インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

人となる前の霊的イエス(2015.11.29 礼拝)

2015-11-30 08:09:21 | 礼拝メッセージ
2015年11月29日アドベント第1礼拝メッセージ
『人となる前の霊的イエス』
【ヨハネ1:29~34】

はじめに
 きょうの礼拝はアドベント第1礼拝です。これからクリスマスまでは主のご降誕を待ち望む期間となります。この時期の教会での説教としては、マリヤが天使ガブリエルから受胎を告知されたことや、イエスさまが家畜小屋で生まれた時に羊飼いたちが見に行ったこと、そして東方の博士たちが拝みに来たことなどについて説教することが多いと思います。私も昨年まで、そのようにして来ましたが、今年は少し趣向を変えて、イエスさま人としてお生まれになる前と後の霊的イエスに思いを巡らすことをしたいと思っています。きょうは人となる前の霊的イエスに思いを巡らしたいと思います。

初めから存在したイエス
 イエス・キリストは母マリヤから生まれる以前から存在していました。このことは聖書交読で読んだヨハネの福音書のプロローグからわかります。1節から3節、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 下の脚注にもあるように、「ことば」とはキリストのことです。イエス・キリストは天地創造以前の初めから存在していました。そして14節にあるように、人として私たちの間に住まわれました。すなわち父ヨセフと母マリヤの子として生まれ、育ちました。
 ヨハネの手紙第一の記者ヨハネは、自分たちが人の子としての人間イエスを実際に見て触れたことがあると記しています。ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.465)。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 1節の「いのちのことば」とは、イエス・キリストのことです。このイエス・キリストの声をヨハネたちは聞き、姿を実際に見て、また手でさわりました。そして2節に、その証しをして伝えるとヨハネは書いています。その証しをして伝えるのは、この手紙の読者が記者のヨハネたちと交わりを持つようになるためです。その交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

イエスが神の子キリストと信じると霊的イエスに会える
 この手紙が書かれたのはヨハネの福音書が書かれた時からそれほど離れていない時期と考えられますから、1世紀の末頃のことでしょう。現代の私たちもそうですが、1世紀末の読者は地上生涯の人間イエスに会うことは決してできません。しかし人間イエスには会えなくても霊的イエスには会うことができます。その霊的なイエスさまに会うために人間イエスのことを知ることは大きな意味があります。なぜなら私たちは人間イエスが行われたことを信じて初めて霊的イエスに出会うことができるからです。人間イエスはご自身が神の子キリストであることの「しるし」を人々に示しました。このイエスが行われたことを信じるなら、その人には聖霊が注がれ、その聖霊の働きによって霊的イエスに出会うことが可能になります。ヨハネの手紙第一の1章3節は、そのことまでをも含めて言っていることでしょう。1章3節、

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 そして4節、

1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 こうして多くの人々に聖霊が注がれて御父および御子イエス・キリストとの交わりに入ることができるようになることはヨハネたちにとって大きな喜びであり、その交わりに新たに入ることができる私たちにとっても大きな喜びです。

いると信じて感覚を研ぎ澄ます
 そしてヨハネの福音書は、聖書にはいたる所に霊的なイエス・キリストがいることを教えてくれています。旧約聖書の中にもイエス・キリストはいますし、使徒の働きの中にもイエス・キリストはいます。このことをヨハネの福音書は教えています。
 さてしかし、このヨハネの福音書の中の霊的イエスは、ここには霊的イエスがいると信じている人には見えますが、いることを信じない人には見えません。
 このことを、まずは霊的な事柄から離れて説明します。
 私が好きなテレビ番組の一つに、『岩合光昭の世界ネコ歩き』というNHKのBSの番組があります。動物写真家の岩合光昭さんが世界あちこちの街中や郊外にいるネコの愛らしい表情を動画に撮って放送する番組ですが、その中に『ネコを探せ』というコーナーが時折あります。一見するとネコなどいないように見える風景の中にネコがいるので、それを見つけて下さいというコーナーです。ネコが風景の中に完全に溶け込んでいると、そこにネコがいるとは普通の人は思わないのですが、岩合さんは、そのような中からでもネコを見つけてカメラに収めています。一見ネコがいそうもない風景の中にもネコが必ずいると信じて見るから岩合さんにはネコが見えてくるんですね。そこにネコがいるとは思っていない人は、例え目の中にネコの姿が入っていたとしても、それをネコと認識することはありません。
 バードウォッチングで鳥を見つける時も同じです。私は教会に通うようになる前には、日曜日によくバードウォッチングの会に参加していました。日本語では探鳥会と言います。探鳥は「鳥を探す」と書きます。私がまだバードウォッチングの初心者だった頃、案内の人が「あそこにカワセミがいます」とか「あそこにメジロがいます」などと言う度に、よく見つけられるなと思ったものですが、慣れて来ると自分でも見つけられるようになって来ます。その際に大事なことは、どんな所にも鳥はいると信じること、そして目と耳を研ぎ澄ますことです。そうすると気配で鳥がいるのがわかるようになります。たとえば、少し木の葉が揺れたりした時、そこに鳥がいると思っていない人なら、単に風が吹いて木の葉が揺れただけだろうと思いますが、鳥がいると信じている者は、鳥が動いて木の葉が動いたと思います。そうしてそこを双眼鏡で見ると、実際に鳥がいるのが見えるわけです。
 恐らく動物写真家の岩合光昭さんの目と耳は、一般レベルのバードウォッチャーを遥かに上回るレベルで研ぎ澄まされているだろうと思います。どんな分野でも専門家と一般レベルの者との一番の大きな違いは、わずかな違いを見分けることができるかどうかという点にあると思います。音楽の専門家は音のわずかな違いを聞き分けることができます。料理の専門家は味のわずかな違いを舌で感じることができます。スポーツの専門家は体の動きのわずかな違いを見分けることができます。野球でもテニスでも、相撲やフィギュアスケートでもテレビの解説者は素人にはわからない細かい点を指摘して解説してくれます。それは解説者も元は選手で、ギリギリまで選手としての感性を研ぎ澄ませた経験を持っているからこそ、そういう細かい点が見えて来るのですね。

霊性を研ぎ澄まして見る霊的イエス
 聖書に戻ります。聖書の中の霊的イエスを探す場合は、霊性を研ぎ澄ませる必要があります。先ずは聖書の中に霊的イエスがいると信じて、その上で霊性を研ぎ澄ます必要があります。きょうの聖書箇所の最初の節のヨハネ1章29節にも霊的イエスがいます。1章29節、

1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

 ここに霊的イエスがいると思っていない人には、この部分をいくら読んでも霊的イエスは見えず、人間イエスの姿しか見えないでしょう。しかし霊的イエスがいると思って読むなら、ここには霊的イエスがいます。ただし「旧約の時代」の霊的イエスで言えば、ここにいる霊的イエスは少し見えづらいです。以前、礼拝メッセージで話したことがあると思いますが、この1章のプロローグ以降は「その翌日」で区切られています。18節までがプロローグで、19節から28節までがアブラハムより前の時代、29節から34節までがアブラハムの時代、35節から42節までがイサクの時代、43節から51節までがヤコブの時代です。
 43節から51節までの霊的イエスはもっと見えやすくなっていますから、先にこちらの霊的イエスを説明しておきます。既に何度も説明していることですが、ここに登場するナタナエルは「旧約の時代」においてはヤコブです。ヤコブは、身を寄せていた伯父のラバンの元を去って20年ぶりで故郷に戻ろうとしている時、エドムにいた兄のエサウに自分が故郷に戻ることを、使いをやって知らせました。するとエサウが四百人を引き連れてヤコブを迎えに来るという知らせが入りました。この知らせを聞いたヤコブは非常に恐れ、エサウに会う前の晩にヤコブは神と格闘しました。これは祈りの格闘でした。この時、神はヤコブに言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」(創世記32:28)この時にヤコブと格闘した神が霊的イエスです。父なる神と霊的イエスとは一つですから、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言ったのも霊的イエスです。そのことをヨハネの福音書の1章47節は示しています。ヨハネ1章47節、

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

 ここでイエスさまが「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ」と言ったのが、神がヤコブに「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言ったことに相当し、またイエスさまが「彼のうちには偽りがない」と言ったのは、ヤコブが自分の名前を正直に「ヤコブです」と言ったことに相当します。かつてヤコブは父のイサクに対して「エサウです」(創世記27:19)と嘘を付いて自分の名前を偽ったことがありました。しかし、神と格闘した時のヤコブは正直に「ヤコブです」と言ったのでした。そして47節には、もう一つ重要な情報があります。それはナタナエルの方からイエスさまに近付いて行ったということです。これはヤコブの方から神に祝福を求めて近付いたことを示しています。

いると信じると見える
 このヤコブの時代の霊的イエスはかなりハッキリと見えています。そしてこれが見えるなら、29節からのアブラハムの時代の霊的イエスも見えて来ます。29節をもう一度お読みします。

1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

 47節ではナタナエルがイエスに近付きました。しかし、ここではイエスがヨハネに近付いています。これは神がアブラハムに近付いて行って、「あなたは、あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)と告げたことに相当します。アブラハムにこのように告げた神が霊的イエスです。ですから、ここにいるヨハネとはアブラハムのことです。これらは、ここに霊的イエスがいると信じていなければ見えて来ないことですから、少しわかりづらい箇所です。
 ヨハネがどうしてこんなわかりづらい書を書いたのか、それはもしかしたら、私たちの霊性を研ぎ澄ますためにこの書を書いたのかもしれません。バードウォッチングで鳥を探す時、鳥がいるかいないかわからなくても、いると信じて目と耳を研ぎ澄ませていると鳥が見えて来ます。たとえ鳥がいなくても、いると信じて目と耳を研ぎ澄ませて探していると、段々と感度が上がって来て、本当に鳥が現れた時にすぐに見つけられるようになるのですね。動物写真家の岩合光昭さんもそんな風にしてネコを探しているのではないかと思います。いま私は話をわかりやすくするために鳥やネコの話をしていますが、私はかつて金属材料の研究者として毎日のように電子顕微鏡を覗いていました。原子レベルの微小な物を見つける時には本当に感覚を研ぎ澄まして電子顕微鏡を微調整して最高レベルの分解能が得られるようにしなければなりません。そうして、なお且つ、目指すものが必ず見える筈だと信じて探します。探しても見えない場合がほとんどですが、信じて探すことで最高レベルの分解能を引き出す技術が自然と身に付いてきます。そうして電子顕微鏡で原子レベルの小さな物を撮影する腕が養われて行きます。

霊性を研ぎ澄ます訓練の書?
 ヨハネの福音書のわかりづらい記述も、私たちが霊性を研ぎ澄まして霊的イエスが見えるようにするための訓練なのかもしれません。そうして私たちが霊的に成長することができるなら、私たちは主のお役に立つことができます。私の霊性は、このようにヨハネの福音書の中の霊的イエスを探すことで段々と鍛えられてきました。
 さて、しかし1章35節と42節に掛けてのイサクの時代については、私はまだイサクの時代の霊的イエスを見出していません。もしかしたらヨハネはここにイサクの時代の霊的イエスを描いていないのかもしれません。ここには「あなたがたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすればわかります」と現代の私たちに語り掛ける現代の霊的イエスがいますから、このことをわかりやすくするために、イサクの時代の霊的イエスをヨハネは描いていないのかもしれません。しかし、非常にわかりづらい形で描かれている可能性もあります。ですから私は今でも、ここにイサクの時代の霊的イエスがいるかもしれないと思って探しています。この探すこと自体が霊性の良い訓練になりますから、皆さんも是非探してみることをお勧めしたいと思います。たとえ見つからなかったとしても霊性を研ぎ澄ます良い訓練になりますし、もしご自分で見つけることができたなら、それは大きな自信につながります。そのようにして御父と御子との霊的な交わりを深めていただきたいと思います。私もヨハネの福音書の霊的イエスを順次見付けて行くことで自分の霊性に自信が与えられ、御父と御子との霊的な交わりを少しずつ深めて来ることができたと感じています。

平和のために
 きょうアドベント第1礼拝のメッセージをするに当たり、人間イエスのご降誕に関する話はほとんどしませんでした。それは、私たちは人間イエスのことは、ある程度までは知っているからです。もちろん十分ではないでしょう。しかし霊的イエスを知ることの不十分さに比べたら私たちは人間イエスのことは十分に知っていると言えるでしょう。これからは私たちはもっと霊的イエスのことを知って御父と御子との霊的な交わりを深めて行く必要があると私は感じています。それはキリスト教が平和にほとんど貢献できていないと感じるからです。
 21世紀に入ってすぐの2001年の9月11日にアメリカで同時多発テロが起きてから、アメリカはアフガニスタンとイラクで軍事攻撃を行いました。そのことが結果的にIS、いわゆるイスラム国という過激な組織の台頭を招いてしまったとも言われています。キリスト教徒の割合が減って来ているとは言え、アメリカにはまだ多くのキリスト教徒がいます。そのアメリカが絶えず戦争を行っているのですから、キリスト教が平和に貢献しているとは、とてもではありませんが言えない状況にあります。そして、テロの脅威は世界に広がり、パリで同時テロが起きるような状況にまで事態は悪化して来ています。
 なぜキリスト教が、こんなにも平和に貢献できていないのか、それは私たちのイエスさまへの理解が人間イエスに偏っていて霊的イエスに関する理解がほとんど進んでいないことが大きいのではないかと私は感じています。

おわりに
 ですから私はこれからは人々の目が人間イエスだけでなく霊的イエスにも向いて行くような働きをしなければならないと強く感じています。私たちは人間イエスについての理解を深めなければならないのはもちろんのことですが、それ以上に霊的イエスについての理解を深めて行かなければならないと思います。そうすれば神の愛をもっとたっぷりと感じることができるようになるでしょう。
 そうして私たちの一人一人が霊的に成長して、主のお役に立つ者となりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2015クリスマス集会

2015-11-29 05:55:04 | 特集
12月20日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月20日(日)クリスマスの集い 午後2時~
12月24日(木)キャンドル・サービス 午後7時~


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11月29日アドベント第1礼拝

2015-11-26 06:02:51 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月29日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第5聖日 アドベント第1礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  久しく待ちにし        59
 交  読  ヨハネ1:1~18
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  馬槽のなかに         98
 讃 美 ③  神の御子は今宵しも      91
 聖  書  ヨハネ1:29~34
 説  教  『人となる前の霊的イエス』 小島牧師
 讃 美 ④  天なる神には         90
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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御霊が示す仕様書(2015.11.22 礼拝)

2015-11-23 06:02:16 | 礼拝メッセージ

2015年11月22日礼拝メッセージ
『御霊が示す仕様書』
【Ⅰ歴代誌28:9~13】

はじめに
 いま、屋根の修繕過程の写真をたくさん見ていただきました。屋根の上面の修繕は、ほぼ終わりました。これから細かいメンテナンスを定期的に行っていく必要はありますが、屋根の上面から雨漏りすることは、これからはないでしょう。屋根の側面に関してはプロの業者に修繕してもらう必要があります。そうして、他にも修繕すべきところを直すなら、牧師はこの現会堂に当分の間、住み続けることができます。



 ですから私たちがこれから購入する土地に建てる新会堂は礼拝堂です。今のところの予定では、牧師の住居と礼拝する場の礼拝堂とは別の建物になります。旧約聖書の王たちも、王の宮殿と神様の神殿とは別々でしたから、これは、なかなか良いのではないでしょうか。
 そして、どのような礼拝堂にすべきか、既に会堂問題勉強会で皆さんへの問い掛けを始めていますが、これからは、いよいよ真剣に考えていかなければなりません。設計担当の方との第1回打ち合わせも11/30に持たれることですから、その結果も12月の会堂問題勉強会で報告することになるだろうと思います。

御霊が示す仕様書
 私たちが新しい礼拝堂をどのようなものにすべきか考える上で、まず第一に大切なことは、御霊の導きを仰ぐということです。そして、きょうの聖書箇所には、そのことが記されています。
 この歴代誌第一28章は、ダビデの最晩年の時の記事です。ダビデは既に23章でソロモンに王の位を譲っていました。歴代誌第一23章1節に、

23:1 ダビデは老年を迎え、長寿を全うして、その子ソロモンをイスラエルの王とした。

とあります。
 そしてダビデは、息子のソロモンに神殿の建設を托しました。ダビデは自分の代に神殿を建設することを願っていましたが、主がそれをお許しになりませんでした。28章の3節でダビデはこのように述べています。

28:3 しかし、神は私に仰せられた。『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』

 それゆえダビデは息子のソロモンに神殿の建設を託し、そのための準備を様々に行いました。そしてダビデはソロモンに言いました。28章の9節と10節、

28:9 わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。【主】はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
28:10 今、心に留めなさい。【主】は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

 そうしてダビデはソロモンに神殿の仕様書を授けました。11節、

28:11 ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。

 次の12節には、この仕様書は御霊によりダビデが示されていたものであったことが記されています。12節のこの部分だけを、お読みします。12節、

28:12 御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。

 これが、きょう私たちが学ぶべきことです。新しい礼拝堂の設計は私たちが好き放題に考えて良いものではなく、御霊が示して下さるものなのだということを、私たちはしっかりと心に刻んでおきたいと思います。

霊的成長が必要
 ですから私たちは尚更のこと、霊的成長が必要です。私たちは御霊の一致を保つためにも霊的成長が必要ですが、御霊が示し与えて下さる新会堂の仕様書をしっかりと受け取るためにも、霊的成長が必要です。
 私たちが霊的に成長し、御霊が示して下さる新しい礼拝堂の仕様書をしっかりと受け取ることができますよう、お祈りいたしましょう。

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ゴチャゴチャになっている人間イエスと霊的イエス(2015.11.18 祈り会)

2015-11-20 00:51:04 | 祈り会メッセージ
2015年11月18日祈り会メッセージ
『ゴチャゴチャになっている人間イエスと霊的イエス』
【マタイ5:1~10】

はじめに
 先週の祈祷会では廣瀬善子先生がいらしたので別のメッセージにしましたが、今週はまた「霊的イエス」についての考察を進めたいと思います。
 きょうのメッセージのタイトルは、『ゴチャゴチャになっている人間イエスと霊的イエス』です。私はこの二つ、即ち「人間イエス」と「霊的イエス」を、きちんと整理して区別する必要があると考えています。この二つが整理されるなら、キリスト教はもう少しわかりやすいものになるだろうと思います。そして、それはキリスト教の伝道に役立つと思いますし、或いはまたキリスト教に対する誤解や偏見を解くことにも役立つのではないかと思います。
 人間イエスと霊的イエスの二つを分けて考えて説明することは、霊的イエスのことを良く知る者にしかできません。霊的イエスを良く知る者とはイエス・キリストを信じている者のことです。イエス・キリストを信じる者には聖霊が与えられますから、霊的イエスのことがわかるようになります。さてしかし、イエス・キリストを信じる信仰者にとっては人間イエスと霊的イエスの区別など、実は別にどうでも良いことなのでしょうね。人間イエスも霊的イエスも同じ「イエスさま」なのですから、敢えて両者を区別することはないのかもしれません。「霊的イエス」という呼び方がほとんど使われていないのも、区別する必要性を感じている人が少ないからなのでしょう。或いはまた区別すべきではないと考える人もいることでしょう。
 ただ、この区別していないことがキリスト教を非常にわかりづらいものにしていることは確かだと思います。人間イエスと霊的イエスの区別がきちんとされていないために、イエス・キリストを信じている者も、自分が見ているイエスさまが人間イエスなのか或いは霊的イエスなのかがわかっていません。それゆえ人にも上手く説明できず、キリスト教のことを、なかなか理解してもらえないということが起きているのだと思います。
 そこできょうは先ず、人間イエスと霊的イエスの区別について述べ、次にどのような時に人間イエス或いは霊的イエスを見ているのかを考えてみたいと思います。

人間イエスと霊的イエスの違い
 人間イエスと霊的イエスの違いは簡単です。人間イエスはイエスさまが母マリヤから生まれて十字架で死ぬまでの30年あまりの期間のイエスさまです。そして霊的イエスは、それ以外の期間のイエスさまです。十字架の死から復活した後の御子は、もちろん霊的イエスですし、母マリヤから生まれる前の御子も霊的イエスです。母マリヤから生まれる前の御子を「霊的イエス」と呼ぶことについては異論もあるかもしれませんが、イエスさまはヨハネの福音書の中で自ら、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」とおっしゃっていますから、私は「旧約の時代」の御子も「霊的イエス」と呼んで良いと考えます。そしてヨハネの福音書の三つの時代の重なりの構造、すなわち「旧約の時代」と「福音書の時代」と「使徒の時代」の三つの時代の重なりの構造を見るなら、「旧約の時代」の御子も「使徒の時代」の御子も同じイエスさまですから、これら時代のイエスさまのどちらも共に「霊的イエス」と呼んで差し支えないと考えます。
 さて、では私たちはどんな時に人間イエスに出会い、どんな時に霊的イエスに出会うのでしょうか。先々週の祈祷会で私は、誰でも霊的イエスに出会っていると話しました。イエス・キリストを信じている人でも信じていない人でも誰でもイエス・キリストに出会っていると話しました。それは例えば、マザー・テレサのような人と出会った時です。そのような人には憐れみ深いイエス・キリストの姿が現れていますから、そのような人と出会ったなら霊的イエスに出会ったことになります。ただし、イエス・キリストを信じない者は、そのことに気付きません。このマザー・テレサのような人に出会った時に霊的イエスを感じることができるのは、イエス・キリストを信じる者だけです。

聖書を読む時に出会う人間イエス
 きょう考えてみたいのは聖書の共観福音書のイエスさまの記述を読んだ時のことについてです。ヨハネの福音書のイエスさまについては、次回考えることにします。
 先ほどマタイ5章の山上の説教の始めの部分をご一緒に読みました。もう一度、最初の部分だけ、1節から4節までを交代で読みましょう。

5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

 この部分を活字で読む時、私たちは人間イエスに出会っていると言えるでしょう。私たちの目の前に人間イエスがいるわけではありませんから、「出会っている」という表現は適切ではないかもしれませんが、聖書の活字を通して人間としてのイエスさまに会っているのだと考えたいと思います。これはイエス・キリストを信じる人でも信じない人でも同じです。

活字から目を離した時に出会う霊的イエス
 では、活字から目を離して思いを巡らしている時はどうなのでしょうか。山上の説教でイエスさまが「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」とおっしゃった、このみことばを心の中で味わってみる時、私たちクリスチャンは霊的イエスに出会っていると言えるのではないでしょうか。私たちクリスチャンの内には聖霊がいますから、その聖霊の働きによって私たちは霊的イエスに出会っています。一方、イエス・キリストを信じない者が活字から目を離して山上の説教について思いを巡らす時には、そこにいるのは人間イエスだと言えるでしょう。イエス・キリストを信じない人の内には聖霊がいませんから、聖霊は働きません。それゆえ霊的イエスの姿を見ることはできません。
 クリスチャンであっても活字を読む時に出会っているのは人間イエスの方だろうと私が考える理由は、活字を読む作業は理性的な営みだからです。理性によって文章を解釈しようとする時に霊性は働きにくくなっていますから、聖書の中にいるのは人間イエスということになります。

自転車のたとえ
 ここで私は聖書を読むことを自転車に乗ることに例えてみたいと思います。自転車で前に進むにはペダルを踏まなければなりません。このペダルを踏む作業が聖書の活字を読むことに相当します。ペダルを踏むことも、聖書の活字を読むことも、少々しんどい作業です。しかし、ある程度加速してしまえば、ペダルを踏まなくても自転車は惰性で前に進みます。これは楽チンな時です。この楽チンな時が聖書について思いを巡らす時に相当します。聖書について思いを巡らす時に私たちは大変に恵まれます。この恵みの時はペダルを踏んでいない時です。
 NHKのBSプレミアムで放送している『にっぽん縦断こころ旅』という自転車の旅の番組が私はとても好きです。この番組では俳優の火野正平さんが自転車に乗って全国各地を旅して回っているのですが、時に登り坂を上らなければならない時があって、火野さんはとても苦しそうにハアハア言いながら坂を上ります。一方、下り坂では、とても気持ち良さそうに坂を下り、「人生下り坂、最高」と言います。
 私は聖書通読を、自転車で坂道を上がることに例えたいと思います。聖書通読は慣れないうちは自転車で坂道を上がるように苦痛を感じます。しかし、坂を上がった後で下る時、すなわち通読した箇所を思い巡らす時には、大変に恵まれます。読んでいる瞬間瞬間は狭い箇所しか読んでいませんが、思いを巡らす時には聖書全体を思い巡らすことができます。思いを巡らす時、私たちは創世記の過去の時代から黙示録の未来の時代に至る永遠の広大な時空間の中で御父と御子イエス・キリストとの親しい交わりを感じることができます。これは最高に恵まれる時です。
 それゆえ坂を上がる作業も、とても重要であり欠かせません。坂を上がらなければ下ることはできません。ですから聖書の活字を読むことにも、しっかりと取り組まなければなりません。人間イエスと出会うことも必要なことなのです。活字を通して人間イエスに出会っているからこそ、私たちは霊的イエスと交わる素晴らしい恵みをいただくことができます。

おわりに
 これまで私たちは、人間イエスと霊的イエスとのことをゴチャゴチャにしていたのではないでしょうか。この区別は、いま話したように上り坂と下り坂に例えて考えれば、そんなに難しいことではありません。ただしイエス・キリストを信じないのであれば、下り坂の恵みはいつまで経っても受けることはできません。
 きょう話した、ゴチャゴチャになっている人間イエスと霊的イエスとを区別することについての考察は私自身も取り組み始めたばかりのことですから、これからさらに深めて行きたいと思います。来週は今週話したことを復習しつつ、ヨハネの福音書のイエスさまについて考えることにしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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11月22日礼拝プログラム

2015-11-20 00:36:13 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月22日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第4聖日 聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  主イエスのみそばに     441
 交  読  詩篇133・134篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  カルバリ山の十字架     120
 讃 美 ③  御前につどい        251
 聖  書  Ⅰ歴代誌28:9~13
 説  教  『御霊が示す仕様書』小島牧師
 讃 美 ④  父の神の真実         40
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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御霊は一つ、信仰は一つ(2015.11.15 礼拝)

2015-11-16 00:23:41 | 礼拝メッセージ
2015年11月15日宣教聖日礼拝メッセージ
『御霊は一つ、信仰は一つ』
【エペソ4:1~6】

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは『御霊は一つ、信仰は一つ』です。ビデオで各宣教地の宣教師の先生方からの報告を視聴して、私は改めて御霊は一つ、信仰は一つであることを感じています。宣教師の先生方はアジアの各地、アフリカ、南米と様々な場所で活動しており、そこに住む人々の様子は私たち日本人とは随分と異なるように見えます。しかし私たちは同じ主イエス・キリストを信じ、御霊によって一つとされていることを感じます。
 私はこれまで沼津教会で会堂問題に取り組んで来て、御霊によって一つになることの大切さを強く考えさせられました。私たちは皆それぞれ、違う環境で育って来ました。皆それぞれ異なる土地で生まれ育ち、職業も違いますし、信仰歴も違います。これほど様々に違う私たちが一つになることは絶望的に難しいことです。しかし私たちには信仰があります。私たちは同じ主イエス・キリストを信じています。そしてイエス・キリストを信じる者は誰でも御霊を受けます。この御霊は一つですから、私たちは御霊によって一つになることができます。この御霊による一致だけが唯一、私たちが一つになることができる道でしょう。これ以外の道では、私たちは一つになることはできません。私たちはそれぞれがあまりにも違い過ぎますから、御霊による一致だけが唯一、私たちが一つになることができる道です。

パウロの説く「一つになること」と「互いに愛し合うこと」
 ここで改めてエペソ人への手紙4章を見てみたいと思います。3節から見ます。3節から6節までを交代で読みましょう。

4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 このようにパウロは御霊によって一つになるべきことをエペソの教会の人々に熱心に説いています。この「一つになる」ということに関してパウロは、ローマの教会の人々に対しても勧めています。ローマ人への手紙の12章16節です。

12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 このようにパウロはローマの教会の人々に、互いに一つ心になるよう説いています。そしてパウロは互いに愛し合うようにも説いています。12章10節です。

12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

ヨハネ伝のイエスも説く「互いに愛し合うこと」と「一つになること」
 この「互いに愛し合うこと」と「一つになること」は、ヨハネの福音書のイエスさまも弟子たちに説いていますね。ヨハネの福音書とパウロの手紙は、とても良く似た面があると言えます。先週のメッセージでは、ローマ人への手紙とヨハネの福音書は、どちらも「信仰の従順」のサンドイッチ構造になっているという話をしました。ローマ書もヨハネ伝も、どちらも「信仰の従順」で始まり、「信仰の従順」で終わります。このことだけでもローマ人へ書とヨハネ伝とはとても良く似ていると言えますが、それに加えてどちらも「互いに愛し合うこと」と「一つになること」を説いている点でも、とても良く似ています。
 ヨハネの福音書に書かれている「互いに愛し合うこと」と「一つになること」も確認しておきましょう。よく開く箇所ですが、まずヨハネ13章34節です。ご一緒に読みましょう。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 そして、一つになるべきことは17章の祈りの中にありますね。ここもよく開く箇所ですが、20節から22節までを交代で読みましょう。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

 このように一つになるべきことの大切さがヨハネの福音書の中で説かれ、またローマ人への手紙でもエペソ人への手紙の中で説かれているということは、私たちが一つになることがいかに難しいかということを、よく物語っていると思います。しかし、幸いなことに御霊が与えられた者たちは、御霊によって一つになることができる希望があります。先ずは同じ教会の中の兄弟姉妹が一つになる必要があります。そして、教会を越えて一つになりたいと思います。宣教ビデオで見たように、世界各地で場所は異なっても同じ主イエス・キリストを信じ、同じ御霊が与えられますから、世界の人々も一つになることが可能です。そうして世界の人々が一つになるなら平和が訪れます。

おわりに
 そのように御霊の一致を得て平和を得るためには私たちは霊的に成長しなければなりませんから、「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(ローマ14:19)
 最後にもう一度、エペソ人への手紙4章の今度は3節から5節までを交代で読んでメッセージを閉じます。

4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
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11月15日宣教聖日礼拝プログラム

2015-11-12 12:22:56 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月15日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 宣教聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                関 姉

 前  奏
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  詩篇20篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 D V D  宣教ビデオ
 聖  書  エペソ4:1~6
 説  教  『御霊は一つ、信仰は一つ』小島牧師
 讃 美 ④  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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托された働き(2015.11.11 祈り会)

2015-11-11 22:57:32 | 祈り会メッセージ
2015年11月11日祈り会メッセージ
『託された働き』
【使徒20:31~36】

はじめに
 きょうは廣瀬善子先生と共に祈祷会を守ることができますことを、心より感謝に思います。昨日の夕方、A姉から今日の祈祷会に善子先生が出席するかもしれないとメールで連絡がありました。それで今日のメッセージは、善子先生が沼津に来られたことに因んだものにできないかと思い巡らしたところ、いまご一緒に読んだ使徒20章が示されました。
 ちょうど私たちは礼拝でも、ここ2ヶ月ほどはローマ人への手紙を学んでいました。パウロがローマ人の手紙を書いたのは、使徒20章の3節に記されている時期です。この20章3節の少し前から見て行くことにします。

ギリシヤからエルサレムに向かったパウロ
 この時、パウロは第3次伝道旅行の中にあり、19章ではアジヤのエペソにいました。先ほどご一緒に読んだ20章31節で、パウロはエペソの教会の長老たちを呼んで話をしていました。この31節でパウロは「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください」とエペソの教会の長老たちに言いました。パウロは以前エペソに三年間滞在していました。そのエペソでの三年間のことが使徒19章に書いてあります。一方、廣瀬先生方は三年の十倍の三十年間、この今沢の地で教会員の一人一人を訓戒し続けて下さいました。そして私たちは、新たに土地を購入して、これからもずっと今沢で教会のご奉仕を続けて行くことになりました。それは使徒20章でパウロの話を聞いているエペソの教会の長老たちが、これからもずっとエペソの教会で奉仕を続けて行くのと同じです。そんなわけで、きょうの聖書箇所が示されました。
 20章の始めの方を見ておきましょう。1節をお読みします。

20:1 騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。

 19章のエペソでの騒ぎが治まると、パウロはアジヤを離れてヨーロッパのマケドニヤに向かいました。そして2節、

20:2 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。

 ギリシヤにはアテネ、コリント、ケンクレヤの町があります。3節、

20:3 パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした。

 このギリシヤでの三ヶ月の滞在中にパウロはローマ人への手紙を書きました。それは、パウロがこの手紙をケンクレヤの女性執事のフィベに託したことからも分かります。そうしてパウロ自身はエルサレムに向かうことにしました。パウロはローマにも行くことを望んでいましたが、この時は手紙をケンクレヤのフィベに託して、パウロ自身はこのヨーロッパの地で捧げられた、エルサレムの貧しい人々の支援のための献金を持ってエルサレムに船で向かうことにしました。しかし、陰謀があったために直接エルサレム方面に行くことをあきらめて、来た道中を引き返してマケドニヤを経て帰ることにしました。

パウロの事情
 後ろの地図で地理を確認しておきましょう。第三次伝道旅行の地図を見て下さい。いま、使徒20章3節の段階でパウロはケンクレヤにいます。ケンクレヤはギリシヤのコリントのすぐ南側にあります。そして、この地図でエペソの位置も確認しておきたいと思います。エペソはコリントと同じぐらいの緯度にありますから、コリントからちょうど東の方向にあります。そしてエペソの少し南にミレトという港町があります。きょうの聖書箇所では、パウロはこのミレトにいます。ギリシヤからマケドニヤを通ってからエルサレムに向かう途中、エペソには寄らないで、ミレトに寄り、このミレトの町にエペソの教会の長老たちを呼んで話をしました。パウロとしてはギリシヤから直接エルサレムに行くつもりだったのが、マケドニヤを経由したので時間が掛かってしまっていました。その上、エペソまで寄っていたら、ますます時間が掛かってしまいます。使徒の働き20章16節には、次のように書いてあります。

20:16 それはパウロが、アジヤで時間を取られないようにと、エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいたのである。

 エルサレムへ行く目的は、先ほども言いましたが、貧しい人の支援のための献金を持参することでした。ローマ人への手紙を見て確認しておきましょう。新約聖書のp.314です。先ず16章の1節と2節を見て、パウロがローマ人への手紙を女性執事のフィベに託したことを確認しておきましょう。16章1節と2節、

16:1 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。
16:2 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

 そして、パウロ自身もローマに行くことを希望していることが同じページの15章の23節と24節に書いてあります。ですが、25節、

15:25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。

 そして、26節と27節、

15:26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金(きょきん)することにしたからです。
15:27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

 パウロは、こうして異邦人もユダヤ人も、共に主にあって一つになることを望んでいました。この大切な役目のためにパウロはローマには行かずにエルサレムに向かい、そして、その途中でミレトに寄り、エペソの教会の長老たちにミレトまで来てもらって、話をしました。

後を託されたエペソと私たちの教会
 もう一度、20章の31節から読みます。31と32節を交代で読みましょう。

20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 廣瀬邦男先生と善子先生が、30年間ご奉仕して来たこの今沢の地で、私たちがこれからもご奉仕を続けることができることを私は本当に感謝に思っています。1年前の今頃の段階では、次の会堂をどこに建てることになるのか、全くわかりませんでした。沼津だけでなく富士市という案も勉強会では出ていました。また、隣の土地の一部を通路分だけ購入するという案もありましたが、単なる案であって現実味はありませんでした。
 それが今や土地の購入の仮契約が完了して、設計の担当者も決まり、いよいよ新しい礼拝堂の設計に取り掛かる段階まで来ました。きょう、このことを前任の廣瀬善子先生に直接ご報告できますことを心から感謝に思い、御名を崇めています。主は本当に素晴らしいお方だと思います。この素晴らしい主に感謝しつつ、これからも私たちは、この今沢の地で、廣瀬邦男先生・善子先生から託された働きを続けて行きたいと思います。
 パウロは32節で、エペソの長老たちに

 20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

と言いました。そして私たちも廣瀬先生方から同じ言葉をいただいていることを覚えたいと思います。

おわりに
 最後に34節から36節までを交代で読んでメッセージを終わります。36節は、ご一緒に読みます。

20:34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
20:36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。

 お祈りしましょう。
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信仰の従順(2015.11.8 礼拝)

2015-11-08 15:45:49 | 礼拝メッセージ
2015年11月8日礼拝メッセージ
『信仰の従順』
【ローマ1:1~7、16:25~27】

はじめに
 今週もローマ人への手紙を学びますが、このローマ書の学びは今週で一区切りと思っています。来週の15日は宣教聖日礼拝ですから、それに因んだメッセージになります。そして22日はアドベントを前にして屋根の全面補修がどうやら終わりそうですので、この喜びを皆さんと分かち合いたいと願っています。
 今年の夏に大雨が降った時に、ひどい雨漏りがありました。これまで屋根は、ほぼ全面にわたって前任の先生が貼ったアルミテープで雨漏りを防いでいました。ただアルミテープの密着性が悪い箇所も多いくて剥がれ掛かっている場所もたくさんありました。私はその剥がれ掛かっていたアルミテープの上にさらにアルミテープを貼るという補修の仕方をしていましたが、それだと密着性の悪い箇所の屋根の鋼板の腐食がどんどん進行して行きます。それで私は屋根の補修を全面的にやり替えることにして、アルミテープを全部はがしてアクリル樹脂のペンキの塗装を行うことにしました。このアクリル樹脂のペンキは鋼板がボロボロになった箇所にもとても良くなじんで表面からの腐食の進行を止める効果があります。その全面補修が、天気次第ですが20日ぐらいまでには終わりそうですので、22日のメッセージでは写真を見せながら皆さんに説明したいと思っています。そして29日はアドベント第一礼拝になります。

ローマ書における「信仰の従順」のサンドイッチ構造
 そういうわけで、ローマ人への手紙のシリーズでの学びは今日で一旦終わることにします。きょうのメッセージのタイトルは『信仰の従順』で、聖書箇所はローマ書1章の始めの部分と16章の最後の部分です。このローマ書の最初と最後の部分に、共に「信仰の従順」という言葉が使われています。つまり、ローマ人への手紙の全体は「信仰の従順」が両端にあるサンドイッチ構造になっています。これより、パウロは「信仰の従順」の大切さを説くために、この手紙を書いたということになります。この「信仰の従順」によるサンドイッチ構造のことは、今回私が受講したe-ラーニングで学んだことですが、ここから私はいくつか新たに示されたことがありますので、今日はそれらのことを皆さんと分かち合いたいと願っています。

 先ずはローマ書の最初と最後にある『信仰の従順』という言葉を確認しておきましょう。1章を開いて下さい。1節から7節までには、この手紙がパウロからローマの教会の人々に宛てたものであることが書かれています。1節、

1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、

 日本語訳では、ここにあるように「パウロ」が出て来るのは1節のおしまいですが、ギリシャ語では先ず一番始めに「パウロ」が来ます。日本語の場合は名詞を修飾する連体修飾節は名詞の前に付けて、名詞はその後ろに置くという文法上のルールがありますから、「パウロ」が後ろに来てしまいますが、ギリシャ語や英語ではパウロが一番前に来ます。この手紙は「パウロ」で始まってパウロが書いたものであることを宣言し、そして7節にローマの教会の人々に宛てた手紙であることが書かれています。7節、

1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 そして、その間の2節から6節に福音についての説明があり、5節で「信仰の従順」という言葉が使われています。5節、

1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。

 パウロは使徒の務めを受けました。それは、人々の中に「信仰の従順」をもたらすためでした。つまりパウロは人々に「信仰の従順」を説くために使徒として召し出されたというわけです。
 そして、この「信仰の従順」は、このローマ書の最後でも使われています。16章の25節から27節、

16:25 26 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、
16:27 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

 このように、ローマ人への手紙は「信仰の従順」のサンドイッチ構造を持つことが、お分かりいただけると思います。

ヨハネの福音書と沼津教会の「信仰の従順」によるサンドイッチ
 さて、きょうはこの「信仰の従順」とはどうことかを、さらに考えて行きたいと思っていますが、実はヨハネの福音書も「信仰の従順」のサンドイッチ構造を持つことに最近になって私は気付きました。
 ヨハネの福音書の場合は、イエスさまの言葉に注目すると、それが見えて来ます。ヨハネの福音書におけるイエスさまの第1声と第2声は、いつも言っているように、

 「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
 「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)

ですね。確認しておきましょう。新約聖書のp.174です。この1章38節まではイエスさまの言葉は記されていません。ですから「あなたがたは何を求めているのですか」がヨハネの福音書におけるイエスさまの最初の言葉です。そして、その次に「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃいました。これはイエスさまが、自分に付き従って来るなら、福音の奥義がわかります、とおっしゃっているということです。この言葉に従順に従うことをイエスさまは弟子たちに求めています。
 そして21章の22節を見ましょう(新約聖書p.226)。この22節がヨハネの福音書におけるイエスさまの最後の言葉です。

21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 イエスさまは最後に、「あなたは、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。ですから、ここでもイエスさまは、自分の言葉に従順に従うことを弟子に求めています。
 私たちの教会の今年のみことばも「信仰の従順」に関するみことばです。週報の1ページ目を見ていただきますと、マルコ9:7のみことばが書いてあります。

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(マルコ9:7)

 偶然の一致ですが、私たちの教会は今年、元旦礼拝で「信仰の従順」について学んで始まり、今日はアドベントを前にした通常の礼拝の締めくくりでまた「信仰の従順」を学んでいます。つまり、私たちの教会の今年の礼拝のメッセージもまた、「信仰の従順」のサンドイッチになっています。

イエス・キリストの「信仰の従順」
 さて、この「信仰の従順」をさらに掘り下げてみたいと思いますが、今度はローマ書のサンドイッチのちょうど真ん中の辺りに当たるローマ8章を見てみましょう。8章15節、

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 ここに「アバ、父」とあります。続いて8章26節、

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 ここには「深いうめき」とあります。これらのローマ8章の「アバ、父」と「深いうめき」から、私はイエスさまが十字架を前にしてゲッセマネの園でうめいている姿を連想します。今度はマルコ14章をご一緒に見ましょう(新約聖書p.98)。

14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 このゲッセマネの園の場面でルカの福音書は、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)と書いています。つまり、「アバ、父よ」と言った時にイエスさまは、うめいていたのです。そして、うめきながらイエスさまは、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と御父に祈りました。このようにしてイエスさまご自身が御父への「信仰の従順」を示して下さっています。このゲッセマネの園のイエスさまのうめきに、「イエス・キリストの信仰」を見ることができると思います。

イエス・キリストの信仰
 あちこち移動して申し訳ありませんが、今度はローマ3章22節を見て下さい。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 少し前の礼拝メッセージで、このローマ3:22の「イエス・キリストを信じる信仰」は、原語のギリシャ語の直訳では「イエス・キリストの信仰」になると話しました。参考のために週報のp.3に英訳のKJV(King James Version、欽定訳)を載せておきました。このKJVでは、問題の箇所を「faith of Jesus Christ」と訳していますから、まさに「イエス・キリストの信仰」です。ただしNKJV(New King James Version、新欽定訳)では「faith in Jesus Christ」となっています。つまり「イエス・キリストにある信仰」です。そして私たちの新改訳聖書は「イエス・キリストを信じる信仰」にしていますから、いろいろと議論のある箇所ではあります。
 私は素直に「イエス・キリストの信仰」と訳すのが最も自然であると考えます。それはイエス・キリストが悶え苦しみ、うめきながら「あなたのみこころのままを、なさってください」と御父に祈り、そうして私たちに「神の義」が示されたからです。神様は契約に対して真実なお方であり、約束は必ず守られる方です。この約束は、アブラハムとの契約で、牛と山羊と羊を真っ二つに裂いて作った通路を神様の側だけが一方的に通ることで示されました。そうしてイエス・キリストの十字架によって私たちに救いがもたらされました。
 十字架の救いは、イエス・キリストの信仰の従順によってもたらされた救いです。このことを私たちは今一度、深く思い巡らしたいと思います。

御霊の一致に必要な霊的成長
 今回のローマ書の学びのシリーズを一旦終えるに当たり、最後にローマ14章を見ておきたいと思います。14章15節、

14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

 何週間か前に、ローマ書の学びのシリーズを始めた時に、この手紙が書かれた背景として、ローマ教会のユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で対立があったことを話しました(9月27日の礼拝メッセージ)。それは特に食べ物の問題で深刻であったようです。それでパウロは今お読みした14章15節で、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」と書いています。
 これは食べ物の問題に限らず、すべての問題に当てはまることです。もし教会が一つになれなくて対立が生じ、それによって信仰の弱い人が躓いて信仰を失うようなことになれば、その躓いた人は滅びることになります。パウロは、キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、教会の問題で滅ぼさないで下さいと言っています。ゲッセマネの園でイエスさまは悶え苦しみながら御父に祈り、「信仰の従順」を示して下さいました。ここまで苦しまれたイエスさまのことを思うなら、私たちは「御霊による一致」が可能な筈です。人間的な思いでは一致できなくても、私たちにはイエス・キリストを信じる信仰によって御霊が与えられていますから、御霊による一致が可能です。なぜなら御霊は一つだからです。
 ただし、御霊による一致を得るには、私たちは霊的に成長しなければなりません。霊的に成長しないなら、人間的な思いがどうしても先行してしまいますから、御霊による一致を得るためには霊的成長が欠かせません。

おわりに
 今年、私たちの教会は難しい中を通って来ました。そして、これからも難しい中を通って行かなければなりません。これから歩んで行く道が難しいものであることは確実です。ですから私たちはイエス・キリストの信仰の従順のことを思って霊的に成長し、一つになって進んで行きたいと思います。

 締めくくりにローマ14:19をご一緒に読んで、終わることにします。

14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 お祈りしましょう。
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霊的イエスとの出会いの喜び(2015.11.4 祈り会)

2015-11-04 17:42:40 | 祈り会メッセージ
2015年11月4日祈り会メッセージ
『霊的イエスとの出会いの喜び ~真理はあなたがたを自由にします』
【ヨハネ8:31,32】

はじめに
 昨日の聖会に参加された皆さん、お疲れ様でした。
 昨日の聖会の講師の先生は、メッセージの中で「救いの確証」を得ることの大切さを強調しておられました。今年の9月の同窓会セミナーの時に分科会のフロアーから先生がやはり「救いの確証」の大切さについて発言されていましたから、多分いろいろな機会に、この「救いの確証」の大切さについて話しておられるのだろうと思います。

つまらなくない信仰生活
 昨日の聖会でのメッセージで先生はまた、「救いの確証が得られていないなら、信仰生活ほどつまらないものはない」ということも言っておられました。このことは午前の聖会でも言っておられましたし、午後の宣教会でも言っておられました。この先生の言葉に私は大変に考えさせられました。
 先生の言っておられることは、確かにその通りだろうと思います。「信仰生活ほどつまらないものはない」というのは、救いの確証を得ていない人の目線で見た信仰生活のことです。例えば、教会に通う習慣を持たない日本人の大半は、毎週日曜日に教会に通う私たちクリスチャンのことを、「何が楽しくて毎週教会に通っているのだろう?」と変人を見るような目で私たちを見ているかもしれません。実は私自身が教会に通うようになる前には、そのような目でクリスチャンのことを見ていました。ですから、救われていない人の目から見れば、確かに信仰生活ほどつまらないものはないと言えるでしょう。
 私たちクリスチャンは何が楽しくて教会生活を送っているのか、これは霊的な世界のことで説明が難しいですから、わかってもらえないのは仕方のないことかもしれません。しかし私は、この説明の難しいことを何とか言語化して説明する努力を続ける必要があると思っています。今のところ、この言語化には誰も十分には成功していないと言えるのでしょうが、世間の人々がキリスト教会の信仰生活ほどつまらないものはないという目で見ていることを放置しておくわけにはいかないと思います。
 なぜならこれではキリスト教が広まらないばかりでなく、既に救われて教会生活をしている人たちでさえ、ある時から喜びを失うことが多々あるからです。そうして教会に来なくなる人もいますし、喜びがないのに惰性で教会に通っている人もいます。これは本当に残念なことです。そのような方々でも、教会生活を送り始めた頃にはきっと喜びを感じていたはずです。しかし、この霊的な喜びを上手く言語化できていないために、なぜ自分が喜びを感じていたのかもわからなくなってしまう、そのようなことになっているのだと思います。

発展途上の国で広まるキリスト教
 このことを放置していたら、いわゆる先進国と言われる国でのキリスト教は、これからどんどん衰退して行くばかりではないかと思います。考えてみると、キリスト教が勢いを持って広がる国というのは大抵が発展途上の国でしょう。発展途上の国には何かしら希望があります。その希望とキリスト教の希望とが上手く噛み合って発展して行っているように思います。
 日本においてもキリスト教が発展した時期というのは、日本が大きく発展した時期と大抵は重なっているように思います。そのような時期には自由で開放的な雰囲気が多少なりともあり、人々も希望を抱きやすいのでしょう。そのような時代の雰囲気とキリスト教の教えとが上手く噛み合ってキリスト教も広まって来たように思います。
 たとえば日本にキリスト教が渡来したのは戦国時代です。その頃の武将たち、とりわけ織田信長は外国の新しい文化を取り入れようとしました。そして豊臣秀吉もある時期までは織田信長と同様に外国の文化を取り入れていたと思います。そのような時代の流れの中でキリスト教は大きな広がりを見せました。しかし鎖国政策を取った徳川幕府によってキリスト教は表舞台からは完全に退かざるを得なくなりました。
 次に日本でキリスト教が大きく広まったのは明治維新です。西洋の文明を取り入れて日本が大きく発展したこの時期にキリスト教もまた広まりました。そして私たちの教団の源流である日本のホーリネス運動が盛んになったのは大正から昭和初期に掛けての時代ですから、いわゆる大正デモクラシーの時代と重なっています。大正デモクラシーの時代の自由な気風が日本のホーリネス運動の発展と上手く噛み合ったと言えるのかもしれません(この辺りのことは、私自身もう少ししっかりと検証する必要を感じています)。
 そして日本で次にキリスト教が広まったのが終戦後すぐの時代ですね。そして、終戦直後の勢いは多少衰えたかもしれませんが、高度成長期の日本では、教会はまだまだ伸びていた時代であったと言えます。私たちの教団の初代総理が天に召されたのが1971年ということですが、大阪で万博が開かれたのが前年の1970年ですから、日本が非常な勢いで成長していた時期と私たちの教団が成長した時期とは良く重なると思います。
 その後、バブルがはじけた1990年代以降の日本が「失われた二十年」などと言われて低迷する中、教会も低迷し、それ以降、なかなか上昇する気配がありません。このように低迷している時代には将来に対する希望がなかなか見えません。この希望が見えないことと、キリスト教の希望が見えないこととは、どこかで絡み合っているように思います。
 しかしキリスト教の希望というのは、どんな時代にあっても見えていなければならないものです。国が発展している時、その雰囲気に乗ってキリスト教の希望も見えるというものではなく、時代が良くても悪くてもキリスト教の希望はハッキリと見えていなければなりません。そのために、信仰生活の喜びとはどういうものなのかということを、しっかりと言語化して説明できるものにしなければなりません。時代が良くても悪くても信仰生活の喜びをわかりやすく説明できるなら、人々はキリスト教に希望を見出すことができるでしょう。
(賛美歌を一曲入れる)

霊的イエスとの出会いの喜び
 (続き)私はキリスト教の信仰生活が決してつまらないものではないことを、救いの確証を得ていない人にも、わかってもらえるような説明の方法を何とか見出されなければならないと強く感じています。そうすることが私の最大の使命であろうと思っています。霊的な領域のことですから言語化して説明することは非常に難しいことではありますが、何とかして説明できるようにならなければならないと思っています。
 信仰生活の喜びが上手く説明ができていないがゆえに、今のこの沼津教会も苦境の中にあるのだと思います。いま沼津教会の礼拝と祈祷会の出席者数は良くない状態にあります。しかし、そんな中にあっても会堂問題には不思議と明るい展望があります。教会の中だけ見ていると、とても明るい展望は描けないのですが、どういうわけか会堂のことでは祝されています。私は、それは神様の私たちへの大いなる期待ではないかと思っています。私たちの教会の人数は少ないですが、幸いなことに大半の教会員が信仰生活に喜びを感じており、信仰生活が決してつまらないものではないことを良く知っています。この信仰生活の喜びを人々に上手く伝えることができるようになることを神様は大いに期待して、私たちの教会の会堂問題を祝して下さっている、私はそのように受け留めています。
 信仰生活の喜びをどのように言語化したら良いのか、私は「霊的イエスとの交わり」が鍵になるかもしれないと思い、今そこに可能性を感じています。何ヶ月か前まで私は週報に印刷する教会のキャッチフレーズを「ヨハネの永遠観の発信教会」していましたが、それを「霊的イエスに親しむ教会」に変えました。「ヨハネの永遠観」は上級レベルかもしれないと思ったからです。一方、「霊的イエス」は初級からでもわかるかもしれないと期待しています。「霊的イエス」というと「永遠観」よりも、もっと理解が難しいと直感的には思うかもしれません。しかし「霊的イエス」は意外に上級ではなく、むしろ初級に近いような気がします。なぜなら「霊的イエス」には誰でも既に出会っているからです。「霊的イエス」は誰でも出会っていますから初級であり、ここに糸口があるかもしれないと可能性を感じています。

誰でもが出会っている霊的イエス
 「霊的イエス」とは、少し聞き慣れない言葉かもしれませんが、日本人で霊的イエスに出会ったことがない人は、ほとんどいないでしょう。イエス・キリストを知らない人でも、或いはまたイエス・キリストを信じない人でも、大抵の人は既に霊的イエスに出会ったことがあります。
 たとえばテレビで、生前のマザー・テレサが貧しい人々と接している様子を見たとします。最近の若い人はマザー・テレサのことを知らない人もいるかもしれませんが、それでも彼女の姿をテレビで見るなら、その人は霊的イエスと出会ったことになります。なぜならマザー・テレサの中には貧しい人々を憐れむイエスさまがいるからです。テレビに映るマザー・テレサが何十年前の彼女であろうと、彼女の中のイエスさまは時空を超越した霊的な存在ですから、テレビの画面の彼女の姿を通して私たちは霊的イエスに出会っています。
 テレビを見ない人でも、私たちの周囲にはマザー・テレサのように霊的イエスが内にいる人が大抵は存在しますから、その人を通して霊的イエスに出会ったことがあるはずです。もちろん、どんな人にも欠点はありますから、たとえ霊的イエスが内にいたとしても、その人がイエスのようには見えないことも多々あるでしょう。しかし内にイエスさまがいる人からは、何かしらイエスさまらしさが多少はにじみ出ているものです。そのような人と出会うなら、私たちは霊的イエスと出会ったことになります。
 このように私たちがそれを自覚していようといまいと、私たちの大半は霊的イエスに既に出会ったことがあります。こうして聖書を読んでいる人も読んでいない人も、イエス・キリストを信じる人も信じない人も、ほとんどの人が霊的イエスに出会ったことがあります。そして聖書を読むと、この霊的イエスのことを、もっとよく理解できるようになります。私たちがマタイ・マルコ・ルカの共観福音書のイエスさまの記事を読むとき、それを肉の人間イエスの記事と思って読むかもしれません。しかし、そこには霊的イエスもいる筈なんですね。イエスさまは真の神であり真の人ですから、私たちが共観福音書で読むイエスさまは肉の人間イエスであるとともに霊的イエスでもあります。イエス・キリストを信じると聖書を読んで恵まれるようになるのは、霊的なレベルでこのことに気付くからではないかと思います。しかし、このことを上手く言語化して説明できていないので、霊的な恵みを今一つハッキリと認識することができずにいます。それゆえ、やがて教会から離れて行ってしまう人も大勢います。
 マタイ・マルコ・ルカの共観福音書を読む時、私たちは誰でも霊的イエスに出会っています。それは私たちが内にイエスが住む人と出会うなら霊的イエスに出会ったことになるように、聖書の共観福音書でイエスの記事を読むなら誰でも霊的に出会っています。そしてイエスを信じるなら、そのことに霊的なレベルで気付いて信仰生活に喜びを感じることができるようになります。

聖書でも霊的イエスに出会っていることを教えるヨハネ
 このように考察を進めて来てわかることは、ヨハネの福音書という書は私たちが霊的イエスに出会っていることを、よりハッキリとわかるようにしてくれている書であるということです。ヨハネの福音書のイエスは「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもいます。このように複数の時代に同時に存在することができるのはイエスさまが霊的な存在でもあるからです。ですから、ヨハネの福音書にいるイエスは肉の人間イエスであると同時に霊的イエスでもあることがハッキリしています。そしてマタイ・マルコ・ルカの共観福音書にもまた霊的イエスがいるのですよ、ということをヨハネの福音書は教えてくれています。しかし残念ながら、このことに私たちは二千年間、十分には気付かずに来てしまいました。もちろん霊的なレベルでは気付いているのですが、言語化して説明することができていなかったために、はっきりと意識した形では気付かれていません。ですから私の使命は、この「霊的イエス」のことをしっかりと言語化して説明できるようにすることであると、今や私は確信しています。
 私たちは日常生活の中でも聖書の中でも霊的イエスに出会っています。これが信仰生活の喜びになっています。聖書を読み、また教会の説教で聖書の話を聞くと大変に恵まれます。それは聖書を通して私たちが霊的イエスに出会っているからです。霊的イエスは時間も空間も超越していますから21世紀の私たちも出会うことができます。この時空を超越した霊的イエスとの出会いが私たちの心を自由にします。そして、このことがよく理解できていないうちは、私たちの心は本当の意味では自由になっていないと言えるでしょう。

真理はあなたがたを自由にします
 ここでヨハネの福音書8章の31節と32節を交代で読みましょう。

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 イエスさまを信じたクリスチャンは、霊的なレベルで自由を得ますから、信仰生活の喜びを感じるようになります。エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が奴隷の身から自由になったように私たちの心も自由になりますから、信仰生活の喜びを感じるようになります。しかし、イスラエルの民がすぐに不平不満を言うようになったように、クリスチャンの喜びも長続きはしません。それは霊的イエスとの交わりをハッキリと自覚できていないからだと私は考えます。
 一方、時間空間を自由に移動する霊的イエスと私たちが一つにされていることを知るなら、私たちの心も霊的イエスのように自由であるのだということがわかって来ます。この心の自由を常に感じていれば信仰生活の喜びは揺ぎないものになり、御霊の一致を保って互いに愛し合うことができるようにもなります。

おわりに
 救いの確証を得ていない人とは、心が自由になる喜びを得ていない人とも言えるのかもしれません。霊的イエスは私たちの心に自由を与えて下さいますから、このことを、もっとしっかりと言語化して説明できるようになりたいと思います。そして救いの確証を得ている私たちは、この喜びを地域の方々にしっかりと伝えて行くことができる者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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11月8日礼拝プログラム

2015-11-04 17:01:42 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

11月8日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

11月 第2聖日 聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  日ごと主イエスを      393
 交  読  詩篇33篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  いつも私を支え       418
 讃 美 ③  キリストにはかえられません 465
 聖  書  ローマ1:1~7、16:25~27
 説  教  『信仰の従順』小島牧師
 讃 美 ④  主とともに罪に死に     312
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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アダムの違反と罪(2015.11.1 礼拝)

2015-11-02 07:34:39 | 礼拝メッセージ
2015年11月1日礼拝メッセージ
『アダムの違反と罪』
【ローマ5:12~15】

はじめに
 ローマ人への手紙の学びを続けます。先週はローマ4章の、アブラハムの信仰を神が義と認めたとパウロが書いている箇所を読み、次いで創世記15章に記されている神とアブラハムとの間で執り行われた不思議な「契約の儀式」について説明しました。
 この契約の儀式は当時のメソポタミア地域で行われていた儀式だそうです。牛とやぎと羊を真っ二つに切り裂いて半分ずつを向かい合わせに並べて真ん中には通路を作ります。そして契約者の双方が、この通路を通る儀式を行います。その意味するところは、もし契約を破ったなら私はこのように二つに切り裂かれても構いませんということなのだそうです。ですから、この通路は契約を結んだ両方の者たちが通らなければなりません。
 しかし、神とアブラハムとの契約では、神だけが真ん中の通路を通り、アブラハムは通りませんでした。つまり、この契約は神様の側からだけの一方的な契約でした。それは、もし人間の側が何かを神様と約束しても、罪深い人間は約束を守ることができないからです。仮にアブラハムが真ん中の通路を通っていたならば、アブラハムは、真っ二つに切り裂かれることになってしまっていたことでしょう。人間は罪を持って生まれて来ているからです。そんな罪を持つ人間を赦すために神様はこの世にイエス・キリストを送り、罪のないイエスの肉を切り裂きました。つまり、この通路を通った神の側のイエスさまが、神には罪がないにも関わらず、人間の罪のために切り裂かれて下さったのです。このように神とアブラハムとの契約の儀式は、イエス・キリストの十字架の予表でもありました。神様はこれらのことを通じて「神の義」を現して下さいました。神様は契約に真実なお方ですから、神様の約束は必ず実現します。これが「神の義」です。

パウロが書いた「アダムの違反」
 そして、人間がこのように罪を持って生まれて来るようになったのは、アダムの違反によるのだとパウロはローマ人への手紙で書いています。ローマ人への手紙5章を見ましょう。12節、

5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。

 パウロは「ひとりの人によって罪が世界に入り」と書きました。この「ひとりの人」というのは、アダムのことですね。そしてパウロは、このローマ5章で「違反」という言葉を何回も用いています。14節と15節をお読みします。

5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

 このアダムの「違反」とは言うまでもなく、アダムが神の命令に反してエデンの園にある善悪の知識の木の実を食べたことを指します。パウロは、これを「違反」と書いています。この「違反」という言葉が使われているのを見て、私は罪のことを、より整理した形で理解できるようになったと感じますので、きょうのメッセージでは、このことについて皆さんと分かち合いたいと願っています。いままで私は「罪」と「違反」とをゴチャゴチャにしていました。いままで私はアダムが木の実を食べたことも「罪」と考えていました。それは間違いではないと思いますが、木の実を食べたことを「違反」であるとして「罪」とは分けて考えると、「罪」のことを、より整理された形で理解できると思います。

イエスの「第一の戒め」と「第二の戒め」
 そういうわけで、これから創世記のアダムの違反と罪の箇所を見ることにしますが、その前にマタイの福音書を読んで、頭を整理しておきたいと思います。マタイの福音書の22章をご一緒に見ましょう(新約聖書p.46)。マタイ22章の35節から40節までを交代で読みましょう。

22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 ここは皆さんが良くご存知の箇所ですから、改めて詳しく説明する必要はないと思いますが、律法全体と預言者、つまり旧約聖書が、この二つの戒めから成り立っていると言えるほどに、この二つの戒めは重要です。これは、モーセの十戒とも良く合致していますね。
 モーセの十戒も見ておきましょう。出エジプト記の20章を、ご一緒に見ましょう(旧約聖書p.20)。ここにあるモーセの十戒の第一~第四の戒めが「神を愛すること」に相当し、第五~第十の戒めが「隣人を愛すること」に相当しますね。
 すなわち、3節の「ほかの神々があってはならない」、4節の「偶像を造ってはならない」、7節の「主の御名をみだりに唱えてはならない」、8節の「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」の四つの戒めが、イエスさまが言われた第一の戒めの「神を愛すること」に相当し、12節の「あなたの父と母を敬え」、13節の「殺してはならない」、14節の「姦淫してはならない」、15節の「盗んではならない」、16節の「偽りの証言をしてはならない」、17節の「隣人のものを欲しがってはならない」の六つの戒めが、イエスさまが言われた第二の戒めの「隣人を愛すること」に相当しますね。

アダムの違反と罪
 この二つの戒めのことを頭に入れておいて、創世記のアダムの違反と罪の記事をご一緒に読みたいと思います。まず創世記2章を見て、それから3章に行きます(旧約聖書p.3)。ここも皆さんが良くご存知の箇所ですから、あまり詳しくは見ませんが、ポイントだけは押さえておきたいと思います。まず2章の16節と17節、

2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 ここで神はアダムに、善悪の知識の木からは取ってたべてはならないと命じました。しかし、3章でアダムは食べてしまいました。3章6節ですね。

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 こうしてアダムは神が取って食べてはならないと命じていた木の実を食べてしまいました。これがアダムの「違反」です。そうして、その後で何があったかを今度は見て行きます。まず3章8節、

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 ここでアダムは主の御顔を避けました。これはイエスさまが言われた第一の戒めである「神を愛すること」から離れていますね。こうして神の命令に違反したアダムに罪が入ったために、アダムは神から離れるという罪を犯してしまいました。そして、創世記3章の記事で興味深いことは、神を愛することができなくなったアダムは直ちに隣人をも愛することができなくなったことです。第一の戒めを守れなくなってしまったアダムは第二の戒めをも守れなくなってしまいました。9節から12節までを、今度は交代で読みましょう。

3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 何と、ここでアダムは、自分が木の実を食べたことを妻のエバのせいにしてしまいました。自分が悪いのではなく妻が悪いと言っています。これは隣人を愛していない「罪」ですね。神から離れて神の御顔を避ける罪を犯したアダムは、最も身近な隣人である自分の妻を愛さないという罪をも犯してしまいました。

ワンセットになっている「第一の戒め」と「第二の戒め」
 以上のことは、イエスさまが言われた第一の戒めと第二の戒めが密接に関連していることを表していると言えるでしょう。どうやら神を愛さない人間は自動的に隣人をも愛することができなくなるようです。ですから「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とはワンセットになっています。このことを聖書は創世記の非常に早い段階で私たちに教えてくれています。
 そしてこのことは、私たちの教会が地域の教会として、この地域の隣人の皆さんとの関係を築いて行く上でも、しっかりと胸に刻んでおきたいと思います。私たちは神を愛し、そして隣人を愛す者たちでありたいと願っています。そのために、先ずは礼拝で神様への愛をしっかりと表したいと思います。この礼拝をしっかりと捧げることができないなら、隣人を愛することもできないことになります。
 そして、私たちが新たに建設する礼拝堂は、この大切な礼拝の場となりますから、私たちがどのような礼拝堂を建設すべきかについて、私たちの一人一人がしっかりと考えて行きたいと思います。それが主を愛し、隣人を愛することとつながっているのだということを意識したいと思います。主を愛し、隣人を愛することに熱心になるなら、礼拝堂の建設に関しても熱心にならなければならないのだと思います。
 きょうの会堂問題勉強会も、そのことを意識して臨みたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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