2016年10月30日礼拝メッセージ
『霊的なイエスとの出会い』
【使徒8:12~17】
はじめに
使徒の働きの学びを続けます。先週は、この使徒の働き8章からキリスト教の宣教が新しい段階に入ったことを、ご一緒に学びました。7章までは、イエス・キリストの教えはエルサレムの中でしか宣べ伝えられていませんでした。しかし、ステパノへの迫害をきっかけにして教会への激しい迫害が起こり、教会員たちはエルサレムの外へと散らされて行きました。そうして教会員たちは散らされて行った先々で、イエス・キリストを宣べ伝えました。この使徒の働き8章にはピリポがサマリヤで伝道した時のことが記されています。
強くつながっている使徒8章と使徒4章
この使徒8章の学びは、この教会では既に何度も繰り返し行って来ていますね。ここはヨハネの福音書の4章でイエスさまがサマリヤの人々と出会った箇所と非常に強くつながっているので、ヨハネの福音書の学びの時に、この使徒の働き8章を繰り返し開きました。きょうもまた、ヨハネの福音書4章とのつながりについて、語らせていただきます。
なぜ私が使徒8章とヨハネ4章とのつながりを重視するかと言うと、この二つを絡めて読むことで、聖霊を受けると私たちの内側には、どのような変化がもたらされるかが、よくわかるようになるからです。結論を先に言うなら、私たちは聖霊を受けると霊的なイエスさまと出会うことができるようになります。そして、多くの人々が霊的なイエスさまに出会うなら、世界は必ず変わり、平和な方向に向かうと私は信じています。私が牧師として召し出されたのは、多くの方々が霊的なイエスさまと出会うためのお手伝いを、ヨハネの福音書を用いて行うことであると今や私は確信しています。ですから、どうしてもこのことをやり遂げなければなりません。そのために、ヨハネの福音書は霊的なイエスさまに出会うことができる書であることを繰り返し発信続けるつもりです(いまの段階では説教をブログにアップすることで、そして来年には本を出して、そこを足掛かりにして、さらに活動を発展させて行きたいと願っています)。
聖霊を受けたサマリヤ人たち
まず使徒の働き8章を簡単に見ましょう。12節から見ます、
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
ここに「しかし」とあるのは、この前のいくつかの節に魔術を使うシモンのことが書かれているからです。このシモンについては省略します。
この12節にはサマリヤの人々がピリポが宣べ伝えたことを信じてバプテスマを受けたことが書かれています。しかし、聖霊は受けていませんでした。16節に、「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかった」とあります。ピリポが授けたバプテスマでは誰も聖霊を受けなかったのは何故なのか、その理由はよくわかりません。
これは私の推測ですが、ユダヤ人ではないサマリヤ人が聖霊を受けた出来事は画期的な出来事ですから、教会のリーダーであったペテロがその現場に立ち会う必要があったのではないか、そのように私は考えます。ペテロはこの後、使徒10章で異邦人への最初の聖霊の注ぎの現場にも立ち会っています。
キリスト教会を一つにまとめ上げて行く上で、イエスさまの一番弟子であったペテロが、サマリヤ人への最初の聖霊の注ぎと異邦人への最初の聖霊の注ぎの現場に立ち会うことが必要だったのではないか、そうでないとイエス・キリストの福音が無秩序に広がって行き、まとまりがなくなってバラバラになってしまう恐れがあります。それを防ぐために神様は先ずは一番弟子のペテロに重要な現場に立ち会わせたのではないか、私はそんな気がしています。
14節と15節には、ペテロとヨハネがサマリヤに出かけて行き、人々が聖霊を受けるように祈ったとあります。そして17節、
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
こうしてサマリヤ人たちは聖霊を受けました。さて、このようにして聖霊を受けたサマリヤ人たちは、霊的にどのような変化があったのでしょうか。そのことを書いているのが、ヨハネの福音書4章です。既に何度も説明していますが、今回また改めて説明します。
聖霊を受けるばかりだったサマリヤ人たち
ヨハネの福音書4章を開いて下さい。28節から30節までを交代で読みます。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
ヨハネ4章ではイエスさまは弟子のペテロたちと北方のガリラヤ地方に行くためにサマリヤ地方を通っていました。そして4章の前半ではイエスさまは町のはずれにある井戸端でサマリヤの女と話をしました。そのサマリヤの女が28節では井戸のある町のはずれから町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
そうして町の人々は町を出て井戸端にいるイエスさまのほうへやって来ました。ここで大事なことは、町の人々が、女が言った「キリスト」ということばに反応して、イエスさまのほうへ行くという行動を起こしたことです。すべては、ここから始まります。
町の人々は女が何か言っても無視をして全く話を聞かないという選択肢もあったでしょう。或いは話だけは聞いたとしても、「それが何か?」という冷たい反応を示すことだって有り得たはずです。
私たちが周囲の方々を教会にお誘いする時が正にそうですね。話を適当に聞き流すか、「また今度ね」などと言うか、あまりまともに取り合ってもらえないことがほとんどではないでしょうか。しかし、サマリヤの人々は女の言ったことに関心を示して、井戸端にいたイエスさまのところにやって来ました。
このサマリヤの人々がやって来たのを見て、イエスさまはペテロたちに言いました。
4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
「色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、聖霊を受けるばかりになっているということです。このようにヨハネ4章は使徒の働き8章の状況を重ねています。使徒8章でサマリヤの人々は、ピリポの話に耳を傾けて、ピリポの話を信じました。これは、本当にすごいことです。なぜならピリポはユダヤ人だからです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしていませんでした。しかし、サマリヤ人たちは魂の渇きを感じていたのでしょう。ピリポの話を聞いて信じました。
ヨハネ4章のサマリヤの女の場合も、使徒8章と状況は同じです。サマリヤの女にはかつて夫が5人いて、いま一緒にいるのは夫ではないとイエスさまは言っています。そういう女の言うことを、人々は普通なら簡単には信じないでしょう。しかしヨハネの4章のサマリヤの人々も魂の渇きを感じていたのでしょう。女が「キリスト」と言ったことに反応して、イエスさまに会いに行きました。これが正に聖霊を受けるばかりになっている状況です。
聖霊を受けて霊的な目が開かれたサマリヤ人たち
続いてヨハネ4章の37節と38節、
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
種を蒔いたのはピリポで、刈り取ったのがペテロとヨハネであることが、使徒の働き8章を読むとわかります。聖霊が注がれるとイエスさまの弟子となって教会につながりますから、ペテロとヨハネは収穫を得たことになります。労苦をしたのはピリポで、ペテロとヨハネは労苦をせずに収穫することができました。
続いて39節から42節までを交代で読みましょう。
4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
この箇所からわかることは、聖霊を受けるには、まずは他の人の言うことを信じる必要があるということです。そうして信じて聖霊を受けるなら霊的な目が開かれますから、霊的なイエスさまと出会うことができます。そしてまた霊的なイエスさまがおっしゃることを自分の霊的な耳で聞くことができるようになります。
聖霊を受ける前は、霊的な目が開かれていませんから霊的なイエスさまを見ることはできません。霊的なイエスさまの御声も聞くことはできません。ですから、まずは他の人の話を聞いて信じる必要があります。或いは聖書を読んで信じる必要があります。この聖書を信じることが、多くの人はできていません。たとえばアメリカには多くのクリスチャンがいますが、聖書を部分的にしか信じていないクリスチャンがほとんどなので、聖霊が注がれているアメリカ人は非常に少ないだろうと思います。ほとんどのアメリカ人のクリスチャンは霊的な目が開かれていない、形だけのクリスチャンだろうと思います。
戦災の廃墟で涙を流すイエス
このことを私は非常に残念に思っています。戦争が絶えないのも、それゆえだろうと私は考えています。もし霊的なイエスさまが見えているなら、イエスさまが戦争によって破壊された町の中で悲しんでいる姿が見えるようになります。
最後に、これもまたよく開いている箇所ですが、ヨハネの福音書11章で、イエスさまがラザロの墓に行く途中で涙を流した箇所をご一緒に読みましょう。11章の32節から35節までを、交代で読みます。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
ここでイエスさまは、なぜ霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されたのでしょうか。表面上はラザロの死を巡ってのことですが、霊的な領域では尋常ではないことが起きていることに私たちは気付かなければなりません。
ここでイエスさまは、滅亡して廃墟になったエルサレムの町を眼の前にして、涙を流しています。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって破壊され、神殿は火を付けられて炎上しました。このバビロン軍によるエルサレムへの攻撃を前にして、エレミヤは盛んに警告を発していました。しかし、エルサレムの人々はエレミヤの警告に耳を傾けることはありませんでした。
この時、霊的なイエスさまはエレミヤと共にいて警告を発していました。ヨハネ10章1節の、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」というイエスさまの言葉はバビロン軍の攻撃を前にしたエレミヤの警告です。ですから、イエスさまは霊的な存在としてエルサレムが攻撃される前の現場にいたのでした。それなのに、マリヤが「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いたので、イエスさまは霊の憤りを覚えたのでした。彼らがエレミヤと共にいた霊的なイエスさまの警告に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかったのです。
ヨハネの福音書の深層部には、このように人々の住む町が戦争によって破壊されて廃墟になったことを悲しむイエスさまの姿が描かれています。このことに気付かれていないから、戦争がいつまで経っても絶えることがないのだと私は考えます。戦争では多くの市民が犠牲になります。このことをイエスさまがどんなに悲しんでおられ、涙を流しているか、このことを魂のレベルで感じることができるなら、戦争を行うことの罪を深いレベルで感じることができるでしょう。ですから多くの人の霊的な目が開かれて、霊的なイエスさまが戦争の惨禍を悲しんでいる姿が見えるようになるなら、世界は必ず平和になる方向に動いて行くだろうと私は確信しています。
おわりに
私たちの教会も聖書の学びを通じて霊的なイエスさまについての理解を深めて、地域の方々と霊的なイエスさまと出会うことの喜びを分かち合うことができるようになりたいと思います。人が宣べ伝えるイエスさまを信じて、自分自身でイエスさまと出会えるようになることは素晴らしい恵みです。このための伝道の働きを進めて行きたいと思います。
最後に、ヨハネの福音書4章の41節と42節を交代で読みましょう。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
お祈りいたしましょう。
『霊的なイエスとの出会い』
【使徒8:12~17】
はじめに
使徒の働きの学びを続けます。先週は、この使徒の働き8章からキリスト教の宣教が新しい段階に入ったことを、ご一緒に学びました。7章までは、イエス・キリストの教えはエルサレムの中でしか宣べ伝えられていませんでした。しかし、ステパノへの迫害をきっかけにして教会への激しい迫害が起こり、教会員たちはエルサレムの外へと散らされて行きました。そうして教会員たちは散らされて行った先々で、イエス・キリストを宣べ伝えました。この使徒の働き8章にはピリポがサマリヤで伝道した時のことが記されています。
強くつながっている使徒8章と使徒4章
この使徒8章の学びは、この教会では既に何度も繰り返し行って来ていますね。ここはヨハネの福音書の4章でイエスさまがサマリヤの人々と出会った箇所と非常に強くつながっているので、ヨハネの福音書の学びの時に、この使徒の働き8章を繰り返し開きました。きょうもまた、ヨハネの福音書4章とのつながりについて、語らせていただきます。
なぜ私が使徒8章とヨハネ4章とのつながりを重視するかと言うと、この二つを絡めて読むことで、聖霊を受けると私たちの内側には、どのような変化がもたらされるかが、よくわかるようになるからです。結論を先に言うなら、私たちは聖霊を受けると霊的なイエスさまと出会うことができるようになります。そして、多くの人々が霊的なイエスさまに出会うなら、世界は必ず変わり、平和な方向に向かうと私は信じています。私が牧師として召し出されたのは、多くの方々が霊的なイエスさまと出会うためのお手伝いを、ヨハネの福音書を用いて行うことであると今や私は確信しています。ですから、どうしてもこのことをやり遂げなければなりません。そのために、ヨハネの福音書は霊的なイエスさまに出会うことができる書であることを繰り返し発信続けるつもりです(いまの段階では説教をブログにアップすることで、そして来年には本を出して、そこを足掛かりにして、さらに活動を発展させて行きたいと願っています)。
聖霊を受けたサマリヤ人たち
まず使徒の働き8章を簡単に見ましょう。12節から見ます、
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
ここに「しかし」とあるのは、この前のいくつかの節に魔術を使うシモンのことが書かれているからです。このシモンについては省略します。
この12節にはサマリヤの人々がピリポが宣べ伝えたことを信じてバプテスマを受けたことが書かれています。しかし、聖霊は受けていませんでした。16節に、「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかった」とあります。ピリポが授けたバプテスマでは誰も聖霊を受けなかったのは何故なのか、その理由はよくわかりません。
これは私の推測ですが、ユダヤ人ではないサマリヤ人が聖霊を受けた出来事は画期的な出来事ですから、教会のリーダーであったペテロがその現場に立ち会う必要があったのではないか、そのように私は考えます。ペテロはこの後、使徒10章で異邦人への最初の聖霊の注ぎの現場にも立ち会っています。
キリスト教会を一つにまとめ上げて行く上で、イエスさまの一番弟子であったペテロが、サマリヤ人への最初の聖霊の注ぎと異邦人への最初の聖霊の注ぎの現場に立ち会うことが必要だったのではないか、そうでないとイエス・キリストの福音が無秩序に広がって行き、まとまりがなくなってバラバラになってしまう恐れがあります。それを防ぐために神様は先ずは一番弟子のペテロに重要な現場に立ち会わせたのではないか、私はそんな気がしています。
14節と15節には、ペテロとヨハネがサマリヤに出かけて行き、人々が聖霊を受けるように祈ったとあります。そして17節、
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
こうしてサマリヤ人たちは聖霊を受けました。さて、このようにして聖霊を受けたサマリヤ人たちは、霊的にどのような変化があったのでしょうか。そのことを書いているのが、ヨハネの福音書4章です。既に何度も説明していますが、今回また改めて説明します。
聖霊を受けるばかりだったサマリヤ人たち
ヨハネの福音書4章を開いて下さい。28節から30節までを交代で読みます。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
ヨハネ4章ではイエスさまは弟子のペテロたちと北方のガリラヤ地方に行くためにサマリヤ地方を通っていました。そして4章の前半ではイエスさまは町のはずれにある井戸端でサマリヤの女と話をしました。そのサマリヤの女が28節では井戸のある町のはずれから町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
そうして町の人々は町を出て井戸端にいるイエスさまのほうへやって来ました。ここで大事なことは、町の人々が、女が言った「キリスト」ということばに反応して、イエスさまのほうへ行くという行動を起こしたことです。すべては、ここから始まります。
町の人々は女が何か言っても無視をして全く話を聞かないという選択肢もあったでしょう。或いは話だけは聞いたとしても、「それが何か?」という冷たい反応を示すことだって有り得たはずです。
私たちが周囲の方々を教会にお誘いする時が正にそうですね。話を適当に聞き流すか、「また今度ね」などと言うか、あまりまともに取り合ってもらえないことがほとんどではないでしょうか。しかし、サマリヤの人々は女の言ったことに関心を示して、井戸端にいたイエスさまのところにやって来ました。
このサマリヤの人々がやって来たのを見て、イエスさまはペテロたちに言いました。
4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
「色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、聖霊を受けるばかりになっているということです。このようにヨハネ4章は使徒の働き8章の状況を重ねています。使徒8章でサマリヤの人々は、ピリポの話に耳を傾けて、ピリポの話を信じました。これは、本当にすごいことです。なぜならピリポはユダヤ人だからです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしていませんでした。しかし、サマリヤ人たちは魂の渇きを感じていたのでしょう。ピリポの話を聞いて信じました。
ヨハネ4章のサマリヤの女の場合も、使徒8章と状況は同じです。サマリヤの女にはかつて夫が5人いて、いま一緒にいるのは夫ではないとイエスさまは言っています。そういう女の言うことを、人々は普通なら簡単には信じないでしょう。しかしヨハネの4章のサマリヤの人々も魂の渇きを感じていたのでしょう。女が「キリスト」と言ったことに反応して、イエスさまに会いに行きました。これが正に聖霊を受けるばかりになっている状況です。
聖霊を受けて霊的な目が開かれたサマリヤ人たち
続いてヨハネ4章の37節と38節、
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
種を蒔いたのはピリポで、刈り取ったのがペテロとヨハネであることが、使徒の働き8章を読むとわかります。聖霊が注がれるとイエスさまの弟子となって教会につながりますから、ペテロとヨハネは収穫を得たことになります。労苦をしたのはピリポで、ペテロとヨハネは労苦をせずに収穫することができました。
続いて39節から42節までを交代で読みましょう。
4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
この箇所からわかることは、聖霊を受けるには、まずは他の人の言うことを信じる必要があるということです。そうして信じて聖霊を受けるなら霊的な目が開かれますから、霊的なイエスさまと出会うことができます。そしてまた霊的なイエスさまがおっしゃることを自分の霊的な耳で聞くことができるようになります。
聖霊を受ける前は、霊的な目が開かれていませんから霊的なイエスさまを見ることはできません。霊的なイエスさまの御声も聞くことはできません。ですから、まずは他の人の話を聞いて信じる必要があります。或いは聖書を読んで信じる必要があります。この聖書を信じることが、多くの人はできていません。たとえばアメリカには多くのクリスチャンがいますが、聖書を部分的にしか信じていないクリスチャンがほとんどなので、聖霊が注がれているアメリカ人は非常に少ないだろうと思います。ほとんどのアメリカ人のクリスチャンは霊的な目が開かれていない、形だけのクリスチャンだろうと思います。
戦災の廃墟で涙を流すイエス
このことを私は非常に残念に思っています。戦争が絶えないのも、それゆえだろうと私は考えています。もし霊的なイエスさまが見えているなら、イエスさまが戦争によって破壊された町の中で悲しんでいる姿が見えるようになります。
最後に、これもまたよく開いている箇所ですが、ヨハネの福音書11章で、イエスさまがラザロの墓に行く途中で涙を流した箇所をご一緒に読みましょう。11章の32節から35節までを、交代で読みます。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
ここでイエスさまは、なぜ霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されたのでしょうか。表面上はラザロの死を巡ってのことですが、霊的な領域では尋常ではないことが起きていることに私たちは気付かなければなりません。
ここでイエスさまは、滅亡して廃墟になったエルサレムの町を眼の前にして、涙を流しています。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって破壊され、神殿は火を付けられて炎上しました。このバビロン軍によるエルサレムへの攻撃を前にして、エレミヤは盛んに警告を発していました。しかし、エルサレムの人々はエレミヤの警告に耳を傾けることはありませんでした。
この時、霊的なイエスさまはエレミヤと共にいて警告を発していました。ヨハネ10章1節の、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」というイエスさまの言葉はバビロン軍の攻撃を前にしたエレミヤの警告です。ですから、イエスさまは霊的な存在としてエルサレムが攻撃される前の現場にいたのでした。それなのに、マリヤが「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いたので、イエスさまは霊の憤りを覚えたのでした。彼らがエレミヤと共にいた霊的なイエスさまの警告に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかったのです。
ヨハネの福音書の深層部には、このように人々の住む町が戦争によって破壊されて廃墟になったことを悲しむイエスさまの姿が描かれています。このことに気付かれていないから、戦争がいつまで経っても絶えることがないのだと私は考えます。戦争では多くの市民が犠牲になります。このことをイエスさまがどんなに悲しんでおられ、涙を流しているか、このことを魂のレベルで感じることができるなら、戦争を行うことの罪を深いレベルで感じることができるでしょう。ですから多くの人の霊的な目が開かれて、霊的なイエスさまが戦争の惨禍を悲しんでいる姿が見えるようになるなら、世界は必ず平和になる方向に動いて行くだろうと私は確信しています。
おわりに
私たちの教会も聖書の学びを通じて霊的なイエスさまについての理解を深めて、地域の方々と霊的なイエスさまと出会うことの喜びを分かち合うことができるようになりたいと思います。人が宣べ伝えるイエスさまを信じて、自分自身でイエスさまと出会えるようになることは素晴らしい恵みです。このための伝道の働きを進めて行きたいと思います。
最後に、ヨハネの福音書4章の41節と42節を交代で読みましょう。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
お祈りいたしましょう。