平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

英和訪問

2019-07-31 12:29:10 | 折々のつぶやき
 きょうの午前に静岡英和女学院を訪問して、宗教部長の先生としばらくお話をすることができました。その後、礼拝堂の中を見せていただきました。ちょうどハンドベル部が練習していました。
 お祈りに感謝いたします。
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高校野球の県大会決勝戦

2019-07-30 09:56:37 | 折々のつぶやき
 昨日は夏の高校野球静岡県大会の決勝戦が草薙球場でありました。

 私は一塁側の静岡高校の応援席で観戦しました。



 試合は駿河総合が2回の表に2点を入れて先制しました。



 静岡高校は無得点のまま7回まで進みましたから、駿河総合がそのまま押し切るかと思われました。が・・・、



 7回の裏に静岡高校が3点を入れて逆転勝ちしました。



 高校野球の応援に行くと若者たちから元気をもらえて、こちらも元気になることができます。
 教会も、かつてのように若者たちが多く集う場になるよう、知恵を出し合って行きたいです。 

 動画も少しあります。
https://www.youtube.com/watch?v=9toHgtIJ7bk

https://www.youtube.com/watch?v=GcICjicYWZI
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最高にきよい神と至聖所(2019.7.28 礼拝)

2019-07-28 15:18:10 | 礼拝メッセージ
2019年7月28日礼拝メッセージ
『最高にきよい神と至聖所』
【出エジプト記26:31~35、レビ記16:1~19】

はじめに
 先聖日はエジプトを脱出したイスラエルの民が、約束の地であるカナンに向かう途中のシナイ山のふもとで、主から律法を授けられたことを共に学びました。そして、この律法の授与はイスラエルの民にとっては大きな恵みであったことも話しました。

 詩篇119篇の詩人はみことばへの愛を長い詩で告白しました。「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」と105節にはあります。この道の光であるみことばとは律法のことです。旧約の民にとって律法は足下を照らす光でした。新約の時代の私たちは律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みを受けました。私たちもまた先が見えない暗闇の中を歩いている点では同じですから、聖霊に導かれて進む必要があります。

 このことを話した先週の日曜日の時点では、安倍川の花火を中止にした台風6号は影も形もありませんでした。天気図を見ると24日の水曜日になって初めて小さな熱帯低気圧が発生し、25日の木曜日にこの熱帯低気圧のために27日の土曜日は大雨になる恐れがあるという予報が出始めて、26日の金曜日に台風になり週末は大雨になることが確実になったために金曜日の早い時点で花火大会は中止になりました。熱帯低気圧が発生したのは水曜日でしたから、わずか二日間の間の出来事でした。明日は何が起きるか本当に分からないなということを、花火大会のことでも強く思わされたことでした。

 また、先週の礼拝では私自身の聖霊体験の証しもしました。姫路教会でインターン実習をしていた時に聖書通読でレビ記1章を読み始めたところ、天の父の「~しなさい」ということばに大きな愛を感じて涙が止まらなくなり、律法が大きな恵みであることを理解したという体験の証しをさせていただきました。

 この時にレビ記1章を簡単に読み、きょうは聖書交読でもレビ記16章をご一緒に読みました。きょうのメッセージの聖書箇所にはこのレビ記16章も含まれるとお考えいただきたいと思います。これで先週と今週でレビ記を部分的にですが読んだことになりますから、来週は民数記に入って行きたいと思います。

 さて、きょうのメッセージは、『最高にきよい神と至聖所』というタイトルで、次の三つのパート(週報p.2)で話を進めます。

 ①最高にきよい神と至聖所
 ②神に大胆に近づく道を開いたイエス
 ③弱められた神殿礼拝への親近感

①最高にきよい神と至聖所
 まずは神様が、いかにきよい存在であるかということを確認しておきたいと思います。「新約の時代」を生きる私たちは、大胆に神様に近づくことが許されていますから、昔の「旧約の時代」の神様のほうがきよい存在であったと勘違いしてしまいそうです。

 しかし、そんなことはありません。神様は昔も今も同じ方です。今の私たちが神様に大胆に近づけるのはイエスさまが十字架に掛かって下さって私たちの罪が赦され、さらに聖霊を受けて私たちの内側がきよめられるようになったからです。それゆえに神様は最高にきよいお方であるにも関わらず、汚れた私たちでもイエスさまを信じて聖霊を受けるなら、神様に大胆に近づくことが許されます。

 この最初のパートでは、神様がいかにきよいお方であるかを確認しておいきたいと思います。まず、きょうの聖書箇所の出エジプト記26章の31節から35節までを交代で読みましょう。

31 また、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。
32 この垂れ幕を、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱に付ける。その鉤は金で、柱は四つの銀の台座の上に据えられる。
33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。
34 至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。
35 垂れ幕の外側には机を置く。机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。その机は北側に置く。

 ここには幕屋の聖所と至聖所とを仕切る、垂れ幕の作り方に関する主の命令が書かれています。至聖所は幕屋の中で最もきよい聖なる場所で、ここに神の箱(或いは契約の箱)が置かれました。幕屋の図を週報のp.2に載せておきます。

 出エジプト記には、この幕屋の作り方の細かい指示が25章から延々と書かれています。25章の1節と2節をお読みします。

1 はモーセに告げられた。
2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

 幕屋を作るには材料が必要です。その材料を献げるように主は促しました。その材料とは、3節以降にあるように、

3 金、銀、青銅、
4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、

などなどです。イスラエル人は奴隷でしたから、こういう高級な物を元々は持っていませんでした。これらはエジプト人がイスラエル人に与えた物でした。主が、エジプト人がそのようにするようにしたからです(出エジプト11:2-3)。

 そうして主は仰せられました。8節と9節、

8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

 そうして幕屋とその備品などの作り方の細かい指示が30章まで続きます。そして31章では、これらを作る者としてベツァルエルを指名しました。

 さてしかし、主はどうしてこんなにも細かい指示をしたのでしょうか。それは主が、この幕屋の中に入られるからでしょう。25章に戻り、8節をもう一度お読みします。

8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

 主はもちろん、小さな幕屋の中にすっぽりと納まるような小さなサイズのお方ではありません。しかし、幕屋を作ることで主はいつもイスラエルの民と共にいて下さることを約束して下さいました。その主が入る幕屋をいい加減に作って良いわけがありません。なぜなら主は最高にきよいお方だからです。

 イスラエル人たちの信仰は、まだ非常に幼いものでしたから、主がどれほどきよいお方であるかを、この幕屋の作り方の指示を通じて教えようとしたという意味があったように思います。神様は目に見えませんから、神様のきよさが人間にはなかなか分かりません。それを、幕屋の作り方とそこで行われる儀式とを通じて目に見える形にして下さったのではないか、そのように思います。

 レビ記16章にある贖罪の儀式の進め方を読むと、その神様のきよさが一層よく分かります。ここには年に一回、第七の月の十日に行う「宥めの日」(レビ23:27)の贖罪の儀式のことが書かれています。垂れ幕の内側の至聖所には年に一回、大祭司だけが入ることが許されていました。年に一回だけというところにも主が簡単には近づけないきよいお方だということが分かります。しかも、むやみに近づくとアロンの二人の息子のように命を落とします。レビ記16章の1節と2節には次のように書かれています。

1 アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らがの前に近づいて死んだ後、はモーセに告げられた。
2 はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。

 この、主が雲の中に現われるようにするために、アロンは12節と13節のように炭火と香を持って垂れ幕の内側に入りました。12節と13節、

12 彼はの前の祭壇から炭火を火皿いっぱいに、また、粉にした香り高い香を両手いっぱいに取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香をの前の火にくべ、香から出る雲が、あかしの箱の上の『宥めの蓋』をおおうようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。

 このように、主はあまりにきよいのでむやみに近づいたり直接見てしまったりすると、命を落としてしまいます。

②神に大胆に近づく道を開いたイエス
 これほどまでに、主はきよく近づきがたいお方ですが、イエスさまが十字架に掛かったことで私たちは主を「アバ、父、お父様」と呼んで大胆に近づくことが許されるようになりました。イエスさまが十字架で死んだ時、神殿の幕が真っ二つに裂けたことがマタイ・マルコ・ルカの福音書に記されています。それは主と私たちとを隔てていた垂れ幕が取り除かれたということです。

 ここで注意したいのは、垂れ幕が有ろうが無かろうが主が最高にきよいお方であることには変わりないということです。そんなにきよいお方に私たちのような汚れた者たちが大胆に近づけるようになったのはどうしてでしょうか?

 それは先ほども言ったように、イエスさまの十字架によって私たちの罪が赦されて、イエスさまが神の子キリストであると信じる者には、誰でも聖霊が注がれるようになったからですね。聖霊は私たちの汚れた心をきよめて下さいます。この聖霊を受けることで私たちは最高にきよい主を「父」と呼んで大胆に近づくことが許されるようになりました。

 レビ記16章にあるような、動物をいけにえにすることでは人をきよめる効果は十分にはありませんでした。神の御子であるイエスさまがいけにえになることで初めて、人がきよめられるようになりました。

 ここで、ヘブル人への手紙10章の19節と20節を、ご一緒に読みたいと思います(週報p.2)。

19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 先ほども言いましたが、イエスさまが十字架で死んだ時、神殿の垂れ幕が二つに裂けましたから、このことによって私たちは大胆に聖所に入って神様に近づくことができるようになりました。

 神殿というのは幕屋を建物にしたものです。幕屋は組み立て式で移動できるようになっていました。モーセの時代にはまだ荒野の中を進んでいましたから、移動式のテントになっていました。それがイスラエルに王国が建国されてからは移動することがなくなりましたから、ダビデの息子のソロモン王の時代に神殿が建設されました。このソロモン王の時代の神殿の建設については列王記と歴代誌に書かれていますから、いずれまた、ご一緒に見ることにしたいと思います。

③弱められた神殿礼拝への親近感
 幕屋や神殿は、日本人には非常に親しみやすいものだと私は思います。モーセの時代、ヨシュアの時代にイスラエルの民が移動をしていた時は、幕屋は分解されて運ばれていました。その時には神の箱も祭司たちがかついで移動していました。少し前の礼拝でヨシュア記3章を開きましたが、祭司たちが神の箱をかついでヨルダン川を渡ったことが記されていましたね。日本人も神社のお祭りの時には神輿をかつぎます。とても良く似ていると思います。

 神殿も、日本の神社に良く似ていると思います。エルサレムの神殿は紀元70年にローマ軍の攻撃によって炎上して焼失するまでは存在していましたから、イエスさまも神殿で礼拝していました。使徒の働きには、ペテロやヨハネ、パウロたちも神殿で礼拝していたことが記されています。

 この教会の外の掲示板に、Tさんがみことばを書いて下さっています。こんど新しく書いて下さったみことばは、夏にふさわしいみことばです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい、云々」というものです。この箇所をご一緒に開いて読みましょう。ヨハネの福音書7章の37節と38節です(新約p.194)。

37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 このことをイエスさまがどこで言ったのか、ここには書かれていませんが、1ページ前の28節に「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた」とありますね。37節にも「大きな声で言われた」とありますから、このことばもまた、宮、すなわち神殿で言われたのでしょう。

 この時のイエスさまを想像する助けに、静岡の浅間神社でイエスさまが大声で話している場面を想像しても、少しも構わないでしょう。浅間神社は静岡市民に、とても親しまれています。私も41歳で教会に通うようになる前には浅間神社で熱心に参拝していました。

 その私の経験から言うと、聖書は神社で参拝する日本人にもっと親しまれても良いという気がしています。しかし、キリスト教はヨーロッパに広がり、日本には西洋の宗教として入って来ました。神殿には親近感を感じない欧米の宣教師によってキリスト教がもたらされたことによって、聖書の神殿礼拝の記事に日本人が親近感を持つことがかなり弱められたと感じます。

 実はこれまでは私も、あまりそういうことを感じていませんでしたが、この春に静岡に戻って来てから浅間神社を訪れてみて、日本人にもっと聖書を身近に感じてもらうために、日本人が神社に親しみを感じていることを、もっと利用できたら良いなと思うようになりました。

 具体的にどうしたら良いかはまだ良く分かりませんが、例えば浅間神社の入口には厄年の一覧表が出ています。そして厄年に当たる人々に厄除けのお祓いをすることを勧めています。お祓いによって厄払いができるのは、災いが悪霊によってもたらされると考えるからでしょう。その悪霊を追い払えば災いが無くなるという考え方だと思います。

 そういう意味でもキリスト教は似ています。福音書にはイエスさまが人から悪霊を追い出した記事がありますね。悪霊を追い出す力は分業制の八百万の神々よりも全知全能の唯一の神様の力のほうが明らかに大きいですから、あまり異教的にならない範囲で、イエスさまが災いを追い払う大きな力をお持ちであることを日本人に知っていただくこともまた、有効かもしれません。

おわりに
 私たちが信じる神様は最高にきよいお方です。このきよい神様は全知全能の神様ですから、私たちをきよめる強い力もお持ちです。悪霊を追い払うこともできます。これらのことは聖書に書いてあることです。聖書を通読して聖書の神様のことを正しく知れば、これらのことも周囲の方々に正しく伝えることができます。

 そのためにも聖書通読は大切であると思います。聖書を読み、聖書を正しく知り、私たちの周囲の方々に、聖書の神様のことを正しくお伝えして行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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静岡商業高校の応援

2019-07-27 16:39:14 | 折々のつぶやき
 夏の甲子園を目指す高校野球の地方予選がいま進行中です。

 静岡県は昨日の7/26に準々決勝の四試合が草薙球場と清水庵原球場で行われました。私は草薙球場に行き、午前は静岡高校vs静岡翔洋戦で静岡高校の応援を、午後は静岡商業vs駿河総合戦で静岡商業の応援をしました。






 静岡商業高校(静商)は教会の近くの安倍川沿いにあります。私は安倍川の河川敷でジョギングを楽しんでいますが、夕刻に静商のそばを通ると、いつも応援団が河川敷に降りる階段の所で応援練習をしています。その応援の声は私のジョギングの励みにもなっていて、疲れていても走り続けることができます。

 そんなわけで静商の応援団には感謝しているので、昨日は静商の野球部の応援というよりは応援団の応援のつもりで静商の応援席に座らせてもらいました。試合は残念ながら負けてしまいましたが、また静商の試合を観に行こうと思いました。

 少しだけ動画もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=-EakAszzqnY
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7月28日礼拝プログラム

2019-07-25 15:44:14 | 礼拝メッセージ
インマヌエル静岡キリスト教会

 7月28日 礼拝 午前10時10分~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

 2019年7月第4聖日礼拝 順序

 司会 美鶴姉、奏楽 山本(佳)姉、受付 枌兄

 前  奏
 招  詞  詩篇65篇4節
 奏楽・黙祷
 頌  栄  さかえあれや        イ5
 会衆讃美  おおくのかむり       イ78
 聖書交読  レビ記16章1~19節
 祈  祷                司会者
 主の祈り
 使徒信条
 会衆賛美  御前につどい        ひ15
 新曲紹介  御前に立つとき       福316
 証  し                榧守兄
 聖書朗読  出エジプト記26:31~35
 説  教  『最高にきよい神と至聖所』 小島牧師
 賛美と献金 たとえばわたしが      ひ105
 感謝祈祷                山城姉
 頌  栄  父・み子・みたまの     イ7
 祝祷・後奏

 連絡等
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父と子が授けた律法の大きな愛(2019.7.21 礼拝)

2019-07-21 14:32:45 | 礼拝メッセージ
2019年7月21日礼拝メッセージ
『父と子が授けた律法の大きな愛』
【ヨハネ1:1~18】

はじめに
 礼拝メッセージでは旧約聖書の創世記から始めて順次、出エジプト記、レビ記と進み、それらの書に何が書かれているかをざっくりと見て、聖書を通読する際の参考にしていただくシリーズを続けています。きょうはレビ記にも入って行くことにしています。

 そのように、旧約聖書を見て行くシリーズのはずなのに、きょうの聖書箇所は新約聖書のヨハネの福音書とはどういうことか、と疑問に思ってらっしゃる方もおられるだろうと思います。

天の父と共に初めから天にいたイエス・キリスト
 このヨハネの福音書1章の1節から18節まではプロローグと呼ばれています。プロローグを辞書(デジタル大辞泉)で引くと、「詩歌・小説・戯曲などの文学作品で、本筋の展開に先だつ前置きの部分。序章。また、物事の始まり。発端。」と書いてありました。

 このヨハネの福音書の前置きのプロローグをきょうの聖書箇所にしたのは、次のような理由によります。それはイエス・キリストは旧約の時代の初めからいて、創世記の時代にも出エジプト記の時代にもレビ記の時代にも、天の御父と共に天におられたということを皆さんに改めて意識していただきたい、という理由のためです。

 ヨハネ1章1節から3節までを交代で読みましょう。

1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 ここから分かることは、神としてのイエス・キリストは万物が創造される前の初めから、天の父と共におられ、万物はイエス・キリストによって造られたということです。

 そうして14節を見ると、

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

とありますから、マタイ・マルコ・ルカの福音書そしてヨハネの福音書に描かれているイエスさまは、初めからいるイエス・キリストが人としてこの世にお生まれになった方であるということが分かります。私たちはイエスさまと言えば、地上生涯のイエスさまを思い浮かべることが多いですが、イエスさまが地上で過ごした期間はわずか30年ほどです。それ以外の圧倒的に長い期間は天で父と共におられるということを覚えておきたいと思います。ですから創世記の時代も出エジプト記の時代もイエスさまは天で父と共にいました。

 まず、この認識を持っていただいた上で、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①律法は大きな恵み
 ②父の大きな愛を知った私(牧師)の体験の証し
 ③天の「父と子」を想って祈りたい

①律法は大きな恵み
 先々週は出エジプト記に記されている過越の恵みについて学び、先週はエジプトを脱出したイスラエル人がエジプトの王のファラオの軍勢に後を追われた時、主はイスラエル人の行く手を阻んでいた海の水を二つに分けて、乾いた場所を歩いて行けるようにした奇跡について共に学びました。

 そうしてイスラエルの人々は父祖アブラハムが住んでいた約束の地カナンへと向かって行きました。そのカナン入りを前にして主はモーセを通じて人々に律法を授けました。その律法の代表が、きょうの聖書交読で読んだ「十戒」です。

 この出エジプト記に記されている十戒を皮切りにして、主はイスラエルの民に律法の細かい規定を数多く与えました。ここで十戒を簡単に見ておくことにします。週報のp.2にまとめておきましたから、そちらをご覧下さい。

 《 十戒 》
 わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。
 1) あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
 2) 偶像を造ってはならない。
 3) 主の名をみだりに口にしてはならない。
 4) 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
 5) あなたの父と母を敬え。
 6) 殺してはならない。
 7) 姦淫してはならない。
 8) 盗んではならない。
 9) あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
 10) あなたの隣人の家を欲してはならない。

 この十戒を大きく二つに分けるなら、最初の4つの戒めは「神を愛すること」、5つ目以降の6つは「隣人を愛すること」であると言われます。

 始めに、この律法は恵みであることを確認しておきたいと思います。
 なぜ恵みであるか、それはこの律法の授与にはイエス・キリストも関わっていたからです。イエス・キリストは万物の創造の前の初めから天の父と共に天におられましたから、この律法の授与の時にも天におられました。それゆえ、この律法の授与にはイエスさまも関わっておられます。イエスさまが関わっていることで恵みでないものが含まれているわけがありませんね。ですから、律法は恵みです。

 きょうの招きの詞では詩篇119篇105節を司会者に読んでいただきました。

105 あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

 私たちは1時間先、1日先のことも分からずに日々を過ごしています。明日には何が起きるか分かりません。暗闇の中を歩いているようなものです。しかし、主はそんな私たちの足下を光で照らして下さり、導いて下さいます。

 この詩篇119篇の「みことば」とは律法のことです。律法は私たちを平安・安全な方向に導き、私たちを守って下さいます。それゆえ律法は恵みです。

②父の大きな愛を知った私(牧師)の体験の証し

 いま話したように律法は恵みですが、実は神学生の頃の私は、どちらかと言えば、律法は恵みではないと考えていました。しかし、ある強烈な聖霊体験を通して、律法が恵みであることを確信しました。この2番目のパートでは、その時の証しをします。

 この証しは祈り会で既に一度していますが、礼拝ではしていませんので、改めてさせていただきます。
 それは2011年6月17日の朝6時ごろのことでした。強烈な体験でしたから聖書に日付と時間が書き入れてあります。当時、私は神学生の4年生で、インターン実習生として姫路教会で一人暮らしをしていました。姫路教会には常駐牧師がいなくて日曜日だけ牧師が神戸から来て礼拝説教をしていました。そこに神学生の私が派遣されて住み込み、祈祷会のメッセージと、月に1回は礼拝のメッセージも取り次いでいました。

 姫路教会は市の中心部からは離れた所に位置していて、目の前には広大な田んぼが広がる静かな場所にありました。ですから霊性を磨き、整えるには抜群の環境の中にありました。この恵まれた環境の中で私は毎朝、朝食前の約1時間半、祈りと聖書通読とディボーションの時を持っていました。

 さて、その日の朝の聖書通読の箇所はレビ記1章から10章までを予定していました。このレビ記1章の最初の8節を、お読みします。当時は第3版でしたから、第3版の訳でお読みします。

1 はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたがにささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が【主】の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。
4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
5 その若い牛は、の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。
6 また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。
7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。
8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。

 いま読んだ箇所の後半では、「~しなさい」、「~しなさい」という表現が繰り返されています。この「~しなさい」という表現に私は、天の父の優しさと大きな愛を感じて、突然涙が出て来ました。涙が溢れ出て、これ以上読み進めることができなくなりました。

 このレビ記1章ではいけにえの動物のささげ方が指示されていますから、内容的には涙が出て来るようなものではありません。また、「~しなさい」という表現は出エジプト記にもたくさん出て来ます。それなのに出エジプト記では涙など出ませんでした。加えて、これまで私は聖書通読でレビ記を何度も読んでいたのに、その時には涙は出ませんでした。

 それゆえ、これは明らかに聖霊体験であったと思います。私はこの「~しなさい」という表現から、人間の父親が幼稚園ぐらいの幼い子供が危険に遭わないように世の中のルールを優しく教えている様子を感じました。例えば道を渡る時には、必ず手を挙げて横断歩道を渡りなさいというように優しく教えているような様子です。

 ここに私は天の父の大きな愛を感じました。そして、それまでの私が天の父の愛の大きさに気づいていなかったことを、とても申し訳なく思いました。それと同時に既に亡くなっていた実際の私の父の愛の大きさにも気付いていなかったことを、とても申し訳なく思いました。

 そうして涙が出て来たわけですが、涙の量が半端ではなかったので、これは神様が私を用いるために私に与えた強烈な聖霊体験であったと思っています。

 このレビ記に書いてあることはすべてが律法の規定ですから、律法は恵みであると確信しました。そうしてヨハネ1:16の「恵みの上にさらに恵みを受けた」が、どういうことかが私はハッキリと分かったと思いました。すなわち、これは「旧約の恵みの上にさらに新約の恵みを受けた」ことであると確信しました。さらに言えば、これは「旧約の『律法』の恵みの上に新約の『聖霊』の恵みを受けた」ことであることも理解しました。そのようにしてヨハネの福音書のことが良く分かるようになりました。

 そしてそれ以降は、ヨハネの福音書のプロローグに書かれているように、イエス・キリストは創世記の時代から現代に至るまで、地上生涯の時代を除けばずっと天の父と共に天にいることをもっと意識するべきであるということも、考えるようになりました。

③天の「父と子」を想って祈りたい
 この、イエス・キリストは地上生涯の時以外はいつも天の父と共に天にいるということは、ヨハネの福音書を始めとする聖書を理解する時だけでなく、祈りの時も意識すべきではないかと思いますから、最後にその話をします。

 私たちは祈る時、まずは天の父に向かって呼び掛けます。それは主イエス・キリストが「主の祈り」でお手本を示して下さったからですね。その箇所をご一緒に読んでみましょう。マタイの福音書6章の9節から13節までを交代で読みましょう。

9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

 9節にあるようにイエスさまは、祈る時には、「天にいます私たちの父よ」というように、まずは天にいる父への呼び掛けから始めるようにおっしゃいました。ですから私たちは、「主の祈り」に限らず、すべての祈りにおいて、まず天の父への呼び掛けから祈りを始めます。

 さてしかし、きょう私が皆さんに問い掛けたいのは、この天の父への呼び掛けを決まり文句のように言ってしまっていて形骸化してはいないでしょうか、ということです。私自身を考えると、決まり文句的になってしまっていて、実際に天の父がイエスさまと共に天にいる様子をほとんど思い浮かべていないのではないかと、反省させられます。

 私たちの祈りのことばは、イエスさまが天の父に取り次いで下さいます。それゆえ私たちは祈りの最後に「イエスさまの名前によってお祈りします」とか「主イエス・キリストの御名を通して祈ります」などと言います。私たちの祈りの言葉は、イエスさまが天の父に伝えて下さいます。

 そして実際に物事を動かすのは天の父です。全知全能の天の父の力によって初めて事態が動きます。私たちが最初に天の父に向かって呼び掛けてから祈るのは、そのためです。それなのに、その呼び掛けが決まり文句的になっているとしたら、あまりにも天の父に対して失礼で、申し訳のないことではないでしょうか。

 ですから私たちは父とイエスさまが天で共にいる様子を想いながら、祈るようにしたいと思います。神様は目に見えませんから、どのように思い浮かべたら良いか分からない方もいるかもしれませんが、父と子が共にいることを意識できれば良いと思います。そうすることで、いっそう気持ちが入った祈りになるのではないでしょうか。そうして祈りの器として成長して行きたいと思います。

おわりに

 最後にヨハネの福音書1章の1節と2節をご一緒に読みましょう。

1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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奥深い自分に忠実であることの学び(2019.7.18 祈り会)

2019-07-19 09:44:30 | 祈り会メッセージ
2019年7月18日祈り会メッセージ
『奥深い自分に忠実であることの学び』
【ヨハネ1:35~39、14:26】

はじめに
 祈り会では「祈り」について何回か取り上げて来ました。このテーマは一旦終わりとして、きょうから別のテーマでしばらくの間、話をしたいと思います。

イエスに付いて行くことで分かる人生の目的
 先日の伝道委員会では、誰でも持っているような人生に関する根本的な悩みの問題について聖書はどう答えているか、そのようなメッセージを望みたいということが話されていました。そのことについて答えている箇所の一つとして、私はヨハネ1章35節から39節を挙げたいと思います。交代で読みましょう。

35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 「自分は何のために生きているのか」という類の人生に関する根本的な問題は、どんなにたくさんの本を読んで思いを巡らし、考え続けても永遠に分からない問題でしょう。これはイエスに付き従って行くことでしか解決しない問題です。私はそのように考えます。これは私自身の個人的な体験に基づく結論です。ですから、一般性がどれほどあるか実のところ分かりませんが、私はかなり一般性があるだろうと考えています。

 イエスさまは、ご自分のほうに歩いて来た二人の弟子に言いました。

「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)

 私たちは自分が何のために生まれて、何のために生きているのか本当のところ、何も分かっていません。そんな私たちにイエスさまは、

「来なさい。そうすれば分かります」(ヨハネ1:39)

とおっしゃって下さっています。そうしてイエスさまに付き従って行くなら、やがてイエスさまを信じて聖霊を受けます。そうすると聖霊が私たちにすべてを教えて下さいます。

 今度はヨハネの福音書14章26節をご一緒に読みましょう。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 これが私自身が体験的に得ている、人生の根本問題に関する結論です。ただし、このことだけを言っても分かっていただけないでしょうから、私が出会った、ある本を用いながら、これから何回か話をすることにしたいと思います。

奥深い自分に忠実であること
 その本は、『自己愛とエゴイズム』(ハビエル・ガラルダ著、講談社現代新書)です。この本の著者のハビエル・ガラルダ先生はスペイン生まれのスペイン人ですが、カトリックのイエズス会の宣教師として日本に来て上智大学の教授も務めていた先生です。
 私はこの本に、まだ教会に導かれる前の名古屋にいた時に出会いました。そして、この本との出会いがあったからこそ、教会に辿りつくことができたと思っています。

 この本は「奥深い自分に忠実であること」を勧めています。この本の勧めに共感した私は、何とか「奥深い自分に忠実であること」を実践したいと願い、そうすることで高津教会に辿り着くことができたと思っています。
 私がいつ、この本に出会ったのか正確な年は覚えていません。私が名古屋にいたのは1989年から1993年までの4年間でした。仮に真ん中の1991年にこの本に出会ったとすると、私が川崎市の高津教会に導かれたのが2001年でしたから、この本と出合ってから10年間掛かって高津教会に導かれたことになります。

 これから何回か、この本に何が書かれていることを紹介しながら、「奥深い自分に忠実であること」について共に考えてみたいと思います。

 「奥深い自分」とは言い換えれば「良心の声」のようなもので、多分、「イエスさまの声」、或いは「聖霊の声」と言って良いのだろうと思います。ただし、この本に出会った頃の私はまだイエスさまのことを何も知りませんでしたし、この本にもイエスさまのことはほとんど何も書いてありません。ですから、その頃の私はもちろん聖霊を受けていませんでした。まだ聖霊を受けていない私がどうしてイエスさまの声を聞くことができたのか、私自身もまだよく分かっていません。それゆえ、この祈り会のメッセージのこれからの準備を通じて、この問題が分かるようになることも期待しています。そんな期待を持ちながら、これからしばらくこのシリーズを続けてみたいと思います。

「幸せな王子」のつばめは幸せだったか?
 さて私たちは様々な思い、願望の中で、この世を生きています。それらの願望を少し乱暴ですが大きく二つに分けるなら、心の表面に近い場所にある願望と、心の奥深い場所にある願望ということになるでしょう。そして、この『自己愛とエゴイズム』という本では、その二つを見分けるためのヒントがいろいろと書いてあります。ごく簡単に言ってしまうと、奥深い場所にある願望を追い求めることが「自己愛」で、表面に近いところにある願望を追い求めることが「エゴイズム」です。

 「自己愛」、すなわち本来あるべき自分を愛することとは、奥深い自分に忠実であることだと、この本は説きます。ただし、奥深い自分に忠実であることが、必ずしもその人の幸せにつながるとは限りません。そこに私たちが人生を生きる上での難しさがあります。
 例えば、この本で挙げている例の一つに、皆さんも良くご存知のオスカー・ワイルドの『幸せな王子』があります。この本から引用します。

(ここから引用)
 幸せとは一体何であろうか。・・・あのつばめは幸せであったといえるであろうか。暖かいエジプトに行こうと思って、王子様の銅像の足下でひと休みしていたところ、「つばめさん、つばめさん」と王子様に呼ばれ、窓から見えるお母さんが大変な病気の娘のために薬と食べ物を買うお金がないので、自分の刀のルビーを取って飛んで持っていってくれるようにつばめは頼まれる。しかし、エジプトはつばめの幸せであった。仲間が向こうで待ってくれているし、イギリスの秋は寒いので、つばめは断る。でも、「つばめさん・・・」と言われて、「それでは、今夜だけね」。

 でも、あくる日また、肺結核にかかっている貧しい大学院生に、目のダイヤモンドを持って行ってあげるように言われる。その翌日もまた、雨の中でマッチを売っている可哀相な女の子に、もう一個の目のダイヤモンドを持って行ってあげるように頼まれて・・・。
 ところで、このつばめは、私たちのことだと思う。奥深い自分はその王子様にあたる。私たちは、仲間、健康、出世、まともな理想、つまり自分の幸せだと思われるエジプトを犠牲にするように頼まれることもある。身体をこわした親とか、不幸に遭った友人とかいうような出来事は、私たちのエジプトを妨げる奥深い自分からの呼びかけになりうる。

 でも、この童話のつばめは、そのあと町中を飛んで困っている子供たちの上に王子様のマントからの金を一枚ずつ落としながらだんだん寒さに弱ってゆく。最後の一枚を配ってから戻ってきて、子供たちが皆大変喜んでくれたことを報告した。「今度こそエジプトに行ってらっしゃい。本当に有難う」。「いや、もう帰ってこられない旅に出かける」と言って、王子様にキスをして、その足下でつばめは静かに死んだのである。

 可哀相といってよいのか、羨ましいといったほうがよいのであろうか。つまり、そのつばめは奥深い自分に忠実であったために、幸せだと思ったエジプトを犠牲にしたので、確かに、自己愛は十分にあったといえるけれど、その自己愛ははたして、彼女の幸せであったのか、あるいは不幸であったのか。いずれであっただろうか。

(引用ここまで、p.59-60、聞きやすくするために一部を改変)

どうしたらイエスさまに出会っていただけるか?

 この『自己愛とエゴイズム』という本は、イエズス会の宣教師が書いた本でありながら、「聖書を読みなさい」とも「イエス・キリストを信じなさい」とも一言も書いていません。そればかりか聖書に関することもほとんど書いてありません。ほんのちょっと「一粒の麦」のことに触れている程度です。でも、それだからこそ、教会に導かれる前の私の心の琴線に触れたのかもしれません。「聖書を読みなさい」とか「イエス・キリストを信じなさい」とか書かれていたら警戒感を持ってしまっていたかもしれません。

 しかし、そうは言っても私たちはイエスさまに出会わない限り、何が本当の幸せなのかを知ることはできません。イエスさまに出会わずにいくら色々と思いを巡らしたところで、結論に導かれることはないでしょう。ですから、私たちは何とかして周囲の方々がイエスさまとお会いできるように、この本のような工夫をしたいと思います。どうしたらイエスさまに出会っていただけるでしょうか?

 8/6に予定している俳句の会は、その工夫の一つとして意外と良いかもしれません。私はこれまで俳句を作ったことがありませんでした。しかし、今回与えられた季語の蝉、花火などで俳句を作ることを考えていて、自分はこれらの季語と人生とを重ね合わせようとする傾向があることに気付きました。例えば、蝉にもそれぞれの蝉の生き方があるな、などというようなことを思っています。そんな風に俳句がそれぞれの人の生き方に関わっているとしたら、イエスさまと出会うことへとお導きするための一つのきっかけになるかもしれません。そんな風に思いました。

おわりに
 これから祈祷会ではしばらくの間、この『自己愛とエゴイズム』をガイドブックにして、「奥深い自分に忠実であること」について考え、そして、どうしたらその奥深い自分に導かれてイエスさまと出会うことができるかについて、ご一緒に考えて行きたいと願っています。

 この学びが祝されますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
「来なさい。そうすれば分かります。」(ヨハネ1:39)
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海の水が分かれた記事を信じますか?(2019.7.14 礼拝)

2019-07-16 00:15:17 | 礼拝メッセージ
2019年7月14日礼拝メッセージ
『海の水が分かれた記事を信じますか?』
【出エジプト14:21~28】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージのタイトルは、『海の水が分かれた記事を信じますか?』というものにしてみました。いま礼拝メッセージでは、聖書通読をお勧めしながら創世記から始めて順次出エジプト記、レビ記と見て行くことを考えて進行させています。

 ただ聖書通読は、教会の礼拝に継続的に出席している方々にお勧めしていることで、教会に初めて来た方や、二回目、三回目という方には馴染まないかもしれません。

 それゆえ、教会に来るのは初めてという方がいらした場合にも興味を持っていただける要素も少しは織り交ぜたほうが良いであろうと思い、きょうはこのようなタイトルにしてみました。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
②不思議なことに満ちた自然界
③私は聖書をどのように信じているか
④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書

①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
 きょうの礼拝の始まりの招きのことばは、詩篇66篇の5節と6節を司会者に読んでいただきました(週報p.2)。

5 さあ 神のみわざを見よ。神が人の子らになさることは恐ろしい。
6 神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。

 「神は海を乾いた所とされた」というのは、きょうの聖書箇所にあるようにイスラエル人たちがエジプトを脱出した後で海の乾いた所を歩いて渡ったことを示していますね。そして、その次の「人々は川の中を歩いて渡ったというのは」、イスラエル人たちがヨルダン川を歩いて渡ったヨシュア記の出来事を示しています。このヨシュア記の出来事も知っておいていただきたいと思いましたから、このヨシュア記の出来事の記事を聖書交読の時にご一緒に読みました。

 ヨシュア記の記事はいずれまた読むことと思いますから、きょうは出エジプト記の方に集中します。きょうの聖書箇所の出エジプト記14章の21節から25節までを交代で読みましょう(旧約p.124)。

21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
22 イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
23 エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。
24 朝の見張りのころ、は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
25 戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」

 先週ご一緒に見たように、主はエジプトに対して十の災いを与えました。今週もこの十の災いを週報のp.2に残しておきましたから、ご覧下さい。これらはエジプト人にとっては災いでしたが、イスラエル人にとっては奴隷の働きから解放されることにつながった救いの恵みでした。

 この十の災いの中でも特に十番目の初子の死は強烈でした。エジプトの長子は皆、人の長子から家畜の初子に至るまで皆、主によって打たれて死にました。ただしイスラエル人の家では鴨居と門柱にいけにえの羊の血を塗ったので、その家を主が過ぎ越して長子が殺されることはありませんでした。

 これに懲りたエジプトの王のファラオはイスラエル人たちに出て行くように言いました。こうしてイスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱出することができました。しかし、ファラオの気が変わり、軍勢を出してイスラエル人たちを追い掛けました。彼らを逃がしてしまうと働き手の奴隷を失ってしまうからです。

 そしてイスラエル人たちの行く手を海が阻んでいた時に背後からエジプトの軍勢が迫って来て、前にも後ろにも進めなくなってしまいました。その時に主は海の水を分けて海の中の乾いた場所を進むようにして下さいました。イスラエル人たちは海の中を進み、エジプトの軍勢もまた彼らを追い掛けて海の中の乾いた地に入って行きました。そして、イスラエル人たちが海を渡りきったところで、主はモーセに言われました。続いて26節から28節までを交代で読みましょう。
 
26 はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」
27 モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
28 水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。

 こうしてファラオの軍勢は海の中に消えてしまいました。
 さて、きょうは、主が海の水を分けてイスラエル人たちが乾いた所を歩いたという、この記事を信じるか信じないか、という観点から考えてみることにしたいと思います。

 長い信仰歴を持ち、日々聖書を読んでいる教会員の方々はこの記事の記述を信じていると思いますが、まだ聖書にそれほど親しんでいない方にとっては、この記事を信じる気持ちにはなれないというのが正直なところではないでしょうか。私自身も聖書の初心者の頃は、この記事は作り話のように感じていました。

②不思議なことに満ちた自然界
 一般常識で考えるなら、海の水が分かれて人々が歩ける乾いた場所が現われるなんて、そんな非常識なことが起きるわけがないと思うことでしょう。それが普通の反応だと思います。

 しかし、そもそも自然界には直感的には有り得ない非常識なことで満ちています。私たちが当たり前のように受け入れていることでも、よくよく考えてみると不思議なことはたくさんあります。

 例えば、私がとても不思議だと思うことの一つに「重力」があります。丸い地球の反対側に住んでいる人たちは、どうして地球から落ちてしまわないのでしょうか?子供の頃にそんな風に思ったことはないでしょうか?丸い地球のどこに住んでいても地面が下にあるのは重力が働いているからですが、重力はとても不思議だと思います。

 まず第一に重力は小さいのに大きいところが、とても不思議だと思います。重力の力は、他の力と比べるとあまり大きくはありません。例えば鉄のクリップや釘を机の上の置いておき、その少し上に磁石を持って来ると、クリップや釘は重力に逆らって上の方向に飛び上がって磁石に吸い付きますね。磁石の力のほうが重力よりも遥かに大きいからです。

 或いはまた、街路樹から木の葉が一枚、落ちたとします。風がなければ木の葉は下に向かいますが、風が吹くとその葉っぱは横に飛んだり上昇気流があれば空の上の方まで舞い上がったりします。木の葉の重力よりも風の力のほうが強いからです。鳥が空を飛べるのも、体重が軽い鳥の重力があまり大きくはないからです。

 しかし、重力は小さいとは言っても、私たちの体は地上にぴったりと張り付いていて、ジャンプしてもあまり高くは飛べません。重力は小さいとは言っても、私たち人間にとっては大きなものです。不思議ですね。つい最近、宇宙探査機の「はやぶさ2」が小惑星の「りゅうぐう」に2回目の着陸をして、人工クレーターを作った時に表面に現われた「りゅうぐう」内部の岩石の採取に成功した模様であることが報道されていました。

 小惑星「りゅうぐう」の直径は約900メートルで重力は地球の8万分の1しかないそうです。それでも「りゅうぐう」の表面にある岩石が、どの方向にある物であっても重力によって吸い付いていて離れて行かないのですから、重力はやはり小さいけれど大きいのですね。実に不思議です。

 重力の不思議さはまだまだあります。重力は遠く離れていても、力を及ぼします。例えば海に満潮と干潮があるのは、海の水が月の重力に引っ張られるからだそうです(月と反対の方向でも満潮になることの説明は省略します)。

 どうして遠く離れた月が地球の水に力を及ぼすことができるのでしょうか?アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間が歪んでいるからだそうです。これもまた不思議ですね。2年前の2017年のノーベル物理学賞は重力波を検出した研究チームが受賞しました。ブラックホールが合体すると重力が大きく変化するため、それが空間の歪みを変化させて、重力波という波となって空間を伝わり、それを検知することに成功したということがニュースになりました。宇宙にはブラックホールという、光でさえ出て来ることができない重力の大きい場所があるそうです。これもまた不思議なことですね。

 このように自然界には重力のことだけでも私たちの常識では考えられない非常識で不思議なことがいくつもあります。そう考えると、聖書の記述に非常識と感じる部分があったとしても、非常識な点においては自然界も同様なのですから、聖書の非常識なことを信じても、少しもおかしいことはないということになるでしょう。

③私は聖書をどのように信じているか
 そういうわけで私は、出エジプト記のこの海の水が分かれた記事のことも信じています。このパートでは、私自身が聖書をどのように信じているかについて、考えてみます。私自身もこのことを、今までそれほど考えたことがありませんでしたから、私にとっても良い機会だと思っています。

 まず言えることは、私は聖書を丸ごと信じているということです。ですから、この記事は信じて、あの記事は信じないというような区別はしていません。丸ごと信じていますから出エジプト記の海の水が分かれた記事も信じています。しかし、一字一句に至るまで記述のすべてをそのまま信じているかと言えば、そうでもありません。例えば、きょうの聖書箇所で言えば、出エジプト記14章21節には、

21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。

とありますね。私は風の力だけで海の水を動かすことができるだろうか?という疑問を持っています。先ほど話したように海の水の満潮と干潮は月の重力によってもたらされますから、重力は海の水を動かすことができます。ですから、神様は風の力だけでなく重力も使ったかもしれない、などと考えます。昔の人は重力のことを知りませんでしたから、出エジプト記にも当然重力のことは書かれていません。

 こんな風に、私は聖書に書かれていることは基本的に丸ごと信じていますが、当時の人々の科学知識が私たちよりも乏しかったことを加味して、現代の科学知識を補って考えます。ですから出エジプト14章21節に【主】が「強い東風で海を押し戻し」と書いてあっても、それをそのまま信じるというよりは、は重力も使ったのではないかなどと考える、というようなこともしています。

 なぜ私が基本的に聖書を丸ごと信じることができるかは、イースター礼拝でも話したように私はイエス・キリストの復活を信じているからです。新約聖書はイエス・キリストが実際に復活したことを証言しています。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書だけでなく、使徒の働きも証言していますし、パウロもコリント人への手紙第一で証言しています。パウロはコリント人への手紙第一で復活したキリストが五百人以上の兄弟たちに同時に現われたと書いています(Ⅰコリント15:6)。

 また、使徒の働きは復活したイエスさまに出会ってイエス・キリストを信じ、聖霊を受けた使徒たちが劇的に変わったことを証言しています。人が劇的に変わるには、よほどの体験が必要ですから、使徒たちはよほどのことを体験したことになります。そのよほどの体験とは何かを考えるなら、彼らが復活したイエスさまと出会ったこと以外には考えられません。

 それゆえ私は新約聖書の証言を信じてイエス・キリストの復活を信じています。そして、このことによって私は平安を得ましたから、自分が聖霊を受けたことも確信しています。そしてまた、死んだイエスさまが復活できたのは神様が万物を創造し、人に命を与えた全知全能のお方であるからであることを、確信を持って信じています。

④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書
 この確信が得られると、聖書が格段に身近なものになります。それは神様の側から聖書の記述を見られるようになるからだと思います。

 聖書の初心者の頃の私は、旧約聖書をあまり好きにはなれませんでした。旧約聖書には神様が怒っている場面が多く書かれているからです。これは正に人間の側から聖書を読む読み方であったなと思います。

 このように人間の側から聖書を読むと、神様がどのようなお方であるかのイメージが、聖書の記者の記述に大きく左右されることになります。しかし、神様の側から聖書を読むことができるようになると、聖書の記者の書き方に神様のイメージが左右されなくなります。聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書だからです。この神様からの霊感をどのように受け留めるかは記者の個性によって異なって来ます。

 神様からの側から聖書を読むなら、この個性に左右されなくなります。そして、神様が怒ることが多いこともよく理解できるようになります。イスラエルの民があまりにも不信仰だからです。例えば今日の聖書箇所の少し手前の出エジプト記14章の11節と12節には、ファラオの軍勢が後ろに迫っているのを見て恐れたイスラエルの民がモーセにこんなことを言ったことが書かれています。14章11節と12節をお読みします。

11 「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 主を信頼せずにすぐにこんなことを言うイスラエルの民の信仰は、本当に幼いものでした。そんなイスラエルの民を主は救いに導きました。神様の側から聖書を読むことができるようになるなら、神様の愛の深さもまた良く分かるようになります。そうして私自身もまた神様に愛されていることを感じることができるようになります。

 このように神様の側から聖書を読むことができるようになるためには、聖書を全部通して読む、通読をすることが必要です。まだ聖書を全部通して読んだことがない方は、ぜひ通読にチャレンジしてみていただきたいと思います。そうして聖書の全体像を知るなら、やがては神様の側から聖書を読むことができるようになるでしょう。そうすれば、神様が海の水を分けて、乾いた所をイスラエルの民が歩けるようにしたことも、疑うことなく信じることができるようになるだろうと思います。

おわりに
 繰り返しになりますが、聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書です。その霊感の受け留め方には記者の個性が出ますから、個性によって神様の書かれ方が異なって来ます。この書かれ方の違いに聖書の読者は左右されがちですが、神様の側から聖書を読むなら、記者の個性に左右されなくなります。
 そのために、ぜひ聖書全体を通して読んでいただきたいと思います。来週は「律法の授与」について、出エジプト記とレビ記を引きながら、共に思いを巡らしたいと思います。
 きょうの、主が海の水を分けた記事に思いを巡らしながら、しばらくご一緒に祈りましょう。
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過越の恵み(2019.7.7 聖餐式礼拝)

2019-07-08 08:09:52 | 礼拝メッセージ
2019年7月7日聖餐式礼拝メッセージ
『過越の恵み』
【出エジプト12:21~28】
『過越の恵み』

はじめに
 礼拝メッセージでは、皆さんに聖書通読をお勧めしています。聖書全体を見渡せるようになることで私たちは大きな恵みをいただくことができます。

 それゆえ、この礼拝メッセージにおいても聖書をなるべく大きな視野で眺めることができるように、一つの書を大体2週間ぐらいで終えて、次の書に進もうと思っています。私たちはすでに先週と先々週の2週間、創世記を開きましたから、きょうの後半では出エジプト記に入ります。

 週報p.2に載せたように、きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①私たちは、なぜ祈るのか
 ②主のご計画という大船の船長のイエス
 ③百万人を動かした十のしるし
 ④過越と最後の晩餐と聖餐式

①私たちは、なぜ祈るのか
 先週の礼拝メッセージでは、主がアブラムと契約を結ぶ儀式を行った場面までを見ました。まだアブラハムにもなっていないアブラムの時代のことです。ここから今日はモーセの時代の過越の出来事までを眺めることにしています。

 アブラムがアブラハムになり、息子のイサクが生まれてからもアブラハムの身辺には様々なことがあったことが創世記を読むと分かります。そして息子のイサクにもまた色々なことがあり、イサクの息子のヤコブも様々な中を通りました。さらにヤコブの息子のヨセフは、兄たちによってエジプトに向かう商人に売られてしまったために、様々な苦労を経験しました。そして、モーセもまた、エジプトを脱出するイスラエル人のリーダーになるよう主から召し出されるまでには、色々なことを経験しました。

 きょうの、この限られた時間の中でこれらの様々な出来事の中で何を取り上げるべきか、思いを巡らす中で、私はふと思いました。これらの出来事の中で、何が偶然の出来事で、何が主のご計画によって為されたことなのでしょうか?

 アブラハム・イサク・ヤコブからヨセフ・モーセに至るまで、すべてのことがイスラエル人がエジプトから脱出した出来事へとつながっています。どれか一つでも違うことが起きていたら、そこから先は聖書の記述とは違うことが起きていたでしょう。すると、すべてのことは主のご計画の通りのことだったのでしょうか?例えばヨセフの兄たちはエジプトに向かっている商人にヨセフを売りました。この時、もし商人がエジプトではなくてメソポタミアのバビロン方面に向かっていたら、その後の展開はどうなっていたでしょうか?

 ヨセフの兄たちの近くをたまたまエジプトに向かう商人が通り掛かったのは、主のご計画だったのでしょうか?バビロンは有り得なかったのでしょうか?別の言い方をするなら、主のご計画ではヨセフをバビロンに送ることだったのに、たまたまエジプトに向かう商人が通り掛ったので、主はご計画をバビロンからエジプトに変更した、ということは考えられないでしょうか?

 私たちは良く、主のご計画ということを口にします。主のご計画は確かに存在します。しかし主は細かいことまですべての計画を立てて、その通りに実行されているのでしょうか?例えば明日の天気、明後日の天気まですべて細かく決めているでしょうか?人間の行動はお天気に大きく左右されますから、主はお天気を決め、私たち人間の行動までを細かく計画して、その通りに物事を動かしているのでしょうか?

 それは有り得ないですよね?主は全知全能のお方ですから、もちろん細かいことまで決めて人を動かすこともできます。しかし、そんなことをしたら、私たちはただのロボットになってしまいます。主はそんなことは望んでおられません。主が望んでいることは、私たちがロボットのように命令に忠実に動くことではなく、私たちが主の語り掛けに自発的に応答して主に付き従って行くことです。

 ですから主は私たちに対して常に語り掛けてはいるものの、ほとんどの場合はそれ以上の介入はせずにいて、ただ見守っています。だからこそ、私たちは祈るんですね。すべての未来が決まっているのなら祈っても仕方がありません。未来で決まっているのは大まかなことだけで細かいことは決まっていません。しかも、主は大部分のことには介入しないでいます。

 だからこそ、私たちは祈ります。主が、私たちが願う方向に介入して下さることを祈ります。ですから、もし私たちが祈り願うことが主の大きなご計画の方向に沿うものであるなら、主はきっと応えて下さることでしょう。

 そこで、もう一度考えてみましょう。主が決めておられる大きなご計画と、決めておられない細かいことの境い目はどこにあるのでしょうか?

 そのことを考えるのに、先週開いた創世記の15章13節と14節を、もう一度ご一緒に読むことにしたいと思います(旧約p.22)。交代で読みましょう。

13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。

 13節で主はアブラムに、「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」と仰せられました。ですから、このことは主のご計画で決まっていました。しかし、この地が「エジプト」とはおっしゃっていません。ですから、ヨセフを兄たちから買った商人がもしバビロンに向かっていたのなら、イスラエル人たちはバビロンで奴隷になって四百年間奴隷になっていたということも有り得るのではないかと私は思います。

 これはかなり極端な考え方かもしれませんが、ここで私が言いたいのは、主のご計画は大まかなことは決まっていても、細かいことは決まっていないということです。だからこそ、私たちは祈ります。そうして、主の大きなご計画の中で、小さな私たちは与えられた人生を精一杯生きて行きます。

②主のご計画という大船の船長のイエス
 次の2番目のパートに進みます。

 ここでは、主の大きなご計画を大きな船に例えてみたいと思います。大きな船は、どんな嵐の中でも決して沈むことがありません。小さな舟なら沈んでしまうような大嵐の中でも大丈夫です。そうして目的の港に向かって逸れることなく航行して行きます。

 主に信頼して信仰の道を歩む者とは、この大きな船に心を寄せる者と言えるのではないでしょうか。アブラハムもイサクもヤコブも、そしてヨセフもモーセも、嵐に遭遇して、時に沈みそうになる時もありました。しかしおぼれずにいて信仰の道を歩み通すことができたのは、大きな船に心を寄せていたからです。この大きな船の船長は、即ちイエスさまのことだと言って良いでしょう。イエスさまはアブラハムより前からいました。イエスさまは創世記の初めの時代から人々と共にいて、主の大きなご計画という船の船長をしています。

 ここでルカの福音書の8章22節から25節までを交代で読みましょう(新約p.128)。

22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

 小さな私たち一人一人の人生には様々なことがありますから、私たちは嵐の中を進んでいるようなものです。それら私たちが遭遇する出来事の一つ一つについて、それが主のご計画と関わっているものなのか関わっていない唯の偶然のものなのか、私たちには知ることが許されていません。しかし、主が大きなご計画をお持ちで、私たちがその中で生かされていることだけは確かです。この主に信頼して心を寄せているのなら、少々の嵐に遭ったとしても、信仰を持つ者を主が悪い方向に導くはずがありませんから、私たちは心の平安を保つことができます。

 聖書通読を私がお勧めするのは、主の大きなご計画を知って、その中を進む大きな船の船長であるイエスさまに心を寄せることができるようになるためです。そうして心の平安を得るためです。この素晴らしい恵みをぜひ多くの皆さんと分かち合いたいと思います。

③百万人を動かした十のしるし
 三番目のパートに進みます。
 ヤコブの息子のヨセフは兄たちによってエジプトに向かう商人に売られてしまい、エジプトに連れて行かれます。しかしヨセフはエジプトで王のファラオに次ぐ第二の地位に就いて、大きな飢饉が起きた時にヤコブの家族をエジプトに呼び寄せました。

 イスラエル人はエジプトで大いに増えて、奴隷として働かされるようになりました。そして主は、奴隷の重労働に苦しんで泣き叫ぶイスラエル人をエジプトから出すことにします。そのエジプト脱出のリーダーに指名されたのがモーセです。エジプトの王のファラオはイスラエル人たちがエジプトから出て行くことを許しませんでしたから、主はエジプトで十のしるしを行って、それに懲りたファラオがイスラエル人を追い払うように仕向けることにしました。

 この十のしるしを週報のp.2に載せました。それらは、①ナイル川の水を血に変える、②蛙、③ブヨ、④アブ、⑤家畜の疫病、⑥腫れもの、⑦雹、⑧いなご、⑨暗闇、⑩初子の死です。これらのしるしは、エジプト人たちにとっては災いでしたが、イスラエル人たちにとっては奴隷の身分から救出されるための救いの恵みでした。

 しかし、それにしても、イスラエル人をエジプトに出すために、十ものしるしが必要だったのでしょうか?かつての私は、エジプトの王のファラオが何度も何度も頑なになることに首をかしげていました。せいぜい5回も災いがあれば懲りるのではないか、そんな風に思っていました。

 しかし、今ではこの十回はエジプト人が懲りるためではなく、百万人ものイスラエル人たちが主を信じ、モーセをリーダーと認めるために必要だったのだろうなと思っています。この十回のしるしの間、モーセは何度も何度も繰り返しファラオに会いに行きました。このようにイスラエル人のエジプト脱出のために誠実にまた謙虚に働くモーセの姿を見てイスラエル人たちの心の中にはモーセを信頼する気持ちができていったのだろうと思います。

 イスラエル人の数は戦闘要員の成人男子だけで六十万人いましたから、女性や子供、老人を含めれば百万人を越えていたことでしょう。この百万人の心が一つにならなければエジプト脱出という大きなことを成し遂げることはできません。そのために十回ものしるしが必要だったのでしょう。

 そうして、十番目のしるしの過越の時を迎えます。

④過越と最後の晩餐と聖餐式
 四番目のパートに移ります。きょうの聖書箇所の出エジプト記12章の21節から見ていきます(旧約p.119)。21節から24節までを交代で読みましょう。

21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
23 はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。

 ここにあるように、イスラエル人たちは羊の血を鴨居と門柱に塗りました。そうして主はこの血がある家を過ぎ越しましたから、イスラエル人の長子や家畜の初子が主に打たれることはありませんでした。

 この時に犠牲となったいけにえの羊は、後(のち)のイエス・キリストですね。イエス・キリストは十字架で血を流して死にました。このイエスが神の子キリストであると信じる者は神によって滅ぼされることなく永遠の命を得ます。人は皆が罪人ですから本来なら皆が滅ぼされるべき者たちですが、主の憐れみによって過ぎ越していただけるのです。

 続いて25節から28節までを交代で読みましょう。

25 あなたがたは、が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。
26 あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、
27 あなたがたはこう答えなさい。『それはの過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。
28 こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 この過越の儀式はイエスさまの時代にも守られていました。旧約の時代には、律法が守られておらず、この儀式が途絶えていた時期もありましたが、南王国が滅ぼされてエルサレムの人々がバビロン捕囚となり、その後にエルサレムへの帰還が許されてからは、この儀式を守るようになっていました。

 そしてイエスさまは過越の祭りの時にエルサレムで十字架に掛かって死にました。十字架に掛かる前の晩の最後の晩餐の食事は、過越の食事でした。ルカの福音書22章の7節から13節までを交代で読みましょう(新約p.165)。

7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、
10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

おわりに
 きょう、これから私たちはイエスさまとの聖餐の食事の恵みをいただきますが、その前に、もう一度、きょうのメッセージを振り返っておきたいと思います。

 神様は大きなご計画を持って進めておられます。イスラエルの民がエジプトで奴隷になり、そこから脱出して再び先祖アブラハムが住んだ地のカナンに戻ることは神様のご計画でした。そして、神の御子イエス・キリストが十字架に掛かって死ぬこともまた、神様のご計画のうちにあることでした。

 しかし、世の中で起こることのすべてが神様のご計画として決まっているわけではありません。大部分のことについて、神様はただ見守っているだけで必要な時にしか介入をしません。だからこそ、私たちはお祈りします。そして、神様を信頼して、神様のご計画という大きな船の船長であるイエスさまと人生の航海を共にします。この大きな船は決して沈むことがありません。それゆえ私たちは船長のイエスさまと共に人生を歩むなら、心を乱すことなく平安でいることができます。

 出エジプトの時代、過越の羊の犠牲によって百万人以上ものイスラエル人たちが奴隷の苦しみから救い出されました。そして、イエスさまが十字架で血を流すことによって、どれくらい多くの人々が救われたでしょうか。これから聖餐の恵みに与る私たちもその中の一人です。しかし、イエスさまを信じていない方々もたくさんおられます。

 この地域にもイエスさまを信じていない方々がたくさんおられます。私たちは地域の多くの方々がイエスさまが船長の船に乗り、私たちと共に聖餐の恵みに与ることができる日が来るように、祈りつつ、共に働いて行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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良い無と悪い無(2019.7.4 祈り会)

2019-07-05 15:37:54 | 祈り会メッセージ
2019年7月4日祈り会メッセージ
『良い無と悪い無』
【ルカ11:24~26】

24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

はじめに
 木曜日の夜の祈祷会では「祈り」について共に学んでいます。前回はハレスビーの『祈りの世界』の冒頭の部分を紹介して分かち合いました。ハレスビーはこの本の冒頭で、「祈りは私たちの側が祈ることで始まるのではなくて、イエスさまの側が私たちの心の扉を叩いて始まるのだ、ということを書いています。このことを納得して、イエスさまが自分の心の扉を叩いていることを意識するようになると、祈りの時がより恵まれたものになるという話をしました。

 さてハレスビーは、このことの次に、「無力さ」の重要性を説いています。少し紹介すると、ハレスビーは次のように書いています。

「祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです」

 とても興味深いことが書かれていますから、このことも共に分かち合いたく願っています。ただし、このハレスビーを分かち合うのは次の週にして、きょうは「無力」の「無」について考えてみたいと示されています。

良い無と悪い無
 きょうのメッセージのタイトルは、『良い無と悪い無』です。先ほどご一緒に読んだルカ11章の24節から26節は、「悪い無」の例ですね。もう一度、確認しておきましょう。

 24節では、まず汚れた霊が人から出て行きます。しかし、25節で戻って来ると、そこは掃除されてきれいになっていました。そこで汚れた霊は出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなります。心の中をきれいにするだけで聖霊に入っていただかないなら、前よりも却って悪くなってしまうという何とも恐ろしいことが、ここには書かれています。

 では、このような「悪い無」にならないで聖霊に入っていただくためには、何が必要なのでしょうか。そのことを考えていたら私が神学生だった頃に聞いた申命記6章5節からの説教を思い出しました。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。」(申命記6:5)

 その説教の中では「心を尽くして神を愛する」とは、どういうことかということについて説教者が考えていたことを話していました。この部分を英語では「Love the Lord your God with all your heart ・・・」と訳しています。「心を尽くして」は「all your heart」ということで、「心のすべてで神を愛する」ということです。すると、いったん心を空っぽにしなければ、心のすべてで神を愛することはできないだろう、説教者はそんなことを話していたように思います。

砕かれることの必要
 その説教を聞いた時、私はなるほどと思いました。しかし今、改めて考えてみると、下手に心を空っぽにしてしまうと、ルカの福音書のイエスさまがおっしゃるように、悪い霊が入ってしまうかもしれません。では、どうしたら良いのでしょうか。それにはやはり、まずは神様によって心が砕かれないとダメなのだろうと思います。

 多くの人の場合、心の中の大部分は罪で占められていて自分中心になっています。プライドの塊もあります。それらを全部空っぽにすることは、そもそも不可能なのだと思います。プライドが大きな塊になっていますから、大きな塊のまま外に運び出すことは不可能でしょう。仮にできたとしても、空っぽになった瞬間を悪魔は虎視眈々と狙っていて、そこに汚れた霊を送り込むことでしょう。

 ですから、まずは神様によって心が砕かれる必要があります。神様によってプライドが砕かれることで、神様の支配下でプライドやその他の罪をきよめていただくことが肝要でしょう。そうすれば、心の中を占めている自分中心の罪が次第に神様中心へと置き換えられて行って、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神様を愛することができるようになることと思います。

 そのようにして心の中の自分中心が取り除かれるなら、自分の無力さがよく分かり、神様にすべてを委ねていくことができるのだと思います。

(後略)
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イスラエルの歴史の始まり(2019.6.30 礼拝)

2019-07-01 08:10:22 | 礼拝メッセージ
2019年6月30日礼拝メッセージ
『イスラエルの歴史の始まり』
【創世記12:1~4 、マタイ1:1、17】

はじめに
 礼拝では皆さんに聖書全体を通して読む、聖書通読をすることをお勧めしています。既に皆さんの多くが聖書通読を行っていることと思いますが、まだ全体を読んだことがなくて聖書の全体像を知らない方もおられるのではないかと思います。ぜひ聖書全体を読み通してみて下さい。

 そうして聖書全体を見渡せるようになることで、キリストの愛の大きさを知ることができるようになると思います。

 パウロが書いたエペソ人への手紙は私が大好きな書の一つですが(たぶんベスト3ぐらい)、その3章17節から19節までには次のように書いてあります(週報p.2)。

エペソ3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るためには聖書全体を見渡せるようになることが不可欠であろうと思います。その助けになるように、この礼拝のメッセージのシリーズでは、聖書の各書をある程度大きな視野で見ることにしています。

 前回は創世記の1章を開いて、神様が天と地を造り、私たちの命を造り、「それは非常に良かった」ということを話しました。しかし、アダムとエバが神様の命令に従わなかったために人のうちに罪が入り、魂が死んでしまいました。そうして罪の中で人々がもがき苦しむ「旧約の時代」が延々と続いていくことになります。

 「旧約の時代」、神様は律法を授けることで人々が神様と共に歩むことができるようにして下さいました。しかし人々はなかなか律法を守ることができませんでした。イエス・キリストはそのように罪で苦しむ人々の魂を生き返らせて救うために、この世に来て下さり、十字架に掛かりました。これが前回話したことのあらましです。

 きょうはアダムとエバの時代以降の創世記の時代を、アブラハムの時代まで見ることにします。そうして次回はヤコブとヨセフの時代を短く見てからモーセの時代に入り、過越の出来事の記事をご一緒に見た後で聖餐式を執り行うことにしたく思っています。

 きょう話す三つのパートは、次の通りです(週報p.2)。

①ノアの洪水の後でも良くならなかった人々
②アブラハムから始まったイスラエルの歴史
③モーセの時代の律法授与を見据えていた主

①ノアの洪水の後でも良くならなかった人々
 では一番目のパートから見て行きましょう。

 神様が食べてはならないと命じていた善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムとエバはエデンの園を追い出されました。その後、二人には子供ができます。最初の子がカインで、次の子がアベルでした。そして兄のカインは弟のアベルを殺してしまいました。神様から心が離れてしまったアダムとエバの子供のカインもやはり、神様から心が離れていたのですね。そういうわけで、増え広がっていった人類のほとんどは悪に染まっていました。

 創世記6章の5節から8節をご一緒に見ましょう(旧約p.8~9)。

創世記6:5 は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6 それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そしては言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
6:8 しかし、ノアはの心にかなっていた。

 地上の人がいつも悪に傾くのをご覧になった主はノアとノアの家族、そして一つがいずつの動物たちを除いては大洪水によって流して滅ぼすことにしました。それで主はノアに巨大な船を作るように命じました。洪水によって地上が水没しても船に乗っている者たちは助かるようにするためです。

 そうしてノアとノアの家族以外の人類は死に絶えてしまいました。ですから、その後の人類は皆がノアの子孫ということになります。ノアは主の心にかなっていましたから、この後の人類は悪に傾くことはないだろうというわけです。しかし残念ながら、そうはなりませんでした。人々は、今度は天に届くバベルの塔を建設することを企てました。

 今度は創世記11章の4節をお読みします。

創世記11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂(いただき)が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

 天に届く塔を建てるということは、人類が神様の目を持つということです。聖霊を受けていない人々が神様の目を持ったら、どんな悪いことをたくらむか分かりません。それを心配した神様は人々のことばを混乱させてバベルの塔の建設を中止に追い込みました。

 この礼拝のシリーズで私は皆さんに鳥のように高い所に昇って神様の視点を持つことをお勧めしていますね。それはイエス・キリストを信じて聖霊を受けた者だから許されることでしょう。それでも人間は思い上がりやすい罪の性質を持っていますから、高い所からの視点を持つだけでなく、弟子たちの足を洗ったイエスさまのように低い所にも下りて行って、低いところからの視点も同時に持つ必要があります。聖霊を受けないで高い所に昇るだけでは、人はバベルの塔の建設を目論んだ人々のようになってしまいます。

②アブラハムから始まったイスラエルの歴史
 続いて2番目のパートに移ります。きょうの聖書箇所の12章の1節から4節までを交代で読みましょう。

創世記12:1 はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは、が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 アブラムというのはアブラハムのことです。主が言われた「わたしが示す地」というのはカナンの地のことです。ここからイスラエルの歴史が始まりました。この12章の出来事の前の11章がバベルの塔の章です。そして、バベルの塔の前にノアの洪水がありました。ノアの洪水によって主は地上から悪を消し去ろうとしましたが、そうは行かず、人々はバベルの塔の建設を目論みました。そこで主は、もう一度やり直すことにしました。

 今度の方式は、ノアの洪水のように人類を滅ぼすことではなく、先ず一つの民族、すなわちイスラエルの民族を選び、彼らに律法を授けて主と共に歩むようにして、その後に全人類がイスラエルに倣ってヤハウェの神を礼拝するようにしよう、というものでした。
 そうしてイスラエルの歴史が始まりました。この旧約の時代のイスラエルの歴史を1つのページで見渡せるのがマタイの福音書の1ページ目にある系図ですね。今度はマタイ1章1節をご一緒に読みましょう。

マタイ1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 そうして2節から「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、」というようにアブラハムの子孫たちの名前が刻まれて、この1ページ目だけで旧約の時代のイスラエルの歴史全体を見渡せるようになっています。このように神様の視点で旧約の時代の歴史の全体を見渡せることは素晴らしいことです。カタカナが多くて読みづらいと思わずに、是非この系図に慣れ親しんでいただきたいと思います。

 旧約聖書を通読すれば、これらの名前の多くは出て来ますから、通読を行うことでこの系図にも親しみやすくなります。ただしバビロン捕囚の後は見慣れない名前も出て来ます。それは旧約聖書の最後のマラキ書が書かれてからイエス・キリストの誕生までは聖書が400年間の沈黙の期間に入ったからです。そうしてイエス・キリストが生まれます。今度は16節と17節を交代で読みましょう。

マタイ1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。

 この旧約の時代、大半のイスラエル人の心は神様から離れていました。バビロン捕囚の後は、これに懲りて人々は律法を守るようになりました。しかし、それはすぐに形骸化して形だけ律法を守り、心は神様から離れているパリサイ人のようになってしまいました。

 やはり人は聖霊を受けて心の内側に神様に入っていただかない限りは、神様と共に歩むことができません。そのためにイエス・キリストがこの世に生まれて十字架に掛かりました。イスラエルはこのことを学ぶのに、アブラハムからイエス・キリストまで約二千年間の年月を要しました。

③モーセの時代の律法授与を見据えていた主
 続いて三番目のパートに移ります。

 創世記12章でアブラムに声を掛けてカナンの地に向かうように言った主は、この時から既にモーセの時代を見通していました。それが分かるのが、主がアブラムと契約を結んだ場面です。創世記15章を開いて下さい(旧約p.21)。ここに不思議な契約の儀式のことが書かれています。7節から21節までを読みます。

創世記15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである。」
8 アブラムは言った。「、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」
9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。
11 猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。
12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。
13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」
17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
18 その日、はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、
21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」

 この不思議な契約の儀式について簡単に見ておきましょう。主はアブラムに牛とやぎと羊を真っ二つに切り裂いて、それらを向かい合わせに並べるように命じました。この契約の儀式は、もし契約を破ったら、その契約を破った者はこのように真っ二つに切り裂かれるということを意味しているそうです。それで契約を交わした者たちは、この二つに切り裂かれた動物の間の通路を通る儀式を行うそうです。

 しかし、17節にあるように、この時の契約で通路を通ったのは神様だけでした。アブラムは通りませんでした。このことから、このアブラムと主の契約の儀式はイエス・キリストの十字架の予表とも言われています。つまり神様のイエスさまだけが十字架で切り裂かれて、人は罰せられることなく死を免れて罪が赦されたというわけです。

 さて、この契約の儀式で主は13節のように仰せられました。

13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。

 これはアブラムの孫のヤコブの時代に、ヤコブの一族がエジプトに行って住むようになることを指していますね。まずヨセフがエジプトに売られて行き、そこでヨセフはエジプトの王に次ぐ二番目の地位に就いて、大飢饉があった時に家族を呼び寄せました。そうしてヤコブの子孫たちがエジプトで増えて、やがては奴隷となって苦しめられることになります。続いて14節、

14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。

 これはモーセがリーダーとなってイスラエル人たちがエジプトを脱出することを指していますね。そうしてエジプトを脱出したイスラエル人たちは約束の地のカナンに向かう途中のシナイ山のふもとで律法を主から授けられます。このように主は、アブラムと契約を結んだ時から既にモーセの時代の律法の授与を見据えていました。

 シナイ山のふもとで律法を授かったイスラエル人の数は、民数記によれば軍隊に登録された成人男子だけで60万人いました(民数記2:32)。民数記の「民数」は民の数が数えられるということですから、民数記には民の数が書かれています。軍隊に登録された成人男子だけで60万人ですから女性や子供、老人を加えれば全体で100万人を越えていたでしょう。主はこの100万人以上の民に対してシナイ山のふもとで律法を授けました。何と効率的な方法でしょうか。

 仮にヤコブの時代にヤコブの家族だけに律法が授けられていたとしたら、伝言ゲームのようにしてモーセの時代には誤った形に変形していたかもしれません。100万人に伝えられれば互いに教え合うことで誤った形で伝わることを防げます。

 ただしヤコブの子孫がカナンの地の中で100万人に増えれば、全員を集めて律法を授けることは困難でしょう。人は簡単には主の言うことを聞かないからです。その場に集まらない者がきっといることでしょう。主から離れる者がいることはアダムやカインの事例で既に分かっていることです。しかしエジプトで増えて全員が一時(いっとき)に脱出して集団で移動するなら、その途中で全員に向けて律法を授けることができます。

 主の為さることは本当にすごいと思います。人間の知恵では計り知れない方法で主は100万人を越えるイスラエル人たちに一括して律法を授けました。主はアブラムと契約の儀式を執り行った時から、このモーセの時代のエジプト脱出のことを見据えていたのだと思います。

 来週はイスラエル人たちがエジプトを脱出した時の過越の出来事の記事を共に読むことにします。この過越の出来事をイスラエル人たちはとても大切にし、イエスさまの時代にも過越の祭りが行われていました。イエスさまは十字架に掛かる前の晩、弟子たちと共に食事をしました。その最後の晩餐は過越の食事でした。来週はこの場面を見た後で聖餐式に臨みます。

おわりに
 きょうはカインとアベルの時代からノアの時代、バベルの塔の時代、アブラムの時代までを駆け足で見渡しました。この時代から既にモーセの時代が見据えられていて、後にはイエスさまの十字架へとつながって行きます。このスケールの大きな旧約の時代のイスラエルの歴史に思いを巡らすことで、キリストの愛の大きさを感じたいと思います。イスラエルの歴史のスケールの大きさを感じれば感じるほど、キリストの愛の大きさもまた感じられることと思います。

 そうしてキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するなら、私たちは心の平安を得てゆったりとした気持ちになることができ、多少のことなら動揺せずに心の平安を保ちながら過ごすことができるようになることと思います。

 聖書全体を読み通すことをお勧めするのは、通読すれば心の平安が得られるからです。もし、まだ聖書を通読していない方がいらしたら、ゆっくりで構いませんから、毎日少しずつ聖書を読んで下さい。

 イスラエルの壮大な歴史に思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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