平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

互いに愛し合って、一つになる(2021.12.26 年末感謝礼拝)

2021-12-27 10:30:19 | 礼拝メッセージ
2021年12月26日礼拝メッセージ
『互いに愛し合って、一つになる』
【ヨハネの福音書17章20~26節】

はじめに
 早いもので、今年最後の礼拝となりました。今年一年、イエス様が私たちを守って下さったことを、心一杯感謝したいと思います。

 きょうはまた、「最後の晩餐」のイエス様のことばに耳を傾けます。今年の後半は無会衆礼拝をしていた期間を含めて、ほとんどの礼拝で「最後の晩餐」の場面を開きました。この「最後の晩餐」のシリーズはアドベントの前で終わらせる予定でしたが、アドベントの前は宣教聖日礼拝と英和のハンドベル演奏会がありましたから、17章の「最後の晩餐」の締めくくりの部分は、きょうの年末感謝礼拝まで取っておくことにしました。

 きょうの中心聖句は週報p.2に記したようにヨハネ17章21節と23節です。

ヨハネ17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 この中でも、特にアンダーラインを引いた21節の「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください」と、23節の「わたしは彼らのうちにいて」に注目したいと思います。そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①一つになるべきことを説いたイエス様
 ②互いに愛し合って、一つになる
 ③皆に、そして一人一人に語るイエス様

①一つになるべきことを説いたイエス様
 まず、きょうのヨハネ17章がヨハネの福音書全体の中でどういう位置関係にあるかを簡単に復習しておきます。1章で宣教を開始したイエス様は、弟子たちと共にガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地方などを旅しながら、人々に教えを説きました。この間、イエス様はエルサレムに何度か出入りしていて、最後にエルサレムに入ったのが12章でした。イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに近づいて行き、人々は熱狂的に歓迎しました。そうして13章から17章までが十字架に掛かる前の晩の「最後の晩餐」の時です。この「最後の晩餐」の後の18章でイエス様は祭司長たちに捕らえられ、19章で十字架に付けられて死に、20章で復活します。

 さて、きょうは、「最後の晩餐」の締めくくりの場面です。イエス様は17章から天の父に祈り始めます。きょうの箇所に入る前に1節だけ見ておきます。17章1節、

ヨハネ17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

 このようにイエス様は、「父よ、時が来ました。」と言って祈り始めました。「時が来ました」とは、十字架の時が来ましたということですね。そして、きょうの聖書箇所の20節で、イエス様はこうおっしゃいました。

20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

 「ただこの人々のためだけではなく」とイエス様はおっしゃいました。「この人々」とは、「最後の晩餐」のテーブルにいる弟子たちです。この弟子たちだけでなく、彼らのことばによってイエス様を信じる人々のためにも、とイエス様はおっしゃいます。それは、私たちのことですね。私たちは弟子のペテロやヨハネやマタイたちのことばによってイエス様を信じました。ですから、このイエス様の祈りは私たちのための祈りでもあります。

 そして、次の21節から23節に掛けてイエス様は「一つ」ということばを何度も使っています。まず21節、

21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

 「すべての人を一つにしてください」とイエス様はおっしゃいました。次に22節、

22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

 「わたしたち」とは、父と子ですから、父と子が一つであるように、私たちも一つになるために、イエス様は父に祈っています。

23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 私たちが完全に一つになるために、イエス様は私たちのうちにいて、父はイエス様のうちにおられます。私たちのうちにイエス様がいて、さらにイエス様のうちに天の父がいるんだとイエス様はおっしゃっています。面白いですね。イエス様は私たちのうちにいます。でも同時にイエス様は、21節では、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」と祈っていますから、私たちは父と子のうちにいます。

②互いに愛し合って、一つになる
 この、神様は私たちのうちにもいるし、私たちも神様のうちにいるという表現は、きょうの聖書交読でご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一の4章にもありましたね。もう一度、私のほうで、第一ヨハネ4章の7節から16節までをお読みしますから、少し長いですが聞いていて下さい。

Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

 神は愛です。私たちはその神様の愛に包まれていると同時に、私たちのうちにも、その神様の愛がとどまっています。この神様の愛によって、私たちは互いに愛し合って、一つになることができます。

 イエス様は最後の晩餐を始めるに当たって身を低くして弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。そうして、弟子たちに様々なことを教えました。たとえばイエス様は15章で、こうおっしゃいました。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 この、15章5節の、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら」という表現もまた、第一ヨハネ4章の表現とよく似ていますね。そうして、ぶどうの木であるイエス様にとどまるなら、私たちは多くの実を結びます。このヨハネ15章は、浜田耕三先生も静岡聖会の説教の中で語っておられましたね。浜田先生は、私たちが結ぶ実とは私たちが内と外に結ぶ実であるとおっしゃいました。内に結ぶ実とは御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。そして外に結ぶ実とは、伝道によって新たにイエス様を信じる人々のことです。

 私たちは御霊の実を結ぶことによって、愛と喜び、平安などを得ます。人に対して寛容になり、親切になることで、互いに愛し合えるようになり、一つになることができるのですね。ですから、私たちが一つになるためには、御霊が与えられることが欠かせないことになります。

 そうしてまた、互いに愛し合えるようになることでイエス様に似た者にされて行き、イエス様の証人になることで、新たにイエス様を信じる人々がおこされるのですね。このように聖められることは簡単なことではないと私自身感じているところですが、イエス様が互いに愛し合いなさいとおっしゃいますから、そのような者に変えられたいと思います。

③皆に、そして一人一人に語るイエス様
 ここで改めて、週報p.2の中心聖句の21節と23節にアンダーラインを引いた箇所のように、私たちがイエス様のうちにいると同時に、イエス様も私たちのうちにいる、とはどういうことかを考えたいと思います。実はこのことは来年の1月にも何度か繰り返し取り上げたいと願っていることです。きょうは、その予告編という感じで、段々と深めて行くことができたらと思っています。

 きょう分かち合いたいことは、次のことです。私たちがイエス様のうちにいることで、私たちの皆にイエス様の同じことばが届きます。それと同時に、イエス様が私たち一人一人のうちにいることで、その人に合った伝え方でイエス様は語って下さるということです。

 例えばイエス様は私たちの皆に、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。私たちは皆、この同じことばを聞きました。それは、私たちがイエス様のうちにいるからです。でもそれと同時に、私たちの一人一人のうちにいるイエス様はそれぞれに応じて、語り掛けて下さいます。私たちは皆、年齢も違いますし、信仰を持ってからの年数も違います。育った環境や社会経験などが皆違い、それぞれに異なる賜物が与えられています。その一人一人の違いに応じて、イエス様は語り掛けて下さいます。そうしてイエス様にあって互いに愛し合って、私たちは一つになります。

 パウロは教会員の一人一人を体の器官にたとえていますね。パウロはローマ人への手紙12章でこのように書いています(週報p.2)。4節から7節までをお読みします。

ローマ12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、…

 私たちはイエス様のうちにいますから、イエス様にあって一つにされていますが、同時に私たち一人一人にイエス様がいて、それぞれに役割を与えて下さっています。体の臓器の心臓や肺、胃や腸、みんなそれぞれに違う働きがあるように私たち一人一人にも違う働きが与えられていて、しかし全体としては一つになっています。

 サッカーやラグビー、バスケットボールやバレーボールのような球技もそうですね。メンバーのそれぞれに与えられたポジションがあって、ポジションごとに違う働きをしますが、全体として一つにまとまっていないと、動きがバラバラになってしまって、強いチームにはなりません。

 教会も同じです。私たちはそれぞれの賜物に応じて一人一人が違う役割を与えられています。違う私たちが一つになってイエス様にお仕えするためには、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様もまた私たち一人一人のうちにいることを意識することが大切ではないでしょうか。

おわりに
 来年の標語聖句は歴代誌第二の5章13節から、

歌い手たちが、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。

としました。実際の5章13節の聖句はもっと長いのですが、額に収まるように短くしてあります。

 フライング気味ですが、予告編的に少しだけ話します。音楽には不思議な力があります。音楽には、人の心を癒す力があります。悲しみの中にある人の心を癒す力があります。或いは、これから仕事やスポーツの試合などで力を発揮しなければならない人を奮い立たせる力があります。病人を力づけて元気にする力さえあります。

 きのうの晩、NHKのBSプレミアムで今年のショパンコンクールの日本人出場者を取材した番組を放送していました。その中の一人に、2次予選まで進んだ沢田蒼梧さんがいました。この沢田さんは何と、医学部の現役の学生なんですね。いま名古屋大学医学部の5年生だそうです。医学部の勉強だけでも相当に大変だと思いますが、その上、ショパンコンクールの1次予選を通って2次予選にまで進んだほどですから、ピアノの練習も相当にしています。ものすごく大変なことだと思いますが、これからも医学とピアノの両方に取り組んで行きたいとのことです。

 その理由の一端を番組の中で語っていましたが、医者を目指す沢田さんは、音楽には人を癒す力があることに注目していて、単に医者として医学で人の病気を癒すだけでなくて、音楽によって人を癒すことにも関わっていきたいそうです。具体的にどうするかというプランはまだこれからのようですが、医者を目指す沢田さんが音楽には人を癒す力があると語っていたのを聞いて、本当にそうだなと思いました。

 そしてまた、音楽には皆を一つにする力があります。教会で一つになるというと御霊の一致を考えますが、御霊の一致といっても、ちょっと分かりにくいですよね。教会にはまだ御霊を受けていない方々も集っています。まだ御霊を受けていない方々にとっては、余計に分かりにくいと思います。

 御霊の一致は御霊を受けた人々の間でしか得られません。しかし音楽は、受けていない人も一つにする不思議な力があります。そうして、音楽によって一つにされる中で、御霊の一致とはどういうことかが段々と分かるようになると良いなと思っています。

 きょう話した、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様も私たち一人一人のうちにいることを感じることは、御霊の一致を知る上で大切なヒントになると思いますから、これからも度々振り返ることになるだろうと思います。そういう意味で、きょうの話は、来年の話にもつながっています。

 今年一年をイエス様が守って下さってことに、心一杯感謝したいと思います。私たちはイエス様のうちにいることで守られました。また、それぞれが違う困難の中も通りましたがイエス様が御霊を受けた者の一人一人のうちにもいて下さり、励まし、導いて下さいましたから、ここまで来ることができました。このことに心一杯感謝しながら、来年もまたイエス様と共に歩んで行きたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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天からの賛美による励まし(2021.12.19 クリスマス礼拝)

2021-12-20 09:05:55 | 礼拝メッセージ
2021年12月19日クリスマス礼拝メッセージ
『天からの賛美による励まし』
【ルカ2:8~20】

はじめに
 クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストは天から遣わされてクリスマスの日に、私たちのために生まれて下さいました。きょうはこのことをご一緒に、心一杯感謝したいと思います。

 1ヶ月前の英和のハンドベル部の演奏会では地元の田町3丁目自治会の主催、2丁目と4丁目の共催となったことで、100名以上の多くの方々が来て下さいました。このことを通して音楽の力の大きさを、強く感じています。音楽は人を癒し、励まし、多くの人々を一つにする力があります。そこで、来年の標語聖句は音楽に関係するみことばです。いま、担当の姉妹が準備して下さっていると思います。そして、きょうのクリスマス礼拝の中心聖句も、音楽に関係する箇所としました。

 きょうの中心聖句はルカ2章の13節と14節です。

ルカ2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①天からの賛美に励まされた羊飼いたち
 ②罪人が悔い改めると大喜びする天の御国
 ③神の子どもとされて得られる深い平安

 3番目のパートは先週の祈り会で話したことと重なりますが、礼拝に出席されている皆さんとも分かち合いたく願っていることですから、ご容赦下さい。

①天からの賛美に励まされた羊飼いたち
 きょうの聖書箇所はルカ2章8節からですが、1節から見て行きます。1節と2節、

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

 ルカが皇帝と総督の名を書き記したことで、イエス・キリストがお生まれになった年が何年のことだったかが、かなり正確に分かっています。ローマ帝国に関する歴史的な資料は聖書とは別に残されているからです。また、イエスという人物が十字架刑で死んだことも、聖書とは別に1世紀の歴史家のヨセフスというユダヤ人が書き残していることなどから、イエス様が歴史的に実在した人物であることは事実として広く認められています。

 さて、イエス様が生まれた年にローマ帝国で住民登録がありました。そこでヨセフは先祖のダビデの出身地のベツレヘムにマリアと共に行きました。そうして、マリアはベツレヘムでイエス様を生みました。イエス様が生まれたのは家畜小屋で、飼葉桶に寝かせられました。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とルカは書いています。もし、ヨセフがお金持ちだったなら、お金の力でどこかちゃんとした所に泊まることもできたことでしょう。でも、ヨセフは裕福では無かったようです。それは、左側のページの22節以降の箇所から分かります。イエス様が生まれた後、両親は幼子を主に献げるためにエルサレムの神殿に行きました。この時、24節によれば山鳩か家鳩が献げられたようです。神殿で献げるのは羊ですが、余裕が無ければ鳩でも良いと旧約聖書のレビ記に書いてあります。ということは、羊ではなく鳩を献げたヨセフとマリアは裕福ではなかったということです。

 でも、イエス様はそういう貧しい家庭で生まれ育ったからこそ、弱い人々の気持ちが分かり、寄り添うことができました。また、家畜小屋で生まれたことで羊飼いたちが見に行くことができました。司会者に読んでいただいた箇所は、その場面です。まず8節と9節、

8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 主の使いというのは、天使のことです。ベツレヘムで羊の群れの夜番をして野宿をしていた羊飼いたちのところに天使がやって来て、救い主が生まれたことを告げました。羊飼いは社会の底辺にいる蔑まれた人々であったと言われています。蔑まされていた理由の一つは、仕事を休むべき安息日にも彼らが働いて律法を守っていなかったからだそうです。でも、羊の世話がありますから、安息日に休めないのは、仕方のないことです。

 この羊飼いたちが飼っていた羊は、エルサレムの神殿で献げる羊だったのではないか、とも言われています。神殿で羊を献げている裕福な者たちは、羊飼いたちのおかげで律法を守ることができていました。それなのに羊飼いたちが蔑まれていたとしたら、とても理不尽ですね。でも、このような理不尽は現代においてもあります。私たちが生活する上で必要不可欠な尊い働きをして下さっている方々の多くは安い給料できつい仕事をしています。羊飼いたちの仕事も夜番で野宿しなければならないという、きつい仕事でした。主はそのような者たちに目を留めて、良い知らせを一番最初に伝えるために天使を遣わして下さいました。

 しかし、「彼らは非常に恐れた」とあります。それはそうですね。暗い夜中に突然周りが明るくなったら、誰でもビックリして恐れるでしょう。恐れる彼らに御使いは言いました。10節から12節、

10 「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 御使いは11節にあるように、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言いました。救い主というと、当時のユダヤ人たちはローマ帝国の支配から救い出してくれるダビデのような強い王を待ち望んでいた、とよく言われます。でも考えてみると、そのような強い王を望んでいたのは律法を守って羊を献げることができた余裕のある人たちだったのですね。そうして余裕のある人々はイエス様が期待したような強い王ではなかったことにガッカリして「十字架に付けろ」と叫んでイエス様を殺してしまいました。

 しかし、本当の救い主であるイエス様は、羊飼いたちのような者たちのための救い主でした。それは、イエス様ご自身がルカ4章で言っておられる通りです。ルカ4章18節(週報p.2)、

ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」

 このように、イエス様は先ずは、羊飼いたちのような貧しくて弱い立場にいる人々に良い知らせを伝えるために遣わされました。王様が強いとか弱いとか、そういうこととは無関係な場所で、きつい仕事をしながらギリギリの生活をしている者たちに救いをもたらすために、イエス様は天から地上に来て下さいました。2章に戻ります。13節と14節、

13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 この13節と14節が、きょうの中心聖句です。羊飼いたちは、御使いのことばを聞いても、まだ半信半疑だったのではないかな、と思います。でも、この13節のおびただしい天の軍勢による賛美によって励まされて、皆が一つになったのではないでしょうか。15節、

15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」

 私たちの性格は皆それぞれ違いますから、考えることも異なります。羊飼いたちの考えもいろいろだったでしょう。好奇心が旺盛な者は「見に行こう」と思い、疑い深い者や慎重な者は「怪しい」と思い、真面目な者は「羊の番はどうするんだ」と思ったかもしれません。でも、話し合って皆で、この出来事を見届けることにしました。それは、天の軍勢による賛美があったからではないでしょうか。音楽には人の心を励まし、皆を一つにする不思議な力があります。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」この賛美に励まされて、羊飼いたちはベツレヘムに行ったのでしょう。16節から19節、

16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

 この18節の驚いた人たちと19節のマリアとの対比は興味深いな~と思います。神様のすごい御業を見た時、大抵の人は驚きますが、驚くだけで終わってしまいます。例えば、モーセの時代にエジプトを脱出した民は、海が二つに割れるのを見た時、とても驚いたに違いありません。でも、驚いただけで、神様について深く思いを巡らすことはしなかったのでしょう。急いで逃げなければなりませんでしたから、思いを巡らす余裕は無かったと思いますから、仕方がなかったでしょう。でも神様のことは深く思いを巡らさなければ、信仰は育たないということを、モーセの時代のイスラエルの民は教えてくれています。この18節の人々も単に驚いただけだったようです。しかし、マリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていました。そして20節、

20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 羊飼いたちも賛美しながら帰って行きましたから、すぐに忘れることなく彼らの信仰は深まったことでしょう。この羊飼いたちの賛美も、天の軍勢の賛美による励ましの効果が大きかったのではないでしょうか。

②罪人が悔い改めると大喜びする天の御国
 羊飼いたちは、天の軍勢の賛美に励まされて、救い主の誕生を見届けに行ったのでしょう。そして、この天の軍勢の賛美はまた、これから多くの人々が御子によって救われること、その救いの時代がいよいよ到来したこと、そのことを喜び祝っているようにも、聞こえます。
 きょうの聖書交読では、ルカの福音書15章を開きました。ここでイエス様は、罪人が悔い改めた時には天が大喜びすると、おっしゃいました。ルカ15章をご一緒に見ましょう(新約p.148)。私のほうでお読みします。4節から7節、

ルカ15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 イエス様が生まれた日に羊飼いたちの上で天の軍勢が賛美したことは、イエス様がこの7節で「大きな喜びが天にあるのです」とおっしゃったことの壮大な予告編であったように感じます。続いて8節から10節、

8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 皆さんは、ご自身が救われた時にも、こんな風に天が大喜びしたんだと想像したことがあるでしょうか?私はあります。今でもよく想像します。こんな小さな私のために、天がこれほどの大喜びをしたんだと思うと、体が熱くなります。救われることの恵みをしみじみと感じて、幸せな気分になります。

③神の子どもとされて得られる深い平安
 放蕩息子が救われた時も、天が大喜びをして祝宴を開きました。ルカ15章24節にある父の家の祝宴とは、天の祝宴のことでしょう。22節から24節までをお読みします。

22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

 放蕩息子は、父が自分のことを父の子どもとして迎え入れてくれたことで、心の底から平安を感じたであろうと思います。私たちもまた、イエス・キリストを信じて受け入れるなら、神の子どもとされます。ヨハネは1:12で書いていますね(週報p.2)。

ヨハネ1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

 このように神の子どもとされることは特権であり、素晴らしい恵みです。特権だから、天は盛大にお祝いして下さるんですね。そうして神の子どもとされることで私たちは深い平安を得られます。ここから先は先週の木曜日の祈祷会で話したことと重なりますが、皆さんと分かち合いたいと思いますから、ご容赦願います。

 救われて心の平安を得て以来私は、十字架を見るたびに、深い平安を感じるようになりました。でも、残酷な刑罰である十字架を見て、どうしてこんなにも深い平安が得られるのか、長い間不思議でいました。平安が得られるのは自分の罪が赦されたからだとよく言われます。もちろん、そうだと思います。でも、この深い平安は罪が赦されたからだけではないような気が、ずっとしていました。

 それが最近になって、神の子どもとされたから、こんなにも深い平安が得られたのだと、放蕩息子の帰郷の場面を読み直して、分かった気がしました。私も放蕩息子と同じです。神様に逆らって、強がって、いきがっていたみじめな私が神様の憐れみによって教会に導かれて、教会こそが自分が辿り着くべき場所だったのだと気付いた時、神様はおっしゃったのだと思います。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」そうして天で祝宴を開いて下さったのだと思います。そして救われた私は、少しずつですが、きよめられる恵み、御霊の実を結ぶ恵みもいただいています。

 このところ私はSNSのツイッターで、保護された野良猫の子猫を一定期間育てるボランティアをしている方の動画を興味深く見ています。その方は、地元の保健所に持ち込まれた野良の子猫を一定期間家庭に引き取って育てるボランティアをしています。保護されたばかりの子猫は大抵の場合は警戒心が強くて人に懐きません。生まれたばかりなら別だと思いますが、2~3ヶ月を外で野良猫として過ごすと、人を警戒して牙をむき出して威嚇したり、爪で引っかいたりします。これでは、なかなか引き取る里親がいません。でも、このボランティアの方はこのような野良の子猫を人に甘える猫に変える名人なんですね。

 保健所から預かったばかりの頃の子猫は本当に牙をむき出しにしてシャーッと息を吐いて般若のお面のような恐ろしい形相をします。そんな子猫も、人が愛情を注ぎ続けると、段々と穏やかな顔になり、やがて甘えるようになります。そうして里親に引き取られて深い平安を得ます。子猫の平安に満ちた表情を見ると、放蕩息子が父の家に帰って神の子どもとされて得られた平安も、こういうものであったのだろうと思います。それは私が得た平安でもあります。

 教会に辿り着く前の私は、宗教に警戒心を持っていて、聖書の話にも拒否反応を示していました。それはまるで、子猫が般若のような形相をして牙をむき出しにして威嚇するのと同じです。それはつまり、私自身がイエス様を十字架に付けていたということです。そんな私を神様は憐れんで下さり、保護して神の子どもとして下さり、深い平安を与えて下さいました。

おわりに
 きょうご一緒に読んだルカ15章の最初のたとえ話は、いなくなった羊についてですが、私の場合は羊よりは野良猫だったんだと思います。でも、天の神様がイエス様を、地上に遣わして下さったことで神の子どもとされて深い平安を得ました。そのことに感謝して、私も神様を賛美します。

 一人の罪人が悔い改めるなら、天は大喜びして祝宴をします。イエス様がお生まれになった時に羊飼いたちの上で天の軍勢が賛美の大合唱をしたことは、私たちの一人一人が救われて天が大喜びする時の予告編であったと感じます。

 イエス様を信じると、天が大喜びして賛美歌の大合唱をして下さるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。何と光栄なことでしょうか。このことに心一杯感謝したいと思います。そうして、イエス様がこの世に生まれて下さったクリスマスを、共にお祝いしたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
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神の子どもとされて、深い平安を得る(2021.12.16 祈り会)

2021-12-18 10:43:50 | 祈り会メッセージ
2021年12月16日祈り会メッセージ
『神の子どもとされて、深い平安を得る』
【イザヤ53:4~6、】

イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 アドベント第3週の祈り会では、イザヤ書53章に目を留めます。第1週の先々週はイザヤ書の9章、特に6節に目を留めました。イザヤ9章6節、

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 そしてアドベント第2週の先週はイザヤ61章を開きました。このイザヤ61章は、イエス様がおよそ30歳で宣教を開始した時に、ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を渡された時に読んだ箇所です。61章をご一緒に見ましょう(p.1271)。61章1節、

イザヤ61:1 神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。

 主イエス様は貧しい私たちに良い知らせを伝えるため、心の傷ついた私たちを癒すために、天の父に遣わされました。また61章3節には「憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために」とあります。この「賛美の外套」によって、暗闇の中で寒さに凍えていた私たちの心が温められて開き、神様の方を向くことができるようになりました。

 このことが神様に義と認められて、10節で「救いの衣」を着せられて「正義の外套」がまとわされて、私たちは主にあって大いに楽しみ、喜びます。イザヤ61章10節、

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

 この10節からは、放蕩息子が父親の家に帰った時の場面が連想されるという話を先週しました。父親は放蕩息子に一番良い衣を着せて指輪をはめ、そうして祝宴を始めました。放蕩息子も大いに楽しみ喜んだことでしょう。放蕩息子は自分が父親の子であることを実感して心の深い平安を得たことと思います。このイザヤ書61章とルカの福音書の「放蕩息子の帰郷」の場面とがつながったことで、十字架を見るとなぜ心の平安が与えられるかの不思議をようやく私は理解できた気がしました。きょう最初にご一緒に読んだイザヤ書53章にも描かれているように、十字架の場面は残酷です。イザヤ書53章5節、

イザヤ53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 そうしてイエス様は十字架で死にました。この残酷な刑罰である十字架がなぜ、人の心に平安を与えるのか、長い間不思議に思っていました。それは、十字架によって私の罪が赦されたからだと、言われます。それは分かります。確かに、自分の罪が赦されたことで、平安は得られるでしょう。でも、罪が赦されることだけで、ここまで深い平安が得られるだろうか、というのが私の疑問でした。

 なぜなら、たとえ罪が赦されたとしても、自分の犯した罪は決して忘れないからです。たとえ主ご自身がエレミヤ書にあるように「もはや思い起こさない」(エレミヤ31:34)とおっしゃって下さっても、自分は罪を覚えています。覚えているべきです。覚えていないと、同じ過ちを犯すかもしれませんから、覚えているべきです。ですから、たとえ主が罪を赦して下さったとしても、自分が犯した罪の記憶が残っている限りは、ある程度の平安は得られたとしても、心の底からの深い平安は得られない筈です。でも、私が得た平安は本当に心の底からの深い平安でしたから、この深い平安がどこから来るのか、いつも不思議に思っていました。

 十字架を見ると、本当に心の平安が得られます。私の場合は、特に高津教会の建物の上にある十字架と、会堂の中の十字架によって深い平安が得られていました。神学生の2年生と3年生の時は、東京・千葉方面の教会に遣わされていました。それで日曜日の朝には横浜の青葉台の駅から東急の田園都市線の快速電車に乗って渋谷方面に向かいました。その際、高津教会のすぐそばを通りますから、必ず高津教会の十字架を見るようにしていました。見れば心の平安が得られるからです。神学生の生活は私にとってはストレスが多かったですから、高津教会の十字架には本当に癒されました。たまに、電車の中で考えごとをしていて、いつの間にか高津を通り過ぎていた時は、とてもガッカリしました。

 また、年に1回程度でしたが神学生としての証しをするために高津教会を訪れた時には、会堂の中の十字架に見とれていました。どの十字架を見ても心の平安は得られますが、やはり私にとっては救われた教会である高津教会の十字架は格別であり、見る度に深い平安が得られます。そして、なぜ十字架はこんなにも平安を与えてくれるのだろうか、といつも不思議に思っていましたが、それは自分が神の子とされたからなんだ、ということがようやく分かって来ました。私の場合は、十字架を見る度に自分が神の子とされていることの確証が得られる、それゆえ十字架を見ると深い平安が得られるようです。そのことを放蕩息子が父の家に帰った場面から教えられました。

 私はSNSのツイッターをよく見ていて、最近は、保護された野良の子猫を育てている人たちの動画を興味深く見ています。野良の子猫は、保護されたばかりの頃はほとんどの場合、人を警戒していて、近づくと牙をむき出しにしてシャーッと威嚇の声を出して敵意を顕わにします。しかし、人が優しく接して愛情を注ぎ続けると、何日かすると牙をむき出すシャーッをしなくなり、顔がだんだん穏やかになります。そうして、さらに何日か経つと甘えるようになり、優しい顔になり、何週間かすると幸せそうなデレデレの顔になります。私たちが神の子とされて得られる平安とは、この保護された子猫たちの平安に似ているのではないかなと思います。

 宗教を警戒していた時の私は、まさにシャーッと牙をむき出して威嚇する子猫のように、自分で自分を守ろうとしていました。たいして強くないのに強がって神様を拒否し、反抗していました。しかし、そんな私に神様は愛情を注いで下さいましたから、やがて私は神様に反抗しなくなりました。そうして神様のほうを向くようになり、そんな私を神様は義と認めて下さったのでしょう。やがて自分が平安の中にいることを感じるようになりました。以前はいつも漠然とした不安の中にいたのに、いつの間にか、その不安が取り去られていました。それは私が神の子とされたから得られた平安であり、その平安が得られたから、イザヤ書53章も心に響くようになったのだと思います。イザヤ書53章5節と6節、

イザヤ53:5 彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 教会に導かれる前の私たちは羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かっていました。私の場合は羊というよりも野良猫だったのでしょう。若い時の私は外国人の宣教師を冷たく突き放したこともありました。まるで子猫が牙をむき出しにしてシャーッと威嚇しているようでもあり、それはつまり私自身がイエス様を十字架に付けたのと同じことです。そんな私を神様は憐れんで下さり、重い罪を赦して下さり、神の子どもとして下さいました。そしてさらに、御霊の実を結んで聖められるようにと導かれています。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。かつて野良の子猫のように牙をむき出していた者でしたが、人を癒すことができる者へ変わるようにと導かれています。

 先聖日、ある方がカレンダーをプレゼントしていて、私もいただきました。そのカレンダーには犬と猫の写真が印刷されていました。犬や猫は人の心を癒す大切な働きをしていますね。私も神学生の時は神学院で飼っていた犬に癒されていました。でも、いくら犬や猫が人を癒す存在だとしても、野良犬や野良猫のように、人に向かって牙をむき出しにして威嚇している間は、人を癒すことはできません。私たちも同じですね。ですから、私たちは御霊の実を結びたいと思います。

 かつて私はイエス様を十字架に付けた、人を威嚇する野良猫でした。そんな私を天の父は憐れんで保護して下さり、父の家の子どもとして下さり、平安を与えて下さいました。そのことに感謝して、御霊の実を結ぶ者にされたいと私は願っています。御霊の実によってイエス様に似た者にされて、人を癒すことができる者へと変えられたいと願っています。天の父は、そのためにイエス様を地上に遣わして下さいました。そうしてイエス様はヨセフとマリアの子としてお生まれになりました。クリスマスを目前に控えた今、このことに改めて感謝したいと思います。そして、私たち教会員の皆が共に御霊の実を結んで行くことができる、お互いでありたいと思います。

 お祈りします。
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歩きはじめる言葉たち(2021.12.12 アドベント第3礼拝)

2021-12-13 05:30:00 | 礼拝メッセージ
2021年12月12日アドベント第3礼拝メッセージ
『歩きはじめる言葉たち』
【ルカの福音書4章16~22節】

はじめに
 一昨日の12月10日(金)から静岡東宝会館でドキュメンタリー映画の『歩きはじめる言葉たち』の公開が始まりました。東京では10月に公開されて、いま全国の映画館で順次上映されています。私は10月に東京の渋谷でこの映画を観ましたが、静岡の初日の一昨日も東宝会館に行って観て来ました。そうして礼拝メッセージのタイトルは、映画と同じ『歩き始める言葉たち』にすべきという強い促しを心の中に受けました。そこで、当初予定していたメッセージを変更します。



 このドキュメンタリー映画では、去年の3月31日に心臓病で突然この世を去った佐々部清監督への関係者の想いが語られ、また手紙で言葉が綴られます。サブタイトルも含めた映画のタイトルは『歩きはじめる言葉たち 漂流ポスト3.11をたずねて』です。漂流ポスト3.11というのは岩手県にある郵便ポストで、3.11の大震災で亡くなった方々に宛ててご遺族などが書いた手紙が投函されることで有名になったポストです。今では大震災以外で亡くなった方への手紙も投函されるようになっているそうです。映画では、佐々部監督と関係が深かった方々の手紙を俳優の升毅さんが預かり、最後に漂流ポストに投函しました。10通近くの手紙がありましたから、ポストの底に落ちた時にやや大きな音がしました。その音が耳に残り、私も佐々部監督に手紙を書かなければという思いが強くなりました。そこで、きょうの礼拝メッセージは、私から佐々部監督への手紙、という形で語らせていただきたいと思います。

 いまキリスト教会と映画の業界とは、似たような状況にあるように思います。映画は派手なアクション映画や刺激の強い暴力シーンがある映画、激しい戦闘のシーンがある戦争映画、或いはSF映画などには観客が大勢入りますが、愛が中心のジワーっと心が温まるような映画にはお客さんがあまり入らないという状況があるように思います。教会も神様の愛を感じて心が温まる場所ですが、教会には以前ほど人が集まらなくなっています。そんなことを佐々部監督への手紙に書きました。特に今のクリスマスの時期には、御子イエス・キリストを私たちのために遣わして下さった神様の愛を多くの方々に知っていただきたいと願っていますから、そのことを思いながら手紙を書きました。きょうの聖書箇所は、手紙の中で読みます。

佐々部清様
 佐々部監督と最後に会ったのが2020年の1月でしたから、もうすぐ2年になりますね。僕は今年の10月で62歳になりました。いま62歳と2ヶ月弱です。佐々部監督が亡くなったのが62歳と3ヶ月弱の時でしたから、あと1ヶ月で僕は佐々部監督が亡くなった歳になり、なお生き続けるなら、監督が生きた歳月を越えて行くことになります。佐々部監督が突然亡くなって以来、人間はいつ死ぬか分からない存在であり、自分もいつ死ぬか分からないということを、いつも考えさせられています。

 さて最近、プロデューサーの野村さんたちが作ったドキュメンタリー映画の『歩きはじめる言葉たち』を観ました。その映画の中で、佐々部監督が亡くなる20日前の2020年3月11日に書いたブログの記事が紹介されていました。東日本大震災を題材にした映画を監督は何本も企画して脚本を書いたけれども、いずれも資金が得られずに製作を断念したとのことでした。当時、僕もこのブログ記事を読んでいましたが、映画で改めて思い出しました。そして、映画の業界が抱えている問題とキリスト教会が抱えている問題が似ているように思いました。きょうはそのことを手紙に書きたいと思います。映画の業界については僕の推測が混じっていますから、間違っている部分もあるかもしれませんが、ご容赦下さい。

 佐々部監督の映画はどのような題材であれ、家族愛や隣人愛が中心にありましたね。僕たち佐々部映画ファンは、監督が描くしみじみと心にしみる愛にとても温かいものを感じて胸が一杯になり、熱烈に応援して来ました。でも、映画製作に必要な資金を出資する側から見ると、家族愛や隣人愛が中心の映画では観客数があまり期待できず、資金を回収する目途が立たないから出資できないということになるのでしょうか。家族愛・隣人愛にニーズが無いわけではなく、テレビでは多くのドラマが作られています。でもわざわざ映画館まで足を運んで、お金を払ってまで家族愛・隣人愛の映画を観ようという人は少ないだろうと出資者は考えるのでしょうか?

 でも映画館という日常生活とは異なる空間で鑑賞する家族愛・隣人愛は自宅で観るのと違って、もっと心の奥深くに浸み込むものであり、時には突き刺さるものです。自宅では、それほど集中して観ることはできませんし、画面も劇場より小さいですから、劇場ほどには心に響いて来ないでしょう。僕は佐々部監督作品の第2作『チルソクの夏』を最初に観た時に心を刺し貫かれました。そうして、もう一度観たくなって行った劇場で、監督と出会うことができました。もし最初に観たのが映画館でなく自宅でのDVDであったなら、『チルソクの夏』が僕の心を刺し貫くことはなかったのではないかと思います。

 この映画ではヒロインの郁子が、韓国人を差別する家族や周囲に反発していましたね。僕はこのことに心を刺し貫かれました。なぜなら、子供時代の僕は周囲に何ら反発を感じることなく、差別意識をそのまま受け入れてしまっていたからです。大人になってからは、差別意識はほとんどなくなりましたが、それでも微かに残っていることを自分でも感じていました。そうして職場の留学生センターで韓国人留学生のお世話をすることが決まった時、この問題をどうしても克服する必要を感じました。それで韓国の田舎で鳥を観察する韓国バード・ウォッチングツアーに参加しました。約1週間、韓国南部の田舎で韓国人の人情の温かさに触れる中で、薄っすらと残っていた差別意識は完全になくなり、僕は韓国が大好きになりました。

 しかし、かつて周囲の差別意識をそのまま受け入れて自分も差別意識を持っていた事実は消せません。どうして自分は『チルソクの夏』のヒロインの郁子のように、差別をおかしなことと思わなかったのか。この映画を観て僕は心を刺し貫かれて、心が痛みました。でも痛んだけれども、不思議な平安もまた、この映画で感じました。郁子が、自分の家族もまた別の痛みを抱えていることに気付き、家族を赦して父親にギターをプレゼントした場面は本当に感動的でした。これは劇場という日常とは異なる空間で鑑賞したからこそ、強く感じることができた痛みと平安だったのだと思います。

 出資する側は、家族愛・隣人愛では日常の延長であり、それでは観客が見込めないと考えているのでしょうか?ホラーやアクション、SFのように日常では有り得ない刺激が強い映画でないと観客が映画館に足を運ばず、資金の回収は難しいと考えているのでしょうか?そういう面もあるのでしょうね。でもそれは、佐々部監督も言っていたように、出資する側が作り出した状況なのだと思います。刺激の強い映画への出資が偏るようになった結果、観客側もそれに慣らされてしまって、家族愛や隣人愛はテレビドラマで十分と考えるようになってしまっているように思います。そうして監督が作りたかったような、しみじみ温かい映画にはますます資金が集まらないという悪循環に陥っているのでしょうか。

 おととし公開された韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』が話題になった時、僕も観ておかなければと思って劇場で観ました。途中までは面白く観ていましたが、終盤に凄絶な場面がありましたから、とても暗い気分になりました。家族の物語に、どうしてこんな殺人の場面が必要なんでしょうか?刺激が強くなければ観客が満足しないのでしょうか?こういう場面に観客が慣らされていくことは、とても恐ろしいことだと思います。

 去年公開された「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が大ヒットして日本の興行収入の歴代1位を記録しました。今の人々が何を求めているのかが知りたくて僕も観に行きましたが、またまた暗い気持ちになりました。刺激が強い凄絶な場面の中にちょっとだけ家族愛・隣人愛の要素が含まれている、こういう映画でないと多くの人々が劇場に足を運ばない時代になっているとしたら、かなりマズイ気がします。

 映画業界が抱えるこのような問題を、キリスト教会も似た形で抱えているように思います。教会の中の空間もまた、日常とは異なる場です。そうして、聖書の言葉を通して神様からの語り掛けを受け、神様の愛を感じる場です。「互いに愛し合いなさい」と神様に語り掛けられ、僕たちもそのような者になりたいと思わされる場です。神様の愛は心の奥底にじんわりと浸み込んで来るタイプのものです。また時には自分の罪深さを神様に指摘されて、心を刺し貫かれることもあります。これらは日常生活とは異なる空間の教会の中だからこそ敏感に感じることができるものでしょう。でも、今は教会に足を運ぶ人が少なくなってしまいました。人々が強い刺激を目と耳から受けることに慣れてしまった結果、心の目で見て、心の耳で聴くことが下手になってしまったのでしょうか?心の目で見て、心の耳で聴かなければ、神様の語り掛けはなかなか聴こえてきません。

 きょうの聖書箇所のルカの福音書4章16節から22節は、イエスが僕たちのために遣わされたことを豊かに物語っている場面ですが、現代人には伝わりにくくなっているのかもしれません。

ルカ4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

 この場面は、イエス・キリストがおよそ30歳で人々への宣教を始めたばかりの頃の記事です。クリスマスにヨセフとマリアの子として生まれたイエスが大人になり、いよいよ人々へ教えを説き始めました。その時、故郷のナザレでユダヤ教の会堂に入ったところ、旧約聖書のイザヤ書の巻物が渡されました。イザヤ書はイエスが生まれる数百年前に書かれた書です。この巻物を開いたイエスは18節と19節に書かれていることばに目を留めて、朗読しました。

18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」

 この言葉はイザヤ書61章に書かれています。そしてイエスは言いました。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」つまり、この神に遣わされた者とは自分のことであるとイエスは言いました。イエスが生まれる何百年も前に書かれたイザヤの言葉がこうして成就しました。そうしてイエスは貧しい人々に良い知らせを伝えました。この良い知らせは時間と空間を超えて現代の僕たちにも届けられています。

 イエスは神の子どもであり、天から遣わされてヨセフとマリアの子となり、クリスマスの日に生まれました。神様は私たちを愛して下さっていますから、私たちのために御子のイエスを地上に遣わして下さいました。イエスは家畜小屋という出産にはふさわしくない場所で生まれ、ナザレという貧しい田舎町で育ちました。22節にイエスを見た人々が「この人はヨセフの子ではないか」と言ったことから、父のヨセフはナザレの人々から低く見られていたことが分かります。しかし、それだからこそ、イエスは弱い立場の人々に寄り添うことができました。そんなイエスを弱くない立場の人々が十字架に付けて殺してしまいました。

 人は、こういう恐ろしい罪を心の中に抱えています。でも、イエスは人々の罪を赦しました。十字架に付けられたイエスは天の神様にこう言いました。

ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 僕たち人間は、本当に自分が何をしているのかが分かっていない罪深い存在だと思います。子供時代の僕は韓国人を差別していながら、それを罪とは思っていませんでした。大人になった今もきっと自分では気付いていない罪を多く抱えているのでしょう。

 人が「自分が何をしているのかが分かっていない」ことは、特に戦争でそれを感じます。僕が佐々部監督の映画に初めてエキストラで参加したのが、人間魚雷「回天」の搭乗員を描いた『出口のない海』でした。人間を魚雷に乗せて船に体当たりさせる特攻作戦は狂気の沙汰としか思えず、この人間魚雷「回天」を考案した人や搭乗員を募って攻撃を命じた人は、本当に「自分が何をしているのかが分かっていない」人々だと思います。

 それは、原爆という恐ろしい核兵器を落とした側にも言えます。原子爆弾を製造して落とした側の人々は、「自分が何をしているのかが分かっていない」人々です。こうの史代さんが原作の、原爆症で亡くなった女性とその家族を描いた『夕凪の街 桜の国』で佐々部監督は家族の愛をとても温かく表現していて、僕はこの映画にエキストラに参加することができて本当に良かったです。この映画では、原爆ドームの前に架かる相生橋をヒロインと反対方向に歩く通行人の役をさせてもらいました。佐々部監督もご存知のように、僕はこの映画の広島ロケに参加したことがきっかけの一つになって、キリスト教会の牧師になりました。監督は、自分の映画がきっかけで僕がそれまでの仕事を辞めてしまったことを、とても気にしていたと人づてに聞いていますが、牧師になった僕はイエス・キリストが弟子たちに説いた「互いに愛し合いなさい」という教えを人々に伝える働きができていることに喜びを感じていますから、どうぞ気になさらないで下さい。

 同じくエキストラで参加させてもらった佐々部監督のWOWOWドラマの『本日は、お日柄もよく』では、冒頭でヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」を引用していましたね。このヨハネ1章1節の「ことば」とは、イエス・キリストのことです。ですから、聖書の言葉を人々に伝えることは、そのままイエス・キリストを伝えることです。イエスが十字架に掛かる前の晩の最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と説いたこと、また十字架に掛けられた時に、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言ったことなどを、僕は聖書を通して人々にしっかりと伝えていくつもりです。

 いま静岡で上映されている『歩きはじめる言葉たち』のタイトルにも、「言葉」が使われています。遺された人々は亡くなった人への思いを言葉にして手紙に綴ります。そうして、少しずつ心が癒されて再び歩き始めることができる、という意味が込められているのでしょうか。言葉には、本当に不思議な力があると思います。特に聖書の言葉には力があります。聖書の言葉は人の心を癒し、励まし、新しい一歩を踏み出す力を与えてくれます。それは、聖書の言葉が神の言葉だからです。神の御子イエス・キリストはこの神の言葉を伝えるために、天から遣わされてクリスマスの日に生まれました。このクリスマスの時期に静岡で『歩きはじめる言葉たち』が上映されている偶然を、僕はうれしく思っています。

 いま佐々部監督がどこでどうしているのか、それは神様の領域のことですから、僕はすべてを神様にお委ねしています。ですから僕は、遺されたご家族のために祈ります。佐々部監督のご家族が天からの慰めと励ましを豊かに受けながら、健康も守られて、日々を歩んでいくことができますように、お祈りしています。
イルマーレ 窒素之助 

おわりに
 佐々部監督への手紙は以上です。イルマーレというのは私のネット上でのニックネームで、窒素之助というのはエキストラで映画・ドラマに参加する時の芸名です。

 皆さん、もしよろしければ、静岡東宝会館へ『歩きはじめる言葉たち』を観に行って下さい。この映画もまた、家庭でDVDで観るよりも、日常とは異なる空間の映画館で観るべき映画だと思います。そうして、悲しみの中にある人々が言葉によって癒され、励まされて行く過程について、思いを巡らしてみていただけたらと思います。



 そしてまた私たちは、教会という日常とは異なる空間にも、地域の方々が足を運んで下さるように願い、祈って行きたいと思います。次の聖日のクリスマス礼拝には、そのような方々がこの教会を訪れて下さるように、お祈りしていたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、19 主の恵みの年を告げるために。」
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賛美と正義の外套をまとわせる主(2021.12.9 祈り会)

2021-12-10 07:48:09 | 祈り会メッセージ
2021年12月9日祈り会メッセージ
『賛美と正義の外套をまとわせる主』
【イザヤ61:1~3、10~11】

イザヤ61:1 である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
2 の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。
10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、である主が、正義と賛美をすべての国々の前に芽生えさせるからだ。

 今年のアドベントの期間中の木曜夜の祈り会ではイザヤ書を開くことにしています。先週は9章を開き、今週は61章です。

 イエス・キリストがおよそ30歳で宣教を開始したばかりの頃、ナザレの会堂で巻物を渡されて、この箇所を読んだことがルカの福音書4章に記されています。この10月と11月に行われた藤本満先生のeラーニング「ウェスレーを学ぶ・ざっくり・ガッツリ」では、ウェスレーが初めて野外説教を行った時の説教箇所がここであったことを学びました。炭鉱の町ブリストルで、およそ三千人の炭鉱夫たちが目を輝かせてウェスレーの説教に聴き入ったそうです。ブリストルはロンドンから西に約170kmの位置にありますから、ちょうど静岡と東京の距離と同じくらいですね。

 さてルカ4章によれば、イエス様はこのイザヤ61章を朗読した後で、このようにおっしゃいました。

ルカ4:21 「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 つまり、このイザヤ61章の主に油を注がれて遣わされた者とは自分のことであると、イエス様はおっしゃいました。イエス様は貧しい人に良い知らせを伝えるため、また心の傷ついた者を癒すために、地上に遣わされて、ヨセフとマリアの子としてお生まれになり、およそ30歳になった時に、宣教を開始しました。

 きょうは、このイザヤ書61章を共に味わいたいと願っていますが、時間が限られていますから、特に3節にある「賛美の外套」ということばと、10節にある「正義の外套」ということばに注目したいと思います。イエス様は私たちに「賛美の外套」、そして「正義の外套」を着けてまとわせて下さるお方です。では、「賛美の外套」、「正義の外套」とは、一体どんな外套なんでしょうか?(実は「賛美の外套」は新改訳2017の訳で、聖書協会共同訳では「賛美の衣」となっています。「外套」と「衣」では少し印象が異なりますが、「外套」ということばが私の目に留まりましたから、きょうは「外套」のイメージで話をして行きます。)

 3節を見ましょう。3節に「シオンの嘆き悲しむ者たちに」とあります。これは私たちのことでもあります。イエス様は私たち嘆き悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに「賛美の外套」を着けさせるために油注がれて遣わされました。

 救われる前の人は闇の中にいます。光の届かない闇の中で人の心は寒さで凍えて固く閉じています。その凍えている人を主は光で照らして「賛美の外套」を着けて下さいます。そうして温めて下さいます。この「賛美の外套」ということばから、私は初めて韓国人の教会に連れて行ってもらった時に聖歌隊の賛美に心が癒されて温められたことを想い出しました。このことは既に何度も証ししていますが、私が教会に続けて通うようになった最初のきっかけは父が死んだすぐ後に連れて行ってもらった教会で聖歌隊の賛美歌によって心が癒されて温められたからでした。

 音楽の力は本当に大きいと思います。英和のハンドベル演奏会を広いホールで地元の自治会の主催・共催で開催したら大勢の参加者があったことからも音楽の力の大きさを感じます。教会の葬儀では賛美歌を歌いますから、多くの方々が良い印象を持って下さいます。1995年の阪神淡路大震災の時には、テント生活をしている人たちがいる公園で森祐理さんが歌った賛美歌を聞いてクリスチャンになった方もいたそうです。私自身も含めて、音楽がきっかけでイエス様を信じることにつながった方は数多くいます。

 「賛美の外套」は先ず、闇の中で寒さに凍える人を優しくおおってくれます。すると、体温によって外套の中が温まって来ます。温まるなら、それまで神様に心を閉ざしていた心が開いて来ます。そうして神様に心を閉ざしていた罪に気付いて悔い改めへと導かれます。そのようにして自分の罪を認めるなら神様はそれを義(正しいこと)として下さり、その人に「正義の外套」をまとわせて下さいます。それはつまり救われるということであり、同時に「救いの衣」が着せられるということです。

 人にはもともと温かい体温が神様によって与えられているのですね。しかし、闇の中に裸でいると体温が奪われてしまいます。そうして凍えている者に主は「賛美の外套」を着せて下さいます。

 すると、この「賛美の外套」とは、ウェスレーが説いた「先行的恵み」とも言えるのではないでしょうか。先行的な恵みの「賛美の外套」によって心が温められて神様に心を開くなら「救いの衣」を着せられて、さらに「正義の外套」でもっとぽかぽかと心が温められるなら、本格的な救いの確証が得られることでしょう。この順番はウェスレーが説く「救いの確証」の順番とも一致します。ウェスレーは「御霊の証し(Ⅰ)」というタイトルの説教で(『ジョン・ウェスレー説教53』説教10)、ローマ人への手紙8章16節を引用しながら救いの確証がどのようにして得られるかについて語っています。

ローマ8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

 このパウロのことばを引用しながらウェスレーは次のように説いています。まず御霊ご自身が十字架の赦しの愛によって証しして下さり、その愛によって私たちの内に御霊の実が結ぶようになり、神の子どもであることが証しされます。この御霊の実が私たちの内で結ばれることが、私たちの霊の証しです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)です。まず神様の側が愛を示して下さり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合うことができるようになり、御霊の実が結ばれて、自分が神の子どもとされていることの確証が得られます。つまり救いの確証が得られます。

 この説教の準備をしていて、ふと「放蕩息子の帰郷」(ルカ15章)の物語を思い出しました。放蕩息子の父親は、弟息子に財産の半分を与えるという大きな愛を示しました。弟息子はこの父親の愛に気付くことはありませんでしたが、すべてを失った時に我に返って父親の方を向きました。この時点でもまだ父親の愛には気付いてはいなかったのでしょうが、それでも父親を目指して家に帰りました。そうして帰郷した弟息子に父親は駆け寄って彼の首を抱き、口づけして、しもべたちに言いました。

ルカ15:22 「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」

 この一番良い衣を着せられた時、弟息子は自分が父親の子どもであることを実感したことでしょう。この時の弟息子の気持ちは書かれていませんが、弟息子の心は、父の子とされていることの喜びに溢れていたに違いないと、今日の聖書箇所のイザヤ61:10を読んで思いました。イザヤ61章10節の「私」は、まさに神の子どもとされていることの確証を得て喜びに満ち溢れているのだと思います。

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉(ほうぎょく)で飾ってくださるからだ。

 このイザヤ61:10には、救いの衣を着せてもらい、指輪をはめてもらった放蕩息子の喜びが表されていると感じます。主の民は長らく父の家を離れていましたが、御子が遣わされたことで父の家に帰ることができました。

 きょうはイザヤ書61章3節の「賛美の外套」と10節の「正義の外套」に注目して、さらに10節の「救いの衣」にも目を留めて、放蕩息子に着せられた「一番良い衣」にも思いを巡らしました。それで、ふと創世記3章で主がアダムとエバに「皮の衣」を作って彼らに着せたことを思い起こしました。

 神様はアダムとエバを憐れんで、エデンの園から追放する前に「皮の衣」を彼らに着せました。この神様の憐れみによる「皮の衣」で心が温められて、二人は神様にささげ物をするようになったのだなと思いました。その、主にささげ物をする信仰がカインとアベルの兄弟にも受け継がれて行きましたが、やがて「皮の衣」が失われて、ノアの時代には人々の心はすっかり神様から離れてしまったということではないでしょうか。

 この失われた「衣」を「救いの衣」として再び私たちに着せるために、天の父は御子イエス様はこの世に遣わされました。この衣が着せられることで、私たちの心が温められて、神の子どもとされていることの確証をいただくことができます。このことを、心一杯感謝したいと思います。お祈りいたします。

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
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常識を手放した正しい人ヨセフ(2021.12.5 アドベント第2礼拝)

2021-12-06 10:43:39 | 礼拝メッセージ
2021年12月5日礼拝メッセージ
『常識を手放した正しい人ヨセフ』
【マタイ1:18~25】

はじめに
 アドベント第2礼拝のきょう開く聖書の箇所はマタイ1章のヨセフの記事です。この時期に開くおなじみの箇所ですが、きょうはこの記事を、「ヨセフは手放すことができた人だった」という観点から見てみたいと思います。きょうの中心聖句はマタイ1章18節と19節です。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①世の常識の一歩先を行く「正しい人」
 ②夢という方法でヨセフを励ました神様
 ③常識の中にいる平安を手放したヨセフ

①世の常識の一歩先を行く「正しい人」
 今回、この記事を読んでいて、19節の「夫のヨセフは正しい人で」という一文に目が留まりました。「正しい人」とはどういう人のことなのだろうか、ということがとても気になりました。それで、先ずこのことを考えてみたいと思います。

 「正しい人」というと、世の中で「正しいこと」と考えられている常識の中にきちんと納まっている人、世の中の正しさの基準から逸脱することのない人を思い浮かべるように思います。でも、ヨセフの場合は少し違うようです。18節から見て行きます。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。

 マリアがイエス・キリストを身ごもることになった経緯は、ルカの福音書1章に詳しく書かれています。御使いのガブリエルがマリアの所に来て、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と言いました。そうして、少しのやり取りの後で、マリアはガブリエルに言いました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」

 マリアが御使いのガブリエルのことばを受け入れたことで、マリアは聖霊によって身ごもりました。そして、このことをヨセフも知りました。どのような形でヨセフに伝わったのか、はっきりしたことは分かりませんが、彼はいいなずけのマリアが身ごもったことを知りました。そして、マタイはこのように書いています。

19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 当時のユダヤ人の常識に従えば、律法に従うのが「正しい人」でしょう。ですから、マリアは律法に則って裁かれなければならなかった筈です。律法には、婚約中の娘がほかの男と寝た場合の処罰の規定が書かれています。それが町中のことなのか、或いは町の外の野でのことなのか、娘は助けを求めて叫んだのか、それとも叫ばなかったのか、場合によって異なりますが、一番厳しい処罰では、その娘は石で打ち殺されなければなりませんでした。(申命記22:23~27)。マリアがそれらのどれに該当するのか調べるとしたら、彼女はさらし者になります。ヨセフはマリアがさらし者になることを望みませんでしたから、ひそかに離縁しようと思っていました。このことをマタイは、夫のヨセフは「正しい人」であったと書いているようです。繰り返しますが、当時のユダヤの常識では、律法に従うのが「正しい人」です。

 このマタイの記述は、「正しい人」とはどういう人であるかを考えさせられます。たとえば、こんな例はどうでしょうか。私が中高生の時には、運動中に水を飲むとすぐにバテるから、運動中は水を飲まないのが正しいことだと教わりました。それがスポーツ界の常識かのように言われていました。運動が終わったら飲んでも良いけれど、運動中は飲んではならないと言われていました。合間の休憩中もあまり飲まないようにと言われました。それが、今では運動中でもこまめに水分を補給することが正しいことだとされています。

 でも、昔でも運動中に水分を補給していた一流の運動選手はいただろうと思います。単に我慢できなくて水を飲むというのでなく、脱水症状にならないよう、喉が乾く前にこまめに水分を補給していた人もいただろうと思います。そのような人は、その時代の常識の一歩先を行っていた人だと言えるでしょう。そのような人たちが、新しい時代を切り開いて行きます。

 昔は、女性がマラソンを走るのは無理だと言われていました。しかし、マラソンに挑戦する女性たちがいて、彼女たちが新しい時代を切り開いて行きました。或いは昔は、日本のプロ野球選手がアメリカのメジャーリーグで活躍するのは無理だと言われていました。しかし、野茂英雄さんやイチローさんなどが果敢に挑戦して活躍し、無理ではないことを証明しました。また、プロの野球選手は投手か打者かのどちらか一方に専念するのが常識でしたが、二刀流の大谷翔平選手が投手と打者の両方で素晴らしい成績を残しました。こうして大谷選手は、それまで正しいとされていた常識を打ち破りました。

 ヨセフもまた、時代を先取りした人だったと言えるのでしょう。この約30年後にイエス様が地上での宣教を開始した時、安息日に病人を癒しました。律法では安息日は静かに過ごすべき日ですから、パリサイ人や律法学者たちは病人を癒したイエス様を批判しました。でもイエス様にとっては安息日であっても病人を癒すことが正しいことでした。そうしてイエス様が天に帰った後の使徒たちの時代には、使徒たちは律法よりも聖霊に従って生きるように人々に説きました。時代は律法の時代から聖霊の時代に移りました。その約30年前にマリアが聖霊によって身ごもった時、ヨセフが彼女を律法によって裁かないようにしたことは、まさにヨセフが聖霊の時代を先取りした「正しい人」であったということでしょう。律法ではなく、聖霊の御業に従ったヨセフをマタイは「正しい人」と書きました。

②夢という方法でヨセフを励ました神様
 神様がヨセフを用いることにしたのは、ヨセフがこのように常識にとらわれない人だったからという気がします。常識にとらわれないヨセフだったから、マリアが聖霊によって身ごもったことを受け入れることができたのでしょう。普通の人だったら、聖霊によって身ごもるということなど、とうてい信じられないことです。でもヨセフは、受け入れました。ヨセフは常識に従うよりも神様に従うことにしました。そのことのために、ヨセフは常識を手放しました。

 私たちもまた、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じます。私たちは毎週、使徒信条を告白します。その中に、「主は聖霊によりてやどり」とあります。使徒信条を告白するということは、このことを信じているということです。私たちは「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰を持っていますから、マリアが聖霊によって身ごもったことも当然、信じます。ということは、私たちもまた常識を手放しています。神様に従う私たちは常識を手放して聖書に書いてあることをすべて信じます。

 クリスチャンにもいろいろいて、信じられることと信じられないこととを分けて考える立場のクリスチャンもいます。でも私たちは、「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰を持ちますから、聖書に書いてあることを全部信じます。そうでなければ神様中心の信仰にはなりません。自分はこの部分は信じるけれども、この部分は信じないと言って分けて考えるのであれば、それは自分中心です。神様中心であればこその信仰ですから、私たちは聖書に書かれていることをすべて信じます。このように神様中心の信仰を持つことで大きな恵みが与えられます。全部信じるのと一部しか信じないのとでは、与えられる恵みの大きさが圧倒的に違います。一部しか信じないのはまだまだ自分中心であり、全部信じることで神様中心になるからです。

 ただし全部信じると言っても、一字一句すべて字義通りに信じる必要はありません。たとえば伝道者の書には、「日は昇り、日は沈む」と書いてありますね。でも太陽が昇り、太陽が沈むのではなくて実際は地球のほうが回っているのだということを私たちは知っています。ですから、「日は昇り、日は沈む」ように見えるけれど、実際は地球が回っているのだと考えてもぜんぜん構いません。科学の進歩で明らかになったことはそれを取り入れて解釈すれば良く、昔の科学のレベルで聖書を解釈する必要はありません。聖書信仰とは、そういうものでしょう。

 さて、マリアが聖霊によって身ごもったことを神様は御使いを通してヨセフの夢の中で伝えました。20節と21節、

20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 神様はヨセフに大切なことを伝える時には、夢を使いました。2章にも、ヨセフの夢に御使いが現れた場面があります。マタイ2章の13節から15節までをお読みします。

マタイ2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。

 さらに、ヘロデが死んだ時も御使いがヨセフの夢に現れました(マタイ2:19)。

 一方、マリアの場合には御使いのガブリエルが直接、マリアの前に現れました。この違いは面白いなあと思います。どうしてなんでしょうか?想像するしかありませんが、こんなことを考えてみました。マリアの場合は神の御子を身ごもるという本当に重大な任務を負うわけですから、その覚悟があるか、御使いが直接会って確かめる必要があったというだったのかもしれません。そうして、マリアが「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったので、その返事を聞いて神の御子を身ごもったということなのかもしれません。

 それに対してヨセフの場合には、有無を言わさずに従わせるということなのでしょうか。と言うよりも、ヨセフが従わないはずがないという厚い信頼があったのかもしれませんね。それだけ神様はヨセフの信仰を高く評価していたのでしょうね。すごいことだなあと思います。ヨセフはモーセやエリヤのように主に用いられた偉大な器だったと言えるのでしょう。

 こうして、神の御子イエス・キリストはヨセフとマリアの子として生まれて育てられることになりました。22節と23節をお読みします。

22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 それまで天の神様は離れた所にいる遠い存在でした。でも神の御子のイエス様が地上に遣わされて私たちの間に住まわれましたから、とても近い存在になりました。まさに「神が私たちとともにおられる」ということを実感できるようになりました。24節と25節、

24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

 この記述からも、ヨセフが神を恐れる「正しい人」であったことが分かります。「正しい人」とは神を恐れる人であり、律法を恐れる人ではありません。

③常識の中にいる平安を手放したヨセフ
 ヨセフは神を恐れ、神が命じたとおりに従いました。しかし、神が命じたとおりに従うということは同時に、常識の中にいる平安を手放すということです。ヨセフ自身はマリアが身ごもったのは聖霊によることだと信じましたが、世の人々でそれを信じる人はほとんどいないでしょう。ヨセフはマリアをどのようにして守ったのでしょうか。福音書には書かれていませんが、マリアが身ごもってからイエス様を産むまでの間には、様々に大変なことがあったことと思います。神の命令に従うとは、そういう困難も引き受けるということです。

 イエス様が生まれてからは、なお一層の困難がありました。先ほど読んだように、マタイ2章にはヘロデ王から逃れてエジプトに行ったことが書かれています。また、ルカの福音書にはシメオンのことばとして、次のことが書かれています(週報p.2)。

ルカ2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 このシメオンのことばはマリアだけでなく、ヨセフをもとても不安な気持ちにさせただろうと思います。常識の範囲の中にいてマリアを離縁していれば、ヨセフはこのような不安や困難を引き受けることはありませんでした。しかし、常識を手放してマリアを受け入れたヨセフは平安な生活をも手放しました。神様に仕えるとは、こういうことなのですね。

おわりに
 最後に、私たち自身のことを考えてみたいと思います。聖書に書かれている奇跡を信じ、またお祈りの力を信じている私たちは、世間の常識から見れば変な人だと思われているかもしれません。私自身を振り返っても、まだ信仰を持つ前は今の自分のような人を変な人だと思っていました。

 話したことがあるかもしれませんが、高津教会に通い始めたばかりの頃、礼拝の中で一人の兄弟がお礼の挨拶をしていました。その兄弟は大きな病気をして、命も危ない状態だったそうですが、皆さんのお祈りのおかげで回復して無事に退院できましたと挨拶していました。その時、まだお祈りの力を信じていなかった私は心の中であざ笑いました。お祈りで病気が治るわけがないでしょう、と当時の私は思ったんですね。でも、そんな私が変えられてお祈りの力を信じる者となり、聖書の奇跡の記述も全部信じる者になりました。

 それは天の神様が御子イエス様を地上に遣わして下さり、そのイエス様に私自身も聖霊を通して出会うことができたからです。イエス様に出会うなら、その人は変えられます。日本ではまだイエス様に出会っていない人が大半ですから、世の常識とは、まだイエス様に出会っていない人の常識です。そんな中で私たちは苦労しています。世の常識に合わせていれば、もっと平安に暮らせるかもしれません。

 でも、野茂英雄さんやイチローさん、大谷翔平選手がそれまでの日本人の野球選手の常識を変えたように、キリスト教が日本では容易には受け入れられないという常識もいつか必ず変わるはずです。メジャーリーグで活躍した選手は、そのことによってしか見られない景色を見ることができたことでしょう。並の選手では見られない素晴らしい景色を見たことでしょう。

 私たちもイエス様と出会ったことでそれまで見たことがない素晴らしい景色を見ることができるようになりました。野球選手と違う点は素質がなくても誰でもイエス様を信じさえすれば、その景色を見ることができることです。スポーツの選手で一流になるには、やはり素質が大きく関係しているでしょう。努力だけで何とかなる世界ではないと思います。でもイエス様を信じることは誰にでもできることです。そうなるように天の神様は御子を地上に遣わして下さいました。

 旧約の時代の預言者たちは、やはり霊的に優れた素質を持っていたのだと思います。でも新約の時代には霊的な素質などは関係なく、誰でもイエス様を信じるなら素晴らしい景色を見ることができます。繰り返しますが、そうなるように御子のイエス様が遣わされました。

 イエス様と出会うことがどんなに素晴らしいことであるか、一人でも多くの方に伝わるクリスマスであればと願います。

 正しい人ヨセフは、当時のユダヤ人の常識にとらわれず、常識を手放すことができました。このヨセフがマリアを離縁せずに妻として受け入れたことで、イエス様が生まれて、私たちはイエス様と出会う素晴らしい恵みに与ることができるようになりました。ヨセフとマリアが私たちに素晴らしい恵みを届ける働きをしました。私たちもまたこの素晴らしい恵みをお届けする働きができたらと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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私たちのために生まれたみどりご(2021.12.2 祈り会)

2021-12-06 10:08:33 | 祈り会メッセージ
2021年12月2日祈り会メッセージ
『私たちのために生まれたみどりご』
【イザヤ9:1~7】

 今夜はイザヤ書を開きます。イザヤ書9章1~7節を交代で読みましょう。

イザヤ9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

 アドベントの期間に入った今、聖書の時代の人々が救い主の到来を待ち焦がれて祈っていたように、私たちもまた救い主が来て下さるように熱心に祈りたいと思います。

 私たちの周囲にはまだイエス様にお会いしたことがない方がたくさんいますから、その方々がイエス様にお会いできるように祈ることはもちろんのこと、私たち自身もまだイエス様のすべてが分かっているわけではありません。イザヤ書9章6節にあるように、イエス様は不思議な助言者であり、力ある神、永遠の父であり、平和の君です。このように多様な顔を持つイエス様のことを私たちはまだ少ししか知りません。ですから聖書の時代のイスラエルの民がまだ見たことがない救い主の到来を待ち焦がれたように、私たちも新たな気持ちで救い主の到来を待ち、新鮮な気持ちでイエス様との交わりを持って、イエス様のことをもっと深く知る者たちにしていただきたいと思います。

 先ずはこのイザヤ書9章の時代背景を簡単に見ておきましょう。イザヤ書1章1節を見ます。1章1節、

イザヤ1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

 イザヤは南王国のユダの預言者ですが、イザヤの時代は北方の北王国イスラエルがまさに滅びようとしていた時でした。いまお読みした1章1節に出て来るウジヤ王とヨタム王の時代にはまだ北王国は存在していましたが、南の王がアハズ王の時代に北はアッシリヤによって滅ぼされて、ヒゼキヤ王の時にはもはや北王国はありませんでした。この間、イザヤが預言していた南王国もまた、いつ攻め滅ぼされるか分からない危機の中を通っていました。

 去年の静岡聖会では岩上祝仁先生が、イザヤ書6章からメッセージを取り次いで下さいましたね。6章1節にはウジヤ王が死んだと書かれています。王が死んで国が不安定になった隙に攻め滅ぼされてしまう心配がありましたから、当時の南王国は大変な危機の中にありました。先生はこの南王国の危機の時代を、現代の私たちのコロナの危機と重ねて語って下さいました。

 この6章の8節でイザヤは主が言われることばを聞きました。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」この主のことばを聞いてイザヤは言いました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

 そうして南王国ではウジヤの子のヨタムが王になり、さらにヨタムの子のアハズが王になりました。きょうの9章はアハズ王の時代のことです。北王国のイスラエルはほとんど滅びかかっていて、南王国のユダもますます危機の中にありました。そんな中でイザヤは救い主が私たちのために生まれるという希望のメッセージを語ります。まず9章の1節と2節、

イザヤ9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

 このイザヤ書9章の1節と2節は、マタイの福音書4章で引用されています。マタイ4章でイエス様は悪魔の誘惑に遭いますが、それを退けます。そのすぐ後で、このイザヤ書9章1節と2節で引用されます。マタイ4章のその箇所を私のほうでお読みします。少し長くなりますが、悪魔がイエス様から離れた箇所からお読みします。

マタイ4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
 そうして今のイザヤ書9章の1節と2節が引用されます。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 このイエス様のことを、イザヤは9章6節で、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と預言しました。

 「不思議な助言者」を、英訳では「ワンダフル・カウンセラー」と訳しています。英訳にもいろいろありますが、調べた範囲ではほとんどの英訳が「ワンダフル・カウンセラー」と訳しています。このワンダフル・カウンセラーである不思議な助言者とは、まさに助け主である聖霊ですね。イエス様はヨハネの福音書の最後の晩餐でおっしゃいました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は私たちの内に入って適切な助言をして下さるカウンセラーです。

 また、イエス様は父と一つのお方ですから、力ある神、永遠の父です。そして、イエス様は平和の君です。つまり、イザヤはイエス様が三位一体の神であることを旧約の時代に預言していました。この救い主が来ることを、ユダヤの人々は待ち望んでいました。二千年前のユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマに支配される前にはギリシャに支配され、ギリシャの前にはペルシャに、ペルシャの前にはバビロニアに支配されていました。このように大国に支配され続けて来たユダヤの人々は、ダビデのような強い王が現れて大国の支配から救い出してくれることを待ち望んでいました。

 イザヤもまた救い主は王であることを、9章7節で預言しています。

7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

 しかし、実際に地上に来られたイエス様はダビデのような強い王というイメージのお方ではなくて、病人を癒す癒し主であり、弱い人々に寄り添って慰めて下さる慰め主でした。そうしてイエス様も弱い者として十字架に付けられて死にました。この弱いイエス様が復活して天に帰られた後には一人一人に聖霊を遣わして下さり、私たちの一人一人を強めて励まして下さいますから、この素晴らしい恵みを私たちはお伝えしています。

 でも、7節でイザヤが預言した強い王としてのイエス様のほうは、一体どうなってしまっているのでしょうか?

 それは、こういうことではないでしょうか。二千年前はまだイエス様が世界を一つにして治められるまでには、時が満ちていなかったということではないでしょうか。イエス様の福音が地の果てまで届けられて、ようやく時が満ちたと言えるのではないでしょうか。

 そうして、今やいよいよイエス様の福音が地の果てまで送り届けられようとしています。インターネットの普及によって世界中で情報が瞬時に行き交うようになりました。独裁的な指導者が支配している国では、インターネットの利用が制限されて、情報が国民に十分に届いていないところもあると思いますが、今や技術的には世界中の人々が情報を瞬時に共有できるようになりました。それは21世紀に入ってようやく実現したことです。そして、2年前からのコロナ禍が用いられて、教会の礼拝に家庭からでも参加できるようになりました。それ以前からインターネットで礼拝に参加できる環境はありましたが、コロナ禍によって、さらに技術が進んで一気に前進しました。そうして、いよいよイザヤ書9章7節の預言が成就する時が満ちて来たのだと思います。

 いま世界は、コロナウイルスの世界流行と温暖化による気候変動に苦しんでいます。これらは世界が一致協力しなければ克服できない問題です。そのために力強い王としてのイエス様の到来を待ち望みたいと思います。21世紀になって技術的には世界が一つになれるところまで発展しましたから、いよいよ時が満ちて来たのだと思います。

 イエス・キリストは弱い私たちの一人一人に寄り添って下さるお方であると同時に、世界を一つにまとめて下さる王でもあります。イエス様の十字架によって罪赦された私たちは、この一人一人に寄り添って罪から救い出して下さるイエス様と、世界を一つにまとめて世界を救って下さる王としてのイエス様の両方を宣べ伝えて行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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