平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

聖所を造って神を知った民(2016.2.28 礼拝)

2016-02-29 09:16:39 | 礼拝メッセージ
2016年2月28日礼拝メッセージ
『聖所を造って神を知った民』
【出エジプト1:1~7、40:34~38】

はじめに
 前回の礼拝メッセージでは、出エジプト記40章の33節までを読みました。先週のメッセージを準備している段階で、34節から38節までを余らせると中途半端だから全部読んでしまおうかとも思いました。それでどうしようかと少し悩みましたが、34節から38節までは読まずに取っておいて、きょう改めて開くことに決めました。そして、出エジプト記の全体を振り返る機会としたいと思いました。
 そういうわけで、きょうの聖書箇所は出エジプト記の全体です。聖書朗読では司会者に出エジプト記の最初の段落と最後の段落とを読んでいただきました。

出エジプトの出来事の始まり
 早速、出エジプト記の1章を見ることにしましょう。ご承知の通り、出エジプト記の前の書の創世記は、ヤコブの一家がエジプトに移住して、その後にヤコブとヨセフが死んだところで終わります。創世記49章でヤコブが死に、50章でヤコブの息子のヨセフが死にました。そうして出エジプト記に入ります。出エジプト記1章1節、

1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。

 そして2節以降にヤコブの12人の息子たちの名前が挙げられています。この12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先となりました。そして6節と7節、

1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。

 出エジプトの出来事はここから始まります。8節、

1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

 ヤコブの息子のヨセフは、エジプトがききんで困らないように豊作の間に食糧を備蓄する政策を進めることでエジプトを救いました。ですからヨセフはエジプトの恩人でした。エジプトにいるイスラエル人たちは皆、そのヨセフの親族でしたから、王たちがヨセフのことを知っている間はイスラエル人に苦役を強いることはありませんでした。しかし、8節にあるようにヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こり、王はイスラエル人を奴隷にして苦役を与えるようになりました。
 ページをめくっていただいて2章23節から25節、

2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

 こうして神は、モーセをリーダーに任命してイスラエル人の全体をエジプトを脱出させるという大事業を始めました。この出エジプトの出来事でエジプトを脱出したイスラエル人は何人ぐらいいたのでしょうか。女子供や老人を含めた正確な数はわかりませんが、軍務に付くことができる二十歳以上の男子の数は60万3550人であったと民数記の1章に書いてあります。民数記の1章には部族ごとの人数が記されていて、これらの数を足すと、確かに60万3550人になります。ただし、この人数には軍務に付かない女性や子供、老人、そして祭司職のレビ人は含まれていません。これらの軍務に付かない人々も含めると二百万人ぐらいになるのでしょうか。
 沼津市の人口がだいたい20万人ぐらいだそうですから、その10倍もの数のイスラエル人たちがエジプトを脱出したことになります。このようなことは、神にしか為しえないことでした。人間業では、とうてい無理なことでした。
 こうしてイスラエルの民は出エジプトの出来事を通して神を知りました。エジプトを脱出する前も、人々はイスラエルの神のことを言い伝えを聞いて知識としては知っていたと思います。しかしヤコブの息子たちが死んでからおよそ400年が経っていましたから、イスラエルの人々にとっての神は、単に自分たちの親が礼拝しているから自分も礼拝する、という程度のことで受け継がれていたのではないかと思います。自分たちの生活に神が深く関わっているという実感をほとんど持っていなかったはずです。しかし、イスラエルの人々は出エジプトの出来事によって神を知ることになりました。

イスラエルの民の濃厚な神体験
 この出エジプト記には民が経験したことが、たくさん書かれています。そして、ここに記されていることの大半は、わずか1年の間に起きたことです。モーセが生まれてから80歳になるまでのことも記されていますから、その期間も含めれば80年以上ということになりますが、出エジプト記3章から40章までの期間はわずか1年程度でしかありません。ですから、出エジプトの出来事で民は本当に濃厚な体験をしたことになります。
 きょうはこれから、イスラエルの民が経験したことを、出エジプト記を見ながら少し辿ってみたいと思います。
 まず強烈だったのが、神がエジプトに与えた十の災いですね。出エジプト7章19節をお読みします。

7:19 【主】はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」

 もう少し見てみましょう。8章5節、

8:5 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」

 8章16節、

8:16 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」

 ここまでで三つの災いがエジプトを打ちました。このぶよの後も主は、エジプトをあぶ、家畜の疫病、腫物、雹、いなご、暗闇で打ち、最後に全エジプトを初子の死で打ちました。この初子の死をイスラエルの家では過越によって免れて、ここに至ってエジプトの王のパロはようやくイスラエル人にエジプトから出て行くよう、命じました。12章31節です。

12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、【主】に仕えよ。

 こうしてイスラエルの民はエジプトを出て行くことができましたが、皆さんご存知の通り、この後でパロの軍勢がまた追い掛けて来るのですね。この時、イスラエルの人々は海に行き手を阻まれていましたから、追い詰められそうになります。その時、14章21節の奇跡が起きました。14章21節、

14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。

 こうしてイスラエルの人々は海の中にできた道を進むことができ、彼らが海を渡りきった後で海が元どおりになりましたから、パロの軍勢は海の水に飲み込まれてしまいました。そして14章31節、

14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。

 ここまでだけでもイスラエルの民はすごい経験をしました。しかし、彼らはまだまだ色々なことを経験します。16章で主は天からマナを降らせました。17章では主は岩から水を出して民に与えました。またイスラエルの民は17章の後半ではアマレクとの戦いも経験しました。このアマレクとの戦いにイスラエルはモーセが手を上げることで勝つことができました。そして、20章からは神が十戒を始めとする律法を授けたことが書かれています。
 このようにイスラエルの人々が経験したことをまとまった形で見ると、神がイスラエルの人々をいかに大事に守り、導いて来たかということがわかると思います。

幕屋造りを通してより深く神を知った民
 こうしてイスラエルの人々は神の御業を通して神を知りました。しかし私は、先週までの学びを通して、イスラエルの民が本当に神を知ったのは神の御業を通してではなく、彼らが聖所である幕屋を自分たちの手で造ることによってではなかったかと感じています。
 何度かご一緒に見ていますが、25章8節で、主は、

25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

と仰せられました。イスラエルの民が自分たちの手で聖所を造り、そのことで主が彼らの中に住み、そうして主を知ったと言えるだろうと感じています。
 これまでの礼拝メッセージで見て来たように、主は幕屋の造り方を細かくモーセに伝えました。この間にイスラエルの民は金の子牛の像を造って礼拝するという大事件を起こしますが、悔い改めて主の命令の通りに幕屋造りを丁寧に行い、幕屋が完成しました。
 そして40章34節、

40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。

 こうして「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と主が仰せられたことが成就しました。ただし主は宇宙サイズのお方ですから、小さな幕屋の中に主が完全に入って納まったなどとは決して思わないで下さい。主は広く遍く遍在しておられますから、どこにでもおられます。ダビデの息子のソロモンも神殿が完成した時に、次のように言っています。

Ⅰ列王8:27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

 ですからモーセの幕屋に主の栄光が満ちた時も、主が完全にこの中に納まったわけではありません。上手く言えませんが、主は広く遍く存在しつつも、この時は幕屋の所に主の存在が格別に濃く現れたということでしょう。こうしてイスラエルの民が主のために聖所を造り、主は彼らの中に住むようになりました。
 これは主とイスラエルの民との関係という意味で大きな変化であると言えると思います。それまでイスラエルの民は、主が一方的に与える恵みをただ受けてエジプトから出て来ました。過越の恵みを受け、海が割れる恵みを受け、天からマナが降る恵みを受け、岩から水が出る恵みを受け、そして律法も受け取りました。律法もまた恵みです。そうやって、主が与えて下さる恵みを一方的に受け取って来ました。
 しかし幕屋はイスラエルの民が造りました。造り方は主が教えましたが、手を動かしたのはイスラエルの民たちでした。そうして心を込めて造った幕屋の中に主が入り、栄光が現されました。このように自分たちの手で造った幕屋に主の栄光が現されたことはイスラエルの民にとっては大きな感動だったことでしょう。こうして主とイスラエルの民との間に新しい関係が築かれました。

おわりに
 私たちが新しい礼拝堂を建設することも、主と私たちとの間に新しい関係が築かれることなのだということを今回私はとても強く感じています。会堂建設以外の日々の信仰生活では、私たちはただ一方的に主の恵みを受けながら日々を歩んでいます。しかし、主の宮である会堂を私たちの手で建設するということは、普段の信仰生活における主と私たちとの関係とはぜんぜん違う関係だなと感じています。そして、このような機会をいただけていることに特別な恵みを感じています。
 私たちはこの特別な恵みをしっかりと感じながら、礼拝堂の設計と建設に取り組んで行きたいと思います。そうして主に導かれながら信仰の歩みを進めて行きたいと思います。
 最後に出エジプト記40章の36節から38節までを交代で読んで終わることにしましょう。

40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

 お祈りいたしましょう。
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子供と大人(2016.2.24 祈り会)

2016-02-25 09:08:46 | 祈り会メッセージ
2016年2月24日祈り会メッセージ
『子供と大人』
【民数記11:4~6、マルコ10:13~16、ヨハネ3:1~10】

はじめに
 きょうは、たくさんの箇所を先ずご一緒に読むことにしています。聖書を読むことに少し時間を使いますから、きょうのメッセージでは、あまり長い説明をせずに、いま私が持っている問題意識を分かち合う程度にしたいと思っています。そして、来週以降に、この問題意識をもっと掘り下げることができたら良いなと思っています。と言っても、掘り下げることは難しいとも思っていますので、単にどんな問題意識を持っているかの紹介だけで終わってしまうのかもしれません。
 いずれにしましても、先ずはきょうの聖書箇所をご一緒に見たいと思います。

【民数記11:4~6】
11:4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。
11:6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

【マルコ10:13~16】
10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

【ヨハネ3:1~10】
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

子供と大人
 今ご一緒に読んだ箇所は、三つとも「子供と大人」に関係した箇所です。
 どうして、この三つの箇所を取り上げたのか、いま私が取り組み始めていることと、その取り組みによって感じ始めている問題意識とを分かち合いたいと願っています。
 去年の11月に藤本先生の『聖書信仰 その歴史と可能性』という本が出版されました。その本を読んで、私はこの本を足掛かりにして、ヨハネの福音書とはこういう書だと説明する本を書く構想を練り始めました。今までは、土台にできる参考文献が無いと感じていましたが、ようやく土台にできる本が現れたと思って私はうれしく思っていました。しかし、間もなく私は行き詰まりました。やはり私自身にあまりにも文系の素養が不足しているということを思い知らされました。先生たちと同じ土俵の上で物事を論じるために必要な神学の知識、聖書学の知識、哲学の知識、その他もろもろの知識が不足していますし、緻密に論理を積み上げて行く文章力も私には不足していることを、つくづく思い知らされました。
 私がヨハネの福音書とはどういう書であるかということの啓示を受けてから、今年のペンテコステを越えると5年になります。この5年間、どうやったら多くの人にわかってもらえるか、いろいろ試行錯誤を重ねて来ましたが、今回、『聖書信仰』を土台にすることに行き詰ったことで、メインのターゲットを変更すべきことを示されています。それはターゲットを大人ではなくて中高生ぐらいに変更することです。今までも、A姉からは、私のヨハネの福音書の話は中高生ぐらいの方が理解できるんじゃないですか、と言われてはいました。でも私としては大人にわかってもらいたいという思いがずっとありました。もちろん今でも、それはありますが、しかし、そのことで話を却ってわかりづらくしてしまっていたかもしれません。
 いま私は中学生を主人公にして、中高生をメインターゲットにしたファンタジー風の書き物を書いています。2001年生まれで今年15歳になる中学生が主人公ですが、この主人公はヨハネの福音書の記者のヨハネがもう一度この世に生まれて、現代人の私たちに、自分はヨハネの福音書をこういうつもりで書いたということを説明しているフィクションです。フィクションですから、学術的な事柄は問題にならないわけです。ただ、主人公は中学生ですから、あまりに大人びた表現になってしまっては困ります。そこに難しさを感じています。しかし、あまり細部にこだわるとなかなか前に進みませんので、大人びた表現になってしまっていても、今はとりあえず前に進んで完成させることを優先して、おしまいまで書き終わったら、また始めに戻って中学生らしいものに、できるだけ近づけたいと思っています。
 そうして今、中高生をメインターゲットにして書いていて、確かにこの話は若い人のほうがわかってもらいやすいかなと感じています。そのようにして新たな気付きも与えられていますから、きょうは、そのことを少し分かち合えたらと願っています。

子供のほうが受け入れやすい霊的な世界
 きょうの聖書箇所で最初に開いたのは、民数記11章です。ここでイスラエルの民は、
「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」
とわがままを言いました。彼らは大人でしたが、信仰レベルとしては2~3歳の子供でした。2~3歳の子供というと、今のR君であり、少し前のS君です。S君は信仰の事が少しずつわかるようになって来ているようですが、R君のほうは、まだまだこれからです。イスラエルの民の信仰のレベルは、この2~3歳の子供のようなものです。
 しかし、一方でイエスさまは「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」(マルコ10:14)とおっしゃいました。これは一体どういうことでしょうか。最近放送されたライフラインでも、教会付属の幼稚園が紹介されて、このみことばが引用されていました。テレビで天真爛漫な子どもたちの様子を見て、こういう子どもたちのほうが神の国を受け入れやすいのだろうなということが実感としてわかりました。S君とR君を見ていても、そう思います。彼らはやんちゃですが、神の国を受け入れやすい心を持っていると思います。
 そこで私が持つ問題意識は、私たち大人のほうこそ気を付けていないと、大人の論理で子どもたちを型にはめ込んでしまって、却って子どもたちを神の国から遠ざけてしまうことになるかもしれないということです。
 ここに今年のカレンダーの絵があります。この絵には、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」というみことばが添えてあります。私は、この絵はちょっと違うんじゃないかな、という気がしています。と言うのは、ここにいる子どもたちは、とても大人しいからです。私はイエスさまのところに来たのは、この絵のような大人しい子どもたちではなくて、もっとS君・R君のようにやんちゃな子どもたちだったのではないかと思います。だから弟子たちが連れて来た人々を叱ったのではないかという気がします。
 この絵の大人しい子どもたちは、どこか大人びています。「おとなしい」の漢字は「大人」という字を使っています。「大人しい」は「大人らしい」が原義であると辞書(デジタル大辞泉)には書いてあります。と言うことは、この絵の大人しい子どもたちは子どもらしくないということです。この絵には、キリスト教を子どもをしつけるための道徳教育に用いている西洋のにおいが漂っているように私には感じます。
 キリスト教は、本来は霊的な喜びを感じることができる教えであるのに、子どものしつけに用いることで霊的な喜びを奪ってしまっている面があるのではないかという気がします。それは場合によっては教えている大人自身があまり霊的な喜びを感じていないから、ということもあるかもしれません。この絵からは、何となくそんな感じを受けます。
 子どもたちは本来は霊的な感受性が非常に高いはずです。だからこそ、イエスさまは、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはでいません」とおっしゃったのではないかと思います。大人はいろいろな知恵が付くと霊的な感度が鈍くなります。その鈍い感度の霊性で子どもたちを教えてはならないのだと思います。

大人になると鈍る霊的な感度
 大人になって知恵が付くと霊的な感度が鈍くなることは、ニコデモからもわかります。ヨハネの福音書3章です。イエスさまはニコデモに言いました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 しかし、ニコデモは言いました。
「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
 そんなニコデモにイエスさまは言いました。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」

 残念ながらニコデモには霊的なことがわかっていませんでした。ですから霊的な喜びもわかっていませんでした。
 私はキリスト教は、もっと霊的な喜びを伝えるものでなければならないと思います。と言っても私は熱狂的な信仰や陶酔的な信仰を勧めているわけではありません。霊的な喜びというのは、ジワ~ッとした温かさを感じる喜びだと私は感じています。ウェスレーがアルダスゲイト街で感じた不思議に熱さも、そのような霊的な喜びであったと思います。
 キリスト教を道徳教育やしつけのための道具にするのではなく、霊的な喜びを伝えられるものにするには、どうしたら良いのか、このことについては、また次週以降に分かち合うことができたらと願っています。
 お祈りいたしましょう。
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神と一つになる信仰(2016.2.21 礼拝)

2016-02-22 13:46:06 | 礼拝メッセージ
2016年2月21日礼拝メッセージ
『神と一つになる信仰』
【出エジプト40:17~33】

はじめに
 きょうの礼拝後に予定している新しい礼拝堂の設計案の説明と意見交換の会は、当初は先週予定していたものでしたが、先週は前夜から天気が荒れてところへ朝になって大雨警報と洪水警報とが発令されましたから、急遽説明会の開催を一週間順延することにしました。
 ただ、説明会は延期にできましたが、私が準備していた礼拝メッセージの原稿は簡単には変更できません。原稿は、説明会に向けて心を整える趣旨のものでしたが、そのまま準備したメッセージを語らせていただきました。そういうわけで、きょうのメッセージは先週と重複する部分が多くあると思いますが、ご容赦願いたいと思います。

一つ一つの作業で回復させて行った神との関係
 さて先週は出エジプト記の26章の記述と36章の記述とを比べることをしました。26章から30章までには幕屋の造り方が細かく詳しく書いてあります。主はモーセに、幕屋はこのように造らなければならないということを細かく伝えました。そして、36章から39章までには、イスラエルの民が幕屋を主の指示通りに忠実に一つ一つ丁寧に造っていったことが書かれています。この36章からの記述を見ると、イスラエルの民が主の命令を一つも疎かにせず、本当に丁寧に幕屋造りを行ったことがわかります。しかし、それにしても、この一つ一つの部品に関する説明は全部書くと非常に長くなりますから、2回も同じことを書く必要があったんだろうかという疑問を私は表明しました。「イスラエルの民は主の命令の通りに幕屋を造った」と書けば、一言で済むじゃないかという話をしました。
 しかし聖書はそのようにはせず、イスラエルの民が主が命じた幕屋の造り方を忠実に守ったことを、長い長い記述で表しました。それは一体なぜなのかを私は考え、一つ一つの作業がイスラエルの民の悔い改めの表明だったのではないかということを話しました。
 モーセがシナイ山に登って主から幕屋の造り方の指示を受けていた時、イスラエルの民は金の子牛の像を作って礼拝するという大事件を起こしてしまいました。このことに主とモーセは大変に怒り、およそ三千人が倒れました。 イスラエルの民が幕屋造りに取り掛かったのは、この大事件の後のことでしたから、幕屋造りの一つ一つの作業が悔い改めであり、これらの一つ一つが主との関係を回復する過程であったのではないかという話をしました。
 新約の時代の私たちは、神から離れていたことを悔い改めてイエス・キリストを信じるなら聖霊が注がれますから、そのことによって神との関係が回復します。聖霊は私たちの内に入って下さり、私たちの罪をきよめて下さいますから神との関係が回復します。しかし、旧約の時代においては聖霊が注がれたのはモーセなど一部の預言者たちだけでした。ですから聖霊が注がれなかった一般の民は、主の命令に忠実な作業を一つ一つ行っていくことで神との関係を回復して行ったのではないかと思います。

主が命じられた通りの幕屋の組み上げ
 きょうの聖書箇所の出エジプト記40章も、同じことを感じさせてくれる箇所です。司会者に朗読していただいたのは17節からでしたが、1節から見て行きたいと思います。出エジプト記40章の1節から8節までを交代で読みましょう。

40:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
40:2 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。
40:3 その中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前を仕切り、
40:4 机を入れ、その備品を並べ、燭台を入れ、そのともしび皿を上げる。
40:5 あなたは香のための金の壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入口に掛ける。
40:6 会見の天幕である幕屋の入口の前に、全焼のいけにえの祭壇を据え、
40:7 会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。
40:8 回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。

 今週はまた週報のp.3に幕屋の構造図を載せましたが、今ご一緒に読んだ箇所には、主がイスラエルの民に対して、この図のように幕屋を建てることを命じました。ここを読んで私たちは、幕屋はまだ建てられていなかったのだということを知ります。36章から39章までにイスラエルの民が幕屋を一つ一つ造って行った様子が描かれていますが、これはまだパーツを造っていただけで、まだ全体が組み上げられていたわけではなかったのですね。
 しかも、この40章の前半は幕屋を組み上げなさいという主の命令で、実際に組み上げて行ったのは、後半の17節からです。ここへ来て初めて、幕屋の造り方を記した出エジプト記の後半の全体像が見えて来ます。出エジプト記の26章から30章までは幕屋のパーツの造り方に関する主の命令であり、36章から39章まではイスラエルの民が主の命令の通りに幕屋のパーツを造ったことが記されています。そして40章の前半で主はパーツを組み上げるように命じ、40章の後半でイスラエルの民はパーツを組み上げました。
 40章17節、

40:17 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。

 続いて18節から33節までを交代で読みましょう。18節は私が読みます。

40:18 モーセは、幕屋を建てるとき、台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、
40:19 幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:20 また、彼はさとしを取って箱に納め、棒を箱につけ、「贖いのふた」を箱の上に置き、
40:21 箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:22 また、彼は会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の北のほうの側で垂れ幕の外側に、机を置いた。
40:23 その上にパンを一列に並べて、【主】の前に供えた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:24 彼は会見の天幕の中、机の反対側の幕屋の南側に、燭台を置いた。
40:25 そうして彼は【主】の前にともしび皿を上げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:26 それから彼は、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の壇を置き、
40:27 その上でかおりの高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:28 彼は、幕屋の入口に垂れ幕を掛け、
40:29 全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:30 また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。
40:31 モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。
40:32 会見の天幕に入るとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。

 いま皆さんに読んでいただいた節には、「【主】がモーセに命じられたとおりである」とう表現が繰り返し使われていましたね。今の箇所には全部で7回も、「【主】がモーセに命じられたとおりである」と書かれていました。私はこれらの7回の「【主】がモーセに命じられたとおりである」を見て、こうして聖霊が注がれていなかったイスラエルの一般の民は主と一つになっていったのだなと思いました。
 預言者エリシャの時代のアラムの将軍ナアマンは、七度ヨルダン川に身を浸すことで体がきよくなり、心も神様と一つになることができました。ナアマンも預言者ではありませんでしたから、聖霊は注がれていません。ましてナアマンはアラムの将軍でしたからイスラエル人ではありませんでした。ナアマンのような外国人や、罪を犯したイスラエル人は、七度きっちりと神様と向き合わなければ、神様と一つになることができなかったのだなと思うことです。 私たちも外国人であり、罪を犯した者たちですが、聖霊が注がれる新約の恵みのおかげで七度も富士川や狩野川に身を浸すようなことをしなくても良いですから、感謝なことだと思います。

新約の時代の恵みの素晴らしさ
 新約の時代の私たちは、一度心の底から悔い改めてイエス・キリストを信じるなら聖霊が注がれて神様と一つになることが可能になることは、何と素晴らしい恵みでしょうか。
 先週、黙示録の3章を開きましたが、もう一度ご一緒に見たいと思います(新約聖書p.480)。黙示録3章19節と20節を交代で読みましょう。

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 私たちが熱心になって悔い改めるなら、主は私たちとともに食事をして下さり、私たちもまた主とともに食事をする関係に入ることができます。主が私たちに働き掛けて下さり、私たちもまたその主の働き掛けに応答します。こうして私たちは主と一つになることができます。主と向き合って食事をすることは、主と一つになることの象徴と言えるでしょう。
 今週もまた週報のp.3に桂町教会の礼拝堂の写真を載せました。桂町教会の礼拝堂には常時、洗礼盤と聖餐テーブルが置かれています。私は、私たちが新しく建てる礼拝堂にも、できることなら常時洗礼盤と聖餐テーブルとが備えられていたら良いなと思っています。
 洗礼盤が常時置いてあるということは、教会を訪れた者にはいつでも悔い改めの機会が与えられており、洗礼の恵みに与る機会が与えられているということです。そうして洗礼を受けるなら聖餐の食事の恵みに与ることができます。主とともに食事をするということは、主と一つになるということです。これは素晴らしい恵みです。今年に入ってからの出エジプト記の学びを通して、私たちはこのことを新たに学ぶことができましたから、大変に感謝に思っています。

おわりに
 最後に、礼拝でよく開くヨハネ17章をご一緒に読んでメッセージを閉じたいと思います(新約聖書p.216)。イエスさまは、13章からの最後の晩餐をこの17章の父への祈りで締めくくっています。最後の晩餐は言うまでもなく食事の場でした。この聖なる食事を締めくくる最後の祈りでイエスさまは私たちが主にあって一つになるように祈って下さいました。このイエス様の祈りによって私たちは一つになり、神様とも一つになれる素晴らしい恵みをいただいていることを、心から感謝したく思います。17章の20節から23節までを交代で読んで、礼拝メッセージを終わります。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 お祈りいたしましょう。
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きょうの隣地(2016.2.21)

2016-02-21 20:49:03 | 折々のつぶやき
 きょうは礼拝がありましたから、教会員の皆さんの車があります。

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きょうの隣地(2016.2.19)

2016-02-19 19:13:45 | 折々のつぶやき
 富士山は昼頃には雲に隠れていることが少なくありませんが、きょうは昼近くでもきれいに見えていました。

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注意深く聖務に臨む(2016.2.17 祈り会)

2016-02-18 09:06:08 | 祈り会メッセージ
2016年2月17日祈り会メッセージ
『注意深く聖務に臨む』
【マラキ1:6~14】

 先週の土曜日に駐車場に砕石を入れました。このような作業を発注するのは私にとって初めてのことでした。知らなかったことが多くて、いろいろと考えさせられましたので、きょうは始めにそのことを話させていただき、後からマラキ書をご一緒に見たいと思います。
(中略)
 砕石を敷く工事では予期していないことがありました。今回、駐車場に使用された砕石は再生砕石で、ガラス片、陶器の破片、針金や釘などが混入していました。
(中略)
 危険なガラス片が混入している再生砕石を駐車場用の砕石として用いることは、おかしなことだと私は思います。
 ただ今回のことは私は業者ばかりを責めているわけではありません。隣の土地は神様が用意して下さった土地です。その神様の大切な土地に、砕石についてあまり調べないで発注してしまったために石以外の色々な混入物をばらまいてしまったことを、私は神様に対して申し訳なく思っています。それでできるだけ私の手で除去したいと思っています。それはちょうど、出エジプト記の時代に金の子牛の事件を起こした後のイスラエルの民が、悔い改めながら一つ一つの作業を丁寧に行って幕屋を造ったのと同じことかもしれません。
 きょうの聖書箇所のマラキ書1章6節と7節には、このように書いてあります。

1:6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。
1:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。

 今回のことで私は思うのですが、ここで祭司たちはそんなにいい加減な気持ちでいたわけではないという気がします。ちゃんとやっていたつもりではあったけれど、どこか抜けていた点があって汚れた捧げものを捧げてしまったのではないかという気がします。不注意があったに過ぎないのではないかなという気がします。しかし、現代の交通事故などを見ても、ドライバーのちょっとした不注意が死亡事故を起こしたりします。祭司の仕事というのも、そういうちょっとした不注意が赦されない職務なのだろうと思いました。
 今回、教会の神様の土地に石以外の余計な物をバラ撒いてしまったことも、私に不注意な点があったからだと思いますから、これを教訓にして会堂造りでは、注意していなければならないと思わされています。
 ただし同時に、あまり杓子定規的になってもいけないのだとも思っています。汚れた捧げ物をしてはならないと言っても、貧しい者にとっては状態の良い捧げ物を準備することは難しいことだと思います。そういう場合は、貧しいやもめがレプタ銅貨二枚の捧げものでも主が喜ばれたように、精一杯の状態の捧げ物であれば主は喜ばれたのではないかと思います。貧しいために、どうしても良い状態の捧げ物を準備できない、それでも主に捧げ物をしたいという気持ちがあるなら、その信仰を主は喜ばれたのではないかと私は思います。
 私たちもまた立派な礼拝堂を献堂することは難しいことですが、精一杯心を込めて献堂したいと思います。不注意によっておかしな物が混じったりすることのないように注意して会堂を設計し、施工も見守りたいと思います。今回の、いろいろな混じり物がある再生砕石を発注してしまったことを教訓として、会堂建設に当たりたいと思います。
 最後にマラキ書1章11節をご一緒に読みましょう。

1:11 日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。──万軍の【主】は仰せられる── 

 お祈りいたしましょう。
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悔い改めた後の神との正対(2016.2.14 礼拝)

2016-02-16 07:59:03 | 礼拝メッセージ
2016年2月14日礼拝メッセージ
『悔い改めた後の神との正対』
【出エジプト36:8~13】

はじめに
 今年の礼拝説教では先月から旧約聖書の出エジプト記を開いて、主がイスラエルの民に幕屋の作り方をモーセを通じて伝えた箇所を学んでいます。25章から31章を見るとわかるように、主は幕屋の設計図を細部に至るまで細かくモーセに伝えました。この間、モーセは四十日四十夜、シナイ山に登ったままで、この詳細な幕屋の造り方の指示を受けていました。
 そして先週は、まさにこの真最中に、イスラエルの民が金の子牛の像を造って崇めるという事件を起こしてしまったことをご一緒に学びました。
 この事件で主は大変にお怒りになりました。そして、ご自身の民を絶ち滅ぼすとまで仰せられました。

怒る主に嘆願したモーセ
 きょうは先ず、そこから見て行きたいと思います。32章の7節から9節、

32:7 【主】はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。

 「うなじがこわい」とは、首の後ろの部分が固いということで、主に素直に頭を垂れることができないというような意味ですね。このようにイスラエルの民は主に向かって頭を垂れることができず、すぐに主から離れてしまう者たちでした。そして主は、このようなイスラエルの民を絶ち滅ぼすと仰せられました。10節、

32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。

 しかし、そのように怒る主にモーセは嘆願します。11節、

32:11 しかしモーセは、彼の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

 モーセの必死の嘆願によって主は思い直します。そしてモーセは山を降りました。少し飛んで14節と15節、

32:14 すると、【主】はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。
32:15 モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。

 さてしかし、イスラエルの民のあまりに乱れた様子を見て、今度はモーセの怒りが燃え上がりました。ページをめくっていただいて19節、

32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

 主の怒りをなだめたモーセがこれほどまでに怒るとは、イスラエルの民の乱れ方がよほどひどかったということでしょう。
 少し先を急ぎますので、35節だけ見ておきましょう。32章35節、

32:35 こうして、【主】は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。

幕屋造りを始めた民
 この金の子牛の事件があった後、主はもう一度モーセにシナイ山に登って来るよう命じました。34章の1節と2節、

34:1 【主】はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。
34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。

 そして4節、

34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。

 そして主は仰せられました。少し飛んで10節、

34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行おう。あなたとともにいるこの民はみな、【主】のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである。

 こうして主とイスラエルの民との間で契約が結ばれます。27節と28節、

34:27 【主】はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」
34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

 そしてモーセは山から降りました。29節と30節、

34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。
34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

 神の栄光がモーセの顔を通しても現されていました。そして、これらのことがあった後に、イスラエルの民はいよいよ幕屋作りに取り掛かります。35章10節、

35:10 あなたがたのうちの心に知恵のある者は、みな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。

 主が命じられた造るべきものとは11節以降にあるように、幕屋とその中に置く神の箱やパンの机や洗盤などです。

一つ一つの丁寧な作業が悔い改め
 そして36章からは、これらのものを造っていった様子が具体的に書かれています。たとえば36章8節から10節、

36:8 仕事に携わっている者のうち、心に知恵のある者はみな、幕屋を十枚の幕で造った。撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でケルビムを織り出した。
36:9 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とした。
36:10 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また、他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせた。

 これらは皆、主がモーセに、このように幕屋を造らなければならないと伝えた、その通りに造られました。例えば今の36章8節から10節までに相当する箇所は、26章の1節から3節までです。26章1節から3節、

26:1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。
26:2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。
26:3 その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。

 こうしてイスラエルの民は主が命じた通りの造り方で幕屋を造っていったことが、36章以降を読むとわかります。
 私はこれまで、聖書がなぜ36章以降でもう一度幕屋の造り方を細かく記しているのか、よくわからないでいました。細かいことはほとんどすべてが重複した記述になっていますから、重複などさせないで、「イスラエルの民は主が命じた通りに忠実に幕屋を造った」と書けば、一つの文で済むじゃないかと思っていました。わざわざ、もう一度細かく書き出すことの意味がよくわからないでいました。
 しかし、今回、主が幕屋の造り方をモーセに伝えていた、正にその時に金の子牛の事件があったことを学び、このことの意味がようやくわかった気がしました。
 金の子牛を礼拝したことは重大な罪でした。イスラエルの民族が絶ち滅ぼされても仕方のないくらいの重い罪です。実際に主はそうされようとしました。しかしモーセが間に入って嘆願したことで主は思い直しました。そうしてイスラエルの民は自分たちが犯した重大な罪を悔い改めて、頭を垂れ、主が命じた一つ一つのことを忠実に守って幕屋を造って行きました。この主の命令に忠実な一つ一つの作業が、イスラエルの民が悔い改めたことの証になっているのでしょう。イスラエルの民は憐れみ深い主に感謝しつつ、そして自らの過ちを深く反省しつつ、一つ一つの作業を丁寧に進めて行ったのだと思います。

主とまっすぐに向き合う
 このモーセの時代の出来事は、新約の時代の私たちにとても良く似ています。 モーセが主の怒りをなだめたように、新約の時代にはイエス・キリストが十字架に掛かって主の怒りがなだめられ、私たちの罪が赦されました。私たちもまた主から離れた者たちでしたが、イエス・キリストの十字架によって赦されました。そうして主に大胆に近づいて礼拝を捧げる恵みをいただくことができました。
 きょうの聖書交読では黙示録3章を開きました。黙示録3章19節に、

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

 とあります。主はラオデキヤの教会員を「愛する者」と呼び、「しかったり、懲らしめたりする」と仰せられました。そして「熱心になって、悔い改めなさい」と仰せられました。出エジプト記と同じですね。そして20節、

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 ここにある「彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」というのは独特の表現ですね。主が私とともに食事をして下さるだけでなく、私もまた主とともに食事をするという二重の表現は何を意味しているのだろうかと、私は折にふれて考えて来ましたが、今回、これは悔い改めを表しているのだということに気付かされました。19節の「悔い改めなさい」という主の言葉に従って主と正面から真摯に向き合うようになるなら、主が私と食事をして下さるだけでなく私もまた主と食事をします。それはイスラエルの民が、主が命じた幕屋の造り方に忠実に従って一つ一つの作業を丁寧に行ったことと同じであると言えるでしょう。
 週報のp.3にこれまでにも何度か載せた幕屋の図をまた載せておきました。この幕屋には聖所の外に洗盤が置かれ、聖所の中にはパンの机が置かれてパンが供えられていました。旧約の時代、祭司は洗盤で身をきよめてから聖所に入り、パンを供えました。
 この幕屋の図の上には、これも以前載せたことがある桂町教会の礼拝堂の写真も再び載せました。この桂町教会の礼拝堂には、常に洗礼盤と聖餐卓が置かれています。新約の時代にあっては、私たち教会に招かれた者たちは悔い改めるなら誰でも洗礼の恵みに与ることができ、そうして洗礼を授かった者なら誰でも聖餐の食事の恵みに与ることができます。未だ悔い改めていない者であっても、いつでも悔い改める機会が与えられています。そうして悔い改めて洗礼を受けたなら聖餐の食事の恵みにも与ることができます。私たちが悔い改めるなら、主は私たちと食事をして下さり、私たちもまた主と食事をするのです。このようにして私たちが主とまっすぐに向き合うことができることは素晴らしい恵みです。

おわりに
 来週の礼拝の後で私たちは、新しい礼拝堂の設計案に関して意見交換する時を持ちます。私たちは礼拝堂の設計に当たっても一つ一つのことを丁寧に行って行きたいと思います。イスラエルの民が主の幕屋造りの命令にしっかりと応答して、一つ一つ丁寧に幕屋造りの作業を行ったように、私たちもまた礼拝堂造りを一つ一つ丁寧に行いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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今朝の隣地(2016.2.13)

2016-02-13 09:01:45 | 折々のつぶやき
 隣の駐車場に砕石が搬入されました。
 予想していたよりも粒度がかなり細かいものでしたから、業者にいろいろ質問しました。
 粒度が細かいほうが固く締まり、駐車場でもよく使われているタイプの砕石とのことでしたので、これでやってもらうことにしました。
 工事完了は月曜日と聞いていましたが、今日中に仕上げまでやってしまうそうです。

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悟らない弟子たち(2016.2.10 祈り会)

2016-02-11 11:21:52 | 祈り会メッセージ
2016年2月10日祈り会メッセージ
『まだ悟らない弟子たち』
【マルコ8:13~21】

はじめに
 次の聖日には設計士のA兄をお招きして新しい礼拝堂の設計案の説明と意見交換の時を持ちます。そして、この意見交換を受けて、A兄にはまた設計図を引き直していただくことになります。そして、これを何回か繰り返しながら、今年の夏が終わる頃には設計を固めて予算も固め、秋には施工業者を選定したいと考えています。
 ここで最も悩ましいのが、どれだけの予算で礼拝堂を建設するかということです。手持ちの資金では足りませんから融資を受けて礼拝堂を建設することになりますが、あまり借り過ぎると返済できなくなる恐れがあります。望ましいのは設計が固まる前に自己資金が祝されて、融資を受ける金額が少なくなることです。さらに贅沢を言うなら、トイレも給湯室も母子室も応接室も、さらに言えば小さな集会室をも皆備えた立派な礼拝堂をほとんど自己資金だけで建てられたなら素晴らしいことです。
 しかし、そもそもこんな大胆な願いを持っても良いものか悩みます。ですから、これから、どのように祈っていくべきなのかも、なかなか悩ましい問題です。きょうは、そのことを考えながらご一緒にマルコ8章を見てみたいと思います。

悟らない弟子たち
 マルコ8章13節から見て行きます。13節、

8:13 イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 13節の彼らを離れての「彼ら」とは11節と12節に記されているパリサイ人たちのことです。彼らはイエスに議論をしかけ、イエスをためそうとして、天からのしるしを求めました。
 このパリサイ人たちがどういう者たちだったかというと、7章の始めのほうを見ると、次のように書いてあります。7章の1節、

7:1 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。

 パリサイ人はエルサレムから来ていたのですね。そして2節にあるようにイエスさまの弟子のうちに、汚れた手でパンを食べている者があるのを見ました。そしてイエスさまに5節のことを尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
 このパリサイ人たちに対してイエスさまはイザヤ書を引用して言われました。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」
 8章に戻ります。このようなパリサイ人たちでしたから、イエスさまは彼らがしるしを求めたことには応じませんでした。8章12節、

 8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」

 そうしてイエスさまは彼らを離れて舟に乗って向こう岸へ行かれました。その舟には弟子たちも乗っていました。14節と15節、

8:14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

 このパリサイ人のパン種とヘロデのパン種とは不信仰の種ですね。パリサイ人は先ほどイエスさまが引用したイザヤ書のように、口先では神様を敬いますが、心は神様から遠く離れているという意味で不信仰です。またヘロデは非常に世俗的な俗物ですから、そもそも信仰的ではないという意味で不信仰です。このようなパリサイ人とヘロデの不信仰のパン種は大きく膨らんで悪い影響を及ぼしますから十分に気をつけなければなりません。
 しかし弟子たちには、このイエスさまの真意が伝わらず、イエスさまが「パン」と言ったのでパンを持っていないことで互いに議論し始めました。それで17節と18節、

8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

 そしてイエスさまは五千人の給食と四千人の給食のことを弟子たちに思い起こさせました。19節から21節までは交代で読みましょう。

8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 これから、いよいよ新しい礼拝堂を設計して行くに当たり、私は今の箇所を示されています。

素晴らしい御業を見せて下さった主
 約2年前の2014年の5月に、今の会堂の屋根の腐食が深刻であることがわかりました。そしてその1ヵ月半後の2014年の7月に、屋根の葺き替えは行わないで新会堂の取得に向けて新しい一歩を踏み出すことを私たちは決めました。この時、資金の見通しは全く立っていませんでしたが、一歩を踏み出せば主が御業を見せて下さるという信仰のみで一歩を踏み出しました。すると本当に主は御業を見せて下さり、会堂献金が祝され始めました。そして、隣の土地を購入するまでに至るという最初に一歩を踏み出した時には全く予想していなかった御業を主は見せて下さいました。これは弟子たちがイエスさまの五千人の給食と四千人の給食を見たことに匹敵する素晴らしい御業だと思います。
 このように、これまで私たちは土地の購入のことで素晴らしい御業を見せていただいたのですから、もし新しい礼拝堂の建設のことで資金が足りないと言って議論しているようなら、パンが一つしかないと言って議論している弟子たちと同じになってしまうのではないでしょうか。
 もちろん、いよいよ融資を受ける段階になったなら、返済できないほど多額の融資を受けてしまうようなことは厳に慎まなければなりません。たくさん借りても主が何とかして下さるだろうなどという無謀な考えは決して持ってはなりません。しかし今はまだ、その時に至るまで半年以上もあります。ですから今はまだ祈りを積むことができる期間です。私たちには、まだまだお祈りする期間があります。それゆえ、あまり祈らないで予算がどうのこうのと議論し過ぎるなら、パンが一つしかないと言って議論する弟子たちのようになってしまいます。ですから私たちは五千人の給食と四千人の給食の御業を見せて下さったイエスさまを思い、今はじっくりと腰を落ち着けて、祈りを積みたいと思います。

おわりに
 予算と設計を固めるまでに残された期間は多くはありませんが、決して少なくもありません。ですから私たちは十分な自己資金が与えられるように熱心に祈り続けたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
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目に見える偶像を欲する人々(2016.2.7 礼拝)

2016-02-08 08:44:56 | 礼拝メッセージ
2016年2月7日礼拝メッセージ
『目に見える偶像を欲する人々』
【出エジプト24:15~18、32:1~4】

はじめに
 先月から旧約の時代の幕屋の構造と幕屋においてどのような儀式が行われていたかを学んでいます。主はモーセをシナイ山に呼んでイスラエルの民が造るべき幕屋の設計図を細かく伝えていました。その時に山の下でモーセの帰りを待っていたイスラエルの民が事件を起こしました。
 今回のメッセージのために私は改めて出エジプト記のきょうの箇所の前後を読み返してみて、イスラエルの民が金の子牛の像を造ったのは、主がモーセに神の箱と幕屋の造り方を伝えていた時だったのだということに新鮮な思いがしています。なぜなら私の頭の中では主がモーセに律法を授けていた時にイスラエルの民が金の子牛を造ったと思い込んでいたからです。律法を授けていた時ではなくて神の箱と幕屋の造り方を授けていた時だったのですね。
 このことを再認識して私は、イスラエルの民は結局は神の箱を偶像化していたのだなと思いました。主はモーセの十戒で「偶像を造ってはならない」と戒めていますが、イスラエルの民の信仰が幼かったことによって結局は偶像を造ったことになってしまったのではないか、そして現代の私たちも人間イエスを偶像化している面があるのではないかという気がしています。人間イエスだけに目を向け過ぎて霊的イエスに思いを寄せないなら、それは人間イエスを偶像にしているとも言えるのではないか、そんな気がします。きょうは、そんな話をこれからさせていただきます。

金の子牛の像を造ったイスラエルの民
 はじめに今日の聖書箇所を見ておきましょう。出エジプト24章15節と18節をお読みします。

24:15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。
24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

 モーセは四十日四十夜、山にいました。そして次の25章から31章に記されているように、主はモーセに幕屋の造り方を細かく伝えました。そして、まさにその時にイスラエルの民は金の子牛の像を造ったのでした。32章の1節、

32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 モーセは神の言葉をイスラエルの人々に伝えていました。そのモーセが山に登ったまま、なかなか降りて来ないので、人々は非常に不安になりました。信仰がまだ幼かったイスラエルの民は、ちょっとの間、神の言葉を聞かなかっただけで不安になったのですね。これは幼子が、お母さんの姿が少しでも見えなくなると不安になってしまうのと同じと言えるのかもしれません。
 それでイスラエルの民には目に見える神が必要だとアロンは考えたのでした。2節と3節、

32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。

 そうしてアロンは子牛の鋳物の型を作って、そこに溶かした金を流し込んで金の子牛を作りました。4節、

32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。

 結局、人は目に見える形のものが無いと、なかなか安心できないということなのでしょう。私も教会に通うようになる前はお寺の仏像を見ると安らかな気持ちになりましたから、その気持ちはよくわかります。奈良の大仏のような大きな仏像も、人の心を安らかにする上で大きな役割を果たしたのだと思います。しかし、本当の神様は霊的な存在ですから目には見えません。その目には見えない神様に心を寄せることこそが本当の信仰です。そういう意味では、ブラジルにある有名な巨大なイエス様の像などは、信仰的にどうなんだろうという疑問を私自身はいささか感じています。きょうは、人間イエスと霊的イエスの話とも絡めて、このことをもう少し深めてみたいと思います。
 イスラエルの民が金の子牛を造ったことで主は大変にお怒りになりました。32章の7節と8節、

32:7 【主】はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」

 この事件の結末がどうなったかは、是非お一人お一人で読んでいただきたいと思います。人は目に見える形のものが無いと不安になります。主が神の箱を造って幕屋に置くことを命じたのは、このことを考慮してのことではないかという気が私はしています。神の箱を造らせることで少しでも不安がやわらぐようにという配慮ではなかったかと思うのです。そんな配慮をして下さっている折も折り、イスラエルの民は金の子牛を造ってしまいました。そして、この金の子牛を造ったイスラエルの民の子孫たちは、次には神の箱を偶像のように扱ってしまうこととなりました。

神の箱を利用しようとしたイスラエルの民
 今度はサムエル記を見ましょう。サムエル記第一4章です(旧約聖書p.471)。1節と2節をお読みします。

4:1 サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。
4:2 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣ぞなえをした。戦いが始まると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた。

 この時、イスラエルとペリシテとの間で戦いがあり、イスラエルは打ち負かされてしまいました。続いて3節、

4:3 民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ【主】は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから【主】の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」

 イスラエルの長老たちは神の箱が戦いの場に無かったから負けたのだと思ったのですね。それで当時はシロの地にあった幕屋から神の箱を運び出して戦場に持って来ました。4節と5節

4:4 そこで民はシロに人を送った。彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の【主】の契約の箱をかついで来た。エリのふたりの息子、ホフニとピネハスも、神の契約の箱といっしょにそこに来た。
4:5 【主】の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。

 しかし、これが逆にペリシテを奮い立たせることになって結局イスラエルは再び打ち負かされてしまいました。少し飛んで9節と10節、

4:9 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」
4:10 こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

 そして11節、

4:11 神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ。

 この時からダビデが王様となってエルサレムに神の箱を運び入れるまで、神の箱は幕屋の外にありました。
 ここでイスラエルの民が犯した失敗は、神の箱を神ご自身かのように扱い、神ではなく神の箱に心を寄せてしまったことです。そしてさらに悪いことに彼らは自分たちの都合に合わせて神を利用しようとしました。神の箱を勝手に動かすことで自分たちの有利なように事を動かそうとしました。しかし、神様は人間の勝手な都合で動くようなお方ではありませんから、イスラエルの民は手痛い目に遭いました。

人間イエスだけでなく霊的イエスにも心を寄せよう
 ここからわかることは、結局のところ人は目に見える形ある物に心を寄せ易いのだということだと思います。神様の霊は目に見えませんから、人は目に見える金の子牛や神の箱に心を寄せたりします。ですからイエス様が目に見える形の人の子として、この世に生まれて下さったことは、そんな私たちにとってとても大きな贈り物であったと言えるでしょう。私たちはイエス様を通して、神様とはどのようなお方かがわかるようになりました。ヨハネの福音書のプロローグにも書いてありますね。ヨハネの福音書1章18節をお読みします。(新約聖書p.172)

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 イエス様がこの世に生まれて下さったことで私たちは人としてのイエス様に心を寄せれば神様に心を寄せることができるようになりました。しかし、逆にこのことで本来の目には見えない神様の霊に心を寄せることが下手になってしまったのではないかと私は考えています。ブラジルにある巨大なイエス様の像などは、その現れではないかと思います。ヨハネの福音書は、そのことを正そうとしたとも言えるのではないかと思います。それゆえヨハネの福音書には目には見えない霊的なイエス様が重要な働きをしています。
 イエス様は霊的な存在としてアブラハムの生まれる前からおられたということを、イエス様ご自身が言っておられます。ヨハネの福音書8章58節、

8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 このアブラハムが生まれる前からいたイエス様は霊的なイエス様です。しかし、ユダヤ人たちは、このイエス様の言葉を聞いて石を投げつけようとしました。59節、

8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

 このユダヤ人たちのことを不信仰だと私たちは考えます。しかし、もし私たちが人間としてのイエス様ばかりに心を寄せて霊的なイエス様に心を寄せることがあまりできていないのなら、私たちの霊的な成長度はこのユダヤ人たちとそんなに違わないのではないでしょうか。霊的なイエス様のことが霊的に見えていないのなら、私たちは霊的成長という意味では、まだまだではないでしょうか。

おわりに

 イエス様がアブラハムが生まれる前からおられたことは、ヨハネだけが書いていることではなくて、パウロもまた書いていることです。最後にコロサイ人の手紙をご一緒に読んで、メッセージを閉じたいと思います。コロサイ人への手紙1章15節から17節までを交代で読みましょう(新約聖書p.390)。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 またパウロは18節で、「御子はそのからだである教会のかしらです」とも書いています。教会のかしらであるイエス様はぶどうの木であり、私たちはその枝です。このイエス様を中心にして私たちは霊の一致を保って進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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今朝の隣地(2016.2.6)

2016-02-06 07:35:39 | 折々のつぶやき
 教会の2階から見た駐車場です。
 ここに砕石を敷くことを考えています。
 明日、教会の皆さんと相談したいと思います。


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今朝の隣地(2016.2.5)

2016-02-05 09:04:23 | 折々のつぶやき
 快晴の今朝、教会の駐車場になった土地の後方に美しい富士山の姿がくっきりと見えています。
 皆様のお祈りに感謝いたします。

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カイザルのものと神のもの(2016.2.3 祈り会)

2016-02-04 09:40:37 | 祈り会メッセージ
2016年2月3日祈り会メッセージ
『カイザルのものと神のもの』
【マルコ12:13~17】

はじめに
 私が沼津教会に着任した2013年の春、当時の私は牧師としての経験はまだ1年しかありませんでした。今でもまだ4年しかありません。年齢的には50代の後半ですが、牧師としてはまだまだ若手です。そのような若手の牧師である私が会堂問題に本格的に取り組むことになり、いろいろ学んでいることは本当に感謝なことだと思っています。やはり会堂問題に取り組まなければ分からないことがあるなと強く感じています。会堂問題は教会全体で取り組まなければなりませんから、私の個人的な信仰だけではどうにもなりません。そこに難しさを感じていますが、多くのことを学ばせていただいてもいますから感謝に思っています。

個人と教会との違い
 私個人に関しては、私は神様との関係が築けていると思っていますので、どうなろうと既に神様にすべてお委ねした身ですから、自分の思い描いていた方向と違う方向に進んだとしても、お委ねするしかないと割り切っています。8年前までは私は東京で働いていて、自宅は高津駅の近くのマンションを購入して快適な暮らしをしていました。しかし神様に召し出されて自宅のマンションを売却し、持ち物の大半を処分して聖宣神学院の男子寮に移り住み、古い二段ベッドの下の段に身を横たえた時から私は神様にすべてを委ねましたから、どうなろうと御心なら受け入れる心境になっています。二段ベッドの下の段は、横たわると目のすぐ上に上の段の板があります。ですから最初は圧迫感を感じました。その時に私は快適なマンション暮らしとは決別したのだということを強く感じました。
 ですから私個人については、この先どうなるかわからないけれど神様にお委ねしていますから、それほど不安には思っていません。しかし教会に関しては、そういうわけには行きません。教会に関しては、私一人の思いで動いて行くわけではありませんから、この先どうなるかわからないことに大きな不安を持っています。私一人のことなら、どうにもならなくなって困ったとしても自分で引き受けますが、教会がどうにもならなくなって教会の皆さんが困ることになったら大変ですから、不安があります。ですから皆さんと共に祈り、そして話し合って合意を形成しながら教会運営をして行かなければなりません。
 特に会堂問題の場合は多額の資金を動かさなければなりませんから、本当に難しさを感じます。その中で学ばせていただいているのが、御霊の一致を保つにはどうしたら良いかということです。このことは、常に話していることですから、きょうは触れません。きょう話すのは、今回、新たに気付かされたこととして、お金の動きに関することです。教会の働きは、お金の動きがある程度はあることも必要なのだなということを、最近にわかに意識するようになりました。
 私は理工系の出身なので経済のことはあまり良くわかりません。それで日銀による大胆な金融緩和ということに関しても、あまり理解していませんでしたし、それほど関心もありませんでした。しかし最近の「マイナス金利」という話になって来ると、耳慣れない言葉ですから「おやっ?」と思っていささか興味を引かれますし、住宅ローンの金利が下がって会堂建設資金の融資も受けやすくなるかもしれませんから、自ずと関心を持つようになりました。とは言え、大胆な金融緩和について、そんなにすぐによく分かるようになるわけではないのですが、要するに日銀も政府も日本国内でお金がもっと使われるように、あの手この手でいろいろやっているのですね。お金の流れを良くすることで国の経済が良くなりデフレから脱却して景気が良くなるということのようですが、今回私は、教会の経済も同じなのかなと感じ始めています。

お金の動きも必要な教会運営
 どういうことかと言うと、最近、当初は予期していなかった出費がいろいろと発生して来ています。玄関の看板が壊れて新調したり、隣の土地の固定資産税を分担しなければならなくなったりしました。或いはまた、隣の整地が完了しましたが、地面が柔らかい土の状態ですから、雨の日にはぬかるんで車が出られなくなるかもしれませんし、晴れた風の強い日には土ボコリが大量に舞い上がってご近所に迷惑を掛けるかもしれません。ですから、その対策のために砂利を入れる必要がありそうです。これらの出費は少し前まではぜんぜん考えていなかったことですから、まったく頭の痛い問題です。
 けれどもお金を使うことで、それが伝道につながって行くのだということも私は思うようになりました。ギデオン協会の聖書配布もそのための資金が捧げられることで初めて成り立ちます。多くの献金が捧げられれば、それだけ多くの聖書を配布できて伝道の働きが回って行くことになります。チラシを見て教会に人が来るのも、チラシにお金を掛ければこそのことです。きのう看板屋さんの若い職人さんが二人来てくれて駐車場の看板と玄関の看板を取り付けてくれました。この二人の職人さんは「キリスト教会」と書かれた看板の表面を傷つけないように、とても丁寧に扱っていました。そしてプロの仕事で、しっかりとキリスト教会の看板を設置してくれました。私はそれを見て、とても貴いことだと思いました。こうして二人とキリスト教会との接点ができたわけです。これは看板にお金を使わなければできなかったことです。
 これまで私たちは会堂のことに、あまりお金を使わないで来ました。修繕もできるだけ自力でして来ました。屋根のペンキ塗りも私がしました。それはそれでお金を節約しながら大事に使うことは必要ですから良いのですが、節約ばかりでは教会と地域社会とのつながりが広がって行かないのだなと思いました。今回、看板屋さんに看板を発注して、お金を媒介にして地域と教会とがつながって行く側面もあるのだということに改めて気付かされました。もちろん、私たちが第一にしなければならないことは、聖書のみことばを宣べ伝えることですが、ただそのことだけに専心してお金をなるべく使わないようにすることが必ずしも良いわけではなく、使うべき時には使ってお金の流れを良くすることも教会には必要なのだなということを私は今回、学ばせていただいています。

カイザルのものはカイザルに
 短くみことばに目を留めます。マルコ12章13節と14節をお読みします。ここで「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老たちです。

12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。
12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

 13節に「わなに陥れようとして」とあります。当時のユダヤはローマに支配されていました。ですからユダヤ人はローマに税金を納めなければなりませんでした。このことをユダヤ人は屈辱的に思っていました。ですから、もしイエスさまが「カイザルに税金を納めるべきです」と答えれば、イエスさまは取税人のように人々から嫌われることになりますから、祭司長たちにとっては都合が良いことです。一方、もし「カイザルに税金を納めるべきではありません」と答えればローマに対する反逆だとして捕らえられることになるかもしれません。これも祭司長たちにとっては好ましいことです。これが罠です。
 さてイエスさまの答はこうでした。15節から17節、

12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
12:17 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。

 イエスさまは「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と答えてローマに税金を納めることを否定しませんでした。当時、ローマは地中海沿岸一帯を支配していました。このローマの支配の下で平和が保たれ、交通網も整備されていて、このことに税金も使われていました。この平和が保たれ、交通網が整備されていたおかげでパウロの時代には広い範囲にキリスト教が広まって行くことができたのですね。ですからローマに税金を納めることは後にイエス・キリストの福音が広く宣べ伝えられることに、とても役に立ちました。
 私たちの教会も、これからいろいろな出費が発生します。予期せぬ出費も発生することでしょう。それは大変に頭の痛い問題ですが、支払うべき所には快く支払ってお金の流れをよくすることで伝道の働きもまた祝されるのだということも覚えておきたいと思います。

神のものは神に
 最後に、イエスさまはもう一言付け加えました。「そして神のものは神に返しなさい」とイエスさまはおっしゃいました。「神のもの」とは私たちのことでもあります。お金は世俗の支配者に返し、神に似たものとして造られた私たちは神のもとに帰る。この神のもとに帰るということが大事なことなのだというイエスさまのメッセージを、しっかりと受け留めたいと思います。
 私たちは地域の方々が神様の御もとに帰ることができるよう、伝道の働きに励まなければなりません。そのためにはお金を使うことも必要です。しかし、いったいどれくらい使えば良いのか。新しい会堂を建てるにしても、どれくらいの大きさの会堂が私たちにふさわしいのか。いろいろとわからないことばかりです。神様が私たちに知恵を与えて下さり、導いて下さるようにお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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今朝の隣地(2016.2.3)

2016-02-03 08:38:12 | 折々のつぶやき
 売買契約はこれからですが、地主さんの了解を得て看板を立てました。
 (追記:2月4日に売買契約を結びました)



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