2022年5月29日礼拝メッセージ
『聖書の大中小の救いのドラマ』
【列王記第一17:17~24】
はじめに
きょうの聖書箇所の、17節に出て来る女主人とは、先週ご一緒に見たツァレファテのやもめのことです。ツァレファテのやもめは、エリヤの求めに応じて、残っている最後の粉と油を使ってエリヤのためにパン菓子を作り、エリヤの所に持って行きました。主に献げることを最優先したこのやもめを主は祝福して、この後、かめの粉と壺の油は尽きることがありませんでした。
そして、きょうの箇所では、このやもめの息子が病気になって死んでしまいました。しかし、エリヤが主に懸命に祈ったことで、主はこの息子を死からよみがえらせて下さいました。また、まだ礼拝では開いていませんが、次の18章でエリヤは、アハブ王と全イスラエルの前で450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者と対決をします。この対決にはイスラエル民族全体の救いが掛かっていました。
これらを見る時、聖書とは大中小の救いのドラマが絡まり合ってできている書物である、ということが見えて来ます。そして、そのことに深い感動を覚えます。きょうは、そういう、聖書は大中小の救いのドラマが絡み合って出来た書物であるという観点から、私たち一人一人の救いのことから、世界全体の救いという大きなことにまで思いを巡らしてみたいと思います。
きょうの中心聖句は、列王記第一17章の24節です。
このやもめの信仰告白は、私たちの信仰告白でもあると思います。私たちは毎週、使徒信条を告白しますね。それと同じです。私たちは神様の恵みをつい忘れてしまうことが良くあると思います。それゆえ、毎週、使徒信条の告白を繰り返します。父なる神が天地を創造した全能の神であることから始めて、三位一体の神、教会のこと、永遠の命のことまで私たちの信仰の全般に亘って信仰告白をします。それは、小さな事ばかりを見ていると、聖書全体を大きく見る視点を失って、つい神様に文句を言ってしまうようなこともあるから、とも言えるでしょう。きょうは、そういうことも含めて、ご一緒に思いを巡らしたいと願っています。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。
①大中小の救いの記事が絡まっている聖書
②息子を復活させる神が悪い時代を救う
③何度でも繰り返す必要がある信仰告白
①大中小の救いの記事が絡まっている聖書
聖書は大中小のドラマが絡み合ってできている書物です。でも、それは小説やテレビドラマ、映画などでも同じですね。今放送されている大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も、伊豆の小さな豪族に過ぎなかった北条氏が源頼朝を支えるようになったことで力を得て、やがて北条氏が源氏に替わって鎌倉幕府を治めるという大きなドラマの中で動いていますが、その中にも源氏と平家の対決というかなり大きなドラマがあり、その他にも源氏の内部抗争で木曽義仲が討たれてしまったことや、頼朝と義経の兄弟の仲たがいによって義経が討たれてしまったことなど、大中小のドラマが絡まり合っています。
朝ドラの話も少しさせてもらいます。私は4月の第1週まで放送されていた『カムカムエヴリバディ』が大好きでした。私の中の朝ドラ・ランキングで、この『カムカム』は第1位になりました。『カムカムエヴリバディ』は、1925年に始まったラジオ放送のことが太い柱になっていました。ラジオ放送の100年の歴史という大きなドラマがあり、そのラジオ放送を聞く各家庭の中の小さなドラマとが絡まり合うという形になっていました。
ラジオ放送で一番有名なのは、1945年8月15日の終戦の日のいわゆる玉音放送でしょう。それも、もちろん取り入れられていました。さらに、この大きなドラマと家庭の小さなドラマとの絡まりの中に立つ太い柱として、ラジオ英語講座がありました。そして、もう一つの柱としては、浜村淳さんがDJ役を務める音楽番組がありました。
『カムカム』の放送の最後の週での浜村淳さんの音楽番組は圧巻でした。この朝ドラは三代のヒロインがリレー形式でラジオ放送の100年の物語を紡いでいましたが、最後の週の浜村淳さんの番組では、初代のヒロインの安子がゲスト出演していて、生き別れになった娘のるいに「るい、るい」と呼び掛けていました。その呼び掛けを二代目のヒロインのるいと三代目のヒロインのひなたが聴いているという、涙なしには見られない感動的なドラマがありました。この『カムカムエヴリバディ』も、大中小のドラマが絡み合った優れたドラマだったと思います。
聖書もまさに大中小のドラマが絡み合っています。ドラマと言ってもフィクションではなくて、実際の話です。聖書の一番大きなドラマは、天地創造から始まります。
神様が創造した天地万物のすべては非常に良かったのですが、アダムとエバに入った罪によって人は罪の中を歩むようになります。そうして旧約の時代の人々の心は神様からどんどん離れて行きました。しかし、そこに神の御子イエス様が天から地上に遣わされて十字架に掛かって死に、罪の問題が解決する方向へと方向転換が為されました。イエス様は死んだ3日目によみがえり、そのまた50日目のペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて、新約の時代が始まり、いま私たちはその新約の時代の中で新天新地の創造の時へと向かっています。これが聖書全体の大きなドラマであり、その中に中小のドラマがたくさんあります。再来週開く予定のエリヤとバアルの預言者たちとの対決は中でもかなり大きなドラマです。(来週は新約聖書の使徒の働きを開く予定)。
そして、きょうのやもめの息子のよみがえりの記事は、小さなドラマと言えるでしょう。やもめ個人にとっては、もちろん大きなドラマですが、聖書全体の中にあっては、小さなドラマです。でも、小さくても、とても大事な記事です。
②息子を復活させる神が悪い時代を救う
きょうの聖書箇所を見ましょう。列王記第一17章17節、
「これらのこと」というのは、先週ご一緒に見た、ツァレファテのやもめが最後に残った粉と油で作ったパン菓子を神様に献げたことで、やもめが豊かに祝福されたことです。エリヤはカラスに養われる生活をするほど全てを神様に明け渡して神様と一つになっていました。ですから、エリヤのためにパン菓子を作るということは神様にパン菓子を献げるということです。雨が降らない干ばつのために、やもめにはもう粉と油がほんの少ししか残っておらず、その最後の食料を食べてしまったら、後は死ぬしかありませんでした。その最後の食べ物を神様に献げたことで、やもめは神様に祝福されました。さてしかし、その後で不幸がやもめを襲い、この17節で彼女の息子が病気で死んでしまいました。続いて18節、
こう言いたくなる彼女の気持ちはよく分かりますね。この18節のことは3番目のパートでまた見ることにして、19節へ進みます。
この19節は、母の日の礼拝で見た、シュネムの女の箇所を思い出します。シュネムの女の息子が死んでしまった時、エリシャはシュネムの女の家の屋上の部屋で祈り、息子に自分の身を重ねました。すると、息子は生き返りました。その時のエリシャは叫ぶことはなかったようですが、エリヤは叫んだと次の20節と21節は記しています。
この20節と21節を読んで「すごいなあ」と感じるのは、エリヤがやもめと一つになっていることです。前回の場面ではエリヤは神様と一つになっていました。カラスに養われるほど自分を捨てて、すべてを神様に明け渡して神様と一つになっていました。そうして、エリヤは、やもめに自分のためにパン菓子を作るように言いました。この時のエリヤは神様の側にいました。しかし、きょうの箇所のエリヤは完全にやもめの側にいて、やもめの代わりに神様に叫び、祈りました。
この、やもめの側に立ったエリヤの姿からは、イエス様の十字架のことを思います。イエス様は神の御子であるにも関わらず、完全に私たちの側に立って下さり、私たちの代わりに十字架に掛かって下さいました。本来なら神様に背いていた私たちが十字架に掛からなければならない筈でした。でも、イエス様は私たちの側に立って下さり、私たちの代わりに十字架に掛かって下さいました。
列王記のこの時のエリヤもやもめの側に立ち、やもめの代わりに叫び、神様に祈りました。
エリヤは懸命に祈りました。すると22節、
主はやもめの息子を死から復活させて生き返らせました。主は死んだ人でもよみがえらせる力を持つお方です。それは、主こそが、人の命を造ったお方だからですね。命を造ったお方ですから、主は死んだ人の命もよみがえらせることができます。
イエス様の復活も同じですね。十字架で死んだイエス様を主は三日目によみがえらせました。人の命を造ったお方である主は、十字架で死んだイエス様も生き返らせることができました。
このイエス様の復活を信じるかどうかは、聖書全体の大きなドラマを信じる信仰があるかが問われているのだろうと思います。私たち福音派のクリスチャンと違って、聖書全体を信じないクリスチャンもいて、イエス様の復活のことも信じないクリスチャンもまたたくさんいます。聖書全体の大きなドラマを信じないと、そうなってしまうのだろうと思います。神様は天地万物と命のすべてをお造りになりました。宇宙の星も地球も、地球上のあらゆる生物の命もお造りになりました。この全能の神の力をもってすれば、死んだイエス様をよみがえらせることなど、たやすいことでしょう。神様はゼロから始めて命をお造りになった方ですから、少し前まで生きていた命をよみがえらせることは、ゼロから造るよりも遥かにたやすいことでしょう。
今はとても悪い時代です。この列王記のシリーズに入って何度も言っていますが、2020年代の今は、いつ終わるか分からないコロナ禍があり、また第三次世界大戦にもつながりかねない悲惨な戦争があり、温暖化によって大型化した台風や豪雨の災害などがある、とても悪い時代です。しかし、全能の神はこの悪い時代を変える力を持っておられます。それは聖書全体の神様の壮大な救いのドラマの観点から見れば明らかですから、私たちは揺るぎない信仰を持って神様に信頼を置いて、良い時代が必ず来ることを信じて、日々歩んで行きたいと思います。
③何度でも繰り返す必要がある信仰告白
最後の3番目のパートに進みます。23節と24節、
この24節の、やもめの信仰告白には、「オヤッ~?」という感じがします。
じゃあ、エリヤのために最後の粉と油でパン菓子を作って献げた時は、まだ、ここまでの信仰を持っていなかったのでしょうか?そんなことはないと思います。パン菓子の時も、このしっかりとした信仰を持っていた筈だと思います。エリヤが神の人であり、エリヤの口にある主のことばが真実であると信じたからこそ、やもめは自分が食べるつもりだった粉と油でパン菓子を作ってエリヤのところに持って行ったのだと思います。
でも、人の信仰は不安定ですから、ふらつくこともあります。それが18節のことばとなって表れたように思います。
私たちも同じでしょう。イエス様は神の子キリストであると信じて、固い信仰を持っているつもりでも、やもめのような深刻な事態に直面した時には18節のようなことばを神に向かって叫んでしまうようなことがあります。でも、きっとそんな時は、神様の大きな救いのドラマを忘れていて、自分の小さな範囲のことしか考えられなくなっている時だろうと思います。
だから私たちはいつも使徒信条を告白して、神様の大きなドラマのことを片時も忘れないでいる必要があるだろうと思います。神様は全知全能のお方であり、天地万物をお造りになったお方です。その全能の神様に旧約の時代の人々はアダムとエバに始まって、ほとんどの場合、神様に背を向けていました。
その罪を赦すためにイエス様は十字架に掛かって下さり、新約の時代の中で私たちは今、新天新地の創造へと向かっています。そういう大きなドラマの流れの中に自分が入れられていると自覚するなら、たとえ小さなドラマの中で激しく翻弄されても、大きなドラマの中にどっぷり浸かっているなら、信仰は固く保たれることでしょう。なぜなら私たちの最終目的地は新天新地だからです。日々の小さな生活の中で激しく翻弄されたとしても、最終目的地の新天新地がしっかりと見えているなら、信仰から離れて行くことはないでしょう。
最終目的地がしっかりと見えているということは、永遠の命の中に既に入れられているということだからです。最終目的地は天の御国であると言っても構わないのですが、新天新地のほうが黙示録にはっきりと情景が書かれています。ですから、情景を思い浮かべやすい新天新地の方を私自身は最終目的地として思い描いています。そうして、地上にいながらにして、既に永遠の命の中に入れられていることを感謝しています。
もう何度も引用していますが、新天新地のことが書かれている黙示録21章の冒頭の4節、1節から4節までをお読みします(週報p.2)。
私たちは、この壮大な救いのドラマの中に入れられていることを、忘れないでいたいと思います。そうすれば、たとえ身の回りの小さなドラマに激しく翻弄されても、神様から離れることはないでしょう。
おわりに
来週はペンテコステの日です。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれました。そうして私たちもまたイエス様を信じるなら誰でも聖霊を受けることができるようになりました。これは聖書の壮大な救いのドラマの中でも特に重要な出来事です。聖霊が内にいて下さるので、私たちは絶えずイエス様からの励ましを内から受けることができます。
でも聖書全体の大きなドラマを見失うなら、日々の生活に翻弄されて神様から目が離れてしまうこともあるかもしれません。ですから私たちは、毎週、礼拝に出席して使徒信条を告白して、私たちの信仰を確認したいと思います。そうして、絶えずツァレファテのやもめの24節のような信仰告白ができる者たちでありたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
『聖書の大中小の救いのドラマ』
【列王記第一17:17~24】
はじめに
きょうの聖書箇所の、17節に出て来る女主人とは、先週ご一緒に見たツァレファテのやもめのことです。ツァレファテのやもめは、エリヤの求めに応じて、残っている最後の粉と油を使ってエリヤのためにパン菓子を作り、エリヤの所に持って行きました。主に献げることを最優先したこのやもめを主は祝福して、この後、かめの粉と壺の油は尽きることがありませんでした。
そして、きょうの箇所では、このやもめの息子が病気になって死んでしまいました。しかし、エリヤが主に懸命に祈ったことで、主はこの息子を死からよみがえらせて下さいました。また、まだ礼拝では開いていませんが、次の18章でエリヤは、アハブ王と全イスラエルの前で450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者と対決をします。この対決にはイスラエル民族全体の救いが掛かっていました。
これらを見る時、聖書とは大中小の救いのドラマが絡まり合ってできている書物である、ということが見えて来ます。そして、そのことに深い感動を覚えます。きょうは、そういう、聖書は大中小の救いのドラマが絡み合って出来た書物であるという観点から、私たち一人一人の救いのことから、世界全体の救いという大きなことにまで思いを巡らしてみたいと思います。
きょうの中心聖句は、列王記第一17章の24節です。
Ⅰ列王17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
このやもめの信仰告白は、私たちの信仰告白でもあると思います。私たちは毎週、使徒信条を告白しますね。それと同じです。私たちは神様の恵みをつい忘れてしまうことが良くあると思います。それゆえ、毎週、使徒信条の告白を繰り返します。父なる神が天地を創造した全能の神であることから始めて、三位一体の神、教会のこと、永遠の命のことまで私たちの信仰の全般に亘って信仰告白をします。それは、小さな事ばかりを見ていると、聖書全体を大きく見る視点を失って、つい神様に文句を言ってしまうようなこともあるから、とも言えるでしょう。きょうは、そういうことも含めて、ご一緒に思いを巡らしたいと願っています。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。
①大中小の救いの記事が絡まっている聖書
②息子を復活させる神が悪い時代を救う
③何度でも繰り返す必要がある信仰告白
①大中小の救いの記事が絡まっている聖書
聖書は大中小のドラマが絡み合ってできている書物です。でも、それは小説やテレビドラマ、映画などでも同じですね。今放送されている大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も、伊豆の小さな豪族に過ぎなかった北条氏が源頼朝を支えるようになったことで力を得て、やがて北条氏が源氏に替わって鎌倉幕府を治めるという大きなドラマの中で動いていますが、その中にも源氏と平家の対決というかなり大きなドラマがあり、その他にも源氏の内部抗争で木曽義仲が討たれてしまったことや、頼朝と義経の兄弟の仲たがいによって義経が討たれてしまったことなど、大中小のドラマが絡まり合っています。
朝ドラの話も少しさせてもらいます。私は4月の第1週まで放送されていた『カムカムエヴリバディ』が大好きでした。私の中の朝ドラ・ランキングで、この『カムカム』は第1位になりました。『カムカムエヴリバディ』は、1925年に始まったラジオ放送のことが太い柱になっていました。ラジオ放送の100年の歴史という大きなドラマがあり、そのラジオ放送を聞く各家庭の中の小さなドラマとが絡まり合うという形になっていました。
ラジオ放送で一番有名なのは、1945年8月15日の終戦の日のいわゆる玉音放送でしょう。それも、もちろん取り入れられていました。さらに、この大きなドラマと家庭の小さなドラマとの絡まりの中に立つ太い柱として、ラジオ英語講座がありました。そして、もう一つの柱としては、浜村淳さんがDJ役を務める音楽番組がありました。
『カムカム』の放送の最後の週での浜村淳さんの音楽番組は圧巻でした。この朝ドラは三代のヒロインがリレー形式でラジオ放送の100年の物語を紡いでいましたが、最後の週の浜村淳さんの番組では、初代のヒロインの安子がゲスト出演していて、生き別れになった娘のるいに「るい、るい」と呼び掛けていました。その呼び掛けを二代目のヒロインのるいと三代目のヒロインのひなたが聴いているという、涙なしには見られない感動的なドラマがありました。この『カムカムエヴリバディ』も、大中小のドラマが絡み合った優れたドラマだったと思います。
聖書もまさに大中小のドラマが絡み合っています。ドラマと言ってもフィクションではなくて、実際の話です。聖書の一番大きなドラマは、天地創造から始まります。
神様が創造した天地万物のすべては非常に良かったのですが、アダムとエバに入った罪によって人は罪の中を歩むようになります。そうして旧約の時代の人々の心は神様からどんどん離れて行きました。しかし、そこに神の御子イエス様が天から地上に遣わされて十字架に掛かって死に、罪の問題が解決する方向へと方向転換が為されました。イエス様は死んだ3日目によみがえり、そのまた50日目のペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて、新約の時代が始まり、いま私たちはその新約の時代の中で新天新地の創造の時へと向かっています。これが聖書全体の大きなドラマであり、その中に中小のドラマがたくさんあります。再来週開く予定のエリヤとバアルの預言者たちとの対決は中でもかなり大きなドラマです。(来週は新約聖書の使徒の働きを開く予定)。
そして、きょうのやもめの息子のよみがえりの記事は、小さなドラマと言えるでしょう。やもめ個人にとっては、もちろん大きなドラマですが、聖書全体の中にあっては、小さなドラマです。でも、小さくても、とても大事な記事です。
②息子を復活させる神が悪い時代を救う
きょうの聖書箇所を見ましょう。列王記第一17章17節、
Ⅰ列王17:17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
「これらのこと」というのは、先週ご一緒に見た、ツァレファテのやもめが最後に残った粉と油で作ったパン菓子を神様に献げたことで、やもめが豊かに祝福されたことです。エリヤはカラスに養われる生活をするほど全てを神様に明け渡して神様と一つになっていました。ですから、エリヤのためにパン菓子を作るということは神様にパン菓子を献げるということです。雨が降らない干ばつのために、やもめにはもう粉と油がほんの少ししか残っておらず、その最後の食料を食べてしまったら、後は死ぬしかありませんでした。その最後の食べ物を神様に献げたことで、やもめは神様に祝福されました。さてしかし、その後で不幸がやもめを襲い、この17節で彼女の息子が病気で死んでしまいました。続いて18節、
18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
こう言いたくなる彼女の気持ちはよく分かりますね。この18節のことは3番目のパートでまた見ることにして、19節へ進みます。
19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。
この19節は、母の日の礼拝で見た、シュネムの女の箇所を思い出します。シュネムの女の息子が死んでしまった時、エリシャはシュネムの女の家の屋上の部屋で祈り、息子に自分の身を重ねました。すると、息子は生き返りました。その時のエリシャは叫ぶことはなかったようですが、エリヤは叫んだと次の20節と21節は記しています。
20 彼は主に叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
この20節と21節を読んで「すごいなあ」と感じるのは、エリヤがやもめと一つになっていることです。前回の場面ではエリヤは神様と一つになっていました。カラスに養われるほど自分を捨てて、すべてを神様に明け渡して神様と一つになっていました。そうして、エリヤは、やもめに自分のためにパン菓子を作るように言いました。この時のエリヤは神様の側にいました。しかし、きょうの箇所のエリヤは完全にやもめの側にいて、やもめの代わりに神様に叫び、祈りました。
この、やもめの側に立ったエリヤの姿からは、イエス様の十字架のことを思います。イエス様は神の御子であるにも関わらず、完全に私たちの側に立って下さり、私たちの代わりに十字架に掛かって下さいました。本来なら神様に背いていた私たちが十字架に掛からなければならない筈でした。でも、イエス様は私たちの側に立って下さり、私たちの代わりに十字架に掛かって下さいました。
列王記のこの時のエリヤもやもめの側に立ち、やもめの代わりに叫び、神様に祈りました。
20 「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
21 「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
21 「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
エリヤは懸命に祈りました。すると22節、
22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。
主はやもめの息子を死から復活させて生き返らせました。主は死んだ人でもよみがえらせる力を持つお方です。それは、主こそが、人の命を造ったお方だからですね。命を造ったお方ですから、主は死んだ人の命もよみがえらせることができます。
イエス様の復活も同じですね。十字架で死んだイエス様を主は三日目によみがえらせました。人の命を造ったお方である主は、十字架で死んだイエス様も生き返らせることができました。
このイエス様の復活を信じるかどうかは、聖書全体の大きなドラマを信じる信仰があるかが問われているのだろうと思います。私たち福音派のクリスチャンと違って、聖書全体を信じないクリスチャンもいて、イエス様の復活のことも信じないクリスチャンもまたたくさんいます。聖書全体の大きなドラマを信じないと、そうなってしまうのだろうと思います。神様は天地万物と命のすべてをお造りになりました。宇宙の星も地球も、地球上のあらゆる生物の命もお造りになりました。この全能の神の力をもってすれば、死んだイエス様をよみがえらせることなど、たやすいことでしょう。神様はゼロから始めて命をお造りになった方ですから、少し前まで生きていた命をよみがえらせることは、ゼロから造るよりも遥かにたやすいことでしょう。
今はとても悪い時代です。この列王記のシリーズに入って何度も言っていますが、2020年代の今は、いつ終わるか分からないコロナ禍があり、また第三次世界大戦にもつながりかねない悲惨な戦争があり、温暖化によって大型化した台風や豪雨の災害などがある、とても悪い時代です。しかし、全能の神はこの悪い時代を変える力を持っておられます。それは聖書全体の神様の壮大な救いのドラマの観点から見れば明らかですから、私たちは揺るぎない信仰を持って神様に信頼を置いて、良い時代が必ず来ることを信じて、日々歩んで行きたいと思います。
③何度でも繰り返す必要がある信仰告白
最後の3番目のパートに進みます。23節と24節、
23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」
24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
この24節の、やもめの信仰告白には、「オヤッ~?」という感じがします。
24 「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
じゃあ、エリヤのために最後の粉と油でパン菓子を作って献げた時は、まだ、ここまでの信仰を持っていなかったのでしょうか?そんなことはないと思います。パン菓子の時も、このしっかりとした信仰を持っていた筈だと思います。エリヤが神の人であり、エリヤの口にある主のことばが真実であると信じたからこそ、やもめは自分が食べるつもりだった粉と油でパン菓子を作ってエリヤのところに持って行ったのだと思います。
でも、人の信仰は不安定ですから、ふらつくこともあります。それが18節のことばとなって表れたように思います。
18 「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
私たちも同じでしょう。イエス様は神の子キリストであると信じて、固い信仰を持っているつもりでも、やもめのような深刻な事態に直面した時には18節のようなことばを神に向かって叫んでしまうようなことがあります。でも、きっとそんな時は、神様の大きな救いのドラマを忘れていて、自分の小さな範囲のことしか考えられなくなっている時だろうと思います。
だから私たちはいつも使徒信条を告白して、神様の大きなドラマのことを片時も忘れないでいる必要があるだろうと思います。神様は全知全能のお方であり、天地万物をお造りになったお方です。その全能の神様に旧約の時代の人々はアダムとエバに始まって、ほとんどの場合、神様に背を向けていました。
その罪を赦すためにイエス様は十字架に掛かって下さり、新約の時代の中で私たちは今、新天新地の創造へと向かっています。そういう大きなドラマの流れの中に自分が入れられていると自覚するなら、たとえ小さなドラマの中で激しく翻弄されても、大きなドラマの中にどっぷり浸かっているなら、信仰は固く保たれることでしょう。なぜなら私たちの最終目的地は新天新地だからです。日々の小さな生活の中で激しく翻弄されたとしても、最終目的地の新天新地がしっかりと見えているなら、信仰から離れて行くことはないでしょう。
最終目的地がしっかりと見えているということは、永遠の命の中に既に入れられているということだからです。最終目的地は天の御国であると言っても構わないのですが、新天新地のほうが黙示録にはっきりと情景が書かれています。ですから、情景を思い浮かべやすい新天新地の方を私自身は最終目的地として思い描いています。そうして、地上にいながらにして、既に永遠の命の中に入れられていることを感謝しています。
もう何度も引用していますが、新天新地のことが書かれている黙示録21章の冒頭の4節、1節から4節までをお読みします(週報p.2)。
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
私たちは、この壮大な救いのドラマの中に入れられていることを、忘れないでいたいと思います。そうすれば、たとえ身の回りの小さなドラマに激しく翻弄されても、神様から離れることはないでしょう。
おわりに
来週はペンテコステの日です。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれました。そうして私たちもまたイエス様を信じるなら誰でも聖霊を受けることができるようになりました。これは聖書の壮大な救いのドラマの中でも特に重要な出来事です。聖霊が内にいて下さるので、私たちは絶えずイエス様からの励ましを内から受けることができます。
でも聖書全体の大きなドラマを見失うなら、日々の生活に翻弄されて神様から目が離れてしまうこともあるかもしれません。ですから私たちは、毎週、礼拝に出席して使徒信条を告白して、私たちの信仰を確認したいと思います。そうして、絶えずツァレファテのやもめの24節のような信仰告白ができる者たちでありたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。