平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

奇跡を信じることについて

2023-10-17 11:50:51 | 折々のつぶやき
 今回は、イエスが地上生涯で行った奇跡を取り上げて、理工系出身の私が聖書に記述されている「奇跡」について日頃考えていることを書きます。

 ヨハネの福音書のイエスは多くの奇跡を行いました。水をぶどう酒に変え(2章)、王室の役人の息子の病気を遠隔地から治し(4章)、ベテスダの池にいた病人を癒し(5章)、5つの大麦のパンと2匹の魚で5千人を満腹にし(6章)、湖の上を歩き(6章)、盲人の目を開き(9章)、死んだラザロを生き返らせました(11章)。これらの奇跡を愛弟子は間近で見ていたことでしょう。

 これらの奇跡の記述を初めて読んだ読者は、にわかには信じがたく思うことでしょう。しかし、「そういうこともあるかもしれない」と少しでも思うなら、聖霊が働いて、やがては信じることができるようになるでしょう。そうしてイエスとの距離を縮めて行くことができます。一方、「そんなことは有り得ない。だから聖書は信じるに値しない」と、全面的に否定するなら、イエスとの距離を縮めることは絶望的になります。

 奇跡を信じることは【非科学的】であり、現代人としては受け入れがたいと多くの人は思うかもしれません。しかし、理工系の元研究者として言わせてもらうなら、この世は不思議なことに満ちています。太陽は、毎日私たちの頭上を東から西へ移動しています。でも実は移動しているのは太陽ではなく、地球が自転しているのでそのように見えるだけなのだそうです。では、なぜ私たちは猛スピードで回転している地球から振り落とされないのでしょうか?なぜ球状の地球の上で皆が地面に垂直に立っていられるのでしょうか?地球の裏側にいる人はどうして落ちてしまわないのでしょうか?なぜ地球の裏側の海水はこぼれ落ちないのでしょうか?また、月に面した海水は月に引っ張られていて、それで満潮になるのだそうです。どうして離れた所にある月が地球の海水を引っ張ることができるのでしょうか?現代の私たちは「重力」のことを知っていますから、これらのことを特に不思議とは感じませんが、重力のことを知らない人々にとっては、動いているのは太陽ではなくて自分たちのほうであると考えること自体が狂気の沙汰でしょう。

 物理だけでなく生物も不思議に満ちています。私が前に住んでいた所では、目の前でキジバトが巣を作って子育てをしていました。ウズラの卵ぐらいの大きさの卵から生まれたキジバトの子は、わずか2週間ほどで親のハトと同じぐらいの大きさに成長します。驚異的な成長スピードです。筋肉が増えるだけでなく羽根も生えて来ます。ピジョンミルクを飲むだけで羽根のような複雑な構造を持つものが生えて来るのも不思議です。そうして立派な羽根が生えそろうと、その後はピタリと成長が止まります。相変わらず親がたくさんのピジョンミルクを飲ませますが、それ以上は成長しません。いったいどのようなメカニズムが働いているのでしょうか?

 このように、この世は不思議なことに満ちています。聖書に書かれている不思議な奇跡だけを【非科学的】と一蹴するのは早計ではないでしょうか。科学は重力のような不思議なことを受け入れることで前進して来ました。信仰もまた不思議なことを受け入れることで聖霊が働き、前進します。ですから福音書に記されているイエスが行った奇跡を【非科学的】として切り捨てることなく、「そのようなこともあるかもしれない」と考えていただきたいと思います。そこから愛弟子への道が始まり、イエスの証人への道を歩み始めることができるからです。(つづく)
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自分は心の奥底で何を求めているのか?

2023-10-07 06:32:03 | 折々のつぶやき
自分は心の奥底で何を求めているのか?
~他人事から自分事へ~

ヨハネ1:38「あなたがたは何を求めているのですか。」
ヨハネ1:39 「来なさい。そうすれば分かります。」

 今回から、なぜヨハネの福音書が「証人育成プログラム」なのかを、できるだけ丁寧に説明して行きたく思います。
 
 ヨハネの福音書の1章35~40節には「ヨハネ」が二人の弟子をイエスのもとに導いたことが記されています。

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 これを他人事として読むなら「ヨハネ」とは二千年前のバプテスマのヨハネであり、「二人の弟子」も二千年前の弟子たちです。しかし、イエスを信じて聖霊を受けた読者は、聖霊の働きによって聖書の記述が少しずつ自分事になって行きます。では、「ヨハネ」と「弟子」のどちらが自分事になるのでしょうか?もちろん最初は「弟子」のほうでしょう。私たちは、まずは他の誰か(家族や知人)によって教会へ導かれて、イエスと出会います。そうしてクリスチャンになってイエスの証人に成長するなら、今度は自分が他の誰か(知人や家族)を教会へ導き、その人がイエスと出会えるように手助けをします。つまり自分事が「弟子からヨハネへ」と移行し、この移行によってイエスの証人へと成長しますから、ヨハネの福音書は「証人育成プログラム」であるというわけです。

 ヨハネ1:35~40を読むと、自分が初めてイエスと出会った頃の記憶が鮮明によみがえって来ます。ここで、私自身の証しをします。

 私がイエスと出会ったのは22年前の41歳の時でしたが、当時の私は自分には何かが足りないと常に感じていました。職場で新たに担当になった日韓留学プログラムは大変にやりがいがあり、張り切って仕事をしていました。韓国映画をたくさん見たり、韓国語の勉強をしたりすることも、とても楽しく感じていました。剣道の道場通いもしていて試合の選手にも選ばれ、今思えば剣士としての私はあの頃が一番強かったのではないかと思います。

 このように当時の私は仕事も趣味も充実していました。それなのに、自分には何かが足りないという思いが常にあって不安を抱えていました。仕事や趣味よりももっと大切な何かを求めていましたが、それが何かが分からずにいました。ちょうど、その時です。知人が教会に誘ってくれてイエスのもとに導いてくれました。そうして私はイエスと出会いました。イエスは当時の私に聞きました。

「あなたは何を求めているのですか。」
「来なさい。そうすれば分かります。」

 当時の私にとって聖書の記述は全くの他人事でしたから、このヨハネ1:35~40の出来事が自分事と思うようになったのは、もちろんもっとずっと後のことです。でも確かに私はイエスと出会い、イエスの声を無意識の中で聞いていたのだと今なら分かります。そして私が求めていたこととは、ヨハネの手紙第一1章3節の「御父また御子イエス・キリストとの交わり」だったのです。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 この交わりによって私は心の深い平安を得ることができました。人間関係からでは決して得られない深い平安を、天の御父と御子イエスは聖霊を通して与えて下さいます。この深い平安をもっと多くの方々と分かち合うことができるよう、私は証人として神から遣わされたのだと確信しています。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

(つづく)
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神に愛されている私たち

2023-10-05 08:20:46 | 折々のつぶやき
Ⅰヨハネ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 前回予告したように、今回はヨハネの手紙第一を通して、神が私たちを深く愛して下さっていることを学ぶことにします。

 ヨハネの手紙第一とヨハネの福音書とは言葉遣いがよく似ていて、互いに響き合う相補的な関係にあります。ヨハネの福音書で分からないことがあっても、ヨハネの手紙第一を読めば補ってくれます。それゆえヨハネの手紙第一の記者とヨハネの福音書の記者は同一の人物であると考えられます。仮に別人であったとしても、両者が同じグループに属する者同士であったことは間違いないでしょう。

 9月29日の静岡朝祷会の奨励でも述べたように、記者ヨハネは「イエスが愛された弟子」(ヨハネ13:23、19:26、21:7、21:20、21:24、他)、すなわち「愛弟子」であることを福音書の最後で明らかにしています。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 このように愛弟子である記者ヨハネはイエスの証人でもあります。それゆえ、ヨハネの手紙第一を通して神の愛を知るなら、私たちもまたヨハネの福音書の「イエスが愛された弟子」、すなわち「愛弟子」の一人であると感じるようになるでしょう。するとさらに、自分もまたイエスの証人としての「ヨハネ」(ヨハネ1:6)の一人であることも感じるようになるでしょう。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 では、ヨハネの手紙第一を見て行きましょう。まず冒頭の3箇節です。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 このヨハネの手紙第一の冒頭の3つの節は、「愛弟子」である記者ヨハネと読者の私たちとの関係を知る上で極めて重要です。まず1節、

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

 ここからも記者ヨハネが「愛弟子」であることが、よく分かります。なぜなら「愛弟子」はイエスの体に触れることができるほど近くにいたからです。たとえばヨハネ13:23には次のように記されています。

ヨハネ13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 続いて2節、

2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。


 ここからはヨハネの福音書とヨハネの手紙第一の記者は同一人物(もしくは同じグループに所属する者同士)であることが分かります。そうして、愛弟子である記者ヨハネは、読者の私たちを御父と御子イエス・キリストとの交わりに招いています。

3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 この交わりに招かれていることによって、私たちもまた「愛弟子」であることを次第に感じるようになります。なぜなら神は私たちを深く愛して下さっているからです。特に4章には、この神の愛のことが濃厚に描かれています。

Ⅰヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 愛弟子である記者ヨハネは御父と御子との交わりに私たち読者を招いた上で、神がいかに私たちを愛して下さっているかを熱く説いています。ですから、私たちもまた「愛弟子」(ヨハネ13:23、他)であり、「ヨハネ」(ヨハネ1:6)であると言えるでしょう。
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静岡のクラーク先生と勝海舟

2023-10-01 05:20:31 | 折々のつぶやき
 静岡市歴史博物館1階の無料観覧スペースで、「静岡のクラーク先生と勝海舟」のパネル展示を10月22日(日)まで開催中です。

 また、10月7日(土)13:30~14:30には同題のトークイベントもあります(予約不要、入場無料。お話:E.W.クラーク顕彰事業実行委員会・今野喜和人さん)。場所は同じく1階の学習支援・市民活動スペース(遺構を挟んでパネル展示の向かい側)です。ぜひ、お出掛け下さい。

 年内にはクラーク先生の著作『Katz Awa(勝安房)』(E.W.クラーク顕彰事業実行委員会 訳)の出版も予定されています。また改めてご案内します。よろしくお願いします。









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