平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

霊的なイエスとの出会い(2016.10.30 礼拝)

2016-10-31 19:59:40 | 礼拝メッセージ
2016年10月30日礼拝メッセージ
『霊的なイエスとの出会い』
【使徒8:12~17】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。先週は、この使徒の働き8章からキリスト教の宣教が新しい段階に入ったことを、ご一緒に学びました。7章までは、イエス・キリストの教えはエルサレムの中でしか宣べ伝えられていませんでした。しかし、ステパノへの迫害をきっかけにして教会への激しい迫害が起こり、教会員たちはエルサレムの外へと散らされて行きました。そうして教会員たちは散らされて行った先々で、イエス・キリストを宣べ伝えました。この使徒の働き8章にはピリポがサマリヤで伝道した時のことが記されています。

強くつながっている使徒8章と使徒4章
 この使徒8章の学びは、この教会では既に何度も繰り返し行って来ていますね。ここはヨハネの福音書の4章でイエスさまがサマリヤの人々と出会った箇所と非常に強くつながっているので、ヨハネの福音書の学びの時に、この使徒の働き8章を繰り返し開きました。きょうもまた、ヨハネの福音書4章とのつながりについて、語らせていただきます。
 なぜ私が使徒8章とヨハネ4章とのつながりを重視するかと言うと、この二つを絡めて読むことで、聖霊を受けると私たちの内側には、どのような変化がもたらされるかが、よくわかるようになるからです。結論を先に言うなら、私たちは聖霊を受けると霊的なイエスさまと出会うことができるようになります。そして、多くの人々が霊的なイエスさまに出会うなら、世界は必ず変わり、平和な方向に向かうと私は信じています。私が牧師として召し出されたのは、多くの方々が霊的なイエスさまと出会うためのお手伝いを、ヨハネの福音書を用いて行うことであると今や私は確信しています。ですから、どうしてもこのことをやり遂げなければなりません。そのために、ヨハネの福音書は霊的なイエスさまに出会うことができる書であることを繰り返し発信続けるつもりです(いまの段階では説教をブログにアップすることで、そして来年には本を出して、そこを足掛かりにして、さらに活動を発展させて行きたいと願っています)。

聖霊を受けたサマリヤ人たち
 まず使徒の働き8章を簡単に見ましょう。12節から見ます、

8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

 ここに「しかし」とあるのは、この前のいくつかの節に魔術を使うシモンのことが書かれているからです。このシモンについては省略します。
 この12節にはサマリヤの人々がピリポが宣べ伝えたことを信じてバプテスマを受けたことが書かれています。しかし、聖霊は受けていませんでした。16節に、「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかった」とあります。ピリポが授けたバプテスマでは誰も聖霊を受けなかったのは何故なのか、その理由はよくわかりません。
 これは私の推測ですが、ユダヤ人ではないサマリヤ人が聖霊を受けた出来事は画期的な出来事ですから、教会のリーダーであったペテロがその現場に立ち会う必要があったのではないか、そのように私は考えます。ペテロはこの後、使徒10章で異邦人への最初の聖霊の注ぎの現場にも立ち会っています。
 キリスト教会を一つにまとめ上げて行く上で、イエスさまの一番弟子であったペテロが、サマリヤ人への最初の聖霊の注ぎと異邦人への最初の聖霊の注ぎの現場に立ち会うことが必要だったのではないか、そうでないとイエス・キリストの福音が無秩序に広がって行き、まとまりがなくなってバラバラになってしまう恐れがあります。それを防ぐために神様は先ずは一番弟子のペテロに重要な現場に立ち会わせたのではないか、私はそんな気がしています。
 14節と15節には、ペテロとヨハネがサマリヤに出かけて行き、人々が聖霊を受けるように祈ったとあります。そして17節、

8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 こうしてサマリヤ人たちは聖霊を受けました。さて、このようにして聖霊を受けたサマリヤ人たちは、霊的にどのような変化があったのでしょうか。そのことを書いているのが、ヨハネの福音書4章です。既に何度も説明していますが、今回また改めて説明します。

聖霊を受けるばかりだったサマリヤ人たち
 ヨハネの福音書4章を開いて下さい。28節から30節までを交代で読みます。
 
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 ヨハネ4章ではイエスさまは弟子のペテロたちと北方のガリラヤ地方に行くためにサマリヤ地方を通っていました。そして4章の前半ではイエスさまは町のはずれにある井戸端でサマリヤの女と話をしました。そのサマリヤの女が28節では井戸のある町のはずれから町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
 そうして町の人々は町を出て井戸端にいるイエスさまのほうへやって来ました。ここで大事なことは、町の人々が、女が言った「キリスト」ということばに反応して、イエスさまのほうへ行くという行動を起こしたことです。すべては、ここから始まります。
 町の人々は女が何か言っても無視をして全く話を聞かないという選択肢もあったでしょう。或いは話だけは聞いたとしても、「それが何か?」という冷たい反応を示すことだって有り得たはずです。
 私たちが周囲の方々を教会にお誘いする時が正にそうですね。話を適当に聞き流すか、「また今度ね」などと言うか、あまりまともに取り合ってもらえないことがほとんどではないでしょうか。しかし、サマリヤの人々は女の言ったことに関心を示して、井戸端にいたイエスさまのところにやって来ました。
 このサマリヤの人々がやって来たのを見て、イエスさまはペテロたちに言いました。

4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 「色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、聖霊を受けるばかりになっているということです。このようにヨハネ4章は使徒の働き8章の状況を重ねています。使徒8章でサマリヤの人々は、ピリポの話に耳を傾けて、ピリポの話を信じました。これは、本当にすごいことです。なぜならピリポはユダヤ人だからです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしていませんでした。しかし、サマリヤ人たちは魂の渇きを感じていたのでしょう。ピリポの話を聞いて信じました。
 ヨハネ4章のサマリヤの女の場合も、使徒8章と状況は同じです。サマリヤの女にはかつて夫が5人いて、いま一緒にいるのは夫ではないとイエスさまは言っています。そういう女の言うことを、人々は普通なら簡単には信じないでしょう。しかしヨハネの4章のサマリヤの人々も魂の渇きを感じていたのでしょう。女が「キリスト」と言ったことに反応して、イエスさまに会いに行きました。これが正に聖霊を受けるばかりになっている状況です。

聖霊を受けて霊的な目が開かれたサマリヤ人たち
 続いてヨハネ4章の37節と38節、

4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 種を蒔いたのはピリポで、刈り取ったのがペテロとヨハネであることが、使徒の働き8章を読むとわかります。聖霊が注がれるとイエスさまの弟子となって教会につながりますから、ペテロとヨハネは収穫を得たことになります。労苦をしたのはピリポで、ペテロとヨハネは労苦をせずに収穫することができました。
 続いて39節から42節までを交代で読みましょう。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 この箇所からわかることは、聖霊を受けるには、まずは他の人の言うことを信じる必要があるということです。そうして信じて聖霊を受けるなら霊的な目が開かれますから、霊的なイエスさまと出会うことができます。そしてまた霊的なイエスさまがおっしゃることを自分の霊的な耳で聞くことができるようになります。
 聖霊を受ける前は、霊的な目が開かれていませんから霊的なイエスさまを見ることはできません。霊的なイエスさまの御声も聞くことはできません。ですから、まずは他の人の話を聞いて信じる必要があります。或いは聖書を読んで信じる必要があります。この聖書を信じることが、多くの人はできていません。たとえばアメリカには多くのクリスチャンがいますが、聖書を部分的にしか信じていないクリスチャンがほとんどなので、聖霊が注がれているアメリカ人は非常に少ないだろうと思います。ほとんどのアメリカ人のクリスチャンは霊的な目が開かれていない、形だけのクリスチャンだろうと思います。

戦災の廃墟で涙を流すイエス
 このことを私は非常に残念に思っています。戦争が絶えないのも、それゆえだろうと私は考えています。もし霊的なイエスさまが見えているなら、イエスさまが戦争によって破壊された町の中で悲しんでいる姿が見えるようになります。
 最後に、これもまたよく開いている箇所ですが、ヨハネの福音書11章で、イエスさまがラザロの墓に行く途中で涙を流した箇所をご一緒に読みましょう。11章の32節から35節までを、交代で読みます。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

 ここでイエスさまは、なぜ霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されたのでしょうか。表面上はラザロの死を巡ってのことですが、霊的な領域では尋常ではないことが起きていることに私たちは気付かなければなりません。
 ここでイエスさまは、滅亡して廃墟になったエルサレムの町を眼の前にして、涙を流しています。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって破壊され、神殿は火を付けられて炎上しました。このバビロン軍によるエルサレムへの攻撃を前にして、エレミヤは盛んに警告を発していました。しかし、エルサレムの人々はエレミヤの警告に耳を傾けることはありませんでした。
 この時、霊的なイエスさまはエレミヤと共にいて警告を発していました。ヨハネ10章1節の、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」というイエスさまの言葉はバビロン軍の攻撃を前にしたエレミヤの警告です。ですから、イエスさまは霊的な存在としてエルサレムが攻撃される前の現場にいたのでした。それなのに、マリヤが「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いたので、イエスさまは霊の憤りを覚えたのでした。彼らがエレミヤと共にいた霊的なイエスさまの警告に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかったのです。
 ヨハネの福音書の深層部には、このように人々の住む町が戦争によって破壊されて廃墟になったことを悲しむイエスさまの姿が描かれています。このことに気付かれていないから、戦争がいつまで経っても絶えることがないのだと私は考えます。戦争では多くの市民が犠牲になります。このことをイエスさまがどんなに悲しんでおられ、涙を流しているか、このことを魂のレベルで感じることができるなら、戦争を行うことの罪を深いレベルで感じることができるでしょう。ですから多くの人の霊的な目が開かれて、霊的なイエスさまが戦争の惨禍を悲しんでいる姿が見えるようになるなら、世界は必ず平和になる方向に動いて行くだろうと私は確信しています。

おわりに
 私たちの教会も聖書の学びを通じて霊的なイエスさまについての理解を深めて、地域の方々と霊的なイエスさまと出会うことの喜びを分かち合うことができるようになりたいと思います。人が宣べ伝えるイエスさまを信じて、自分自身でイエスさまと出会えるようになることは素晴らしい恵みです。このための伝道の働きを進めて行きたいと思います。
 最後に、ヨハネの福音書4章の41節と42節を交代で読みましょう。

4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 お祈りいたしましょう。
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受け継がれる信仰(2016.10.26 祈り会)

2016-10-27 05:17:36 | 祈り会メッセージ
2016年10月26日祈り会メッセージ
『受け継がれる信仰』
【ヘブル11:8~10】

11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

はじめに
 前の2週間ほどはノアとアブラハムの間の期間についての箇所について、思いを巡らしました。今週からはアブラハムの時代に入って行きたいと思います。ヘブル11章ではアブラハムについて、かなり長い記述がありますから、何回かに分けてアブラハムの箇所を見ることにしたいと思います。

イサクとヤコブに引き継がれたアブラハムの信仰

 きょうは11章の8節から10節までをご一緒に読みました。この箇所で私は9節の後半の、アブラハムが同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしたという箇所に目がとまりました。どうして、この箇所に私の目がとまったのか、それは多分、つい最近、召天者記念礼拝と教団創立記念礼拝があって前の世代から今の世代への継承、そして次の世代への継承について考えたからだろうと思います。そして、つい先日の幹事会においても、新会堂の問題について、融資の返済は次の世代が責任を持って引き継いで行くということが意識されました。これまでに新会堂の問題について数え切れないぐらい話し合いを重ねて来ましたが、次の世代が責任を持って返済を引き受けるということがハッキリと意識されたのは、今回が初めてではなかったかと思います。このことは、非常に良いことだったなと思います。どれくらいの融資を受けるかによらず、新会堂は次の世代が受け継ぐことになります。たとえ融資がゼロであったとしても、会堂の維持管理と修繕は次の世代が引き継いで行くことになります。ですから、今回の幹事会で次の世代が責任を持つということが意識されるようになったことは、とても良かったなと思います。
 イサクもヤコブも親の世代から信仰を受け継ぎ、次の世代へと引き渡して行きました。そうしてヤコブの次の世代がイスラエル12部族の祖先になりました。創世記を読むならイサクの時代にもヤコブの時代にも、それぞれにドラマがあったことがわかります。特にヤコブを興味深く思います。ヘブル書からは、はずれますが(ヘブル書はアブラハムの信仰について書いているので)、ヤコブについて少し考えながら、今の私の問題意識について語らせていただきたいと思います。

元気だった若者から元気がない若者へ

 ヤコブは、本来は兄のエサウのものであった長子の権利を横取りしてしまいました。そういう意味では革命児的なところがあると思います。父親のイサクの場合は、アブラハムがモリヤの地でイサクを全焼のいけにえとして捧げようとした時に抵抗せずに従順に従いました。その時のイサクの心情がどうであったか聖書は記していないのでイサクの内面のことはわかりませんが、表面上を見る限りでは大人しくアブラハムに従いました。しかし、もしアブラハムの息子がヤコブであったなら、ヤコブが大人しく従ったとは思えません。ヤコブは上の者たちが言うことに黙って従うタイプではない、革命児的なタイプの人間でした。ヤコブも年老いた時には角が取れたように思いますが、若い時には反骨精神が旺盛でした。
 日本が大きく変わった幕末から明治維新に掛けて、そして第二次世界大戦の敗戦後も、ヤコブのような若者たちが活躍した時期であったと思います。この時期は日本におけるキリスト教の宣教が大きく伸びた時期でもあります。明治の初期にキリスト教が広まった時期には新島襄や内村鑑三など士族出身の若者たちの働きが大きく貢献しました。71年前の敗戦後の時代も若い人たちが大勢教会に押し寄せました。良くも悪くも若い人々に元気があり、暴れていました。しかし、戦後、歳月が流れるにつれて若者は社会の中では段々と大人しくなって行ったように思います。
 たとえば日米の安保条約に関しては1960年と1970年に、これに反対する学生デモが大規模に行われました。私は70年と80年の間の、75年から78年に掛けて高校時代を過ごし、大学生の時に1980年を迎えました。あれは確か77年の高校3年生の時だったと思いますが、70年の安保条約改定の反対デモに学生時代に参加した経験がある若い社会科の教師が、私たち高校生に向かって、「80年のデモは君たちが行うんだよ」とあおっていました。しかし、1980年には何も起こりませんでした。

おとなし過ぎた80年代の若者
 今、あの頃を振り返ってみると、私たちの世代はもしかしたら、おとなし過ぎたのかもしれないという気がしています。この1980年頃から、当時の若者のことが「新人類」と言われるようになり、60年と70年にデモを行った世代と大きく違うということが言われました。そうして今の若者たちは新人類の子供たちの世代になりました。そうして今の若い世代には、野党ではなくて与党を支持する若者が多いようです。一昔前までは、若者と言えば権力に反対して野党を支持する者が多いのが普通だったと思いますが、今の若者は与党を支持する者たちが多いようです。それは、つまり現状で良いということで、世の中を変えようという思いがあまり無いと解釈して良いのではないかと思います。そうして、最近では与党の自民党の総裁が、これまでは2期6年までしか務められなかったのを延長することになったそうです。一昔前までだったら、そんなことは党内の若手が猛反対したことと思いますが、今は上の言うことに大人しく従うようになってしまっているようです。
 そして、こんな世の中になってしまったのは、今の若者が悪いのではなく、私たち80年代に学生時代を過ごした世代がおとなし過ぎたせいではないだろうかと、いま私は思わされています。
 キリスト教会も、私たちの上の世代が大きく増やした教会員を、私たちの世代は維持するだけで、そうして私たちの次の世代に引き渡そうとしています。これでは教会が縮小するのも当たり前だという気がします。私たちの世代がしっかりしなかったせいで今日を招いているようで申し訳ないような思いがしています。

今こそが挽回の時
 いま私たちの世代は50代です。昔なら引退が視野に入っている時期です。しかし、私はここへ来て私たちの世代の活躍が目立ち始めているように感じています。私たちの上の世代が若い時から元気だった分、私たちの世代が目立つのが遅れましたが、上の世代が引退して行ったからでしょうか、大きな働きをしているように思います(50代なら当たり前かもしれませんが)。
 私も、神様が教えて下さった、ヨハネの福音書がどういう書であるかということを世の人々に宣べ伝える働きを、11月に入ったら加速させたいと思います。9月に原稿を書き上げ、この1ヶ月は映画をたくさん観たり、私が少額出資している映画の応援をしたりしていましたが、11月からは再びアクセルを踏み込んで行きたいと願っています。
 このことが新会堂の建設にも良い方向に影響を及ぼすと良いなと思っていますが、会堂の建設は教会員の皆さんが主体となって決めて行くのが良いと思いますから、そのための霊性を皆さんが整えられるよう、貢献できたら幸いだと思っています。

おわりに

 アブラハムの信仰がイサクとヤコブに受け継がれて行ったように、私たちの教会の信仰も次の世代に受け継がれて行くよう、神様は教え導いて下さいますから、神様の御声に耳を傾けて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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新しい宣教の始まり(2016.10.23 礼拝)

2016-10-24 08:35:12 | 礼拝メッセージ
2016年10月23日教団創立記念礼拝メッセージ
『新しい宣教の始まり』
【使徒8:1~8、14~17】

はじめに
 10月21日はイムマヌエル綜合伝道団の創立記念日でした。この私たちの教団が創立されたのが終戦直後の1945年のことでしたから、今年で71年になりました。そして各教会では毎年この時期に教団創立記念礼拝を行うことにしています。
 さて私が牧師になってから今年で5年目ですから、今年私は牧師になってから5回目の教団創立記念礼拝を執り行っていることになります。そうして蔦田二雄先生が教団を創立したことが、いかにすごいことかという思いが私の中で年を経るごとに増し加わっています。私は教会を開拓した経験はなく、元々ある教会を前任の先生から引き継いだだけです。ですから、そんな私から見ると、一つの教会を新たに開拓するだけでも凄いことなのに、ましてや教団を創立して自前の神学校まで設立するとは本当に凄いことだと思います。
 私が牧師になってから受洗者が与えられていないのは、もちろん私に足りないところが色々とあるからだと思っていますが、時代がそういう時代であるからとも思っています。私自身の努力不足を時代のせいにするつもりはありませんが、かつて多くの人々に洗礼を授けた先生方でも昔ほどには多くの受洗者が与えられていないのは事実ですから、やはり時代の影響も大きいのだと思います。そして、今という時代がどういう時代なのか、なぜ戦後の時代は受洗者が続々と与えられて、今はそれほどではないのかを、しっかりと考えることも大切だろうと思っています。
 そこで、きょうの教団創立記念礼拝のこの機会に、教団の創立期の戦後の時代と今の時代を比べながら、今という時代について考えてみることにしたいと思います。その前に、きょうの聖書箇所を見ておきましょう。

エルサレムの外に出た宣教
 きょうは使徒の働きの学びの続きで8章の始めのほうを開きます。使徒の働きの続きではありますが、教団創立記念礼拝にふさわしい箇所でもあるのではないかと思います。まず8章1節、

 8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

 前回学んだ7章に、ステパノがエルサレムのユダヤ人たちに石で打たれて殺されたことが書かれています。そして、サウロがステパノを石で打った人々の着物の番をしていたことが7章の58節に書かれています。そして、この日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こりました。そして使徒たち以外の者はみな、エルサレムの周辺の諸地方に散らされたことが記されています。続いて2節と3節、

8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 サウロは乱暴な方法で人々を捕らえて牢に入れました。しかし、このことによってキリスト教は新たな局面に入りました。これまではエルサレムにいる人々だけにしか教えが届きませんでしたが、エルサレムを出て教えが宣べ伝えられるようになりました。このことが4節以降に記されています。4節と5節、

8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 キリストの教えは北方へも南方へも広がって行きました。南方へ広がって行った教えはエジプトのアレクサンドリアやアフリカ方面へも伝わって行きました。そちらの南方方面への伝道活動については、使徒の働きは書いていません。使徒の働きの記者のルカは、北方への教えの広がりを中心に書いています。ルカは北方への宣教についてはパウロに同行して良く知っていますから、自分の知っていることをしっかりと記録することに専念したのだろうと想像します。そして、まずはピリポのサマリヤ伝道の働きについて書きました。6節から8節、

8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。

 サマリヤの人々はピリポの話に耳を傾けたとルカは記しています。こうしてエルサレムを出た宣教が開始されて行きました。

精神的な支えを求めている人々
 きょうの箇所で注目したいのは、一つはいま話した通りのエルサレムの外に宣教を開始したということです。そして、もう一つは6節にあるように、サマリヤの人々が耳を傾けたということです。サマリヤの人々が耳を傾けたということは、サマリヤの人々も何かを求めていたということだと思います。すべてに満ち足りていれば、ユダヤ人のピリポの言うことに耳を傾けることはなかったでしょう。なぜなら福音書に記されているようにユダヤ人とサマリヤ人との関係は良くなくて付き合いをしていなかったからです。
 さて、ここから71年前の終戦後の教団創立時の時代と今の時代について考えて行きたいと思います。終戦後の日本で多くの人々がキリスト教会に押しかけた要因の一つには、アメリカを始めとする欧米の国々が日本に多くの宣教師を派遣したこともあると思いますが、日本人の側でも求めていることがあったからだと思います。敗戦後に物質面のダメージだけでなく精神面でもダメージを受けていた日本人は精神面での支えを求めていたのだと思います。そして、キリスト教会がその求めに上手く対応して行くことができたのだと思います。その時代に創立された私たちの教団の教会にも多くの人々が集い、教会も次々と開拓されて行きました。そうして、ますます多くの人々がキリスト教会につながって行きました。
 しかし、現代においては皆さんご承知の通り、人々が続々とキリスト教会に押し寄せるということはありません。では、現代の人々は精神的な支えを何も求めていないのか、と言えば決してそんなことはないでしょう。オリンピックやパラリンピックの若い選手たち、高校野球の選手たちなどが良く口にしていますが、試合で良いプレーをして結果を出し、人々を励ましたいとか勇気を与えたいなどと言います。人々を励ます存在になりたいということは、人々は励ましを求めているということなのでしょう。そういうものを多くの人々、特に若い人は求めているということでしょう。敗戦後の人々はそれを求めて教会に行きました。しかし、今の人々は教会にはほとんど期待をしていません。教会でそういう精神的な支えが得られるとは、思っていません。私自身も15年前に教会に辿り着くまでは、教会で精神的な支えが得られるとは思っていませんでした。私自身も精神的な支えの必要を感じて、探し求めてはいましたが、それがまさか教会で見つかるとは思ってもいませんでした。たまたま訪れた教会で見つけることができました。

期待以上に面白かった映画

 では、今の人々は精神的な支えがない期間、どのような精神状態でさまよっているのでしょうか。私はそのヒントが、いま大ヒットしている映画の中にあるかもしれないと感じています。私は10月に入ってから少し時間ができましたから、映画館で映画を何本も観ました。私は最近は専ら清水町のサントムーンで映画を観ています。このサントムーンの良い所は、週3回は1,100円の割引料金で映画が観られることです(メンバーズデイ2回とメンズデイ1回)。しかも6回観ると1回を無料で観られますから、1回あたり約940円で観ることができます。それで、時間ができたこの機会に、大ヒットしている映画の『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の2本も観ておくことにしました。この2本について、当初は観ようとは思っていなかったのですが、大ヒットして非常に多くの人がこの映画を観たということですので、人々が何を求めているのかを知る機会にもなるかもしれないという思いもあって観ることにしました。そして、この『シン・ゴジラ』と『君の名は。』を観た結果、とても面白かったので、もっと早くに観ておくべきだったと思い、大いに反省しました。
 何を反省したかと言うと、次のようなことです。私はこの2本の映画について自分で勝手にカテゴリー分類していて、『シン・ゴジラ』は怪獣映画、『君の名は。』は恋愛映画であろうと思っていました。そして、怪獣映画ならこんな感じだろうから特に観に行かなくても良いだろう、恋愛映画ならこんな感じだろうから特に観に行かなくても良いだろうと勝手に思っていました。しかし2つの映画は私の予想を裏切って、これらの分類枠を越えた、もっとスケールの大きなものでした。そして私のように予想を上回る面白さを味わった観客がとても多かっただろうと思います。それほど観に行きたいとは思っていなかったけれど観に行った友達が強く勧めるので、無視したら悪いと思って人間関係優先で観に行ったら、期待以上に面白かったという感じの人が多かったのではないかなと思います。映画はストーリーが分かっていると面白さが半減してしまいますから、私たちは人に話す時、なるべくストーリーをばらさないようにします。しかし、一番面白い部分をばらさないでいると私のような者は勝手にこの程度であろうと予想して、それなら観に行かなくて良いだろうと思い、観ないで済ませてしまいます。ですから、映画の公開前に、どの程度までストーリーをばらすかは本当に難しい問題だと思います。
 このことについては、教会もよく似た点があると思います。教会に初めから期待して行く人はほとんどいないと思います。知人に勧められて仕方なしに行くというケースがほとんどだろうと思います。しかし、行ってみたら予想を裏切られて遥かに良いものを感じて、翌週以降も通うようになるのだと思います。私がそのパターンでした。初めて高津教会を訪れた時に藤本先生の説教に引き込まれて、翌週以降も毎週通うようになって洗礼にまで導かれました。そういう意味で、そういう説教ができていない私は力不足を感じますから、もっとそのような説教者になれるよう努力しなければならないことを感じています。
 それには現代の人々のニーズをもっと把握する必要もあるだろうと思います。そういうわけで、きょうは『シン・ゴジラ』と『君の名は。』について、さらに語らせていただきます。これから話すことにはネタバレが含まれることをご容赦いただきたいと思います。100%のネタバレはしませんが、ストーリーの重要な部分には踏み込みます。公開されたのが、『シン・ゴジラ』が7月の末、『君の名は。』が8月の末で、どちらもだいぶ日数が経ちましたから、ネタバレが含まれることをご容赦願いたいと思います。

似た面がある『シン・ゴジラ』と『君の名は。』
 まず『シン・ゴジラ』です。時代は現代です。ゴジラは現代の東京に現れました。そして、そのゴジラがあまりに強いので、最後には核兵器を使用しなければゴジラを倒すことができないというところまで、人間は追い込まれます。既にここに至るまで自衛隊だけでは防ぎ切れなかったために外国軍に応援を要請していましたから、諸外国は核兵器を使用すべきと強硬に主張していました。しかし、東京で核兵器を使用すれば、東京は壊滅します。そのため、核兵器の使用を何とか回避すべく多くの人々が動員されて軍事攻撃ではない方法でゴジラの生命活動を停止させる大作戦が決行されます。もし、その作戦が成功しなければ核兵器が使用されることになります。そして東京はメチャメチャになりながらも期限の時刻ギリギリで核兵器の使用だけは何とか回避してゴジラの生命活動を停止させることに成功します。
 ゴジラの出現は日本の国民にとって全く想定していなかったことでした。しかもゴジラは放射能を撒き散らしていました。そうして東京は大きなダメージを受けましたから、これは東日本大震災を思い起こさせることです。ゴジラの被害も東日本大震災も対応が後手に回って甚大な被害をもたらしましたが、最悪の事態だけは免れたことも似ています。
 そして『君の名は。』のほうも、私は高校生の男女の小さな恋の物語かと思っていたら、映画の後半では天災による大災害に人々が巻き込まれる展開へと大きく動いて行きます。小さな恋の物語かと思っていたら、ものすごくスケールの大きな展開になりましたから予想を裏切られて大変に面白く感じました。そして、『シン・ゴジラ』と同様に『君の名は。』においても、天災の大災害から人々を救おうと主人公たちが動きました。この主人公たちの勇気ある行動に励まされた観客は多いだろうと思います。そして、『君の名は。』ではさらに、ヨハネの福音書のような時間を越えた働きがあったことも、私は大いに心を動かされました。

現代の人々は何を求めているのか
 以上、話して来たように、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は全然タイプの違う映画であるようでいて、実は大きな展開としては似ている面があると言えます。そして、この2つの映画がこの夏から秋に掛けて大ヒットしたことに、現代の人々が何を求めているのかを考えるヒントが隠されているように感じます。最後に、そのことを短く考えてみたいと思います。
 東日本大震災以降、日本人の多くは、このような大災害の被害にいつ自分も遭うかわからないという漠然とした不安を抱えていると思います。ゴジラの出現はほぼないでしょうが、巨大な台風や竜巻、火山の噴火など、それまで経験したことがない災害にいつ遇ってもおかしくないという不安感を多くの人が持っているのではないかと思います。東日本大震災があった2011年より前だったらゴジラの出現など荒唐無稽で、ただのお話に過ぎないと受けとめられたと思いますが、2011年以降は何があってもおかしくないという漠然とした思いがあると思います。そして、もし実際にそのような大災害の危険が迫った時に自分はどう行動するだろうかという思いも漠然と思っているのかなと思います。
 映画では『シン・ゴジラ』においても『君の名は。』においても、大災害の初期段階では、多くの人々が事態を甘く見ていて、警告を発する人々を馬鹿にします。しかし、やがてその警告が本当のことになり、人々はうろたえます。
 ここまでをまとめてみて、これは聖書の世界とほとんど同じであることに気付かされます。聖書では人々は預言者たちが発する警告に耳を傾けず、むしろ預言者たちを迫害しました。そうしてその後で痛い目に遇いました。すると神に立ち返りますが、やがてまた神から離れてまた痛い目に遇うということを繰り返して来ました。或いはまた第二次世界大戦後の日本も同様であったと言えそうです。戦時中の日本では教会が迫害を受けたり無視されたりしましたが、敗戦後には多くの人々が教会に押し寄せました。
 すると、2011年の東日本大震災の後でも、もっと多くの人々が教会に来ても良かったのではないかという気もします。しかし、今回はそうはなりませんでした。その代わりに、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』を上映している映画館に多くの人々が押し寄せるという現象が起きました。これは一体どういうことでしょうか。人々は何を求めているのでしょうか。私はここに多くのヒントが隠されているように思います。
 私は人々が求めていることは昔も今も変わらず、「魂の平安」を求めているのだと思います。しかし、そのことに気付かせるには時代の変化に応じた方法が必要なのだろうと思います。今という時代は昔に比べたら魂の領域のことに気付いてもらうことが、ずっと難しい時代になっていると感じます。しかし突破口は必ずあるはずです。

おわりに
 使徒の働きでは8章に入ってキリスト教は新たな段階に入りました。私たちも東日本大震災から5年を経て、今こそ新たな段階に入って行く必要があるのではないか。今年の教団創立記念礼拝の機会に、私はそんなことを思い巡らしました。これからの私たちがどんな伝道の働きをして行ったら良いのか、これは新会堂の問題とも密接に関連することですから、神様の御声に耳を傾けながら、ご一緒に進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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現代のバベルの塔(2016.10.19 祈り会)

2016-10-19 21:27:11 | 祈り会メッセージ
2016年10月19日祈り会メッセージ
『現代のバベルの塔』
【ヘブル11:7~8、創世記11:1~9】

はじめに
 先週と今週は、ノアとアブラハムの間の箇所を見ることにしています。ですから、きょうもヘブル書11章の箇所は7節と8節です。7節はノアの箇所で、8節はアブラハムの箇所です。交代で読みましょう。

11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 イスラエルの歴史はアブラハムから始まりました。そしてアブラハムの孫のヤコブの十二人の息子たちがイスラエル十二部族の祖先になりました。ヤコブの家族たちはカナンの地がききんで食べる物に困った時にエジプトに移住して、そのまま住み着きました。そしてエジプトの地でイスラエル人たちは、おびただしく増えました。そのイスラエル人たちを神はモーセをリーダーにしてエジプトから脱出させて約束の地のカナンに向かわせました。そして、その途中のシナイ山のふもとで律法を授けて、皆が律法を守ることで一つになり、神と共に歩むことができるようにして下さいました。
 しかし、人々は神と共に歩むことが下手で、神様から離れてばかりいました。そこで神は今度はイエス・キリストを遣わして十字架に掛け、イエスが死んでから三日後によみがえらせました。そして、このイエスを信じるなら聖霊を受けて、御霊によって人々が一つになることができるようにして下さいました。
 アブラハムの物語は、このイスラエルの長い物語の始まりです。神様は私たちが一つになることができるように、まずアブラハムから始めて、イエスさまを十字架に掛けました。しかし、アブラハムの前に人類は一度、ノアの洪水によって滅ぼされています。そしてノアの家族だけが残りました。ですから人類はノアの子孫たちです。
 そういうわけで、ノアの家族が一つになっていれば、神様はアブラハムに始まってイエスさまの十字架に至るイスラエルの歴史を開始させる必要は無かったわけです。しかし、ノアの家族は一つになってはいませんでした。そのことを先週見ました。もう一度、見ておきたいと思います。創世記9章の21節と22節をお読みします。

9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

 このようにノアの息子のハムは父を尊敬していませんでしたから、ノアの家族は一つになっていませんでした。

神の領域に届く塔の建設を企てた人々
 そして、きょう見るのがバベルの塔の箇所です。創世記11章の1節から9節までを交代で読みましょう。

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 奇妙なことですが、人は神様の下では一つになることができないのに、このようにバベルの塔を建設して神の領域に達しようとする企ての時には、一つになろうとするのですね。神のように偉くなりたいという欲望のもとでは一つになりたがることは、非常に危険なことです。それで神様は人々のことばを混乱させ、彼らを世界中に散らせることにしました。そうしてアブラハムから始めてイエスさまに至るまで、もう一度、一つになることをやり直させることにしました。

現代のバベルの塔
 さて、きょうバベルの塔の箇所を読んだ、この機会に、いま私が「現代のバベルの塔」として危惧していることを話したいと思います。それは科学研究のあり方です。今年のノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大隅先生が記者会見の席で話していましたが、いま研究の現場では基礎研究が非常にしづらい環境になっているということです。私もかつては大学で研究の現場にいましたから、そのことはよくわかります。
 しかし、私が研究の現場から離れてもう8年以上が経ってしまいました。そして、今の状況は8年前の状況よりも、もっと悪くなっているようです。どんな研究にでも使っても良い研究費がどんどん削られて、短期で成果を上げることが重視される競争資金の獲得が重視される傾向が益々強まっているようです。
 このための研究資金を獲得するために、自分はこういう研究をして、3年ないし5年以内にこれだけの成果を挙げますという研究計画書を提出するわけですね。こうして研究計画を作成して資金を得なければ、研究がほとんどできないということになってしまっているようです。
 これは、後で話すことに比べれば、まだマシだと思いますが、それでも良くない点があります。それは自由な発想に基づいた研究がやりづらくなるということです。短期に成果を挙げる目標ばかり見据えていると、研究の過程で思い掛けない発見があっても多くの場合、見逃してしまうことでしょう。
 そして信仰との関係で言えば、神様の語り掛けを聞き逃すということにもつながります。
 神様は信仰を持っていない者に対しても、いつも語り掛けています。そうして人を信仰に導こうとしています。私自身も、まだ信仰を持っていなかった時から神様は語り掛けていて下さり、そうして教会に辿り着きました。この経験から、私は神様はすべての研究者に対しても語り掛けを常に行っていると確信しています。そうして、一人一人の研究者を信仰に導くと同時に、人類にとって有用な研究テーマへも導きます。
 短期で成果を挙げるタイプの研究が重視されると、この神様の語り掛けが聞こえにくくなってしまいます。それでも、自分で研究テーマを自由に考えて研究計画を申請するタイプの研究は、まだマシだろうと思います。私が危惧するのは、文部科学省や経済産業省が旗振り役になって、たとえば人工知能の研究をすれば研究資金を潤沢に提供しますよ、というタイプの研究です。
 もちろん、このタイプの研究も必要ですし、人工知能の研究と言っても多岐にわたりますから、その中で自由に発想する余地はあります。しかし、それに全くの自由から比べると、やはり大きな制限があります。これこそが私が「現代のバベルの塔」として危惧していることです。特に人工知能の研究はバベルの塔に非常に近いと私は感じています。こうして人は、神様の語り掛けに対して、どんどん鈍感になって行きます。

霊的な領域の深層部に鈍感な私たち
 最後にヨハネの福音書の11章を開きたいと思います。既に何度も話していますが、今後、私はこの箇所について、繰り返し取り上げることになるだろうと思っています。
 ヨハネ11章の32節から35節までを交代で読みましょう。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

 これはイエスさまがラザロの墓に向かう途中で涙を流した場面です。
 イエスさまはラザロを深く愛していました。しかし、ここでイエスさまが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたことに私たちは尋常ではない何かを感じ取らなければなりせん。ラザロの死だけではない何かがここにはあります。このイエスさまの「霊の憤り」には私たち読者の魂を揺さぶる力があります。ですから私たちはこの場面の表層だけを見るのではなく、深層部にまで思いを巡らせなければなりません。
 もう、何度も繰り返し話して来たことですが、ここでイエスさまが愛していたラザロとは、イエスさまが深く愛していたエルサレムのことでもあります。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって滅亡してしまいました。この11章の表層部の下にある深層部にエルサレムの滅亡があることは、前後の関係から明らかです。
 このことに私たちは、これまで気付かずに来ました。昔の人々が気付かなかったのは仕方のないことだろうと思います。文字を読むことが出来る人はわずかであり、その中でも聖書を実際に手に取って、じっくり読むことができた人はもっと限られていたからです。しかし、現代においては文字を読めない人は少なくなりました。そして聖書も手軽に持つことができるようになりました。それゆえ莫大な数の人々が聖書に接しています。それなのにヨハネ11章の深層部にエルサレムの滅亡が隠されていることに気付かれていません。そればかりでなく、私が指摘しても、まだこのことの重大さに気付きません。
 これは一体どういうことなのか、私にはよくわかりません。そして人工知能による支配が加速されて行った時、いったいどうなってしまうだろうかと私は非常に危惧を感じています。その時には神様は介入されるのだと思いますが、その前に神様は手を打って下さっているのかもしれません。

おわりに
 いずれにしても、バベルの塔の話は大昔の話ではなく、現代の話でもあるということを指摘しておきたいと思います。先日の礼拝でもノアの箱舟の話は大昔の話ではなく、現代の話でもあると話しました。神様はこうして聖書を通して私たちに警告を与えて下さっています。
 私たちはこの神様の御声をしっかりと聞くことができる者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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継承されて行く箱舟造り(2016.10.16 召天者記念礼拝)

2016-10-17 04:42:59 | 礼拝メッセージ
2016年10月16日召天者記念礼拝メッセージ
『継承されて行く箱舟造り』
【創世記6:5~18】

はじめに
 きょうは召天者記念礼拝に多くの方々に集っていただくことができて、大変にうれしく思います。心より感謝申し上げます。
 昨年の召天者記念礼拝もやはり10月の中旬に持たれました。そして、この1年間でこの会堂の周辺の状況が大きく変化しましたから、きょうのメッセージの後半では、この1年間にあったことを簡単に振り返らせていただくことにしています。その前に、前半では、きょうの聖書箇所の創世記のノアの箱舟の箇所をご一緒に見たいと思います。
 教会は、「現代のノアの箱舟」と呼ばれています。そうして、信仰の先輩たちによって、この箱舟が造られ続けて来ました。この教会で言えば、週報の3ページ目に記した、既に天に召された信仰の先輩方です。これらの先輩たちによって私たちの教会は作られ、維持されて来ました。この教会もまたノアの箱舟です。では、なぜ教会が現代のノアの箱舟なのか、このことを前半でご一緒に学びましょう。

ノアの箱舟
 ノアの箱舟の話は、聖書にあまり馴染みがない日本人であっても、ほとんどの人が良く知っている有名な話だと思います。このノアの箱舟の話は一昨年には『ノア 約束の舟』という題名で映画にもなり、沼津でも上映されましたから、私も観に行きました。ただ、聖書の記述とだいぶ違っていたので、観てガッカリもしました。それでも聖書の物語に多くの日本人が触れる機会があったことは良かったのではないかなと思っています。
 さて、既に話した通り、教会は現代のノアの箱舟と呼ばれていますから、ノアの箱舟の話は、決して何千年前も前の大昔の話ではなく、現代の話でもあります。ただし、ノアの箱舟と現代の教会とでは異なる点も色々とあります。どこがどう違うのでしょうか。そのことを話す前に、先ずは創世記のノアの箱舟の記事に書かれていることを、ご一緒に簡単に見ておきたいと思います。
 創世記6章5節を、私の方でお読みします。

6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 ノアの時代、神様の目から見ると人は悪いことばかり考えていました。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛めました。そして主はこう仰せられました。7節です。

6:7 「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 「地の面から消し去ろう」とは、大洪水を起こして流してしまおうということです。そんな中でも8節と9節にあるように、ノアは神様の御心にかなった正しい人であり、神様と共に歩んでいました。しかし、その他の人々は違いました。11節と12節をお読みします。

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

 それで神は、堕落した者たちを大洪水で滅ぼしてしまおうと考え、ノアに箱舟を造るように命じました。

6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。

 そしてこの箱舟にノアとノアの家族たち、そして動物たち一つがいずつが入るように言いました。そして、少し飛ばして22節をお読みします。

6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

 きょうの聖書朗読でお読みした箇所は、ここまでですが、もう少し読み進めます。ページをめくっていただいて、7章の15節と16節をお読みします。

7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。
7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

 こうしてノアとノアの家族、そして一つがいの動物たちが箱舟に入ると、神様は箱舟の後ろの扉を閉じました。扉はノアが閉じたのではなく、神様が閉じたということを覚えておきたいと思います。そして17節と18節、

7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。
7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。

 こうして箱舟に入った者たち以外は洪水で流されて滅びてしまいました。
 駆け足で読みましたが、以上がノアの箱舟の話の概略です。そして、このことは現代でも起きることだと私は先ほど言い、しかしノアの箱舟と現代の教会とでは異なる点もあると言いました。

現代の教会とノアの箱舟とで異なる点

 次に、この異なる点を3点に絞って話をします。先に挙げておくと、

 ①現代の教会においては全ての人々に対して門戸が開かれている
 ②現代における滅びとは魂の領域、霊的な領域の話である
 ③現代の教会の扉はまだ閉じられていない

の3点です。
 まず第一の異なる点です。ノアの時代には箱舟に入ることができた人間はノアとノアの家族だけでしたが、現代の教会では、全ての人々に対して門戸が開かれています。教会の門が閉じる前に教会に入るなら、誰でも滅びを免れることができます。この第一の点については、そんなに説明する必要はないと思いますから、次の第二の点に進ませていただきます。
 ノアの箱舟と現代の教会とで異なる第二の点は、ノアの洪水では人々が流されて滅んでしまいましたが、現代の教会においては、これは魂の領域の話であるということです。
 どういうことかと言うと、例えば2011年の東日本大震災では多くの人々が津波で流されて亡くなりました。その中にはもちろんクリスチャンも含まれていたことでしょう。或いはまた、2004年のインドネシアのスマトラ沖で起きた地震による津波では、多くのクリスチャンが命を落としたことが知られています。クリスチャンだから自然災害を免れることができるということは決してありません。これらのクリスチャンは亡くなってしまいました。しかし、ここからが重要なのですが、これら津波で流されたクリスチャンの魂が滅びたわけではありません。神を信じる者にとって、この世は仮の住まいであって、目指すべき本当の住まいは天国にあります。ですから、この世で津波に流されて命を落としたとしても、天国へ行くわけですから魂は滅びず、それは単に仮の住まいから本来の住まいへと移動したに過ぎません。
 このことは、きょうの聖書交読でお読みしたヘブル書のアブラハムの箇所にも、そのように書かれています。ヘブル人への手紙11章をもう一度開きましょう(新約聖書p.438)。11章の13節をお読みします。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 アブラハムは地上では旅人であり、この世においては約束のものを手に入れることはありませんでした。私たちの教会で既に天に召された私たちの信仰の先輩たちも同じです。先輩たちも、この世では旅人であり、この世にいる間は約束された天国を手に入れることはありませんでした。しかし、この世を去るなら、さらにすぐれた天の故郷である天国に行くことができます。少し飛ばして16節をお読みします。

11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 神様は天国を用意しておられました。これで第二の異なる点もご理解いただけたことと思います。ノアの時代に洪水によって流された人々は魂も滅びてしまいました。それは不信仰な人々だったからです。しかし、現代のノアの箱舟である教会に入ったクリスチャンは違います。たとえ津波で流されたり、台風や火山の噴火などの自然災害や交通事故に遭ったり、或いは病気などで命を落としたりしたとしても、魂が滅びるわけではありません。この世においてはすべての人は旅人であり、本来の故郷である天国を目指します。そして箱舟である教会に入ってクリスチャンになるなら、天国へ行くことが約束されます。
 では天国に行けなくて魂が滅ぼされた時にはどうなるのでしょうか。実は聖書にはその場合の記述がほとんどありません。天国の記述に関しては黙示録の21章と22章など、それなりにありますが、天国に行けなかった場合の記述はルカの福音書に死んだ金持ちがハデスで苦しんだという記述がわずかにある程度でハッキリしたことはわかりません。ただ、そのハデスの描写は仏教で言われているような地獄によく似た描写がされていることは、とても興味深いことだと思います。ですから、そういう地獄のような所があるのかもしれません。しかし教会はすべての人に門戸を開いていて、この教会に入るなら、魂が滅びることはありませんから、地獄のことを想像する必要はないわけです。

まだ閉じられていない扉
 そして第三の異なる点は、教会の扉はまだ閉じられてはいないということです。先ほど読んだノアの箱舟の箇所では神様が箱舟の扉を閉じたことが記されています。そうして神様は大洪水を起こしてノアとノアの家族以外の人々は滅びました。しかし、現代の教会の扉は、まだ閉じられてはおらず、すべての人々に門戸が開かれています。
 では、教会の扉はいつ閉じられるのでしょうか。それは神様しかご存知ではありませんから、私たちにはわかりません。明日かもしれませんし、来年かもしれませんし、何百年後かもしれません。いわゆる終末と呼ばれる終わりの日に教会の扉は閉じられます。この時までに教会に入っていない者は滅びます。
 終わりの日がどういう形で来るのかも、私たちにはわかりません。一つの可能性は核戦争が起きることです。朝鮮半島から核ミサイルが発射されて、それが核戦争に発展するかもしれません。アメリカで過激な発言を繰り返している共和党の大統領候補が大統領になれば、その危険はさらに高まることになるでしょう。
 この終わりの日が来ると、使徒信条に書いてある通り、イエス・キリストが再び来て、私たちを生ける者と死にたる者とに分けます。すなわちイエス・キリストが再臨して永遠の命へ入る者と永遠の滅びに入る者とに選別します。これがいわゆる「最後の審判」と呼ばれる裁きです。この終わりの日が何百年後かになるようでしたら、私たちは既に眠りに就いていますから、この日に起こされて最後の審判の場に立たされます。
 核戦争が無くても、地球はいつか必ず滅びますから、終わりの日は必ず来ます。なぜなら何十億年か経てば太陽が今のままではなくなるからです。太陽は燃料の水素を使い果たしたら今の太陽ではなくなります。その時に地球がどうなるかは、いくつかのパターンが考えられるようで必ずしもハッキリしませんが、何十億年か後には地球は人類が住めない環境になることは確かです。この時が終わりの日なのかもしれません。
 この何十億年も後のことが、まだ遠い未来の話だと思ってはなりません。なぜなら私たちが一旦眠りに付けば、次に起きる時まで時間の流れを意識することはないからです。何億年経とうと、終わりの日が来て起こされたなら、昨日の晩に寝て今朝起きたのと同じように感じることでしょう。そうして永遠の命に入るか、永遠の滅びに入るかの裁きを受けることになります。
 神様は私たちを愛して下さっていますから、私たちのすべてが永遠の命に入ることができるように教会の門戸を開いて人々を招いています。神様はイエスさまを十字架に付けて私たちの罪を赦して下さいましたから、私たちは皆、教会に入るなら滅びを免れることができます。教会にいる私たちはその神様の働きのお手伝いをしています。既に天に召された私たちの先輩も、その神様の働きのお手伝いをして来ました。

新しい箱舟の必要

 その神様の働きのお手伝いの中でも大きな位置を占めるのが、教会の会堂の維持でしょう。教会の会堂は神様が与えて下さいます。その会堂を私たちは維持して行かなければなりません。そして古くなれば新しく建て替えなければなりません。キリスト教会は二千年の間、延々とこれを繰り返して来ました。私たちの沼津教会も49年前の設立以来、M兄姉のお宅に始まって、いくつかの借家時代を経て33年前の1983年に、この今沢の土地と建物を取得しました。以来、この地域の人々に門戸を開き、現代のノアの箱舟の働きを続けて来ました。
 しかし、今のこの箱舟も老朽化が進んで傷みが激しくなって来たために、新しい会堂の建設を模索することになりました。ここまでが、一年前までの状況です。一年前の9月に私たちの教会は南隣にある土地を購入して新しい会堂の建設用地とすることを決定しました。そして、この決定を一年前の召天者記念礼拝のご案内の文書の中でも報告し、礼拝の中でも説明をしました。
 その一年前には、まだ隣にアパートがあり、住人の方々もいました。その住人の方々も11月と12月に転居して今年の1月にアパートの解体工事が為されて更地になりました。そうして、2月に地主さんと売買契約を結びました。また、3月には県庁から非課税証明が発行されて法務局への登記も完了し、名実ともに私たちの教会の土地になりました。そして今、私たちはこの土地に新しい会堂を建てるための準備を整えているところです。資金の関係で隣に建てるのは礼拝堂だけにして、牧師は今のこの会堂に住み続ける予定ですから、この会堂を今しばらく使い続けることができるように、6月には会堂の外側の修繕工事も行いました。
 これらの一連の出来事の中には、神様の導きがあったと確信しています。その確信は、様々な偶然が重なったことによります。これらの偶然の一つ一つは、起きる可能性が非常に低いことばかりです。その可能性の低いことが立て続けに起きましたから、これらは偶然ではなくて神様がそのように導いて下さったのだと私たちは考えています。
 まず資金面ですが、私が前任の先生から会堂建設の積立金を受け継いだ時には、これではとうてい会堂建設に踏み出せないという積立金額でした。しかし、屋根の老朽化が思っていた以上に深刻であることがわかり、新しい会堂の建設に向けて一歩を踏み出し始めると、不思議と会堂献金が祝されるようになって、隣の土地を買うことができるまでになりました。この隣の土地を買うに至った経緯にも、いろいろと不思議なことがありました。私たちが新会堂の建設を考え始めた、ちょうど同じ時期に隣の土地の地主さんも土地を売ることを考えていたということが、先ずはとても不思議な偶然でした。
 細かい話をいちいちしていると、時間が掛かりますので、その多くは省きたく思いますが、この教会の玄関の前の道路に下水が引かれることになったことも不思議な偶然です。下水の設備がなければ会堂を建てる場合、浄化槽を設置しなければなりません。それだけで多額の出費がありますが、素晴らしいタイミングで下水工事が行われることになりました。
 それから、隣の土地に建てるのは礼拝堂だけですから、この会堂の外側の修繕をする必要がありました。特に屋根の下の軒天井は穴が開いていて鳥が出入りするような状態になっていましたから、早く取り掛かったほうが良いと思っていました。しかし、その際には物置も撤去すべきと私は思っていましたから、物置の中の整理の手間のことなど考えると、なかなか踏み出せずにいました。すると、今年の4月に低気圧が通過した時に強い風が吹いて屋根を囲っている鉄板の一部が脱落してしまいました。この風の災害の修繕に保険金が降りることになり、保険金によって足場を組む費用や、屋根の囲いの修繕の一部、玄関の修繕費も賄われることになりましたから、このタイミングで外壁の塗装も含めた大規模な修繕ができて本当に感謝でした。この風が吹いた日も素晴らしい偶然でした。風が吹いたのがちょうど日曜日で、しかも会堂の設計を担当して下さっているA兄が、来て下さっている時でした。それで応急処置もA兄がやって下さり、修繕業者もA兄が紹介して下さったので、保険金の手続きも迅速に進めることができました。もし風で屋根の囲いが脱落したのが平日だったら、私は一人でオロオロしていたと思いますが、日曜日に風が吹き、しかも他の教会の教会員であるA兄がたまたま教会に来ていた日であったのは、本当に素晴らしい偶然であったと思います。
 このように、あまりに多くの素晴らしい偶然が重なりましたから、これは神様の御業が行われている証拠であると私たちは確信しています。ですから、必ず新しい礼拝堂が建つと確信しています。さてしかし、それが何時のことになるのかは、私たちはまだよくわからないでいます。神様が最善のタイミングで最善の規模の礼拝堂を与えて下さるであろうと確信していますが、今はまだよくわかりません。祈りつつ、神様の御声に耳を傾けて行きたいと願っています。

おわりに
 初めにも言った通り、教会は現代のノアの箱舟です。神様はすべての人々を愛しており、すべての人々を救いたいと願っていらっしゃいます。そのために神様は私たちに教会の会堂を与えて託して下さり、沼津の地域の方々に向けて門戸を開いています。49年前にM兄のご家庭を間借りしての礼拝に始まり、借家時代を経て、この今沢の地では33年前にその働きが始まりました。そうして既に天に召された信仰の先輩たちが、この神様の働きのお手伝いをして来て下さいました。そして今、私たちはその神様の働きのお手伝いを先輩方から継承し、これからも続けて行き、後の世代に引き渡して行きます。この働きは神様が終わりの日に教会の扉を閉じる時まで続けられます。ですから、神様は必ず私たちに新しい礼拝堂を与えて下さいます。
 このことを信じて、これからも私たちは神様と共に歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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ノアとアブラハムの間(2016.10.12 祈り会)

2016-10-13 08:33:44 | 祈り会メッセージ
2016年10月12日祈り会メッセージ
『ノアとアブラハムの間』
【ヘブル11:7、8】

はじめに
 祈り会ではヘブル書11章を少しずつ読み進めながら、該当する創世記の箇所を開いて学んでいます。きょうはまずヘブル書11章の7節と8節を読みます。7節は先週読んだノアの箇所で、8節はアブラハムの箇所です。交代で読みましょう。

11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 こうしてアブラハムがカナンの地に入って、イスラエルの歴史が始まります。アブラハムは信仰の父と呼ばれ、アブラハムの孫のヤコブの12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先になりました。
 それで、きょうの学びでは創世記のアブラムがカナンに向けて出立した箇所を開こうかと思っていました。しかし、創世記を開いて読んでみて、やはりノアとアブラハムの間を飛ばしてはいけないなと思いました。
 私はノアの時代とアブラハムの時代の間に何があったのかを、しっかり押さえておくことが非常に重要だと考えています。以前、礼拝でも話したことがありますが、このことをまた、確認しておきたいと思います。

人類が一つになることを祈ったイエス
 このことのために、先ずはヨハネの福音書を開くことにします。ヨハネ12章の32節と33節を交代で読みましょう。

12:32 「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

 イエスさまの十字架は、バラバラになっている人々を十字架という一つの場所に集める大きな力を持っています。イエスさまは最後の晩餐の直前に、このように人々に言いました。
 そして最後の晩餐の締めくくりの天の父の祈りで、弟子たちが一つになるようにとイエスさまは祈りました。これまで何度も開いている箇所ですが、ヨハネ17章の20節から22節までを交代で読みましょう。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

 20節でイエスさまは、この最後の晩餐の場にいる弟子たちのためだけでなく、弟子たちが宣べ伝えることばによってイエス・キリストを信じる人々のためにも、一つであるようにと祈りました。つまりイエスさまは、全人類が一つになるようにと祈りました。
 そして、ヨハネ19章の19節と20節を交代で読みましょう。

19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

 この十字架の罪状書きがヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書かれていたということは、ヘブル語を使う人々も、ラテン語を使う人々も、ギリシヤ語を使う人々も十字架のもとに集められることを象徴していると私は考えます。つまり、十字架によってイエスさまが祈った全人類が一つになることが成就します。

もともとは一つの家族だった人類
 さてしかし、そもそも人類はノアの洪水の後にはノアの家族しか残りませんでした。そしてバベルの塔が建設されるまでは、人類は一つのことばしか使っていませんでした。それが、バベルの塔を建設するという不信仰な行いをしたために、神様が人々のことばを混乱させたのでした。
 ですから、もしノアの家族たちと子孫たちが皆、神と共に歩む信仰深い人々であったなら、人類はバラバラにならずに済み、イエスさまが十字架に付く必要もありませんでした。しかし、そうはならなかったのですから、このことは人がいかに神様から離れやすい性質を持っているかということを良く示していると思います。私はこの、ノアの時代とアブラハムの時代にあったことをしっかりと押さえておくことが、とても大切だと感じています。そうしないと、なぜ神様がアブラムに対してカナンの地に向かうように命じたのかを理解することができないだろうと思います。
 前置きが長くなりましたが、創世記9章の18節から29節までを交代で読みましょう。

9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」
9:26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、【主】を。カナンは彼らのしもべとなれ。
9:27 神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
9:29 ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 18節と19節にあるように、全世界の民は、ノアの三人の息子たちのセム、ハム、ヤペテから別れ出ました。このうち、セムの子孫にアブラハムがいて、ハムの子孫がカナン人になりました。アブラハムは、このカナン人の地のカナンに神の命令を受けて入って行きました。26節に、「ほめたたえよ。セムの神、【主】を。カナンは彼らのしもべとなれ」とありますね。ノアはカナンに呪われよと言っています。それはカナンの父のハムがノアを敬っていなかったからです。22節に、「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた」と書いてある通りです。一方、セムとヤペテは23節にあるように着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父ノアの裸をおおいました。セムとヤペテは顔をそむけて、父の裸を見ませんでした。
 このようにセムとヤペテは父を敬っていましたが、ハムは父を敬っていませんでした。ノアも酒に酔って裸で寝ていたのですから、悪い点もありましたが、ノアが神の声を聞いて箱舟を作ったから息子のハムは箱舟に入ることができて滅びを免れたのですから、もっと父を敬うべきでした。このようにノアの家族というたった一つの家族でも、このような有様でした。
 そうして、彼らの子孫たちがバベルの塔の建設を企てることになりました。このバベルの塔の箇所は、また来週見ることにしたいと思います。

おわりに
 きょう確認しておきたいことは、洪水で滅びることがなかったノアの息子たちが皆、正しい人であったなら、皆が神と共に歩み、それでメデタシメデタシとなる筈だったということです。本来ならそうなるべきでした。しかし、そうならなかったところに人間の罪深さがあり、私たちがいかに神様から離れやすい性質を持っているかということが、このノアの家族の例だけからでもわかると思います。ヘブル書11章が記しているような立派な信仰を持っていた者たちは、ほんの一握りで、人類の大半は不信仰な者たちでした。そして、私たちもイエス・キリストを信じる前は、そのような不信仰な者でした。
 アブラハムを学ぶ前に、まずはこのことを、しっかりと押さえておきたいと思います。そして先に救われた私たちは、滅びへと向かっている多くの人々を救いに導く働きに励みたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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イエスを十字架に付ける者たち(2016.10.9 礼拝)

2016-10-11 09:14:53 | 礼拝メッセージ
2016年10月9日礼拝メッセージ
『イエスを十字架に付ける者たち』
【使徒7:51~60】

はじめに

 きょうの使徒の働きの学びは7章からです。7章の学びはきょうの1回で終わらせて、次回は8章の学びに入りたいと思っています。とは言え、きょう開いている7章の終わりの方は、既に何回か開いている箇所です。きょうはここから『イエスを十字架に付ける者たち』というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。
 きょうのタイトルのミソは、「イエスを十字架に付けた者たち」という過去形ではなく、「イエスを十字架に付ける者たち」というように現在形を使っているところにあります。イエスさまが十字架に付けられたのは1世紀の紀元30年頃の出来事だけではありません。それから数年後のこのステパノ殉教の出来事もまたイエスさまを十字架に付けたのと同じことを人々はしています。そして、このイエスさまを十字架に付ける行為はこの2千年間に無限に多くの回数行われて来て、現在でもまだ行われています。そして、私たちもまたイエス・キリストを信じる前は、イエスさまを十字架に付けたのと変わらないことをして来ました。きょうは、そのことをこの使徒の働き7章から学びたいと思います。

御霊と知恵に満ちていたステパノ
 まずはここに至った経緯を簡単に復習しておきます。使徒の働き6章から見て行きましょう。エルサレムの教会では教会員の数がどんどん増えていました。そして、それにつれて特に食卓のことで、もめごとも起きるようになり、使徒たちはその相談に乗らなければならなくなりました。そのため、本来の務めである祈りとみことばの奉仕が十分にできなくなっていましたから、新たに御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選んで、食卓のことを任せることにしました。その、御霊と知恵に満ちた評判の良い7人のうちの一人がステパノでした。ステパノについて使徒の働きは6章8節で、

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。

と書いています。
 そして、リベルテンの会堂に属する人々がステパノと議論をしましたが、対抗することができませんでした。リベルテンの会堂とは、かつてユダヤがローマに征服された時に捕らえられてローマに連行され奴隷として売られた人々がその後に解放されて戻り、その戻った人々が建てた会堂だということです。それゆえ、この人々が持つエルサレムの神殿で礼拝することへの思いには熱烈なものがあったと思われます。議論の詳しい内容は、書いてありませんからわかりませんが、概ね次のようなことではなかったかと私は想像します。ここでヨハネの福音書4章をご一緒に見ましょう。ヨハネ4章のサマリヤの女とイエスさまとが話をしている場面です。19節から24節までを交代で読みましょう。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 21節でイエスさまは、「父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」とサマリヤの女に言いました。そして使徒の働きの時代になって人々に聖霊が注がれるようになりましたから、ステパノの時代はまさにそういう時になっていました。それまではエルサレムの神殿に来なければ礼拝をしたことにはなりませんでしたが、聖霊が注がれる時代になってからは、場所には関係なく霊とまことによって礼拝する者が真の礼拝者であるということになりました。ステパノは恐らくはこのようなことを、リベルテンの会堂に属する人々と議論していたのではないかと想像します。

ステパノを石で撃ち殺したユダヤ人たち
 この霊とまことによる礼拝は、決してモーセの律法を軽視しているわけではありません。しかし、エルサレムの神殿で礼拝することに熱烈な思いを持っている人々にとっては、モーセの律法を軽視しているように見えたことでしょう。
 使徒の働きに戻ります。6章の11節と12節、(私のほうでお読みします)

6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。

そしてさらに、13節と14節、

6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

 そして7章に入ります。1節、

7:1 大祭司は、「そのとおりか」と尋ねた。

 ここから2節以降にステパノの長い演説のことばが記されています。ここでステパノは旧約聖書に書いてあることを正しく述べていますから、ステパノがモーセと神とを汚す考え方の持ち主ではないことがわかります。議会の人々も文句の付けようがなかったことでしょう。しかし、きょうの聖書箇所の51節以降から、雲行きが変わります。

7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

 ステパノから見れば、イエス・キリストを信じようとしない人々は皆、聖霊に逆らっている人々でした。そして52節、

7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 イエス・キリストがこの世に来ることを旧約の時代の預言者たちは預言していましたが、その預言者たちをユダヤ人の父祖たちは迫害していました。そして、イエス・キリストがこの世に来た時、彼らはこのイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまいました。
 そして53節と54節、

7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

 ステパノから見れば、イエス・キリストを信じない人々は律法を守っていない人々でした。しかしユダヤ人たちは、自分たちは律法を守っていると思っていましたから、はらわたが煮え返る思いで歯ぎしりしました。そして、次のステパノのことばでついに堪忍袋の緒が切れました。55節と56節です。

7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

これを聞いてユダヤ人たちは、57節、

7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

こうしてステパノはユダヤ人たちに石で打たれて殺されました。この現場にはサウロもいたことを使徒の働きは記しています。

クリスチャンへの迫害はイエスを十字架に付けたのと同じ
 この7章の流れを見ると、ユダヤ人たちはステパノが旧約聖書の話をしている時にはステパノの言うことを聞いていました。しかしステパノがイエス・キリストに言及した途端に激しく怒り、ステパノを殺してしまいました。つまり、ユダヤ人たちはイエス・キリストを十字架に付けたのと同じことを、またしても行ったのだと言えます。ステパノを石で打って殺したことは、イエス・キリストを十字架に付けて殺したのと同じことです。この現場には、イエスさまを十字架に付けた時に「十字架に付けろ」と叫んだ者たちもたくさんいたことでしょう。しかし、十字架の時にはいなかった者たちも、このステパノ殉教の現場にはいました。パウロがそうですね。パウロはユダヤ人たちがイエス・キリストを十字架に付けた現場にはいませんでしたが、数年後のステパノ殉教の現場において、イエス・キリストを十字架に付けました。そして、この時以降、パウロはイエスさまを信じる者たちへの迫害を過激に行いました。8章3節には、次のようにあります。

8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 こうしてパウロはイエスさまを十字架に付けることを何度も何度も繰り返し行いました。
 イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたクリスチャンの中にはイエスさまがいますから、クリスチャンを迫害することはイエスさまを十字架に付けるのと同じことです。そして、このことは現代においても行われています。現代の日本では迫害と言えるほどのことはありませんが、世界においてはクリスチャンであるというだけで殺されることもあります。
 ただし、このような暴力的なことでなくても、キリスト教の教えを無視することは日本でも多く行われています。これもまたイエスさまを十字架に付けるのと同じことです。ですから私たちもまた、かつてはイエスさまを十字架に付けた者たちでした。なぜ暴力的なことを行わなくてもイエスさまを十字架に付けることになるかというと、それはペテロたちのことを考えればわかるでしょう。
 ペテロたちはイエスさまが逮捕された時にイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。イエスさまが逮捕されたことが十字架へとつながって行くわけですから、逮捕されたイエスさまを見捨てることはイエスさまを十字架に付けたのと同じことだということになります。
 私自身のことを言えば、私は今でこそキリスト教会の牧師をしていますが、教会に通うようになる前には、教会に誘ってくれたクリスチャンの誘いを何度も冷たく断りました。これはイエスさまを見捨てることであり、つまりイエスさまを十字架に付けたことになります。そしてイエスさまを見捨てるということは神様を見捨てることですから、重大な罪です。しかし、神様はこんな私たちの重大な罪を赦して下さいました。それは神様が私たちを愛して下さっているからです。ヨハネの手紙第一に書いてある通りです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

おわりに
 きょうは使徒の働き7章からステパノがユダヤ人たちによって石に打たれて殺された場面を見ました。これはイエスさまを十字架に付けたのと同じことでした。そして私たちはこの出来事を二千年前の他人事として読むのでなく、私たちもまたかつてはイエスさまを見捨てて、イエスを十字架に付けた者たちであることに思いを馳せたいと思います。そして、神様はこんな私たちをも愛して下さり、赦して下さったことに感謝したいと思います。私たちは、この神様の大きな愛に感謝して、霊に燃えて主に仕え、イエスさまの福音を地域の方々に宣べ伝える者たちでありたいと思います。
 最後に、使徒7章の59節と60節を交代で読みましょう。

7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 お祈りいたしましょう。
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教会は現代のノアの箱舟(2016.10.5 祈り会)

2016-10-06 08:46:04 | 祈り会メッセージ
2016年10月5日祈り会メッセージ
『教会は現代のノアの箱舟』
【ヘブル11:7、創世記7:11~16、マタイ25:1~13、黙示録21:1~7】

11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

はじめに
 祈り会では8月の最終週にヘブル12章を開き、9月の第1週からヘブル11章の学びを始めました。これまでアベルとエノクの信仰に思いを巡らし、きょうはノアの信仰についての箇所です。
 これまでのアベルとエノクの箇所でも、創世記を開きましたから、きょうも創世記のノアの箇所を開きますが、ご承知のように、創世記のノアの箇所はアベルとエノクの箇所に比べると少し長いです。どのような学びにしようかと考え始めた、ちょうどその頃に、きょうの祈り会の後に会堂建設の打ち合わせをすることになりました。それで創世記のノアの箇所は会堂のことと絡めるのが良いだろうと思いました。去年の5月に彦根教会の献堂式に参加した時に、創世記のノアの箇所が開かれたことを思い出したからです。そしてまた、この創世記のノアの箇所は今月の16日の召天者記念礼拝でも開くべきというアイデアも示されました。召天者記念礼拝でのメッセージでは、会堂問題にも触れたいと願っているのですが、どの箇所を開くかは、悩ましく思っていたのです。それが、今回の祈り会でノアの箇所と会堂建設を絡めるアイデアが示されましたから、召天者記念礼拝もこれで行くことに決めることができて幸いでした。
 ただ、きょうのメッセージと16日の召天者記念礼拝のメッセージとはあまり重ならないほうが良いと思います。それで、きょうの祈り会のメンバーの皆さんは、ノアが箱舟を作ることになった経緯はよくご存知だと思いますので、きょうは神様が箱舟の扉を閉じた箇所をご一緒に見ようと思います。そして16日には、ノアが箱舟を作ることになった経緯の方を中心に学ぶことにしようかなと思います。

神が閉じた戸
 では、きょうは先ず創世記7章の11節から16節までを、ご一緒に見ましょう。交代で読みます。

7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。
7:12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。
7:14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。
7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。
7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

 教会の会堂は、現代におけるノアの箱舟であるということが言われます。箱舟に入った者は救われ、入らなかった者は滅びます。現代の教会においてはすべての人に門戸が開かれています。教会に来て、イエス・キリストの福音に触れて、イエス・キリストを信じるなら、誰でも救いの恵みに与ることができ、滅びから免れることができます。一方、ノアの時代には、人はノアとノアの家族しか入ることができませんでした。他の者たちは入れてもらえなかったというよりは、神様から心が離れていましたから、ノアが作っていた箱舟には見向きもせず、これから恐ろしいことが起こることも知らずに、ただ飲み食いしていました。それは現代においても同じだと言えるでしょう。
 そうしてノアが箱舟を作り終えた時に、今ご一緒に読んだ創世記7章11節にあるように、神は天の水門を開いて大雨を降らせました。同じ日にノアとノアの家族、そして動物たちが箱舟に入り、16節にあるように神は箱舟の戸を閉じました。箱舟の扉はノアが閉じたのではなく、神様の方で閉じたのですね。

終わりの日に閉じられる戸
 この、戸が閉じられたという箇所を読む時、新約聖書の福音書の中で思い出す箇所がありますでしょう。マタイの福音書の賢い娘と愚かな娘の箇所ですね。きょうは、この箇所もご一緒に見ることにしたいと思います。マタイの福音書25章の1節から13節までを交代で読みましょう。

25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
 
 この扉もまた、神様が閉じます。天の御国に通じる扉はいったん閉じられると、外からは決して中に入ることができません。この扉が閉じられるのは終末の最後の日ですが、私たちはこれがいつのことなのかは知らされていません。その日が来るまでは私たちは、好き勝手なことをしていても咎められませんが、このことの罪を悔い改めて扉の内に入らないのであれば、永遠に閉め出されることになります。

教会は現代のノアの箱舟
 そして私たちは、私たちの教会は現代のノアの箱舟として、この地域の方々に門戸を開き、お迎えします。現在も、この会堂を使って私たちは門戸を開いていますが、なかなか多くの方々をお迎えするには至っていません。そこで、もっと県道寄りの目立つ場所に会堂を建てるべく、いま準備をしているところです。
 先日の午後の会では、これからの聖書を読む会の持ち方について意見交換をしました。出された意見の中では、この聖書を読む会では、地域の方々も参加できるようなものにしたいという意見もありました。午前の礼拝は敷居が高くて出席を躊躇してしまうような方々でも、午後の会には参加できるようなものにできないだろうか、という意見です。このように私たちは、建物のことも考えつつ、建物の中での集会や催しごと、そして伝道のあり方についても、もっと活発に意見を出し合って、この地域の方々にできるだけ多く来ていただける工夫をしなければならないと思います。なぜなら、神様が教会の戸を閉じる時が、いつか必ず来るからです。それは明日かもしれませんし、数数百年後かもしれませんが、その日に備えて準備していなければなりません。

新天新地に向かう私たち
 そして私たちは、この働きをこの地域における小さな働きとしてではなく、神様が大きなスケールで進めておられる働きに参画しているのだという意識も常に持っていたいと思います。そうでなければ、私たちの活動は縮こまったものになってしまいます。神様の大きなスケールの働きの中では、新天新地の創造へと私たちは向かっています。
 最後に、黙示録21章の1節から7節までを交代で読みましょう。

 21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
21:6 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 私たちの新しい礼拝堂の建設も、神様のこの大きなスケールの働きの中に位置づけられています。ですから神様は最善の時に最善の規模の礼拝堂を私たちに与えて下さいます。ですから私たちは霊性を整えて、神様の御声がさやかに聞こえるように耳を傾けたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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捕らえられたステパノ(2016.10.2 礼拝)

2016-10-03 07:52:17 | 礼拝メッセージ
2016年10月2日礼拝メッセージ
『捕らえられたステパノ』
【使徒6:8~15】

はじめに
 きょうは使徒の働き6章の後半を学びます。先週は6章の前半を見た後で、使徒の働きの全体像について簡単に説明しました。使徒の働きは、ごく大雑把に言えば、前半がペテロ編で、後半がパウロ編です。使徒の働きの中盤ではペテロとパウロの両方が登場しますが、序盤にはペテロの働きが主に記され、中盤以降の後半にはパウロの働きが主に記されています。そして先週は、序盤から中盤に掛けてのペテロ編の大きな流れについて解説しました。

使徒の働き「ペテロ編」の大きな流れ
 簡単に振り返っておくと、ペテロ編では大きな流れとして、まずガリラヤ人への聖霊の注ぎの出来事があり、次いでユダヤ人への聖霊の注ぎ、それからサマリヤ人への聖霊の注ぎ、そして異邦人への聖霊の注ぎの出来事がありました。そして、異邦人への聖霊の注ぎがあったことで、異邦人の救いの問題で大論争が起きました。いわゆる「割礼派」と呼ばれる人々は、異邦人は例えイエス・キリストを信じて聖霊を受けたとしても割礼を受けなければ救われない、と主張していました。しかし、異邦人へ伝道していたパウロたちはイエス・キリストを信じる信仰によって人は聖霊を受けて救われるのだから、割礼を受けたか受けていないかは救いには何の関係もないと主張していました。この問題が大論争に発展したために、この問題を解決するためにエルサレムで会議が開かれることになりました。このエルサレムの会議のことは使徒の働き15章に記されていますから、15章まで学びが進んだら、また改めて詳しく見ることにしたいと思います。
 このように、使徒の働きの中盤から後半に掛けての時代においてはイエス・キリストの福音は異邦人の間に広く伝わるようになっていました。そして、この異邦人への伝道のきっかけとなったのが、ステパノへの迫害でした。ステパノがエルサレムで人々に殺されたことをきっかけにして教会に対する激しい迫害が起こり、教会員たちはエルサレムの周辺の地方へと散らされて行きました。そうしてイエス・キリストの教えは急速に広い地域へと広がって行くことになりました。

リベルテンの会堂の人々の陰謀
 きょうの6章の後半にはステパノが捕らえられた時のことが記されています。あとで福音書をご一緒に見ますが、ステパノが捕らえられた場面はイエスさまが捕らえられた時と状況が非常によく似ています。先ずはステパノ場面を見て行きましょう。
 ステパノは、6章5節に記されているように信仰と聖霊に満ちた人でした。8節から見て行きます。

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。

 ステパノが行っていた「すばらしい不思議なわざとしるし」がどのようなものであったか、ここには具体的なことは書かれていませんが、5章の16節にあるような、病人を癒したり、汚れた霊に苦しめられている人々を癒したり、というようなことなのでしょう。続いて9節、

6:9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。

 「リベルテンの会堂」というのは、聖書辞典には次のように書いてあります。

「リベルテンはラテン語のリベルティノスから来たことばで、『自由を得た者』の意味。紀元前63年ローマのポンペイウス将軍がユダヤを征服した時に捕らえられ、ローマに連行されて奴隷として売られた人々で、彼らのうちのある者は解放されて自国に帰り、エルサレムで自分たちの会堂を造ったと言われている。」(『新エッセンシャル聖書辞典』、一部改変)

 このようにリベルテンの会堂とは、かつてローマで奴隷になっていたユダヤ人たちが自国に戻った時にエルサレムに造った会堂だということです。そのリベルテンの会堂に属する人々でクレネ人やアレキサンドリヤ人、それにキリキヤやアジヤから来た人々がステパノと議論をしたということです。
 何を議論したのかは書いてありませんが、かつてローマに連行されて奴隷になっていた人々というのは、強制的にユダヤから離されていましたから、過越の祭りの時などにエルサレムへ行って神殿で礼拝することが、したくてもできませんでした。ですから神殿で礼拝することへの思い入れは相当に強かったであろうと思います。一方、ステパノはギリシャ語を話すユダヤ人であり、聖霊に満たされていた人でしたから、神殿礼拝への強い思いは持っていなかったでしょう。ステパノもユダヤ人ですから神殿礼拝を軽視することはなかったと思いますが、過度に神殿礼拝に依存することはなかっただろうと思います。その辺りの神殿礼拝への思い入れの点でリベルテンの会堂に属する人々とステパノはぜんぜん合わなかったのだろうと想像します。
 続いて10節、

6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。

 知恵と御霊とに満ちた人と議論しても勝てる人はいないでしょう。リベルテンの会堂に属する人々はステパノに対抗することができませんでした。そこで11節、

6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。

 議論に負けたリベルテンの会堂の者たちはステパノを排除しようとたくらみました。彼らは人々をそそのかして、ステパノがモーセと神とをけがすことばを語っていると言わせました。しかし、ステパノはもちろん、モーセを汚すことも神を汚すことも言っていません。これは偽りの証言でした。そうして、12節、

6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。

 「彼を襲って捕らえ」とありますから、乱暴な方法で捕らえたのでしょう。そうして議会にひっぱって行きました。そして13節と14節、

6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

 この証言ももちろん偽りの証言です。このような実際とは異なる証言が為されたら、普通の人なら平常心ではいられないでしょう。怒ったり、あわてたり、動転したりして心が穏やかでいられることはありません。しかし、ステパノは違いました。15節、

6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

 ステパノは少しも動じずにいて、彼の顔は御使いの顔のように見えたということでした。ステパノはますます聖霊に満たされていたのですね。

よく似ているステパノとイエス
 先ほども言いましたが、このようにしてステパノが捕らえられた出来事は、イエスさまが捕らえられた時と非常によく似ています。きょうの残りの時間では、それを福音書を見て確認したいと思います。
 まずイエスさまが捕らえられた現場をマタイの福音書で見ましょう。マタイ26章47節をご一緒に読みましょう。

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。

 群集は剣や棒を手にしていたということですから、彼らは乱暴な方法でイエスさまを捕らえようとしていました。
 また、偽りの証言をさせたことにおいてもステパノの場合とイエスさまの場合は似ています。続いてマタイ26章の59節から61節までを交代で読みましょう。

26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。
26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、
26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」

 イエスさまはご自身が三日目によみがえることは弟子たちに何度も話していましたが、神殿をこわすとは言っていません。ですから、これも偽りの証言でした。しかしイエスさまは怒ったり否定したりすることなく黙っていました。62節と63節(私のほうで読みます)、

26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。

 そして最後に死ぬ場面もステパノとイエスさまとはよく似ています。今度はルカの福音書を見ましょう。ルカ23章34節をご一緒に読みましょう。

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 そしてイエスさまが息を引き取る時、イエスさまはおっしゃいました。ルカ23章46節です。

23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 ステパノの最期も、イエスさまのようでした。使徒の働き7章の59節と60節を交代で読みます。

7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 こうしてステパノが殺されたことが、キリスト教がエルサレムを出て広い地域に伝わって行くきっかけになりました。ステパノは「一粒の麦」になったと言えるでしょう。

おわりに

 最後にヨハネ12章24節の一粒の麦の箇所をご一緒に読みましょう。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 ステパノがイエスさまの弟子として働いた期間は短いものでしたが、一粒の麦として、とても大きな働きをしました。使徒の働きは大きく分けるとペテロ編とパウロ編に分けられると言いましたが、ペテロとパウロそしてステパノ以外にも、様々な働きをした弟子たちがたくさん登場します。そしてこれらのたくさんの弟子たちの一人一人には異なる役割が与えられていました。ステパノに与えられた役割は、イエス・キリストの教えが広い地域に広がって行くためのきっかけを作ることであったと言えるでしょう。
 私たちの一人一人にも、それぞれ異なる役割が神様から与えられています。私に与えられた役割は、ヨハネの福音書がどのような書であるかを多くの人々に伝えることを通じて平和のために働くことです。そして、皆さんのお一人お一人にも、それぞれ異なる役割が与えられています。ですから、私たちは自分に与えられた役割をよく自覚して、主のために働ける者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
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