平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

同じ誤ちを繰り返す愚かさを悔い改める(2014.5.28 祈り会)

2014-05-29 09:36:43 | 祈り会メッセージ
2014年5月28日祈り会メッセージ
『同じ誤ちを繰り返す愚かさを悔い改める』
【使徒3:11~26】

3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
3:17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。
3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
3:20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。
3:21 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
3:22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
3:23 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』
3:24 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。
3:25 あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。
3:26 神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」

はじめに
 前回まで使徒の働き2章を3回に渡って見て来ました。きょうは3章です。いま読んだ箇所にはペテロの説教が記されています。2章にもペテロの説教が長く記されていましたが、3章もまた、ペテロの説教が記されているのですね。
 はじめに、ペテロがここで説教をするに至った経緯を簡単に見ておきます。それは3章の1節から10節までに記されています。
 この日、ペテロとヨハネは祈りの時間に宮に上って行きました。宮というのは、エルサレムの神殿のことです。すると、「美しの門」という宮の門に、生まれつき足のなえた人が運ばれて来ました。この男に対してペテロは言いました。6節です。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」

 するとたちまち、彼のなえていたの足とくるぶしが強くなり、踊り上がってまっすぐに立ち、歩き出しました。そして歩いたり、跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、ペテロとヨハネと一緒に宮に入って行きました。これを見て、宮に来ていたユダヤ人たちは驚き、あきれました。12節以降のペテロの説教は、これら宮で驚き呆れていた人々に向かってされたものです。

「私たち」がキリストを十字架に付けた
 この3章のペテロの説教を読んで私は、2章を読んで感じていたことを、さらに強く感じ、考えを発展させることができたと感じています。2章のペテロの説教を取り上げた時に私は、「私たち」がイエス・キリストを十字架に付けたという意識をここから学びたいということを話しました。「私」という個人がキリストを十字架に付けたと思うことも重要だと思いますが、それ以上に、グループとしての「私たち」がキリストを十字架に付けたということを重く捉えたいと私は思いました。
 そして、「私たち」がキリストを十字架に付けたという意識が、「私たち」は一つにならなければならないという、御霊の一致の意識を強く持つことへとつながって行くのだと思います。
 先週学んだように、弟子たちには聖霊が注がれ、そして使徒の働き2章44節から47節を見ると、

2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。

とありますから、弟子たちは御霊の一致を熱心に保っていました。このような御霊の一致を求める意識は、「私」がキリストを十字架に付けたという思いからは、なかなか生まれて来ないように思います。しかし、「私たち」がキリストを十字架に付けたという意識を持つなら、私たちは一つにならなければならないという御霊の一致へと向かって行けるのだと思います。

まず旧約聖書から語り始めるペテロ
 そして、2章と同様に3章の説教でもペテロは、「あなたがた」がイエスを殺したと言っています。13節から15節をお読みします。

3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。

 ペテロは、人々がこのようにイエスを殺してしまったのは、あなたがたの無知のためであったと言っています。17節です。17節、

3:17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。

 そしてペテロはさらに続けます。18節と19節、

3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

 ユダヤ人たちは、無知の愚かさ故に、罪を犯してしまいました。
 2章のペテロの説教もそうでしたし、3章のペテロの説教もそうですが、ペテロはまず旧約聖書に書かれていることについて人々に語っています。
 旧約聖書を読むと、人がいかに神から離れやすいかが良くわかります。旧約の時代の人々は神に忠誠を誓ったかと思うと、すぐにまた神から離れて行きます。そんな愚かな人々を神は愛して下さり、預言者たちを通じて神に立ち返らせようと説得します。このように、旧約聖書を読むと、人がいかに愚かな存在であるかが良くわかります。

昔も今も同じ誤ちを繰り返す私たち
 私は、現代の人々も、もっともっと旧約聖書を学んで、旧約の人々の愚かさについて学ぶ必要があるだろうと最近、特に感じています。現代人は昔の人々よりも多くの知識を持ち、ハイテクの機器も使いこなしますから、自分たちは昔の人々よりも偉いと思っている人が多いのではないかと思います。しかし、人々が愚かなことは昔も今も少しも変わりません。日本では、今、戦争を知らない世代の政府が、戦争ができる国にしようと躍起になっています。そしてまた、原発が再稼働できるようにも一生懸命になっています。昨日のニュースでは、原子力規制委員会の安全審査に厳しい姿勢で臨んでいた委員を交代させるということが報じられていました。福島第一原発の事故からまだ3年しか経っていないのに、安全審査を緩くして原発の再稼働をしやすくすることを、今の政府は目論んでいるようです。
 旧約聖書のイスラエルの民は何度も何度も同じ誤ちを繰り返しました。そして日本もまた同様の誤ちを繰り返そうとしているようです。現代の人々は、新約聖書のことを古い書物だと思っていることと思いますから、まして旧約聖書はとんでもなく古い書物と思い込んでいることでしょう。しかし、旧約聖書は少しも古いことはなく、人々が昔も今も同じように愚かであって、人は何度でも同じ誤ちを繰り返すことを教えてくれています。

おわりに
 今の世の中を、神様はどのようにご覧になっているでしょうか。旧約の民と変わらず愚かである民のことを嘆き、怒り、しかし憐みをもって愛して下さっていることと思います。ですから私たちも、ペテロの熱心さをもって人々に聖書の教えをお伝えして行きたいと思います。聖霊が注がれている私たちには、その力が与えられていますから、熱心に伝道に励んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

聖霊と時間(2014.5.25 礼拝)

2014-05-26 09:32:00 | 礼拝メッセージ
2014年5月25日礼拝メッセージ
『聖霊と時間』
【Ⅰヨハネ4:7~17】

はじめに
 いま私たちはイースターとペンテコステの間の期間の中を歩んでいます。イースターの50日後がペンテコステの日ですので、日本語では五旬節と言います。ペンテコステというのはギリシャ語です。ギリシャ語のペンテは5つという意味です。アメリカの国防総省の建物は五角形をしているのでペンタゴンと呼ばれることをご存知の方も多いと思います。このようにペンテ・ペンタは数の5の意味を持ちます。そして50のギリシャ語はペンテーコスタで、私たちは五旬節のことをペンテコステと言っていますが、ギリシャ語の綴りをよくよく見てみると、ペンテーコステー(πεντηκοστη)と伸ばすようです。しかし私たちはペンテーコステーではなくペンテコステといつも言っていますから、これからもそのように言うことにしたいと思います。
 イエス・キリストは復活してから四十日間弟子たちに教えてから天に上り、50日目に天から聖霊を弟子たちに注ぎました。イエスさまは聖霊についてヨハネの福音書では、弟子たちに次のように教えています(週報p.3)。

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 聖霊は天の父がイエス・キリストの名によって遣わされ、私たちの内に入ります。新約の恵みの中を生きる私たちは、イエス・キリストを信じれば誰でも、この聖霊の恵みに与ることができます。しかし、どうも私たちは、この聖霊の恵みのことがあまり良くわかっていないような気がします。そこで、ペンテコステを前にして、きょうは聖霊について、もう少し学びを深めることにしたいと思います。まず聖霊について聖書にはっきりと書いてあることや一般的に言われていることについて述べ、その次にきょうのタイトルである「聖霊と時間」について述べることにします。
 この聖霊と時間との関係は、これまであまり言われていないことだと思いますが、私たちが感じている時間と聖霊の働きとの関係がわかると、聖霊の理解が一層深まることと思います。

多彩な働きをする聖霊
 それでは、まず聖霊に関して一般的に言われている事柄から話を始めたいと思います。
 私たちクリスチャンが信じている神は、父・御子・御霊の三位一体の神です。父・御子・御霊の御霊が聖霊のことです。私たちは父を信じ、御子を信じ、聖霊を信じることを毎週の礼拝の使徒信条を通じても告白しています。
 私たちは、御子イエスと天の父のことは、比較的よく知っているでしょう。御子イエスのことは福音書に書いてありますし、天の父のことは旧約聖書を読めば、わかるようになります。しかし、聖霊については、なかなかイメージが掴みにくいのではないかと思います。私が高津教会の一般信徒だった時も、聖霊についてはあまりわかっていませんでした。しかし神学院に入り、牧師になって、聖霊のことがだいぶわかるようになった気がします。
 そうしてわかったことは、聖霊のことがわかるようになると、御父と御子のことも、もっと良くわかるようになるということです。そこに三位一体の深い味わいがあると思います。味わいとか言うと何となく不謹慎かもしれませんが、やはりキリスト教の恵みは三位一体の神を知ってこその恵みだと、最近私は、しみじみ思います。イエス・キリストを信じないで聖書のことを論じる人たちはたくさんいますが、イエス・キリストを信じない者には聖霊が注がれませんから、三位一体の神のことは決してわかりません。三位一体の神をわからずに聖書を論じても、ひどく空しいだけだと私は思います。そういうのを、「空の空」(伝道者1:2)と言うのではないかと思います。
 さきほど引用したヨハネの福音書のイエス・キリストのことばをもう一度引用すると、イエスは弟子たちに、このように言いました。

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 ですから、聖霊が私たちの内に入らない限り、私たちはイエス・キリストの教えについて理解することは不可能です。
 聖霊が私たちの内に入ることで私たちはイエス・キリストのことがわかるようになります。ですから聖霊が注がれないなら私たちはイエス・キリストの証人になることができません。使徒の働き1章8節でイエスさまは次のように弟子たちに言いました(週報p.3)

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 こうして、聖霊が注がれた者にはイエス・キリストの証人、証し人になる力が与えられます。そしてまた、聖霊が注がれることで私たちには、御霊の実が与えられます。御霊の実のことは、ガラテヤ人への手紙5章に書いてあります(週報p.3)

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22,23)

 聖霊が私たちの内に入ると私たちは段々とイエス・キリストに似た者に変えられて行きますから、このような愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の心が育って行くのですね。これらの心が育つ成長の速度は人によって様々だと思いますが、私たちの内に聖霊が住んでいて下さるなら、私たちは確実に成長して行くことができるでしょう。
 このように、聖霊の働きは一言では言い表すことができないくらいに多彩です。聖霊はイエス・キリストが話したすべてのことを私たちに教え、私たちがイエス・キリストの証人になる力を与え、そして御霊の実によって私たちはキリストに似た者へと変えられて行きます。

時間の感覚への聖霊の働き
 以上のことは、一般的に良く言われていることですから、これらのことを知識として知っている方は多いだろうと思います。しかし、知識として知っていても、どうも今ひとつ実感できていないという方もおられるのではないでしょうか。これらの聖霊の働きが私たちの内にも働いているのですよと言われても、知識としては理解できても、聖霊が自分の内で働いていることを今ひとつ実感できていない方もおられるのではないでしょうか。
 なぜ、今一つ実感できないのか、その原因の一つとして、私は今日のタイトルとして掲げた「聖霊と時間」についての説明が、これまで十分に為されて来なかったからではないかと考えるようになりました。
 「聖霊と時間」とは、早く言えば「永遠観」のことです。これまで私は、しつこく「永遠」について語って来ましたが、永遠については、人それぞれにイメージがあって、どうも私が思い描く「永遠」が十分に伝わっていなかったようです。そこで、いったん「永遠」という言葉はなるべく使わないようにして、もう少し別の言葉で説明するようにしようと思います。そうして皆さんが慣れて来て下さった頃に、実はこれこそが私が言い続けて来た「永遠」のことですよ、と言うことにしてみようかと思います。

 では、ここから「聖霊と時間」について説明して行きます。
 先ほど、聖霊の働きについていくつかの例を挙げましたね。それらに加えて聖霊は私たちの時間の感覚にも働き掛けます。聖霊が働いていると私たちは、たとえ昔のことであっても最近のことのように感じるようになります。
 たとえば、私たちは福音書のイエスさまのことを、とても身近な存在に感じますが、それは聖霊が私たちの内で働いているからです。ですから、聖霊が内に入っていない人にとっては、私たちがイエスのことを親しみを込めて「イエス様」と、「様」を付けて呼ぶことは理解不能でしょう。クリスチャンではない方々から見れば、2千年前の人物であるイエスのことをクリスチャンが「イエス様」と言っていることを、とても不思議に感じることでしょう。
 また、さきほど使徒の働きの1章8節(週報p.3)をお読みしましたが、この、

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

というイエス・キリストのことばも、聖霊が内に入っていない人にとっては2千年前の古いことばに過ぎませんが、聖霊が内に入っている私たちは、このことばは現代の私たちに向けられたことばであると感じ、ユダヤやサマリヤということばも、沼津や静岡や日本ということばに自動的に変換して受け取ります。
 このように昔のことを身近に感じることは2千年前の弟子たちも、もちろん経験していました。弟子たちは彼らが生きていた時代よりもずっと以前に書かれた旧約聖書を、とても身近なこととして感じていました。それは弟子たちに聖霊が注がれていたからですね。例えば弟子たちは、きょうの聖書交読で読んだイザヤ書53章のしもべを、イエス・キリストの姿に重ねていました。同じ2千年前の人々でも、イエスを信じないユダヤ人たちにとっては、イザヤ書53章のしもべはイエスとは全く無関係の人物ですが、弟子たちにとっては、このイザヤ書のしもべはイエス・キリストその人でした。
 そして弟子たちは、モーセの時代にイスラエルの民がエジプトを脱出した時の過越の出来事を、イエス・キリストの十字架の出来事と重ねました。モーセがエジプトの王に、自分たちがエジプトから出て行くことを願い出た時、エジプトの王は許しませんでした。そこで神はエジプト全土の初子を打ちました。王の子供も、庶民の子供も、家畜の子供も、エジプトにいるすべての初子を打ちました。しかし、イスラエル人たちは家の門柱とかもいに羊の血を塗り付けていましたから、神はイスラエル人の家の門は過ぎ越して行って、子供を打つことをしませんでした。このことに懲りたエジプトの王は、イスラエルの民がエジプトから出て行くことを許しました。こうしてイスラエルの民は奴隷状態から解放されました。エジプトの奴隷であったイスラエル人たちは羊をいけにえとして、そのいけにえの羊の血を家の門柱に塗ることで救われました。この過越の出来事をイエスの弟子たちは十字架と重ねました。十字架で流されたイエス・キリストの血は、罪の奴隷となっている人々を救ったため、イエス・キリストは過越の羊であったのだと理解しました。
 このように2千年前の弟子たちがモーセの時代やイザヤの時代やイエスの時代を、時間を越えて、すべて身近に感じていたのは、弟子たちに聖霊が注がれていたからですね。そうして現代においてイエス・キリストを信じる私たちにも聖霊が注がれていますから、私たちもモーセやイザヤやイエスの時代、そして使徒の時代のことも、すべて身近に感じることができます。

神の愛を感じる恵みも聖霊の働き
 このように聖霊が注がれている者は、イエス・キリストの十字架もとても身近なこととして感じ、そこに神の大きな愛を感じます。きょうの聖書箇所のヨハネの手紙第一の4章も、これまで話した私たちの時間の感覚への聖霊の働きを前提にして読むべきでしょう。このヨハネの手紙第一4章には神の愛のことが書かれています。聖霊が注がれている者にとっては、この箇所から素晴らしい神の愛の恵みを感じることができると思いますが、聖書を古い書物と感じている聖霊が注がれていない方々にとっては、聖書から神の愛を感じることは難しいであろうと思います。
 では、きょうの聖書箇所のヨハネの手紙第一4章の7節から17節までを見て行きましょう。まず、7節と8節を交代で読みましょう。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

 8節でヨハネは「神は愛だ」と言っています。そして、それがどういうことなのか、次の9節と10節で明らかにしています。9節と10節を交代で読みます。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 これはもちろん十字架のことですね。神様は十字架によって私たちに愛を示して下さいました。このような愛は、聖霊が内に注がれていて初めてわかることでしょう。続いて11節から12節を交代で読みます。

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 ここからわかることは、神はただ単に私たちの罪を赦し、いのちを与えるために御子を十字架に付けたのではなく、私たちが互いに愛し合うことができるようにもなるよう、愛を示して下さったということです。ですから私たちは互いに憎しみ合ったりするのでなく、互いにに愛し合わなければなりません。続いて13節と14節を交代で読みます。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

 13節にあるように、神は私たちに御霊を与えて下さいました。このことによって私たちにはパウロがガラテヤ書に書いたように御霊の実が与えられています。パウロは、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と書きました。ですから、私たちは互いに愛し合うことができるはずです。また、御霊によって私たちはイエス・キリストの証人となる力が与えられていますから、14節にあるように私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。今この証をしているのは2千年前の弟子たちでもあり、現代の私たちでもあります。

時間を越える神の愛
 続いて15節から17節までを交代で読みます。17節は、ご一緒に読みましょう。

4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

 ここからわかることは、神の愛は時間を越えるということです。神の愛の内にあるなら、私たちは、将来のさばきの日を少しも恐れることなく、大胆でいることができます。なぜなら、私たちはこの世にあってキリストと同じような者であるからです。いま現在、神の愛の内にあってキリストと同じような者であるなら、最後の審判の時に、悪い方に裁かれるはずがありません。ですから私たちは現在にいながらにして、既に未来の神の国に入れられているのと同じです。それは2千年前の過去のイエス・キリストの十字架の出来事を信じているからですね。
 いま私は「未来」とか「現在」とか「過去」という言葉を使いましたが、それは聖霊が注がれていない人にとっての過去・現在・未来であって、神にとっては全てが現在ですから、神の愛の内にいる者にとっても、すべてが身近な現在の出来事になります。
 16節にあるように、私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
 神は時間を越えて存在し、神の愛もまた時間を越えて存在します。そして、その神の愛の内にいて神の愛を感じている私たちは、モーセの時代やイザヤの時代やイエス・キリストの時代に神がなさったことを全て身近なこととして感じることができます。
 神は愛です。このことがわかると、旧約聖書の記事も、より一層身近に感じることができると思います。神は人を愛していますが、人は神から離れようとします。それで神は怒りますが、怒るだけでは決してなく、憐みも掛けて下さいます。それは、最初の人のアダムとエバの時代からそうでした。最後に、創世記の3章を見て、終わることにしたいと思います。創世記3章の21節から24節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.5)。

3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 アダムとエバは、神が食べてはならないと命じた木の実を食べてしまいましたからエデンの園から追放されました。しかし、神はアダムとエバを追放する前に、21節にあるように、皮の衣を作って着せてくださいました。私はここに何とも言えない神の愛を感じます。神は怒っていましたが、ただ怒っていただけでなく、アダムとエバを憐み、愛していました。

おわりに
 こうして聖書には、始めから終わりまで神の愛がたっぷりと詰まっています。そして、聖霊が与えられている者には、この神の愛を、時間を越えて感じる特権が与えられています。これは素晴らしい恵みです。この恵みが与えられていることを私たちは感謝したく思いますし、まだこの恵みが与えられていない方々には、イエス・キリストを心の内に迎え入れることを、心よりお勧めしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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御霊の一致を熱心に保った弟子たち(2014.5.21 祈り会)

2014-05-22 17:24:51 | 祈り会メッセージ
2014年5月21日祈り会メッセージ
『御霊の一致を熱心に保った弟子たち』
【使徒2:40~47/ガラテヤ5:13~26/エペソ4:1~6】

はじめに
 前回と前々回は使徒の働き2章のペテロの説教の箇所を読みました。きょうは、その続きの箇所です。使徒の働き2章の40節から47節までを交代で読みましょう。

2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

聖霊を受けたユダヤ人たち
 41節に、ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けたことが書いてあります。ここでバプテスマを受けたのは、エルサレムにいたユダヤ人たちでした。その数は三千人ほどであったと書かれています。ここにはハッキリとは書いてありませんから見落とされがちだと思いますが、この三千人ほどのユダヤ人たちには、ここで聖霊が注がれました。この箇所には「聖霊」という言葉が使われていませんから、この箇所でユダヤ人たちに聖霊が注がれたことを、うっかりすると見落としてしまうかもしれませんが、私たちはサマリヤ人たちに聖霊が注がれた時のことを知っていますから、大丈夫ですね。
 使徒の働き8章で、最初にピリポがサマリヤ人たちにキリストを宣べ伝え、サマリヤ人たちはその教えを信じましたが、その時点では聖霊を受けていませんでした。サマリヤ人たちが聖霊が受けたのは、ペテロとヨハネがエルサレムからサマリヤに下って行って彼らの上に手を置いた時でした。私たちは、先回りして8章のサマリヤ人たちに聖霊が下ったことを知っていますから、この使徒2章のエルサレムのユダヤ人たちにも、間違いなく聖霊が下っています。
 そして、聖霊を受けた彼らは42節にあるように、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈っていました。また、44節以降にあるように、信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていました。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していました。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれました。つまり聖霊を受けた彼らは、御霊の一致を熱心に保つ生活をしていたということですね。

聖霊が注がれているゆえの御霊の一致
 私たちイエス・キリストを信じる者たちには、皆、聖霊が注がれています。それゆえに私たちは、御霊の一致を熱心に保つことが求められます。しかし、どうも私たちは、このことを、しっかりと理解できていないように感じます。きょうは是非、このことを皆さんと分かち合いたいと願っています。
 教会にいる私たちが一つになって助け合わなければならないのは、そのほうが道徳的に正しいからではなく、私たちに聖霊が注がれているからです。聖霊という一つの神で私たちは一つにされていますから、自然と一つになるようにされています。
 しかし、私たちは罪深いですから、一つなることに逆らおうとします。ですから御霊の一致を保つことが必要になって来ます。私たちは頭でっかちですから、すぐ頭で物事を考えて、私たちは一つになって助け合うのが道徳的に正しいから一つになるべきだと考えがちです。しかし、そうではなくて、イエスを信じる私たちは既に御霊によって一つにされています。
 このことを確認するために、ガラテヤ人への手紙の5章を開きましょう。まず13節から15節までを交代で読みましょう。

5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

 この14節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というのは、下の脚注の引照にもあるようにレビ記19章18節にある律法です。この旧約の律法の段階では、私たちは頭で理解する必要があります。しかしエレミヤが預言したように(エレミヤ31:31~34)、律法は聖霊によって私たちの心に書き記されました。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという律法は、新しい戒めの「互いに愛し合いなさい」となって既に私たちの心に刻み込まれています。ですから私たちは、後は御霊に導かれて歩んで行けば良いわけです。
 では、続きの5章16節から21節までを交代で読みましょう。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 これらの良くないことのリストは、人に聖霊が注がれる前に人が行っていることです。もちろん、聖霊が注がれた後でも、サタンの誘惑がありますから、これらの罪を行うことはあります。しかし、基本的には聖霊が注がれた人はこれらの罪の奴隷状態からは自由になって御霊の下に一つになることができます。
 御霊の一致が得られるのは、次のような御霊の実が与えられているからですね。今度は22節から26節までを交代で読みましょう。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 22節と23節にあるような御霊の実があるから、私たちは御霊の一致が保たれるわけですね。ここには「御霊の一致」という言葉は用いられていませんが、パウロはここで個人の道徳について説いているのだというよりは、教会が一つになるために必要なことを説いているのだということは、しっかりと確認しておきたいと思います。それは13節の「愛をもって互いに仕えなさい」からも分かりますし、26節の「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」からもわかります。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ
 ですから私たちに聖霊が注がれるのは、私たちの一人一人が救われて道徳的な生活をするためというよりは、私たちが御霊の一致を保って一つになることができるようにするためなんですね。ヨハネの福音書でイエス・キリストが「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)と言ったのもそのためであり、最後の晩餐の最後の祈り(ヨハネ17章)で私たちが一つとなることができるように熱心に祈って下さったのも、そのためです。
 ここで、御霊の一致を熱心に保つことについて、パウロが直接言及しているエペソ人への手紙をご一緒に読みたいと思います。エペソ人への手紙4章の1節から6節までを交代で読みましょう。

4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 5節にあるように主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。そして6節の最後にあるように、すべての者の父なる神は一つです。使徒の働き2章で聖霊を受けたエルサレムのユダヤ人たちは、このことを霊的にしっかりと理解できていたので御霊の一致を熱心に保つ生活ができていたのですね。

おわりに
 最後に、もう一度、使徒の働き2章に戻りましょう。44節から47節までを、交代で読みましょう。

2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

 教会にいる私たちが一つになって助け合わなければならないのは、そのほうが道徳的に正しいからではなく、私たちに聖霊が注がれているからです。私たちは既に聖霊によって一つにされているのだということを、心にしっかりと、刻んでおきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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私たちは一番哀れな者か(2014.5.18 礼拝)

2014-05-19 07:03:03 | 礼拝メッセージ
2014年5月18日礼拝メッセージ
『私たちは一番哀れな者か』
【Ⅰコリント15:12~20】

はじめに
 昨日の5月17日はBTCの創立記念日でした。インターネットのBTCのホームページのトップページには、BTCを紹介する次のような文章が載せられています。

「イムマヌエル聖宣神学院は、1949年創立のイムマヌエル綜合伝道団の神学校です。教団立の神学校ですが、他の教派・教団の方にも広く門戸をひろげています。
 初代院長である蔦田二雄先生のビジョンによって、1949年5月17日、東京丸の内のビルの一室を借りてスタートしました。翌1950年に埼玉県北浦和に土地建物を取得して移転、1968年1月に現在のキャンパスに移転しました。神学生が丸の内教会(主都中央教会、中目黒教会の前身)で奉仕していた時期を経て、キャンパス内に聖宣神学院教会を開設、さらにウェスレー・チャペル、男子寮棟、食堂棟、そして女子寮棟が建築され、キャンパスも拡張しました。時代は変わって、形と表現は変わりつつ、建学の精神と信仰「聖と宣」は今も変わらず引き継がれています。」

 私はBTC在学中に、いくつかの重要な経験をしています。きょうはそれらの中の一つである、第一コリント15章のみことばをきっかけにして私がイエス・キリストの復活について強固な確信が得られるまで深く考えた経験について、創立記念日に寄せて話させていただきます。

私たちは哀れな者か
 まず、第一コリント15章の中で、BTCの1年生だった時の私の心に特に深く突き刺さったみことばを挙げておきたいと思います。
 まず14節でパウロは、
「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」

と言っています。そして、17節で、

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

とパウロは言い、さらに19節で

「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

と言っています。要するに、キリストが復活したという確信を持たずに、まるで一般の日本人が素性もよくわからないような神社の神を信仰するように、ただ漠然とキリストを信仰しているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者であるということです。BTCの寮にいた私にとって、特にこの19節の、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」という言葉が心に深く突き刺さりました。本当にそうだなあと思ったからです。

もしキリストの復活が事実でないなら哀れな私
 私は今から6年前の2008年に、職場の大学を辞め、高津教会の近くにあった自宅のマンションも売却して、神学院の男子寮に入りました。売却した自宅のマンションはちょうど私が洗礼を受けた頃の2001年に購入した新築のマンションで、私は7階建ての7階に住み、快適な生活を楽しんでいました。それが一転してBTCのあまり清潔とは言えない男子寮で、プライバシーの全く無い共同生活を送るようになりました。マンションとのギャップを特に感じたのは、寝起きするベッドでした。神学院のベッドは年季の入った古い木の二段ベッドで、私は下の段に寝ていましたから、目のすぐ上には上の段のベッドの板が迫っています。神学院の寮での生活を始めた最初のうち、私は二段ベッドに横たわって、すぐ目の上にある板を見るたびに、マンションで寝ていた時の高い天井を思い出して、寮とマンションとの生活環境のギャップを感じていました。そして快適なマンションの生活からBTCの男子寮という環境の激変を経験して、もしキリストの復活が単なる作り話で実際には無かったとしたなら、私はすべての人の中で一番哀れな者であろうと感じていました。
 ただし、こういう環境には段々と慣れて行くものです。私が寝起きする場所の激変以上に苦しく思ったのは、それまでの友達付き合いができなくなったことでした。中でも映画関係の友達との付き合いは本当に楽しいものでしたから、もしキリストの復活が無かったとしたら、この楽しい付き合いができないことにも我慢している私は、本当にすべての人の中で一番哀れな者だろうなと、BTCで暮らしていた私は心底から思いました。
 その映画関係での友達付き合いがどれほど楽しいものであったか、かなり世的な話ではありますが、私がBTCの寮で感じていたギャップを少しでも想像していただけるよう、これから少し話してみたいと思います。

楽しい付き合いを我慢した私は哀れか
 私に映画関係の友達ができたそもそものきっかけは、私が佐々部清監督という、下関出身の監督の映画『チルソクの夏』に感銘を受けて、この映画の上映会と監督の講演会を私の職場の大学で企画して、2005年に実施したことでした。この『チルソクの夏』という映画は、下関市と韓国の釜山市との間で実際に実施されていた高校生の陸上競技の対抗戦を題材にした青春映画でした。当時私は、大学の留学生センターという部署で、韓国人留学生を受け入れる留学プログラムの担当をしていました。その日韓の留学プログラムの5周年記念事業として私は、日韓の高校生の交流を描いた佐々部監督の映画『チルソクの夏』を上映し、監督にも講演していただき、近隣の住民にも案内するという主旨の企画書を書いて企画が通り、予算もいただいて、無事に実施することができました。
 そうして、この上映会をきっかけにして映画ファンの友達とのつながりができ、また佐々部監督と佐々部作品のプロデューサーとのつながりもできて、楽しい付き合いが始まりました。一番楽しかったのは、佐々部監督の映画にエキストラとして参加した時に、われわれのような佐々部監督を応援しているファンには、カメラによく映る良い位置が優先的に与えられたことです。そういう良いポジションは、俳優さんにも近いですから、撮影のテストの合間に行われる監督さんの俳優さんへの演技指導も、間近で見ることができます。撮影の現場の見学というと、普通は遠巻きにしか見ることができませんが、エキストラの場合は、撮影現場の内側から見ることができます。
 このように撮影現場を内側から間近に見ることができたことは、プロの仕事ぶりを間近で見ることができたという意味でも、非常に刺激的なことでした。私たちも普段はそれぞれの現場で仕事をしていますから、プロの仕事がどういうものかを、私たち自身もある程度はわかっているつもりです。しかし、映画の撮影現場は、プロ意識がもっと凝縮しているような現場だと感じました。まず俳優さんから言えば、俳優さんは撮影の合間には非常にリラックスしています。こんなにダラダラしていていいのかな、というぐらいリラックスしている俳優さんもいます。しかし、いざ撮影のテストに入り、メークさんが顔の化粧を直したりしている時には段々と真剣な顔に変わって行き、そして本番になると、素晴らしい演技をします。俳優さんは本番で最高の演技ができるように、撮影の合間では敢えてリラックスしているんですね。それが表情からわかりますから、そこに俳優さんのプロ意識を感じました。
 或いはまた、カメラや照明、録音マイクの移動なども非常にキビキビと動いて、そこにもプロの職人の優れた仕事ぶりを見ることができて、私は映画の現場に行く度に感銘を受けていました。映画のシーンでは、一つのシーンでも、だいたいは幾つかのカットに割って、違う角度から俳優さんを映しますね。たとえば、この教会の説教のようなシーンでしたら、だいたい、まずカメラは会堂の後ろの方に置かれて、この会堂の全体像を写します。次にカメラがもっと説教者に寄って、下の方からも写したりします。或いはまた、説教者の背後にカメラを置いて、説教に聞き入る会衆も写したりします。一つの説教の場面でも、そんな風に幾つもカットを割って、一つ一つ丁寧に撮って行きます。そしてカメラを会堂の後方に置いた時には、そのカメラの位置にふさわしい照明の位置がありますから、そこに照明を置き、別のカットでカメラを移動させた時には、それに合った照明の位置に照明を移動させます。
 映画の撮影では、そのようにたくさんのカットを限られた時間内でしなければなりませんから、機材の移動は、本当に迅速にテキパキと行われます。時間が限られているのは、俳優さんのスケジュールの都合もありますし、撮影現場を使用できる時間も限られていますし、予算の関係もありますから、そんなにダラダラと時間を掛けるわけには行きません。ですから、映画の現場のスタッフの方々は、本当にキビキビと動きます。それは見ていて本当に気持ちが良いです。一方、俳優さんたちは、そのような機材の移動が行われている間はリラックスしていて、冗談を言い合ったりしています。そうして機材の移動が終わってテストをし、本番に入ると、引き締まった表情になります。そういう現場の動きを現場の中で見ることができるのは、本当に楽しいことです。
 そして、私たちはいつも新年には仲間たちで新年会を行い、そこには監督さんやプロデューサーさんも来て下さり、時には俳優さんが来て下さることもあり、映画撮影の裏話を楽しく聞くことができました。私がBTCに入って1年目の正月を少し過ぎた頃、私はインターネットで、その新年会のレポートを読み、新年会に出た仲間たちのことを、とてもうらやましく思いました。そして、もしキリストの復活が無かったのならBTCの寮にいて、この楽しい新年会にも出ることができない私は、本当にすべての人の中で一番哀れな者だろうと思いました。
 もちろん私はキリストの復活を信じていましたから、自分を哀れな者とは思いませんでしたが、私はキリストの復活を単に信じるレベルから、もっともっと深いレベルで確信する必要があると思いました。もし深いレベルで信じることができないなら、自分が哀れな者になりたくないから復活を信じるという、逆の信じ方をしてしまうことにもなりかねません。もし、自分を哀れな者にしたくないからキリストの復活を自分に信じ込ませるとしたら、それこそ私は世界で一番哀れな者になってしまいます。ですから、私は本当に心の底から復活を信じることができるよう、検証をする必要を感じました。

イエスの死についての検証の開始
 一般常識で考えれば、十字架で死んだイエス・キリストがよみがえることなど、有り得ないことです。ですから、クリスチャンであってもキリストの復活を本気で信じていない人はたくさんいます。これは大変に残念なことです。確かにキリストの復活は常識では考えられないかもしれません。しかし、キリストは復活しました。このことを今、私は心の底から確信しています。きょうの、残りの時間では、私がどのようにして、その確信を得たかについての概略を話します。私は、まず聖書を読んで確信を得ました。次に、聖書の時代以降の現代に至るまでの宣教師たちの活動を学んでさらに確信を深めました。そしてまた、私自身の経験から、その確信をさらに強固にすることができました。
 最初に、私がキリストの復活を聖書から確信したことについて話します。
 まず、1世紀にイエスという男がいて、死刑で死んだことは歴史的な事実です。聖書以外にもヨセフスの『ユダヤ古代誌』という書に書かれています。このヨセフスの記述のことを後世の何者かによる加筆であると疑う学者もいるようですが、イエスの存在自体を疑うようであれば、新約聖書の何から何まで全てが造り話ということになってしまいます。そんな風に何から何まで疑っていたら切りがありません。ですから、イエスの復活を信じない学者でも、イエスの存在自体を否定する人はほとんどいません。ですから、イエスは確かに実在し、十字架に掛かって死にました。

イエスの遺体は盗まれたのか
 では、十字架で死んだイエスが復活したことに関してはどうでしょうか。マタイの福音書の最後の方には、イエスの墓の番をしていた番兵が寝ている間に、弟子たちがイエスの遺体を盗んで行ったという話が広くユダヤ人の間に広まったことが書かれています。マタイの福音書は、この話は祭司長たちが意図的に流した嘘であるとしていますが、誰かがイエスの遺体を盗んでどこかに隠したことは考えられることです。このことを少し考えてみましょう。
 もしイエスの遺体を盗むとしたら、祭司長たちか、イエスの弟子たちか、或いはそのどちらでもない第三者のいずれかでしょう。
 まず祭司長たちが盗む可能性はあったでしょうか。それは、有り得ないですね。祭司長たちにとってイエスは邪魔者でしたから、確実に死ぬことを望んでいました。ですから死んだイエスの遺体が墓から消えてしまうことは、祭司長たちにとっても都合の悪いことです。ですから、祭司長たちがイエスの遺体を盗むことは有り得ません。
 次に、第三者が盗む可能性を考えてみましょう。例えばイエスがたくさんの財宝を身に着けて、豪華な副葬品なども一緒に墓に入れられたとしたら、財宝を盗むために盗掘を企てる者もいるでしょう。しかし、イエスの墓には財宝などありませんでしたし、墓には番兵がいたのですから、番兵がいる時に危険を冒して盗掘を試みる者もいないでしょう。このように、第三者がイエスの遺体を盗んでも得をする者は誰もいませんから、第三者がイエスの遺体を盗んだことも考えられません。
 そうすると、イエスの遺体を盗む可能性があったのは、イエスの弟子たちだけだということになります。では仮に、弟子たちがイエスの遺体を盗んでどこかに隠したと考えてみましょう。すると、弟子たちは実際には死んでいたイエスを復活したことにして、イエスの教えを人々に伝えたことになります。そんなことが可能でしょうか。弟子たちは、イエスが死んだことで意気消沈していました。特にペテロはイエスのことを三度も知らないと言ってしまって、打ちのめされていました。そんな弟子たちが、どうして力強い宣教を始めることができたのでしょうか。イエスが死んだままであったなら弟子たちは、どこから力を得ることができるでしょうか。弟子たちが迫害にも負けないで力強い宣教ができたのは、彼らが復活したイエスと出会い、その後に聖霊の力が与えられたからこそではないでしょうか。

復活した後に聖霊の力を与えたイエス
 弟子たちがイエスの遺体を盗んでイエスが死んだままであったとしたら、弟子たちが宣教の力をどこから得ることができたのか考えなければなりません。イエスが死んだままでいたなら、そんな力の源はどこにも存在しません。ですからイエスは復活して、イエスが彼らに聖霊の力を与えたとしか考えられません。
 また、イエスを信じる者を迫害していたパウロがイエス・キリストを宣べ伝える者に変えられたことも、パウロが復活したイエスと出会い、聖霊の力を与えられたからこそです。パウロという人物が実在し、手紙を書いたこともまた事実です。パウロは地上生涯のイエスに会ったことはありませんが、復活したイエスに出会ったと手紙に書いています。それは今日開いている第一コリント15章の始めのほうにありますから、ご一緒に交代で読んでみましょう。第一コリント15章の3節から11節までを交代で読みます。

15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
 
 もしイエスが復活しなかったなら、パウロはここで嘘を付いていることになります。このことについては、パウロ自身も、14節と15節で、このように書いています。

15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。

 そうして、パウロは、19節で見たように、そんな者は、すべての人の中で一番哀れな者であると書いています。パウロは自分が復活したイエスと出会ったことを証言した上で、もし自分たちが嘘を付いているなら自分たちは哀れな者だと手紙に書いています。ここまで書くパウロをどうして疑う必要があるでしょうか。
 パウロは伝道旅行をする中で、様々な困難に遭っていました。それらの困難に遭ってもくじけなかったのはパウロが復活したイエス・キリストと出会ったからでした。そして、パウロは、もしイエス・キリストの復活が事実でないなら、自分は哀れな者だと書きました。私もまた、もちろんパウロほどではありませんでしたが、特にBTCの1年目では苦しい思いをしました。そして、もしイエス・キリストの復活が事実でないなら、BTCで苦しい思いをしていた私は本当に世界で一番哀れな者です。しかし、聖書を丁寧に読むならイエスの弟子とパウロたちが復活したイエスと出会って聖霊の力を得たことは事実としか考えられませんから、私は少しも哀れな者ではないと思いました。

私たちにも与えられている聖霊の力
 そうして聖書によってキリストの復活が事実であるという確信を得た私は、次には、アフリカやインドや中国などの世界各地で困難な宣教活動を行った宣教師たちについて学び、これらの宣教の働きも聖霊の力なしには有り得なかったであろうと確信するようになりました。そして日本での伝道を行ったフランシスコ・ザビエルやバックストン、或いはまた現代の宣教師たち、現役の宣教師で言えば、ザークル先生やアンドレア宣教師やザック宣教師など、日本という伝道が困難な地域で働くことができるのは、聖霊の力があればこそです。
 そうして、聖霊の力は私自身にも注がれています。聖霊の力の助け無しに牧師の働きなどできないことです。私の沼津教会でのこの1年あまりのご奉仕は、聖霊の力に助けられて行われたことですし、ついこの間の川上家の葬儀も、聖霊の力の助け無しには、とてもできないことでした。
 また私は、単に聖霊の力が与えられていることを感じているだけでなく、ヨハネの福音書を通して復活したイエス・キリストと出会っています。ヨハネの福音書とは、そのように聖霊の働きを通してイエス・キリストとの出会いを体験するための書であるという確信が私には与えられていますから、イエス・キリストが復活したことが事実であるという確信を私はさらに強固に持っています。
 教会の奉仕者に聖霊の力が与えられていることは、私たちの教会の奏楽者や司会者やその他の奉仕をしていて下さる方を見ても、そしてまた、下関の廣瀬いずみ先生の様子を聞いてもわかることです。

おわりに
 このように、イエス・キリストが復活して、それを信じる人々には聖霊の力が与えられていることは事実です。ですから、私たちは決して哀れな者ではありません。このことを私たちは聖書はもちろん、聖書の時代以降の宣教師たちや、現代の奉仕者たちを通しても知ることができます。この聖霊の力は牧師だけでなく、礼拝の司会者や奏楽者や、様々な奉仕者にも与えられて、教会の活動が維持されています。
 私たちの皆が、この聖霊の力が与えられているという意識を共有して御霊の一致が得られるなら、私たちには今よりも、もっと大きな力が与えられることと思います。そのような聖霊の力を信じて歩んで行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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キリストを十字架に付けて殺した私たち(2014.5.14 祈り会)

2014-05-16 08:16:37 | 祈り会メッセージ
2014年5月14日祈り会メッセージ
『キリストを十字架に付けて殺した私たち』
【使徒2:23~24、36~41】

はじめに
 きょうは使徒2章のペンテコステの日におけるペテロの説教を、再度ご一緒に読みたいと思います。前回は全体を読みました。きょうも全体を読めばペテロの説教の全体の流れがわかって良いのですが、少し長いですし、焦点がぼける恐れもありますので、きょう注目したい箇所だけを読むことにします。

2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

私たちがキリストを十字架に付けた
 いま2つの箇所をご一緒に読みましたが、この2つの箇所でペテロは、「あなたがたがイエス・キリストを十字架に付けたのだ」と言っています。つまり、「私たちがキリストを十字架に付けたのだ」ということです。
 きょうは、このことについて、最近私が思いを巡らしていることについて、話したいと思います。まだ考察の途中の段階のことですので、きれいにまとまった話にはならないと思いますが、ご容赦願いたいと思います。それゆえ、どれくらい皆さんに共感していただけるかも、よくわかりません。しかし、大切なことだと思っていますので、まだ私の中でも十分に熟していない段階ですが、ここで話させていただきたいと思います。
 最近私は、この「<私たち>がキリストを十字架に付けた」という認識を私たちはもっと強く持つべきではないかという思いがしています。「私」という「個人」がキリストを十字架に付けたというよりは、「私たち」という「集団」がキリストを十字架に付けたという思いをもっと強く持ったほうが良いのではないかということです。そのほうがグループ内の和を重んじる日本人に馴染みやすいのではないかとも思います。「和」の心というのは、国際宇宙ステーションの船長を務めて、今日の昼前に宇宙から帰還した若田光一さんも重んじていたことです。
 集団の和を重んじるということでは、この沼津の地域では今でも葬式があると町内の同じ組の人が助け合う風習が残っていることを考えると、特にその雰囲気が強いのかもしれません。私は、これまで、いろいろな地域に住んだことがありますが、葬式があると町内の組の人たちが寄り合う風習が今も残っている地区に住むのは初めてです。
 第二次世界大戦の後で日本にキリスト教ブームが起こり、多くの人がクリスチャンになったのも、自分の知り合いが教会に行くようになったということで、集団の様相が濃かったのではないかと思います。多くの人が信仰を持つようになる場合には、どこの国でもそうだと思いますから、特に日本だからということはないかもしれませんが、日本は集団生活の縛りが強いですから、「皆が行く」ということが、とても重要ではないかと思います。

「私」の信仰を追求しつつ「私たち」も忘れない
 もちろんキリスト教の信仰は、神様との個人的な関係を築くことが重要ですから、個人的に信仰を深めて行くことが必要です。神様との個人的な交わりを感じるようになり、ガラテヤ2:20の心境に至ることが大切なのだと思います。ガラテヤ2:20をお読みします。

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 こうして神様との個人的な関係を深めて行くことは本当に恵まれることであり、心の平安を得ることができますから、誰でもここを目指すべきです。しかし最近、私が思うのは、どうも、個人的に恵まれることを目指し過ぎると、どんどん内向きになって行ってしまうということです。これは、かなり難しい問題で、個人の信仰を深めることが悪い筈はありませんから、どんどん深めたら良いのですが、そのことによって、周囲との乖離が進んでしまったりします。インマヌエルという群れにおいてもそうですし、個人においてもそうです。私自身も、今ほど信仰が深まっていなかった時のほうが周囲の人々と共感し合えたように思いますから、信仰が深まることに戸惑う面もあります。
 ですから私たちは、「私」という個人の信仰を深めることを追求しつつも、「私たち」というグループがキリストを十字架に付けたのだという意識を強く持ち続けることが大切だろうと感じています。この場合の「私たち」というのは、もちろん狭い教会や教団の中の私たちではなくて、地域や日本という国の私たちです。
 そうして、既に信仰を持っている私たちとまだ信仰を持っていない方々が共に、「私たちがキリストを十字架に付けたのだ」という意識を共有できるように伝道することが必要ではないかと感じ始めています。日本人は道徳意識が高いですから、個人の罪を指摘しても、なかなか気付いてもらえないかもしれませんが、集団としての罪なら、もっと気付いてもらえるかもしれません。戦争の問題はその筆頭だと思います。第二次世界大戦後に多くの人がキリスト教の信仰を持ったことも、戦争と関係があったのだろうと思います。

平和の君を十字架に付ける日本
 いま日本では安倍政権が憲法解釈を変更して集団的自衛権を行使できるようにしようとしています。日本は平和憲法を定めて、戦争による殺人は二度と行わないことを誓いました。この平和憲法の解釈を変更して戦争による殺人への道を開くことは、「平和の君」であるイエス・キリストを十字架に付けて殺すことに等しいと言えるでしょう。日本が、このような戦争への道を開こうとしている今、「<私たち>がキリストを十字架に付けた」という意識をもっと強く持つべきではないか、このことについて私はこれから、さらに考察を進めて行きたいと思います。

おわりに
 皆さんは、どのようにお考えでしょうか。牧師である私と、皆さんとでは、また違う思いがあるかもしれませんが、共にお祈りする中で、神様が私たちの一人一人にどのように語り掛けて下さるかに、耳を傾けたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。
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一途に神の人に向かった母(2014.5.11 母の日礼拝)

2014-05-13 08:06:44 | 礼拝メッセージ
2014年5月11日母の日礼拝メッセージ
『一途に神の人に向かった母』
【Ⅱ列王4:18~35】

はじめに
 きょうの母の日礼拝のメッセージでは、子を思う母の箇所から語らせていただきたいと思い、あれこれ思いを巡らしました。聖書には、子を思う母が何人も登場します。旧約聖書に登場する子を思う有名な母としては、イシュマエルの母のハガルや、ヤコブの母のリベカ、サムエルの母のハンナなどが挙げられるでしょう。また新約聖書ではイエスの母のマリヤがその代表でしょうし、その他にもゼベダイの息子のヤコブとヨハネの兄弟の母からも我が子を思う母の気持ちが強く伝わって来ます。
 これらの幾多の母の中から、きょうはエリシャの時代のシュネムの女を取り上げます。神様は聖書のどの箇所からでも私たちに豊かに語り掛けて下さいますから、シュネムの女を取り上げることにした理由は特にはありませんが、先週の説教でヨルダン川に身を浸したナアマンもエリシャの時代の人物でしたから、今週も同じエリシャの時代にすれば、より親しみやすいのではないかと思い、きょうの箇所を選びました。
 まず、きょうの聖書箇所の列王記第二4章の18節から21節までを、私のほうでお読みします。

4:18 その子が、大きくなって、ある日、刈り入れ人といっしょにいる父のところに出て行ったとき、
4:19 父親に、「私の頭が、頭が」と言ったので、父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。
4:20 若者はその子を抱いて、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親のひざの上に休んでいたが、ついに死んだ。
4:21 彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。

霊性に優れた女と鈍感な夫
 まず、ここに至った経緯について説明する必要がありますね。それは、同じ列王記第二4章の、8節から17節までに記されています。

 まず8節、

4:8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
4:9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
4:10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」

 ここからわかることは、シュネムの女が単に裕福であっただけでなく、霊的にも優れた感受性を持っていたことです。エリシャは、この家で食事の歓待を受けている時に、自分が預言者であることを明かしていなかったようですが、女は気付いていました。後で明らかになりますが、彼女の夫の方は、霊的には鈍感であったようです。北王国のイスラエルでは、初代の王のヤロブアムによって人々がエルサレムのソロモンの神殿に行くことがないようにしてしまっていましたから(Ⅰ列王12:26~29)、人々の多くは霊的に鈍感であったことでしょう。ですから、この夫が格別に鈍感というわけではなく、女の霊性が優れていたということだと思います。
 さて、エリシャは世話になったお礼に女に何かしたいと思いました。それで若い者のゲハジを通して女に聞きました。13節です。

「ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことで一生懸命骨折ってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。」

 すると、女は答えました。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」

 もし同じことを彼女の夫に尋ねたなら、彼女の夫は、きっといろいろな願いを並べ立てたことだろうと思います。それが普通の人間です。しかし、彼女には世俗的な欲得は一切ありませんでした。そんな欲の無いシュネムの女でしたが、エリシャはゲハジから聞いて女には子供がいないことがわかりましたから、エリシャは女に言いました。16節と17節をお読みします。

4:16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ。あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないでください。」
4:17 しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。

 こうして神様はシュネムの女に祝福を与えました。先ほども言った通り、北王国のイスラエルは初代の王ヤロブアムがしたことによって国民全体に本来あるべき信仰心がありませんでした。しかし、神様はシュネムの女のような者には祝福を与えて下さるということに、日本という聖書信仰とは無縁の異教の国に住み私たちは、励まされる思いがします。

神の人しか眼中になかったシュネムの女
 さて、ここから先が、きょうの聖書箇所です。先ほど、18節から20節をお読みしたように、この女が生んだ男の子が大きくなったとき、父親に「私の頭が、頭が」と言って苦しみ始めました。そして、この男の子は母親のひざの上で休んでいましたが、ついに死んでしまいました。
 ここから先の女の行動は、私たちが信仰生活を送る上で、大変に示唆に富んでいると思います。彼女は、この非常事態において、神の人エリシャのことしか眼中に無くなりました。この切替がもの凄いと思います。そして、私たちの信仰生活も、このようであったら良いなと思います。いつもいつも神様しか見ないで周囲の人への気配りができない生活でもなく、又いつもいつも緩い信仰で世的な人と全く変わらない生活をするのでもなく、周囲の人への気配りができる時と神様しか見ない時との切替がきっちりとできる、シュネムの女は、そんな信仰生活の見本のように私は思えます。
 我が子が死んでしまった時、シュネムの女の眼中には神の人エリシャしかありませんでした。まず21節、

4:21 彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。

 シュネムの女は取り乱すことなく、まず神の人の寝台にその子を寝かしました。そして22節と23節、

4:22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから。」
4:23 すると彼は、「どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は、「それでも、かまいません」と答えた。

 どうして夫はこんなにも鈍感なのだろうと思います。男の子が最初に「私の頭が、頭が」と言って苦しみ始めたのは父親のところでしたから、父親は自分の子に何か大変なことが起こったのではないかと気付いても良さそうなものです。しかし、これが霊的に鈍感な者の現実であろうと思います。霊的に鈍感な者は、他のことにおいても鈍感なのだろうかと思うことです。そしてこのことは、決して他人事ではないと考えさせられます。この父親は新月祭とか安息日とかと言っていますから、彼にとって信仰とは、決まり事を行う形式的なものになっていたのかもしれません。マラキ書には、主が「わたしはあなたがたを愛している」とイスラエルの民に言っているのに、「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と主に聞き返している鈍感な民のことが書かれています。シュネムの女の夫もこのような者だったのでしょう。そして、霊的に鈍感だった夫は、我が子が死ぬという事態においても、やはり鈍感でした。
 女は、そんな鈍感な夫を相手にせずにエリシャのもとに急ぎました。続いて25節と26節、

4:25 こうして、彼女は出かけ、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。
4:26 さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」

 夫の相手をしなかった女は、ゲハジの相手もせず、ただ「無事です」とだけ言いました。本当は無事ではなかったのに、ゲハジの相手をしている時間が惜しかったのですね。そうして女はエリシャの足にすがりついて言いました。28節、

4:28 彼女は言った。「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」

 この女の気持ちは良くわかりますね。私たちは、神様から多くの恵みをいただいています。しかし、この恵みは、私たちが元々望んでいたものではなく、神様の側が一方的に私たちに与えて下さったものです。そうして神様は私たちを祝福して下さいました。そんな時に、予期せぬ不幸に見舞われたりしたら、私たちも、きっと女がこのように言った気持ちになるのではないでしょうか。

エリシャの祈りで生き返った男の子
 続いて29節、

4:29 そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」

 ゲハジは若い者でしたからエリシャよりもシュネムの女の家に早く駆け付けることができます。ですからエリシャはゲハジにこのように命じたのでしょう。30節、

4:30 その子の母親は言った。「【主】は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。

  このように女がエリシャに言ったということは、ゲハジでは役に立たないことが女には初めから分かっていたようでした。そして案の定、ゲハジでは役に立ちませんでした。31節、

4:31 ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした」と言って彼に報告した。

 優れた霊性を持つシュネムの女には、自分の夫も、そしてゲハジも役に立たないことが、初めから分かっていたのですね。それで、ただひたすらエリシャに懇願していたのでした。そうして、32節から35節、

4:32 エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。
4:33 エリシャは中に入り、戸をしめて、ふたりだけになって、【主】に祈った。
4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
4:35 それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。

シュネムの女から学びたいこと
 きょうは母の日礼拝です。この箇所から、いくつかのことを学びたいと願って、ここまで見て来ました。
 まず、一つは、子を思う母の強い気持ちです。母はわき目もふらずにエリシャの所に急ぎました。私たちもまた、このように子を思う母の愛情によって育てられたことを、とても感謝に思います。そして、いま子供を育てていらっしゃるお母様方もそのような強い愛情を持ってお子さんを育てていらっしゃることに敬意を表して、神様からの祝福が豊かに注がれますよう、心よりお祈りしたいと思います。
 次に、このシュネムの女の平時と非常時の切替から学びたいと思います。私たちは普段は、霊的には鈍感な世俗的な人々の中で暮らしています。そのような中であまりにも神様一辺倒の生活をすることは変な人だと思われて、伝道上も好ましくないかもしれません。私たちは霊的に鈍感な人たちともしっかりと向き合って、まだ霊的に救われていない人々を救いに導かなければなりません。しかし、そのことを意識し過ぎて、信仰的に緩い生活を続けていると、今度は常時緩い信仰になってしまって、いざという時に、神様の方をしっかりと向くことができなくなってしまうでしょう。もし非常事態においても緩い信仰のままでいるなら、女の夫やゲハジと同じことになってしまいます。私たちはそのような者であってはなりません。私は、シュネムの女の素晴らしい切替に学びたいと思います。
 そして、3つめに、きょう私が分かち合いたいと願っているのは、新約の時代の聖霊の恵みを与えられている私たちは、シュネムの女の立場だけでなく、エリシャの立場にもあるのだということです。

エリシャから学びたいこと
 エリシャは聖霊を注がれた預言者でした。そして、私たちにもまた聖霊が注がれています。旧約の時代のシュネムの女には聖霊が注がれていませんでしたが、新約の時代の私たちはイエス・キリストを信じるなら誰にでも聖霊が注がれており、聖霊の力が与えられています。エリシャほどの強い力ではないかもしれませんが、私たちにも聖霊の力が与えられているのですから、エリシャのように人を救う働きが私たちにもできるのだと考えるべきでしょう。
 それは、エリシャのように病気で死んだ子供を生き返らせるというのでなく、私たちの場合には、魂が死んだ状態のままの方々の魂が救われるように祈ることにおいて、エリシャのようでなければならないでしょう。私たちは、まだ救われていない方の魂が救われるように祈りますが、しばしばゲハジのようになってしまってはいないでしょうか。31節にあるようにゲハジは、杖を子どもの顔の上に置きましたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした」と言ってエリシャに報告しました。
 そうではなく、私たちの祈りは、エリシャのような、全身全霊による祈りでありたいと思います。エリシャの祈りが33節と34節に、書かれています。

4:33 エリシャは中に入り、戸をしめて、ふたりだけになって、【主】に祈った。
4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。

 聖霊が注がれていた預言者エリシャは、その聖霊の力を目いっぱい活用して、自分が与えられていた力の全てを子に注ぎ出しました。

おわりに
 私たちは求道者のリストを作って、その方々の魂が救われるようにお祈りしていますが、私たちの祈りもまた、エリシャのように全身全霊で、私たちに注がれている力の全てを注ぎ出すようなものでありたいと思います。私たちにも聖霊が注がれていることを自覚して祈るなら、聖霊によって私たちと神様との交わりがより豊かになり、そんな私たちに神様は大きな力を与えて下さるのではないかと思います。
 私たちはシュネムの女のようでありたいと思います。そしてまた、エリシャのようでもありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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感謝

2014-05-10 06:59:37 | 折々のつぶやき
 昨年4月に開設した本ブログの訪問者数が2万人を超えました。
 平均すると一日50人(ロボットを含む)です。他のブログと比べれば多くはありませんが、少ない人数で礼拝を守っている私たちにとっては、とても感謝なことです。
 いつも見に来て下さってありがとうございます。
 今後ともよろしくお願い致します。
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復活したイエスと出会っている私たち(2014.5.7 祈り会)

2014-05-08 09:57:14 | 祈り会メッセージ
2014年5月7日祈り会メッセージ
『復活したイエスと出会っている私たち』
【ヨハネ4:28~42/使徒8:4~17】

4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。
4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

はじめに
 きょうは、当初は使徒の働き2章を開くことを考えていましたが、教報の5月号の藤本代表の巻頭言を読んでいろいろ思うことがありましたので、そちらの話をさせていただくことにします。
 今ヨハネ4章の28節から42節をご一緒に読みましたが、次に、今月の教報の藤本満代表による巻頭言を読みたいと思います。ここに書かれているウェスレーというのは、英国のメソジスト教会の創設に関わった人で、私たちのインマヌエル教団は、そのメソジスト教会の流れを源流に持っています。
 ご承知のように、キリスト教の教会は、もともとはペテロやパウロたちなどの1世紀の使徒たちによって始められた一本の流れが源流になっていますが、やがて東方教会と西方教会とに分かれ、そして西方教会はカトリックとプロテスタントとに分かれ、プロテスタントはさらに多くの教派へと枝分かれして行きました。このように数ある教派の中で私たちのインマヌエル教団はウェスレーの流れを汲んでいます。
 教報の5月号の巻頭言で藤本代表が書いていることは、よく知られていることであり、ここに特に新しいことが書いてあるわけではありません。私も神学校で習ったことです。しかし今回、ヨハネ4章との関連で、このウェスレーの回心に関して新たな思いを与えられていますので、きょうは、そのことを分かち合いたいと願っています。まず教報5月号の巻頭言を朗読します。

「ウェスレーの回心記念日に想う」 教団代表 藤本 満

(省略)

復活したイエスと出会ったウェスレー
 この文章で先ず注目したいのは、モラビア派の指導者シュパンゲンベルクのウェスレーに対する問い掛けと、その問い掛けへのウェスレーの答です。
 Q(シュパンゲンベルク)「あなたはイエス・キリストを知っていますか。」
 A(ウェスレー)「主がこの世界の救い主であるということを知っています。」
 このウェスレーの受け答えはヨハネ4:42とそっくりです。
「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)
 ただしウェスレーは、この段階では知識としてイエス・キリストが世の救い主であることを知っていましたが、霊的には知っていませんでした。しかし、ウェスレーは1738年の5月24日に霊的にイエス・キリストが救い主であることを知ることができました。ウェスレーはこの日の日記にこのように書きました。
「私は自分の心が不思議に熱くなるのを覚えた。私は救われるためにただキリストのみに信頼した、と感じた。」
 ウェスレーがこのように霊的にイエス・キリストの救いを確信できたということは、つまりウェスレーは復活したイエス・キリストに霊的に出会うことができたということです。
 さて、ここからが非常に大切なのですが、現代の私たちも、もし聖霊を受けているなら復活したイエス・キリストに霊的に出会っています。それはボンヤリとした出会い方ではなくて、非常にハッキリと出会っています。なぜなら私たちは聖書を通して復活したイエス・キリストと出会っているからです。これは、ものすごくハッキリした出会いなのですが、どうもそのことがクリスチャンの間においてもしっかりと認識されていないということに、私は今回の藤本代表の巻頭言とヨハネ4章を通して気付きました。
 それが、どういうことかを分かち合うために、今度は使徒の働きの8章をご一緒に読みましょう。

復活したイエスと出会ったサマリヤ人たち
 使徒8章の4~17節を交代で読みましょう。これまで私は、祈祷会と礼拝において何度も、この使徒8章の箇所はヨハネ4章の背後の「使徒の時代」に相当する箇所であることを話して来ています。

8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。
8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 この箇所をヨハネ4章と比較する場合には、まずシモンのことは無視して下さい。すると、ヨハネ4章と驚くほど状況が一致していることがわかります。この使徒8章でサマリヤ人たちは、ピリポの伝道によって聖霊を受けるばかりになっていました。そして、エルサレムから派遣されたペテロとヨハネが彼らの上に手を置いたことで聖霊を受けました。ペテロとヨハネがしたことは、エルサレムからサマリヤに行ってサマリヤ人たちの上に手を置くことだけでした。ですから、ほとんど労苦らしい労苦をしていません。この状況を、ヨハネ4章でイエスさまが35節から38節に掛けて言っています。35節から38節を、もう一度、交代で読みましょう。

4:35 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 イエス・キリストのこのことばは、使徒8章でピリポが労苦して伝道した後で、労苦しなかったペテロとヨハネがサマリヤ人たちの上に手を置いて刈り取った状況を説明したものです。そしてヨハネ4:42でサマリヤ人たちがサマリヤの女に何と言ったかというと、

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 これは、使徒8章のサマリヤ人たちが、ピリポが話したことを信じた段階では、まだイエス・キリストに出会っていなかったのが、ペテロとヨハネによって聖霊を受けたために、復活したイエス・キリストと実際に出会い、それゆえ自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているとわかった、ということです。
 ですから、ヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエス・キリストに出会っている状況から私たちは、サマリヤ人たちが地上生涯のイエスに出会っているのではなくて、復活したイエス・キリストに出会っているのだということを感じ取るべきです。復活したイエス・キリストは、これほどまでにハッキリと人々の前に現われているのだということを私たちはもっとしっかりと認識すべきでしょう。

ハッキリと認識されていない復活したイエスとの出会い
 しかし、このヨハネ4章が使徒8章の状況を描いたものであるという指摘は、これまで為されたことがありません。
 このような指摘が無いという事実は、私たちが聖霊を受けるとはどういうことかということが、私たちクリスチャンの間でもハッキリとは分かっていないということでしょう。実は私たち聖霊を受けたクリスチャンは、復活したイエス・キリストと聖書を通してハッキリと出会っているのに、どうやらそのことをボンヤリとしか感じていないようです。
 私はこれまでヨハネの永遠観について、何とか先生方や教会の皆さんに分かっていただこうと思っていました。ヨハネの永遠観について説く私は、私自身がヨハネの福音書を通して復活したイエス・キリストと出会っていることを良く分かっていて、そのことを土台にして説いているわけですが、今回のことで、まず私たちは復活したイエス・キリストとハッキリと出会っているのだということから説き始めるべきだと示されました。このことから始めないと永遠観は、なかなか分かってもらえないだろうということに気付くことができて感謝に思っています。
 私たちがこれほどハッキリと復活したイエス・キリストと出会っているのですから、私たちにとって永遠とは本当に身近な存在です。永遠は遠い未来に存在しているのではなく、身近にあります。復活したイエスに会ったサマリヤ人たちが、まるで地上生涯のイエスに会っていたようにハッキリと出会っていたように、私たちもまたヨハネの福音書で、「あなたがたは何を求めているのですか。… 来なさい。そうすればわかります」(ヨハネ1:38, 39)と私たちに語り掛けるイエスにハッキリと出会っています。

おわりに
 藤本代表も巻頭言の締めくくりに、「主に触れていただく、主との交わりの中を生きる福音体験の中にキリスト教の真髄があります」と書いています。私たちが交わりを持っている主は永遠の中を生きているのですから、永遠は身近な存在です。
 私たちは、このような主との交わりの中を生きているのだということを、しっかりと認識していたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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心の鎧を脱ぐ(2014.5.4 礼拝)

2014-05-06 09:30:31 | 礼拝メッセージ
2014年5月4日礼拝メッセージ
『心の鎧を脱ぐ』
【Ⅱ列王5:1~14】

はじめに
 ちょうど1週間前の4月27日の午後に、K兄が天に召され、この1週間は、本当に様々なことがありました。しかし、こうしてまたご一緒に教会に集うことができて神様を礼拝する恵みをいただけることを、心から感謝に思います。
 告別式が水曜日にあった関係で、先週の水曜日の祈祷会はお休みにしました。しかし、祈祷会は休みにできますが、礼拝は葬儀があっても絶対にお休みにはしません。例えば金曜日に教会員が天に召されたという場合に、土曜日に前夜式を行って日曜日の午前中に告別式を行うということはしません。金曜日に天に召された場合には、早くても日曜日の夜に前夜式を行うことになるでしょう。そのように葬儀の日程は礼拝を避けて組むようにして、礼拝はきっちりと行います。私たちの普段の生活は神様に守られていますから、その神様を礼拝するための「礼拝」という集会をお休みにすることは、よほどのことがない限り、ありません。

礼拝は神様を礼拝するための集会
 良い機会ですから、礼拝とは神様を礼拝するための集会であることを、今一度、しっかりと私たちは確認しておきたいと思います。教会に来れば、教会の皆さんと交わることができますし、聖書の話を聞くこともできます。しかし、私たちが日曜日に教会に集う第一の目的は、人と会うためでも聖書の話を聞くためでもなく、神様を礼拝するためです。いつも私たちと共にいて下さって私たちを守り、力を与えて下さっている神さまをほめ讃え、賛美し、礼拝することが礼拝の第一の目的です。
 今回のご葬儀は、私が牧師になって初めて司式をしたご葬儀でしたが、私はプログラムを準備していて、葬儀のプログラムというのは礼拝のプログラムと全く同じなのだなあということを改めて感じました。葬儀の場合は、合間に弔辞や弔電が入ったりもしますが、礼拝の場合にもお証しが入ることがありますから、同じです。葬儀であっても礼拝であっても賛美歌を歌い、お祈りをし、聖書のみことばを読み、聖書からのメッセージを聞きます。そうして心を整えてまた賛美をして頌栄を歌います。ですからキリスト教の葬儀は故人の死を悼む式ではなく神様を礼拝する式であり、その、ほめ讃えるべき神がご遺族を慰め、励まして下さることを祈り願う式です。それゆえ葬儀の中心にいるのは故人ではなくて神様です。

弱い時にこそ強い
 神様は礼拝や葬儀においてはもちろん、普段の生活においても、いつも私たちの中心にいて下さり、私たちに力を与えて下さっています。私たちは神様中心の生活をしています。しかし、かつての私たちは神中心ではなく自分中心の生活をしていました。そして、かつての私たちがそうであったように、日本人の多くは自分中心の生活をしていて神様の存在に気付いていません。どうして気付くことができないのか、そして、どうしたら気付くことができるようになるのか。このことについて私はご葬儀での説教で、K兄が教会に来るに至った経緯を紹介しつつ、語らせていただきました。
 まず前夜式の説教では、『弱い時にこそ強い』と題して、第二コリントのパウロのことばを紹介しました。パウロは、コリント人に宛てて次のように書きました(Ⅱコリント12:9~10)

9 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 このように、神様は自分の弱さを認める者に対しては、圧倒的な存在感を示して現われて下さり、力を与えて下さいます。
 前夜式ではまた、詩篇23篇もお読みしました。詩篇23篇でダビデは、自分を羊に例え、主を羊飼いに例えています。羊はとても臆病で弱い動物です。ダビデが自分を臆病な羊に例えているということは、ダビデが自分の弱さを認めているということです。それゆえ主はダビデを守り、ダビデに平安を与え、死をも恐れない心を与えて下さいました。

自分で自分の心を守っている私たち
 しかし、人はなかなか自分の弱さを認めることができません。前夜式の翌日の告別式では、どうして人は自分の弱さを認めることができないのかについて、話しました。それは、自分の弱さを認めれば、自分の敵からの攻撃にさらされてしまうからです。それゆえ自分を守るために人は自分の心の表面をプライドや優越感で塗り固めます。劣等感の塊りのような人であっても他人の悪い部分を粗探しして自分は相手よりはマシだと思おうとします。そうして自分を守ろうとします。本当は自分で自分を守らなくても神様が守って下さるのに、自分で自分の心の表面をプライドや優越感で塗り固めて自分は強いと必死になって思い込もうとします。そのため、私たちを助けて下さろうとしている神様の存在に気付くことができないでいます。
 しかし、そんな風に自分で自分を守っている人でも、厚く塗り固めた心の表面にヒビ割れが入ることがあります。冬の乾燥した時期などに私たちの皮膚や唇が乾燥してヒビ割れを起こし、皮膚の内側が激しく痛むように、愛する家族が死んだり、想定外の困難な目に遭ったりすると固い心の表面にヒビ割れが入り、心の内側に痛みを感じます。 それは、心の内側にある魂が本当は神を求めて渇いているのに、神と交わることができないために、魂が悲鳴を上げていることに、ヒビ割れの隙間を通して気付くからです。
 告別式の説教では詩篇42篇を引用しました。詩篇42篇の始めの部分をお読みします。

1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

 人は元々、エデンの園で神様と共に暮らしていましたから、神様を慕い求めるように造られています。ですから、厚く塗り固めていた防御にヒビが入った時、そこに神様の御手が触れて、自分の魂が神様を激しく求めていたことに気付きます。そして、そのヒビ割れを通してイエスさまの声が聞こえるようになります。告別式ではマタイの福音書のイエスさまのことばも引用しました(マタイ11:28)。

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 K兄も心のヒビ割れを通して、イエス様のこの声を魂で聞いて教会を訪れたのでしょう。そうして心の防御を少しずつ取り去り、やがて自分の弱さを認めることができるようになり、洗礼を受けるに至りました。そうしてK兄は魂の安らぎを得ることができました。
 告別式で私は、この心を防御している固い部分を取り去ることを、「心の鎧を脱ぐ」ということばで表現しました。「心の鎧を脱ぐ」という表現を使ったのは、実は私の頭の中に、きょうの聖書箇所に登場するナアマンのことがあったからです。葬儀の説教の短い時間では、とてもナアマンの話まではできませんでしたから、きょうの礼拝説教では、このナアマンについて、ご一緒に学びたいと思います。

心の鎧を着けていたナアマン
 軍人であったナアマンは体に鎧を着けていただけではなく、心にも分厚い鎧を着けていました。しかし、ナアマンが心の鎧を脱いだ時、神様はナアマンの心と体とをきよめて下さいました。
 では列王記第二5章(p.638、第二版p.585)の1節から、飛び飛びになりますが、ざっと見て行くことにしましょう。まず1節、

5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。

 これは北王国イスラエルの預言者エリシャの時代ですから、紀元前800年頃のことです。アラムというのは、当時のイスラエルの北東にあった国で、イスラエルとの関係はあまり良くありませんでした。ナアマンはこのアラムの国の将軍でした。軍人として高い地位にあった人ですから、エッヘン、エッヘンという感じの人だったと想像できます。
 いまNHKの朝の連続ドラマで『花子とアン』を放送していますね。その中に、いつも威張っている伯爵が出て来ます。その伯爵がエッヘン、エッヘンという感じなのですが、ナアマンもそんな感じであったと想像できます。しかし、ナアマンはツァラアトに冒されて弱っていました。ツァラアトというのは重い皮膚病のことです。
 さて、ナアマンの所にはイスラエルで捕えられてアラムに連れて来られていた若い娘がいました。その若い娘は、彼女の国のイスラエルの預言者ならナアマンの病気を直すだろうと言いました。それで、ナアマンはアラムの王にそのことを告げました。誇り高いナアマンが異国の若い娘の言うことを聞くとは、彼がよほど弱り切っていたということでしょうね。この時、ナアマンのプライドにはヒビが入っていて、そのヒビ割れの隙間から神様の声がナアマンの魂に届いていたのかもしれませんね。続いて5節と6節、

5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」

 当時のアラムとイスラエルの関係は良くありませんでした。それゆえ、イスラエルの王はアラムの王からの手紙を読んで怒りました。7節、

5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

 このことを聞き及んだ預言者のエリシャは王のもとに人をやって言いました。

「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

 そこで9節にあるように、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立ちました。これがナアマンという人でした。エリシャは軍人ではなく預言者でしたから、ナアマンはエリシャの所に戦車で行く必要はありませんでした。では、なぜナアマンはそうしたのか。それはナアマンのプライドがそうさせたのでしょう。ナアマンは重い皮膚病によって弱っていました。その弱さを、相手に見せたくはなかったのでしょう。恐らくナアマンは鎧を着けて戦車に乗っていたのではないかと思います。そうして自分は強い人間なんだぞ、と見せたかったのでしょう。ですから、その時のナアマンは体にも心にも、両方に鎧を着けて自分が傷付くことを自分で守っていました。

いやいや川に入ったナアマン
 そんなナアマンに対してエリシャは使いをやって10節のように言いました。
 
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」

 エリシャ本人ではなく使いが出て来て、こう言ったのでナアマンは激怒しました。11節です。

「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。」

 精一杯の虚勢を張って戦車でエリシャの家に乗り付けたナアマンの面目は丸つぶれでした。それで彼は怒ってアラムへ帰ろうとしました。13節、

5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 このように諌めた部下も立派でしたね。ナアマンは怒り狂っていたことでしょうから、下手をしたら、ますますナアマンを怒らせて殺されかねません。しかし、この時のナアマンは、怒り狂いながらも、部下の言うことを聞くことにしました。どうしてナアマンが部下の言うことを聞くことにしたのか、それはわかりません。病気の身でわざわざアラムの国からイスラエルまでの長い距離を移動して来たのは病気を直すためなのだから、ダメでもともとで川に入ってみようと思ったのかもしれません。
 いずれにしても、ナアマンにとっては全く気が乗らないことでしたから、1回目は、いやいや川に入ったことでしょう。
 これは、私たちが教会に人を誘う時に似ているかもしれませんね。誘われた人は、教会なんか行きたくないけれど、あんまり誘われるから、しょうがないから1回ぐらい行ってやろうかという感じで来てくれたりします。しかし、教会に1回足を踏み入れたことで、その人の人生が変わることがあります。変わらない人も多いですが、変わる人がいることを、私たちは知っていますね。そのような人は、魂が何かを求めていることを薄々感じていて、初めて教会に足を踏み入れた時に、こここそが、今まで自分の求めていた所だったのだと気付く人たちです。教会に入る前までは、まさか自分の魂がキリスト教の神を求めていたとは全く気付いていませんでした。しかし、入ることによって、そのことに気付くのです。

心の鎧を脱いで行ったナアマン
 ナアマンも、とにかく1回、川に入ることで、ナアマンは自分の魂が実は神を求めていたことに気付いたのだと思います。ここから先は私の想像ですが、私は、ナアマンは川に入った時に無意識のうちに神に祈ったのではないかと思います。私は神学生の時に、船橋教会の教会学校の伝道会で、子供向けの一人芝居をして、ナアマンを演じたことがあります。
 その子供向けの劇で、私はナアマンが1回川に入るごとに変わって行く様子を演じてみました。私は神学校に入る前まで剣道をしていましたから、剣道の防具を持っています。その剣道の防具を鎧に見立てて身に着けて、とにかくやたらと威張るナアマンを演じました。しかし、いよいよヨルダン川に身を浸すことにして、さすがに鎧を着けたままでは水浴ができませんから、ナアマンは鎧を脱ぎました。すると、今まで自分を守っていた鎧が無くなったことで、ナアマンは非常に頼りない気持ちになりました。そして、皮膚病のナアマンにとっては、あまりきれいには見えないヨルダン川に入ることは恐ろしいことでした。ナアマンは12節で「ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。」と言っていますから、ナアマンの目には、イスラエルのヨルダン川は濁った汚い川に見えたことでしょう。
 そんなヨルダン川に裸で入らなければならなくなった時、ナアマンは無意識のうちにイスラエルの神に助けを求めて祈ったのではないか、私は船橋教会のCSの劇で、そんなナアマンを演じました。そして、この無意識の祈りによってナアマンの心の鎧の一部が取り去られ、ナアマンは自分の心が少しだけ軽くなったのを感じました。それで最初はいやいや入った川でしたが、段々入るのが嫌ではなくなりました。そうして2回目、3回目と川に身を浸すうち、最初は無意識のうちに祈っていたナアマンでしたが、段々と意識して神に心を向けて祈るようになりました。そうして川の中で祈れば祈るほど、ナアマンは自分の心が洗われるような清々しい気分になって行くことを感じました。
 こうしてナアマンは川に浸る度に、心に着けていた鎧を自分で脱いで行くことができました。そして7度目に川に身を浸した時のナアマンは自分の身も心も魂もすべてを神に委ねていました。すると、ナアマンを苦しめていたツァラアトが直り、14節にあるように、彼の体は元どおりになって幼子の体のようになり、きよくなりました。
 ナアマンの病気が直ったのは、ナアマンがただ単にヨルダン川に身を浸したからではなく、その過程でナアマンが心の鎧を脱ぎ去ることができたからでしょう。ですから、ナアマンの信仰がナアマンの病気を直したことになります。それは新約聖書の福音書の長血の女が、イエス様の着物を触れば、きっと病気が直ると信じて、必死でイエス様の着物に触ったのと同じだと思います。イエス様は、この長血の女に言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(マルコ5:25~34他)。
 ナアマンの場合はエリシャの家に戦車で乗り付けたぐらいですから、初めは信仰を持っていませんでした。しかし、部下の言うことを聞いて川に入ることを決め、まずは体の鎧を脱いで川に入り、そうして次第に心の鎧も脱いで行くことで神様に心を向けるようになり、最後は長血の女のような純粋な信仰を持つことができるようになりました。

おわりに
 私たちの教会もまた、ナアマンが身を浸したヨルダン川のようでありたいと思います。私たちの教会は老朽化が進んでいますから、見た目には、中に入りたいと思うような教会ではないかもしれません。しかし、一たび意を決して中に入ったなら、何となく心が洗われたような感じがして、また2度目も入ってみたくなるような教会でありたいと思います。そうして、入る度に、心が洗われて心の鎧を脱いで行くことができるような教会になれれば良いなと思います。
 それは、どんな教会でしょうか。それは、やはり霊とまことによる礼拝を捧げることができる教会ではないでしょうか。そのような教会に一歩足を踏み入れて身を置くなら、そこに初めて導かれた方であっても神様に心を向けることが自然とできるようになるのではないでしょうか。そのためには、私の説教もまた、聞く皆さんの信仰が養われて、霊とまことによる礼拝を捧げることができるようになるものでなければなりません。そのためにお祈りいただければ幸いですし、皆さんの側でも、霊とまことによる礼拝を捧げるという高い意識を持って教会の礼拝に臨んでいただけたらと思います。
 初めにも言いました通り、教会の礼拝とは、神様を礼拝するための集会です。その礼拝は霊とまことによる礼拝でなければなりません。私たちが心の鎧を着けたままであるなら、霊とまことによる礼拝を捧げることはできず、そのような教会にとどまるなら、この教会を初めて訪れる方もまた、心の鎧を脱ぐことはできないでしょう。
 私たちの教会が、ナアマンが身を浸したヨルダン川のような教会になることができるように、お祈りしたいと思います。
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地域のために祈ろう(2014.4.27 礼拝)

2014-05-01 08:30:24 | 礼拝メッセージ
2014年4月27日礼拝メッセージ
『地域のために祈ろう』
【詩篇122篇 全】

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは『地域のために祈ろう』としました。しかし、きょうのメッセージは、地域のための祈りについて学ぶことを第一の目的とするよりは、私たちが祈りの器として成長するには、どういう祈りをしたら良いだろうかということについて学ぶ機会にしてみたいと思っています。それは私が、地域のために祈ることが、祈り手として成長するのに、大変に役に立つのではないかと示されているからです。ですから、きょうのメッセージの第一の目的は祈り手として成長することであると考えていただきたいと思います。
 地域のために祈ることで祈り手として成長することができるなら、それ以外の個人的な祈りであっても、或いはまた地域よりももっと広い日本のため、世界のための祈りであっても、今よりも、もっと良い霊的な状態の下で祈りを捧げることができるようになるのではないか、そんな風に私は示されています。

神との一体感を感じつつ祈りたい
 私たちは、いろいろなことについて祈ります。個人的なことについても多く祈りますし、他の人のためのとりなしの祈りも多くしますし、世界の平和のためにも祈ります。しかし、地域のための祈りは、私自身のことを振り返ってみると、あまりして来なかったように感じています。そのことを私は、4月10日の片浜駅の近くの交通事故の後で示され、大変に悔やみました。この片浜駅の近くで小学5年生の男の子が交通事故で亡くなってしまったことは、本当に残念で悲しいことでした。この事故以来、私は地域のための祈りについて以前よりもずっと強く意識するようになりました。そして、地域のための祈りを通じて、私は以前よりも御父と御子イエス・キリストとの交わりの中で祈ることを感じることができるようになっている気がします。
 それは一体どういうことかというと、個人的な祈りですと、それはもしかしたら利己的な自己中心的な祈りかもしれず、それが神様の御心にかなった祈りかどうか確信が持てないことがあります。神様の御心にかなっているという確信がないと、その分、神様との一体感も得づらくなります。一方、例えば世界の平和のために祈るなら、それは御心にかなっているという100%の確信があります。しかし、世界のサイズはあまりに大きいですから、大きい分、私の霊的なコンディションがよほど良くなければ神様との一体感も、得づらくなります。忙しくしていて心がゆったりしていない時に世界スケールの神様に波長を合わせようとしても、なかなか上手くは行きません(まして宇宙スケールは無理です。ヨハネの永遠観を思い巡らすには宇宙スケールの神様と波長を合わせる必要があります)。そういう点で言うと、地域のための祈りですと、神様との一体感を味わうには、大きく過ぎず、小さ過ぎず、ちょうど良いような気がしています。きょうは、是非とも、この感覚を皆さんと分かち合いたいと願っています。
 
神の御心にかなう祈りなら聞かれる
 きょう、これから祈りについてご一緒に考えて行くに当たって先ずは、週報の3ページ目の祈祷会メモの下に書いた、ヨハネの手紙第一のみことばを味わってみたいと思います。ここにヨハネの手紙第一の5章14節と1章3節と4章16節とを書きましたが、まず5章14節を、ご一緒に読みましょう。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

 このことを私たちは、まずしっかりと確認しておく必要があると思います。私たちは、どんなことでも祈って良いのですが、祈ったことが全て聞かれるわけではないことを、私たちは良く知っていますね。では、どんな祈りなら聞かれるかというと、それは神の御心に適った祈りである、ということです。それから、御心に適った祈りであったとしても、それが適えられるには、時があります。神様は、最も良い時期に、私たちの願いをかなえて下さいます。
 ですから、祈りは本当に難しいと思います。御心に適った祈りをしていると言う確信があったとしても、御心に適った時にならなければ、それは実現しません。私たちは、その時がいつ何時なのかを定かに知ることはできませんから、祈りが聞かれなかったと早合点することもあります。
 祈りについての神の御心は、私たちにとっては、それほどわかりにくいことです。しかし私は、わかりにくいからと言って、御心を知ろうとする努力を放棄してはならないと思います。では、そのための努力として、私たちはどんなことをすれば良いでしょうか。一つには、祈りについての本を読むことであろうと思います。祈りについての本がいろいろと出ていますから、それらを読むと、祈りについての知識を深めることができると思います。(教会図書を整備することも考えたい)。そして、そのように本から知識を得ることに加えて、実際に祈って、神様との交わりの時を持つようにするなら、祈り手として成長できるのではないかと思います。もし皆さんが、どうも祈り手として自分は成長していないと時たま感じることがあるなら、今までと同じ祈り方をするのではなく、別の祈り方を試してみることも必要ではないかと思います。

神の愛と自分の隣人愛とを合わせて祈る
 私が常々思っているのは、御父および御子イエス・キリストとの交わりを持ちながら、祈れるようになりたいということです。御父および御子イエスとの交わりを持ちながら祈るなら、御心に適った祈りができるであろうと思うからです。しかし、どうしたら、御父および御子イエスとの交わりを持つ祈りができるのだろうかと、なかなか悩ましい思いでいました。ところが最近になって、地域のために祈れるようになることが、非常に有効であることがわかって来ました。きょうは、是非そのことを皆さんと分かち合いたく願っています。
 そのために次に、ヨハネの手紙第一の1章3節を確認しておきましょう。ご一緒に読みたいと思います。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3)

 もし私たちが御父と御子との交わりを感じないで祈るなら、それは自分の願いをただ一方的に神様にぶつけるだけになってしまいます。そのような祈りをしているだけなら、神の御心を知ることは、なかなかできないでしょう。一方、御父と御子との交わりを感じながら祈ることができるなら、神の御心を多少なりとも感じることができるようになるかもしれません。しかし悩ましいのは、先ほども話した通り、どうしたら御父および御子イエスとの交わりを持ちながら祈ることができるかということです。そうしてこのことを悩ましく思っていた私に示されたことが、地域のために祈るということでした。私は地域のために祈り始めることで、神様がこの地域の人々を深く愛しておられることを改めて知ることができました。そうして、御父および御子イエスとの交わりの中に入るとは、神様の愛の中に入れていただくことであるということを示されました。この神様の愛については、ヨハネの手紙第一の4章16節に「神は愛です」という有名なみことばがありますね。
 今度はヨハネの手紙第一の4章16節をご一緒に読みましょう。

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(Ⅰヨハネ4:16)

 御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただくとは、神の愛の中に入れていただくことに等しいと言えるでしょう。ですから、御父および御子イエスとの交わりを持ちながら祈るとは、神の愛を感じながら、神の愛に合わせて祈ることだと言えるのだと思います。そうして地域のために祈ってみると、神の愛に合わせるには、まずは神様の地域への愛に合わせるのが比較的合わせやすいことに私は気付きました。私は常々、世界の平和のためにもっと祈れる者になりたいと思っていますが、神様の世界の人々への愛は人知を遥かに越えるほど大きいので、私の霊的なコンディションがよほど良くなければ、神様の大きな愛に私の愛を合わせるのが難しいことに気付かされました。しかし、地域のための祈りを積むことで、霊的なコンディションの良し悪しによるのではなく、いつでも世界のために祈れる器にならせていただきたいと思っています。
 今回、私は、これらの思い巡らしを通して、教会での祈りでは、どうして自分のための祈りよりも隣人のためのとりなしの祈りを重視するかが、初めて良くわかった気がします。神様は私を愛して下さっていますが、私の隣人もまた愛しています。その神様の隣人に対する神様の愛を感じながら、私の隣人への愛を重ねるなら、そこに御父および御子イエスとのより深い交わりの中に入れられて、そのことで私たちは祈り手として成長できるのだと思います。そうして、少人数の隣人だけでなく、もっと人数の多い地域の人々のために祈れるようになり、さらには世界の人々のために祈れる祈り手へと成長できたらと思います。

詩人と主のエルサレムへの愛が重なり合う詩篇122篇
 では、これらのことを念頭に置いて、きょうの聖書箇所の詩篇122篇を読みたいと思います。この詩篇からは、この122篇の詩人がいかにエルサレムを深く愛しているかが、よく伝わって来ます。そして、もちろん主もまた、エルサレムを深く愛しておられます。ですから、この詩篇からは、詩人のエルサレムへの愛と主のエルサレムへの愛が重なり合って伝わって来ます。そのような詩人の愛と主の愛を感じながら、この詩篇122篇を交代で読んでみたいと思います。

122:1 人々が私に、「さあ、【主】の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。
122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、【主】の御名に感謝するために。
122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
122:9 私たちの神、【主】の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。

 この詩篇122篇の詩人が、どうして、こんなにも深くエルサレムを愛することができたのでしょうか。それは、この詩人が、主を愛し、隣人を愛しているからではないでしょうか。この詩篇の一つ手前の詩篇121篇を見ると、詩人が主を愛し、隣人を愛していることが、良く伝わって来ます。詩篇121篇の詩人と122篇の詩人は違うのかもしれませんが、私には、同じ詩人が書いたように感じられます。今度は、121篇を交代で読んでみたいと思います。この121篇の詩人の、主への愛と、隣人への愛を感じながら、交代で読みたいと思います。

121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
121:5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121:7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
121:8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 この121篇の詩人は、主を愛し、主を全面的に信頼しています。そして詩人は隣人をも愛しています。そしてさらに詩人は、愛する主が、詩人の隣人をも守って下さることも、一点の曇りもなく信じ切っています。それは、主が詩人の隣人のことも深く愛していることを、確信しているからでしょう。私たちが私たちの隣人のためにとりなしの祈りをする時にも、主が私たちの隣人のことを深く愛していることを、しっかりと感じたいと思います。

私の隣人への主の深い愛を感じながら祈る
 きょう私が皆さんにお伝えしたいと思っていることを、私は皆さんに上手く伝えることができているでしょうか。
 私たちは、隣人のための祈りを多くしますが、祈る時には、主も隣人のことを深く愛していることを感じながら祈れるようになりたい、きょうは是非、そのことを分かち合いたいと願っています。
 例えば私たちは、廣瀬邦男先生・善子先生・いずみ先生のために良く祈ります。それは私たちが邦男先生・善子先生・いずみ先生を愛しているからですね。私たちは廣瀬先生方を愛していますから私たちは先生方のために祈るのですが、その祈る時に、主もまた廣瀬先生方を深く愛しておられることを、どれだけ感じながら祈っているでしょうか。もしかしたら、あまり感じながら祈っていなかったのではないかと思います。少なくとも私に関してはそうです。しかしそれでは、せっかく隣人のためのとりなしの祈りをしているのに、祈りの中で御父と御子との交わりがあまりできていないことになってしまうように思います。ただ単に私たちの廣瀬先生方への愛を神様に伝えるだけで、神様も廣瀬先生方を愛しておられることを感じることができていないなら、御父と御子イエスとの交わりが、あまりできていないのではないかと思うのです。
 或いはまた、少し違う角度から考えてみたいと思いますが、イエスさまはマタイの福音書の中で、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とおっしゃっています。なぜ私たちが自分の敵を愛さなければならないのか、それは、神様が私たちの敵のこともまた、愛しておられるからでしょう。私たちが私たちの敵を憎んでいたとしても、神様は私たちの敵のことを愛しておられます。ですから私たちも、私たちの敵を愛さなければなりません。それが、御父と御子イエスとの交わりを持つということだと思います。
 現実的には、私たちが私たちの敵を愛することは、なかなか難しいことだと思いますが、神様は全ての人々を愛しておられるのだということは、知っておきたいと思います。そうして私たちが隣人のために祈る時には、その隣人に対する神様の愛を感じながら祈ることができる者でありたいと思います。

おわりに
 私たちは、この地域の方々の魂が救われるように、いつも祈っています。そして、その伝道を続けて行くためには新しい会堂が必要ですから、会堂が与えられるように祈り求めています。私たちは、その祈りが神様の御心に適っていることだと確信しています。しかし、この祈りがいつ適えられるかについては、全くわかりません。私は今回の思い巡らしを通して、それが適えられるのは私たちが、この地域の方々に対する神様の愛をもっと良く理解できるようになり、その愛を感じながら祈ることができるようになった時ではないかという気がしています。私たちがただ単に私たちの願望を神様にぶつけるだけではなく、神様がこの地域の方々を深く愛しておられることをしっかりと感じ取り、だからこそ、この地域に新しい会堂が必要であることを深く理解し、その上でこの地域のために祈ることができるようになった時に、神様は私たちに新しい会堂を与えて下さるのではないか、いま私は、そのように感じています。
 以上のことを念頭に置いて、最後にもう一度、詩篇122篇を交代で読んでみたいと思います。詩篇122篇の詩人はエルサレムを深く愛しており、そして神様もまたエルサレムを深く愛しておられることを詩人は知っていました。このことを味わいながら、詩篇122篇を交代で読みたいと思います。

122:1 人々が私に、「さあ、【主】の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。
122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、【主】の御名に感謝するために。
122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
122:9 私たちの神、【主】の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。

 私たちもまた、この地域を愛しています。そして神様もまた、この地域を深く愛しておられます。このことを、しっかりと感じながら、この地域のために祈ることができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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