2021年7月25日礼拝メッセージ
『あなたがたを捨てて孤児にはしません』
【ヨハネ14:18~20】
はじめに
礼拝ではヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様の弟子たちへの教えのことばにじっくりと耳を傾けています。
この後でイエス様は十字架へと向かって行きましたから、「最後の晩餐」の教えはイエス様の弟子たちへの地上での「最後の教え」です。最後ですから、大切なことが凝縮された濃厚なメッセージになっています。この濃厚な教えを聴きもらすことなく、じっくりと耳を傾けたいと思います。
先週開いた箇所では、イエス様は「最後の晩餐」の教えの中で初めて「御霊」について話しました。イエス様は、御霊は「もう一人の助け主」であると弟子たちに話しました。「霊」は目に見えませんから、「霊」は難しいと考える方もいるかもしれません。でも日本人にとって霊は昔から身近な存在でした。
例えば、今月の7月は新暦のお盆の月で、中旬にはこの田町でも迎え火と送り火を玄関先で焚いていたお宅を見掛けました。昔は多くのお宅が静岡の町では迎え火と送り火を焚いていたことを私はよく覚えています。私の母も焚いていました。今では少なくなりましたが、それでも今年もこの田町で見掛けました。月遅れの8月のお盆では全国的に休暇を取り、京都や各地の山では大文字や鳥居の形の送り火が焚かれます。
この迎え火と送り火は先祖の霊を迎え入れてお盆を共に過ごし、また送り出すためのものですね。このように霊は日本人にとって、とても身近な存在です。実際に先祖の霊が存在するか否かは別にして、日本人は先祖の霊をとても大事にして来ました。
一方、聖書の神様の霊は、宇宙を創造し、天と地を創った神様の霊ですから、スケールがぜんぜん違いますが、でも先祖の霊を大切にする日本人にとっては決して分かりにくい存在ではないと思います。
さて先ほども言いましたが、先週開いた箇所でイエス様は、御霊(或いは聖霊)は、「もう一人の助け主」であるとおっしゃいました。もともとの助け主はイエス様であり、御霊はもう一人の助け主です。ですから御霊はイエス様が地上でされたことと同じことをします。すなわち御霊はイエス様を信じた人の中に入ってその人を聖めて、イエス様に似た者へと造り変えます。そうして、その人はイエス様と同じことを人々に対して行います。もちろん、イエス様に似た者になるには、かなり聖められる必要があります。人はそんなにすぐには聖められません。でも、御霊は少しずつ私たちを聖めて下さり、恵みの世界へと導いて下さいます。それは、少し聖められるなら、その分だけ前よりも少し神様の愛が分かるようになるからです。神様の愛は圧倒的な愛ですから、前よりも少し分かるようになるだけでも、大きな恵みをいただけます。そうして、そのことが励みになります。神様の圧倒的な愛にどっぷりと浸かることができるよう、聖めの信仰に立って、聖めの恵みをいただきたいと思います。
きょうの箇所ではイエス様は、また別の表現で、神様の愛を伝えて下さっています。きょうは「孤児」ということばを使っておられます。これまでと表現は違いますが、基本的には同じことの繰り返しと言っても良いかもしれません。イエス様は少しずつ表現を変えながら大切なことを私たちに説いて下さっています。ですから、大切なことを聞き漏らすことなく、しっかりと耳を傾けたいと思います。
きょうは次の三つのポイントで、話を進めます。
①大きな不安の中に置かれる孤児
②御霊により霊的な目が開かれる恵み
③神様の臨在を感じることが霊的開眼
①大きな不安の中に置かれる孤児
この「最後の晩餐」の後でイエス様は十字架に付けられて死にましたから、イエス様と弟子たちは離れ離れになりました。でも、イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」とおっしゃいました。
ここで「孤児」ということばが使われています。とても強い印象を与えることばです。両親を失った孤児の心の中は不安で一杯になります。かつて夏の終戦の日の頃になると、テレビでよく『火垂るの墓』というアニメ映画が放送されていましたね。戦争で両親を失って孤児になった幼い兄と妹の物語です。孤児となった兄と妹は栄養状態が悪くて結局死んでしまいます。見るに耐えないぐらい悲しい物語なので私は2回ほどは見ましたが、見ると苦しくなるので、あとの放送は見ていません。戦災で孤児になった子供たちの多くは、この『火垂るの墓』の兄妹のような悲惨な境遇の中に置かれました。
2年前のNHKの朝ドラでは、静岡市清水区出身の広瀬すずさんが主演の『なつぞら』というドラマが放送されていました。この『なつぞら』も戦災孤児の物語でした。広瀬すずさんは三人兄妹の真ん中の「なつ」という名前の女性の役で、なつには兄と妹がいました。この三人の戦災孤児は幼い時に離れ離れになって違う場所で育ちました。幸いにしてヒロインのなつは北海道で牧場を経営する家庭に引き取られて愛情に包まれて育ちますが、兄と妹は必ずしも愛情が豊かな家庭に引き取られたわけではありませんでした。
世の中には愛情が豊かにある場所と、そうでない場所とがあります。愛情が豊かにある場所の中でも特に教会は、神様の愛がたっぷりと注がれている場所です。教会で信仰を育むことは、神様の愛の中で育つということです。もし神様と離れ離れになって孤児になってしまうと、とても不安な中を過ごさなければなりません。でもイエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっていますから、とても感謝なことです。
親から離れた子供がどんなに不安か、保育園に預けられたばかりの子供は、とても不安そうに過ごすそうですね。人の子ではありませんが、私は何度か親から離れたスズメの子を見たことがあります。まだ飛べないうちに巣から落ちてしまった子供ですが、とても不安そうにしています。巣から落ちた子でも親はちゃんとエサを与えるそうですから、そっとしておくのが鉄則ですが、道の真ん中だと危ないので、私は巣から落ちたスズメの子を道の端に移してあげたことがあります。スズメの子は手に持っても重さをぜんぜん感じないぐらいに軽いことがよく分かりました。鳥は軽いから空を飛べるわけですが、それにしてもスズメの子はなんて軽いんだろうと、その時思いました。ちょっと力を入れるとすぐに壊れてしまうような、とても儚い存在だと思いました。その小さくて軽いスズメの子が親から離れて不安そうにしている様子を見て、早く親鳥が近くに来て欲しいと思いました。でも、たいていの場合、親鳥はちゃんと子供を見ているので、大丈夫なのだそうです。
天の神様も、教会という巣から離れている人々のことを、ちゃんと見守って下さっています。私は、教会に辿り着いたのは41歳と遅かったですが、辿り着く前から、いつも誰かに守られていることを感じていました。それが誰なのか、先祖の霊なのか、神社の神様なのか、仏教のお釈迦様や阿弥陀様なのか、分からずにいました。聖書の神様のことは、全くの想定外で考えもしませんでしたから、長い間、誰が自分を守ってくれているのかが、分からないでいました。
でも、教会に辿り着いた時に大きな平安を感じましたから、その時初めて、自分を見守って下さっていたのは聖書の神様だったと知りました。それまでの私はいつも漠然とした不安に包まれていて、いろいろな本を読んだり、趣味に打ち込んだりしましたが、少しも不安は解消されませんでした。それが、高津教会に辿り着いて、しばらく通っている間に漠然とした不安が消えて無くなっていることに気付きました。それで、それまでずっと、教会に辿り着く前から聖書の神様は私を見守って下さってことが分かりました。
イエス様は私たちの一人一人が教会とつながるずっと前から、私たちが孤児にならないように、見守っていて下さるのですね。本当に感謝なことだと思います。
②御霊により霊的な目が開かれる恵み
イエス様が十字架で死んだ後、世の人々はイエス様の姿を見ることができなくなりました。しかし、弟子たちはイエス様を見ました。イエス様は復活して、弟子たちの前に姿を現しました。ただ、ここでイエス様がおっしゃっている、「あなたがたはわたしを見ます」は、復活の日の出来事ではなくて、ペンテコステの日に弟子たちが御霊を受けた時のことを話しているようです。イエス様は20節でおっしゃいました。
このようなことは、御霊を受けなければ分からないことです。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」というのは、御霊を受けて霊的にイエス様が見えるようになることを示します。そうして御霊を受けるなら永遠の命が得られますから、その者は永遠に生きることになります。それが19節の最後にある、「あなたがたも生きることになるからです」ということでしょう。イエス様は十字架で死にましたが、復活して永遠の中を生きておられます。私たちもイエス様を信じて御霊を受けるなら、永遠の中を生きます。
イエス様を信じて御霊を受けるなら霊的な目が開かれて、永遠への目も開かれるようになります。このように霊的な目が開かれるなら、素晴らしい恵みをいただくことができます。
でも、霊的な目が開かれるとは、どういう感じのことを言うのか、いま一つ分かりにくいと感じている方もおられるかもしれません。次の三つめのポイントに進んで、イエス様がおっしゃったことに、いま一度耳を傾けたいと思います。
③神様の臨在を感じることが霊的開眼
19節と20節のイエス様のことばを、もう一度お読みします。
20節を別のことばに言い換えてみたいと思います。天の父は翼を大きく広げて、私たちを守って下さっています。イエス様はその天の父と一つのお方ですから、私たちはイエス様の広げた翼の内にいて、守られています。御霊を受けるとそのことを感じると共に、イエス様が自分の内にもいて下さることも感じるようになります。つまり、御霊を受けるとイエス様の臨在を感じることができるようになります。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」とは、イエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。霊的な目が開かれるとは、神様の姿が目に見えるようになることではなく、神様であるイエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。臨在を感じるというと難しいですが、神様が共にいて下さることを感じるということです。
私自身の経験に照らしても、霊的な目が開かれるとは、神様の臨在を感じるようになることであると言えます。
1番目のポイントで、私は教会に辿り着くずっと前から誰かに守られていることを感じていたことを話しました。どうして、守られていることを感じていたかをもう少し具体的に話します。教会に辿り着く前の私は、特に霊的なことを感じていたわけではありません。ただ、危険な目に遭っても不思議と大事に至ることがなかったので、その事実から、守られていることを感じていました。
大学1年の時には死んでいてもおかしくないような交通事故に私は遭いました。深夜のことでしたが、その日、私は友達と二人で夜の札幌の通りを自転車で走っていました。そこまでは覚えていますが、その後の記憶はしばらく途絶えています。次に気付いた時には私は頭から血を流しながら道路の上に寝ていて、救急車で搬送されるところでした。一緒にいた友達の話では、私は後ろから車に追突されて頭を道路に強く打ち付けたということでした。自転車は車輪が大きく変形していましたから、かなりのスピードで追突されたようです。その車は逃げ去ったそうで、友達は私が死んだと思ったそうです。でも私は頭を数針縫っただけで、脳に特に異常も無くて、次の日にはもうピンピンしていました。
同じく大学1年生の時に、また危険な目に遭いました。住んでいたアパートの向かいの部屋でガス自殺をはかった人がいて、ガス爆発が起きました。その部屋にいた人は全身やけどで搬送されましたが、向かいの部屋にいた私は何ともありませんでした。その後、すぐに引っ越したので、その全身やけどの人がどうなったのかは分かりません。もしかしたら、亡くなられたかもしれません。
また私は若者特有の悩みで学業を続ける気力を無くした時が何度かありました。しかし、不思議なことに、その都度、学業に復帰することができました。その後、大学の工学部の助手として働くようになりましたが、教授に付いて行くことができなくなって、大学を辞めました。この時は本当に人生の危機だったと思いますが、不思議と守られて、今度はぜんぜん分野が違う日本語教育の教員として、首都圏の大学の留学生センターという部署で働くことができるようになりました。これは本当に奇跡的なことでしたから、それ以来、私は誰かに守られていると強く感じるようになりました。そうして不思議な導きで高津教会の近くに住むようになり、高津に住み始めてから6年後に父がすい臓ガンで急に亡くなったことをきっかけにして高津教会を訪れました。
その頃の私は誰かに守られていることは感じているものの、いつも漠然とした不安に付きまとわれていました。でも、高津教会にしばらく通っているうちに、その漠然とした不安がいつの間にか消えていました。そのことに気付くことで、それまで自分を守ってくれていたのは聖書の神様だったと確信しました。そうして神様がいつも共にいて下さったのだと分かり、臨在を感じることができるようになりました。
おわりに
このように、神様は私がイエス様と出会うずっと前から、私を守って下さっていました。大学1年生の時のひき逃げの交通事故では死んでいてもおかしくなかったと思いますが、神様は守って下さっていました。同じように、神様はすべての人を守って下さっています。でも、若くして亡くなる方も少なくありません。そのような方は一粒の麦となって、人々に命の大切さを教えて、神様について考えるように導く役割が与えられているのではないかなあと思います。私の場合は生かされて、様々な分野の経験を積まされた上で、みことばを宣べ伝える役割が与えられたのだろうと思っています。
いろいろ話しましたが、きょう、皆さんと共有したいみことばは、18節の、「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」です。最初のほうで、巣から落ちたスズメの子供の話をしました。そのように巣から離れた子供のことも、親鳥はちゃんと見守っています。同じように天のイエス様は信仰が育っていなくて教会とつながっていない人々のことも、ちゃんと見守っています。
この天からの見守りの前にイエス様は十字架に付けられて、イエス様ご自身が天の神様と引き離されて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という絶望の中で苦しみを受けて死にました。ですから、イエス様は見捨てられることの恐ろしさをご自身でよくご存知のお方です。そのイエス様が「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっています。
十字架で孤児の苦しみを知ったイエス様が「あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さるのですから、私たちは十字架のイエス様から目を離さないでいなければなりません。そして、この十字架のイエス様のことをまだ知らない多くの方々に、イエス様をお伝えして、イエス様はまだ教会につながっていない方々もすべて守って下さっていることを知っていただきたいと思います。
このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。
『あなたがたを捨てて孤児にはしません』
【ヨハネ14:18~20】
はじめに
礼拝ではヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様の弟子たちへの教えのことばにじっくりと耳を傾けています。
この後でイエス様は十字架へと向かって行きましたから、「最後の晩餐」の教えはイエス様の弟子たちへの地上での「最後の教え」です。最後ですから、大切なことが凝縮された濃厚なメッセージになっています。この濃厚な教えを聴きもらすことなく、じっくりと耳を傾けたいと思います。
先週開いた箇所では、イエス様は「最後の晩餐」の教えの中で初めて「御霊」について話しました。イエス様は、御霊は「もう一人の助け主」であると弟子たちに話しました。「霊」は目に見えませんから、「霊」は難しいと考える方もいるかもしれません。でも日本人にとって霊は昔から身近な存在でした。
例えば、今月の7月は新暦のお盆の月で、中旬にはこの田町でも迎え火と送り火を玄関先で焚いていたお宅を見掛けました。昔は多くのお宅が静岡の町では迎え火と送り火を焚いていたことを私はよく覚えています。私の母も焚いていました。今では少なくなりましたが、それでも今年もこの田町で見掛けました。月遅れの8月のお盆では全国的に休暇を取り、京都や各地の山では大文字や鳥居の形の送り火が焚かれます。
この迎え火と送り火は先祖の霊を迎え入れてお盆を共に過ごし、また送り出すためのものですね。このように霊は日本人にとって、とても身近な存在です。実際に先祖の霊が存在するか否かは別にして、日本人は先祖の霊をとても大事にして来ました。
一方、聖書の神様の霊は、宇宙を創造し、天と地を創った神様の霊ですから、スケールがぜんぜん違いますが、でも先祖の霊を大切にする日本人にとっては決して分かりにくい存在ではないと思います。
さて先ほども言いましたが、先週開いた箇所でイエス様は、御霊(或いは聖霊)は、「もう一人の助け主」であるとおっしゃいました。もともとの助け主はイエス様であり、御霊はもう一人の助け主です。ですから御霊はイエス様が地上でされたことと同じことをします。すなわち御霊はイエス様を信じた人の中に入ってその人を聖めて、イエス様に似た者へと造り変えます。そうして、その人はイエス様と同じことを人々に対して行います。もちろん、イエス様に似た者になるには、かなり聖められる必要があります。人はそんなにすぐには聖められません。でも、御霊は少しずつ私たちを聖めて下さり、恵みの世界へと導いて下さいます。それは、少し聖められるなら、その分だけ前よりも少し神様の愛が分かるようになるからです。神様の愛は圧倒的な愛ですから、前よりも少し分かるようになるだけでも、大きな恵みをいただけます。そうして、そのことが励みになります。神様の圧倒的な愛にどっぷりと浸かることができるよう、聖めの信仰に立って、聖めの恵みをいただきたいと思います。
きょうの箇所ではイエス様は、また別の表現で、神様の愛を伝えて下さっています。きょうは「孤児」ということばを使っておられます。これまでと表現は違いますが、基本的には同じことの繰り返しと言っても良いかもしれません。イエス様は少しずつ表現を変えながら大切なことを私たちに説いて下さっています。ですから、大切なことを聞き漏らすことなく、しっかりと耳を傾けたいと思います。
きょうは次の三つのポイントで、話を進めます。
①大きな不安の中に置かれる孤児
②御霊により霊的な目が開かれる恵み
③神様の臨在を感じることが霊的開眼
①大きな不安の中に置かれる孤児
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
この「最後の晩餐」の後でイエス様は十字架に付けられて死にましたから、イエス様と弟子たちは離れ離れになりました。でも、イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」とおっしゃいました。
ここで「孤児」ということばが使われています。とても強い印象を与えることばです。両親を失った孤児の心の中は不安で一杯になります。かつて夏の終戦の日の頃になると、テレビでよく『火垂るの墓』というアニメ映画が放送されていましたね。戦争で両親を失って孤児になった幼い兄と妹の物語です。孤児となった兄と妹は栄養状態が悪くて結局死んでしまいます。見るに耐えないぐらい悲しい物語なので私は2回ほどは見ましたが、見ると苦しくなるので、あとの放送は見ていません。戦災で孤児になった子供たちの多くは、この『火垂るの墓』の兄妹のような悲惨な境遇の中に置かれました。
2年前のNHKの朝ドラでは、静岡市清水区出身の広瀬すずさんが主演の『なつぞら』というドラマが放送されていました。この『なつぞら』も戦災孤児の物語でした。広瀬すずさんは三人兄妹の真ん中の「なつ」という名前の女性の役で、なつには兄と妹がいました。この三人の戦災孤児は幼い時に離れ離れになって違う場所で育ちました。幸いにしてヒロインのなつは北海道で牧場を経営する家庭に引き取られて愛情に包まれて育ちますが、兄と妹は必ずしも愛情が豊かな家庭に引き取られたわけではありませんでした。
世の中には愛情が豊かにある場所と、そうでない場所とがあります。愛情が豊かにある場所の中でも特に教会は、神様の愛がたっぷりと注がれている場所です。教会で信仰を育むことは、神様の愛の中で育つということです。もし神様と離れ離れになって孤児になってしまうと、とても不安な中を過ごさなければなりません。でもイエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっていますから、とても感謝なことです。
親から離れた子供がどんなに不安か、保育園に預けられたばかりの子供は、とても不安そうに過ごすそうですね。人の子ではありませんが、私は何度か親から離れたスズメの子を見たことがあります。まだ飛べないうちに巣から落ちてしまった子供ですが、とても不安そうにしています。巣から落ちた子でも親はちゃんとエサを与えるそうですから、そっとしておくのが鉄則ですが、道の真ん中だと危ないので、私は巣から落ちたスズメの子を道の端に移してあげたことがあります。スズメの子は手に持っても重さをぜんぜん感じないぐらいに軽いことがよく分かりました。鳥は軽いから空を飛べるわけですが、それにしてもスズメの子はなんて軽いんだろうと、その時思いました。ちょっと力を入れるとすぐに壊れてしまうような、とても儚い存在だと思いました。その小さくて軽いスズメの子が親から離れて不安そうにしている様子を見て、早く親鳥が近くに来て欲しいと思いました。でも、たいていの場合、親鳥はちゃんと子供を見ているので、大丈夫なのだそうです。
天の神様も、教会という巣から離れている人々のことを、ちゃんと見守って下さっています。私は、教会に辿り着いたのは41歳と遅かったですが、辿り着く前から、いつも誰かに守られていることを感じていました。それが誰なのか、先祖の霊なのか、神社の神様なのか、仏教のお釈迦様や阿弥陀様なのか、分からずにいました。聖書の神様のことは、全くの想定外で考えもしませんでしたから、長い間、誰が自分を守ってくれているのかが、分からないでいました。
でも、教会に辿り着いた時に大きな平安を感じましたから、その時初めて、自分を見守って下さっていたのは聖書の神様だったと知りました。それまでの私はいつも漠然とした不安に包まれていて、いろいろな本を読んだり、趣味に打ち込んだりしましたが、少しも不安は解消されませんでした。それが、高津教会に辿り着いて、しばらく通っている間に漠然とした不安が消えて無くなっていることに気付きました。それで、それまでずっと、教会に辿り着く前から聖書の神様は私を見守って下さってことが分かりました。
イエス様は私たちの一人一人が教会とつながるずっと前から、私たちが孤児にならないように、見守っていて下さるのですね。本当に感謝なことだと思います。
②御霊により霊的な目が開かれる恵み
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
イエス様が十字架で死んだ後、世の人々はイエス様の姿を見ることができなくなりました。しかし、弟子たちはイエス様を見ました。イエス様は復活して、弟子たちの前に姿を現しました。ただ、ここでイエス様がおっしゃっている、「あなたがたはわたしを見ます」は、復活の日の出来事ではなくて、ペンテコステの日に弟子たちが御霊を受けた時のことを話しているようです。イエス様は20節でおっしゃいました。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
このようなことは、御霊を受けなければ分からないことです。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」というのは、御霊を受けて霊的にイエス様が見えるようになることを示します。そうして御霊を受けるなら永遠の命が得られますから、その者は永遠に生きることになります。それが19節の最後にある、「あなたがたも生きることになるからです」ということでしょう。イエス様は十字架で死にましたが、復活して永遠の中を生きておられます。私たちもイエス様を信じて御霊を受けるなら、永遠の中を生きます。
イエス様を信じて御霊を受けるなら霊的な目が開かれて、永遠への目も開かれるようになります。このように霊的な目が開かれるなら、素晴らしい恵みをいただくことができます。
でも、霊的な目が開かれるとは、どういう感じのことを言うのか、いま一つ分かりにくいと感じている方もおられるかもしれません。次の三つめのポイントに進んで、イエス様がおっしゃったことに、いま一度耳を傾けたいと思います。
③神様の臨在を感じることが霊的開眼
19節と20節のイエス様のことばを、もう一度お読みします。
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
20節を別のことばに言い換えてみたいと思います。天の父は翼を大きく広げて、私たちを守って下さっています。イエス様はその天の父と一つのお方ですから、私たちはイエス様の広げた翼の内にいて、守られています。御霊を受けるとそのことを感じると共に、イエス様が自分の内にもいて下さることも感じるようになります。つまり、御霊を受けるとイエス様の臨在を感じることができるようになります。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」とは、イエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。霊的な目が開かれるとは、神様の姿が目に見えるようになることではなく、神様であるイエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。臨在を感じるというと難しいですが、神様が共にいて下さることを感じるということです。
私自身の経験に照らしても、霊的な目が開かれるとは、神様の臨在を感じるようになることであると言えます。
1番目のポイントで、私は教会に辿り着くずっと前から誰かに守られていることを感じていたことを話しました。どうして、守られていることを感じていたかをもう少し具体的に話します。教会に辿り着く前の私は、特に霊的なことを感じていたわけではありません。ただ、危険な目に遭っても不思議と大事に至ることがなかったので、その事実から、守られていることを感じていました。
大学1年の時には死んでいてもおかしくないような交通事故に私は遭いました。深夜のことでしたが、その日、私は友達と二人で夜の札幌の通りを自転車で走っていました。そこまでは覚えていますが、その後の記憶はしばらく途絶えています。次に気付いた時には私は頭から血を流しながら道路の上に寝ていて、救急車で搬送されるところでした。一緒にいた友達の話では、私は後ろから車に追突されて頭を道路に強く打ち付けたということでした。自転車は車輪が大きく変形していましたから、かなりのスピードで追突されたようです。その車は逃げ去ったそうで、友達は私が死んだと思ったそうです。でも私は頭を数針縫っただけで、脳に特に異常も無くて、次の日にはもうピンピンしていました。
同じく大学1年生の時に、また危険な目に遭いました。住んでいたアパートの向かいの部屋でガス自殺をはかった人がいて、ガス爆発が起きました。その部屋にいた人は全身やけどで搬送されましたが、向かいの部屋にいた私は何ともありませんでした。その後、すぐに引っ越したので、その全身やけどの人がどうなったのかは分かりません。もしかしたら、亡くなられたかもしれません。
また私は若者特有の悩みで学業を続ける気力を無くした時が何度かありました。しかし、不思議なことに、その都度、学業に復帰することができました。その後、大学の工学部の助手として働くようになりましたが、教授に付いて行くことができなくなって、大学を辞めました。この時は本当に人生の危機だったと思いますが、不思議と守られて、今度はぜんぜん分野が違う日本語教育の教員として、首都圏の大学の留学生センターという部署で働くことができるようになりました。これは本当に奇跡的なことでしたから、それ以来、私は誰かに守られていると強く感じるようになりました。そうして不思議な導きで高津教会の近くに住むようになり、高津に住み始めてから6年後に父がすい臓ガンで急に亡くなったことをきっかけにして高津教会を訪れました。
その頃の私は誰かに守られていることは感じているものの、いつも漠然とした不安に付きまとわれていました。でも、高津教会にしばらく通っているうちに、その漠然とした不安がいつの間にか消えていました。そのことに気付くことで、それまで自分を守ってくれていたのは聖書の神様だったと確信しました。そうして神様がいつも共にいて下さったのだと分かり、臨在を感じることができるようになりました。
おわりに
このように、神様は私がイエス様と出会うずっと前から、私を守って下さっていました。大学1年生の時のひき逃げの交通事故では死んでいてもおかしくなかったと思いますが、神様は守って下さっていました。同じように、神様はすべての人を守って下さっています。でも、若くして亡くなる方も少なくありません。そのような方は一粒の麦となって、人々に命の大切さを教えて、神様について考えるように導く役割が与えられているのではないかなあと思います。私の場合は生かされて、様々な分野の経験を積まされた上で、みことばを宣べ伝える役割が与えられたのだろうと思っています。
いろいろ話しましたが、きょう、皆さんと共有したいみことばは、18節の、「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」です。最初のほうで、巣から落ちたスズメの子供の話をしました。そのように巣から離れた子供のことも、親鳥はちゃんと見守っています。同じように天のイエス様は信仰が育っていなくて教会とつながっていない人々のことも、ちゃんと見守っています。
この天からの見守りの前にイエス様は十字架に付けられて、イエス様ご自身が天の神様と引き離されて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という絶望の中で苦しみを受けて死にました。ですから、イエス様は見捨てられることの恐ろしさをご自身でよくご存知のお方です。そのイエス様が「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっています。
十字架で孤児の苦しみを知ったイエス様が「あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さるのですから、私たちは十字架のイエス様から目を離さないでいなければなりません。そして、この十字架のイエス様のことをまだ知らない多くの方々に、イエス様をお伝えして、イエス様はまだ教会につながっていない方々もすべて守って下さっていることを知っていただきたいと思います。
このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。