平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

主の平安を分かち合うために

2016-06-30 08:48:05 | 祈り会メッセージ
2016年6月29日祈り会メッセージ
『主の平安を分かち合うために』
【詩篇23:1~6】

はじめに
 教会の会堂の外観がきれいになったことで、私たちは心を新たにして教会の働きに取り組みたいと願っています。その意味で、先日の聖日の午後の幹事会では、良い話し合いの時が持てたと私は感じています。中でも、第三聖日の午後の聖書を読む会の今後の持ち方についての話し合いは、とても良かったと思います。
 マルコの福音書の学びが終わったら次はどうするか、このことは1年ぐらい前から考え始めていました。今は手引きとなる本を使用していますから、やはり何か本を用いるのが良いだろうと思って、候補を考えていましたが、「これは」という本がなかなか思い浮かばないでいました。しかし、結果的に次の本が決まらないでいたことは良かったと思いました。今の会堂がきれいになり、次の礼拝堂の建設を目指している今、今後の伝道をどうして行くか、あるいはまたCS教師を育てて行くことについて、じっくり考えて話し合う時間に充てましょうということになり、良かったと思います。

「詩篇がわからない」についての思い巡らし
 先日の日曜日の話し合いで特に参考になったのは、「詩篇がよくわからない」というA姉の発言でした。創世記の物語などはわかるけれど、詩篇がわからないということでした。きょうの祈り会では、このことに少し思いを巡らせてみたいと思います。A姉に限らず、詩篇がわからない人は他にもいるでしょう。一人一人でわからないポイントは違うかもしれませんが、それらについて思いを巡らすことは、私たちが聖書の恵みを分かち合う上で、良い助けになるだろうと思います。
 このA姉の「詩篇がわからない」という発言を聞いたとき、それはA姉の個性だろうかと私は最初のうちは思っていました。しかし、今朝改めてこのことを考えていた時、もしかしたらそれは年齢のせいかもしれないと思いました。A姉の場合は、わかりませんが、他の人の場合には年齢のせいで詩篇がわからないということもありそうだと思いました。
 例えば今日の聖書箇所に選んだ詩篇23篇から受ける平安の恵みは、まだ親の庇護の内にいる若い人には、なかなか分かりづらいだろうと思います。この詩篇23篇は、ダビデが様々な苦難を経験する中で、主がいつも守っていて下さったことに感謝して賛美している賛歌です。ですから「ダビデの賛歌」となっています。私たちが幼い頃、私たちの親は私たちのことを守っていてくれました。しかし、幼い頃はそのことを当然のことと思い、親が守っていてくれているという意識もなく、従って感謝の気持ちも特には持っていなかったと思います。親には感謝しなければならないということを学校で教えられて、そういうものかとは思いましたが、心の底から感謝していたかというと私の場合は子供の頃には、特に感謝には思っていませんでした。そのように親が守っていてくれていることに感謝の気持ちが湧かない間は、神様が守って下さっていることへの感謝の気持ちもまた、湧きにくいことでしょう。
 人それぞれで育った環境が違いますから、自分が守られていたことに気付く年齢もまた人それぞれだと思いますが、私の場合はだいぶ遅かったと思います。私は大学では学部だけでなく大学院にも5年間行かせてもらいましたから、自分で給料をもらうようになったのは、30近くになってからでした。しかも、就職も大学でしたから、学生から教員に立場が変わったとは言え、居場所は相変わらず大学の研究室でしたから、学生気分がなかなか抜けずにいて、親への感謝の気持ちが湧いて来たのは、大学に就職してだいぶ経ってからのことでした。
 そうして次第に親への感謝の気持ちは感じるようになっても、研究室の教授への感謝の気持ちが湧くようになったのは、さらにもっと後になってからでした。大学の助手として働き始めた時、研究室には研究費が潤沢にありましたから、資金面では何の苦労もなく研究をさせてもらうことができました。研究の中身ではもちろん様々な苦労がありましたが、研究費のことで苦労することはありませんでした。しかし、後になって自分で研究室を持ってからは、研究費を獲得することがいかに大変かを思い知らされました。それで、自分は教授に資金面でも守られながら研究者として育てられていたのだということを知り、本当に感謝に思うようになりました。しかし研究資金のことで本当に苦労したのは、その教授が亡くなった後のことですから、私が好き勝手なことを言っていたことを大目に見て下さった教授には感謝すると共に申し訳なく思っています。
 そういうわけで天の神様が守って下さり、平安を与えて下さっていることに感謝し、賛美するダビデの詩篇の良さは、そういう苦労をある程度経験しないと、なかなか理解できないかもしれません。しかし、たとえ苦労していても肩書きがある間は、まだまだ肩書きに守られているということもあります。私は8年前に大学を辞めた時につくづく思いましたが、自分は大学教員という肩書きを心の拠り所にしていたなと思いました。自分ではそんなつもりはなくても、大学を辞めた時、自分は肩書きをかなりの部分で心の拠り所にしていたと感じました。多くの教会で男性よりも女性の比率が高いのは、男性が肩書きを心の拠り所にしているからなのかもしれません。肩書きに守ってもらっている間は神様が守って下さっていることに気付きにくいのではないかと思います。
 そんな風に思いを巡らしていたら、詩篇をわからないと感じていたのはA姉だけでなく、大学に勤めていた頃の私もまた、詩篇のことをほとんど分かっていなかったことに気付きました。ですから、詩篇がわからなかったとしても、それほど気にする必要はないのかもしれません。聖書の他の書で共感できる書があれば、それで構わないのではないかと思います。

時間の超越がもたらす心の平安
 では、詩篇から恵みが得られない人は、聖書のどのような書から恵みを得たら良いのでしょうか。A姉のお母さんが発言していましたが、A姉は創世記のような物語ならわかるということでした。それは聖書の物語の中に入り込むことができるということだと思います。この聖書の物語の中に入り込むことは、とても重要なことだと思います。聖書の物語の中に入り込むとは、時間を越えるということです。この時間を越えるということが、心に大きな平安をもたらします。私自身の課題としては、この時間を越えるとは、どういうことかということについて、もっとわかりやすく発信できるようになることだと感じています。
 人の霊性について評価する時も、その人がどれだけ時間を越えることができるかということが重要な尺度になると私は考えています。いろいろな人と会話していると、この人は霊的に深いとか浅いとかを、何となく感じるものです。本人がそれを意識しているか意識していないかには関係なく、その人から霊的に深いものを感じる時には、その人が時間を超越していることを何となく私は感じるように思います。しかし、私が調べた限りでは、霊性を時間の観点から論じた本は見当たりません。アリスター・マクグラスという現代の有名な神学者が書いた霊性に関する入門書の『キリスト教の霊性』という本がありますが、この本の中にも時間の観点から霊性を論じた文章は見当たりません。ですから霊性と時間論との関係はまだ全く未開拓の分野であると言えます。それだけに私は、キリスト教の将来には希望を感じています。私たちは肉的には時間を越えることができませんが、霊的には時間を越えることができます。そして、霊的に時間を越えることは心に素晴らしい平安をもたらします。このことを、あまり難しくなく人々に伝えることができるようになるなら、多くの方々が心の平安を得て、世の中が平和に向かって行くという希望を私は持っています。
 そのための第一歩として私は、私自身の課題として、教会の説教を聴いて下さる会衆の皆さんに、どうしたら聖書の物語の中に入り込んでいただくことができるかを、もっと研鑽を積まなければならないと思わされています。

証しの機会を増やそう
 そして、私たちはもっと互いに証しを語り合い、聞き合うことをしたほうが良いと思いますから、教会の皆さんには、そのためのアイデアをもっと出していただくのが良いかなと考え始めています。私たちの一人一人がどのような時に神様を感じて平安を感じるか、私たちはもっと証しをし合う必要があるのではないかと感じています。祈祷会の司会を務めて下さっている兄弟姉妹方からは、いつも聞くことができていますが、それは、この祈祷会の中で閉じてしまっています。ですから、祈祷会に出席できない礼拝のメンバーも含めて、自分がどんな時に神様を感じて心の平安を感じているか、もっと証しをし合うことができればと思います。救いの証しも良いですが、救われてからも様々な形で神様を感じた場面があると思います。それらを分かち合うことで、神様が時間を越えて働かれる方であることを、感じ合うことがもっとできるようになるのではないかと思います。

おわりに
 今はまだ考え始めたばかりですから、きょうはこの程度ですが、これから私たちが進むべき方向について、これからもお互いに考えて行くことができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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修繕工事が完了

2016-06-28 17:51:45 | 折々のつぶやき
 修繕工事が完了しました。
 お祈りに感謝いたします。

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弟子たちの働きの学び(2016.6.26 礼拝)

2016-06-27 09:53:30 | 礼拝メッセージ
2016年6月26日礼拝メッセージ
『弟子たちの働きの学び』
【使徒1:1~8】

はじめに
 先聖日は、ソロモンの神殿が完成した時の記事を開きました。ソロモンはイスラエルの長老たちをエルサレムに招集し、これらイスラエル人たちが見守る中、神の箱が幕屋を出て至聖所に運び入れられました。そして、ソロモンは天の神に向かって祈りを捧げました。先週まで4月の末から何週間かに亘って、歴代誌の第一と第二からソロモンの神殿について学んで来ました。この学びは先週までで一段落させて、今週からは新しい学びを始めたいと思います。
 先週、ソロモンの神殿の学びを終えてから、次は何の学びをすべきか私は少々悩みました。聖書全体を見渡すと、ご一緒に学びたい箇所は色々と目に付きます。しかし、それらの多くは、「今」どうしても学ばなければならないというわけではないと感じました。いずれは学びたい箇所ですが、今である必要はない。しかし、今学ぶべき箇所がある筈です。それはどの記事だろうかというわけです。
 いま私たちは、隣の土地に新しい礼拝堂を建設することを願い、備えています。その中で現在のこの会堂の修繕を行い、この工事は玄関のペンキ塗りを残して、ほぼ完了しました。このように会堂という建物に関しては、私たちは着々と前進しています。それもこれも、すべて主がここまで導いて下さったことですから、私たちは御名を崇めて感謝します。しかし、ここに安住していてはなりません。私たちにとって一番大切なことは、きれいな会堂を手に入れることではなく、会堂の中でどのように主のために働くかということです。

霊に燃え、主に仕えた弟子たちに学ぶ
 パウロはローマ人への手紙の中で、ローマの教会の人々に「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ12:11)と書いて励ましました。私たちもまた勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えたいと思います。そのための手本として今週から新約聖書の使徒の働きを学ぶことにしたいと思います。使徒たちは正に勤勉で怠ることなく霊に燃え、主に仕えました。
 きょうの説教題は『弟子たちの働きの学び』としました。それは、使徒の働きに書かれていることは使徒たちの働きだけではなく、弟子たち全般の働きがたくさん書かれているからです。もちろん使徒のペテロやパウロの働きに関する記述が中心になっていますが、彼ら使徒たち以外にも、迫害によって死んだステパノやサマリヤ伝道をしたピリポ、パウロの伝道を助けたプリスカとアクラの夫妻のことなども色々と記されています。これらステパノやピリポ、プリスカとアクラなどは使徒ではありませんでしたが、霊に燃えて主に仕えた弟子たちでした。そして私たちもまた使徒ではありませんが、プリスカとアクラの夫妻のような弟子です。ですから、これから新約聖書の使徒の働きの学びを通じて、弟子たちがどのように霊に燃え、主に仕えたかを学んで行きたいと思います。
 この学びの期間が、だいたいどれくらいになるかについてですが、1つの章の学びに2週間掛けるとすると、使徒の働きは28章ありますから、単純計算で56回の学びということになり、1年以上の学びになります。また章によっては3週にわたることもあるかもしれません。或いはまた召天者記念礼拝や宣教聖日礼拝、クリスマス、イースターの時などは使徒の働き以外の箇所を開くと思いますから、1年半ぐらいの学びになるだろうかと思っています。すると2017年のクリスマスの前までということで、その頃には新会堂が完成していると良いですね、ということになります。

パウロの近くにいたルカ
 それでは、使徒の働きの学びに入って行きましょう。1章の1節と2節、

1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、
1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。

 この1節と2節の記述から、使徒の働きの記者はルカの福音書の記者のルカと同じであることがわかります。ルカは福音書も、この使徒の働きもテオピロに宛てて書いています。ルカの福音書の出だしも確認しておきましょう。ルカの福音書の1章をご一緒に見ましょう(新約聖書p.105)。1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 2 私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、
1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
1:4 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

 こうしてルカは福音書を書き、続いて使徒の働きを書きました。使徒の働きを見るとルカはパウロの伝道旅行に同行していることがわかります。たとえば使徒の働きの16章10節からを見て下さい(新約聖書p.261)。ここには、「私たち」という言葉が何度も出て来ます。わたしのほうで10節から13節までを読みますから、「私たち」に注意しながら目で追って下さい。使徒の働き16章の10節から13節までです。

16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
16:11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。
16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

 このようにルカはパウロの伝道旅行に同行していました。そしてパウロもまた手紙の中で、ルカが共にいたことを書き残しています。コロサイ人への手紙4章14節です(新約聖書p.395)。

4:14 愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

 ここからもルカがパウロと近い関係にあったことがわかります。この立場をルカは情報収集のために最大限に利用したことでしょう。そうしてルカは福音書ではイエスとイエスの周囲の人々について書き、使徒の働きでは使徒たちとその周囲の人々について書きました。

聖霊を受けるまでは分からない霊的な世界
 使徒の働き1章に戻ります。3節、

1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

 ここにはイエスさまが復活してから40日間、彼らに現れて神の国のことを語ったことが書かれています。ルカの福音書には24章に、この時のことが書かれています。先月の第三聖日の午後の聖書を読む会では、このルカの福音書の24章が開かれました。そして、クレオパともう一人の弟子がエルサレムからエマオに行く途上で、イエスさまに会った箇所を共に読みました。今でも私はよくわからないのですが、なぜルカはイエスさまがペテロやヨハネに現れた場面を書かないで、クレオパという他には登場しない弟子に現れたことを書いたのでしょうか。きっと特別な意味があるのだろうと思いますが、よくわかりません。誰か知っている方がいれば、ぜひ教えていただきたいと思います。
 続いて4節と5節、

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 イエスさまが復活してから50日目のペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受けました。今お読みした4節と5節は、そのことの予告です。ただ、その聖霊のバプテスマを弟子たちがいつ受けるかについては、イエスさまは言いませんでした。
 続いて6節、

1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

 この時点では、弟子たちは依然としてイエスさまがダビデのような地上の王であると思っていたことが、ここからわかります。やはり霊的な世界のことは、聖霊を受けるまではわからないのですね。

イエスの証人として働く
 7節と8節、

1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 8節は有名な箇所で、この礼拝のメッセージでも何度も引用しています。聖霊を受けた者は、イエスさまを証しする証人になります。ルカが書いた使徒の働きは、弟子たちがイエスさまの証人として、どのように働いたかを証ししている書であるとも言えるでしょう。
 そして私たちの教会の働きも、イエスさまを証しする証人としての働きです。私たちは家族や知り合い、そして地域の方々を教会にお連れして、自分がイエスさまと出会って、どんな素晴らしい恵みを受けたかということを証しします。
 私たちはそれぞれがイエスさまと出会ったことで素晴らしい恵みをいただいています。そのことを証ししますし、教会もまた素晴らしい恵みをいただいていますから、そのことも証しします。いま私たちは会堂問題のことで素晴らしい恵みをいただいています。最近では、教会の修繕のことで素晴らしい恵みをいただきました。以下のことは先週の水曜日の祈祷会でも話したことですが、この礼拝の場でもう一度、お証ししたいと思います。

 今回の修繕では、外壁が塗装されたことで教会の見映えが格段に良くなりました。しかし実は、この外壁の塗装に関しては、業者さんに修繕を依頼した当初は全く予定に入れていませんでした。それが不思議な導きによって、今回、外壁の塗装も行なうことになりました。
 修繕の工務店さんと最初にお会いした時にお願いしたことは、強風で破損した箇所の修繕と共に、穴が開いている屋根の軒天井の修繕と玄関ドアの交換、そして物置とバルコニーと十字架の撤去でした。そして工務店さんは私からの要望を一度会社に持ち帰り、何日か後で工務店さんが提案する修繕の見積書を持って来ました。その提案は屋根まわりに関しては、屋根の囲い(破風板・鼻隠し)と軒天井のすべてを新しいものに交換するというものでした。傷んだ箇所だけを新しくするのでは、古い箇所との違いが目立ってあまり見映えが良くならないであろうということでした。そして、屋根の囲い全体を交換するとなると、足場を建物の周囲の全体に組むことになります。それで工務店さんからは、この際、外壁の塗装も自前でやってしまったらどうですかという提案がありました。私が屋根の塗装を全部自分でやり直したことを知っていて、せっかく足場が組まれるのであれば、この足場を利用して外壁の塗装を自前でやれば安く済みますよということでした。
 この時まで私は外壁の塗装のことなど全く考えていませんでしたから、すぐには答えられませんでした。屋根の塗装の場合は、周囲から出来栄えが見えませんから、あまり仕上がりが良くなくても構わないのですが、外壁の塗装となると出来の良し悪しがすぐに目に付いてしまいます。それに、その時点では2階の雨戸の撤去も考えていませんでしたから、外壁を塗り直しても、雨戸が汚いままでは大して良くならないだろうと思いました。それでどうすべきか少々悩みましたが、教会の負担が100万円以内であれば、この際に出来る限りのことをしても良いのではないかというご意見もありましたし、A兄も少しでも安価にできるように工務店さんに頼んでみて下さるということでしたので、外壁の塗装をプロの塗装屋さんに頼むことにして、さらに2階の雨戸はすべて撤去して、暴風雨対策としては飛散防止フィルムを窓の内側から貼ることにしました。
 そうして今回、外観が以前と比べて格段にきれいになりました。当初は屋根まわりの修繕と玄関ドアの交換、そして物置やバルコニーの撤去だけしか考えていなかったのに、不思議な導きで教会の外側の全体が素晴らしくきれいになりましたから、本当に感謝に思っています。これらは皆、イエスさまが行われた御業だと私は思っています。なぜなら、そもそもの今回の修繕のきっかけになった、4月17日の強風による屋根の囲いの脱落のタイミングがあまりに良すぎたからです。偶然と言うには、あまりにもタイミングが良すぎましたから、このことの背後にはイエスさまがいると私は確信しています。そうして、なかなか腰が重くて出来ずにいた屋根周りの修繕や物置の撤去が一気に進み、しかも玄関のドアも交換されて外壁の塗装までもが為されました。本当に背後にイエスさまがいなければ、このようなことにはならなかっただろうと私は思いますし、皆さんもそのように思われるだろうと思います。

おわりに
 このように私たちは個人的にも教会としても素晴らしい恵みをいただいています。このイエスさまの素晴らしい恵みを家族や知人、そして地域の方々に証しして行きたいと思います。会堂の修繕がほぼ終わった今は、このことについて考える良い機会だと思います。ですから、きょうの午後の幹事会でも、これからどのようにイエスさまを証しして行ったら良いかを少し話し合ってみたいと思います。
 これからの伝道について、イエスさまが良い教え導きを与えて下さるよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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イエスの行われたしるし

2016-06-22 23:36:20 | 祈り会メッセージ
2016年6月22日祈り会メッセージ
『イエスの行われたしるし』
【ヨハネ2:23】

ヨハネ2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

はじめに
 会堂の修繕作業は外壁塗装と屋根の囲いの取り付けが終わり、足場もバラされて、あとは玄関部分の修繕を残すのみとなりました。その玄関の修繕も、きょうの午前に木材で玄関の屋根の下地が作られましたから、あとはここに板金をかぶせて、屋根の下の左右の両側の壁の塗装をするだけになりました。

当初の予定に無かった外壁塗装
 ご覧いただいたように、今回の修繕では、外壁が塗装されたことで教会の見映えが格段に良くなりました。しかし実は、この外壁の塗装に関しては、業者さんに修繕を依頼した当初は全く予定に入れていませんでした。それが不思議な導きによって、今回、外壁の塗装も行なうことになりました。
 修繕の業者さんと最初にお会いした時にお願いしたことは、強風で破損した箇所の修繕と共に、穴が開いている屋根の軒天井の修繕と玄関ドアの交換、そして物置とバルコニーと十字架の撤去でした。そして業者さんは私からの要望を一度会社に持ち帰り、何日か後で業者さんが提案する修繕の見積書を持って来ました。その提案は屋根まわりに関しては、屋根の囲い(破風板・鼻隠し)と軒天井のすべてを新しいものに交換するというものでした。傷んだ箇所だけを新しくするのでは、古い箇所との違いが目立ってあまり見映えが良くならないであろうということでした。そして、屋根の囲い全体を交換するとなると、足場を建物の周囲の全体に組むことになります。それで業者さんからは、この際、外壁の塗装も自前でやってしまったらどうですかという提案がありました。私が屋根の塗装を全部自分でやり直したことを知っていて、せっかく足場が組まれるのであれば、この足場を利用して外壁の塗装を自前でやれば安く済みますよということでした。
 この時まで私は外壁の塗装のことなど全く考えていませんでしたから、すぐには答えられませんでした。屋根の塗装の場合は、周囲から出来栄えが見えませんから、あまり仕上がりが良くなくても構わないのですが、外壁の塗装となると出来の良し悪しがすぐに目に付いてしまいます。それに、その時点では2階の雨戸の撤去も考えていませんでしたから、外壁を塗り直しても、雨戸が汚いままでは大して良くならないだろうと思いました。それでどうすべきか少々悩みましたが、教会の負担が100万円以内であれば、この際に出来る限りのことをしても良いのではないかというご意見もありましたし、A兄も少しでも安価にできるように業者さんに頼んでみて下さるということでしたので、外壁の塗装をプロの塗装屋さんに頼むことにして、さらに2階の雨戸はすべて撤去して、暴風雨対策としては飛散防止フィルムを窓の内側から貼ることにしました。

主の御業が現された修繕
 そうして今回、外観が以前と比べて格段にきれいになりました。当初は屋根まわりの修繕と玄関ドアの交換、そして物置やバルコニーの撤去だけしか考えていなかったのに、不思議な導きで教会の外側の全体が素晴らしくきれいになりましたから、本当に感謝に思っています。これらは皆、イエスさまが行われた御業だと私は思っています。なぜなら、そもそもの今回の修繕のきっかけになった、4月17日の強風による屋根の囲いの脱落のタイミングがあまりに良すぎたからです。偶然と言うには、あまりにもタイミングが良すぎましたから、背後に神様の働きがあったのだと私は確信しています。そうして、なかなか腰が重くて出来ずにいた屋根周りの修繕や物置の撤去が一気に進み、しかも玄関のドアも交換されて外壁の塗装までもが為されました。本当に神様の背後の働きが無ければ、このようなことにはならなかっただろうと私は思いますし、皆さんもそのように思われるだろうと思います。
 さて、そうして私たちが考えなければならないのは、この主の御業が行われたことを、地域の方々への伝道にどう結び付けて行ったら良いだろうかということです。もちろん、これはすぐに良いアイデアが出るというものではないと思います。しかし、是非今回の修繕のことを良いきっかけにしたいと思いますから、考えて行かなければならないと思います。
 きょうの聖書箇所のヨハネ2:23には、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」とあります。この多くの人々というのは、エルサレムの一般の市民です。そして、今、この地区の多くの通行人がきれいになった教会を見ながら、前を通って行きます。教会がきれいになったのは、イエスさまが行われた御業であることを私たちは感じています。しかし、一般の方々はこの背後に神様の働きがあるとは思っていないでしょう。ですから私は、この機会に是非とも、地域の方々に神様の働きに気付いていただくことができないだろうかと思っています。そのために教会として何かできるかについては、次の聖日の幹事会で少し話し合う時間が取れたらと思っています。

良き証しの機会
 さて、きょうの残りの時間では、私個人としては、どのように動いているか、或いはまたこれからどう動こうかと考えていることについて、少し述べてみたいと思います。
 先週の水曜日のことですが、私は出身教会の高津教会の祈祷会に出席しました。先週の水曜日の祈祷会は修繕作業の関係で、急遽お休みにすることに決めました。それで私は、水曜日に休めることは滅多にありませんから、この貴重な水曜日の休日をどう過ごそうかと考えて、高津教会の祈祷会に出席することにしました。私が高津教会の祈祷会に出席したのは8年ぶりでした。高津教会の「礼拝」には、おととしの交換講壇や神学院を卒業した時など、BTCに入学した以降も何度か出席していました。しかし、「祈祷会」のほうは本当に久し振りでした。この祈祷会出席は個人的に出席したくなったので参加しましたから、そこで沼津の会堂問題のために祈っていただくことは考えていませんでした。けれども藤本先生から沼津の祈祷課題を二つ挙げて下さいと言われましたので、今の修繕が無事に終わることと、隣の土地に最善の礼拝堂が与えられることの二つを挙げて、お祈りしていただくことができました。このことは、とても大きなことだったと思います。
 それから、来月の7月の第二土曜日には、またFM放送の「潮風の中で」の私の担当の順番が回って来ますので、今回はこの、4月17日の強風から始まった教会の会堂の修繕の話をしようと思っています。この背後に神様の働きがあることを、どういう形でお伝えしたら良いか、まだ考えはまとまっていませんが、是非、この機会を利用したいと思います。
 この「潮風の中で」の原稿の締め切りが7月1日の金曜日で、収録が8日の金曜日、放送が9日の土曜日というスケジュールになっています。ちなみに翌日の10日には聖餐式礼拝があります。そして、原稿提出と収録の合間の5日の火曜日には静岡教区の聖会準備会があります。この教区の会議の前にはいつも15分間、ショート・ディボーションの時が持たれます。今回のショート・ディボーションの当務は私が務めることになっています。ちょうど良いので、教区の先生方に修繕についての報告をすると共に、地域のFM放送でこのことを語ることをお伝えして(放送原稿の半分ぐらいを使おうかと思います)、教区の先生方に、是非このFM放送が用いられるようにお祈りをお願いしようかと思います。
 それから7月22日の金曜日には沼津伝道者会が予定されていて、今回の会場は、この教会になります。前回、この教会が会場になったのは一昨年の11月で、その頃は、隣の土地の一部を買って県道に看板とゲートを建てるアイデアがあることを私は先生方に説明しました。ですから、その時は先生方の車も海側に止めていただきました。今回は隣の駐車場を使っていただけますし、きれいになった会堂の外観も見ていただけます。また隣の土地に建設予定の模型も見ていただくことができます。そうして先生方に、この教会のためにお祈りしていただきたいと願っています。
 そんなことを考えていて私は、来月の26日と27日に焼津で行われるファミリー・キャンプのメッセージでも、私たちの教会の会堂問題では神様が共にいて下さり、いろいろと不思議なことが起きていることを、子供にもわかる証しの形にして話そうかなと思い始めています。そうして静岡教会と韮山教会の皆さんとも、神様の不思議な働きについて分かち合うことができれば幸いであろうと思い始めています。そうして、いろいろな機会を用いて証しをして行くことで、多くの方々と神様の恵みを分かち合うことができたらと願っています。

おわりに
 今回の修繕で外壁がとてもきれいになって感謝であることを、たくさんの方々と分かち合いたいと私が思うようになったのは、修繕用の足場が撤去され、全体の覆いが取れて外観の全貌が見えるようになった、つい昨日からです。修繕を依頼している段階では、ここまできれいになるとは思っていませんでしたから、証しとして話すことはほとんど考えていませんでした。本当に神様は、私たちが思っていなかったような不思議なことをして下さるお方だなあと、つくづく思っています。
 私たちは、これからも神様の御業に期待しつつ、ここに神様の働きがあることを地域の方々に知っていただくために、どのように伝道に取り組んだら良いか、祈りつつ考えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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足場が撤去されました

2016-06-21 14:29:20 | 折々のつぶやき
 本日、修繕工事用の足場が撤去されて覆いが取れました。
 あとは玄関の屋根を新しくして、玄関部分の塗装をすれば工事完了です。



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内にも外にもおられる神

2016-06-20 08:40:36 | 礼拝メッセージ
2016年6月19日礼拝メッセージ
『内にも外にもおられる神』
【Ⅱ歴代誌6:18~23】

はじめに
 今週も歴代誌からソロモンの神殿についての学びを続けますが、このシリーズも今週で終わりかなと感じています。もしかしたら、来週もう1回、このシリーズの学びを続けるかもしれませんが、いずれにしても今月でこのソロモンの神殿についての学びは一段落ということになると思います。

神殿建設に取り掛かったソロモン
 先週は歴代誌第二の3章を開きました。ここからソロモンはいよいよ神殿の建設に着手しました。少し振り返っておきましょう。3章1節に、

3:1 こうして、ソロモンは、【主】がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で【主】の家の建設に取りかかった。

とあります。
 そして、ここにはソロモンの神殿の大きさがキュビトで示されています。これらの数字を先週はご一緒に見ました。至聖所の長さと幅は8節にあります。8節、

3:8 ついで、至聖所を造ったが、その長さはこの神殿の幅と同じ二十キュビト、その幅も二十キュビトとし、これに六百タラントに当たる良質の金を着せた。

 このようにソロモンの神殿の至聖所の幅と長さは20キュビトでした。1キュビトを45センチとすると、1間は4キュビトになります。ですから、至聖所の幅と長さはそれぞれ5間でした。そうして先週の礼拝説教では、私たちが隣の土地に建てたいと願っている礼拝堂の設計案の寸法は外側が幅6間・長さ4間で、中の礼拝スペースが幅4間・長さ3間、高さ3間半であることを図で示して、この数字を是非覚えて、お祈りをしましょうという話をしました。
 このあと3章と4章には、この神殿の構造や中に置く物のことが詳しく書かれています。

完成した建設工事
 そうして5章1節には、工事が完成したことが書かれています。5章1節、

5:1 こうして、ソロモンが【主】の宮のためにしたすべての工事が完成した。そこで、ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。

 続いて2節と3節、

5:2 そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンから【主】の契約の箱を運び上るためであった。
5:3 イスラエルのすべての人々は、第七の新月の祭りに王のもとに集まった。

 このように全イスラエルがエルサレムに集まり、人々が見守る中で神の箱が幕屋を出て神殿に運び入れられました。その時の様子が5章に書かれています。5章の終わりには、神殿が雲で満ちたことが記されています。5章の13節と14節、

5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち【主】の宮は雲で満ちた。
5:14 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。

旧約の時代の神殿に向けた祈り
 そして、きょうの聖書箇所の6章には、ソロモンがエルサレムに集った人々の前で主に向かって祈った言葉が記されています。6章の1節と2節、

6:1 そのとき、ソロモンは言った。「【主】は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
6:2 そこでこの私があなたのお治めになる宮を建てました。あなたがとこしえにお住みになる所を。」

 ここから始まった6章のソロモンの祈りはとても長いものでした。全部を見ることはできませんから、私の目に特に留まった18節からのいくつかの節を見ることにします。まず18節、

6:18 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

 これは確かにそうですね。神様は宇宙サイズのお方です。宇宙サイズの神様が神殿の大きさに納まることは不可能です。ソロモンの時代の人々が想像していた宇宙の大きさは、現代の私たちが知っている宇宙の大きさよりも遥かに小さなものだったでしょう。それでも神様が神殿という建物に納まる方ではないということはソロモンも良く知っていました。
 続いて19節と20節、

6:19 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、【主】よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。
6:20 そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

 20節でソロモンは「あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください」と言っています。この時代、神の箱が置いてある至聖所に向かって祈りをささげることに特別な意味があったことがわかると思います。旧約の時代であっても、祈りはどこで捧げても良いものであったとは思います。神様は遍く存在している方だからです。しかし、やはり神殿の垂れ幕の向こう側の至聖所に置いてある神の箱に向かって祈ることに特別な意味があったことが伺えます。
 そして21節、

6:21 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。

 ここでソロモンはもう一度、同じように「この所に向かってささげる願いを聞いてください」と言っています。そして「天からこれを聞いてください」と言っています。神様は天にお住まいになっているからです。

新約の時代は私たちの体が神殿
 私たちも天におられる父に向かってお祈りのことばを始めますね。「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ」で始まります。ただし神様は天にだけおられるわけではなく、もし私たちが聖霊を受けているなら、神様は私たちの内にもおられます。つまり私たち自身の体が神殿になります。第一コリント6章19節を、ご一緒に見ましょう(新約聖書p.325)。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 聖霊を受けた私たちの体は、私たちの内に住まれる聖霊の宮です。このように聖霊の宮となった私たちの体は、もはや自分自身のものではないとパウロは述べています。続いて有名なローマ12章1節をご一緒に見ましょう(新約聖書p.308)。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 このように、新約の時代では聖霊は私たちの内に入って下さいますから、私たちの体が神殿になります。一方、旧約の時代には聖霊はごく限られた預言者たちだけにしか注がれませんでしたから、ソロモンのように神殿の至聖所に向かって祈ることに特別な意味があったわけです。しかし、新約の時代においてはイエス・キリストが十字架で死なれた時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けて、もはや神殿の至聖所に向かって祈ることには、旧約の時代のような特別な意味はなくなりました。特にユダヤ人ではない異邦人の場合は神殿に入ることすら許されませんでしたから、これは大きな恵みでした。

内にも外にもおられる神を深く感じる
 では、神殿の至聖所に向かって祈ることに特別な意味がなくなったのなら、私たちが新しい礼拝堂を建設することに、どんな意味があるのでしょうか。それは大いに意味があります。神様との交わりの時は、普段を忙しく過ごしている日常とは全く別の時間です。私たちは、静かな場所さえ確保できれば、あとは目を閉じれば、どこにいても神様と交わることは理屈の上では可能です。しかし、ことはそれほど簡単ではありません。日常生活の場だけにいたのでは、神様との深い交わりに入れていただくことは、そんなに簡単なことではありません。
 一方、礼拝堂は神様との深い交わりに入れていただくことができる場です。一歩礼拝堂に足を踏み入れたなら、神様に包まれているように感じることができる場、それが礼拝堂です。神様は私たちの内にもいて下さいますが、私たちを外から包んで下さるお方でもあります。
 きょうの聖書交読でご一緒に読んだヨハネの手紙第一の4章の13節を見ましょう(新約聖書p.470)。13節をご一緒に読みましょう。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 このように神様は私たちの内にも外にもおられます。この内におられる神と外におられる神の両方を同時に感じる時、私たちは神様との一体感を深く感じることができると言えると思います。この内にも外にもおられる神を同時に深く感じることが、礼拝堂のような特別な場所では可能ですが、日常生活の場ではなかなか難しいことではないかと思います。
 続いて15節と16節を交代で読みましょう。

4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 ここでも同じ表現が繰り返されています。私たちは神の内におり、神も私たちの内におられます。つまり神様は私たちの内にも外にもおられます。礼拝堂は、そのことを深く感じさせてくれる場です。ですから週に一回、教会に来て、この神様との深い交わりを味わうことができるなら、残りの6日間を日常の場で過ごしたとしても、この余韻の中で神様と深く交わることができるでしょう。しかし365日の全部を日常の場だけで過ごすとしたら、神様と深く交わることは、とても難しいと言えるでしょう。
 2年前に、新会堂の建設に踏み出すに当たり、私は先ずはこの今の会堂を使い続ける選択肢ははずしたいと願い、会堂建設委員会でも、了承されました。それは今の会堂が引っ込んだ所にあって目立たないということが一番の理由でしたが、もう一つの大きな理由として、この会堂は礼拝堂と牧師の生活の場が同じであるということがありました。今の会堂ですと、牧師は日常から礼拝へ心を切り替えることがなかなか難しいです。やはり礼拝堂は生活の場とは切り離した、聖別した空間である必要があると思います。来年、隣の土地に礼拝堂を建設したなら、礼拝の時には牧師は一旦この牧師館を出て、そうして礼拝堂に入ることになります。これですと生活の場を離れて礼拝の場に入ることができます。この切り替えはとても重要だと思います。生活の場とは切り離された、聖別された空間に入ることで、より心が整えられて、そのことで私たちが神様のうちにおり、神様も私たちのうちにおられることを、よく感じることができることと思います。

おわりに
 きょうはソロモンが神殿の至聖所に向かって祈った箇所に目を留めて、新約の時代の私たちの場合には私たちの体が神殿であることを学びました。そうして、神様は私たちの内におり、私たちもまた神様の内にいることを学ぶことができました。礼拝堂は、このような神様との交わりを深く感じることができる場です。この礼拝堂の建設のために神様が私たちの背中を押して下さり、励まして下さっていますから、感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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6月15日の祈り会はお休みにします

2016-06-14 19:35:02 | 祈り会メッセージ
 会堂の修繕の関係で6月15日(水)の祈り会は、お休みにします。
 よろしくお願いします。
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私たちの新しい礼拝堂のキュビト(2016.6.12 礼拝)

2016-06-13 06:24:44 | 礼拝メッセージ
2016年6月12日礼拝メッセージ
『私たちの新しい礼拝堂のキュビト』
【Ⅱ歴代誌3:1~8】

はじめに
 ソロモンの神殿建設についての歴代誌からの学びを今週も続けます。私たちがソロモンの神殿建設について学ぶのは、隣の敷地への礼拝堂建設に向けて心備えをするためです。この聖書の学びの中でソロモンの神殿建設は人間の力だけで行われたことではなく、神様が様々な形で関わっていることを私たちは学んでいます。例えば、この神殿の設計図はダビデがソロモンに授けたものでしたが、ダビデはこの設計図を御霊によって示されたのでした。そして、ソロモンには神様から知恵と知識と豊かな財力が与えられましたから、これらも神殿の建設に大いに役立ったことでしょう。
 そして感謝なことに、私たちはこのようなことを、聖書の中の出来事を通してだけでなく、21世紀の今の私たちの周りで起きていることを通しても、神様が働いて下さっていることを学ぶことができています。20名に満たない小さな教会の私たちが、新しい会堂を建設することなど、普通に考えたら不可能なことです。2年前の今頃を思い返してみるなら、会堂積立金の額は○○でしたから、本当に不可能な状況でした。これでは普通は会堂建設には踏み出さないでしょう。しかし、私の着任前の2012年に掲げられた、2017年の会堂建設を目指すという目標に背中を押され、或いはまた屋根の傷みが思っていた以上に深刻であったことにも背中を押され、そしてまた、私たちの側で一歩を踏み出さない限り主の御業は行われないという聖書の教えにも背中を押されたために、信仰を持って決断して、新会堂の建設に向かって歩み始めたところ、色々と不思議なことが起こって、確かに神様が働いて下さっていることを私たちは見せていただいているところです。このことに感謝しながら、さらに歴代誌の学びを進めて行きたいと思います。

ソロモンの神殿のキュビト
 きょうは歴代誌第二の3章を開きます。1節と2節を、お読みします。

3:1 こうして、ソロモンは、がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上での家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。
3:2 彼が建設に取りかかったのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった。

 ソロモンの治世の第四年に、ソロモンはいよいよ神殿の建設に取り掛かりました。続いて3節、

3:3 神の家を建てるために、ソロモンの据えた礎は次のとおりである。長さは先代の尺度のキュビトにしたがって六十キュビト。幅は二十キュビト。

 ここで、長さの単位には出エジプト記の幕屋の作り方を学んだ時と同じ「キュビト」が使われています。このキュビトには星印が付いていますから、下の脚注の3節の所を見ると、「1キュビトは約44センチ」と書いてあります。ですから、出エジプトの時代と同じですね。この「キュビト」という単位は、手の中指の先から肘までの距離だそうで、注解書によっては44.5センチと書いてあるものもありますし、45センチと書いてあるものもあります。それは中指から肘までの距離が人によって違うから、一定しないのでしょうか。試しに私も巻尺を使って測ってみると、だいたい44~45センチぐらいであることがわかりました。
 そして、きょうは1キュビトを45センチとして、ソロモンの神殿の寸法を見ることにします。45センチとすれば、1キュビトが日本の昔の長さである1間の約1/4になるからです。1間は約1.8メートルですから、1キュビトは1/4間ということになります。この1間、2間という長さの単位は昔の尺貫法の単位ですが、住居関係では今でも使われていて、A兄が設計して下さった私たちの新しい礼拝堂の案も、1間、2間という単位で礼拝堂の広さと高さが設計されています。ですから、きょうは「キュビト」と「間」を使ってソロモンの神殿を見て、後で私たちの新しい礼拝堂の設計案も見ることにしたいと思います。では、もう一度、3章3節をお読みします。

3:3 神の家を建てるために、ソロモンの据えた礎は次のとおりである。長さは先代の尺度のキュビトにしたがって六十キュビト。幅は二十キュビト。

 先ほど話したように1キュビトを45センチ、1/4間とすると、ソロモンの神殿の長さの60キュビトは27メートル、15間になります。そして神殿の幅の20キュビトは9メートル、5間になります。次に高さが4節にあります。4節、

3:4 前の玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、高さは百二十キュビトとし、その内側には純金を着せた。

 ソロモンの神殿の玄関の高さは120キュビトでした。120キュビトは54メートル、30間です。この54メートル、30間というのは昔の建物としては相当に高い建物と言えるでしょう。皆さんは韮山の反射炉の高さがどれくらいか知っていますか。調べたところ、韮山の反射炉の高さは16メートルでした。ソロモンの神殿は韮山の反射炉の3倍以上の高さがあります。ビルにすると、1階の高さが3メートルのビルですと、54メートルは18階建てのビルになります。ですから54メートルの高さの玄関は、とんでもなく高い建物であったことがわかります。

至聖所のキュビト
 さて、きょうは寸法のほうに目をとめたいと願っていますので、次は8節に飛びます。8節、

3:8 ついで、至聖所を造ったが、その長さはこの神殿の幅と同じ二十キュビト、その幅も二十キュビトとし、これに六百タラントに当たる良質の金を着せた。

 神殿の中の至聖所の長さと幅は20キュビト、つまり9メートル、5間でした。モーセの幕屋の至聖所の長さと幅がそれぞれ10キュビト、すなわち4.5メートル、2間半でしたから、神殿の至聖所の長さと幅は幕屋はちょうど2倍ずつで、面積は4倍あったことになります。
 私たちは、先ずはソロモンの神殿の至聖所の幅と長さが20キュビトずつ、モーセの幕屋の幅と長さが10キュビトずつであったことを、覚えておきたいと思います。神殿の幅と長さの20キュビトは9メートル5間、幕屋の幅と長さの10キュビトは4.5メートル、2間半です。

私たちの新しい礼拝堂のキュビト
 さて、この至聖所のキュビトの数字を頭に入れておいて、次に私たちの教会の新しい礼拝堂の設計案の寸法を見てみましょう。図を用意しましたから、それをご覧になって下さい。



 格子状の梁の間隔が1間ですから、非常にわかりやすいと思います。私たちは、この数字を是非とも暗記しようではありませんか。この格子のイメージを使えば覚えやすいと思います。
 聖書の聖句も暗記することで、私たちの心になじんで来ます。そうして聖書を開かなくても聖句を通して神様と対話ができるようになります。神様との対話は自由ですから、聖書の聖句に縛られることはありませんが、聖書の神様のことをあまり良く知らない間は、神社の神様と聖書の神様の区別も付かないと思いますから、まずは聖書の聖句を通して神様と対話するほうが良いのです。
 会堂建設に関しては、私たちも初心者のようなものですから、まず、この「○○間」を覚えようではありませんか(キュビトまでは必ずしも覚えなくても良いです)。この幅6間、長さ4間、高さ3.5間」を格子のイメージを使って覚えれば、心になじんで来ます。そうして神様にお祈りする時にも、この数字が頭に入っていれば、神様にお祈りする時も新しい礼拝堂をより明確にイメージしながらお祈りできます。
 そのようにして、神様がこの礼拝堂を与えて下さり、私たちがこの礼拝堂にふさわしい働きをして神様のお役に立てるように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

3:3 神の家を建てるために、ソロモンの据えた礎は次のとおりである。長さは先代の尺度のキュビトにしたがって六十キュビト。幅は二十キュビト。
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足場の設置

2016-06-09 19:42:59 | 折々のつぶやき
 きょうは足場の設置が行われました。
 明日は古くなった屋根の囲いと軒天井が撤去される予定です。
 軒天井が撤去されたら、軒部分の屋根鋼板の裏側のペンキ塗装を自前で行うことにしています。



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聖霊を受けなかったユダ(2016.6.8 祈り会)

2016-06-09 08:00:44 | 祈り会メッセージ
2016年6月8日祈り会メッセージ
『聖霊を受けなかったユダ』
【ヨハネ13:1~21】

はじめに
 一昨日から教会の外側の修繕が始まり、物置とバルコニーが撤去されて大変にスッキリしました。それから玄関のドアも交換しました。このドアの取っ手は回転式のドアノブではなくて30cmぐらいの長さの取っ手で、建物の外側からはこの取っ手を引っ張るとドアが開き、内側からは押せば開く構造になっています。そして鍵穴は、この取っ手の上と下の二ヵ所にあります。私は8年前まで高津教会の近くのマンションに住んでいて、その私の自宅でも同じような構造のドアを使っていましたから、当時のことを思い出して、とても懐かしく思っています。そして、修繕はまだ始まったばかりですが、わずか二日間の作業が終わっただけでも外観が以前よりも遥かにきれいになったことを、とてもうれしく思っています。
 そうして今日のこの祈り会では、今のこの状況にふさわしいメッセージを取り次ぎたいと願い、昨日の晩から今朝に掛けて思いを巡らしていたところ、きょうの聖書箇所のヨハネ13章の最初の部分が示されました。

先ず弟子たちの外側をきれいにしたイエス
 この箇所は、イエスさまが最後の晩餐が始まるに当たって弟子たちの足を洗った有名な箇所です。ここでは、イエスさまが水を使って弟子たちの足、つまり体の外側を洗いました。しかし、この13章から17章までの最後の晩餐の箇所全体を見るなら、イエスさまが弟子たちに本当に伝えたかったことは、弟子たちが聖霊を受けて一つになることであったことがわかりますから、きょうの聖書箇所のイエスさまが弟子たちの足を洗って外側をきれいにしたことは、その準備作業であったと言えるのではないかと思います。
 そういうわけで、きょうの聖書箇所は、今の私たちの教会の状況に大変にふさわしいと感じます。イエスさまが弟子たちの足を洗うことから、最後の晩餐での重要なメッセージを始めたように、今の教会の外側の修繕も神様の側から始めて下さったことです。私たちは物置の撤去や屋根回りの修繕を、新しい礼拝堂の建設に取り掛かる前に済ませた方が良いことは分かっていました。しかし腰が重くてグズグズしていました。そんな時に神様は、ちょうど山本兄がこの教会にいた機会を用いて、この会堂に、これ以上は放置して置けないほどのダメージ、しかしながら緊急に行わなければならないほどではなく、一ヶ月間は業者とじっくりと相談しても大丈夫なほどの、ほど良いダメージを会堂の屋根の囲いに与えて修繕を開始するように促して下さり、いま本当にきれいになりつつあります。そうして、まず私たちの外側をきれいにして下さり、次は聖霊によって心の内側をきよめて一つになるように促して下さっていると感じます。これまで私たちは会堂問題に取り組む中で、かなり一つになれて来ていると思いますが、これからは、さらに一層イエスさまを中心にして結束を強めたいと思います。

ヨハネの福音書はなぜユダに厳しいのか
 では、きょうの聖書の箇所を具体的に見てみたいと思いますが、きょうの箇所は丁寧に見て行けば、何回かに分けて説教ができるほど、多くの内容が詰まっていると感じます。ですから、もしかしたら来週以降も、祈祷会ではこの箇所を開くかもしれません(まだ決めていません)。その中で、きょう私が注目したいと思ったのはユダについての記述です。
 ヨハネの福音書は、ユダの裏切りを厳しく責めています。これはA先生の指摘ですが、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカに比べてユダに対して厳し過ぎる傾向があるようです。そのようなA先生の指摘を聞いて改めてヨハネの福音書のユダに関する記述を見ると、確かにマタイ・マルコ・ルカよりも厳しく批判しているように見えます。悪く言えば執拗にねちっこくユダを責めているようにも見えます。
 A先生のユダに関する説教を聞いたことがある方はご存知かもしれませんが、A先生は結構ユダに同情的です。ユダは目に見える形でイエスさまを裏切りました。それはもちろん大きな罪です。しかし他の弟子たちはどうだったのか。ユダのような分かりやすい裏切り方はしなかったけれども、イエスさまが逮捕された時にはイエスさまを見捨ててしまったではないか。そちらの方が、裏切りの度合いとしては悪質だったのではないのか。そして私たちクリスチャンも、もしかしたら同じようなことをしていませんか、とA先生は私たちに問い掛けます。表面上ではイエスさまに従うフリをしていながら、実は心の奥底では裏切っているというようなことはありませんか、と問い掛けます。もしそうだとしたらユダよりももっと悪質ではないのですか、というわけです。
 だからA先生はヨハネの福音書を全体的にはもちろん評価しているものの、ユダを厳しく責めている箇所に関しては、けっこう批判的です。そういうA先生のお考えを聞くと、私もナルホド、確かにそう言われてみると、ヨハネはユダにちょっと厳し過ぎるよねという思いもしないわけではありません。しかし私はヨハネの福音書が大好きですから、ヨハネが敢えてユダに対して厳しい姿勢を取っているのは、何か理由があるに違いないとずっと思っていました。でも、その理由が見つけられないでいました。ところが、昨日から今朝に掛けての思い巡らしで、その理由が見つけられたような気がします。それは、最近私が礼拝の説教でソロモンが願うべきは「知恵と知識」ではなくて「聖霊」ではなかったのかと話したこととも通じます。

聖霊を受ける機会を失ったユダ
 そのポイントとなる聖句は、13章の20節と21節です。交代で読みましょう。

13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

 20節にある「わたしの遣わす者」とは、普通に読めば弟子たちのことだと思います。しかし、私はこのイエスさまの遣わす者の中には聖霊も含まれると読み取りたいと思います。聖霊はイエスさま遣わすお方だからです。16章7節でイエスさまは、

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

とおっしゃいましたから、聖霊もまたイエスさまが遣わす存在です。ですから13章20節の「わたしの遣わす者」には弟子たちだけではなくて聖霊を含めて考えても良いのではないかと感じます。
 そうしてイエスさまは21節で「霊の激動」を感じてユダの裏切りを予告します。この「霊の激動」というのは尋常ではありません。このことを私は、イエスさまが単にユダの裏切り行為に「霊の激動」を感じたというよりも、この裏切りによってユダが聖霊を受ける機会を失ってしまったことに「霊の激動」を感じたのではないかという思いがしています。
 ヨハネ6章37節でイエスさまは、

6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

とおっしゃいました。イエスさまはユダのことも決して捨てたくはなかったと思います。しかし、この裏切りの後でユダは自ら命を絶ってしまいましたから、聖霊を受ける機会を失ってしまいました。一方、ペテロたちもイエスさまを裏切りましたが、後に聖霊を受けることができました。ペテロは自分はイエスの弟子ではないと三度表明しましたから、これも重大な裏切りでした。しかし、イエスさまが復活した後で、イエスさまはペテロに三度「あなたはわたしを愛しますか」と聞き、ペテロが「はい。主よ」と答えたことで関係が回復し、ペテロは後に聖霊を受けることができました。

おわりに
 先ほども話したように私は礼拝のメッセージでソロモンは「知恵と知識」ではなくて「聖霊」を願うべきではなかったかと話しました。聖霊を受けることは、それほどまでに信仰者にとって重要なことではないかと思います。私は、もしユダが自ら命を絶つことをしなければ、イエスさまはユダのことも赦したのではないかという気がします(それは私たちには永遠にわからないことだと思いますが)。
 聖霊を受けることは、あらゆることのうちで最優先されるべき、最も大切なことであると言えるでしょう。そして、これほどまでに重要な聖霊を私たちが受けるためには、イエスさまの十字架が必要であったことを覚えて、私たちはイエスさまに感謝し、イエスさまに付き従って行きたいと思います。
 最後にヨハネ16章7節をご一緒に読んで、メッセージを閉じたいと思います。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 お祈りいたしましょう。
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バルコニーを撤去しました

2016-06-07 11:47:16 | 折々のつぶやき
 きょうは午前11時前に二日目の作業が終わりました。
 バルコニーと2階の雨戸を撤去して、さらにスッキリしました。



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修繕工事が始まりました

2016-06-06 19:51:46 | 折々のつぶやき
 きょうから3週間の予定で教会の外側の修繕工事が始まりました。

 きょうは物置の撤去と玄関ドアの交換、1階正面の雨戸の交換を行ないました。
 明日はバルコニーの撤去を行い、週の後半に足場を組んで屋根囲いと軒天井の撤去を行ないます。
 そして来週は外壁塗装、再来週に新しい屋根囲いと軒天井の取り付けを行います。

 写真は上の1枚が工事前、下の2枚が今日の作業の終了後の写真です。



↑ビフォー↑、↓アフター↓



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近隣との交流にも必要な聖霊(2016.6.5 礼拝)

2016-06-05 18:04:19 | 礼拝メッセージ
2016年6月5日礼拝メッセージ
『近隣との交流にも必要な聖霊』
【Ⅱ歴代誌2:1~8】

はじめに
 歴代誌からソロモンの神殿建設について学ぶシリーズは先週から歴代誌第二に入り、先週は第1章を開き、きょうは第2章を開きます。
 先週開いた第1章では、神様から「あなたに何を与えようか。願え。」と言われたソロモンが「知恵と知識」を願って与えられたことが記されています。このようにソロモンが「知恵と知識」を願ったことについて私は疑問を表明して、ソロモンは「聖霊」を願うべきではなかったのか、という話をしました。後にソロモンは外国人の妻たちから悪い影響を受けて外国の神々を礼拝するようになってしまいました。もしソロモンの心の内に聖霊が住んでいたなら、心の内からの聖霊の語り掛けによってソロモンは悔い改めて軌道修正することができたかもしれません。しかし、ソロモンの内には聖霊がいませんでしたからソロモンは神様から離れてしまい、結局イスラエルの王国はソロモンの死後に南北に分裂してしまいました。ですから、ソロモンが願うべきは「聖霊」だったのではないかという話をしました。
 このような説教をする牧師はほとんどいないと思いますから、戸惑われた方もおられるかもしれません。私自身も、このような説教になるとは、説教の準備に入るまでは思っていませんでした。しかし、ソロモンが晩年に神様からすっかり離れてしまったのは何故だろうかということに思いを巡らせていた時に、それは聖霊を受けていなかったからだろうということに思い至りました。それは先月は15日にペンテコステ礼拝がありましたから、その前後に、特に祈祷会において聖霊について学んでいたからかもしれません。
 最近の私は、聖霊について益々その重要性を感じるようになっています。そういうわけで、ソロモンの父のダビデには神の霊が激しく下って聖霊を受けていたのですから、やはりソロモンは聖霊を願うべきであったと私は考えます。

ツロの王に援助を頼んだソロモン
 そして、きょうの聖書箇所もやはり、その観点から見てみたいと思います。きょうの聖書箇所でソロモンは、神殿と宮殿を建設するに当たり、隣の国のツロの王のもとに人を送って頼みごとをしました。歴代誌第二の2章3節です。

「あなたが私の父ダビデに行い、父の住む家を建てるための杉材を送ってくださったように、私にもしていただけないでしょうか。」

 ソロモンの父のダビデが宮殿を建てた時にツロの王から杉材を送ってもらったことがあったので、自分にもしてもらえないだろうかとソロモンはツロの王に頼みました。そしてさらに、熟練した職人も送ってくれるように頼みました。少し飛ばして7節、

2:7 そこで今、私のもとに、金、銀、青銅、鉄の細工に長じ、紫、紅(べに)、青などの製造に熟練した人で、各種の彫り物の技術を心得ている人を送ってください。私の父ダビデが備えておいたユダとエルサレムにいるこちらの熟練した者たちもいっしょに働きます。

 それから杉の木以外の木材もソロモンは頼みました。8節、

2:8 それから、私のもとに、杉、もみ、びゃくだんの木材をレバノンから送ってください。私はあなたのしもべたちがレバノンの木を切ることに熟練していることを知っております。もちろん、私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。

 そして、これらの木を切り出し、材木を切る者たちのために食糧やぶどう酒を提供することを申し出ました。

2:10 お聞きください。私は、木を切り出し、材木を切る者たちのため、あなたのしもべたちのために食糧として小麦二万コル、大麦二万コル、ぶどう酒二万バテ、油二万バテを提供します。

 これらのソロモンの頼みを、ツロの王のフラムは快諾しました。11節から13節、

2:11 ツロの王フラムは文書を送ってソロモンに言った。「【主】はご自身の民を愛しておられるので、あなたを彼らの上に立てて王とされました。」
2:12 さらに、フラムは言った。「天と地とをお造りになったイスラエルの神、【主】はほむべきかな。主はダビデ王に、思慮と悟りとを備えた知恵ある子を授け、【主】のための宮と、自分の王国のための宮殿とを建てさせられるのです。
2:13 今、私は才知に恵まれた熟練工、職人の長フラムを遣わします。

 そして16節、

2:16 私たちのほうでは、お入用なだけレバノンから木材を切り、これをいかだに組んで、海路をヤフォまであなたのもとにお届けします。そこからあなたがこれをエルサレムに運び上ってください。

 こうしてソロモンは隣国のツロの国からの援助を受けることができることになりました。神殿と宮殿の建設は、イスラエル一国だけで成し遂げることはできなかったのですね。

ソロモンの内に聖霊が住んでいたなら
 このようにソロモンは、神殿が完成するまでの間は近隣の国と非常に良い関係を築いていました。しかし、そこに段々と暗雲が掛かり始めます。今度は列王記の第一9章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.597)。9章10節から13節までをお読みします。

9:10 ソロモンが【主】の宮と王宮との二つの家を二十年かかって建て終わったとき、
9:11 ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および、金をソロモンに用立てたので、ソロモン王はガリラヤの地方の二十の町をヒラムに与えた。
9:12 しかし、ヒラムがツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、それは彼の気に入らなかった。
9:13 それで彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれた。今日もそうである。

 この「カブルの地」という所に星マークが付いていますから下の脚注の13節の所を見ますと、「ないのと同じ」と書いてあります。ツロの王は、ソロモンが与えた町々を全く気に入りませんでした。それゆえヒラム(フラム)は、この町々をソロモンに返したことが歴代誌第二には書いてあります(週報p.3)。

8:2 ソロモンは、フラムがソロモンに返した町々を建て直し、そこにイスラエル人を住ませた。

 この時点でソロモンの心は少しおかしくなり始めていたのでしょうか。聖書には、この時のことについては、これしか書いてありませんから詳しいことは分かりませんが、もしソロモンの内に聖霊が住んでいたなら、このようなことにはならなかったかもしれません。
 いずれにしても、イスラエルは島国ではありませんから、近隣諸国と上手くやって行く必要がありました。ソロモンの王国はイスラエルの歴史上では最も繁栄し、領土も拡大しました。しかし拡大したと言ってもイスラエルは依然として周囲を他の国々に囲まれた弱小国に過ぎませんでした。ソロモンが多くの外国人の妻を持ったのも、そんな弱小国が生き抜いて行くための政策上の理由が大きかっただろうと思います。しかし結局ソロモンは、この外国人の妻たちの影響を受けて外国の神々を礼拝するようになってしまいました。そして、このことに怒った神によってイスラエルの王国は二つに引き裂かれて北王国と南王国とに分裂してしまいました。
 島国ではなく、しかもアジア・ヨーロッパ・アフリカの各大陸を行き来する時に通る交通の要衝にあったイスラエルは鎖国をすることもできませんでしたから、どうしても周囲の国々と上手くやって行く必要がありました。そして、もしソロモンに聖霊が注がれていれば、上手くやって行けたのではないかと思います。

私たちの内には居て下さる聖霊
 私たちの周囲にも、異教の神々を拝む人々がたくさんいます。私たちクリスチャンは少数派ですから、その異教の神々を拝む人たちに囲まれています。それは弱小国であったイスラエルの王国の状況と似ていると言えるでしょう。
 そういう中、クリスチャンの私たちには、異教の神々を拝む人たちとの付き合いをどうすべきか、という問題があります。このことで悩んでいる方もおられるかもしれません。できるだけ付き合いを避けるべきだと考える方もおられるかもしれません。しかし、私たちには聖霊が注がれているのですから、異教の神々を拝む人々に囲まれていても何の心配も要りません。もし私たちに聖霊が注がれていないのならソロモンのようになってしまうかもしれませんから注意が必要です。しかし、聖霊が内にいて下さることをしっかりと感じながら日々を過ごしているのなら、何の心配も要りません。むしろ交わることで、伝道の良い機会になりますから、積極的に交わるべきと言えるでしょう。なぜなら聖霊は私たちの内から外に向かって溢れ出て行くからです。
 ヨハネの福音書7章の37節から39節までを交代で読みましょう(新約聖書p.190)。

 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 38節にあるように聖霊は、聖霊を受けた人の心の奥底から、外に向かって流れ出ます。このことで私たちはキリストの香りを外に向かって放ちます。
 最後に第二コリントの2章をご一緒に見たいと思います(新約聖書p.347)。第二コリント2章の14節から16節までを交代で読みましょう。

2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

 周囲の人々の中には私たちがクリスチャンだと分かると、心を閉ざしてしまう人もいるかもしれません。そういう人は15節の「滅びる人々」と言えるのだと思います。しかし、私たちの周囲では、そういう人はそんなには多くないでしょう。大抵の方々は、こちらがクリスチャンと分かっても普通に接して下さいます。それらの方々に向かって私たちがかぐわしいキリストのかおりを放つなら、それらの方々をイエスさまの御もとに、お連れすることができます。

おわりに
 ですから聖霊を受けている私たちは、異教の神々を拝む人々とも積極的に交わり、その中でキリストのかおりを放つことができる者になりたいと思います。聖霊を受けている私たちは、聖霊を受けていないソロモンのように周囲から悪い影響を受けるのではなく、周囲に良い影響を与えることができる者になりたいと思います。
 それは、そんなに簡単なことではないと思いますが、神様が私たちをきよめて下さり、キリストのかぐわしい香りを放つことができる者へと変えていただけるように、常にお祈りしていたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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時間の柵が隔てる現代と聖書の時代

2016-06-02 06:04:37 | 祈り会メッセージ
2016年6月1日祈り会メッセージ
『時間の柵が隔てる現代と聖書の時代』
【ヨハネ10:40、21:24】

はじめに
 来週から教会の会堂の外側の修繕工事が始まります。最初に取り掛かるのが、老朽化した物置とバルコニーと十字架の撤去です。この来週早々からのバルコニー撤去を前にして、一昨日私はバルコニーに出る2階の窓の内側に柵を設ける作業をしました。柵には、古いカーテンレールを再利用しました。私が三年前にこの教会に来た時に、カーテンレールを全てシングルからダブルのものに交換しましたので、その時にはずしたシングルのカーテンレールを柵として取り付けました。この写真が部屋の内側から見た、窓の内側のカーテンレール柵と窓の外のバルコニーの柵です。バルコニーの柵のさらに外側には、今回の修繕工事で撤去する物置と十字架も見えています。



体だけでなく心もブロックしてしまう柵
 さて、きょうのメッセージのタイトルは『時間の柵が隔てる現代と聖書の時代』です。このようなタイトルのメッセージにしようと思ったのは、今回、バルコニーに出る窓にカーテンレールの柵を設けたことによって、バルコニーの柵との距離が以前より遠く感じるようになったからです。カーテンレールの柵を取り付ける前はバルコニーの柵を「こちら側」の領域と考えていたのが、カーテンレールの柵が手前に出来たことで、「あちら側」の領域に遠ざかってしまったようです。バルコニーの柵と私との実際の距離は全く変わっていないのにも関わらず、心理的には随分と遠くなったと感じています。それはつまり、新たに設置した柵が、実際には遠くにはないものを遠くにあるように心理的に思い込ませてしまっているということです。この柵は、人の体が2階の窓から落ちることのないように、人の体をブロックするための物です。その体用の柵が心の方にも働いてしまっているようです。
 このように体のことが心理面に影響するということは、私たちがヨハネの福音書を読む場合にも起きていることだと思いますので、きょうは、その話をすることにします。
 ヨハネの福音書を読む場合の妨げになっているのが、まさに人間の体です。人間の体は時間の柵を越えることができません。しかし、霊的には時間の柵を越えて御父と御子との交わりに入れていただくことができます。霊的な交わりという場合、神様の側が時間を越えて今の私たちの時代に来て下さるということだけでなく、私たちの側も霊的に時間を越えて聖書の時代に入って行くことができます。しかし、前者の神様が時間を越えるということは理解できても、後者の私たちの側も時間を越えることができるということが、なかなか理解されていないようです。それは人間の体が時間を越えることができないので、人間は霊的にも時間を越えることができないと思い込まれてしまっているようです。

自由に時間を越える霊的なイエス
 ここで、きょうの聖書箇所を見ましょう。

ヨハネ10:40「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。」

 このヨハネ10章40節では、【旧約聖書の時代】の霊的なイエスさまが、バビロン捕囚に引かれて行ったエルサレムの人々と一緒にヨルダンを渡ったことが示されています。バビロンはユーフラテス川の流域にありますから、ヨルダン川の向こう側にあります。また、「ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所」というのは、アブラハムの時代のウルとハランの地のことです。ウルとハランの地もまたエルサレムから見てヨルダンの向こう側にありました。このウルとハランの地にアブラハムは父テラと共にいました。そして父テラが死んだ時に、神様、すなわち霊的なイエスさまがアブラハムに近づいて、ハランを出てカナンの地に行くように命じました。
 このヨハネ10章にいる人間のイエスさまは時間を越えることができませんが、霊的なイエスさまは時間を越えた存在ですから、アブラハムの時代にも、バビロン捕囚の時代にもいます。このことがなかなか理解されないのですが、それは私たち人間の体は時間の柵を越えることができませんから、それをイエスさまにまで適用してしまっているからのようです。しかし霊的なイエスさまは時間の柵を軽々と越えて行くことができます。そして私たちもまた霊的には時間の柵を越えることができます。

時間の柵を越えてイエスの隣にいる愛弟子
 次にヨハネ21章24節をご一緒に読みましょう。

ヨハネ21:24「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。」

 このヨハネの福音書に登場する「イエスの愛した弟子」、すなわち「愛弟子」とは、霊的なイエスさまが時間を越えた存在であることを理解した読者のことです。霊的なイエスさまが【旧約聖書の時代】も【使徒の働きの時代】も自由に行き巡っていることを感じることができるなら、ヨハネの福音書の読者の私たちもまた、霊的に時間を越えて愛弟子として最後の晩餐でイエスさまのすぐ隣の席に座り、また十字架をすぐそばから見上げることができます。しかし、私たちの肉体をブロックしている時間の柵が私たちを霊的にもブロックしてしまうなら、私たちはイエスさまの愛弟子になることはできません。
 私たちの霊性は自由なのですから、時間の柵に妨げられることなく、御父と御子との交わりの中に入れていただきたいと思います。そうして私たちも証を残して行きたいと思います。

おわりに
 ヨハネ21章25節もご一緒に読みましょう。

ヨハネ21:25「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」

 私たちの全員が愛弟子になり、イエスさまとの交わりに入れていただき、それらの証しをいちいち書き記すなら、本当に世界も書かれた書物を入れることができないほどになるでしょう。しかし今は、デジタル技術が発達していますから、私たちの書いた証しもテキストファイルにしてメモリーに保存すれば、ほとんど場所を取ることもありません。ですから私たちは、どんどん証しを残して行きたいと思います。この私たちの証しがまた、他の方々がイエスさまと出会うことにつながって行きます。
 私たちの教会がそのように用いられるように、私たちは時間の柵に妨げられることなく、霊的に自由な者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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