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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

光の証言者のバトンリレー

2023-08-28 11:49:04 | 折々のつぶやき
初めに光があった(4)
~原爆と聖書と聖霊~


(前回からの続き)
第2章 光の証言者のバトンリレー

インクルーシオを根拠にしたボウカムの「匿名の弟子=愛弟子」説

 リチャード・ボウカムは前掲書の『イエスとその目撃者たち』で、マルコ・ルカ・ヨハネの三福音書が「目撃者のインクルーシオ(包み込み)」という手法を用いていることを指摘している(p.117-142、p.388-391)。たとえばマルコの福音書ではペテロが序盤と終盤に出て来て、この福音書全体を包み込むような構造になっている。これが「インクルーシオ」だ。マルコの福音書のインクルーシオについてのボウカムの説明を著書から引用する。

マルコ福音書において最初に登場する弟子はペトロであり、イエスが活動を開始するやいなやその名が挙げられる。(中略)マルコ福音書では、男性の弟子たちはすべてゲツセマネにおいてイエスを見捨てて逃げ、こののちペトロはイエスを三度否むことになる。したがって、マルコ福音書が描くピラト尋問以降の出来事を目撃した者は十二弟子のうちにいなかった。ところが福音書の終わりになって、ペトロの名はもう一度現れる。空の墓にたたずむ女性の弟子たちは、「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(マルコ16:7)との指示を受ける。弟子の一人であるペトロを特記する不自然とも思われる表現は、ペトロ個人に対する復活後のイエス顕現を示唆しているに違いない。(中略)物語としてのペトロはすでに退場しているにもかかわらず、福音書の末尾にもう一度登場するその名は、福音物語の最初にその名が挙げられていることと同様に、ペトロの存在を強調している。これは物語の最前列と最後尾にペトロの名前を配置するという「インクルーシオ(包み込み)」を構成しており、ペトロが目撃者であり、物語全体はその目撃者証言に含まれていることを示している。(p.117-118)

 また、ボウカムはルカの福音書には女性の目撃者たちのインクルーシオが存在していることを指摘している。そして、ヨハネの福音書には「イエスが愛した弟子(愛弟子)」による目撃証言のインクルーシオがヨハネ1:35~21:25の区間で存在することを、かなり多くのページを使って説明している(p.388-411)。

 ボウカムは、ヨハネ1:35に登場する「二人の弟子」のうちの一人の匿名の弟子が「愛弟子」であるとして、その根拠をヨハネの福音書の様々な箇所を引用しつつ、詳細に論述している。ボウカムの著書からは多くのことを学ぶことができ、匿名の弟子が愛弟子であることには私も全面的に同意する。ただし、ボウカムの著書には「聖霊の働き」に関する考察がない。ヨハネの福音書のイエスは聖霊について弟子たちに丁寧に教えているので、聖霊の働きを無視してはならないはずだ。そして聖霊の働きを考慮に入れるなら、愛弟子による目撃証言のインクルーシオの始点はヨハネ1:6とすべきだ。ヨハネ15:26-27や使徒1:8にあるように、聖霊を受けた者はイエスの証人になるからだ。本書は、ボウカムの著書の土台にさらに聖霊の働きを付け加えてインクルーシオの始点をヨハネ1:6と定め、それを土台とする。

本稿の土台
 「匿名の弟子=愛弟子」であることを詳細に述べたボウカムの前掲書『イエスとその目撃者たち』は、本稿の重要な土台である。そして、さらに次の4点を付け加えて、本稿の土台とする。

 ①愛弟子のインクルーシオの始点はヨハネ1:6の「ヨハネ」
 ②愛弟子は福音書記者の「ヨハネ」であり、読者でもある
 ③読者が新たな愛弟子となり、記者となって証言を継承する
 ④以上の「ヨハネ」のバトンリレーは聖霊の働きによる

【本稿の土台】ヨハネ1:6-7の「神から遣わされたヨハネ」とは、ヨハネの福音書を執筆した「記者」のことである。さらに証言者として同列という意味では、読者の私たちもまた「ヨハネ」である。読者は「ヨハネ」に導かれてイエスと出会い、聖霊の働きによって成長して「愛弟子」となり、新たな証言者としての「ヨハネ」になり、「イエスの証人」が継承されて行く。

※「初めに光があった」の連載はここまでとして、新たに「ヨハネによる証人育成プログラム」で、ヨハネの福音書の奥義を伝えて行くことにします。
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証言の継承

2023-08-14 05:48:19 | 折々のつぶやき
初めに光があった(3)
~原爆と聖書と聖霊~


(前回からの続き)
証言の継承 ~被爆証言~
 1945年の8月に広島と長崎の上空で原爆が光を放ってから2023年の今年で78年になる。被爆者の高齢化が進んで、被爆当時について証言できる人がどんどん減っている。そして、やがては一人もいなくなることは確実だ。それゆえ被爆証言の継承は焦眉の急務であり、後世に伝えるための取り組みが様々に行われている。

 その取り組みの一つが証言ビデオの収録とデジタル化だ。既に多くの被爆者がこの世を去っているが、幸いにして多くの証言が生前にビデオ収録されていた。そのビデオがデジタル化されて、リニューアルされた広島の原爆資料館においては一千人分以上の被爆証言を個別ブースで来館者が自由に視聴できるようになっている。タッチパネルで手間を掛けずに手軽に好きなだけ視聴できるようになっているから感謝である。また、原爆資料館に出掛けて行かなくても、その多くがインターネット上で誰でも視聴できるようになっている。私も静岡の自宅でこの原稿を書きながら何人かの被爆者証言を視聴したが、ピカが光った直後の広島が地獄と化した凄惨な様子が生々しく伝わって来て、中には最後まで聞けない証言もあった。それほど残忍なことが、この世で実際に行われたのだ。

 また、証言をビデオで残すだけでなく、語り部の継承事業も行われている。ディスプレーとスピーカーを通して被爆証言を視聴するだけでなく、生身の人間から被爆証言を直に聞くこともまた大切なことだ。戦後生まれの世代の人々が被爆者に密着して証言を引継ぎ、その証言を語り継ぐことが行われている。

 或いはまた、ユニークな取り組みとして、戦前・戦中の当時の古い白黒写真をカラー化することで記憶を鮮明に呼び起こす「記憶の解凍」プロジェクト(庭田杏珠・渡邉英徳『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』、光文社新書 2020)も行われている。白黒写真がカラー化されると、写真の風景や人物をより身近に感じるようになる。自分とは無関係の写真でも身近に感じるのだから、まして自分が写った写真は一層身近に感じられて、冷凍された記憶が解凍されて現代によみがえって来るとのことだ。そうして、ピカが破壊する前の広島の街並みがよりリアルによみがえり、証言もよりリアルなものになる。

証言の継承 ~イエスとの出会い~
 この事情は1世紀の末頃もまったく同じであったことだろう。イエスの十字架が紀元30年であったとするなら、90年代にはイエスを実際に見たことがある者は60歳を超えていた。当時の人々の寿命を考えるなら、証言者はほんの少ししか残っていなかったであろう。ヨハネの福音書は、その90年代に書かれたとの説が有力だ。

 当たり前のことだが、当時はもちろん写真もビデオもない。ただし書物なら残すことができた。ヨハネの福音書の執筆は、マタイ・マルコ・ルカの福音書以上にイエスについての証言を後世に残す意味が大きかったのではないだろうか。第四福音書は前の三書よりも「証言の継承」という使命を、さらに強く帯びていたのではないだろうか。

 リチャード・ボウカムは『イエスとその目撃者たち 目撃者証言としての福音書』(浅野淳博 訳、新教出版社 2011)において、

福音書は、その記述する出来事がまだ生きた記憶であった時期に執筆されている。マルコ福音書は多くの目撃者の存命中に書かれ、他の福音書は目撃者の数が減少しつつあるなかで書かれたのである。つまり福音書が書き記されなければ、目撃者証言が失われるという時期の執筆であった。(p.19)

と述べている。やはり福音書は目撃者証言を残して継承して行く使命を強く帯びていたと私たちは考えるべきであろう。

 そうしてヨハネの福音書の記者が「証言の継承」の戦略として用いたのが、単に紙の本を残すだけではなく、読者が聖霊の助けによってイエスと出会い、そして成長して、読者自身が新たな「イエスの証人」になるということではないだろうか。これなら、紀元30年当時にはまだ生まれていなかった者でも、聖霊の助けによって「イエスの証人」になることができる。しかも未来に向かって、どんどん増えて行く。さらにはユダヤに住んでいない者たちであっても、証人になれる。

 イエスは「最後の晩餐」で弟子たちに言った。

ヨハネ14:16 わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

 イエスは、聖霊が弟子たちの内にいるようになると彼らに言った。聖霊が内に入ると弟子たちは天のイエスと霊的に出会うことができる。この聖霊の働きは圧倒的に重要である。それゆえ、ヨハネの福音書は13~17章の5章にまたがる長大な「最後の晩餐」の場面を使って丁寧に教えている。聖霊が人の内に入ると、その人はイエス・キリストと霊的に出会って、「イエスの証人」になることができるのだ。(つづく)
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長周期地震動と聖霊の満たし

2023-08-13 06:26:10 | 折々のつぶやき
 静岡県地震防災センターの展示物の中に、長周期地震動で高層ビルが大きく揺れることを再現する模型があります。南海トラフ地震のような規模の大きな地震が発生すると、周期の長いゆっくりとした揺れが生じます。これを長周期地震動と言います。個々の建物には揺れやすい固有周期があり、地震波の周期と建物の固有周期が一致すると共振して大きく揺れます。高層ビルの固有周期は長いため、長周期の地震波と共振しやすく、ゆらゆらとゆっくり大きく揺れます。



 この模型の高層ビルが大きくゆっくり揺れる様子を見ていて、聖霊(父・子・聖霊の聖霊)の人への働きかけの波も長周期地震動のように、非常にゆっくりしたものではないだろうか、と思いました。そうして、自分の固有の周期と聖霊の波の周期が一致した時、聖霊に満たされた状態になるのではないかと思いました。

 だとしたら、聖霊の働きかけの波と一致するためには、ゆったりとした心持ちでいる必要があるでしょう。情報過多の現代においては、ゆったりとした気分で過ごすことはそんなに簡単なことではありません。聖霊のことがなかなか理解されないのも、そのような事情があるのかもしれません。

 どうしたら私たちはもっとゆったりとした気分でいられて、聖霊の満たしを経験することができるでしょうか?これから、じっくりと考えて行きたいと思います。
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光の証人の「ヨハネ」とは誰か

2023-08-12 08:21:33 | 折々のつぶやき
初めに光があった(2)
~原爆と聖書と聖霊~


(前回からの続き)
光の証人の「ヨハネ」とは誰か?
 
ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

 前回書いたように、ヨハネの福音書を初めて読む者にとっての「ヨハネ」とは「バプテスマのヨハネ」であろう。しかし、この福音書を聖霊の助けを得ながら繰り返し読むなら、この福音書の記者ヨハネ(愛弟子)もまた「ヨハネ」である、という聖霊の語り掛けが聞こえるようになる。このことについて、さらに考察することにしよう。

 イエスは最後の晩餐で弟子たちに「あなたがたも証ししなさい」と言った。

ヨハネ15:26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
27 あなたがたも証ししなさい。初めからわたしと一緒にいたからです。」

 英語の新国際訳(New International Version, NIV)では強いmustを使って “you also must testify” と訳している。また、イエスは使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)の1章8節で弟子たちに、次のように言った。

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 これらから分かることは、聖霊(または御霊)を受けて力を得た者は皆、「イエスの証人」になるように促されているということだ。このことを踏まえて、今度はヨハネの福音書の最後の箇所を再び見てみよう。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 21:24によれば、このヨハネの福音書の記者(執筆者)はイエスについて証しした弟子、すなわち「イエスの証人」だ。仮にこの証人が一人であった場合、イエスに関する証言を彼がどれほどたくさん持っていたとしても、世界が収められないほどの量には到底ならないだろう。いくら何でも誇張のし過ぎだ。しかしイエスと出会い、イエスを信じて聖霊を受け、「イエスの証人」となった他の弟子たちをも加えるなら1~21世紀の世界各地に数え切れないほど多くいる。この無数の証人の証言を紙の本にすべて書き記すなら、確かに世界も書かれた書物を収められないであろう。それゆえ、この24節と25節は、そのような無数の証人たちのことを言っているのではないだろうか。そして、無数の証言のごく一部だけがヨハネの福音書に書かれたのだ。一部だけであることは、20章の30節においても証言されている。

ヨハネ20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 これらヨハネ20:30~31と21:24~25までを読み終えた後に、再び最初に戻って1:1から読み始めるなら、1章6~8節の「ヨハネ」とはヨハネの福音書を執筆した記者ということになるだろう。2度目、3度目では依然として「ヨハネ」は「バプテスマのヨハネ」かもしれないが、聖霊の助けを得ながら何度も何度も繰り返し読む間に、「ヨハネ」はバプテスマのヨハネから「記者ヨハネ」へと移り変わって行く。ヨハネの福音書とは、そのような書だと思う。聖霊の助けがこのことを促すのだ。

 そして20回、30回とさらに繰り返して読むなら、21世紀の読者もまた「イエスの証人」として同列という意味において、私たちも「ヨハネ」であると名乗る資格があるのだと気付くようになる。つまり、ヨハネの福音書を読み込むにつれて、「ヨハネ」は聖霊の働きによって次のように変化して行く。

バプテスマのヨハネ → 記者ヨハネ → 読者

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 ウイリアム・バークレーはヨハネの福音書の注解(柳生望 訳、ヨルダン社 1968)で「奇妙なことに第四福音書(ヨハネの福音書)においては、バプテスマのヨハネについての言及はどれも、彼を軽視するものである」(上巻p.67)と書いている。「彼は光ではなかった」(8節)などの表現がバークレーには軽視の印象を与えているようだ。しかし、軽視しているように見えるのは「ヨハネ」をバプテスマのヨハネだと思い込んでいるからだ。「ヨハネ」が福音書の記者本人であれば謙遜していることになるから軽視には当たらない。そして現代の私たちも、この「神から遣わされたヨハネ」に含まれると考えたい。「ヨハネ」とは紀元30年頃のバプテスマのヨハネのことであるという常識の縛りから脱して、私たちもまた「イエスの証人」であり、「神から遣わされたヨハネ」の一員であることを自覚するなら、聖書は古い書物ではなくなり、聖書の光がもっとずっと身近な存在になる。聖霊がそのように読むようにと読者を励ます。

 「ヨハネ」を、そしてイエスを紀元30年に閉じ込めておき、イエスが放つ光を遠い星のように感じている間は、平和は実現しないだろう。光を使った核兵器で多くの人々を殺す過ちも再び犯しかねない。しかし、私たちもまた光であるイエスについて証言する「ヨハネ」であることを自覚して、聖霊の助けによって聖書の光をもっと身近な存在にして行くなら、世界は平和に向かって行くであろう。光を冒涜する核兵器を廃絶して、私たちは平和な世界の実現に向かって行かなければならない。(つづく)

※追記:聖霊の助けを得ながら聖書を読むべきことを、何箇所かに書き足しました(2023.8.14)
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初めに光があった ~原爆と聖書と聖霊~

2023-08-06 13:38:08 | 折々のつぶやき
初めに光があった(1)
~原爆と聖書と聖霊~

プロローグ
 初めに光があった。人々はこの光を「ピカ」と呼んだ。ピカの光を浴びた人々の多くが命を失った。ピカの直下にいた人々は強烈な放射線と熱線で即死した。ピカで空気が瞬時に高温高圧となって生じた火球からの爆風で建物が倒れ、下敷きになって圧死した人々も多い。圧死に至らずとも動けなくなり、閉じ込められたまま火炎に飲み込まれて焼け死んだ人も多いだろう。放射線の影響で後年になって亡くなった人々はさらに多い。爆心地から離れた所にいたにも関わらず、黒い雨に打たれて白血病で死んだ人もいる。家族を捜しに、まだ残留放射線量が高い時に市中に入り、原爆症を発症して亡くなった人もいる。

 原爆は神の座に近い上空約1万メートルから投下され、地上から500~600メートルまで落下した時に光を放ち、その光によって多くの人々を殺した。光に対する、これほどの冒瀆(ぼうとく)が他にあるだろうか。闇を照らすための光を人類は兵器に用いて暗黒の世をますます暗くしてしまった。神が望むこととはまったく逆の方向だ。この過ちを、私たちは二度と繰り返してはならない。

 神は光によって天地創造の御業を開始して、「神は光を良しと見られた」と創世記1章は記している。

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
(引用した聖書本文中の下線は筆者による。以下も同じ)

 そして、神が第六日に天地創造を終えた時、すべてのものは非常に良かった。

創世記1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 しかし原爆は、神が良しと見られた光を用いて人を殺した。そして神が創造した地上を地獄に変えてしまった。ピカが光った日の広島と長崎は正視に耐えない悲惨な状態で人々が苦しんでいたことを、多くの証言者が伝えている。原爆によって世界の暗黒の度合いはさらに濃さを増した。そして2023年の今、核兵器が再び使用されかねない極めて危険な中を私たちは生きている。私たちは希望の光を取り戻さなければならない。そのためには聖書の光の方を向き、その光に大胆に近づいて行きたい。聖書離れが進んでいると言われる21世紀の現代であるが、聖書の光に導かれて、私たちは正しい方向に歩んで行きたい。この歩みのために、新約聖書のヨハネの福音書は最適の書の一つだ。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 「この方」とは、神の御子イエス・キリストのことだ。この方は光である。聖書はこの方について記し、暗闇の中にいる私たちが進むべき方向を光によって示す。この光を冒瀆する過ちを二度と繰り返さないために、私たちは聖書の光への理解を深めて、次の世代へと継承して行かなければならない。


「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」と刻む原爆死没者慰霊碑の碑文。
後方に見えているのは原爆ドーム(広島平和記念公園 2022年8月24日筆者撮影)。

第Ⅰ部 光を閉じ込めている聖書の読者

第1章 紀元30年からの光の解放

大きな可能性を秘めている聖書
 現代人の多くは聖書のことを遠い昔に書かれた古い書物であると思い込んでいる。そうして、聖書を二千年前に閉じ込めてしまっている人が多いように思う。特にイエス・キリストの言動を記したマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の四福音書については、イエスが地上で宣教した当時の紀元30年頃に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。それゆえ現代人にとって、聖書の光は、遠い星の光のようになってしまっている。しかし聖書の光は、もっとずっと身近な存在だ。この光にもっと大胆に近づくために、私たちは聖書をもっと聖霊の助けを得ながら読む必要があるのではないか。聖霊の助けによって聖書の光を紀元30年から解放し、私たちも20世紀や21世紀の縛りから脱出して光に大胆に近づくなら、世界は大きく変わるのではないだろうか。

 宗教離れが進んでいると言われている現代にあっても、聖書は依然として世界中に多くの読者を持つ。核保有国のアメリカ大統領の就任式では21世紀の現代においても聖書が用いられており、大統領は聖書の上に手を置いて宣誓する。2022年秋の英国エリザベス女王の国葬においても、ウェストミンスター寺院に世界各国の皇族や首脳が集う中で聖書が読まれた。同じく核保有国であるフランスとロシアもキリスト教の伝統を持つ国であり、聖書が読み継がれている。それゆえ聖書の光は戦争が絶えない今の世界を変えて平和に導く大きな可能性を秘めている。

 しかし聖書の読者の私たちが、光であるキリストを二千年前の紀元30年頃の狭い時代に閉じ込めてしまっているように思う。それゆえ聖書の光は遠い彼方にある。たとえばヨハネの福音書1章6~8節の「ヨハネ」のことを考えてみよう。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 新約聖書のマタイ・マルコ・ルカの福音書を読み、次いでヨハネの福音書に読み進んだ読者は、このヨハネ1:6に登場する「ヨハネ」を何の疑いも持たずに「バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)」のことであると考えるだろう。聖書の注解書は膨大な数が出版されているので、もちろん全て調べたわけではないが、私が調べた限り、ヨハネ1:6の「ヨハネ」をバプテスマのヨハネ以外の人物であると解説する注解書はない。日本語のリビングバイブルではギリシャ語の原文にはない「バプテスマの」をわざわざ挿入しているほどだ。

ヨハネ1:6-7(リビングバイブル) イエス・キリストこそほんとうの光です。このことを証言させるために、神はバプテスマのヨハネをお遣わしになりました。

 ヨハネの福音書を初めて読む読者にとっては、「ヨハネ」とは確かに「バプテスマのヨハネ」のことなのであろう。しかし、この福音書を最後まで読み進めると、最後の締めくくりの2つの節には次のように記されている。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 21章24節によれば、この福音書を書いた記者は「その弟子」であり、その弟子とは「愛弟子」(後述)のことだ。彼はイエスについて「証し」し、この福音書を書いた。

 さて、ここで極めて重要な事実を指摘しておきたい。それは、私たち読者がこの福音書を何度も何度も繰り返し読む、ということだ。最後の21章25節まで読んだら、また1章1節に戻って、この福音書を最初から読む。すると聖霊の働きによって、この福音書は読者に対して初めて読んだ時とは別の語り掛けをして来るようになる。たとえば1章6~8節は、また別の意味を持って心に響いて来るようになる。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 21章24節の記者ヨハネ(愛弟子)による「証し」について読んだ後で1章7節と8節の「証し」を読むと、1章6節の「ヨハネ」とは、本当に「バプテスマのヨハネ」のことだろうか?もしかしたら「記者ヨハネ」のことではないだろうか?そのように、この書が語り掛けて来るようになるのだ。聖霊の助けを得ながら聖書を読むなら、読者の私たちは聖書の記者に段々と近づいて行くことができる。それは即ち、聖書の光に近づいて行くということだ。

 マタイの福音書によれば、バプテスマのヨハネはイエスについて「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:3)と言っていた。つまりバプテスマのヨハネはイエスを完全には信じ切れずにいた。そして彼はイエスの十字架と復活を見る前にヘロデ王に殺されてしまった(マタイ14:1-12)。

 もしバプテスマのヨハネが復活したイエスに会っていたなら、彼は立派な証人となったであろう。しかし、彼はイエスの十字架のことも復活のことも知らない。イエスを完全には信じられずにいて、イエスの十字架と復活を知らずに死んだバプテスマのヨハネが「彼によってすべての人が信じるため」(ヨハネ1:7)に遣わされた「ヨハネ」と言えるだろうか?ヨハネの福音書の「ヨハネ」とは、バプテスマのヨハネではなく、「記者ヨハネ(愛弟子)」とは考えられないだろうか?もし「ヨハネ」がバプテスマのヨハネであるなら、7節の「すべての人が信じるため」の「すべての人」とはバプテスマのヨハネが生きていた時代の「二千年前のすべての人」ということになる。果たしてヨハネの福音書とは、そんなに狭い時代のことを伝えるための書であろうか。もっと時空を超えた、多くの人々に向けて書かれた書ではないのか。聖霊の助けを得ながらこの書を読むなら、そういうことが見えて来る。

 よく知られているように、ヨハネの福音書は様々な点でマタイ・マルコ・ルカの福音書とは異なる記述をしている。およそ30歳のイエスの旅路はマタイ・マルコ・ルカの福音書では比較的単純だ。イエスは北方を巡ってから一度だけ南方にある都のエルサレムに上って十字架で死んだ。一方、ヨハネの福音書のイエスは東西南北を縦横無尽に行き来して、何度もエルサレムに出入りしている。イエスが宮から商売人たちを追い出した「宮きよめ」が2章という早い段階にあるのもヨハネの福音書の大きな特徴だ。また、マタイ・マルコ・ルカの福音書の最後の晩餐の場面はそれほど長くはないが、ヨハネの福音書の最後の晩餐は13~17章と五つの章にまたがる長大なものだ。その他にも、多くの異なる点がある(D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』(松永希久夫 訳、新教出版社 2002)が相違点を簡潔にまとめていて分かりやすい)。

 両者がそれほど異なるのであれば、ヨハネ1:6の「ヨハネ」がマタイ・マルコ・ルカに登場するような「バプテスマのヨハネ」ではなかったとしても、特に不自然ということはないのではないだろうか。いや、マタイ・マルコ・ルカとの多くの相違点を考えるなら、むしろ「バプテスマのヨハネ」とは考えないほうが自然だ、とさえ言えるかもしれない。それなのに、私たちはヨハネ1:6の「ヨハネ」がバプテスマのヨハネであると完全に思い込んでいて、記者ヨハネもまた「ヨハネ」の候補である可能性を排除している。聖霊の助けを得ていないために、私たちは光の証人である「ヨハネ」を紀元30年頃に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。そのことで、イエスもまた紀元30年頃に閉じ込めてしまっているように思う。

 人類は光によって人を殺す核兵器を製造して使用した。このように光を冒瀆する過ちを二度と繰り返さないためにも、私たちは聖書の光を紀元30年から解放し、私たち自身も常識から解き放たれて、光にもっと大胆に近づく必要がある。そのためには、聖霊の助けを得ながら聖書を読むことが、どうしても必要だ。ヨハネの福音書の記者ヨハネは、そのことを私たち読者に強く訴え掛けている。(つづく)

※追記:聖霊の助けを得ながら聖書を読むべきことを、何箇所かに書き足しました(2023.8.14)
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