2019年7月28日礼拝メッセージ
『最高にきよい神と至聖所』
【出エジプト記26:31~35、レビ記16:1~19】
はじめに
先聖日はエジプトを脱出したイスラエルの民が、約束の地であるカナンに向かう途中のシナイ山のふもとで、主から律法を授けられたことを共に学びました。そして、この律法の授与はイスラエルの民にとっては大きな恵みであったことも話しました。
詩篇119篇の詩人はみことばへの愛を長い詩で告白しました。「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」と105節にはあります。この道の光であるみことばとは律法のことです。旧約の民にとって律法は足下を照らす光でした。新約の時代の私たちは律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みを受けました。私たちもまた先が見えない暗闇の中を歩いている点では同じですから、聖霊に導かれて進む必要があります。
このことを話した先週の日曜日の時点では、安倍川の花火を中止にした台風6号は影も形もありませんでした。天気図を見ると24日の水曜日になって初めて小さな熱帯低気圧が発生し、25日の木曜日にこの熱帯低気圧のために27日の土曜日は大雨になる恐れがあるという予報が出始めて、26日の金曜日に台風になり週末は大雨になることが確実になったために金曜日の早い時点で花火大会は中止になりました。熱帯低気圧が発生したのは水曜日でしたから、わずか二日間の間の出来事でした。明日は何が起きるか本当に分からないなということを、花火大会のことでも強く思わされたことでした。
また、先週の礼拝では私自身の聖霊体験の証しもしました。姫路教会でインターン実習をしていた時に聖書通読でレビ記1章を読み始めたところ、天の父の「~しなさい」ということばに大きな愛を感じて涙が止まらなくなり、律法が大きな恵みであることを理解したという体験の証しをさせていただきました。
この時にレビ記1章を簡単に読み、きょうは聖書交読でもレビ記16章をご一緒に読みました。きょうのメッセージの聖書箇所にはこのレビ記16章も含まれるとお考えいただきたいと思います。これで先週と今週でレビ記を部分的にですが読んだことになりますから、来週は民数記に入って行きたいと思います。
さて、きょうのメッセージは、『最高にきよい神と至聖所』というタイトルで、次の三つのパート(週報p.2)で話を進めます。
①最高にきよい神と至聖所
②神に大胆に近づく道を開いたイエス
③弱められた神殿礼拝への親近感
①最高にきよい神と至聖所
まずは神様が、いかにきよい存在であるかということを確認しておきたいと思います。「新約の時代」を生きる私たちは、大胆に神様に近づくことが許されていますから、昔の「旧約の時代」の神様のほうがきよい存在であったと勘違いしてしまいそうです。
しかし、そんなことはありません。神様は昔も今も同じ方です。今の私たちが神様に大胆に近づけるのはイエスさまが十字架に掛かって下さって私たちの罪が赦され、さらに聖霊を受けて私たちの内側がきよめられるようになったからです。それゆえに神様は最高にきよいお方であるにも関わらず、汚れた私たちでもイエスさまを信じて聖霊を受けるなら、神様に大胆に近づくことが許されます。
この最初のパートでは、神様がいかにきよいお方であるかを確認しておいきたいと思います。まず、きょうの聖書箇所の出エジプト記26章の31節から35節までを交代で読みましょう。
31 また、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。
32 この垂れ幕を、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱に付ける。その鉤は金で、柱は四つの銀の台座の上に据えられる。
33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。
34 至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。
35 垂れ幕の外側には机を置く。机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。その机は北側に置く。
ここには幕屋の聖所と至聖所とを仕切る、垂れ幕の作り方に関する主の命令が書かれています。至聖所は幕屋の中で最もきよい聖なる場所で、ここに神の箱(或いは契約の箱)が置かれました。幕屋の図を週報のp.2に載せておきます。
出エジプト記には、この幕屋の作り方の細かい指示が25章から延々と書かれています。25章の1節と2節をお読みします。
1 主はモーセに告げられた。
2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
幕屋を作るには材料が必要です。その材料を献げるように主は促しました。その材料とは、3節以降にあるように、
3 金、銀、青銅、
4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
などなどです。イスラエル人は奴隷でしたから、こういう高級な物を元々は持っていませんでした。これらはエジプト人がイスラエル人に与えた物でした。主が、エジプト人がそのようにするようにしたからです(出エジプト11:2-3)。
そうして主は仰せられました。8節と9節、
8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。
そうして幕屋とその備品などの作り方の細かい指示が30章まで続きます。そして31章では、これらを作る者としてベツァルエルを指名しました。
さてしかし、主はどうしてこんなにも細かい指示をしたのでしょうか。それは主が、この幕屋の中に入られるからでしょう。25章に戻り、8節をもう一度お読みします。
8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
主はもちろん、小さな幕屋の中にすっぽりと納まるような小さなサイズのお方ではありません。しかし、幕屋を作ることで主はいつもイスラエルの民と共にいて下さることを約束して下さいました。その主が入る幕屋をいい加減に作って良いわけがありません。なぜなら主は最高にきよいお方だからです。
イスラエル人たちの信仰は、まだ非常に幼いものでしたから、主がどれほどきよいお方であるかを、この幕屋の作り方の指示を通じて教えようとしたという意味があったように思います。神様は目に見えませんから、神様のきよさが人間にはなかなか分かりません。それを、幕屋の作り方とそこで行われる儀式とを通じて目に見える形にして下さったのではないか、そのように思います。
レビ記16章にある贖罪の儀式の進め方を読むと、その神様のきよさが一層よく分かります。ここには年に一回、第七の月の十日に行う「宥めの日」(レビ23:27)の贖罪の儀式のことが書かれています。垂れ幕の内側の至聖所には年に一回、大祭司だけが入ることが許されていました。年に一回だけというところにも主が簡単には近づけないきよいお方だということが分かります。しかも、むやみに近づくとアロンの二人の息子のように命を落とします。レビ記16章の1節と2節には次のように書かれています。
1 アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。
2 主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。
この、主が雲の中に現われるようにするために、アロンは12節と13節のように炭火と香を持って垂れ幕の内側に入りました。12節と13節、
12 彼は主の前の祭壇から炭火を火皿いっぱいに、また、粉にした香り高い香を両手いっぱいに取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲が、あかしの箱の上の『宥めの蓋』をおおうようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。
このように、主はあまりにきよいのでむやみに近づいたり直接見てしまったりすると、命を落としてしまいます。
②神に大胆に近づく道を開いたイエス
これほどまでに、主はきよく近づきがたいお方ですが、イエスさまが十字架に掛かったことで私たちは主を「アバ、父、お父様」と呼んで大胆に近づくことが許されるようになりました。イエスさまが十字架で死んだ時、神殿の幕が真っ二つに裂けたことがマタイ・マルコ・ルカの福音書に記されています。それは主と私たちとを隔てていた垂れ幕が取り除かれたということです。
ここで注意したいのは、垂れ幕が有ろうが無かろうが主が最高にきよいお方であることには変わりないということです。そんなにきよいお方に私たちのような汚れた者たちが大胆に近づけるようになったのはどうしてでしょうか?
それは先ほども言ったように、イエスさまの十字架によって私たちの罪が赦されて、イエスさまが神の子キリストであると信じる者には、誰でも聖霊が注がれるようになったからですね。聖霊は私たちの汚れた心をきよめて下さいます。この聖霊を受けることで私たちは最高にきよい主を「父」と呼んで大胆に近づくことが許されるようになりました。
レビ記16章にあるような、動物をいけにえにすることでは人をきよめる効果は十分にはありませんでした。神の御子であるイエスさまがいけにえになることで初めて、人がきよめられるようになりました。
ここで、ヘブル人への手紙10章の19節と20節を、ご一緒に読みたいと思います(週報p.2)。
19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
先ほども言いましたが、イエスさまが十字架で死んだ時、神殿の垂れ幕が二つに裂けましたから、このことによって私たちは大胆に聖所に入って神様に近づくことができるようになりました。
神殿というのは幕屋を建物にしたものです。幕屋は組み立て式で移動できるようになっていました。モーセの時代にはまだ荒野の中を進んでいましたから、移動式のテントになっていました。それがイスラエルに王国が建国されてからは移動することがなくなりましたから、ダビデの息子のソロモン王の時代に神殿が建設されました。このソロモン王の時代の神殿の建設については列王記と歴代誌に書かれていますから、いずれまた、ご一緒に見ることにしたいと思います。
③弱められた神殿礼拝への親近感
幕屋や神殿は、日本人には非常に親しみやすいものだと私は思います。モーセの時代、ヨシュアの時代にイスラエルの民が移動をしていた時は、幕屋は分解されて運ばれていました。その時には神の箱も祭司たちがかついで移動していました。少し前の礼拝でヨシュア記3章を開きましたが、祭司たちが神の箱をかついでヨルダン川を渡ったことが記されていましたね。日本人も神社のお祭りの時には神輿をかつぎます。とても良く似ていると思います。
神殿も、日本の神社に良く似ていると思います。エルサレムの神殿は紀元70年にローマ軍の攻撃によって炎上して焼失するまでは存在していましたから、イエスさまも神殿で礼拝していました。使徒の働きには、ペテロやヨハネ、パウロたちも神殿で礼拝していたことが記されています。
この教会の外の掲示板に、Tさんがみことばを書いて下さっています。こんど新しく書いて下さったみことばは、夏にふさわしいみことばです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい、云々」というものです。この箇所をご一緒に開いて読みましょう。ヨハネの福音書7章の37節と38節です(新約p.194)。
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
このことをイエスさまがどこで言ったのか、ここには書かれていませんが、1ページ前の28節に「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた」とありますね。37節にも「大きな声で言われた」とありますから、このことばもまた、宮、すなわち神殿で言われたのでしょう。
この時のイエスさまを想像する助けに、静岡の浅間神社でイエスさまが大声で話している場面を想像しても、少しも構わないでしょう。浅間神社は静岡市民に、とても親しまれています。私も41歳で教会に通うようになる前には浅間神社で熱心に参拝していました。
その私の経験から言うと、聖書は神社で参拝する日本人にもっと親しまれても良いという気がしています。しかし、キリスト教はヨーロッパに広がり、日本には西洋の宗教として入って来ました。神殿には親近感を感じない欧米の宣教師によってキリスト教がもたらされたことによって、聖書の神殿礼拝の記事に日本人が親近感を持つことがかなり弱められたと感じます。
実はこれまでは私も、あまりそういうことを感じていませんでしたが、この春に静岡に戻って来てから浅間神社を訪れてみて、日本人にもっと聖書を身近に感じてもらうために、日本人が神社に親しみを感じていることを、もっと利用できたら良いなと思うようになりました。
具体的にどうしたら良いかはまだ良く分かりませんが、例えば浅間神社の入口には厄年の一覧表が出ています。そして厄年に当たる人々に厄除けのお祓いをすることを勧めています。お祓いによって厄払いができるのは、災いが悪霊によってもたらされると考えるからでしょう。その悪霊を追い払えば災いが無くなるという考え方だと思います。
そういう意味でもキリスト教は似ています。福音書にはイエスさまが人から悪霊を追い出した記事がありますね。悪霊を追い出す力は分業制の八百万の神々よりも全知全能の唯一の神様の力のほうが明らかに大きいですから、あまり異教的にならない範囲で、イエスさまが災いを追い払う大きな力をお持ちであることを日本人に知っていただくこともまた、有効かもしれません。
おわりに
私たちが信じる神様は最高にきよいお方です。このきよい神様は全知全能の神様ですから、私たちをきよめる強い力もお持ちです。悪霊を追い払うこともできます。これらのことは聖書に書いてあることです。聖書を通読して聖書の神様のことを正しく知れば、これらのことも周囲の方々に正しく伝えることができます。
そのためにも聖書通読は大切であると思います。聖書を読み、聖書を正しく知り、私たちの周囲の方々に、聖書の神様のことを正しくお伝えして行きたいと思います。
このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。