インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

6月3日礼拝プログラム

2018-05-31 11:12:38 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月3日 礼拝 午前10時~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年6月第1聖日礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  救い主イエスと       409
 交  読  詩篇126篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  確かなもとい ただ主に置き 230
 聖  書  ヘブル12:1~3
 説  教  『イエスから目を離さないで』岩上祝仁 牧師
 讃 美 ③  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
コメント

神に帰れ、赦して下さるから(2018.5.20 ペンテコステ礼拝)

2018-05-22 08:12:59 | 礼拝メッセージ
2018年5月20日ペンテコステ礼拝メッセージ
『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』
【ルカ24:44~53】

はじめに
 きょうはペンテコステ礼拝です。使徒の時代のペンテコステの日にイエスさまの弟子たちが聖霊を受けた恵みを共に分かち合いたいと願っています。
 私たちクリスチャンにとって、毎週日曜日に教会に集い、神様を礼拝することができることは格別な恵みです。この素晴らしい恵みをいただくことができることに、心から感謝したいと思います。毎週毎週の礼拝はどれもとても大切なものです。しかし、中でもクリスマス礼拝、イースター礼拝そしてペンテコステ礼拝は格別に大切なものであると言えるのではないでしょうか。
 まずクリスマスの日にイエスさまがこの世に生まれることがなければ、そもそも私たちはイエスさまを信じることによって得られる恵みをいただくことができるようにはなりませんでした。ですから、イエスさまのご聖誕をお祝いするクリスマス礼拝は、とても大切なものです。では、イエスさまを信じることによって得られる恵みとは何でしょうか。それは聖霊の恵みですね。このようにクリスマス礼拝とペンテコステ礼拝は密接に関連しています。
 イエスさまを信じるとはイエスさまが神の子キリストであることを信じることです。このイエスさまが神の子キリストであることを信じることとイエスさまの復活(よみがえり)を信じることもまた、切っても切れないことです。神のひとり子であり救い主であるイエスさまは全世界の罪を背負って十字架に掛かって死にましたが、全能の神の力によって復活しました。このことを信じる者は聖霊を受けて永遠の命を得ます。
 そうして考えると、クリスマスの恵みもイースターの恵みも、どれもペンテコステの恵みへとつながって行きます。そういう意味では、ペンテコステ礼拝は年間を通した礼拝の中でも最も大切な礼拝であると言えるかもしれません。礼拝に大切さの順番を付けることはナンセンスかもしれませんが、いま私たちがルカの福音書から学んでいるように聖霊を祈り求めて受けることほど大切なことは他にない(ルカ11:13参照)のですから、それを覚えてペンテコステの恵みの素晴らしさを共に分かち合いたいと思います。
 さてしかし、それなのにどうしてメッセージのタイトルが『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』という訳のわからないものになっているか、不可解に思っている方もおられるかもしれません。以下、順次説明して行きたいと思います。

旧約聖書のどこに「三日目に死人の中からよみがえり」とあるのか
 いま私たちは礼拝でルカの福音書の学びをしています。毎度説明しているように、使徒の働きの視点でルカの福音書を眺めるということをしています。きょう開いているルカの福音書24章の最後の箇所は、使徒の働き1章と重複する箇所ですね。両者はルカの福音書と使徒の働きの「蝶つがい」とも呼ばれる箇所です。それで当初の予定としては、まずルカ24章をご一緒に読み、次いで使徒1章も開いて重なりを確認した上で、使徒2章のペンテコステの日の出来事の箇所をご一緒に読むことを考えていました。
 しかし、準備段階でルカ24章を読んでいる時に、途中で引っ掛かってしまいました。それで色々と思いを巡らしているうちにイザヤ55章(今朝の聖書交読の箇所)にたどり着きました。それで今日のメッセージでは、そのことを皆さんと分かち合いたいと思いました。
 ルカ24章44節から見て行きます。

24:44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

 モーセの律法と預言者たちの書と詩篇は旧約聖書の代表的な書ですから、旧約聖書の全体と考えて良いのだろうと思います。ここでイエスさまはご自身について旧約聖書に書いてあることはすべて成就しなければならないとおっしゃいました。
 続いて、45節から48節までは交代で読みたいと思います。

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 イエスさまは旧約聖書に次のように書いてあるとおっしゃいました。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』
 さてしかし、旧約聖書にこのように書いてある箇所はあるでしょうか。聖書のページの下にある脚注を見ても、旧約聖書の引照の箇所は書かれていません。私の手持ちの注解書を見ても、この件に関してはスルーしています。私はヨハネの福音書の注解書はたくさん、何十冊も持っています。しかし、ルカの福音書の注解書は数冊しか持っていません。ですから、他の注解書を調べれば何か情報が得られるかもしれません。しかし私の手元にある注解書ではこの件についてはスルーしていますから、困りました。それで説教でもスルーしようかと思いましたが、何となく気持ちが悪いので、聖霊によって何か示されないかと期待して、思いを巡らしていました。すると、以下で話すことが示されました。それが正解かどうかはわかりませんが、ぜひ皆さんと分かち合いたいと思います。

イザヤ書53章~55章
 イエスさまがおっしゃった46節の『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、云々』は旧約聖書のどこに書いてあるの?と疑問に思うのは、「三日目に死人の中からよみがえり」という箇所ですね。「キリストは苦しみを受け」という場面は有名なイザヤ書53章にあります。それで、ふと「三日目に死人の中からよみがえり」というのは、イザヤ書53章から55章に掛けてのことではないかと思いました。イエスさまの時代には、イザヤ書に53章とか55章とかの章の番号は付いていなかったと思いますが、区分はあったでしょうから、イザヤ53章で苦しみを受け、三章目の55章でよみがえったのではないかと思ったわけです。
 そして、そういう目で見てみると、そんな風に読めるのですね。まさに聖霊が働いたという気がして、私は大変に恵まれました。それで、ぜひペンテコステ礼拝で皆さんと分かち合いたいと思ったわけです。前回の礼拝メッセージで私は「大きなスケールで聖書を読む」ことをお勧めしましたが、このルカ24章とイザヤ書との関係も大きなスケールで読むことでイエスさまの働きのことがより明白に浮かび上がって来るようです。
 イザヤ書52章から見て行きたいと思います。このイザヤ書52章から55章に掛けては、やがて起きるバビロン捕囚とエルサレム滅亡の苦しみからの回復という希望の福音が預言されています。このイザヤ書52章から55章に掛けてを、先ほどのルカ24章45節から48節まで(週報p.3)の、

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

と重ねて読むと、バビロン捕囚とエルサレム滅亡の苦しみの中ではイエスさまもまたエルサレムの民と共に苦しんでいて、エルサレムの民の罪と咎に対する神の罰をイエスさまが引き受けて、回復の希望へと民を導いて下さっている様子が見えて来ます。
 ですから、イザヤ書52章から55章までとルカ24章のイエスさまのことばを重ねると、ペンテコステの日というのは、バビロン捕囚から続いて来たイスラエルの民の長い苦しみが漸く解放された日であったということが見えて来ます。それなのにユダヤ人たちは使徒たちが語るイエス・キリストの福音に耳を傾けようとしなかったためにパウロが嘆いていたことは、3月までの使徒の働きの学びで見た通りです。

キリストの受難
 では残りの時間でイザヤ書52章から57章までを見てみたいと思いますが、そんなに時間は残されていませんから、ところどころかいつまんで見て行きます。
 イザヤ52章1節、

52:1 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。

 ここでエルサレムの回復が預言されます。それは良い知らせです。7節、

52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

 この回復のためにはイエス・キリストによる罪の贖いが必要でした。9節ですね。

52:9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。

 それは十字架による贖いでした。13節と14節、

52:13 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。

続いて53章の4節から6節、

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 エルサレムの民の咎を主はすべてイエスさまに負わせました。そうして十字架で死にました。このイエスさまが受けた十字架の苦しみはエルサレムの民の苦しみに寄り添うものでもあったことがルカの福音書から見えて来ます。
 54章に進みます。この54章は福音書で言えば十字架の金曜日と復活の日曜日の間にある安息日の土曜日です。この備え日の土曜日では、やがて来る回復の時に静かに備えています。54章7節と8節、

54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

 7節で主は、「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てた」と言われました。すると、十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1、マタイ27:46、マルコ15:34)と叫んだ時のイエスさまは、苦しみの中にあったエルサレムの民と共にいた様子が見えて来ます。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」はエルサレムの民の叫びであり、十字架のイエスさまはそのエルサレムの民の叫びを代弁していた様子が見えます。

私たちの神に帰れ
 続いて、いよいよ復活の55章に進みましょう。

55:1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。

 「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」これはイエスさまがヨハネ4章でサマリヤの女に語ったことばと重なりますね。ここにある水とは聖霊のことと受け取りたいと思います。そして、「さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」ここからもイエスさまの十字架の姿が見えます。
 エルサレムの民、そして私たちは私たちの罪の代価を払わないで、赦しを得ました。代価のすべてはイエスさまの十字架によって支払われたからです。そして3節、

55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。

 神の声に耳を傾ければ聖霊を受けて永遠の命を受けるという預言が見えて来ます。続いて4節と5節、

55:4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
55:5 見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」

 福音はイスラエルの民だけでなく異邦人へと広がっていくことが、ここで語られています。5節ですね、「見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」こうして聖霊を受ける者は、イエス・キリストの証人となって地の果てまでイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。
 そうして、きょうのメッセージのタイトルにもした7節です。

55:7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

「私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」これは、最近私たちが礼拝で学んだ「放蕩息子の帰郷」を思い出しますね。聖書を大きなスケールで読むなら、父の家を出た放蕩息子とは、創世記の時代にアブラハムの家系から離れて行った異邦人のことです。その異邦人が使徒の時代のペンテコステの日以降に、聖霊が注がれた使徒たちの働きによって父の家に帰って来ました。父は、帰って来た放蕩息子を咎めることなく赦し、大歓迎しました。

すべてのことを教えて下さる聖霊
 私たちが日本で伝えているキリスト教は、仏教や神道を信じる日本人から見れば外国の宗教のように見えるでしょう。しかし、異邦人がイスラエル人の父であるアブラハムの家を出たのは仏教や神道が始まるよりも、遥かに前のことです。日本人も元々は聖書の神の家の者たちでした。このことを私たちは、もっと伝えて行く必要があると思わされます。
 そのためには、私たちは普段から聖書を大きなスケールで読むことをしなければならないこともまた思わされます。
 イエスさまが十字架で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、イエスさまは神から離れて苦しんでいた私たちすべてと共に苦しんで下さっていたということを、きょうは学ぶことができましたから感謝に思います。私たちはそのイエスさまを信じて神に帰り、赦していただくことができました。そうして、聖霊の素晴らしい恵みを受けることができました。
 週報のp.3にはもう一つ、ヨハネ14章26節のみことばも貼り付けておきました。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 聖霊を受けるなら、ルカ24章にあるイエスさまのことばも、さらに豊かに学べますから、感謝です。きょう話したバビロン捕囚とエルサレム滅亡に遭った民の苦しみを思い浮かべながら、もう一度、45節から48節までを交代で読みます。

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 47節にあるようにイエスさまの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられます。このことのために私たちはイエスさまの証人として働きたいと思います。

おわりに
 最後に、49節から53節までを交代で読んでメッセージを閉じます。53節はご一緒に読みます。

24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 お祈りいたしましょう。
コメント

5月20日ペンテコステ礼拝プログラム

2018-05-17 10:39:41 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月20日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年5月第3聖日ペンテコステ礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  御霊は天より        173
 交  読  イザヤ55:1~13
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  あなたの願いのままに    175
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ルカ24:44~53
 説  教  『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  聖霊よ 主のそばに     171
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
コメント

大きなスケールで聖書を読む(2018.5.13 礼拝)

2018-05-17 08:02:04 | 礼拝メッセージ
2018年5月13日礼拝メッセージ
『大きなスケールで聖書を読む』
【ルカ13:6~9】

はじめに
 きょうは母の日ですが、来週はペンテコステの日ですから、ここまで続けて来たルカの福音書の学びのシリーズを、引き続き行うことにします。このシリーズでは使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということを試みています。
 ご承知の通り、使徒の働きは聖霊の働きとも言えるほど、使徒たちが聖霊によって力を受けて力強い働きをしたことが豊かに記されています。この使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めてみています。

先週までの学びの復習
 まず先週までの4回のメッセージを簡単に振り返ってみます。第1回目ではルカの福音書でイエスさまが中風で寝たきりの男が癒し、この男が起きて歩き始めた場面を、使徒の働きで聖霊を受けたペテロが足の不自由な人を癒した場面と重ねて見ることをしました。すると、使徒の働きで足の不自由な人を癒したのはペテロというよりは、聖霊を受けたペテロの中にいるイエスさまが足の不自由な人を癒している姿が見えてきます。
 第2回目は、ルカの福音書が神殿の場面で始まり、神殿の場面で終わるという話をしました。つまり、ルカの福音書のイエスさまの言動の全体が神殿という入れ物の中に納まっているという形になっています。そして、パウロの手紙によれば、聖霊を受けている私たちの体は神殿だということです。私たちの体は神殿で、その中に神である聖霊が住んで下さっています。それはつまり、神の霊としてのイエスさまが私たちの中に住んで下さっているということです。私たちの中にはルカの福音書のイエスさまが丸ごと入っていて、私たちに語り掛けて下さっているのだという話をしました。ルカの福音書のイエスさまは人間としてのイエスさまですが、そのイエスさまが今度は神の霊として私たちの中に入っていて下さり、語り掛けて下さっているのです。
 第3回目は、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の箇所を開きました。使徒の働きの視点から見ると、父の家を出た弟息子とは異邦人のことです。そして祝宴に加わらずに父の家に入ろうとしなかった兄息子とは、イエスさまが神の子キリストであることを信じようとしないユダヤ人たちのことです。この第3回目のメッセージの時には聖霊の話はあまりしませんでしたので、いま補足しておくと、父の家の外にいる状態では、聖霊はその人の中に入っていないでしょう。聖霊を受けるとは、父の家の中に迎え入れられて祝宴に加わることだと言えるでしょう。このことを、もう少し補足したいと思いますから、ルカ15章の20節をご一緒に読みましょう(週報p.3)。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 この箇所で私は以前から、弟息子の帰り道のことがどうして何も書かれていないのだろうと気になっていました。弟息子が我に返ったのは遠い外国でのことでしたから、父の家に帰り着くまでの旅は長い期間が掛かったはずです。それなのに、その帰り道のことが描かれていないのは何故だろうと思っていました。そうして気付いたことはイエスさまが神の子キリストと信じてから聖霊を受けるまでの間にはほとんど時間が掛からないということです。つまり自分の罪に気付いて悔い改めの方向転換をしたなら、時間を置くことなくイエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けるはずだから、ルカは帰り道のことを書かなかったのだろうと気付きました。自分の罪に気付いて悔い改めてから聖霊を受けるまでに時間が掛かるとしたら、イエスさまが神の子キリストであると信じていないことになりますから、本当に悔い改めたかどうか疑わしいということになってしまいます。
 ジョン・ウェスレーは聖職者になってからもなお、救いの確証を持つことができずに長い期間悩んでいました。それはきっと、兄息子のように、どこか父のことを心から信頼することができずにいたからでしょう。兄息子は、父の家の住人なら畑で真面目に働くべきだと考えていました。それゆえ働かないで遊んでばかりいた弟息子を父が喜んで迎え入れたことに納得できないでいました。ウェスレーも良い行いをすることを重視していました。学生時代からホーリークラブを作って仲間たちと良い行いに励んでいました。このように行いを重視する人は、自分が良いと思っている行いを自分と同じようにはしない人のことを批判的に見がちなような気がします。ウェスレーの場合もそれで祝宴に加わることができなかったのかもしれません。それゆえ、なかなか聖霊を受けることができなかったということなのかもしれません。
 聖霊を受けることは何にも増して、最も大切なことです。第4回目の先週は、このことを学びました。週報p,3に載せたように、先週はルカ11章の13節に注目しました。

ルカ11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 このように求めるべきものは聖霊であることを先週は話しました。

大きなスケールで聖書を読む
 さて、今週のメッセージのタイトルは、『大きなスケールで聖書を読む』です。「大きなスケールで聖書を読む」とは、例えば先ほど話した「放蕩息子の帰郷」で言えば、弟息子とは異邦人のことである、とするような読み方です。そうではなくて使徒の働きとの重なりを考えずにルカの福音書を単独で読むなら、放蕩息子が父の家を出てから戻って来るまでの期間は数年程度の短い間だと思って読むことでしょう。財産を湯水のように使ってしまうなら、お金はあっという間に無くなってしまうからです。しかし、使徒の働きでのパウロたちによる異邦人伝道のことを重ねて読んで、弟息子とは異邦人のことだと考えるなら、弟息子が父の家を出てから再び戻るまでには何千年もの歳月が流れています。イスラエル人と異邦人とが別々の道を歩み始めたのは創世記のアブラハムの時代のことですから、アブラハム以降、異邦人は旧約聖書の時代の間はずっと父の家の外にいました。そうして使徒たちの時代になってようやく父の家に戻って来たのでした。この何千年もの期間は人間にとっては長い時間ですが、神様にとっては短い時間だと言えるでしょう。
 以上のように聖霊の働きを考慮に入れて聖書を読むなら、神様の時間を共有することができます。そうして神様との親しい交わりの中に入れていただくなら、そうしない時の何倍、何十倍もの大きな恵みをいただくことができるでしょう。それが「大きなスケールで聖書を読む」ということです。
 では、きょうの聖書箇所はどんな風に読んだら良いでしょうか。もちろん正解があるわけではなく、人それぞれの読み方で良いのですが、この箇所でのスケールの大きな読み方をご一緒に味わってみたいと思います。ルカ13章の6節から9節までを交代で読みましょう。

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
13:8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
13:9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 皆さんは、この箇所をどのように読むでしょうか。7節のぶどう園の番人というのはイエスさまのことですね。では、6節の「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」は、どのように読むでしょうか。先ほども言いましたが正解があるわけではありませんから、人それぞれで良いのだと思いますが、私は、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えたおいたこと」を、神様がヨシュアの時代にイスラエルの民をカナンの地に入植させたことと読みたいと思います。イスラエルの民はそのカナンの地で時に繁栄もしましたが、多くの場合は神様から離れていて信仰の実を結ぶことができないでいました。結局のところ、人は聖霊を受けなければ信仰の実を結ぶことができないのですね。ですから、イエスさまはおっしゃいました。8節と9節です。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』そうして、使徒の働きの時代になって漸く実を結ぶことができるようになりました。
  いかがでしょうか。7節にある三年間を、ヨシュアの時代からイエスさまの時代までという大きなスケールで読むと、スケールの大きな神様により近づくことができると感じないでしょうか。私の場合は、そのことの恵みをとても強く感じます。神様は宇宙スケールの大きなお方ですから、聖書も大きなスケールで読むと神様をより近くに感じる恵みをいただくことができます。私はこの素晴らしい恵みを、是非とももっと多くの方々と分かち合いたいと願っています。
 私がヨハネの福音書の話をよくするのも、まったく同じ理由からです。これまでヨハネの福音書は、紀元30年頃の数年間の出来事として読まれて来ました。それはそれで恵まれますが、いつも私が話しているようにヨハネの福音書の背後には旧約聖書の全体と使徒の働きが重ねられていますから、数千年間が背後に隠されています。この数千年というスケールは神様のスケールですから、このスケールの大きな背後に気付くなら、神様にグ~ンと近づくことができて、何十倍もの大きな恵みをいただくことができます。

(中略)

 聖霊を受けて信仰の実を結ぶ私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

5月13日礼拝プログラム

2018-05-11 10:05:14 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年5月第2聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  とうとき主のみ救いよ     14
 交  読  詩篇125篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  けがれ果てた身に      306
 讃 美 ③  恵みの高き嶺        414
 聖  書  ルカ13:6~9
 説  教  『大きなスケールで聖書を読む』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  ここにいます主は      392
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
コメント

求めるべきは聖霊(2018.5.6 礼拝)

2018-05-09 08:26:10 | 礼拝メッセージ
2018年5月6日礼拝メッセージ
『求めるべきは聖霊』
【ルカ11:5~13】

はじめに
 先月から始めたルカの福音書の学びでは、同じルカが書いた使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということをしています。いま私たちは今月20日のペンテコステの日に向かって歩んでいます。使徒の働きには、ペンテコステの日に弟子たちが天から聖霊を受けたことが記されています。このペンテコステの日のことを想いながらルカの福音書を学びたいと思いましたから、「聖霊」という言葉が出て来る今日の箇所のルカ11章を選びました。「聖霊」は13節で使われていますね。イエスさまは、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とおっしゃいました。

聖霊を求める
 先ずは、きょうのルカ11章の箇所を簡単に見てみましょう。イエスさまは弟子たちに、こう言われました。5節と6節、

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』

 時刻は真夜中でしたから、友だちにとっては迷惑な話でした。7節、

11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』

 昼間のことなら、この友だちの応対は冷たいということになりますが、真夜中なのですから、当然のことです。イエスさまは続けました。

11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。

 そうして、イエスさまは弟子たちに言いました。9節と10節、

11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

 イエスさまは弟子たちに、しつこく祈り求めることの大切さを説きました。さて、ではイエスさまは何を祈り求めることが大切だとおっしゃったのでしょうか。11節と12節、

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

 面白い例えですが、どうやらイエスさまはここで、自分が求めることをハッキリさせるように言っているようです。魚が欲しいなら、ちゃんと魚を求めるように、卵が欲しいなら卵を求めるようにと言っているようです。その上で、13節のようにおっしゃいました。

11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカの福音書のイエスさまはここで、聖霊をしつこく祈り求めるようにと言っておられます。まず、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与える」と言い、続いて「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と言われました。聖霊は良いものの中でも最上のものです。

聖霊を重視するルカ文書
 興味深いことに、マタイの福音書には「聖霊」という言葉は含まれていません。週報のp.3に載せたマタイの福音書7章の7節から11節までを交代で読みましょう。

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

 このようにマタイの福音書では、ただ単に「良いもの」を二回繰り返しているだけです。しかし、ただ単に「良いもの」と言われても、それを直ちに聖霊と結び付けるのは難しいですね。ルカの福音書のイエスさまの場合はハッキリと、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とおっしゃいました。ここに聖霊を重視しているルカの福音書の特徴がハッキリと表れています。
 ルカの福音書のイエスさまがハッキリと「聖霊」とおっしゃったことは、使徒の働きの視点から見れば、良く分かることです。使徒の働きとは「聖霊の働き」のことだとも言われます。それほど使徒たちの働きに「聖霊」は不可欠でした。聖霊の力が無ければ、使徒たちは何もできませんでした。ペンテコステの日まで、弟子たちはひたすら聖霊を祈り求めていました。聖霊を受けるまでの彼らは祈ること以外には、何の活動もしていませんでした。そうしてペンテコステの日に聖霊を受けて初めて、イエス・キリストの証人としての働きを始めたのでした。
 聖霊を受けると、聖霊を受けた者の中にはイエスさまが住んで下さるようになります。それゆえ、その者はイエスさまと霊的に出会うことができてイエスさまの証人になることができます。このことは、いつも話していることですね。その他にも、聖霊を受けた者の内に入ったイエスさまは、その者の心をきよめて下さいます。

心をきよめる聖霊の働き
 きょうは残りの時間で、同じルカの福音書11章を見ながら、イエスさまが聖霊を受けた者の心をきよめて下さることをご一緒に学ぶことにしたいと思います。11章の20節から26節までを交代で読みましょう。

11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 一つ一つ見ていきます。20節、

11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けた者は、イエスさまが悪霊どもをその者の中から追い出して下さいます。このイエスさまのきよめの働きがないとどうなるでしょうか。21節以降を見てみましょう。21節、

11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。

 強い意志を持つ人は、悪から遠ざかることがある程度は可能でしょう。意志の強い人は自分で自分の心を守ります。しかし、悪魔の力は強力ですから、時に悪魔はそのように意志の強い人の心にも侵入して、その人の心の中を荒らします。22節です。

11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。

 そして23節、

11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。

 こうしてイエスさまから離れている人の心は荒らされます。

きれいになっても聖霊が入らないと却って悪くなる
 しかし、何かの治療を受ければ汚れた霊が出て行くこともあるでしょう。例えばアルコール依存症の人が治療を受ければ一旦はアルコールから離れることができます。そんな時は汚れた霊も、その人から出ているでしょう。24節、

11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。

 この24節、25節そして26節は非常に不気味です。続いて25節と26節、

11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 せっかく悪霊が出て行っても、そこにイエスさまがいないのなら、とても悲惨なことになります。
 最近、世間を騒がせたニュースにジャニーズのグループのメンバーの事件がありましたね。この人は、アルコール依存症だそうで、事件を起こす前には入院して治療をしていたそうです。今のルカ11章で言うなら、24節で一度汚れた霊が出て行った状態と言えると思います。アルコール依存症の治療によって、汚れた霊は一時的に出て行きました。この汚れた霊が出て行った段階でイエスさまにしっかりと入っていただくことができるなら、汚れた霊が戻って来ないようにイエスさまが防いで下さいます。しかし、ただ単にきれいになっただけなら、汚れた霊は戻って来てしまいます。先ほどのグループのメンバーも、そのようなことになってしまったと言えるのかもしれません。

おわりに
 26節をもう一度お読みします。

11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 ですから聖霊は、単にイエスさまの証人になるために必要なだけでなく、心の中が汚れた霊によって悲惨な状態にならないためにも、是非とも必要です。このように聖霊が私たちの心をきよめて下さる働きを持つこともしっかりと心に刻んで、私たちはペンテコステに向かって歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

5月7日礼拝プログラム

2018-05-03 11:21:31 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月7日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年5月第1聖日礼拝 順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  詩篇122篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主は私を救うために     457
 讃 美 ③  祈れ、み父のみ顔見上げて  376
 聖  書  ルカ11:5~13
 説  教  『求めるべきは聖霊』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  ここにいます主は      375
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
コメント

天幕の杭を強固にするとは?(2018.5.2 祈り会)

2018-05-03 09:23:38 | 祈り会メッセージ
2018年5月2日祈り会メッセージ
『天幕の杭を強固にするとは?』
【イザヤ54:1~8】

54:1 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──【主】は言われる──
54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。
54:3 あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。
54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。
54:5 なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。
54:6 【主】はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──
54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

はじめに
 きょうはイザヤ書54章をご一緒に味わうことにしました。
 実は私自身は、これまでイザヤ書54章をじっくりと味わったことはありませんでした。また、礼拝や祈り会のメッセージで引用したことは一度もありません。今回が初めてです。53章は有名ですから、礼拝や祈り会で頻繁に引用していますが、54章からは初めてです。
 今回なぜ54章を開くことにしたかと言うと、実は少し前の教区会のディボーションの時に開かれた箇所だったからで、思いを巡らす機会があったからです。私は教区の書記をしていますから、議事録の作成を担当しています。そして、議事録にはディボーションのメッセージの要旨も記録することが教区の慣例になっています(ちなみに、前にいた教区の教区会の議事録では、単に聖書箇所を記録するだけでした。今はどうかわかりませんが)。このディボーションの要旨をまとめるのが、書記の私にとってはかなりの重荷になっています。それは私が要旨をまとめることを苦手としているからです。それで、レコーダーでメッセージの音声を録音して、何度も聞きなおしては議事録に要旨を書くことになります。

信仰の杭を強固に打ち込む
 そういうわけで、今回、このイザヤ書54章からのショートメッセージの録音を何度も繰り返し聞き直しました。今回のメッセージを担当された先生は、特に2節の「杭を強固にせよ」というフレーズに強い思い入れを持っておられました。この2節を見る前に、まず1節をご一緒に見ながら、この54章の背景を簡単に確認しておきましょう。

54:1 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──【主】は言われる──

 聖書には、不妊の女の精神的な苦しみが描かれている箇所がたくさんあります。ですから、この1節の「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え」は、精神的な苦しみの中にある人々への慰めと励ましのメッセージであると考えられます。具体的に言えば、バビロン捕囚の苦しみに遭ったユダヤの人々への慰めと励ましのメッセージと言えるでしょう。
 そうして2節に入ります。

54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。

 人々はエルサレムの周辺に戻って来て、そこに天幕を張り、杭を強固にして風に飛ばされないようにします。17日の教区会でメッセージを取り次いで下さった先生は、この「杭を強固にせよ」の杭は「信仰の杭」であり、簡単に抜けないように、しっかりと打ち込む必要があるとおっしゃっていました。なるほどなと思わされました。実は私はイザヤ書54章からのメッセージを聞くこと自体が初めてのことでした。この「杭を強固にせよ」が信仰に結びつくとは考えたことがありませんでしたから、とても新鮮に感じたメッセージでした。

捕囚の苦しみに遭った人々への慰めと励まし
 この2節の「杭を強固にせよ」には、後でまた戻って来ることにして、3節から8節までを急ぎ足で見てしまうことにします。3節、

54:3 あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

 バビロン軍の攻撃によって荒れ果ててしまった町々に人々は再び戻って来ます。主は、そこで右と左に増え広がって繁栄するようにと励まして下さいます。4節、

54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。

 やもめ時代の屈辱というのは、バビロン捕囚の時の屈辱ですね。続いて5節、

54:5 なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。

 主は創り主であり、人の命を造られた方です。ですから、エルサレムの民の命もまた主が造られました。その創り主の主は、贖い主でもあります。その主が次のように仰せられます。6節と7節、

54:6 【主】はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──
54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。

 主は少しの間、人々をバビロン捕囚にして見捨てました。しかし大いなるあわれみを持って再び集めます。そして8節、

54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

 主は「永遠の真実の愛をもって人々をあわれむと約束して下さいます。以上、8節までですが、このイザヤ書54章はバビロン捕囚の苦しみに遭ったエルサレムの人々への豊かな慰めと励ましのメッセージとなっていることが分かると思います。

天幕を移動する時には抜く杭
 ここで、もう一度、2節の「杭を強固にせよ」に戻ります。2節、

54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。

 教区会でメッセージを取り次いで下さった先生は、神学生の時代から、この2節の「杭を強固にせよ」で折々に自分の信仰がどれだけ深く強固に地に打ち込まれているかを確認して来たと語っておられました。救いの確信、きよめの経験の確信があるか、また召しの確信、自分の使命への確信が、地に深く打ち込まれた杭のように強固であるかを確認し、そこに至らない自分を神様によって修正されて来たということを証ししておられました。そして困難に遭った時に簡単に抜けてしまうような信仰ではなく、強固な信仰を持つ者として、教会の皆さんと共に歩ませていただきたいと語っておられました。
 このメッセージを私はとても新鮮な思いで聞きました。そして、私もこの2節の聖句を思い巡らす時を持ちました。すると、いささかの疑問が湧き起こって来ました。それは、天幕はそもそも移動を前提とした住居であるという点です。ですから移動する時には杭を抜くことになります。もし、メッセージを取り次いで下さった先生のように杭を信仰と解釈するなら、住む所を移動する度に信仰が抜けたようになってしまうが、それで良いのだろうかという疑問が少し湧きました。

行く先々で信仰の杭を深く打ち込んだアブラハム
 そうして思い至ったのは、アブラハムの箇所です。アブラハムもまた天幕生活をしていました。そして移動した先々でアブラハムは祭壇を築きました。そこを確認しましょう。創世記12章です。まず12章の1節と2節を交代で読みましょう。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

 この主の命令を受けて、アブラハムはハランの地を出発してカナンへと向かいました。そうして5節にあるように、カナンの地に入りました。次いで6節から8節までを交代で読みましょう。

12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに【主】のための祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。

 アブラハムは7節で祭壇を築き、8節でもまた祭壇を築きました。つまり移動する先々で、アブラハムは信仰の杭を深く打ち込んでいたのですね。このアブラハムの箇所を思い巡らすことで、信仰の杭とはこのようなものであると示されました。信仰の杭は必ずしも一箇所に住むために打ち込むのではなく、主の導きに従って歩んで行く、その先々で打ち込むものであるようです。

おわりに
 私たちもまた、この今沢の地にしばらくの間、信仰の杭を打ち込んで、祭壇を築き、この地で過ごして来ました。しかし、いま主は次の場所に移動するように促しておられるようです。様々に困難な問題がありますが、主が最善へと導いて下さることを信じて、進んで行きたいと思います。主の導きの声がさやかに聞こえるように整えていただけるよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
 
コメント

人は皆すべて父の家の家出人(2018.4.29 礼拝)

2018-05-03 09:15:36 | 礼拝メッセージ
2018年4月29日礼拝メッセージ
『人は皆すべて父の家の家出人』
【ルカ15:11~24】

はじめに
 ルカの福音書の学びを始めてから3週目に入りました。このシリーズでは、使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めることを試みています。ルカの福音書も使徒の働きも両方ともルカが書いた文書です。そしてルカは福音書を書いていた時点から次には使徒の働きを書く構想を思い描いていたと考えるのが自然です。なぜならルカはパウロのヨーロッパへの伝道旅行に同行して、パウロの言動を身近な場所で直接見聞きしてよく知っていたからです。福音書でイエスさまの言動を書いていた時に、次にはパウロについて書きたいと思わなかったはずがありません。そういう視点でルカの福音書を眺めるなら、この福音書を使徒の働きと切り離して単独で眺めるよりも遥かに多くのことを学べる筈です。このシリーズでは、そのようなことを意識しながら、ルカの福音書の学びを進めて行きたいと願っています。

使徒の働きの時代のユダヤ人たちと重なるパリサイ人たち
 さて、きょうの聖書箇所は有名な「放蕩息子の帰郷」の箇所です。この「放蕩息子の帰郷」を使徒の働きの視点から見るなら、放蕩息子とは異邦人のことであろうということは、以前も礼拝の中で話したことがあります。ただし、そんなにしっかりとは話していなかったと思いますし、その時点での私の考察も十分ではありませんでした。
 今回は100匹の羊と10枚の銀貨の箇所も含めて、考察してみたいと思います。
 まず、15章の1節から見て行きます。1節と2節、

15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

 このパリサイ人たちの姿を、イエスさまは兄息子で表現していますね。2節でパリサイ人たちはイエスさまのことを「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言って批判しました。これは、兄息子が30節で、「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは」と父親に文句を言ったのとまったく同じですね。
 そして、このイエスさまに文句を言ったパリサイ人たちは、使徒の働きの視点から見るなら、使徒の働きの時代のユダヤ人たちのことだと言えるでしょう。ユダヤ人たちから見れば律法を守らない異邦人は罪人でした。そんな律法を守らない罪人が救われるはずがないとユダヤ人たちは考えていました。それは、ルカ15章2節のパリサイ人たちがイエスさまのことを「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言っているのとまったく同じですね。

羊と銀貨は悔い改めない
 次の箇所に行きます。3節から7節までを交代で読みましょう。

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 今回、改めてこのいなくなった一匹の羊の箇所と、次のなくした一枚の銀貨のたとえを読み直してみて、その次の「放蕩息子の帰郷」の箇所との関係について思い巡らしてみました。「放蕩息子」の前に羊と銀貨の例えが挿入されていることには、どのような意味があるのでしょうか。そのことを考えつつ、次の銀貨の箇所も読んでみます。8節から10節までも読んでみましょう。

15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 今回、改めて羊と銀貨の箇所を読み直してみて目に留まったのは、7節と10節の両方に書かれている「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」というイエスさまのことばです。イエスさまは、「それと同じように」とおっしゃいますが、羊や銀貨は「悔い改める」でしょうか。どちらも悔い改めるとは思えません。羊の場合は、もしかしたら悔い改めるかもしれませんが、銀貨が悔い改めることは決してないでしょう。では、なぜイエスさまは、なくなった銀貨の話をして「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」とおっしゃったのでしょうか。

方向転換に当てられている焦点
 これは、ひとつには「悔い改める」という日本語の訳に若干の問題があるように思います。銀貨が悔いるはずがありませんから、変な感じを受けてしまいますが、「悔い改める」のギリシャ語の「メタノエオー」には「方向転換する」という意味があるそうです。ですからイエスさまが銀貨の例えを話したのは「悔いる」ことに焦点を当てているのではなくて、女の人から離れて行った銀貨がまた元に戻って来たという方向転換に焦点が当てられているのだと考えるべきでしょう。
 これらのことを思い巡らしていて、ふと思い起こしたのが、週報のp.3に載せたルカの福音書の7章の29節と30節です。お読みします。

ルカ7:29 ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。30 ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。

 このようにパリサイ人たちや律法の専門家たちは、ヨハネからバプテスマを受けませんでした。このヨハネの授けていたバプテスマとは、「悔い改めのバプテスマ」です。週報p.3に載せたように、ルカの福音書には3章3節に、それが記されています。

ルカ 3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 このことを踏まえて、ルカ15章の7節と10節の、「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」をもう一度見てみましょう。「あなたがたに言います」の「あなたがた」とは2節にあるようにパリサイ人たちと律法学者たちでした。この者たちは悔い改めのバプテスマを受けていませんでした。それはつまり、彼らは悔い改めていないということです。
 イエスさまは彼らに対して羊と銀貨の例話で「あなたがたは悔い改めていない」と言い、その上で「放蕩息子の帰郷」へと話を進めて行った、そのような展開が見えて来ます。

方向転換をした弟息子
 では、今度は「放蕩息子の帰郷」を見て行きましょう。皆さん良くご存知の場面ですが、改めてご一緒に読んでみたいと思います。まず11節から16節までを交代で読みましょう。

15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

 放蕩息子の弟息子は父親から遠く離れた国にやって来て、そこで財産を使い果たしてしまい、そこでふと父親のことを思い出しました。17節、

15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

 弟息子は我に返りました。そして18節と19節、

15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

 これが「悔い改める」ということですね。弟息子は「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」と自らの罪を告白しました。そうして「雇い人の一人にしてください」と言おうと思いました。それは、どういう形でも良いから、とにかく父の家に入れてもらいたいということです。つまり、弟息子はそれまでは父の家に背を向けていましたが、この時点で方向転換をして、父の家の方向をしっかりと向いていました。つまり、悔い改めたのです。
 続いて20節から24節までを交代で読みましょう。

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

 以上の三つの例え話を通してルカの福音書のイエスさまは、羊でも銀貨でも人でも、元々いた場所に戻ることが尊いことだと教えて下さっています。

父に背を向けて家に入らなかった兄息子
 それは、次の兄息子の例え話を読むと、俄然はっきりして来ます。25節から32節までを交代で読みましょう。

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 25節を見ると、「兄息子は畑にいた」とあります。つまり、兄息子も家の外にいたということです。そうして、一応は家の近くまで帰って来ましたが、父のしたことに腹を立てて家に入ろうとしませんでした。28節に、「すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった」とあります。こうして、家に入った弟息子と、家に入らなかった兄息子とが鮮やかに対比されます。

人は皆すべて父の家の家出人
 この例え話は2節で見たように、パリサイ人と律法学者たちに向けて話されたものですから、兄息子とは彼らパリサイ人と律法学者たちのことです。彼らは律法を守っていましたから、一見すると父の家の住人のようですが、実は父の家から出て畑に出たままになっていて、家の中には戻っていないのです。
 そして、パウロたちの使徒の時代においては、兄息子はユダヤ人たちでした。弟息子の異邦人は父の家に続々と戻って来ていましたが、ユダヤ人たちは父の家に入ろうとしていません。使徒の働きやローマ人への手紙でパウロはユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとしないことを盛んに嘆いていますね。
 以上、きょう学んだことを振り返るなら、ユダヤ人であっても異邦人であっても、人は誰でも皆、家の外にいる者たちなのだということがわかります。異邦人の場合には遠い昔に家を出ていましたから、とても分かりやすいですが、ユダヤ人であっても父の家を出て入ろうとしていません。
 しかし、神様は誰であっても、ユダヤ人でも異邦人でも、皆等しく家の中に迎え入れて下さいます。いま、教会に集っていない方々は皆、父の家の外にいる方々です。私たちは、それらの方々が皆、父の家の中に入ることができるよう、用いられたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント