平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

アナニアの襷(たすき)リレー(2023.1.22 礼拝)

2023-01-23 10:27:37 | 礼拝メッセージ
2023年1月22日礼拝説教
『アナニアの襷(たすき)リレー』
【使徒9:10~22】

はじめに
 今年の礼拝説教では、パウロの生涯と彼の信仰を通して、神様とはどのようなお方であるかを深く知りたいと願っています。ですから、パウロの信仰が中心ですが、パウロに関わりがあった人々の信仰も見たいと思っています。きょうは、そのような人物の一人であるアナニアの信仰について、分かち合いたいと思います。

 きょうの説教のタイトルは、『アナニアの襷(たすき)リレー』です。襷ではなくて、バトンでも良かったのですが、冬は駅伝を見る機会が多いですから、襷リレーとしました。きょうの聖句は、使徒の働き9章17節です。

使徒9:17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

 ①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
 ②本題:a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
     b) サウロが回心するとは到底思えない
     c) イエス様に全面的に従ったアナニア
 ③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く

①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
 まず、先週までに話したことを簡単に復習しておきます。

 サウロ、後のパウロは、イエス様を信じる弟子たちを捕らえるために、ダマスコまで出掛けて行くことにしました。きっかけは、ステパノが裁判の場で語ったことにユダヤ人たちが激しく怒り、ステパノを石打ちにして殺したことでした。裁判の場でステパノは言いました。使徒7章53節、

使徒7:53 「あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 ユダヤ人たちは律法を守っているつもりでしたから、激しく怒りました。サウロも激しく怒りました。使徒の働き8章は、こう書いています。1節、

使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。

 そして3節、

3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

 そうして、サウロの怒りは、エルサレムの弟子たちを迫害するだけでは収まりませんでした。エルサレムから200km以上離れたダマスコまで出掛けて行くことにしました。

 この時のサウロは、たとえるなら狂暴な野獣のようなものでしょう。ライオンやトラ、あるいはクマなどを考えると良いかもしれません。ライオンやトラ、クマなどに襲われたら、ひとたまりもありません。しかし、力ある神であるイエス様は、この猛獣のサウロをおとなしくさせる力がありました。使徒の働き9章3節と4節、

使徒9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

 サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と聞きました。イエス様は答えました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」

 それで、イエス様に「立ち上がって、町に入りなさい」と言われたサウロは立ち上がりました。しかし、目が見えないために、人々が彼の手を引いてダマスコまで連れて行きました。そうして、サウロは三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしませんでした。

②本題:
a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
 きょうの聖書箇所の使徒の働き9章の10節から12節をお読みします。

使徒9:10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」

 イエス様はアナニアに、サウロの所に行って彼の頭の上に手を置くように言いました。しかし、アナニアはイエス様に言いました。

13 「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」

 アナニアはおびえていました。でも、おびえるのは当然ですね。サウロは狂暴な野獣でした。イエス様によって今はおとなしくさせられているとは言え、ライオンやトラやクマに近づいて行って、頭の上に手を置くことなど、おっかなくて出来るわけがありません。今はおとなしくしていても、頭の上に手を置いて触れた途端、野性が目覚めて、アナニアをかみ殺してしまうかもしれません。自分の身の安全を考えれば、そんな危ないことが出来るはずがありません。アナニアがおびえて躊躇したのは当然のことです。

b) サウロが回心するとは到底思えない
 もう一つの懸念は、サウロが回心するとは、到底思えないということです。イエス様の弟子たちを激しく迫害していたサウロがイエス様を信じるようになるとは、到底思えません。そんな者に殺されてしまうかもしれない危険をおかして近づき、頭の上に手を置くことなどできないと、普通は思いますよね。

 襲われる危険がなければ、ダメで元々、やるだけやってみようという気持ちで手を置くことも有り得るでしょう。でも、何しろ相手はライオンかトラかクマのような危険な猛獣です。

 アナニアは、できればサウロの所に行きたくないと思いました。でも、そんなアナニアにイエス様はおっしゃいました。

15 「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

 イエス様にこう言われて、アナニアはサウロの所に出掛けて行きました。17節、

17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

c) イエス様に全面的に従ったアナニア
 今回、この箇所について思いを巡らしていて、アナニアは十字架に向かったイエス様のことを思っていたかもしれないと思いました。アナニアが地上生涯のイエス様から直接教えを受けた弟子であったかどうかは分かりませんが、彼はイエス様が直接声を掛けるほどの弟子ですから、十字架を前にしたイエス様が悶え苦しんで天の父に祈っていたことを、他の弟子たちから当然聞いていたでしょう。マルコの福音書から引用します。マルコ14章36節(週報p.2)、

マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様の願いの「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」とは、「十字架に付かなくてもよいようにしてください」ということですね。イエス様は、できることなら十字架の苦しみを受けたくありませんでした。当然です。十字架刑はとても残酷な死刑で、長い時間苦しみながら少しずつ弱って行って死にます。そんな苦しみは誰も受けたくありません。イエス様でさえ、そうでした。ですから、イエス様は「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と天の父に祈りました。でも、イエス様は、付け加えました。「しかし、わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様は、「わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈りました。自分の望みを手放して、すべてを天の父に委ねました。

 アナニアも同じ思いだったのではないでしょうか?と言ったら、少し大袈裟かもしれません。でも、猛獣のサウロの頭の上に手を置いた途端、サウロの野性が再び目覚めてアナニアを襲うことが無いとは言えないでしょう。私たちは、この出来事の結末を知っていますから、そこまで心配する必要はないと思うかもしれませんが、当事者のアナニアにとっては、十字架に向かうイエス様と同じくらいの覚悟が必要だったのではないか、そう考えても、決して大袈裟ではないと思います。

 アナニアは覚悟を決めて、イエス様の命令に全面的に従ってサウロの頭の上に手を置きました。すると、18節から20節、

18 するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

 私たちは、このサウロの鮮やかな変わりっぷりに目を奪われがちだと思います。でも、このことのためには、アナニアの覚悟が必要であったことも忘れないようにしたいと思います。アナニアは猛獣に襲われるかもしれない危険を顧みず、イエス様がおっしゃる通りにサウルの所に出掛けて行って、自分に与えられた役目を果たしました。

③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く
 まず、アナニアの襷(たすき)がパウロに引き継がれたことを、分かち合いたいと思います。後にパウロは聖霊によって異邦人伝道に押し出されて行きます。まず、第一次伝道旅行ではアジア地区で異邦人伝道を行い、次いで第二次伝道旅行ではヨーロッパへと足を延ばして異邦人にイエス・キリストを宣べ伝えました。

 異邦人に伝道すれば、どんな危険に遭うか分かりません。実際、パウロが多くの苦難に遭ったことは使徒の働きに書かれていますね。また、異邦人がイエス様を信じて回心することも、ちょっと考えにくいことです。これも現実のことでした。パウロの伝道旅行では、イエス様を信じた人々もいましたが、数で言えば信じない人々のほうが遥かに多かったことでしょう。アナニアから襷を受け継いだパウロは、そういう中に進んで行きました。そして、この襷のリレーが二千年間もの間、続けられました。

 そして私たちにも、この襷が渡されました。まだイエス様を知らなかった頃の私自身のことを考えるなら、あの頃の私が後にイエス様を信じるようになるとは、到底考えられない、そんな者であったと思います。学生時代には、伝道して下さったアメリカ人の女性宣教師に冷たいことを言って突き放しました。その時の、その宣教師の先生の悲しそうな顔は、今でもハッキリと覚えています。でも、そんな私をイエス様が捕らえて下さり、アナニアを送って下さり、私は変えられました。

 皆さんのお一人お一人もそうでしょう。イエス様は神様から離れていた私たちの一人一人を捕らえて下さり、アナニアを送って下さいます。私たちのそれぞれにとってのアナニアも、私が回心するかどうか最初は半信半疑で近づいて来たかもしれません。イエス様がそのように促したのですね。そのようなアナニアがいたからこそ、私たちは変えられました。そして、今度は私たちがアナニアになるようにと、イエス様は私たちを促します。

おわりに
 10節に、イエス様がアナニアに「アナニアよ」と呼び掛けたことが書かれています。このように、イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで、話し掛けて下さいます。そう呼ばれたら私たちはアナニアのように、「主よ、ここにおります」と答えたいと思います。そうすれば、イエス様は具体的に何をすれば良いか教えて下さいます。

 伝道に決まったやり方はないでしょう。伝える私たちの側にも個性がありますし、伝えられる側の方々にも個性があります。その組み合わせによって最善の具体的な方法をイエス様は示して下さいますから、そのイエス様のことばに従いたいと思います。

 イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで下さるお方ですから、呼ばれたら「主よ、ここにおります」と答えてイエス様の指示を聞き、出掛けて行きたいと思います。
 しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。
コメント

ヨセフと共にいた神様(2023.1.19 祈り会)

2023-01-23 09:46:04 | 祈り会メッセージ
2023年1月19日祈り会説教
『ヨセフと共にいた神様』
【創世記37:5~11】

創世記37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

 きょうのタイトルは『ヨセフと共にいた神様』です。ヨセフは父のヤコブから、とても愛されていました。しかし、そのことで、兄たちからねたまれていました。さらに、先程ご一緒に読んだように、ヨセフが見た夢のことで兄たちは彼を憎むようになりました。そのことで、ヨセフはエジプトへ向かっている商人に売られてしまいました。

 そうして、ヨセフは苦難の中を通ることになりますが、ヨセフには、いつも神であるが共にいました。そうして、彼はエジプトでファラオに次ぐNo.2の地位に就くまでになります。それは、ヨセフと共にいたが、彼をNo.2にふさわしい者に育てて下さったからです。きょうは、がヨセフと共にいたことを、ご一緒に見て行きます。

 まず、先程ご一緒に読んだ、ヨセフが見た夢の話をした場面です。どんな夢を見たかと言うと、7節、

7 「見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」

 そして、もう一つは9節にあります。

9 「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました。」

 この二つの夢の出来事は、未来において確かに起きたことです。ヨセフがエジプトのNo.2になっていた時期、飢饉があってヤコブの一家は食べる物に困るようになりました。一方、エジプトではヨセフのファラオへの進言で豊作の7年に食糧を十分に備蓄していました。それで、兄たちはエジプトへ出掛けて行って、ヨセフに伏し拝んで、食糧を分けてもらえるように頼みました。

人間には未来のことは分かりませんが、はすべてのことをご存知です。ですから、ヨセフに夢を見させたのはでした。つまり、はヨセフがまだカナンで兄たちと一緒に暮らしていた時から、共にいて下さいました。

 そして、ヨセフが兄たちに捕らえられて、穴の中に投げ込まれた時にも、は共にいました。そこに、エジプトに向かうミディアン人の商人たちが通り掛りました。ヨセフが穴に投げ込まれたタイミングで商人が通り掛かるということだけで、すごい偶然ですね。しかも、商人はエジプトへ向かっていました。商人がエジプトでなく、もっと別の所に向かっていたら、将来、ヨセフと兄たちが再び会うことはなかったでしょう。これもまた、すごい偶然です。ですから、これは単なる偶然ではなく、もちろんが関わっていたことでしょう。はヨセフと共にいましたから、によって、この偶然の御業が為されました。

 そして、さらに偶然は続きます。37章36節です。

36 あのミディアン人たちは、エジプトでファラオの廷臣、侍従長ポティファルにヨセフを売った。

 ミディアン人の商人は、ヨセフをファラオの廷臣に売りました。もしヨセフがファラオとは直接の関係がない人物に売られていたら、将来ヨセフが、ファラオが見た夢の解き明かしをすることは無かったでしょう。ですから、ヨセフがファラオの廷臣に売られたことは、ものすごい偶然です。ここには、当然が関わっていました。

 そして、創世記の39章は、がヨセフと共にいたことを、はっきりと書いています。1節から4節までを、お読みします。ここに「一方、」と書かれていますが、手前の38章には、ヨセフの兄のユダのことが書かれているからです。39章の1節から4節、

創世記39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
2 がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
3 彼の主人は、が彼とともにおられ、が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。

 2節に、「がヨセフとともにおられた」と創世記ははっきりと書いています。そうして、4節にあるようにヨセフは主人の好意を得て、主人のそば近くで仕えるようになり、家の全財産を管理するようになりました。ヨセフはここで主人の家の財産管理の経験を積むことができたので、将来、エジプトのNo.2としてエジプトの全土を支配するようになりました。

 しかし、それはまだ先のことです。その前に、はさらにヨセフに試練を与えました。39章の20節から23節です。

20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
21 しかし、はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、が彼とともにおられ、彼が何をしても、がそれを成功させてくださったからである。

 ここにも、がヨセフと共におられたと書かれていますね。そうして、22節には、監獄の長が、すべての囚人をヨセフの手に委ね、そこで行われるすべてのことを管理するようになったと書かれています。主人の家で主人に仕えていた時は、家の財産の管理が中心でしたが、今度は囚人がヨセフに委ねられました。囚人たちは、心に傷を負った者や、もしかしたら無実の罪で監獄に入れられた者もいるかもしれません。或いはまた、一癖も二癖もある者もまた、いることでしょう。それらの囚人たちの上に立つことで、ヨセフはますます将来のNo.2になるための実力を養って行きました。この監獄にはどれくらいの数の囚人がいたかは分かりませんが、ファラオの周辺には大勢の人がいたことでしょうから、囚人の数も多かったのではないでしょうか。そのトップに立ったヨセフは、政治家としての実力も身に着けて行ったことでしょう。

 こうして、は、ヨセフがエジプトのNo.2の地位に就けるように、着々と準備を整えて行きました。このように、は初めからヨセフと共にいて、ヨセフを養い育てて、用いました。

 さてしかし、このことはヨセフに限ったことではないと思います。は私たちとも、共にいて下さいます。ヨセフが特別だったのは、預けられたタラントの額が大きかったということだけで、私たちにもタラントは預けられています。マタイの福音書でタラントを預けられた者たちは最高で5タラントでしたが、ヨセフはもっと、10タラント、或いは20タラントが預けられたと言えるのではないかなと思います。

 一方の私たちは、そんな莫大なタラントは預かっていませんが、神様は少なくとも1タラントは預けて下さっています。1タラントと言っても6千デナリですから、約6千万円です。これほどのタラントを神様は私たちの一人一人に預けて下さっていますから、私たちは地面を掘ってそれを埋めて隠すようなことはしないで、用いられる者たちとされたいと思います。主がヨセフを用いたように、私たちもまた、用いられる者とされたいと思います。一言、お祈りいたします。

2 がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
コメント

霊に燃え、主に仕えよ(2023.1.15 礼拝)

2023-01-16 07:22:27 | 礼拝メッセージ
2023年1月15日礼拝説教
『霊に燃え、主に仕えよ』
【使徒9:1~9】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは、「霊に燃え、主に仕えよ」です。週報のp.2に、この教会の会堂の2階の応接室の壁に掛かっている「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙の写真を載せました。



 これを書いたのは、本田弘慈先生です。本田先生は、特別集会で招かれた教会には、好んでこの「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙を書いて残して行かれたそうで、高津教会の2階にもありましたし、神学生の時に遣わされたいくつかの教会でも目にしました。或いはまた、インマヌエルの教団本部があるお茶の水のOCCビルの玄関を入った1階の壁には、もっと大きなサイズで書かれた「霊に燃え、主に仕えよ」の額が掛かっています。

 きょうは使徒の働き9章のパウロがイエス様と出会って回心した場面を見ながら、パウロが、霊に燃えて主に仕えた人であったことを分かち合いたいと思います。きょうの聖句は、ローマ人への手紙12章の10節と11節です。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい

 そして、説教の構成は、次の通りです。

 ①背景:ステパノに「律法を守っていない」と言われて怒る
 ②本題:a) 律法を偶像化して律法に仕えていたサウロ
     b) 一転してイエス・キリストに仕えたサウロ
     c) 人は元々、主人に仕えるように造られている
 ③適用:霊に燃え、真にお仕えすべきお方の主に仕えよう

①背景:ステパノに「律法を守っていない」と言われて怒る
 まず、背景の説明をします。先週は、ステパノがユダヤ人たちに捕らえられて裁判に掛けられた場面を取り上げました。簡単に振り返っておきます。

 ステパノが裁判の場で話したことは、使徒の働きの7章に記されています。この弁明は、大変に長いものです。彼はアブラハムのことから語り始め、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセについて語りました。さらにヨシュア、ダビデ、ソロモンにも言及しました。このアブラハムからソロモンに至る話はユダヤ人たちにはよく知られていたことでしたから、ステパノは批判されるようなことは何も述べていません。しかし、7章の51節から、ステパノは一転してユダヤ人たちを批判し始めました。7章51節と52節です。

使徒7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 ユダヤ人たちの先祖は、預言者たちを迫害して、残酷な方法で殺しました。そして、ステパノは、ユダヤ人たちが、先祖と同じように正しい方であるイエス・キリストを十字架に付けて殺したのだと言いました。そして53節、

53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 ステパノは、ユダヤ人たちが律法を守らなかったと言いました。このことばに、ユダヤ人たちは当然、怒りました。なぜなら当時のユダヤ人たちは律法を守っていたからです。それは、彼らの先祖が律法を守らなかったために、北王国と南王国が滅ぼされたからです。そうして北王国の民はアッシリアに、南王国の民はバビロンに捕囚として引かれて行きました。ですから、南王国の民がエルサレムへの帰還を許されて神殿を再建して以降は、律法を守っていました。特にパリサイ人たちは厳格に守っていました。それなのにステパノが、「あなたがたは…律法を…守らなかった」と言ったので、ユダヤ人たちは激怒してステパノを石で打ち殺しました。サウロもその場にいました。

 しかし、ユダヤ人たちは、やっぱりステパノの言った通り、律法を守っていなかったのですね。先週はそういう話をしました。彼らは、「隣人を愛しなさい」という重要な戒めを守っていませんでした。イエス様が安息日に病人を癒した時、ユダヤ人たちはそれを批判して、最後には十字架に付けて殺してしまいました。目の前に病気の人がいれば、たとえ安息日であっても癒すべきで、それが隣人を愛することだとイエス様は人々に示しました。しかしユダヤ人たちは、イエスは律法を守っていないと言って批判して、殺してしまいました。これは、「隣人を愛しなさい」という律法に違反しています。

 そして、彼らはステパノも石で打って殺してしまいました。ここには、隣人への愛がまったく見られません。

②本題:
a) 律法を偶像化して律法に仕えていたサウロ

 サウロ、後のパウロも、ユダヤ人たちと全く同じ考えで、ステパノが言ったことばに激怒していて、イエス様を信じたエルサレムの人々を率先して迫害していました。そして、エルサレムにとどまらずダマスコにまで出掛けて行くことにしました。使徒の働き9章1節と2節、

使徒9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 このサウロの行動も、隣人を愛することからは掛け離れていますね。エルサレムとダマスコでは、直線距離でも200km以上離れています。そんな遠い所まで出掛けて行って縛りあげてエルサレムまで引いて来ることにしたとは、すごい執念ですね。そんなサウロは、律法を偶像化して、律法を愛し、律法に仕えていたように見えます。主に仕えていたのではなくて、律法に仕えていたようです。

b) 一転してイエス・キリストに仕えたサウロ
 しかし、そこに突然イエス・キリストが現れました。3節から5節、

3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 イエス様は、圧倒的な力を持って、サウロの前に現れました。十字架に付いた時のイエス様は、まったく弱い人でした。そんな弱々しい、木にくくられて呪われて死んだ者が救い主であるはずがないと、ユダヤ人たち、そしてサウロはイエス様を信じる者たちを迫害しました。しかし、サウロの前に現れたイエス様は、十字架に付いた時の弱いイエス様ではなく、圧倒的な力を持つ、王の王であるイエス様でした。そうして、イエス様はサウロに言いました。6節、

6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」

 続いて7節から9節、

7 同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、 目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。

 そして、サウロの目はアナニアによって開かれました。この時のアナニアとサウロについては、来週ご一緒に見ることにします。

 さて、目が開かれたサウロは、今度は一転してイエス・キリストを宣べ伝えるようになりました。20節です。

20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

 さらに22節、

22 しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

c) 人は元々、主人に仕えるように造られている
 今回、使徒の働きの7章から9章までのサウロの出て来る箇所を読んでいて、「人は元々、主人に仕えるように神様によって造られている」と感じました。9月に台風15号で静岡が大きな被害を受けた時、被災地に多くのボランティアが入って困っている被災者を助けました。この様子を見て、人は元々、隣人を愛して助けるように神様によって造られているのだなと感じました。

 そして、今回、サウロの箇所を読んで、人は元々、主人に仕えるように神様によって造られているのだなと思いました。罪に汚れている間は正しくない主人に仕えることが多いですが、本当にお仕えすべきお方であるイエス・キリストに出会った時、人は生涯を掛けてイエス様にお仕えするようになるのだなと、サウロの姿を見て思いました。

 人は元々主人に仕えるように造られているということは、特に日本人の私たちにはよく分かるのではないでしょうか。

 今年のNHKの大河ドラマは『どうする家康』です。家康には彼に仕える家臣団がいました。そうして、家康に仕える家臣たちに支えられて家康は戦国時代を勝ち抜いて江戸に幕府を開きました。その家康も、形の上では天皇に仕えていました。家康に征夷大将軍の称号を与えたのは天皇だからです。そして、幕末の15代将軍の徳川慶喜の時には、形の上だけでなく、実際の力関係でも、天皇が将軍の上に立ちました。倒幕に動いた薩長連合などが天皇を担ぎ上げて慶喜を朝敵として徳川軍を賊軍とした時、慶喜は観念して天皇への恭順の意志を示して蟄居謹慎しました。そうして、山岡鉄舟や勝海舟らの尽力によって江戸城無血開城が実現しました。

 この後、日本は明治から昭和の第二次世界大戦での敗戦までは天皇を神格化して、天皇を神として崇めました。このような日本の歴史を見ても、人は元々、主人に仕えるように造られていることを強く感じます。

 イスラエルの歴史においても、サムエル記にそれを見ることができますね。週報p.2に記したように、イスラエルの長老たちはⅠサムエル8章5節で言いました。「…どうか今、…私たちをさばく王を立ててください」。これを聞いた主は怒りましたが、拒むことはせずに認めて、このように仰せられました。22節です(週報p.2)。

22 「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」

 イスラエル人が仕えるべき主君は天の神であり、人間の王ではありません。このことが分かっていないイスラエル人のことを主もサムエルも嘆き、怒りましたが、結局は認めました。どうして認めたんだろうと不思議に思いますが、やがての日に天から神の御子を遣わして、イエス・キリストこそ王の王であることを分からせるための、遠大なご計画だったのかもしれません。人間の王様では結局はイスラエルの国を治めることはできずに失敗して滅ぼされてしまい、そのことを通して、まことの王の王はイエス・キリストであることを悟らせるためであったのかもしれません。

 いずれにしても、サムエル記の時代にイスラエル人たちが人間の王を欲したことは、それが罪による過ちであったとしても、人は元々、主人に仕えるように造られていることを、ここからも見て取ることができると思います。

③適用:霊に燃え、真に仕えるべきお方の主に仕えよう
 週報のp.2にコピーを載せましたが、1/10付の静岡新聞の読者欄の「ひろば」に、「心癒すハンドベルの音色」という投稿が載りました。お読みします。



 この読者の声の切り抜きは英和のホームページにも掲載されていました。英和ハンドベル部の生徒さんたちと顧問の先生は、とても励まされたことと思います。この投稿者が訪れた演奏会の会場は、田町の会場ではなかったかもしれませんが、私たちもまた、とても励まされます。こういう形で市民の方々のお役に立てたことを、とてもうれしく思います。この投稿を読むなら、この演奏会の場では聖霊が働いていたことが伝わって来て、とても励まされます。

 きょうの聖句であるローマ人への手紙12章の10節と11節でパウロは書きました。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 この読者欄への投稿者の方は、「中高生に感謝の気持ちでいっぱいである」、「本当に頭の下がる思いだった」と書いています。49歳の方ですが、自分より年下の中高生たちに対して頭の下がる思いがして、「相手をすぐれた者として尊敬し」(ローマ12:10)ました。そうして、「大人も人のために役立つように生きることが求められている気がした」と書いています。人のために役立つことをすることは、すなわち人を造った主のために働くことであり、主に仕えるということです。このような思いが投稿者に与えられたのは、まさに聖霊がここで働いていたからでしょう。聖霊は、イエス様を信じる者にも未だ信じていない者にも等しく働き掛けます。そうして、善い行いをするように導きます。

 この聖霊は、天の父と御子イエス・キリストが地上に遣わして下さいます。この聖霊を遣わすイエス様こそが、私たちが遣えるべき主人です。霊に燃えて、この正しいお方にお仕えすることで、私たちは互いに愛し合い、尊敬し合うようになります。

 争い事が絶えず、戦争が無くならないのは、この正しいお方に仕えるのでなく、間違った人や物に仕えてしまっているからです。まず私たちが率先して、正しいお方にお仕えしたいと思います。人は元々、主人に仕えるように造られています。世の人々が罪によって間違った人や物に仕えることがないよう、まずは私たちが霊に燃え、主にお仕えしたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
コメント

迫害者サウロの誤った信念(2023.1.8 礼拝)

2023-01-09 09:53:15 | 礼拝メッセージ
2023年1月8日礼拝メッセージ
『迫害者サウロの誤った信念』
【使徒7:51~8:3】

はじめに
 先週の元旦礼拝でも冒頭で話しましたが、昨年の2022年は、神様どうしてですか?と問いたくなるような年でした。3年前から始まったコロナ禍は、昨年も波を繰り返し、いつになったら終わるのか、見通しが立ちません。昨年の2月に始まったウクライナでの戦争も年内には終わらずに年を越し、いつまで続くのか終わりが見えません。温暖化による大雨の被害も昨年は遂に私たちが住む静岡市にまで及びました。停電・断水の被害は短期間で治まりましたが、6千軒以上のお宅が床上浸水の被害に遭って1階に置いてあった家財のほとんどを失いました。床下浸水のお宅でも、倉庫や物置は地面とほぼ同じ高さに床がありますから、多くの物が水浸しになって使えなくなりましたし、地域一帯が泥だらけになりました。土砂崩れで復旧の目途が立っていない所もあります。

 神様はどうして、こういう状況を許しておられるのだろうか、「神様、どうしてですか?」と問いたくなるような悲惨な状況です。でも、「神様、どうしてですか?」と問うとしたら、それは私たちが神様のことをまだまだ良く知らないからだろうということを、先週は話しました。それゆえ、今年はもっと神様のことを深く知る年となることを願い、エペソ人への手紙1章17節を標語聖句としました。お読みします。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えて下さいますように。」

 私たちは神を知るための知恵と啓示の御霊を天の父が与えて下さるように願い、祈りたいと思います。そして実際的にはパウロの姿を見ながら、パウロを通して神様への理解を深めたいと願っています。パウロは、人としての肉のイエス様とは出会っていませんが、聖霊を通してイエス様と霊的に豊かに交わり、霊性を深めた人です。21世紀の現代を生きる私たちも人としての肉のイエス様にお会いしたことはありませんが、イエス様を信じることで聖霊を受けて、聖霊を通してイエス様と霊的に交わる恵みに与っています。ですから、パウロを手本としてパウロに倣い、私たちもイエス様と霊的に豊かな交わりを持たせていただくことで、神様をもっと深く知る者になりたいと思います。

 さて、きょうの聖書箇所はパウロがまだイエス様と出会う前の頃の記事です。この時のパウロはサウロと呼ばれていました。きょうの箇所はあまり恵まれない箇所です。それゆえ、今日の中心聖句はマルコの福音書2章22節のイエス様のことばを中心聖句としました。

マルコ2:22 「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 サウロは自分の信仰が正しいという信念を持って、イエス様を信じた者たちを激しく迫害しました。サウロの心の内は古い皮袋のままで新しくなっていませんでしたから、彼の信念は誤っていました。きょうはそのことを分かち合ってから、来週以降に回心したサウロについて、分かち合って行くことにしたいと思います。

 きょうは次のような構成で話を進めて行きます。

 ①背景:ステパノを捕らえて裁判に掛けたユダヤ人たち
 ②本題:a) 不信仰な先祖と同じと言われて怒ったサウロ
     b) 自分たちは先祖とは違うと信じていたサウロ
     c) 古い皮袋のままで隣人を愛していないサウロ
 ③適用:古い皮袋を手放し、新しい皮袋で神を一から知る

①背景:ステパノを捕らえて裁判に掛けたユダヤ人たち
 きょうの聖書箇所は、使徒の働きの7章から8章に掛けての、ステパノが迫害に遭ってユダヤ人たちに石打ちで殺された場面です。最初のパートでは、きょうの箇所の前にあった出来事を簡単に説明しておきます。

 ステパノは、ペンテコステの日に誕生した初代教会のメンバーで、御霊と知恵に満ちた評判の良い人でした。教会ではペテロやヨハネなどの十二弟子は「祈りとみことば」に専念できるようにと、十二弟子以外から御霊と知恵に満ちた評判の良い人7名を選んで教会の運営に当たってもらうことにしました。ステパノはその7名の中の一人でした。

 ステパノの働きは教会の中だけでなく外にも向かって行き、弟子たちの数はますます増えて行きましたが、教会の成長を苦々しく思っていたユダヤ人たちが、ステパノを捕らえて裁判に掛けました。

 使徒の働き7章には、この裁判の場でステパノが語ったことばが記されています。この裁判の場(最高法院)を取り仕切っていたのは大祭司です。7章は大祭司のことばから始まり、次いでステパノが語り始めます。7章の1節から3節までをお読みします。

使徒7:1 大祭司は、「そのとおりなのか」と尋ねた。
2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、
3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。

 こうして、ステパノはアブラハムのことから語り始め、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセについて語りました。さらにヨシュア、ダビデ、ソロモンにも言及しました。きょうの聖書箇所は7章の51節からですが、その手前の47節から50節まではソロモンのことです。

 2節のアブラハムから50節のソロモンに至るまで、ステパノは裁判に掛けられるようなことは何一つ語っていません。この場にいた者たちは、ただ黙ってステパノのことばを聞くしかありませんでした。しかし、51節からステパノは一転して、自分を裁判に掛けたユダヤ人たちを批判し始めました。2番目のパートに移って、きょうの本題を見て行きましょう。

②本題:
a) 不信仰な先祖と同じと言われて怒ったサウロ
 この日、サウロがステパノのことばを直接聞くことができる距離にいたのかどうかは分かりません。しかし、いずれにしても、サウロは裁判の場のユダヤ人と同じ考えを持っていましたから、このパートの表題は、「a) 不信仰な先祖と同じと言われて怒ったサウロ」としました。彼らは、51節からのステパノのことばを聞いて、とても怒りました。51節から53節までを、お読みします。

51 「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」

 51節でステパノは、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです」とユダヤ人たちに言いました。つまり、イエス様を十字架で殺したユダヤ人たちは、不信仰の罪で滅ぼされた北王国と南王国の民と同じ不信仰の罪に陥っているとステパノは、彼らに言いました。北王国の民も南王国の民も、神様のことばを伝えた預言者たちを殺してしまい、神様に逆らい続けました。この不信仰の罪によって北王国も南王国も滅ぼされて、人々は捕囚として引かれて行きました。この不信仰な民と、イエス様を十字架で殺したユダヤ人たちとは同じだとステパノは言いました。

b) 自分たちは先祖とは違うと信じていたサウロ
 しかしユダヤ人たちは、自分たちは先祖とは違うと信じていましたから、当然ステパノのことばに怒りました。ユダヤ人たち、特にパリサイ人たちは厳格に律法を守っていました。先祖たちは律法を守らなかったために、滅ぼされました。そうして、アッシリアとバビロンへ捕囚として引かれて行きました。

 このような経緯から、ペルシアのキュロス王の時代に神殿の再建のためにエルサレムへの帰還が許されてからのユダヤ人たちは、律法を守るようになりました。先祖たちは律法を守らなかったから主の怒りに触れて滅ぼされてしまったという思いが強くありましたから、エルサレムに帰還してからのユダヤ人たちは律法をしっかりと守り、自分たちは先祖たちとはぜんぜん違うと思っていたことでしょう。それなのに、ステパノから「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」と言われましたから、激しく怒りました。

 サウロも、怒ったユダヤ人たちとまったく同じ考えを持っていましたから、ステパノへの石打ちの現場にいて、上着の番をしました。58節です。

58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。

 そうして、ステパノは死にました。59節と60節、

59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

 そして、ユダヤ人たちの怒りはステパノが死んだだけでは治まりませんでした。むしろ、怒りの火に油が注がれる形となりました。サウロも同様です。8章の1節から3節をお読みします。

使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

c) 古い皮袋のままで隣人を愛していないサウロ
 ここで、なぜステパノがユダヤ人たちに対して、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです」と言ったのかを考えてみましょう。ユダヤ人たちは先祖たちとは違って律法を守っていたのに、ステパノは「あなたがたは…律法を受けたのに、それを守らなかった」と言いました。ユダヤ人たちとステパノとの間で、考え方の違いがありました。何が違っていたのでしょうか?

 この激しい迫害の様子から見えて来ることは、ユダヤ人たちが隣人を愛していなかったということです。律法は「隣人を愛しなさい」と戒めています。昨年の11月の子供祝福礼拝では、「しんせつなサマリア人」という絵本を読んで、ルカの福音書の「善きサマリア人」のたとえを分かち合いましたね。石打ちの刑でステパノを殺したユダヤ人たちには、隣人への愛がまったく見られません。

 マタイ1章には、イエス様の父親のヨセフが、婚約者のマリアが石打ちの刑に遭わないように、ひそかに離縁することを考えていました。婚約している女性が婚約者以外の男性の子を身ごもったなら、石打ちの刑に値するからです。ヨセフはこのことを何とか回避したいと願いました。マタイはヨセフのことを「正しい人」であったと書きましたから、これが隣人を愛する人の正しい考え方なのですね。律法を厳格に適用して石打ちにすることは必ずしも正しいことではありません。

 律法を厳格に守っていたパリサイ人は、働いてはならない安息日に病人を癒したイエス様を批判しました。しかし、弱っている人、困っている人を見掛けた時に、その日が安息日だからという理由で助けないとしたら、それは隣人を愛しなさいという律法に違反することになります。

 イエス様は「山上の説教」で「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(マタイ7:1)とおっしゃっています。律法をあまりに厳格に適用して人をさばくなら、隣人を愛していない罪で逆に神様からさばかれることになりますよ、とイエス様はおっしゃっているように思います。

 ステパノは、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」とユダヤ人たちに言いましたが、聖霊に逆らうとどうなるでしょうか?イエス様はおっしゃいました。

マルコ 3:28 「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

 後にパウロはガラテヤ人の手紙に書きました。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 人を裁いて石打ちにするような者には愛も喜びも平安もありません。寛容も親切も善意も誠実も柔和も自制もありませんから、御霊の実を一切結んでいません。それは聖霊に逆らう者であり、聖霊を冒瀆する者であり、永遠に赦されずに永遠の罪に定められる者なのでしょう。

 さらに聖書を引用するなら、イエス様はこのようにもおっしゃっています。きょうの聖句のマルコ2章22節です。

マルコ2:22 「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 新しいぶどう酒とは、聖霊のことでしょう。イエス様を信じる者には誰でも聖霊が注がれるようになったペンテコステの日以降は、新しいぶどう酒である聖霊によって御霊の実を結んで、人を石打ちにして殺すような古い皮袋は手放さなければなりません。聖霊が誰にでも注がれるわけではなかった旧約の時代においては、それは仕方のないことだったかもしれませんが、イエス様が十字架で死なれて復活し、聖霊を天から遣わすようになったペンテコステの日以降は、互いにさばき合うことは手放して、互いに赦し合い、互いに愛し合うことが神の御心に適ったことです。

③適用:古い皮袋を手放し、新しい皮袋で神を一から知る
 最後に、私たちはどうすべきかを分かち合いたいと思います。

 古い皮袋の旧約の時代においては、人間が人間をさばいていました。そうして、ユダヤ人たちはイエス様をさばいて十字架に付けて殺しました。さらに、それから何年もしないうちに、ユダヤ人たちはステパノをさばいて石打ちで殺しました。古い皮袋の考え方を適用して、これが正しいことだと信じていました。

 しかし、聖霊が注がれるようになった新しい皮袋の新約の時代においては、私たちは御霊の実を結んで、互いにさばき合うのではなく、互いに赦し合い、互いに愛し合うべきことが勧められています。古い皮袋を手放して、新しい皮袋を心の内に備えるなら、御霊の導きによって、神様のことを一から新しく知ることができます。

 来週開く予定の使徒の働き9章で迫害者のサウロは、ダマスコに向かう途上でイエス様と出会って強制的に古い皮袋が新しい皮袋に替えられます。そうして、後に多くの手紙を教会宛てに、また個人宛てに書いて、それらが新約聖書に収められて21世紀の現代の私たちにも大切なことが伝えられました。

 パウロは古い皮袋を手放したことで、神様を深く知ることができました。私たちもまた、古い皮袋を手放して、新しい皮袋を身に着けて、神様のことを一から知りたいと思います。お祈りいたしましょう。

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」
コメント

イエスとヤコブとヨセフ(2023.1.5 祈り会)

2023-01-09 09:37:33 | 祈り会メッセージ
2022年1月5日祈り会説教
『イエスとヤコブとヨセフ』
【前半 マタイ:8:23~27】

マタイ8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

 祈り会では昨年の8月からは藤本満先生の『祈る人びと』を参考にしながらアブラハム、ハガル、イサク、ヤコブの信仰を見て来ました。12月のアドベントの期間中はイザヤ書を開いたので、今月からまた創世記に戻って、きょうからはヤコブの息子のヨセフの箇所を開きたいと思います。その前に、きょうの前半では福音書のイエス様の記事を開くことにしました。この、イエス様と弟子たちが舟に乗った時に嵐に遭った記事は、マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書に書かれていますが、きょうはマタイです。8章23節と24節、

23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。

 この湖の嵐の記事を開いたのは、聖書を読む時には全体を意識しながら読むことを心掛けたい、その譬えとしてちょうど良いと思ったからです。きょうの後半では創世記のヨセフの記事を開きますが、私たちはヨセフの記事ではヨセフだけに注目し、ヤコブの記事ではヤコブだけに注目しがちです。説教の時間は限られていて短い時間内に全体を取り上げることはできないので仕方のない面もありますが、アブラハムの時はアブラハムだけ、イサクの時はイサクだけに注目するという風に断片的にしか見ていないなら、聖書をバラバラに理解することになって、それでは心の平安がなかなか得られないだろうと思います。

 聖書を断片的に分解して読むのは、言わば、嵐の湖で波風に翻弄される小さな舟の中の弟子たちのようなものです。小さな舟の大きさは波の長さ(波の一つの山から次の山までの長さ)より短いか同程度しかありませんから、波の影響をもろに受けてしまいます。しかし、豪華客船や石油のタンカーのように300メートル以上あるような大型の船であるなら、揺れはずっと少ないことでしょう(横幅は100メートルもないでしょうから、多少は揺れるでしょうが)。この揺れが少ない船がイエス様です。

 イエス様は黙示録22章13節にあるように、アルファでありオメガであるお方です。つまり、最初であり、最後である、初めであり、終わりであるお方です。天地創造の初めからいて、終わりの時、そして新天新地の創造の時までおられるお方です。聖書を断片的にしか読まないと、このアルファでありオメガであるお方の全貌がなかなか見えて来ませんが、短い箇所でも常に前後のつながりを意識しながら読むことで、全体像が段々と見えて来ます。聖書通読が推奨されるのは、この全体像が分かるようになるためです。

 神様が天地を創造した時にはすべてが「非常に良かった」のですが、アダムとエバが食べてはならない木の実を食べてから罪が入り、人々の多くが神様に背を向けて歩むようになりました。そこで神様はノアを立ててノアの家族と一つがいの動物たち以外は皆、洪水で流してしまって、もう一度やり直させることにしましたが、バベルの塔の建設によって、またしても人々は神様から離れてしまいました。それでアブラハムを立てて改めてやり直させることにしました。モーセを立てて、モーセを通して律法を与えて、人々が神様と共に歩むことができるようにするためのガイドラインが与えられましたが、またしても人々は神様から離れて行きました。

 それゆえ遂に最後の手段として一人子のイエス様をこの世に遣わして、十字架に付けました。そうして、神様に背を向けた私たちの罪が赦されて、今は新天新地の創造へと向かっています。大きな船であるイエス様はいつも私たちと共にいて下さり、私たちは新天新地へと導かれています。この大きな船の中にいるなら、日常生活の嵐に多少は翻弄されることがあっても、ペテロたちのようにあわてふためくことなく、日々を過ごすことができます。

 ですから、祈祷会や礼拝の説教で開く箇所は時間の関係で短くならざるを得ませんが、常に前後のつながりを意識して、豪華客船のように大きな船であるイエス様と共に日々を歩んで行きたいと思います。

【後半 創世記37:1~4】

創世記37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。

 昨年、ヤコブまでを見て、今年からはヨセフを見ると最初に話しましたが、きょうの段階ではまだヨセフよりもヤコブに注目します。ヨセフだけを断片的に見るのでなくて、ヨセフの前のヤコブも見ることで、全体とのつながりを意識できるようにしたいと思います。

 3節に、「イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた」とあります。イスラエルとは、ヤコブのことです。そして、このことで兄たちはヨセフを憎むようになりました。4節です。

4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。

 このヤコブのヨセフへの偏愛(偏った愛)は、罪と言って良いでしょう。兄たちを非常に不愉快にして、家庭の不和を招きました。この箇所を見ると、人間とはつくづく罪から離れられない者たちであることを、強く感じます。ヤコブは神の祝福を強く欲した人でした。ですから、神様に背を向けている者たちが多い旧約聖書の人物の中では、良い信仰を持っていたほうの人物であったと思います。そうして、神様からも祝福されていました。そんなヤコブでも、こういう偏愛という過ちを犯していました。

 ヤコブがヨセフを愛していたのは、ヤコブが年を取ってからヨセフが生まれたからであると3節は書いています。しかし、それだけではないでしょう。ヨセフはラケルの子でした。ヤコブの伯父のラバンはヤコブにレアとラケルの姉妹を妻として与えました。このレアとラケルの姉妹のうち、ヤコブが愛していたのは、妹のラケルのほうでした。それゆえ、レアが生んだ子たちや女奴隷たちが生んだ子たち以上に、ラケルが生んだ子であるヨセフを愛していたのでしょう。

 また、この37章では、ラケルは既に死んでいました。そのことが、余計にヨセフへの偏愛を招いたのではないかと想像します。ラケルが死んだことは35章に書かれています。35章の16節から20節、

創世記35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。
20 ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている。

 ラケルが死んだ時のヤコブの悲しみがいかばかりであったか、ここには書かれていません。どうしてなんでしょうか?創世記は、アブラハムの妻のサラが亡くなった時のアブラハムの悲しみを23章に書いています。23章の1節と2節、

創世記23:1 サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。
2 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。

 このあと、アブラハムはサラを墓にするための場所を買い求めて、サラを葬ります。この場面からは、アブラハムがサラをいかに深く愛し、彼女の死を悲しんでいたかが、よく伝わって来ます。そして、ヤコブのラケルへの愛もまた。とても深いものでした。ヤコブがもっと若かった時、ヤコブは姉のレアよりも妹のラケルを愛していたことを創世記の記者は何度も何度も書いています。それほど愛していたラケルを失ったヤコブの悲しみは、創世記の記者も書き表せないぐらいの悲しみだったのかなと思います。ラケルは病気で段々と弱って行ったのではなく、難産による死ですから、わずかの期間で亡くなりました。まさに湖の大嵐に遭ったような激しい動揺を伴う深い悲しみであったことでしょう。きっと書き表せないぐらいの悲しみだったのでしょう。

 そして、ヤコブはヨセフを偏愛したことで、このヨセフをも失います。兄たちがヨセフをエジプトへ向かう商人に奴隷として売ったからでしたが、彼らは父のヤコブにはヨセフが獣に襲われて死んだように細工をしました。その箇所をお読みします。37章の31節から35節です。

創世記37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。
32 そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
33 父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」
34 ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
35 彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。

 ヤコブの人生は、このように湖の嵐に翻弄される小舟の中で泣き叫ぶ弟子たちのような出来事の連続でした。それでも、ヤコブは年老いるまで生涯を全うしました。それは、主がいつも共にいて下さったからでしょう。それは、小舟の中で弟子たちと共にいたイエス様のようです。

 でも、イエス様は最初に話したように、アルファでありオメガであるお方です。最初であり、最後であるお方、初めであり、終わりであるお方ですから、豪華客船や石油のタンカーよりも、もっと安定しているお方です。聖書を読む時、個々の場面だけに注目すると、イエス様は小舟に一緒に乗っているお方だと思いがちかもしれませんが、イエス様はもっと大きな存在であることを覚えたいと思います。

 このことを覚えながら、来週以降、ヨセフについて、さらに見て行きたいと思います。お祈りします。

マタイ8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
コメント

霊的な世界で自分は成人しつつあるか(2023.1.1 元旦聖餐式礼拝)

2023-01-02 12:14:43 | 礼拝メッセージ
2023年1月1日元旦聖餐式礼拝メッセージ
『霊的な世界で自分は成人しつつあるか』
【エペソ1:15~19】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 今年はどういう年になることを願い、どのように祈るべきかでしょうか?そのことを分かち合うために、まずは去年がどんな年であったかを振り返ってみたいと思います。

 去年の大きな出来事と言えば、世界においては何と言ってもロシアのウクライナへの軍事侵攻でしょう。多くの人々が犠牲になり、また国土が荒廃しました。未だ停戦の見通しはなく、この冬は停電によって凍えている方々も多いと報じられています。そして静岡においては台風15号による甚大な被害がありました。教会を含めて皆さんのお宅の多くが約12時間の停電の被害に遭ったと思います。でもそれは半日程度のことで済み、清水区の断水も1週間以内でほぼ復旧しました。これらももちろん大変なことでしたが、もっと大変だったのは土砂崩れの被害に遭ったお宅と河川の氾濫による浸水の被害に遭ったお宅で、浸水は床上浸水が約6千軒、床下浸水を含めると約1万軒が被害に遭ったということです。災害支援のボランティアで葵区と清水区のお宅約30軒にお邪魔しましたが、床上浸水の被害にあったお宅では1階に置いてあった家財のほとんどを失った方が多くおられました。エアコンも室外機が水没して使えなくなりました。この寒い冬に行政やNPO、ボランティアによる災害支援の手が届かず十分な暖房器具がなくて震えているお宅が、まだあるかもしれず、心配されます。

 コロナ禍も、昨年は第5波、第6波、第7波、そして現在進行中の第8波があって、いまだ収束の見通しが立ちません。

 このような、ひどい状況を見る時、神様はどうしてこのような状況を許しておられるのかなどと、つい思ってしまいそうになります。神様どうしてですか?と問いたくなる状況が続いています。でも、そう問うとしたら、たぶんそれは私たちが神様のことを分かっていないからだろうと思います。それゆえ、私たちはもっともっと神様のことを良く知る必要があると思わされます。

 そういう中で、今年はエペソ人への手紙1章17節を示されています(額の中に収まる字数にするために、少し短くしてあります)。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように。」(エペソ1:17)

 私たちは天の父に、神様を知るための知恵と啓示の御霊を祈り求めたいと思います。きょうは、このことのために今年話したいと願っていることの概略を話します。きょうの説教の構成は次の通りです(週報p.2)。
 
 ①今年の目標:パウロの信仰・成長を知ることで神様を知る
 ②関連する聖句:a) 元旦にⅠコリ2章から語った蔦田二雄師
         b) 霊的な世界で自分は成人しつつあるか?
         c) 後の者が先、先の者が後になる霊的な世界
 ③私はどうする?:子供のような素直さと好奇心で神を知る

①今年の目標:パウロの信仰・成長を知ることで神様を知る
 2019年に私が着任してからの礼拝説教では、旧約聖書と福音書を開くことが多くて、パウロの手紙を開くことは、あまり多くなかったように思います。パウロの手紙の聖句を断片的に取り上げることはよくありました。その代表は御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)に関するガラテヤ5章の引用だと思いますが、パウロの手紙について、まとまった時間を取ってじっくりと味わうことはあまりして来なかったように思います。

 しかし、「神様を知る」という観点から考えてみるなら、私たちにとってパウロほど良いお手本はないように思います。なぜならパウロは人としての肉のイエス様には会っていませんが、聖霊を通してイエス様と豊かな交わりを持ち、霊的な成長を遂げた人だからです。このパウロに私たちも倣うべきだろうと思います。霊的な成長はパウロでさえ一朝一夕にできたものではないはずです。イエス様に出会ってすぐにめざましい働きができるようになったわけではありません。バルナバがパウロの故郷のタルソに彼を捜しに行くまでの約17年間は、それほど大きな働きはしていないようです。もし、大きな働きをしていれば、ルカが使徒の働きにちゃんと書いたはずです。でもルカは、パウロがダマスコでイエス様と出会った頃のことを書いた後は、バルナバがタルソへ彼を捜しに行くまでの約17年間のことを書いていません。

 また、パウロの手紙にしても、パウロの手紙の中では一番古いとされるガラテヤ人への手紙は非常に厳しい口調で書かれていて、時に「ああ、愚かなガラテヤ人」などとパウロの激しさが直情的に書かれていたりして、柔和さが感じられません。一方、ガラテヤ書から10年以上を経て書かれたエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙などのいわゆる獄中書簡では、もっと深みのある成熟した信仰を持つ、御霊の実を多く結んだパウロの姿を見ることができます。今年の礼拝説教では、そういうパウロの成長を通して私たちも神様のことを深く知ることができるようになれば幸いである、と願っています。パウロは、彼の手紙の中で自身が書いているように、様々な困難に苦しみます。そういう苦難の中でパウロの信仰は深められて行きました。それらのことを礼拝で分かち合うことができればと思います。

②関連する聖句:
a) 元旦にⅠコリ2章から元旦に語った蔦田二雄師

 さて、きょうの聖書交読は詩篇ではなく、第一コリント2章を交代で読みました。ここは『岩から出る蜜』の蔦田二雄師が元旦に開いた箇所です(週報p.3)。週報では『岩から出る蜜』を、いつもは短く5行にまとめていますが、元旦の今日だけは特別に長く引用することにしました。

 元旦。昔の聖徒たちがこの朝、どのような語り掛けを神から受けたであろうか、と考えることは非常に興味深いことである。なぜこのような御声に触れたのかを黙想することは、私たちの霊的な交わりを深くするのに大いなる助けとなる。
 聖書のことばは常に新鮮である。神のことばは常に新しい業を続けるいのちのことばである。肉体的年齢もさることながら、霊的な世界でどのくらいの年齢に達したかを考えなければならない。自分は成人(新改訳2017年版は「成熟」)しつつあるだろうか。聖霊との干渉が深められること、これが成長の秘儀である。
 9節に「神は、神を愛する者たちに」、「人の心に浮かんだことがないものを備えてくださる」とある。神を愛する者に備えて下さるお方に目をとめ、安んじて踏み出そう。(抜粋)

 パウロは第一コリント2章の6節と7節(週報p.2)で、次のように書いています。

Ⅰコリント2:6 しかし私たちは、成熟した人たち(新改訳初版では「成人」)の間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

 パウロは、私たちが語るのは「神の知恵」であって、「この世の知恵」ではないと書いています。今年、私たちは「神の知恵」を知ることで、神様をもっと深く知る者となりたいと思います。

 ただ、これはとても難しいことであり、パウロもコリントの人たちには3章2節と3節で次のように書いています(週報p.2)。

Ⅰコリント3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

 コリントの教会の人々の霊的な状態はまだまだ赤ちゃんレベルであったので、お乳を飲ませたとパウロは書いています。そして、この手紙でパウロはコリントの教会の人々が霊的に成長するように、励まします。霊的な成長は一朝一夕に達成できるものではありませんから、私たちのこれからの一年が成長できる年であればと願います。

b) 霊的な世界で自分は成人しつつあるか?
 『岩から出る蜜』によれば、蔦田先生は元旦の日に第一コリント2章を引用しながら、「肉体的年齢もさることながら、霊的な世界でどのくらいの年齢に達したかを考えなければならない。自分は成人しつつあるだろうか。」と語りました。肉体的年齢に言及しているのは、戦前生まれの先生が数え年の年齢に親しんでいたからであろうと想像します。数え年では元旦に皆が一斉に一つ年を取ります。それが肉体的年齢です。これに対して、霊的な世界での年齢はどうですか?と蔦田先生は問います。成人に達していますか?と問います。「成人」ということばが使われているのは、新改訳の初版が使われていたからでしょう。私たちは果たして霊的に大人になれているだろうか?ということが問われています。そしてさらに、そのためには「聖霊との干渉が深められること、これが成長の秘儀である」と付け加えています。

 霊的に成長するためには、聖霊の助けが必要です。それは、いつも引用しているヨハネ14:26(週報p.2)のイエス様のことばからも分かりますね。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 なぜ聖霊の助けが必要なのか?それは、霊的な世界のことは、この世の常識によっては全く理解できないからです。

c) 後の者が先、先の者が後になる霊的な世界
 イエス様はマタイ・マルコ・ルカの福音書で、「後の者が先になり、先の者が後になります」とおっしゃいました。例えばマタイでは、「ぶどう園の主人のたとえ」の20章で言っています(週報p.2)。

マタイ20:16 後の者が先になり、先の者が後になります。

 マタイ20章では、ぶどう園で朝早くから働いた者たちが、夕方から少し働いただけの者たちと同じ1デナリしかもらえなかったので不平不満をぶどう園の主人に言いました。しかし、主人は言いました。「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。後の者が先になり、先の者が後になります。」この主人のことばは世の常識とは反していますから、朝早くから働いた者たちが不平を言うのも分かる気がします。でも、これが霊的な世界です。このたとえ話には、とても考えさせられます。

 たとえば、これはクリスチャンにも当てはめることができると思います。私たちは日頃は世俗化した世間の中で生きていますから、知らず知らずのうちに世の常識で聖書のことばを理解しようとしてしまいます。でも、それでは聖書のことばを理解できず、神様を深く知ることはできません。それゆえ、いつも新鮮な聖書のことばに触れている必要があります。蔦田先生も「聖書のことばは常に新鮮である。神のことばは常に新しい業を続けるいのちのことばである。」と言っておられます。換気をしないまま石油ストーブを使い続けると新鮮な空気が失われて、最悪の場合は命を失います。聖書のことばは心を温めるのに大いに有効ですが、換気をしないでいると、かえって信仰の妨げにもなりかねません。そうして生き生きした信仰を失うなら、後に回されて、生き生きとした信仰を持ったばかりの後の者が先に来るようになります。ですから、私たちはいつも聖霊との干渉が深められている必要があります。

③私はどうする?:子供のような素直さと好奇心で神を知る
 これらのことから、霊的な世界で成熟して成人になることとは、むしろ子供のようになり、いつも新鮮な気持ちで素直さと好奇心を持って神を知るようになることが勧められているのではないでしょうか。子供はいつも新しいことに興味を持ち、いろいろなことを知りたがります。私たちも霊的な世界で大人になるためには、子供のようにならなければならないでしょう。神様の教えの多くは逆説的ですが、これもまた、その例であると言えるでしょう。大人になるためには子供にならなければなりません。

 霊的な世界で大人になるには、私たちはこの世で身に着けた常識を一旦手放して、子供のように旺盛な好奇心で神様を知ろうとする姿勢が必要とされていると思います。これは一見すると難しいことのように思えます。でも、蔦田先生はおっしゃいました。「『神は、神を愛する者たちに』、『人の心に浮かんだことがないものを備えてくださる』とある。神を愛する者に備えて下さるお方に目をとめ、安んじて踏み出そう。」「後の者が先になり、先の者が後になる」というようなことは、「人の心に浮かんだことがないもの」の代表例でしょう。でも、神様を愛する者にはそういうものを備えて下さるとパウロは教えてくれていますから、私たちは心配せずに、すべてを神様にお委ねして、この新年、神様をもっと深く知るための新たな一歩を踏み出したいと思います。

おわりに
 これから聖餐式を行います。聖餐式は、イエス様が十字架に向かう前に弟子たちと最後の晩餐を行ったことを覚えて行います。十字架によって、すべての物事は逆転しました。死がいのちになり、弱い者が強くなり、後からの異邦人が先にいたユダヤ人の先を行くようになりました。

 このことは、イエス様がすべてを手放すことで成就しました。クリスマスの日にイエス様は神であることを手放して、人として、この世に来て下さいました。そしてさらにすべてを手放して十字架に付いて、すべての物事を逆転させるという神の御業を成就させました。このことによって重大な罪人であった私たちが、豊かに祝福されるようになりました。これもまた素晴らしい逆転です。

 ですから、私たちはイエス様に倣って、この世の常識をすべて一旦手放して、すべてを神様にお委ねしたいと思います。このことを覚えながら、聖餐式に臨みましょう。お祈りいたします。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように。」(エペソ1:17)
コメント