:13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネ(マルコ)は一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。

 マルコがどうして脱落してエルサレムに帰ってしまったのか、使徒の働きには理由が書かれていませんから、いろいろなことが言われています。若いマルコはホームシックになったとか、裕福な家庭で育ったマルコはひ弱だったから過酷な旅に耐えられなかったとか、パウロの考え方があまりに過激だったから耐えられなくなったのだとか言われています。

 私は最後の、パウロの考え方が過激だったという説に賛同します。異邦人に伝道していたパウロは、異邦人は割礼を受ける必要ないと説いていました。イエス・キリストを信じる信仰のみが重要であり、割礼を受けるという形式は異邦人には必要ないと説きました。これはユダヤ人にとってはあまりに過激な考え方でした。ユダヤ人にとって割礼を受けていない者は汚れた者でした。ですから、異邦人でもイエス・キリストを信じたなら聖い者になるために割礼を受ける必要があると考えたのでしょう。しかし、パウロは「聖霊が心を聖める」のであって、割礼という形式は心の聖めには何の役にも立たないと考えました。

 現代の私たち日本人には、このパウロの考え方はよく分かりますね。しかし、当時のユダヤ人たちにとってはあまりに過激な考え方でした。マルコは、このパウロの過激な考え方に耐えられなかったのだろうという説に私も賛同します。

 ただ、マルコは伝道旅行の途中で離脱してしまったことを、ずっと負い目に思っていただろうと思います。そして、パウロの考え方も後に、ユダヤ人クリスチャンたちの間では共通の考え方になりました(使徒15章)。福音書を書いた時のマルコは、この時のことを思いながら、律法の常識に囚われていないイエス様を描いたのではないかなという気がします。

④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント
 古い常識は人を縛り、イエス様に大胆に近づくことを阻み、私たちをイエス様から遠ざけます。古い常識をまとっている限り、イエス様に近づくことはできません。ここにはサタンの働きが透けて見えます。サタンは人を古い常識に縛り付けて、人がイエス様に近づくことを妨げます。イエス様は屋根に穴を開けた者や長血の女のように、常識を打破してご自身に近づく者たちを喜びます。サタンは人々に常識を植え付けて、それを妨げます。

 イエス様は、このサタンと戦い、パウロもサタンと戦っていました。パウロの手紙には、「悪魔」や「サタン」に言及している箇所がいくつもあります。ジョン・ウェスレーの説教にもサタンに言及している箇所がたくさんあります。

 私は神学生の時に、ウェスレーに関する授業のレポートで、ウェスレーが説教でどれぐらい「悪魔」或いは「サタン」という言葉を使っているかを調べて「ウェスレーの悪魔論」を考察して提出しました。ウェスレーに関することなら何でも良いという自由課題でしたから、私は「ウェスレーの悪魔論」のレポートを提出しました。パウロもウェスレーもサタンと戦っていました。それは御霊を受けたパウロとウェスレーの中におられるイエス様がサタンと戦っているのだ、と言えるでしょう。

 半月ほど前に私は、いま話題の映画『鬼滅の刃』を観て来ました。興行収入が遂に歴代1位になったそうですね。なぜ、この映画が若い人にそんなに人気があるのか、若い人への伝道のヒントが何か得られるかもしれないと思って観て来ました。

 『鬼滅の刃』は鬼と戦う若者たちの物語です。この映画を観て私は、自分が小学生・中学生・高校生だった頃にワクワクしながら見た、マグマ大使やウルトラマン、仮面ライダーやガッチャマン、宇宙戦艦ヤマトと同じだと思いました。これらのヒーローたちは皆、悪者たちと戦いました。子供たちは今も昔も皆、悪者たちと戦うヒーローが好きなのだと思います。

 この観点から若い人たちへのキリスト教伝道を考える時、もっとイエス様とサタンとの戦いをクローズアップしても良いのではないかという気がしています。私たちの多くが、自分の内にある罪に気付いていないのも、サタンが巧妙に気付かないように仕向けているからです。人の霊的な目と耳をふさいで、神様に背いている罪に気付かないようにします。そうしてサタンは人々を暗闇の中に閉じ込めて、光が見えないようにします。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書の最初の方には、イエス様がサタンの誘惑を受ける記事があります。サタンにとってイエス様は邪魔な存在だからです。そして誘惑を受けているのはイエス様だけではなく、聖霊を受けてイエス様が内にいる私たちも絶えずサタンの誘惑を受けています。サタンにとっては私たちクリスチャンもまた邪魔な存在だからです。ですから私たちもまたイエス様と共にサタンと戦っています。

 エペソ人への手紙6章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。

エペソ6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 このサタンとの戦いに、若い人たちも加わって欲しいと思います。『鬼滅の刃』を観に若い人が続々と映画館に足を運んでいる様子を見るなら、伝道の仕方次第で、それも可能であろうと思います。その昔、マグマ大使やウルトラマンに熱狂した子供の多くは男の子だったかもしれませんが、『鬼滅の刃』は女の子も多く観ています。

おわりに
 パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とも書いていますが、この世には調子を合わせて構わないものもあります。調子を合わせて良いものと悪いもの、御霊に導かれてしっかりと区別したいと思います。サタンはこの区別する目も曇らせます。遠ざけるべきものを近づけさせ、近づけるべきものを遠ざけます。そうしてサタンは人々をイエス様から遠ざけます。

 私たちはサタンに惑わされることなく、屋根に穴を開けた者たちや長血の女のように、大胆にイエス様に近づいて行きたいと思います。

 このことを、元旦礼拝と新年礼拝では、改めて確認したいと願っています。
 この一年が守られたことの感謝へと、来年の私たちの信仰の歩みのことを思い巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

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東方の捕囚地からの祝福(2020.12.24 キャンドル・サービス)

2020-12-25 12:21:20 | 祈り会メッセージ
2020年12月24日キャンドル・サービス・メッセージ
『東方の捕囚地からの祝福』
【マタイ2:1~12】

 きょうのキャンドル・サービスの賛美歌と聖書朗読の箇所は司会者が考えて下さいました。聖書朗読の箇所には旧約聖書の預言書と新約聖書の福音書の両方が含まれていますから、とても感謝に思います。

 クリスマスというと新約聖書の福音書の記事に集中しがちですが、イエス・キリストの誕生が喜ばしいのは、旧約の時代にイスラエルの南北の王国が他国に滅ぼされて味わった捕囚の悲しい出来事があったからこそです。ですから今夜、旧約聖書が多く開かれたことを感謝したいと思います。

 そして、東方の博士たちがイエス様の誕生を祝って礼拝しに来たきょうの記事についても、旧約聖書の時代のバビロン捕囚の出来事を踏まえて味わってみたいと思います。

 マタイ2章1節と2節をもう一度、お読みします。

マタイ2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

 1節に、博士たちが「東の方」からエルサレムに来たことが書かれています。この「東の方」がどこなのか、博士たちがどこから来たのか、何も書かれていませんから、推測するしかありませんが、恐らくはチグリス・ユーフラテス川流域から来たのであろうと言われています。

 博士たちは学問に通じていて天体の観測も行っていました。そのように学問が盛んであった地域と言えば、中国・インド・バビロニア・エジプトの四大文明の地や、ギリシャ・ローマなどが考えられます。そのうち、ギリシャ、ローマ、エジプトはユダヤの西の方にありますし、中国・インドは東とは言え、ユダヤからはあまりに遠いでしょう。それゆえバビロニアの地域であろうと考えられます。

 バビロニアと言えば、南王国のユダが滅びた時にエルサレムの人々が捕囚に引かれて行った場所です。紀元前586年にエルサレムがバビロニア帝国の攻撃で滅亡した時には神殿も火で焼かれてしまいました。

 そうして、エルサレムの人々は神殿を失い、バビロンに捕囚として引かれるという悲しみのドン底を味わいました。その捕囚の地から博士たちがユダヤの王の誕生を祝い、礼拝しに来たということに、希望の明るい光を見る思いがします。

 きょうは、この箇所から、次の二つのことを短く分かち合いたいと願っています(プログラム)。

 ①引かれ、散らされた地をも照らした光
 ②罪をも活用する恵みに、私たちも与る

①引かれ、散らされた地をも照らした光
 まず①番目の、「引かれ、散らされた地をも照らした光」から分かち合います。

 なぜ博士たちが遠く離れた東方の地から、はるばるエルサレムまで来て幼子を礼拝したのでしょうか。それは、主の光は東方の捕囚の地さえも、照らしていたからではないでしょうか。旧約聖書のダニエル書は、そのことを伝えています。

 捕囚で引かれて行ったダニエルたちはバビロンにおいても異教の神を礼拝せずに、主への信仰を貫き通しました。そのことでダニエルは獅子のいる穴に投げ込まれたり、或いはまたダニエルの仲間は熱く燃える炉の火の中に投げ込まれたりしました。しかし、主が守って下さいましたから、ダニエルたちは無事に獅子の穴と燃える炉から生きて戻って来ました。そして、これらのことを通して、主の明るい光が捕囚の地のバビロニアの人々をも照らすようになり、東方の博士たちの礼拝へとつながって行ったのでしょう。

 或いはまた、アジア・ヨーロッパ・北アフリカの各地に散らされたユダヤ人たちは、それぞれの散らされた地で会堂を建てて信仰を守っていました。これらの人々の中には、エルサレムが滅亡する時に散らされた人々もいたかもしれません。

 これら、散らされた先々の地に建てられたユダヤ人の会堂が、後のパウロの伝道旅行の時に大いに活用されることになりました。伝道旅行では、パウロはまずユダヤ人の会堂に入ってイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。このように、捕囚に引かれた地のバビロンだけでなく、広く各地に散らされたユダヤ人たちも、主の光を輝かす働きに用いられました。

 エルサレムが滅亡したことは人々が主から離れていた罪によるものであり、残念で悲しい出来事でした。しかし主は、この罪による悲しい出来事をそれだけでは終わらせずに、後に主の栄光が示されることにも、用いました。

②罪をも活用する恵みに、私たちも与る
 そして、このことは、私たちの罪にも当てはまるのではないでしょうか。神様に背を向けて離れている重い罪に私たちが気付いていなかったことは悲しむべきことでしたが、その罪が示されて、悔い改め、神様の方を向くようになってからは、大きな恵みをいただくことができるようになり、心の平安を得ることができるようになりました。

 神様は闇の中にいた罪人の私たちでさえも光で照らして救って下さり、神の子として下さり、永遠のいのちを与えて下さり、心の平安を与えて下さいました。もし私たちに罪が無くて元から平安の中にいたのなら、平安の恵みの素晴らしさを知ることもなかったでしょう。神様は私たちの中の悲しむべき罪でさえも活かして豊かな恵みを与えて下さいます。だから私たちは、この恵みを周囲の人々に伝えます。まだ闇の中にいる人々に、イエス・キリストを信じることで得られる素晴らしい心の平安を宣べ伝えます。

 イエス・キリストが地上に生まれてから、二千年の間、この素晴らしい平安の恵みがイエス・キリストを信じる人々に与えられ続けて来ました。神様の恵みは時を超えて与えられます。ダニエルの時代にバビロンで輝いた神様の光は600年の時を超えて東方の博士たちにも届き、遠く離れたエルサレムへ礼拝に向かうように博士たちを促しました。ペテロやパウロの時代に輝いた光は聖書を通して二千年の時を超えて21世紀の私たちにも届けられています。このことに、心から感謝したいと思います。

 博士たちは11節にあるように幼子のイエス様が母マリアとともにいるのを見て、ひれ伏して礼拝しました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。私たちは黄金のような高価な物を献げることはできませんが、この後、賛美歌の「きよしこの夜」を心一杯おささげして、ささやかな献金をしたいと思います。

一言、お祈りいたします。
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神の国の王イエスの誕生(2020.12.20 クリスマス礼拝)

2020-12-21 10:54:26 | 礼拝メッセージ
2020年12月20日クリスマス礼拝メッセージ
『神の国の王イエスの誕生』
【サムエル記第一17:31~40(交読)、ルカ2:1~20(朗読)】

 クリスマスおめでとうございます。

 11月29日(日)からアドベント(待降節)の期間が始まり、きょうはいよいよクリスマス礼拝です。主イエス・キリストのご降誕を心一杯お祝いしたいと思います。

 きょう開く箇所は、御使いがベツレヘムの羊飼いたちに「救い主の誕生」を告げ知らせた場面です。この箇所から、きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①なぜ羊飼いが最初の知らせを受けたのか?
 ②ベツレヘム出身のダビデ王も元は羊飼い
 ③ゴリヤテに勝利して王座に就いたダビデ
 ④サタンに勝利して天の御座に就いたイエス
 ⑤御霊を私たちに遣わして戦い続けるイエス

①なぜ羊飼いが最初の知らせを受けたのか?
 きょうの聖書箇所のルカ2章1節から見て行きます。

 2章の1節と2節を見ると、イエス様の生まれたのはローマの皇帝がアウグストゥスでシリアの総督がキリニウスの時代であったことが分かります。さらにルカは3章1節と2節で、バプテスマのヨハネが活動していたのはローマの皇帝がティベリウス、ユダヤの総督がピラト、大祭司がアンナスとカヤパの時代であったことを記し、23節にその頃イエスがおよそ30歳であったことを記しています。

 ローマの皇帝や総督の在位期間は他の歴史資料で分かっていますから、ルカがこのような記録を残してくれたおかげで、イエス様が生まれた年がかなり正確に、紀元前4年ぐらいと分かっています。1~2年の曖昧さはあるようですが、もしルカのこの記録が無ければ曖昧さの幅は数十年にもなったかもしれませんから、このことだけを取ってもルカの福音書は歴史的な価値が非常に高い文書です。イエスという人物が実在したことはヨセフスという1世紀の歴史家も書き記していますから、イエス様は空想上の人物ではなくて、実際にこの地上におられたことを、先ずはしっかりと覚えておきたいと思います。

 さて、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に住民登録をせよという勅令が出ましたから、ヨセフは祖先のダビデの出身地のベツレヘムへ上って行きました。ヨセフがダビデの家系であることは、マタイ1章の系図にも書かれていますね(週報p.2)。

マタイ1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、…16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

 そうしてヨセフとマリアが上って行ったベツレヘムでマリアが男の子を産んだことがルカ2章の7節までに書かれています。そして、このことが羊飼いたちに告げられました。8節から12節、

ルカ2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 クリスマスには必ず開かれる、おなじみの箇所です。御使いは羊飼いに救い主の誕生を告げました。では、なぜ御使いは、この良い知らせを告げる相手に羊飼いたちを選んだのでしょうか?きょうは先ず、このことを考えたいと思います。

 いくつかのことが言われていますから、皆さんも聞いたことがあるかもしれません。良く言われるのは、羊飼いたちは社会的な地位が低かったということです。羊飼いたちは安息日にも羊の世話で働いていました。祭りの期間もエルサレムの神殿まで行って礼拝することは難しいことでした。律法を守ることができない羊飼いは軽蔑されていたと言われています。イエス様が後に宣教を開始した時に救いの手を差し延べたのは弱い立場の人々に対してでしたから、イエス・キリスト誕生の良い知らせも社会の底辺にいた弱い立場の羊飼いたちに向けられたのだ、というメッセージを私も聞いたことがあります。

 或いはまた、ベツレヘムはエルサレムから10kmぐらいしか離れていませんから、ベツレヘムの羊飼いたちはエルサレムの神殿に献げるいけにえの羊を飼っていたのだという説もあります。イエス様もいけにえの小羊として十字架に掛かって死にましたから、「羊つながり」で羊飼いたちに小羊イエスの誕生が告げ知らされたのだという人もいます。

②ベツレヘム出身のダビデ王も元は羊飼い
 これらのことに加えて、きょうはダビデ王が元は羊飼いであったことに注目したいと思います。羊飼いであったダビデはイスラエルの初代の王様のサウルに仕えるようになりました。そうしてサウル王が死んだ後に、イスラエルの二代目の王になりました。マリアの夫のヨセフはその元羊飼いだったダビデ王の子孫でした。この「羊飼いつながり」で、羊飼いたちに救い主誕生の良い知らせが告げられたことを、今回示されています。

 きょうの招きの詞では、ダビデがまだベツレヘムの羊飼いだった時に預言者のサムエルから油が注がれた場面を引用しました。この時、主の霊、すなわち聖霊がダビデに激しく下りました。第一サムエル16章13節、

Ⅰサムエル16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。

 この時、サムエルはベツレヘムにあるダビデの父エッサイの家にいました。それは主から、第一サムエル16章1節のことばがあったからです(週報p.2)。

Ⅰサムエル16:1 はサムエルに言われた。「…角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

 そうしてサムエルはエッサイの末の息子のダビデに油を注ぎました。聖霊に満たされたダビデは、サウル王に仕えるようになり、巨人のゴリヤテと対戦して勝利します。

③ゴリヤテに勝利して王座に就いたダビデ
 きょうの聖書交読では、ダビデが巨人のゴリヤテと対戦した場面を開きました。もう一度、第一サムエル17章31節からの箇所を開いて下さい(旧約p.510)。32節から見ます。

Ⅰサムエル17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」

 「あの男」とはゴリヤテのことです。そしてダビデは羊飼いとしての自分が羊を守るために獅子や熊と戦った時のことを語りました。34節から36節、

34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、
35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。
36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

 こうしてダビデは巨人のゴリヤテと対戦して勝利しました。これがきっかけとなってダビデは戦士として活躍するようになり、民衆の信頼と人気を得て行きます。このことでサウル王の妬みと恨みを買うようになって殺されそうになりますが、ダビデは守られました。主がダビデと共におられたからです。そしてダビデはサウル王が死んだ後にイスラエルの二代目の王になりました。

 この王になるまでのダビデの前半生(前半の生涯)を見ると、イエス様と良く似ています。ダビデはサムエルに油を注がれて聖霊が降り、イエス様はバプテスマのヨハネにバプテスマを授けられて聖霊が降りました。そうしてダビデはゴリヤテやペリシテ人たちと戦い、イエス様は「下がれ、サタン」と言ってサタンと戦い、人々から悪霊を追い出しました。この戦いを経てダビデはサウル王の妬みと恨みによって殺されかけますが王座に就き、イエス様は祭司長たちの妬み・恨みとサタンが入ったユダの裏切りによって十字架に付けられて殺されますが復活して天に昇り、神の王国の御座に就きました。

④サタンに勝利して天の御座に就いたイエス
 ダビデは地上の王国であるイスラエルの国の王座に就きました。一方、イエス様は天の神の王国の御座に就きました。とても良く似ていると思います。と同時に、大きな違いがあることも覚えます。

 この大きな違いに、イエス様の時代の人々はまだ気付いていませんでした。この、地上の王と天の神の国の王との大きな違いは、バプテスマのヨハネでさえも惑わされて躓いてしまうほどでした。ルカの福音書7章には次のような記述があります(週報p.2)。ルカ7書20節と21節をお読みします。

ルカ7:20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」
21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。

 救い主の到来を待ちわびていたユダヤの人々は、ダビデ王のような強い王が来ることを望んでいました。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていましたから、ローマの皇帝を打ち破るダビデのような強い王の到来を望んでいました。そうしてローマの支配から解放されることを切望していました。

 それなのに、イエス様が相手にしていたのは、強いローマではなくて弱い人々でした。この違いはバプテスマのヨハネでさえも惑わされてしまうほどでした。

 しかし、実はイエス様が相(あい)対していたのはローマよりももっと手ごわくて強い悪魔、すなわちサタンでした。イエス様が宣教を開始した時にサタンの誘惑を受けたことからも分かるように、或いはアダムの妻のエバがサタンに誘惑されたことからも分かるように、サタンは巧妙な策略で誘惑して人々を神様から引き離そうとします。神様から離れている人が多い社会ほど弱い人々が苦しみます。

 イエス様はその、ローマよりも遥かに手ごわいサタンと戦っていました。そうしてサタンが入ったユダの裏切りによってイエス様は捕らえられ、十字架に付けられて死にました。この時点ではサタンが勝利したかに見えましたが、イエス様は死に打ち勝ってよみがえり、天に昇って神の王国の御座に就きました。つまりサタンに勝利しました。

⑤御霊を私たちに遣わして戦い続けるイエス
 いま私は、イエス様はサタンに勝利したと言いました。しかし、最終的な勝利は収めていません。イエス様ご自身はサタンに勝利して神の王国の御座に就きましたが、地上は依然として闇の支配者のサタンに支配され続けています。

 イエス様は、この地上でのサタンとの戦いを使徒たち、そして私たちに委ねました。ルカの福音書と使徒の働きを書いた記者のルカは、地上で悪戦苦闘するパウロの中に、イエス様の姿を見ていたに違いありません。パウロたち(と聖書には記されていない多くの弟子たち)の働きでイエス・キリストの福音は広くアジア・ヨーロッパ・アフリカの地中海沿岸一帯に広がって行きましたが、そのことでパウロたちは激しい迫害もまた受けました。パウロの伝道旅行に同行していた医者のルカは、パウロの戦いをパウロの中にいるイエス様の戦いであると見ていた様子が、ルカの福音書と使徒の働きを並べて読むと、良く見えて来ます(ルカの福音書と使徒の働きの間には強い並行関係があります)。

 イエス様は使徒たち、そして私たちに御霊を遣わして、地上での戦いを私たちに委ねています。もう何度も、ほとんど毎週のように引用していますが、きょうもパウロが書いたガラテヤ5章の「御霊の実」の箇所を引用します(週報p.2)。

ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

 これが私たちの戦いの武器です。私たちの武器は剣や銃や爆弾ではなくて、「御霊の実」です。ローマと戦うには剣が必要ですが、サタンと戦うには剣は必要なくて「御霊の実」が必要です。剣はサタンの働きを助けるだけですから、私たちは「御霊の実」を結んで剣を不要な物にしなければなりません。

 剣や銃や爆弾を多く必要とする時代には、大勢の弱い人々が苦しみます。今も多くの人々がコロナ禍で苦しんでいますが、そんな中でも防衛省は来年度の予算に過去最大の防衛費を要求しています。この要求した予算のどれだけが認められるのか分かりませんが、防衛費が膨らみ続けるようではコロナ禍による困窮者のような弱い立場の人々に、十分なお金はなかなか回りません。

 NHKの朝ドラでは、時代設定が戦前から戦後に掛けてのものが多いですね。戦争中に多くの弱い人々が苦しんだことを私も朝ドラを通して多く学んでいます。先日放送が終わった『エール』でも主人公を含めて多くの人々が戦争で受けたダメージに苦しんだ様子が描かれていました。

 こういう戦争中のひどい時代の場面を見ると、今の時代は平和であることを思います。もちろん、現代においてもひどいことはたくさんあります。世界を見れば銃を取って戦っている地域もあります。しかし、全体として見れば、世界大戦が2度もあった20世紀に比べれば21世紀の今は平和なのだと思います。そうして百年間隔、数百年間隔で見るなら、ひどい時代もあったけれど、全体としては少しずつ良い方向に向かっているように見えます。これから先も、もしかしたら今よりもっとひどい時代があるかもしれませんが、長い尺度で見るなら、良い方向に向かって行くだろうと私は信じています。

 それは、イエス様が私たちに御霊を遣わして、戦って下さっているからです。2千年前のペンテコステ(五旬節)の日以降、イエス・キリストを信じる者は誰でも御霊を受けて、「御霊の実」を結ぶように励まされるようになりました。そうして少しずつですが、全体的には良い方向に向かい、20世紀にはひどい時もありましたが、21世紀の今の日本の私たちは平和を享受しています。沖縄のように今も苦しんでいる地域もありますし、世界を見れば、ひどい場所はまだたくさんありますが、全体的には良い方向に向かっていると言えるでしょう。それはイエス・キリストの福音が世界に広がり、「御霊の実」を結んだ人々が世界中にいるからです。パウロたちでさえ苦労しましたから、そんなにすぐには良くなりませんが、悪くなったり良くなったりを繰り返しながら、世界は少しずつ良くなっています。

おわりに
 ルカの福音書2章に戻ります。13節と14節を読みます。

13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 14節に、「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」とあります。イエス様は地上に平和をもたらすために、来て下さいました。ローマと戦うためでなく、サタンと戦って平和をもたらすために来て下さいました。

 その平和のために、神の王国の御座に就いているイエス様は、地上の私たちに御霊を遣わして、今も王の王として働いておられます。

 イエス様はヨセフとマリアの子として生まれて、成長してからは弱い人々を助けました。このことにバプテスマのヨハネは戸惑いましたが、イエス様はローマよりももっと強い、暗闇の支配者のサタンと戦っていることを覚えたいと思います。

 イエス様が地上に生まれて下さり、弱い私たちを暗闇から救い出して光を照らして下さったことに、心から感謝したいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。


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心を刺し貫かれたマリア(2020.12.17 祈り会)

2020-12-18 10:07:51 | 祈り会メッセージ
2020年12月17日祈り会メッセージ
『心を刺し貫かれたマリア』
【ルカ2:33~35】

ルカ2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 前回はイエス様の母マリアが御使いのガブリエルから受胎告知を受けた時に言った言葉の、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」に注目して、マリアの委ねる信仰について学びました。

 きょうはマリアがシメオンから言われた34節と35節の言葉に注目します。13日の礼拝メッセージではシメオンが幼子のイエス様を抱いて言った言葉の32節までを見ました。きょうは34節と35節に注目したいと思います。

 34節から見ます。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ」とあります。この「倒れたり立ち上がったり」のギリシャ語を調べると、非常に重い言葉が使われていることが分かります。

 まず「倒れたり」は、つまずく程度ではなくて完全に倒れる意味の言葉です。プトーシスというギリシャ語ですが、この単語は新約聖書ではこのルカ2:34を含めて2箇所しか使われていなくて、もう一箇所はマタイ7:27です。

マタイ 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

 これは砂の上に自分の家を建てた愚かな人の例えです。ですからルカ2:34でシメオンが言った「倒れたり」は、ちょっと躓いただけでまた回復できるようなものでなく、永遠の滅びに入るような重大な言葉のように思われます。そして「立ち上がったり」は「復活」と同じ言葉(アナスタシン)が使われています。例えば使徒の働きには「イエスの復活の証人」(使徒1:22)という言葉がありますが、この「復活」と同じ言葉がルカ2:34の「立ち上がったり」で使われています。

 そして、続くシメオンの言葉の「人々の反対にあうしるし」は、十字架のことですね。マリアの心は自分の息子が十字架に付けられたことで剣によって刺し貫かれました。35節、

35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 ここに「刺し貫く」という言葉が使われていますが、これは剣が心の表側から裏側まで完全に貫通しているということです。この「刺し貫く」のギリシャ語の「ディエルコマイ」は、「場所を通り抜ける」の意味でも使われています。分かりやすいのは、ヨハネ4章3~4節でしょう。お読みします。

ヨハネ4:3 (イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 この「サマリアを通って行く」の「通って行く」で「刺し貫く」と同じギリシャ語が使われています。サマリアは南のユダヤと北のガリラヤに挟まっていて、イエス様はサマリアを通り抜けて行きました。これと同じように、マリアの心の中を剣が表から裏に突き抜けて、串刺しにしました。そして、「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです」とシメオンは言いました。

 「あらわになる」とは、ハッキリと見える形になるということです。ルカの福音書の十字架の場面は、このシメオンの言葉に呼応しています。ルカ23章39節から43節までを交代で読みましょう(新約p.171)。

ルカ23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

 十字架のイエス様の両側にいた二人の犯罪人の違いは対照的です。シメオンは「イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりする」と言いましたが、イエス様をののしった犯罪人は倒れて滅び、もう一人の犯罪人は復活してパラダイスに入ります。

 このように、人の心の内は普段は表に現れませんが、それが顕わになるために、マリアの心は剣で刺し貫かれました。

 今回、このメッセージの準備のために、このシメオンの言葉を改めて読んでいて、横田早紀江さんのことを想いました。娘のめぐみさんが行方不明になって、早紀江さんの心を剣が刺し貫きました。

 そんな中で早紀江さんは友人に勧められて聖書のヨブ記を読み、信仰を持ちに至りました。ヨブには、7人の息子と3人の娘がいましたが、すべてを一度に失ってヨブの心を剣が刺し貫きました。そして、さらには自分自身も重い病気で苦しむことになりました。そんなヨブに向かって妻は、「神を呪って死になさい」(ヨブ2:9)と言いましたが、ヨブは妻に言いました。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」(2:10)。こうしてヨブは信仰を失うことはありませんでした。

 早紀江さんもこのヨブ記を読んだことをきっかけにして信仰を持ち、信仰を深めていきました。一方、夫の滋さんは、娘が行方不明になるというつらい経験の中で、「神はいない」と考えて、長い間神を信じなかったとのことです。しかし、3年前の2017年にイエス・キリストを心の中に受け入れて洗礼を受けました。今年の6月に滋さんは天に召されましたが、神様を信じて受洗に至ったことは本当に幸いなことだったと思います。

 今年、新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界中で多くの方々が肉親を失って、心が剣で刺し貫かられる思いをしました。温暖化によると思われる豪雨や山火事などの気象災害で家族や財産を失った方々もおられます。地震と津波もありました。こういう悲しみの中で「神はいない」と思う人々がいる一方で、このような中においてもイエス様が共にいて共に苦しんで下さっていることを信じる人々もいます。これらの悲しい出来事は正にシメオンが言ったように、人の心の内の思いを顕わにします。

 イエス様の十字架は、ペテロたちの心も刺し貫きました。しかし、ペテロたちが信仰を失うことはありませんでした。それは、イエス様が祈って下さったからですね。去年の秋の特伝で講師の戸塚先生がルカの福音書からメッセージを取り次いで下さいました。先生のメッセージでは私はルカ22章31節と32節のみことばが、最も心に残っています。お読みします。

ルカ22:31 「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける」とは、正にサタンがヨブに対して行ったことですね。つらい出来事があると、その出来事は神様を信じる人と信じない人とにふるい分けます。信仰の実を結んでいる者は残り、実を結んでいない者はもみ殻のように吹き飛ばされます。イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈って下さいましたから、ペテロの信仰は守られました。心に深い傷を負ったマリアの信仰が守られたのも、イエス様の祈りがあったからでしょう。そして、今なお多くのつらいことがある21世紀の私たちのためにもイエス様は祈って下さっています。

 最後に、ヨハネの福音書の十字架の場面を開きたいと思います(新約p.226)。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 イエス様の十字架のそばにいた愛する弟子、すなわちイエス様の愛弟子とはヨハネのことであり、私たちのことでもあります。イエス様は私たちを愛して下さっていますから、私たちもまた愛弟子です。

 十字架のそばに母マリアと愛弟子がいてイエス様が「あなたの息子です」、「あなたの母です」と言ったことはヨハネだけが書いています。なぜイエス様がこのようにおっしゃったのか、私はよく分からないでいました。聖書の記事で分からない箇所がある時、私は無理矢理答えを探さないで、分かる時が来ることを待つことにしています。そうして、今回分かるようになった気がします。

 イエス様は私たちの心の中に、深手を負ったマリアの心もまた迎え入れなさいとおっしゃっているように感じます。マリアは心を剣で刺し貫かれて深い傷を負いましたが、それでも信仰を失うことはありませんでした。このマリアの信仰のことを1世紀の人々はよく知っていたことでしょう。そして21世紀の現代にも、つらく悲しいことがたくさんあります。そんな中でもマリアのように信仰を持ち続けるようにとイエス様はおっしゃって下さっているように感じます。

 ですから、コロナが終息してまた伝道ができるようになった時には、イエス様の十字架のことと共に、心を剣で刺し貫かれた母マリアのこともまた、宣べ伝えて行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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幼子イエスと共に神に育てられる信仰(2020.12.13 アドベント第三礼拝)

2020-12-14 18:16:10 | 礼拝メッセージ
2020年12月13日アドベント第三礼拝メッセージ
『幼子イエスと共に神に育てられる信仰』
【ルカ2:22~32】

はじめに
 アドベントに入ってからの礼拝メッセージでは先々週はヨセフ、先週はザカリヤの箇所を開きました。きょうはシメオンの箇所です。きょうは次の四つのパートでメッセージを進めて行きます。

 ①神殿で幼子のイエス様を抱いたシメオン
 ②御霊によるイエス内住の先駆けの出来事
 ③2~3歳の幼児の信仰だったコリント人
 ④成長するとは神様と一体化して行くこと

①神殿で幼子のイエス様を抱いたシメオン
 まず、このシメオンの箇所で何があったかを見ておきたいと思います。
 ルカの福音書2章の20節までは、マリアがベツレヘムの家畜小屋で子供を産んだ時のことが書かれています。この幼子は8日目に割礼を受けて、イエスと名付けられたと21節にあります。そして、きょうの聖書箇所の22節に入ります。22節、

ルカ2:22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。

 ここにある「きよめの期間」については、下の脚注にある引照のレビ記12章に書かれています。レビ記12章には次のように書かれています(週報p.2)。

レビ記12:2 女が身重になり、男の子を産んだとき、その女は七日の間…汚れる。
4 彼女は血のきよめのために、さらに三十三日間こもる。そのきよめの期間が満ちるまで、いかなる聖なるものにも触れてはならない。また聖所に入ってはならない。

 そうして「きよめの期間」が明けた時、イエス様は初子でしたから、主に献げるために両親はエルサレムの神殿に入って行きました。そこにシメオンがいました。少し飛ばして25節から27節、

ルカ2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。

 シメオンはかなり年を取っていたようです。しかし、救い主のキリストを見るまでは死なないと聖霊によって告げられていました。そうしてシメオンは幼子のイエス様を腕に抱きました。28節から30節、

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 シメオンは神様の御救いを見ましたから、これで安らかに死ねると言いました。31節と32節、

31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

 その救いとは万民、イスラエル人だけでなく異邦人を含めたすべての民に備えられたものでした。ですからイスラエルから遠く離れた地の果てにいる日本の私たちも、この救いに与ることができるのですね。クリスマス礼拝を1週間後に控えた今日、救い主のイエス様が来て下さり、日本人の私たちも救いの恵みに与ることができることを、心一杯感謝したいと思います。

②御霊によるイエス内住の先駆けの出来事
 さて今日は、シメオンが幼子のイエス様を腕に抱いたことから始めて、私たちの内にイエス様が住んで下さっていることへと思いを巡らして行きたいと思います。

 イエス様が私たちの内に入って住んで下さるという観点からルカの福音書と使徒の働きを読むなら、イエス様が私たちの内に入るプロセス・過程をルカの福音書は分かりやすく伝えている書である、ということが見えて来ます。

 ルカの福音書と使徒の働きは、どちらもルカが書きました。新約聖書の並びでは間(あいだ)にヨハネの福音書が挟まっていますから分断されていますが、ルカの福音書と使徒の働きは一つにつながっている文書として読むべきです。ルカは最初から使徒の働きを書くつもりで福音書を書き始めたはずです。使徒の働きのことを全く考えずに福音書を書いたということはないでしょう。

 なぜなら、ルカはパウロの伝道旅行に同行して、パウロと寝食を共にした間柄だからです。ルカは誰のことよりもパウロのことを書きたかったはずです。そのパウロのことを書くにはイエス・キリストから始める必要があったのだと思います。パウロに同行していたルカは、パウロの中には確かにイエス・キリストがいることを日々強く感じながら共に過ごしていたことでしょう。そのパウロのことを書くためには、ルカ自身がパウロを視野に入れながら、マタイやマルコとは異なる視点からイエス様のことを書く必要があったのだと思います。

 そうしてルカが福音書の最初に書いたのは、神殿で働く祭司のザカリヤに御使いのガブリエルが現れたことでした。旧約の時代、神様の近くに行くにはエルサレムの神殿に行く必要がありました。しかし、エルサレムに住んでいるならともかく、地方に住んでいる者たちにとっては、なかなか大変なことでした。マリアもガリラヤのナザレの町に住んでいました。そのナザレの町のマリアに御使いのガブリエルが現れました。神様の側から地方に住むマリアに近づきました。これは、来たるべき新しい時代には神殿ではなく、どこでも神様に会うことができること、しかも、神様の側から近づいて来て下さることを、よく表していると思います。

 或いはまた、汚れているとされた異邦人は神殿に入ることが許されていませんでした。しかし、来たる時代には異邦人にも救いが及ぶと、シメオンはルカ2章32節でほめたたえました。異邦人は神殿に入れませんが、神様の聖霊が異邦人の内に入って下さるからです。そのことをシメオンが神殿の中で幼子のイエス様を腕の中に抱きながらほめたたえました。イエス様が生まれたことで、時代が新しい方向へ動き始めたことを、ルカは目に見える分かりやすい形で示していると思います。そうして、この約30年後に、ペンテコステの日の出来事があり、イエス様の霊である聖霊が先ずユダヤ人たちの内に入り、パウロたちの働きによって異邦人にも福音が広がり、異邦人にも聖霊が注がれるようになりました。

 シメオンが幼子のイエス様を腕の中に抱いたことは、来たる時代には人々の心の内にイエス様が入って下さることの先駆けの出来事であったと言えるだろうと思います。

③2~3歳の幼児の信仰だったコリント人
 さてしかし、たとえ聖霊を受けても、信仰が幼い間は聖霊に導かれながら信仰の道を歩むことは、そんなに簡単なことではありません。きょうの聖書交読で開いた第一コリントのコリント人たちから、そのことが伺えます。第一コリント3章の1節から3節までをお読みします(新約p.329)。

Ⅰコリント3:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。


 パウロは第二次伝道旅行でヨーロッパへの宣教を開始しました。コリントもその宣教地の一つでした。最初のうちは、乳を飲ませていたというのは当然ですね。信仰を持ったばかりの人々に御霊の話をしても、分かってはもらえません。しかし、その後もコリントの人々はあまり霊的に成長しなかったようです。2節でパウロは、「実は、今でも無理なのです」と書いています。ただ、パウロがこの手紙をコリントの人々に書いたのは、パウロがコリントを離れてからまだ2年ぐらいしか経っていませんから、当然と言えば当然かもしれません。御霊のことを理解できるようになるには、とても時間が掛かりますから、2年ぐらいでは難しいかもしれません。

 そういう意味でも、シメオンが幼子のイエス様を腕の中に抱いた出来事は、とても象徴的だと思います。イエス様を信じて御霊を受けたばかりの私たちの信仰は、幼子のイエス様のようなものです。しかし、私たちの信仰は幼子の段階でとどまるべきでなく、成長していかなければなりません。幼子のイエス様が少年になり、やがて大人になったように、私たちの信仰も大人へと成長して行かなければなりません。

 ただし私たちが自分で頑張って成長するのではなく、或いは牧師が成長させるのでもなく、成長させて下さるのは神様です。第一コリント3章6節と7節、

Ⅰコリント3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 コリントの教会の信仰の木はパウロが植えてアポロが水を注ぎました。この静岡教会の信仰の木は松村導男先生が植えて、その後、多くの先生方が水を注いで来ました。また、他教団の違う畑で育てられてから、こちらに移って来た方々もいます。皆それぞれ違う先生方から水が注がれて来ました。しかし、成長させて下さるのは神様です。ですから私たちは神様にお委ねして、成長して行きたいと思います。

 コリントの教会の人々はまだまだ成長しておらず、神の御霊が自分の内に住んでいることを自覚できていなかったようですから、パウロは16節に書きました。16節、

16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 御霊は神様ですから、御霊が内に住む私たち自身が神の宮、すなわち神殿です。自分が神殿であるというレベルには私自身もまだまだ全然達していないことを覚えますが、成長させて下さるのは神様ですから、神様にお委ねして幼子の信仰から大人の信仰へと成長して行きたいと思います。

④成長するとは神と一体化して行くこと
 ここで信仰が成長するとは、どういうことについて、改めて考えてみたいと思います。いろいろな語り口があると思います。例えば、少し前に話した御霊の実を結んで育てることもそうです。信仰が成長するなら、御霊の実が大きくなることでしょう。もう何度も引用して話していますが、きょうもガラテヤ5章を引用したいと思います。パウロはガラテヤ人への手紙5章の22節と23節に書きました(週報p.2)。

ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。

 私たちはこの御霊の実を結んで育てて、成長したいと思います。
 このことに加えて、きょうは「神様と一体化すること」についてもお勧めしたいと思います。

 シメオンは神殿の中にいました。そしてシメオンの腕の中にはイエス様がいました。つまりシメオンの外にも中にも神様がいました。神殿にいたシメオンは神様の内にいて、神様のイエス様もシメオンの内にいました。正に、きょうの招きの詞で引用した、第一ヨハネ4章13節のような状態です。

第一ヨハネ4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 イエス・キリストを信じて私たちの内に御霊が入るなら、私たちの外にも中にも神様がいます。そうして私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっていることが分かるようになります。そうして神様に心をお委ねするなら、神様との一体感を感じて心がとても軽くなります。

 ちょうどお風呂に入ると浮力で体が軽くなるのと同じように、御霊が内に入ると心が軽くなります。人間の体の約8割は水分だと言われていますから、お風呂のお湯と一体化することができます。お母さんのお腹の中にいる時の赤ちゃんが水の中に浸っているのと同じとも言えるでしょう。神様は私たちの外側のどこにでもおられますから、私たちの内に御霊が入るなら、私たちは神様と一体化することができます。

 私は温泉に行くのが結構好きで、沼津にいた時には、水曜日の夕方によく温泉に行っていました。沼津では夜の祈祷会がなくて、祈祷会は水曜日の午後1時半からでした。そうすると長引いても午後3時には終わりますから、温泉に行くのにちょうど良い時間なんですね。ですから、水曜日の夕方にはよく温泉に行っていました。

 それが、静岡に来てからはぜんぜん行っていませんでした。今年の夏、二人の兄弟を天に見送った後でしたが、ふと我に返って、そう言えば静岡に来てから一人で温泉に行ったことがなかったなと思いました。牧師の会で温泉に行ったことはありましたが、一人でノンビリと温泉に浸かって様々なことに想いを巡らすことをしていなかったことに気付いて、さっそく行って来ました。

 そうして、お湯の中で脱力してお湯の浮力に身を委ねながら神様のことを想っている時に、思いました。今のように世界中が新型コロナウイルスの災いの渦中にある中で、ジタバタしてもどうしようもないない。神様にすべてをお委ねして、コロナ終息の時が満ちるまで、霊的に成長することに専念して、静かに過ごすべきだと思いました。示されたと言うべきかもしれません。

 先々週はマリアの夫のヨセフに注目しました。ヨセフはイエス様が12歳の時に登場したのを最後にフェイドアウトして、いつの間にか聖書の表舞台から消えました。目に見えない神様と見事に一体化したとも言えるでしょう。この夏、我に返って温泉で力を抜くようになってから、そういうことが見えるようになりました。

 先週は口がきけなくなって約1年間の沈黙を強いられたザカリヤの箇所を開きました。沈黙していた期間のザカリヤは、人との会話ができませんでしたから自然と神様と向き合うようになり、神様との深い交わりの中に入れられて、神様と一体化していたことでしょう。

 今のコロナ禍の中の私たちも、沈黙の期間の中にあります。この期間、私たちは神様の霊的なお風呂の中にどっぷりと浸かって、神様と一体化したいと思います。招きの詞の通り、「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられる」ことが分かるようになりたいと思います。

 マルタとマリアの姉妹の、姉のマルタはイエス様をもてなすための準備で忙しく働いていましたが、妹のマリアはイエス様のみもとで神様の霊的なお風呂の中に浸っていました。脱力して神様に心をお委ねするなら、神様と一体化して心の平安が与えられます。

 私は赤ちゃんを抱く機会がそんなにありません。教会以外では、姪(兄の娘)の子供を抱かせてもらうぐらいです。ですから、赤ちゃんを抱く時にはつい力が入ってしまいます。そういう時は緊張してしまっていて、心の平安がまったく得られません。しかし、抱くことに慣れて力を抜いて抱けるようになるなら、赤ちゃんと一体化して心の平安が得られるであろうことは、容易に想像できます。上手に赤ちゃんを抱いている方々の顔は本当に平安に満ちているからです。

 神殿の中で赤ちゃんのイエス様を抱いたシメオンは、赤ちゃんを抱くのが上手だったんだろうなと思います。平安に包まれたシメオンは、神様をほめたたえました。

ルカ2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 キリストを見たシメオンはすぐにこの世を去ることになるでしょう。しかしシメオンは死をまったく恐れないほど平安に包まれていました。主のキリストを見たら死んでしまうという恐怖はまったくありませんでした。それほどシメオンは平安に包まれていました。神様と一体化するとは、こういうことでしょう。

 私たちもシメオンと同じように神様と一体化して、平安に包まれたいと思います。神様がシメオンを通して、そのことを教えて下さっていることに感謝したいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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神さまに委ねる信仰を育てる(2020.12.10 祈り会)

2020-12-12 07:52:59 | 祈り会メッセージ
2020年12月10日祈り会メッセージ
『神様に委ねる信仰を育てる』
【ルカ1:26~38】

 きょうはマリアが御使いのガブリエルから受胎の告知を受けた場面です。先日の礼拝で見た通り、御使いのガブリエルはマリアに現れる前には祭司のザカリヤにも現れました。

 きょうは先ず、御使いが現れた場所のザカリヤとマリアの違いに注目したいと思います。ザカリヤに御使いが現れたのは神殿においてでした。一方、マリアに現れた場所は神殿ではありませんでした。ここに旧約の時代から新約の時代へと舞台が移って行く様子が見て取れると思います。

 イエス様が十字架で死んだ時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。そうして、イエス・キリストを信じる者の内には聖霊が入りましたから、神様を礼拝する場所は神殿を離れました。実際には紀元70年に神殿がローマ軍の攻撃で炎上するまでは、ユダヤ人クリスチャンは神殿礼拝を続けていましたが、必ずしも神殿で礼拝する必要はありませんでした。イエス様ご自身もヨハネ4章でサマリアの女に話しましたね。ここは、ご一緒に見たいと思います(新約p.182)。

 18節でイエス様はサマリアの女に「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」と言いました。すると、彼女は言いました。19節と20節、

ヨハネ4:19 「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

 「この山」というのはゲリジム山のことです。サマリア人は北王国のイスラエル人と周辺の民族との間に生まれた混血の民族です。イスラエル人の血を継いでいるサマリア人の祖先はモーセの律法に基づいてゲリジム山で神殿礼拝を行っていました。サマリアの女が言ったのは、このゲリジム山の神殿のことです。続いて21節、

21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。

 旧約の時代が終わるなら、神殿ではない所で、神様を礼拝する時が来ます。22節、

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 サマリア人の信仰は純粋なイスラエルの信仰からは離れていて、まことの礼拝とは言えませんでしたし、エルサレムの神殿の礼拝も、まことの礼拝とは言えませんでした。しかし、23節、

23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 このように新約の時代のまことの礼拝とは、御霊と真理による礼拝です。このことを念頭に置いてルカの福音書1章を読むなら、御使いのガブリエルが先ず神殿でザカリヤに現れ、次に神殿ではない所でマリアに現れたことは、旧約の時代から新約の時代への移り変わりを良く象徴していると思います。

 ルカの福音書に戻ります。ルカ1章26節、

ルカ1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。

 このように、ザカリヤの時とは異なり、御使いのガブリエルがマリアに現れた場所は神殿ではありませんでした。この場合はナザレの町のマリアの家です。そして、初代の教会は家の教会が中心でしたから、私はこのマリアの家を教会と読み取りたいと思います。旧約から新約に移行して信仰の場所が神殿から教会に移行しました。そうして、ここで御使いがマリアに現れました。

 私が高津教会を訪れたのは41歳の時ですが、それ以前の学生の頃から私は何人もの方々から、教会へ誘われたことがありました。それら私を教会に誘って下さった方々は皆、天から遣わされた御使いだったのだなと思います。しかし、私は応答しませんでした。

 そんな私でしたが、41歳の時には応答しました。そうして応答した時から求道が始まり、洗礼式で教会の皆さんから祝福されました。この受洗の祝福は、マリアがイエス様を出産した時に羊飼いたちや東方の博士たちから祝福されたことに相当するように感じています。

 ルカ1章のマリアへの受胎告知の箇所は、皆さん良くご存知だと思いますから、途中を飛ばして38節を見ます。38節、

38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 私たちも、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言った時から求道が始まるんだと思います。いやいや、求道者はマリアのような立派な信仰をまだ持っていないでしょう、と思われるかもしれません。しかし、私たちは自分たちの信仰の深さに応じて聖書のみことばを読み取ると思います。ですから、信仰が深まっている皆さんは、このマリアの信仰をとても立派な信仰と読み取るでしょう。

 けれども、まだ信仰らしい信仰を持っていなかった私も、この箇所からの説教がそれなりに響いた記憶があります。ですから、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったところから求道が始まると言っても決して的外れではないという気がします。そうして胎内で赤ちゃんのイエス様が育つように自分の中で信仰が育ち、洗礼を受けるに至ります。そして、さらに教会生活を何年も送って信仰が深まるなら、マリアの信仰をより深く理解できるようになるのではないでしょうか。もしかしたら、若かったマリアはそれほど深く考えずに、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったかもしれません。マリアの信仰が立派に見えるのは、読み手の信仰が深まっているからではないでしょうか。今年はクリスマスの伝道ができませんが、クリスマスの時期には教会に来て下さる方々が多くいますから、それらの方々が気楽に、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言う方がおこされると良いなと思います。

 12/6の聖日のCSでは、このマリアへの受胎告知の箇所が開かれました。担当のTさんは、このマリアの「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」のことばから、委ねることの大切さを説いて下さり感謝でした。

 まさに委ねることから信仰は始まるのだと思います。委ねることは、手放すことから始まるからです。何もかも100%自分で握りしめていたら、神様に委ねる余地はどこにもありませんね。しかし、少し手放せば、その分だけ少し神様に委ねることができるようになります。たくさん手放せば、たくさん委ねることができるようになります。多くの方に気楽に教会に来ていただき、気楽に少しだけ手放すことから始めていただけると良いなと思います。

 さて、ご存知の方も多いと思いますが、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と英語訳は、「Let it be to me according to your word.」です。英語訳もいろいろありますから、「Let it be」を使っていない訳もありますが、多くの訳が「Let it be to me according to your word.」としています。このことから、ビートルズの名曲『Let it be』は、この受胎告知の箇所が元になっていると言われています。作者のポール・マッカートニー自身は否定しているらしいですが、潜在意識レベルで、このルカ1章のマリアの言葉が頭の中にあったのだろうと考える人は少なくないようです。

 このポール・マッカートニーの『Let it be』の出だしの歌詞を直訳すると、こんな感じです。

僕が困難に遭って悩んでいる時、母マリアが知恵の言葉を語る「Let it be」と

 この「Let it be」を日本語でどう訳すか、人によって違いますが、やはり「委ねなさい」と訳したいと思います。つまり、こうです。

僕が困難に遭って悩んでいる時、母マリアが知恵の言葉を語る「委ねなさい」と


 困難の中にある時、様々なものを手放して、主に思い悩みを委ねるなら、主が困難から救って下さいます。先ほども言ったように、委ねるためには、先ず手放すことです。すると主は困難から救って下さいます。

 聖書のヨナ書と使徒の働きには、難破しそうになった船から積み荷を海に投げ捨てる場面がありますね。ヨナが乗った船が嵐に遭った時、人々は積荷を海に投げ捨てました。パウロたちを乗せてローマに向かっていた船が嵐に遭った時も、人々は積荷を海に投げ捨てました。積荷をたくさん積んだ船は半分沈んだようなものですから、嵐で難破しそうになった時には積荷を捨てて軽くします。

 私たちも困難に遭った時には握っているものを手放して主に委ねるなら、主は私たちを困難から救い出して下さいます。

 ルカ1章38節は信仰が深まれば深まるほど、マリアの信仰の立派さへの理解が深まると先ほど言いました。それは、信仰が深まるほど私たちは多くを手放すことができるということではないでしょうか。そうして多くを手放すことで多くを委ねることができるようになります。

 アドベントの真っ只中にいる今、このマリアの委ねる信仰に思いを巡らしたいと思います。お祈りいたします。
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沈黙の期間に着々と背後で働く神(2020.12.6 アドベント第二礼拝)

2020-12-07 11:00:23 | 礼拝メッセージ
2020年12月6日アドベント第二礼拝メッセージ
『沈黙の期間に着々と背後で働く神』
【マルコ1:14~15、Ⅱコリント12:1~10、ルカ1:8~20】

はじめに
 きょうのアドベント第二礼拝で注目する人物はザカリヤです。特にザカリヤが、口がきけなくなって話せなくなったことに注目したいと思います。
 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①口がきけなくなって沈黙したザカリヤ
 ②沈黙の中間時代に実現した「ローマの平和」
 ③沈黙を強いられた戦時下のホーリネス系教会
 ④本格始動前のパウロのタルソでの神体験
 ⑤コロナ禍による沈黙期間中も背後で働く神様

①口がきけなくなって沈黙したザカリヤ
 5節からだと朗読箇所が長くなるので8節から司会者に読んでいただきましたが、ザカリヤの箇所は5節から始まります。5節から7節をお読みします。

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

 皆さんがご存知の通り、ザカリヤはバプテスマのヨハネの父親です。ルカの福音書1章にはバプテスマのヨハネが生まれた経緯が書かれています。そして、そこに挿入するような形で、イエス様の母のマリアが受胎告知を受けた場面が記されています。

 マリアが御使いのガブリエルから受胎告知を受けた時、ザカリヤは口がきけないでいる期間の真っ只中にいました。ザカリヤが、口がきけなくなった経緯は司会者に読んでいただいた8節から20節に掛けて書かれています。8節と9節、

8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

 ザカリヤは神殿に入って香をたくことになりました。くじで決まったということですから、ここには神様が介入しています。ザカリヤは神様に呼び出されて神殿に入って行きました。そうして御使いのガブリエルがザカリヤに現れて、妻のエリサベツが男の子を産むと告げました。しかし、ザカリヤもエリサベツも年を取っていましたから、ザカリヤは言いました。18節です。

18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」

 すると御使いはザカリヤに答えました。19節と20節、

19 「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」

 この場面を読むと私は、ザカリヤのことを少し気の毒に思います。例えばアブラハムの妻のサラも不妊の女で子がありませんでした。そしてサラは子を産むことをあきらめていて、子を産むと聞かされた時には信じませんでした。でもサラが、口がきけなくされることはありませんでした。

 或いはまた、「何によって知ることができるでしょうか」というような言い方で神様にしるしを求めた人物は過去にもいました。例えば士師記のギデオンがそうです。士師記6:17でギデオンは言いました(週報p.2)。

士師記6:17 ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。」

 こう言ってしるしを求めたギデオンが、口がきけなくされることはありませんでした。ですからザカリヤのことを私は少し気の毒に思います。しかし、ザカリヤが沈黙を強いられたことが、聖書の中間時代の沈黙と重なると考えると、とても意味があることだと感じます。

②沈黙の中間時代に実現した「ローマの平和」
 聖書の中間時代とは、旧約聖書と新約聖書の間の約400年間の沈黙の期間のことです。旧約聖書の最後のマラキ書の時代からイエス様の誕生まで、約400年間の沈黙の期間がありました。神様の大きな御業が行なわれる前には沈黙の期間があるようです。その代表がこの400年間の中間時代ですが、ザカリヤの約1年間の沈黙はそのミニチュア版とも言えるかもしれません。

 ここで少し時間を取って聖書の中間時代について説明します。
 この400年間の沈黙の期間の間、人々は主の到来を待ち望み続けていました。讃美歌の「久しく待ちにし」にあるように、人々は長い間主が来られることを待っていました。しかし、主はなかなか来ませんでした。それは時が満ちていなかったからです。そうしてマラキ書の時代から400年が経って、ようやく時が満ちました。きょうの招きの詞で引用したように、イエス様はおっしゃいました(週報p.2)。

マルコ1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 どのように時が満ちたのか、一番大きな出来事は、ローマ帝国が地中海沿岸一帯を安定して支配するようになったことでしょう。

 エルサレムは紀元前586年にバビロニア帝国によって滅ぼされました。その後、バビロニアはペルシャに征服され、ペルシャはギリシャに征服され、という具合にユダヤを支配する国は次々と入れ替わっていきました。しかし、紀元前27年にアウグストゥス帝が即位して始まった帝政ローマ帝国は長い間、この地中海沿岸一帯を支配し続けました。

 ルカ2章1節から3節には、このように書かれていますね。

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。

 そうして4節にあるようにヨセフとマリアはベツレヘムに行って、そこでイエス様が生まれるわけですが、注目すべきは1節です。「そのころ、全世界の住民登録をせよ」という勅令が初代皇帝のアウグストゥスから出されました。「全世界」ということばが決して大袈裟ではないほどにローマ帝国の支配は広範囲の地中海沿岸一帯に及んでいました。そうして、人々が住民登録のために安全に移動できるほどに平和が広い地域に亘って保たれていて、しかも道路網の整備も進んで通行しやすくなっていました。

 後にパウロが伝道旅行でアジア・ヨーロッパの広い地域を巡って宣教ができたのも、ローマ帝国の一国支配によって平和が保たれていて自由に移動できたからこそです。このことで、イエス・キリストの福音が広く伝えられて行きました。そうして4世紀前半のコンスタンティヌス帝の時にはキリスト教が保護されるようになり、4世紀後半のテオドシウス帝の時代にキリスト教は遂にローマ帝国の国教、国の宗教になりました。もしバビロニア、ペルシャ、ギリシャと次々と支配国が変わっていた時代にイエス様が生まれていたとしたら、とてもこんな風にキリスト教が広く伝わることはなかったでしょう。

 人々が長い間待ち望んでいた主の到来がなかなか実現しなかったのは、時が満ちていなかったからでした。ローマ帝国によって「ローマの平和」が実現したことで、ようやく時が満ちました。

 旧約聖書と新約聖書の間の中間時代は聖書が沈黙していた時代でしたが、神様は背後でしっかりと働いており、着々と準備を進めていました。

③沈黙を強いられた戦時下のホーリネス系教会
 このように沈黙の期間に神様が背後で働いておられた事例と言えば、私たちのインマヌエル教団の創設者の一人の蔦田二雄先生も正にそうですね。主(おも)にホーリネス系の牧師が狙い撃ちにされて拘束された事件は「ホーリネス弾圧事件」として知られています。今年の6月26日のクリスチャン・プレスには次のような記事が載っていました。

「6月26日はホーリネス弾圧事件のあった日です。1942年のこの日早朝、日本政府により牧師96人が「治安維持法違反容疑」(キリストが統治者として再臨することを説いたのが天皇制を否定するものとされました)で逮捕されました(翌年の第二次検挙と合わせて124人)。」

 蔦田二雄先生は最初に逮捕された96名のうちの一人でした。逮捕された牧師のうちの7名は獄死したそうです。想像を絶するほどに過酷であったであろう2年間の獄中生活については、戦争体験がない小さき者の私が軽々しくコメントすべきではないかもしれません。しかし、そのような中にあっても神様は働いておられたことを覚えます。

 この2年間に蔦田先生はどれほど深く神様との対話をしていたことでしょうか。いまコロナ禍の中にあって私は以前と比べて少しだけ神様との対話を深められるようになったと感じています。まして戦時下の獄中であれば、この沈黙を強いられた期間に、どれほど深く神様との対話を掘り下げていたことだろうかと思います。

④本格始動前のパウロのタルソでの神体験
 沈黙の期間に神様との対話を深めた器の事例として、もう一人、パウロを挙げたいと思います。きょうの聖書交読で第二コリント12章を開くことにしたのは、そのためです。もう一度、第二コリント12章を見ることにしたいと思います(新約p.370)。

Ⅱコリント12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。

 2節でパウロは「私はキリストにある一人の人を知っています」と書いていますが、これはパウロ自身のことです。何故こんなややこしい書き方をしているかというと、パウロはこの神体験をとても誇らしく思っていたからです。でも同時に、誇ることは益を生まず、却って害悪のもとになるだけであることをパウロは知っていましたから、こういう書き方をしているのでしょう。それがよく表れているのが1節です。「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。」

 こういう神体験は極めて個人的な体験ですから、人に話しても決して分かってもらえるものではありません。そういう共感してもらえない個人的なことを誇るなら、人から疎まれたり妬まれたりします。或いは逆に、過大に評価されるかもしれません。いずれにしてもそれらは害悪を生むだけで益にはなりません。ですから決して誇ってはなりません。でも、その体験があまりに素晴らしいと、ついつい誇りたくなってしまうのですね。

 パウロは続けます。3節と4節、

3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

 この素晴らしい出来事をパウロは「十四年前」に体験したと2節に書きました。パウロの手紙が書かれた時期は概ね分かっていて、第二コリントが書かれたのは紀元55年か56年頃とされています。それより14年前というと紀元41年か42年頃で、これはパウロが故郷のタルソに戻っていた時期です。そこへ、バルナバがパウロを探しに出かけて行き、タルソにいたパウロをアンティオキアに連れて来ました。

 パウロの異邦人伝道が本格的に始まったのは、このアンティオキアからでしたから、パウロのタルソ時代は言わば沈黙の時代と言えます。タルソでも多少の宣教活動はしていたと思いますが、タルソ時代のことでパウロが書き残しているのは、この素晴らしい体験のことだけです。それほどパウロはこの体験を誇らしく思っていました。しかし誇っても良いことはないので第三者的な書き方をしています。5節と6節、

5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。

 この神体験はよほど素晴らしかったのでしょうね。パウロは7節でもう一度その体験の素晴らしさを語ります。7節、

7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

 パウロの体験した神体験はあまりに素晴らしかったので、それゆえに高慢にならないようにと、とげを与えられたとパウロは書いています。よほど素晴らしい神体験だったのでしょうね。

 この素晴らしい神体験がパウロの宣教活動を根底から支えたことは確実です。これほどの体験を与えて下さった神様のためにパウロは粉骨砕身働きました。このように神様は、タルソにいてまだ本格的な宣教を始める前のパウロに幻を見せて、着々と準備をしていました。

⑤コロナ禍による沈黙期間中も背後で働く神様
 今のコロナ禍の中、私たちは外へ向かっての伝道活動ができない、沈黙の期間の中にいます。しかし、きっと神様はコロナ後に備えて着々と準備を進めて下さっていることでしょう。ですから私たちは、今は神様との交わりを深める時としたいと思います。もしかしたらパウロのような神体験を与えて下さるかもしれません。パウロほどではなくても、何らかの幻を見せて下さるかもしれません。或いは個人的に語り掛けて下さるかもしれません。そうして整えられて、コロナの終息後には、神様の御声がもっとさやかに聞こえるようになり、御心にかなった活動ができるようになっていたいと思います。

 ザカリヤも、口がきけないでいる間、神様との交わりを深めていたことと思います。それゆえ息子のバプテスマのヨハネが生まれた時に口がきけるようになったザカリヤは聖霊に満たされて神様を賛美しました。まずルカ1章64節、

ルカ1:64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

 そして68節と69節、

68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。

 少し飛ばして76節から79節、

76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」

 ルカ1章12節で見たように、神殿で御使いが現れた時、ザカリヤは恐怖に襲われました。しかし、息子のバプテスマのヨハネが生まれて、この恐怖の体験は素晴らしい体験に変わりました。

 自分自身のことを思い返しても、神様との距離が近づく時は恐ろしさを感じていたと思います。もしかしたら神様は自分を用いようとしているかもしれないと初めて思った時には恐怖を感じました。しかし、そこから一歩前に踏み出すことで、多くの恵みをいただきました。

 このコロナの沈黙の期間中、私たちは神様との交わりを深めて、神様が私たちの一人一人に役目を与えて下さろうとしていることを感じたいと思います。それは小さな役目かもしれませんし、人によっては大きな役目かもしれません。それらを感じ取りたいと思います。そうしてコロナ後には私たちも喜びに包まれたいと思います。

 神様との関係がそれまでよりも近くなる時には恐怖を感じることもあるかもしれません。しかし、恐れずに前に進んで行きたいと思います。そうしてザカリヤのように神様をほめたたえたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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マリアの道を整えたエリサベツ(2020.12.3 祈り会)

2020-12-05 08:01:22 | 祈り会メッセージ
2020年12月3日祈り会メッセージ
『マリアの道を整えたエリサベツ』
【ルカ1:5~7、24・25、39~43】

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。

 アドベントの期間に入って最初の祈り会の今夜はバプテスマのヨハネの母エリサベツに注目します。

 バプテスマのヨハネはご存知の通り、イエス・キリストが来られるための道を整えた預言者です。マルコの福音書の冒頭には次のように書いてありますね(開かないで良いです)。

マルコ1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 イザヤ書40章の預言通りにバプテスマのヨハネが現れて、主イエス・キリストが通られる道をまっすぐにして整えました。

 そして、ルカの福音書1章のエリサベツに関する記事を読むと、エリサベツはマリアの道をまっすぐにして整えた女性であったことが分かります。ルカ1章の5節から7節までを、もう一度お読みします。

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

 この箇所を読むと、ザカリヤとエリサベツの夫妻は創世記のアブラハムとサラの夫妻にとても良く似ていると感じます。アブラハムとサラも年をとっていて子がいませんでした。サラが不妊だったからです。その二人にイサクが与えられてイサクにヤコブが与えられました。そうしてヤコブがイスラエル12部族の父となりました。つまりイスラエル12部族の道はイサクが整えました。イサクは祝福によってヤコブの道を整えました。そのイサクを生んだのがサラとアブラハムの夫妻でした。

 同様にイエス・キリストの道はバプテスマのヨハネが整えて、ヨハネを生んだのがエリサベツとザカリヤの夫妻でした。旧約の時代のイスラエルの信仰の始まりと新約の時代のイエス・キリストの福音の始まりは、とても良く似ていると感じます。

 そして、ザカリヤもエリサベツも大祭司のアロンの子孫でした。アビヤの組の者はアロンの子孫で、エリサベツもアロンの子孫でした。アロンはモーセの兄で、贖罪の儀式、罪の贖いの儀式を幕屋で行った最初の大祭司です。

 少し前まで祈り会で学んでいたヘブル書には、大祭司アロンから始まった幕屋の聖所の儀式のことが書かれていましたね。このアロンの時代に始まった儀式がザカリヤの時代にも行われていました。ですからザカリヤとエリサベツの時代はまだ旧約の時代でした。それが息子のバプテスマのヨハネが整えた道によってイエス・キリストの新約の時代へと移行しました。

 このヘブル人への手紙には、エレミヤ書の有名な聖句が2度引用されています。そこは、ご一緒に確認したいと思います。ヘブル人への手紙8章8節から12節までです。(新約p.446)。これはエレミヤ31章からの引用です。

ヘブル8:8 神は人々の欠けを責めて、こう言われました。 「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。
9 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった。──主のことば──
10 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
11 彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。
12 わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 先ほども言ったように、これはエレミヤ書31章からの引用です。そしてヘブル書はもう一度エレミヤ31章を短く引用します。ヘブル10章の16節と17節です(新約p.450)。

ヘブル10:16 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、
17 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。

 16節にあるように、新しい契約では主は律法を心に書き記します。旧約の律法はモーセの時代に石板、石の板に書き記されて神の契約の箱の中に収められました。契約の箱は垂れ幕の向こうの至聖所に置かれています。その至聖所に大祭司のアロンは1年に1回だけ入っていけにえの動物の血を神の契約の箱の上の「宥めの蓋」に振りかけました。

 一方、新しい契約では大祭司のイエス様がご自身の血を携えて天の聖所に入り、ただ一度だけ贖いの儀式を行いました。このことによって私たちの罪が赦されて、17節にあるように主は「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と仰せられました。そうして罪がきよめられたことで私たちの体が聖所となり、至聖所の神の箱に石板が入れられたように私たちの心の中に律法のことばが記されるようになりました。

 このヘブル書が2度引用したエレミヤ31章はヨハネの福音書にもつながります。ヨハネ1章に「初めにことばがあった」とあるようにイエス・キリストはことばです。ですから私たちの心に律法のことばが記されるということは、私たちの内にことばであるイエス様が聖霊によって内住するということです。人の内にイエス様が内住すると御霊の実が結ばれて、イエス様に似た者にされて行きます。

 少し前に祈祷会ではヘブル書を学び、同時に礼拝では聖霊の内住を信じるべきことを勧めました。これらを経て今回アドベントでルカ1章を改めて読んで、マリアが聖霊によってイエス様を身籠ったことは、聖霊によって私たちの内にイエス様が住んで下さることの先駆けであると私は感じるようになりました。ルカがそこまで意図していたかどうかは分かりませんが、マリアがイエス様を聖霊によって身籠ったことは私たちの内にイエス様が住んで下さるようになったことの先駆けであったと感じます。

 ルカの福音書に戻ります。ルカ1章41節と42節、

ルカ1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

 エリサベツの胎内にはマリアの中のイエス様に先んじてバプテスマのヨハネがいました。ですからエリサベツはマリアの道を整えた女性でした。41節にエリサベツは聖霊に満たされたとありますから、福音書は私たちが聖霊を受けることの大切さを熱心に説いている書物であると改めて感じます。

 きょう話したことを、もう一度振り返ります。ザカリヤの妻のエリサベツはアブラハムの妻のサラと同様に不妊で年をとっていました。またエリサベツは大祭司アロンの子孫でした。そうしてエリサベツはバプテスマのヨハネを生み、バプテスマのヨハネは新約の時代のイエス様の道を整えました。イエス様が生まれたことで、後に私たちの内には聖霊によってイエス様が住むようになりました。エリサベツの親戚のマリアのお腹には実際にイエス様が住んでいました。そのマリアがエリサベツの所に来た時、エリサベツは聖霊に満たされました。エリサベツはいろいろな意味で旧約の時代から新約の時代への移行に関係しました。

 イエス様が私たちの中に住んで下さっているという霊的な話は、実際問題としてはなかなか想像しづらいですが、赤ちゃんのイエス様がマリアの中にいることが、その助けになると感じます。

 男性にとってはそれでもなお想像しづらいですが、ルカ2章に登場する男性のシメオンが幼子のイエス様を抱いてくれますから、男性にも分かりやすくなっています。シメオンの話はアドベント第三礼拝ですることにしています。

 福音書は聖霊を受けることの重要性を熱心に説いています。それを念頭に置いてエリサベツとマリアの記事を読むと、ここでもまた聖霊を受けることの重要性が説かれていることに気付かされます。

 イエス様がこの世に生まれて下さり、十字架に掛かって下さり、血を流されたことで私たちの心がきよめられて、私たちの内が聖所となって聖霊が住んで下さるようになったことに改めて感謝したいと思います。

 お祈りいたします。
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