2020年12月27日年末感謝礼拝メッセージ
『常識を打破してイエスに近づく』
【マルコ2:1~5】
はじめに
きょうは今年最後の礼拝ですから、今年一年を振り返りつつ、来年への展望を語りたいと思います。但し、きょうの礼拝後には大掃除もありますから、長い話はできません。今年を振り返ることは1月の教会総会の折にもできますから、振り返りはそこそこにして、来年への展望に重点を置きたいと願っています。
きょうは次の四つのパートで話を進めます。
①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント
①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
聖書は極めて霊的な書物です。そのことは「霊」ということばがたくさん使われていることからも明らかです。但しやっかいなのは、「霊」は目に見えないために「霊」とは何かを共有することが難しいということです。聖書の「霊」という活字をいくら眺めていても「霊」は分かって来ません。「御霊」を連発するパウロの手紙を何十回読んでも「御霊」のことは分かりません。
それほど「霊」のことは分かりにくいのですが、聖書に「霊」ということばがたくさん用いられているからには、霊への感受性を高めて、教会の皆さんとの間で霊的な事柄を共有することは必須だと考えます。なぜなら、心の平安を求める人は神の霊によって魂に癒しを感じるからです。
19年前の2001年8月に初めて高津教会を訪れた時、私はそこに霊的な雰囲気を感じました。そうしてクリスマス礼拝まで一度も休まず礼拝に出席して受洗に至ったのも、高津教会の持つ霊的な雰囲気に引き付けられていたからだと思います。静岡教会の皆さんも、上手く言葉にはできないにせよ、恐らくは神の霊を感じていて、魂の癒しを感じているから、礼拝出席を続けているのだろうと思います。
その、何となく感じる神の霊による魂の癒しの恵みを、言葉を通して明らかにして静岡教会の皆さんと分かち合えるようになるなら、まだその恵みを知らない方々にも、言葉を通してお伝えできるようになるでしょう。そうすれば、新しい方に来ていただけるようになるかもしれません。そのことを願って、今年の標語聖句を第二コリント13章13節にしました。きょうの招きの詞です。お読みします。
神の霊による魂の癒しを言葉で伝えることは難しいですから、どうしたら良いのか、よくは分かりませんでしたが、先ずは神の愛の大きさを分かち合うことから始めて、今年一年の歩みを始めることにしました。そうして2月までを過ごしましたが、2月の後半から日本の国内でも新型コロナウイルスの感染者が増えて来て、3月は学校が一斉休校となりました。
経験したことがない事態の中で誰もが戸惑い、どうしてこんなことになったんだろうと私も思いました。そうして、この事態を神様はどうご覧になっているのだろうかと思い悩みました。そして、そうこうしているうちに、お二人の兄弟の病状が悪化して天に見送りました。そんなこんなで礼拝の説教のテーマは一貫性を欠いて迷走状態になっていたようです。それゆえ神の霊による魂の癒しの恵みを皆さんと分かち合いたいという目標にも近づけていませんでした。
②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
そんな中で、11月1日の礼拝説教は、この悪い流れをある程度変えることができたのではないかと私自身は考えています。11月1日の説教では冒頭で聖宣神学院でのK先生の授業の思い出を話しました。
私が神学生の1年生の時、K先生は教室にいる神学生に向かって「皆さんは聖霊が内にいることを確信していますか?」と聞きました。その時私は、「聖霊が内にいると感じる時もありますが、感じない時もあります」と答えました。するとK先生はおっしゃいました。「人間の心は安定しないから聖霊を感じる時と感じない時とがありますが、聖書にはイエスを信じた者の内には聖霊がいると書いてあるのですから、自分の内にはいつも聖霊がいると信仰によって信じるべきです。」
細かい表現は違ったかもしれませんが、そのようなことを河村先生はおっしゃいました。それまでの私は聖霊をとらえどころのない、良くわからないものだと感じていました。それで聖霊が内にいることも感じたり感じなかったりで、私にとって聖霊はとても曖昧な存在でした。しかし聖霊が内にいることは信仰によって信じるものなのだということを教わってからは、聖霊が内にいることを確信できるようになり、聖書の理解が深まるようになって行きました。
聖書の理解が深まったのは、聖霊の内住を信じたことで助け主の助けが得られるようになったからです。きょうの聖書交読の箇所でもあるヨハネの福音書14章26節でイエス様はおっしゃいました。
神学院での経験を通して私は、聖霊の内住を信じるなら助け主の助けが得られることを学びました。ですから、教会の皆さんにも聖霊の内住を、信仰を持って信じるようにお勧めしました。
この11月1日の説教で聖霊の内住を信じることをお勧めしたことで、それ以降の聖霊に関する説教が、とてもしやすくなりました。分かりにくい聖霊の話をどうしたら分かりやすくできるのかが大きな課題でしたが、それはお一人お一人の中にいる助け主の助けにお委ねすることにしましたから、随分と話しやすくなったと感じています。
そうして11月22日の礼拝説教では『序盤から「聖霊」を強調する福音書』というタイトルで話しました。この、序盤から「聖霊」を強調する傾向は特にマルコの福音書において顕著です。マルコは1章の8節という非常に早い段階で、バプテスマのヨハネの次のことばを記しています。
これほど早い段階でマルコが聖霊に言及しているということは、福音書は霊的なメッセージを発信している書であるとマルコが宣言していると受け留めるべきです。バプテスマのヨハネは、もっと多くのことを人々に語ったはずです。マルコは、その多くのことの中から、「イエス様は聖霊のバプテスマを授けるお方である」ということに焦点を絞って、このことだけを書き記しました。このことから、福音書は霊的なメッセージを発信している書であることが分かります。
福音書が発信している霊的なメッセージを受信するためには、そのためのアンテナを立てる必要があります。この霊的なアンテナを立てると、なぜ福音書の記者たちがイエス様の風貌を描かなかったのかも分かります。イエス様の背は高かったのか低かったのか、目は何色だったのか、そういうことを福音書の記者たちは一切書いていません。読者がイエス様を信じて聖霊を受けるのに、それらの情報はぜんぜん必要ないからでしょう。
イエス様はおよそ30歳の頃に宣教を始めたと福音書は書いていますが、私は10代、20代のイエス様のことももっと知りたいと思っています。しかし福音書は書いていません。それらの情報は読者が聖霊を受けるためには必要がないからでしょう。
福音書はイエス様の伝記ではなくて、読者がイエス様を信じて聖霊を受けるために必要な情報が書かれている書だと頭を切り替える必要があります。そうして霊的なアンテナを立てて福音書を読みたいと思います。
③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
きょうの聖書箇所のマルコ2章の記事も、霊的なアンテナを立てているか立てていないかで、受け留め方がだいぶ違って来ます。マルコ2章1節から見て行きます。
これはイエス様が宣教の拠点としていたカペナウムの家での出来事です。2節、
家の中には人々がぎっしりといて隙間もないほどでした。3節と4節、
この記事を読むと、私たちは穴が開いた家の屋根のことが、どうしても気になってしまいますね。しかし、イエス様は穴が開いた屋根のことなど、ぜんぜん気にしていませんでした。5節、
私たちは常識的な人間ですから、屋根をはがして穴を開けた乱暴さが、どうしても気になってしまいます。しかし、常識に縛られている限りイエス様に霊的に近づくことはできません。次の金曜日の元旦礼拝では、マルコの福音書の長血の女の記事を開く予定です。長血の女は血を漏出する病を患っていましたから、律法的には汚れていて、群衆の中に紛れ込むなど常識的にはとんでもないことでした。しかし、長血の女はイエス様に病気を治していただきたい一心で人々をかき分けて近づいて行って、イエス様の衣に触りました。長血の女は常識を破って大胆にイエス様に近づき、イエス様はその信仰をほめました。
21世紀の今はイエス様は地上にはおらず天にいます。ですから人としてのイエス様に近づくことはできません。しかし、天のイエス様に霊的に近づくことならできます。イエス様を遠巻きに眺めている間は救いを得られないという霊的なメッセージを、私たちはしっかりと受け取りたいと思います。
長血の女の記事は元旦に開きますから、きょうはマルコ2章をもう少し見ておきたいと思います。2章16節をお読みします。
パリサイ派の律法学者たちは当時の常識に囚われていて、罪人や取税人と一緒に食事をすることは決してありませんでした。或いはまた、パリサイ人たちはイエス様の弟子たちが断食をしないことも咎めました。18節です。
常識に縛られていると、聖霊を受けることはできません。石板に律法が刻まれた古い時代から、心の中に律法が刻まれる聖霊の新しい時代には、新しい常識を受け入れなければなりません。イエス様はおっしゃいました。21節と22節、
新しい時代には古い常識を捨てなければ聖霊を受けることはできません。安息日を守るべきという律法の常識も、聖霊の時代には頑なに守る必要はありません。もっと柔軟に対応すべきです。27節と28節、
律法主義者にとって安息日を守ることは絶対です。しかし、聖霊の時代にはもっと柔軟になりました。実際、クリスチャンは安息日をそれまでの土曜日から、イエス様が復活した日曜日に移しました。イエス様が十字架に付けられた時、安息日は土曜日でしたから、イエス様の復活を祝って安息日を日曜日に移したクリスチャンは、それほどまでに律法の常識から自由になっていました。
私はこの律法を柔軟に解釈しているイエス様の記事の中に、マルコのパウロへの思いも見えると感じています。マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、途中で脱落しました。使徒の働き13章13節には、次のように記されています(週報p.2)。
マルコがどうして脱落してエルサレムに帰ってしまったのか、使徒の働きには理由が書かれていませんから、いろいろなことが言われています。若いマルコはホームシックになったとか、裕福な家庭で育ったマルコはひ弱だったから過酷な旅に耐えられなかったとか、パウロの考え方があまりに過激だったから耐えられなくなったのだとか言われています。
私は最後の、パウロの考え方が過激だったという説に賛同します。異邦人に伝道していたパウロは、異邦人は割礼を受ける必要ないと説いていました。イエス・キリストを信じる信仰のみが重要であり、割礼を受けるという形式は異邦人には必要ないと説きました。これはユダヤ人にとってはあまりに過激な考え方でした。ユダヤ人にとって割礼を受けていない者は汚れた者でした。ですから、異邦人でもイエス・キリストを信じたなら聖い者になるために割礼を受ける必要があると考えたのでしょう。しかし、パウロは「聖霊が心を聖める」のであって、割礼という形式は心の聖めには何の役にも立たないと考えました。
現代の私たち日本人には、このパウロの考え方はよく分かりますね。しかし、当時のユダヤ人たちにとってはあまりに過激な考え方でした。マルコは、このパウロの過激な考え方に耐えられなかったのだろうという説に私も賛同します。
ただ、マルコは伝道旅行の途中で離脱してしまったことを、ずっと負い目に思っていただろうと思います。そして、パウロの考え方も後に、ユダヤ人クリスチャンたちの間では共通の考え方になりました(使徒15章)。福音書を書いた時のマルコは、この時のことを思いながら、律法の常識に囚われていないイエス様を描いたのではないかなという気がします。
④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント
古い常識は人を縛り、イエス様に大胆に近づくことを阻み、私たちをイエス様から遠ざけます。古い常識をまとっている限り、イエス様に近づくことはできません。ここにはサタンの働きが透けて見えます。サタンは人を古い常識に縛り付けて、人がイエス様に近づくことを妨げます。イエス様は屋根に穴を開けた者や長血の女のように、常識を打破してご自身に近づく者たちを喜びます。サタンは人々に常識を植え付けて、それを妨げます。
イエス様は、このサタンと戦い、パウロもサタンと戦っていました。パウロの手紙には、「悪魔」や「サタン」に言及している箇所がいくつもあります。ジョン・ウェスレーの説教にもサタンに言及している箇所がたくさんあります。
私は神学生の時に、ウェスレーに関する授業のレポートで、ウェスレーが説教でどれぐらい「悪魔」或いは「サタン」という言葉を使っているかを調べて「ウェスレーの悪魔論」を考察して提出しました。ウェスレーに関することなら何でも良いという自由課題でしたから、私は「ウェスレーの悪魔論」のレポートを提出しました。パウロもウェスレーもサタンと戦っていました。それは御霊を受けたパウロとウェスレーの中におられるイエス様がサタンと戦っているのだ、と言えるでしょう。
半月ほど前に私は、いま話題の映画『鬼滅の刃』を観て来ました。興行収入が遂に歴代1位になったそうですね。なぜ、この映画が若い人にそんなに人気があるのか、若い人への伝道のヒントが何か得られるかもしれないと思って観て来ました。
『鬼滅の刃』は鬼と戦う若者たちの物語です。この映画を観て私は、自分が小学生・中学生・高校生だった頃にワクワクしながら見た、マグマ大使やウルトラマン、仮面ライダーやガッチャマン、宇宙戦艦ヤマトと同じだと思いました。これらのヒーローたちは皆、悪者たちと戦いました。子供たちは今も昔も皆、悪者たちと戦うヒーローが好きなのだと思います。
この観点から若い人たちへのキリスト教伝道を考える時、もっとイエス様とサタンとの戦いをクローズアップしても良いのではないかという気がしています。私たちの多くが、自分の内にある罪に気付いていないのも、サタンが巧妙に気付かないように仕向けているからです。人の霊的な目と耳をふさいで、神様に背いている罪に気付かないようにします。そうしてサタンは人々を暗闇の中に閉じ込めて、光が見えないようにします。
マタイ・マルコ・ルカの福音書の最初の方には、イエス様がサタンの誘惑を受ける記事があります。サタンにとってイエス様は邪魔な存在だからです。そして誘惑を受けているのはイエス様だけではなく、聖霊を受けてイエス様が内にいる私たちも絶えずサタンの誘惑を受けています。サタンにとっては私たちクリスチャンもまた邪魔な存在だからです。ですから私たちもまたイエス様と共にサタンと戦っています。
エペソ人への手紙6章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。
このサタンとの戦いに、若い人たちも加わって欲しいと思います。『鬼滅の刃』を観に若い人が続々と映画館に足を運んでいる様子を見るなら、伝道の仕方次第で、それも可能であろうと思います。その昔、マグマ大使やウルトラマンに熱狂した子供の多くは男の子だったかもしれませんが、『鬼滅の刃』は女の子も多く観ています。
おわりに
パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とも書いていますが、この世には調子を合わせて構わないものもあります。調子を合わせて良いものと悪いもの、御霊に導かれてしっかりと区別したいと思います。サタンはこの区別する目も曇らせます。遠ざけるべきものを近づけさせ、近づけるべきものを遠ざけます。そうしてサタンは人々をイエス様から遠ざけます。
私たちはサタンに惑わされることなく、屋根に穴を開けた者たちや長血の女のように、大胆にイエス様に近づいて行きたいと思います。
このことを、元旦礼拝と新年礼拝では、改めて確認したいと願っています。
この一年が守られたことの感謝へと、来年の私たちの信仰の歩みのことを思い巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
『常識を打破してイエスに近づく』
【マルコ2:1~5】
はじめに
きょうは今年最後の礼拝ですから、今年一年を振り返りつつ、来年への展望を語りたいと思います。但し、きょうの礼拝後には大掃除もありますから、長い話はできません。今年を振り返ることは1月の教会総会の折にもできますから、振り返りはそこそこにして、来年への展望に重点を置きたいと願っています。
きょうは次の四つのパートで話を進めます。
①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント
①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
聖書は極めて霊的な書物です。そのことは「霊」ということばがたくさん使われていることからも明らかです。但しやっかいなのは、「霊」は目に見えないために「霊」とは何かを共有することが難しいということです。聖書の「霊」という活字をいくら眺めていても「霊」は分かって来ません。「御霊」を連発するパウロの手紙を何十回読んでも「御霊」のことは分かりません。
それほど「霊」のことは分かりにくいのですが、聖書に「霊」ということばがたくさん用いられているからには、霊への感受性を高めて、教会の皆さんとの間で霊的な事柄を共有することは必須だと考えます。なぜなら、心の平安を求める人は神の霊によって魂に癒しを感じるからです。
19年前の2001年8月に初めて高津教会を訪れた時、私はそこに霊的な雰囲気を感じました。そうしてクリスマス礼拝まで一度も休まず礼拝に出席して受洗に至ったのも、高津教会の持つ霊的な雰囲気に引き付けられていたからだと思います。静岡教会の皆さんも、上手く言葉にはできないにせよ、恐らくは神の霊を感じていて、魂の癒しを感じているから、礼拝出席を続けているのだろうと思います。
その、何となく感じる神の霊による魂の癒しの恵みを、言葉を通して明らかにして静岡教会の皆さんと分かち合えるようになるなら、まだその恵みを知らない方々にも、言葉を通してお伝えできるようになるでしょう。そうすれば、新しい方に来ていただけるようになるかもしれません。そのことを願って、今年の標語聖句を第二コリント13章13節にしました。きょうの招きの詞です。お読みします。
第二コリント13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
神の霊による魂の癒しを言葉で伝えることは難しいですから、どうしたら良いのか、よくは分かりませんでしたが、先ずは神の愛の大きさを分かち合うことから始めて、今年一年の歩みを始めることにしました。そうして2月までを過ごしましたが、2月の後半から日本の国内でも新型コロナウイルスの感染者が増えて来て、3月は学校が一斉休校となりました。
経験したことがない事態の中で誰もが戸惑い、どうしてこんなことになったんだろうと私も思いました。そうして、この事態を神様はどうご覧になっているのだろうかと思い悩みました。そして、そうこうしているうちに、お二人の兄弟の病状が悪化して天に見送りました。そんなこんなで礼拝の説教のテーマは一貫性を欠いて迷走状態になっていたようです。それゆえ神の霊による魂の癒しの恵みを皆さんと分かち合いたいという目標にも近づけていませんでした。
②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
そんな中で、11月1日の礼拝説教は、この悪い流れをある程度変えることができたのではないかと私自身は考えています。11月1日の説教では冒頭で聖宣神学院でのK先生の授業の思い出を話しました。
私が神学生の1年生の時、K先生は教室にいる神学生に向かって「皆さんは聖霊が内にいることを確信していますか?」と聞きました。その時私は、「聖霊が内にいると感じる時もありますが、感じない時もあります」と答えました。するとK先生はおっしゃいました。「人間の心は安定しないから聖霊を感じる時と感じない時とがありますが、聖書にはイエスを信じた者の内には聖霊がいると書いてあるのですから、自分の内にはいつも聖霊がいると信仰によって信じるべきです。」
細かい表現は違ったかもしれませんが、そのようなことを河村先生はおっしゃいました。それまでの私は聖霊をとらえどころのない、良くわからないものだと感じていました。それで聖霊が内にいることも感じたり感じなかったりで、私にとって聖霊はとても曖昧な存在でした。しかし聖霊が内にいることは信仰によって信じるものなのだということを教わってからは、聖霊が内にいることを確信できるようになり、聖書の理解が深まるようになって行きました。
聖書の理解が深まったのは、聖霊の内住を信じたことで助け主の助けが得られるようになったからです。きょうの聖書交読の箇所でもあるヨハネの福音書14章26節でイエス様はおっしゃいました。
ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
神学院での経験を通して私は、聖霊の内住を信じるなら助け主の助けが得られることを学びました。ですから、教会の皆さんにも聖霊の内住を、信仰を持って信じるようにお勧めしました。
この11月1日の説教で聖霊の内住を信じることをお勧めしたことで、それ以降の聖霊に関する説教が、とてもしやすくなりました。分かりにくい聖霊の話をどうしたら分かりやすくできるのかが大きな課題でしたが、それはお一人お一人の中にいる助け主の助けにお委ねすることにしましたから、随分と話しやすくなったと感じています。
そうして11月22日の礼拝説教では『序盤から「聖霊」を強調する福音書』というタイトルで話しました。この、序盤から「聖霊」を強調する傾向は特にマルコの福音書において顕著です。マルコは1章の8節という非常に早い段階で、バプテスマのヨハネの次のことばを記しています。
マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
これほど早い段階でマルコが聖霊に言及しているということは、福音書は霊的なメッセージを発信している書であるとマルコが宣言していると受け留めるべきです。バプテスマのヨハネは、もっと多くのことを人々に語ったはずです。マルコは、その多くのことの中から、「イエス様は聖霊のバプテスマを授けるお方である」ということに焦点を絞って、このことだけを書き記しました。このことから、福音書は霊的なメッセージを発信している書であることが分かります。
福音書が発信している霊的なメッセージを受信するためには、そのためのアンテナを立てる必要があります。この霊的なアンテナを立てると、なぜ福音書の記者たちがイエス様の風貌を描かなかったのかも分かります。イエス様の背は高かったのか低かったのか、目は何色だったのか、そういうことを福音書の記者たちは一切書いていません。読者がイエス様を信じて聖霊を受けるのに、それらの情報はぜんぜん必要ないからでしょう。
イエス様はおよそ30歳の頃に宣教を始めたと福音書は書いていますが、私は10代、20代のイエス様のことももっと知りたいと思っています。しかし福音書は書いていません。それらの情報は読者が聖霊を受けるためには必要がないからでしょう。
福音書はイエス様の伝記ではなくて、読者がイエス様を信じて聖霊を受けるために必要な情報が書かれている書だと頭を切り替える必要があります。そうして霊的なアンテナを立てて福音書を読みたいと思います。
③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
きょうの聖書箇所のマルコ2章の記事も、霊的なアンテナを立てているか立てていないかで、受け留め方がだいぶ違って来ます。マルコ2章1節から見て行きます。
マルコ2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
これはイエス様が宣教の拠点としていたカペナウムの家での出来事です。2節、
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
家の中には人々がぎっしりといて隙間もないほどでした。3節と4節、
3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
この記事を読むと、私たちは穴が開いた家の屋根のことが、どうしても気になってしまいますね。しかし、イエス様は穴が開いた屋根のことなど、ぜんぜん気にしていませんでした。5節、
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
私たちは常識的な人間ですから、屋根をはがして穴を開けた乱暴さが、どうしても気になってしまいます。しかし、常識に縛られている限りイエス様に霊的に近づくことはできません。次の金曜日の元旦礼拝では、マルコの福音書の長血の女の記事を開く予定です。長血の女は血を漏出する病を患っていましたから、律法的には汚れていて、群衆の中に紛れ込むなど常識的にはとんでもないことでした。しかし、長血の女はイエス様に病気を治していただきたい一心で人々をかき分けて近づいて行って、イエス様の衣に触りました。長血の女は常識を破って大胆にイエス様に近づき、イエス様はその信仰をほめました。
21世紀の今はイエス様は地上にはおらず天にいます。ですから人としてのイエス様に近づくことはできません。しかし、天のイエス様に霊的に近づくことならできます。イエス様を遠巻きに眺めている間は救いを得られないという霊的なメッセージを、私たちはしっかりと受け取りたいと思います。
長血の女の記事は元旦に開きますから、きょうはマルコ2章をもう少し見ておきたいと思います。2章16節をお読みします。
マルコ2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
パリサイ派の律法学者たちは当時の常識に囚われていて、罪人や取税人と一緒に食事をすることは決してありませんでした。或いはまた、パリサイ人たちはイエス様の弟子たちが断食をしないことも咎めました。18節です。
18 「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
常識に縛られていると、聖霊を受けることはできません。石板に律法が刻まれた古い時代から、心の中に律法が刻まれる聖霊の新しい時代には、新しい常識を受け入れなければなりません。イエス様はおっしゃいました。21節と22節、
21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」
新しい時代には古い常識を捨てなければ聖霊を受けることはできません。安息日を守るべきという律法の常識も、聖霊の時代には頑なに守る必要はありません。もっと柔軟に対応すべきです。27節と28節、
「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」
律法主義者にとって安息日を守ることは絶対です。しかし、聖霊の時代にはもっと柔軟になりました。実際、クリスチャンは安息日をそれまでの土曜日から、イエス様が復活した日曜日に移しました。イエス様が十字架に付けられた時、安息日は土曜日でしたから、イエス様の復活を祝って安息日を日曜日に移したクリスチャンは、それほどまでに律法の常識から自由になっていました。
私はこの律法を柔軟に解釈しているイエス様の記事の中に、マルコのパウロへの思いも見えると感じています。マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、途中で脱落しました。使徒の働き13章13節には、次のように記されています(週報p.2)。
使徒13:13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネ(マルコ)は一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。
マルコがどうして脱落してエルサレムに帰ってしまったのか、使徒の働きには理由が書かれていませんから、いろいろなことが言われています。若いマルコはホームシックになったとか、裕福な家庭で育ったマルコはひ弱だったから過酷な旅に耐えられなかったとか、パウロの考え方があまりに過激だったから耐えられなくなったのだとか言われています。
私は最後の、パウロの考え方が過激だったという説に賛同します。異邦人に伝道していたパウロは、異邦人は割礼を受ける必要ないと説いていました。イエス・キリストを信じる信仰のみが重要であり、割礼を受けるという形式は異邦人には必要ないと説きました。これはユダヤ人にとってはあまりに過激な考え方でした。ユダヤ人にとって割礼を受けていない者は汚れた者でした。ですから、異邦人でもイエス・キリストを信じたなら聖い者になるために割礼を受ける必要があると考えたのでしょう。しかし、パウロは「聖霊が心を聖める」のであって、割礼という形式は心の聖めには何の役にも立たないと考えました。
現代の私たち日本人には、このパウロの考え方はよく分かりますね。しかし、当時のユダヤ人たちにとってはあまりに過激な考え方でした。マルコは、このパウロの過激な考え方に耐えられなかったのだろうという説に私も賛同します。
ただ、マルコは伝道旅行の途中で離脱してしまったことを、ずっと負い目に思っていただろうと思います。そして、パウロの考え方も後に、ユダヤ人クリスチャンたちの間では共通の考え方になりました(使徒15章)。福音書を書いた時のマルコは、この時のことを思いながら、律法の常識に囚われていないイエス様を描いたのではないかなという気がします。
④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント
古い常識は人を縛り、イエス様に大胆に近づくことを阻み、私たちをイエス様から遠ざけます。古い常識をまとっている限り、イエス様に近づくことはできません。ここにはサタンの働きが透けて見えます。サタンは人を古い常識に縛り付けて、人がイエス様に近づくことを妨げます。イエス様は屋根に穴を開けた者や長血の女のように、常識を打破してご自身に近づく者たちを喜びます。サタンは人々に常識を植え付けて、それを妨げます。
イエス様は、このサタンと戦い、パウロもサタンと戦っていました。パウロの手紙には、「悪魔」や「サタン」に言及している箇所がいくつもあります。ジョン・ウェスレーの説教にもサタンに言及している箇所がたくさんあります。
私は神学生の時に、ウェスレーに関する授業のレポートで、ウェスレーが説教でどれぐらい「悪魔」或いは「サタン」という言葉を使っているかを調べて「ウェスレーの悪魔論」を考察して提出しました。ウェスレーに関することなら何でも良いという自由課題でしたから、私は「ウェスレーの悪魔論」のレポートを提出しました。パウロもウェスレーもサタンと戦っていました。それは御霊を受けたパウロとウェスレーの中におられるイエス様がサタンと戦っているのだ、と言えるでしょう。
半月ほど前に私は、いま話題の映画『鬼滅の刃』を観て来ました。興行収入が遂に歴代1位になったそうですね。なぜ、この映画が若い人にそんなに人気があるのか、若い人への伝道のヒントが何か得られるかもしれないと思って観て来ました。
『鬼滅の刃』は鬼と戦う若者たちの物語です。この映画を観て私は、自分が小学生・中学生・高校生だった頃にワクワクしながら見た、マグマ大使やウルトラマン、仮面ライダーやガッチャマン、宇宙戦艦ヤマトと同じだと思いました。これらのヒーローたちは皆、悪者たちと戦いました。子供たちは今も昔も皆、悪者たちと戦うヒーローが好きなのだと思います。
この観点から若い人たちへのキリスト教伝道を考える時、もっとイエス様とサタンとの戦いをクローズアップしても良いのではないかという気がしています。私たちの多くが、自分の内にある罪に気付いていないのも、サタンが巧妙に気付かないように仕向けているからです。人の霊的な目と耳をふさいで、神様に背いている罪に気付かないようにします。そうしてサタンは人々を暗闇の中に閉じ込めて、光が見えないようにします。
マタイ・マルコ・ルカの福音書の最初の方には、イエス様がサタンの誘惑を受ける記事があります。サタンにとってイエス様は邪魔な存在だからです。そして誘惑を受けているのはイエス様だけではなく、聖霊を受けてイエス様が内にいる私たちも絶えずサタンの誘惑を受けています。サタンにとっては私たちクリスチャンもまた邪魔な存在だからです。ですから私たちもまたイエス様と共にサタンと戦っています。
エペソ人への手紙6章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。
エペソ6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
このサタンとの戦いに、若い人たちも加わって欲しいと思います。『鬼滅の刃』を観に若い人が続々と映画館に足を運んでいる様子を見るなら、伝道の仕方次第で、それも可能であろうと思います。その昔、マグマ大使やウルトラマンに熱狂した子供の多くは男の子だったかもしれませんが、『鬼滅の刃』は女の子も多く観ています。
おわりに
パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とも書いていますが、この世には調子を合わせて構わないものもあります。調子を合わせて良いものと悪いもの、御霊に導かれてしっかりと区別したいと思います。サタンはこの区別する目も曇らせます。遠ざけるべきものを近づけさせ、近づけるべきものを遠ざけます。そうしてサタンは人々をイエス様から遠ざけます。
私たちはサタンに惑わされることなく、屋根に穴を開けた者たちや長血の女のように、大胆にイエス様に近づいて行きたいと思います。
このことを、元旦礼拝と新年礼拝では、改めて確認したいと願っています。
この一年が守られたことの感謝へと、来年の私たちの信仰の歩みのことを思い巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。