2016年6月29日祈り会メッセージ
『主の平安を分かち合うために』
【詩篇23:1~6】
はじめに
教会の会堂の外観がきれいになったことで、私たちは心を新たにして教会の働きに取り組みたいと願っています。その意味で、先日の聖日の午後の幹事会では、良い話し合いの時が持てたと私は感じています。中でも、第三聖日の午後の聖書を読む会の今後の持ち方についての話し合いは、とても良かったと思います。
マルコの福音書の学びが終わったら次はどうするか、このことは1年ぐらい前から考え始めていました。今は手引きとなる本を使用していますから、やはり何か本を用いるのが良いだろうと思って、候補を考えていましたが、「これは」という本がなかなか思い浮かばないでいました。しかし、結果的に次の本が決まらないでいたことは良かったと思いました。今の会堂がきれいになり、次の礼拝堂の建設を目指している今、今後の伝道をどうして行くか、あるいはまたCS教師を育てて行くことについて、じっくり考えて話し合う時間に充てましょうということになり、良かったと思います。
「詩篇がわからない」についての思い巡らし
先日の日曜日の話し合いで特に参考になったのは、「詩篇がよくわからない」というA姉の発言でした。創世記の物語などはわかるけれど、詩篇がわからないということでした。きょうの祈り会では、このことに少し思いを巡らせてみたいと思います。A姉に限らず、詩篇がわからない人は他にもいるでしょう。一人一人でわからないポイントは違うかもしれませんが、それらについて思いを巡らすことは、私たちが聖書の恵みを分かち合う上で、良い助けになるだろうと思います。
このA姉の「詩篇がわからない」という発言を聞いたとき、それはA姉の個性だろうかと私は最初のうちは思っていました。しかし、今朝改めてこのことを考えていた時、もしかしたらそれは年齢のせいかもしれないと思いました。A姉の場合は、わかりませんが、他の人の場合には年齢のせいで詩篇がわからないということもありそうだと思いました。
例えば今日の聖書箇所に選んだ詩篇23篇から受ける平安の恵みは、まだ親の庇護の内にいる若い人には、なかなか分かりづらいだろうと思います。この詩篇23篇は、ダビデが様々な苦難を経験する中で、主がいつも守っていて下さったことに感謝して賛美している賛歌です。ですから「ダビデの賛歌」となっています。私たちが幼い頃、私たちの親は私たちのことを守っていてくれました。しかし、幼い頃はそのことを当然のことと思い、親が守っていてくれているという意識もなく、従って感謝の気持ちも特には持っていなかったと思います。親には感謝しなければならないということを学校で教えられて、そういうものかとは思いましたが、心の底から感謝していたかというと私の場合は子供の頃には、特に感謝には思っていませんでした。そのように親が守っていてくれていることに感謝の気持ちが湧かない間は、神様が守って下さっていることへの感謝の気持ちもまた、湧きにくいことでしょう。
人それぞれで育った環境が違いますから、自分が守られていたことに気付く年齢もまた人それぞれだと思いますが、私の場合はだいぶ遅かったと思います。私は大学では学部だけでなく大学院にも5年間行かせてもらいましたから、自分で給料をもらうようになったのは、30近くになってからでした。しかも、就職も大学でしたから、学生から教員に立場が変わったとは言え、居場所は相変わらず大学の研究室でしたから、学生気分がなかなか抜けずにいて、親への感謝の気持ちが湧いて来たのは、大学に就職してだいぶ経ってからのことでした。
そうして次第に親への感謝の気持ちは感じるようになっても、研究室の教授への感謝の気持ちが湧くようになったのは、さらにもっと後になってからでした。大学の助手として働き始めた時、研究室には研究費が潤沢にありましたから、資金面では何の苦労もなく研究をさせてもらうことができました。研究の中身ではもちろん様々な苦労がありましたが、研究費のことで苦労することはありませんでした。しかし、後になって自分で研究室を持ってからは、研究費を獲得することがいかに大変かを思い知らされました。それで、自分は教授に資金面でも守られながら研究者として育てられていたのだということを知り、本当に感謝に思うようになりました。しかし研究資金のことで本当に苦労したのは、その教授が亡くなった後のことですから、私が好き勝手なことを言っていたことを大目に見て下さった教授には感謝すると共に申し訳なく思っています。
そういうわけで天の神様が守って下さり、平安を与えて下さっていることに感謝し、賛美するダビデの詩篇の良さは、そういう苦労をある程度経験しないと、なかなか理解できないかもしれません。しかし、たとえ苦労していても肩書きがある間は、まだまだ肩書きに守られているということもあります。私は8年前に大学を辞めた時につくづく思いましたが、自分は大学教員という肩書きを心の拠り所にしていたなと思いました。自分ではそんなつもりはなくても、大学を辞めた時、自分は肩書きをかなりの部分で心の拠り所にしていたと感じました。多くの教会で男性よりも女性の比率が高いのは、男性が肩書きを心の拠り所にしているからなのかもしれません。肩書きに守ってもらっている間は神様が守って下さっていることに気付きにくいのではないかと思います。
そんな風に思いを巡らしていたら、詩篇をわからないと感じていたのはA姉だけでなく、大学に勤めていた頃の私もまた、詩篇のことをほとんど分かっていなかったことに気付きました。ですから、詩篇がわからなかったとしても、それほど気にする必要はないのかもしれません。聖書の他の書で共感できる書があれば、それで構わないのではないかと思います。
時間の超越がもたらす心の平安
では、詩篇から恵みが得られない人は、聖書のどのような書から恵みを得たら良いのでしょうか。A姉のお母さんが発言していましたが、A姉は創世記のような物語ならわかるということでした。それは聖書の物語の中に入り込むことができるということだと思います。この聖書の物語の中に入り込むことは、とても重要なことだと思います。聖書の物語の中に入り込むとは、時間を越えるということです。この時間を越えるということが、心に大きな平安をもたらします。私自身の課題としては、この時間を越えるとは、どういうことかということについて、もっとわかりやすく発信できるようになることだと感じています。
人の霊性について評価する時も、その人がどれだけ時間を越えることができるかということが重要な尺度になると私は考えています。いろいろな人と会話していると、この人は霊的に深いとか浅いとかを、何となく感じるものです。本人がそれを意識しているか意識していないかには関係なく、その人から霊的に深いものを感じる時には、その人が時間を超越していることを何となく私は感じるように思います。しかし、私が調べた限りでは、霊性を時間の観点から論じた本は見当たりません。アリスター・マクグラスという現代の有名な神学者が書いた霊性に関する入門書の『キリスト教の霊性』という本がありますが、この本の中にも時間の観点から霊性を論じた文章は見当たりません。ですから霊性と時間論との関係はまだ全く未開拓の分野であると言えます。それだけに私は、キリスト教の将来には希望を感じています。私たちは肉的には時間を越えることができませんが、霊的には時間を越えることができます。そして、霊的に時間を越えることは心に素晴らしい平安をもたらします。このことを、あまり難しくなく人々に伝えることができるようになるなら、多くの方々が心の平安を得て、世の中が平和に向かって行くという希望を私は持っています。
そのための第一歩として私は、私自身の課題として、教会の説教を聴いて下さる会衆の皆さんに、どうしたら聖書の物語の中に入り込んでいただくことができるかを、もっと研鑽を積まなければならないと思わされています。
証しの機会を増やそう
そして、私たちはもっと互いに証しを語り合い、聞き合うことをしたほうが良いと思いますから、教会の皆さんには、そのためのアイデアをもっと出していただくのが良いかなと考え始めています。私たちの一人一人がどのような時に神様を感じて平安を感じるか、私たちはもっと証しをし合う必要があるのではないかと感じています。祈祷会の司会を務めて下さっている兄弟姉妹方からは、いつも聞くことができていますが、それは、この祈祷会の中で閉じてしまっています。ですから、祈祷会に出席できない礼拝のメンバーも含めて、自分がどんな時に神様を感じて心の平安を感じているか、もっと証しをし合うことができればと思います。救いの証しも良いですが、救われてからも様々な形で神様を感じた場面があると思います。それらを分かち合うことで、神様が時間を越えて働かれる方であることを、感じ合うことがもっとできるようになるのではないかと思います。
おわりに
今はまだ考え始めたばかりですから、きょうはこの程度ですが、これから私たちが進むべき方向について、これからもお互いに考えて行くことができたらと思います。
お祈りいたしましょう。
『主の平安を分かち合うために』
【詩篇23:1~6】
はじめに
教会の会堂の外観がきれいになったことで、私たちは心を新たにして教会の働きに取り組みたいと願っています。その意味で、先日の聖日の午後の幹事会では、良い話し合いの時が持てたと私は感じています。中でも、第三聖日の午後の聖書を読む会の今後の持ち方についての話し合いは、とても良かったと思います。
マルコの福音書の学びが終わったら次はどうするか、このことは1年ぐらい前から考え始めていました。今は手引きとなる本を使用していますから、やはり何か本を用いるのが良いだろうと思って、候補を考えていましたが、「これは」という本がなかなか思い浮かばないでいました。しかし、結果的に次の本が決まらないでいたことは良かったと思いました。今の会堂がきれいになり、次の礼拝堂の建設を目指している今、今後の伝道をどうして行くか、あるいはまたCS教師を育てて行くことについて、じっくり考えて話し合う時間に充てましょうということになり、良かったと思います。
「詩篇がわからない」についての思い巡らし
先日の日曜日の話し合いで特に参考になったのは、「詩篇がよくわからない」というA姉の発言でした。創世記の物語などはわかるけれど、詩篇がわからないということでした。きょうの祈り会では、このことに少し思いを巡らせてみたいと思います。A姉に限らず、詩篇がわからない人は他にもいるでしょう。一人一人でわからないポイントは違うかもしれませんが、それらについて思いを巡らすことは、私たちが聖書の恵みを分かち合う上で、良い助けになるだろうと思います。
このA姉の「詩篇がわからない」という発言を聞いたとき、それはA姉の個性だろうかと私は最初のうちは思っていました。しかし、今朝改めてこのことを考えていた時、もしかしたらそれは年齢のせいかもしれないと思いました。A姉の場合は、わかりませんが、他の人の場合には年齢のせいで詩篇がわからないということもありそうだと思いました。
例えば今日の聖書箇所に選んだ詩篇23篇から受ける平安の恵みは、まだ親の庇護の内にいる若い人には、なかなか分かりづらいだろうと思います。この詩篇23篇は、ダビデが様々な苦難を経験する中で、主がいつも守っていて下さったことに感謝して賛美している賛歌です。ですから「ダビデの賛歌」となっています。私たちが幼い頃、私たちの親は私たちのことを守っていてくれました。しかし、幼い頃はそのことを当然のことと思い、親が守っていてくれているという意識もなく、従って感謝の気持ちも特には持っていなかったと思います。親には感謝しなければならないということを学校で教えられて、そういうものかとは思いましたが、心の底から感謝していたかというと私の場合は子供の頃には、特に感謝には思っていませんでした。そのように親が守っていてくれていることに感謝の気持ちが湧かない間は、神様が守って下さっていることへの感謝の気持ちもまた、湧きにくいことでしょう。
人それぞれで育った環境が違いますから、自分が守られていたことに気付く年齢もまた人それぞれだと思いますが、私の場合はだいぶ遅かったと思います。私は大学では学部だけでなく大学院にも5年間行かせてもらいましたから、自分で給料をもらうようになったのは、30近くになってからでした。しかも、就職も大学でしたから、学生から教員に立場が変わったとは言え、居場所は相変わらず大学の研究室でしたから、学生気分がなかなか抜けずにいて、親への感謝の気持ちが湧いて来たのは、大学に就職してだいぶ経ってからのことでした。
そうして次第に親への感謝の気持ちは感じるようになっても、研究室の教授への感謝の気持ちが湧くようになったのは、さらにもっと後になってからでした。大学の助手として働き始めた時、研究室には研究費が潤沢にありましたから、資金面では何の苦労もなく研究をさせてもらうことができました。研究の中身ではもちろん様々な苦労がありましたが、研究費のことで苦労することはありませんでした。しかし、後になって自分で研究室を持ってからは、研究費を獲得することがいかに大変かを思い知らされました。それで、自分は教授に資金面でも守られながら研究者として育てられていたのだということを知り、本当に感謝に思うようになりました。しかし研究資金のことで本当に苦労したのは、その教授が亡くなった後のことですから、私が好き勝手なことを言っていたことを大目に見て下さった教授には感謝すると共に申し訳なく思っています。
そういうわけで天の神様が守って下さり、平安を与えて下さっていることに感謝し、賛美するダビデの詩篇の良さは、そういう苦労をある程度経験しないと、なかなか理解できないかもしれません。しかし、たとえ苦労していても肩書きがある間は、まだまだ肩書きに守られているということもあります。私は8年前に大学を辞めた時につくづく思いましたが、自分は大学教員という肩書きを心の拠り所にしていたなと思いました。自分ではそんなつもりはなくても、大学を辞めた時、自分は肩書きをかなりの部分で心の拠り所にしていたと感じました。多くの教会で男性よりも女性の比率が高いのは、男性が肩書きを心の拠り所にしているからなのかもしれません。肩書きに守ってもらっている間は神様が守って下さっていることに気付きにくいのではないかと思います。
そんな風に思いを巡らしていたら、詩篇をわからないと感じていたのはA姉だけでなく、大学に勤めていた頃の私もまた、詩篇のことをほとんど分かっていなかったことに気付きました。ですから、詩篇がわからなかったとしても、それほど気にする必要はないのかもしれません。聖書の他の書で共感できる書があれば、それで構わないのではないかと思います。
時間の超越がもたらす心の平安
では、詩篇から恵みが得られない人は、聖書のどのような書から恵みを得たら良いのでしょうか。A姉のお母さんが発言していましたが、A姉は創世記のような物語ならわかるということでした。それは聖書の物語の中に入り込むことができるということだと思います。この聖書の物語の中に入り込むことは、とても重要なことだと思います。聖書の物語の中に入り込むとは、時間を越えるということです。この時間を越えるということが、心に大きな平安をもたらします。私自身の課題としては、この時間を越えるとは、どういうことかということについて、もっとわかりやすく発信できるようになることだと感じています。
人の霊性について評価する時も、その人がどれだけ時間を越えることができるかということが重要な尺度になると私は考えています。いろいろな人と会話していると、この人は霊的に深いとか浅いとかを、何となく感じるものです。本人がそれを意識しているか意識していないかには関係なく、その人から霊的に深いものを感じる時には、その人が時間を超越していることを何となく私は感じるように思います。しかし、私が調べた限りでは、霊性を時間の観点から論じた本は見当たりません。アリスター・マクグラスという現代の有名な神学者が書いた霊性に関する入門書の『キリスト教の霊性』という本がありますが、この本の中にも時間の観点から霊性を論じた文章は見当たりません。ですから霊性と時間論との関係はまだ全く未開拓の分野であると言えます。それだけに私は、キリスト教の将来には希望を感じています。私たちは肉的には時間を越えることができませんが、霊的には時間を越えることができます。そして、霊的に時間を越えることは心に素晴らしい平安をもたらします。このことを、あまり難しくなく人々に伝えることができるようになるなら、多くの方々が心の平安を得て、世の中が平和に向かって行くという希望を私は持っています。
そのための第一歩として私は、私自身の課題として、教会の説教を聴いて下さる会衆の皆さんに、どうしたら聖書の物語の中に入り込んでいただくことができるかを、もっと研鑽を積まなければならないと思わされています。
証しの機会を増やそう
そして、私たちはもっと互いに証しを語り合い、聞き合うことをしたほうが良いと思いますから、教会の皆さんには、そのためのアイデアをもっと出していただくのが良いかなと考え始めています。私たちの一人一人がどのような時に神様を感じて平安を感じるか、私たちはもっと証しをし合う必要があるのではないかと感じています。祈祷会の司会を務めて下さっている兄弟姉妹方からは、いつも聞くことができていますが、それは、この祈祷会の中で閉じてしまっています。ですから、祈祷会に出席できない礼拝のメンバーも含めて、自分がどんな時に神様を感じて心の平安を感じているか、もっと証しをし合うことができればと思います。救いの証しも良いですが、救われてからも様々な形で神様を感じた場面があると思います。それらを分かち合うことで、神様が時間を越えて働かれる方であることを、感じ合うことがもっとできるようになるのではないかと思います。
おわりに
今はまだ考え始めたばかりですから、きょうはこの程度ですが、これから私たちが進むべき方向について、これからもお互いに考えて行くことができたらと思います。
お祈りいたしましょう。