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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

パウロと共に人間の側から神様の側へ(2023.4.2 礼拝)

2023-04-03 06:25:44 | 礼拝メッセージ
2023年4月2日礼拝説教
『パウロと共に人間の側から神様の側へ』
【ルカ19:37~44】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日、パーム・サンデーです。この日、イエス様はロバの子に乗って、エルサレムに近づき、人々は熱狂的にイエス様を歓迎しました。その後、イエス様はエルサレムを見て泣きました。エルサレムはこの時からおよそ40年後にローマ軍の攻撃によって滅んで廃墟になってしまいます。神の御子であるイエス様には、その未来の様子が見えていました。また、エルサレムは紀元前600年頃にもバビロン軍の攻撃によって滅亡して、廃墟になっていました。ですからユダヤ人たちは、またしても同じ悲劇を繰り返そうとしていました。それは、イエス様にとって涙を流すほどに悲しいことでした。

 きょうの礼拝では、このイエス様の悲しみを皆さんと共に、分かち合いたいと思います。きょうの聖句は週報p.2の上に記したように、ルカ19章41節とヨハネ11章35節です。

ルカ19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①背景:パウロと共に神様の側に移った福音書記者のマルコとルカ
 ②本題:a) 紀元70年に滅亡したエルサレムを見て泣いたイエス
     b) 警告を聞かずに滅びたエルサレムを見て涙したイエス
     c) 人間の側から見た神は怒っているが、実は泣いている
 ③適用:平和は皆がパウロと共に神様の側に移ることでつくられる
 (いつも神様の側には居られないが、ディボーションの時は可能)

①背景:パウロと共に神様の側に移った福音書記者のマルコとルカ
 先週ご一緒に読んだピレモンへの手紙の最後の方の24節で、パウロは次のように書きました(週報p.2)。
 
ピレモン24 私の同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。

 パウロはローマの自宅で軟禁生活を送っていましたが、そこには福音書記者のマルコとルカもいたのですね。これは私にとって新しい発見でした。ピレモンへの手紙は、聖書通読では何度も読んでいましたが、この手紙について思いを巡らしたことは、実はありませんでした。軟禁生活をしていたパウロと共にマルコとルカがいた、だからマルコとルカはイエス様の姿をリアルに書くことができるほどにまでに、イエス様に近づくことができていたのですね。そのことに初めて気付かされました。

 先週、そして先々週も言いましたが、ローマで獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書を書いた時のパウロは、コリントでローマ人への手紙を書いた時のパウロよりも、きよめにおいて何ランクも昇格していて、別次元のきよめられ方をしていることを感じます。コリントにいた時のパウロはまだ人間の側にいると感じますが、ローマで軟禁生活を送っていたパウロは神様の側に移っていることを獄中書簡を読むと感じます。そして、ルカは使徒の働きの最後を、このローマの軟禁生活のパウロで締めくくっています。パウロの生涯は、この後も、なおしばらく続くのですが、ルカがそれを描かずにここで終わらせたのは、ルカがこの最高にきよめられたパウロの姿で使徒の働きを終わらせたかったからではないか、先週はそんな話をしました。

 軟禁生活から解放されたパウロは、もちろんきよめられたままであったことでしょう。しかし、家の外に出て世間と交わるようになれば、どうしても人間の側に引き戻されることになります。BTC、聖宣神学院の神学生も似たようなことを経験します。神学生の寮生活は、世間とはなるべく隔絶された環境の中で、神様に近い生活を送ります。そうして、霊性が養われて行きます。しかし、卒業して神学院を離れると、寮生活をしていた頃よりも、どうしても人間の側に引き戻されます。BTCの寮生活は、神様に近い所で生活できた貴重な機会だったのだなと改めて感じます。

 週報のp.3の下に載せている『岩から出る蜜』の連載が、今日で43回目になりました。この『岩から出る蜜』は、教団の初代総理の蔦田二雄先生が、聖宣神学院の院長だった時に神学生に向けて語ったメッセージを366日のディボーション用にまとめたものです。43回目ということは、約10ヶ月間、この連載を続けて来た、ということですね。調べてみたら、連載の第1回は、昨年の6月5日のペンテコステ礼拝の日でした。この連載を始めるのにふさわしい日だったのだなと思います。この連載を読んでいただいていた方には分かっていただいたと思いますが、聖宣神学院は、霊性を養うことをとても大切にしている神学校です。きょうの43回目でも触れられていますが、心霊的な経験を積むことを、とても大切にしています。もう少し分かりやすく言うなら、神様との霊的な出会いを経験して、神様と共に日々を過ごすことを、とても大切にしています。神学院では、この神様に近い生活をする環境が整えられていました。しかし、神学院を卒業すると、どうしても人間の側に引き戻されます。パウロも、軟禁生活から解放された後は、多少人間の側に引き戻されることがあったんだろうな、と今回そのように思いました。ルカはそうなる前のパウロ、神様に最も近い所にいた時のパウロの姿を書いて、使徒の働きを閉じたかったのではないか、そんな気がします。

 その最高にきよめられたパウロと共にいたのが、福音書の記者のマルコとルカでした。マルコとルカが福音書のような霊的な書を書けたのは、マルコとルカが人間の側から神様の側に移っていたからであり、それはパウロと共にいたからこそ、それが可能になったのでしょう。

②本題:a) 紀元70年に滅亡したエルサレムを見て泣いたイエス
 そうしてルカは、エルサレムを見て泣いたイエス様を描きました。本題のa) です。聖書をお読みします。ルカ19章41節から44節、

ルカ19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 イエス様はこのように、約40年後にローマ軍の攻撃によって滅びるエルサレムの姿を霊的な目で見て泣きました。忘れてならないのは、イエス様はこの5日後の金曜日に十字架に掛かって死に、三日目によみがえるということです。このイエス様の十字架と復活によって人は罪から解放されて、イエス様を信じるなら聖霊を受けて神の子どもとされる特権を得ることができるようになりました。

 しかし、これは霊的な世界のことです。聖霊を受けて聖霊に満たされた者はこの素晴らしい恵みに与ることができるようになりました。しかし、多くの者は、霊的に目覚めることなく、相変わらず罪の奴隷になっていました。イエス様は、この5日後には、十字架の苦しみを受けなければなりません。この十字架によって、たとえば1年以内にすべての人が悔い改めて神様の方を向き、救いの恵みに与って聖霊に満たされるようになるなら、イエス様は喜んで十字架に付いたことでしょう。「喜んで」というと言い過ぎかもしれませんが、十字架によって直ちに全人類が救われるなら、迷うことなく十字架に向かって行くことができたでしょう。しかし、イエス様は十字架を目前にして、エルサレムを見て涙を流して泣き、最後の晩餐の後では悶え苦しみました。マルコは福音書に、「アバ、父よ」(マルコ14:36)と父に祈るゲッセマネのイエス様を描きました。イエス様が苦しんだのは、この十字架を経てもなお、多くの人が神様から離れたままでいてエルサレムがまたしても滅んでしまうこと、さらに言うなら、二千年経った21世紀も変わらずにその不信仰が続くことをご存知だったから、ではないでしょうか。十字架で死ぬほどの苦しみを受けても、なお多くの人々が神様に背を向け続け、そればかりでなく、戦争を繰り返して多くの都市が破壊されて廃墟になっています。私たちはこの1年、ウクライナの悲惨な街の様子を、嫌というほど見せられました。

 エルサレムを含むパレスチナの地域一帯も、紀元前のバビロン軍による攻撃、紀元70年のローマ軍の攻撃だけでなく、有名なところでは十字軍の時代に、そして第二次世界大戦後のイスラエルの建国後も戦争の悲劇が繰り返されています。このことをイエス様がどれほど悲しまれているか、私たちはもっとイエス様に近づいて、この悲しみを共有する必要があるでしょう。イエス様の悲しみを霊的に感じるようになるなら、少なくとも今よりはもう少しは、平和な世になるのではないでしょうか。

b) 警告を聞かずに滅びたエルサレムを見て涙したイエス
 きょうはルカの福音書に加えて、ヨハネの福音書も味わいたいと思います。ヨハネもまた、人間の側から神様の側に移ることができた一人であり、神様のすぐ近くにいました。その神様との交わりに私たちも入るようにと、ヨハネは招いています。ヨハネの手紙第一1:3です(週報p.2)。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 ディボーションの時に心を整えてヨハネの福音書と向き合う時、この福音書がとても霊的な書であることを感じて厳粛な気持ちになります。ヨハネの福音書からは、文字が印刷されている紙の表面よりも、さらに深い所から霊的な悲しみや怒りが匂い立って来ることを感じます。これは霊的な匂いですから、鼻で感じるものではなく、霊、或いは魂で感じるものです。

 たとえるなら、広島の平和公園で感じる霊的な怒りや悲しみの匂いと同じ性質のものでしょう。広島の平和公園を訪ねたことがある方には、共感していただけると思いますが、ここを訪れると、とても厳粛な気持ちになります。そして、公園の土の下から霊的な悲しみが湧き立って来るのを感じます。平和公園は、見た目には、とてもきれいに整備された広大な公園です。しかし、ここに原爆が投下される前は、ここは多くの民家や商店が密集していた地域でした。それが、たった一発の原子爆弾によって焼け野原にされてしまいました。広島の平和公園は、その焼け野原の上に造成された公園です。ですから、そこを掘り返せば、無数の焼けただれた屋根瓦が出て来ます。木造の建物の壁や柱はすべて灰になってしまいましたが、屋根瓦は焼けずに残っているのですね。そして、原爆投下の直後は多くの骨も残されていました。それらは供養のためにできる限り拾われたそうですが、屋根瓦はそのまま残されて、今も平和公園の土の下にあります。その土の下から、悲しみが湧き立って来ることを霊的に感じます。

 そして、ヨハネの福音書とは、そういう霊的な喜怒哀楽を感じる書です。表面に見える文字よりももっと深い所から、神様の悲しみや怒り、失望感が湧き上がっています。読者はそれを感じることで霊性を養うことができる、そういう書物です。たとえば、ヨハネ10章1節(週報p.2)、

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 この文字の下からは、エルサレムの街に門から入らずに、城壁を乗り越えて侵入して、王宮の財宝などを略奪した外国人の略奪隊の光景が霊的に湧き上がっていることを感じます。たとえば列王記第二24章1節は、このように記しています(週報p.2)。

Ⅱ列王24:2 主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

 カルデア人とはバビロニア帝国を建国した民族です。そのカルデア人などの略奪隊がエルサレムの城壁を乗り越えて街の中に侵入して王宮の財宝などが略奪されました。そうして、エルサレムの人々はバビロンに捕囚として引かれて行き、エルサレムは滅亡してしまいました。この略奪隊が城壁を乗り越える前、主イエス様は、エレミヤなどの預言者たちを通して、不信仰な南王国の人々に何度も繰り返して警告していました。不信仰を改めなければ滅びることになる、そういう警告です。しかし、人々は警告に耳を傾けず、主に背を向けていたので、ついに主の堪忍袋の緒が切れて、主は略奪隊をエルサレムに遣わして、滅ぼしました。

 何度も何度も繰り返し警告を発したのに、南王国の人々が耳を傾けないために、主は仕方なくエルサレムを滅ぼすことにしました。これくらいの荒療治をしなければ、不信仰が改まらないということでしょう。このことがイエス様にとってはとても悲しいことでした。それで、イエス様は涙を流しました。きょうのもう一つの聖句のヨハネ11章35節です。

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

 広島の平和公園の土の下から被爆者の、そしてイエス様の悲しみが湧き上がるのを霊的に感じるように、私たちはヨハネ11章35節の「イエスは涙を流された」から、人々の不信仰が改まらないことへのイエス様の深い悲しみを感じ取りたいと思います[*注(文末に記載)]

c) 人間の側から見た神は怒っているが、実は泣いている
 聖宣神学院で聖書の学びを深める前の私にとって、旧約聖書に記されている神様は怒ってばかりいるというイメージがありました。神学院に入るには聖書を何度か通読している必要がありましたから、旧約聖書も何度も読みました。そして旧約聖書に記されている神様は怒ってばかりいる、そう感じていました。

 しかし、神様は怒っているというより、実は悲しんでいたのですね。その神様の深い悲しみを、私たちはもっと感じることができるようになりたいと思います。パウロもマルコもルカも最初はそんなに霊的な人ではありませんでした。しかし、様々な経験を経て、霊性が養われました。私たちもそうありたいと思います。

 今年の1月からのパウロの生涯のシリーズで見て来たように、パウロは気性が非常に激しい面がありました。それが、ローマで軟禁生活を送りながら、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書を書いた頃には、最高にきよめられていて、神様の側にいました。そして、マルコとルカは、そのパウロと共にいたからこそ、神様の側に移ることができて福音書のイエス様を描くことができました。人は誰もが罪人ですから、誰も最初はきよめられてはいません。それでも、イエス様を信じて御霊が与えられるなら、御霊の実が与えられてきよめられていきます。

 そして、私たちの時代には、聖書を手軽に手に入れることができます。そうして旧約聖書を読み、また新約聖書の福音書、使徒の働き、パウロたちの手紙、そして黙示録を読むことで、神様のことを深く知ることができます。今年の私たちの教会の年頭聖句であるエペソ人への手紙1章17節をお読みします(週報p.2)。

エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

 こうして神様を知ることによって、私たちは神様に近づいて行くことができます。ですからパウロやマルコやルカやヨハネのように、人間の側から神様の側に移ることは決して不可能ではないでしょう。そのことを、パウロ・マルコ・ルカ・ヨハネは証人として証していますから、私たちも少しでも神様に近づく者たちでありたいと思います。

③適用:平和は皆がパウロと共に神様の側に移ることでつくられる
(いつも神様の側には居られないが、ディボーションの時は可能)

 今まで何度か話して来たように、ヨハネの福音書は20章で一旦閉じられます。このヨハネの福音書が閉じられる前の20章の最後の方でヨハネは、イエス様の次のことばを記しています。ヨハネ20章21節から23節です。

イエス20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 このヨハネ20章でイエス様は「平安があなたがたにあるように」と三度も言っています。ヨハネの福音書が一旦閉じられる最後の章の20章の終わりの方でイエス様が三度も「平安があなたがたにあるように」と言っている、ということは、この「平安があなたがたにあるように」が、ヨハネの福音書の最大のメッセージの一つであるということです。

 新改訳聖書は、この箇所で使われているギリシャ語の「エイレーネー」を「平安」と訳しています。しかし、新共同訳と新しいバージョンの聖書協会共同訳は「平和」と訳しています。聖書には「個人の救い」と「世界の救い」の両方のことが記されていますが、ここの訳し方を見ると、新改訳聖書はどちらかと言えば「個人の救い」寄りで、新共同訳と聖書協会共同訳はどちらかと言えば「世界の救い」寄りなのかなという気が何となくします。そして、皆さんがよくご存知のように、私自身は「世界の救い」寄りです。その「世界の救い」の観点からここを読むなら、21節の「平和があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」は、イエス様は平和をつくるために私たちを世に遣わしている、と読み取れると感じます。

 ウクライナの戦争が1年を越えてもなお終わらない、このような現代の21世紀において、私たちは平和をつくるために遣わされていることを感じます。そのために聖霊を受けて、御霊の実を結んできよめられて、互いに赦し合うことで平和をつくって行かなければならないのだと思います。

 きよめられて人間の側から神様の側に移ることは難しいことですが、パウロやマルコやルカ、そしてヨハネがそれが可能であることを証ししています。もちろん、いつも神様の側にいることは不可能です。しかし、ディボーションの時には、それが可能です。心を静めて聖書に向き合うなら、御霊が働いて、私たちを人間の側から神様の側に移して下さいます。

 パウロがエペソ1:17で書いたように、私たちは、知恵と啓示の御霊を受けて、もっと神様のことを知り、神様に近づきたいと思います。そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

*注:旧約聖書とヨハネの福音書との重なりについては、「平和への道をあきらめない」をご参照下さい
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ルカが保存した至高のパウロ(2023.3.26 礼拝)

2023-03-27 04:57:18 | 礼拝メッセージ
2023年3月26日礼拝説教
『ルカが保存した至高のパウロ』
【ピレモン1~25、使徒28:23~31】

はじめに
 年会を越えて4/9のイースター礼拝からは次の後任の先生が説教を担当します。私の説教はあと残り2回となりました。来週の4/2の棕櫚の聖日礼拝では十字架を目前に控えてエルサレムのすぐ近くにまで来られてエルサレムのために泣いたイエス様に注目しますから、パウロに注目するのは今日が最後ということになります。

 今年1月から、ずっとパウロの生涯を分かち合って来ました。きょうは、パウロの生涯のシリーズの最後にふさわしく、最高にきよめられたパウロの信仰を皆さんとご一緒に分かち合いたいと思います。きょうの聖句は使徒の働き28章の30節と31節です。

使徒28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

 そして、次の構成で話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①背景:ルカはなぜパウロの生涯の全てを描かなかったのか?
 ②本題:a) 神の領域の壮大なエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
     b) パウロはイエス様のようにピレモンに赦しを説いた
     c) 獄中のパウロのような広大な心が赦しを可能にする
 ③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい

①背景:ルカはなぜパウロの生涯の全てを描かなかったのか?
 きょうの聖句の使徒28:30~31(上記)にあるように、使徒の働きはローマで軟禁生活を送っていたパウロの姿を描いて閉じられています。この後、パウロがどこで何をして、どのように生涯を閉じたのか、はっきりしたことは分かっていません。様々な説がありますが、どれも決定的ではないようです。

 ルカはなぜパウロの生涯を終わりまで描かなかったのでしょうか?一つの可能性として言えることは、ルカがこの使徒の働きを書いた時にはパウロがまだ生きていたということです。

 しかし、このパウロがまだ生きていた説はほぼ無いでしょう。パウロがローマで軟禁生活を送っていたのは紀元60~62年頃です。そして、ルカはパウロがここローマに送られる時の船にも一緒にいましたし、パウロがローマに来てからも一緒にいました。その当時のルカに、ルカの福音書と使徒の働きを書く準備が出来ていたとは、とても思えません。

 ルカはルカの福音書の最初に、テオフィロ様に宛てて次のように書いています。

ルカ1:1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。

 ルカはイエス様について初めから綿密に調べました。だからこそ、マタイ・マルコ・ヨハネが書かなかった母マリアがイエス様を生んだ頃のことを詳細に書くことができました。これだけのことを調べるのに、当時は膨大な時間とお金が掛かったことでしょう。今ならパソコンの前に座ってキーボードを叩くだけで、かなりの事が調べられます。それでも、すべての情報がインターネット上にあるわけではありません。それゆえ歴史家などは自分の足を使ってあちこち訪ね歩いて資料を集めます。ルカの時代に資料を収集するには、本当に膨大な時間とお金が掛かったことでしょう。その資金面のサポートをしたのがテオフィロ様であろうと思います。

 そうしてルカはまずルカの福音書を書き、次に使徒の働きを書きました。これだけの書を書くための資料集めをして書き上げることは、パウロと一緒にいた頃には無理だったでしょう。パウロが天に召されて初めて、資料の収集と福音書を書くための時間が出来たと考えるのが自然です。ですから、パウロがまだ生きていた説はほぼ有り得ないだろうと思います。

 では、ルカはなぜ使徒の働きをこの場面で閉じたのでしょうか?よく言われるのは、使徒の働きは1世紀のこの時代だけで終わったわけではなく、2世紀以降も、そして21世紀の現代に至るまでずっと続いている、そのことを示すために、使徒パウロが現役で働いている姿でこの書を閉じたのだ、という説です。私もこの説に共感しています。イエス様は使徒の働き1章8節でおっしゃいました(週報p2)。

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 21世紀の現代もこの働きは続いていて、聖霊を受けた私たちはイエス様の証人として、まだイエス様とお会いしたことがない方々に、イエス様のことを宣べ伝えます。ですから、使徒の働きは現代に至るまで、ずっと続いています。それゆえルカはローマで軟禁生活を送っているパウロを描いて、この書を閉じたのだという説に私も共感しています。

 そして、それに加えて今回のこのパウロの生涯の説教のシリーズを続けて来て感じていることは、ローマで軟禁生活を送っていた時のパウロは最高にきよめられていて、もうほとんどイエス様と同じくらいになっていたということです。ルカはそのようにイエス様に限りなく近づいたパウロの姿をここに書き留めておきたかったのではないか、そのようにも思うようになりました。きょうは、このイエス様に限りなく近いところまできよめられたパウロの信仰を、ご一緒に分かち合いたいと思います。

②本題:a) 神の領域の壮大なエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
 まずa) は、先週の復習になります。先週話したことは、ローマの獄中でエペソ書・ピリピ書・コロサイ書を書いた時のパウロは、それ以前にコリントでローマ書を書いた時のパウロよりも別次元のきよめられ方をされていて、神の領域に入っていたということです。コリントでローマ人への手紙を書いていた時のパウロはまだ人間の側にいるように感じますが、ローマで獄中書簡を書いていた時のパウロはもはや神の領域に入っていることを感じると、先週は話しました。それは、これらエペソ書・ピリピ書・コロサイ書からは宇宙スケールの壮大なキリストの愛を感じることができるからです。特にエペソ書はスケールの壮大さという面では際立っています。パウロはエペソ3章で天の父に祈りました。

エペソ3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 これほどの文章が書けたパウロですから、パウロ自身が人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知り、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされていたのでしょう。それはパウロが人間の領域からほとんど神様の領域に移っていたことを意味すると思います。と、先週はそのような話をしました。

b) パウロはイエス様のようにピレモンに赦しを説いた
 これまで話して来たように、獄中書簡と呼ばれるエペソ書・ピリピ書・コロサイ書は壮大なスケールを感じる書です。一方で、ピレモンへの手紙もまた獄中書簡と呼ばれる書の一つですが、このピレモン書からは、スケールの大きさを感じることはありませんね。しかし、パウロがピレモンに対して奴隷のオネシモを赦して迎え入れてほしいと、赦しを説いている点で、これもやはり最高にきよめられたパウロだからこそ書けた手紙なのだろうと思わされます。

 まず、このピレモン書が書かれた背後にどのようなことがあったのかを、簡単に見ておきましょう。まずピレモン書の1節と2節、

ピレモン1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、
2 姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。

 パウロはローマで囚人になっていましたから、パウロは自分のことを1節でキリスト・イエスの囚人と言っています。そして、ピレモンのことを同労者と呼んでいます。2節から分かるようにピレモンは自分の家を教会にして、地域の人々とイエス様の恵みを分かち合っていました。このピレモンの家の教会があったのはコロサイの町であったと考えられます。なぜなら、コロサイ書4章8節と9節に、次のような記述があるからです(週報p.2)。

コロサイ4:8 ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
9 また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。

 これらから推測できることは、ピレモンはコロサイの町の自分の家を教会にして、キリスト者が集まる場にしていました。家を教会にするにはある程度の広さが必要ですから、ピレモンは裕福であったと考えられます。そして当時の裕福な家では奴隷を使っているのが普通でした。そのピレモンの家にオネシモという奴隷がいましたが、彼は主人のピレモンに損害を与えて逃げ出し、今はローマのパウロのもとにいました。そのオネシモをパウロは主人のピレモンのもとに送り返そうと、この手紙を書きました。ピレモン書17節と18節、

ピレモン1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。

 オネシモは裕福なピレモンの家から何か高価な物を盗んで逃げ出したのではないか、そのように推測できます。そしてオネシモは逃げ出した先でキリスト者と出会い、やがてローマのパウロのもとに導かれて、パウロの役に立つ者となっていたようです。パウロはピレモンに手紙を書いてオネシモを赦して迎え入れるように説いています。

 奴隷とは、当時の考え方としては道具であって人ではない、従って役に立たない奴隷は殺してしまっても全然構わない、まして主人の家の物を盗んだような奴隷なら積極的に殺すべきだ、そんな風であったようです。ですから、もしオネシモをピレモンのもとに返したら、ピレモンはオネシモを殺しても全く構わない、というよりも当然殺されることになります。しかし、パウロは同じキリスト者として、ピレモンにオネシモを赦すようにと説いています。

 このようにピレモンに赦しを説くパウロの姿には、イエス様の姿が重なります。たとえばペテロがイエス様に赦しについて尋ねた時のことです。ペテロはイエス様に尋ねました。

マタイ18:21 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」

 するとイエス様は言われました。

22「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

 七回を七十倍するまで赦すとは、無限に赦すということです。

 或いはまた、イエス様はご自分を十字架に付けた者たちを赦すようにと天の父に祈りました(週報p.2)。

ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 ピレモンに手紙を書いてオネシモを赦すように説いたパウロは、イエス様に限りなく近づいていた、そんな印象を受けます。

c) 獄中のパウロのような広大な心が赦しを可能にする
 普段の日常の言葉遣いの中に、「あの人は心が狭い」とか「あの人は心が広い」という言い方がありますね。「心が広い」は滅多に耳にする機会がないかもしれませんが、「心が狭い」は、たまに聞くことがあるように思います。

 そういう心の狭さ・広さで言うと、獄中書簡を書いた頃のパウロの心の広さは「宇宙レベル」のような気がします。そして、人を赦すためには、そういう広大な心が必要なのだなということを、今回、エペソ書やピレモン書の思い巡らしを通じて改めて感じています。

 心が狭いと、人を赦すことはできません。心が広い人であっても、人を赦すことはなかなか難しいことです。やはり、キリストの愛のような人知をはるかに超えた広さが必要なのでしょう。

 オネシモは奴隷の身でありながら、主人に損害を与えて、逃げました。奴隷ではない、普通の人が何か物を盗んでも、それは赦し難いことでしょう。まして奴隷の身分の者が主人の物を盗むとは、とうてい赦し難いことです。でも、パウロはピレモンに手紙を書いて赦すようにと説きました。

 果たしてピレモンは、パウロの説得に応じたでしょうか?人間的に考えたら、とても難しかっただろうと思います。しかし、クリスチャンは御霊によって一つにされた者同士です。そして、共に霊的な恵みをいただいている仲間です。パウロはピレモンに同じ御霊の恵みを受けている者同士として、オネシモを赦すように説いています。もしピレモンが御霊の恵みに満たされている者であったなら、パウロの説得に応じてピレモンを赦したことでしょう。

 私たちは人知をはるかに超えたキリストの愛の大きさを、御霊によって感じます。そして私の罪を赦し、私の罪のために十字架に掛かって下さったキリストの大きな愛を御霊によって感じる時、人を赦すことが可能になります。七度を七十倍するほど無限に人を赦すことは、御霊の恵みに満たされて、初めて可能になることでしょう。

 このように、御霊に満たされてイエス様に限りなく近づいていたパウロのすぐそばに、ルカはいました。ピレモン書24節、

ピレモン24 私の同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。

 パウロが天に召された後で使徒の働きを書いたルカの胸の内には、最高にきよめられていた時のパウロの姿が焼き付いていて、それゆえに使徒の働きをこの獄中のパウロの姿で締めくくることにしたのかもしれません。

③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい
 この3番目のパートの表題の「平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい」は先週と全く同じです。先週は壮大なスケールの信仰について話しましたが、きょうは人を赦すという点においてのパウロの信仰に少しでも近づきたいと思います。そうでなければ、平和な世は決して訪れないだろうと思います。

 人を赦すことは、とても難しいことです。それゆえ争い事が延々と繰り返されて来ました。イエス様はペテロに、そして私たちに、七度を七十倍するまで赦しなさいとおっしゃいます。それは、イエス様が十字架に掛かることで私たちの罪を赦して下さったからです。私たちの命を造って下さった神様に背を向けて、逆らうことは重大な罪です。それほどまでに重大な罪を、イエス様は十字架に掛かることで赦して下さいました。イエス・キリストの愛はそれほどまでに大きなものです。これほどの愛によって私たちは赦されましたから、私たちも赦すべきです、というのが聖書の教えです。

 とは言え、やはり人を赦すことは難しいことでしょう。しかし、人は御霊によって少しずつきよめられていきます。たとえばパウロは第一次伝道旅行の始めの段階で離脱してしまったマルコを決して赦しませんでした。しかし、その後、パウロは様々なことによってきよめられて行き、ローマで軟禁生活を送っている頃にはマルコがすぐそばにいました。マルコがそばにいたことは先ほど読んだピレモン書24節から分かります。パウロはマルコを赦さなかったことを悔い改めて、もはや赦すとか赦さないという人間的な思いを超えて、御霊によって一つにされて、マルコと共に主のために働いていました。

 人は、このように変えられて行きます。このように変えられたパウロのように、私たちもまた御霊によって、少しずつでも人を赦せるように、変えられて行きたいと思います。そのことを願いつつ、イエス様にお祈りしたいと思います。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。

使徒28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

ピレモン1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
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世界を救うキリストの愛(2023.3.19 礼拝)

2023-03-19 13:56:35 | 礼拝メッセージ
2023年3月19日礼拝説教
『世界を救うキリストの愛』
【エペソ人への手紙3:14~21】

はじめに
 今週は、「世界の救い」についての大きな話をさせていただきます。

 聖書には「世界の救い」のことと「個人の救い」のことの両方が書かれていますが、教会では「個人の救い」のことが語られることが多いと思います。それは当然であって、一人一人の個人が救われてこそ、世界の救いへと向かって行くことができます。ですから、先ずは「個人の救い」が語られます。しかし、聖書が語る究極のゴールは「世界の救い」です。このゴールが見えていないと、たとえば「ウサギとカメ」のウサギのように、途中で居眠りをするようなことになってしまうかもしれません。私たちの信仰の歩みは、カメのように遅いものであって構いませんから、ゴールを見ながらの歩みでありたいと思います。そうでなければ、平和な世界への道は、いつまで経っても見えて来ないでしょう。

 きょうの聖句はエペソ人への手紙3章18節と19節です。

エペソ3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

 ①背景:壮大なスケールのエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
 ②本題:a) 人間の側から神の領域に入ったパウロのきよめ
     b) 旧約聖書の土台の上に築かれているパウロの信仰
     c) 新約聖書のゴールは旧約聖書と同じ「世界の救い」
 ③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい

①背景:壮大なスケールのエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
 礼拝説教ではこれまで、パウロの生涯を眺めつつ、パウロのどのような経験が彼をきよめて行ったのだろうか、ということを分かち合って来ました。パウロは激しい性格の持ち主でしたが、様々な迫害に遭い、また病気が与えられ、アジアではみことばを語ることを禁じられるなどの苦難を経験することで、きよめられていったのでしょう。そしてヨーロッパではリディア、アキラとプリスカ、フィベのような善い協力者たちに恵まれました。善き協力者の彼ら・彼女らはパウロに不足している優れた面も持っていたことでしょう。この善き協力者たちとの交わりが、パウロをさらにきよめることにもつながったことでしょう。そして、ローマ人への手紙をコリントで書いた時は、パウロのきよめは一つの到達点に達したように思います。パウロはローマの教会員たちに書きました(週報p.2)。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 このようなことが書けるのは、パウロ自身がきよめられていたからこそだと思います。本人がきよめられていなければ、こういうことは、なかなか書けるものではないでしょう。

 さてしかし、獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書をローマで書いた時のパウロは、さらに、もっとずっときよめられているという印象を受けます。ローマ人への手紙をコリントで書いた時に比べると、別次元のきよめられ方であるという気がします。

 俳句の夏井いつきさんや梅沢富美男さんたちが出演して人気番組になった6チャンネルの『プレバト』という番組がありますね。俳句の他にも、水彩画や色鉛筆画など、いろいろなジャンルがあって、出演者たちが才能を競い合う番組です。そうして、特待生になると昇格試験があります。作品の出来が良いと、「1ランク昇格」とか「2ランク昇格」になり、稀には「3ランク昇格」もあります。

 パウロのきよめられ方を見るなら、「ローマ人への手紙」をコリントで書いた頃のパウロと比べると、その後で捕らえられてローマに送られ、獄中書簡を書いた頃のパウロのきよめられ方は、「5ランク昇格」と言えるぐらいに、「別次元」のきよめられ方であるように感じます。

 では、どのように「別次元」なのかを、これから見て行くことにします。これまで、この礼拝説教では、人は「御霊の実」を結ぶことできよめられて行くと話して来ました。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 しかし、獄中書簡のエペソ書・ピリピ書・コロサイ書からは別次元の壮大なスケールを感じます。ピレモン書はスケールの大きな手紙ではありませんが、パウロが壮大なスケールできよめられていたからこそ、ピレモンへの手紙のような一点の曇りもないきよい手紙が書けたのだと思います。ピレモン書は来週の礼拝説教で分かち合うことにして、きょうはエペソ書・ピリピ書・コロサイ書のスケールの大きさを、まずは分かち合いたいと思います。

②本題:a) 人間の側から神の領域に入ったパウロのきよめ
 本題に入って、まずコロサイ書の壮大なスケールの箇所をご一緒に見ましょう。コロサイ1章(週報p.2)、

コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 ローマ人への手紙を書いていた頃のパウロは、十分にきよめられていたとは言え、まだ人間の側にいるという印象を受けます。しかし、コロサイ人への手紙を書いているパウロは神様の領域に入っていることを感じます。もうほとんど神様と一体化している、それほどの領域に達していることをコロサイ1章15節から17節までの箇所から感じます。

 次にピリピ人への手紙を見ましょう。2章5節から11節です。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 ピリピ2章6節でパウロは「キリストは、神の御姿であられる」と書いています。この神の御姿とはコロサイ1章16節の万物を造られた御子のことです。御子はすべての造られたものより先に生まれ、万物を創造して支配されておられます。その御子が、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、人となって十字架の死にまで従われました。

 十字架は人間サイズです。人となられたイエス様が磔(はりつけ)にされた人間サイズのものです。しかし、ここに釘付けにされたイエス様は宇宙を創造された宇宙サイズの神様です。十字架は人間サイズですが、実は宇宙サイズの神様がここにギュッと凝縮されています。パウロはこの十字架に、天地万物を創造された宇宙サイズの神様の姿を見ていました。

 囚われの身となってローマで不自由な軟禁生活を送っていたパウロは、神の領域の側に入れられるまでにきよめられて、宇宙スケールの壮大な手紙を書くに至りました。それが最も良く表れているのが、きょうの聖書箇所のエペソ人への手紙3章だと思います。この箇所からは、本当に宇宙サイズの壮大なスケールを感じます。まず3章16節、

エペソ3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

 パウロはまず御父に、私たちの内に御霊が働いて強めてくださるようにと祈っています。そして17節で、私たちの心のうちに御霊の働きによってキリストが住むようにと祈っています。このことで、人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになって、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされるようにと祈っています。パウロ自身はきっとこの人知をはるかに超えたキリストの愛を理解して、神の豊かさに満たされていたのでしょう。それゆえ、これほどの壮大なスケールの手紙を書くことができたのでしょう。

 繰り返しますが、十字架は人間サイズですが、ここに磔(はりつけ)にされた御子イエス・キリストは万物を創造された宇宙サイズのお方です。それゆえ、キリストの愛も宇宙サイズです。夜の星空を見上げる時、私は自分とこの地域一帯がキリストの愛ですっぽりと覆われていることを感じます。特に夏の夜には、真上にハクチョウ座の巨大な十字架が見えます。この巨大な十字架を見上げる時、イエス様の十字架の愛に完全に覆われていることを強く感じます。そうして、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされるような感覚を味わいます。この田町の地域は、少し歩けば安倍川の河川敷に出て、夜の星空を見上げるのには好都合です。沼津の教会も海岸に近かったので星空を見上げるには良い場所でした。そして、安倍川に近いこの教会も、星空を見上げるには良い場所でしたから、とても感謝でした。

b) 旧約聖書の土台の上に築かれているパウロの信仰
 パウロがこれほどまでに神の豊かさに満たされるようになったのは、パウロの信仰の土台が旧約聖書によって、しっかりと据えられていたからでしょう。福音書やパウロの手紙などの新約聖書の信仰は、旧約聖書の信仰の土台の上に築かれています。新約聖書には「聖書」ということばが50回以上使われていますが、新約聖書が言う「聖書」とは、旧約聖書のことです。新約聖書は、旧約聖書の土台があってこその書物です。この土台があるからパウロの信仰の頂は高い所にあります。富士山にたとえるなら、旧約聖書の土台とは、富士山の五合目から下に広がる、広大な裾であると言えるでしょう。

 富士川付近を通過する時の新幹線の車窓から見える富士山の姿に人気があるのは、この広大な裾のほぼ全体が見えるからですね。私の友達には、新幹線の車窓から見える富士山の写真をSNSにアップしている人が何人もいます。富士山は山頂付近が見えているだけでも、うれしくなりますが、やはり五合目から下の裾までがしっかりと見えると、感動の度合いがぜんぜん違います。それはスケール感がぜんぜん違うからです。五合目から下の裾の部分がしっかりと見える富士山は、本当に壮大で美しいと思います。そして、聖書の旧約聖書とは、五合目から下の裾の土台の部分であると言えるでしょう。

 パウロが人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解していたのは、パウロの信仰の土台に旧約聖書があるからこそでしょう。

 きょうの聖書交読ではイザヤ書65章を交読しました。ここに「新しい天と新しい地」ということばが出て来ました。その部分をお読みします。イザヤ書65章の17節から19節まで(旧約p.1278)、

イザヤ65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

 これが旧約聖書が示している「世界の救い」のゴールです。そして、新約聖書のゴールも、究極的には「世界の救い」です。

c) 新約聖書のゴールは旧約聖書と同じ「世界の救い」
 これまでの礼拝説教で何度か引用したように、ヨハネの黙示録21章の1節と2節には、このように書かれています(週報p.2)。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 イエス様は十字架で死なれた後に復活して、また天に帰られました。ですから、天におられるイエス様は宇宙サイズのお方です。その天のイエス様が終末の時には再び天から降って来られます。そうして、新しい天と新しい地が地上に創造されます。それが神の王国です。ヨハネは続いて、次のように書いています。黙示録21章の3節と4節です。

3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 イザヤ書65章の預言と同じですね。つまり、新約聖書のゴールもまた、旧約聖書と同じ「世界の救い」です。私たちは、このことのために地上を整える役割を与えられています。私たちは五タラントや二タラント、一タラントなど、それぞれの能力に応じてイエス様からタラントを預けられている、しもべです。イエス様はいずれ天から地上に帰って来られますから、その時までに地上をできるだけ平和にしておくように働くことが期待されています。

 コロナ禍や戦争、むごたらしい殺人事件、大地震や地震による津波、温暖化による大雨など、気が滅入ることが多い今の世ですが、人知をはるかに超えたキリストの愛が私たちをすっぽりと覆っていることを感じるなら、その愛によって力づけられて、イエス様のために働くための力が与えられます。

③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい
 2月の24日で、ウクライナでの戦争が始まって1年になりました。この2月24日を挟むようにして、その前と後に、パウロのきよめの過程をご一緒に分かち合って来ました。私は何週間か前に、ローマ人への手紙を書いた頃のパウロが、きよめの一つの到達点であり、そこが私たちの目標ではないか、というような話をしたと思います。獄中書簡のパウロは、私たちたちには遠く及ばないほどのきよめられ方だと感じていたからです。或いは、私たち自身には当面は投獄されるような経験はしないだろうと思ったからです。

 でも、このシリーズを今週まで続けて来て思うことは、この獄中書簡のパウロに少しでも近づくのでなければ、世界はなかなか平和にならないであろう、ということです。

 来週は、同じ獄中書簡の一つのピレモンへの手紙をご一緒に見たいと願っています。このピレモンへの手紙は、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書を書いたパウロだからこそ書けた手紙であると感じます。かつてマルコが第一次伝道旅行の始めの段階で離脱したことを巡ってバルナバと激しい口論をした挙句に喧嘩別れをしたような時期のパウロであったら、決してピレモンへの手紙のようなきよい手紙は書けなかったでしょう。

 そうして思うことは、このピレモンへの手紙を書いた時のパウロに少しでも近づくことができるように祈り、御霊にきよめていただくのでなければ、戦争を繰り返す世の中に終わりは来ないで、このひどい世の中が続いて行くのではないか、ということです。せめてもう少し、この地上が平和になるように整えられなければ、なかなか新しいエルサレムは地上に降って来ないのではないか。それがいつのことかは天の父がお決めになることですから私たちには分かりませんが、私たちが預けられているタラントをもっと有効に使って、「よくやった、良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)と言っていただけるようにならなければ、主人であるイエス様は、この世に帰って来て下さらないのではないかという気がしています。

 そういうことを思いながら、来週はピレモンへの手紙をご一緒に見てみたいと思います。今週は駆け足でしたが、コロサイ書、ピリピ書、エペソ書の壮大なスケールの箇所を共に読みました。これらの手紙を書いたパウロに少しでも近づくことができれば、と思います。そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

エペソ3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
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神のすべての武具を身に着ける

2023-03-15 04:46:43 | 礼拝メッセージ
2023年3月12日礼拝説教
『神のすべての武具を身に着ける』
【エペソ6:10~19】

はじめに
 今年の礼拝説教では、これまでパウロの生涯を見て来ました。そしてパウロのどのような経験がパウロをきよめて行ったのだろうか、ということを考えて来ました。私たちの一人一人もパウロの経験とは違いますが、それぞれが様々な経験を通して、御霊の実を結んで、きよめられる恵みをいただいています。そうして、少しずつきよめられて行くなら、少しずつ神様が見えて来るようになります。

 すると、新たな疑問が生まれます。神様は確かにいらっしゃる。それなのに、どうして世界はこんなに悲惨で、痛みと悲しみに満ちているのだろうか?そのような疑問です。

 きょうは、このことをご一緒に分かち合ってみたいと思います。きょうの聖句はエペソ人への手紙6章11節です(週報p.2)。

エペソ6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

 ①背景:神様は確かにいる。ではなぜ世界は悲惨なのか
 ②本題:a) 世の人々が神様を知ることを妨害する悪魔
     b) 神の武具を身に着けて、悪魔の攻撃を防ぐ
     c) 神のことばは御霊の剣。御霊によって祈る
 ③適用:御霊の実を結ぶなら御霊により祈れるようになる

①背景:神様は確かにいる。ではなぜ世界は悲惨なのか
 いつも話していますが、パウロはとても激しい一面を持っていて、その激しさは恩人のバルナバと口論して喧嘩別れするほどでした。しかし、伝道旅行を続ける中で様々な経験をしてきよめられて行き、いわゆる獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書を書いた頃には、すっかりきよめられているという印象が手紙から感じられます。きょう開いているエペソ人への手紙も、その一つですね。獄中書簡というのは、パウロが囚人として囚われの身であった時にローマで書いた手紙です。

 人は、きよめられると、その分、神様がよく見えるようになります。それは、イエス様が山上の説教で、次のようにおっしゃったことから分かります(週報p.2)。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 人はきよめられる過程で、神様に逆らう罪が段々となくなって行きますから、その分、神様がよく見えるようになります。きっとパウロもきよめられて行く中で、神様のことがどんどんよく見えるようになって行ったのだと思います。

 でも、そうして神様がよく見えるようになればなるほど、別の新たな疑問が生じて、その疑問がどんどん大きく膨らむようになります。

 神様は確かにいらっしゃる。そうして私たちと共にいて下さり、守って下さっている。それなのに、どうして、この世の中は悲惨なことで満ちているのだろうか?という疑問です。この悲惨な世の中で苦しみ、悲しんでいる方々がたくさんいます。

②本題:a) 世の人々が神様を知ることを妨害する悪魔
 神様は、確かにいらっしゃる。それなのに、なぜこの世の中は、こんなに悲惨なのか、それは、きょうの聖書箇所のエペソ6章のパウロのことばが明らかにしています。エペソ6章10節と11節を、お読みします。

エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 悪魔がいて、悪魔が私たち人間と神様との関係を断ち切ろうとするから、この世の中は悲惨なことが多いのですね。ここでパウロは「悪魔の策略」ということばを使っていますが、パウロには悪魔の策略がよく見えていたのだと思います。きよめられて神様のことがよく見えるようになって来ると、それと同時に悪魔のこともよく見えるようになるのだと思います。

 悪魔は策略を練って、実に巧妙に人を神様から引き離そうとします。それは、創世記3章で蛇がアダムの妻のエバを誘惑したことからも、よく分かりますね。ここで創世記3章をご一緒に見てみたいと思います。旧約聖書のp.4です。創世記3章1節、

創世記3:1 さて蛇は、神であるが造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

 ここで悪魔は蛇の姿になってアダムの妻のエバに近づきました。これも悪魔の策略です。神様が、善悪の知識の木の実から食べてはならないと命じたのは、アダムに対してでした。創世記2章の16節と17節、

創世記2:16 神であるは人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 神様はアダムに対してこう言いました。妻のエバはこのことをアダムからは聞いていましたが、神様から直接聞いたわけでは多分ないでしょう。その分、脇が甘くなっていて悪魔から見れば、そこにつけ入る隙がありました。そうして3章1節で蛇はエバに「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と聞きました。この聞き方も本当に巧妙ですね。蛇にこう聞かれれば、エバが2節のように答えたのは当然でしょう。2節、

2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。」

 蛇はエバにこう言わせて、食べたくなるように仕向けて行きました。そして、さらにエバにこう言わせます。

3 「しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

 蛇はエバにこう言わせた上で、彼女に言いました。4節、

4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」

 これも、実に巧妙ですね。確かに、この後でエバが実を食べてしまった後、直ちには死にませんでした。しかし、霊的な命を失い、永遠の命を失ってしまいました。そういう霊的な観点からは神様の言われた通り、死んでしまいました。そうして、人は神様と豊かに交わる恵みをいただくことができなくなりました。

 このようにして、悪魔は巧妙に人に近づいて、人と神様との間の関係を断ち切ってしまいます。すると、人は神様に顔を隠し、背を向けるようになります。イエス様が十字架に付いたことで、この神様に背を向ける重い罪は赦されますが、悪魔の暗躍は使徒たちの時代でも、なお続いており、現代においても続いています。それゆえ今でも、世の中は悲惨なことで満ち溢れています。

b) 神の武具を身に着けて、悪魔の攻撃を防ぐ
 この悪魔の策略から身を守るために、神の武具を身に着けるようにとパウロは書いています。次のb) に移って、もう一度、エペソ6章10節と11節をお読みします。

エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 神のすべての武具を身に着けるなら、大能の力によって強められるのですね。
 12節以降も、読んで行きましょう。12節、

12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 この暗闇の世界の支配者たちが暗躍しているから、この世は悲惨なことで満ちているのですね。13節、

13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。

 この邪悪な日は、様々な解釈ができると思いますが、邪悪さの度合いが強まったり弱まったりしながら、この二千年間ずっと続いていると解釈することもできると思います。特に、この数年間は邪悪さの度が増し加わっているように感じます。新型コロナウイルスの世界流行、温暖化による大雨の被害、ロシアとウクライナの戦争、5万人以上が亡くなったと言われるトルコとシリアの地震など、これらはもっと被害を小さくとどめることもできたんだろうと思います。でも悪魔の策略につけ入る隙を与えてしまっているために、被害が大きくなって、しまっているのだと思います。

 そうして、「こんな悲惨なことが起きる世の中には、神なんていないんだ」と思う人も少なくないでしょう。しかし、これでは、悪魔の思うツボです。神様は確かにいらっしゃるのに、「神なんかいない。いたら、この悲惨な状況を放っておく筈がないではないか」、と思ってしまうように仕向ける、これが正に悪魔の策略です。この悪魔の策略に対抗できるように、神のすべての武具を取って身に着けるよう、パウロは勧めています。14節から16節、

14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。

c) 神のことばは御霊の剣。御霊によって祈る
 この14節から16節に書かれている武具は、身を守るための武具ですね。しかし、17節の「御霊の剣」の「剣」は、防御も兼ねますが、攻撃にも用いられる武具です。次のc) に移って、17節、

17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

 御霊の剣は「神のことば」なのですね。神のことばは悪魔の策略から身を守るだけでなく、悪魔を撃退する攻撃的な要素を持つということでしょう。聖書によって神のことばをたくさん身に着けるなら、それはすなわち悪魔をこの世から退散させることにつながります。

 逆に言えば、聖書の神のことばが疎かにされているから、世の中はこんなにも悲惨な状況になっている、と言うこともできるでしょう。私たちは神のことばを広くお伝えすることで、悪魔を退散させて行くことができたらと思います。

 そしてパウロはまた、「御霊によって祈りなさい」と書いています。18節と19節、

18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

 祈る時は、御霊によって祈ることが大切なのですね。御霊によって祈ることで天の父と御子イエス様に祈りが届けられて、応えていただくことができます。闇雲に祈るのではなく、御霊によって祈ることが大切であることを、パウロはエペソ人たちに、そして私たちに伝えています。

③適用:御霊の実を結ぶなら御霊により祈れるようになる
 では、どうすれば御霊によって祈れるようになるのか、ということになりますね。どういう祈りが御霊による祈りなのでしょうか?一つ確かなことは、世の中の多くの祈りは御霊による祈りではない、ということだろうと思います。多くの祈りが御霊による祈りであれば、こんな悲惨な世界にはなっていないのだろうと思います。

 御霊による祈りとは、どういう祈りなのか、御霊の実が結ばれるのなら、段々と分かって来るのではないでしょうか。パウロがガラテヤ人への手紙に書いたように、

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 御霊の実が結ばれて、愛と喜びと平安に満たされて、そのことに感謝しつつ祈るなら、御霊によって祈ることができるのではないでしょうか。単なる愛や喜びや平安ではなくて、この愛と喜びと平安は御霊によって与えられたのだと自覚しながら祈る時、それは御霊による祈りになるのではないでしょうか。

 御霊は私たちの心の内に入って下さり、御霊の実が結ぶように働いて下さり、きよめて下さいます。その御霊の働きを自分の内に感じつつ祈ること、それが御霊による祈りであろうと思います。

 そうして神様と豊かに交わる恵みを私たちはいただくことができます。しかし、悪魔はそんなことをさせまいと妨害します。それはとても巧妙な策略による妨害ですから、本当に神のすべての武具を身に着けなければ防ぐことは難しいでしょう。もう一度、エペソ6章の10節と11節をお読みします。

エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 私たちがきよめられて神様に近づけば近づくほど、悪魔の妨害も激しくなります。それは蛇がアダムの妻のエバを誘惑したように巧妙な策略によって為されます。私たちは神様のすべての武具を身に着けて、それを防ぎ、主イエス様と共に信仰の道を歩んで行きたいと思います。しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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パウロの役割・願い・悲しみ(2023.3.5 礼拝)

2023-03-07 04:24:13 | 礼拝メッセージ
2023年3月5日礼拝説教
『パウロの役割・願い・悲しみ』
【ローマ9:1~5、10:1】

はじめに
 今年の礼拝説教では、パウロの生涯に注目しています。パウロは激しい一面を持ち、その激しさは恩人であるバルナバと口論して別れてしまうほどでした。そんなパウロでしたが、アジア・ヨーロッパへの伝道旅行を続ける中で、きよめられて行ったように見えます。伝道旅行中の何がパウロをきよめて行ったのか?そのことを見て来ています。

 先週と先々週は、パウロに与えられた良き協力者の存在が、パウロのきよめにもつながって行ったのではないか、そんな話をしました。主はパウロの協力者として紫布の商人のリディア、パウロの手紙をコリントからローマに運んでくれた奉仕者のフィベ、そして同じ天幕職人のアキラとプリスカなどを与えて下さいました。そして、パウロは彼ら・彼女らの中に自分に足りない優れた面を見て互いに尊敬し合うようになり、御霊の実を結んで行ったのではないか、そんな話をしました。

 きょうはローマ人への手紙の9~11章に注目します。ローマ9~11章は、同胞のユダヤ人の救いを願うパウロの強い気持ちが、高く上がる噴水の水のように噴出しています。公園などにある噴水は、水の高さが数メートル程度の噴水もあれば、数十メートル上がるような、すごい噴水もありますね。日本一の噴水は何と百メートルを超えるそうです。世界一の噴水は二百メートルを超えるそうです。


広島・平和記念公園の噴水(2022年8月24日 筆者撮影)

 パウロがユダヤ人の救いを願う強い気持ちは、百メートル超えの噴水のように、噴出している、そんな風に感じます。この強烈な気持ち、でもそれが適わない悲しみ、それがパウロのきよめに関係しているように思いますから、きょうはそのことを分かち合いたいと思います。本日の聖句は、ローマ人への手紙11章13節です。

ローマ11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

  ①背景:伝道旅行を続ける中できよめられたパウロ
  ②本題:a) 同胞のユダヤ人の救いを願い祈るパウロ
      b) 呪われてもよいと思うほどの強烈な願い
      c) 同胞の救いが自分の役割ではない無力感
  ③適用:自分の強く願うことが役割になるとは限らない。
      私の役割は何だろうか?

①背景:伝道旅行を続ける中できよめられたパウロ
 ここでは、年表を見ながら、パウロの手紙がどの順番で書かれたかを見ておきたいと思います。後(のち)の手紙になるほど、パウロがきよめられているという印象を受けます。パウロの手紙は、概ね次の順番で書かれたと考えられています。

 ガラテヤ書、Ⅰテサロニケ、Ⅱテサロニケ、Ⅰコリント、Ⅱコリント、ローマ書、獄中書簡(ピリピ書・エペソ書・コロサイ書・ピレモン書)、Ⅰテモテ・テトス書、Ⅱテモテ


②本題:a) 同胞のユダヤ人の救いを願い祈るパウロ
 では、きょうの本題に入って行きます。まずローマ人への手紙10章1節、

ローマ10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

 パウロは彼らの救いを願い、祈っていました。この「彼ら」とは、同胞のユダヤ人、すなわちイスラエル人です。パウロは9章に書いています。9章4節と5節、

ローマ9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。
5 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

 パウロは、栄光も契約も律法の授与も礼拝も約束、彼らのものであると書きました。ここからは、ルカ15章の放蕩息子のお兄さんの「兄息子」への父のことばを思い出しますね。ルカ15章31節です(週報p.2)。

ルカ15:31 「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。』」

 このルカ15章の兄息子のように、ユダヤ人たちは父に背を向けていました。すべてが天の父から与えられているにも関わらず、背を向けて父の家に入ることを拒んでいました。

b) 呪われてもよいと思うほどの強烈な願い
 そんな風に天の父に背を向ける同胞のユダヤ人たちのことをパウロは、とても悲しく思い、救われることを願っていました。ローマ9章の1節から3節、

ローマ9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、
2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

 ここでパウロはまず、自分はキリストにあって真実を語り、偽りを言わないと述べた後で、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがある」と書いています。つまり、この悲しみと心の痛みは真実であって、偽りではないということです。パウロは同胞のユダヤ人たちが天の父に背を向けていることを悲しんでいました。そして、3節はもっと強烈です。

3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

 この悲しみの気持ちの噴出は、百メートル級の噴水のようだと思います。同胞たちが救われるためなら、パウロは自分がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っていると書いています。これは強烈ですね。私自身は、のろわれた者となって良いなどと、決して思いません。そんな恐ろしいことは考えたくもありません。でもパウロは違いました。イスラエル人が救われるなら、自分がのろわれることさえ厭いませんでした。何と強い気持ちでしょうか。私には想像すらできない強烈な気持ちだと思います。
 
c) 同胞の救いが自分の役割ではない無力感
 しかし、同胞が救われてほしいという願いがこれほどまでに強烈なのに、パウロに与えられている役割は同胞を救うことではなくて、異邦人を救うことでした。きょうの聖句のローマ11:13です。

ローマ11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。

 パウロは、自分が異邦人の救いのために遣わされていることを、よく自覚していました。使徒の働き22章でパウロは次のように証言しています(週報p.2)。

使徒22:21 「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」

 このように、パウロは自分に与えられた役割が異邦人を救うことであると、よく自覚していました。でも、そのことは、自分は同胞のユダヤ人を救うためには召されていないと自覚することでもあります。パウロの同胞の救いへの思いが強ければ強いほど、自分はそのためには召されていないと自覚することはパウロにとっては悲しいことであったと思います。主が力を与えて下さるのでなければ、私たちは何もできません。主が力を与えて下さるからこそ、私たちは何かをすることができます。主は私たちに役割を与え、その役割を果たすための力を与えて下さいます。

 パウロには同胞を救いたいという強烈な願いがありました。でも、そのための力を主は与えて下さらない。主が力を与えて下さらなければ自分は何もできないことをパウロはよく分かっていましたから、パウロは無力感に打ちひしがれたのではないかと思います。でも、この無力を自覚する時が、主を最も近くに感じる時でもあります。そうして、主を近くに感じることで御霊の実が結ばれて、パウロはますますきよめられて行ったのではないか、そのように感じます。

③適用:自分の強く願うことが役割になるとは限らない。私の役割は何だろうか?
 このパウロの事例は、自分が強く願っていることが、そのまま自分の役割になるとは限らないことを意味します。

 自分のことを考えると、私自身は平和への思いがかなり強くあります。でも、今回、このローマ9章から11章に掛けてのパウロの強い思いにも関わらず、主はパウロの願いのためには召し出しておられないのだということを示されて、改めて自分に与えられた役割とは何だろうか、主の御心を的確にとらえるように促されていると感じています。

 主の御心を的確に把握することは本当に難しいと思います。パウロでさえ、アジアの異邦人たちへの伝道が自分の役割だと思っていましたが、主はそれを禁じてヨーロッパへの道をパウロに示しました。それはパウロが次第にきよめられて行ったからこそ、主の細い声でも聞こえるようになったから、ということのように思います。主は、パウロをダマスコ途上で召し出した時には強烈な方法で、ご自身を現わしました。でも主は、いつもその様に強烈な方法で現れるわけではありません。大半は細い声でしか語り掛けて下さいません。それは、もっときよくなって、神の細い声が聞こえるようになりなさい、という励ましでもあると思います。

 イエス様は山上の説教でおっしゃいました。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 「神を見る」は、「見る」だけでなく御声を「聞く」ことをも含むでしょう。何が神様の御心に適うことなのか、神様の細い御声を聞くことができる者は、心がきよめられた者です。

 主が自分に本当に与えて下さっている役割は何なのだろうか、その御声をさやかに聞くために、私たちは御霊の実を結んできよめられたいと思います。

 パウロが同胞のユダヤ人たちが救われていないことを悲しみ、その救いを願い、祈っていました。その思いの強さは、もし同胞が救われるなら自分が呪われる者になってもかまわないとさえ思うほどでした。これほど強烈な願いを持ちながらも、それは自分の役割ではないことも同時にパウロは自覚していました。それがしっかりと自覚できていたのは、パウロがきよめられて神様の御声がよく聞こえていたからでしょう。きよめられていない間は自分の強い思いで行動をしがちです。でも、パウロはきよめられていて、自分の役割をよく自覚していました。パウロには神様の姿がよく見え、御声がよく聞こえていたのでしょう。

おわりに
 私たちも、神様の姿を見て、御声を聞きたいと願っています。

 今年の私たちの標語聖句は、ここに掲げているように、エペソ1:17です。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように」

 私たちも、このエペソ人への手紙を書いたパウロのように神様を知り、そして自分に与えられている役割をよく知ることができるよう、お祈りしたいと思います。

ローマ11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。
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パウロの良き同労者プリスカとアキラ(2023.2.26 礼拝)

2023-02-27 08:29:21 | 礼拝メッセージ
2023年2月26日礼拝説教
『パウロの良き同労者プリスカとアキラ』
【使徒18:1~11】

はじめに
 今年の礼拝説教ではこれまで、パウロの生涯を見て来ています。そして、ここ何週間かで注目していることは、パウロがどのようにしてきよめられて行ったのか、ということです。きょうも、そのテーマの続きです。きょうはパウロの同労者のプリスカとアキラに注目します。この二人との出会いもまた、パウロがきよめられていったことと関係しているように思います。
 きょうの聖句は、ローマ12:11としました。

ローマ12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 この聖句は、少し前の礼拝でも本日の聖句として掲げた聖句ですが、プリスカとアキラは正に勤勉で怠らず、霊に燃えて主に仕えたクリスチャンであったと思います。プリスカとアキラの夫妻はパウロと共にいた期間が長いですから、この二人がパウロに仕えていたような気が何となくしてしまいますが、そうではなくて、二人は主に仕えていました。そのことをきょうは皆さんと分かち合いたいと思います。

 きょうは次の構成で話を進めます。

  ①背景:パウロがきよめられた過程を知りたい
  ②本題:a) パウロと天幕を作ったアキラとプリスカ
      b) パウロの伝道旅行に同行した二人
      c) エペソを離れてローマに戻った二人
  ③適用:状況に応じて、主のために最善の働きをする

①背景:パウロがきよめられた過程を知りたい
 このところ、①の背景のパートは毎度、この「パウロがきよめられた過程を知りたい」にしていますが、きょうも同じです。ここ何週間かに話して来たことを、簡単に復習しておきたいと思います。

 パウロには非常に気性が激しい一面がありました。その激しさは、恩人であるバルナバと激しい口論をして喧嘩別れをするような形になってしまったほどです。しかし、いわゆる獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書を書いた頃のパウロは、すっかりきよめられていたように思います。何がパウロをきよくし、変えて行ったのか、そのことを見て来ています。

 一つは、パウロが弱い者にされたということです。パウロは行く先々で迫害の苦難に遭いました。またパウロ自身が肉体の「とげ」と呼ぶ病気を与えられて苦しみました。また、アジアでみことばを語るつもりで第二次伝道旅行に出発したのに、聖霊によってアジアでみことばを語ることを禁じられました。そういう経験が、自分の思いを手放して御霊にすべてを委ねることにつながり、きよめられて行ったのだろうと思います。自分の進むべき道を御霊に委ねて御霊に心を明け渡すなら、そのことが御霊の実を結ぶことにもつながります。御霊の実とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。自分の進むべき道を御霊に委ねることと、御霊の実を結んできよめられることとは、同時進行で進むのだろうということを話しました。

 また先週は、パウロに良き協力者たちが与えられたこともまた、パウロを変えて行ったのだろうという話をしました。主はパウロの第二次伝道旅行のヨーロッパでの最初の宣教地のピリピで紫布の商人のリディアを協力者として与えました。紫布はとても高価であったということですから、高価な商品を扱うリディアはとても裕福でした。彼女はパウロのヨーロッパ伝道への金銭的な援助を惜しまなかったことでしょう。

 また主は、パウロが第三次伝道旅行のヨーロッパ伝道の最終盤にコリントで書いたローマ人への手紙をローマへ届けた奉仕者のフィベを協力者として与えて下さいました。これらの協力者たちの中にパウロは自分にはない優れた部分を見て教えられ、このことでパウロの中に御霊の実が多く結ばれて、きよめられて行ったのではないか、そんな話をしました。

②本題:a) パウロと天幕を作ったアキラとプリスカ
 では、きょうの本題に入って行きます。きょうも先週の続きで、パウロに与えられた良き協力者についてです。きょうはアキラとプリスカに注目します。

 その前に、パウロの第二次伝道旅行でのヨーロッパ伝道の経路を簡単に見ておきたいと思います。16章の11節と12節、

使徒16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。

 ここは先週ご一緒に見た箇所ですが、アジアのトロアスから船でヨーロッパに渡ったパウロたちはピリピの町に入りました。それから17章の1節を見ると、テサロニケに行ったことが分かります。

使徒17:1 パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。

 そして、次に10節、

10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。

 さらに15節、

15 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。

 そして18章1節、

使徒18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。

 このようにパウロはピリピからべレア、アテネ、そしてコリントへと移動しました。ここで、後ろの地図13を見ましょう。

(地図13)

 では、使徒18章に戻ります。コリントの町でパウロはアキラとプリスキラの夫妻に遭いました。2節、

2 そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。

 アキラとプリスキラの夫妻は元々はアジアの北方のポントスの出身でしたが、所属していた教会はローマの教会でした。しかし、ローマの皇帝のクラウディウス帝がユダヤ人をローマから追放したために、コリントに来ていました。2節の続き、

2 パウロは二人のところに行き、3 自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

 アキラとプリスキラがパウロと同じ天幕作りの技術を持っていたことで、この三人は相当に親密な関係になったことが想像できます。当時、コリントの町にはまだクリスチャンはほとんどいなかったことでしょう。パウロが来たことで教会が建て上がったからです。ですから、互いに少数派のクリスチャン同士ということだけでも意気投合して、しかも同じ天幕作りの技術を持っていたことで、相当に親密な関係を築くことができたのでしょう。そうして、パウロはこのコリントの町に1年半という、かなり長い間、滞在しました。9節から11節、

9 ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
10 わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
11 そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

b) パウロの伝道旅行に同行した二人
 そして、パウロは1年半後にコリントを離れました。その時にプリスキラとアキラも同行しました。18節にそのことが記されています。

18 パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。

 そして、彼らはエペソの町に入りました。19節、

19 彼らがエペソに着くと、パウロは二人を残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じ合った。

 この時、パウロはエペソには短期間しか滞在しませんでした。20節と21節、

20 人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、パウロは聞き入れず、
21 「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。

 この時、プリスキラとアキラはエペソにとどまったようです。それは24節から26節に、次の記述があるからです。

24 さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。
25 この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
26 彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

 アポロがエペソに来た時、そこにプリスキラとアキラがいたということですから、この夫妻はパウロに同行しないで、エペソにとどまっていました。アポロはヨハネのバプテスマしか知らなかったということですので、イエス様が聖霊のバプテスマを授ける方であることまでは知らなかったようです。プリスキラとアキラは26節にあるように、アポロに神の道をもっと正確に説明しました。

c) エペソを離れてローマに戻った二人
 そして、プリスキラとアキラはその後にエペソを離れて以前いたローマに戻ったようです。パウロのローマ人への手紙16章3節と4節に、次のように書かれているからです(週報p.2)。

ローマ16:3 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。
4 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 これはローマの教会に宛てた手紙ですから、この時、プリスカとアキラはローマにいました。クラウディウス帝によるユダヤ人追放令が解除になり、それでローマに戻ることができたのでしょう。ローマの教会ではユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの対立が深刻になっていましたから、パウロはこの情報をプリスカとアキラから手紙を通じて教えてもらっていたのかもしれませんね。

③適用:状況に応じて、主のために最善の働きをする
 パウロがコリントの町で出会ったプリスカとアキラがその後、エペソの町までパウロと一緒に行った様子を見ると、この三人がいかに親密な関係にあったかが分かり、ついプリスカとアキラがパウロに仕えていたかのように思ってしまいそうになります。しかし当然ですが、プリスカとアキラはパウロに仕えていたのではなく、主に仕えていたのですね。二人はその時の状況に応じて、主のために最善の働きをしていました。

 ローマではローマの教会でローマの人々への伝道を熱心に行っていたことでしょう。しかし、クラウディウス帝のユダヤ人追放令でローマを離れなければならなくなりましたが、コリントの町でパウロと出会いました。それは主の計らいであったように思います。プリスカとアキラはパウロとコリントの町で1年半を共に過ごすことで、パウロから多くのことを学んだことでしょう。そして、パウロから学んだことを用いて、エペソでも良い働きをして、やがてユダヤ人追放令が解除されたローマに再び戻って行きました。ローマでの働きもまた、期待されていたということでしょう。このように、プリスカとアキラはその時の状況に応じて、主のために最善の働きをしました。

 本日の聖句のローマ12:11をもう一度、お読みします。
 
ローマ12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 プリスカとアキラは、まさに勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えていた奉仕者であったと思います。そんな二人をパウロはすぐれた者として尊敬していたことでしょう。この11節の一つ手前の10節は、先週ご一緒に分かち合った聖句です。ローマ12:10です(週報p.2)。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 パウロはプリスカとアキラをすぐれた者として尊敬し、そしてプリスカとアキラももちろんパウロをすぐれた伝道者として尊敬していました。プリスカとアキラ、そしてパウロは兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う者同士でした。

 この三人は御霊の導きによって巡り会ったとも言えるでしょう。そして、そのことでさらに御霊の実が結ばれて、きよめられていったことでしょう。プリスカとアキラは御霊に導かれてローマに戻り、パウロも御霊に導かれて、エルサレムに戻って捕らえられ、やがて囚人としてローマに送られました。

 私たちもまた御霊にすべてをお委ねして、御霊に導かれながら、勤勉で怠らず、霊に燃え、主にお仕えするお互いでありたいと思います。御霊は様々な人との新しい出会いも与えて下さるお方ですから、このことも覚えて感謝したいと思います。

 これらのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

ローマ12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
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主が備えて下さった良き協力者(2023.2.19 礼拝)

2023-02-20 13:12:42 | 礼拝メッセージ
2023年2月19日礼拝説教
『主が備えて下さった良き協力者』
【使徒16:11~15】

はじめに
 今年からの礼拝説教では、パウロの生涯に注目しています。パウロがどのように信仰を深めて行ったのかを知ることで、私たちもそれに倣って信仰を深めて行くことができたらと願っています。そして、神様についても、パウロのように深く知る者としていただけたらと願っています。

 きょうの聖句は、少し前も同じ聖句を掲げましたがローマ人への手紙12章10節です。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 やはり、このローマ12:10が、パウロのきよめの一つの到達点ではないか、という気がします。このローマ人への手紙を書いた頃のパウロは、まだローマへ行ったことがありませんでした。この手紙を書いてから何ヶ月か後にパウロはエルサレムで捕らえられて囚人となり、2年ほどをカイサリアで過ごします。そして、その後でローマに送られて、ローマで軟禁生活を送ります。その時にパウロは、いわゆる獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書をローマで書きました。これらを読むと、ローマ人への手紙を書いた頃のパウロよりも、さらにきよめられているという印象を受けます。囚人として不自由な生活をする中でパウロはさらに変えられて行ったのでしょう。

 しかし、それ以前の、まだローマに行ったことがない時にローマ人への手紙を書いた頃でもパウロは十分にきよめられていて、ここが一つの到達点であったという印象を受けます。そして、私たちはここを目標にすべきではないかと感じます。それは、私たちが獄中生活を送る可能性はまずないからです。普通に生活する中での一つの到達点が、ローマ人への手紙を書いたパウロであるように思います。それで、きょうもローマ12:10を本日の聖句としました。

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

  ①背景:パウロがきよめられた過程を知りたい
  ②本題:a) 主はリディアを備えて与えて下さった
      b) ローマへの手紙を運んだ奉仕者フィベ
      c) 協力者たちの無私の働きに心洗われる
  ③適用:互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う

①背景:パウロがきよめられた過程を知りたい
 このパートの表題は先週も掲げました。パウロは、第二次伝道旅行に出発する時に、恩人であるバルナバと口論をして、喧嘩別れをするような形になってしまいました。その時のパウロはまだ御霊の実を十分に結んでおらず、きよめという点からはまだ十分ではなかったという気がします。そんなパウロがどのようにして、きよめられて行ったのか、そのことを分かち合って、私たちの信仰生活にも適用したいと思います。

 先週話したことの一つは、パウロが弱い者とされたということです。パウロは行く先々で迫害を受けました。また、パウロが肉体の「とげ」と呼ぶ、おそらくは病気を与えられて、すっかり弱っていました。パウロは、そのとげを取り除いてほしいと主に願いましたが、しかし主は、次のように答えたとパウロは書いています。

Ⅱコリント12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 こうして、パウロは弱くされることで強がることを手放し、そのことできよめられて行ったのだろうという話をしました。そして、もう一つ、これが先週の本題でしたが、パウロはアジアでみことばを語るつもりでいましたが、それを聖霊によって禁じられ、さらにアジアの北方に行こうとしましたが、それもイエス様の御霊によって許されませんでした。アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられていた間、パウロはとてもつらかっただろうと思います。しかし、このことで、パウロは自分の勝手な思い込みを手放して、すべてを御霊の導きにお委ねして、そうしてヨーロッパのマケドニアへの道が示されました。

 御霊の導きに従うことは、御霊に心をすべて明け渡すことですから、そのことで御霊の実も結ばれて行きます。自分が進むべき道を御霊にお委ねして導いていただくことと、御霊の実を結んできよめられることとは同時進行で進むのでしょう、そういうことを先週は話しました。

②本題:a) 主はリディアを備えて与えて下さった
 きょうは先週に続いて使徒の働き16章を開きます。まず先週読んだ箇所ですが、9節と10節をお読みします。

使徒16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

 こうして主によって、ヨーロッパのマケドニアに渡ることが示されたので、パウロたちは船でマケドニアに向かいました。11節と12節、

11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。

 ここに「私たち」と書いてありますから、このマケドニアへの旅には使徒の働きの記者のルカも同行していました。ルカが人から聞いたことを書いたのではなくて、自分が実際に見たことを書いていますから、正確さという点では、これよりも正確な記事はないと思います。彼らはピリピの町に滞在しました。ピリピはマケドニア地方の主要な町です。そして、13節と14節、

13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。

 ここにリディアという名の女性がいました。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」とありますから、リディアは主が備えて下さり、主がパウロに与えて下さった良き協力者ですね。彼女はバプテスマを受けました。15節です。

15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。

 リディアはパウロたちに家に来て泊まってほしいと懇願しました。「無理やり私たちにそうさせた」とありますから、記者のルカもリディアの家に泊まりました。紫布はとても高価なものだったそうですから、それを仕入れて売る商人は当然、お金持ちでしょう。聖書辞典の『新エッセンシャル聖書辞典』で「紫布」の項目を調べると、次のように書いてあります(週報p.2)。

紫・紫布:地中海のアッキ貝の腺から分泌される液が紫の染料とされ、きわめて少量しか採集できず高価で、王家か裕福な人々しか入手できなかった。

 このような高価な紫布を扱うお金持ちの商人のリディアを、主はパウロのヨーロッパ伝道の最初の地で備えていて下さり、協力者として与えて下さいました。パウロのヨーロッパ旅行への資金面での援助を、リディアは惜しまなかったことでしょう。

 パウロは天幕作りの職人としての腕も持っていましたから、自分でお金を稼ぐこともできました。自分で稼いで自分の力で生きて行くこともできました。後に行くコリントの町では、そうした生活をしていた時期もありました。しかし、ヨーロッパ伝道の入口のピリピでは、そういうことも手放して、協力してくれる人々に生活の糧を委ねることも、主はパウロに教え込んで行ったのだろうと思います。そうして、それらの協力者との交わりを通じて、御霊の実を結んで行ったのではないかなと、そのように思います。

b) ローマへの手紙を運んだ奉仕者フィベ
 次に進んで、そのような協力者の一人のフィベのことも分かち合いたいと思います。ローマ人への手紙16章を開いて下さい(新約p.323)。1節と2節をお読みします。

ローマ16:1 私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。
2 どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。

 フィベはケンクレアの教会の奉仕者の女性でした。新改訳の第3版では「奉仕者」を「執事」と訳していましたね。フィベは多くの人々の支援者であったそうですから、ピリピのリディアのようにお金持ちだったのかもしれません。

 パウロは第二次伝道旅行に続いて第三次旅行でもまた訪れたコリントの町でローマの教会宛ての手紙を書き、それをコリントの隣町のケンクレアの教会のフィベに託して、ローマまで持って行ってもらいました。その手紙の最後の16章でパウロは、ローマの教会の人々に、フィベを歓迎して、どんなことでも助けてあげてくださいと書きました。

 そして、フィベの他にも、次々と協力者たちの名前を挙げています。3節と4節のプリスカとアキラについては、来週、皆さんと分かち合いたいと願っていますが、予告編的に、3節と4節を読んでおきたいと思います。

3 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。
4 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

 そうして、5節以降でもパウロは次々と協力者たちの名前を挙げています。

c) 協力者たちの無私の働きに心洗われる
 主はパウロにたくさんの良き協力者たちを与えて下さいました。この協力者たちは皆、無私の心でパウロと教会を支えていたことでしょう。そういう良き協力者たちの無私の働きにパウロの心は洗われて、きよめられて行ったということは、大いに考えられることです。いつも引用している御霊の実の多くは対人的な事柄に関係しています。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。

 パウロの協力者たちの中には、パウロよりも、もっと御霊の実を多く結んでいた者たちもいたことと思います。そういう人々に助けられて行く中で、パウロの御霊の実もまた結ばれて行ったのではないか、そのように思います。

③適用:互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う
 きょうの聖句のローマ人への手紙12章10節をお読みします。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 パウロは主が彼に与えて下さった良き協力者たちの中に、自分よりすぐれた部分を見出し、尊敬し、愛し合うことできよめられ、御霊の実を結んで行ったことを感じます。

 新約聖書にはパウロの手紙が13通収められています。その13通の中で一番早く書かれたのが、ガラテヤ人への手紙です。ガラテヤ人への手紙は、パウロがバルナバと喧嘩別れをする前に書かれていて、パウロの激しさが良く表れている手紙だと思います。その激しい手紙の3章1節でパウロは(週報p.2)、

ガラテヤ人3:1 ああ、愚かなガラテヤ人。

と書いています。こんな風に書かれたら、ガラテヤ人の中にはパウロに反発して、余計に離れて行った者たちもいたかもしれません。或いはガラテヤ2章12節と13節ではペテロとバルナバの個人名を挙げて批判しています。

ガラテヤ2:12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。

 こういう個人名を挙げた手紙を、ケファとバルナバの本人たちが知らないところで書いて教会に送ってしまうのは、あまりよろしくないのではないかという気がします。手紙を送った相手が教会ではなく個人で、しかも教会の事情をよく知っている人なら、大丈夫なのかもしれません。しかし、パウロが手紙を送った先は、大勢の人が読む教会であり、しかもパウロ自身が「ああ、愚かなガラテヤ人」と嘆くような、まだ信仰が確立していない教会です。そのような教会宛ての手紙でケファとバルナバの個人名を挙げて批判すると、思わぬ誤解が生じる危険もあるでしょう。

 ですから、パウロはケファとバルナバのことを書くことは控えるべきだったでしょう。でも、よほど腹が立っていたのか、パウロは自制が効きませんでした。そして、寛容でも柔和でもありませんでした。寛容と柔和と自制は御霊の実です。パウロには寛容と柔和と自制の実が、まだ結ばれていなかったように思います。第二次伝道旅行に出発する時に、マルコの同行を巡ってバルナバと口論になったのも、寛容と柔和と自制が十分でなかったために、言わなくても良いことまで言ってしまったのかもしれません。私自身も御霊の実が十分でないために、やらかしてしまうことがしばしばですから、御霊の実は、とても大切だと思います。

 パウロもまだまだでしたが、ヨーロッパでの伝道旅行で、多くの良き協力者が主から与えられて、それらの人々と交わる中で、協力者たちのすぐれた部分を見て、尊敬し合うようになって、パウロはきよめられて行ったのではないか、これが、きょう皆さんと分かち合いたかったことで、私たちもまた互いに尊敬し合うことで、きよめられて行きたいと願います。

おわりに
 主は、パウロが第二次伝道旅行でヨーロッパ伝道を開始した時に協力者のリディアを与えました。そして、第三次伝道旅行のヨーロッパ伝道の締め括りの時にはローマ人への手紙をローマへ届けたフィベを与えて下さいました。

 そうして彼女たちのような良き協力者たちが与えられたことで、パウロはきよめられて行きました。私たちもパウロがローマ人への手紙12章10節で書いたように、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合うことで御霊の実を結んで、御霊にきよめて行っていただきたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
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イエスの御霊がそれを許されなかった(2023.2.12 礼拝)

2023-02-13 10:34:32 | 礼拝メッセージ
2023年2月12日礼拝説教
『イエスの御霊がそれを許されなかった』
【使徒16:6~10】

はじめに
 先週はパウロとバルナバが第二次伝道旅行に出発する時にあった出来事に注目しました。

 パウロは第一次伝道旅行で訪れた町をもう一度訪ねようとバルナバに提案して、バルナバも承知しました。その第二次伝道旅行にバルナバはマルコを連れて行こうとしました。しかし、マルコは第一次伝道旅行が始まった早々に一行から離脱してエルサレムに帰ってしまっていました。そんな者を連れて行くわけにはいかないとパウロは考え、そのことでバルナバと口論になって喧嘩別れをするようなことになってしまいました。使徒の働き15章には、このように書いてあります。15章39節と40節です。

使徒15:39 こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、
40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。

 バルナバという名前には「慰めの子」という意味があるそうですから、バルナバは穏やかな性格を持っていたと思われます。しかも、バルナバはパウロにとっては大恩人でした。パウロが回心したばかりの頃、エルサレムの使徒たちは警戒してパウロに会おうとしませんでした。そんなパウロと使徒たちの間をバルナバが取り持ってくれたために、パウロは使徒たちと親しく交わることができるようになりました。また、その後、パウロは故郷のタルソに長い間引っ込んでいるような形になっていましたが、そんなパウロをバルナバはタルソまで捜しに行ってアンティオキアの教会に連れて来ました。このことでパウロは異邦人への伝道者として本格的に用いられることになりました。ですから、パウロにとってバルナバは大恩人でした。

 そんなバルナバと喧嘩別れをするようなことになったパウロは、まだまだ御霊の実を結んでいなくて、十分にはきよめられていなかったのではないか、先週はそのように話しました。きょうは、その続きです。

 きょうの聖句は、ガラテヤ人への手紙5章22節と23節です。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。

 そして、次の構成で話を進めます(週報p.2)。

 ①背景:パウロがきよめられた過程を知りたい
 ②本題:a) アジアでの宣教を聖霊に禁じられた
     b) イエスの御霊が北上を許さなかった
     c) ヨーロッパに渡るよう幻で示された
 ③適用:御霊の導きに委ねてきよめられて行く

①背景:パウロがきよめられた過程を知りたい
 バルナバと別れた頃のパウロはまだ十分にきよめられていなかったような印象を受けます。しかし、いわゆる獄中書簡と呼ばれるエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙などを読むと、これらの手紙を書いた頃のパウロは十分にきよめられていたことを感じます。

 では、バルナバとの別れから獄中書簡を書くまでに何があって、どんな経験がパウロをきよめて行ったのだろうかということは、とても興味深い問題です。単に興味深いだけでなく、それが何であるのかを私たちの信仰にも適用することで、私たちもまたきよめられるでしょう。きょうは、これらのことを分かち合いたいと思います。

 まず考えられるのは、パウロが行く先々で迫害に遭ったことです。かつてパウロは、自分が迫害する側の者でしたが、イエス様を宣べ伝える者に変えられてからは、逆に迫害される側になりました。これらの経験を通してイエス様もまた十字架で苦しまれたことをより深く理解するようになり、きよめられて行ったことは、十分に考えられることです。

 しかし、パウロは第一次伝道旅行でも迫害に遭っています。その第一次伝道旅行で迫害に遭った経験を積んでもなお、その後でバルナバと喧嘩別れをしています。迫害を受けたことによってきよめられて行ったことは確かだとは思いますが、それだけでは十分ではなかったようです。

 或いはまた、パウロはコリント人への手紙第二で肉体にとげを与えられたと書いています(週報p.2)。

Ⅱコリント12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 この「とげ」が何であったのか、はっきりしたことは分かっていませんが、何らかの病を抱えていたと考えられます。パウロは、この病が取り除かれるように懸命に祈りましたが応えられず、それゆえに自分の思いを手放すべきことを学びました。そうして、すべてを手放して十字架に付けられた弱いイエス様と一つになってきよめられ、きよめられたがゆえに強い者とされました。

②本題:a) アジアでの宣教を聖霊に禁じられた
 さてしかし、自分の思いを手放すことは、なかなか難しいことです。パウロがどのようにして自分の思いを手放すことができるようになって行ったのか、そのヒントが今日の聖書箇所の使徒の働き16章にあるように思います。まず16章の1節を見ておきましょう。

使徒16:1 それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。

 地図は後から見ます。とりあえずデルべとリステラの町に行ったことを覚えておいて下さい。このリステラの町にいたテモテを、パウロは一緒に連れて行くことにしました。それから6節、

6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。

 この「聖霊によって禁じられた」とは、どういうことでしょうか?恐らくは、この時はアジアでみことばを語る状況にはなかった、ということではないかと想像します。聖霊が直接の語り掛けで「ここでみことばを語ってはならない」と言ったということではなく、たとえば飢饉などが考えられるかもしれません。パウロとシラスは旅行者で、食料を多く持っていたわけではないと思いますから、飢饉の地に入って行っても何の助けもできません。これはあくまでも例えばの話で、そのようにみことばを語ることができるような状況になかった、ということではないかと思います。

 みことばを語れないでいる中、パウロはとても困惑していただろうと思います。みことばを語るためにアンティオキアを出発したのに、聖霊によって禁じられるとは、どういうことだろうか、とても困惑していたと思います。みことばを語ることが自分に与えられた使命であるのに、それを禁じられるとは、どういうことかと、いろいろ思い悩みながら、長い道中の歩みを進めていたと思います。あとで地図を一緒に見ますが、長い道中を、みことばを語れないままにパウロは歩みを進めました。

b) イエスの御霊が北上を許さなかった
 続いて7節と8節、

7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
8 それでミシアを通って、トロアスに下った。

 今度は、「イエスの御霊がそれを許されなかった」とあります。パウロはビティニアに進むことができませんでした。これも、御霊から「許しません」というような語り掛けがあったということでなく、道路が自然災害で通れなくなっていたとか橋が落ちていたとか、そういう類のことではないかと思います。いずれにしても、パウロは自分で行こうと決めた道を進むことができませんでした。

 ここで地図を見ましょう。巻末の地図13です。パウロの第二次伝道旅行の経路を見て下さい。パウロとシラスはアンティオキア(今回の地震の震源地付近)を出発して陸路でまずキリキア地方に向かいました。地図ではタルソに寄ったことになっています。使徒の働きにはタルソに寄ったとは書いてありませんが、タルソはパウロの故郷ですから、寄ったに違いないということなのでしょう。そして、デルべとリステラの町に行きました。先ほどの1節で見たように、このリステラにテモテがいて、パウロはテモテを一緒に連れて行きました。

 そして、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギアとガラテヤの地方を通過してミシアの近くまで来ました。そこから北方のビティニアに行こうとしましたが、イエスの御霊がそれを許しませんでした。どういう状況であったのか分かりませんが、先ほど話したように、たとえば道路が自然災害によって通れなくなっていたとか橋が落ちていたとか、そういうようなことなのかもしれません。

c) ヨーロッパに渡るよう幻で示された
 それでミシアを通ってトロアスまで来ました。このトロアスでパウロは幻を見て、船でヨーロッパ方面へ向かうことになります。トロアスの西(西北西)の方向にマケドニアと書いてありますね。このマケドニアはヨーロッパにあります。パウロたちはここへ向かうことになりました。

 使徒16章に戻りましょう。9節から11節、

9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。

 10節に、「私たち」とありますから、この使徒の働きの記者のルカも一緒でした。どの段階でルカが合流したのかは分かりませんが、ともかくもパウロが幻を見た時にルカは一緒にいましたから、ルカはこの幻の話を人づてではなくてパウロから直接聞きました。

 これは全くの想像ですが、パウロは自分が御心であると確信していたことを聖霊によって禁じられ、またイエス様の御霊に許されなかったことで困惑して思い悩み、そのことでもしかしたら体調を悪くしていたのかもしれません。それゆえ、医者のルカが同行するようになったのかもしれません。ルカが医者であることは、パウロがコロサイ人への手紙4章に書いています(週報p.2)。

コロサイ 4:14 愛する医者のルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

 パウロが体調を崩したから、ルカが呼ばれたというのは全くの想像ですが、そうでなかったとしても、パウロが精神的に不調であったことは確かであろうと思います。自分が確信していたことを聖霊によって禁じられ、またイエス様の御霊によっても許されず、どうしたら良いのか困惑して途方に暮れて、精神面では最悪だったことでしょう。そんな時にマケドニア人の幻を見て、パウロはがぜん元気を取り戻したことでしょう。

 神様の御心は、パウロにヨーロッパに渡って伝道して欲しいということでしたが、パウロはアジアでの宣教、或いは北方のビティニアでの宣教が御心であると勝手に確信していました。それゆえ天の神様は聖霊を通して、パウロにそれらの独りよがりの確信を手放して、すべてを御霊に委ねるよう迫り、パウロを変えて行きました。

 そうして、パウロは自分の思いを手放し、御霊にすべてを委ねることで、次第にきよめられて行ったのだろうと思います。

③適用:御霊の導きに委ねてきよめられて行く
 御霊の導きにすべて委ねるということは、すべてを手放して御霊に心を明け渡すということです。すると、御霊が心の内に入って下さり、それによって御霊の実を結んできよめられて行きます。自分の進むべき道を御霊に委ねて御霊の導きを仰ぐのと、御霊の実を結ぶこととは、同時進行で進むのだと思います。どちらも自分を御霊に明け渡さなければできないことだからです。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。

 パウロは、自分の進むべき道を御霊に委ねることで、心の中もきよめられていったのでしょう。バルナバと喧嘩別れをした時には、まだまだ十分にきよめられていなかったように思いますが、自分が確信して目指して行った宣教の地を聖霊によって禁じられ、またイエス様の御霊に許されなかったことで、自分の思いを手放すべきことを教えられて、次第にきよめられて行ったのだろうと思います。

おわりに
 自分の思いを手放すことは、なかなか難しいことではありますが、私たちも御霊に導かれて行くことができるように、少しずつでも自分の思いを手放して、御霊にお委ねして、御霊の実を結んで行くことができる、お互いでありたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。
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恩人のバルナバと別れたパウロ(2023.2.5 礼拝)

2023-02-06 09:17:38 | 礼拝メッセージ
2023年2月5日礼拝説教
『恩人のバルナバと別れたパウロ』
【使徒15:36~41】

はじめに
 礼拝説教では今年からパウロの生涯について分かち合っています。パウロの生涯と信仰を学ぶことを通して、パウロが神様を深く知ったように、私たちも神様のことを深く知りたいと願っています。

 パウロは、元々はイエス様の弟子たちを迫害する側の人でした。ユダヤ人たちがステパノを石で打ち殺した時、パウロもユダヤ人たちと同じ考えを持っていました。ステパノが殉教した後、パウロはエルサレムでイエス様の弟子たちを激しく迫害し、弟子たちがエルサレムから散らされてからは、エルサレムの外にまで出掛けて行って迫害するようになりました。

 そうしてダマスコにいる弟子たちを迫害しに向かう途中で突然イエス様が現れたことで、パウロの人生は180度変えられました。それまではイエス様の弟子たちを迫害していたパウロですが、今度は一転してイエス・キリストの福音を宣べ伝える側の者になりました。先月はそこまでを分かち合いました。

 回心したパウロはその後、教会宛てに、そして個人宛に多くの手紙を書き、その一部が新約聖書に収められています。パウロが生涯で書いた手紙がいったい何通あるのか、恐らくは膨大な手紙を書いたのではないでしょうか。新約聖書に収められているのは、そのほんの一部ではないかと思います。

 それらの手紙を読むと、パウロが聖められた使徒だという印象を受けます。しかし、使徒の働きと合わせて丁寧に読むなら、まだ十分に聖められていなかった時代もあった様子が見て取れます。きょうはそのことを分かち合いたいと願っています。

 きょうの聖句は、ローマ人への手紙12章10節です。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

 ①背景:第一次伝道旅行の序盤で離脱したマルコ
 ②本題:a) パウロにとっては大恩人のバルナバ
     b) バルナバとの別行動を決めたパウロ
     c) 霊的にはまだ成長途上だったパウロ
 ③適用:互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う 

①背景:第一次伝道旅行の序盤で離脱したマルコ
 きょうの説教のタイトルは『恩人のバルナバと別れたパウロ』です。パウロにとってバルナバは大恩人でした。パウロは、その大恩人のバルナバと激しい口論をした挙句に別行動を取ることになりました。ここからはパウロの激しさが見て取れて、まだまだ十分に聖められていなかったように見えます。きょうはそのことを分かち合いますが、そもそも、どうしてパウロとバルナバが口論することになったのか、その原因を先ず見ておくことにします。

 使徒の働き13章をご一緒に見ましょう。13章の1節から5節までをお読みします。ここには、アンティオキアの教会にいたパウロとバルナバが、第一次伝道旅行に出発することになった時のことが書かれています。この時のパウロはまだサウロと呼ばれていました。

使徒13:1 さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟(ちきょうだい)マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。
2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
3 そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。
4 二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、
5 サラミスに着くとユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ伝えた。彼らはヨハネも助手として連れていた。

 2節に、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われたことが書かれています。聖霊は天の父とイエス様が天から遣わす神の霊ですから、これは天の父とイエス様からの命令です。そうして、まずキプロス島に向かいました。

 後で地図をご一緒に見ますが、その前にマルコのことを見ておきましょう。5節に、この第一次伝道旅行にはヨハネも助手として加わっていたことが書かれています。このヨハネとはマルコのことです。そして、マルコはこの旅行の始まった序盤の段階で離脱してしまいました。13節、

13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。

 ここで、巻末の地図13を見ましょう。ここに、パウロの第1次伝道旅行の経路が描かれています。そして、マルコがエルサレムに帰ったことも地図に描き込まれています。出発地点はアンティオキアで、パウロたちは先ず船でキプロス島に向かいました。そして、最初の伝道をキプロス島で行った後で、パポスから船出してアジアのペルゲに向かいましたが、ここでマルコが離脱してエルサレムに帰ってしまいました。第一次伝道旅行が本格化するのは、ペルゲに上陸してからで、この後、ガラテヤ地方などに向かいます。つまり、マルコは第一次伝道旅行が本格化する前に早々に離脱してしまいました。どうして離脱したのかは、書かれていないので(興味深い問題ではありますが)、きょうは触れないでおきます。

②本題:a) パウロにとっては大恩人のバルナバ
 パウロにとって、バルナバは大恩人でした。まだ回心して間もない頃にパウロはエルサレムに行ったことがありました。使徒の働き9章の26節から28節、

使徒9:26 エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。
27 しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。
28 サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。

 バルナバがパウロを引き受けてくれたから、パウロはエルサレムにいた使徒たちとの交わりに入れてもらうことができました。使徒たちとの交わりの中に入れてもらうことができたことは、パウロにとって非常に大きなことだったと思います。このことだけでもバルナバは大恩人です。

 そして、その後、パウロは長い間、故郷のタルソで過ごしていました。このパウロをタルソまで探しに行ってアンティオキアに連れて来たのも、バルナバでした。使徒の働き11章の25節と26節、

使徒11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

 このように、バルナバがパウロをアンティオキアに連れて来たことで、パウロの異邦人への伝道活動が本格的に開始されました。バルナバがいたからこそパウロは本格的に用いられるようになり、そうしてパウロの手紙が新約聖書に収められて、二千年を経た今も読み継がれています。また、バルナバがパウロをアンティオキアに連れて来なければ、後にパウロがヨーロッパ方面にまで伝道することはなく、キリスト教はエルサレムとアンティオキアを中心にした狭い地域のみの宗教で終わり、世界中に広まることもなかったかもしれません。

b) バルナバとの別行動を決めたパウロ
 さてしかしパウロは、その大恩人のバルナバと喧嘩別れするようなことになってしまいました。その経緯が、きょうの聖書箇所に書かれています。まず15章36節、

使徒15:36 それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」

 ここから第二次伝道旅行が始まります。パウロはバルナバに第一次伝道旅行で行った町を再び訪れて、兄弟たちがどうしているか見て来ようと言いました。そうして、出発することになりましたが、37節、

37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。

 実は、マルコはバルナバのいとこでした。コロサイ人への手紙4章10節でパウロは次のように書いています(週報p.2)。この時にはパウロとマルコの関係は回復していたようです。

コロサイ4:10 私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。

 バルナバはいとこのマルコにもう一度チャンスを与えたかったのですね。しかし38節、

使徒15:38 しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。

 先ほどご一緒に地図を見たように、マルコは第一次伝道旅行が本格化する前の序盤で早々に離脱してしまいました。パウロにしてみれば、こんなひ弱な若者を一緒に連れて行ったら、足手まといになるばかりだと考えたのでしょう。39節と40節、

39 こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、
40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。

 こうして、パウロとバルナバは互いに別行動をすることになり、バルナバはマルコと共に船でキプロス島(バルナバの故郷)へ向かい、パウロは41節にあるようにシラスと陸路でシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけました。

c) 霊的にはまだ成長途上だったパウロ
 さて、ここでこのパウロの態度が「御霊の実」という観点から見てどうだったかを考えたいと思います。ご承知の方も多いと思いますが、バルナバという名前には「慰めの子」という意味があります。使徒4章36に、そのことが書かれています(週報p.2)。

使徒 4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも…

 この「慰めの子」という名前からは、バルナバの性格が穏やかであった様子が伺えます。ですから、パウロがマルコの同行に反対した時も、最初から激しい議論にはなったわけではないと思います。反対するパウロに、バルナバは穏やかに、「まあ、そんなこと言わずにマルコにもう一度チャンスを与えようよ」という感じでやんわりと言ったのではないかなと思います。それでもパウロが強硬に反対したので、バルナバも段々と熱くなって来て、ついには激しい議論になってしまったんでしょう。そういう様子が目に浮かぶようです。

 「慰めの子」であるバルナバを熱くさせて怒らせたパウロは、良くなかったんじゃないかな、という気がします。マルコは単なるひ弱な若者ではなくて、非常に将来性を秘めた器でした。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書のうち、最初に書かれたのがマルコの福音書であると言われています。マルコはお手本なしで、素晴らしい福音書を書きました。マルコの福音書がなければ、もしかしたらマタイとルカ、そしてヨハネの福音書は書かれなかったかもしれません。福音書を最初に書くという素晴らしい働きをマルコはしました。バルナバがマルコにチャンスを与えたいと思ったのは、いとことしての情もあったと思いますが、マルコの才能をもっと育てて上げたいという気持ちもあったような気がします。

 そんなことはお構いなしに「慰めの子」であるバルナバを怒らせてしまったパウロの態度はどうだったんだろう、という疑問を持たざるを得ません。この頃のパウロは、まだまだ十分に「御霊の実」を結ぶことができていなくて、霊的には成長の途上であったんだろうと思います。「御霊の実」とは、パウロ自身がガラテヤ5章22節と23節に書いている通りです(週報p.2)。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

③適用:互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う
 まだ御霊の実が十分に結ばれていなかったと思われるパウロは、後に書いたローマ人への手紙12章10節では、このように書いています。きょうの聖句です。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 ローマの教会に手紙を書いた時のパウロはかなり聖められていたのでしょう。でも、バルナバと別れた時のパウロはまだまだでした。パウロに十分な兄弟愛があれば、バルナバの「慰めの子」としてのすぐれた部分、マルコが将来「マルコの福音書」を書くことになるすぐれた部分にも気付くことができて、尊敬し合うことができたことでしょう。

 先ほど見たコロサイ人への手紙4章10節で見たように、後にパウロはマルコとの関係を修復しています。この文面を見るとバルナバとの関係も修復できたことと思います。コロサイ人への手紙はローマ人への手紙よりもさらに後に書かれています。ですから、パウロはさらに聖められていたことでしょう。

 パウロでさえ、第二次伝道旅行に出発する頃にはまだ「御霊の実」が十分に結べていなかったようであるところを見ると、このことの難しさを覚えますが、私たちも御霊に励まされながら、「御霊の実」を結ぶことができるお互いでありたいと思います。そうして、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合うことができるお互いでありたいと思います。そのように、御霊に導かれたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
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祈りと黙想の時(2023.1.29 礼拝)

2023-02-01 08:12:15 | 礼拝メッセージ
2023年1月29日礼拝説教
『祈りと黙想の時』
【使徒26:12~18】

はじめに
 きょうは礼拝後に教会総会を控えていますから、説教の時間はいつもよりは少し短めです。
 きょうの聖句は、使徒の働き26章14節です。

使徒26:14 「私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』」

 そして、次の構成で話します。

 ①背景:ダマスコ途上の出来事の三度目の記述
 ②本題:
 a) 初めての深い霊的な経験(無力を徹底的に知る)
 b) 罪のとげの棒に囲まれて自らを傷つける私たち
 c) 主イエスと一つになれば罪を超えて新たな力を得る
 ③適用:困難の時は「祈りと黙想」で主と一つになる

①背景:ダマスコ途上の出来事の三度目の記述
 きょうの聖書箇所の使徒の働き26章の12節から18節までには、サウロがダマスコ途上でイエス様に出会ったことが書かれています。先週と先々週開いた使徒の働き9章にも、サウロがダマスコ途上でイエス様に出会ったことが書かれていましたね。実は使徒の働きには、この出来事が三度記されています。9章と22章と26章です。

 9章の記述は記者のルカが第三者の目で客観的にこの出来事を書いています。そして22章と26章は、パウロが証言者となり、パウロ自身がこの出来事について語っています。26章の12節と13節を見ると、ここに「私は」とありますが、この「私」とはパウロのことです。12節と13節、

使徒26:12 このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、
13 その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。

 このパウロの証言が、どのような状況で語られたかについては、きょうは教会総会を控えていて、あまり時間がありませんから、きょうは省略します。しかし、このダマスコ途上の出来事が使徒の働きに三度も出て来るということは、しっかり押さえておきたいと思います。三度も同じ出来事のことが書かれているということは、この出来事がパウロにとっていかに重要であったかということを、雄弁に物語っていると思います。

②本題:
a) 初めての深い霊的な経験(無力を徹底的に知る)

 14節をお読みします。

14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 パウロがこの日、イエス様に出会ったことは、間違いなく彼にとって初めての深い霊的な経験でしょう。それまでのパウロは、自分の頭で考えて、何が正しいことなのかを自分で判断して行動して来ました。神様と霊的に深く交わる経験をするなら、神様に導かれて行動するようになりますが、このダマスコ途上の出来事までパウロは神様と深く交わった経験がありませんでした。

 実は、神様と交わる経験というのは、自分の無力さを悟った時に、起こりやすいことです。自分は何て無力なんだと絶望する時、その心の隙間に神様が入って来て下さいます。自分は強い人間だと思い込んで、心に鎧を着けて強がっている間は、神様に入っていただく隙間がありませんから、霊的な交わりを経験することはできません。

 パウロはこのダマスコへの途中の道でイエス様によって、地に倒されて、自分の無力さを知りました。それまでのパウロは自分の力を最大限に使ってイエス様の弟子たちを縛り上げ、牢屋へ引きずって行きました。力づくで暴力を働いていました。そんなパウロが、王の王であるイエス様の圧倒的な力によって地に倒され、目も見えなくされてしまいました。そうして、パウロは無力な者にされて、そこにイエス様が入って来ました。イエス様はパウロにヘブル語で語り掛けました。パウロはヘブル人として生まれましたから、この時のパウロは赤ちゃんのようにされていたということも読み取れると思います。イエス様は赤ちゃんのパウロに言いました。

『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 「とげの付いた棒を蹴る」とは、どういうことでしょうか?次のb)に進んで、このことを考えましょう。

b) 罪のとげの棒に囲まれて自らを傷つける私たち
 注解書などを見ると、「とげの付いた棒」とは、牛などの家畜を飼いならす時に使う道具のようです。牛が暴れた時にとげが当たるようにしておくと、牛は逆らうことをやめて段々と大人しくなり、主人に従うようになるとのことです。パウロはイエス様によって飼いならされるようになったということなのでしょう。

 でも、イエス様のことばの「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」には、もっと深い意味があるように思います。たとえば「とげ」を「罪」と考えるなら、私たちは内側の罪にも苦しめられていますが、外側の罪にもさらに苦しめられている、という風に考えることもできるでしょう。

 サウロもそうでしたが、私たちが暴れるのは内側にある罪によります。罪に支配されている間は御霊の実が結ばれておらず、愛・喜び・平安がなく、寛容・柔和・自制も無いために暴れます。その結果、傷だらけになります。なぜなら私たちの外側も罪の「とげ」に満ちているからです。そうして私たちは内側も外側もますます傷だらけになります。

 大人しくしたいと思っていても、内側の罪があるために、どうしても暴れたくなります。もはや自分の力では、どうしようもないことです。

c) 主イエスと一つになれば罪を超えて新たな力を得る
 しかし、主イエス様と一つになれば、私たちは罪を超えて新たな力を得ることができます。

 たとえば、ペテロやヨハネなどの弟子たちがイエス様と一緒に小さな舟に乗って、ガリラヤ湖に漕ぎ出したことがありましたね。その時、突然嵐になって、湖が大荒れになり、舟が沈みそうになりました。弟子たちは恐怖に襲われて大慌てでイエス様に助けを求めました。マタイの福音書のその箇所をお読みします。

マタイ8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

 弟子たちが恐怖に襲われて「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言ったのは、罪のために平安が無かったからですね。イエス様が一緒の舟に乗っていれば、何の心配もない筈なのに、恐怖であわてふためいてしまいました。

 そんな弟子たちをイエス様は「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」と言って叱りましたが、その後で嵐を鎮めて下さいました。
 私たちにもイエス様が共にいて下さるのですから、どんな困難な目に遭っても、慌てず騒がず、イエス様と一つになることを考えていたいと思います。そうすれば、イエス様が必ず、ピンチを救って下さることでしょう。

③適用:困難の時は「祈りと黙想」で主と一つになる
 いつも話していますが、現代の私たちは様々な困難に囲まれています。疫病・戦争・温暖化による異常気象などです。これらは人間の罪によって、もたらされたことだと言って良いでしょう。つまり、私たちは「とげの付いた棒」に囲まれています。

 そして、教会の内側も様々な問題・課題を抱えています。そもそも私たちの一人一人が罪人ですから、教会に問題が起きるのは当然なのかもしれません。新約聖書のパウロの手紙も、教会内部の問題に関する記述が多いですね。

 今の私たちは内にも外にもある罪によって傷ついています。そうだからこそ、今の私たちに必要なことは、慌て騒がないで、祈りと黙想の時を持つことではないでしょうか。ガリラヤ湖で弟子たちが慌てふためいたようになるのではなく、イエス様が共にいて下さるのですから、安心して平安を保ち、祈りと黙想によってイエス様と一つになることが、大切なのではないでしょうか。

 大変な時代の中を生きる私たちは、自分の力で何とかしようと暴れて却って傷ついてしまいがちですが、今こそ祈りと黙想の時を持って、主イエス様と一つになりたいと思います。しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。

使徒26:14 「私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』」
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アナニアの襷(たすき)リレー(2023.1.22 礼拝)

2023-01-23 10:27:37 | 礼拝メッセージ
2023年1月22日礼拝説教
『アナニアの襷(たすき)リレー』
【使徒9:10~22】

はじめに
 今年の礼拝説教では、パウロの生涯と彼の信仰を通して、神様とはどのようなお方であるかを深く知りたいと願っています。ですから、パウロの信仰が中心ですが、パウロに関わりがあった人々の信仰も見たいと思っています。きょうは、そのような人物の一人であるアナニアの信仰について、分かち合いたいと思います。

 きょうの説教のタイトルは、『アナニアの襷(たすき)リレー』です。襷ではなくて、バトンでも良かったのですが、冬は駅伝を見る機会が多いですから、襷リレーとしました。きょうの聖句は、使徒の働き9章17節です。

使徒9:17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

 ①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
 ②本題:a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
     b) サウロが回心するとは到底思えない
     c) イエス様に全面的に従ったアナニア
 ③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く

①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
 まず、先週までに話したことを簡単に復習しておきます。

 サウロ、後のパウロは、イエス様を信じる弟子たちを捕らえるために、ダマスコまで出掛けて行くことにしました。きっかけは、ステパノが裁判の場で語ったことにユダヤ人たちが激しく怒り、ステパノを石打ちにして殺したことでした。裁判の場でステパノは言いました。使徒7章53節、

使徒7:53 「あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 ユダヤ人たちは律法を守っているつもりでしたから、激しく怒りました。サウロも激しく怒りました。使徒の働き8章は、こう書いています。1節、

使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。

 そして3節、

3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

 そうして、サウロの怒りは、エルサレムの弟子たちを迫害するだけでは収まりませんでした。エルサレムから200km以上離れたダマスコまで出掛けて行くことにしました。

 この時のサウロは、たとえるなら狂暴な野獣のようなものでしょう。ライオンやトラ、あるいはクマなどを考えると良いかもしれません。ライオンやトラ、クマなどに襲われたら、ひとたまりもありません。しかし、力ある神であるイエス様は、この猛獣のサウロをおとなしくさせる力がありました。使徒の働き9章3節と4節、

使徒9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

 サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と聞きました。イエス様は答えました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」

 それで、イエス様に「立ち上がって、町に入りなさい」と言われたサウロは立ち上がりました。しかし、目が見えないために、人々が彼の手を引いてダマスコまで連れて行きました。そうして、サウロは三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしませんでした。

②本題:
a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
 きょうの聖書箇所の使徒の働き9章の10節から12節をお読みします。

使徒9:10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」

 イエス様はアナニアに、サウロの所に行って彼の頭の上に手を置くように言いました。しかし、アナニアはイエス様に言いました。

13 「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」

 アナニアはおびえていました。でも、おびえるのは当然ですね。サウロは狂暴な野獣でした。イエス様によって今はおとなしくさせられているとは言え、ライオンやトラやクマに近づいて行って、頭の上に手を置くことなど、おっかなくて出来るわけがありません。今はおとなしくしていても、頭の上に手を置いて触れた途端、野性が目覚めて、アナニアをかみ殺してしまうかもしれません。自分の身の安全を考えれば、そんな危ないことが出来るはずがありません。アナニアがおびえて躊躇したのは当然のことです。

b) サウロが回心するとは到底思えない
 もう一つの懸念は、サウロが回心するとは、到底思えないということです。イエス様の弟子たちを激しく迫害していたサウロがイエス様を信じるようになるとは、到底思えません。そんな者に殺されてしまうかもしれない危険をおかして近づき、頭の上に手を置くことなどできないと、普通は思いますよね。

 襲われる危険がなければ、ダメで元々、やるだけやってみようという気持ちで手を置くことも有り得るでしょう。でも、何しろ相手はライオンかトラかクマのような危険な猛獣です。

 アナニアは、できればサウロの所に行きたくないと思いました。でも、そんなアナニアにイエス様はおっしゃいました。

15 「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

 イエス様にこう言われて、アナニアはサウロの所に出掛けて行きました。17節、

17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

c) イエス様に全面的に従ったアナニア
 今回、この箇所について思いを巡らしていて、アナニアは十字架に向かったイエス様のことを思っていたかもしれないと思いました。アナニアが地上生涯のイエス様から直接教えを受けた弟子であったかどうかは分かりませんが、彼はイエス様が直接声を掛けるほどの弟子ですから、十字架を前にしたイエス様が悶え苦しんで天の父に祈っていたことを、他の弟子たちから当然聞いていたでしょう。マルコの福音書から引用します。マルコ14章36節(週報p.2)、

マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様の願いの「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」とは、「十字架に付かなくてもよいようにしてください」ということですね。イエス様は、できることなら十字架の苦しみを受けたくありませんでした。当然です。十字架刑はとても残酷な死刑で、長い時間苦しみながら少しずつ弱って行って死にます。そんな苦しみは誰も受けたくありません。イエス様でさえ、そうでした。ですから、イエス様は「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と天の父に祈りました。でも、イエス様は、付け加えました。「しかし、わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様は、「わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈りました。自分の望みを手放して、すべてを天の父に委ねました。

 アナニアも同じ思いだったのではないでしょうか?と言ったら、少し大袈裟かもしれません。でも、猛獣のサウロの頭の上に手を置いた途端、サウロの野性が再び目覚めてアナニアを襲うことが無いとは言えないでしょう。私たちは、この出来事の結末を知っていますから、そこまで心配する必要はないと思うかもしれませんが、当事者のアナニアにとっては、十字架に向かうイエス様と同じくらいの覚悟が必要だったのではないか、そう考えても、決して大袈裟ではないと思います。

 アナニアは覚悟を決めて、イエス様の命令に全面的に従ってサウロの頭の上に手を置きました。すると、18節から20節、

18 するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

 私たちは、このサウロの鮮やかな変わりっぷりに目を奪われがちだと思います。でも、このことのためには、アナニアの覚悟が必要であったことも忘れないようにしたいと思います。アナニアは猛獣に襲われるかもしれない危険を顧みず、イエス様がおっしゃる通りにサウルの所に出掛けて行って、自分に与えられた役目を果たしました。

③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く
 まず、アナニアの襷(たすき)がパウロに引き継がれたことを、分かち合いたいと思います。後にパウロは聖霊によって異邦人伝道に押し出されて行きます。まず、第一次伝道旅行ではアジア地区で異邦人伝道を行い、次いで第二次伝道旅行ではヨーロッパへと足を延ばして異邦人にイエス・キリストを宣べ伝えました。

 異邦人に伝道すれば、どんな危険に遭うか分かりません。実際、パウロが多くの苦難に遭ったことは使徒の働きに書かれていますね。また、異邦人がイエス様を信じて回心することも、ちょっと考えにくいことです。これも現実のことでした。パウロの伝道旅行では、イエス様を信じた人々もいましたが、数で言えば信じない人々のほうが遥かに多かったことでしょう。アナニアから襷を受け継いだパウロは、そういう中に進んで行きました。そして、この襷のリレーが二千年間もの間、続けられました。

 そして私たちにも、この襷が渡されました。まだイエス様を知らなかった頃の私自身のことを考えるなら、あの頃の私が後にイエス様を信じるようになるとは、到底考えられない、そんな者であったと思います。学生時代には、伝道して下さったアメリカ人の女性宣教師に冷たいことを言って突き放しました。その時の、その宣教師の先生の悲しそうな顔は、今でもハッキリと覚えています。でも、そんな私をイエス様が捕らえて下さり、アナニアを送って下さり、私は変えられました。

 皆さんのお一人お一人もそうでしょう。イエス様は神様から離れていた私たちの一人一人を捕らえて下さり、アナニアを送って下さいます。私たちのそれぞれにとってのアナニアも、私が回心するかどうか最初は半信半疑で近づいて来たかもしれません。イエス様がそのように促したのですね。そのようなアナニアがいたからこそ、私たちは変えられました。そして、今度は私たちがアナニアになるようにと、イエス様は私たちを促します。

おわりに
 10節に、イエス様がアナニアに「アナニアよ」と呼び掛けたことが書かれています。このように、イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで、話し掛けて下さいます。そう呼ばれたら私たちはアナニアのように、「主よ、ここにおります」と答えたいと思います。そうすれば、イエス様は具体的に何をすれば良いか教えて下さいます。

 伝道に決まったやり方はないでしょう。伝える私たちの側にも個性がありますし、伝えられる側の方々にも個性があります。その組み合わせによって最善の具体的な方法をイエス様は示して下さいますから、そのイエス様のことばに従いたいと思います。

 イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで下さるお方ですから、呼ばれたら「主よ、ここにおります」と答えてイエス様の指示を聞き、出掛けて行きたいと思います。
 しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。
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霊に燃え、主に仕えよ(2023.1.15 礼拝)

2023-01-16 07:22:27 | 礼拝メッセージ
2023年1月15日礼拝説教
『霊に燃え、主に仕えよ』
【使徒9:1~9】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは、「霊に燃え、主に仕えよ」です。週報のp.2に、この教会の会堂の2階の応接室の壁に掛かっている「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙の写真を載せました。



 これを書いたのは、本田弘慈先生です。本田先生は、特別集会で招かれた教会には、好んでこの「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙を書いて残して行かれたそうで、高津教会の2階にもありましたし、神学生の時に遣わされたいくつかの教会でも目にしました。或いはまた、インマヌエルの教団本部があるお茶の水のOCCビルの玄関を入った1階の壁には、もっと大きなサイズで書かれた「霊に燃え、主に仕えよ」の額が掛かっています。

 きょうは使徒の働き9章のパウロがイエス様と出会って回心した場面を見ながら、パウロが、霊に燃えて主に仕えた人であったことを分かち合いたいと思います。きょうの聖句は、ローマ人への手紙12章の10節と11節です。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい

 そして、説教の構成は、次の通りです。

 ①背景:ステパノに「律法を守っていない」と言われて怒る
 ②本題:a) 律法を偶像化して律法に仕えていたサウロ
     b) 一転してイエス・キリストに仕えたサウロ
     c) 人は元々、主人に仕えるように造られている
 ③適用:霊に燃え、真にお仕えすべきお方の主に仕えよう

①背景:ステパノに「律法を守っていない」と言われて怒る
 まず、背景の説明をします。先週は、ステパノがユダヤ人たちに捕らえられて裁判に掛けられた場面を取り上げました。簡単に振り返っておきます。

 ステパノが裁判の場で話したことは、使徒の働きの7章に記されています。この弁明は、大変に長いものです。彼はアブラハムのことから語り始め、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセについて語りました。さらにヨシュア、ダビデ、ソロモンにも言及しました。このアブラハムからソロモンに至る話はユダヤ人たちにはよく知られていたことでしたから、ステパノは批判されるようなことは何も述べていません。しかし、7章の51節から、ステパノは一転してユダヤ人たちを批判し始めました。7章51節と52節です。

使徒7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 ユダヤ人たちの先祖は、預言者たちを迫害して、残酷な方法で殺しました。そして、ステパノは、ユダヤ人たちが、先祖と同じように正しい方であるイエス・キリストを十字架に付けて殺したのだと言いました。そして53節、

53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 ステパノは、ユダヤ人たちが律法を守らなかったと言いました。このことばに、ユダヤ人たちは当然、怒りました。なぜなら当時のユダヤ人たちは律法を守っていたからです。それは、彼らの先祖が律法を守らなかったために、北王国と南王国が滅ぼされたからです。そうして北王国の民はアッシリアに、南王国の民はバビロンに捕囚として引かれて行きました。ですから、南王国の民がエルサレムへの帰還を許されて神殿を再建して以降は、律法を守っていました。特にパリサイ人たちは厳格に守っていました。それなのにステパノが、「あなたがたは…律法を…守らなかった」と言ったので、ユダヤ人たちは激怒してステパノを石で打ち殺しました。サウロもその場にいました。

 しかし、ユダヤ人たちは、やっぱりステパノの言った通り、律法を守っていなかったのですね。先週はそういう話をしました。彼らは、「隣人を愛しなさい」という重要な戒めを守っていませんでした。イエス様が安息日に病人を癒した時、ユダヤ人たちはそれを批判して、最後には十字架に付けて殺してしまいました。目の前に病気の人がいれば、たとえ安息日であっても癒すべきで、それが隣人を愛することだとイエス様は人々に示しました。しかしユダヤ人たちは、イエスは律法を守っていないと言って批判して、殺してしまいました。これは、「隣人を愛しなさい」という律法に違反しています。

 そして、彼らはステパノも石で打って殺してしまいました。ここには、隣人への愛がまったく見られません。

②本題:
a) 律法を偶像化して律法に仕えていたサウロ

 サウロ、後のパウロも、ユダヤ人たちと全く同じ考えで、ステパノが言ったことばに激怒していて、イエス様を信じたエルサレムの人々を率先して迫害していました。そして、エルサレムにとどまらずダマスコにまで出掛けて行くことにしました。使徒の働き9章1節と2節、

使徒9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 このサウロの行動も、隣人を愛することからは掛け離れていますね。エルサレムとダマスコでは、直線距離でも200km以上離れています。そんな遠い所まで出掛けて行って縛りあげてエルサレムまで引いて来ることにしたとは、すごい執念ですね。そんなサウロは、律法を偶像化して、律法を愛し、律法に仕えていたように見えます。主に仕えていたのではなくて、律法に仕えていたようです。

b) 一転してイエス・キリストに仕えたサウロ
 しかし、そこに突然イエス・キリストが現れました。3節から5節、

3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 イエス様は、圧倒的な力を持って、サウロの前に現れました。十字架に付いた時のイエス様は、まったく弱い人でした。そんな弱々しい、木にくくられて呪われて死んだ者が救い主であるはずがないと、ユダヤ人たち、そしてサウロはイエス様を信じる者たちを迫害しました。しかし、サウロの前に現れたイエス様は、十字架に付いた時の弱いイエス様ではなく、圧倒的な力を持つ、王の王であるイエス様でした。そうして、イエス様はサウロに言いました。6節、

6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」

 続いて7節から9節、

7 同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、 目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。

 そして、サウロの目はアナニアによって開かれました。この時のアナニアとサウロについては、来週ご一緒に見ることにします。

 さて、目が開かれたサウロは、今度は一転してイエス・キリストを宣べ伝えるようになりました。20節です。

20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

 さらに22節、

22 しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

c) 人は元々、主人に仕えるように造られている
 今回、使徒の働きの7章から9章までのサウロの出て来る箇所を読んでいて、「人は元々、主人に仕えるように神様によって造られている」と感じました。9月に台風15号で静岡が大きな被害を受けた時、被災地に多くのボランティアが入って困っている被災者を助けました。この様子を見て、人は元々、隣人を愛して助けるように神様によって造られているのだなと感じました。

 そして、今回、サウロの箇所を読んで、人は元々、主人に仕えるように神様によって造られているのだなと思いました。罪に汚れている間は正しくない主人に仕えることが多いですが、本当にお仕えすべきお方であるイエス・キリストに出会った時、人は生涯を掛けてイエス様にお仕えするようになるのだなと、サウロの姿を見て思いました。

 人は元々主人に仕えるように造られているということは、特に日本人の私たちにはよく分かるのではないでしょうか。

 今年のNHKの大河ドラマは『どうする家康』です。家康には彼に仕える家臣団がいました。そうして、家康に仕える家臣たちに支えられて家康は戦国時代を勝ち抜いて江戸に幕府を開きました。その家康も、形の上では天皇に仕えていました。家康に征夷大将軍の称号を与えたのは天皇だからです。そして、幕末の15代将軍の徳川慶喜の時には、形の上だけでなく、実際の力関係でも、天皇が将軍の上に立ちました。倒幕に動いた薩長連合などが天皇を担ぎ上げて慶喜を朝敵として徳川軍を賊軍とした時、慶喜は観念して天皇への恭順の意志を示して蟄居謹慎しました。そうして、山岡鉄舟や勝海舟らの尽力によって江戸城無血開城が実現しました。

 この後、日本は明治から昭和の第二次世界大戦での敗戦までは天皇を神格化して、天皇を神として崇めました。このような日本の歴史を見ても、人は元々、主人に仕えるように造られていることを強く感じます。

 イスラエルの歴史においても、サムエル記にそれを見ることができますね。週報p.2に記したように、イスラエルの長老たちはⅠサムエル8章5節で言いました。「…どうか今、…私たちをさばく王を立ててください」。これを聞いた主は怒りましたが、拒むことはせずに認めて、このように仰せられました。22節です(週報p.2)。

22 「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」

 イスラエル人が仕えるべき主君は天の神であり、人間の王ではありません。このことが分かっていないイスラエル人のことを主もサムエルも嘆き、怒りましたが、結局は認めました。どうして認めたんだろうと不思議に思いますが、やがての日に天から神の御子を遣わして、イエス・キリストこそ王の王であることを分からせるための、遠大なご計画だったのかもしれません。人間の王様では結局はイスラエルの国を治めることはできずに失敗して滅ぼされてしまい、そのことを通して、まことの王の王はイエス・キリストであることを悟らせるためであったのかもしれません。

 いずれにしても、サムエル記の時代にイスラエル人たちが人間の王を欲したことは、それが罪による過ちであったとしても、人は元々、主人に仕えるように造られていることを、ここからも見て取ることができると思います。

③適用:霊に燃え、真に仕えるべきお方の主に仕えよう
 週報のp.2にコピーを載せましたが、1/10付の静岡新聞の読者欄の「ひろば」に、「心癒すハンドベルの音色」という投稿が載りました。お読みします。



 この読者の声の切り抜きは英和のホームページにも掲載されていました。英和ハンドベル部の生徒さんたちと顧問の先生は、とても励まされたことと思います。この投稿者が訪れた演奏会の会場は、田町の会場ではなかったかもしれませんが、私たちもまた、とても励まされます。こういう形で市民の方々のお役に立てたことを、とてもうれしく思います。この投稿を読むなら、この演奏会の場では聖霊が働いていたことが伝わって来て、とても励まされます。

 きょうの聖句であるローマ人への手紙12章の10節と11節でパウロは書きました。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 この読者欄への投稿者の方は、「中高生に感謝の気持ちでいっぱいである」、「本当に頭の下がる思いだった」と書いています。49歳の方ですが、自分より年下の中高生たちに対して頭の下がる思いがして、「相手をすぐれた者として尊敬し」(ローマ12:10)ました。そうして、「大人も人のために役立つように生きることが求められている気がした」と書いています。人のために役立つことをすることは、すなわち人を造った主のために働くことであり、主に仕えるということです。このような思いが投稿者に与えられたのは、まさに聖霊がここで働いていたからでしょう。聖霊は、イエス様を信じる者にも未だ信じていない者にも等しく働き掛けます。そうして、善い行いをするように導きます。

 この聖霊は、天の父と御子イエス・キリストが地上に遣わして下さいます。この聖霊を遣わすイエス様こそが、私たちが遣えるべき主人です。霊に燃えて、この正しいお方にお仕えすることで、私たちは互いに愛し合い、尊敬し合うようになります。

 争い事が絶えず、戦争が無くならないのは、この正しいお方に仕えるのでなく、間違った人や物に仕えてしまっているからです。まず私たちが率先して、正しいお方にお仕えしたいと思います。人は元々、主人に仕えるように造られています。世の人々が罪によって間違った人や物に仕えることがないよう、まずは私たちが霊に燃え、主にお仕えしたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
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迫害者サウロの誤った信念(2023.1.8 礼拝)

2023-01-09 09:53:15 | 礼拝メッセージ
2023年1月8日礼拝メッセージ
『迫害者サウロの誤った信念』
【使徒7:51~8:3】

はじめに
 先週の元旦礼拝でも冒頭で話しましたが、昨年の2022年は、神様どうしてですか?と問いたくなるような年でした。3年前から始まったコロナ禍は、昨年も波を繰り返し、いつになったら終わるのか、見通しが立ちません。昨年の2月に始まったウクライナでの戦争も年内には終わらずに年を越し、いつまで続くのか終わりが見えません。温暖化による大雨の被害も昨年は遂に私たちが住む静岡市にまで及びました。停電・断水の被害は短期間で治まりましたが、6千軒以上のお宅が床上浸水の被害に遭って1階に置いてあった家財のほとんどを失いました。床下浸水のお宅でも、倉庫や物置は地面とほぼ同じ高さに床がありますから、多くの物が水浸しになって使えなくなりましたし、地域一帯が泥だらけになりました。土砂崩れで復旧の目途が立っていない所もあります。

 神様はどうして、こういう状況を許しておられるのだろうか、「神様、どうしてですか?」と問いたくなるような悲惨な状況です。でも、「神様、どうしてですか?」と問うとしたら、それは私たちが神様のことをまだまだ良く知らないからだろうということを、先週は話しました。それゆえ、今年はもっと神様のことを深く知る年となることを願い、エペソ人への手紙1章17節を標語聖句としました。お読みします。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えて下さいますように。」

 私たちは神を知るための知恵と啓示の御霊を天の父が与えて下さるように願い、祈りたいと思います。そして実際的にはパウロの姿を見ながら、パウロを通して神様への理解を深めたいと願っています。パウロは、人としての肉のイエス様とは出会っていませんが、聖霊を通してイエス様と霊的に豊かに交わり、霊性を深めた人です。21世紀の現代を生きる私たちも人としての肉のイエス様にお会いしたことはありませんが、イエス様を信じることで聖霊を受けて、聖霊を通してイエス様と霊的に交わる恵みに与っています。ですから、パウロを手本としてパウロに倣い、私たちもイエス様と霊的に豊かな交わりを持たせていただくことで、神様をもっと深く知る者になりたいと思います。

 さて、きょうの聖書箇所はパウロがまだイエス様と出会う前の頃の記事です。この時のパウロはサウロと呼ばれていました。きょうの箇所はあまり恵まれない箇所です。それゆえ、今日の中心聖句はマルコの福音書2章22節のイエス様のことばを中心聖句としました。

マルコ2:22 「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 サウロは自分の信仰が正しいという信念を持って、イエス様を信じた者たちを激しく迫害しました。サウロの心の内は古い皮袋のままで新しくなっていませんでしたから、彼の信念は誤っていました。きょうはそのことを分かち合ってから、来週以降に回心したサウロについて、分かち合って行くことにしたいと思います。

 きょうは次のような構成で話を進めて行きます。

 ①背景:ステパノを捕らえて裁判に掛けたユダヤ人たち
 ②本題:a) 不信仰な先祖と同じと言われて怒ったサウロ
     b) 自分たちは先祖とは違うと信じていたサウロ
     c) 古い皮袋のままで隣人を愛していないサウロ
 ③適用:古い皮袋を手放し、新しい皮袋で神を一から知る

①背景:ステパノを捕らえて裁判に掛けたユダヤ人たち
 きょうの聖書箇所は、使徒の働きの7章から8章に掛けての、ステパノが迫害に遭ってユダヤ人たちに石打ちで殺された場面です。最初のパートでは、きょうの箇所の前にあった出来事を簡単に説明しておきます。

 ステパノは、ペンテコステの日に誕生した初代教会のメンバーで、御霊と知恵に満ちた評判の良い人でした。教会ではペテロやヨハネなどの十二弟子は「祈りとみことば」に専念できるようにと、十二弟子以外から御霊と知恵に満ちた評判の良い人7名を選んで教会の運営に当たってもらうことにしました。ステパノはその7名の中の一人でした。

 ステパノの働きは教会の中だけでなく外にも向かって行き、弟子たちの数はますます増えて行きましたが、教会の成長を苦々しく思っていたユダヤ人たちが、ステパノを捕らえて裁判に掛けました。

 使徒の働き7章には、この裁判の場でステパノが語ったことばが記されています。この裁判の場(最高法院)を取り仕切っていたのは大祭司です。7章は大祭司のことばから始まり、次いでステパノが語り始めます。7章の1節から3節までをお読みします。

使徒7:1 大祭司は、「そのとおりなのか」と尋ねた。
2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、
3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。

 こうして、ステパノはアブラハムのことから語り始め、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセについて語りました。さらにヨシュア、ダビデ、ソロモンにも言及しました。きょうの聖書箇所は7章の51節からですが、その手前の47節から50節まではソロモンのことです。

 2節のアブラハムから50節のソロモンに至るまで、ステパノは裁判に掛けられるようなことは何一つ語っていません。この場にいた者たちは、ただ黙ってステパノのことばを聞くしかありませんでした。しかし、51節からステパノは一転して、自分を裁判に掛けたユダヤ人たちを批判し始めました。2番目のパートに移って、きょうの本題を見て行きましょう。

②本題:
a) 不信仰な先祖と同じと言われて怒ったサウロ
 この日、サウロがステパノのことばを直接聞くことができる距離にいたのかどうかは分かりません。しかし、いずれにしても、サウロは裁判の場のユダヤ人と同じ考えを持っていましたから、このパートの表題は、「a) 不信仰な先祖と同じと言われて怒ったサウロ」としました。彼らは、51節からのステパノのことばを聞いて、とても怒りました。51節から53節までを、お読みします。

51 「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 51節でステパノは、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです」とユダヤ人たちに言いました。つまり、イエス様を十字架で殺したユダヤ人たちは、不信仰の罪で滅ぼされた北王国と南王国の民と同じ不信仰の罪に陥っているとステパノは、彼らに言いました。北王国の民も南王国の民も、神様のことばを伝えた預言者たちを殺してしまい、神様に逆らい続けました。この不信仰の罪によって北王国も南王国も滅ぼされて、人々は捕囚として引かれて行きました。この不信仰な民と、イエス様を十字架で殺したユダヤ人たちとは同じだとステパノは言いました。

b) 自分たちは先祖とは違うと信じていたサウロ
 しかしユダヤ人たちは、自分たちは先祖とは違うと信じていましたから、当然ステパノのことばに怒りました。ユダヤ人たち、特にパリサイ人たちは厳格に律法を守っていました。先祖たちは律法を守らなかったために、滅ぼされました。そうして、アッシリアとバビロンへ捕囚として引かれて行きました。

 このような経緯から、ペルシアのキュロス王の時代に神殿の再建のためにエルサレムへの帰還が許されてからのユダヤ人たちは、律法を守るようになりました。先祖たちは律法を守らなかったから主の怒りに触れて滅ぼされてしまったという思いが強くありましたから、エルサレムに帰還してからのユダヤ人たちは律法をしっかりと守り、自分たちは先祖たちとはぜんぜん違うと思っていたことでしょう。それなのに、ステパノから「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」と言われましたから、激しく怒りました。

 サウロも、怒ったユダヤ人たちとまったく同じ考えを持っていましたから、ステパノへの石打ちの現場にいて、上着の番をしました。58節です。

58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。

 そうして、ステパノは死にました。59節と60節、

59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

 そして、ユダヤ人たちの怒りはステパノが死んだだけでは治まりませんでした。むしろ、怒りの火に油が注がれる形となりました。サウロも同様です。8章の1節から3節をお読みします。

使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

c) 古い皮袋のままで隣人を愛していないサウロ
 ここで、なぜステパノがユダヤ人たちに対して、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです」と言ったのかを考えてみましょう。ユダヤ人たちは先祖たちとは違って律法を守っていたのに、ステパノは「あなたがたは…律法を受けたのに、それを守らなかった」と言いました。ユダヤ人たちとステパノとの間で、考え方の違いがありました。何が違っていたのでしょうか?

 この激しい迫害の様子から見えて来ることは、ユダヤ人たちが隣人を愛していなかったということです。律法は「隣人を愛しなさい」と戒めています。昨年の11月の子供祝福礼拝では、「しんせつなサマリア人」という絵本を読んで、ルカの福音書の「善きサマリア人」のたとえを分かち合いましたね。石打ちの刑でステパノを殺したユダヤ人たちには、隣人への愛がまったく見られません。

 マタイ1章には、イエス様の父親のヨセフが、婚約者のマリアが石打ちの刑に遭わないように、ひそかに離縁することを考えていました。婚約している女性が婚約者以外の男性の子を身ごもったなら、石打ちの刑に値するからです。ヨセフはこのことを何とか回避したいと願いました。マタイはヨセフのことを「正しい人」であったと書きましたから、これが隣人を愛する人の正しい考え方なのですね。律法を厳格に適用して石打ちにすることは必ずしも正しいことではありません。

 律法を厳格に守っていたパリサイ人は、働いてはならない安息日に病人を癒したイエス様を批判しました。しかし、弱っている人、困っている人を見掛けた時に、その日が安息日だからという理由で助けないとしたら、それは隣人を愛しなさいという律法に違反することになります。

 イエス様は「山上の説教」で「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(マタイ7:1)とおっしゃっています。律法をあまりに厳格に適用して人をさばくなら、隣人を愛していない罪で逆に神様からさばかれることになりますよ、とイエス様はおっしゃっているように思います。

 ステパノは、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」とユダヤ人たちに言いましたが、聖霊に逆らうとどうなるでしょうか?イエス様はおっしゃいました。

マルコ 3:28 「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

 後にパウロはガラテヤ人の手紙に書きました。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 人を裁いて石打ちにするような者には愛も喜びも平安もありません。寛容も親切も善意も誠実も柔和も自制もありませんから、御霊の実を一切結んでいません。それは聖霊に逆らう者であり、聖霊を冒瀆する者であり、永遠に赦されずに永遠の罪に定められる者なのでしょう。

 さらに聖書を引用するなら、イエス様はこのようにもおっしゃっています。きょうの聖句のマルコ2章22節です。

マルコ2:22 「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 新しいぶどう酒とは、聖霊のことでしょう。イエス様を信じる者には誰でも聖霊が注がれるようになったペンテコステの日以降は、新しいぶどう酒である聖霊によって御霊の実を結んで、人を石打ちにして殺すような古い皮袋は手放さなければなりません。聖霊が誰にでも注がれるわけではなかった旧約の時代においては、それは仕方のないことだったかもしれませんが、イエス様が十字架で死なれて復活し、聖霊を天から遣わすようになったペンテコステの日以降は、互いにさばき合うことは手放して、互いに赦し合い、互いに愛し合うことが神の御心に適ったことです。

③適用:古い皮袋を手放し、新しい皮袋で神を一から知る
 最後に、私たちはどうすべきかを分かち合いたいと思います。

 古い皮袋の旧約の時代においては、人間が人間をさばいていました。そうして、ユダヤ人たちはイエス様をさばいて十字架に付けて殺しました。さらに、それから何年もしないうちに、ユダヤ人たちはステパノをさばいて石打ちで殺しました。古い皮袋の考え方を適用して、これが正しいことだと信じていました。

 しかし、聖霊が注がれるようになった新しい皮袋の新約の時代においては、私たちは御霊の実を結んで、互いにさばき合うのではなく、互いに赦し合い、互いに愛し合うべきことが勧められています。古い皮袋を手放して、新しい皮袋を心の内に備えるなら、御霊の導きによって、神様のことを一から新しく知ることができます。

 来週開く予定の使徒の働き9章で迫害者のサウロは、ダマスコに向かう途上でイエス様と出会って強制的に古い皮袋が新しい皮袋に替えられます。そうして、後に多くの手紙を教会宛てに、また個人宛てに書いて、それらが新約聖書に収められて21世紀の現代の私たちにも大切なことが伝えられました。

 パウロは古い皮袋を手放したことで、神様を深く知ることができました。私たちもまた、古い皮袋を手放して、新しい皮袋を身に着けて、神様のことを一から知りたいと思います。お祈りいたしましょう。

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」
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霊的な世界で自分は成人しつつあるか(2023.1.1 元旦聖餐式礼拝)

2023-01-02 12:14:43 | 礼拝メッセージ
2023年1月1日元旦聖餐式礼拝メッセージ
『霊的な世界で自分は成人しつつあるか』
【エペソ1:15~19】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 今年はどういう年になることを願い、どのように祈るべきかでしょうか?そのことを分かち合うために、まずは去年がどんな年であったかを振り返ってみたいと思います。

 去年の大きな出来事と言えば、世界においては何と言ってもロシアのウクライナへの軍事侵攻でしょう。多くの人々が犠牲になり、また国土が荒廃しました。未だ停戦の見通しはなく、この冬は停電によって凍えている方々も多いと報じられています。そして静岡においては台風15号による甚大な被害がありました。教会を含めて皆さんのお宅の多くが約12時間の停電の被害に遭ったと思います。でもそれは半日程度のことで済み、清水区の断水も1週間以内でほぼ復旧しました。これらももちろん大変なことでしたが、もっと大変だったのは土砂崩れの被害に遭ったお宅と河川の氾濫による浸水の被害に遭ったお宅で、浸水は床上浸水が約6千軒、床下浸水を含めると約1万軒が被害に遭ったということです。災害支援のボランティアで葵区と清水区のお宅約30軒にお邪魔しましたが、床上浸水の被害にあったお宅では1階に置いてあった家財のほとんどを失った方が多くおられました。エアコンも室外機が水没して使えなくなりました。この寒い冬に行政やNPO、ボランティアによる災害支援の手が届かず十分な暖房器具がなくて震えているお宅が、まだあるかもしれず、心配されます。

 コロナ禍も、昨年は第5波、第6波、第7波、そして現在進行中の第8波があって、いまだ収束の見通しが立ちません。

 このような、ひどい状況を見る時、神様はどうしてこのような状況を許しておられるのかなどと、つい思ってしまいそうになります。神様どうしてですか?と問いたくなる状況が続いています。でも、そう問うとしたら、たぶんそれは私たちが神様のことを分かっていないからだろうと思います。それゆえ、私たちはもっともっと神様のことを良く知る必要があると思わされます。

 そういう中で、今年はエペソ人への手紙1章17節を示されています(額の中に収まる字数にするために、少し短くしてあります)。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように。」(エペソ1:17)

 私たちは天の父に、神様を知るための知恵と啓示の御霊を祈り求めたいと思います。きょうは、このことのために今年話したいと願っていることの概略を話します。きょうの説教の構成は次の通りです(週報p.2)。
 
 ①今年の目標:パウロの信仰・成長を知ることで神様を知る
 ②関連する聖句:a) 元旦にⅠコリ2章から語った蔦田二雄師
         b) 霊的な世界で自分は成人しつつあるか?
         c) 後の者が先、先の者が後になる霊的な世界
 ③私はどうする?:子供のような素直さと好奇心で神を知る

①今年の目標:パウロの信仰・成長を知ることで神様を知る
 2019年に私が着任してからの礼拝説教では、旧約聖書と福音書を開くことが多くて、パウロの手紙を開くことは、あまり多くなかったように思います。パウロの手紙の聖句を断片的に取り上げることはよくありました。その代表は御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)に関するガラテヤ5章の引用だと思いますが、パウロの手紙について、まとまった時間を取ってじっくりと味わうことはあまりして来なかったように思います。

 しかし、「神様を知る」という観点から考えてみるなら、私たちにとってパウロほど良いお手本はないように思います。なぜならパウロは人としての肉のイエス様には会っていませんが、聖霊を通してイエス様と豊かな交わりを持ち、霊的な成長を遂げた人だからです。このパウロに私たちも倣うべきだろうと思います。霊的な成長はパウロでさえ一朝一夕にできたものではないはずです。イエス様に出会ってすぐにめざましい働きができるようになったわけではありません。バルナバがパウロの故郷のタルソに彼を捜しに行くまでの約17年間は、それほど大きな働きはしていないようです。もし、大きな働きをしていれば、ルカが使徒の働きにちゃんと書いたはずです。でもルカは、パウロがダマスコでイエス様と出会った頃のことを書いた後は、バルナバがタルソへ彼を捜しに行くまでの約17年間のことを書いていません。

 また、パウロの手紙にしても、パウロの手紙の中では一番古いとされるガラテヤ人への手紙は非常に厳しい口調で書かれていて、時に「ああ、愚かなガラテヤ人」などとパウロの激しさが直情的に書かれていたりして、柔和さが感じられません。一方、ガラテヤ書から10年以上を経て書かれたエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙などのいわゆる獄中書簡では、もっと深みのある成熟した信仰を持つ、御霊の実を多く結んだパウロの姿を見ることができます。今年の礼拝説教では、そういうパウロの成長を通して私たちも神様のことを深く知ることができるようになれば幸いである、と願っています。パウロは、彼の手紙の中で自身が書いているように、様々な困難に苦しみます。そういう苦難の中でパウロの信仰は深められて行きました。それらのことを礼拝で分かち合うことができればと思います。

②関連する聖句:
a) 元旦にⅠコリ2章から元旦に語った蔦田二雄師

 さて、きょうの聖書交読は詩篇ではなく、第一コリント2章を交代で読みました。ここは『岩から出る蜜』の蔦田二雄師が元旦に開いた箇所です(週報p.3)。週報では『岩から出る蜜』を、いつもは短く5行にまとめていますが、元旦の今日だけは特別に長く引用することにしました。

 元旦。昔の聖徒たちがこの朝、どのような語り掛けを神から受けたであろうか、と考えることは非常に興味深いことである。なぜこのような御声に触れたのかを黙想することは、私たちの霊的な交わりを深くするのに大いなる助けとなる。
 聖書のことばは常に新鮮である。神のことばは常に新しい業を続けるいのちのことばである。肉体的年齢もさることながら、霊的な世界でどのくらいの年齢に達したかを考えなければならない。自分は成人(新改訳2017年版は「成熟」)しつつあるだろうか。聖霊との干渉が深められること、これが成長の秘儀である。
 9節に「神は、神を愛する者たちに」、「人の心に浮かんだことがないものを備えてくださる」とある。神を愛する者に備えて下さるお方に目をとめ、安んじて踏み出そう。(抜粋)

 パウロは第一コリント2章の6節と7節(週報p.2)で、次のように書いています。

Ⅰコリント2:6 しかし私たちは、成熟した人たち(新改訳初版では「成人」)の間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

 パウロは、私たちが語るのは「神の知恵」であって、「この世の知恵」ではないと書いています。今年、私たちは「神の知恵」を知ることで、神様をもっと深く知る者となりたいと思います。

 ただ、これはとても難しいことであり、パウロもコリントの人たちには3章2節と3節で次のように書いています(週報p.2)。

Ⅰコリント3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

 コリントの教会の人々の霊的な状態はまだまだ赤ちゃんレベルであったので、お乳を飲ませたとパウロは書いています。そして、この手紙でパウロはコリントの教会の人々が霊的に成長するように、励まします。霊的な成長は一朝一夕に達成できるものではありませんから、私たちのこれからの一年が成長できる年であればと願います。

b) 霊的な世界で自分は成人しつつあるか?
 『岩から出る蜜』によれば、蔦田先生は元旦の日に第一コリント2章を引用しながら、「肉体的年齢もさることながら、霊的な世界でどのくらいの年齢に達したかを考えなければならない。自分は成人しつつあるだろうか。」と語りました。肉体的年齢に言及しているのは、戦前生まれの先生が数え年の年齢に親しんでいたからであろうと想像します。数え年では元旦に皆が一斉に一つ年を取ります。それが肉体的年齢です。これに対して、霊的な世界での年齢はどうですか?と蔦田先生は問います。成人に達していますか?と問います。「成人」ということばが使われているのは、新改訳の初版が使われていたからでしょう。私たちは果たして霊的に大人になれているだろうか?ということが問われています。そしてさらに、そのためには「聖霊との干渉が深められること、これが成長の秘儀である」と付け加えています。

 霊的に成長するためには、聖霊の助けが必要です。それは、いつも引用しているヨハネ14:26(週報p.2)のイエス様のことばからも分かりますね。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 なぜ聖霊の助けが必要なのか?それは、霊的な世界のことは、この世の常識によっては全く理解できないからです。

c) 後の者が先、先の者が後になる霊的な世界
 イエス様はマタイ・マルコ・ルカの福音書で、「後の者が先になり、先の者が後になります」とおっしゃいました。例えばマタイでは、「ぶどう園の主人のたとえ」の20章で言っています(週報p.2)。

マタイ20:16 後の者が先になり、先の者が後になります。

 マタイ20章では、ぶどう園で朝早くから働いた者たちが、夕方から少し働いただけの者たちと同じ1デナリしかもらえなかったので不平不満をぶどう園の主人に言いました。しかし、主人は言いました。「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。後の者が先になり、先の者が後になります。」この主人のことばは世の常識とは反していますから、朝早くから働いた者たちが不平を言うのも分かる気がします。でも、これが霊的な世界です。このたとえ話には、とても考えさせられます。

 たとえば、これはクリスチャンにも当てはめることができると思います。私たちは日頃は世俗化した世間の中で生きていますから、知らず知らずのうちに世の常識で聖書のことばを理解しようとしてしまいます。でも、それでは聖書のことばを理解できず、神様を深く知ることはできません。それゆえ、いつも新鮮な聖書のことばに触れている必要があります。蔦田先生も「聖書のことばは常に新鮮である。神のことばは常に新しい業を続けるいのちのことばである。」と言っておられます。換気をしないまま石油ストーブを使い続けると新鮮な空気が失われて、最悪の場合は命を失います。聖書のことばは心を温めるのに大いに有効ですが、換気をしないでいると、かえって信仰の妨げにもなりかねません。そうして生き生きした信仰を失うなら、後に回されて、生き生きとした信仰を持ったばかりの後の者が先に来るようになります。ですから、私たちはいつも聖霊との干渉が深められている必要があります。

③私はどうする?:子供のような素直さと好奇心で神を知る
 これらのことから、霊的な世界で成熟して成人になることとは、むしろ子供のようになり、いつも新鮮な気持ちで素直さと好奇心を持って神を知るようになることが勧められているのではないでしょうか。子供はいつも新しいことに興味を持ち、いろいろなことを知りたがります。私たちも霊的な世界で大人になるためには、子供のようにならなければならないでしょう。神様の教えの多くは逆説的ですが、これもまた、その例であると言えるでしょう。大人になるためには子供にならなければなりません。

 霊的な世界で大人になるには、私たちはこの世で身に着けた常識を一旦手放して、子供のように旺盛な好奇心で神様を知ろうとする姿勢が必要とされていると思います。これは一見すると難しいことのように思えます。でも、蔦田先生はおっしゃいました。「『神は、神を愛する者たちに』、『人の心に浮かんだことがないものを備えてくださる』とある。神を愛する者に備えて下さるお方に目をとめ、安んじて踏み出そう。」「後の者が先になり、先の者が後になる」というようなことは、「人の心に浮かんだことがないもの」の代表例でしょう。でも、神様を愛する者にはそういうものを備えて下さるとパウロは教えてくれていますから、私たちは心配せずに、すべてを神様にお委ねして、この新年、神様をもっと深く知るための新たな一歩を踏み出したいと思います。

おわりに
 これから聖餐式を行います。聖餐式は、イエス様が十字架に向かう前に弟子たちと最後の晩餐を行ったことを覚えて行います。十字架によって、すべての物事は逆転しました。死がいのちになり、弱い者が強くなり、後からの異邦人が先にいたユダヤ人の先を行くようになりました。

 このことは、イエス様がすべてを手放すことで成就しました。クリスマスの日にイエス様は神であることを手放して、人として、この世に来て下さいました。そしてさらにすべてを手放して十字架に付いて、すべての物事を逆転させるという神の御業を成就させました。このことによって重大な罪人であった私たちが、豊かに祝福されるようになりました。これもまた素晴らしい逆転です。

 ですから、私たちはイエス様に倣って、この世の常識をすべて一旦手放して、すべてを神様にお委ねしたいと思います。このことを覚えながら、聖餐式に臨みましょう。お祈りいたします。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように。」(エペソ1:17)
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寒い夜の温まる出来事(2022.12.25 クリスマス礼拝)

2022-12-27 03:39:49 | 礼拝メッセージ
2022年12月25日クリスマス礼拝メッセージ
『寒い夜の温まる出来事』
【ルカ2:8~20】

はじめに
 クリスマスおめでとうございます。
 きょうはイエス・キリストがお生まれになったクリスマスの日です。新約聖書のルカの福音書2章には、その日の出来事が記されています。その中でも、きょう注目したいのは羊飼いたちです。きょうはイエス様が生まれた日の羊飼いたちのことを身近に感じながら、この日の出来事について、ご一緒に思いを巡らしたいと思います。

 きょうの中心聖句は、ルカ2章11節です(週報p.2)。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
 ②今日の本題:a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
        b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
        c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
 ③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる

①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
 きょう私たちが注目するのは羊飼いたちですが、その前に、この日お生まれになったイエス・キリストについて、見ていきましょう。ごくごく簡単に言えば、イエス・キリストは表題で示したように、「家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子」です。

 イエス様が家畜小屋で生まれた経緯は、きょうの聖書箇所より前の箇所に書かれていますから、そちらから見て行きましょう。ルカの福音書2章1節と2節、

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

 皇帝アウグストゥスというのは、ローマ帝国の皇帝のことです。ローマ帝国は地中海の沿岸一帯を支配しており、ユダヤもまたローマ帝国に支配されていました。ここでルカは当時の皇帝がアウグストゥスであり、シリアの総督がキリニウスの時代のことであると書いています。このことから、イエス様がお生まれになったのが何年頃だったのかが、かなり絞られます。皇帝や総督についての歴史的な資料は聖書以外にもありますから、照らし合わせることで、年代が絞り込めます。そういう意味でもルカの福音書は非常に貴重な書物です。

 さて、当時の住民登録は出身地で行うようになっていたんですね。それで皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行きました。イエス様の父親のヨセフはダビデの子孫でした。ダビデの出身地はベツレヘムですから、ヨセフはベツレヘムに向かいました。その時、妻のマリアも一緒でした。マリアのお腹にはイエス様がいて身重でした。

 そして、6節と7節、

6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ベツレヘムには住民登録のために多くの人が訪れていて、宿屋はどこも一杯でした。もしヨセフがお金持ちだったら、泊めてもらうこともできたでしょう。でも、ヨセフとマリアは貧しかったので宿屋に泊まることができず、家畜小屋に泊まっていました。そして、そこでイエス様が生まれました。

 イエス様は神の御子です。神の御子が、私たちに神様のことや様々なことを教えるために、天から私たちの地上に降って来て、ヨセフとマリアの子として生まれて下さいました。きょうの礼拝の最初の方でご一緒に読んだヨハネの福音書の1章には、そのことが書いてあります(週報p.2)。1節と14節を、お読みします。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

 「ことば」とはキリストのことです。キリストは神でした。しかし、神であることを手放して、人となって、この世に降って来て下さいました。天から降って来て誕生したので、「降誕」という呼び方をします。神様が地上に降って来て生まれるだけでも、すごいことなのに、生まれた場所は何と、家畜小屋でした。イエス様は裕福な家庭の子としてではなく、貧しい家庭の子として生まれました。何も持たずに赤子として生まれ、生まれてからも貧しい家庭の子として育ちました。そうして、最後は十字架で死にました。十字架では衣服をはぎとられて、生まれたままの裸の姿で十字架に付けられて、死にました。イエス様は神の子ですから抵抗する力もありました(ヨハネ18:6参照)。でも、その力を行使せず、すべてを手放して、自ら十字架に向かって行って死にました。

 ちなみに、手放したのはイエス様だけではありませんでした。天の父も、ひとり子のイエス様を手放して、地上に遣わせました。ヨハネ3章16節は、そのことを次のように書いています(週報p.2)。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 天の父は世を愛し、私たちを愛して下さっています。それゆえに、ひとり子のイエス様を手放して地上に遣わして下さいました。それは御子イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。「永遠のいのち」については、最後にまた触れます。

②今日の本題
a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
 さて、きょうの本題に入って行きましょう。きょう注目したいのは羊飼いたちです。8節、

8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

 羊飼いたちは、屋外で野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていました。羊が盗まれないように、また狼などの獣に襲われて殺されないように、或いは何かに驚いて羊が散り散りになってしまうことがないように、羊飼いたちは夜番をしていました。

 どのような季節であれ、夜は冷えます。羊飼いたちは寒さに震え、寒さに耐えながら夜番をしていたことでしょう。きょうはここで、いま現在、寒さに震えている人々に心を寄せたいと思います。この会堂はエアコンとストーブとで暖かさが保たれていますが、いま現在も寒さに震えている方々がいます。

 世界を見れば、ウクライナなどの戦争・紛争地域の人々が寒さに震えています。ウクライナではロシアが発電所などの電力施設を攻撃したために、電力が不足していて寒さに震えている人々がたくさんいることが報道されています。

 日本の国内も、いま寒波に襲われています。先週は日本海側だけでしたが、ここ2、3日は太平洋側の名古屋や瀬戸内の広島など、全国各地で大雪が降っていることが報じられています。そして、倒木などが原因で停電している地域があると報じられています。先週、停電していた柏崎市で、車の中で暖を取っていた20代の女性が一酸化炭素中毒で死亡したことが報じられていました。本当に痛ましい事です。さらには屋根の雪下ろしの最中の死亡事故のことも多く報じられています。

 私たちの地元の静岡市でも9月の大雨で浸水したお宅の多くが暖房器具を失って寒さに震えています。床上浸水があった地域ではエアコンの室外機が水没して使えなくなりました。かろうじてファンが回る室外機でも、泥水がモーターに入ったことで異常な音がします。私は泥の撤去などの肉体労働系のボランティアは11月の初めには終えて、ここ11月の中旬からは浸水したお宅を訪問して電気製品を無料で支給するプロジェクトのお手伝いをしています。ここ1ヶ月でめっきり寒くなりましたから、暖房器具を希望するお宅が多くありました。ホットカーペットやこたつ、石油ファンヒーターなどの要望をお聞きしました。支援の手が届いていないお宅もあることと思います。身近な静岡においても今、寒さに震えている方々がいることを覚えていたいと思います。

b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
 ベツレヘムの羊飼いたちも、夜の寒さに震えていたことでしょう。そして、神様からの良い知らせは、こういう弱い立場の人に真っ先に告げ知らされました。少し飛ばして11節と12節、

11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 御使いは羊飼いたちに、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言いました。救い主は、この世の苦しみから私たちを救って下さるだけでなく、「永遠のいのち」をも与えて下さいます。続いて13節と14節、

13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 これは、すごい光景ですね。救い主イエス様のご降誕が、いかに祝福に満ちたことであったかが分かります。この素晴らしい知らせは、羊飼いという世間的には軽蔑されて弱い立場にあった者たちに真っ先に伝えられました。

c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
 この羊たちの反応もまた、素晴らしいものでした。15節、

15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」

 せっかく御使いが知らせてくれた素晴らしいことを自分たちの目で確かめるのと確かめないのとでは大違いです。羊飼いたちは直ちに反応しました。16節、

16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

 すこし飛ばして20節、

20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 このことで、羊飼いたちは身も心も温められたことでしょう。寒い夜に震えながら夜番をしていた羊飼いたちにとって、最高のクリスマス・プレゼントが天から与えられました。

③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる
 では、この聖書の箇所を読んで、私はどうするべきなのでしょうか?聖書は物語として読むだけでも十分に興味深く面白いものです。でも、聖書はそれだけで終わる書物ではありません。聖書のことばは私たち一人一人に語り掛けて来て、時には私たちの心を突き刺します。きょうの箇所から聖書はどんなことを語り掛けて来ており、その語り掛けを聞いた私は、どう反応したら良いでしょうか?

 お気付きのことと思いますが、きょうの説教の重要なキーワードは「手放す」です。イエス・キリストは神でありながら、すべてを手放して地上に降って来て下さり、私たちに神様のこと、また天の御国について教えて下さいました。そして、最後は十字架に付けられて死にました。神としての力を行使すれば十字架刑を避けることはできたでしょう。でもイエス様はその力も手放して十字架で死にました。天の父もひとり子のイエス様を手放して地上に遣わしました。羊飼いたちは羊以外には手放すものが無いほど、ほとんど何も持っていない者たちだったでしょう。その羊でさえ、預かっているに過ぎない場合もあったことでしょう。彼らはもともと、多くを手放している者たちでした。

 宗教では、手放すことを勧めるものが多いと思います。キリスト教に限らず、仏教や修験道もそうでしょう。大晦日になると除夜の鐘の音が聞こえて来ます。私が以前住んでいた大岩の実家では、近所の臨済寺から、除夜の鐘の音が聞こえて来ました。除夜の鐘の「除」という言葉には古いものを捨てて新しいものに移るという意味があり、心穏やかに新年を迎えようという願いが込められているのだそうです。執着していることを捨てて手放すなら、新しい気持ちで新年を迎えられます。私たちはいろいろなことに囚われていますから、それらを手放すことが勧められています。

 修験道も、険しい山岳地帯で修行することで、余計なものがそぎ落されて行くのでしょうか。四国の八十八ヶ所の霊場巡りも自らの足で踏破するなら、きっとその過程でいろいろと手放して行くことができるのでしょう。

 宗教ではありませんが、この夏、私は日本アルプス縦断レースの応援をしました。出場選手は日本海側の富山湾から太平洋側の駿河湾まで北アルプス、中央アルプス、南アルプスを越えて来ます。ゴールは大浜海岸ですから、私は大浜街道と大浜の海岸で4人の選手を出迎えました。トップの土井選手、4位の望月選手、完走した20人の中では最後から2番目の19位の中島選手、そして最後の20位の吉川選手を、ゴール前の1~2kmほどを自転車で先回りしては応援しました。日本海側から415km走って来た選手の方々は、様々なものがそぎ落されて力が抜けていて、とても「良い人」になっているという印象を受けました。到着後のインタビューを聞いていると、「感謝しかない」、「すべてが感謝だ」ということが語られていました。レースに送り出してくれた家族や職場の同僚、大会を運営するスタッフ、共にレースを走った仲間の選手たち、沿道で声援を送ってくれた人々、すべてが感謝だと語っていました。レースの中でいろいろ手放して、すべて感謝する者へと変えられて行ったようです。

 この秋、私は台風15号で被災したお宅の多くに行ったことを最初に話しましたが、床上浸水して家財の多くを失った方々は、強制的にものを手放さざるを得なかった方々です。その方々は、日本アルプス縦断レースを完走して大浜の海岸に辿り着いた選手の方々とどこか似ているように感じました。家財を失って最低限の物で暮らしている方々は、欲得から解放されて、電気製品の無料支給を素直に喜んで下さり、このプロジェクトに感謝する、とても「良い人」であるという印象を受けました。

おわりに
 宗教であってもなくても、経験上、私たちは執着を手放すことで幸福に近づけることを知っています。しかし、手放すことは、とても難しいことであることもまた知っています。自分で何とかしようと私たちはもがき、苦しんでしまいます。その難しい手放すことを、どうやったら達成できるのか、宗教によって異なることが語られるのでしょう。キリスト教の場合は、神の子であるイエス・キリストが率先して手放すことを実践している点に大きな特徴があります。神の御子であるイエス様が率先してすべてを手放しているのですから、私たちもそれに倣いたいと思います。

 それによって、どんな良いことがあるのか?と問われるなら、余計なものを手放してきよめられることで、イエス様に似た者にされて行くという良い点があるほか、聖書が段々と分かるようになるという素晴らしいことを挙げたいと思います。

 聖書を読んでも最初はなかなか分かりません。それは、私たちが現代の常識にあまりに囚われているからです。私たちは学校や世間で習った様々な知恵や知識をたくさん持っています。それらの知恵や知識を持っている間は、聖書はなかなか理解できません。しかし、それらを手放して行くなら、聖書のことばが段々と心の中に入って来るようになります。そうして手放せば手放すほど、聖書のことばが素直に心の中で響くようになります。だから、聖書は読むたびに新鮮です。去年よりも今年のほうが多く手放せているなら、聖書のことばはより一層深く心の奥に入って来ます。これが聖書の醍醐味です。イエス様がすべてを手放したお方であることも、より実感できるようになることでしょう。そしてさらに、「永遠のいのち」とは何かについても、手放せば手放すほど、分かるようになって来るでしょう。「永遠」とは、この世の知恵や知識や常識では決して理解できない領域のことです。ですから、それらの知恵や知識や常識を手放すことで、「永遠のいのち」のことも段々と分かるようになります。そして、この世の苦しみから解放されるだけでなく、死の恐怖からも解放されて、深い平安が得られます。

 私自身もまだまだ道半ばですが、そのような平安の深みにイエス様に連れて行っていただきたいと願っています。イエス様がこの世に生まれて下さったからこそ、私たちはその平安の深みに連れて行っていただくことができます。

 きょうのクリスマス礼拝、イエス様のご降誕に心一杯感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
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