平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

主がお入用なのです(2017.1.29 礼拝・教会総会)

2017-01-30 09:16:24 | 礼拝メッセージ
2017年1月29日礼拝メッセージ
『主がお入用なのです』
【使徒9:23~25、マタイ21:1~6】

はじめに
 先々週から『使徒の働き』の学びを再開しました。先々週は『使徒の働き』9章で、サウロが復活したイエス・キリストと出会って目が見えなくなった場面をご一緒に見ました。そして、先週は、ダマスコにいたアナニヤがサウロの所に出掛けて行き、サウロの上に手を置くとサウロの目が開いた場面をご一緒に見ました。きょうは、その続きの箇所を先ほど朗読しました。
 きょうは、この後で教会総会を予定しています。ですから今日の礼拝メッセージは、教会総会のための心備えをするためのものです。そういうわけで当初は『使徒の働き』から離れることを考えていました。具体的な箇所が与えられていたわけではありませんでしたが、今年の教会総会の心備えに最もふさわしい箇所から選ぶべきと思っていました。ですから『使徒の働き』からは離れるであろうと思っていました。しかし偶然ですが、この使徒9章23~25節は、今年の教会総会の心備えにふさわしい箇所だと思いましたので、第一の聖書箇所としました。第二の聖書箇所はマタイ21章です。

危機一髪だったサウロ
 では、第一の聖書箇所のサウロが辛くもダマスコを脱出した場面をもう一度、今度は交代で読みたいと思います。

9:23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
9:24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。
9:25 そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。

 このようにしてサウロは間一髪のところで殺される危機を脱してダマスコを出ることができました。このことは、単にサウロが危機を脱したということだけでは片付けられません。世界宗教としてのキリスト教の存亡の危機であったとも言えるでしょう。なぜなら、サウロはこれからパウロと呼ばれるようになってヨーロッパの地中海沿岸に広くイエス・キリストの教えを広める働きをしたからです。そしてパウロの死後に、この教えはやがて地中海沿岸からヨーロッパ全域に広がり、さらにヨーロッパの国々の宣教師たちが世界にキリストの教えを広めて行きました。ですから、もしパウロがこのダマスコで殺されていたなら、キリストの教えが世界に広まることはなかったと言っても過言ではないでしょう。或いはまたパウロは多くの手紙を書き、その手紙が新約聖書に収められましたから、人々がキリスト教の信仰について理解するのに絶大な助けとなりました。このパウロの手紙の重要性を私たちはよく知っています。ですから、もしパウロがいなかったら現代の日本にキリスト教会が存在しなかったであろうことは十分に有り得ることです。それゆえ、パウロの危機はキリスト教の危機でもあったわけです。
 ただし、パウロがダマスコを脱出した時点では、彼が後にこれほどまでに大きな働きをするとは誰も予期していませんでした。まさに「神のみぞ知る」の世界です。ある程度の働きをすることは多くの人が思ったことでしょう。だからこそ、ユダヤ人たちも彼を殺そうと企んだのかもしれません。しかし、それにしても、キリストの教えが今日のように世界に広がることを予想できた人はいなかっただろうと思うことです。

主がお入用なのです
 さて、このパウロが危機一髪であった場面が、どうして今日の教会総会の備えのメッセージの箇所であるかというと、実はこの教会もまた危機一髪の中を通って来たという現実があるからです。

(中略)

 神様は不思議な仕方でこの教会を支えようとして下さっているように感じます。しかし、それはどうしてでしょうか。私にもわかりませんでした。それで、このことに思いを巡らしていた時に、ふと「主がお入用なのです」ということばが心に示されました。この「主がお入用なのです」の場面をご一緒に見ましょう。
 マタイ21章の1節から6節までを交代で読みましょう。

21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。

 これは、イエスさまがいよいよ十字架に掛かるためにエルサレムに入って行く棕櫚の日の場面です。この後、イエスさまはろばの子に乗ってエルサレムに入って行きます。イエスさまが乗ったのは、馬ではなくて馬よりもずっと小さなろばでした。しかも大人のろばではなく子供のろばでした。こんな小さなろばでも、イエスさまを乗せてエルサレムに入るという働きをすることができました。
 私たちの教会もまた小さな子ろばのような小さな存在です。しかし、こんな小さな私たちの教会でも「主がお入用なのです」と言っていただいていると私は感じました。だとすれば、これほど光栄なことが他にあるでしょうか。

主のために働く喜び
 私が『ヨハネの福音書』を用いた平和の働きに熱心に取り組んでいるのも、神様が私を用いようとしていうことを感じているからです。私にとっては、これは何にも増してうれしいことですから、何とかして『ヨハネの福音書』の永遠観を多くの方々に知っていただきたいと願って働いています。幸いにして今年の前半には、『ヨハネの福音書』についての本が出せそうな所にまで来ています。つい先日は本のカバーのデザインをお願いしたところです。この教会の会堂問題と私の『ヨハネの福音書』を用いた平和の働きは車の両輪のように同時に進んで行くものだと私は、この沼津教会に着任した時から思っていましたが、今年本当に同時に実現するところまで来ているのは、私にとって本当に大きな喜びです。
 この主のために働く大きな喜びはもちろん、伝道者だけではなく、教会で働く信徒の皆さんでも味わうことができるものです。『使徒の働き』には、このような伝道者以外の人々の大きな働きのことも書かれています。たとえばパウロを助けたプリスキラとアクラの夫婦です。この夫婦のことは、今年の後半に学ぶことになると思いますが、先回りして二人が登場する箇所を見て、きょうのメッセージを閉じたいと思います。この二人のことは使徒の働き18章に書かれています。2節と3節をお読みします。

18:2 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、
18:3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

 パウロはプリスキラとアクラの夫婦にコリントで出会って、共に働くようになりました。続いて18章18節、

18:18 パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。

 こうしてプリスキラとアクラはコリント以外の地でも、パウロと共に働きました。このようなプリスキラとアクラのような人々もまた、小さなろばの子のような人々でしたが、「主がお入用なのです」ということで召し出されて、大きな働きをしました。

おわりに
 私たちもまた小さなろばの子ですが、「主がお入用なのです」と言って下さっていると感じますから、これから私たちもこの今沢の地において、主のために働いて行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
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エルサレムを滅ぼし、イエスを十字架に付けた神(2017.1.25 祈り会)

2017-01-26 09:48:46 | 祈り会メッセージ
2017年1月25日祈り会メッセージ
『エルサレムを滅ぼし、イエスを十字架に付けた神』
【エレミヤ書21章 全】

はじめに
 以前から話しているように、2/1が締切の「日々の聖句」の原稿執筆に今、取り組んでいます。私の担当分の日付は3月号に掲載される4月1日~4月15日の分です。今年のイースターが4月16日ですから、ちょうどその直前の半月分ということになります。私の担当がイースターの4月16日の前の日の15日で終わってしまうのは残念ですが、受難日である4月14日の金曜日はバッチリ私の担当になっています。そして、この日はエレミヤ書の21章からのメッセージということになっています。

受難日を思いながら読むエレミヤ21章
 ここで、エレミヤ書の21章の全体の1~14節を交代で読みたいと思います。少し長いですが、エレミヤ書の中の1つの章としては、21章は14節までしかありませんから、かなり短い部類に入ります。この21章を読むと、神がエレミヤの時代にエルサレムを滅ぼしたことと、神がイエスさまを十字架に送ったこととが、実によく重なることがわかります。

21:1 【主】からエレミヤにあったみことば。ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言わせた。
21:2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」
21:3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。
21:4 イスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。『見よ。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが、わたしは、あなたがたの手にしている武具を取り返して、それをこの町の中に集め、
21:5 わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、
21:6 この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。
21:7 そのあとで、──【主】の御告げ──わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」
21:8 「あなたは、この民に言え。【主】はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
21:9 この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。
21:10 なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。──【主】の御告げ──この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。』」
21:11 ユダの王家のために──「【主】のことばを聞け。
21:12 ダビデの家よ。【主】はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいない。」
21:13 「ああ、この谷に住む者、平地の岩よ。あなたに言う。──【主】の御告げ──あなたがたは、『だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいに入れよう』と言っている。
21:14 わたしはあなたがたを、その行いの実にしたがって罰する。──【主】の御告げ──また、わたしは、その林に火をつける。火はその周辺をことごとく焼き尽くす。」

 このエレミヤ21章をイエスさまの十字架と重ねる読み方は特殊な読み方ですが、この聖書箇所がイエスさまの受難日のディボーションの箇所と決まっているという特殊性を考慮すれば、そのような読み方も許されると思います。

エルサレムを滅ぼし、イエスを十字架に付けた神
 1節から簡単に見て行きます。ゼデキヤ王は祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わせました。この時、エルサレムはバビロン軍の攻撃によって滅亡の危機の中にありました。そこで、主に願って何とかバビロン軍がエルサレムから離れ去るようにしてもらえないだろうかというわけです。
 この場面は、イエスさまが十字架の死を前にしたゲッセマネの祈りで、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と懇願したことと良く重なると思います。
 しかし、イエスさまは御心のままをなさって下さいと付け加え、御父は御子のイエスさまを十字架に送りました。エレミヤの時代にも主は次のように仰せられました。5節と6節です。

21:5 わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、
21:6 この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。

 こうして主は、予定通りエルサレムをバビロン軍を用いて滅ぼしました。

イエスの死によって命を得た私たち
 さてしかし、神はすべての人を滅ぼしたわけではありません。生き残った者はバビロンに捕囚として引かれて行くようにして、後にエルサレムに帰還させて神殿と城壁とを再建させました。そのことは、このエレミヤ21章では、8節と9節に見ることができます。

21:8 「あなたは、この民に言え。【主】はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
21:9 この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。

 8節に、「いのちの道と死の道を置く」とあります。「死の道」とは、イエスさまが歩んだ十字架への道ですね。この十字架でイエスさまは死にました。そしてイエスさまが十字架で死んだことで、私たちは命を得ることができました。十字架に付けられたイエスさまが神の子キリストであると信じる者には誰でも聖霊が注がれて命を得ることができます。
 この死の道はイエスさまにとって過酷なものでした。10節、

21:10 なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。──【主】の御告げ──この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。』」

 この10節の主の「わざわいのためにこの町から顔をそむける」ということばの「顔をそむける」に、イエスさまが十字架で叫んだ「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛なことばが重なるように感じます。このイエスさまの十字架の死があって初めて私たちに命が与えられたことを改めて覚えたいと思います。

おわりに
 私たちの罪がどんなに根深いものであるか、しかし、こんな罪深い私たちを神様は赦して下さり、愛して下さっていることの素晴らしい恵みを、地域の方々にしっかりとお伝えして行くことができる者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

21:8 「あなたは、この民に言え。【主】はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
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イエスと出会って変わる人生(2017.1.22 礼拝)

2017-01-23 21:43:33 | 礼拝メッセージ
2017年1月22日礼拝メッセージ
『イエスと出会って変わる人生』
【使徒9:17~22】

はじめに
 先週から使徒の働きの学びに戻っています。
 先週はまず使徒の働きの1章から8章までの大きな流れを復習しました。そして9章の前半の、サウロがイエス・キリストに出会った場面をご一緒に見ました。そして私自身の体験の証も交えて、イエスが神の子キリストであると信じると聖霊を受けることについて、ご一緒に学びました。
 私自身の体験とは、私はこの使徒9章の、サウロが復活したイエスさまに出会った記事を素直に信じたという体験のことです。私は、このサウロに関する記事を信じることで、イエスが神の子キリストであると信じたことになったのだと考えています。先週はまたヨハネの福音書もご一緒に開きましたが、ヨハネの福音書では、サマリヤの女がキリストに出会ったという話をサマリヤ人たちにしました。そしてサマリヤ人たちは、その女の話を素直に信じました。そうしてサマリヤ人たちは聖霊を受けました。私の場合は使徒9章の記事を素直に信じました。そうして聖霊を受けたのだと思うという話をしました。
 聖霊を受けるということは、イエス・キリストとの霊的な交わりを親密に持つことができるようになるということです。そうして人は変えられて行きます。ただし、その変化が急激に現れる人もいれば、ゆっくりと変化が現れる人もいます。私の場合は、初めはとてもゆっくりでしたが、ある時期から急激に現れたと感じています。サウロの場合は、最初から急激な変化が現れました。きょう聖書朗読で読んでいただいた箇所には、そのようにサウロが急激にそれまでと変わったことが描かれています。

主に用いられたアナニヤ
 きょうのメッセージのタイトルは、『イエスと出会って変わる人生』で、これはサウロに注目するために付けたタイトルですが、きょうのメッセージの準備をしていて、ここに登場したアナニヤもまた変えられた人だと思いました。ですから、きょうは先ずアナニヤに注目して、次いでサウロに注目することにしたいと思います。まず10節をお読みします。

9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。

 少し前の8節に、イエス・キリストと出会って目が見えなくなったサウロがダマスコに連れて行かれたことが書いてあります。そして、そのダマスコにアナニヤという弟子がいました。当時のダマスコにはイエス・キリストを信じる者たちがたくさんいたことと思います。たくさんいたからこそ、サウロが出掛けて行って捕らえる必要を感じたのだと思います。そのたくさんいる弟子たちの中でアナニヤが選ばれました。主が「アナニヤよ」と言われると、ただちに「主よ。ここにおります」と答えましたから、アナニヤは霊的に優れた弟子だったのでしょう。霊的に鈍感な者であったら、主が呼び掛けても気付かないでしょう。私たちもアナニヤのような者でありたいと思います。続いて11節と12節、

9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

 主はアナニヤにサウロの所に行くように命じました。しかし、サウロのことはアナニヤも人から聞いて知っていました。13節と14節、

9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

 サウロがどんなひどいことをしたかは、8章3節に書かれています。

8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

そして、サウロはイエスを信じる者たちを牢に入れただけでなく、殺しもしていたことが、9章1節から伺えます。1節と2節、

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 1節に「殺害の意に燃えて」とありますから、サウロはイエスの弟子たちを殺すこともいとわなかったのです。そんな凶暴な人物の所に行って、再び目が見えるようにしなさいと主はアナニヤに命じたのでした。
 これはアナニヤにとってはとても恐ろしいことでした。もし再び目が見えるようになったら、その場で暴行を受けて真っ先に殺されてしまうかもしれません。しかし15節と16節、

9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

 私たちはこの話の結末を知っていますから、アナニヤの気持ちを察することがなかなかできませんが、凶暴な人物が簡単に大人しくなることは、普通は有り得ないことです。時間を掛ければ徐々に大人しく変えられて行くことはできるでしょうが、人はそんなに急には変わらないのが普通です。しかし、アナニヤはこの主のことばを信じてサウロの所に出掛けて行きました。ここに、アナニヤが主に用いられる人物へと変えられた姿を見ることができます。主に用いられる人物とは、こういうアナニヤのような人なのですね。だからダマスコのたくさんの弟子たちの中からアナニヤが選らばれたのかもしれませんね。私たちのほとんどは常識に縛られていますから、主から語り掛けがあっても、なかなか素直に応じられない場合が多いと思います。私たちは、このアナニヤの姿からも大切なことを学びたいと思います。

イエスの証人となったサウロ
 では、きょう司会者に朗読していただいた箇所に入って行きましょう。

9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 ここで注目すべき言葉はやはり、最後の「聖霊に満たされるため」という言葉だと思います。サウロは聖霊で満たされました。18節と19節、

9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

この18節と19節のどの段階でサウロに聖霊が下ったのかついては、はっきりしませんが19節の食事をして元気づいた時には既に聖霊が下っていたはずです。すると、イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時に聖霊が下ったように、サウロもまたバプテスマを受けた時に聖霊が下ったのだろうなと思います。そうして食事をして元気づいたサウロは数日間、ダマスコの弟子たちと共にいました。この時にサウロはイエス・キリストについての理解を急速に深めたのだろうと思います。なぜなら聖霊がすべてのことを霊的に教えるからです。サウロが持っていた豊富な聖書知識と聖霊の霊的な教えとが結び付いてサウロはイエスが神の子キリストであることを深く理解することができたのだと思います。
 20節から22節までは、交代で読みましょう。

9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

 聖霊はイエスさまの証人になる力を与えますから、サウロは自分が出会ったイエス・キリストの証人となって、イエスさまを宣べ伝えました。こうしてイエスさまの証人として用いられるようになった者に、聖霊はますます力を与えます。22節にあるように、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせました。サウロはイエスの弟子たちを迫害していることで有名な人物でしたから、人々は当然うろたえるでしょうね。しかもユダヤ人たちは十字架に付けられたイエスは神に呪われた者であり、救い主であるはずがないと思っていましたから、サウロが突然のように変わったことに本当に驚いたことだろうと思います。
 こうして、イエス・キリストに出会ったサウロの人生は変えられて、それまでとは全く異なるものになりました。それは、主に用いられる器へと変えられたということです。サウロの前に見たアナニヤもまた、主に用いられる器へと変えられました。

イエスとの出会って変わる人生
 この使徒の働きには、主に用いられた器たちが、たくさん登場します。サマリヤ伝道を行ったピリポもそうですし、ステパノもまた主に用いられた人物です。ピリポもステパノもイエス・キリストと出会うことで主に用いられる器へと変えられました。
 イエス・キリストに出会うとは、復活したイエスさまに霊的に出会うということです。イエスさまが十字架に掛かる前は、人々は人間のイエスさまに実際に会って話を聞くことができました。ペテロやヨハネなどの12弟子たちなど、イエスさまがガリラヤで宣教していた時のガリラヤ地方の人々や、エルサレムに上って行った時のエルサレムの人々ですね。さらにユダヤ全土や周辺地域からもイエスに会って病気を癒してもらうために人々が押し寄せたと福音書には書かれています。この福音書の記事を読むと、多くの人々人間のイエスさまに実際に会ったことがわかります。しかし、多くの人々と言っても、パレスチナ地域という全世界から見ればごく限られた地域の、1世紀の紀元30年頃というごく限られた期間においての出会いです。
 しかし、イエスさまが復活して以降は、地域を越えて、時代を越えて、人間のイエスさまに出会った人々よりも遥かに多くの人々が霊的なイエスさまに出会うことができるようになりました。パウロ自身もそうでした。そして、パウロの異邦人伝道を通じて多くのユダヤ人以外の人々がイエスさまと出会うことができるようになりました。21世紀を生きる私たちも同様です。地球上の全世界の人々が、イエスさまを信じるなら聖霊が注がれて、復活したイエスさまに出会うことができるようになります。そうして霊的なイエスさまとの親密な交わりを通して、次第に主に用いられる器へと変えられて行きます。

イエスを信じなければ出会えない霊的なイエス
 最後に、いつも開いている箇所ですが、ヨハネの福音書4章の、サマリヤ人たちがイエスさまに出会った場面をご一緒に見て終わりたいと思います。4章の39節から42節までを交代で読みましょう。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 この箇所は、表面的にはサマリヤ人たちが人間のイエスさまに出会った記事です。しかし、ヨハネが描いたのは霊的なイエスさまとの出会いです。サマリヤ人たちは女がキリストに出会ったという話を信じて、イエスさまを信じました。そうして聖霊を受けましたから、サマリヤ人たちの内に霊的なイエスさまが入り、霊的な交わりを持つことができました。そして、42節で彼らが言っているように、この方が本当に世の救い主だと知りました。ここから始まって彼らは主に用いられる器へと変えられて行ったことでしょう。
 私たちも、まずは聖書を通してイエスさまを信じます。すると聖霊を受けてイエスさまに出会えるようになります。信じる前は聖霊が注がれませんから、霊的なイエスさまに会うことはできません。ごく稀に、パウロのように信じる前に霊的なイエスさまに出会うこともあります。パウロは迫害するためにダマスコに向かう途中でイエスさまに出会いました。それは主がパウロを異邦人伝道の使徒として用いるために現れましたから、これは特別なケースです。普通はパウロのように信じる前に霊的なイエスさまに出会うことはなく、信じて初めてイエスさまに出会います。この出会いを助けることが、先にイエスさまを信じてイエスさまに出会った私たちの役割です。私たちはサマリヤの女のように、人々にイエスさまが救い主であることを伝えて、信じてもらえるようにします。

おわりに
 今年は会堂の建設に着手して、この働きを力強く進めて行かなければなりません。きょう私たちは、主に用いられる器に変えられたアナニヤとサウロを学びました。私たちも主に用いられる器として、主のために働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
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神の厳しい言葉の恵み(2017.1.18 祈り会)

2017-01-19 19:22:48 | 祈り会メッセージ
2017年1月18日祈り会メッセージ
『神の厳しい言葉の恵み』
【エレミヤ8:13~15、9:13~16】

はじめに
 今年の祈り会のメッセージでは、しばらくの間、「心の平安」を得ることについて考えて行きたいと願っています。平和な世界を実現するには一人一人の心に平安が与えられる必要があると思います。一人でも多くの人の心に平安が与えられるなら、それだけ世界は平和に近づいて行くのだと思います。もちろん一人の心が平安になるぐらいでは世界は平和にはなりません。しかし、非常に小さくはあっても前進は得られるでしょう。平和をつくる働きとは、この非常に小さな前進の積み重ねであろうとう気が私はしています。

「永遠」に目覚めることで得られる平安
 きょうは1月18日で、2日後の1月20日にはアメリカで大統領の就任式があり、トランプ氏が大統領になります。過激な発言を繰り返すトランプ氏が大統領になったら、世界はどのような方向に向かって行くのでしょうか。世界を混乱させようとする過激な勢力もあります。このような勢力はトランプ氏を刺激して挑発して来るかもしれません。核兵器の発射ボタンを押す権限を持つトランプ氏が挑発に乗って発射ボタンを押さないとも限りません。そんな心配もしなければならない世の中になりました。
 これからは世界中の人々がこのような不安な世の中で日々を過ごして行かなければなりません。しかし、クリスチャンである私たちには「主の平安」が与えられるという素晴らしい恵みに与っています。ただ、クリスチャンであってもなかなか主の平安を得ていない人々も多くいることもまた私は感じています。たとえばアメリカには多くのクリスチャンがいますが、アメリカは絶えず戦争をしているという印象があります。「絶えず」と言うと言い過ぎかもしれませんが、例えば第二次世界大戦以降だけを見ても、日本は戦争をしていませんが、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争などに関与していますから、やはり多くの期間、戦争をしていることに違いはありません。
 平安を得るにはどうしたら良いか、先々週は聖霊を受けることで得られる平安について少しだけ話をしました。それは「永遠」に目覚め、「永遠」への回線をつなぐことだという話を簡単にしました。そして、この「永遠」に目覚めることについて、今年は考えて行きたいという話をしました。
 ただ先週は、少し忙しくしていましたから、平安を得ることについて、ゆったりとしたリズムを作ることが必要だという話を詩篇23篇とルカ10章のマルタとマリヤの箇所から話して、永遠には言及しませんでした。

エレミヤ書から得られる恵み
 さてきょうはエレミヤ書を見ながら、「永遠」について考えてみることができたらと願っています。なぜエレミヤ書なのかと言うと、昨年から話している通り、私は『つばさ』誌3月号の「日々の聖句」の担当になっていて、その聖書箇所がエレミヤ書だからです。締切が2/1ですので、これまでは専ら思い巡らしに時間を費やしていましたが、締切が2週間後に迫りましたので、そろそろ書き始めなければなりません。
 しかし、私が今回担当するエレミヤ8章から22章までの15の章には、ほとんど主の怒りのことばばかりで、そのまま読んだだけでは全然恵まれない聖句ばかりです。それで私はだいぶ悩みました。「日々の聖句」では、信徒の皆さんができれば毎日みことばから恵みを得るようになるのが望ましいと感じています。それなのに、主の怒りのことばばかりが並んでいますから、かなり困り、なかなか原稿の文章を書き出すことができないでいました。しかし、今週になって、こういう書き方をしようというアイデアが与えられました。 
 それは、聖書全体の流れを自分の人生に重ねるという読み方です。聖書にはいろいろな読み方があると思います。一つは歴史的な書物として読むことで、エレミヤ書であれば紀元前の人々のことが書いてある書として読みます。或いはまた聖書全体の流れを自分の人生に重ねる読み方もあります。主に背いてばかりいる旧約の時代の人々をイエス・キリストに出会う前の自分に重ねるのです。すると主の厳しいことばも恵みに満ちたものになります。今回は、そのような読み方でエレミヤ書を読むよう、「日々の聖句」の原稿を書いて行くことにしました。
 例えば、エレミヤ8章13節から15節までを交代で読みましょう。

8:13 「わたしは彼らを、刈り入れたい。──【主】の御告げ──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」
8:14 どうして、私たちはすわっているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで死のう。私たちの神、【主】が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが【主】に罪を犯したからだ。
8:15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、いやしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。

 この箇所をそのまま読むと、まったく恵まれません。しかし、この箇所をイエスさまに出会う前の自分に重ねるなら、恵みが得られます。すなわち14節に「私たちの神、【主】が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが【主】に罪を犯したからだ」とありますから、この箇所を、主はイエスさまを知る前の私にも熱心に声を掛けていて下さり、私の中の罪深い部分を滅ぼそうとしていると読むことで、大きな恵みが得られます。

旧約の時代の人々を自分と重ねることで感じる「永遠」
 もう一箇所、エレミヤ9章の13節から16節までを交代で読みましょう。

9:13 【主】は仰せられる。「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、
9:14 彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ。」
9:15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。
9:16 彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶滅させる。」

 ここも全く恵まれませんね。しかし、イエスさまに出会う前の自分に当てはめるなら私は確かに、13節にあるように主の声に聞き従いませんでしたし、14節にあるようにかたくなな心のままで歩んでいました。ただし、主の声に聞き従わなかったことは仕方がないことであったとも言えます。なぜなら主の御声は聖霊が注がれた者にしか聞こえないからです。旧約の時代にはエレミヤのような一部の預言者たちだけにしか聖霊が注がれませんでした。しかし、新約の時代の現代ではイエスさまを信じる者には誰にでも聖霊が注がれます。そうして、現代の私たちは主の御声に耳を傾けることができるようになりました。
 このようにイエスさまを信じて聖霊を受ける恵みに思いを巡らすなら、今ご一緒に読んだエレミヤ9章のような恵まれない箇所からも恵みを受けることができると思います。
 これはまた「永遠」を感じることによって「平安」を得る恵みとも言えます。旧約の時代の人々を自分に置き換えることで、「永遠」もまた感じられるようになります。主に背いている旧約の時代の人々は、エレミヤの時代の人々だけではなく、イザヤの時代の人々も同様でしたし、モーセの時代の人々の主に背いていましたし、アダムとエバもまた主の御顔を避けていました。これらはすべて、イエスさまに出会う前の私の姿であると時代を越えて当てはめることで「永遠」を感じることができます。そして、主がいつも私に語り掛けていて下さり、私の罪を滅ぼそうとして下さっていたことを感じて平安を得ることができます。
 このように「永遠」を感じることによって得られる深い平安を私たちはしっかりと感じることができるようになり、この平安の恵みを地域の方々と分かち合って行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。
彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶滅させる。」
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「イエスを信じる」とはどういうことか

2017-01-16 08:03:07 | 礼拝メッセージ
2017年1月15日礼拝メッセージ
『「イエスを信じる」とはどういうことか』
【使徒9:1~9】

はじめに
 今日からまた、『使徒の働き』の学びに戻りたいと思います。
 去年の『使徒の働き』の学びでは、使徒8章のピリポのサマリヤ伝道の箇所までを学びました。

聖霊の力
 ごく簡単に振り返っておきますと、『使徒の働き』1章では、イエスさまが使徒1:8の有名なことばを弟子たちに残して天に上って行きました。有名な使徒1:8をご一緒に読みましょう。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 聖霊を受けるとイエスさまの証人となる力を受けます。この聖霊の力を受けることでペテロやヨハネは力強くイエスさまを宣べ伝えることができるようになりました。また、パウロは異邦人への伝道のためにヨーロッパ方面にまで足を延ばして地中海沿岸の地域を巡りました。広大な地域を旅しながら伝道をするには並外れた気力と体力とが必要です。聖霊はそれらを与えます。二千年前だけでなく、現代においても同様です。特に宣教師の働きはすごいと思います。自分が生まれ育った国とは違う国へ出掛けて行って、聖書の神様を宣べ伝える働きは本当に大変なことだと思います。その宣教のための力を与えるのが聖霊です。そして国内の地域の伝道を担っている私たちにも聖霊が与えられますから、伝道活動を続けることができます。そうしてキリスト教会は二千年間続いて来ました。教会の会堂も、この二千年間に世界中で数え切れないぐらい多くの会堂が建てられて、古くなれば新しくされて来ました。これもまた聖霊の力が与えられなければ決してできなかったことです。
 続いて『使徒の働き』2章ではペンテコステの日に、まずガリラヤ人の弟子たちであるペテロやヨハネたちに聖霊が注がれ、次いでエルサレムのユダヤ人たちにも聖霊が注がれました。どのような者たちに聖霊が注がれたかというと、「イエスを信じた」者たちに聖霊が注がれました。この、「イエスを信じた者たちに聖霊が注がれる」ということを、私はこの教会の説教では繰り返し説いていますが、他の教会の説教では、どのような者に聖霊が注がれるかは、ふだんそれほど言われないと思います。

ヨハネの福音書の深層部にある聖霊が注がれた出来事
 きょう、ここで使徒1章と2章を振り返っている機会に、改めてハッキリとさせておきたいと思いますが、私がイエスを信じた者たちに聖霊が注がれることを繰り返し説くのは、ヨハネの福音書がそのような描き方をしているからです。ヨハネの福音書では、「イエスを信じた」という表現を「聖霊が注がれた」と読み替えることで、深層部に「使徒の時代」があることが見えるようになっています。そのことの確認をしておきたいと思います。ヨハネ2章11節をご一緒に読みましょう。このヨハネ2章の前半には、ガリラヤのカナの婚礼において、イエスさまが水をぶどう酒に変えた奇跡のことが書かれています。

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 このヨハネ2章11節に「弟子たちはイエスを信じた」とあります。この部分を「ガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた」と読み替えることで、婚礼の祝い事をペンテコステの日の恵みとして読むことができます。続いて、ヨハネ2章23節をご一緒に読みましょう。

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

 このヨハネ2:23の「御名を信じた」という部分を「聖霊が注がれた」と読み替えると、この箇所の深層部にはペンテコステの日にユダヤ人たちに聖霊が注がれた出来事があることがわかります。
 この機会に、サマリヤ人と異邦人に聖霊が注がれた箇所も見ておくことにしましょう。ヨハネ4章39節をご一緒に読みましょう。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

 ここに「サマリヤ人のうち多くの者が・・・イエスを信じた」とありますから、これは「サマリヤ人たちに聖霊が注がれた」と読み替えることができます。
 もう一つ、異邦人に聖霊が注がれた箇所が深層部にあるのがヨハネ4章53節です。ご一緒に読みましょう。

4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

 この「父親」は46節にあるように「王室の役人」で異邦人と考えられますから、王室の役人と彼の家の者が信じたと書いてある箇所は、『使徒の働き』10章で異邦人のコルネリオとその家族や知人たちに聖霊が注がれた出来事に読み替えることができます。
 以上、見て来たように、ヨハネの福音書の前半部分では、「イエスを信じた」と書いてあれば「聖霊が注がれた」と読み替えることができるという法則があります。それゆえ、イエスを信じれば、聖霊が注がれます。

「イエスを信じる」とはどういうことか
 では、「イエスを信じた」とはイエスの何を信じたのでしょうか。それは、「イエスが神の子キリストである」と信じたことであることが、ヨハネ20章31節をご一緒に読みましょう。

20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 このように、「イエスを信じる」とは、「イエスが神の子キリストであることを信じる」ということです。
 『使徒の働き』のおさらいに戻ります。ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちとエルサレムのユダヤ人たちに聖霊が注がれたことによってキリスト教会が誕生して、以降、教会は急速に成長して行きました。そして、弟子たちの数が非常に増えたことでトラブルが発生するようにもなりました。このトラブルのことが、使徒6章の始めのほうに書かれています。それで教会では奉仕者を増やすことにしました。その新たに選ばれた奉仕者たち7人の中に6章5節にあるように、ステパノとピリポとがいました。
 さてしかし、このステパノに対する迫害が7章で起きたことで、エルサレムの教会員たちは迫害を逃れてエルサレムの外に散らされることになりました。その散らされた先のサマリヤでピリポがサマリヤ人たちにイエス・キリストを宣べ伝えたことが8章に書かれています。昨年の『使徒の働き』の学びでは、この使徒8章前半のピリポによるサマリヤ伝道の箇所までをご一緒に学びました。
 今年、この『使徒の働き』の学びを再開するに当たっては、使徒8章の後半からにしようかとも思いました。ここにはピリポがエチオピヤ人の宦官にイザヤ書について教えて水のバプテスマを授けた記事があります。しかし、2017年の『使徒の働き』の学びのスタートには、サウロがイエス・キリストと出会った場面から始めるほうが、新しい年の学びにふさわしいと思いましたから、エチオピヤ人の宦官の場面はスキップすることにしました。
 今回、なぜ私がサウロの場面から始めることにこだわったかと言うと、昨年『使徒の働き』の学びを始めた時に、『使徒の働き』の学びが終わるのは2017年の終わり頃になりますから、その頃には新しい礼拝堂でその学びができると良いですね、ということを皆さんに何度か話したからです。『使徒の働き』のおしまいのほうには専らパウロのことが書かれていますから、2017年の『使徒の働き』の学びも、パウロで始めたいと思ったのです。
 特に、この『使徒の働き』9章のサウロがイエス・キリストと出会った場面からは、先ほども言及した「イエスを信じる」とはどういうことか、についてとても大切なことが学べますから、非常に重要な箇所だと私は考えています。『使徒の働き』はどの箇所も重要ですが、私は使徒9章は格別に重要であると思っています。というのはこれは私事ですが、私がイエスを信じたことと、密接に関連しているからです。きょうの後半は、この私事の証しを交えて「イエスを信じる」とはどういうことかについて、さらにご一緒に考えてみたいと思います。

クリスチャンとノンクリスチャンの境い目
 皆さんのお一人お一人は、いつどのようにしてイエス・キリストを信じてクリスチャンになったでしょうか。誰でも生まれたばかりの時はイエス・キリストを知りませんから、ある時を境にしてイエスさまを知り、イエスさまを信じてクリスチャンになります。



 きょうの週報のp.3にある写真は、きょうの説教とどう関係があるだろうかと不思議に思っていた方もいるだろうと思います。これは本州の山口県の下関と九州の福岡県の門司との間にある関門海峡の下にある、人が歩くことができる人道トンネルの写真です。
 例え話ですから本州の山口県でも九州の福岡県でもどちらでも良いのですが、たとえば山口県の地上の陸地にいる人をクリスチャンではないノンクリスチャン、福岡県の地上の陸地にいる人をクリスチャンとします。陸地にいれば、本州にいるか九州にいるか、その区別は明白です。これは、まだ一度も教会に行ったことがないノンクリスチャンと、教会に何年も通っていて良い信仰の証しを持っているクリスチャンとの違いに例えられます。
 さてしかし、本州と九州の間には関門海峡という海がありますから、この海の区間にいる間は、本州と九州のどちらの側にいるのでしょうか。海の上にいる限り、あまりハッキリとはしないですね。でも海の下の人道トンネルには、明確に白線が引いてあって、本州の山口県と九州の福岡県の境がハッキリしています。
 私はクリスチャンであるかないかも、私自身の経験に照らして、このような白線があると感じています。教会に一度も行ったことが無かった人が教会に通うようになり、やがてクリスチャンになる時、どこでクリスチャンになるのか、写真のような白線を越える時があるのだと思います。救いの証しなどを聞くと、伝道会やCSのキャンプで救われたという証しをよく聞きます。確かにそういうケースは多いのだろうと思いますが、もう少し厳密に考えると、その伝道会やCSキャンプの間でも、もっと細かく白線をまたいだ瞬間があるのではないかなと思います。お一人お一人で、その細かい瞬間の検証を為さることは非常に有意義であろうと思います。なぜなら、そのことによってイエスが神の子キリストであると信じるとはどういうことかが、自分の中でより明確になるからです。この白線の部分が曖昧なままだと、いつか教会から離れて行ってしまうことにもなります。

罪を理解できなかったのに救われた私
 ここで私自身の経験の証しをさせていただきます。多くの皆さんの場合には自らの罪深さを示されて、その罪を赦して救うためにイエスさまが十字架に掛かって下さったとわかり、それがイエスさまが救い主、すなわちキリストであると信じたことになる、という道筋で救いに至ったことと思います。
 しかし私の場合は罪のことがわかったのが、もっとずっと後で、神学院に入ってからでした。神学院に入って罪が分かった時には洗礼を受けてから7年以上が経っていました。神学院に入った時、まわりの神学生たちは皆、罪のことがわかっているようなのに自分はわかっていなかったので非常に悩みました。しかし罪のことがわかっていなくても自分が救われている確信は持っていました。私は2001年の8月12日から高津教会に通い始めて、同じ年の2001年の12月23日のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。この洗礼を受けた時には、既に救われていたことは確実です。この時、すでに私は大きな平安を得ていたからです。この平安は聖霊によってもたらされていたはずです。では私はこの2001年のどの段階でイエスさまを信じて聖霊を受けたのでしょうか。このことは私は罪がわかるようになってからも、しばらくの間は謎でした。それは、私が神学生になってからもしばらくはイエスさまにそれほど親しみを感じていなかったからです。私がイエスさまに深い親しみを感じるようになったのは、ヨハネの福音書を深く読み込むようになってからのことでした。こんな風に、罪のこともわからず、イエスさまにそれほど親しみを感じていなかった私が、なぜ救われたのでしょうか。
 そのことがわかったのは、きょうお話しした、ヨハネの福音書の表層部と深層部の構造がわかって、「イエスを信じた」を「聖霊が注がれた」と読み替えることができるとわかるようになってからでした。
 私が初めて高津教会を訪れた2001年の8月12日は、藤本満先生による『ガラテヤ人への手紙』の講解説教の第1日目であったことは、もう何度も皆さんに証ししていますね。この説教に興味を持った私は翌週の8月19日も高津教会を訪れて説教を聞きました。その日に、この『使徒の働き』の9章が開かれました。なぜならガラテヤ書の最初のほうには、パウロがイエス・キリストと出会ったことが書かれているからです。それで、ガラテヤ書のこの箇所から使徒9章を見ることになったのでした。

イエス・キリストに出会ったパウロの記事を信じた私
 使徒9章でサウロ(後のパウロ)がイエス・キリストと出会った場面の3節から5節までを交代で読みましょう。

9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 そうしてサウロは目が見えなくなってしまいましたが、アナニヤがサウロの所に出掛けて行ってサウロの上に手を置いて、言いました。

「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(使徒9:17)

 するとただちに、サウロの目からウロコのような物が落ちて、目が見えるようになりました。聖書にこのように書いてあることを聞いた2001年の私は、特に疑うこともなく素直に、このことを単純に信じました。パウロがまだサウロだった時に復活したイエスさまに出会ったということを信じました。つまり私はパウロの証しを素直に信じてイエス・キリストの復活を信じ、それがイエスが神の子キリストであるということを信じたことになったのだと思います。さきほども言いましたが、私は神学院に入ってヨハネの福音書を深く読むようになるまではイエスさまにあまり親しみを感じていませんでした。それはマタイ・マルコ・ルカの福音書に描かれている人間としてのイエスさまにあまり親しみを感じていなかったということです。ですから、2001年の私は福音書の記事からイエスさまが神の子キリストであると信じたわけではありません。2001年の私は、ガラテヤ書とこの使徒9章に書かれているサウロの経験を通してイエスさまが神の子キリストと信じました。
 しかしそれにしても、この日はまだ私が高津教会に行き始めてからわずか2回目ですから、そんなにも簡単に「イエスを信じた」と認定されるものだろうかという疑問も湧きます。でも、私は「イエスを信じる時」というのは、そういうものだろうと思います。
 多くの皆さんが救われた道筋、すなわち自分の罪を示されて心を刺され、この罪からイエスさまが十字架に掛かって救い出して下さったことを信じて「イエスが神の子キリストである」と信じたことも一つの救いの道筋ですが、私のような救われ方も一つの道筋です。私のケースはあまりに簡単すぎるかもしれませんが、ヨハネ4章のサマリヤ人たちも女の話を聞いただけでイエスさまを信じたのですから、私も同じだと言えるでしょう。サマリヤ人たちは女の話を信じてイエスさまを信じ、私は使徒9章のサウロが復活したイエスさまに出会った記事を信じてイエスさまを信じました。
 これが、私がクリスチャンであるかないかの白線を明確に越えた瞬間だと言えると思います。この白線を一人一人が自分の中で明確にしておくことは非常に大切なことだと思います。先ほども言いましたが、この白線を知ることで、イエスが神の子キリストであると信じるとはどういうことかについて、自分の中でより明白になるからです。

おわりに
 こうしてイエスさまを神の子キリストと信じて聖霊が注がれると心の平安が与えられて恵みの中を生きることができます。この境い目の白線が自分の中で明確でなく、海峡の海の中を行ったり来たりしている間は、まだしっかりと陸地に立っていませんから、なかなか平安が得られないだろうと思います。
 まずは私たちがイエスさまが神の子キリストであると信じることによって与えられる素晴らしい恵みをしっかりと味わい、そしてこの恵みを地域の多くの方々と分かち合えるようになりたいと思います。
 最後に、ヨハネの福音書20章の30節と31節を交代で読んで終わりたいと思います。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 お祈りいたしましょう。
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神の光が輝く教会の建て上げ(2017.1.8 礼拝)

2017-01-09 15:27:00 | 礼拝メッセージ
2017年1月8日礼拝メッセージ
『神の光が輝く教会の建て上げ』
【イザヤ60:19~22】

はじめに
 今年の私たちの年間の聖句は、マタイ5:14の「あなたがたは、世界の光です」です。このことは昨年の12月の段階から予告しておき、そして先週の元旦礼拝で改めて発表して説明しました。まず聖書交読では、イザヤ書60章の1節から13節までを交読しました。
 いまイザヤ書を開いていただいていると思いますから、改めて、1節から3節までを交代で読みたいと思います。

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

 このようにして、マタイ5章の「あなたがたは、世界の光です」の聖句と共にイザヤ書60章も味わいました。また、マタイ5章の説明をする前にはヨハネの福音書を開いてイエス・キリストは光であることの確認も行いました。これら、今年の年間聖句に関連した聖書箇所については、先週の元旦礼拝の週報の3ページ目に載せておきましたから、折にふれて参照していただければ幸いです。
 イエス・キリストが神の子キリストであると信じるなら、私たちには聖霊が注がれます。聖霊が注がれると私たちの心はきよめられてイエスさまが内に住んで下さるようになります。このようにして、光であるイエスさまが内に住んで下さると、その光は外にあふれ出します。そして、その光で周囲を照らすようになります。これが、私たちが「世界の光」であるということです。
 先週の元旦礼拝は様々な事情で出席できなかった方が多くいましたから、きょうは、もう一度、改めて私たちの今年の年間の聖句の「あなたがたは、世界の光です」を味わうことにしたいと思います。ただし、先週とまったく同じ説教をするわけにもいきませんから、少し聖書の範囲を広げてご一緒に見ることにしたいと思います。

聖霊の注ぎを前提にした「山上の説教」
 きょうの聖書交読の箇所をマタイ5章の1節からにしたのは、そのような理由からです。今朝の聖書交読ではマタイ5章の1節から16節までを交代で読みました。まずは、ここを、もう一度ご一緒に見て行こうと思います。まず1節から3節までを交代で読みましょう。

5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 ご承知の方が多いと思いますが、マタイの福音書の5章から7章に掛けての箇所は「山上の説教」と言われる有名な箇所です。イエスさまは山の上で弟子たちに説教をしました。
 3節から10節までには、「○○の者は幸いです」という表現で、どのような者たちが幸いであるかを、イエスさまは弟子たちに説いています。ここでイエスさまが幸いであると言っている者たちについては、聖霊が注がれることが前提とされていることを私たちは覚えたいと思います。聖霊が注がれるとうことなしに、このような幸いは決して得られないでしょう。
 3節でイエスさまが「心の貧しい者は幸いです」とおっしゃるのは、そのような者にこそ聖霊が注がれるからですね。心がこの世の富や名誉や権力で満たされている間は、魂の潤いに飢え渇くことはありませんから、聖霊が注がれることは決してありません。
 この世の富があっても無くても、そのような富には空しさを覚えて、心の奥深い魂の領域での神様との霊的な交わりを欲する者が聖霊を受けて、天の御国に入ることができます。
 続いて、4節から9節までを交代で読みます。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 これらの幸いもまた、聖霊を受けることで得られる幸いです。ここまで見た3節から9節の幸いは、どれも素晴らしい幸いですが、この中のどの幸いが最も心に響くかは、お一人お一人で異なることと思います。

私の心に響いたマタイ5:9
 私の場合は、9節です。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 私が毎年のように広島の平和公園に行って原爆資料観を見学して来ていることは、皆さんに何度が話していると思いますが、私がクリスチャンになってから初めて平和公園に行ったのは2005年のことでした。クリスチャンになる前にも私は1984年と1995年に二度、広島の平和公園に行って原爆資料観を見学していました。この時にも心を大きく動かされましたが、2001年に洗礼を受けてクリスチャンになってから初めて原爆資料観を訪れた2005年には、過去二度よりももっと大きな衝撃を受けました。それはきっと私がイエスさまが神の子キリストであることを信じて聖霊を受けていたために、霊的な目が開かれていて、魂が揺さぶられることをはっきりと感じたからだろうと思います。その前の二度の見学の時には、まだ霊的な目が開かれていなかったために、魂の領域の揺さぶるまで感知することができなかったのだろうと思います。
 この2005年の原爆資料観の見学の時に、私はこのマタイ5:9の聖句が心に繰り返し響いて来るのを感じました。このマタイ5:9のことを、既に私は知っていました。それは私が平和に関心を持っていたからですが、しかし、まだまだ私は、マタイ5:9の「平和をつくる者」のことを他人事のように考えていて、この働きに本気で取り組むべきとはそれほど思っていませんでした。
 しかし、2005年の夏に原爆資料観の中でこのマタイ5:9が心に響いて来た時には、自分も「平和をつくる者」になりたいと本気で思うようになりました。それで、原爆資料観を出て平和公園のベンチに座り、持っていた小さな聖書を取り出してマタイ5:9の聖句を確認し、そして「私を平和のために用いて下さい」と祈りました。この時に捧げた「私を平和のために用いて下さい」という祈りが、私が牧師になる出発点だったのだと思います。私は別に牧師になりたいとは思っていませんでしたが、とにかく平和のために働きたいと願い、祈りました。どのような働きをすれば平和をつくる働きになるのか、まったくわかっていませんでしたが、この2005年の祈りに始まって、2006年も2007年も平和公園に行って、「私を平和のために用いて下さい」という長い祈りを捧げました。そうして2008年に牧師になるよう召し出されたのは、この祈りの故であったと思います。

あなたがたは、世界の光です
 いま、マタイ5章の3節から9節までの中で最も心に響く節として、私は9節ということで私の場合の例を話しましたが、皆さんお一人お一人では、それぞれ最も心に響く節があるだろうと思います。いずれにしても、これらの幸いは聖霊を受けないのであれば得られない幸いであることを覚えておきたいと思います。
 続いて、10節から12節までを交代で読みます。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

 ここでイエスさまは迫害のことに言及しています。霊的な領域のことは、霊的な目が開かれていない人にはわからないことです。それゆえクリスチャンは誤解を受けて迫害されることもあります。しかし、聖霊を受けることほど幸いなことはないのですから、たとえ迫害を受けることがあったとしても聖霊を受ける幸いを喜びなさいとイエスさまはおっしゃいます。
 そして13節から16節までを交代で読みましょう。

5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 塩は食べ物に味を付け、また食べ物が腐敗するのを防ぎます。聖霊を受けていない人々の世俗的な世界は、一見豊かに見えるようであっても霊的には、無味乾燥で殺伐とした世界です。また富や名声が腐敗を生みやすいことは、現代の世の中を見ていてもよくわかることです。このような霊的には殺伐として腐敗しやすい世界に塩気をもたらすのが聖霊です。それは私たちの宣教の働きによってもたらされます。イエスさまがこの世にいる時は、イエスさまが宣教しましたが、イエスさまが天に上った後に聖霊が下ったペンテコステの日以降は、聖霊を受けたクリスチャンの働きによって塩気がもたらされます。
 聖霊を受けたクリスチャンの内には光であるイエスさまが住んで下さっています。それゆえクリスチャンは周囲を照らす「世界の光」です。この14節の、「あなたがたは、世界の光です」が、今年の私たちの教会の年間の聖句です。私たちは16節にあるように、光を人々の前で輝かせて、地域の方々が、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめる、そのような働きをしたいと思います。この「良い行い」とは、主を愛することと、隣人を愛することです。まずは私たちは、主を心一杯愛して霊とまことによる礼拝が捧げられるようになりたいと思います。そのための拠点となるのが今年建設したいと願っている新しい礼拝堂です。

永遠に目覚めることで得られる平安
 今年、私たちは神の光が輝く教会を建て上げを目指します。そのために今年の元旦礼拝の聖書交読ではイザヤ書60章を開き、1節から13節までを交読しました。きょうは、最後に60章のおしまいの部分を見ることにしましょう。19節から22節までを交代で読みましょう。

60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。
60:21 あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。
60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、【主】が、すみやかにそれをする。

 これらの幸いもまた、私たちが聖霊を受けることによって得られる幸いです。19節にあるように、私たちが聖霊を受けるなら、主が私たちの永遠の光となります。そして、この「主があなたの永遠の光となり」という表現は、もう一度20節でも使われています。この永遠に目覚めることが、私たちが心の平安を得る上でとても大切なことだと思います。
 一人一人の心に平安がないと争い事が増えます。世界でテロ事件や戦争が絶えないのは、結局のところ、心に平安がない人が大勢いるからだと思います。平和を作る上で心の平安が一人一人に与えられることが、とても重要です。その平安を得るためには、永遠に目覚める必要があるのだと私は考えます。

おわりに
 今年、私はこの教会の牧師として皆さんと共に新しい礼拝堂の建設に取り組むと共に、平和のための働きとして、一人一人の心に平安がもっと得られるように、永遠に目覚めていただけるような働きにも取り組んで行きたいと思っています。そうすることで、微力ながら、神の光が輝く教会になる働きができたらと願っています。神様は私たちの一人一人に異なる賜物を与えて下さっていますから、それぞれが示されたことで働いて行くことができるお互いでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。
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個人の平安と世界の平和を祈り求める教会(2017.1.4 祈り会)

2017-01-05 14:56:10 | 祈り会メッセージ
2017年1月4日祈り会メッセージ
『個人の平安と世界の平和を祈り求める教会』
【ヨハネ14:23~27】

はじめに
 2016年から2017年になろうとする時、私は微かな不安を感じていました。新しい年を迎える時間には、世界中の街で人々が大勢集まって新年を祝うからです。近年は大勢の人々が集まる場所でテロ事件が頻発していますから、この2017年の新年を迎える時に、そのようなテロ事件がまた発生するのではないかという不安を感じていました。そして、その不安は的中して、トルコのイスタンブールで男が銃を乱射して39名が死亡したというニュースが報じられました。
 今のような現状では、世界ではこれからもテロ事件は起き続けるでしょう。世界では紛争や戦争によって多くの人々が苦しんでいます。そのような中で過激な思想を持つようになった人々が起こし続けます。一人一人の個人の心に平安がないので、世界も平和になりません。個人の心の平安と世界の平和とは密接に関連しています。もし、すべての人々の心が平安であるなら、テロ事件や戦争は決して起きないでしょう。すべての人の心が平安になることなど有り得ないことなのかもしれませんが、一人でも多くの人の心に平安が与えられるなら、その分、争い事は少なくなるはずです。平和の働きとはその積み重ねだろうと私は思っています。

世が与えるのとは違う平安を与えるイエス
 このようなことを私が考えるのは、クリスチャンであってもなお、心に平安がない方が大勢いるからです。2017年の私たちの教会の年間の聖句は、「あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:14)ですが、いま話したようなことから、今年私たちの教会は個人の平安と世界の平和を祈り求める教会でありたいと願っています。礼拝のほうでは、次の1月8日の礼拝で、もう一度、私たちが「世界の光」であるとはどういうことかについて確認し合いたいと思いますが、祈り会のほうでは、「個人の平安と世界の平和」について学び、考え、そして祈って行きたいと思います。教会は個人の救済だけではなく、世界の平和も祈り求めて行かなければならないと思います。それでこそ、地域の方々にも関心を持っていただけるようになるのではないかと私は示されています。世界の平和は誰もが願っていることです。個人の平安ももちろん、誰もが願っていることです。しかし、宗教に対する考え方は人それぞれです。単に個人の救済だけを訴えても、なかなか関心を持ってはいただけないような気がしています。一方、世界の平和の実現に関しては、世界レベルの宗教においてしか、もはや解決には至らないと私は感じています。
 世界にはクリスチャンと呼ばれる人々がたくさんいます。しかし、先ほども話したようにクリスチャンであってもイエスさまが与える深い平安を感じ取ることができている人は、あまり多くはいないようです。
 ご一緒に読んだように、イエスさまはヨハネ4章27節で、

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」

とおっしゃいました。この世が与える平安とは違う平安とは霊的な領域における平安です。この27節の前の26節でイエスさまは、

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

とおっしゃいました。この聖霊が私たちの心の奥深い霊的な領域で平安を与えて下さいます。この心の奥深い領域での平安を、クリスチャンの多くは何となく感じてはいるものの、はっきりとは感じていないのだと思います。この種の奥深い領域での平安は、目の前で起きるちょっとしたことに気を取られることで、すぐに失われてしまいます。それゆえ何かのきっかけで偶然に心の平安を感じて信仰を持つに至った人でも、すぐに信仰から離れて行ってしまいます。洗礼を受けてクリスチャンになっても、やがて教会に来なくなってしまう人がたくさんいます。それは日本の教会だけでなく、世界の教会においてもそうなのだろうと思います。だから世界にはクリスチャンが大勢いるにも関わらず戦争が絶えないのだと思います。

永遠への回線をつなぐ
 さて、心の深い平安を感じる上で最も大切なことは、「永遠」を感じることだと私は考えています。しかし、皆、目の前に次々と現れる仕事や家事や諸々のことに忙殺されて「永遠」を感じる暇が無いのだと思います。
 私も、いろいろと忙しくなるとそうなります。忙しい時は夕方、防潮堤に出てジョギングをする余裕もなくなります。しかし、これは非常に良くないことだと最近、思わされています。忙しくても海岸の防潮堤の上に行き、広い海を見るなら、心の回線が永遠につながり、心の平安を得ることができます。多くの人の場合、先ずはまだ永遠への回線がつながっていないと思いますし、一旦はつなぐことができた人でも、少し忙しくなると、すぐに回線が切れてしまいます。私の場合もそうです。しかし、私の場合は既に「明確に」つなぐことができた経験を持っていますから、再びつなぐことは、そんなに難しいことではありません。難しいのは「明確に」つないだ経験を先ずは1回持つことで、その機会が与えられる必要があります。「永遠」への回線に「明確」につながる必要があります。
 「明確に」を強調する理由は、多くの人が何となくは「永遠」を感じているのだと思います。しかしながら、そんなに「明確に」は感じていないのだと思います。ですから深い平安を感じることがなかなかできないのだと思います。
 私の場合は「永遠」への回線が最初に「明確に」つながったと意識できたのが、姫路でのインターン実習生の時でした。今思うと、この姫路でのインターン実習の機会が与えられたのは本当に幸いだったと思います。インターン実習生はまだ神学生の身分ですから、牧師に比べれば気楽な身分です。しかも会堂に一人で住んでいましたから、時間を自由に使えます。そして私に与えられた役割は、会堂の管理と、週1回の祈祷会の説教、そして会計管理をする程度のことでした。礼拝説教は牧師が行っていて、私が礼拝説教をするのは牧師が他教会での御用を行う月に1回程度のことでした。また、この教会は眼前に広々とした田んぼが広がるのどかな場所でしたから、今の沼津の海ほどではないにしても、「永遠」を感じる良い環境が整っていたと思います。そのように神学生の身分で、しかも神学校にいたわけではないので授業もテストもなく(卒論はありましたが)、奉仕内容もそれほど多くはなく、一人暮らしで時間を自由に使え、教会の眼前は田んぼという良い環境の中で、「永遠」を明確に感じる経験を持つことができたことは、本当に幸いだったと思います。

おわりに

 しかし、このような良い環境を持つ人々はごく少数です。そのような方々でも「永遠」への回線に明確につながったと意識できる手助けをしなければならないと示されています。そうでなければ、私たちは個人の平安も世界の平和も得られないと思います。ですから、今年はそのことを追求して行きたいと願っています。
 今年、「あなたがたは、世界の光です」が年間の聖句である私たちの教会は、個人の平安と世界の平和を祈り願う教会でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
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あなたがたは、世界の光です(2017.1.1 元旦礼拝)

2017-01-02 08:40:47 | 礼拝メッセージ
2017年1月1日元旦礼拝メッセージ
『あなたがたは、世界の光です』
【マタイ5:14~16】

はじめに
 昨年の1年が守られて、主と共にまた新しい年の歩みを始めることができる恵みに感謝したいと思います。昨年の私たちの教会の年間の聖句は「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」でした。私たちは、ぶどうの木であるイエスさまを中心にして一つにまとまって、会堂問題を着実に前を進めることを願って歩んで来ました。このことが概ね達成され、会堂建設の準備を整えることができましたから、神様であられる主に心から感謝したいと思います。

会堂建設への歩み
 教会設立50年の年である2017年の今年は、いよいよ新会堂の建設に取り組む年です。この2017年が素晴らしい年になるように、主と共に歩んで行きたいと思います。順調に会堂建設が為されるなら、元旦礼拝をこちらの会堂で行うのは今年が最後となり、来年の元旦礼拝は、隣の土地に新しく建設された礼拝堂において行うことになります。このことのために私たちは一つになって会堂建設に取り組んで行きたいと思います。
 振り返ってみますと、私が初めてこの沼津教会を訪れたのは2009年7月の伝道会の時でした。当時の私は聖宣神学院の神学生の2年生で、夏期実習先として静岡教会に派遣されていました。それで私は静岡教会の皆さんと一緒に、この沼津教会を訪れたわけですが、その時に廣瀬邦男先生が新会堂を建設したいのだと熱く語っていたことが、とても印象に残りました。ですから、この沼津教会への転任の内示が教団からあった時には、沼津では新会堂の建設に取り組むことになるのだということを強く意識しました。そして2013年の3月の末に引継ぎのために半日間、この教会を2度目に訪れた時に、2017年を新会堂の献堂の目標にしているという具体的な目標をお聞きしました。
 そして、その約1週間後に着任のために3度目にこの教会に来た時に、廣瀬善子先生から会堂建設のための積立金を引き継ぎ、2017年の今年に向けて歩んで来ました。いま改めて2013年から2016年までの4年間の歩みを振り返ってみますと、物事が大きく動いた時と、物事がジワジワとゆっくりと動いた時とがほどよくミックスされていたように思います。ほとんど何も動かなかったと思われたような時期もありましたが、実は水面下では物事がジワジワと進行していて、それがある時に一気に動き、そしてまた沈静化してジワジワと動くというようなことを何回か繰り返していたように思います。このような動き方が私たちの小さな教会には合っていたのだろうと思います。
 教団の教報の最後のページの公報の欄には、他の教会の会堂建設に関する動きも随時報告されています。そこを見ていると、会堂建設への取り組みが私たちの教会よりも遅くに公になったのに、会堂建設が速やかに進んで完成した教会がいくつもあります。それらに比べると私たちの歩みは本当にゆっくりとしていると感じますが、それが私たちの教会に合っているのだと思います。

背中でささやく主
 このゆっくりとした動きは強い力に引っ張られて進むというよりも、背中をそっと押されながら少しずつ進んでいる感じが私はしています。それはイザヤ書30章のみことばのようです。イザヤ書30章21節を週報のp.3に載せましたので、ご一緒に読みましょう。

イザヤ30:21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。

 このように主が後ろから背中を押しながら正しい道を教えて下さることで、私たちが霊的に成長する機会を与えて下さっているように思います。どういうことかと言いますと、ぐいぐいと引っ張られて進む場合には、何も考えずにただ引っ張られていれば良いわけです。しかし、何も考えずにいたのでは私たちはなかなか成長することはできません。
 一方、背中を押される場合には、大体の方向は正しい方向なわけですが、私たちは迷いやすいのですぐに右や左にそれて行こうとします。すると主は後ろから、「これが道だ。これに歩め」とささやいて下さいます。この声をしっかりと聞くためには、私たちは霊的に成長しなければなりません。このようにして、主は私たちが成長する機会を与えて下さっているように思います。
 今年、私たちはいよいよ会堂建設に取り組みますが、設計案はまだラフなものですから、細かいことで決めなくてはならないことがまだたくさんあります。これらのことを私たちは話し合いながら決めて行かなければなりません。その時、主はぐいぐい引っ張って下さるのではなく後ろからささやいて下さいますから、その御声をしっかりと聞きながら進んで行きたいと思います。

今年の年間聖句

 さて、この会堂建設に取り組む2017年の私たちの教会の年間の聖句は、昨年のアドベントの時期から予告していたように、マタイ5:14の、「あなたがたは、世界の光です」です。これは新しい会堂の建設を前提とした聖句です。私たちは「世界の光」となって、この地域を輝かせる教会になりたいと思います。その教会活動の拠点となる新しい礼拝堂を私たちは建設します。ですから、これから細かい設計に入って行きますが、その上では「世界の光」になることを、いつも意識していたいと思います。
 私たちが「世界の光」になるなどと言うと、随分と大げさなことを言っているように感じる方もおられるかもしれません。小さな教会の私たちにはふさわしくないと感じる方もおられるかもしれません。しかし、そんなことはありません。それで、このことを予め知っておいていただくために、昨年のアドベントの段階から私は予告編的に、私たちが「世界の光」になるとはどういうことかを話して来ました。きょうは先ず、そのおさらいをして、それから、きょう聖書交読で読んだイザヤ書60章をもう一度ご一緒に味わうことにしたいと思います。イザヤ書60章には、「起きよ。光を放て」とあります。きょうは私たちの中で「世界の光」を点火させる日としたいと思います。
 そのために、私たちが「世界の光」であるとはどういうことかについて、アドベントの期間に話したことを、もう一度復習します。
 まずは私たちの主イエス・キリストが光であることを覚えたいと思います。ヨハネ1章の4節と5節には、週報のp.3に載せたように、次のようにあります。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 そして9節、

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 このように私たちの主イエス・キリストは光です。そして、このことはイエスさまご自身もおっしゃっています。ヨハネ8章12節です。

ヨハネ8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 さて、イエスさまが神の子キリストであることを私たちが信じるなら、私たちには聖霊が注がれます。聖霊が私たちの内に入って私たちの心をきよめると、イエスさまが私たちの内に住んで下さるようになります。パウロは、エペソ人への手紙で、次のように祈っています。

エペソ 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 イエスさまは光です。ですから、イエスさまが私たちの内に住むようになるということは私たちの内が光で満たされるということです。そして、その光は外に向かって溢れ出て、周囲を明るく照らすようになります。それが、今年の私たちの年間の聖句のマタイ5:14にあるように、私たちが「世界の光」になるということです。続いてマタイ5章16節、

マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 ここには、「良い行い」ということばがあります。イエスさまは、「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とおっしゃいました。

主を愛して霊とまことによる礼拝を捧げる
 この「良い行い」とは何かということについて先々週の礼拝で私は、「主を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つがあるという話をしました。「良い行い」というと、もっぱら「隣人を愛すること」ばかり考えがちだと思いますが、「主を愛すること」も、とても大切な「良い行い」です。私たちは、この「主を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つのことが両方ともできるようになりたいと思います。
 主を愛する者は、霊とまことによる礼拝を捧げることができる者でなければなりません。ヨハネの福音書でイエスさまは次のようにおっしゃいました。

ヨハネ4:23,24 「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 主は万物を創造したお方であり、私たちの命も主によって造られました。そして主はすべてを支配しておられます。だから私たちは主を愛し、主を礼拝しなければなりません。私たちの命は偶然によってできたのではありません。また、この世も偶然に支配されているわけではありません。しかし、世の多くの人々は万物を創造して支配している主の存在を知らずに、或いは信じずに、毎日を過ごしています。このような人々は闇の中で光を見出せずにいます。闇がこれら多くの人々を支配してしまっています。
 それゆえ私たちは世界の光となって、多くの方々に世の光であるイエスさまのことをお伝えしなければなりません。2017年は、そのために本格的に動き始める重要な年となります。

起きよ、光を放て
 この、重要な年の最初の聖書交読でイザヤ書60章を開いたのは、それゆえです。イザヤ書60章をしばらくご一緒に見ることにしましょう(旧約聖書p.1224)。1節から4節までを見ることにします。
 まず1節と2節を、交代で読みましょう。

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

 先ほども話した通り、世の多くの人々は、神である主がこの世を支配していることを知らずに日々を過ごしています。まさに2節にあるように闇が地をおおい、暗闇が民をおおっています。この闇の中で、私たちは世界の光となって、主の光を輝かせなければなりません。続いて3節と4節を交代で読みましょう。

60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
60:4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。

 私たちは地域の方々と、このような関係でありたいと思います。地域の方々が私のうちにおられるイエスさまの光に照らされて、歩みようになっていただきたいと思います。そのために、4節にあるように地域の皆さんがこの教会に集まって来るようになっていただきたいと思います。
 私たちが今年新しく建設したいと願っている礼拝堂は、このための拠点となります。地域の多くの方々が新しい礼拝堂に集って、共に主に霊とまことによる礼拝を捧げることができるようになりたいと思います。

おわりに
 私たちが新たに礼拝堂を建設するのは、今のこの会堂が古くなったからという理由だけからではなく、多くの方々がこの教会に集い、共に主を礼拝することができるようになりたいためです。このことを、私たちの心にしっかりと刻んで、この2017年の歩みをスタートさせたいと思います。
 最後にもう一度、マタイの福音書の5章を開きましょう。14節から16節までを交代で読みましょう。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 お祈りいたしましょう。
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