2023年1月22日礼拝説教
『アナニアの襷(たすき)リレー』
【使徒9:10~22】
はじめに
今年の礼拝説教では、パウロの生涯と彼の信仰を通して、神様とはどのようなお方であるかを深く知りたいと願っています。ですから、パウロの信仰が中心ですが、パウロに関わりがあった人々の信仰も見たいと思っています。きょうは、そのような人物の一人であるアナニアの信仰について、分かち合いたいと思います。
きょうの説教のタイトルは、『アナニアの襷(たすき)リレー』です。襷ではなくて、バトンでも良かったのですが、冬は駅伝を見る機会が多いですから、襷リレーとしました。きょうの聖句は、使徒の働き9章17節です。
そして、次の構成で話を進めて行きます。
①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
②本題:a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
b) サウロが回心するとは到底思えない
c) イエス様に全面的に従ったアナニア
③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く
①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
まず、先週までに話したことを簡単に復習しておきます。
サウロ、後のパウロは、イエス様を信じる弟子たちを捕らえるために、ダマスコまで出掛けて行くことにしました。きっかけは、ステパノが裁判の場で語ったことにユダヤ人たちが激しく怒り、ステパノを石打ちにして殺したことでした。裁判の場でステパノは言いました。使徒7章53節、
ユダヤ人たちは律法を守っているつもりでしたから、激しく怒りました。サウロも激しく怒りました。使徒の働き8章は、こう書いています。1節、
使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
そして3節、
そうして、サウロの怒りは、エルサレムの弟子たちを迫害するだけでは収まりませんでした。エルサレムから200km以上離れたダマスコまで出掛けて行くことにしました。
この時のサウロは、たとえるなら狂暴な野獣のようなものでしょう。ライオンやトラ、あるいはクマなどを考えると良いかもしれません。ライオンやトラ、クマなどに襲われたら、ひとたまりもありません。しかし、力ある神であるイエス様は、この猛獣のサウロをおとなしくさせる力がありました。使徒の働き9章3節と4節、
サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と聞きました。イエス様は答えました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
それで、イエス様に「立ち上がって、町に入りなさい」と言われたサウロは立ち上がりました。しかし、目が見えないために、人々が彼の手を引いてダマスコまで連れて行きました。そうして、サウロは三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしませんでした。
②本題:
a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
きょうの聖書箇所の使徒の働き9章の10節から12節をお読みします。
イエス様はアナニアに、サウロの所に行って彼の頭の上に手を置くように言いました。しかし、アナニアはイエス様に言いました。
アナニアはおびえていました。でも、おびえるのは当然ですね。サウロは狂暴な野獣でした。イエス様によって今はおとなしくさせられているとは言え、ライオンやトラやクマに近づいて行って、頭の上に手を置くことなど、おっかなくて出来るわけがありません。今はおとなしくしていても、頭の上に手を置いて触れた途端、野性が目覚めて、アナニアをかみ殺してしまうかもしれません。自分の身の安全を考えれば、そんな危ないことが出来るはずがありません。アナニアがおびえて躊躇したのは当然のことです。
b) サウロが回心するとは到底思えない
もう一つの懸念は、サウロが回心するとは、到底思えないということです。イエス様の弟子たちを激しく迫害していたサウロがイエス様を信じるようになるとは、到底思えません。そんな者に殺されてしまうかもしれない危険をおかして近づき、頭の上に手を置くことなどできないと、普通は思いますよね。
襲われる危険がなければ、ダメで元々、やるだけやってみようという気持ちで手を置くことも有り得るでしょう。でも、何しろ相手はライオンかトラかクマのような危険な猛獣です。
アナニアは、できればサウロの所に行きたくないと思いました。でも、そんなアナニアにイエス様はおっしゃいました。
イエス様にこう言われて、アナニアはサウロの所に出掛けて行きました。17節、
c) イエス様に全面的に従ったアナニア
今回、この箇所について思いを巡らしていて、アナニアは十字架に向かったイエス様のことを思っていたかもしれないと思いました。アナニアが地上生涯のイエス様から直接教えを受けた弟子であったかどうかは分かりませんが、彼はイエス様が直接声を掛けるほどの弟子ですから、十字架を前にしたイエス様が悶え苦しんで天の父に祈っていたことを、他の弟子たちから当然聞いていたでしょう。マルコの福音書から引用します。マルコ14章36節(週報p.2)、
イエス様の願いの「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」とは、「十字架に付かなくてもよいようにしてください」ということですね。イエス様は、できることなら十字架の苦しみを受けたくありませんでした。当然です。十字架刑はとても残酷な死刑で、長い時間苦しみながら少しずつ弱って行って死にます。そんな苦しみは誰も受けたくありません。イエス様でさえ、そうでした。ですから、イエス様は「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と天の父に祈りました。でも、イエス様は、付け加えました。「しかし、わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエス様は、「わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈りました。自分の望みを手放して、すべてを天の父に委ねました。
アナニアも同じ思いだったのではないでしょうか?と言ったら、少し大袈裟かもしれません。でも、猛獣のサウロの頭の上に手を置いた途端、サウロの野性が再び目覚めてアナニアを襲うことが無いとは言えないでしょう。私たちは、この出来事の結末を知っていますから、そこまで心配する必要はないと思うかもしれませんが、当事者のアナニアにとっては、十字架に向かうイエス様と同じくらいの覚悟が必要だったのではないか、そう考えても、決して大袈裟ではないと思います。
アナニアは覚悟を決めて、イエス様の命令に全面的に従ってサウロの頭の上に手を置きました。すると、18節から20節、
私たちは、このサウロの鮮やかな変わりっぷりに目を奪われがちだと思います。でも、このことのためには、アナニアの覚悟が必要であったことも忘れないようにしたいと思います。アナニアは猛獣に襲われるかもしれない危険を顧みず、イエス様がおっしゃる通りにサウルの所に出掛けて行って、自分に与えられた役目を果たしました。
③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く
まず、アナニアの襷(たすき)がパウロに引き継がれたことを、分かち合いたいと思います。後にパウロは聖霊によって異邦人伝道に押し出されて行きます。まず、第一次伝道旅行ではアジア地区で異邦人伝道を行い、次いで第二次伝道旅行ではヨーロッパへと足を延ばして異邦人にイエス・キリストを宣べ伝えました。
異邦人に伝道すれば、どんな危険に遭うか分かりません。実際、パウロが多くの苦難に遭ったことは使徒の働きに書かれていますね。また、異邦人がイエス様を信じて回心することも、ちょっと考えにくいことです。これも現実のことでした。パウロの伝道旅行では、イエス様を信じた人々もいましたが、数で言えば信じない人々のほうが遥かに多かったことでしょう。アナニアから襷を受け継いだパウロは、そういう中に進んで行きました。そして、この襷のリレーが二千年間もの間、続けられました。
そして私たちにも、この襷が渡されました。まだイエス様を知らなかった頃の私自身のことを考えるなら、あの頃の私が後にイエス様を信じるようになるとは、到底考えられない、そんな者であったと思います。学生時代には、伝道して下さったアメリカ人の女性宣教師に冷たいことを言って突き放しました。その時の、その宣教師の先生の悲しそうな顔は、今でもハッキリと覚えています。でも、そんな私をイエス様が捕らえて下さり、アナニアを送って下さり、私は変えられました。
皆さんのお一人お一人もそうでしょう。イエス様は神様から離れていた私たちの一人一人を捕らえて下さり、アナニアを送って下さいます。私たちのそれぞれにとってのアナニアも、私が回心するかどうか最初は半信半疑で近づいて来たかもしれません。イエス様がそのように促したのですね。そのようなアナニアがいたからこそ、私たちは変えられました。そして、今度は私たちがアナニアになるようにと、イエス様は私たちを促します。
おわりに
10節に、イエス様がアナニアに「アナニアよ」と呼び掛けたことが書かれています。このように、イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで、話し掛けて下さいます。そう呼ばれたら私たちはアナニアのように、「主よ、ここにおります」と答えたいと思います。そうすれば、イエス様は具体的に何をすれば良いか教えて下さいます。
伝道に決まったやり方はないでしょう。伝える私たちの側にも個性がありますし、伝えられる側の方々にも個性があります。その組み合わせによって最善の具体的な方法をイエス様は示して下さいますから、そのイエス様のことばに従いたいと思います。
イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで下さるお方ですから、呼ばれたら「主よ、ここにおります」と答えてイエス様の指示を聞き、出掛けて行きたいと思います。
しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。
『アナニアの襷(たすき)リレー』
【使徒9:10~22】
はじめに
今年の礼拝説教では、パウロの生涯と彼の信仰を通して、神様とはどのようなお方であるかを深く知りたいと願っています。ですから、パウロの信仰が中心ですが、パウロに関わりがあった人々の信仰も見たいと思っています。きょうは、そのような人物の一人であるアナニアの信仰について、分かち合いたいと思います。
きょうの説教のタイトルは、『アナニアの襷(たすき)リレー』です。襷ではなくて、バトンでも良かったのですが、冬は駅伝を見る機会が多いですから、襷リレーとしました。きょうの聖句は、使徒の働き9章17節です。
使徒9:17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
そして、次の構成で話を進めて行きます。
①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
②本題:a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
b) サウロが回心するとは到底思えない
c) イエス様に全面的に従ったアナニア
③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く
①背景:おとなしくさせられた狂暴な野獣サウロ
まず、先週までに話したことを簡単に復習しておきます。
サウロ、後のパウロは、イエス様を信じる弟子たちを捕らえるために、ダマスコまで出掛けて行くことにしました。きっかけは、ステパノが裁判の場で語ったことにユダヤ人たちが激しく怒り、ステパノを石打ちにして殺したことでした。裁判の場でステパノは言いました。使徒7章53節、
使徒7:53 「あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
ユダヤ人たちは律法を守っているつもりでしたから、激しく怒りました。サウロも激しく怒りました。使徒の働き8章は、こう書いています。1節、
使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
そして3節、
3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
そうして、サウロの怒りは、エルサレムの弟子たちを迫害するだけでは収まりませんでした。エルサレムから200km以上離れたダマスコまで出掛けて行くことにしました。
この時のサウロは、たとえるなら狂暴な野獣のようなものでしょう。ライオンやトラ、あるいはクマなどを考えると良いかもしれません。ライオンやトラ、クマなどに襲われたら、ひとたまりもありません。しかし、力ある神であるイエス様は、この猛獣のサウロをおとなしくさせる力がありました。使徒の働き9章3節と4節、
使徒9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と聞きました。イエス様は答えました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
それで、イエス様に「立ち上がって、町に入りなさい」と言われたサウロは立ち上がりました。しかし、目が見えないために、人々が彼の手を引いてダマスコまで連れて行きました。そうして、サウロは三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしませんでした。
②本題:
a) アナニアが身の安全を考えたのは当然
きょうの聖書箇所の使徒の働き9章の10節から12節をお読みします。
使徒9:10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」
イエス様はアナニアに、サウロの所に行って彼の頭の上に手を置くように言いました。しかし、アナニアはイエス様に言いました。
13 「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」
14 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」
アナニアはおびえていました。でも、おびえるのは当然ですね。サウロは狂暴な野獣でした。イエス様によって今はおとなしくさせられているとは言え、ライオンやトラやクマに近づいて行って、頭の上に手を置くことなど、おっかなくて出来るわけがありません。今はおとなしくしていても、頭の上に手を置いて触れた途端、野性が目覚めて、アナニアをかみ殺してしまうかもしれません。自分の身の安全を考えれば、そんな危ないことが出来るはずがありません。アナニアがおびえて躊躇したのは当然のことです。
b) サウロが回心するとは到底思えない
もう一つの懸念は、サウロが回心するとは、到底思えないということです。イエス様の弟子たちを激しく迫害していたサウロがイエス様を信じるようになるとは、到底思えません。そんな者に殺されてしまうかもしれない危険をおかして近づき、頭の上に手を置くことなどできないと、普通は思いますよね。
襲われる危険がなければ、ダメで元々、やるだけやってみようという気持ちで手を置くことも有り得るでしょう。でも、何しろ相手はライオンかトラかクマのような危険な猛獣です。
アナニアは、できればサウロの所に行きたくないと思いました。でも、そんなアナニアにイエス様はおっしゃいました。
15 「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
イエス様にこう言われて、アナニアはサウロの所に出掛けて行きました。17節、
17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
c) イエス様に全面的に従ったアナニア
今回、この箇所について思いを巡らしていて、アナニアは十字架に向かったイエス様のことを思っていたかもしれないと思いました。アナニアが地上生涯のイエス様から直接教えを受けた弟子であったかどうかは分かりませんが、彼はイエス様が直接声を掛けるほどの弟子ですから、十字架を前にしたイエス様が悶え苦しんで天の父に祈っていたことを、他の弟子たちから当然聞いていたでしょう。マルコの福音書から引用します。マルコ14章36節(週報p.2)、
マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエス様の願いの「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」とは、「十字架に付かなくてもよいようにしてください」ということですね。イエス様は、できることなら十字架の苦しみを受けたくありませんでした。当然です。十字架刑はとても残酷な死刑で、長い時間苦しみながら少しずつ弱って行って死にます。そんな苦しみは誰も受けたくありません。イエス様でさえ、そうでした。ですから、イエス様は「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と天の父に祈りました。でも、イエス様は、付け加えました。「しかし、わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエス様は、「わたしの望むことでなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈りました。自分の望みを手放して、すべてを天の父に委ねました。
アナニアも同じ思いだったのではないでしょうか?と言ったら、少し大袈裟かもしれません。でも、猛獣のサウロの頭の上に手を置いた途端、サウロの野性が再び目覚めてアナニアを襲うことが無いとは言えないでしょう。私たちは、この出来事の結末を知っていますから、そこまで心配する必要はないと思うかもしれませんが、当事者のアナニアにとっては、十字架に向かうイエス様と同じくらいの覚悟が必要だったのではないか、そう考えても、決して大袈裟ではないと思います。
アナニアは覚悟を決めて、イエス様の命令に全面的に従ってサウロの頭の上に手を置きました。すると、18節から20節、
18 するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。
19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。
私たちは、このサウロの鮮やかな変わりっぷりに目を奪われがちだと思います。でも、このことのためには、アナニアの覚悟が必要であったことも忘れないようにしたいと思います。アナニアは猛獣に襲われるかもしれない危険を顧みず、イエス様がおっしゃる通りにサウルの所に出掛けて行って、自分に与えられた役目を果たしました。
③適用:私たちもアナニアの襷を引き継いで人を導く
まず、アナニアの襷(たすき)がパウロに引き継がれたことを、分かち合いたいと思います。後にパウロは聖霊によって異邦人伝道に押し出されて行きます。まず、第一次伝道旅行ではアジア地区で異邦人伝道を行い、次いで第二次伝道旅行ではヨーロッパへと足を延ばして異邦人にイエス・キリストを宣べ伝えました。
異邦人に伝道すれば、どんな危険に遭うか分かりません。実際、パウロが多くの苦難に遭ったことは使徒の働きに書かれていますね。また、異邦人がイエス様を信じて回心することも、ちょっと考えにくいことです。これも現実のことでした。パウロの伝道旅行では、イエス様を信じた人々もいましたが、数で言えば信じない人々のほうが遥かに多かったことでしょう。アナニアから襷を受け継いだパウロは、そういう中に進んで行きました。そして、この襷のリレーが二千年間もの間、続けられました。
そして私たちにも、この襷が渡されました。まだイエス様を知らなかった頃の私自身のことを考えるなら、あの頃の私が後にイエス様を信じるようになるとは、到底考えられない、そんな者であったと思います。学生時代には、伝道して下さったアメリカ人の女性宣教師に冷たいことを言って突き放しました。その時の、その宣教師の先生の悲しそうな顔は、今でもハッキリと覚えています。でも、そんな私をイエス様が捕らえて下さり、アナニアを送って下さり、私は変えられました。
皆さんのお一人お一人もそうでしょう。イエス様は神様から離れていた私たちの一人一人を捕らえて下さり、アナニアを送って下さいます。私たちのそれぞれにとってのアナニアも、私が回心するかどうか最初は半信半疑で近づいて来たかもしれません。イエス様がそのように促したのですね。そのようなアナニアがいたからこそ、私たちは変えられました。そして、今度は私たちがアナニアになるようにと、イエス様は私たちを促します。
おわりに
10節に、イエス様がアナニアに「アナニアよ」と呼び掛けたことが書かれています。このように、イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで、話し掛けて下さいます。そう呼ばれたら私たちはアナニアのように、「主よ、ここにおります」と答えたいと思います。そうすれば、イエス様は具体的に何をすれば良いか教えて下さいます。
伝道に決まったやり方はないでしょう。伝える私たちの側にも個性がありますし、伝えられる側の方々にも個性があります。その組み合わせによって最善の具体的な方法をイエス様は示して下さいますから、そのイエス様のことばに従いたいと思います。
イエス様は私たち一人一人の名前を呼んで下さるお方ですから、呼ばれたら「主よ、ここにおります」と答えてイエス様の指示を聞き、出掛けて行きたいと思います。
しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。