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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

コーヒー牛乳とLED照明のたとえ(『時間の黙示録』6)

2021-11-02 08:25:01 | 時間の黙示録
空想『時間の黙示録』
(6)コーヒー牛乳とLED照明のたとえ

(5)戦災の廃墟の前で涙を流すイエス

 ヨハネの福音書が

旧約の時代(父)
イエスの時代(子)
使徒の時代(聖霊)

の三層構造を持つことを10年前から僕はブログや著書や説教などを通じて説明し続けている。三層構造を知ることは父・子・聖霊の三位一体の神の理解を深めることにもつながる。それゆえ、ヨハネの福音書が三層構造を持つことの重要性をもっと多くの人々に知ってもらいたいのだが、未だに少数の人としか分かち合えていない。

 そこで話をもう少し分かりやすくするために、今回はコーヒー牛乳(コーヒー・ミルク・砂糖)とLED照明(赤・緑・青)のたとえを使って、三層構造の重要性を説明してみたい。

コーヒー牛乳のたとえ
 まずはヨハネの福音書をコーヒー牛乳にたとえてみよう。子供の時、僕はコーヒー牛乳が大好きだった。コーヒー牛乳は普通の牛乳よりも甘くておいしい。子供の僕はコーヒー単独の味を知らなかったから、コーヒー牛乳がコーヒー・ミルク・砂糖の三つの主成分から成ることなど、全く意識していなかったと思う。これはヨハネの福音書が旧約の時代(父)・イエスの時代(子)・使徒の時代(聖霊)の三つの層から成ることを意識していないのと同じだ。これはこれで、もちろん構わない。コーヒー牛乳はおいしいし、ヨハネの福音書は恵み豊かな書だ。三つに分解して考えなくても、十分に恵みを味わえる。

 でも大人になって、コーヒーとミルクと砂糖の組み合わせによって味が全く変わることが分かるようになった。そして、コーヒー牛乳はミルクと砂糖が多めでコーヒーは少なめであることを知った。さらに自動販売機の缶コーヒーは、コーヒーと砂糖が多めでミルクが少ないことも分かるようになった(今は微糖や無糖、ミルクの多いものなどいろいろある)。また、コーヒー単独だと苦味がきついものの、苦味もまた大人の味として楽しめるようになった。こうして、子供の頃にはコーヒー牛乳しか知らなかった僕は大人になってから、コーヒーをより深く味わえるようになった。

 ここで、旧約の時代(父)を砂糖に、イエスの時代(子)をコーヒーに、使徒の時代(聖霊)をミルクにたとえてみよう。イエスの地上生涯は苦味に満ちていたから、イエスの時代をコーヒーにたとえるのが一番分かりやすいだろう。また、聖霊は信仰を育むから、ミルクにたとえたい。父の愛は甘いから、砂糖が良いだろう。

旧約の時代(父)=砂糖
イエスの時代(子)=コーヒー(苦味)
使徒の時代(聖霊)=ミルク

 さて、『時間の黙示録』の連載の前回は、ヨハネ11章の涙を流すイエスは、旧約の時代と使徒の時代に滅亡したエルサレムの廃墟を見たイエスの涙であることを書いた。

イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

 この涙を流すヨハネ11:35のイエスはエルサレムが滅亡した旧約の時代と使徒の時代にいる。つまりヨハネの福音書は砂糖(旧約の時代)とミルク(使徒の時代)の成分のほうがコーヒー(イエスの時代)の成分よりも多いコーヒー牛乳だ。

 一方、マタイ・マルコ・ルカの福音書はコーヒー(イエスの時代)の成分が多いために、とても苦い。特に受難の場面はマタイ・マルコ・ルカのほうがヨハネよりも遥かに苦い。しかし、読めば分かるように旧約の時代(砂糖)と使徒の時代(ミルク)の成分も含まれているから、マタイ・マルコ・ルカの福音書は決して苦いばかりの書ではなくて、もっとマイルドな味わいになっている。

 このように、マタイ・マルコ・ルカの福音書もまた実は父・子・聖霊の三つの成分から成ることが、ヨハネの福音書の三層構造を知ることで分かるようになる。そして、イエスの苦い生涯、父の愛の甘さ、信仰を育む聖霊のミルクの豊かさも、より深く理解できるようになる。

LED照明のたとえ
 次に、ヨハネの福音書をLED照明にたとえてみよう。LED照明は寿命が長くて消費電力も少ないから、今は白熱灯や蛍光灯がLED照明に次々に置き換わっている。今の子供たちは、かつての照明は白熱灯や蛍光灯が主流であったことなど知らないかもしれない。

 さて、白色LED照明の恵みは光の三原色である赤色・緑色・青色のLEDの三つがそろって初めて、もたらされた。この中でも青色LEDの開発には特に苦労が多かったことが、2014年のノーベル物理学賞が赤﨑 勇氏・天野 浩氏・中村 修二氏の日本人3名に授与されたことで、一般にも広く知られるようになった。この青色LEDの開発に多くの苦労があったことを我々は決して忘れてはならない。単純に白色LED照明の恩恵に浴しているだけでなく、どのようにして青色LED開発の困難を克服して行ったのかを、しっかりと継承して行くべきだろう。

 同様に、我々は単純に三位一体の神の恩恵に浴するだけでなく、イエスの受難を経て聖霊の恵みがもたらされたことを忘れてはならない。聖霊の恵みは青色LEDの恵みのようなものだ。旧約の時代においては神の恵みはイスラエルの民にしか届いていなかった。それは律法の恵みで、必ずしも十分な恵みではなかった。それが使徒の時代になって、イエスを信じる者には誰でも聖霊が注がれるようになって、十分な恵みが届くようになった。しかし、そのためにはイエスの苦い受難を経なければならなかった。このように神の恵みをより深く知るには、旧約の時代のこと、イエスの時代のこと、使徒の時代のことのそれぞれを知る必要がある。ただし、聖書にはこれらの時代のことが重なり合って書かれている。重なりをそのまま味わっても良いのだが、それぞれの時代の味わいを分離できれば、より深く味わうことができるであろう。

 ルカもヨハネもパウロも、十字架の受難だけでなく、聖霊の恵みも読者に伝えようとしている。聖霊の力によって、読者は様々な困難を克服して行くことができる。一方的に注がれる神の愛の恵みに浴することは、もちろん素晴らしいことだ。しかし、それだけでは強固な信仰は育まれない。困難に遭っても簡単には心が折れない信仰を育むには、聖霊のミルクをたっぷりと飲んで成長する必要がある。それには、どの書にどれくらい聖霊のミルクの成分が含まれているかを知ることもまた必要だと思う。ヨハネの福音書の三層構造を理解するなら、聖書のそれぞれの書に聖霊の成分がどれくらい含まれているかが段々と分かるようになる。

 たとえるなら、旧約の時代は赤色LED(律法)の時代、イエスの時代は他の色のLEDが開発されながらも青色LEDには苦闘していた時代、使徒の時代は青色LED(聖霊)によって白色LEDの恩恵に浴している時代であると言えよう。現代もまた使徒の時代の延長上にある。その中にあって我々は、赤・緑・青のそれぞれの色のLEDの恵みも忘れないようにしたい。

 赤色LED(律法)だけでも、それは大きな恵みであった。その旧約の時代の律法の恵みから、さらに大きな恵みを目指して他の色のLEDが開発されて行った。しかし、青色LEDの開発には苦難が伴った。それは受難に遭ったイエスの苦い時代でもある。このイエスの受難があったからこそ、使徒の時代に聖霊のミルクが注がれた。三位一体の神の恩恵を受けている我々は、このことを決して忘れずにいて、次世代へと継承して行かなければならない。(終)
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戦災の廃墟の前で涙を流すイエス(『時間の黙示録』5)

2021-10-06 05:41:40 | 時間の黙示録

 ヨハネの福音書とルカの福音書には、イエスが涙を流して泣く場面がある。

イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。(ルカ19:41)

 ルカ19章のイエスは、やがてエルサレムがローマ軍の攻撃によって滅亡することを悲しんで泣いた。後続の42~44節のイエスのことばがそれを示す。

「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」(ルカ19:42-44)

 一方、ヨハネ11章のイエスはラザロの墓に向かう時に涙を流した。それゆえ、この涙は表面的にはラザロの死を悲しむ涙だ。しかし、背後には「エルサレムの滅亡」を深く悲しむイエスの姿がある。イエスが霊に憤りを覚えて心を騒がせた(ヨハネ11:33)のは、人々の罪がエルサレムの滅亡を招いたからだ。人の罪は一つの都市を破滅させてしまうほどの大きな破壊力を持つ。その深刻さに誰も気付いていないことをイエスは憤り、また悲しんでいる。

 前回の説明の通り、ヨハネの福音書は、

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →

という三層構造を持ち、紀元30年頃の「イエスの時代」のイエスだけでなく、その前後の「旧約の時代」と「使徒の時代」にいる神の御子をも描いている。この三層構造は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が時間の流れの中にはなく、神の「永遠」の中にあることを示す。この「永遠」は<初め>と<終り>が融合する地点にある(本連載第2回)。すなわち、

初め → 永遠 ← 終り

という図式だ。従って、ヨハネの福音書の三層構造とは下図で示すように、<初め>と<終り>の融合の最終形なのかもしれない。



 ここで、前回も載せた下図を再び見ていただきたい。この図から、ヨハネ11章にいる神の御子は「旧約の時代」においても「使徒の時代」においても、エルサレム滅亡の時代にいることが分かっていただけると思う。



 ヨハネ11章が「旧約の時代」においてはエルサレム滅亡(と復興)の時代であることは、ヨハネ10章からも明らかだ。10章の冒頭でイエスは、

「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」(ヨハネ10:1)

と言った。これは、ユダの王と民が不信仰を改めないなら、は外国人の略奪隊をエルサレムに送って攻め滅ぼすというエレミヤの次の警告だ。エレミヤの中には御子がいたので、エレミヤの警告は御子の警告だ。エルサレムは城壁と門によって守られているが、略奪隊は門から入らずに城壁を乗り越えて攻め入るのだ。

はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。」(エレミヤ18:11)

 しかし、ユダの王と民は不信仰を改めなかったので、主は外国人の略奪隊をエルサレムに派遣した。

そこでは、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。(列王記第二24:2)

 そうしてエルサレムの王と民はバビロンへ捕囚として引かれて行った。その中には預言者エゼキエルも含まれていた。

第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。(エゼキエル1:1)

 預言者エゼキエルの中には御子がいた。ヨハネ10:40でイエスがヨルダンの川向こうに行ったことは、このバビロン捕囚の出来事を表している。

イエスは再びヨルダンの川向こう…に行き、そこに滞在された。(ヨハネ10:40)

 バビロンはエルサレムから見ればヨルダンの川向こうにある。それゆえイエスは川向こうに行ったのだ。そうしてヨハネ11章でイエスは再びヨルダン川のこちら側に戻って来た。これは、エルサレムの復興のために民が帰還したことを表す。しかし、そこで彼らが見たのは破壊されて廃墟となった無残な姿のエルサレムだった。ヨハネ11:35のイエスは、この戦災で廃墟となったエルサレムを見て涙を流したのだ。

イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

 エレミヤの警告(すなわち御子の警告)を無視したためにエルサレムは滅亡した。この不信仰のゆえにイエスは霊に憤りを覚え、心を騒がせたのだ(ヨハネ11:33)。そして、この紀元前のエルサレム滅亡の悲劇は紀元70年に再び起きた。時間の流れで示せば、紀元前586年のエルサレム滅亡が先にあり、その後で紀元70年のエルサレム滅亡が後にある。しかし、<初め>と<終り>が融合した永遠の中にあっては、それは下図のように重なっている。



 戦災によって都市が廃墟となる悲劇は21世紀の現代においても、なお繰り返されている。20世紀には二度の世界大戦があって多くの都市が廃墟になったのに、未だに同じ悲劇が繰り返されている。



 どうして、戦災で都市が廃墟になる悲劇が絶えないのか。悲劇はなぜ繰り返されるのか。それは、ヨハネ11:35のイエスの涙の背後に何があるのかを、ほとんどの者が知らないからではないだろうか。ラザロの死への悲しみの背後には、戦災で廃墟になったエルサレムへのイエスの深い悲しみがある。人の罪は、一つの都市を破滅させるほど大きな破壊力を持つ。この罪深さをもっと多くの者が自覚する必要があると思う。

 平和の君であるイエスが戦災を深く悲しんでいることを多くの者が知るなら、世界はもっと平和になるであろう。そのことを願って、ヨハネの福音書の三層構造の重要性を、これからも訴え続けて行くつもりだ。

 今回の表題の「戦災の廃墟の前で涙を流すイエス」は、拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』の帯に入れたことばだ。



 平和の実現のために、多くの人々に「永遠」に目覚めていただきたい。そうしてイエスの悲しみの涙の真意を知っていただきたい。(続く)
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時間の流れに縛られる人間・縛られない神(『時間の黙示録』4)

2021-09-30 12:00:59 | 時間の黙示録

 前回、下図の左側の「時間」が横軸で、「永遠」が縦軸のグラフを示した。これは右側のように横軸が「人間」で、縦軸が「神」のグラフで表すこともできる。つまり、人間は時間の流れに縛られているが、神は時間の流れに縛られていない。



 このように縦軸が「神/永遠」を表すことは、ヨハネの福音書が次のような三層の積層構造を持つことから導かれたものである。

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →

 つまりヨハネの福音書は、紀元30年頃の「イエスの時代」の人間イエスだけでなく、その前後の「旧約の時代」と「使徒の時代」にいる神の御子の言動をも描いている。「旧約の時代」と「使徒の時代」の御子は父と共にいて右向きの時間の流れに縛られてはいない。下記はそのイメージ図である。



 一方で、地上生涯の人間イエスは時間に縛られていてヨハネの福音書の1章→2章→3章・・・という時間の流れの中にいる。これらを示しているのが、

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →

の三層構造だ。そして、この三層の積層構造をもう少し具体的にしたのが下図である。



 上図は極めて粗い図であり、例えばヨハネ4章をさらに細かく見るなら、下図のようになっている。



 神の御子は聖霊を受けた者たちの中にいる。従って、御子は「使徒の時代」にバプテスマを授けていた弟子たちの中にいた。そうしてイエスを信じる者たちが増えて教会は成長した(ヨハネ4:1、使徒5:14)。また、サマリア伝道を行ったピリポの中にもいた(ヨハネ4:4、使徒8:5)。さらにはサマリアに行ってサマリア人たちに手を置いたペテロとヨハネの中にもいた(ヨハネ4:39、使徒8:17)。そうして、聖霊を受けたサマリア人たちの中にも入った。サマリア人たちが「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」(ヨハネ4:42)と言ったのは、彼らが聖霊を通して天の御子の声を聞くことができたからだ。つまり、ヨハネ4章の後半にいるサマリア人たちは「使徒の時代」の使徒8章にいるサマリア人たちだ。

 そしてまた、御子は「旧約の時代」の預言者エリヤの中にもいて、「水を…飲ませてください」(ヨハネ4:7、列王記第一17:10)と言った。これらの三つの時代の重なりについての詳しいことは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書 2017)を参照していただければ幸いである。

(続く 次回はヨハネ11章の涙を流したイエスに注目する予定です)
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自然に現れる「永遠の命」と「永遠の滅び」(『時間の黙示録』3)

2021-09-22 05:47:20 | 時間の黙示録

 この連載は、黙示録の神のことばが<初め>と<終り>の融合を表しているのではないかと、ふと思ったことから始まった。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)

 <初め>と<終り>が融合するなら時間は収縮していることになり、それを連載(1)では「宇宙の膨張」と結び付けたのは荒唐無稽だったかもしれない。しかし、この<初め>と<終り>の融合からは終末に関して聖書に書かれている様々なことが自然と導き出されることが段々と分かって来た。例えば(1)でも書いたように、福音書や黙示録で予告されている<終り>の直前の苦難の時とは、時間が縮むことで忙しくなり過ぎて、遂には破綻することだと言えそうだ。また連載(2)で説明したように、時間が収縮して<初め>と<終り>が融合するなら、すべての時間は十字架へ向かって行く。それゆえ、すべての人は十字架に引き寄せられることになる。イエス・キリストが次のように言った通りである。

「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

と言った。

 今回の連載(3)では「永遠の命」と「永遠の滅び」が、「時間の収縮」からごく自然に現れることを示すことにしたい。



 上図の左側のシンプルな<時間―永遠>の図は、拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒』(2017)で説明したものである。「永遠」は【過去→現在→未来】の時間軸(横軸)の延長線上ではなく直交方向にある。この縦軸の「永遠」はヨハネの福音書の構造が、

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →

という積層型になっていることから導き出されたものである。この本を書いた2017年当時は「時間の収縮」のアイデアは持っていなかったが、今回、<初め>と<終り>の融合によって、ごく自然に「永遠」が現れることに気付いた。右側の図のように、十字架に向かってスクイーズされた時間から「永遠の命」と「永遠の滅び」が直交方向に現れるのだ。

 この、<初め>から<終り>までのすべてが十字架に向かい、その十字架から「永遠の命」と「永遠の滅び」が現れる様子は、有名なヨハネ3:16の聖句を見事に表現していると言えるのではないだろうか。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 神は「旧約の時代」・「イエスの時代」・「使徒の時代」が同時に存在する「永遠」の中にいる。一方、人間は身体が時間軸に縛られているので、「永遠」の中に身を置くことはできない。ただし、霊的には「永遠」に心を向けることは可能だ。「イエスは神の子キリストである」と信じるなら聖霊を受けて霊的に目覚めるので、「永遠」に心を向けることができるようになる。そして<終り>の時には身体も「永遠」の中に入る。ヨハネの福音書では、この<初め>と<終り>が融合した最終形が垣間見られる。次回は、この「旧約の時代」・「イエスの時代」・「使徒の時代」が積層するヨハネの福音書の構造について書いてみたい。
(続く 次回は9/29頃の予定です)
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十字架に向かって収束する<初め>と<終り>(『時間の黙示録』2)

2021-09-15 06:48:57 | 時間の黙示録
空想『時間の黙示録』
(2)十字架に向かって収束する<初め>と<終り>

(1)時間の収縮による<初め>と<終り>の融合
(3)自然に現れる「永遠の命」と「永遠の滅び」

 今回は、クリスチャンはなぜ二千年前の遠い過去の十字架の出来事を近くに感じるのか?について空想する。

 前回の空想の中で、<初め>と<終り>の融合に向かって時間が収縮する中では未来が近づくと同時に「過去も近づく」ことを書いた。これは「過去は遠ざかる」という僕たちの時間感覚とは合わない。この「過去が近づく問題」について前回は次のように説明した。

僕たちの人生の範囲内の数十年レベルでは、確かに過去は遠ざかる。しかし、数百年、数千年、数万年、数億年のレベルでは歴史を知ることで過去は近づく。既存の知識であれば本などで過去を学べば過去は近づく。未知の過去であっても研究が進めば明らかになり、そのことによって過去は近づく。かつて人類は恐竜の時代のことを知らなかった。しかし恐竜の化石の発見によって、恐竜が生きていた過去の時代を近くに感じるようになった。地球の起源や歴史も、研究が進めば進むほど身近に感じるようになり、過去が近づいて来る。

 このように過去を知ることで過去が近づくから、十字架の出来事も聖書を知ることで近づいて来る。イエス・キリストが十字架に掛かって死んだことは、キリスト教では中心的な出来事だ。この十字架は、旧約聖書の時代から預言されていた。たとえばイザヤ書53章には次のような記述がある。

5 彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:5-7)

 「私たちの背き」とは「21世紀の僕たちの背き」のことでもある。僕たちは例えば「隣人を愛しなさい」という神のことばに背いて自分勝手なことばかりしている。このように神に背く僕たちの罪の赦しのためにイエス・キリストは十字架に付いた。紀元前の人々の罪だけでなく、紀元後の僕たちの罪もすべて背負って十字架に付いた。

 しかし、普通の時間の流れの感覚では、これはちょっと変だ。21世紀を生きる僕たちは1世紀の十字架の時にはまだ生まれていなかった。それなのに、なぜ21世紀の僕たちの罪が1世紀の過去の十字架によって赦されるのだろうか?

 この、過去の十字架による赦しの謎も、<初め>と<終り>の融合によって説明できる。



 <初め>と<終り>は上図のように、<十字架>に向かって収束すると考れば<初め>と<終り>は十字架で融合して一つになる。

<初め>
十字架
<終り>

 十字架は遠い過去にあってどんどん離れて行くのではなく、逆にどんどん近づいて来る。そうして旧約の時代の人々の背きの罪も、21世紀の僕たちの背きの罪も、すべて十字架によって赦される。このことは、イエス・キリスト自身がこう言っていることとも合致する。

「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

 「上げられる」とは十字架のことだ。イエス・キリストの十字架は、それ以前の人もそれ以降の人も、すべての人を引き寄せる。そして、<終り>の時は「最後の審判」の時でもある。イエス・キリストを信じる者は十字架によって背きの罪が赦されて永遠の命が与えられ、信じない者は赦されずに滅びる。イエスを信じる者は永遠の命が約束されている安心感から心が平安になり、十字架をとても身近に感じるようになる。

 前回も触れたが、「永遠」とは過去と未来の延長線上にあるのではない。<初め>と<終り>が融合して神の愛が凝縮された所にある。この濃厚な神の愛に包まれて僕たちは深い平安を得ることができるのだ。それが「永遠の命」が与えられるということだろう。

 さてしかし、ここで新たな疑問が発生する。太陽系誕生の<初め>から十字架までは数十億年の時が流れている一方で、十字架から<終り>の時までは数千年程度であろう。温暖化や疫病、核戦争やAI支配の危機などによる騒乱ぶりを見れば、今の世界があと一万年以上続くとはとても思えない。それゆえ早ければ数年~数十年以内に、遅くても数百年~数千年後には<終り>が来るだろう。すると、十字架前の数十億年と十字架後の数千年とでは時間の長さが100万倍も違う。これでは十字架が中心にはならない。上図はおかしいということになる。

 でも大丈夫。この問題は時間を対数目盛りにすることでクリアできる(空想は「何でも有り」なのだ)。つまり太陽系誕生時には<終り>に近いほど下図のように時間が引き延ばされていると考えるのだ。最初は引き延ばされていても、<終り>に向かうに従って時間が収縮するので、引き延ばされた目盛りも縮んで行くから大丈夫である。そうして、時間が進むに従って全体が収縮する。十字架の頃と21世紀の現代はこんな感じであろうか。青い矢印がそれぞれの時点の位置を示す。



 一般的な時間の流れの感覚では、僕たちは右向きの未来に向かって時間の中を進んでいる。しかし、<初め>と<終り>が融合する方向に時間が収縮しているなら、僕たちは左の十字架に向かって時間の中を進んでいる。そうしてイエス・キリストを信じる者は「永遠の命」を得る。<初め>と<終り>が融合する点こそが「永遠」であり、ここには神の愛が満ちている。

初め → 永遠 ← 終り

 ヨハネの福音書3章14~16節は十字架によって示された神の愛をこのように語っている。

14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:14-16)

 神は天地を創造し、僕たち一人一人の命を造り、そうして愛して下さっている。それなのに僕たちは神の愛に背いて、自分勝手な方向に進んでいる。しかし、どんなに自分勝手な方向に進もうとも、<終り>の時には必ず神の所に帰り、「最後の審判」が下される。神の濃厚な愛の中で永遠の命を得るのか、それとも滅びるのか。それは僕たちが神への背きの罪を悔い改めて、神の方をきちんと向き直し、神の御子イエスが罪からの救い主であることを信じるかどうかにかかっている。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

(続く 次回は9/22頃の予定です)
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空想『時間の黙示録』(1)

2021-09-07 09:39:24 | 時間の黙示録
空想『時間の黙示録』
(1)時間の収縮による<初め>と<終り>の融合

(2)十字架に向かって収束する<初め>と<終り>

 コロナ禍や温暖化などの脅威で、戦争ではないのに僕たちの命は危険にさらされている。この世界は一体どこに向かっているのだろうか?物理と聖書で、こんなことを空想(妄想?)してみた。

 今の1秒は、昔の1秒と同じなのだろうか?工業が発達する前の世界は、もっとゆっくりと動いていた。農業や畜産業なども忙しいであろうが、太陽の動きと密接に関連しているので、度を超えて忙しくなることはないだろう。太陽の動きとほぼ無関係に操業できる工業によって、人々の忙しさの度合いは増した。とはいえ、パソコンや携帯電話の登場以降に比べれば、まだまだゆっくりしていただろう。情報・通信機器によって仕事の効率が上がれば上がるほど忙しさは増した。効率が上がれば本来なら楽になる筈なのに、却って苦しくなった。何かがおかしい気がする。僕たちの背後で、何か想定していなかったことが起きているのではないだろうか?

 効率化によって物事がすっきりと片付く方向に向かうことを期待していたのに、実際は忙しさによって混乱している。そうして乱雑な方向に向かっている。このことは宇宙全体が<秩序⇒無秩序>のエントロピーが増大する方向に向かっていることと、何か関係があるのだろうか?初期の高密度の状態の宇宙はエントロピーが非常に低かったそうだ。そこから始まって、僕たちが住む宇宙はエントロピーが増大する方向へ向かっているのだそうだ。

 宇宙はビッグバンによって始まり、今も膨張していると言われている。「宇宙の膨張」の根拠は、遠い銀河から出る光のスペクトルほど赤方に偏移していることをハッブルが発見して、それは「銀河を出た光が地球に届くまでの間に空間が伸びて波長が引き伸ばされるため」と解釈できるからなのだそうだ。なるほどである。僕は最近まで、この宇宙膨張説を疑ったことなど一度もなかった。でも今は、ちょっと違う。

 例えば、こんな風には考えられないだろうか?遠い銀河を大昔に出発した時の光は青色寄りだったのに、今の地球に近づくにつれて「時間が縮む」ために赤方に偏移したということはないだろうか?時間が縮むと、単位時間内に入れることができる振動の数が減る。そのために振動数がより小さい赤い方に光の色が偏移した、と考えるのだ。

 つまり、もしかしたら宇宙はそんなに膨張しているわけではないんじゃないだろうか?時間が縮んでいるから宇宙が膨張しているように見えるだけで、実際はそれほど膨張してはいないんじゃないか?というわけだ(ぜんぜん膨張していない、とは言いません)。

 宇宙に存在する物質で分かっているのは全体の4~5%程度に過ぎず、残りの95~6%は未だ正体が分からない暗黒物質と暗黒エネルギーだと言われている。このうち、暗黒エネルギーは宇宙の膨張が加速していることと関係しているのだそうだ。遠方で起きた超新星爆発の明るさが予想よりも暗いことから膨張が加速していると考えられるそうだ。しかし、これも「時間が縮む」ことに強引にこじつけて考えることができなくもない。遠い超新星爆発からの光が地球に到達するまでの間に時間の幅が変化すると、振動数に端数が生じた光が見えなくなって暗くなるということはないだろうか(超こじつけ)?

 僕がこんなことを考えるようになったのは、ふと下の図のような「時間の収縮」の様子が頭の中に浮かんだからだ。



 もしかしたら神は最初から<初め>と<終り>を融合させる計画の下に天地を創造したのではないだろうか?新約聖書のヨハネの黙示録で神は仰せられた。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)

 この神のことばは<初め>と<終り>の融合を意味しているのではないだろうか?ヨハネは、幻の中で聖なる都が天から降って来るのを見た。

「私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。」(黙示録21:1-2)

 天から都が地に降って来ることもまた、<初め>と<終り>の融合を表しているのではないだろうか?創世記2章のエデンの園の光景と、黙示録21章・22章の新天新地の光景は、とても良く似ている。これらのことは、神が最初から<初め>と<終り>の融合を計画していたことを示しているのではないだろうか?

 もし<初め>と<終り>が融合へと向かっているとしたら、時間は収縮していることになる。時間が収縮すると忙しくなって人々は混乱する。ホモ・サピエンスが大きな脳を持ち、様々な技術を発展させて来たのは、この時間の収縮に適応するためではないだろうか?コンピューターの登場も、時間の収縮に適応し切れなくなっている人間の脳を助けるためなのかもしれない。そうして計算速度はどんどん上がっている。しかし、時間が収縮し続けるなら、いつか破綻することになる。今は量子コンピューターの開発が進められている。量子の重なり合いを利用することで計算速度は飛躍的に向上するそうだ。当分の間はそれでしのげるのかもしれない。でもやっぱり、いつかは破綻する。それが<終り>の時であろうか?

 終末が近づく時、「大きな苦難がある」とイエス・キリストは警告している。

「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」(マタイ24:21)

 今の僕たちが生きている21世紀の前半では、上図の時間軸上の長さはあとどのくらい残っているのだろうか?極めて短ければ、苦難の時はすぐそこまで迫っていることになるし、長ければ当面はその時は来ない。いずれにしても未来の<終り>の時は、刻一刻と近づいている。このように未来が近づくことは、僕たちが感じている「時間の流れ」とも一致する。

 一方で、上図によれば過去にある<初め>の時も近づいて来ている。これは、「過去は遠ざかる」と感じる一般的な時間観とは逆向きではないだろうか?

 この「過去が近づく問題」は、次のように考えたらどうだろうか。僕たちの人生の範囲内の数十年レベルでは、確かに過去は遠ざかる。しかし、数百年、数千年、数万年、数億年のレベルでは歴史を知ることで過去は近づく。既存の知識であれば本などで過去を学べば過去は近づく。未知の過去であっても研究が進めば明らかになり、そのことによって過去は近づく。かつて人類は恐竜の時代のことを知らなかった。しかし恐竜の化石の発見によって、恐竜が生きていた過去の時代を近くに感じるようになった。地球の起源や歴史も、研究が進めば進むほど身近に感じるようになり、過去が近づいて来る。

 時間の収縮はまた、<秩序⇒無秩序>のエントロピーが増大する方向とも一致している。時間が足りなくなって忙しくなった様子は物質の原子・分子が温度の上昇に伴って激しく動くようになり、固体⇒液体⇒気体へと変化する様子を想起させる。物質の原子や分子は液体・気体になることで自由に動き回ることができるようになって、よりエントロピーが増大する方向に向かう。地球の温暖化もエントロピーの増大のゆえに、避けられないことなのだろうか?

 <初め>と<終り>が融合する直前は混乱が極まり、イエス・キリストが上記のマタイ24:21で警告したような「大きな苦難がある」のだろう。悪魔はこの混乱に乗じて世界を征服しようと戦いを挑む。それが黙示録16章のハルマゲドンの戦いということではないか。この苦難には誰もが巻き込まれる。しかし神に立ち返り、イエス・キリストに付き従う者は黙示録21章・22章の新天新地へと招き入れられる。新天新地においては、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。黙示録21章に記されていることばの通りだ。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 神は彼らの目から
 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
 もはや死はなく、
 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
 以前のものが過ぎ去ったからである。」
(黙示録21:3-4)

 コロナ禍によって経済活動が停滞することは、神に立ち返るために与えられた機会なのかもしれない。

 『キリストと時』の著者のオスカー・クルマンは「←→」というように矢印が外方向を向く時間軸の図を描いた(p.68)。それぞれの矢印が向かうのは「永遠の過去」と「永遠の未来」だ。すなわち、

永遠の過去 ← → 永遠の未来

という図式だ。この図式の意味するところは、イエス・キリストを信じて「永遠の命」を得た者は、未来を永遠に生き続けるということだろう。そして、そう信じているクリスチャンもきっと多いことだろう。

 しかし、この図では<終り>の時がどこにあるのかが、今ひとつ明白ではない。また、軸が延びれば延びるほど神の存在が希薄になるように感じる。その神の存在の希薄化の行き着いた先が、『ホモ・デウス』の著者のユヴァル・ノア・ハラリが指摘する今日のデータ至上主義ではないか。神の希薄化によって人類の多くがコンピューターに支配されつつある。

 だから「永遠」とは、

初め → 永遠 ← 終り

というように、<初め>と<終り>が融合して神の存在が凝縮されたところにあるべきだ。創世記と黙示録が近づけば近づくほど神の存在が濃厚になる。それでこそ僕たちは「永遠」への希望を持って今を生きることができ、心の深い平安を得ることができる。この平安はコンピューターによっては決して与えられない深いものだ。

 創世記と黙示録は互いに近づいているのか、それとも遠ざかっているのか、或いは近づきも遠ざかりもしていないのか、ぜひ皆さんも思いを巡らしてみて下さい。もしまだ聖書を読んだことがないのなら、創世記の1章・2章と黙示録21章・22章だけでも、読んでみることをお勧めします。時間の収縮の有無に関わらず、僕たちが住む世界の<初め>と<終り>が、ここには記されているのだから。(続く 次回は9/15頃の予定です)

参考図書(新しい順)
・吉田伸夫『時間はどこから来て、なぜ流れるのか? 最新物理学が解く時空・宇宙・意識の「謎」』(講談社ブルーバックス 2020)
・カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(冨永 星・訳、NHK出版 2019)
・ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来 上・下』(柴田裕之・訳 河出書房新社 2018)
・小島 聡『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」 平和の実現に必要な「永遠」への覚醒』(ヨベル新書 2017)
・村山 斉『宇宙は本当にひとつなのか 最新宇宙論入門』(講談社ブルーバックス 2011)
・ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体・上』(青木 薫・訳 草思社 2009)
・オスカー・クルマン『キリストと時』(前田護朗・訳 岩波現代行叢書 1954)

September 2021  S. Kojima
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