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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

あなたがたを捨てて孤児にはしません(2021.7.25 礼拝)

2021-07-26 08:03:32 | 礼拝メッセージ
2021年7月25日礼拝メッセージ
『あなたがたを捨てて孤児にはしません』
【ヨハネ14:18~20】

はじめに
 礼拝ではヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様の弟子たちへの教えのことばにじっくりと耳を傾けています。

 この後でイエス様は十字架へと向かって行きましたから、「最後の晩餐」の教えはイエス様の弟子たちへの地上での「最後の教え」です。最後ですから、大切なことが凝縮された濃厚なメッセージになっています。この濃厚な教えを聴きもらすことなく、じっくりと耳を傾けたいと思います。

 先週開いた箇所では、イエス様は「最後の晩餐」の教えの中で初めて「御霊」について話しました。イエス様は、御霊は「もう一人の助け主」であると弟子たちに話しました。「霊」は目に見えませんから、「霊」は難しいと考える方もいるかもしれません。でも日本人にとって霊は昔から身近な存在でした。

 例えば、今月の7月は新暦のお盆の月で、中旬にはこの田町でも迎え火と送り火を玄関先で焚いていたお宅を見掛けました。昔は多くのお宅が静岡の町では迎え火と送り火を焚いていたことを私はよく覚えています。私の母も焚いていました。今では少なくなりましたが、それでも今年もこの田町で見掛けました。月遅れの8月のお盆では全国的に休暇を取り、京都や各地の山では大文字や鳥居の形の送り火が焚かれます。

 この迎え火と送り火は先祖の霊を迎え入れてお盆を共に過ごし、また送り出すためのものですね。このように霊は日本人にとって、とても身近な存在です。実際に先祖の霊が存在するか否かは別にして、日本人は先祖の霊をとても大事にして来ました。

 一方、聖書の神様の霊は、宇宙を創造し、天と地を創った神様の霊ですから、スケールがぜんぜん違いますが、でも先祖の霊を大切にする日本人にとっては決して分かりにくい存在ではないと思います。

 さて先ほども言いましたが、先週開いた箇所でイエス様は、御霊(或いは聖霊)は、「もう一人の助け主」であるとおっしゃいました。もともとの助け主はイエス様であり、御霊はもう一人の助け主です。ですから御霊はイエス様が地上でされたことと同じことをします。すなわち御霊はイエス様を信じた人の中に入ってその人を聖めて、イエス様に似た者へと造り変えます。そうして、その人はイエス様と同じことを人々に対して行います。もちろん、イエス様に似た者になるには、かなり聖められる必要があります。人はそんなにすぐには聖められません。でも、御霊は少しずつ私たちを聖めて下さり、恵みの世界へと導いて下さいます。それは、少し聖められるなら、その分だけ前よりも少し神様の愛が分かるようになるからです。神様の愛は圧倒的な愛ですから、前よりも少し分かるようになるだけでも、大きな恵みをいただけます。そうして、そのことが励みになります。神様の圧倒的な愛にどっぷりと浸かることができるよう、聖めの信仰に立って、聖めの恵みをいただきたいと思います。

 きょうの箇所ではイエス様は、また別の表現で、神様の愛を伝えて下さっています。きょうは「孤児」ということばを使っておられます。これまでと表現は違いますが、基本的には同じことの繰り返しと言っても良いかもしれません。イエス様は少しずつ表現を変えながら大切なことを私たちに説いて下さっています。ですから、大切なことを聞き漏らすことなく、しっかりと耳を傾けたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで、話を進めます。

 ①大きな不安の中に置かれる孤児
 ②御霊により霊的な目が開かれる恵み
 ③神様の臨在を感じることが霊的開眼

①大きな不安の中に置かれる孤児

14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

 この「最後の晩餐」の後でイエス様は十字架に付けられて死にましたから、イエス様と弟子たちは離れ離れになりました。でも、イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」とおっしゃいました。

 ここで「孤児」ということばが使われています。とても強い印象を与えることばです。両親を失った孤児の心の中は不安で一杯になります。かつて夏の終戦の日の頃になると、テレビでよく『火垂るの墓』というアニメ映画が放送されていましたね。戦争で両親を失って孤児になった幼い兄と妹の物語です。孤児となった兄と妹は栄養状態が悪くて結局死んでしまいます。見るに耐えないぐらい悲しい物語なので私は2回ほどは見ましたが、見ると苦しくなるので、あとの放送は見ていません。戦災で孤児になった子供たちの多くは、この『火垂るの墓』の兄妹のような悲惨な境遇の中に置かれました。

 2年前のNHKの朝ドラでは、静岡市清水区出身の広瀬すずさんが主演の『なつぞら』というドラマが放送されていました。この『なつぞら』も戦災孤児の物語でした。広瀬すずさんは三人兄妹の真ん中の「なつ」という名前の女性の役で、なつには兄と妹がいました。この三人の戦災孤児は幼い時に離れ離れになって違う場所で育ちました。幸いにしてヒロインのなつは北海道で牧場を経営する家庭に引き取られて愛情に包まれて育ちますが、兄と妹は必ずしも愛情が豊かな家庭に引き取られたわけではありませんでした。

 世の中には愛情が豊かにある場所と、そうでない場所とがあります。愛情が豊かにある場所の中でも特に教会は、神様の愛がたっぷりと注がれている場所です。教会で信仰を育むことは、神様の愛の中で育つということです。もし神様と離れ離れになって孤児になってしまうと、とても不安な中を過ごさなければなりません。でもイエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっていますから、とても感謝なことです。

 親から離れた子供がどんなに不安か、保育園に預けられたばかりの子供は、とても不安そうに過ごすそうですね。人の子ではありませんが、私は何度か親から離れたスズメの子を見たことがあります。まだ飛べないうちに巣から落ちてしまった子供ですが、とても不安そうにしています。巣から落ちた子でも親はちゃんとエサを与えるそうですから、そっとしておくのが鉄則ですが、道の真ん中だと危ないので、私は巣から落ちたスズメの子を道の端に移してあげたことがあります。スズメの子は手に持っても重さをぜんぜん感じないぐらいに軽いことがよく分かりました。鳥は軽いから空を飛べるわけですが、それにしてもスズメの子はなんて軽いんだろうと、その時思いました。ちょっと力を入れるとすぐに壊れてしまうような、とても儚い存在だと思いました。その小さくて軽いスズメの子が親から離れて不安そうにしている様子を見て、早く親鳥が近くに来て欲しいと思いました。でも、たいていの場合、親鳥はちゃんと子供を見ているので、大丈夫なのだそうです。

 天の神様も、教会という巣から離れている人々のことを、ちゃんと見守って下さっています。私は、教会に辿り着いたのは41歳と遅かったですが、辿り着く前から、いつも誰かに守られていることを感じていました。それが誰なのか、先祖の霊なのか、神社の神様なのか、仏教のお釈迦様や阿弥陀様なのか、分からずにいました。聖書の神様のことは、全くの想定外で考えもしませんでしたから、長い間、誰が自分を守ってくれているのかが、分からないでいました。

 でも、教会に辿り着いた時に大きな平安を感じましたから、その時初めて、自分を見守って下さっていたのは聖書の神様だったと知りました。それまでの私はいつも漠然とした不安に包まれていて、いろいろな本を読んだり、趣味に打ち込んだりしましたが、少しも不安は解消されませんでした。それが、高津教会に辿り着いて、しばらく通っている間に漠然とした不安が消えて無くなっていることに気付きました。それで、それまでずっと、教会に辿り着く前から聖書の神様は私を見守って下さってことが分かりました。

 イエス様は私たちの一人一人が教会とつながるずっと前から、私たちが孤児にならないように、見守っていて下さるのですね。本当に感謝なことだと思います。

②御霊により霊的な目が開かれる恵み
 
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

 イエス様が十字架で死んだ後、世の人々はイエス様の姿を見ることができなくなりました。しかし、弟子たちはイエス様を見ました。イエス様は復活して、弟子たちの前に姿を現しました。ただ、ここでイエス様がおっしゃっている、「あなたがたはわたしを見ます」は、復活の日の出来事ではなくて、ペンテコステの日に弟子たちが御霊を受けた時のことを話しているようです。イエス様は20節でおっしゃいました。

20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 このようなことは、御霊を受けなければ分からないことです。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」というのは、御霊を受けて霊的にイエス様が見えるようになることを示します。そうして御霊を受けるなら永遠の命が得られますから、その者は永遠に生きることになります。それが19節の最後にある、「あなたがたも生きることになるからです」ということでしょう。イエス様は十字架で死にましたが、復活して永遠の中を生きておられます。私たちもイエス様を信じて御霊を受けるなら、永遠の中を生きます。

 イエス様を信じて御霊を受けるなら霊的な目が開かれて、永遠への目も開かれるようになります。このように霊的な目が開かれるなら、素晴らしい恵みをいただくことができます。

 でも、霊的な目が開かれるとは、どういう感じのことを言うのか、いま一つ分かりにくいと感じている方もおられるかもしれません。次の三つめのポイントに進んで、イエス様がおっしゃったことに、いま一度耳を傾けたいと思います。

③神様の臨在を感じることが霊的開眼
 19節と20節のイエス様のことばを、もう一度お読みします。

19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 20節を別のことばに言い換えてみたいと思います。天の父は翼を大きく広げて、私たちを守って下さっています。イエス様はその天の父と一つのお方ですから、私たちはイエス様の広げた翼の内にいて、守られています。御霊を受けるとそのことを感じると共に、イエス様が自分の内にもいて下さることも感じるようになります。つまり、御霊を受けるとイエス様の臨在を感じることができるようになります。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」とは、イエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。霊的な目が開かれるとは、神様の姿が目に見えるようになることではなく、神様であるイエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。臨在を感じるというと難しいですが、神様が共にいて下さることを感じるということです。

 私自身の経験に照らしても、霊的な目が開かれるとは、神様の臨在を感じるようになることであると言えます。

 1番目のポイントで、私は教会に辿り着くずっと前から誰かに守られていることを感じていたことを話しました。どうして、守られていることを感じていたかをもう少し具体的に話します。教会に辿り着く前の私は、特に霊的なことを感じていたわけではありません。ただ、危険な目に遭っても不思議と大事に至ることがなかったので、その事実から、守られていることを感じていました。

 大学1年の時には死んでいてもおかしくないような交通事故に私は遭いました。深夜のことでしたが、その日、私は友達と二人で夜の札幌の通りを自転車で走っていました。そこまでは覚えていますが、その後の記憶はしばらく途絶えています。次に気付いた時には私は頭から血を流しながら道路の上に寝ていて、救急車で搬送されるところでした。一緒にいた友達の話では、私は後ろから車に追突されて頭を道路に強く打ち付けたということでした。自転車は車輪が大きく変形していましたから、かなりのスピードで追突されたようです。その車は逃げ去ったそうで、友達は私が死んだと思ったそうです。でも私は頭を数針縫っただけで、脳に特に異常も無くて、次の日にはもうピンピンしていました。

 同じく大学1年生の時に、また危険な目に遭いました。住んでいたアパートの向かいの部屋でガス自殺をはかった人がいて、ガス爆発が起きました。その部屋にいた人は全身やけどで搬送されましたが、向かいの部屋にいた私は何ともありませんでした。その後、すぐに引っ越したので、その全身やけどの人がどうなったのかは分かりません。もしかしたら、亡くなられたかもしれません。

 また私は若者特有の悩みで学業を続ける気力を無くした時が何度かありました。しかし、不思議なことに、その都度、学業に復帰することができました。その後、大学の工学部の助手として働くようになりましたが、教授に付いて行くことができなくなって、大学を辞めました。この時は本当に人生の危機だったと思いますが、不思議と守られて、今度はぜんぜん分野が違う日本語教育の教員として、首都圏の大学の留学生センターという部署で働くことができるようになりました。これは本当に奇跡的なことでしたから、それ以来、私は誰かに守られていると強く感じるようになりました。そうして不思議な導きで高津教会の近くに住むようになり、高津に住み始めてから6年後に父がすい臓ガンで急に亡くなったことをきっかけにして高津教会を訪れました。

 その頃の私は誰かに守られていることは感じているものの、いつも漠然とした不安に付きまとわれていました。でも、高津教会にしばらく通っているうちに、その漠然とした不安がいつの間にか消えていました。そのことに気付くことで、それまで自分を守ってくれていたのは聖書の神様だったと確信しました。そうして神様がいつも共にいて下さったのだと分かり、臨在を感じることができるようになりました。

おわりに
 このように、神様は私がイエス様と出会うずっと前から、私を守って下さっていました。大学1年生の時のひき逃げの交通事故では死んでいてもおかしくなかったと思いますが、神様は守って下さっていました。同じように、神様はすべての人を守って下さっています。でも、若くして亡くなる方も少なくありません。そのような方は一粒の麦となって、人々に命の大切さを教えて、神様について考えるように導く役割が与えられているのではないかなあと思います。私の場合は生かされて、様々な分野の経験を積まされた上で、みことばを宣べ伝える役割が与えられたのだろうと思っています。

 いろいろ話しましたが、きょう、皆さんと共有したいみことばは、18節の、「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」です。最初のほうで、巣から落ちたスズメの子供の話をしました。そのように巣から離れた子供のことも、親鳥はちゃんと見守っています。同じように天のイエス様は信仰が育っていなくて教会とつながっていない人々のことも、ちゃんと見守っています。

 この天からの見守りの前にイエス様は十字架に付けられて、イエス様ご自身が天の神様と引き離されて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という絶望の中で苦しみを受けて死にました。ですから、イエス様は見捨てられることの恐ろしさをご自身でよくご存知のお方です。そのイエス様が「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっています。

 十字架で孤児の苦しみを知ったイエス様が「あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さるのですから、私たちは十字架のイエス様から目を離さないでいなければなりません。そして、この十字架のイエス様のことをまだ知らない多くの方々に、イエス様をお伝えして、イエス様はまだ教会につながっていない方々もすべて守って下さっていることを知っていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。
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助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊(2021.7.18 礼拝)

2021-07-19 13:56:59 | 礼拝メッセージ
2021年7月18日礼拝メッセージ
『助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊』
【ヨハネ14:15~17】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びのシリーズでは、いくつかの大切なことを学んで来ました。その中で一番重要なことの一つは、イエス様と天の父とが一つであるということでしょう。しかし、この父と子が一つであるということ以外にも重要なことを学びましたから、それらを復習しつつ、学びを前に進めて行きたいと思います。

 きょうの聖書箇所では、イエス様が「最後の晩餐」の場で初めて「御霊」に言及しています。これによって初めて父・御子・御霊の三位一体の神の全体像が浮かび上がって来ます。御霊に言及されることで、この「最後の晩餐」のイエス様のメッセージもいよいよ「本番」に入ったと言えるでしょう。今までのイエス様の話は、父・御子・御霊の話をするための予備的なものであったと言っても、言い過ぎではないように思います。

 この「本番」ということばは、映画やテレビドラマなどの撮影現場でよく使われている用語です。最近私は映画のエキストラの話をぜんぜんしていませんが、きょうは久し振りでしたいと思います。撮影現場では、本番の撮影を行う前に何度もテストを行います。私がエキストラとして参加した撮影では、通行人の役が多かったですが、たかが通行人の役でもテストでけっこう何度も歩きます。それは、何人もいる通行人が偏り過ぎないように上手くばらけて、ちょうど良いタイミングで俳優さんの近くを通るようにするためです。

 エキストラが歩き出すタイミングを指示するのは助監督さんの役割です。監督は俳優の演技を見ていて、助監督がエキストラを見ながら指示を出します。撮影用のカメラのフレームの中には俳優さんがいて、通行人はフレームの外からフレームの中に入って俳優さんの近くを通って、またフレームの外に出て行きます。そのタイミングを計るために、けっこう何度もテストを本番の前にします。

 イエス様の「最後の晩餐」の話も、これまではテストのような予備的なものであったと言っても決して言い過ぎではないと思います。きょうの箇所で「御霊」について言及されることで、いよいよ本番に入ると言えるでしょう。きょうは週報p.3に記した3つのポイントで話を進めて行きます。

 ①「互いに愛し合う」と「御霊」との強い関係(15節)
 ②助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊(16節)
 ③私たちの内で「聖化」を助ける「真理の御霊」(17節)

 今週も、先週同様に三つの節だけにしました。この三つの節には、とても大切なことが書かれていますから、腰を落としてじっくりと学ぶようにしたいと思います。

①「互いに愛し合う」と「御霊」との強い関係(15節)

14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

 わたしの戒めとは、13章34節の「互いに愛し合いなさい」のことですね。ヨハネ13章34節、

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 しかし、それにしても次の16節でイエス様は助け主の御霊・聖霊の話をします。その直前で、どうして戒めの話が必要なんでしょうか?ここでもヨハネの手紙第一を参考にすることにしたいと思います。ヨハネの福音書で分からないことがある時には、ヨハネの手紙第一に助けを求めると、多くの場合、分かるようになります。ヨハネの手紙第一3章23節と24節には、次のように書かれています(週報p.2)。

Ⅰヨハネ3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。
24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。

 この第一ヨハネのみことばから、互いに愛し合うことと御霊とは切っても切れない強い関係があることが分かります。もう少し、第一ヨハネを引用します。

Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 ここに何が書かれているのか、一言で言うなら「聖化」が書かれているのだと思います。「聖化」とは段々と聖められて行くことです。イエス様を信じる前の私たちは罪で汚れていますから、互いに愛し合うことができません。それが、イエス様を信じて御霊を受けると、罪が聖められますから、互いに愛し合うことができるようになります。とはいえ、完全に聖められるわけではありませんから、最初の間は少ししか互いに愛し合えません。でも、少し愛し合えるようになることで、その分だけ神様の愛が少し分かるようになります。

 そうして神様の愛が段々分かるようになると、少ししか人を愛すことができないでいる自分の姿も見えて来ます。「互いに愛し合いなさい」とは、「自分と敵対する人をも愛しなさい」ということですから、そんなに簡単なことではありません。でもイエス様は十字架に付いてその愛を示して下さいました。そのイエス様の愛が分かることで、今の自分にはできなくても聖められて人を愛せるようにして下さいと祈れるようになります。すると、少しずつ御霊の実が結ばれて、段々と人を愛することができるようになり、その分だけ神様の愛がまた少し分かるようになります。そういう良い循環ができることが聖化のプロセス・過程です。

 このようにして、私たちは少しずつ聖められて、少しずつ神様の愛が分かるようになります。この「聖化」のプロセス・過程については、3つめのポイントの最後のほうでまた、話すことにします。

②助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊(16節)
 
14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 この16節の注目ポイントは、何と言っても「もう一人の助け主」ということばでしょう。「もう一人の助け主」とは「御霊」のことであるとイエス様は次の17節でおっしゃっています。では、「もう一人のほうではない助け主」とは誰のことでしょうか?それは「イエス様」のことなんですね。イエス様は助け主です。そもそもの助け主はイエス様で、御霊はもう一人の助け主です。これはとても重要なポイントだと思います。

 よく父・御子・御霊(或いは父・子・聖霊)の三位一体の神は、聖霊が分かりにくいということが言われます。父と子は分かるけれど、聖霊が分かりにくいということがよく言われます。しかし、きょうのこの14章16節を学んで、そもそもの助け主はイエス様であり、聖霊はもう一人の助け主なのだということが分かるなら、聖霊のことが俄然よく分かるようになるだろうと思います。

 イエス様はもともとは天の父と共に天にいました。それが、二千年前にヨセフとマリアの子として地上に遣わされました。それは地上の人々を助けるためです。つまり、イエス様は助け主として地上に遣わされました。そうして、イエス様は十字架に掛かり、復活して、地上での助け主としての役目を終えて天に帰りました。このイエス様と交代する形で地上に遣わされるのが、もう一人の助け主である聖霊です。ですから、聖霊はイエス様と同じことをします。聖霊はイエス様を信じた人の内に入って、イエス様と同じことをします。

 私たちは聖霊を受けたばかりの時はまだまだ罪に縛られていますが、だんだんと聖められて御霊の実を結ぶなら、次第にイエス様に似た者へと変えられて行きます。御霊の実とは、週報p.2に載せたガラテヤ5章の愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のことです。この御霊の実を結ぶなら、聖化されてイエス様と似た者とされて、人を愛することができるようになり、その人はイエス様と同じ働きをすることができます。もう一人の助け主である聖霊は、このことを助けて下さいます。
 
③私たちの内で「聖化」を助ける「真理の御霊」(17節)

14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

 イエス様は、もう一人の助け主は「真理の御霊」であると弟子たちに話しました。「真理」については、14章6節を学んだ時に話しました。14章6節でイエス様はおっしゃいました。

14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 この真理は、「嘘」や「偽り」の反対語としての「真実」や「本当」と考えると理解しやすいという話をしました。13章から始まる「最後の晩餐」の記事では、13章の2節という早い段階で「悪魔」への言及があります。13章2節、

13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

 この早い段階からの「悪魔」への言及から、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」から十字架に至る記事の背後には、「神vs悪魔」の対決の構図があることを話しました。悪魔は人に「嘘」・「偽り」のことばをささやいて、人を神から引き離そうとします。この悪魔の策略によって人は暗闇の中に閉じ込められていて、心は闇に支配されています。この闇の中にいる人々をイエス様は光の中へと救い出そうとして下さっていますが、悪魔の支配は強力ですから、人はなかなかイエス様を信じようとしません。イエス様を信じない人は、その人の内に真理の御霊が入りませんから、御霊を知ることはありません。ヨハネ14章17節で、イエス様はそのことを言っておられます。イエス様はおっしゃいました。「この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。」イエス様を信じない人には、もう一人の助け主の御霊は与えられません。その人はいつまでも暗闇の中をさまよい続けることになります。

 しかし、イエス様を信じるなら、その人の内には真理の御霊が入って下さり、真実のことば、本当のことばによって私たちを暗闇から光の中へ救い出して下さり、聖めて下さいます。但し、いきなり全面的に聖められるわけではありません。人は少しずつ聖められて、互いに愛し合うことができるようになります。それが聖化です。この聖化のスピードは、自分もイエス様のように聖められたいと願って祈ること、すなわち聖めの信仰に立つことで、加速されます。ただ、加速すると言っても、ものすごいスピードで聖められることは稀で、聖化のスピードは本当にゆっくりです。でも、聖められたいと願わないなら、すなわち聖めの信仰に立たないのなら、聖化のスピードはもっとゆっくりになりますから、聖められたいと願って聖めの信仰に立つことは大切なことだと思います。

 この聖めのスピードに関して、聖めは瞬時に起きると言われていた時代もあったようですが、瞬時に起きるのは聖めの信仰に立つことでしょう。聖めの信仰に立つことは、確かにあることをきっかけにして瞬時におきます。でも御霊の実を結んで聖められることは、本当にゆっくりだというのが、実際ではないでしょうか。

 この「聖化」について、私は最近、面白い発見をしましたので、最後にその話をしたいと思います。既に多くの方々が知っていることかもしれませんが、私にとっては新しくて面白い発見だったので、その箇所を分かち合うことにしたいと思います。

 7月の第一聖日の教会学校でマタイ5章の「山上の説教」の最初の部分が開かれました。(新約p.6)。マタイ5章3節から10節までですが、時間の関係でそれぞれの節の前半の部分だけをお読みします。

マタイ5:3 心の貧しい者は幸いです。
4 悲しむ者は幸いです。
5 柔和な者は幸いです。
6 義に飢え渇く者は幸いです。
7 あわれみ深い者は幸いです。
8 心のきよい者は幸いです。
9 平和をつくる者は幸いです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。

 7月の第一聖日の教会学校に参加していて、ここでイエス様は「聖化」のプロセス・過程について話されていることに気付きました。

 3節の心の貧しい者はこれから「聖化」が始まる人で、10節の義のために迫害されている者はかなり「聖化」が進んだ人だということです。3節の「心の貧しい者」とは、下の脚注にもありますが、もともとのギリシャ語の直訳では「霊において貧しい者」です。まだ神様の霊が入っていない人のことです。その人は、これから神様の霊が入ることで天の御国に入るという素晴らしい未来が待っています。この3節の人はまだ義のために働くとか、ぜんぜんそんな段階ではありません。一方10節の義のために迫害されている者は、義のために働いているほど聖化が進んでいるということでしょう。

 そういう読み方で4節の「悲しむ者は幸いです」を見るなら、その人たちの中には神様の霊が入り始めて慰めが始まっています。ただし、この段階ではまだまだ受け身です。しかし、さらに聖化が進むなら柔和な人になります。柔和な人は単なる受け身を脱して、人に良い影響を与えるようになります。そして義に飢え渇くようになります。義のない所で人が苦しんでいる様子を見て、あわれみ深くなります。こうして受け身を脱して世の光として働くようになります。ここまできよめられると神様が見えるようになります。そして、平和をつくる働きをするようになり、義のために働くようになります。

 このように、マタイ5章の3節から10節まででイエス様は「聖化」のプロセス・過程を話しておられます。そうして、私たちの教会が目指すべきは、この「聖化」であることを示されています。

 改めて言うまでもありませんが、私たちのインマヌエル教団は「聖と宣」を旗印に掲げています。聖と宣の「聖」は「聖書と聖化」の聖であり、聖と宣の「宣」は「宣教」の宣です。ですから私たちは「聖化」を目指します。そんな当たり前のことを、今さら何を言っているのだと怒られるかもしれません。本当にその通りです。申し訳ありません。

 ちょうど一年前、藤本満先生が来て下さいました。コロナの第二波が始まりそうな時期でしたから、内輪だけの集会としました。その時、先生から、内輪だけの集会なら「聖会」にしませんか、という提案がありました。そうして、藤本先生は「聖化」されることの必要性を説いて下さいました。私もこれからは「聖化」を説いて行きたいと思います。

 当分の間はヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを続けながら、教会は初めてという方にも分かりやすいような、「聖化の恵み」を説いていくことができたらと思っています。「聖化」は教会は初めてという初心者の方から、信仰歴の長い方に至るまで、あらゆる段階において必要なことですから、そのことをお伝えできたらと思います。

おわりに
 きょうのメッセージの最初に、イエス様の「最後の晩餐」の話は、「御霊」が語られるきょうの箇所からがいよいよ本番だと言っても過言ではないと話しました。その本番の始まりである今日の話を、今一度簡単に振り返っておきたいと思います。

 まずイエス様は弟子たちに戒めを守るように言いました。戒めとは「互いに愛し合いなさい」という戒めです。互いに愛し合うことで、神様の愛が段々と分かるようになります。人を愛そうと思ってもなかなか愛せない自分を知る中で、神様の愛の大きさが分かるようになります。

 悪魔の暗闇に支配されていた私たちは、そう簡単に人を愛せるようにはなれません。それゆえ私たちは祈ります。人を愛せるように私をつくり変えて下さいと祈ります。そうして、祈ることで、御霊の実が少しずつ結ばれるようになり、少しずつ人を愛せるようになります。この、私をつくり変えて下さいと願い祈るようになることが、聖めの信仰に立つということです。そうして聖めの信仰に立つなら、助け主である真理の御霊の導きによって、少しずつ御霊の実を結んで、人を愛せるようになります。

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この御霊の実を結んで人を愛せるようになる聖化の道を、私たちは御霊に導かれながら、歩みたいと思います。

 御霊はもう一人の助け主です。そもそもの助け主であられるイエス様と入れ替わる形で、私たちのために天から遣わされました。

 このことに心一杯感謝したいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。

14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
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イスラエルの恥辱を憂うダビデ(2021.7.15 祈り会)

2021-07-19 13:51:14 | 祈り会メッセージ
2021年7月15日祈り会メッセージ
『イスラエルの恥辱を憂うダビデ』
【Ⅰサムエル16:13、17:21~24、26、45~47】

 第一サムエルの学びでは、先週はサウルの息子のヨナタンの信仰を見ました。今週からダビデに注目します。ダビデが登場する前のサウルとヨナタンに関する記事をいくつか飛ばすことになりますが、サウルもヨナタンも第一サムエルではまだまだ登場しますから、ダビデを学ぶ中で随時サウルもヨナタンも見て行きたいと思います。聖書箇所が戻ることもあるかもしれません。

 きょうのメッセージのタイトルは『イスラエルの恥辱を憂うダビデ』です。お読みする聖書箇所は、第一サムエル16章13節のサムエルによってダビデに油が注がれて、その時に主の霊がダビデの上に激しく下った場面と、17章21節以降の、ダビデが巨人のゴリヤテと対戦することになった場面です。17章の場面は飛ばし飛ばしで読みます。私のほうでお読みします。

Ⅰサムエル16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。

17:21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。
22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。
23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。
24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。続いて26節)
26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍のの御名によって、おまえに立ち向かう。
46 今日、はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。
47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いはの戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 サムエルに油を注がれて主の霊が激しく下ってからのダビデを見ると、サウル王との大きな違いが見られます。

 サウルの場合は、サムエルに油を注がれて主の霊が激しく下った後でもなお、荷物の間に隠れているような者でした。しかし、ダビデは違いました。例えば、ダビデは17章26節に戦場にいた人たちに聞きました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

 ダビデは、イスラエルがゴリヤテにののしられていることをイスラエルの恥辱と感じていました。主の霊が下ったダビデはイスラエル全体のことを考えていました。サウル王が荷物の間に隠れていたのとは大違いです。

 このサウル王とダビデの違いはどこから来るのでしょうか?それは出身の部族の違いから来るのかもしれません。サウル王はベニヤミン族に属し、ダビデはユダ族に属していました。サウル王のベニヤミン族はもともと小さな部族だった上に、士師記の時代に起きた内戦によってほとんど絶滅寸前になるまで討たれて、さらに小さな部族になってしまっていました。そんな小さなベニヤミン族出身のサウル王が全イスラエルの頂点に立つことは難しいことだったのかもしれません。

 一方のダビデはユダ族の出身でした。ユダ族と言えば、何と言ってもカレブですね。カレブはモーセの時代に、十二部族の代表としてヨシュアと共に約束の地のカナンに偵察に行きました。そうして、カナンの地の人々が強そうなのを見た偵察隊はおじけづいて「エジプトへ帰ろうと言い出しました。」しかし、カレブとヨシュアは主が共にいて下さるのだから恐れることはない、カナンの地を必ず攻め取ることができると主張しました。

 その後、ヨシュア記の時代に、カレブはヘブロンの地を相続しました。カレブがヘブロンの地を相続したことは、先日、教会学校で共に学びました。教会学校で共に学んだヨシュア記14章の12節と13節には、次のように書かれています。これはカレブがヨシュアにヘブロンの地を与えてくれるよう頼んでいることばです。

ヨシュア14:12 今、があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかしが私とともにいてくだされば、が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」
13 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。

 ヨシュアがカレブにヘブロンを相続地として与えた時点ではまだ、ヘブロンはイスラエルの占領地ではありませんでした。そこには城壁がある大きな町々があるので、容易に攻め落とせる場所ではありませんでした。しかし、主が共にいて下さるから、追い払うことができるとカレブは信じていました。

 ダビデの中にも、カレブと同じユダ族の血が流れていました。歴代誌第一2章の系図によれば、カレブはヤコブの子ユダのひ孫です。ユダのひ孫のカレブにはラム(マタイ1:3ではアラム)という兄弟がいて、ダビデはラム(アラム)の子孫です。ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルマ、サルマの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、そしてエッサイの子がダビデです(歴代誌第一2:9-15)。ですから、ダビデはカレブと近い血縁関係にありました。歴代誌第一の系図は漠然と読むだけではつまらないですが、こういう血縁関係を探索すると、とても面白く感じます。

 ちなみにカレブが相続したヘブロンの地でダビデは王として即位しました。サウル王が死んでダビデ王が即位した時、エルサレムはまだ攻め落とされていませんでした。ダビデはヘブロンで即位した後でエルサレムに攻め入って、そこにダビデの町を建設しました。またダビデが即位したヘブロンは、アブラハムの妻サラが亡くなった時に購入した墓地に面した土地で、その墓地にはサラの後でアブラハム・イサク・ヤコブも葬られました。ヘブロンはこのように、とても由緒正しい土地でした。

 ダビデの中には、この由緒正しいヘブロンの地を相続したカレブと同じユダ族の血が流れていたのですね。ダビデが巨人のゴリヤテを恐れなかったのも、強大なカナン人を恐れなかったカレブと同じユダ族の血が流れていたからかもしれませんね。これがベニヤミン族出身のサウル王とダビデとの大きな違いだったと言えるのだろうと思います。

 第一サムエル17章に戻ります。26節にあるように、ダビデはゴリヤテにののしられるままになっていたイスラエルを、イスラエルの恥辱と感じていました。そうしてダビデはゴリヤテに向かって行きました。45節、

45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍のの御名によって、おまえに立ち向かう。

 ゴリヤテは剣と槍と投げ槍を持ってダビデに向かって来ましたが、ダビデは石投げと石だけを持ってゴリヤテと対戦しました。

 きょうの第一サムエル17章の箇所を読んでいて、私はどうしてもこの時のイスラエルと今の日本の状況とを重ね合わせてしまいます。頼りないサウル王の下でイスラエルはおろおろしていました。今の日本も、頼りないリーダーの下でおろおろしています。先週の7月9日から11日に掛けてのNHKと読売新聞の世論調査の結果では、今の内閣の支持率は発足以来最低となりました。NHKと読売新聞の両方ともが菅政権発足以来最低となりました。その中でコロナの感染者数は第5波に入り、来週はオリンピックも開催されます。いま日本は大きな危機の中にあります。

 でも私たちには万軍の主が共にいて下さいます。私たちは、剣や槍は持っていませんが、祈りという武器を持っています。石投げと石だけでゴリヤテに立ち向かったダビデと同様です。47節、

47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いはの戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 ダビデはゴリヤテにののしられるままになっていたイスラエルを恥辱と感じていました。今の日本の状態も、恥辱とまでは言わなくとも、極めて不名誉なことだと思います。緊急事態宣言が出されている東京に多くのオリンピック関係者を招き入れて大変危険な状態になっています。私たちは万軍の主の力を信頼して救いのためにお祈りしなければなりません。お祈りいたします。
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わたしがそれをしてあげます(2021.7.11 礼拝)

2021-07-12 11:14:34 | 礼拝メッセージ
2021年7月11日礼拝メッセージ
『わたしがそれをしてあげます』
【ヨハネ14:12~14】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを続けます。きょうは14章の12節、13節、14節の3ヵ節を学ぶことにします。先々週は14章の1節から6節までの6ヵ節を、先週は7節から11節までの5ヵ節を学びました。きょうはペースを落として12節から14節までの3ヵ節だけにします。そうしてヨハネ14章をじっくりと学ぶことにしたいと思います。ヨハネ14章をじっくりと学ぶことで、父・子・聖霊の三位一体の神様の恵みの奥深さをご一緒に分かち合いたいと思います。

 何に例えたら三位一体の神様の深い味わいを皆さんと分かち合えるのか、悩むところですが、私たちが感動する物事はいくつかのものが重なり合っている場合が多いと思います。例えば歌は独唱ももちろん良いですが、二重唱や四重唱の歌声を聴く時、そこに豊かさと深さを感じます。活け花も、一輪挿しももちろん良いですが、何種類かの花が組み合わさることで奥行きと豊かさが出ます。教会員の構成も小学生、中高生、大学生、社会人、そしてご高齢の方々というように、いろいろな年齢層の方々がいることで、交わりに豊かさと深さを感じることができると思います。

 神様の恵みが素晴らしいのも、父・子・聖霊の三位一体の神様の豊かさの恵みがあるからです。旧約聖書を読む時には父の恵みを一番強く感じますが、背後には子と聖霊の恵みが存在します。福音書を読む時には子の恵みを一番強く感じますが、背後には父と聖霊の恵みが存在します。使徒の働きを読む時には聖霊の恵みを一番強く感じますが、背後には父と子の恵みが存在します。多重の恵みが背後にあることで、より一層豊かな恵みを感じることができます。ヨハネの福音書の「最後の晩餐」を学ぶことで、この三位一体の神様の豊かな恵みを皆で分かち合いたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます。

 ①世界に福音が伝えられる大きなわざ(12節)
 ②子によって近づけられた恵みの御座(13節)
 ③「わたし」が、それをしてあげます(14節)

①世界に福音が伝えられる大きなわざ(12節)
 きょうは最初のポイントで12節に注目し、2番目のポイントでは13節、3番目のポイントでは14節に注目する、という形で進めて行きます。まず12節を見ましょう。

ヨハネ14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

 イエス様は弟子たちに先ず、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行う」とおっしゃいました。この「わざ」がどんな「わざ」であるのか、イエス様は具体的なことはおっしゃっていませんから、正確なことは分かりませんが、使徒の働きを読めば概ねのことは分かります。例えば福音書のイエス様は中風を患って歩けなかった人を立たせて歩けるようにしましたが(マルコ2:1-12、他)、ペンテコステの日以降の弟子たちも同じように歩けない人を立たせて歩けるようにしました。

 この場面は重要ですから、ご一緒に見ておきましょう。使徒の働き3章です(新約p.236)。この3章でペテロとヨハネは足の不自由な人を歩けるようにしますが、この前の章の2章にはペンテコステの日の出来事が書かれていて、ペテロとヨハネは聖霊を受けていました。つまりペテロとヨハネの中にはイエス様がいました。それゆえ、この使徒の働き3章で足の不自由な人を立たせたのはペテロとヨハネの中にいるイエス様であるとも言えます。そのことを思い浮かべながら、この箇所を読んで下さい。

使徒3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。

 この足の不自由な人に「立ち上がり、歩きなさい」と言ったのはペテロですが、そうなるようにしたのはイエス様です。これがイエス様がおっしゃった、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行う」ということでしょう。ペテロの中のイエス様はかつて中風で歩けなかった人を歩かせました。中風の人は屋根に穴を開けた人々によって運ばれて来ました。そして、この使徒3章の足の不自由な人も、他の人々によって宮の「美しの門」に運ばれて来ました。そしてペテロは、この人を歩けるようにしました。それは、ペテロの中のイエス様がこの人を歩けるようにしたということです。

 ヨハネ14章12節に戻ります。では12節の後半の、「さらに大きなわざ」とは何のことでしょうか。この大きなわざは、イエス様が父のみもとに行くことで実現するということですから、キリスト教会が世界中に立てられて福音が全世界に宣べ伝えられることを言うのでしょう。イエス様が地上にいる間は、イエス様がいる場所でしか福音は伝わりませんが、イエス様が天に昇って父のみもとに行けば、イエス様は天の父のみもとから聖霊を遣わすことができます。そうして、ペテロやヨハネのように聖霊を受けた者が全世界にイエス様の福音を宣べ伝えることができるようになります。実際に使徒の働きでは聖霊を受けたパウロがヨーロッパ方面へイエス様の福音を広げて行きました。

 イエス様を信じて聖霊を受けた私たちも、その役割を担っています。日本人の多くはイエス・キリストのことを聞いたことはありますが、イエス様がどういうお方であるかを聖書に基づいて知っている人は少ししかいません。また、聖書に書かれていることを知っていても、聖書を信じている人はさらに少ししかいません。そのような方々に私たちはイエス様を証して行くことが期待されています。聖書の内容を教えるということでなくても、イエス様に似た者にされることで、私たちはイエス様を証しすることができます。

②子によって近づけられた恵みの御座(13節)

13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

 まず13節の前半の、「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」を見ましょう。先ほどご一緒に見た使徒の働き3章でペテロは「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いましたね。ペテロは単に「立ち上がり、歩きなさい」ではなくて、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。私たちもお祈りする時は最後に「イエス・キリストの名によってお祈りします」、或いは「イエス・キリストの名を通してお祈りします」と言います。それはイエス様がこのヨハネ14章13節で、「わたしの名によって求められたことは何でもしてあげます」とおっしゃっているからなんですね。

 そして13節の後半でイエス様は、それは「父が子によって栄光をお受けになるためです」とおっしゃっています。これは少し分かりづらいことばだと感じます。父が子によって栄光を受けるから、私たちがイエス様の名によって求めることは何でもして下さるとは、どういうことでしょうか。この分かりづらいことばは、イエス様が十字架で死んだ時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことを重ねると分かりやすくなると思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、神殿の垂れ幕が裂けたことが書かれていますね。例えばマルコの福音書15章37節と38節、

マルコ15:37 イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 この時、子の栄光と父の栄光が一つになりました。そうして私たちはこの栄光を仰き見ることが可能になりました。

 神様は最高に聖いお方です。旧約の時代は神様を直接見た者は打たれて死ぬほどでした。ですから旧約の時代の人々にとって、神様は近づきがたいお方でした。それゆえ、神様に何かを求めたい時も、神様に直接訴えずにモーセやサムエルなどの預言者にお願いして神様に祈ってもらったりしていました。神様に直接祈ることも多々あったと思いますが、神様が聞いて下さっているのか、確信を持ちづらかっただろうと思います。それゆえ預言者に頼んで祈ってもらったほうが確実でした。預言者は聖霊を受けていましたから、神様と直接のやり取りができました。

 それが、イエス様が十字架で死んだことによって神殿の幕が真っ二つに裂けて子の栄光と父の栄光が一つになりましたから、預言者ではない一般の私たちでも大胆に神様に近づいて直接お祈りすることができるようになりました。ヘブル人への手紙の記者は書いていますね、ヘブル14章16節です(週報p.2)。

ヘブル4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 旧約の時代には、人が神様に大胆に近づくことなど許されていませんでした。近づけば打たれて死んでしまいました。それが、イエス様の十字架によって、父が子の栄光を受けたことで、父と子の栄光が一つになり、私たちは父と子の栄光を仰ぎ見ることができるようになりました。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきたいと思います。

③「わたし」が、それをしてあげます(14節)

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

 ここでイエス様は、「わたしがそれをしてあげます」とおっしゃいました。三つめのポイントでは、この「わたしがそれをしてあげます」に注目したいと思います。イエス様は、「天の父がそれをして下さいます」ではなくて、「わたしがそれをしてあげます」とおっしゃいました。

 私たちはお祈りする時、まず天の父に呼び掛けます。主の祈りでは、「天にまします我らの父よ」と先ず呼び掛けます。私が祈る時は、「恵み深い天の父なる神様」と呼び掛けます。人によって呼び掛け方は様々ですが、まず天の父に呼び掛けることからお祈りを始めます。そうして、お祈りの最後には「イエス様のお名前によってお祈りします」、或いは「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言ってお祈りを締めくくります。つまりイエス様のお名前を通して天の父に祈りを聞いていただく形を取ります。ですから、私たちの祈りに応えて下さるのは天の父であると思っています。それは別に間違っていません。その通りです。

 ではなぜイエス様は「わたしがそれをしてあげます」とおっしゃったのでしょうか。それは、イエス様が父と一つのお方だからですね。ここからは、先週話したことの繰り返しになりますが、もう一度話させていただきたいと思います。イエス様と天の父とが一つのお方であることは、とても大切なことだからです。ヨハネの福音書13章から17章までの最後の晩餐の場面でイエス様は、同じことを微妙に表現を変えながら何度も言っておられます。そのように繰り返しイエス様が話していることは、とても大切なことですから、この礼拝のメッセージでも、同じことの繰り返しになることを厭わずに、何度も話すことにしたいと思います。そうして、イエス様の大切なメッセージを魂にしっかりと刻み込みたいと思います。

 その大切なことの一つが、「イエス様は天の父と一つである」ということです。イエス様はヨハネ10:30でおっしゃいました(週報p.2)。

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 そうして、イエス様は何度も、ご自身が「わたしはある」という者であることを明らかにしています。例えば、最後の晩餐の13章では、こう言っておられます。ヨハネ13章19節(週報p.2)、

ヨハネ13:19 「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」

 この「わたしはある」は、出エジプト記で天の父がモーセに話したことばの中に出て来ますね。出エジプト記3章14節(週報p.2)、

出エジプト記3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」

 天の父はご自身が「わたしはある」という者であることをモーセに明らかにし、これと同じことをイエス様が弟子たちに言ったということは、イエス様は天の父と一つである、ということです。ですから天の父がしていることはイエス様がしていることであり、イエス様がしていることは天の父がしていることです。それゆえヨハネ14章14節でイエス様は弟子たちに言いました。

ヨハネ14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

 ですから、お祈りする時には、イエス様と天の父とが一つであることを意識しながら、お祈りすると良いでしょう。

 これは3日前の祈り会のメッセージでも話したことですが、最近私は、「最後の晩餐」をじっくり学び始めてから、以前よりも祈りが深まっているように感じています。祈る時に御父と御子との交わりを以前よりももっと強く感じながら祈れるようになったからです。イエス様は天の御父と一つのお方であること、またイエス様が御父の内にいて、御父がイエス様の内にいることを以前よりも意識するようになったことで、お祈りの最初の天の父への呼び掛けの時にもイエス様を意識できるようになりました。

 以前は祈りの最初に天の父に呼び掛けて、最後に「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言うまでに時間が掛かると、父と子がバラバラであるような感じが何となくしていました。しかし、今は天の父とイエス様が一つであることを感じながら祈っていますから、天の父とイエス様とのバラバラ感がなくなりました。祈る時に御父と御子との交わりを感じながら祈れるようになったことで、神様を一層近くに感じることができるようになった気がします。つまり、恵みの御座に大胆に近づくことができるようになっていると感じています。

 ですから、皆さんにも、イエス様と天の父が一つであることを意識しながら祈ることをお勧めしたいと思います。既にそうされているなら感謝ですが、もしまだ、それほど意識していないのなら、イエス様と天の父が一つであることを意識して祈ることをお勧めしたいと思います。そうして私たちは御父と御子との交わりの中で、御父と御子と一つになって、お祈りしたいと思います。

おわりに
 イエス様と天の父とは一つです。そのイエス様を信じるなら、イエス様は天から聖霊を私たちに遣わして下さいます。そうして私たちは父・子・聖霊の三位一体の神様の恵みの中に入れられます。

 初めに話したように、歌は独唱ももちろん良いですが、二重唱、四重唱を聴く時、そこに豊かさと深さを感じます。父・子・聖霊の三位一体の神様と私たちとの交わりとは四重唱のようなものと言えるでしょう。父・子・聖霊と私の四つのパートから成る四重唱です。

 この四重唱の豊かさと深さを皆さんと共に分かち合うことができるように、これからもヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを続けて行きたいと思います。

 しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
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ヨナタンの信仰(2021.7.8 祈り会)

2021-07-09 11:39:24 | 祈り会メッセージ
2021年7月8日祈り会メッセージ
『ヨナタンの信仰』
【Ⅰサムエル14:6~13】

6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、がお救いになるのを妨げるものは何もない。」
7 道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」
8 ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。
9 もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。
10 しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」
11 二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」
12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」
13 ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。

 今夜はサウルの息子のヨナタンに目を向けたいと思います。木曜夜の祈り会の第一サムエルの学びではここ何度かサウルに注目して、先週は10章を開きました。11~13節にもサウルの記事がまだまだ続きますが、あまり恵まれませんし、サウルばかり見ているとなかなか前に進まないので、きょうは14章のヨナタンに目を転じます。

 サウル王にはヨナタンという名前の息子がいました。ヨナタンは人気のある人物ですね。明治の初期に札幌農学校で信仰を持った内村鑑三はヨナタンというクリスチャンネームを自らに付けました。ファミレスのジョナサンはヨナタンの英語での読み方です。英語だとヨナタンはジョナサンになります。ジョナサンという名前は『かもめのジョナサン』という本もあるように、英語圏にはよくある名前だそうです。それだけ聖書のヨナタンは人気が高いということです。

 さて、14章6節でヨナタンは敵側のペリシテ人の陣営の先陣に攻め入ろうとしていました。前回開いたのは第一サムエル10章で、その頃のサウル王は荷物の間に隠れるような頼りない王でしたが、11~13章では、王としてイスラエルの軍隊を率いるようになっていました。イスラエルの相手の中でも強敵だったのがペリシテ人たちでした。そして、息子のヨナタンもペリシテとの戦いに参加していました。14章6節、

6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、がお救いになるのを妨げるものは何もない。」

 ヨナタンは主が味方をして下さると信じていました。主はイスラエルの全軍だけでなく、たった二人で戦いに挑む場合でも味方をしてくれるはずであるとヨナタンは信じていました。この信仰はダビデと同じですね。ダビデも巨人のゴリヤテと対戦する時には主が守って下さると堅く信じていました。後にヨナタンとダビデは堅い友情で結ばれますが、それは二人とも主を信頼する同じ信仰を持っていたからですね。

 そして、きょうの記事からはヨナタンが人のことばの裏を読むようなことをしない真っ直ぐな性格な持ち主であることも伝わって来ます。9節、

9 もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。

 ここでヨナタンは、敵のペリシテの言う通りにしようと部下の道具持ちに言いました。随分と真っ直ぐな性格だなと思います。もしヨナタンがことばの裏を読む人物であったなら、「じっとしていろ」ということは、相手の戦闘準備が整っていないと判断して攻め入ることにしたかもしれません。しかし、ヨナタンは相手の言う通りにしようと言いました。また10節、

10 しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」

 敵が「上って来い」と言ったなら、何か罠があると疑うこともできます。私なら怪しいと思って上って行かないかもしれません。しかし、ヨナタンは敵が「上って来い」と言ったら「上って行こう」と言いました。ヨナタンは敵のことばであってもことばの裏を読むようなことをしない真っ直ぐな性格の人物であったことが伺えます。だからヨナタンは人気があるんでしょうか。野球のピッチャーで言えば、変化球をあまり使わないで直球だけでガンガン勝負していくような感じでしょうか。

 そうしてヨナタンと道具持ちの二人が敵のペリシテ人の先陣の前に姿を現した時、敵は彼らに言いました。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」それゆえヨナタンは敵の所に上って行くことにしました。ヨナタンは道具持ちに言いました。「私について上って来なさい。がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」ヨナタンはいつも主のことを考えていました。

 こうしてヨナタンは13節にあるように部下の道具持ちと二人で敵の先陣を攻撃しました。この時にヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約20人であったと14節に書いてありますから、そんなに多い数ではありません。しかし、このことで、ヨナタンの奇襲攻撃で敵のペリシテの大軍は大混乱になりました。そうして、23節に書かれているように、その日、主はイスラエルを救いました。

 主はヨナタンの信仰を義と認められたのですね。そうして後にヨナタンはダビデを助けることになります。ヨナタンは自分の父のサウル王がダビデを殺そうとしていることをダビデに教えて、ダビデを助けました。この場面は、いずれまたこの祈り会で見ることにしたいと思います。
 
 さて、このヨナタンがわずか二人で果敢に敵陣に攻撃を仕掛けた場面について思い巡らしている中で、今の日本の悪い状況から主が救って下さるように、もっと祈るべきだと示されています。いろいろな方面で、いま日本は悪に支配されていることを感じます。熱海の土石流の災害は、違法な盛り土が被害を大きくした可能性が強まっています。業者は15メートルの盛り土を申請しておいて実際はもっと高く土を盛っていたらしいということです。しかも、土だけではなくて廃棄物が違法に混入していたらしいとも言われていますから、メチャクチャな話です。こういう違法行為が行われていたことに恐ろしさを感じます。

 千葉県の八街市で下校途中の小学生の列に飲酒運転の車が突っ込んだ死亡事故も、運転手は恐らくは飲酒運転の常習者だったと思われます。酒を飲んで運転したのは、この日だけだったということはないでしょう。悪に支配されていることを感じます。

 東京オリンピックも緊急事態宣言下で行われようとしています。いろいろな意見があるかもしれませんが、私はこれも悪いことだと考えます。外国から来日する選手たちと一般市民が接近することのないように対策するとのことですが、実際は既に一般市民と選手がすぐ近くをすれ違うということが起きています。これもまたひどい話です。これらの悪い状況から、この世が救われるように、もっと祈るべきだと思わされます。

 このところ私は、礼拝メッセージで最後の晩餐の学びを始めてから、以前よりも祈りが深まって来ているように感じています。祈る時に御父と御子との交わりを感じながら祈れるようになったからです。イエス様は天の御父と一つのお方であること、またイエス様が御父の内にいて、御父がイエス様の内にいることを以前よりも意識するようになったことで、お祈りの最初の天の父への呼び掛けの時にもイエス様を意識できるようになりました。

 以前は祈りの最初に天の父に呼び掛けて、最後に「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言うまでに間(ま)が開くと、父と子がバラバラであるような感じが何となくしていました。しかし、今は天の父とイエス様が一つであることを感じながら祈っていますから、天の御父とイエス様とのバラバラ感がなくなりました。祈る時に御父と御子との交わりを感じることができるようになったことで、神様を一層近くに感じることができるようになった気がします。そうして、その中で、この世が悪から救われるように、祈って行く必要を示されています。

 ヨナタンは主を信頼して、わずか二人で敵陣を果敢に攻撃しました。そうして主はヨナタンの信仰を義と認めてイスラエルを救いました。私たちも、小さな者たちですが、ヨナタンのように祈りで果敢に戦いたいと思います。そうして世がこれ以上悪に傾いて行くことがないよう、イエス様に救っていただきたく願います。お祈りします。

6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、がお救いになるのを妨げるものは何もない。」
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聖餐式で御父と御子と一つになる(2021.7.4 礼拝)

2021-07-05 14:33:23 | 礼拝メッセージ
2021年7月4日聖餐式礼拝メッセージ
『聖餐式で御父と御子と一つになる』
【ヨハネ14:7~11】

はじめに
 きょうは、このメッセージの後で聖餐式を行います。聖餐式はイエス様と弟子たちとの最後の晩餐の時を覚えて行う聖礼典ですから、最後の晩餐の学びをきょうも続けることにします。

 まず前回学んだヨハネ14章6節を、簡単に振り返っておきたいと思います。6節でイエス様は弟子のトマスにおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 道とは、天の父のみもとへの道です。イエス様ご自身が天の父のみもとへの道ですから、イエス様を通してでなければ、天の父のみもとへ行くことはできません。そのためには、イエス様の真実のことば、本当のことば、すなわち真理に耳を傾けて、それに従う必要があります。この世を支配しているサタンは偽りのことば、嘘によって巧みに私たちが天の父のみもとに行くことを邪魔しようとしますから、そのサタンの策略に惑わされないように、真理であるイエス様に付き従いたいと思います。そうして永遠の命を得て、天の父のみもとへ導いて行っていただきたいと思います。

 きょうはその続きの7節からで、次の三つのポイントで話を進めて行きます。

 ①「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
 ②皆が一つになるようにというイエス様の祈り
 ③聖餐式で御父と御子と一つになる

①「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
 6節に続いてイエス様は7節で言いました。

ヨハネ14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

 イエス様が、「すでにあなたがたは父を見たのです」とおっしゃったのは、イエス様は天の御父と一つのお方だからですね。ヨハネ10:30でイエス様はおっしゃいました。

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 また、イエス様は何度も、ご自身が「わたしはある」という者であることを明らかにしています。今の14章に一番近い箇所で言えば、13章19節です(週報p.2)。

ヨハネ13:19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。

 この「わたしはある」は、出エジプト記3:14で主がモーセに仰せられたことです。(週報p.2)

出エジプト記3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」

 ですから、イエス様が「わたしはある」であるということは、イエス様と天の父とは一つであるということです。それゆえ、イエス様を見た者はすでに父を見たのと同じことです。しかし、弟子たちはまだ、そのことが分かっていませんでした。それでピリポはイエス様に言いました。8節、

8 「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 するとイエス様はピリポに言いました。

9 「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。

 繰り返しますが、イエス様は天の父と一つであり、イエス様ご自身が「わたしはある」という者ですから、イエス様を見た人は天の父も見たことになります。そして、それはイエス様の姿だけではありません。イエス様の声も同様です。イエス様の声を聴いた者は、天の父の声を聴いたことになります。なぜならイエス様の話すことばは父のことばだからです。10節、

10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 前半の「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」はまた後で見ることにして、イエス様が話すことばは、父のことばであることを先に見ておきたいと思います。イエス様は、このことを他の箇所でも言っています。例えばヨハネ8:28でイエス様は言われました。

ヨハネ 8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

 ここでもイエス様はご自身が「わたしはある」であるとおっしゃっていますね。そしてさらに、イエス様はご自分からは何もせずに父が教えられたとおりのことを話しているのだと言っておられます。つまり、イエス様の声を聴いた者は天の父のことばを聴いたことになります。

 続いて14章11節、

11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

 イエス様は「信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」とおっしゃいました。イエス様は様々な奇跡を行いました。これらはイエス様が父と一つであるからこそ、可能なことです。例えば、マタイ・マルコ・ルカも含めた四つの福音書のすべてに書かれている「五千人の給食」の奇跡では、イエス様は五つのパンと二匹の魚を増やして五千人のお腹を一杯にしました。食べ物を増やすようなことは、万物を支配している天の父でなければできないことです。イエス様が湖の上を歩いた奇跡もまた天の父の助けがなければできないことですね。湖の上を歩こうとしても、普通は沈んでしまいます。しかし、天の父はすべての物理法則を支配していますから、重力を局所的に変えることもできますし、或いは水の表面張力を局所的に変えてイエス様の足が水の中に入って行かないようにもできます。

 イエス様は話す時だけでなく、何をする時にでも、いつでも父と一つのお方です。

②皆が一つになるようにというイエス様の祈り
 10節と11節の「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」は、少し表現は違いますが、ヨハネ17章のイエス様のお祈りの中でも使われています。17章21節です(週報p.2)。

17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。

 天の父はイエス様の内におられ、イエス様は天の父の内におられます。そしてイエス様は、私たちのことも、御父と御子の内にいるようにして、すべての人を一つにして下さいと父に祈っています。そうして、私たちもまた神の内にいて、神もまた私たちの内にいるようになります。

 この最後の晩餐の学びを始めてから、ヨハネの手紙第一も引用して、学びの助けにしています。ヨハネの手紙第一はヨハネの福音者の記者のヨハネと同じヨハネが書きましたから、とても参考になります。第一ヨハネ4章16節(週報p.2)、

Ⅰヨハネ4:16 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

 私たちが御父と御子の内にいるようになるということは、神様の愛の内にとどまるということなのですね。その神様の愛は十字架の愛によって、明白に示されています。そのことを、次の3番目のポイントで改めて確認したいと思います。

③聖餐式で御父と御子と一つになる
 今ご一緒に見たように、神は愛です。この神様の愛は十字架の愛によって、明白に示されました。このこともまた第一ヨハネ4章に書かれています。第一ヨハネ4章の9節と10節です(週報p.2)。

Ⅰヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 イエス様が宥めのささげ物として十字架に付いたことで、私たちの罪は赦されました。そうしてイエス様を信じる者の中に聖霊が入って下さり、心の内の罪がきよめられます。イエス様は最後の晩餐の始まりの13章で身を低くして、弟子たちの足を洗いました。足はとても汚れていますが、水で洗い流すことができます。一方、私たちの心は足よりももっとずっと汚れています。とても頑固な汚れです。この心の内の頑固な汚れである罪は、水によってでは洗い流すことができません。私たちの罪をきよめるためには、イエス様の血が必要でした。

 最後の晩餐を覚えて行う聖餐式でいただくパンとぶどう液は、イエス様のからだとイエス様の血です。イエス様の血によって私たちの罪が赦されてきよめられることを覚えながら、私たちはこのパンとぶどう液をいただきます。そして同時に、この食事によって私たちはイエス様と一つにされるのだということも覚えたいと思います。イエス様と一つにされるということは御父とも一つにされるということです。

 こうして私たちは聖餐式で御父と御子との交わりの中に入れられて一つになり、心がきよめられて、だんだんとイエス様に似た者にされて、イエス様の証し人として、世に遣わされて行きます。

 これから持たれる聖餐式で私たちは、御父と御子の大きな愛の中にどっぷりと浸からせていただきたいと思います。この十字架の愛のゆえに私たちの心の内がきよめられ、平安をいただけていることを覚えて、感謝したいと思います。
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他人の評価に反応し過ぎたサウル(2021.7.1 祈り会)

2021-07-02 08:43:45 | 祈り会メッセージ
2021年7月1日祈り会メッセージ
『他人の評価に反応し過ぎたサウル』
【Ⅰサムエル10:20~27】

Ⅰサムエル10:20 サムエルは、イスラエルの全部族を近づかせた。すると、ベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
21 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そして、キシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。
22 人々はさらに、に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。
23 彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
24 サムエルは民全体に言った。「がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。
25 サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記しての前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。
26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。
27 しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。

 木曜日の夜の祈祷会では4月から第一サムエルを学んでいて、今はサウルがイスラエルの王様になろうとしている箇所に差し掛かっています。前回は、第一サムエル9章の17節と21節に注目しました。まず9章17節、

9:17 サムエルがサウルを見るやいなや、は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 主はサウルをイスラエルの王とすることをサムエルに告げました。それで、サムエルはそのことをサウルに伝えました。するとサウルは答えました21節です。

21 「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 サウルは自分が小さい者に過ぎないと言って、とても戸惑っていました。しかし、主はこのように小さな者を大きく用いるお方だということを前回は話しました。ダビデもエッサイの息子たちの中では一番末の小さい者でした。イエス様の母マリアもナザレという小さな田舎町の小さい女性でした。ペテロも北のガリラヤ湖で漁師をしている小さな者でした。主は、これらの小さい者たちを大きく用います。

 サウルもまたベニヤミン族という小さな部族の小さな者でした。そして、主はこのサウルを大きく用いようとしていました。しかし、結局サウルは主とサムエルの期待に応えることができませんでした。

 ここ1ヶ月ほど、サウルが登場する場面に差し掛かって来て、私はサウルについて考えています。これまで私はサウルについてじっくりと思いを巡らしたことはありませんでしたから、サウルは、ダビデを殺そうと追い掛け回した悪い王だというぐらいのイメージしか持っていませんでした。しかし今回、サウルについて思いを巡らすうちに段々とサウルに同情する思いが湧いて来ました。サウルの生涯は気の毒な生涯だったなという気がしています。

 サウルは何しろイスラエルの初代の王でしたから、前例を知りません。王とはどのように振る舞うべきかの帝王学の教育は一切受けていません。一方のダビデは2代目でしたから、サウルを反面教師として王はどのようにあるべきかを多少は学ぶことができました。ペテロも初代教会のリーダーになる前には、イエス様からいろいろなことを学ぶことができました。しかし、サウルの場合はいきなり王に抜擢された訳ですから、何が何だか分からないうちに失敗を重ねてしまいました。

 先ほど、10章の20節から27節までを交代で読みましたが、10章の1節からをざっと見ておきたいと思います。

10:1 サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。

 この10章1節で、サウルはサムエルから油を注がれました。次いで9節でサウルは神様から新しい心を与えられ、10節では神の霊が彼の上に激しく下りました。9節と10節をお読みします。

9 サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。
10 彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。

 このようにサウルはサムエルから油を注がれ、神の霊も激しく下っていましたから、イスラエルの全部続の前でくじで取り分けられた時に、荷物の間に隠れている場合ではありませんでした。20節から22節をお読みします。

20 サムエルは、イスラエルの全部族を近づかせた。すると、ベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
21 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そして、キシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。
22 人々はさらに、に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。

 サウルはサムエルによって油が注がれ、神様から霊が激しく下っていたにも関わらず、まだ王としての自覚が十分にできていませんでした。いきなり王に担ぎ上げられた訳ですから、戸惑うのも当然ですが、ではサウルはどうすれば良かったのでしょうか?サウルの何が悪かったのでしょうか?

 サウルは他人の評価を気にし過ぎた人物だったと言えるでしょう。他人の自分への評価の高低にいちいち反応して、自滅してしまった気がします。サウルは人の評価の声ではなく、もっと神様の声に耳を傾けるべきでした。神様が彼を用いようとしているのですから、その神様にすべてをお委ねして、人間の評価に一喜一憂することをやめるべきでした。

 でも、王に立てられたサウルは早速、人々の評価の渦の中に投げ込まれてしまいました。その点で、とても気の毒に思います。荷物に隠れていた22節の後の23節と24節をお読みします。

23 彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
24 サムエルは民全体に言った。「がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。

 この「王様万歳」は、何の実績もないサウルに対しては高過ぎる評価だと思います。でも、この「王様万歳」を聞いたことで、サウルは舞い上がってしまったかもしれません。荷物の間に隠れていた時は自信が無かったのが、急に自信が湧いて来て、「自分は小さい者」だということを忘れてしまったかもしれません。続いて25節と26節、

25 サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記しての前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。
26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。

 この26節の勇者たちがサウルに付いて行ったことも、サウルにとってはとても心強いことだったと思います。それが、次の27節で、突き落とされます。

27 しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。

 主がサウルを王として立てたのですから、サウルは民を救うことができます。サウルは人の評価を気にせず、主の御声を聴いて主に委ねていれば、良かったんですね。しかし、人の評価を気にしていたサウルは最初は荷物の間に隠れるほど自信がなく、それが「王様万歳」と人々が言ったことで舞い上がり、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言われた時には再び自信を失い、人々の評価に激しく反応してしまいました。

 サウルが他人の評価をとても気にする人であったことは、後にダビデが活躍するようになった時に、女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(Ⅰサムエル18:7)と笑いながら歌い交わした時に彼が激しく怒ったことからも、よく分かります。

 私も他人の評価が気になるほうですから、サウルの気持ちはよく分かります。でも、他人の評価に振り回されていては、神様を失望させることになります。どのような立場でも、信徒として主に仕えるにしても、牧師として主に仕えるとしても、どのような立場でも、主にお委ねして、主に用いられやすい者として、他人の評価に一喜一憂することなく、淡々と主にお仕えしたいと思います。

 サウルには神様に心を動かされた勇者たちが付いていました。神様の配慮で、サウルの周りには心強い勇者たちが近くに付けられました。ですから神様を信頼して、勇者たちと共に神様の御心に従い、神様に仕えるべきでした。

 私たちにも、心強い教会の兄弟姉妹方がいます。この兄弟姉妹方は皆、神様に心を動かされた勇者たちです。この勇者たちと共に私たちは神様にお仕えして行きたいと思います。周囲の状況に一喜一憂することなく、神様を信頼して歩んで行きたいと思います。お祈りいたします。

26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。
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