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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

戦災に涙し、霊的鈍感に憤るイエス(2019.11.24 礼拝)

2019-11-25 10:14:42 | 礼拝メッセージ
2019年11月24日礼拝メッセージ
『戦災に涙し、霊的鈍感に憤るイエス』
【哀歌1:1~3、ルカ19:41~44、ヨハネ11:32~44】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージは予定を変更して、戦争被害を悲しむ聖書箇所を開くことにしました。

 昨日の晩に来日したローマ教皇は、きょうの24日は被爆地の長崎と広島で核兵器の廃絶を訴えて平和の集いを行うそうです。私もこの広島・長崎への原爆投下と核兵器廃絶の問題には強い関心を持っています。そして、この平和の働きを聖書を伝えることで行うために私は召し出されて牧師になったと確信していますから、きょうはどうしても、このことについて語らなければなりません。

 ただ、これから語ることはこれまであまり理解されて来ませんでした。それゆえ、きょうは招きのことば(ルカ19:41~44)や聖書交読(哀歌1:1~22)も使って心を整えていただき、少しでも分かりやすいメッセージになるように心掛けたつもりです。

 では早速、聖書を見て行くことにします。きょうは次の五つのパート(週報p.2)で話を進めて行きます。

 ①イエスさまは何に涙し、何に憤っていたのか?
 ②創世記の「初め」の時代から始まるヨハネの福音書
 ③「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」も重ねるヨハネ
 ④現代の戦災にも涙し、霊敵鈍感に憤るイエスさま
 ⑤なぜ私たちは霊的鈍感に陥っているのか?

①イエスさまは何に涙し、何に憤っていたのか?
 きょうの聖書箇所のヨハネ11章を見ましょう。11章の1節に、ラザロが病気になったことが書いてあります。ラザロはマルタとマリアの姉妹と共にベタニア村に住んでいました。ベタニア村はヨルダン川のこちら側にあります。「こちら側」とはエルサレムから見た時にヨルダン川の「こちら側」にある、ということです。

 さて、この時のイエスさまはヨルダン川の向こう側に行っていたことが10章の40節に書かれています。40節に「イエスは再びヨルダンの川向こう・・・に行き、そこに滞在された」とありますね。つまりイエスさまの滞在地とベタニア村の間にはヨルダン川が流れていて渡りやすい場所に迂回しなければなりませんから、すぐには駆け付けられない状況でした。すぐには行けないのなら、なおさら急いで出発すべきです。しかし、イエスさまは6節にあるように、さらにヨルダン川の向こうに二日間とどまっていました。

 そのようにゆっくりしていたので、その間にラザロは死んでいました。そのことでマルタとマリアはとても悲しんでいました。きょう聖書朗読で司会者に読んでいただいた場面は、その悲しみの現場にイエスさまが到着した場面です。32節でマリアはイエスさまに言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」続いて33節から35節までをお読みします。

33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え心を騒がせて
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された

 皆さんは、この箇所を読んで、どのように感じるでしょうか?私は、初めてここを読んだ時には特別なことは感じなかったと思います。聖書は難しいですから、誰でも大体そんな感じではないでしょうか。

 けれども何回か読むうちに、この場面を読むとザワザワと胸騒ぎを覚えるようになりました。福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つありますが、この箇所ほどイエスさまの感情が激しく揺れ動いている場面はないと思います。33節から35節までの短い箇所でイエスさまは「霊に憤りを覚え」、「心を騒がせ」、「涙を流され」ました。

 イエスさまが怒ったり、或いは泣いたりと、一つの感情を顕わにした場面は他にもあります。しかし、この場面のイエスさまは「霊に憤りを覚え」、「心を騒がせ」、「涙を流され」ました。新改訳第3版では、「心を騒がせ」が、「心の動揺を感じて」になっていました。つまりイエスさまの心の中では平常心を保っていられないほどに激情が渦巻いていたということです。イエスさまは湖で嵐に遭って、乗っていた小舟が沈みそうで弟子たちが慌てていた時にも平気で寝ていたお方です。イエスさまと言えば常に冷静沈着というイメージがあります。そんなイエスさまがこのヨハネ11章では激しく動揺していました。

 これは背後に何かあると思いませんか?何度もこの箇所を読むうちに私は次第に、イエスさまは単にラザロの死のことで激しく動揺したのではないことを感じるようになりました。イエスさまは死んだラザロをも生き返らせることができるお方です。天の父にできないことはありませんから、イエスさまが天の父に頼めば死んだ人でも生き返ります。実際、44節でラザロは生き返って墓から出て来ました。ですから死んだラザロ一人のことで、イエスさまがこんなにも動揺するはずがありません。これは背後に何かあると考えるべきです。ただ、それが何であるのか、私は何年もの間、分からないでいました。

 しかし、ある聖霊体験を経て、私はこのイエスさまの激しい動揺の背後に何があったのかが分かるようになりました。ある聖霊体験とは、私がインターン実習生として姫路教会にいた時に、朝の日課の聖書通読でレビ記を読み始めたら涙が出て止まらなくなったという体験です。天の父がイスラエル人たちをどんなに深く愛していたかが分かり、その父が私のことをも深く愛して下さっていることを感じました。そして今までの私がその父の愛を分かっていなかったことをとても申し訳なく思い、涙が溢れ出ました。さらに2001年に死んだ私の父親も私のことを深く愛してくれていたのに、そのことへの感謝の思いがあまり無かったことに対しても申し訳なく思い、涙が止まらなくなりました。この天の父の深い愛は聖霊が教えて下さったものです。

 この聖霊体験を経て、私はそれまでよりも聖書が格段に深く味わえるようになり、ヨハネの福音書もそれまでより理解できるようになりました。そして、このヨハネ11章のことも分かって来ました。次のパートに移って、そのことを話します。

②創世記の「初め」の時代から始まるヨハネの福音書
 皆さんも良くご存知のように、ヨハネの福音書は次のことばで始まります(週報p.2)。

1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。

 「ことば」とはイエスさまのことですから、ヨハネの福音書は創世記の「初め」の時代のイエスさまのことから書き始めています。そうして、この福音書は地上生涯のイエスさまに重ねる形で旧約聖書の時代のイエスさまのことも時代順に描いています。きょうは、そのことを詳しく話す時間はありませんから、省略します。詳しいことを知りたい方は、私の著書の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」を是非、お読みいただきたいと思います。

 さてヨハネ1章から始まったイエスさまの旧約の時代がどこで終わるかと言うと、11章の54節です(週報p.2)。

54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って・・・

とあります。

 上の1章1節にあるように、イエスさまは「ことば」です。つまりイエスさまは「聖書のことば」です。その「聖書のことば」であるイエスさまが11章54節では「もはやユダヤ人との間を公然と歩くこと」をやめました。「公然」と歩かなくなったということは、つまりここで聖書のことばが旧約聖書の最後のマラキ書まで来て、聖書の記述が一旦終わったということです。

 11章54節がマラキ書ですから、イエスさまが動揺していたヨハネ11章30節の辺りは、聖書のかなり終わりの方ということになります。それはどこでしょうか?今度は11章よりも前を見ることにしましょう。あまり前に戻り過ぎると時間が掛かりますから、ヨハネ10章1節を見ましょう。重要な聖句ですから、週報p.2にも載せておきました。

1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 このイエスさまのことばは、旧約聖書にあっては預言者エレミヤのことばです。エレミヤの時代のエルサレムの人々は外国の神々を礼拝し、偶像を拝むことを止めませんでした。そこで神は預言者のエレミヤを通して、外国の神々の礼拝を止めなければ外国人の軍隊を送ってエルサレムを滅ぼすと警告しました。このエレミヤにイエスさまは聖霊を通して神の警告のことばを伝えていました。

 しかしエルサレムの人々はこの警告を無視しましたから、バビロン軍などの外国の軍隊がエルサレムの城壁を乗り越えて侵入し、王宮や神殿を破壊して宝物などを強奪して行きました。ヨハネ10章1節のイエスさまのことばの「門から入らず、ほかのところを乗り越えて」というのはバビロン軍などがエルサレムの街の城壁を乗り越えて侵入したことを指します。

 そうしてエルサレムの人々は捕らえられてバビロンへ捕囚として引かれて行きました。そのことが書かれているのが、ヨハネ10章40節です。お読みします。

40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

 バビロンはヨルダン川の向こう側にありますから、40節でイエスさまが川向こうに行ったということは、預言者エゼキエルを通して神のことばを語っていたイエスさまがエルサレムの人々と共にバビロンへ捕囚として引かれて行ったことを指します。

 そうしてエルサレムは滅亡しました。滅亡したのは人々の大半がバビロンに引かれて行った後です。ヨハネ11章6節でイエスさまが「ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまった」というのは、人々がエルサレムへの帰還を許されて、神殿と城壁の再建のために戻って行くまでの年月を指します。

 きょうの聖書交読では『哀歌』の1章をご一緒に読みましたね。哀歌はエルサレムの滅亡を悲しんだ歌です。哀歌1章1節から3節までをお読みします。

1 ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。
2 彼女は泣きながら夜を過ごす。が頬を伝っている。彼女が愛する者たちの中には、慰める者はだれもいない。その友もみな裏切り、彼女の敵となってしまった。
3 悩みと多くの労役の後に、ユダは捕らえ移された。彼女は諸国の中に住み、憩いを見出すことがない。追い迫る者たちはみな追いついた。彼女が苦しみのただ中にあるときに。

 つまりヨハネ11章35節で涙を流したイエスさまはエルサレムの滅亡を悲しんでいたのでした。ラザロの死のこともイエスさまはもちろん悲しみましたが、旧約の時代に天にいたイエスさまは、このエルサレムの滅亡を天の神(父)と共に深く悲しんでいました。

 すると、11章の32節と33節の状況も自ずと分かって来るでしょう。32節でマリアはイエスさまに言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そして33節、

33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、

 イエスさまは一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、霊に憤りを覚え、心を騒がせました。イエスさまはなぜ「霊に」憤りを覚えたのでしょうか?それは、この憤りが霊的なことに関わるからでしょう。エルサレムが滅亡したのはエルサレムの人々が霊的に鈍感だったからです。エルサレムが滅亡する前、天の神(父)と共にいたイエスさまはエレミヤを通して再三再四、このまま悪行を続けるならエルサレムを滅ぼすと警告しました。しかしエルサレムの人々は耳を傾けませんでした。もしエルサレムの人々がもっと霊的に敏感であったなら、エレミヤの警告によって主に立ち返り、そうしてエルサレムは滅亡を免れたはずです。そのエルサレムの人々の霊的な鈍感さ故に、イエスさまは霊に憤りを覚えました。

③「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」も重ねたヨハネ
 旧約の時代は「律法の恵み」の時代と言えます。イスラエルの民にとって律法は恵みです。このことを私は、レビ記を読んで涙を流す聖霊体験を通して理解しました。レビ記には律法が書いてあります。律法は天の父がイスラエルの民を深く愛しているが故に授けたものですから、大きな恵みです。

 そしてヨハネの福音書のすごいところは、地上生涯のイエスさまに「律法の恵み」だけでなく「聖霊の恵み」も重ねていることです。それは、ヨハネ1章の16節と17節から分かります(週報p.2)。

16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 私たちはみな、恵みの上にさらに恵みを受けました。それは「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」を受けたということです。この「聖霊の恵み」がどのように重ねられているかについても、きょうは時間がありませんから説明しません。詳しいことを知りたい方は、「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」を読んでいただければ幸いです。

 さて、「聖霊の恵み」が重ねられているということは、パウロたちが活動した使徒たちの時代が重ねられているということです。そして、このヨハネ11章には、紀元70年にローマ軍の攻撃によってエルサレムが再び滅亡したことが重ねられています。エルサレムは紀元前にバビロン軍によって滅亡し、イエスさまの時代を経て紀元70年にローマ軍によって再び滅亡しました。この紀元70年のエルサレムの滅亡を予告したのが、きょうの招きのことばで読んでいただいたルカ19章のイエスさまのことばです(週報p.2)。

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 41節でイエスさまは泣いています。つまり、ヨハネ11章35節で涙を流したイエスさまは、この紀元70年のエルサレムの滅亡のことをも深く悲しんでいます。

④現代の戦災にも涙し、霊敵鈍感に憤るイエスさま
 二つの時代のエルサレムの滅亡を時空を超えて悲しみ、人々の霊的な鈍感さに憤るイエスさまは当然、現代の私たちの霊的な鈍感さにも憤り、絶えず戦争をしていることを深く悲しんでいます。

 人類は広島と長崎に原爆を投下した後も核兵器の研究開発をさらに推し進めて、原爆よりもさらに強力な水爆を開発しました。そして小型化してミサイルに搭載できるようにしました。小型化する前はB29が広島・長崎でそうしたように、攻撃目標の都市の上空まで飛行機で原爆を運ばなければなりませんでしたが、ミサイルならその必要がありません。北朝鮮は既に大型の核兵器の製造には成功していて、今は小型化することとミサイルを遠くに正確に飛ばす技術を磨いているのでしょう。

 このことをイエスさまがどんなに悲しみ、私たちの霊的な鈍感さに対してもどんなに憤りを覚えておられることでしょうか。先ほどお読みしたルカ19章42節でイエスさまはエルサレムのために泣きながら言いました。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」この1世紀のエルサレムの人々と同じように現代人もまた霊的な目が閉じていて平和に向かう道が目から隠されていますから、核兵器の廃絶が進みません。

 21世紀の現代人もまた霊的に鈍感であることは、ヨハネ11章のイエスさまがエルサレムの滅亡のことで霊的に憤り、涙していることに気付かれていないことからも明らかです。このヨハネの福音書の霊的なメッセージを私は姫路教会にいた頃の8年前から広く知ってもらいたいと願って発信していますが、なかなか分かってもらえず、2年前に本(「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」も出しましたが、それでも理解してもらえていません。それはつまり、多くの方々がまだ霊的に十分に覚醒していないからなのでしょう。

 しかし、逆に言えばこれは大きな希望でもあります。なぜなら、もし人々が霊的に覚醒してイエスさまの涙と憤りを敏感に感じることができるようになるなら、世界は平和に向かい、核兵器が廃絶されるという希望を持てるからです。現状では核兵器の廃絶はなかなか進展せず、世界は一向に平和に向かいません。しかし、多くの人々が霊的に覚醒するなら、世界は必ずや平和に向かうことでしょう。

⑤なぜ私たちは霊的鈍感に陥っているのか?
 そのためには、なぜ私たちが霊的に鈍感な状態に陥っているのかを解明する必要があります。これは、単に平和の働きのためだけでなく、私たちの教会の将来にも直結していることです。なぜなら人々が教会に来ないのもやはり、霊的に鈍感だからです。

 私たちクリスチャンも、核兵器廃絶に必要なレベルから言えばまだまだ霊的に鈍感ですが、それでもイエスさまを信じて聖霊を受けていますから、聖霊を受けていない人よりは霊的に敏感な筈です。そして聖霊を受けている人でも霊的な敏感さには差があるでしょう。この霊的な敏感さ・鈍感さは何によるのでしょうか?このことが分かれば、私たちはもっと霊的に成長できて、そしてもっと多くの方々に教会に来ていただけるようにもなるでしょう。

 ですから何が霊的な鈍感さをもたらしているかを解明することは、どうしても必要なことです。なぜ私たちは霊的に鈍感なのか?今のところ次の三つの原因を考えています(週報p.2)。

 A.私たちが「過去→現在→未来」の時間観に縛られているため
 B.私たちが、目に見えることだけに注目しがちであるため
 C.父・子・聖霊の三位一体の神への理解が乏しいため

 これらの一つ一つについて説明する時間はもうありませんから、今後の礼拝メッセージで触れていくことにします。

おわりに
 上記のA~Cの中で特にCの「父・子・聖霊の三位一体の神」については来年、重点的に学びたいと思っています。そうして三位一体の神について学ぶ中で私たちは霊的に成長して、イエスさまの悲しみと憤りを、もっと深く理解できるようになりたいと思います。

 そうして私たちが霊的に成長するなら神様は祝福して下さり、教会に多くの方々が集うようになるでしょう。ですから、先ずは私たちが霊的に成長して行きたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらく、ご一緒にお祈りいたしましょう。
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世界のために祈れる幸い②(2019.11.17 礼拝)

2019-11-18 10:20:12 | 礼拝メッセージ
2019年11月17日礼拝メッセージ
『世界のために祈れる幸い②』
【ルカ15:8~10】

はじめに
 きょうは宣教ビデオを観ましたから、メッセージは短めです。
 先週から始めた「世界のために祈れる幸い」のシリーズでは、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の物語を大きな観点から読み、聖書のスケールの大きさに思いを巡らすことで、祈りのスケールもまた大きなものにできたら幸いであると考えています。

 このシリーズを始めたきっかけは、中高生の若い生徒さんたちにもスケールの大きなことに目を向けてもらいたいという思いがあるからです。なぜ、そう思うのか、それは多分、私が牧師になる前には大学の留学生センターに勤務していたからだと思います。

 当時、学生全体の役1割が留学生でした。最近はもっと増えているようです。ホームページに公開されているこの大学の学生数のデータを見ると、今年の5月1日現在で学生の総数(学部生・大学院生・研究生の合計)が10,441名で、そのうち1,724名が留学生となっています。比率にすると16.5%です。6人に1人が留学生ということで、非常に留学生が多いです。この留学生たちは世界中の国々から来ています。

 この留学生たちは自分の生まれた国を離れてはるばる日本に来るわけから、やはりスケールの大きいことを考えているんですね。男子も女子も関係なくスケールの大きなことを考えているという印象がありました。ですから私はこれから巣立ちして羽ばたいて行く生徒さんたちにも小さくまとまらないでスケールの大きなことを考えるような生徒になって欲しいなと思っています。そういうわけで聖書もまた大きなスケールで読むことができるようになってもらえると良いなと思っています。そして、このことを静岡教会の皆さんとも分かち合いたいと願っています。

 そこで、この「世界のために祈れる幸い」のシリーズでは、「放蕩息子の帰郷」の物語の兄息子をユダヤ人、弟息子を異邦人という読み方もあるということをお伝えしています。つまり弟息子は『創世記』の時代に父親の家を出て、『使徒の働き』の時代に父親の家に帰って来たというわけです。

 先週は、この兄息子と父親との会話に注目しました。次は弟息子について深めたいところですが、きょうは宣教ビデオを観た関係であまり時間を掛けられませんから、「放蕩息子の帰郷」の物語の前にある「ドラクマ銀貨の例え」を見ておくことにしたいと思います。先週から放蕩息子は異邦人であるというスケールの大きな話をしていますが、この物語はもちろん、もっと小さな単位での罪人の話でもあります。弟息子を異邦人であると読み取ることができることばかり強調すると、そのことを見落としてしまいますから、きょうはそのことを短い時間の中で確認しておきたいと思います。きょうのメッセージは次の三つのパートで話を進めます。

 ①救いはすべての人にもたらされる
 ②野の外へ出た羊と家の中で失われた銀貨
 ③人が救われると大喜びする天

①救いはすべての人にもたらされる
 まず確認しておきたいのは、救いはすべての人にもたらされることが『ルカの福音書』では明確に示されているということです。

 きょうの聖書交読で読んだルカ4章には、そのことが良く示されています。ルカ4章の16節から21節までをもう一度、交代で読みましょう(新約p.115)。

16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 ここでイエスさまはイザヤ書61章のみことばを読みました。そしてイエスさまはこのイザヤ書の預言が実現したことを人々に話しました。それはつまり、イエスさまご自身がイザヤ書61章にある、主に遣わされた者であるということですね。

 そうして4章35節では悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出し、39節ではペテロの姑の病気を癒しました。さらに40節では多くの病人たちを癒しました。

 また、ルカ2章では幼子のイエスさまを抱いたシメオンが、この子が万民に救いをもたらすことを告げていますね。ルカ2章の28節から33節までを交代で読みましょう(新約p.111)。

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。

 シメオンは31節で救いは万民に備えられていること、そして32節ではそれがイスラエルの民だけでなく異邦人にももたらされることを告げています。

②野の外へ出た羊と家の中で失われた銀貨
 ルカ15章に戻って、今度は「放蕩息子の帰郷」の前にある羊と銀貨の例えのほうを見てみたいと思います。まず九十九匹の羊と野からいなくなった一匹の羊のことですが、先週のメッセージで、九十九匹の羊はユダヤ人、野からいなくなった羊は異邦人であると読み取りたいと話しました。イエスさまの時代のユダヤ人たちの多くは形式的にではありますが律法を守っていましたから九十九匹を野に残していなくなった一匹を捜しに行っても、九十九匹がいなくなる心配はありません。

 この、いなくなった一匹を捜しに出て行った場面からは、パウロが異邦人への宣教のためにユダヤの外に出てアジア・ヨーロッパ方面に向かって行った様子が思い浮かびます。また、今日ご一緒に見た宣教ビデオの、日本の国外に出て行った宣教師の先生方の姿も重なります。

 おとといの金曜日の午後、私は田町3丁目のお宅のポストにクリスマスチラシを投函しました。小さな路地を含めて田町3丁目の道をほぼすべて歩くことができて感謝でした。ここにも迷い出た羊がいます。今週中は田町2丁目と4丁目、そして新富町への戸別投函も行いたく思っています。この一匹の羊の箇所を思い浮かべながら配布したいと思わされています。

 さて、羊を飼っていた人は野の外に出て羊を捜しに行きましたが、ドラクマの銀貨の例えでは、女の人は家の中を捜しました。これはユダヤの外だけでなくユダヤの中にも罪人がいて、主はもちろん、そのような者たちも救いの対象としていることが、ここから見て取れます。例えばルカの福音書の有名な登場人物の一人の取税人ザアカイは、家の中で見つかった銀貨と言えるでしょう。イエスさまは、このようにすべての人々を救いたいと願っていらっしゃいます。

③人が救われると大喜びする天
 ルカ15章の例え話には天が大喜びする様子も記されています。6節と7節を交代で読みましょう。

6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 9節と10節も交代で読みましょう。

9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 そして放蕩息子の父親は兄息子にこう言いました。32節です。

32 「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」

 このルカ15章の天が大喜びしている描写を読んで、私自身が救われた時にも、天が大喜びしていたことを想像すると、本当に感謝だなあと思い、涙が出るほどうれしくなります。こんな私一人のために天が大喜びしてくれるなんて、何てすごいことだろうと思います。そうして家族や知人、近隣の方々への伝道のことを思う時、私たちが何のために伝道するのかが、自ずと分かって来るように思います。

 私たちが伝道・宣教の働きをするのは、それが主の命令であることももちろんですが、一人が救われることに天がこんなにも大喜びすること、その喜びを天と一緒に分かち合いたいからではないでしょうか。

おわりに
 天と共に喜びを分かち合えるとは、何と素晴らしいことでしょうか。とても大きな励みになることを感じます。これからのクリスマスシーズンは、この伝道の働きのための良い機会となりますから、ご一緒に天の喜びを思い浮かべながら主のために働きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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人生の「守・破・離」を応援する神様

2019-11-15 13:18:28 | 祈り会メッセージ
2019年11月14日祈り会メッセージ
『人生の「守・破・離」を応援する神様』
【使徒16:6~12】

6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。

はじめに
 再来週、市内のキリスト教系学校の修養会があります。朝の始業時間に開会礼拝があり、次に生徒さん向けの講演が約1時間あり、それから昼前の約1時間、牧師は一つの教室に一人ずつ入って生徒と共に過ごすそうです。

 私にとっては初めての機会ですから、私のこれまでの人生経験を基にした話を生徒さんにしたいと思っています。いま考えているのは高校生を対象に『人生の「守・破・離」を応援する神様』について話すことです。「人生」という言葉は中高生にはまだまだピンと来ないかもしれません。特に中学生にはまだ実感が持てないだろうと思います。そこで高校生向けに『人生の「守・破・離」を応援する神様』について語ろうかと考え始めています。

守・破・離
 「守・破・離」という言葉は皆さんもどこかで聞いたことがあると思います。「守・破・離」の「守」は守る、「破」は破る、「離」は離れるで、芸事や武術で良く使われる言葉です。何事も最初はお師匠さんの教えを守って基本をしっかりと身に付ける事が大切です。しかし、基本が身に付いたなら、そこから殻を破って自分に合ったスタイルを追究することが必要になって来ます。なぜなら例えば手や体の作りは一人一人違います。師匠と違う体の持ち主が師匠の真似だけしていても上達はしませんから、自分に合ったスタイルを模索する必要があります。

 そうして殻を破って上達して、やがては師匠から離れて行きます。例えば剣術の宮本武蔵は二天一流という二刀流の流派を開いたことで有名ですね。ただし二刀流は重い太刀を片手で持たなければなりませんから、かなりの腕力を必要として、誰でもできる訳ではありません。

 高校生の生徒さんに宮本武蔵の話をしてもピンと来ないと思いますから、「守・破・離」の好例として女優ののんさん(本名・能年玲奈)の話もしたいと思います。能年玲奈さんはNHKの朝ドラの『あまちゃん』で有名になった女優さんです。その後、彼女は殻を破って所属していた事務所から独立しようとしましたが、そのことで事務所との間に摩擦が生じて仕事がぜんぜん無い期間が三年近くありました。しかし芸名を「のん」と改名してアニメーション映画の『この世界の片隅に』の主役のすずさん役の声優として復活を果たして、それ以降、活動の幅を音楽や美術などの分野にも広げて、かつての能年玲奈からは離脱して生き生きと活動しています。

 宮本武蔵や能年玲奈を例に挙げると、「守・破・離」は才能に恵まれた人だけのものと思ってしまうかもしれませんが、「守・破・離」は誰にでもあることです。殻を破る程度や離れる程度は人によって違いますが、どんな人にも「守・破・離」はあります。例えば子供の頃は親の言うことをしっかりと守って良い子でいたとしても、思春期になれば誰でも親の言い付けを守らずに破ることはあるでしょう。大きく破る子や小さくしか破らない子など程度はいろいろだと思いますが、まったく破らない子はいないでしょう。そして、大人に成長したら親元から離れて行きます。同居していたとしても大人になったなら自立して精神的に親から離れて行かなければなりません。

 そのような家族の関係の「守・破・離」であっても、また職業などでの「守・破・離」であっても、人生のどんな段階においても神様は共にいて下さり、「守・破・離」を応援して下さっています。本人が気付いていようがいまいが神様は共にいて下さいます。ですから、そのことにできるだけ早く気付くことが、その人の人生をより豊かにすることにつながります。なぜなら能年玲奈さんの例でも挙げたように「守る」段階から「破る」段階に移り、さらには「離れる」段階に移行する時には大抵の場合は様々な問題が起きて、苦しい中を通らなければならないことが多いからです。

人は何度も「守・破・離」を経験する
 さて今回、「守・破・離」について思いを巡らしていて、とても興味深いことに気付きました。それは聖書中の人物を見ても、私自身の経験からも、人は一つの人生の中で何度も「守・破・離」を経験するということです。

 例えばアブラハムの孫のヤコブは、兄のエサウになりすまして父イサクからの祝福を横取りした時に自分の生まれ育った家を離れて伯父のラバンの所に逃れました。これがヤコブの一回目の「守・破・離」で、逃れる途中のベテルでヤコブは神様と出会いました。次に伯父のラバンの家からも離れることにして二回目の「守・破・離」を経験しました。これは神様がヤコブに父の国に帰るように促したからです(創世記31:3)。このように神様は人の「守・破・離」を応援するお方です。この時にヤコブはペヌエルで神様と格闘をして「イスラエル」という名前を与えられて信仰を深めて行きました。そうしてヤコブは晩年にカナンの地を離れて息子のヨセフが住むエジプトへと移住しました。これも「守・破・離」と呼べるのだと思います。モーセやダビデの生涯も「守・破・離」という観点から見ると何度かの転機があって興味深く見ることができます。

 新約の時代を見るならペテロやパウロも何度か「守・破・離」を経験しています。ペテロは漁師の職業を離れてイエスさまに付き従いました。これがペテロにとっての一回目の「守・破・離」でしょうか(聖書には書いてありませんが、それ以前にも「守・破・離」を経験しているかもしれません)。そして聖書に書かれているペテロの二回目の「守・破・離」はペンテコステの日に聖霊を受けたことでしょう。聖霊を受けたことでペテロの信仰はそれまでの段階を離れてまったく異なる段階に入りました。さらにペテロは異邦人のコルネリウスたちにも聖霊が注がれた現場に居合わせたことで、モーセの律法を守っていない者でも神様は救って下さるという、それまでの信仰とはまた異なる段階へと入って行きました。

聖霊に導かれて新しい段階に入ったパウロ
 パウロもまた何度も「守・破・離」を経験した使徒であると言えるでしょう。まず、クリスチャンを迫害する凶暴なユダヤ教徒になったことも「守・破・離」としてカウントしたいと思います。次にイエスさまと出会って聖霊を受けたことはもちろん明確な「守・破・離」です。細かく見ればバルナバと共に第一次伝道旅行に出発したことも、拠点としていたアンティオキアを離れたということで「守・破・離」に当たると言えるかもしれません。そうして、きょうの聖書箇所でアジアを離れてヨーロッパのマケドニアに渡ったことも、ヨーロッパ伝道という新しい段階に入ったわけですから、これも「守・破・離」と言えるでしょう。ここには明確な聖霊の導きがありました。16章の6節と7節を交代で読みましょう。

6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。

 このように、それまでの段階を離れて次の段階へと移る時には聖霊の導きがあり、神様はその人の「守・破・離」を応援しています。その人が気付いていようといまいと人の「守・破・離」の背後には必ず神様がいます。この時のパウロはもちろん気付いていました。

 修養会では、聖書の人物の話はほどほどにして、私自身の経験を話すほうが良いのかなという気がしています。そうして聖書を大きな観点から読むことの楽しさにまで結び付けることができるなら、なお良いだろうと思っています。

 私自身の「守・破・離」は、まず静岡を離れて北海道の大学に行ったことが最初の「守・破・離」であったと思っています。親からの仕送りに頼っていましたから、親から完全に離れたわけではありませんが、精神的な自立への第一歩となったことは確かだと思います。そうして大学院を出て理工系の研究者になったことが二番目の「守・破・離」であり、その研究の師匠の教授から離れて日本語教師になることを目指し、大学の留学生センターの教員になったことが三番目の「守・破・離」です。

 その後、教会に導かれて洗礼を受けたことも「守・破・離」ですし、さらに大学を辞めて神学校に入って牧師になったことも、もちろん「守・破・離」です。そして、聖書の学びが深まってヨハネの福音書がどのような書であるかを神様が教えて下さり、聖書をもっと大きな観点から読むようになったことも「守・破・離」です。この、聖書をもっと大きな観点から読むようになったことについては、パウロがヨーロッパ伝道へと踏み出した時に聖霊の導きを明確に感じていたのと同様に、私も聖霊の導きを明確に感じています。神様はこれまでの私の経歴を生かして、これまでとは異なる聖書の読み方もあることを教えて下さり、それを若い人々に伝える役目を与えて下さったのだと感じています。

おわりに
 礼拝でも少し触れましたが、今の中高生たちが生まれた時代は、国際宇宙ステーションに人が常駐している時代です。人類が地上を離れて宇宙空間に飛び出して行ったこともまた、一つの「守・破・離」と言えるでしょう。しかし、21世紀生まれの人たちにとっては人が宇宙にいることは普通のことです。そのような21世紀生まれの若者たちにも聖書を魅力ある書物として伝えるには様々な工夫が必要だろうと思います。そのための役目を与えられていると感じています。

 高校生たちの多くはこれから一回目の「守・破・離」の時を迎えます。生徒によっては既に一回目の「守・破・離」を経験した者もいるかもしれませんが、大半の生徒はこれから経験するのだろうと思います。その「守・破・離」の背後にはいつも神様がいて、応援して下さっていることを、11月26日の修養会では何とか上手く伝えられたらと思います。そうして12月8日の礼拝にもつなげて行くことができたらと思います。このことのために共にお祈りいただければ幸いです。
 お祈りいたします。
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世界のために祈れる幸い①(2019.11.10 礼拝)

2019-11-11 11:12:01 | 礼拝メッセージ
2019年11月10日礼拝メッセージ
『世界のために祈れる幸い①』
【ルカ15:25~32】

はじめに
 きょうから5回のシリーズで、『世界のために祈れる幸い』というタイトルで主にルカ15章を引きながら話をしたいと思います。5回ですが4回でだいたいの話を終えて、5回目は1~4回目をコンパクトにまとめたものになろうかと思います。

 5回目は12月8日です。この日の礼拝には中高生たちが出席します。きょうからの4回は、12月8日のための備えという位置付けです。どういうことかと言うと、12月の8日までに教会の皆さんには当日のメッセージの内容の大体を理解しておいていただきたいということです。12月8日のメッセージはできるだけ分かりやすいものにするつもりですが、中高生たちにとっては理解が難しいことも多少は含まれるだろうと思います。

 そんな中でも、教会の皆さんが十分に理解できているなら、この礼拝堂が聖霊で満たされて、中高生たちに対して聖霊が働き掛けるだろうと思います。しかし、もし教会の皆さんの頭の上でも中高生と一緒に???マークがふわふわしているようでは、中高生への聖霊の働き掛けはないでしょう。ですから、今日から12月8日に備えたいと思います。

「世界のために祈れる幸い」について
 『世界のために祈れる幸い』というタイトルについては、随分と大げさタイトルだなあという感想を持つ方もいるかもしれません。これには理由があります。私たちクリスチャンは、聖書の神様が唯一の神様であり、他には神々がいないことを知っています。ですから自分や家族のこと、そして世界のことも含めて、すべてのことを聖書の神様にお祈りします。

 一方、クリスチャンでない方々は、自分のためや家族のために地元の神社やお寺で祈るでしょう。しかし、地元の神社やお寺で世界のために祈ることはしないでしょう。もし世界のために祈るとしても、どんな神様にお願いしたら良いか分からないまま祈ることになるでしょう。

 それに対して聖書の神様は万物を創造して世界を支配している神様ですから、私たちは世界のことを聖書の神様にお祈りしてお願いすることができます。これはとても心強いことです。なぜなら現代では国際的な問題で祈るべき課題がたくさんあるからです。国際問題が私たちの日常生活にも大きな影響を与えるからです。例えばアメリカは二酸化炭素の排出を抑制する目標を決めたパリ協定から離脱するそうです。もし他の国々もアメリカに追従して今後ますます二酸化炭素の排出が増えて行くようであれば地球の温暖化は加速するでしょう。温暖化の影響はすでにいろいろな形となって現れて来ています。台風が勢力を保ったまま日本に上陸するようになったのも温暖化の影響です。

 このままでは2050年には大変なことになります。2050年には、この教会の私たちの多くは最早この世にいないと思いますが、今の中高生たちはまだ50歳にもなっていません。ですから、今の中高生たちには世界のために祈るべきことを伝えたいと思います。そして、そのことをお願いできるのは聖書の神様だけであることをしっかりと伝えたいと思います。

 そういうわけで、これからのキリスト教会は聖書を通じて世界に目を向けることも熱心に行うべきと私は考えます。聖書はスケールの大きな書物ですから、聖書を読むなら自ずと世界に目が向いていく筈です。しかし、一般的な傾向として個人や家族やごく身近な人々との関係の問題に目が向けられがちだと思います。それらももちろん大切です。しかし、それでは聖書を知らない一般の方々にとっては仏教でも神道でもキリスト教でもどれでも構わないということになってしまうと思います。

 キリスト教は個人の問題から世界の問題まですべてをカバーしています。そのことをお伝えできるようになるためには、聖書の読み方も従来の読み方から脱却して行く必要があると思います。そのことのために、これから『世界のために祈れる幸い』の説教シリーズでは、『ルカの福音書』15章の「放蕩息子の帰郷」の話を大きなスケールで読むことにしたいと思います。そうして21世紀生まれの若い中高生たちが世界のために祈れるようになることを応援できるようになりたいと思います。

 前置きが長くなりましたが、以上のことを念頭に今日のメッセージは次の五つのパートで話を進めます。

 ①前週の復習(聖霊の肥料)
 ②兄息子がユダヤ人で弟息子が異邦人
 ③九十九匹の羊であるユダヤ人
 ④根幹に位置する旧約聖書
 ⑤21世紀の子らに託したい大きな聖書観

①前週の復習(聖霊の肥料)
 前回の礼拝メッセージときょうのメッセージとはつながっています。前回はご都合で欠席された方が多くいましたから、簡単に復習しておきます。

 前回話したことで重要なことは、『ルカの福音書』と『使徒の働き』は一つながりの書である、ということです。『ルカの福音書』も『使徒の働き』もどちらもルカが書いたもので、二つは前編と後編という形になっています。従って『使徒の働き』を無視して『ルカの福音書』を読むことはできませんし、『ルカの福音書』を無視して『使徒の働き』を読むことはできません。前回はそのことをお伝えした上でルカ13章6~9節を開きました。短い箇所なので、今日もご一緒に読みましょう(新約p.144)。交代で読みます。

6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 ここで、ぶどう園の主人は天の神様であり、番人はイエスさまです。そして、いちじくの木はイスラエル人です。イスラエル人たちはなかなか信仰の実を結ぶことができないでいました。そこでイエスさまは「肥料をやってみます」とおっしゃいました。「肥料」とは聖霊のことです。なぜなら『ルカの福音書』と『使徒の働き』は一つながりの書だからです。『使徒の働き』には聖霊の働きが記されています。そのことを考え合わせるなら「肥料」とは聖霊のことでしょう。そして、ぶどう園の主人はモーセの時代からイスラエル人たちが信仰の実を結ぶことを楽しみにしていたと読み取りたいと話しました。7節では主人は三年の間待っていたとありますが、この三年間をモーセの時代からの千年以上と読み取りたいと話しました。

 なぜなら、このように大きなスケールで聖書を読むことを通じて、若い人々には世界にも目を向けられるようになってほしいと思うからです。この箇所を個人の信仰の問題として読んでももちろん良いのですが、もっと大きなスケールで読むこともできるのだということを若い方々に知ってもらいたいと思います。

 聖書を狭い時間と空間の中に閉じ込めておくのではなく、もっと広い場所に連れ出すなら、生まれた時からインターネットを通じて世界とつながっている今の若い人たちにもっと聖書の魅力を感じてもらえるのではないか、そのような期待感を私は持っています。

②兄息子がユダヤ人で弟息子が異邦人
 先週はルカ13章の6~9節を、モーセの時代から『使徒の働き』の時代に至る大きなスケールで読みましたから、今週はルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の物語を大きなスケールで読みたいと思います。それは、弟息子が父の家を出たのは『創世記』の時代であるという読み方です。つまり兄息子はアブラハムの子孫のユダヤ人で、弟息子はアブラハムの系図から離れて行った異邦人であるという読み方です。弟息子は『創世記』の時代に父の家を出て、『使徒の働き』の時代に父の家に戻って聖霊を受けたというわけです。

 異邦人である弟息子については次回以降に見ることにして、きょうは兄息子のユダヤ人と父親との会話に注目したいと思います。きょうの聖書箇所のルカ15章25節から32節までを見ることにしましょう(新約p.150)。

25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。

 兄息子は、戻って来た弟のために父親が祝宴を開いたことが面白くありませんでした。続いて29節と30節を交代で読みましょう。

29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

 29節で兄は父にこう言っています。「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。」これは、イエスさまの時代のパリサイ人たちが正にそうでした。15章の始まりの1節と2節にはこのように書いてあります。

1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

 当時のパリサイ人や律法学者たちは厳格にモーセの律法を守っていました。それは、彼らの祖先が律法を守らなかったために神様が怒り、北王国も南王国も滅ぼされてしまったからです。北王国の民はアッシリアに捕囚として引かれて行き、二度と戻ることはありませんでした。一方、バビロンに捕囚として引かれて行った南王国の民はぺルシアのキュロス王の時代にエルサレムへの帰還が許されてエズラ記の時代にエルサレムの神殿が再建され、ネヘミヤ記の時代にエルサレムを囲って守る城壁が修復されました。

 そうしてエルサレムに戻ったユダヤ人たちは、今度はモーセの律法をしっかりと守るようになりました。とりわけパリサイ人たちは厳格に律法を守りました。しかし、あまりに厳格に守るという行き過ぎがあって、イエスさまが安息日に病人を癒したり、罪人と交わったりしていることを批判していました。このパリサイ人たちの姿は正に放蕩息子のお兄さんそのものでした。父親はこの兄息子に言いました。31節と32節を交代で読みましょう。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

③九十九匹の羊であるユダヤ人
 31節で父親は兄息子に、「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」と言いました。ここから父親は兄息子のことも深く愛していることが分かります。そして兄息子のことを信頼していることが分かります。神様はユダヤ人を信頼して愛していました。

 15章の4節でイエスさまはおっしゃいました。

4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 私は神学生になる前の高津教会の信徒だった頃、そして神学生になった後でも、いつも九十九匹の羊たちのことが気になっていました。この九十九匹をちゃんと見ていなくて大丈夫なのだろうか?一匹を探している間に九十九匹がどこかに行ってしまったら大変です。一匹の羊のために九十九匹を放っておいて良いのだろうか?そんな心配をしていました。しかし、「放蕩息子の帰郷」の物語を兄息子をユダヤ人、弟息子を異邦人として理解するようになってからは、九十九匹の羊のことも良く理解できるようになりました。

 つまり、九十九匹の羊はユダヤ人です。ユダヤ人は律法を守っていますから、神様から離れることはありません。ですから神様は安心して九十九匹を野に残して、一匹を捜しに行くことができます。神様はユダヤ人たちの祖先のイスラエル人を選び、モーセを通じて律法を授けました。神様はイスラエル人を信頼していました。それが父親の兄息子へのことばの「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」に表れていると思います。

④根幹に位置する旧約聖書
 神様はユダヤ人たちの信仰がどんなであろうと、彼らを深く愛していました。そうして、信仰の根幹をユダヤ人に置いています。きょうの聖書交読ではパウロが書いたローマ人の手紙11章を開きました(新約p.315)。全部見ていると時間が掛かるので、17節と18節の2ヶ節だけ、交代で読みましょう。

17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

 17節の「野生のオリーブ」とは異邦人のことです。野生のオリーブは、本家本元のオリーブに接ぎ木されて、その根から豊かな養分を共に受けます。日本人の私たちも異邦人ですから野生のオリーブです。そして本家本元のオリーブとはイスラエル人たちのことであり、イスラエル人たちが受け継いで来た旧約聖書とも言えます。

 私たち異邦人は旧約聖書から豊かな養分を受けています。18節にあるように旧約聖書が私たちを支えています。この旧約聖書に記されている律法をユダヤ人たちは守って来ました。そのことを神様は高く評価しています。このことを覚えながら、もう一度ルカの福音書15章に戻りたいと思います。31節をご一緒に読みましょう。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

 この箇所からは神様がユダヤ人をいかに深く愛しているかが読み取れます。続いて32節もご一緒に読みましょう。

32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 異邦人の弟息子は父の家に帰って来ました。すべての民族は、もともとは父の家にいました。日本人の祖先も父の家にいました。そうして私たち日本人は父の家に戻って来ました。まだすべての日本人が戻ったわけではありませんが、父親はすべての日本人が自分の家に帰って来ることを期待して今も待っておられます。

⑤21世紀の子らに託したい大きな聖書観
 この「放蕩息子の帰郷」の物語を、ユダヤ人や異邦人などと大げさな話にしないで、個人の信仰の話として捉えても、もちろん全然問題ありません。これまでは個人の信仰の物語として捉えられて多くの人々が救われて来ました。しかし今日話したような大きな聖書観で捉えるなら神様がユダヤ人も異邦人も等しく深く愛しておられることが、もっと良く分かるようになります。

 21世紀のこれからの時代は世界がバラバラにならないように、聖書を大きな観点から読むことが必要になって来ます。世界というと20世紀生まれの私たちには大げさに聞こえるかもしれませんが、21世紀生まれの若い人たちにとっては決して大げさなことではありません。

 私が生まれたのは1959年です。そしてソ連のガガーリンが人類で初めて宇宙空間に飛び出したのは1961年です。つまり私が生まれた時には、人類はまだ誰も宇宙に行ったことがありませんでした。ガガーリン以降は人類は時々宇宙に行くようになりましたが、そうは言っても、宇宙に誰もいない期間のほうが長いという時代がずっと続きました。

 しかし、1989年からはロシアの宇宙ステーションのミールで長期滞在がされるようになり、さらに国際宇宙ステーションが建設されて、2000年の終わりからは常時少なくとも二人か三人は切れ目なく宇宙に人が滞在して生活している状態が続いています。つまり、今の中高生が生まれた時には、いつも宇宙に人が住んでいる時代になっていました。彼らにとっては宇宙に人がいることは当たり前のことです。

 そうして国際宇宙ステーションではアメリカ人もロシア人も日本人も何人(なにじん)であっても協力して任務に取り組んでいます。地上できな臭いことが起きても国際宇宙ステーションでは平和が保たれています。21世紀の今はそういう時代です。ですから21世紀生まれの中高生たちには聖書も大きな観点から読めるようになってもらいたいと思います。そうして世界のために祈れる幸いについても知ってもらいたいと願っています。

 来週以降も引き続き、「放蕩息子の帰郷」の物語を開きながら、大きな観点から聖書を読むことに思いを巡らしたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
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イエスを信じて聖霊を受けなければ分からない聖書(2019.11.7 祈り会)

2019-11-08 09:13:53 | 祈り会メッセージ
2019年11月7日祈り会メッセージ
『イエスを信じて聖霊を受けなければ分からない聖書』
【ヨハネ14:26~27】

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

はじめに
 前回の祈り会では、ヨハネ8章でイエスさまがご自身のことを「わたしは『わたしはある』という者である」とおっしゃった箇所に注目しました。

 例えばヨハネ8章24節の後半でイエスさまは「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」とおっしゃいました。この部分を新改訳第3版では「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と訳していました。このように第3版では単に「わたしのことを信じなければ」と訳していましたが2017年版では「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ」と訳しています。このように2017年版の訳は非常に踏み込んだ表現でイエスさまが天の父と一つのお方であることを示しています。

エゴー・エイミ
 この8章24節の『わたしはある』の所に*印がありますから下の脚注を見ると、

*「エゴー・エイミ」出エジプト記3:14の「わたしは『わたしはある』という者である」という神の自己顕現に由来。28、58節も同様


とあります。これらは先週も見ましたが、28節と58節にも「エゴー・エイミ」が使われていて、例えば58節ではイエスさまは「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」とおっしゃっています。この部分は第3版では単に「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」となっていました。

 「エゴー・エイミ」は英語で言えば「アイ・アム」です。「エゴー」は「アイ」、すなわち「わたし」です。自己中心的な人を「エゴ丸出し」などと言いますね。その「エゴ」と同じ語源を持ちます。そして「エイミ」は英語で言えばbe動詞の「アム」です。

 ヨハネの福音書では他の箇所でもたくさん「エゴー・エイミ」が使われています。それらはイエスさまが「わたしは○○です」とおっしゃっている箇所です。

 ヨハネの福音書のイエスさまはご自身が何であるかを、いろいろな表現でおっしゃっています。

「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)
「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)
「わたしは羊たちの門です」(ヨハネ10:7)
「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14)
「わたしはよみがえりです。いのちです」(ヨハネ11:25)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)

 これらの「わたしは○○です」には、すべて「エゴー・エイミ」が使われています。今回2017年版ではヨハネ8章で使われている「エゴー・エイミ」は神の自己顕現の表現であるとしていることから、8章以外の「エゴー・エイミ」もまた、神様としてのイエスさまが、ご自身が何であるかを伝えているのだと捉えて良いのだろうと思います。イエスさまは神様であられるからこそ、いのちのパンであり、世の光であり、羊たちの門であり、良い牧者であり、よみがえりであり、いのちであり、道であり、真理なのですね。

父のもとから聖霊を遣わすイエス
 そうして、神様としてのイエスさまの最も重要な働きの一つが天の御父のもとから聖霊を遣わすことです。ヨハネ14章の26節と27節を、もう一度交代で読みましょう。

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 聖霊は私たちにすべてのことを教えて下さいます。また、私たちに平安を与えて下さいます。26節の「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は」という表現は少し分かりにくいですが、15章26節ではイエスさまは次のようにおっしゃっています。

26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 つまり聖霊はイエスさまが父のもとから遣わすのですね。イエスさまはさらに16章7節で、このようにもおっしゃっています。16章7節、

7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 このように聖霊は、天に帰ったイエスさまが父のもとから私たちに遣わされます。そうして聖霊はすべてのことを私たちに教えて下さいます。そういうわけで、聖書に書いてあることは聖霊を受けなければなかなか分かりません。イエスさまを信じていない人が聖書を読んで頓珍漢な感想を言うのは聖霊を受けていないからです。

聖霊を受けなければ分からない聖書
 聖霊を受けるにはイエスさまを信じる必要があります。しかし、聖霊を受けていなければ聖書に記されているイエスさまのことは良く理解できません。このように先ずは聖霊を受けていない段階においてイエスさまを信じる必要があるところが、キリスト教の信仰継承を難しくしています。見ずに信じる者は幸いなのですが、人はどうしても目に見える形でのしるしを求めます。こういう方々がイエスさまの方を向いて信じるようになるためには、どうしたら良いでしょうか?

 伝統的にはそれぞれの罪深さに気付かせる方向に導き、イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったことを悟ることができるように導いて来ました。聖霊を受けていない段階で自らの罪を認めることは難しいことですが、昔はそれがまだまだ可能だったのですね。しかし、科学技術が劇的に発達した現代では、まだ聖霊を受けない段階でイエスさまの十字架のことが分かるようになることは、相当に難しいであろうと私自身は考えています。

 では、聖霊を受けていない段階の人にイエスさまの方を向いていただくには、どうしたら良いでしょうか?来月の8日には中高生たちが20名以上、礼拝に出席します。この中高生たちの多くはまだ聖霊を受けていないでしょう。キリスト教系の学校に通って聖書を読み、たくさんのメッセージを聞いても大半の生徒はイエスさまを信じるには至りません。そんな生徒たちに何を伝えたらイエスさまのほうを向き、イエスさまを信じるようになるでしょうか?皆は難しくても、何人かはそんな生徒さんがいてくれたらと思います。

世界のために祈れる幸い
 いま考えているのは、「世界のために祈れる幸い」です。先日の礼拝でも少し触れましたし、次の礼拝ではさらに詳しく話すつもりですが、世界のために祈れることは、とても幸いなことだと思います。今の中高生は生まれた時には既に21世紀になっていました。生まれた時から世界が身近にありました。我々の子供時代とはぜんぜん違うと思います。ですから世界のために祈ると言っても、決して大げさなことではないと思います。

 しかし、生まれた時から世界が身近にあったことで却って萎縮しまっている面もあるかもしれません。我々が子供の頃は、まだまだ「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」でいられましたから、世間知らずでノビノビと育つことができました。しかし、今の子供たちは生まれた時から世界中のすごい人たちの動画をYoutubeなどを通して身近に見ることができます。同世代の若者にも世界レベルのすごい人たちの活躍する姿をスマホなどで見ることができます。同世代の活躍を励みに自分も頑張る若い人もいるかもしれませんが、自分の無力さを感じて萎縮してしまう若い人も少なくないかもしれません。

 そんな若い人たちに世界サイズのイエスさまが共にいて励まして下さっていること、そしてそのイエスさまに向かって自分のことだけでなく世界のことまでお祈りできることは素晴らしいことであることを何とかして伝えられたらと思います。

おわりに
 つい最近、アメリカがパリ協定を離脱することが報道されました。地球規模の気候変動による温暖化によって巨大なハリケーンや台風による大きな被害が出ているのに、自国の産業の利益を優先して二酸化炭素排出抑制に背を向けようとしているとは、どういうことでしょうか。その影響はもちろん日本にも及びます。先月の台風19号も勢力を保ったまま日本に上陸したのは海水温が高かったためです。地球の温暖化と無関係ではないでしょう。ですから世界が一丸となって温暖化対策に取り組めるよう私たちは祈らなければなりません。今の中高生は2050年でもまだ50歳以下です。もし温暖化が加速すれば2050年には大変なことになっています。

 このような地球規模のことについてキリスト教会が祈れることは幸いなことです。聖書の神様は世界を支配し、聖書は世界中で読まれているからです。その一員に加わることができることは素晴らしいことです。このことを中高生たちに是非知ってもらいたいなと思います。

 また祈りは応えられるものであることも中高生たちに知ってもらいたいと思います。広島と長崎に原爆が投下された後には、核兵器の実戦使用が奇跡的にとどめられているのは、世界中で祈りが積まれて応えられているからです。私たちの教会の闘病中の兄弟が今でも毎週の礼拝に出席できているのも祈りが応えられているからでしょう。このように祈りは目に見える形のしるしとなって現われています。このことを、まだ聖霊を受けていない中高生たちにも是非知ってもらいたいと思います。

 そのために、これからの一ヶ月、備えて行きたいと思います。
 一言お祈りいたします。

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
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世界のために祈れる幸い

2019-11-04 08:42:55 | 折々のつぶやき
 次代を担う若い人々に、何を伝えれば信仰が継承されて行くか、いつも悩ましく思っている。来月8日にはキリスト教系学校の中高生たちが20名以上礼拝に出席するそうだ。説教で何を話そうか?いろいろ考えているが標記の【世界のために祈れる幸い】はどうだろうか?→

→昔は世界と静岡の距離は大きかった。テレビで見る世界は遠く離れていた。しかし今は一人一人がスマホで世界とつながっている。国際宇宙ステーションの搭乗員やアメリカの大統領のツイートに返信することもできる。世界の今日の情勢は日本の明日に大きく影響する。若い人の将来にも大きく影響する。→

→だから僕たちは世界がもっと良い方向に向かうように祈る。世界のために祈れるとは、何と幸いなことであろうか。聖書の神様は世界を支配し、聖書は世界中で読まれている。その世界中の人々とキリスト教会は神様を通じてつながり、祈っている。キリスト教系の学校の生徒たちも世界とつながっている。→

→中高生はこれから広い世界へ出て行く。スマホ等を通じて昔の中高生よりも世界を知っている。不安も大きいだろうが希望を持って広い世界へ出て行ってもらいたい。そんな中高生たちに【世界のために祈れる幸い】を何とか上手く伝えられたらと思い始めている。(了)
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主人はいつから楽しみにしていたのか?(2019.11.3 礼拝)

2019-11-04 06:23:51 | 礼拝メッセージ
2019年11月3日礼拝メッセージ
『主人はいつから楽しみにしていたのか?』
【ルカの福音書13章6~9節】

はじめに
 きょうは『ルカの福音書』の例え話の一つに目を留めることにしました。『ルカの福音書』にはイエスさまが話された、たくさんの例え話が収められています。

 どうして『ルカの福音書』の例え話からメッセージを取り次ぐことにしたかというと、実は先週の月曜日に市内の教会の牧師の会合があって、最初のディボーションの時間で『ルカの福音書』の例え話の箇所が開かれました。それで、『ルカの福音書』のことを改めて思い巡らす機会がありましたから、『ルカの福音書』がどのような書であるかをこの教会の皆さんと分かち合いたくなりました。

 『ルカの福音書』は「福音書」ですから、イエス・キリストの生涯を記した書です。その点では、『マタイの福音書』と『マルコの福音書』と良く似ていますが(ちなみに『ヨハネの福音書』はぜんぜん別の書です。それはさておき)、『ルカの福音書』は他のマタイ・マルコの福音書とは際立った違いがあります。それは『ルカの福音書』には『使徒の働き』という続編があることです。『ルカの福音書』も『使徒の働き』もどちらもルカが書いたものです。『ルカの福音書』の最後の部分と『使徒の働き』の最初の部分を読めば分かるように、この二つの書はつながっています。

 新約聖書では間に『ヨハネの福音書』が挟まっていますから二つの書がつながっていることが分かりにくくなっていますが、二つはつながっていて、『使徒の働き』を無視して『ルカの福音書』を読むことはできませんし、『ルカの福音書』を無視して『使徒の働き』を読むことはできません。二つは一つの書の前半と後半です。

 きょうは、そういう観点から、『ルカの福音書』の13章6節から9節までに目を留めたいと思います。きょうは次の四つのパートに分けて話を進めて行きます。

 ①聖霊の肥料を与えるイエス
 ②主人はいつから楽しみにしていたのか?
 ③私たちも楽しみにされていた
 ④世界のために祈れる幸せ

①聖霊の肥料を与えるイエス
 では、今日の箇所を最初から見て行きましょう。まず6節、

6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。

 まず覚えておきたいことは、これは「たとえ話」であるということです。本当にあった話ではありません。イエスさまは多くの「たとえ話」を語られました。イエスさまは何を伝えたくて「たとえ話」をしたのか。分かりづらいものが多いですが、分かりづらい分、長く思い巡らすことになります。その思い巡らしの時間はイエスさまとの交わりの時でもあります。ですから、それは楽しい時とも言えると思います。皆さんもぜひ、イエスさまの例え話について思い巡らすことでイエスさまとの交わりを楽しんでいただきたいと思います。

 さて、ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておきました。「ある人」というのは、ぶどう園の主人ですね。ぶどう園の主人と言えば、神様のことです。神様はいちじくの木が豊かに実を付けるのを楽しみにしていました。

 いちじくの木というのはイスラエル人のことでしょう。ですからいちじくの木が実を豊かに結ぶこととはイスラエル人の信仰が豊かに実を結ぶことと考えて良いでしょう。しかし、このいちじくの木はなかなか実を結びませんでした。続いて7節、

7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』

 「番人」というのはイエスさまのことですね。イエスさまは主人である神様に答えました。8節と9節、

8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 イエスさまは「木の周りを掘って、肥料をやってみます」と神様に言いました。この「肥料」とは何でしょうか。ここで、『ルカの福音書』と『使徒の働き』とが一つながりの書であることを思い出しましょう。すると、「肥料」とは「聖霊」のことであると思い至ります。そして「実を結ぶ」とは「御霊の実を結ぶ」ことであると解釈したいと思います。

 パウロはガラテヤ人への手紙で「御霊の実」について書きました(週報p.2)。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙5章22~23節)

 まことの信仰とは、こういう「愛、喜び、平安」などが心の中に結実することなんですね。形だけ神様を礼拝していても、心の中に愛や喜びや平安が無いのなら、それを信仰とは呼べないでしょう。

 ぶどう園の主人はイスラエル人たちに「愛、喜び、平安」を持つ信仰者へと育って欲しいと願い、楽しみにしていましたが、なかなかそうはなりませんでした。やはり、そのような信仰者へと成長するためには御霊、すなわち聖霊が私たちの中に入っていただかないと不可能なことです。聖霊は私たちが信仰の実が豊かに結ぶための肥料です。

②主人はいつから楽しみにしていたのか?
 さて、それでは、ぶどう園の主人はこのような実が結ぶことを、いつから楽しみにしていたのでしょうか?きょうのメッセージのタイトルは「主人はいつから楽しみにしていたのか?」としましたが、次にこのことを考えてみたいと思います。

 7節には主人のことばとして「見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない」とあります。ですから文字通り三年間楽しみにしていたと考えても良いでしょう。しかし、これは「例え話」ですから、必ずしも文字通りに「三年間」と考えなくても良いと思います。私自身は、神様はモーセを通してイスラエル人たちに律法を授けた時から楽しみにしていたと考えます。つまりイエスさまの時代から1000年以上も前、およそ1400年も前から(モーセの年代については、いくつかの説があります)、ずっと楽しみにしていたと解釈したいと思います。

 なぜなら神様は憐れみ深く忍耐強いお方だからです。たった三年でイスラエル人を見捨てるようなお方ではありません。イスラエル人は何度も何度も神様に背きました。その都度神様は怒り、一部の者たちを滅ぼしましたが、決してすべての者たちを滅ぼし尽くすことはなさいませんでした。憐れみ深い神様は忍耐強く、イスラエル人たちが神様に立ち返ることを楽しみに待ち続けました。

 しかし、結局のところ聖霊の肥料が与えられなければ人が信仰の実を結ぶことは不可能なのですね。それゆえ神様はひとり子のイエスさまを地上に送りました。イエスさまは人々の罪を赦すための宥めのささげ物となって十字架に付いて死にました。そうして三日目によみがえった後に天に帰り、天の父である神様と共に地上の私たちに聖霊の肥料を与えて下さるようになりました。

③私たちも楽しみにされていた
 いま私は、イエスさまは「天の父である神様と共に地上の『私たちに』聖霊の肥料を与えて下さるようになりました」と言いました。つまり、この「たとえ話」はモーセの時代に遡るだけでなく、現代の21世紀の「私たちの時代」にも及ぶということです。『ルカの福音書』は『使徒の働き』と一つながりになっていて、『使徒の働き』は現代の21世紀にまでつながっていますから、この『ルカの福音書』もまた私たちの時代につながっています。

 すると、もう一つの読み方もできることに気付きます。もう一度、7節をお読みします。

7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』

 この三年間を、今度は私たち一人一人が生まれてから教会に導かれるまでの年月と考えてみたいと思います。私の場合は教会に導かれたのは41歳の時です。そうして42歳の時に洗礼を受けました。神様は40年以上も忍耐強く私が信仰に導かれるのを待っておられました。

 先月、私は60歳になりました。先週は「ハッピーバースデイ」の歌を歌って下さり、どうも大変ありがとうございました。60歳の還暦を迎えた週に、私は生まれた頃の写真が貼ってあるアルバムをしみじみと眺める時を持ちました。そして、両親が私の子供の頃の写真をたくさん残してくれたことを改めて感謝に思いました。その写真を眺めていると、子供の頃の私がいかに家族の深い愛の中で育てられていたかということが良く分かり、本当に感謝に思いました。

 そうして、今日のこのメッセージの準備をする中で、神様も私のことを深く愛していて下さり、私が生まれた時からずっと、私が教会に導かれて信仰の実を結ぶのを楽しみにしておられたことを感じました。しかし、私は40年間、教会とは無関係に過ごしました。私の中で信仰の実を結ぶことを楽しみに待っていた神様はどんなにがっかりしていたことでしょうか。

 そうして、とうとう我慢の限界が来たのかもしれません。ぶどう園の番人であるイエスさまに「切り倒してしまいなさい」と言ったかどうかは知りませんが、私は不思議なように導かれて川崎市の高津区にある高津教会の玄関に入り、礼拝に出席しました。そうしてイエスさまは私の周りを掘って、聖霊の肥料を施すための準備をして下さいました。

 イエスさまを信じてからの私は聖霊の肥料をたくさんいただいています。しかし私の中で「御霊の実」がどれだけ結ばれているかというと、まだまだと思いますから、イエスさまは今でも私に聖霊の肥料をせっせと与え続けて下さっています。

 この教会に集っている皆さんのお一人お一人にもイエスさまは皆さんの周りを掘って耕して下さり、そうしてイエスさまを信じた方にはイエスさまが聖霊の肥料を与えて下さっています。

④世界のために祈れる幸せ
 信仰で最も大切なことは私たち一人一人がイエスさまとの個人的な関係を築くことです。だとすれば、『ルカの福音書』からわざわざモーセの時代のことまでを読み取る必要なんか無いのではないか、と思う方もいるかもしれません。二千年前のイエスさまの時代さえ分かれば、そこからさらに千年以上も前のモーセの時代に遡る必要など無いのではないかと疑問に思う方もいるかもしれません。

 それに対して私はこう考えます。モーセの時代からイエスさまの時代に至る過程を知らなければ、私たちがいかに神様から離れ背きやすい性質を持っているかが分からないでしょう。イスラエルの民は何度も何度も神様に背きました。そんなイスラエルの民に対して神様は忍耐強く接して、滅ぼし尽くすことはなさいませんでした。そうして、その背きの罪をひとり子のイエスさまにすべて負わせました。イエスさまは人々の罪を一身に背負って十字架に付き、死んで葬られました。

 そのイスラエルの民と同じくらいに私たちもまた何度も何度も神様に背いて来ました。人によって程度は違うと思いますが、私の場合は本当に数え切れないぐらい神様に背いて来ました。そうして私をイエスさまのもとに導こうとして下さった方々を悲しませて来ました。そんな私に対してもイエスさまは私を教会に導いて下さり、私の周りを掘って耕して下さり、そうして聖霊の肥料を施して下さいました。私自身がいかに神様から背きやすい性質を持っているかは旧約聖書を読まなければ知ることはできませんでした。

 また、現代では世界規模で起きている大きな事件や事故をテレビや携帯電話を通じて瞬時に知ることができるようになりました。神様は世界中の人々を慰め励まし、救うことができるお方です。ですから私たちは、遠く離れた場所にいる方々のためにも神様にお祈りすることができます。私たちが住んでいる地域のためにも祈りますが、世界のためにも祈ります。神様が世界を支配していることは旧約聖書を読まなければ分からないことです。

 私たちが祈る聖書の神様はそのような大きなお方であることを、多くの方々に知っていただきたいと思います。この地域の神々や分業制の八百万の神々に祈るだけでは世界のために祈ることはできません。世界で起きていることは静岡にいる私たちにも影響しますから、静岡の私たちは世界のためにお祈りしたいと思います。世界のために祈ることができる神様がいて下さることは素晴らしいことです。

 神様がいかに大きな存在であるかは新約聖書を読んでいるだけではなかなか分かりません。旧約聖書を読み、思いを巡らすことで、神様の大きさが分かるようになります。そして、神様が大きな存在であることを知るなら、きょうの『ルカの福音書』の箇所を読む時にも、モーセの時代や21世紀の現代にも思いが及ぶようになるでしょう。

おわりに
 先ほども言いましたが、信仰において最も大切なことはイエスさまと個人的な関係を築くことです。そのイエスさまは素晴らしく大きなお方ですから、是非その大きさにも思いを巡らしたいと思います。

 世界は祈りを必要としていますから、私たちは個人のため、家族のため、地域のために祈りつつ、世界のためにも祈って行きたいと思います。テレビや携帯電話によって一人一人が世界と密接につながっている現代においては、私たちは世界のためにもお祈りする者たちでありたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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