平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

私たちは心の奥底で何を求めているのか?

2023-11-10 11:07:01 | 折々のつぶやき
2023年11月10日 静岡朝祷会奨励
『私たちは心の奥底で何を求めているのか?』
【ヨハネ1:35~39】

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 前回の奨励では、聖書は親しむに連れて聖書の中の人物が他人事(ひとごと)から自分事に移り変わるという話をしました。例えば、聖書の初心者の間はペテロのことを「ペテロとはそういう人物だったんだな」と思って読みますが、聖書に親しんで来ると、ペテロが自分のことのように思えて来るようになります。これは聖霊の働きによるものだと思いますから、学術的に論じられることはありませんが、イエス様を信じる私たちの多くが経験していることですね。

 そしてヨハネの福音書1章の6~8節についても同じことが言えると示されていることを前回は話しました。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 このヨハネ1:6を他人事として読むなら、ここに登場するヨハネとは「バプテスマのヨハネ」のことです。しかし、自分事として読むなら、このヨハネとは読者の私たちのことではないでしょうか。なぜならイエス様を信じる私たちは「イエス様の証人」とされているからです。イエス様は弟子たちにおっしゃいました。

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 このようにイエス様を信じて聖霊を受けた私たちは「イエス様の証人」ですから、イエス様を証しするために来たヨハネ1:6のヨハネを自分事として捉えるなら、私たちのことであろうと思います。

 しかしもちろん、一足飛びに自分がヨハネであると自覚するようになるわけではありません。いくつものステップを踏んで行く必要があります。この朝祷会の奨励では、その過程、プロセスを分かち合うことができたらと願っています。

 「イエス様の証人」への道を歩み始めるための第一歩は、まずはイエス様の招きに応じることでしょう。ここからすべてが始まります。きょうの聖書箇所のヨハネ1章35~39節には、イエス様の招きのことばが記されています。新改訳2017でお読みします。

ヨハネ1:38 「あなたがたは何を求めているのですか。」
39 「来なさい。そうすれば分かります。」

 この箇所を自分事として読むなら、イエス様のこのことばは二人の弟子へのことばではなく、自分へのことばとして響いて来ます。では、私たちはいったい何を求めているのでしょうか?おいしい物を食べたいとか、たまには贅沢をしてみたいとか、旅行にも行きたいとか、そういう、ちょっとした願望を私たちは常に、いろいろ持っていると思います。でも、イエス様が聞いているのは、そんな浅いレベルの願望ではないことは明らかです。私たちは心の奥底で、いったい何を求めているのか、イエス様は私たち一人一人に問い掛けています。イエス様に出会う前の私たちは霊的に死んだ状態にありますから、心の奥底の深い領域のことは分かりません。それゆえイエス様はおっしゃいます。「来なさい。そうすれば分かります。」
イエス様に付き従って行くなら、私たちは霊的に目覚めて、自分が心の奥底では何を求めているのかが、少しずつ分かるようになります。

 昔も今も、世界はなかなか平和になりません。それは人々の多くが、自分が心の奥底で本当は何を求めているのかが分かっていないからではないかと思います。表面的な願望の実現ばかりを追い求めて、心の奥深い領域のことを追い求めない結果、悲惨な争い事が繰り返されることになっているのだと思います。

 イエス様は私たちの一人一人に問い掛けて下さっています。

「あなたがたは何を求めているのですか。」
「来なさい。そうすれば分かります。」

 さて、ここからは私自身の思い巡らしの変遷についての証しをしたいと思います。私自身は心の奥底でいったい何を求めているのか、これまで折りにふれて思いを巡らす機会を持って来ました。大きく分けると三つの段階があったように思います。

 私自身が心の奥底で何を求めているのか、それは「心の平安」であろうと長い間、思って来ました。イエス様はヨハネの福音書の終盤の20章で弟子たちに三度、

「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19、21、26)

とおっしゃいました。イエス様が三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのですから、「心の平安」こそが私が心の奥底で求めていることであろうと長い間思って来ました。これは別に間違ってはいないと思います。正解は一つしかないというようなものではないと思いますから、「心の平安」もまた、正解の一つなのであろうと思います。

 しかし、二年ほど前に教会の礼拝説教でヨハネの福音書13~17章の最後の晩餐でのイエス様の教えにじっくりと取り組んだ頃から、私自身が心の奥底で求めているのは「聖霊による心の平安」ではないか、その方がより正解に近いのではないかと思うようになりました。聖霊を受けていなくても心の平安を感じることはありますが、聖霊による心の平安はもっとずっと深いものだからです。

 さてしかし、最近になって、「聖霊による心の平安」よりも「御父と御子イエス・キリストとの交わり」のほうが、私が求めているものにさらに近いのではないかと思うようになりました。ヨハネの手紙第一の冒頭でヨハネは次のように書いています(新共同訳)。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

 この「御父と御子イエス・キリストとの交わり」は聖霊によって与えられるものですから、私が求めているものが「聖霊による心の平安」でも良いと思うのですが、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」のほうが、私が求めているものにさらに近いように最近になって感じるようになりました。残りの時間で、そのことを証しさせていただきます。

 先月の10月17日の火曜日に椎間板ヘルニアを発症しました。当日の痛みは大したことはなかったのですが、翌日の水曜日から左足が激しく猛烈に痛むようになり、痛さのゆえ、この朝祷会も欠席しました。そうして金曜日の夕方に整形外科に行ったところ、腰椎の椎間板ヘルニアであると診断されました。足が痛かったので、足を悪くしたと思っていたのですが、腰を通る足の神経が圧迫されていることによる神経痛とのことでした。ネットを検索すると椎間板ヘルニアの当初の痛みは「激痛」であると書いてありますが、本当に激痛で、悶え苦しみました。そんな中で私は十字架のイエス様の苦しみに心を通わせるようになりました。私の激痛など十字架のイエス様の激痛と比べれば全然大したことはないのですが、それでもこの激痛を経験する前よりも十字架のイエス様をより近くに感じるようになりましたから、この経験も悪いことばかりではなかったと思います。

 十字架のイエス様はいくつかのことばを遺されましたが、中でもイエス様の次のことばが心に響きました。マルコの福音書から引用します。

マルコ15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 十字架に釘付けにされたイエス様の肉体は激しく痛んでいました。しかし、イエス様には肉体の激痛をさらに上回る心の痛みがありました。それは私たちの罪を背負ったことで天の父とのつながりが絶たれてしまったことです。そうしてイエス様は悶え苦しみながら「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。天の父と一つであったイエス様にとって、天の父との関係が絶たれることほどつらいことはありませんでした。逆に言えば、イエス様の心の平安の根源は、天の父と一つであることにありました。そして、これこそが私たちに最も不足していることではないでしょうか。天の父と御子イエス・キリストとの交わりに入れていただくことによる素晴らしい平安を十分に知らないために、私たちはいつまで経っても浅い願望ばかりを追求して争い事を繰り返すということになってしまっているのではないでしょうか。イエス様の心の平安の根源である「天の父と一つになること」を知らないがために、私たちが住むこの世は、争い事に満ちているのではないでしょうか。

 このことに思い至り、「イエス様の証人」としての私自身の役割は、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に入れていただく素晴らしい恵み、そしてそのことによって得られる深い平安であると、改めて示されています。

 イエス様の証人としての私たちが何を証しするのか、与えられている役割は一人一人異なることと思います。それぞれが用いられますように、お祈りしたいと思います。お祈りいたします。

ヨハネ1:38 「あなたがたは何を求めているのですか。」
39 「来なさい。そうすれば分かります。」
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回復途上にあります

2023-11-10 10:57:45 | 折々のつぶやき
 しばらくブログ更新を休みました。実は前回の更新日の10月17日(火)に椎間板ヘルニアを発症しました。当日の痛みは大したことがなかったのですが、翌日の水曜日から左足が猛烈に痛み始め、その激痛に耐えかねて金曜日に整形外科で診てもらったところ、椎間板ヘルニアとの診断でした。激しい痛みでブログ更新もままならず、しばらく休みました。

 今は回復途上で痛みもかなり和らいで来ました。今朝は静岡朝祷会の奨励の御用を務めましたから、後で原稿をアップします。これを機にまた少しずつブログ更新ができたらと思います。
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