インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

平和のために祈る:御国が来ますように(2018.8.5 礼拝)

2018-08-08 06:26:33 | 礼拝メッセージ
2018年8月5日礼拝メッセージ
『平和のために祈る:御国が来ますように』
【マタイ6:9~10、黙示録21:1~4】

はじめに
 8月に入り、8月1日の祈り会から戦争と平和について考えることを始めています。
 皆さんは、今年の2018年のカレンダーの曜日の巡りが終戦の年の1945年と同じであることをご存知だったでしょうか。きょう8月5日が日曜日なので広島に原爆が投下された8月6日は月曜日でした。そして実は9.11が起きた2001年もまた今年と同じカレンダーです。つまり1945年と2001年は同じカレンダーです。
 1945年に初めて、戦争において原爆という核兵器が使用されたことは、戦争の歴史の中では一つの大きな節目になったと思います。そして2001年の9月11日に起きた同時多発テロもまた戦争の歴史の中では大きな節目となったと言えるでしょう。それまで戦争と言えば多くは、国対国、或いは民族対民族の対決でした。しかし、2001年以降、国際テロ組織が国家と対決するという新しい形態が鮮明になったと思います。この2001年と1945年のカレンダーの曜日の巡りが同じであることに私は不思議なつながりを感じます。
 そして私は、2001年の8月12日に私は初めて高津教会を訪れて、その年の12月23日のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。これらのことを考えると、やはり私は平和のために働くべく召し出されたことを感じないわけには行きません。
 この平和のための働きは私の個人的な使命ですが、私は世界が平和に向かうには多くの人々がもっと聖書の理解を深める必要があると考えています。聖書の理解がもっと深まるなら、誰でも今よりももっとずっと深い平安の恵みがいただけます。ですから私は皆さんとご一緒に聖書の理解を深めて、深い平安の恵みを多くの皆さんと分かち合って行きたいと願っています。

『夕凪の街 桜の国 2018』
 さて明日の8月6日は例年と同じように朝の8時から8時35分頃まで広島の平和公園で行われる式典のテレビ中継があり、8時15分からは1分間の黙祷が捧げられます。そして、夜にはNHKの広島放送局が製作したテレビドラマの放映があります。今年のドラマのタイトルは『夕凪の街 桜の国2018』です。原作の『夕凪の街 桜の国』は、昨年私が出した本の中でも紹介させていただきました。前半の『夕凪の街』の時代設定は昭和30年、つまり原爆が投下されてから10年後の1955年です。そして、後半の『桜の国』の時代設定は、この原作の漫画が書かれた頃の平成16年、すなわち2004年が中心です。今回の『夕凪の街 桜の国2018』も前半の『夕凪の街』は原作と同じ昭和30年(1955年)であるようですが、後半の『桜の国』が現代の平成30年(2018年)になっているということです。原作の味を残しながらも細部ではかなり違う脚本になっているようですから、どんなドラマになっているのか、私はとても楽しみにしています。
 前半の『夕凪の街』のヒロインは平野皆実という被爆者で、彼女は原爆投下の10年後の昭和30年に原爆症を発症して亡くなります。原爆は投下直後に多くの人々の命を奪っただけでなく、その後も何年も何十年にもわたって放射線障害や原爆症の発症の恐怖で被爆者を苦しめています。また、そのために被爆者は結婚相手としても敬遠されるという苦しみも受けました。さらに、『桜の国』の登場人物たちがそうなのですが、被爆2世たちも何らかの障害を持っているのではないかという世間の偏見のゆえに苦しむことになります。このような悪魔の兵器である核兵器は国際的に禁止して廃棄すべきです。しかし、核保有国の思惑によって核兵器の廃絶にはなかなか向かって行きません。ただし、そのような中でも不幸中の幸いは、戦争での核兵器使用は長崎が最後であることです。これは世界中で多くの祈りが積まれていることの成果であろうと思います。二度と核兵器が使用されないように、そして平和が実現するように世界中で多くの祈りが積まれています。

「平和」が3回使われている詩篇122篇
 平和のために私たちもまた祈り続けて行きたいと思います。きょうの聖書交読では詩篇の122篇をご一緒に読みました。この詩篇は150ある詩篇の中で私が最も好きな詩篇です。
 詩篇122篇6節、

122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 7節、

122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」

 8節、

122:8 私の兄弟友のためにさあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」

というように、詩篇122篇では「平和」ということばが3回使われています。以外なことに、詩篇では「平和」ということばは、あまり使われていません。その中にあって122篇では3回使われていて、これが150ある詩篇の中では最も多く使われています。そういうわけで私は詩篇122篇が最も好きな詩篇です。

究極の平和
 そして、きょうの聖書箇所はマタイ6章と黙示録21章としました。この聖書箇所は最近の私の中ではとても心に通っている箇所で、既に何度か開いていますが、きょうもまた、この箇所を開きたいと思います。この黙示録21章、そして22章にあるような御国が来ることが究極の平和です。単純に「平和になりますように」と祈るよりも、この究極の平和を目標にして祈るのが良いのではないかと私は感じています。しかも、マタイ6:10の「御国が来ますように」は主ご自身が「あなたがたはこう祈りなさい」とおっしゃった主の祈りの一部ですから、よけいに平和のための祈りとしてふさわしいと感じます。既に何度かご一緒に学んでいる箇所ですが、きょう改めて平和のための祈りという観点から、もう一度ご一緒に学んでみたいと思います。
 まず黙示録21章の1節と2節、

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 ここには、ヨハネが幻で見た新しい天と新しい地の光景が記されています。この新しい天と新しい地がもたらされる時、究極の平和が訪れます。この時、2節にあるように聖なる都、新しいエルサレムが天から降って来ます。つまり、御国が来ます。続いて3節、

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。これが御国です。御国が来る前から神様は私たちと共におられますが、天の御国が地上に降って来るのですから、もっとハッキリとした形で神様が私たちと共におられることがわかります。この時、究極の平和が訪れます。4節、

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この4節は、これこそが正に究極の平和であることをよく示しています。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。戦争によって、どれほど多くの涙が流されたことでしょうか。また、戦争によってどれほど多くの死があり、悲しみがあり、叫び声があり、苦しみがあったことでしょうか。御国が来るなら、死も悲しみも叫び声も、苦しみもすべて無くなります。
 少し飛ばして22節をお読みまします。

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。

 これは本当に素晴らしい光景です。この御国が来て、究極の平和が実現するよう、お祈りしたいと思います。この御国には異邦人の私たちも、もちろん入ることができます。しかし、子羊のいのちの書に記されていない者は、この御国に入ることはできません。少し飛ばして27節、

21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

黙示録22章の深い平安
 そして、黙示録22章も見ることにしましょう。22章の1節から5節までを交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 黙示録21章もそうでしたが、この22章の記述からも究極の平和が感じられ、心の深い平安が得られますから感謝に思います。私たちは多くの方々と、この深い平安を分かち合うことができるように働いて行きたいと思います。

深い平安を得ることの重要性
 私はこの深い平安を得ることの重要性を、今年はいつもの年と違った形で感じています。例年ですと、私は8月になる前の6月、7月から、今年も8月が近づいていることを感じて、自然と平和の祈りへと導かれていました。しかし、今年は8月になるまで、その平和の祈りへの導きを感じることができないでいました。そして8月1日の早朝になって、ようやくこ8月だから平和のために祈らなければならないと導かれました。
 どうしてかと考えると、それはどうやら私自身の心の平安の度合いが例年よりも深くないからのようです。それは今の私たちの教会が抱える問題によるのでしょう。それでも依然として私の心の中には平安があります。しかし、どうも例年と比べると深さが十分ではないようです。深い平安の中にどっぷり・どっしりと浸っているというよりは、どこに漂着するのか分からない漂流の不安を少し感じます。そういう中にいると平和への祈りも深まらないのだなということを改めて教えられています。
 だからこそ、平和が実現するためには、私たちの一人一人が深い平安の中にどっぷりと浸る必要があるのだと今年私は教えられています。世界中の多くの人々が毎日を不安の中で過ごしているとしたら、平和に向かって行くことは絶望的に難しいことです。
 ルカの福音書のイエスさまはパリサイ人たちに対して、週報p.3に載せたように言いました。

17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 究極の平和をもたらす神の国が私たちのただ中にあるのなら、多くの人々の心が深い平安で満たされない限り、「御国が来ますように」の成就は難しいだろうと思います。

おわりに
 最後にヨハネの福音書を2箇所開いて終わることにしたいと思います。まず、ヨハネ7章37節から39節までを交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 38節の生ける水の川は、黙示録22章1節のいのちの水の川を連想させます。この生ける水の川、そしていのちの水の川が私たちの内に入る時、私たちの内には大きな平安が与えられます。

 もう一箇所、ヨハネ14章の26節と27節を交代で読みましょう。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 聖霊を受けることで私たちには平安が与えられます。しかし、教会の問題や日常の様々な問題で私たちは心を騒がせたりしてしまいます。そのようなことなく、まず私たちはイエスさまの平安の中にどっぷりと浸って、そうして「御国が来ますように」と祈る者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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