ヨハネの福音書が
旧約の時代(父)
イエスの時代(子)
使徒の時代(聖霊)
イエスの時代(子)
使徒の時代(聖霊)
の三層構造を持つことを10年前から僕はブログや著書や説教などを通じて説明し続けている。三層構造を知ることは父・子・聖霊の三位一体の神の理解を深めることにもつながる。それゆえ、ヨハネの福音書が三層構造を持つことの重要性をもっと多くの人々に知ってもらいたいのだが、未だに少数の人としか分かち合えていない。
そこで話をもう少し分かりやすくするために、今回はコーヒー牛乳(コーヒー・ミルク・砂糖)とLED照明(赤・緑・青)のたとえを使って、三層構造の重要性を説明してみたい。
コーヒー牛乳のたとえ
まずはヨハネの福音書をコーヒー牛乳にたとえてみよう。子供の時、僕はコーヒー牛乳が大好きだった。コーヒー牛乳は普通の牛乳よりも甘くておいしい。子供の僕はコーヒー単独の味を知らなかったから、コーヒー牛乳がコーヒー・ミルク・砂糖の三つの主成分から成ることなど、全く意識していなかったと思う。これはヨハネの福音書が旧約の時代(父)・イエスの時代(子)・使徒の時代(聖霊)の三つの層から成ることを意識していないのと同じだ。これはこれで、もちろん構わない。コーヒー牛乳はおいしいし、ヨハネの福音書は恵み豊かな書だ。三つに分解して考えなくても、十分に恵みを味わえる。
でも大人になって、コーヒーとミルクと砂糖の組み合わせによって味が全く変わることが分かるようになった。そして、コーヒー牛乳はミルクと砂糖が多めでコーヒーは少なめであることを知った。さらに自動販売機の缶コーヒーは、コーヒーと砂糖が多めでミルクが少ないことも分かるようになった(今は微糖や無糖、ミルクの多いものなどいろいろある)。また、コーヒー単独だと苦味がきついものの、苦味もまた大人の味として楽しめるようになった。こうして、子供の頃にはコーヒー牛乳しか知らなかった僕は大人になってから、コーヒーをより深く味わえるようになった。
ここで、旧約の時代(父)を砂糖に、イエスの時代(子)をコーヒーに、使徒の時代(聖霊)をミルクにたとえてみよう。イエスの地上生涯は苦味に満ちていたから、イエスの時代をコーヒーにたとえるのが一番分かりやすいだろう。また、聖霊は信仰を育むから、ミルクにたとえたい。父の愛は甘いから、砂糖が良いだろう。
旧約の時代(父)=砂糖
イエスの時代(子)=コーヒー(苦味)
使徒の時代(聖霊)=ミルク
イエスの時代(子)=コーヒー(苦味)
使徒の時代(聖霊)=ミルク
さて、『時間の黙示録』の連載の前回は、ヨハネ11章の涙を流すイエスは、旧約の時代と使徒の時代に滅亡したエルサレムの廃墟を見たイエスの涙であることを書いた。
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)
この涙を流すヨハネ11:35のイエスはエルサレムが滅亡した旧約の時代と使徒の時代にいる。つまりヨハネの福音書は砂糖(旧約の時代)とミルク(使徒の時代)の成分のほうがコーヒー(イエスの時代)の成分よりも多いコーヒー牛乳だ。
一方、マタイ・マルコ・ルカの福音書はコーヒー(イエスの時代)の成分が多いために、とても苦い。特に受難の場面はマタイ・マルコ・ルカのほうがヨハネよりも遥かに苦い。しかし、読めば分かるように旧約の時代(砂糖)と使徒の時代(ミルク)の成分も含まれているから、マタイ・マルコ・ルカの福音書は決して苦いばかりの書ではなくて、もっとマイルドな味わいになっている。
このように、マタイ・マルコ・ルカの福音書もまた実は父・子・聖霊の三つの成分から成ることが、ヨハネの福音書の三層構造を知ることで分かるようになる。そして、イエスの苦い生涯、父の愛の甘さ、信仰を育む聖霊のミルクの豊かさも、より深く理解できるようになる。
LED照明のたとえ
次に、ヨハネの福音書をLED照明にたとえてみよう。LED照明は寿命が長くて消費電力も少ないから、今は白熱灯や蛍光灯がLED照明に次々に置き換わっている。今の子供たちは、かつての照明は白熱灯や蛍光灯が主流であったことなど知らないかもしれない。
さて、白色LED照明の恵みは光の三原色である赤色・緑色・青色のLEDの三つがそろって初めて、もたらされた。この中でも青色LEDの開発には特に苦労が多かったことが、2014年のノーベル物理学賞が赤﨑 勇氏・天野 浩氏・中村 修二氏の日本人3名に授与されたことで、一般にも広く知られるようになった。この青色LEDの開発に多くの苦労があったことを我々は決して忘れてはならない。単純に白色LED照明の恩恵に浴しているだけでなく、どのようにして青色LED開発の困難を克服して行ったのかを、しっかりと継承して行くべきだろう。
同様に、我々は単純に三位一体の神の恩恵に浴するだけでなく、イエスの受難を経て聖霊の恵みがもたらされたことを忘れてはならない。聖霊の恵みは青色LEDの恵みのようなものだ。旧約の時代においては神の恵みはイスラエルの民にしか届いていなかった。それは律法の恵みで、必ずしも十分な恵みではなかった。それが使徒の時代になって、イエスを信じる者には誰でも聖霊が注がれるようになって、十分な恵みが届くようになった。しかし、そのためにはイエスの苦い受難を経なければならなかった。このように神の恵みをより深く知るには、旧約の時代のこと、イエスの時代のこと、使徒の時代のことのそれぞれを知る必要がある。ただし、聖書にはこれらの時代のことが重なり合って書かれている。重なりをそのまま味わっても良いのだが、それぞれの時代の味わいを分離できれば、より深く味わうことができるであろう。
ルカもヨハネもパウロも、十字架の受難だけでなく、聖霊の恵みも読者に伝えようとしている。聖霊の力によって、読者は様々な困難を克服して行くことができる。一方的に注がれる神の愛の恵みに浴することは、もちろん素晴らしいことだ。しかし、それだけでは強固な信仰は育まれない。困難に遭っても簡単には心が折れない信仰を育むには、聖霊のミルクをたっぷりと飲んで成長する必要がある。それには、どの書にどれくらい聖霊のミルクの成分が含まれているかを知ることもまた必要だと思う。ヨハネの福音書の三層構造を理解するなら、聖書のそれぞれの書に聖霊の成分がどれくらい含まれているかが段々と分かるようになる。
たとえるなら、旧約の時代は赤色LED(律法)の時代、イエスの時代は他の色のLEDが開発されながらも青色LEDには苦闘していた時代、使徒の時代は青色LED(聖霊)によって白色LEDの恩恵に浴している時代であると言えよう。現代もまた使徒の時代の延長上にある。その中にあって我々は、赤・緑・青のそれぞれの色のLEDの恵みも忘れないようにしたい。
赤色LED(律法)だけでも、それは大きな恵みであった。その旧約の時代の律法の恵みから、さらに大きな恵みを目指して他の色のLEDが開発されて行った。しかし、青色LEDの開発には苦難が伴った。それは受難に遭ったイエスの苦い時代でもある。このイエスの受難があったからこそ、使徒の時代に聖霊のミルクが注がれた。三位一体の神の恩恵を受けている我々は、このことを決して忘れずにいて、次世代へと継承して行かなければならない。(終)