2021年12月26日礼拝メッセージ
『互いに愛し合って、一つになる』
【ヨハネの福音書17章20~26節】
はじめに
早いもので、今年最後の礼拝となりました。今年一年、イエス様が私たちを守って下さったことを、心一杯感謝したいと思います。
きょうはまた、「最後の晩餐」のイエス様のことばに耳を傾けます。今年の後半は無会衆礼拝をしていた期間を含めて、ほとんどの礼拝で「最後の晩餐」の場面を開きました。この「最後の晩餐」のシリーズはアドベントの前で終わらせる予定でしたが、アドベントの前は宣教聖日礼拝と英和のハンドベル演奏会がありましたから、17章の「最後の晩餐」の締めくくりの部分は、きょうの年末感謝礼拝まで取っておくことにしました。
きょうの中心聖句は週報p.2に記したようにヨハネ17章21節と23節です。
この中でも、特にアンダーラインを引いた21節の「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください」と、23節の「わたしは彼らのうちにいて」に注目したいと思います。そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。
①一つになるべきことを説いたイエス様
②互いに愛し合って、一つになる
③皆に、そして一人一人に語るイエス様
①一つになるべきことを説いたイエス様
まず、きょうのヨハネ17章がヨハネの福音書全体の中でどういう位置関係にあるかを簡単に復習しておきます。1章で宣教を開始したイエス様は、弟子たちと共にガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地方などを旅しながら、人々に教えを説きました。この間、イエス様はエルサレムに何度か出入りしていて、最後にエルサレムに入ったのが12章でした。イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに近づいて行き、人々は熱狂的に歓迎しました。そうして13章から17章までが十字架に掛かる前の晩の「最後の晩餐」の時です。この「最後の晩餐」の後の18章でイエス様は祭司長たちに捕らえられ、19章で十字架に付けられて死に、20章で復活します。
さて、きょうは、「最後の晩餐」の締めくくりの場面です。イエス様は17章から天の父に祈り始めます。きょうの箇所に入る前に1節だけ見ておきます。17章1節、
このようにイエス様は、「父よ、時が来ました。」と言って祈り始めました。「時が来ました」とは、十字架の時が来ましたということですね。そして、きょうの聖書箇所の20節で、イエス様はこうおっしゃいました。
「ただこの人々のためだけではなく」とイエス様はおっしゃいました。「この人々」とは、「最後の晩餐」のテーブルにいる弟子たちです。この弟子たちだけでなく、彼らのことばによってイエス様を信じる人々のためにも、とイエス様はおっしゃいます。それは、私たちのことですね。私たちは弟子のペテロやヨハネやマタイたちのことばによってイエス様を信じました。ですから、このイエス様の祈りは私たちのための祈りでもあります。
そして、次の21節から23節に掛けてイエス様は「一つ」ということばを何度も使っています。まず21節、
「すべての人を一つにしてください」とイエス様はおっしゃいました。次に22節、
「わたしたち」とは、父と子ですから、父と子が一つであるように、私たちも一つになるために、イエス様は父に祈っています。
私たちが完全に一つになるために、イエス様は私たちのうちにいて、父はイエス様のうちにおられます。私たちのうちにイエス様がいて、さらにイエス様のうちに天の父がいるんだとイエス様はおっしゃっています。面白いですね。イエス様は私たちのうちにいます。でも同時にイエス様は、21節では、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」と祈っていますから、私たちは父と子のうちにいます。
②互いに愛し合って、一つになる
この、神様は私たちのうちにもいるし、私たちも神様のうちにいるという表現は、きょうの聖書交読でご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一の4章にもありましたね。もう一度、私のほうで、第一ヨハネ4章の7節から16節までをお読みしますから、少し長いですが聞いていて下さい。
神は愛です。私たちはその神様の愛に包まれていると同時に、私たちのうちにも、その神様の愛がとどまっています。この神様の愛によって、私たちは互いに愛し合って、一つになることができます。
イエス様は最後の晩餐を始めるに当たって身を低くして弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。そうして、弟子たちに様々なことを教えました。たとえばイエス様は15章で、こうおっしゃいました。
この、15章5節の、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら」という表現もまた、第一ヨハネ4章の表現とよく似ていますね。そうして、ぶどうの木であるイエス様にとどまるなら、私たちは多くの実を結びます。このヨハネ15章は、浜田耕三先生も静岡聖会の説教の中で語っておられましたね。浜田先生は、私たちが結ぶ実とは私たちが内と外に結ぶ実であるとおっしゃいました。内に結ぶ実とは御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。そして外に結ぶ実とは、伝道によって新たにイエス様を信じる人々のことです。
私たちは御霊の実を結ぶことによって、愛と喜び、平安などを得ます。人に対して寛容になり、親切になることで、互いに愛し合えるようになり、一つになることができるのですね。ですから、私たちが一つになるためには、御霊が与えられることが欠かせないことになります。
そうしてまた、互いに愛し合えるようになることでイエス様に似た者にされて行き、イエス様の証人になることで、新たにイエス様を信じる人々がおこされるのですね。このように聖められることは簡単なことではないと私自身感じているところですが、イエス様が互いに愛し合いなさいとおっしゃいますから、そのような者に変えられたいと思います。
③皆に、そして一人一人に語るイエス様
ここで改めて、週報p.2の中心聖句の21節と23節にアンダーラインを引いた箇所のように、私たちがイエス様のうちにいると同時に、イエス様も私たちのうちにいる、とはどういうことかを考えたいと思います。実はこのことは来年の1月にも何度か繰り返し取り上げたいと願っていることです。きょうは、その予告編という感じで、段々と深めて行くことができたらと思っています。
きょう分かち合いたいことは、次のことです。私たちがイエス様のうちにいることで、私たちの皆にイエス様の同じことばが届きます。それと同時に、イエス様が私たち一人一人のうちにいることで、その人に合った伝え方でイエス様は語って下さるということです。
例えばイエス様は私たちの皆に、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。私たちは皆、この同じことばを聞きました。それは、私たちがイエス様のうちにいるからです。でもそれと同時に、私たちの一人一人のうちにいるイエス様はそれぞれに応じて、語り掛けて下さいます。私たちは皆、年齢も違いますし、信仰を持ってからの年数も違います。育った環境や社会経験などが皆違い、それぞれに異なる賜物が与えられています。その一人一人の違いに応じて、イエス様は語り掛けて下さいます。そうしてイエス様にあって互いに愛し合って、私たちは一つになります。
パウロは教会員の一人一人を体の器官にたとえていますね。パウロはローマ人への手紙12章でこのように書いています(週報p.2)。4節から7節までをお読みします。
私たちはイエス様のうちにいますから、イエス様にあって一つにされていますが、同時に私たち一人一人にイエス様がいて、それぞれに役割を与えて下さっています。体の臓器の心臓や肺、胃や腸、みんなそれぞれに違う働きがあるように私たち一人一人にも違う働きが与えられていて、しかし全体としては一つになっています。
サッカーやラグビー、バスケットボールやバレーボールのような球技もそうですね。メンバーのそれぞれに与えられたポジションがあって、ポジションごとに違う働きをしますが、全体として一つにまとまっていないと、動きがバラバラになってしまって、強いチームにはなりません。
教会も同じです。私たちはそれぞれの賜物に応じて一人一人が違う役割を与えられています。違う私たちが一つになってイエス様にお仕えするためには、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様もまた私たち一人一人のうちにいることを意識することが大切ではないでしょうか。
おわりに
来年の標語聖句は歴代誌第二の5章13節から、
としました。実際の5章13節の聖句はもっと長いのですが、額に収まるように短くしてあります。
フライング気味ですが、予告編的に少しだけ話します。音楽には不思議な力があります。音楽には、人の心を癒す力があります。悲しみの中にある人の心を癒す力があります。或いは、これから仕事やスポーツの試合などで力を発揮しなければならない人を奮い立たせる力があります。病人を力づけて元気にする力さえあります。
きのうの晩、NHKのBSプレミアムで今年のショパンコンクールの日本人出場者を取材した番組を放送していました。その中の一人に、2次予選まで進んだ沢田蒼梧さんがいました。この沢田さんは何と、医学部の現役の学生なんですね。いま名古屋大学医学部の5年生だそうです。医学部の勉強だけでも相当に大変だと思いますが、その上、ショパンコンクールの1次予選を通って2次予選にまで進んだほどですから、ピアノの練習も相当にしています。ものすごく大変なことだと思いますが、これからも医学とピアノの両方に取り組んで行きたいとのことです。
その理由の一端を番組の中で語っていましたが、医者を目指す沢田さんは、音楽には人を癒す力があることに注目していて、単に医者として医学で人の病気を癒すだけでなくて、音楽によって人を癒すことにも関わっていきたいそうです。具体的にどうするかというプランはまだこれからのようですが、医者を目指す沢田さんが音楽には人を癒す力があると語っていたのを聞いて、本当にそうだなと思いました。
そしてまた、音楽には皆を一つにする力があります。教会で一つになるというと御霊の一致を考えますが、御霊の一致といっても、ちょっと分かりにくいですよね。教会にはまだ御霊を受けていない方々も集っています。まだ御霊を受けていない方々にとっては、余計に分かりにくいと思います。
御霊の一致は御霊を受けた人々の間でしか得られません。しかし音楽は、受けていない人も一つにする不思議な力があります。そうして、音楽によって一つにされる中で、御霊の一致とはどういうことかが段々と分かるようになると良いなと思っています。
きょう話した、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様も私たち一人一人のうちにいることを感じることは、御霊の一致を知る上で大切なヒントになると思いますから、これからも度々振り返ることになるだろうと思います。そういう意味で、きょうの話は、来年の話にもつながっています。
今年一年をイエス様が守って下さってことに、心一杯感謝したいと思います。私たちはイエス様のうちにいることで守られました。また、それぞれが違う困難の中も通りましたがイエス様が御霊を受けた者の一人一人のうちにもいて下さり、励まし、導いて下さいましたから、ここまで来ることができました。このことに心一杯感謝しながら、来年もまたイエス様と共に歩んで行きたいと思います。
しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
『互いに愛し合って、一つになる』
【ヨハネの福音書17章20~26節】
はじめに
早いもので、今年最後の礼拝となりました。今年一年、イエス様が私たちを守って下さったことを、心一杯感謝したいと思います。
きょうはまた、「最後の晩餐」のイエス様のことばに耳を傾けます。今年の後半は無会衆礼拝をしていた期間を含めて、ほとんどの礼拝で「最後の晩餐」の場面を開きました。この「最後の晩餐」のシリーズはアドベントの前で終わらせる予定でしたが、アドベントの前は宣教聖日礼拝と英和のハンドベル演奏会がありましたから、17章の「最後の晩餐」の締めくくりの部分は、きょうの年末感謝礼拝まで取っておくことにしました。
きょうの中心聖句は週報p.2に記したようにヨハネ17章21節と23節です。
ヨハネ17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。
この中でも、特にアンダーラインを引いた21節の「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください」と、23節の「わたしは彼らのうちにいて」に注目したいと思います。そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。
①一つになるべきことを説いたイエス様
②互いに愛し合って、一つになる
③皆に、そして一人一人に語るイエス様
①一つになるべきことを説いたイエス様
まず、きょうのヨハネ17章がヨハネの福音書全体の中でどういう位置関係にあるかを簡単に復習しておきます。1章で宣教を開始したイエス様は、弟子たちと共にガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地方などを旅しながら、人々に教えを説きました。この間、イエス様はエルサレムに何度か出入りしていて、最後にエルサレムに入ったのが12章でした。イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに近づいて行き、人々は熱狂的に歓迎しました。そうして13章から17章までが十字架に掛かる前の晩の「最後の晩餐」の時です。この「最後の晩餐」の後の18章でイエス様は祭司長たちに捕らえられ、19章で十字架に付けられて死に、20章で復活します。
さて、きょうは、「最後の晩餐」の締めくくりの場面です。イエス様は17章から天の父に祈り始めます。きょうの箇所に入る前に1節だけ見ておきます。17章1節、
ヨハネ17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
このようにイエス様は、「父よ、時が来ました。」と言って祈り始めました。「時が来ました」とは、十字架の時が来ましたということですね。そして、きょうの聖書箇所の20節で、イエス様はこうおっしゃいました。
20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
「ただこの人々のためだけではなく」とイエス様はおっしゃいました。「この人々」とは、「最後の晩餐」のテーブルにいる弟子たちです。この弟子たちだけでなく、彼らのことばによってイエス様を信じる人々のためにも、とイエス様はおっしゃいます。それは、私たちのことですね。私たちは弟子のペテロやヨハネやマタイたちのことばによってイエス様を信じました。ですから、このイエス様の祈りは私たちのための祈りでもあります。
そして、次の21節から23節に掛けてイエス様は「一つ」ということばを何度も使っています。まず21節、
21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
「すべての人を一つにしてください」とイエス様はおっしゃいました。次に22節、
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
「わたしたち」とは、父と子ですから、父と子が一つであるように、私たちも一つになるために、イエス様は父に祈っています。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。
私たちが完全に一つになるために、イエス様は私たちのうちにいて、父はイエス様のうちにおられます。私たちのうちにイエス様がいて、さらにイエス様のうちに天の父がいるんだとイエス様はおっしゃっています。面白いですね。イエス様は私たちのうちにいます。でも同時にイエス様は、21節では、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」と祈っていますから、私たちは父と子のうちにいます。
②互いに愛し合って、一つになる
この、神様は私たちのうちにもいるし、私たちも神様のうちにいるという表現は、きょうの聖書交読でご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一の4章にもありましたね。もう一度、私のほうで、第一ヨハネ4章の7節から16節までをお読みしますから、少し長いですが聞いていて下さい。
Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
神は愛です。私たちはその神様の愛に包まれていると同時に、私たちのうちにも、その神様の愛がとどまっています。この神様の愛によって、私たちは互いに愛し合って、一つになることができます。
イエス様は最後の晩餐を始めるに当たって身を低くして弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。そうして、弟子たちに様々なことを教えました。たとえばイエス様は15章で、こうおっしゃいました。
ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
この、15章5節の、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら」という表現もまた、第一ヨハネ4章の表現とよく似ていますね。そうして、ぶどうの木であるイエス様にとどまるなら、私たちは多くの実を結びます。このヨハネ15章は、浜田耕三先生も静岡聖会の説教の中で語っておられましたね。浜田先生は、私たちが結ぶ実とは私たちが内と外に結ぶ実であるとおっしゃいました。内に結ぶ実とは御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。そして外に結ぶ実とは、伝道によって新たにイエス様を信じる人々のことです。
私たちは御霊の実を結ぶことによって、愛と喜び、平安などを得ます。人に対して寛容になり、親切になることで、互いに愛し合えるようになり、一つになることができるのですね。ですから、私たちが一つになるためには、御霊が与えられることが欠かせないことになります。
そうしてまた、互いに愛し合えるようになることでイエス様に似た者にされて行き、イエス様の証人になることで、新たにイエス様を信じる人々がおこされるのですね。このように聖められることは簡単なことではないと私自身感じているところですが、イエス様が互いに愛し合いなさいとおっしゃいますから、そのような者に変えられたいと思います。
③皆に、そして一人一人に語るイエス様
ここで改めて、週報p.2の中心聖句の21節と23節にアンダーラインを引いた箇所のように、私たちがイエス様のうちにいると同時に、イエス様も私たちのうちにいる、とはどういうことかを考えたいと思います。実はこのことは来年の1月にも何度か繰り返し取り上げたいと願っていることです。きょうは、その予告編という感じで、段々と深めて行くことができたらと思っています。
きょう分かち合いたいことは、次のことです。私たちがイエス様のうちにいることで、私たちの皆にイエス様の同じことばが届きます。それと同時に、イエス様が私たち一人一人のうちにいることで、その人に合った伝え方でイエス様は語って下さるということです。
例えばイエス様は私たちの皆に、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。私たちは皆、この同じことばを聞きました。それは、私たちがイエス様のうちにいるからです。でもそれと同時に、私たちの一人一人のうちにいるイエス様はそれぞれに応じて、語り掛けて下さいます。私たちは皆、年齢も違いますし、信仰を持ってからの年数も違います。育った環境や社会経験などが皆違い、それぞれに異なる賜物が与えられています。その一人一人の違いに応じて、イエス様は語り掛けて下さいます。そうしてイエス様にあって互いに愛し合って、私たちは一つになります。
パウロは教会員の一人一人を体の器官にたとえていますね。パウロはローマ人への手紙12章でこのように書いています(週報p.2)。4節から7節までをお読みします。
ローマ12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、…
5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、…
私たちはイエス様のうちにいますから、イエス様にあって一つにされていますが、同時に私たち一人一人にイエス様がいて、それぞれに役割を与えて下さっています。体の臓器の心臓や肺、胃や腸、みんなそれぞれに違う働きがあるように私たち一人一人にも違う働きが与えられていて、しかし全体としては一つになっています。
サッカーやラグビー、バスケットボールやバレーボールのような球技もそうですね。メンバーのそれぞれに与えられたポジションがあって、ポジションごとに違う働きをしますが、全体として一つにまとまっていないと、動きがバラバラになってしまって、強いチームにはなりません。
教会も同じです。私たちはそれぞれの賜物に応じて一人一人が違う役割を与えられています。違う私たちが一つになってイエス様にお仕えするためには、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様もまた私たち一人一人のうちにいることを意識することが大切ではないでしょうか。
おわりに
来年の標語聖句は歴代誌第二の5章13節から、
歌い手たちが、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。
としました。実際の5章13節の聖句はもっと長いのですが、額に収まるように短くしてあります。
フライング気味ですが、予告編的に少しだけ話します。音楽には不思議な力があります。音楽には、人の心を癒す力があります。悲しみの中にある人の心を癒す力があります。或いは、これから仕事やスポーツの試合などで力を発揮しなければならない人を奮い立たせる力があります。病人を力づけて元気にする力さえあります。
きのうの晩、NHKのBSプレミアムで今年のショパンコンクールの日本人出場者を取材した番組を放送していました。その中の一人に、2次予選まで進んだ沢田蒼梧さんがいました。この沢田さんは何と、医学部の現役の学生なんですね。いま名古屋大学医学部の5年生だそうです。医学部の勉強だけでも相当に大変だと思いますが、その上、ショパンコンクールの1次予選を通って2次予選にまで進んだほどですから、ピアノの練習も相当にしています。ものすごく大変なことだと思いますが、これからも医学とピアノの両方に取り組んで行きたいとのことです。
その理由の一端を番組の中で語っていましたが、医者を目指す沢田さんは、音楽には人を癒す力があることに注目していて、単に医者として医学で人の病気を癒すだけでなくて、音楽によって人を癒すことにも関わっていきたいそうです。具体的にどうするかというプランはまだこれからのようですが、医者を目指す沢田さんが音楽には人を癒す力があると語っていたのを聞いて、本当にそうだなと思いました。
そしてまた、音楽には皆を一つにする力があります。教会で一つになるというと御霊の一致を考えますが、御霊の一致といっても、ちょっと分かりにくいですよね。教会にはまだ御霊を受けていない方々も集っています。まだ御霊を受けていない方々にとっては、余計に分かりにくいと思います。
御霊の一致は御霊を受けた人々の間でしか得られません。しかし音楽は、受けていない人も一つにする不思議な力があります。そうして、音楽によって一つにされる中で、御霊の一致とはどういうことかが段々と分かるようになると良いなと思っています。
きょう話した、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様も私たち一人一人のうちにいることを感じることは、御霊の一致を知る上で大切なヒントになると思いますから、これからも度々振り返ることになるだろうと思います。そういう意味で、きょうの話は、来年の話にもつながっています。
今年一年をイエス様が守って下さってことに、心一杯感謝したいと思います。私たちはイエス様のうちにいることで守られました。また、それぞれが違う困難の中も通りましたがイエス様が御霊を受けた者の一人一人のうちにもいて下さり、励まし、導いて下さいましたから、ここまで来ることができました。このことに心一杯感謝しながら、来年もまたイエス様と共に歩んで行きたいと思います。
しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。