インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

ソロモンが御霊を願っていれば(2016.5.29 礼拝)

2016-05-29 13:10:52 | 礼拝メッセージ
2016年5月29日礼拝メッセージ
『ソロモンが御霊を願っていれば』
【Ⅱ歴代誌1:7~13】

はじめに
 一昨日のオバマ大統領の広島でのスピーチの中で最も意義深い言葉であったと私が感じたのは、最初の方で語られた次の言葉です。

“Their souls speak to us. ”「彼らの魂が私たちに語りかけます」

彼らと言うのは原爆で命を落とした死者のことです。この言葉の前でオバマ大統領は多くの人々が死んだことについて述べました。スピーチの冒頭部分を引用します。大統領は死者の話をして、そして今の「彼らの魂が私たちに語りかけます」と続けました(朝日新聞訳)。

「71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。閃光(せんこう)と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことを示したのです。
 なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです。彼らの魂が私たちに語りかけます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になりえるのかをよく考えるように求めているのです。」(朝日新聞訳)

 このようにオバマ大統領は、死者の魂が私たちに、「私たちが何者なのか、これからどのような存在になりえるのかをよく考えるように求めている」と話しました。
 私たちは、魂の語り掛けに対しては、魂で応答しなければなりません。魂の語り掛けに魂で応答する、この魂の会話に人間の知恵や知識は多少の助けにはなるかもしれませんが、大きな助けにはなりません。大きな助けになるのは助け主である聖霊の助言です。
 全くの偶然ですが、大統領のスピーチの前から私は今日(29日)の礼拝説教のタイトルを『ソロモンが御霊を願っていれば』(歴代誌第二1:7~13)として教会のブログでも告知していました。いま礼拝では歴代誌からソロモンの神殿建設の経緯を学んでいて先週の22日の礼拝では歴代誌第一29章を学び、その前は28章を学んでいましたから、きょうの礼拝で歴代誌第二1章を開くことは順番上決まっていたことです。
 ダビデから王位を継承したソロモンは神様から「あなたに何を与えようか、願え」と言われて「知恵と知識を私に下さい」と答え、知恵と知識が与えられました。この知恵と知識はソロモンの王国の治世に大きな力となりました。ただし、それはソロモンの魂が正しい方向を向いている間だけでした。ソロモンの魂の向きが横にそれ始めた時、知恵と知識は魂の軌道修正に役立ちませんでした。
 聖霊は魂を正しい方向へ導きます。しかも知恵と知識を補う助言も与えてくれます。ですからソロモンが願うべきは知恵と知識ではなく助け主の聖霊(御霊)であったと言えるでしょう。これがきょうの説教の概要です。

知恵と知識を願ったソロモン
 それでは、歴代誌第二のきょうの聖書箇所を見て行きます。前の章の歴代誌第一29章の終わりでソロモンの父のダビデが死にました。そうして歴代誌第二1章の1節、

1:1 さて、ダビデの子ソロモンは、ますます王権を強固にした。彼の神、【主】は彼とともにおられ、彼を並みはずれて偉大な者とされた。

 そして7節へ飛びます。7節、

1:7 その夜、神がソロモンに現れて、彼に仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」

 この、神様の「あなたに何を与えようか。願え。」ということばに対してソロモンは答えました。8節から10節、

1:8 ソロモンは神に言った。「あなたは私の父ダビデに大いなる恵みを施されましたが、今度は父に代わって私を王とされました。
1:9 そこで今、神、【主】よ、私の父ダビデになさったあなたの約束を堅く守ってください。あなたは、地のちりのようにおびただしい民の上に、私を王とされたからです。
1:10 今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」

 10節にあるようにソロモンは「知恵と知識」を願いました。莫大な数の民をさばくのには「知恵と知識」が必要だというわけです。このようにソロモンがお金や財宝や名誉を願わずに「知恵と知識」を願ったことは、神様の心に適いました。11節と12節、

1:11 神はソロモンに仰せられた。「そのようなことがあなたの心にあり、あなたが富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、さらに長寿をも求めず、むしろ、わたしがあなたを立ててわたしの民の王とした、その民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、
1:12 その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、わたしはあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」

 こうして神様はソロモンに知恵と知識を与え、さらに富と財宝と誉れを与えました。このことにより、ソロモンは無事に神殿の建設を果たすことができ、王国も非常に繁栄し、領土も広げて強大になりました。しかし、これでメデタシ、メデタシとならなかったことは、皆さんもご承知の通りです。

神に背いたソロモン
 列王記第一11章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.600)。11章1節をお読みします。

11:1 ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。

 一つ飛ばして3節と4節、

11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。

 それゆえ11節、

11:11 それゆえ、【主】はソロモンに仰せられた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。

 神様は王国を引き裂くと仰せられましたから、ソロモンの死後にイスラエルの王国は北王国と南王国に分裂してしまいました。
 人は誰でも失敗を犯します。しかし失敗を犯しても聖霊を受けていれば内なる声が悔い改めを迫り、軌道修正をすることができます。ダビデの場合がそうでした。しかし残念ながら、聖書にはソロモンに神の霊が下ったという記述がありませんから、ソロモンは聖霊を受けていなかったようです。

悔い改めたダビデ
 一方、ソロモンの父のダビデは聖霊を受けていました。ダビデは週報p.3に載せたように若い頃に聖霊を受けていました。第一サムエル16章13節に、

「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」

とあります。
 このダビデは絶頂期にウリヤの妻のバテ・シェバをみごもらせてしまいました。それでダビデは謀って忠実な部下であったウリヤを戦いの最前線に送って殺してしまいました。このことの罪にダビデは当初は気付いていませんでしたが、預言者ナタンを通して、そのことを知らされました。詩篇51篇を見ましょう。詩篇51篇の表題に「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」とあります。1節と2節をお読みします。

51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

 そして10節と11節、

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

 このように聖霊が注がれていれば、罪を内から示されますから悔い改めて軌道修正をすることができます。しかし、ソロモンには聖霊が注がれていなかったようですから、ソロモンの罪には歯止めが掛からず、イスラエルの王国は分裂することになってしまいました。
 聖霊はすべてのことを教えて下さいます。ですから知恵と知識が無くても聖霊が助けて下さいます。ですからソロモンは知恵と知識ではなく、聖霊を願うべきだったと言えるでしょう。

平和の実現に不可欠な聖霊
 現代の私たちが平和な世界を実現するためにも、聖霊の注ぎはなくてはならないものです。オバマ大統領は一昨日のスピーチの最後の方で、アメリカの独立宣言の冒頭の部分を引用して次のように訴えています。

 私の国の物語は単純な言葉から始まりました。「すべての人は等しくつくられ、生命、自由、そして幸福の追求を含む、奪われることのない権利を創造者から授けられた」。そうした理想を実現するのは、たとえ私たちの国内であっても、国民同士であっても、決して簡単なことではありませんでした。しかし、その物語に忠実であり続けることは、努力に値することです。大陸を越え、海を越えて追い求められるべき理想なのです。すべての人の減らすことのできない価値。すべての命は尊いという主張。私たちは一つの人類という家族の一員なのだという根本的で欠かせない考え。これらが、私たち全員が伝えていかなければならない物語なのです。(朝日新聞訳・一部私訳を入れて改変)

 この理想を実現するためには、私たちは主にあって一つになるしかないでしょう。それは御霊によって一つになることであり、ぶどう木の主のもとで私たちが枝になるということです。
 きょうは、一昨日のオバマ大統領のスピーチ、そして歴代誌第二のソロモンが「知恵と知識」を願った箇所から、聖霊を受けることの大切さを改めて確認することができましたから感謝でした。

おわりに
 最後に今年の私たちの教会の聖句であるヨハネ15章5節をご一緒に読んでメッセージを閉じます。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 お祈りいたしましょう。
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大統領の広島訪問を前にして(2016.5.25 祈り会)

2016-05-26 18:46:15 | 祈り会メッセージ
2016年5月25日祈り会メッセージ
『大統領の広島訪問を前にして』
【ヨハネ20:19~23】

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

はじめに
 あさっての5月27日、アメリカの現職の大統領のオバマ氏が広島の平和公園を訪れることになっています。インターネットで調べた明後日の広島地方の天気予報は今日の昼現在では曇りで、降水確率は30%または40%になっています(サイトによって違います)。私は明後日は雨が降らずにいて欲しいと願っています。それは、明後日が歴史的な日だから、やはり良いお天気であって欲しいという思いもありますが、それだけではなく、私はオバマ大統領には視界をさえぎる傘やレインコートのフードのような雨具を使わずに広島の平和公園の広大な敷地内に立って欲しいと思うからです。
 広島の平和公園の中には建物がほとんどなく、広々とした敷地が広がっています。しかしここは、かつては木造の民家や商家が密集して建っていた地域でした。それらは皆、原爆による熱線や高温の爆風にさらされて自然発火した火によって燃え尽きてしまいました。ただし屋根瓦は燃えませんでしたから、平和公園の土の下には焼けただれた無数の屋根瓦が残されたままになっていて、土を掘れば瓦の破片がざくざく出てくるそうです。そして平和公園の土の下には多くの人々の遺灰ももちろん埋まっています。私はオバマ大統領には、この平和公園の広大な敷地に、かつては活気ある商店街があり、軍人ではない庶民の暮らしがあったことも感じ取って来て欲しいと思っています。そして、たった一発でそれらのすべてを破壊してしまい、放射線の被害をももたらす核兵器がいかに残虐な兵器であるかを、しっかりと感じ取って来て欲しいと願っています。

平和に欠かせない聖霊の働き
 私は世界が平和になるには聖霊の働きが欠かせないと今や確信しています。逆に言えば、世界がなかなか平和にならないのは、聖霊が人の中で十分に働けない状況が続いているからだと言えるでしょう。
 きょうの聖書箇所でイエスさまは、弟子たちに19節と21節で「平安があなたがたにあるように」と言っています。この20章ではさらに26節でもイエスさまは「平安があなたがたにあるように」と言っています。この「平安があなたがたにあるように」は新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳しています。そして22節でイエスさまは、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言いました。
 このイエスさまの言葉からも、平和のためには聖霊が欠かせないことがわかります。では、世界がなかなか平和にならないのは、人々が聖霊を受けていないからでしょうか。そんなことはないはずです。世界には多くのクリスチャンがいて、クリスチャンの多くは聖霊を受けていると思います(クリスチャンの全員が聖霊を受けているかどうかはわかりません)。クリスチャンの多くが聖霊を受けているから、キリスト教会が二千年間に亘って脈々と受け継がれ続けて来たのだと思います。いま私たちは会堂問題に携わっていますから、そのことがよくわかります。会堂問題は本当に困難な問題で、聖霊の励ましが無ければこの困難な問題を乗り越えて行くことは到底不可能なことだと思います。その困難なことを多くの教会が成し遂げて来ているのですから、多くのクリスチャンには聖霊が注がれていることがわかります。

《時計の支配》が妨げている平和の実現
 では、世界中でたくさんいるクリスチャンの多くに聖霊が注がれているのに、なぜ世界は平和にならないのでしょうか。それは、多くの人が「時計の時間」に縛られて、時計に支配されているからだろう、というのが私の考えです。ですから、今週、オバマ大統領が広島の平和公園を訪れるのを機に、きょう私は改めて《時計の支配》からの脱出の重要性を訴えたいと思います。旧約の時代にイスラエル人は《エジプトの支配》から解放されました。そして新約の時代に人類はイエスさまの十字架によって《罪の支配》から解放されました。しかし、クリスチャンでさえも多くの人々がまだ《時計の支配》の下にあるので、世界はなかなか平和になりません。
 「時計の時間」に支配されていると、どうして平和にならないのか、それは「時計の時間」の下では神の愛を十分に感じることができないからです。十分ではないというのは、「天の時間」と比べて、ということです。



 資料の図1を見ていただくと、図1(a)が「時計の時間」で、(b)が「天の時間」です。図1(a)の

   → 過去 → 現在 → 未来 →

という「時計の時間」は、(b)の

   ↓ 過去 ↓ 現在 ↓ 未来 ↓

という「天の時間」に比べると、神の愛を感じにくいことがイメージとしてわかると思います。これは太陽光パネルで太陽光発電をすることを考えるとわかると思います。太陽光が真上から照っている時、パネルを地面に置けば太陽の光をたっぷりと受けることができますが、もしパネルを90°立ててしまうと、太陽光を受けることができませんから発電ができません。「時計の時間」の中にいる人は、太陽光パネルを90°立てて横を向いてしまっている人のようだと言えるでしょう。
 「天の時間」と、その中の神の愛を太陽光に例えることの基になっているのが図2です。少し前にもお見せしたことがある図ですが、太陽光には目に見える可視光線の他にも目に見えない赤外線や紫外線が含まれています。太陽光はこれらの光線の束になっていて、プリズムなどの分光器で分光してあげると、図2(a)のようなスペクトルを見ることができます。
 イエス・キリストは、この太陽光にとてもよく似ています。それが図2(b)です。イエスさまも目に見える「人間イエス」と目に見えない「霊的なイエス」とがいます。これらのイエスさまは別々になっているわけではなく、一人のイエスさまとして存在しています。しかし、太陽光をプリズムで分光するように聖書の光を分光してあげると【旧約聖書の時代】の霊的なイエスさまと【弟子たちの時代】の霊的なイエスさまが見えて来ます。21世紀の私たちは聖書を通して、この一まとまりのイエスさまに出会っています。ただし、このイエスさまには聖霊を受けていないと会うことができません。聖霊を受けると、このスペクトルの広がりが見えるようになり、図1(b)のように神様の愛をたっぷりと受けることができます。でも実際にはクリスチャンの多くが「時計の時間」に縛られているので、図1(a)のようなことになってしまっています。

神の愛を受けて平和に向かうことへの希望
 なぜクリスチャンの多くが図1(a)のようになってしまっていると私が考えるか、それはヨハネの福音書にいる霊的なイエスさまの存在が気付かれていないからです。何度も話しているように例えばヨハネ4章の後半には使徒の働き8章のピリポによるサマリヤ伝道のことが書かれていて、サマリヤの町の人々が霊的なイエスさまに会うことができたことが書かれているのに、ヨハネの福音書の注解書のヨハネ4章の注解で使徒8章に触れている注解書を私は見たことがありませんし、私たちが持っている聖書の脚注を見ても使徒8章の引照は見られませんから、ここが使徒8章に重ねられていることには気付かれていません。それはイエスさまと言えば紀元30年頃の人というように私たちの多くが「時計の時間」に縛られていて、イエスさまが【旧約聖書の時代】にも【弟子たちの時代】にも霊的なイエスさまとして存在していることが、ほとんど意識されていないからです。
 これは残念なことではありますが、私は逆に大きな希望も持っています。それは、多くの人が「時計の時間」を脱して「天の時間」を意識できるようになれば、神の愛をたっぷり受けて平和へ向かって行くのではないかという希望です。
 私は1週間の半分は海辺をジョギングしていて海をよく見ていますから、「時計の時間」に支配されている私たちの心は、海面付近の海の水のようなものかもしれないと感じています。海の水は波の無い日もありますが、大抵は波があって上下しています。私たちの日常も良くなったり悪くなったりを繰り返していますから、心の状態も上がったり下がったりを繰り返しています。そうして上に行った時は優越感に浸って傲慢になったり、下に行った時は劣等感に悩まされて卑屈になったり人を恨んだりします。時には凪のような静かで平安な心でいられる時もありますが、嵐の海のように心が荒れ狂う時もあります。人との争いが起きるのはそんな時です。
 しかし、どんなに海面が荒れていても、海の底は静かです。それが「天の時間」の中にいる人の心です。聖霊に満たされ、神の愛に満たされているなら心の中はいつも海の底のように穏やかでいられます。海底でも深海魚が暴れて穏やかでない時もあるかもしれませんが、深海魚が暴れても暴風雨の時の海面に比べれば、遥かに穏やかでしょう。この「天の時間」が図1(b)です。この「天の時間」の中にいるなら、互いに愛し合うことができ、互いに赦し合うこともできるでしょう。ヨハネ20章23節でイエスさまは、

20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

とおっしゃっています。もし「天の時間」ではなくて「時計の時間」の中にとどまり続けるなら、互いに愛し合い、赦し合うことができずに「報復の連鎖」が延々と続くことになりますから、世界は平和になりません。

おわりに
 明後日、オバマ大統領が広島の平和公園を訪れます。そして核兵器が残虐な兵器であることに触れ、核兵器の無い平和な世界の実現に向けて具体的な行動を起こすことの重要性を説くのだろうかと想像しています。
 きょう話したように私は平和な世界の実現には私たちの多くが縛られている「時計の時間」から脱出する必要があると確信していますから、この働きを進めて行くつもりです。そして私はこの働きを教会の皆さんと進めて行きたいと願っていますから、今日はこのことを話させていただきました。
 お祈りいたしましょう。
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5月29日礼拝プログラム

2016-05-26 18:39:36 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月29日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第5聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  日ごと主イエスを     393
 交  読  詩篇62篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  いのちのみことば      180
 讃 美 ③  主から受ける安らぎは    440
 聖  書  Ⅱ歴代誌1:7~13
 説  教  『ソロモンが御霊を願っていれば』 小島牧師
 讃 美 ④  聖なる御霊よ この身に臨み 168
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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すべては神の御手から出たもの(2016.5.22 礼拝)

2016-05-22 16:51:36 | 礼拝メッセージ
2016年5月22日礼拝メッセージ
『すべては神の御手から出たもの』
【Ⅰ歴代誌29:13~19】

はじめに
 5月の礼拝は母の日礼拝とペンテコステ礼拝がありましたから、この間、ソロモンの神殿に関するメッセージはお休みをしていました。きょうからまた再開したいと思います。

すべてを完成させて下さる神
 きょうの学びの前に、前回までに学んだ歴代誌第一28章のキーフレーズを復習しておくことにします。まず28章10節です。これはダビデから息子のソロモンへのことばです。

28:10 今、心に留めなさい。【主】は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

 ダビデは自分が望んでいながら果たせなかった神殿の建設を息子のソロモンに託しました。そして、10節にあるように「勇気を出して実行しなさい」とソロモンに言いました。続いて11節から13節、

28:11 ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。
28:12 御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、【主】の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、
28:13 祭司とレビ人の組分けのこと、【主】の宮の奉仕のすべての仕事のこと、【主】の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。

 ダビデはソロモンに神殿の仕様書を授けました。これはダビデが考えたものではなく、主が御霊によってダビデに示したものでした。ここには新しく建設する神殿に関わるすべてのことが書かれていました。
 そして20節、

28:20 それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である【主】、私の神が、あなたとともにおられるのだから──。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、【主】の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。

 主はソロモンと共におられ、ソロモンを見放さず、ソロモンを見捨てず、神殿の奉仕のすべての仕事を完成させて下さいます。
 それは私たちの教会でも同じです。主は私たちと共におられ、私たちを見放さず、私たちを見捨てず、教会の奉仕のすべての仕事を完成させて下さいます。ですから、私たちの側で神様から離れてしまうことがなければ、神様はすべてのことを完成させて下さいます。ですから来月行う今のこの会堂の修繕も、来年隣の土地に建設する新しい礼拝堂も、神様が完成させて下さいます。

進んで捧げ物をした民
 さて今日は、29章を見て行きます。まず29章の1節、

29:1 次に、ダビデ王は全集団に言った。「わが子ソロモンは、神が選ばれたただひとりの者であるが、まだ若く、力もなく、この仕事は大きい。この城は、人のためでなく、神である【主】のためだからである。

 ソロモンはまだ若く、力もないとダビデは言いました。しかも神殿は人のためではなく神である主のために建設するものです。これは、とても恐れ多いことです。まだ未熟なソロモンにとっては余りに荷が重いことでした。そこで2節、

29:2 私は全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした。すなわち、金製品のための金、銀製品のための銀、青銅製品のための青銅、鉄製品のための鉄、木製品のための木、しまめのう、色とりどりのモルタルの石の象眼細工、あらゆる宝石、大理石をおびただしく用意した。

 そしてさらに、3節、4節、5節で自分が用意した品々についてダビデは述べました。そうして5節の終わりで、このように付け加えました。

「そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、【主】にささげる者はないだろうか。」
 ダビデはこう言って、全集団に問い掛けました。すると、6節、7節、8節、

29:6 すると、一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊、百人隊の長たち、王の仕事の係長たちは、みずから進んで、
29:7 神の宮の奉仕のために、金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントをささげた。
29:8 宝石を持っている者は、これを【主】の宮の宝物倉にささげ、ゲルション人エヒエルの手に託した。

 このように民は自ら進んで捧げ物をしました。9節、

29:9 こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで【主】にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。

 私たちの教会でも、多くの捧げ物があって、隣の土地を買うことができ、今は新しい礼拝堂の建設に備えることができていますから、本当に感謝なことだと思います。

すべては神の御手から出たもの
 このように捧げ物があったことについて、ダビデは喜び、主をほめたたえました。ここから、きょうの聖書箇所に入ります。少し飛ばして13節と14節、これはダビデが主に向かって言ったことばです。

29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

 「すべては神の御手から出た」とダビデは言いました。そして16節で、もう一度、同じことを言っています。

29:16 私たちの神、【主】よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

 教会の集会で献金をした後の感謝祈祷でも、「神様からいただいたものの一部をお返ししました」という表現をよく使います。すべては神の御手から出たものであり、いま私たちが持っているものも、すべて神様のものです。ですから献金や献品は単にそれらを神様にお返しするに過ぎないのだということを覚えておくことは、とても重要なことだと思います。ただ、特に大人になってから信仰を持った人の場合は、このように考えることは、なかなか難しいことのように思えます。
 たとえば私は40歳を過ぎてから信仰を持ちましたから、神様にすべてを捧げたつもりではいても、自分の持ち物もお金も全部神様の物だと心の底から納得するのは、そんなに簡単なことではありません。いちおう自分の私物もありますし、自分の貯金もあります。これらの物が全部神様のものであると思うことは、子供の頃からクリスチャンであった方には難しいことではないかもしれませんが、私のように就職して自分で給料をもらうようになった、その後で信仰を持った者にとっては、すべてが神様の物と思うことは、なかなか難しいことです。
 どう難しいかと言うと、もしすべてが神様のものなら、自分の貯金も全部捧げなければならないのだろうかという疑問が湧きます。でも、すべてを捧げて無一文になったら現実問題として生活ができなくなります。では、どれくらい残して、どれだけ捧げれば良いのか、線をどこで引いたら良いのか。いちおう十分の一という目安はありますが、十分の九を自分が所有していて、果たして全部神様の物などと言えるのだろうか、などと色々悩んでしまいます。

神から預かった物を増やして返す
 この問題をどうクリアしたら良いのか、私は少し悩んだ時期がありました。しかし、今では次のように考えています。それはマタイの福音書のたとえ話の中に出て来る、神様から5タラントと2タラントを預かったしもべたちのように考えれば良いのだろうということです。
 マタイのその箇所を見てみましょう。マタイ25章の14節から17節までを交代で読みましょう。

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

 ここから学べることは、いま自分が持っている物はすべて神様からお預かりしている物であるということです。そしてそれは、単に預かっている物をそのまま返せば良いのではなく、増やして返すべき物なのだということです。ですから自分がいま持っているお金も、もっと増やして神様にお返しすることができるように預かっているのだと考えれば良いのだと思います。
 私たちが日々必要とするお金は、食べ物や着る物だけでなく、本を読んだり講演を聞きに行ったりして学ぶための費用も必要です。学んだことを生かして伝道に役立てることができたら、それは大変に良いお金の使い方だと思います。学ぶとは単に聖書や本を読んで学ぶということでなくても、例えば楽器を習うことにお金を使うなら奏楽で役に立てるかもしれませんし、パソコンを習うことにお金を使うならインターネット伝道の役に立てるかもしれません。また料理を習えば教会の交わりの役に立てるでしょう。
 いずれにしても、いま自分が持っている物はすべて、将来もっと増やして神様にお返しするために持ち、使っているのだと考え、それをどう増やして返すことができるかを一生懸命に考え、工夫することが大事だと思います。
 以前から皆さんにお伝えしている通り、私自身はヨハネの福音書がどういう書であるかを多くの方々に知ってもらうにはどうしたら良いかを、日々悪戦苦闘しながら様々に考えています。神様は私にヨハネの福音書がどういう書であるかを教えて下さいましたから、私は私なりに理解しています。しかし私が理解した通りに他の人々に伝えようとしても、なかなか伝わりません。それで私は様々にああでもない、こうでもないと悪戦苦闘しているわけです。でも、そうやって工夫を重ねることで、やがては神様が私に預けて下さったヨハネの福音書に関する知識を多くの方々に広くお伝えするという形で神様にお返しできる日が必ず来ると信じています。いま取り組んでいる原稿も、あと少しの所まで来ていますから明後日までには完成させる予定です。今回の原稿が用いられるように、お祈りいただけたらと思います。

おわりに
 私たちの一人一人が、いま神様からお預かりしている物をどうやったら増やしてお返しすることができるのか、それぞれが祈りつつ考えて行きたいと思います。そうして一人一人が頑張るべきことを頑張り、また私たちが一つになって取り組むべきことは御霊の一致を保って一つになって進めて行くことができるなら、神様は必ずこの教会を祝福して下さいます。そして神様は「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言って下さるでしょう。
 最後にマタイの福音書25章の19節から21節までを交代で読みましょう。21節はご一緒に読みます。

25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 お祈りいたしましょう。
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《人工知能の支配》に向かう人類(2016.5.18 祈り会)

2016-05-20 00:38:33 | 祈り会メッセージ
2016年5月18日祈り会メッセージ
『《人工知能の支配》に向かう人類』
【ヨハネ4:23】
 
はじめに
 先聖日はペンテコステ礼拝の幸いな恵みをいただけて感謝でした。
 最近の私は何度も話しているように、聖霊の働きには時間を越えた永遠を感じさせる働きがあることを、もっと広く知ってもらえるように頑張らなければならないと強く感じています。そして、ペンテコステの日の日曜日の晩にNHKで放送されたNHKスペシャルを見て、なお一層そのことを強く感じましたので、きょうはその話をさせていただきます。

《人工知能の支配》に向かう人類
 日曜日の晩に見たNHKスペシャルは「人工知能」についてでした。人工知能の研究がどこまで進んでいて、これからどこへ向かおうとしているかを、将棋棋士の羽生善治さんが研究現場を取材するというものでした。番組の構成としては、今年話題になった囲碁のコンピュータ・プログラムのアルファ碁と韓国のイ・セドル棋士との対戦を軸にして進められました。そして羽生さんがこのアルファ碁を開発したロンドンのグーグル・ディープマインド社や、対話型ロボットを開発している日本のソフトバンクの研究所などを訪問して、開発者とやり取りする場面などが放映されました。その他、いま人工知能の最新の成果が実際にどのように生活の場で活用されていようとしているかなども紹介されていました。
 そして番組を見終わって私は、これは大変なことになっていると思いました。それは、このままでは近い将来、人類の大半が《人工知能の支配》の下に入ってしまうと思ったからです。これは本当に危険なことです。もし人類の大半が《人工知能の支配》の下に入ってしまったら、私たちが《天の支配》の下にあることが、ますます見えにくくなってしまいます。
 少し前の祈祷会で私は、今の人間は《時計の支配》の下に入ってしまっていることを話しました。このことにより、私たちが《天の支配》の下にあることが非常に見えにくくなってしまっています。一番上には《天の支配》があるわけですが、天と私たちとの間に《時計の支配》が挟まってしまっていますから、《時計の支配》の上に《天の支配》があることが非常に見えづらくなっています。

《時計の支配》の恐ろしさ
 この《時計の支配》の恐ろしいところは、私たちが知らない間に時計に支配されてしまっていることです。私たちの時間は太陽の動きで決めています。このことが、ちゃんとわかっている間は時計に支配されてはいません。しかし、日本標準時というのがあって、日本では兵庫県の明石市がある東経135度の太陽の位置を基準にして時刻が決められています。すなわち明石市で太陽が真南にある時が昼の12時です。ですから東日本では太陽が真南に来た時にはまだ12時になっていなくて、真南を過ぎてからようやく12時になります。ただし真南の方向がどちらなのか、正確に知っている人は少ないと思いますから、このことを気にする人はいないでしょう。しかし、昼ではなくて日の出の時間や日の入りの時間になると違いが良くわかります。西日本に行くと、夏なら夜の8時近くまで明るかったりします。すると大抵の人は、「西日本は日が暮れるのが遅いな」という感想を持つでしょう。私も西日本にいる時は、「日が暮れるのが遅いな」という感想を持っていました。しかし、これは時計に支配されている者の感想です。本来は「西日本は時計の針を東日本よりも進めているのだな」という感想を持つべきでしょう。これが時計に支配されていない者の感想です。私たちは《天の支配》の下で時計を支配しており、時計の針を進めたり遅らせたりします。しかし、いつの間にか自分たちが時計の針を進めたり遅らせたりしたことを忘れて、時計の針に支配されてしまうようになりました。
 日本の時刻が昔のように単純にそれぞれの地域の太陽の位置で決められてバラバラだったら現代においては非常に不便ですから、日本標準時が定められていることは良いことです。しかし、私たちはちゃんとそれを理解して時計の針を進めているとか遅らせているということを、頭の片隅に置いておくべきです。それが、いつの間にかそのことを忘れて、西日本に行った時に遅い時間でも明るいのを見ると、西日本は日が暮れるのが遅いのだななどと思ってしまうのでは、時計に支配されてしまっていることになります。これは非常に危険なことです。なぜなら時計は人間が作った人工の物だからです。人間が作った人工物に支配されているうちに人間は知らず知らずに、万物は神が創造したものであることを忘れ、その結果、創造主としての神様などいないと多くの人が思うようになってしまいました。特に日本人の場合には、サッカーの神様とか野球の神様というような役割分担がある神様の存在は信じても、万物を創造した創り主のことは信じない傾向があると思います。

魔の手はすぐ近くに
 このように私たちの大半は既に《時計の支配》の下に入ってしまっていますから、今のままであれば、《人工知能の支配》の下に入ってしまうのも時間の問題だろうと思います。その魔の手は、日常的にスマホやパソコンを使っている人には既に届いていて、今やほとんど支配下に入っていると言っても良いのだろうと思います。そのことを私はパソコンの画面に現れる広告で強く感じます。
 インターネットを利用していると、いつも横の方に広告が現れますが、今の広告の多くはパソコンを利用している人のニーズに合うようにしています。例えば私は去年の今頃は土地の値段について色々と調べていました。沼津地域の不動産の物件情報をパソコンで頻繁に見ていました。すると、その閲覧履歴から私が不動産に興味があると判断されて、不動産情報が優先的に表示されるようになります。ただ、今はもう物件情報を得る必要がなくなりましたから、ぜんぜん見ていません。それでも私がパソコンでインターネットを利用していると不動産情報の広告が、よく表示されます。私は自分のパソコン上の閲覧履歴は消去しましたから、私のパソコンは記憶していないと思うのですが、どこか外部で私の閲覧履歴を保存している場所があるのだろうかと思います。
 ただ、不動産情報に関しては購入するにしても一生に何回もあるものではありませんから、その広告に踊らされることもないのだろうと思います。しかし、たとえば書籍など、比較的購入し易いものだと事情は違います。一頃私はアメリカのアマゾンのサイトでヨハネの福音書の注解書を買い漁っていた時期がありました。すると、こっちが調べもしないのに、アマゾンの方から、こういうヨハネの注解書がありますよと言って頻繁に知らせて来るようになりました。そうすると欲しくなって買ってしまいます。そうして私はかなりの数のヨハネの福音書の英語の注解書を買いました。

悪意を持った誘導の危険
 こうやってそれぞれのユーザーが何に関心を持っているかを分析して様々な提案をして来ることも人工知能の働きの一つです。この提案型の人工知能の働きのことを私はとても恐ろしいことだと感じています。それは、悪意を持って人をある方向に誘導することも可能だろうと思うからです。例えば私がある政治団体に関する情報を良く見に行っているとします。それは私がその政治団体を支持しているからかもしれませんし、支持していないから悪い材料を探しに行っているのかもしれません。しかし、私がその政治団体を支持しているか支持していないかは閲覧履歴を分析すれば、だいたい分かってしまうことでしょう。すると、その政治団体に敵対する勢力が私に対してパソコンを通して巧みにその政治団体が嫌いになるように誘導することも可能だろうと思います。もしかしたら、そういうことは現実に秘かに行われているかもしれません。
 このようにスマホやパソコンを通して人をある方向に誘導することは、これらの機器をあまり利用しない年配の方々に対しては、そんなに心配する必要はないと思います。しかし、今の若い人の大半は、いつもネットとつながっていますから、既に人工知能の支配下に入ってしまっているかもしれません。
 NHKスペシャルでは中国の青年が、対話型のスマホのアプリを利用して悩み事を聞いてもらっていることも紹介されていました。この青年の心は既に人工知能に支配されてしまっています。今のところ、このコンピュータとの対話のプログラムに悪意は混入していないと信じますが、悪意を持ってこの青年の心をコントロールすることも既に可能な段階になってしまっていると思います。

《天の支配》が見えなくなる危険
 このような《人工知能の支配》の危険から人間を守る働きは、今すぐ行わなければ大変なことになるでしょう。ですから、今がその時です。《人工知能の支配》から人を守るには、先ずは私たちが《時計の支配》の下に入ってしまっていることを認識する必要があると思います。そのためには、ヨハネの福音書のことを知ってもらうのが一番だろうと思います。
 私は最近まで、ヨハネの福音書とはどういう書かを広める働きは腰を据えてゆっくりやるべきなのかなと思っていましたが、そんな悠長なことは言っていられないと今回のNHKスペシャルを見て思いました。いま急いで働かないと大変なことになります。
 これまで何度も話して来たように、ヨハネの福音書の背後には【旧約聖書の時代】と【使徒の時代】とが重ねられています。イエスさまがガリラヤに行く途中でサマリヤ地方を通ったヨハネ4章には列王記第一17章の預言者エリヤの時代と使徒の働き8章のピリポのサマリヤ伝道の時代とが重ねられています。しかし、聖書は世界のベストセラーと呼ばれるほどに多くの人が読んでいるにも関わらず、ヨハネの福音書は紀元30年ごろのイエスさまの言動について記した書であると思い込まれています。それは私たちが《時計の支配》の下に入ってしまっているからです。東日本の人が西日本に行った時に、西日本では日が暮れるのが遅いのだなと思うのは、《天の支配》ではなく人間の《時計の支配》の下で西日本を見るからです。同様にヨハネの福音書も《天の支配》ではなく人間の《時計の支配》の下で読むなら、これは紀元30年頃の出来事として読んでしまうことになります。
 これは大したことではないようでいて、実は《天の支配》が見えなくなっているという重大なことが起きています。

今がその時
 きょう最初にご一緒にお読みしたヨハネ4章の23節を、もう一度、ご一緒に読みましょう。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 ここでイエスさまは「今がその時です」とおっしゃっています。「今」とはいつのことでしょうか。それは、この福音書の読者にとっての「今」です。ですからヨハネの福音書が書かれた1世紀の終わりの読者にとっての「今」は1世紀の終わりですし、21世紀の現代の私たちにとっては21世紀の現代が「今」です。しかし、ヨハネの福音書の読者の多くは、先ずは紀元30年が「今」だと思って読むことでしょう。その後で21世紀の「今」のことを感じもすると思いますが、先ずは紀元30年と思うでしょう。けれどもヨハネの福音書の霊的なイエスさまは先ず何よりも真っ先に、読者の「今」に語り掛けています。ですから紀元30年のことは後から考えるべきで、先ずは21世紀の「今」のことを考えるべきです。
 ヨハネの福音書がこのような書であることを知らせる働きを、私は正に「今」やらなければならないと強く感じています。そうして人々に《時計の支配》から抜け出して《天の支配》の下に帰るようにお勧めし、《人工知能の支配》の下に入ってしまうことを防がなければなりません。

おわりに
 このことを私は皆さんにもご理解いただき、ご一緒に働きたいと願っています。私たちの教会は、《エジプトの支配》から人々を救った神様の下で働いていたモーセやアロンのように、神様にお仕えしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5月22日礼拝プログラム

2016-05-20 00:25:45 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月22日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第4聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花         55
 交  読  詩篇61篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  雨をふりそそぎ       308
 聖  書  Ⅰ歴代誌29:13~19
 説  教  『すべては神の御手から出たもの』 小島牧師
 讃 美 ④  主は私を救うために     457
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聖霊が注がれた者の役割(2016.5.15 ペンテコステ礼拝)

2016-05-15 15:36:50 | 礼拝メッセージ
2016年5月15日ペンテコステ礼拝メッセージ
『聖霊が注がれた者の役割』
【Ⅰ列王記17:8~16】

はじめに
 きょうの礼拝はペンテコステ礼拝です。イエス・キリストが復活してから五十日目の五旬節の日、すなわちペンテコステの日に、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれました。そして弟子たちが力強い宣教を始めたことが使徒の働きの2章に記されています。その日、まずペテロやヨハネなど、エルサレムにいたガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれました。そうして、聖霊の力を得たペテロはエルサレムにいたユダヤ人たちにイエス・キリストを力強く宣べ伝えました。使徒の働き2章は、この日3千人ほどが弟子に加えられたと記しています(使徒2:41)。

イエスの証人になる力を与える聖霊
 今話したように弟子たちが宣教を力強く推進することができたのは、聖霊によって力を得ていたからですね。有名な使徒の働き1章8節に書いてある通りです(週報p.3)。

1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 これはイエスさまのことばですから、イエスさまのことば通りに弟子たちは聖霊の力を受けて、イエス・キリストの証人になりました。
 聖霊の働きは「御霊の実」や「御霊の賜物」など、いろいろな形になって現れます。しかし私は聖霊の働きは使徒1:8に凝縮されており、これに尽きると思います。即ち、「イエス・キリストの証人になる力を得ること」です。「御霊の実」とはガラテヤ人への手紙5章に書いてある通り(週報p.3)、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)です。これらはイエス・キリストご自身が持つご性質と言えます。ですから私たちの内に聖霊が入って御霊の実を得ると、私たちはキリストの香りを放つことができます。そうして、ペテロのような力強い説教はできなくても、キリストの香りを放つことでイエス・キリストの証人になることができます。
 また「御霊の賜物」は教会を建て上げ、教会を運営して行くために私たち一人一人に与えられた賜物です。私たちにはそれぞれ異なる賜物が与えられていて、皆が力を合わせて教会活動を行います。第一コリント12章5節から7節には、次のように書いてあります(週報p.3)。

12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

 牧師の私は説教はしますが、ピアノを弾くことはできませんし、料理も得意ではありません。掃除もそんなに得意ではありません。しかし、この教会にはそれらが得意な方々がいます。このようにして私たちは力を合わせて教会を運営して行きます。それは地域の方々に教会に来ていただき、イエスさまの証人である私たちを通してイエスさまのことを知っていただくためです。
 このように、御霊の実も御霊の賜物も全部、私たちがイエスさまの証人になることへとつながって行きます。ですから聖霊の働きはイエスさまが使徒の働き1章8節で言われたことに尽きると言えるでしょう。

聖霊が与えられると霊的なイエスに出会える
 そして聖霊の働きにはまた、別の大きな働きがあります。それは私がこの教会でいつも語っている、私たちに永遠を感じさせる働きです。イエス・キリストは時間を超越した永遠の中に存在します。聖霊が与えられると私たちはこの時間を越えた永遠の中にいる霊的なイエスさまとお会いすることができ、お会いすることで私たちの魂も永遠を感じることができ、魂の平安が得られます。
 そのように聖霊が与えられると霊的なイエスさまと会うことができるということを学ぶのに最も良いのがヨハネの福音書4章だと私は感じています。このヨハネ4章は、この教会ではこれまでに何度も開いて来ましたが、先週の祈祷会でもまた開いて、ペンテコステの日への備えとしました。開いたのはヨハネ4章の後半です。ここでイエスさまはサマリヤの町の人々に会いました。簡単に見ておきましょう。ヨハネ4章29節と30節を、先ずお読みします。

4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 ここではイエスさまに出会ったサマリヤの女が町の人々に「来て、見てください」と言い、町の人々がイエスに会いに行ったことが書かれています。次いで少し飛ばして39節、

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

 ここにはサマリヤの町の人々が女の証言によってイエスを信じたと書かれています。これは、ものすごく重要なポイントです。

イエスに出会う前に他人の証言を信じる必要がある
 町の人々は、まだイエスさまに会う前に女のことばを聞くことだけでイエスさまを信じました。すると、どうなるでしょうか。イエスさまを信じると聖霊が注がれます。そして聖霊の働きによって、心の中で霊的なイエスさまと出会うことができます。そして霊的なイエスさまと交わることができるようになります。次に42節、

4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 こうして町の人々は、イエスさまがキリストであることを霊的に知ることができました。このヨハネ4章の後半は、普通に読めば地上生涯のイエスさまがサマリヤの町の人々と会った出来事として読むでしょう。しかし、ここには現代の私たちがイエスさまに出会うためには、どうしたら良いかということが書かれています。私たちは地上生涯のイエスさまには決して会うことができません。しかし、霊的なイエスさまには会うことができます。そのためには、先ずは他の人の、イエスさまに出会ったという証言を信じることが必要です。それは教会の人の証言でも構いませんし、聖書に書いてあることでも構いません。そうして先ず他の人の証言を通してイエスさまを信じると聖霊が注がれて、心の中でイエスさまと出会い、交わることができるようになります。このようにしてサマリヤの町の人々は、心の中でイエスさまと出会うことができるようになりました。そして現代の私たちもイエスさまを信じるなら、イエスさまと出会うことができます。
 心の中でイエスさまと交わることができるということは、その人の内にイエスさまが入って下さったということです。これは、旧約聖書の時代でも、使徒たちの時代でも、現代でも変わりません。なぜならイエスさまは時間を越えた永遠の中にいるからです。しかし、聖書の読者の多くは、イエスさまと言えば紀元30年頃のイエスさまを自動的に思い浮かべるようになってしまっていると思います。その結果、ヨハネの福音書4章の豊かな恵みを受け取り損ねています。いまご一緒に見た箇所では、使徒の時代のサマリヤ人たち、そして現代の私たちが霊的なイエスさまと出会う恵みについて学ぶことができるようになっているのに、聖書の読者の多くは、その恵みを受け取り損なっていると思います。これは、とても残念なことです。

エリヤの内にいた霊的なイエス
 ヨハネの福音書の前半についても同様です。きょうの聖書交読でご一緒に交代で読んだ箇所の、イエスさまがサマリヤの女に水を飲ませて下さいと頼んだ箇所は、旧約聖書の時代のエリヤがやもめに水を飲ませて下さいと頼んだ箇所と重ねられています。このように旧約の時代にも霊的なイエスさまがいることを意識することで、私たちはさらに多くの恵みをいただくことができます。きょうの残りの時間では、この箇所からいただける霊的な恵みを改めて分かち合うことにしたいと思います。
 北王国の預言者のエリヤには聖霊が注がれていましたから、エリヤの内には霊的なイエスさまがいました。ヨハネの福音書の前半からは、このことを読み取りたいと思います。そうして、今度は列王記のエリヤの箇所を読む時には、エリヤの中には霊的なイエスさまがいることも意識して読んでみたいと思います。特にきょうの箇所では、イエスさまがサマリヤの女に「永遠の命への水」の話をしたことを意識して読むと、多くの恵みをいただけると思います。まずヨハネ4章のその箇所を見ておきましょう。ヨハネ4章の13節と14節です。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 
 この箇所を頭に入れておいて列王記第一の17章を読むと、さらに多くの恵みがいただけます(旧約聖書p.614)。
 まず1節のエリヤのことばを見ておきましょう。

「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

 こうして、エリヤのこの時代の北王国では雨が降らずに日照りが続くことになりました。そのため旱魃の被害で作物もできず、食料を蓄えたり買ったりできない貧しい人々は特に困窮していました。エリヤが水とパンを頼んだやもめも、わずかな食料しか残っておらず、餓死寸前でした。12節、

17:12 彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

 これほど食べ物に困っていたやもめの女に対してエリヤは、最後の粉と油を使い切ってエリヤのためにパン菓子を作るように言いました。使い切って何も無くなった後は、神様が粉と油を与えて下さると言うのです。それはつまり、あなたの食べ物のことも、家族のことも、そしてあなたと家族の命も、全部丸ごと神様に委ねなさいということです。そうしてエリヤのことばを信じて全てを神様に委ねるなら、あなたは救われますよということです。このように語るエリヤの中には霊的なイエスさまがいますから、エリヤがやもめに語ったことばは霊的なイエスが語ったことばだということです。
 そして、15節、

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

ここには、やもめの彼女が「エリヤのことばのとおりにした」とあります。それはイエスさまのことばの通りにしたということであり、つまりイエスさまを信じたということです。16節、

17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 このかめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったという記述は、ヨハネ4章でイエスさまがサマリヤの女に言った、

4:14 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

というおことばの中の、永遠の命への水が湧き出るということと良く重なると思います。

不信仰な世で苦しむ人々に近づくイエス
 この列王記第一のエリヤの時代は、アハブ王の時代でした。アハブ王は不信仰であった歴代の北王国の王たちの中でも、飛びぬけて不信仰な王でした。列王記第一16章の29節から33節には、次のように書かれています。

16:29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年間、イスラエルの王であった。
16:30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも【主】の目の前に悪を行った。
16:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
16:32 さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。
16:33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、【主】の怒りを引き起こすようなことを行った。

 このような不信仰な王の下で暮らさなければならなかった人々、とりわけ、貧しいやもめのような立場の人々は本当に不幸でした。このような不信仰な世で苦しむやもめにエリヤ、すなわちイエスさまは近づき、尽きない恵みをお与えになりました。
 そして現代の私たちが生きる世界もまた、不信仰であることを私たちは知っています。霊的に目覚めていない人々が多くを占めていて、神を恐れないで勝手なことをしています。その結果、この世は悪いことばかりが溢れているという気がします。このような中で、多くの人々は苦しんでいます。
 このような世にあってもイエスさまは、苦しんでいる人々に近づいて行きます。そして私たちの中にもまたイエスさまがおられますから、私たちも苦しんでいる人々を助けなければなりません。ただし一人一人にできることは限られていますから、教会を形成してそれぞれに与えられた賜物が生かせるように助け合いながら、地域の方々にイエスさまを宣べ伝えます。

おわりに
 列王記第一17章で私たちは、やもめがエリヤのことばの通りにして、尽きない恵みを受けたことを学びました。これは、これまでも学んで来たことです。私たちは、私たちが神様の恵みを受けていることは繰り返し学んで来ました。しかし、これからは、苦しんでいる人々に声を掛け、助けたイエスさまが私たちの内にもいることも、同じぐらい学んで行きたいと思います。
 聖霊を受け、イエスさまが内にいる私たちは、イエスさまがそうされたように、不信仰な世で苦しんでいる人々に声を掛けたいと思います。そして、この教会に地域の方々をお招きして、イエス・キリストが与えて下さる尽きない恵みを共に分かち合うことができるようになりたいと思います。
 ペンテコステの日のきょう、このことを共に考えることができたことに感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
4:14 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
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聖霊について深く学ぶ<中>(2016.5.11 祈り会)

2016-05-12 22:23:20 | 祈り会メッセージ
2016年5月11日祈り会メッセージ
『聖霊について深く学ぶ(中)』
【ヨハネ4:27~42】

はじめに
 きょうは5月11日です。ちょうど1ヶ月前の4月11日に、アメリカのケリー国務長官などG7の外相が広島の平和公園を訪れて慰霊碑に献花しました。それからちょうど1ヶ月になろうとする昨晩、アメリカのオバマ大統領がサミット後の今月27日に広島を訪問することになったというニュースが報じられました。そうなるであろうことは既に様々なメディアが報じていましたが、大統領側からの発表があるまでは私は少し落ち着かない気分でいました。しかし昨日は大統領の報道官が記者会見で公にしたということです。このニュースを聞いて、いよいよ時が満ちて来たなと私は感じています。そして、このニュースがペンテコステに向けて心を整えている時期に報じられたことを感謝しています。
 このところ話しているように平和のためには、私たちはもっと聖霊について深く理解する必要があると私は最近強く感じています。そういう思いで、ペンテコステの日への歩みの中で聖霊の学びをしています。

聖霊を受けたサマリヤ人たち(使徒8章)
 そこで、既に祈祷会や礼拝で何度も開いている箇所ですが、ヨハネ4章は聖霊の学びをするために私は最適であると考えていますから、きょうはそのヨハネ4章の27節から42節の学びを、じっくりしたいと思います。そのための準備として先週は、この箇所に重ねられている使徒の働き8章をご一緒に見ました。きょうも最初に、ごく簡単に使徒8章を見ておきたいと思います。
 8章5節にあるように、ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えました。そして12節にあるように、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けました。しかし16節にあるように、彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからです。それでエルサレムからこのサマリヤに遣わされたペテロとヨハネが15節にあるようにサマリヤの人々が聖霊を受けるように祈り、17節にあるようにサマリヤ人たちの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けました。

霊的なイエスと出会ったサマリヤ人たち(ヨハネ4章)
 以上の使徒の働き8章のサマリヤ人が聖霊を受けた記事を頭に入れた上で、ヨハネ4章の27節から42節までを、ご一緒に見ましょう。

◇27節 
 「弟子たちが帰って来て」は、使徒8章のサマリヤの現場にペテロとヨハネが来たということです。それまでペテロとヨハネはピリポが伝道していた現場にいませんでしたが、この現場にやって来ました。
 「イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った」には丁寧な説明が必要です。まず「イエス」は霊的なイエスさまで、「女の人」とはピリポのことです。ここではピリポがイエスさまと霊的な会話をしていました。そしてペテロとヨハネが「不思議に思った」のは、霊的なイエスさまがピリポに、サマリヤで伝道するように話していたからです。つまりピリポは、聖霊の声に導かれてサマリヤに来て、伝道を開始したのでした。当時のペテロたちはまだ、伝道はユダヤ人たちだけにすれば良いと考えていましたから、なぜ混血のサマリヤ人にまで伝道する必要があるのか、不思議に思ったのでした。
 「しかし、だれも、『何を求めておられるのですか』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか』とも言わなかった」のは、ピリポと霊的なイエスさまとの会話は霊的な会話だからです。これはピリポの心の内側での聖霊との個人的な会話ですから、他人が外から割り込むことはできません。
◇28,29節
 「女は、・・・人々に言った」は、ピリポがサマリヤの人々にイエスさまのことを教えたことを示します。そして「来て、見てください」は、教えを聞いた側が関心を持ってイエスさまに近づくことを勧めています。これを現代に置き換えると、教会のホームページやチラシを見たり、知り合いに教会に誘われた人がそれに応答して自分の意志で教会へ行くことです。そうして自分からイエスさまに近づいて行くと、魂への語り掛けが微かに聞こえるようになります。そして自分の中で「この方がキリストなのでしょうか」ということについて考え始めるようになります。ただし、この段階ではまだ霊的なイエスさまに出会うことはできません。霊的なイエスさまに出会うためには、出会う前に先ず女が言うことを信じなければなりません。その女とは、使徒8章の場合はピリポです。ですから「見ずに信じる者は幸い」なのです(ヨハネ20:29)。
◇30節
 「そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た」のは、サマリヤの人々が女(つまりピリポ)の言ったことを信じたからです。彼らには霊的な世界で魂の平安を得たいという強い願望があったのですね。これに対して現代人の多くは、自分の心の奥底に魂への飢え渇きがあることに気付いていません。私たちは、これらの人々をイエスさまの御許にお連れすることができるように、様々に工夫して働きたいと思います。
◇31~34節
 ここでイエスさまが「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と弟子たちに言ったのは、ここにいるのは霊的なイエスさまだからです。「わたしを遣わした方」とは天の父のことで、父の御心を行い、御業を成し遂げることが霊的なイエスさまの活力源です。
◇35~39節
 この35節の「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか」から始まる一連のイエスさまのことばは、使徒の働き8章のピリポがサマリヤ伝道の種まきをしたことが念頭にあって初めて深く理解できることです。イエスさまは弟子たち(ペテロとヨハネ)に「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言いました。これはピリポのことばを信じたサマリヤの人々が聖霊を受けるばかりになっているということです。
 「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました」。労苦したのはピリポです。ペテロとヨハネは単にサマリヤ人たちの上に手を置くだけで、彼らは聖霊を受けました。聖霊を受けた者はイエスさまの弟子となり、キリスト教会の教会員となります。そのようにしてペテロたちは、労苦の実を得ています。
◇39節
 「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った』と証言したその女のことばによってイエスを信じた」。
 イエスさまは神の子キリストですから、女がしたこともピリポがしたことも私たちがしたことも、全部知っています。そしてイエスさまが神の子キリストだと信じた者は聖霊を受けます。すると霊的なイエスさまと会話ができるようになります。
◇40節
 「そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された」。ペテロとヨハネが手を置いたことで聖霊を受けたサマリヤ人たちは、心の内でじっくりと霊的なイエスさまと会話をすることができるようになりました。
◇42節
 「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです』」。
 このサマリヤ人たちのことばは、聖霊を受けるとはどういうことかを学ぶ上で、とびっきり重要なことばです。地上生涯のイエスさまが生きていた時には、イエスさまがいる所に行けば誰でも、イエスさまが神の子キリストだと信じていなくても、イエスさまと会うことができました。しかし、【使徒の時代】の霊的なイエスさまは目に見えないので、イエスさまと出会うためには聖霊を受ける必要があります。聖霊を受けるには、まだイエスさまと出会っていない段階で、他人の証を聞いて信じる必要があります。その証は既に霊的なイエスさまと出会っている人の話でも良いですし、聖書に書いてあることをそのまま信じても良いです。ただし聖書はそんなにわかりやすくはないですから、やはり既に霊的なイエスさまと出会っている人から直接話を聞くのが良いでしょう。そうしてイエスさまを信じて聖霊を受けるなら、霊的なイエスさまと会話ができるようになります。そうすれば、もう他人が話したことによって信じるのではなく、「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」と確信することができます。

聖霊を受けると会える霊的なイエス
 以上、使徒の働き8章とヨハネの福音書4章のからわかることをまとめると、次のように言えます。
 イエスさまを信じた人が聖霊を受けると、その人は霊的なイエスさまと出会うことができます。それは、霊的なイエスさまがその人の内に入ったのと同じことです。
 これが聖霊の働きです。
 私たちは、イエスさまを信じた人の内にはイエスさまが入って下さるということを教わって知っています。しかし、使徒の働き8章と重ねられたヨハネ4章ほど、イエスさまが私たちの内に入って下さることを生き生きと示している箇所は、他には無いだろうと思います。しかし残念なことに、このヨハネ4章27節から42節までが使徒8章のサマリヤ人が聖霊を受けた箇所と重ねられていることは知られていません。
 それは、皆があまりに「時計の時間」に縛られていて、ヨハネ4章のこの記事は「イエスさまの地上生涯のこと」と思い込まれているからです。それゆえに聖霊の働きが、もう一つ把握できずにいて、私たちは平和の働きなどにおいて、まだまだ主のお役に十分に立てていないことを感じています。

おわりに
 しかし、平和のための働きの時がいよいよ満ちて来ていると私は感じています。ペンテコステの日に向けて歩む私たちは、聖霊についてもっと深く理解できるようにして、主のお役に立てるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
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5月15日ペンテコステ礼拝プログラム

2016-05-12 22:14:29 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月15日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第3聖日 ペンテコステ礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                 関姉

 前  奏
 讃 美 ①  御霊は天より        173
 交  読  ヨハネ4:1~14
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  聖霊よ 主のそばに     171
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  Ⅰ列王記17:8~16
 説  教  『聖霊が注がれた者の役割』 小島牧師
 讃 美 ④  あなたの平和の       485
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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そこに、あなたの母がいます(2016.5.8 母の日礼拝)

2016-05-09 17:36:18 | 礼拝メッセージ
2016年5月8日母の日礼拝メッセージ
『そこに、あなたの母がいます』
【ヨハネ19:23~27】

はじめに
 きょうは5月の第二聖日ですので、母の日礼拝になります。きょうのメッセージのタイトルは『そこに、あなたの母がいます』で、聖書箇所はヨハネ19章のイエスさまの十字架の箇所です。十字架に付けられたイエスさまは、母のマリヤに、「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言い、それから愛弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言いました。
 十字架のイエスさまがこのようなことを言ったことを書いているのはヨハネだけです。マタイ・マルコ・ルカは書いていません。そもそもマタイ・マルコ・ルカは、女たちは十字架のそばにはいなくて、遠くから眺めていたと書いています。
 どうしてヨハネの福音書はイエスさまが「そこに、あなたの母がいます」と愛弟子に言ったと書いているのか、実のところ、私はよくわかっていません。私はヨハネの福音書のことをかなり理解していると自負していますが、もちろん全部のことをわかっているわけではなく、わからない所もいろいろとあります。きょう取り上げるイエスさまが『そこに、あなたの母がいます』と言った箇所もそのわからない箇所の一つです。わからない箇所ではありますが、きょうは敢えて取り上げることにしました。
 去年の母の日礼拝は近隣にチラシを配布して、招待礼拝としましたから、私がよくわかっていない箇所から説教をすることはありません。チラシを配布する時には、「教会は初めて」という方が来て下さることを期待しますから、私がよくわかっている箇所をできるだけわかりやすく話すように心がけます。しかし、今年はチラシ配布をしませんでしたから、この母の日の機会に、今まで私が謎に思っていた箇所を取り上げることにさせていただきました。それは、このわからない箇所からの説教の準備をする過程で、もしかしたら答えが与えられてわかるようになるかもしれないという期待があるからです。普段考えている時は、特に期限があるわけではありませんから、わからなければ、そのうちまた考えようということにして、いったん考えることから離れます。しかし、説教のテーマとして取り上げれば、説教の時間が来るまでに何とか答えが与えられないだろうかといろいろと考えますから、格段に集中力がアップします。そういう中で答えが与えられることを期待するわけです。

ヨハネの創作
 では、これからイエスさまの「そこに、あなたの母がいます」について考えて行きますが、まず前提としておくのは、十字架のそばに女たちと愛弟子がいたということはヨハネが創作したフィクションであるということです。もし十字架のそばに女たちと愛弟子とがいたことがフィクションでなくて本当のことだったら、女たちは遠巻きに見ていたというマタイ・マルコ・ルカの記事のほうがフィクションであることになってしまいます。しかし、マタイとマルコはともかく、医者のルカが福音書の始めの部分で、「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実である」と書いています。ですから、ヨハネとルカの記述のどちらが事実であるかと言えば、ルカの書いた記事のほうが事実でしょう。
 ルカの福音書はイエスさまの言動や周囲の人々についての取材をルカ自身が行い、そうして、できるだけ事実に沿って記録することを心がけています。一方、ヨハネの福音書は読者に聖霊について教えて霊的なイエスさまとの出会いを促し、読者が愛弟子として霊的に成長することを期待しています。そのためにヨハネは読者が愛弟子としてイエスさまの十字架をすぐそばで目撃することができるように、場を設定してくれています。
 私もここまでは分かっていますが、ではヨハネはどういう目的で、イエスさまが母に向かって「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言ったという記事を書いたのでしょうか。ヨハネは何を狙ってイエスさまが愛弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言ったという記事を書いたのでしょうか。
 思いを巡らしながら考えたことを、これから2つ話させていただきます。予め言っておくと、一つめは、そんなに大した話ではないので、きょうの話の重点は二つめに置いています。ただ、2つめもそんなに自信を持って言えることではないので、一つめの話も加えて、何とか説教としての体裁を整えようかというものです。初めに話したように、よくわからないことをテーマにしましたから、このようなことになるのですが、この説教をきっかけにして、後々さらに深い答えが得られるかもしれませんし、皆さんのほうで答えが見つかるかもしれません。その時には私に教えてもらえるとうれしく思います。母マリヤの心情に関しては、女性の皆さんのほうが男性の私よりもよくわかると思いますから、神様が女性の皆さんに答えを教えて下さるかもしれません。それを私に教えて下さると感謝に思います。

母と息子の関係を解消したイエス
 では、まず一つめの、私がそれほど重きをおいていない推理のほうから話します。それは、イエスさまが母のマリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言うことで、母と息子との関係を解消したという考え方です。何のために母と息子の関係を解消するかというと、それはヨハネの福音書は、イエスさまの地上生涯のことはあまり重視していないからです。ヨハネの福音書は、地上生涯の人間のイエスさまよりは、【旧約聖書の時代】と【使徒の時代】に存在した霊的なイエスさまを重視しています。そのことを、よりハッキリと示すために母と息子の関係を解消した可能性があると私は考えています。
 ヨハネ2章をご一緒に見ましょう。1節から5節までを交代で読みましょう。

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

 これまで何度も話して来ているように、このヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼の場面の背後には、【使徒の時代】のペンテコステの日のガリラヤ人の弟子たちへの聖霊の注ぎのことが描かれています。ですから、このペンテコステの日より前の十字架の日に母と息子の関係を解消していれば、マリヤはイエスの母ではありませんから、2章4節でイエスさまが母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言ったのは正しいことを言ったことになります。これがもしイエスさまの地上生涯でのことであったら、自分の母親に対して「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」などと言うのは、何と冷たい言い方だろうということになりますが、イエスさまと母マリヤとは、もはや母と息子ではないわけです。
 以上のことは、以前から考えていたことで、今回の思い巡らしの中で考えたものではありません。これはこれで一つの答えになっている気もしますが、これではあまり深みがないので、もっと違う答えがあるのではないかという気がしています。

息子の身代わりになりたかった母
 では次に、今回の思い巡らしの中で考えたことをお話しさせていただきます。
 ヨハネがイエスさまの十字架の場面のすぐそばに愛弟子がいたと書いているのは、先ほども言いましたが、ヨハネの福音書の読者が愛弟子として霊的に成長できるように、イエスさまのすぐそばでイエスさまを霊的に目撃できるように、ヨハネが設定してくれているからです。
 とは言え、私たちは心情的にどれぐらいイエスさまの十字架のことを捉えることができるでしょうか。私たちの罪深さをどれだけ深く感じ取ることができるでしょうか。そしてイエスさまの私たちの愛をどれだけ深く理解しているでしょうか。イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かって下さったということは、私たちは人から教えてもらって初めてわかることです。本来は罪深い私自身が十字架に掛からなければならないものを、イエスさまが私の身代わりに十字架に掛かって下さったということは、誰かに教わらない限り、自分でわかることは、不可能でしょう。その場合、上手に教えてもらえれば、より深く理解できるかもしれませんが、教え方がそんなに上手でなければあまり理解できないことになります。
 その、イエスさまが私の身代わりになって十字架に掛かって下さったことを、最も上手に教えることができるのが母マリヤではないでしょうか。どのような状況であれ、自分の子供が命を落とそうとしている時、母親は自分が身代わりになってあげたいと願うということを聞きます。たとえば自分の子供が重い病気で死のうとしている時、母親は身代わりになりたいと願います。或いは地震や津波で我が子を失った母親は、自分が我が子の代わりに死ねば良かったのにと思うということを聞きます。それは母が我が子を愛しているからです。
 ですから母のマリヤも、十字架に付けられたイエスさまを見て、どうしてそんなことになってしまったのか訳がわからなかったと思いますが、十字架に付けられた理由がいかなる理由であったとしても、自分が身代わりになって十字架に付けられたら良かったのにと思ったのではないかと思います。それは母マリヤが我が子のイエスさまを愛していたからです。
 すると身代わりに十字架に付くということを誰よりもよく理解できたのが、母のマリヤだったということになります。イエスさまは私たちを愛して下さっていますから、私たちの身代わりになって十字架に付いて下さいました。そのことを誰よりもよく理解できたのが母マリヤでしょう。
 そのマリヤを愛弟子は自分の家に引き取り、ともに暮らすようになりました。マリヤは、自分が身代わりになるべきだったと煩悶していたことでしょう。 そしてマリヤのイエスさまへの深い愛を、愛弟子は同じ家にいて痛いほど感じたことでしょう。そして、そこからイエスさまの私たちへの愛、そしてまた神の愛の深さ広さをひしひしと感じたことでしょう。
 イエスさまが十字架から愛弟子に対して、「そこに、あなたの母がいます」と言われたのは、このイエスさまの十字架の愛をより深く愛弟子に学ばせるためではないか、今回私はそのように考えるようになりました。

おわりに
 人の罪の身代わりになるということは並大抵のことではありません。私たちの場合、人の罪を赦すことさえ難しいことです。赦すことさえ難しいのに、人が犯して自分が犯してもいない罪のために身代わりに十字架に付くことなど、もっと難しいことです。しかし、イエスさまは、私たちの罪の身代わりになって十字架に付いて下さいました。それほどイエスさまは私たちを愛して下さっています。
 きょうの母の日礼拝では、このことを母マリヤを通して改めて学びたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
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5月8日母の日礼拝プログラム

2016-05-05 23:03:48 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月8日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第2聖日 母の日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  詩篇139:1~16
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  若葉のもえるナザレの里   106
 讃 美 ③  主とともに罪に死に     312
 聖  書  ヨハネ19:23~27
 説  教  『そこに、あなたの母がいます』 小島牧師
 讃 美 ④  カルバリ山の十字架     120
 献  金
 感謝祈祷                荒川(由)姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聖霊について深く学ぶ<上>(2016.5.4 祈り会)

2016-05-05 19:17:29 | 祈り会メッセージ
2016年5月4日祈り会メッセージ
『聖霊について深く学ぶ(上)』
【使徒8:1~17】

はじめに
 私は平和のためには私たちがもっと深く聖霊について理解する必要があると、最近ますます強く感じるようになっています。そのためには、ヨハネの福音書についての理解を私たちがもっと深めるべきです。ヨハネの福音書は、読めば読むほど聖霊について書かれた書であるという確信が私は深まっています。
 それは一つには、イエスさまご自身が人々に聖霊について教えている場面がいくつもあるからです。イエスさまはニコデモやサマリヤの女に個人的に聖霊について教えましたし、或いはエルサレムの仮庵の祭に集まった人々に対して、そしてまた最後の晩餐の場では弟子たちに対して聖霊について教えました。
 しかし、ヨハネの福音書は、このように表立った場面だけでなく、聖霊(または御霊)という言葉が一言も出て来ない場面においても聖霊とは何かということについて、熱心に教えています。その代表が、ヨハネ4章27節から42節までの、サマリヤの町の人々がイエスさまに出会った箇所です。この箇所には「霊」という文字は一文字も出て来ませんが、この箇所は全部、霊的な話です。この箇所については、この祈祷会や礼拝のメッセージで既に何度も開いていますから、皆さんも御承知の箇所ですが、今回は、この箇所をもっと深堀りしたいと願っています。この箇所を集中的に深く学ぶことで、多くの方々に聖霊についてもっと深く知ってもらえるようになるのではないかと考えるようになりました。ですから今執筆中のヨハネの福音書についての本の原稿も、まず、このヨハネ4章27節から42節までに多くのページを割いて丁寧に説明したいと考えています。
 ただし、この箇所をじっくり学ぶとしたら、この箇所と重ねられている使徒の働き8章もまたじっくりと学ぶ必要があると思います。そこで、きょうはまずは使徒8章を開き、来週ヨハネ4章を開くことにしたいと思います。そうして来週の祈祷会を越えると、その次の礼拝はペンテコステ礼拝ということになります。

ピリポのサマリヤ伝道
 では、きょうは使徒の働き8章を開きましょう。1節から見て行きます。この8章1節の前の7章では、ステパノがユダヤ人たちに石で打たれて殺されたことが記されています。
 では、8章1節と3節までをお読みします。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 次の9章では、サウロが迫害のためにダマスコ方面にまで遠征して行ったことが書かれていますから、サウロはエルサレムだけでなく周辺の町も行き巡ってイエスを信じる者たちを迫害していたようです。しかし、この迫害があったために散らされた人々によってイエスさまの教えが広く伝わるようになりましたから、とても不思議な気がします。その散らされた人の一人がピリポでした。

8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

このピリポは福音書に登場する使徒のピリポではなくて、ステパノと一緒に選ばれた、御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち七名の中のピリポです。6節から8節、

8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。

 このピリポの働きは、マルコの福音書に出て来るイエスさまの働きを思い出させます。ですからピリポは霊的にも優れた能力が与えられた働き人だったことがわかります。さて、ここで話がシモンに飛びます。9節から11節、

8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

 シモンは魔術を使う怪しげな人物でしたが、彼が魔術で人々に超自然的なことに関心を抱かせておいたから、ピリポの伝道も上手くいったという側面もあるかもしれません。何も起きていない所に行って、いきなり人を癒しても、人々は驚くだけで信仰にはつながらなかったかもしれません。それはマルコの福音書のイエスさまを思い出してみても、何となくそんな気がします。

聖霊を受けたサマリヤ人
 しかし12節、

8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。

 こうして、ピリポが説くイエス・キリストについての教えを信じたサマリヤの人々はバプテスマを受けました。しかし聖霊は下っていませんでした。14節から16節まで、

8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 先ほども見たようにピリポは霊的に優れた能力が与えられていた人物でした。そのピリポが説く教えをサマリヤ人たちは信じ、バプテスマを受けたのに聖霊は下らなかったということです。普通はイエスを信じれば聖霊を受けることになっていますから、どうして聖霊が下らなかったのかは謎です。注解書を何冊か見てみましたが、これは不思議なことだとしています。しかし、多くの聖書学者の見解としては、これがサマリヤ人たちという、ユダヤ人以外に最初に聖霊が下った事例であるからエルサレムの初代教会のリーダーであるペテロが立ち会う必要があったのではないかということです。 私も、そうなのだろうなと思います。使徒ではないピリポでは聖霊が下らなくて、使徒のペテロとヨハネが手を置かなければ聖霊が下らないのであれば、現代の私たちにも聖霊が下らないことになります。ペテロとヨハネは2000年前の使徒だからです。
 しかし、私たちは聖霊を受けたことを豊かに感じています。ですから、ペテロとヨハネと会ったことがない私たちにも聖霊は注がれます。そういうわけで、このサマリヤ人への聖霊の注ぎに関しては、ユダヤ人以外の最初の聖霊の注ぎということで本当に特別な事例としてペテロが現場に行くのを待って聖霊が注がれたということで良いのではないかなと思います。
 そして17節、

8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 以上の使徒8章の箇所がヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスさまと出会った箇所と重ねられています。

おわりに
 このヨハネ4章の箇所は来週の祈り会でじっくりと見ることにしますが、最後に一ヶ節だけ、もう何度もご一緒に見ている節ですが、ご一緒に読んで、メッセージを閉じたいと思います。
 ヨハネ4章42節を、ご一緒に読みましょう。

4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 お祈りいたしましょう。
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共におられる主が完成させて下さる(2016.5.1 礼拝)

2016-05-02 23:03:46 | 礼拝メッセージ
2016年5月1日礼拝メッセージ
『共におられる主が完成させて下さる』
【Ⅰ歴代誌28:19~21】

はじめに
 先聖日は、歴代誌第一28章の前半を開きました。きょうは28章の後半に目を留めたいと思います。先週開いた28章の前半では晩年のダビデが息子のソロモンに神殿の仕様書を授けました。復習のために、その部分を交代で読みましょう。28章の11節から13節までを交代で読みましょう。

28:11 ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。
28:12 御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、【主】の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、
28:13 祭司とレビ人の組分けのこと、【主】の宮の奉仕のすべての仕事のこと、【主】の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。

 先週の礼拝メッセージでは最後の13節には特に注目しませんでしたが、礼拝の後の午後の幹事会のショート・ディボーションの時には、この13節について思いを巡らしました。ここには、「主の宮の奉仕のすべての仕事のこと」も仕様書に書かれていたとあります。仕様書には単に箱物としての建物のことだけでなく、人が行う奉仕のことも書かれていたということです。ですから私たちの新しい礼拝堂についても、単に建物のことだけではなく、私たちが建物の中でどのようなご奉仕をするかということについても、思いを巡らせなければならないということです。教会の営みは牧師が説教をするだけでなく、教会の皆さん全員のご奉仕によって成り立っています。今も奏楽やCSなどのご奉仕を皆さんにしていただいていますが、新しい礼拝堂ではもっともっと皆さんと共に、益々喜びを持って様々なご奉仕に当たって行きたいと思います。そのイメージを私たちが共有できるなら、主は必ず、いま私たちに授けられている礼拝堂の設計図の建物を与えて下さることでしょう。

共におられる主が完成させて下さる
 さて、きょうのメッセージで特に注目したいと願っているのは28章の20節です。20節をお読みします。

28:20 それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である【主】、私の神が、あなたとともにおられるのだから──。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、【主】の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。

 神は私たちと共におられます。そして、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させて下さいます。これはダビデの確信ですが、私たちの確信でもありたいと思います。そして単に確信でありたいと願うのでなく、本当に確信したいと思います。
 そこできょうは、ダビデの確信と私たちの確信の両方について検証してみたいと思います。まず私たちの確信について検証し、次にダビデの確信を聖書から見て、最後にもう一度、私たちの確信について確認したいと思います。
 まず、「神が私たちと共におられ、主がすべての仕事を完成させて下さること」についての私たちの確信です。私たちは、この2年間の会堂問題の動きの中で、様々な形で主の御業を見せていただきました。このことについては既に何度も話して来ましたから、きょう改めて話すことはしませんが、今まで為されて来た御業によって隣の土地を取得して新しい礼拝堂の仕様書である設計図を授かるところまで来ましたから、確かに主が共におられることを私たちは確信しています。私たちの力だけではとうてい為し得ないことが為されたのですから、主が共におられることを私たちは確信しています。そして、主がこれらのことを中途半端なままで終わらせる筈はありませんから、主が私たちの会堂の仕事を完成させて下さることを私たちは確信しています。もし、まだ確信できていないとしたら、しっかりと確信できるようにしたいと思います。
 その証となることが、つい最近も起こりました。それは4/17の午後に、強風のために屋根の囲いの一部が破損して脱落したことです。この屋根の囲いが破損したタイミングが、どう考えてもあまりに絶妙すぎます。この屋根の囲いが脱落したのは、ちょうどA兄による説明と意見交換の時が持たれていた時でした。ですからA兄とB兄に助けていただいて応急処置をすることができました。もしこれが集会の日ではなくて私が一人の時だったら、強風の中で一人でハシゴを立てて作業をするのは余りに危険ですから、私は本当に困ってしまっただろうと思います。そうして応急処置ができないでいたら、脱落して宙ぶらりんになった屋根の囲いが隣の建物を破損するなどの悲惨なことにもなりかねませんでした。ですから、4/17の午後で本当に良かったと思います。
 このタイミングは、午前中の礼拝の時でもダメでした。礼拝中では今回のような応急処置はできなかったでしょう。そしてA兄は普段の日にはいません。たまたまA兄がいた日の、しかも礼拝中ではない午後の説明会の時だったので、説明を一時中断していただいて応急処置についてのアドバイスをいただき、実際に手も動かしていただき、しかも業者にも連絡をしていただくことができましたから、翌日には業者が破損した箇所を見に来て下さいました。たまたまA兄がいた日の午後に屋根の囲いが破損したという、このタイミングは、本当に絶妙のタイミングだったと思います。ですから、このことの背後には主がおられることを確信させてくれます。
 今回の破損事故を保険会社では風の災いと書いて風災と呼んでいます。教会が加入している保険に風災が含まれることを私が知っていたこともまた幸いでした。それは前任の教会でも風災があり、保険金を使って修繕をした経験があるからです。前任の教会で牧師の務めをしたのはわずか一年でしたが、このわずかな期間にそのような経験をしていたのは幸いでした。この経験が無ければ風災も保険の対象であることに気付かなかった可能性が大きいと思います。
 そして今回行おうとしている風災の修繕が、破損箇所以外の修繕や物置やバルコニーの撤去をすることの背中を押してくれたことも、感謝なことだと思います。他の箇所の修繕や物置とバルコニーの撤去は以前から必要性を感じてはいても、腰が重くてなかなか取り掛かれなかったことです。これらのすべきことをするように背中を押されたことも感謝なことだと思います。ですから、これらの一連の出来事の背後には主がおられることの確信を私たちに与えてくれます。

ダビデと共にいた主
 次にダビデの確信について検証したいと思います。詩篇23篇からもわかるように、ダビデは主が共におられることを、いつも感じていました。詩篇23篇でダビデは、

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

と詩っています。
 ダビデは数え切れないぐらい多くの危険の中を通りましたが、いつも主が守っていて下さいました。少し前の礼拝でも開きましたが、巨人のゴリヤテとの対戦では主が共にいて下さったので見事に勝利をおさめることができました。また、サウル王に命を狙われていた時にも主がダビデと共におられたので、ダビデは命を落とすことがありませんでした。主がダビデと共におられることは、ダビデの命を狙っていたサウル王自身も感じていました。その箇所を、ご一緒に見てみたいと思います。第一サムエルの18章20節です(旧約聖書p.499)。私のほうでお読みします。

18:20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに知らされたとき、サウルはそれはちょうどよいと思った。

 次に25節、

18:25 それでサウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。

 サウル王はダビデを危険な目に遭わせてダビデをペリシテ陣の手で殺そうとしました。しかし、27節、

18:27 ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。

 こうして28節にあるように、主がダビデとともにおられることをサウルもまた知りました。主がダビデと共におられることを、ダビデ自身が感じていただけでなく、サウルも知ったということは、すごいことだと思います。主がダビデと共におられることは誰の目から見てもわかることだったのですね。このようにダビデはいつも危険から守られていましたから、ダビデは主が共におられることを感じていましたし、ダビデ以外の人々も主がダビデと共におられることを知っていました。

汚れた心をきよめる聖霊
 さて、きょうはもう一つの側面からも、ダビデが主の臨在を強く感じていたことを見たいと思います。それは今日、聖書交読で読んだ詩篇51篇です。この詩篇の表題には、「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」とあります。忠実な部下のウリヤを殺してしまったダビデは自分の心が罪で汚れていることに気付かされ、恐れおののいていました。そして、この汚れた心をきよめてくれるのは主の霊の聖霊しかないと確信し、必死で祈りました。この詩篇51篇の、10節から13節までを交代で読みたいと思います。この箇所は去年の沼津聖会で講師の野田秀先生が開かれた箇所で、私も大変に心に残った説教でした。10節から13節までを交代で読みます。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

 ダビデもそうですが、私たちの心の中にも汚いものがあります。これは、どんな人の中にもあります。しかし中には、汚いものがとても少ない人もいます。もちろん少ない人の中にも汚いものはあるのですが、きたないものが少ない人と接すると、とてもきよいものを感じます。例えば決して人の悪口を言わない人がいます。そのような人と話をしていると、その人がきよめられていることを感じます。そして、自分もそのようになれると良いなと思います。とても難しいことですが、私にも、そのようにきよめられたいという願望はあります。そして、汚れた心をきよめられるのは、聖霊の他にはいないことを知っていますから、きよめていただけるように祈ります。
 そうして私自身のこれまでのクリスチャンとしての歩みを振り返ると、少しずつではありますが、きよめられているのかなという思いはあります。もちろん、これはとても遅々とした歩みで三歩進んで二歩下がる繰り返しですから、なかなか前進しません。それでも、ある程度の期間が過ぎると、多少は前進していることを感じます。どういう面でかというと、それは、このメッセージでもよく開く、ガラテヤ書にある御霊の実の部分です。ご一緒に見ましょう。ガラテヤ人への手紙5章の22節と23節です(新約聖書p.371)。両方の節をご一緒に読みましょう。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 私の場合は、ほんとうにゆっくりでしかありませんが、それでも10年単位ぐらいで振り返って見ると、確かに変えられて来ていることを感じます。すると確かに主が私と共におられて、私を守って下さっているだけでなく、私の内側をきよめて下さろうとしていることを感じます。私は逆らってばかりですから申し訳なく思いますが、それでも少しずつゆっくりゆっくりと変えられています。

教会もきよめる聖霊
 そして、この教会も聖霊によりきよめられます。まず修繕をすれば、外観はこれまでよりも、きれいになります。しかし、もちろん必要なことは教会の内側のきよめです。教会に御霊の実が与えられて、愛と喜びと平安に満ちた教会、寛容と親切と善意に溢れた教会、そして誠実と柔和と自制をも持つ教会になるなら、教会には自ずと人々が集まるようになることでしょう。ダビデもまた先ほどの詩篇51篇13節で、

51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

と言っています。私たちの教会がきよめられて、ことばではなく日常的な振る舞いの中で主の道を教えれば、罪人は自ずと教会に集い、主のもとに帰るでしょう。
 きよめには確信が必要です。共にいて下さる主が、教会を守って下さるだけでなく、教会をきよめて下さるという確信が必要です。そのような確信を私たちが御霊の一致を保って皆で持つことができるなら、私たちには御霊の実が与えられて多くの人々が集う教会に変えられて行くのだと思います。きょう、私たちはこのことを確信したいと思います。私たちは、会堂問題でこれまで主が多くの御業を為して下さいましたから、主が共におられることを確信しています。そして、きょうは主が私たちの教会をきよめて下さることを確信したいと思います。そうすれば多くの人が教会に集うようになります。そのためには多くの人が入ることができる礼拝堂が必要です。ですから主が私たちの教会をきよめて下さるという確信を持つなら、主は必ず私たちに新しい礼拝堂を与えて下さるでしょう。

おわりに
 私たちの教会が愛と喜びと平安に満ちた教会、寛容と親切と善意に溢れた教会、そして誠実と柔和と自制をも持つ教会へともっと変えられて行くように、最後にもう一度、詩篇51篇13節をご一緒に読みましょう(旧約聖書p.955)。

 51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

 お祈りいたしましょう。
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