インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

渇いた魂が求める聖霊(2018.7.29 礼拝)

2018-07-30 07:56:32 | 礼拝メッセージ
2018年7月29日礼拝メッセージ
『渇いた魂が求める聖霊』
【詩篇42篇】

はじめに
 先週はシオン教会での合同礼拝でしたから間が空きましたが、先々週の詩篇22篇に続いて今週もまた詩篇を開くことにしました。きょうは42篇です。もう一度、1節から5節までを、今度は交代で読みましょう。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

魂を冷静に観察している詩人
 この詩人の置かれている状況は、どのようなものでしょうか。4節に、この詩人が祭りのために神殿があるエルサレムに上京した時の喜びを思い起こしていることが綴られています。4節、

42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

 しかし、2節を見ると、今はそのことがなかなか適わない状況にあることがわかります。2節、

42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 このように、神の御前に出られない状況が続いているので、魂が渇いているのですね。1節には、

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

とあります。
 私がこの詩篇42篇で最も感銘を受けるのは、この詩人が自分の魂の状態をかなり客観的に把握している点です。そして、このことから心と魂とは違うのだということを教えられました。
 この詩人は、自分の魂をやや突き放して、5節のように言います。

42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。

 この5節から、詩人の内で思い乱れているのは「心」ではなくて「魂」のほうであることがわかります。つまり精神的に乱れることがあった場合、それは必ずしも「心」が乱れているのではなく「魂」が乱れている場合も少なからずあるということです。この詩人は冷静沈着に自分の「魂」の状態を観察していますから、「心」は乱れていないと言えます。この詩人の内で乱れているのは「魂」であって、「心」のほうではありません。

魂を癒すことができるのは神だけ
 このように、「心」と「魂」を区別して観察することは、信仰についての理解を深める上でとても重要だと思います。心を制御することは、ある程度は可能でしょう。簡単ではありませんが、心が動揺している時にどうしたら良いかなど、いろいろと試してみることは可能です。そして上手くすれば動揺を静めることも可能でしょう。しかし、魂の領域には神様に入っていただかないことには、どうしようもありません。魂の領域を人が制御することは不可能です。私たちの魂を癒すことができるのは、神様だけです。きょうは、このことの理解をご一緒に深めることができたら幸いだと願っています。
 次に取り上げる人生相談は少し前の祈祷会のメッセージでも引用したものですが、最近、朝日新聞の人生相談欄に次のような相談が載っていました。
https://digital.asahi.com/articles/ASL6P6FQWL6PUCFI00B.html?iref=pc_ss_date

お読みします。

●相談者 女性 40代

 40代後半の独身女性です。東証一部上場企業に正社員として働いています。
 今まで結婚願望、出産願望があった時期があり、ありがたいことにプロポーズして頂いたことも何度かありましたが、結婚は決断できませんでした。現在は、結婚願望、出産願望は全くありません。
 仕事は心身ともにハードで辞めたいと思うことは多々ありますが、独りで生きていくためにはと腹をくくり、なんとか続けています。信頼できて、心を許せる女友達や食事に誘ってくれる男性がいて、生涯を通して楽しめる趣味を持ち、そこそこ資産もあります。
 ある程度の年齢になったら老人ホームに入ろうと考えています。自分で全て選択してきた人生に納得していますし、将来の不安もあまりありません。
 それなのに、なぜかいつも心が満たされず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります。自分でも理由が分かりません。
 どうしたら心が満たされるのでしょうか。
 また、私のような独身女性が充実して生きていくためのアドバイスをお願いいたします。上野千鶴子先生にご回答頂けたらありがたく存じます。
 上野先生の著書『おひとりさまの老後』は読ませて頂いたので、その他のアドバイスを頂けたらありがたく存じます。

 この相談に対する回答者の上野千鶴子氏の回答は以下のようなものでした。

 ○回答者 社会学者・上野千鶴子 「独身」が原因と思い込んでるのでは

 あなたのご相談を少々立場を変えてつくりかえてみましょう。
 「40代の専業主婦。夫は一部上場企業勤務で、順調に出世しています。子どもにも恵まれ、趣味や旅行を共にする女友達や、サークル仲間で男性の友人もいます。不本意なパート勤めに出ずにすみ、好きな稽古事にもうちこめる余裕のある暮らしを夫に感謝しています。老後を子どもたちに頼る気はないので、ふたりで有料老人ホームに入ろうねと夫とは話し合い、そのための蓄えもしています。自分で納得して選んだ人生、つつがなく過ぎたことを感謝していますし、将来の不安もあまりありません。それなのになぜか、いつも心が満たされておらず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります」
 ここまでくれば明敏なあなたにはとっくに察しがついているでしょう。性別を入れ替えても、職業や立場を変えても、同じ相談が成り立つと。
 あなたのご相談の問題は、前段が原因、後段がその結果という因果関係をもとに成り立っていること。空虚な気持ちに「自分でも理由がわからない」というあなたの落とし穴は、「もし独身でなければきっと人生は充実していただろう」と思い込んでいるところにあります。
 とりあえず、前段と後段の因果関係を断ち切ってください。そうすればあなたが向き合うべきは、いまこの時の空しさ、さみしさになります。
 40代後半。人生の盛りは過ぎ、とりかえしのつかない思いややりなおしのきかないことで過去はいっぱい。自分の人生が下り坂に入ったと痛切に思わざるをえないのが、この年齢です。女性なら閉経というカラダの変化が伴いますし、男性なら組織内の自分のポジションに見極めがついているころです。「自分で納得して選んだ人生」、後悔はなくとも、何か大事な宿題を忘れたような索漠とした思いを味わっていることでしょう。
 とはいえ、人生100年時代。まだまだ後半生は続きます。あなたの「ポッカリと穴が開いているような」気持ちは子どもの頃からつづいているわけではなさそうですし、「腹をくくって」つらい仕事を続けてきたときにも、そんな気持ちを味わう余裕はなかったでしょう。
 過去をふりかえってどんなときなら充実感を感じられたかを思い出してください。思い患うことのない今は、人生の踊り場。空虚さはその代償です。
(引用終わり)

 回答者の上野氏は、この相談者は「もし独身でなければきっと人生は充実していただろう」と思い込んでいると指摘しています。確かにそうなのでしょう。独身の上野氏に相談していることからも、そのことは伺えます。しかし、いずれにしても、この回答は私の目には物足りないものに映ります。なぜなら、この相談からは、相談者の魂が満たされていない様子が見てとれるからです。この相談者は、「どうしたら心が満たされるのでしょうか」と聞いていますが、実は満たされていないのは心ではなくて魂のほうだと思います。彼女は「生涯を通して楽しめる趣味」を持っているということですから、心を満たす術を知っています。熱心に仕事に取り組み、空いた時間には趣味に没頭すれば心の空しさを忘れることも可能でしょう。それなのに彼女は満たされないものを感じています。つまり自分の努力では埋めることができない空虚感を自分の内に感じているということです。ですから彼女の内で満たされていない場所は「心」ではなくて「魂」のほうです。しかし、相談者の彼女はそのことに気づいていません。回答者の上野氏もまた気づいていません。

神と出会あうことの大切さ
 それに対して詩篇42篇の詩人は自分の魂が満たされていないことを強く感じています。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 では、この新聞の人生相談欄の相談者の女性は、どうしたら自分の「魂」が空虚であることに気づくことができるのでしょうか。それにはやはり、神様との出会いを経験するしかないのだろうなと思います。詩篇42篇の詩人は、かつて祭りでエルサレムに上京して神殿で神との出会いを経験しました。それゆえに今の自分の魂の中には神がいないことを自覚しています。では、どうしたら神との出会いを経験することができるのか、私の経験に照らすと、それは至難の業のような気がします。しかし、それを追求して、少しでも神様との出会いを経験する手助けをすることが私たちのすべきことである筈です。それゆえ、もう少しこのことを掘り下げてみたいと思います。
 まず言えることは、出会うべき神は、書物などから知識として得た神ではなく、これまでずっと自分のそばにいて自分を守り導いてくれていた神であるということです。この相談者に限らず多くの人は、過去に自分が人生の分岐点に立たされた時に選んだ道は自分で選んだと思っていることでしょう。しかし、実は背後に神がいて、どちらかに導いています。そして、その導きにはっきりとは気づかなくても、何となく導かれるものを感じて道を選択する場合がほとんどではないかと思います。そういう何かを感じるから、人は神社でおみくじを引いたり、占いを気にしたりするのではないでしょうか。
 ただし、人を正しい方向に導くことができるのは、その人に霊を吹き込んだ万物の創造主しか有り得ません。この万物の創造主である神とどうしたら出会うことができるのか。聖書が浸透していない日本においては極めて難しいとしか言いようがありません。だから私たちは、もっと多くの方々に聖書の神様のことをお伝えして行かなければならないと改めて思わされます。

あなたがたは何を求めているのですか
 一時期、礼拝でよく開いた箇所を、きょうはまた改めて開きたいと思います。ヨハネの福音書1章35節から39節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 38節でイエスさまは二人の弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。そして「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃいました。こうして二人の弟子たちはイエスさまと出会うことができました。
 イエスさまは同じ質問を私たちに対してもして下さいました。そうして私たちはイエスさまの「来なさい」に応えて教会に来て、私たちが求めているのは魂が神様の霊で満たされることであることが分かるようになりました。
 新聞の人生相談の女性は、心が満たされることを求めています。しかし、実は満たされるべきは心ではなくて魂のほうです。この相談者の女性も、イエスさまの「来なさい」の声に聞き従うのなら、それがわかるようになるでしょう。
 イエスさまを信じる私たちでも、時には自分の内に満たされないものを感じることもあるでしょう。その時には、詩篇42篇の詩人のように冷静に自分の魂を観察したいと思います。そして満たされていないのは心のほうなのか、魂のほうなのかを理解したいと思います。そして、もし魂が満たされていないのであれば、神様に入っていただかなければなりません。つまり聖霊に満たされるということです。詩篇42篇の詩人の時代には、誰でも聖霊に満たされるとうわけではありませんでした。聖霊に満たされたのは限られた預言者たちだけでした。しかし、イエスさまを信じる私たちには聖霊が与えられ、聖霊に満たされることができますから、改めてこのことを感謝したいと思います。

おわりに
 最後にもう一度詩篇42篇の5節をご一緒に読んで、終わることにします。

42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 お祈りいたしましょう。
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7月29日礼拝プログラム

2018-07-26 11:36:32 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月29日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年7月第5聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  神はひとり子を        26
 交  読  詩篇135篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  御手の中で         405
 讃 美 ③  鹿のように(2回)      192
 聖  書  詩篇42:1~5
 説  教  『心と魂の違い』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                由紀姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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増える水と増えるパン(2018.7.25 祈り会)

2018-07-26 07:02:38 | 祈り会メッセージ
2018年7月25日祈り会説教
『増える水と増えるパン』
【エゼキエル47:1~12】

47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

はじめに
 少し間が空きましたが、きょうはまた、黙示録21章と22章の「新しい天と新しい地」と関係する箇所をご一緒に読むことにしたいと思います。

エゼキエル47章とよく似ている黙示録22章
 まず黙示録の21章の1節から4節までを交代で読みましょう。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 2節にあるように、新しいエルサレムが天からくだって来ました。そして、22節によれば、この都の中には神殿はなかったようです。22節、

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。

 この神殿はなかったというところは、エゼキエル47章とは異なりますね。黙示録が書かれたのは、ローマ軍の攻撃によって神殿が焼失した後のことですから、この神殿の焼失が関係しているのかなという気がします。しかし、逆に神殿が焼失したことで、イエス・キリストの恵みはイスラエル人だけでなく、全世界の人々に与えられるものであることが、いよいよハッキリしました。既にパウロたちによって神殿が存在していた時代にも異邦人たちに福音が宣べ伝えられていましたが、神殿が焼失したことで、礼拝とは霊とまことによって行われるべきものだということが、一層明確になりました。
 続いて、黙示録22章の1節と2節を交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 このいのちの水の川の描写はエゼキエル書の47章と非常によく似ていますね。エゼキエル書の場合は神殿から水が出たという違いはありますが、その他の点ではとてもよく似ています。それゆえ、この黙示録22章の川も、エゼキエル書47章のように、流れるに従って水は深くなって行ったと想像されます。

下流に行くに従って増える水かさ
 もう一度、エゼキエル47章に戻ります。先ほどご一緒に読んだように、この水は下流に進むに従って水かさが増します。以前も話したことがあるかもしれませんが、私は神学生の時、この描写に納得がいっていない時期がありました。なぜかと言うと、私たちの身近にある川が下流に行くに従って水量が増えるのは、たくさんの支流があって、それらの川から水が流れ込むことによって水量が増えるからです。或いはまたダムがあれば、そこで水が堰き止められて水かさは増えますが、この川の場合は8節にあるように海に流れ込みますから、堰き止められてはいません。支流がなくて水源は神殿からの一つだけ、しかも堰き止められていないなら、常識的には水量は増えない筈です。
 では、なぜ、この神殿から流れ出た水はどんどん増えるのか、私は神学生の時に、ある先生に質問しました。するとこの先生は、答えました。「信仰というのはそういうものではないですか。前に進んで行けばいくほど恵みが増し加わる、そういうものではないですか」それを聞いて私はなるほどと思い、納得しました。しかし今回、このエゼキエル47章からのメッセージを取り次ぐにあたって、もう少し何か加えることはできないだろうかと思いました。そうして、思い巡らしを始めた間もなく、次のことが示されました。

増えることで多くの人々が恩恵を受ける
 この川の流域では、多くの生き物や人々が、この川の水の恩恵を受けます。たとえば9節、

47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

 この川が入るところでは、すべてのものが生きます。そして10節のように漁師が魚を取ることで、流域の人々への豊かな食料になります。また、11節にあるように、沢と沼では水は良くなりませんが、その代わりに塩が取れますから、これも大変な恩恵です。塩は人々の生活には不可欠だからです。そして12節、

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 木の実は食物となり、葉は薬になります。こうして、多くの人々が養われます。このように多くの人に恵みをもたらすために、水かさは増えるのだ、と示されました。この水が増え、多くの人々が養われるという点では、福音書の五千人の給食が思い起こされます。最初はわずかのパンしかありませんでしたが、イエスさまによってパンは増えて多くの人々が満腹になり、なおパンは余りました。
 きょうは、エリシャの同様の箇所をご一緒に読むことにしたいと思います。第二列王記4章42節から44節までを交代で読みます。

4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。【主】のことばのとおりであった。

 エリシャはこうして、大麦のパン20個と新穀1袋で百人のお腹を一杯にして、なお余りました。神様は、そこにいる人々が何人いても、それぞれの人に十分な恵みを与えて下さいます。

何人いても十分な恵みを与える神
 福音書の五千人の給食も見ましょう。ヨハネの福音書6章8節から13節までを交代で読みましょう。

6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。

 このように神様は百人いれば百人に、五千人いれば五千人に十分な恵みを与えて下さいます。そして、なおその恵みはあり余ります。この沼津市には20万人もの人々がいて、神様はこの20万人に対しても十分な恵みを与えて下さいます。しかし、残念ながらなかなか行き渡りません。

おわりに
 最後にもう一度、エゼキエル書47章に戻ります。12節を、ご一緒に読みましょう。

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 この素晴らしい果樹の光景が霊的に見えるなら、人々はもっとイエスさまのみもとに集まって来ることでしょう。人々の霊的な目が見えるようになるには、どうしたら良いのか、このことについては礼拝メッセージの中でも考えて行きたいと願っています。
 聖霊が与えられている私たちには、このいのちの水の恵みが与えられていることを感謝し、多くの方々とこの恵みを分かち合うことができるように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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奥深い世界への招き(2018.7.18 祈り会)

2018-07-19 08:52:25 | 祈り会メッセージ
2018年7月18日祈り会メッセージ
『奥深い世界への招き』
【詩篇90篇】

はじめに
 西日本の豪雨で多くの方々が亡くなった報道に接してから、いくつかの詩篇に目が留まりました。それらの中から先週の祈り会では詩篇69篇を開き、先日の礼拝では詩篇22篇を開きました。

人の命のはかなさが綴られている詩篇90篇
 そして詩篇90篇もまた、目に留まった詩篇の一つです。この詩篇には、人の命のはかなささが綴られています。5節と6節、

90:5 あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。
90:6 朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。

 ほんの少し前までは日常の生活をしていた多くの方々が亡くなられました。これらの方々は一ヶ月前の大阪の大地震で4名の方が亡くなった報道に接して心を痛めていたことでしょう。或いはそれ以前の様々な災害の報道を見て心を痛めていたことでしょう。そして多くの人はまさか自分が災害に巻き込まれるとは思っていなかったでしょう。しかし、災害はいつどこで起こってもおかしくありません。ですから、この沼津の地でも、大きな災害があるかもしれません。或いは災害でなくても、急な病気や交通事故でいつ命を落とすかわかりません。それに対して私自身はどれだけの心備えができているだろうかということを思わされます。
 この詩篇90篇の詩人、表題にはモーセとありますが、この詩人は12節で神に訴えています。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」
 ここ何日か私は、自分はこの言葉を神様に向かって聞けるだろうかということを考えています。「神様、教えてください。私はあと何日この世で生きられるのですか」と私は聞けるだろうか、そんなことを考えています。信仰的には、「はい、聞けます」と答えられなければいけないのだろうと思います。今の私のように逡巡しないで、残された日々を無駄にしないで精一杯働くことができるように、神様に「どうか教えてください。自分の日を数えることを」と聞けるようでなければいけないのだと思います。私たちには永遠の命が与えられていて、この世においても天に召された後でも神様とずっと共にいるわけですから、召される日が早かろうが遅かろうが構わないはずです。というより、もしかしたら早く神様のみもとに行けますようにと願うぐらいでないといけないのかもしれません。しかし今の私は、「どうか教えてください。自分の日を数えることを」と神様にお聞きする勇気はありません。それが正直なところです。だから詩篇の69篇と22篇を先に開き、90篇は開かないようにしようかとも思っていたのですが、ずっと心に引っ掛かっていましたから、きょうご一緒に開くことにしました。

充実して生きても魂までは満たされない
 この12節の「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」について思い巡らしていて、がんの告知のことを思いました。今はがんに掛かったら本人に告知することは当たり前のようになっていますが、十数年前までは、がんは患者の家族には知らされましたが本人には知らされませんでした。2001年に亡くなった私の父にも私たち家族は父にがんであることを知らせませんでした。
 それが今では本人にも告知することが当たり前になっています。わずか十数年で、どうしてこんなに変わったのでしょうか。一つにはがんの治療法が格段に進歩して、以前に比べれば治るようになったということが挙げられるのでしょう。また、自分の余命がどれくらいかを本人以外の家族は知っているのに本人は知らないのはおかしいという考え方が一般的になったということも考えられるのでしょう。
 そうして、自分の余命があと何ヶ月かと知った人が、自分のやり残したことをしたりして、残された期間をできるだけ充実して過ごして亡くなって行ったというような例を、よくテレビで見たりする時代になりました。しかし、心配な面もあります。残されたことをすれば、心は満たされるかもしれませんが、魂までは満たされないのではないかということです。
 つい先日、7月14日付けの新聞の人生相談欄に、こんな悩み事を持つ女性の相談が寄せられています。お読みします。

「40代後半の独身女性です。東証一部上場企業に正社員として働いています。
 今まで結婚願望、出産願望があった時期があり、ありがたいことにプロポーズして頂いたことも何度かありましたが、結婚は決断できませんでした。現在は、結婚願望、出産願望は全くありません。
 仕事は心身ともにハードで辞めたいと思うことは多々ありますが、独りで生きていくためにはと腹をくくり、なんとか続けています。信頼できて、心を許せる女友達や食事に誘ってくれる男性がいて、生涯を通して楽しめる趣味を持ち、そこそこ資産もあります。
 ある程度の年齢になったら老人ホームに入ろうと考えています。自分で全て選択してきた人生に納得していますし、将来の不安もあまりありません。
 それなのに、なぜかいつも心が満たされず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります。自分でも理由が分かりません。
 どうしたら心が満たされるのでしょうか。」

 この相談に対する回答も載っていましたが、私にはその回答は的外れなものに思えましたから、ここではお読みしません。この女性は心を許せる友人もいるし、生涯を通して楽しめる趣味も持っています。しかし、なぜかいつも心が満たされないということです。それで、どうしたら心が満たされるのでしょうかと尋ねています。この相談に対する私の見立ては、この女性は心が満たされていないのではなくて、魂が満たされていないということです。私自身も教会に導かれるまでは、まったく同じ思いの中にいました。いろいろな趣味を持って楽しんでいました。剣道をしたり、バードウォッチングをしたり、野鳥の会のボランティアをしたり、スポーツ観戦をしに熱心に競技場に通ったり、韓国映画にはまったりと、いろいろなことをして、仕事も面白かったですし、心は満たされていました。しかし、どこかで満たされていないことを感じていました。それが、教会に導かれてからは、その「満たされない感」がまったくなくなりました。それは、空虚だった魂に神様が入って下さったからだと思います。

奥深い世界への招き
 この7/14付けの人生相談は、私が忘れていた大切なことを思い出させてくれましたから、感謝でした。どうしたら、こういう方々を神様のところにお連れする働きができるか、考えなければならないと思わされています。
 そういう初心者レベルに戻って詩篇90篇を読むなら、12節の、「どうか教えてください。自分の日を数えることを」も、あまり難しいことを考えずに、単純に神様との交わりを祈り求めることとして、とらえれば良いのかもしれません。
 教会に通い始めたばかりの頃の私は、聖書のことをほとんど何も分かっていなかったのに、深い平安を感じることができました。聖書の奥深さの具体的な中身は分からなくても、何か奥深そうな世界があると興味を示すだけでも、神様はその人の中に入って行って下さり、空虚な魂を満たして下さるのかもしれません。
 さきほどの人生相談の女性のような方々に、このような満たされた世界があることを、何とかしてお伝えできるようになりたいと思います。
 お祈りいたします。
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7月15日礼拝プログラム

2018-07-14 06:20:22 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月15日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年7月第3聖日礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  父の神の真実         40
 交  読  詩篇133・134篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  救い主イエスと       409
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 聖  書  詩篇22:1~5、マタイ6:9~15
 説  教  『どうして私をお見捨てに』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  主とともに罪に死に     312
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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共に苦しむイエス(2018.7.11 祈り会)

2018-07-14 06:17:16 | 祈り会メッセージ
2018年7月11日祈り会メッセージ
『共に苦しむ主イエス』
【詩篇69:1~4、13~18、32~36】

はじめに
 先週の後半から今週の始めに掛けて、西日本各地で大雨による甚大な被害が出ました。先週の水曜日の祈り会で私たちは、台風7号の影響により前線が活発化する予報が出ていたことから、前線が掛かる地域が大雨の被害から守られるようにお祈りしました。しかし、想像を絶する規模の大災害となり、今朝11日(水)の昼のNHKニュースの時点で、今回の西日本豪雨の被害による死者は162名、安否不明者は56名だそうです。
 突然起こる地震とは異なり、今回の大雨は、降水量は予想を上回る多さだったかもしれませんが、大雨が降ること自体は予想されていたことです。その中で私たちは主がそれらの地域を守って下さるようにお祈りもしました。それなのに、このような大災害になったことに私たちはどう向き合って行ったら良いのでしょうか。
 私自身は大変に戸惑っています。特に、きょうの祈祷会のメッセージでは何を語ったら良いのか非常に戸惑いました。日曜日の礼拝メッセージは大雨の被害が出る前から準備していた説教でしたから、大雨には関係ないメッセージでしたが、準備していたものをそのまま語らせていただきました。しかし、きょうの水曜日のメッセージは、いったいどうすれば良いのか、悩みました。私はこの教会で語られたメッセージは礼拝メッセージでも祈り会メッセージでも、教会内部の問題に関すること以外は、基本的にブログに載せて一般に公開しています。教会の将来の問題で伝道の働きがほとんどできていないという現実がありますから、せめてブログでメッセージを公開することで伝道の働きをしたいという願いがあります。そうしてブログを続けて来て、毎日100名以上の方がコンスタントにブログを訪れて下さいます。その中にはクリスチャンでない方々も多いのではないかと推測しています。
 ですから、私がこの教会の祈り会と礼拝で取り次ぐメッセージは教会の皆さんに向けてであると同時に、教会の外にいる方々に向けてのメッセージでもあるということを、私はいつも意識しています(ただし、この春のメッセージのいくつかは教会の問題に関わることでしたから、公開は控えました)。そういう中で、今回のような西日本豪雨の大災害の直後に、いったいどんなメッセージを語ったら良いでしょうか。私は大いに悩みました。そうして思いを巡らす中で、いくつかの詩篇が示されました。

人から神へのことばが綴られている詩篇
 詩篇の多くには、詩人の悩みが綴られています。困難の中にある詩人が主に救いを求めて、祈ります。詩篇以外の聖書の記事の多くは神から人へのメッセージが中心です。しかし、詩篇は人から神への祈りと賛美が綴られています。もし聖書に詩篇がなかった場合のことを思い巡らすなら、詩篇がいかに重要な役割を担っているか、よく分かると思います。もちろん詩篇以外にも人から神への祈りや叫びは収録されていますが、神から人へのメッセージに比べると、あまり目立ちません。ですから、もし詩篇が無かったなら、聖書は神から人への一方通行の書のような印象を私たちは持ってしまうかもしれません。しかし、詩篇があることで、聖書は人から神へのことばも含まれている書であることに私たちは気付きます。
 さて、いくつかの詩篇が示された中で、きょうは69篇を開くことにしました。ダビデは深い泥沼に沈み、もがき苦しんでいます。ここでダビデは実際に泥沼の中に沈んでいるわけではないでしょう。ダビデが置かれている状況が泥沼のようであるということでしょう。しかし、この情景は大雨による水害で泥水が流れ込んだ地域の状況に似ています。きょう、ここを開くことにしたのは、この泥沼の中にはイエス・キリストもまたいて、ダビデと共に苦しんでいることに思いを巡らしたいと思ったからです。
 使徒の働きには、ペテロが詩篇を引用した時に次のような言い方をしたことが記されています。

使徒1:16 「兄弟たち。○○については、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。」

 ダビデは聖霊を受けていましたから、詩篇のダビデの詩は、ダビデの内にいる聖霊がダビデの口を通して語ったことばだとペテロは言うのです。ここに、三位一体の神の神秘があります。旧約の時代、まだ御子はこの世に生まれていませんから、天の御座に父と共にいて、聖霊を受けた預言者に神のことばを伝えていました。そうして神のことばが預言者の口を通してイスラエルの民に伝えられました。たとえばモーセがイスラエルの民に語った神のことばは、聖霊がモーセの口を通してイスラエルの民に語られたものです。このモーセの場合は、比較的分かり易いと思います。
 しかし、ダビデの詩の場合は、ダビデから神に向けたことばです。モーセのような神から人へのことばではなくて、人であるダビデから神に向けてのことばがダビデの詩です。このダビデから神へのことばが、聖霊がダビデの口を通して語られたことばであるということになります。ここから、聖霊を受けたダビデの内には御子がいて、御子がダビデと共に苦しんでいる様子を思い描くことができるでしょう。ですから、現代の私たちクリスチャンもまたダビデと同じように聖霊を受けていますから、私たちが泥沼の中で苦しんでいる時、イエスさまは私たちと共に苦しんで下さっています。このことに思いを巡らしながら、詩篇69篇をご一緒に見て行きたいと思います。

泥沼の中でもがき苦しむダビデとイエス
 1節から4節までを、もう一度、交代で読みましょう。

69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。
69:3 私は叫んで疲れ果て喉は渇き目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。
69:4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く私を滅ぼそうとする者私の敵偽り者は強いのです。私は奪わなかった物さえ返さなければならないのですか。

 ダビデは泥沼の中でもがき苦しみ、そして御子もダビデと共に苦しんでいます。
 しかし、長い詩篇69篇の全部の節が、苦しみを綴ったものではありません。トーンが段々と変わって行きます。これは、ダビデと共にいる御子がダビデをある方向へと導いているということでしょう。そしてダビデは、神に祈り始めました。13節から18節までを交代で読みましょう。

69:13 しかし私は【主】よあなたに祈ります。神よみこころの時にあなたの豊かな恵みにより御救いのまことをもって私に答えてください。
69:14 私を泥沼から救い出し沈まないようにしてください。私を憎む者どもから大水の底から救い出してください。
69:15 奔流が私を押し流さず深い淵が私を吞み込まず穴が私の上で口を閉じないようにしてください。
69:16 【主】よ私に答えてください。いつくしみ深いあなたの恵みのゆえに。あなたのあわれみの豊かさにしたがって私に御顔を向けてください。
69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
69:18 私のたましいに近づきこれを贖ってください。そうして私の敵から私を贖い出してください。

 この詩篇の最初のほうでは、ダビデは必死でした。しかし、今読んだ箇所は、わずかながら心に余裕が出て来たように感じます。それは、御子がダビデと共にいて励まして下さっているからではないでしょうか。

心に余裕が生じたダビデ
 そして、この詩篇の最後でダビデはもっと変わります。32節から36節までを交代で読みましょう。

69:32 心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。
69:33 【主】は貧しい者に耳を傾け 捕らわれたご自分の民を蔑まれない。
69:34 天地よ 主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。
69:35 まことに神はシオンを救いユダの町々を建て直される。彼らはそこに住みそこを自分たちの所有とする。
69:36 主のしもべたちの子孫はその地を受け継ぎ御名を愛する者たちはそこに住む。

 この詩篇の最初のほうではダビデは自分のことだけで精一杯でした。しかし、この32節でダビデは、他の者たちに向かって呼び掛けています。「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ」。御子が共に苦しんで下さっていることで、ダビデの心にはこんなにも心の余裕が生じていました。
 そして34節では、「天地よ 主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。」と言って、すべての被造物に対して主をほめたたえることを勧めています。さらに35節と36節では救いがもたらされた様子が綴られています。この詩篇の最初と比べて、何とトーンが違うことでしょうか。あまりにも変化が大きいですから、これは短い間に急激に変わったのではなく、時間を掛けてゆっくりと変化したのかもしれません。しかし、時間が掛かろうとも、やがて神を賛美し、他の者たちにも、この賛美に加わるように勧めるほどにダビデの心は回復しています。

三位一体の神の神秘
 これは正に三位一体の神の神秘だと言えると思います。父・子・聖霊の三位一体の神が、絶望の底に沈んでいる者を、神を賛美する者へと変えて下さいます。御子も聖霊もいなくて天の父だけであったら、これほどの変化が起きるでしょうか。天の父だけであったら聖霊のように人の心の内にまで深く入って、人を変えることができるでしょうか。旧約の時代には預言者だけにしか聖霊が与えられませんでしたから、エルサレム滅亡とバビロン捕囚という悲劇に向かって行ってしまいました。ですから、このダビデのような回復の恵みは、三位一体の神だからこそ、もたらすことができると言えるでしょう。
 被災地の方々は、いま苦しみの真っ只中にいます。町を覆った泥が取り去られ、やがてインフラが復旧して日常生活が取り戻されたとしても、心の復興にはなお時間が掛かることでしょう。東日本大震災で被災された方々も、先日いただいたシオン教会のボランティア報告のまり子先生の文にもあったように、今なお深い悲しみや痛みを心に抱えているということです。そのようなことをお聞きしている中で、今回の西日本の豪雨で多くの方々が被災しました。この報道に接して私は戸惑い、どのようなメッセージを語るべきか、なお分からない中にあります。しかし、父・子・聖霊の神が共にいて下さり、ダビデの場合には、次第に心の復興へと向かって行ったことを心に刻んでおきたいと思います。聖霊が一人一人に与えられることの恵みの大きさを覚えながら、なお主の語り掛けに耳を傾け、自分たちにできることに取り組んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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イザヤが預言した新しい天と新しい地(2018.7.8 礼拝)

2018-07-09 22:04:31 | 礼拝メッセージ
2018年7月8日礼拝メッセージ
『イザヤが預言した新しい天と新しい地』
【イザヤ65:16~25】

はじめに
 きょうはイザヤ書65章の「新しい天と新しい地」の箇所をご一緒に見ることにしています。
 聖書には、この「新しい天と新しい地」という表現が全部で4回出て来ます。きょうのイザヤ65章の他に、週報p.3に載せたようにイザヤ66章と第二ペテロ3章、そして黙示録21章に出て来ます。

イザヤ66:22 わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──主のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。
Ⅱペテロ 3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
黙示録 21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 最近の私は、この黙示録21章と22章の新しい天と新しい地の箇所が非常に心に通っていますから、ここに関連する箇所として、イザヤ書65章を開くことにしました。

イザヤ書の新しい天と新しい地
 このイザヤ書65章の「新しい天と新しい地」の箇所はとてもよく似ていると思います。違っている点もありますが、それはイザヤ書を書き記したイザヤと黙示録を書き記したヨハネの感受性や時代背景が異なることによって生じた違いであり、神様はイザヤとヨハネに同じ幻を見せたのではないか、私はそのように考えています。
 イザヤ書65章の16節から順次見て行きましょう。16節と17節をお読みします。

65:16 この地で祝福される者はまことの神によって祝福され、この地で誓う者はまことの神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。
65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。

 黙示録21章でも、聖なる都の新しいエルサレムが天から降って来るとありましたね。このイザヤ65章も同じです。救われた者が天に昇って行くのではなくて、天のほうが地のほうに降って来て、今までとは違う新しい天と新しい地が主によって創造されます。ですから、16節にあるように、この地で祝福される者はまことの神によって祝福されます。続いて18節と19節、

65:18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

 18節に「わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」とあります。「いついつまでも楽しみ喜べ」ですから、救われた者は「永遠」の中に入れられるということです。救われた者は永遠に楽しみ喜びます。そこではもう、泣き声も叫び声もありません。20節、

65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。

 最近の日本では、幼い子供たちが事故や犯罪に巻き込まれて亡くなったり、親の虐待を受けて亡くなったりと、本当に心が痛むことがあまりにも多く起こりますから、この20節には本当に癒され、励まされます。私たちはこの主の日の到来を待ち望まなければならないと思わされます。21節と22節、

65:21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
65:22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。

 住む所や食べる物を他人から奪われることなく、民の寿命は木の寿命に等しいとは、素晴らしい恵みですね。木の寿命は木の種類によっても異なると思いますが、もちろん寿命の長い木のことが、ここでは言われているのでしょう。23節と24節、

65:23 彼らは無駄に労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者の末裔であり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
65:24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

 主は民の心の中をご存知ですから、彼らが呼ばないうちに答え、語っているうちに聞いて下さいます。25節、

65:25 狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──【主】は言われる。」

 この25節は何とも言えず平和な光景ですね。動物たちですら、他の動物を殺すことがなく、主がこの動物たちを養って下さいます。

苦難があるからこその平安
 この25節を見ていて、私は今沢の海岸の防潮堤に住み着いているネコたちの姿を思い起こしました。私は週に何度か防潮堤の上または向こう側に降りた防潮堤沿いの道を原方面までジョギングしています。そうして、ここにはだいたいいつも同じ場所に同じネコたちがいます。このネコたちの姿を見ていると、とても平和な気分になります。
 実は私は牧師になる前は、それほどネコが好きであったわけではありません。嫌いではありませんでしたが、特に好きというほどではありませんでした。それが今では好きになったのは、やはりNHKのBSで放送している『岩合光昭の世界ネコ歩き』の影響だろうと思います。私は牧師になってからは好んでテレビの旅番組、特に海外を旅する番組を好んで見るようになりました。牧師になる前の神学生の時は神学院にテレビがありませんでしたから旅番組はまったく見ませんでした。そして神学生になる前の大学で働いていた時は、仕事やプライベートで海外に行くことがありましたから、特に旅番組を好んで見るということはありませんでした。しかし仕事を辞めて以降、もう10年間も海外に行っていません。それで海外に行けなくなってしまった代わりに海外を旅する番組を好んで見るようになったというわけです。
 その旅番組でも特に『岩合光昭の世界ネコ歩き』は大好きな番組です。動物写真家の岩合さんが世界中のネコの様子を、現地の特有の風景、町並みであったり自然であったり、色々ですが、風景と共にネコの平和な姿を動画で見せてくれる番組です。NHKの番組ですから旅費はとうぜんNHKが持ってくれているでしょう。世界のネコを撮る仕事で世界中を旅することができるなんて、本当にうらやましいです。という思いでいつも、この『世界ネコ歩き』を見ています。そうしているうちに、以前は特に好きとは感じていなかったネコのことが今は好きになりました。
 さてしかし、この防潮堤のネコたちは大雨の時には、いつもどこで雨をしのいでいるのだろうかということが、私はとても気になっています。たぶん葉がたくさん繁っている木の下でじっとしているのではないかと思っているのですが、それでは完全に雨をしのぐことはできずに濡れることは避けられないのではないかと思っています。風雨が激しい嵐の時には、このネコたちも苦労しているのだろうなと思います。そうして嵐の中で濡れているネコの姿と晴れた日に気持ち良さそうにしているネコの姿とを重ねると、晴れた日のネコの平和の姿が一層引き立つように感じます。
 苦難があるからこそ平和の貴さが一層よくわかるようになるのだと思います。イザヤ書65章19節には、
「わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」
とあります。エルサレムの民はエルサレム滅亡の悲しみとバビロン捕囚の苦しみを味わいました。その苦難を味わっているからこそ、新しい天と新しい地の創造によってもたらされる平和の喜びは一層大きなものとなります。エデンの園でアダムとエバが罪を犯したことから人は大きな苦難を味わうことになりましたが、この苦難は必要なものであったのかもしれません。

十字架がもたらす平安
 キリスト教では、いつも苦難と平安が抱き合わせになっているようです。イザヤ書53章が、まさにそれを象徴していますね。イザヤ書53章の3節から7節までを交代で読みましょう。

53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 特に5節の後半ですね、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。ここでも苦難と平安が一体になっていることを覚えたいと思います。苦難に向かって歩んでいたイエスさまには、いつも平安が伴っていました。だから霊的な目が開かれた私たちはイエスさまが与えて下さる恵みの大きさを感じることができます。しかし霊的な目が閉じられた人にとっては、イエスは見映えのしないみずぼらしくてみじめな者にしか見えません。
 私たちはいつも苦難と平安が一体になっていることを覚えていたいと思います。イエスさまの苦難には素晴らしい平安が伴っています。新しい天と新しい地の素晴らしい平安には旧約の時代の重い罪と苦難、そしてイエス・キリストの十字架の苦難が伴っていることを覚えたいと思います。

子羊の血がもたらす平安
 最後に黙示録22章をまた、ご一緒に味わいたいと思います。既に何度か開いた箇所ですが、きょうもまたご一緒に味わいましょう。黙示録22章の1節から5節までを交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 1節に神と子羊の御座とあります。3節にも神と子羊の御座とあります。子羊とは言うまでもなくイエス・キリストのことです。旧約の時代にほふられて血を流した羊のように、イエスさまは十字架で血を流しました。それゆえ子羊です。ここには新しい天と新しい地の素晴らしい平安が描かれていますが、やはり同時に子羊が受けた苦難もまた同時に描かれています。それゆえ、この素晴らしい平安が一層豊かなものになります。
 私たちはこの神と子羊の大きな愛に感謝し、この素晴らしく豊かな平安の恵みを存分に味わい尽くし、そうして、この恵みを多くの方々と分かち合うことができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月8日礼拝プログラム

2018-07-06 09:32:49 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月8日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年7月第2聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                関 姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  朝つゆの園を        378
 交  読  詩篇132篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  目を上げて主のみ顔を    415
 聖  書  イザヤ65:16~25
 説  教  『イザヤが預言した新しい天と新しい地』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  とうとき主こそ私の     392
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
コメント

ピアノの調律師、演奏者、聴衆のたとえ(2018.7.4 祈り会)

2018-07-06 09:30:24 | 祈り会メッセージ
2018年7月4日祈り会メッセージ
『ピアノの調律師、演奏者、聴衆のたとえ』
【ヨハネ4:1~3、使徒9:31】

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

使徒9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

はじめに
 かねて話している通り私は今、自分がどのような説教をしていくべきかについて、あれこれと思いを巡らしています。そんな中で、とても参考になる本と出会いましたので、きょうはその証をさせていただきたいと思います。

『羊と鋼の森』を読んで
 本と出会ったと言いましたが、百万部を超えたベストセラー本ですから、珍しい本ではなくて、皆さんの中にも読んだ方がおられるかもしれません。それは2016年の本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』(宮下奈都)という小説の本です。この小説のことを一昨年知った時、読んでみたいと思っていたのですが、結局読まないままになっていました。それがどうして最近になって読むことになったかというと、先日、清水町のサントムーンに『万引き家族』を観に行った時に別のスクリーンで『羊と鋼の森』が上映されていて映画化されたことを知ったからです。それで、この映画も観たいと思いました。ただ以前から小説も読みたいと思っていましたから、まずは小説を読むことにしました。映画のイメージに縛られて小説を読みたくなかったからです。
 この『羊と鋼の森』はピアノの調律師の物語です。調律師になったばかりの若者が主人公で、先輩の調律師から色々なことを教わりながら成長して行く様子が描かれています。『羊と鋼の森』の「鋼」はピアノの弦のことで、「羊」はその弦を叩くハンマーに取り付けられているフェルトのことです。主人公の若者は高校生の時に高校のピアノを調律しに来た調律師と出会って調律師になろうと決めました。この小説の内容はきょうは話しませんが、この調律の世界がどんなに奥深いものかが、素人の私にも伝わって来る優れた小説だと思いました。
 読み終わった後、聖書がピアノだとしたら、調律師は誰に当たるのだろうかということに思いを巡らしました。そして、それは聖書の翻訳者や聖書学者であろうと思いました。そしてピアノの演奏者が説教者で、ピアノの演奏を聴く聴衆が教会の説教を聴く会衆です。
 ピアノの調律師は聖書の翻訳者や聖書学者に当たるであろうということは、聖書のことばの響き方が翻訳の仕方でぜんぜん変わることを考えていただければ分りやすいだろうと思います。文語訳と口語訳ではぜんぜんことばの響きが違いますし、同じ新改訳でも第3版と2017年版でも、かなり違いますね。
 しかし、かなり違うとは言え、翻訳者は聖書全体から良い音が出るように、しっかりと全体を整えます。そうして聖書は説教者によって素晴らしい音楽が奏でられます。ただし、説教者が今一つだと、せっかく聖書がよく整えられていても、良い響きが出て来ません。この『羊と鋼の森』の小説にも、一流のピアノ演奏者と一般の家庭の普通の演奏者とが出て来て、説教者にもいろいろいることを思わされました。
 最近の説教で私は創世記の1章・2章と黙示録の21章・22章を取り上げていますが、この創世記の始め2章と黙示録の終わり2章が良く響き合うことを会衆の皆さんにしっかりと伝えられるような説教者にならなければと、この小説を読んで思わされました。聖書の始めと終わりが良く響き合うことを示すことができなければ、説教者の腕がまだまだであるということになるのだと思います。

教会が形成された使徒の時代と響き合うヨハネの福音書
 そして、やはり私はヨハネの福音書が旧約聖書や使徒の働きとよく響き合うのだということをしっかりと示せるようになりたいと思います。今までは響き合った良い和音を聴いていただくという観点が欠落していたために、会衆の皆さんに我慢を強いるようなことになっていたのだろうと思っています。
 そして気付いたことは、使徒の時代には教会が次々と築かれて行ったことを、お伝えしたほうがヨハネの福音書と使徒の働きがよく響くのではないかということです。今まで私は使徒の時代には弟子たちに聖霊が注がれたことを強調していました。これはこれで私の中では響き合っていますが、説教者としては、教会の形成を強調したほうが良い響きが出るのではないかと思い始めています。
 先ほどご一緒に読んだヨハネ4章の1節から3節までを、もう一度読みましょう。

4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

 ここには、まさに使徒の時代に教会が成長して行ったことが描かれています。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエスさまや弟子たちがバプテスマを授けていたことなど書かれていません。ですから、ここには使徒の時代に弟子たちがバプテスマを授けていた時のことが描かれています。そして、ステパノへの迫害に端を発して弟子たちはエルサレムから散らされることになりました。聖霊を受けた弟子たちの中にはイエスさまが住んでおられますから、3節にあるようにイエスさまはユダヤを去って、ガリラヤに向かわれました。その時にサマリアを通って行ったことが4節に書かれています。これが、いつも話しているピリポによるサマリア伝道のことですね。
 きょうもヨハネ4章の39節から42節までを交代で読みましょう。

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 いつも私はこの4つの節の説明として、サマリア人たちはここで聖霊を受けたのだという話をしていましたね。実際に使徒の働き8章ではサマリア人たちに聖霊が降ったことが書かれていますから、それでも良いのですが、やはり、ここでサマリアに教会が形成されたことをお伝えしたほうが、使徒の働きとの響き合いが良かったのかもしれないと思っています。39節にあるように、多くのサマリア人がイエスさまを信じました。これはマタイ・マルコ・ルカの福音書にはぜんぜん出て来ない話です。マタイとマルコにはそもそもサマリア人は登場しませんし、ルカの福音書の場合にもイエスさまのみもとに来たサマリア人はわずか一人だけです(ルカ17:16)。
 それに対してこのヨハネの福音書には多くのサマリア人がイエスさまのところに来たとありますから、これは明らかに教会の形成が意識されていると思います。

ユダヤ・ガリラヤ・サマリアに築かれた教会
 もう一ヵ所、4章43節から45節までを交代で読みましょう。

4:43 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
4:44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。
4:45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。

 ここも以前取り上げたことがある箇所ですが、マタイ・マルコ・ルカの福音書ではイエスさまはガリラヤで尊ばれませんでしたから、ヨハネの福音書はここで使徒の時代を描いています。そして45節にガリラヤの人たちとありますから、ここでもガリラヤで教会が形成された様子を思い描くことができます。
 そして最初にご一緒に読んだ使徒9:31を、もう一度ご一緒に読みましょう。

使徒9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

 きょう先ほどまで見たヨハネの福音書の箇所は、この使徒9:31の「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た」と響き合っています。よく調律されたピアノのように、この使徒9:31はヨハネの福音書ときれいな和音を響かせます。そうして私たちもまた教会の形成に関わっているのだということに思いを巡らすことができるようになりたいと思います。
 このように、良い翻訳の聖書は良く調律されたピアノであることを思い浮かべながら説教を聴くと、また一段と聖書が楽しめるのではないかと思います。そして、楽しみながらお互いに成長できたらと思います。ただし良い翻訳の聖書でも説教者が今ひとつですと聖書のことばを良く響かせることができませんから、説教者も日頃の訓練が欠かせません。そして説教者と会衆が共に成長して行きたいと思います。

おわりに
 そしてさらに私たちは、この聖書というピアノの演奏を聴く仲間をもっと多く増やしたいと思います。共にそのことに励んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

使徒9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。
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信仰がなくならない永遠の救い(2018.7.1 聖餐式礼拝)

2018-07-03 07:56:03 | 礼拝メッセージ
2018年7月1日聖餐式礼拝メッセージ
『信仰がなくならない永遠の救い』
【ルカ22:31~32、ヨハネ6:37】

はじめに
 きょうは聖餐式礼拝です。前回は4月1日に聖餐式がありましたから、3ヶ月ぶりです。以前は聖餐式は年に2回ぐらいでしたし、少ない年には1回しかできなかった年もありました。今年は4月に続いてまた聖餐式の恵みに与ることができますから、感謝に思います。

先を見通すことができる神の子イエス
 まずルカ22章の最後の晩餐の場面を見てみたいと思います。私たちはこの「最後の晩餐」を覚えて聖餐の恵みに与ります。
 最後の晩餐は過越の食事でした。過越の食事は、ユダヤ人たちの祖先であるイスラエル人たちがモーセの時代に奴隷になっていた彼らを神である主がエジプトから解放して下さったことを忘れないために、毎年行うものです。彼らがエジプトから脱出した過越の晩は、パンにパン種(酵母入りパン)を入れて発酵させる時間がありませんでしたから、種なしパンを食べました。ではルカ22章7節から13節までを交代で読みましょう。

22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

 この記述からもイエスさまは先を見通すことができる神の子であったことがわかります。 

ペテロのために祈ったイエス
 続いて14節から18節までを交代で読みましょう。

22:14 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
22:15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
22:16 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
22:17 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」

 そうしてイエスさまはパンとぶどう酒を弟子たちに与えました。19節と20節(交代で)、

22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

 この食事を、私たちも今日の聖餐式でイエスさまと共にいただきます。
 さて、ルカの福音書にはこの後で次のことが書かれています。少し飛ばして31節と32節(交代で)、

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 このシモンというのはペテロのことです。ご承知の通りペテロはこの最後の晩餐の後に逮捕されたイエスさまのことを知らないと三度言いました。自分も捕らえられることを恐れてのことでしょう。
 先ほども言いましたが、イエスさまは神の子ですから、この後のペテロがどうなってしまうかについてもご存知でした。ペテロは信仰から離れてしまう危機の中にありました。それは、事態がペテロが思い描いたのとは全く異なる方向に進もうとしていたからです。信仰を持って祈り、イエスさまと共に歩んで来たのに、どうしてこんなことになったのか、ペテロは全く理解できない事態に遭遇します。
 それは言うまでもなく、イエスさまの十字架の死です。ペテロは絶望のどん底につき落とされます。イエスさまと一緒にいた日々は一体何だったのか。イエスさまは救い主の栄光を、この世で現して下さるはずではなかったのか。その希望はイエスさまの十字架の死によって完全に断ち切られてしまいました。そのまま信仰を失ってしまったとしても、少しも不思議ではありません。
 31節と32節のイエスさまは、そのこともまた予見していました。そうして32節のようにおっしゃいました。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私たちを決して捨てないイエス
 今回私はこの聖餐式礼拝のメッセージを準備していて、このイエスさまのことばに本当に励まされました。私たち沼津教会の者たちもペテロと同じではないでしょうか。イエスさまは私たちに隣の土地を与えて下さいましたから、やがてここに会堂が建ち、イエスさまの栄光が現されることを私は信じて疑いませんでした。皆さんの多くもそうだったであろうと思います。しかし、事態は私たちが全く予期していなかった方向に進み、私たちは今も先が見通せない不安な中を通っています。このことで私たちの信仰がなくなったとしても決して不思議ではないでしょう。しかし、イエスさまはおっしゃって下さっています。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 イエスさまは決して私たちを見捨てることなく見守って下さっています。今回私はこのルカ22章32節のみことばを味わっていて、ヨハネ6章37節のみことばを思い出しました(週報p.37)。2017年版には、次のように書かれています。

ヨハネ6:37(2017年版) 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 このヨハネ6章37節の最後の部分は、新改訳の第2版と3版では「わたしは決して捨てません」になっています。第2版と3版でヨハネ6章37節をお読みします。

ヨハネ6:37(第2、3版) 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

 イエスさまはペテロのことを捨てなかったのと同様に私たちのことも決して捨てません。このヨハネ6章37節は、実は私が高津教会で洗礼を受けた時にいただいたみことばです。2001年のクリスマス礼拝の時でした。私の受洗のみことばとして神様がどうしてこのヨハネ6の37を藤本先生に示したのか、私は教えてもらっていません。それで私は、折りにふれて、なぜこのみことばが与えられたのかを考えています。私が教会に通うようになったきっかけは、父が死んだことでしたが、私は父が洗礼を受けたクリスチャンであったにも関わらず、教会から離れてしまっていたことを気に掛けていました。そのことを私は藤本先生にも話していましたから、イエスさまは父のことも決して捨てていないということを示したくて、このみことばを与えて下さったのかなと思っていた時期もありました。しかし、これは私に対するみことばですから、私が将来教会から離れることがあってもイエスさまは捨てないということを示して下さったのかなと思っていた時期もあります。実際に私は何ヶ月から高津教会から離れていた時期もありました。
 しかし、今回このみことばについて再び思い巡らしていて次のようにも思いました。イエスさまは、将来私が牧師になることを見通していて、このみことばを私に与えるように藤本先生に示したのかもしれない、そんな風にも思えて来ました。

永遠のいのちが与えられた私たち
 この37節を味わう時、これはヨハネ6章の中のみことばなのだということを、しっかりと認識していたいと思います。このヨハネ6章でイエスさまは「いのちのパン」について説いています。このいのちのパンを食べる者は永遠に生きます。ヨハネ6章の47節から51節までを交代で読みましょう。

6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

 イエスさまのもとに来た者はイエスさまからいのちのパンをいただきますから、その者は永遠の命を持ちます。そのように永遠の命を持つならイエスさまから離れることは決してないでしょう。ですから、ヨハネ6章37節は「永遠のいのち」と併せて考える必要があるのでしょう。
 イエスさまの救いを考える時、やはり私たちは「永遠」について深く理解することが欠かせないことを覚えたいと思います。
 きょうの聖書交読ではヨハネの黙示録21章の1節から7節までをご一緒に読みました。先日の礼拝でこの箇所を開いて以来、私はこの黙示録の21章と22章のことがとても心に通っています。新しい都のエルサレムが天からくだって来て地と一つになり、新しい天と新しい地となることは、まさに天の永遠が地にもたらされることを示していると感じて大変に恵まれます。
 イエスさまは黙示録21章6節でおっしゃっています。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。初めであり、終わりであるとは初めも終わりも一つであるということです。初めが創世記の1章と2章であり、終わりが黙示録の21章と22章であるなら、それらが一つになっているということです。創世記1章と2章の過去も、黙示録21章と22章の未来も一つだということです。まさにこれは過去と未来が一つである天の永遠の世界です。一方、地上の私たちは時間に縛られています。私たちは過去から未来への一方通行の時間の中しか生きることができず、時間に縛られています。しかし、黙示録21章で見たように新しい都のエルサレムが天から降(くだ)って来る時、天と地は一つになって新しい天と新しい地になります。そうして、地上は天と同じ永遠の中に入れられ、そこにいる者は永遠に生きます。

天と地とが噛み合う救いを目指して
 ここ何ヶ月か、私は説教者としてこの先どんなメッセージを語っていくべきだろうかということに思いを巡らしています。ひと頃の私は、永遠について熱心に語っていました。時間の縛りから解放されて永遠を感じることができるようになることの必要性を熱心に説きました。しかし、地上で暮らしている私たちが永遠を共有することは容易ではないことがわかりました。ですから、私はこれから先、どのようなメッセージを語っていくべきか、考え続けています。そうして最近思うことは、天と地の両方の救いの働きが噛み合ってこそ、多くの魂が救われるようになるのではないかということです。
 例えば山や海で人が遭難した場合、救助隊が出動しますが、ヘリコプターを使っての空からの救助隊と地上(または海上)からの救助隊の両方が出動するでしょう。空からだけ、地上(あるいは海上)からだけの場合もあるかもしれませんが、地上の救出隊が遭難現場に先に到達して空からの救出を支援するなら、安全も確保できて、ヘリに確保されたなら迅速に病院へ遭難者を連れて行くことができるでしょう。魂の救いの場合は専ら天の働きによりますが、支援者である私たちも地上で天からの救いを支援します。その際には、やはり先に救われた私たちが天の永遠について、もっとよく理解しておいたほうが、天との連携が上手く噛み合うのではないかと思います。ですから私たちは、永遠のいのちに関してもっと理解を深めることもやはり重要であろうと思います。来週以降の礼拝メッセージでは、このことを念頭に置きながら、また皆さんと共に学んで生きたいと思います。
 お祈りいたします。

6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
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