平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

御座から流れ出るいのちの水の川(2018.6.20 祈り会)

2018-06-21 16:20:59 | 祈り会メッセージ
2018年6月20日祈り会メッセージ
『御座から流れ出るいのちの水の川』
【黙示録22:1~5】

はじめに
 きょうは月曜日に大阪で起きた地震の被災地のためのお祈りと、近畿教区の教会の被害状況の報告に時間を使いたいと思いますから、メッセージは普段よりも短めにいたします。

天から降って来た御座
 黙示録22章の1節から5節までを交代で読みたいと思います。この箇所は先日の礼拝メッセージの最後に開いた箇所で、いま一たび味わってみたいと思います。また、きょうは短いメッセージで終わらせますから、これからも礼拝メッセージや祈り会のメッセージで開きたいと思わされています。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 先聖日の礼拝メッセージでは、私自身の黙示録の読み込みが十分にできていないことを暴露してしまい、みっともないところをお見せしてしまいました。特に今ご一緒に読んだ22章の1節から5節の箇所の理解が不十分でした。そのことを暴露してしまいましたから、私はそのことをもっと恥ずかしく思わなければいけなかったのだろうと思いましたが、この箇所があまりに素晴らしいので、私の中では恥ずかしさよりも感動の方が大きかったというのが正直なところです。
 先聖日の聖書箇所は21章でしたから、21章はある程度は読んで注解書を見て調べたりはしていました。しかし、22章はぜんぜん調べていませんでした。というのは、当初は22章を開く予定はなかったからです。
 当初の予定では、まず21章を短く見てから1章の冒頭の部分と2章と3章を見て、それから12章でサタンが地上に投げ落とされた箇所と13章の大言壮語をする獣の箇所を見てから、最後にもう一度21章に戻って、最初に見た箇所のおさらいをしようと思っていました。しかし、説教準備の最終段階で、21章に戻るのはやめて、22章を最後に皆で一緒に読んで終わるという構成に変えることにしました。黙示録の最後の22章を一緒に読むことで、いちおう黙示録の最初から最後までの全体を概観した形になると思ったからです。
 そういうわけで22章は、最後に皆さんと一緒に読むだけで特に解説することは考えていませんでしたから、読み込むことはしませんでした。それで、この22章の1節と3節に「御座」という言葉があることを見落としていました。そういう状態で、礼拝メッセージの最後に皆さんとご一緒にこの22章の1節から5節までを読んだ時に、天から降って来た新しい都のエルサレムには神の御座もあるということを知って、いたく感動しました。というのは21章の段階では御座は天にあるままでエルサレムの新しい都が降って来るのか、御座も一緒に降って来るのか、今一つわからなかったからです。それが22章の1節と3節で、御座も一緒に降って来るのだとわかって本当に感動しました。さっきも言ったように、これは私が今までいかに黙示録を良く読んでいなかったことを暴露することですから、本当は恥ずかしいことなのですが、恥ずかしさよりも感動の方を遥かに大きく感じました。
 何でそんなに感動したのかを考えてみると、やはり私の中ではヨハネの福音書の学び、使徒の働きの学び、そしてルカの福音書の学びを通じて、聖霊が天の御座におられる御父と御子から遣わされるということを繰り返し学んで来たからです。つまり御座とは天にあるものだとうことが私の中では、しっかりと刻み込まれています。
 その御座が天から降って来るというのですから、本当にすごいことだなと改めて感動しています。そして、この御座がある新しい都に入ることができるのは子羊のいのちの書に名前が記されている者だけですから、多くの方々がこの新しい都に入ることができるように、福音をお伝えしなければと改めて思わされています。火の池に投げ込まれないためにイエスさまを信じることをお勧めするのでなく、この天から降って来た新しい都の素晴らしさをお伝えしてイエスさまを信じることをお勧めできたらと思います。

御座から流れ出るいのちの水の川
 22章の1節と2節によれば、いのちの水の川はこの御座から流れ出て、都の大通りの中央を流れます。そして、こちら側にも、あちら側にも、いのちの木があります。いのちの木はエデンの園にもありましたね。礼拝メッセージでは、またエデンの園の箇所とこの黙示録22章とを合わせて読むことをしたいと願っています。それから、エゼキエル書の47章とこの黙示録22章とを合わせて読むこともしたいと願っています。
 きょうは最後にエゼキエル書47章を短くご一緒に読んで、終わりたいと思います。まず47章の1節をご一緒に読みましょう。

47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。

 彼というのは神から遣わされた人ですね。その人は新しい神殿の幻をエゼキエルに見せました。エゼキエルはバビロンに捕囚として引かれて来た預言者ですから、実際の神殿はバビロン軍の攻撃によって焼失してしまっていました。これは新しい神殿の幻です。その神殿から水が流れ出ていました。そして、この水は水かさが増して川になりました。少し飛ばして9節、

47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

 この川が入るところでは、すべてのものが生きるということですから、まさに黙示録22章にあったような、いのちの水の川ですね。そして12節、

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 このようにエゼキエルが見た幻と黙示録のヨハネが見た幻はとても似ています。神様は異なる時代の二人に時間を越えて同じ幻を見せて下さったようです。そして、聖霊が与えられている私たちもまた、聖書のことばを通して時間を越えて同じ幻を見ることができます。これは本当に素晴らしい恵みだと思います。もし私たちが聖霊を受けていないなら、ここに書かれている幻はただの絵空事にしか見えないかもしれませんが、私たちは聖霊を受けていますから、このいのちの水の川の光景のみことばを、素晴らしい感動と共に味わうことができます。
 この素晴らしい恵みを何とかして、もっと多くの方々と分かち合うことができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
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新しい天と新しい地(2018.6.17 礼拝)

2018-06-18 09:43:36 | 礼拝メッセージ
2018年6月17日礼拝メッセージ
『新しい天と新しい地』
【黙示録21:1~7】

はじめに
 先週の礼拝メッセージで予告した通り、きょうは黙示録21章の新しい天と新しい地の箇所を学びます。
 先週は創世記2章のエデンの園の箇所を開きました。今の世の中では国内でも国外でも様々な悪が平然と行われるようになり、悪の支配がどんどん加速しているように感じます。その中にあって私たちは気付かない間に悪の支配に慣らされてしまっているようにも思います。その悪の支配に慣らされないように、最高に聖い場所であるエデンの園と新しい天と新しい地に目を向けて思いを巡らしたいと思います。
 きょうは先ず、きょうの聖書箇所である黙示録21章の1~7節を簡単に見てから、黙示録の全体を概観することを考えています。これまで私がこの教会に着任してから黙示録を開いたことはほとんどないからです。廣瀬先生の時代には黙示録を開いたかもしれませんが、少なくとも私が来てからの5年間は黙示録をほとんど開きませんでしたから、ごく簡単に黙示録の全体を眺めてみたいと思います。そしてその後で、黙示録の最後の章の22章をご一緒に見て、メッセージを締めくくることにしたいと思います。

新しい天と新しい地
 では、黙示録21章の1節から見て行きます。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 この21章から、前の20章までとは全く異なる新しい時代が始まります。それまでがどうであったかは、後で見ることにして、とりあえず前に進めます。2節、

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降(くだ)って来るのを見た。

 これは壮大な光景ですね。天使が降(くだ)って来るとかでなく、都ごと降って来るということです。

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 神は人々とともに住み、人々は神の民となります。これはエデンの園の時代に帰るというように捉えることができるように思います。いつの時代にも神様は人々と共にいましたが、旧約の時代には聖所は垂れ幕で仕切られていました。その意味で、神様と人とは完全に共にいたわけではありません。ペンテコステの日以降に聖霊が降ってからは神様はより近い存在になりましたが、それでも聖霊は天におられる御父と御子から降って来ましたから、人と天との距離は相変わらず離れています。その天から新しいエルサレムが降って来て、22章の1節と3節によれば神と子羊の御座がこの新しいエルサレムの都の中にあるということですから、ペンテコステ以降よりもさらに神様は近い存在になるということですね。本当に素晴らしいことです。
 続いて4節、

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」、まさに新しい時代の始まりであり、アダムとエバが罪を犯す前のエデンの園も、そのようであったことでしょう。
 次に5節、

21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 今の汚れた世から考えると、まさにすべてが新しいことです。そして、「これらのことばは真実であり、信頼できる」という神様のことばがありますから、とても心強く感じます。

21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。

 いのちの水をいただくのに何のお金も要りません。ただイエス・キリストを信じれば、いのちの水をいただくことができます。

都に入ることができる者とできない者
 続いて7節をお読みします。

21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 ただし、イエス・キリストを信じない者は、この都に入ることができません。21章の26節と27節をお読みします。

21:26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

 いのちの書に記されていない者はどうなるかというと、それは20章の15節に書かれています。

20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

 そうして21章が始まりますから、新しい天と新しい地は、火の池に投げ込まれなかった、いのちの書に記されていた者だけが体験することができるのですね。
 聖書によれば、これが、この世の終わりの時に起こることです。
 だから火の池に投げ込まれないようにイエスさまを信じましょうということになるのですが、それだと何だか脅迫して信仰を勧めているようで、どうも私はそういう説教をする気にはなれません。それで、今までそのような説教をしたことがありませんでした。恐らく、これからもしないと思います。しかし、昨今のあまりにも悪の支配が進むひどい世界を見せ付けられている中にいて、この悪の支配に慣らされないようにしましょうという形でなら、脅迫ではなくて聖い神様の方に目を向けることをお勧めする形で、結果的に火の池に投げ込まれる道へ人々が進むことを引き止めることができるであろうと思うわけです。

黙示録の概観
 では、残りの時間で黙示録全体をごく簡単に見ることにしたいと思います。

 このヨハネの黙示録の最初、1章1節から3節までを交代で読みましょう。

1:1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。

 この黙示録には、これから起きることが書かれています。1節には「すぐに起きる」とあり、3節には「時が近づいている」とあります。この黙示録が書かれてから1900年以上が経っていますが、まだその時は来ていません。しかし、神様にとっては、千年が一日のようですから、まだわずか二日が経ったか経たないかということなのかもしれません。
 このことに備えて2章と3章には七つの教会へのメッセージが書かれています。3章20節のみことばは有名ですね。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 私たちはいつも、イエスさまの声に耳を澄ませていたいと思います。そして4章からはヨハネが見た幻が書かれています。これらについて、じっくり見る時間はありませんが、サタンが地上に投げ落とされた件(くだり)は見ておきたいと思います。

地上に投げ落とされたサタン
 12章の7節から9節までを交代で読みましょう。

12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、
12:8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
12:9 こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

 世の中がこんなにも悪に満ちているのは、サタンが地上に投げ落とされたからなのですね。それはこの黙示録が書かれた1世紀の末においても、21世紀の今も変わりません。続いて13章の13章の1節と2節を交代で読みましょう。

13:1 また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。
13:2 私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。

 1節に、海から上がって来た獣の頭には神を冒涜する様々な名があったとあります。そして2節には、竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えたとあります。竜というのは地上に投げ落とされたサタンです。サタンはこの獣に大きな権威を与えました。続いて3節と4節、

13:3 その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、
13:4 竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。「だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか。」

 全地は驚いてその獣に従い、竜を拝みました。そして獣も拝みました。サタンを拝み、サタンが権威を与えた獣も拝むとは、何と恐ろしいことでしょうか。これこそ神を恐れない行為です。それゆえ、この世はますます悪の支配が進んでしまいます。次に5節と6節を交代で読みます。

13:5 この獣には、大言壮語して冒瀆のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
13:6 獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。

 大言壮語して冒涜のことばを語る人は今の世にもいますね。本当に恐ろしいことです。7節と8節を交代で読みます。

13:7 獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。
13:8 地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。

 いのちの書にその名が書き記されていない者は、この獣を拝みます。しかしいのちの書に名が記されているなら、この獣を拝むことはしません。
 ですから、イエス・キリストを信じていのちの書に名が記される必要があります。私たちは火の池に投げ込まれないためにイエス・キリストを信じるのではなく、サタンと獣を拝むような恐ろしいことをせず、聖い神様の方向を向くことができるように、イエス・キリストを信じたいと思います。イエス・キリストを信じないなら火の池に投げ込まれると脅迫して信仰を勧めるのではなく、今のこの世のひどい悪に慣らされずに聖い神様の方向を向くことができるよう、信仰を持つことを勧めたいと思います。

天から降ってきた御座
 では最後に22章を見ることにしたいと思います。1節から5節までを交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 何と聖い世界でしょうか。私たちはこの聖い世界に、もっと目を向けることができるようになりたいと思います。ただし同時に、今の汚れた世からも目を離してはならないと思います。聖い世界に目を向けるのは悪の支配に慣らされないためであり、今の世に背を向けるためではありません。今の世に背を向けてしまったら、この世で苦しんでいる方々にイエスさまのことをお伝えすることができなくなってしまいます。
 ですから私たちは神様の聖い世界に目を向けつつ、悪に支配されたこの世からも目を離さないでいて、聖いイエスさまのことを多くの方々にお伝えして行きたいと思います。

おわりに
 最後に16節と17節を交代で読んで、メッセージを閉じます。
 
22:16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
22:17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

 お祈りいたしましょう。
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心の貧しい者は幸いです(2018.6.13 祈り会)

2018-06-14 07:14:26 | 祈り会メッセージ
2018年6月13日祈り会メッセージ
『心の貧しい者は幸いです』
【マタイ5:3】

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)

はじめに
 礼拝メッセージでは先聖日は創世記2章のエデンの園の箇所を開きました。そして、次の聖日礼拝のメッセージの箇所も予告しました。次の聖日は黙示録21章の「新しい天と新しい地」の箇所を開くことにしています。礼拝で創世記2章と黙示録21章を開くことにしたのは、今の世があまりに悪で満たされている様子を見ていて、私たちがこの悪の支配に慣らされてしまいつつあることを感じたからです。そこで神様が造られた聖い場所であるエデンの園と、新しい天と新しい地とに目を向けて、悪の支配に決して慣らされてはならないことを共に学びたいと思いました。
 この祈り会のメッセージも、礼拝メッセージと連動して行きたいと考えています。礼拝で黙示録21章を学んだ後は、イザヤ書やエゼキエル書を開いて、新しい天と地やエデンの園と関連する箇所を学びたいと願っています。礼拝では使徒の働きを学んだ後はルカの福音書を学んで、このところずっと新約聖書を開いて来ましたから、旧約聖書に目を転じようと思っています。一方、祈り会では、新約聖書を開くことにしたく思います。新約聖書の中に見られる、エデンの園のような聖い箇所を開くことにしたいと思います。

心の貧しい者とは
 きょうマタイ5章を開くことにしたのは、マタイ5章~7章の「山上の説教」が「エデンの園」のように感じるからです。どういうことかというと、例えばマタイ5章48節でイエスさまは、「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」とおっしゃいました。しかし、普通の感覚で言うなら、これは難しいと思うでしょう。イエスさまだけでなくジョン・ウェスレーも「キリスト者の完全」を説いていますから、牧師の私がこんなことを言ってはいけないのですが、天の父が完全であるように、自分もまた完全であるよう目指すことは、なかなかに難しいと考えていたのが正直なところです。
 しかし、先聖日に創世記2章のエデンの園を開き、我々は悪の支配に慣らされ過ぎているのではないかと説教した後、「キリスト者の完全」を難しいと感じている私こそが最も悪の支配に慣らされていると気付かされました。悪に慣らされてはいけないと説教で説いておきながら、実は自分自身が悪に最も慣らされているのかもしれないと示されました。そして、エデンの園を基準にしてマタイ5章~7章の「山上の説教」を読むなら、今までよりも「山上の説教」のことがよく理解できると感じました。
 ですから、きょうのマタイ5の3の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」も、エデンの園の観点から読んでみたいと思います。
 私は今まで、「心の貧しい者」のことをどうも上手くイメージできないでいました。ある注解書の注解者は、「『心の貧しい者』は自分の霊的な貧しさを知っている人である。自分の正しさを誇らず、心砕かれた者である」と書いています。言いたいことはわかりますが、「霊的な貧しさ」と「天の御国」が直結しないことが気になります。天の御国は霊的に豊かな者でなければ入れないはずです。ですから霊的な貧しさを自覚するなら聖霊に満たされて天の御国に入れるということが間に挟まっているのだと思いますが、それを補わなければならない点が、いま一つすっきりしません。それが、今回エデンの園の箇所の学びを終えて分かった気がしました。
 「心の貧しい者」とは、エデンの園にいた罪を犯す前のアダムとエバのことではないかということです。 まだ罪を犯す前の、まっさらな状態のアダムとエバであると考えたほうが分かりやすいように感じます。もちろん「霊的な貧しさを知っている人」のほうがイメージしやすい方は、そちらで理解していただいてかまいません。しかし、もし私と同じように上手く理解できない方がいたなら、参考にしていただきたいと思います。

神様から与えられたもの以外は何も身に着けていなかったアダムとエバ
 創世記2章の、まだ罪を知らなかった時のアダムとエバは、神様から与えられたもの以外は何も知らず、また何も身に着けていませんでした。それにも関わらず霊的には豊かにされていました。これこそが心が貧しい者だという気がしますが、いかがでしょうか。しかしエバが蛇に誘惑されて残念なことに二人は善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そのことでアダムとエバは知識が豊かになり、それと引き換えに霊的には死んだ者になってしまいました。貧しい者とは、余計な知識や衣服などを持たずに神様が与えて下さった霊だけで十分に満ち足りていて、その他は何も持っていないものだと理解するほうがわかりやすいと私は感じますが、いかがでしょうか。
 マタイ6章の25節から28節を、交代で読みましょう。

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 イエスさまは空の鳥や野の花を見るように言いました。これらの動物や植物は、(蛇を除けば)神様が最初の六日間で造られた動物や植物のままであると言えるでしょう。彼らは神様が与えて下さったものだけで十分に満足して日々を過ごしています。ですから、人もまた神様が六日目に造られて、「見よ。それは非常に良かった」と仰せられた時を手本にするのが良いのだと思います。

おわりに
 もちろん私たちは既に罪を犯した者たちですから、初めの状態には決してなれません。新品の白いシャツを汚してしまっても上手に洗濯をすれば、或いはクリーニング屋に持って行けば、白さは回復します。しかし、どんなにきれいになったとしても新品に戻すことはできません。それと同じで私たちは決して罪を犯す前のアダムとエバのようにはなることはできません。それでもやはり、私たちが手本とすべきは神様が「非常に良かった」と仰せられた初めの頃なのではないかと思います。そのようにしてエデンの園を思い浮かべることで今の世がいかに汚れているかが一層わかり、私たちが目指すべき場所を確認できるように思います。
 そうして私たちは悪から離れ、悪の支配に慣らされないように気を付け、この聖書が描く聖い世界を、周囲の方々にもお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
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エデンの園の安らぎ(2018.6.10 礼拝)

2018-06-11 09:25:31 | 礼拝メッセージ
2018年6月10日礼拝メッセージ
『エデンの園の安らぎ』
【創世記2:7~17】

はじめに
 先週は岩上先生にメッセージを取り次いでいただき、先々週はシオン教会での合同礼拝で野田先生にメッセージを取り次いでいただきましたから、私の礼拝メッセージは三週間ぶりということになります。三週間前まではルカの福音書を学んでいました。間が空いたところで、聖書の他の書に目を転じることにしたいと思います。

悪の支配に慣らされないために
 きょうは創世記2章のエデンの園の箇所を開くことにしました。そうして来週は黙示録21章の「新しい天と新しい地」を開きたいと考えています。なぜ、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたかというと、昨今の国内や国外のニュースを見ていると(特に国内)、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなことが平然と行われていて、世の中が悪の支配にどんどん取り込まれていることを感じるからです。そうして今や私たちは世の中で平然と行われている悪に段々と慣らされてしまっているように感じます。悪に支配されていることが当たり前の状態になり、聖さを求める感覚が麻痺して行ってしまう恐ろしさを感じます。
 そこで、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を共に学んで、これらに思いを巡らすことで、悪の支配に慣らされることがないようにしたいと思わされています。
 では先ず、創世記1章の最後の節の31節から見て行きたいと思います。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神は第一日から第六日まで六日間かけて天と地を創造され、そこに植物と動物そして人間を住まわせるようにしました。そうして31節にあるように神はご自分が造ったすべてのものを見られました。「見よ、それは非常に良かった」とあります。
 私たちは今の汚れた世の中に住んでいますから、その「非常に良かった」様子を思い描くことは残念ながらできません。一体それは、どれほど素晴らしいものだったのでしょうか。今の世でも大自然が残された場所などは、その場に身を置けば、心が洗われるような心地になります。テレビなどでそういう場所を画面を通して見ることもできます。しかし、それらの大自然よりも、はるかに素晴らしいものであったことでしょう。何しろ神様が「非常に良かった」と思われたのですから、想像を絶する素晴らしさであったことでしょう。
 きょう、私たちはこのような聖い場所について思いを巡らし、悪に慣らされてしまうことから遠ざかることができたらと思います。

聖日礼拝の素晴らしい恵み
 では、創世記の2章に進みましょう。1節から3節までをお読みします。

2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

 3節に「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」とあります。私たちの教会の週報の1ページ目には「聖日礼拝」と書かれています。私たちが毎週7日ごとに礼拝を捧げるのは、そもそもここから始まっていることを覚えたいと思います。このことに思いを巡らすなら、週1回の礼拝に出席することがどれほど大事なことか分かる気がします。私たちは週のうちの6日間は世間の様々な事柄の中で聖さから遠ざかってしまっています。しかし週に1回は神様が聖なるものとされた日に教会に集い、神様との交わりの時を持つことで聖い世界に再び近づくことができますから、本当に感謝なことだと思います。礼拝から遠ざかってしまうと、この神様の聖い世界からは、ずっと遠ざかったままになってしまうことになります。
 続いて4節から6節までをお読みします。

2:4 これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が、地と天を造られたときのこと。
2:5 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。
2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。

 この豊かな水は神様の霊のように聖い水であったことでしょう。続いて7節、

2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

 これが最初の人アダムですね。神様はアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれました。それでアダムは生きるものとなりました。この7節を味わうなら、創世記3章でアダムが神様の御顔を避けて身を隠したことが、どんなに残念なことであったかを痛感します。後で、創世記3章もご一緒に見ることにしたいと思います。

エデンの園の素晴らしさに思いを巡らす
 8節と9節、

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 このエデンの園がどれくらい聖く素晴らしい場所であったかを、思い巡らしたいと思います。既存の宗教画などに縛られる必要はないと思います。自分が思い浮かべることのできる最高の素晴らしい場所を思い浮かべたいと思います。ただし私たちの想像力には限りがありますから、エデンの園の本当の素晴らしさを思い浮かべることは決してできないでしょう。しかしそれでも、想像力の限界まで聖い場所を思い浮かべることは決して無駄ではないと思います。聖い場所を思い浮かべることで、私たちが今の時代の汚れた世にいかに慣らされてしまっているかに気付かせてもらえると思うからです。
 続いて10節、

2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 このエデンから湧き出た川には、非常に霊的なものを感じます。この川は源流となり、エデンの園の外にも流れ出していました。後に時おりは霊的に優れた信仰者が現れたのは、エデンの園から霊的な川が流れ出ていたからかもしれませんね。

 11節から14節、

2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。
2:12 その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

 この14節のティグリス・ユーフラテス川の流域からメソポタミア文明が生まれたのですね。

 次に15節から17節、

2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 アダムは、このエデンの園を守る役目を任されました。しかし、ご承知のようにアダムは3章で、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。次にこの3章を見ることにしますが、比較のために4章のカインもまた同時に見ることにしたいと思います。カインはアダムとエバの息子ですが、弟のアベルを殺してしまいました。3章のアダムも4章のカインも二人とも罪を犯したわけですが、きょう見てみたいポイントは、アダムが罪を犯した時はまだエデンの園の中にいた時であったこと、一方、カインが罪を犯した時はエデンの園の外にいた時であったことです。

罪を犯したアダム
 まず3章のアダムの場合を見ます。

3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

罪を犯したカイン
 次に、4章を交代で読みます。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。

 アダムとカインが罪を犯した箇所を読み比べると、二人の間には大きな違いがあることがわかります。

エデンの園の外にいて罪を認めなかったカイン
 アダムは妻のせいにしていますから、これは良くないことですが、それでもともかくも自分が木の実を食べてしまったことを認めています。それに対してカインは「知りません」と神様に嘘をついて自分の罪を認めようとしませんでした。神である主の御顔を避けて身を隠したアダムは、主を恐れていましたが、カインは「知りません」と言った時点では主を恐れていませんでした。カインのようにエデンの園の外にいると、人の心はこれほどまでに神から離れ、荒廃してしまうのだということを見せつけられて、暗澹たる気持ちになります。
 このようにエデンの園の外に出されてからの人類は、ずっと悪に支配され続けて来ました。たまにノアやアブラハムのように神様の目に適う者たちもいましたが、大多数は神から離れた者たちで世の中は満たされて来ました。その中にあって私たちは、悪に慣らされてしまいそうになります。世の中の悪に満ちたニュースに鈍感になっている自分を発見して、ハッとすることもあります。
 ですから、私たちは聖い世界をもっと見る必要があるのではないかと思います。それゆえきょうはエデンの園の箇所を開き、来週は黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたいと思います。再来週はシオン教会での合同礼拝がありますから、こちらでの礼拝はお休みになりますが、7月からはまた聖い世界を学ぶことができたらと思います。

おわりに
 最後に、創世記2章8節から10節までを交代で読んで終わりたいと思います。このエデンの園は平和で安らぎに満ちた場所であったことを覚えたいと思います。

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 お祈りいたしましょう。
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逆風に立ち向かう信仰(2018.6.6 祈り会)

2018-06-07 09:26:18 | 祈り会メッセージ
2018年6月6日祈り会メッセージ
『逆風に立ち向かう信仰』
【使徒21:7~14】

はじめに
 きょうは先ず、吹流しの話から始めます。
 その吹流しは、私のジョギングコースである海岸沿いの防潮堤の付近に設置してありますから、週3回ぐらいのジョギングの時には必ず目にするものです。

目に見えない風を知るためにある吹流し
 この吹流しを見ることで、風の方向とおよその強さを知ることができます。吹流しを見なくても体に当たる風でも、ある程度はわかりますが、それは風が強い場合です。風が弱い時は向かい風ならわかりますが、追い風の場合は風が弱いとほとんどわかりません。走るのが楽だなとは感じますが、背中に風が当たる感覚はありません。背中に風が当たるのを感じるのは風が強い時だけです。
 吹流しは風を知るためにありますから、凝った形やデザインにする必要はありません。原駅を越えて富士に近い方にまた別の吹流しがあって、そちらまで足を延ばした時には、その吹流しを目にするのですが、その吹流しはちょっと格好いい感じのデザインになっています。すると風を知るよりは、吹流しのデザインのほうに目がどうしても行ってしまいます。
 吹流しは目に見えない風を知るためのものですから、目によく見える必要は当然あります。しかし、必要以上に吹流しに目が行き、そのデザインを気にするようになるなら、風を知ることが疎かになってしまいます。

目に見えない神を知るためにある聖書
 聖書もまた同じではないでしょうか。聖書は目に見えない神様のことを教えてくれます。私たちは目に見える人物のことを聖書で読み、目に見えない神様のことを知ろうとします。大事なことは神様を知るということです。ですから、必要以上に人物の細部にわたって知ろうとするなら、神様を知るという大切なことが疎かになってしまう危険性があるのではないでしょうか。
 どうして、きょうはこんな話から始めているかというと、先日、ある方とヨハネの福音書の話をして、私の説くヨハネの福音書論のことをどうしても分かってもらえないという経験をしたからです。その方は聖書のことを良くご存じの方です。しかし、私の説くヨハネの福音書のことを、どうしても分かっていただくことができませんでした。いつも話しているように、ヨハネの福音書はイエスさまの地上生涯に旧約の時代の出来事と使徒の働きの時代の出来事が重ねられています。そうして、ヨハネの福音書はイエスさまの地上生涯よりもイエスさまがまだ受肉する前のことば(ロゴス)としてのイエスさまの働きと、天に帰った後で天から聖霊を遣わすという働き、つまり地上生涯の前と後の目に見えない時のイエスさまの働きのほうを重視している書です。その目に見えないイエスさまのことを読者に伝えるためにヨハネは目に見える地上生涯のイエスさまに旧約聖書と使徒の働きを重ねるというテクニックを使っています。しかし、やはりどうしても、読者の目は地上生涯のイエスさまに釘付けになってしまうという結果になってしまっています。地上生涯のイエスさまのことよりも、その前と後のイエスさまの働きのほうが大事なのだということを、どうしてもわかってもらえません。このことと、デザインが新奇な吹流しは似ているように感じます。

目に見えない原子空孔の動きを知るための原子空孔集合体
 きょうはこの吹流しの話から始めましたが、実は吹流しの例えに思い至る前に、もう一段階ありましたから、今度はその証をさせていただきます。
 私は大学4年生の時と大学院生の時、それから研究所の研究員と大学の助手の時の十数年間、主に金属材料の点欠陥の研究をしていました。点欠陥というのは原子サイズの最小単位の欠陥のことです。点欠陥の一つの例は、原子空孔です。空孔というのは空(から)の孔(あな)のことです。例えば、この教会にあるようなパイプ椅子を、もっと広い学校の体育館のような所に並べた様子を思い浮かべてみて下さい。学校の卒業式などの時には体育館にパイプ椅子をたくさんきれいに並べたりしますね。しかし並べた後で、パイプ椅子の一つが壊れていることに気付いたとします。そして、その壊れたパイプ椅子を抜き取ることにします。すると、椅子を取り去った場所に孔(あな)が空きます。これが原子空孔です。金属の原子は体育館に並べたパイプ椅子のようにきれいに並んでいますが、完全に原子で満たされているわけではなく、一定の割合で原子空孔を含んでいます。
 この原子サイズの孔は小さすぎるので、電子顕微鏡でも見ることはできません。技術が進歩しているでしょうから最新の事情は分かりませんが、少なくとも私が研究に携わっていた時には見ることはできませんでした。しかし、この空孔が移動して何個か集まると見えるようになります。空孔は材料の温度を上げてやると、よく動くようになります。パイプ椅子の列の孔が空いた場所も、隣の椅子をその孔の方に移動させてやると、孔が椅子一つ分動きますね。そんな風に原子空孔も動いて行きます。そうして別の原子空孔と出会うと空孔同士が合体して集合体になります。そして、その原子空孔の集合体はだんだん成長して大きくなり、電子顕微鏡で見えるようになります。
 このような研究が何の役に立つかというと、例えば原子炉の中では放射線などの高エネルギーの粒子が飛び交っていて、その高エネルギーの粒子が材料の原子に当たると材料の原子が弾き出されて、孔が空きます。その孔が集まると空洞状の大きな孔になり、材料が膨張したり、脆くなったりします。それで、その孔を動きにくくするために、その孔を動きにくくするための別の原子を混ぜてあげたりします。そうして、いろいろと条件を変えて実験をして、目に見える大きな孔の成長速度がどう変化するかを調べることで、目に見えない最小単位の原子サイズの孔がどれくらい動いているかを知ることができます。
 この研究で肝心なことは、目に見える現象から、目に見えない小さな空孔の動きをできるだけ正確に知るようにするということです。実験はお金も手間も掛かりますから、いくつかの条件でしか実験できません。あらゆる条件の実験をやり尽くすことはできません。しかし、目に見えない空孔の動き方の性質がわかるようになるなら、あとは実験をしなくても、別の条件の時にはどうなるかを予測できるようになります。目に見える現象はただ一つの特定の現象ですが、目に見えない原子空孔の動きがわかるなら、広くいろいろな条件について実験しなくてもわかるようになります。

神と聖書中の人物との関係から神を知る
 聖書の読み方も同じだと思います。使徒の働きにはパウロやペテロたちのことが書いてあります。この目に見えるパウロの働きはパウロだけのものですが、パウロと目に見えない神様との関係を見出すことができるなら、その関係を自分と神様との関係に適用することができるようになります。同じように目に見える地上生涯のイエスさまと目に見えない神様との関係を見出すことができるなら、そのイエスさまと神様との関係を私たちと神様との関係に適用することができるようになります。
 私が地上生涯のイエスさまよりも、地上生涯の前と後の目に見えないイエスさまのほうに目が行くようになったのは、かつて金属材料の点欠陥の研究者であった私の経歴を用いて下さっているのだなと最近になって気付かされました。ですから、前半は、そのことの証をさせていただきました。ただし、いきなり点欠陥の話をしても分かりづらいと思いましたから、いつもジョギングで目にしている吹流しの例えを最初に使わせていただきました。
後半は使徒の働きを開いて、その後でもう一度、吹流しの話 に戻りたいと思います。
 
(賛美歌を挟む)

風上と風下のどちらが神の方向でどちらが悪魔の方向か
 使徒の働き21章の7節から14節までを交代で読みます。この箇所は礼拝でも学びましたが、パウロの第三次伝道旅行の終わりのほうの場面です。
 20章でパウロはミレトスでエペソの教会の長老たちに別れを告げました。告別説教とか遺言説教とも言われますね。そして21章3節にツロに入港したとあります。そのツロの地の弟子たちは4節にあるように御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言いました。しかし、パウロはそれを聞き入れないでエルサレムへと向かって行きます。
 そして、ご一緒に交代で読む次の箇所でも、人々はパウロにエルサレムへ行かないようにと懇願します。7節から14節までを交代で読みます。

21:7 私たちはツロからの航海を終えて、プトレマイスに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
21:8 翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。
21:9 この人には、預言をする未婚の娘が四人いた。
21:10 かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。
21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」
21:12 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。
21:13 すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」
21:14 彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。

 私たちは目には見えない神の働きを知ることが大切だという話をしていますが、同時に私たちは目に見えない悪魔の働きも知る必要があると思います。
 いま世の中では目に見える形で悪が横行しています。前代未聞の大規模な公文書の改竄が行われた財務省では処分が行われるとのことですが、政治家は自らの責任をうやむやにしています。今、世の中は目に見える形でどんどん悪い方向に向かっています。この背後には目に見えない悪魔の働きがあることを認識していたいと思います。
 そこで、もう一度、吹流しの話に戻します。この吹流しは目に見えない風の向きを教えてくれます。この吹流しは風が来る方向、すなわち風上の方向を向いています。では、この風の方向を神様の方向と悪魔の方向に例えるなら、どちらが神様の方向でどちらが悪魔の方向だろうかということを今回、私は考えてみました。皆さんはどちらの方向が神様の方向だと思われるでしょうか。防潮堤の上を走っていると良くわかりますが、風上の方向は逆風になるので、進むのが困難です。一方、風下の方向を向けば、背中に追い風を受けて楽に前に進むことができます。

悪魔に支配されているこの世
 どちらが神様の方向で、どちらが悪魔の方向なのか、そのヒントは今ご一緒に読んだパウロが進んだ方向にあると言えるでしょう。パウロは進むのが困難な逆風の方向に向かって行きましたから、風上に向かって行きました。これが御心であるとパウロは確信していました。そしてローマに行くことができましたから、この風上が神様の方向だと言えるでしょう。しかしパウロは捕えられて苦難の道を歩むことにもなりましたから、この風上の方向は神様の方向であると同時に悪魔の方向でもあったと言えるでしょう。イエスさまが向かって行った十字架も同じですね。十字架の方向に進むことは父の御心でしたから神様の方向でしたが、それは同時に悪魔の手にご自身を明け渡す悪魔の方向でもありました。
 ここから分かることは神様の方向に向かうことは悪魔の方向に向かうことでもあるということです。悪魔は信仰者が神様に近づこうとすることを妨害します。その妨害は神様に近づけば近づくほど大きくなります。ですから、実は逆風は悪魔が吹かせているとも言えるかもしれません。この逆風に負けて神様に背を向ける人も多いでしょう。すると、背中から風を受けますから、神様から容易に離れ去って行くことができます。神様から離れるということは、悪魔の方向に行くということです。すると、風上の方向でも風下の方向でも、どちらを向いても悪魔の方向だと言うことになります。まさに、この世が悪魔に支配されているとは、こういう状況を言うのではないでしょうか。神様の方向は風上の方向だけですが、悪魔は風上の方向にも風下の方向にもいます。私たちが目指すべき方向は、もちろん風上の方向でなければなりません。私たちが伝道の働きをして人々を神様の方向にお連れしようとする時、逆風が吹きますが、それは悪魔が人々を神様に近づけまいとして妨害するからなのでしょう。しかし、私たちはこの逆風に立ち向かって行かなければなりません。
 信仰の道とは、困難に向かって歩んで行くことだということは、今ご一緒に読んだ使徒の働きの箇所に限らず、いろいろな箇所から読み取ることができると思います。ですから、いま私たちが直面している困難もまた、私たちが神様の方向に向かって進んでいるからこその困難だと言えるのではないでしょうか。ですから私たちは、この困難に立ち向かって行きたいと思います。

おわりに
 最後に、何度も開いている箇所ですが、エペソ人への手紙6章の10節から19節までを交代で読みましょう。

 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
6:19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

 お祈りいたしましょう。
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