平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

ドライブレコーダーは前後2カメラ

2019-05-27 18:46:20 | 折々のつぶやき
 先週の金曜日に教会車に取り付けたドライブレコーダーは前と後ろの2カメラ方式です。
 下の二つの動画は前と後ろで同時に録画したものです。

前のカメラ
https://youtu.be/YZLcAHT9MWw

後ろのカメラ
https://youtu.be/D2GPwxAa3VE

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五旬節に向けた聖霊の学び3(2019.5.26 礼拝)

2019-05-27 10:21:18 | 礼拝メッセージ
2019年5月26日礼拝メッセージ
『五旬節に向けての聖霊の学び(3)』
【ヘブル10:8~20】

はじめに
 きょうは『五旬節に向けての聖霊の学び』の3回目です。聖霊を受けると私たちの内側には変化が現れます。どんな変化が現れるかをシリーズでお話ししています。きょうが3回目の学びで、次聖日の6月2日が4回目の学び、そうして6月9日の五旬節(ペンテコステ)の日を迎えます。このシリーズでの話の流れを私がどのように組み立てているか、まずその概略を話しておきます。

これまでと今後の聖霊についての話
 先々週の第1回目の学びでは、聖霊を受けると私たちの内にイエスさまが入り、そうして私たちの内でイエスさまが働いて下さり、また内から話し掛けて下さることを話しました。ヨハネの福音書4章の始めのほうにはイエスさまがバプテスマを授けたことが書かれていますが、ヨハネがここで描いているバプテスマは、使徒の働きの時代に弟子たちの内たちにいたイエスさまが授けていたバプテスマのことです。ですから21世紀の牧師の私が新しくクリスチャンになる方に授ける洗礼も、私が授けるのではなくて私の内におられるイエスさまが授けるものです。

 或いはまたイエスさまを信じて聖霊を受けると私たちは内に入って下さったイエスさまと霊的に出会うことができます。ヨハネ4章でサマリア人たちが出会ったイエスさまも、彼らの内に入ったイエスさまです。サマリア人たちは使徒の働きの時代にピリポのサマリア伝道でイエスさまを信じました。それゆえ彼らは聖霊を受けましたから、イエスさまと霊的に出会うことができました。

 そして先週の召天者記念礼拝で話したことは、私たちは聖霊を受けると御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただけますから、聖書の時代を大昔のこととは感じなくなるということです。それゆえ、この交わりの中に入れていただくなら信仰の先輩方のことも身近に感じるようになります。

 アブラハム・イサク・ヤコブの旧約の時代の先輩方はもちろん、ペテロやパウロなどの使徒の働きの時代の先輩方を身近に感じるようになります。さらにはルターやウェスレーや札幌農学校のクラーク先生のことも身近に感じるようになり、先に天に召されたこの教会の信仰の先輩方のことも、たとえ直接お会いしたことがなくても身近に感じるようになります。

 さて3回目のきょう話すことは、私たちが聖霊を受けると「十字架」が私たちの中心になるということです。きょうのメッセージの後半には、ヨハネの福音書19章の十字架の場面でイエスさまを見上げていた愛弟子とは私たちのことであるということを話したいと思います。

 そして4回目の6/2は、きょうのこのイエスさまの十字架を見上げていた愛弟子とは私たちのことであるという話を受けて、私たちが聖霊を受けると私たちの中に「自分はイエスの愛弟子である」という自覚が生まれるということを話したいと思います(5追記:予定を変更して6/2は愛弟子のことではなくて、礼拝についての話をすることにします)。

 聖霊を受けると私たちはイエスさまの弟子になります。これは従来から言われていることです。その私たちをイエスさまは愛して下さっていますから、私たちはイエスさまに愛されている弟子、つまり愛弟子なわけです。ヨハネの福音書が描く愛弟子を自分のことと感じるか感じないかは別にして、いずれにしても私たちはイエスさまの愛弟子です。このことを来週は深めてみたいと思います。

人々の自発的な応答を待っている神様
 これらのことは、これまでのキリスト教会ではあまり語られて来なかったことかもしれません。私がどうして新しいメッセージを語る必要性を感じているのか、それは新しいメッセージは今の右肩下がりのキリスト教を再び右肩上がりにする力を持つと考えているからです。

 別に新しいメッセージを語らなくても神様は大きな力を持っていますから、従来と同じメッセージを宣べ伝えていても神様は人々の心を変えることが可能でしょう。しかし、神様はその力を滅多なことでは行使しません。それでは人々を強制的に回心させることになるからでしょう。神様が力を行使しないということは、人々を強制的に回心させても神様は少しもうれしくないということではないでしょうか。

 神様はいつも人々に声を掛けていて、人々が応答するのを待っています。応答するよう強制するのではなくて、人々のほうから自発的に応答するのを神様は待っておられます。ただしパウロのような優れた器の場合には神様は力を行使して激しい現れ方をします。

 しかし、私たちのような一般の者たちに対してはパウロの時のような激しい現れ方はしません。ですから、微かに分かる程度の神様の声が一般の方々に届くようにするには、様々な工夫が必要だと思います。時代が変われば従来のメッセージでは一般の人々になかなか届かなくなるでしょう。それゆえ21世紀の現代においては21世紀のメッセージを語る必要があるだろうと、私は思っています。

ささげ物を喜ばなかった神様
 では、今週のメッセージに入ります。先ほど話した通り、きょう話すことは私たちが聖霊を受けると、「十字架」が私たちの中心になるということです。そのことを見るために、きょうの聖書箇所としてヘブル書10章を選びました。

 まずヘブル書10章の8節と9節を交代で読みましょう。

10:8 以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
10:9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。

 8節には、神殿に捧げられるいけにえや、きよめの捧げものを神様が喜ばなかったとイエスさかがおっしゃったということが書かれています。神殿にきよめの捧げ物をすることは、神様が命じたことです。旧約聖書のレビ記にはそのことが延々と書かれています。例えば週報のp.3に載せたようにレビ記4章13節から15節には次のように書かれています。

4:13 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、【主】がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、
4:14 自らの罪が明らかになったときに、その集会の人々は罪のきよめのささげ物として若い雄牛を献げ、それを会見の天幕の前に連れて行く。
4:15 会衆の長老たちは【主】の前でその雄牛の頭に手を置き、【主】の前でその雄牛を屠る。

 このように幕屋や神殿に罪のきよめの捧げ物をしなさいと命じたのは神様なのに、なぜ神様は喜ばなかったのでしょうか。

 それは、この捧げ物の儀式が形式的なものに成り下がり、民の心は神様から離れていたからでしょう。神様が一番望んでおられることは人々がいつもしっかりと神様のほうを向いていることです。罪のきよめの捧げ物の儀式を行なうのも、そのためです。神様から心が離れて罪を犯した時、神様はそのことで人間を罰することをせず、動物のいけにえを代わりに捧げることで赦して下さいました。

 しかし、人間の側はそれを形骸化してしまって、いけにえの動物を捧げても神に立ち返らず、人の心は神様から離れたままになってしまいました。

いけにえの動物に代わって十字架に付いたイエス・キリスト
 イエスさまは、このことを変えるために、この世に来られました。続いてヘブル書10章の10節から13節までを交代で読みましょう。

10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
10:11 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、
10:12 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
10:13 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。

 動物のいけにえを繰り返しささげても、人々の罪を除き去ることはできませんでした。それゆえイエスさまがこの世に来られて十字架に付けられました。このイエスさまの十字架は、ただ一度限りのことです。イエスさまのただ一度の十字架で、救いが永遠に完成されました。14節をご一緒に読みましょう。

10:14 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

 イエスさまはただひとり十字架に付くことで、無数のいけにえの動物たちにはできなかったことを完成されました。すなわち「イエスは神の子キリストである」と信じる者には聖霊が注がれて罪がきよめられます。そうして、その者は聖なる者とされます。

時間の流れ的にはおかしな順番
 さてしかし、このことはクリスチャンの私たちにとっては当たり前のようなことですが、クリスチャンではない人々にとっては非常に分かりづらいことです。なぜ21世紀の私たちの罪までもが1世紀の十字架によってきよめられるのでしょうか。1世紀の十字架の出来事があった時、私たちはまだ生まれていませんでした。私たちどころか私たちの両親も生まれていませんでしたし、おじいさんおばあさんも生まれていませんでした。1世紀の十字架の時、私たちはまだ生まれていませんでしたから、まだ罪も犯していません。それなのに、なぜクリスチャンは当たり前のように「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かった」と言うのでしょうか。

 これは、まさに聖霊の働きです。聖霊を受けると聖書の時代を身近に感じるようになります。もっとピンポイントに言うなら、十字架を身近な出来事として感じるようになります。そうして十字架が私たちクリスチャンの中心になります。

 冷静に考えると、これは時間の流れ的には、おかしなことです。自分が犯した罪が十字架によってきよめられるとしたら、時間の流れから言えば普通は十字架の前に犯した罪でなければ十字架によってきよめられないはずです。しかし、聖霊を受けるなら20世紀や21世紀に犯した罪であっても1世紀の十字架によってきよめられると確信できるようになります。これは正に聖霊の働きによるものです。

 ですから自分の罪の深さがよく分かるようになるには聖霊を受ける必要があります。そういう意味で、聖霊を受ける前の人に罪の悔い改めを迫るのは、あまり合理的ではないと私は個人的には思っています。自分の罪深さを理解することはもちろん非常に大切なことですが、それはイエスさまを信じて聖霊を受けなければ理解できないことですから、聖霊を受ける前の人には、別のアプローチを考えることも必要だと思います。

聖霊の働きの不思議さ
 では、どういうアプローチをすれば良いか、私はモーセの例が参考になると考えます。週報のp.3に載せましたが、出エジプト記3章3節には、このように書かれています。

3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」

 モーセは燃える柴がなぜ燃え尽きないのか、とても不思議に思い、そうして主の使いに近づいて行きました。それは即ちイエスさまに近づいて行ったということです。これはとても参考になる事例だと思います。聖霊の働きはとても不思議ですから、もっとその不思議さを語り、そのことをまだイエスさまを知らない方々に興味を持っていただくために用いることを考えても良いのではないかと思います。

 「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かりました」と当たり前のように言うよりも、「イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったとクリスチャンが言うことの背後には、実はとても不思議な聖霊の働きがあります」と言ったほうが、一般の方々に興味を持っていただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 私たちはイエスさまの十字架よりも後に生まれたのに、私たちが犯す罪は、私たちが生まれる前の十字架によってきよめられます。つまり時間が逆行します。聖霊にはこのような不思議な働きがあります。

漂流感覚が止まった経験の証し
 ここで私が経験したことの証しを挟みます。

 先週の証しでは、私は学生時代には身近に感じていなかった札幌農学校のクラーク先生のことを、クリスチャンになった後で北大に行ったら、とても身近に感じるようになっていたという話をしました。2003年のことでした。実はこの同じ時に私はもう一つの興味深い体験をしました。

 私は北大に1978年に入学して1988年まで学生(学部生と大学院生)として札幌に住んでいました。この10年間の札幌での学生生活の思い出を私はとても愛おしく思っていて、札幌を離れてからしばらくの間は毎年のように札幌に行って、その思い出に浸り、感傷に浸っていました。そして年を経るごとに、その学生時代が遠ざかって行くことにますます感傷的になっていました。その時の私は時間の中を漂流しているような感じでした。

 楽しかった学生時代を陸地に例えて、時間の海を漂流する私はどんどん陸地から離れていく様子を想像していました。漂流ですから、これからの自分がどこに向かおうとしているのかも分かりませんでした。分かっているのは陸地からはどんどん遠ざかっているということだけでした。そのことを寂しく思い、且つ行き先の分からない漂流感の中で漠然とした不安を抱えていました。そうして毎年札幌を訪れるたびに学生時代という陸地が遠ざかっていることを感じて感傷に浸っていました。

 ところがクリスチャンになってから、そういう漂流感覚がすっかり無くなっていたことに2003年に札幌に行った時に気付きました。その時はなぜだろうと不思議に思いましたが、これもまさに聖霊の働きです。聖霊を受けたことによって私の中では十字架が中心になり、十字架の港に錨が下ろされました。錨が下ろされましたから、そこから漂流して行くことがなくなったのですね。

 十字架はいつも身近にあって遠ざかって行くことはありません。そうして私は、聖霊を受けて十字架が中心になると、時間の中を漂流する不安からも解放されて心の深い平安が得られることを知りました。

 聖霊の働きは、本当に不思議です。こういう不思議な世界があることを、特に若い方々にアピールして興味を持ってもらうことは、とても大切なことではないかと私は考えます。

十字架のそばにいた愛弟子
 さて最初に予告した通りに、ここでヨハネの福音書19章の十字架の場面を見て、来週のメッセージへとつなげて行きたいと思います。ヨハネの福音書19章の25節から27節を交代で読みましょう。

19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 イエスさまの十字架のそばにはイエスさまの愛する弟子、すなわち愛弟子がいました。これはヨハネの福音書だけにしか書かれていない記述です。例えば週報p.3に載せたルカの福音書23章は、このように書いています。

23:49 しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。

 マタイとマルコの福音書によれば、弟子たちは皆、逃げてしまっていて、イエスさまの十字架を見ていたのは女たちだけでした。それも十字架のそばではなくて、離れた所から見ていました。ルカの福音書は女たちだけでなく知人たちもいたと書いていますが、やはり十字架からは離れていて、弟子たちはやはり逃げていてそこにはいませんでした。

 では、ヨハネはなぜ十字架のそばに愛弟子と女たちがいたと書いたのでしょうか。それは、この愛弟子とは私たちのことだからです。聖霊を受けると私たちの中心は十字架になりますから、聖霊を受けた私たちは十字架のイエスさまをすぐそばで見上げることになります。ヨハネの福音書は、このように私たち読者を時間の縛りから解放してイエスさまの時代へと誘い、イエスさまと1章から21章までを一緒に旅する機会を与えてくれていて、19章では私たちは十字架のそばにいます。

十字架に付いて聖霊の時代への道を開いたイエス
 最後に、ヘブル書10章のきょうの聖書箇所の残りの部分を読んで終わることにします。15節から20節までを交代で読みましょう。

10:15 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、
10:16 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、
10:17 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。
10:18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。
10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 全部の節を丁寧に説明する時間はありませんから、19節と20節だけを説明します。旧約の時代には聖所には1年に1回、大祭司だけが入ることが許されていました。聖所では垂れ幕の向こう側に神の箱が置かれていました。この場に入れるのは大祭司だけでしたが、イエスさまの十字架以降は誰でも聖霊の働きによって御父と御子との交わりに入れていただけるようになりました。この十字架のことを、ヘブル書の記者はイエスさまの肉体という垂れ幕であると書いています。イエスさまは十字架を通して私たちのために、聖霊の時代という新しい生ける道を開いて下さいました。

 十字架はイエスさまの肉体ですが、このイエスさまの肉体を通して私たちに与えられるのはイエスさまの霊である聖霊であり、そうして聖霊が与えられると私たちは御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられます。

 イエスさまは肉体を持つ人間であり、また霊的な神様でもあります。私たちはこのことを覚えたいと思います。人間のイエスさまに親しみを感じることは、とても大切なことですが、それが過ぎるとイエスさまを紀元30年頃の時間に縛り付けてしまい、私たちもまた時間に縛られることになります。私たちは時空を超えた神様としてのイエスさまにも親しみを感じて私たちも時間の縛りから解放されたいと思います。その入口がイエスさまの十字架です。

 ヘブル書10章20節が書くように、イエスさまはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、新しい生ける道を開いてくださいました。ですから私たちは肉体のイエスさまに縛られることなくイエスさまが開いて下さった新しい道を聖霊に満たされながら歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
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ドライブレコーダーを付けました

2019-05-25 05:38:15 | 折々のつぶやき
教会の車にドライブレコーダーを付けました。

https://www.facebook.com/satoshi.kojima.359/videos/1730627040402931/

(Facebook利用者しか見られないでしょうか・・・。後で、Youtubeにもアップできるようにしておきます。)
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私たちは何を共有していて、何を伝えて行くべきか(2019.5.23 祈り会)

2019-05-24 08:57:55 | 祈り会メッセージ
2019年5月23日祈り会メッセージ
『私たちは何を共有していて、何を伝えて行くべきか』
【ヨハネ1:38~39、ヨハネ21:24~25、使徒1:8】

はじめに
 次聖日の礼拝後には伝道委員会があります。きょうはそのための心備えをしたいと思います。

 これからの伝道を考える上で、私たちは何を伝えたいのかということを、ある程度は共有しておく必要があるだろうと思います。 個人伝道でなら自分の伝えたいことを伝えても良いかもしれませんが、教会として伝道するなら、皆が共有していることを発信しないと大きなエネルギーにはならないと思いますから、きょうはそのことについて考えてみたいと思います。

神との出会い方で違ってくる聖書解釈
 では、私たちはキリスト教のこと、或いは聖書のことで、どんなことなら共有できているでしょうか。そのことに思いを巡らしていて思ったのですが、私たちは実は、そんなに多くのことを共有できているわけではないという気がします。

 最近、ある人が、ダビデが本当に神様と出会ったのはバテ・シェバ事件の時が初めてではなかったかということを言っています。そう言われれば、そういう気もしますが、それはどうなのかな?という気もします。ダビデがどういう人物で、ダビデがいつ本当の意味で神様と出会ったのかということは、人によって捉え方が異なるだろうと思います。

 それは、聖書の読者の一人一人が生まれ育った環境が異なり、神様との出会い方も人それぞれだからです。それらの経歴の違いがダビデなどの人物像を思い描く時には、かなり影響するだろうと思います。或いはまた、神様とまだ出会ったことがない聖書の読者もたくさんいます。そのような人々もダビデについて語りますから、本当に様々な解釈が生まれます。

 例えば、旧約聖書の第二サムエル6章12節から15節を交代で読みましょう(旧約聖書p.549)。

6:12 「が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。
6:13 の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
6:14 ダビデは、の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、の箱を運び上げた。

 ここでダビデは神の箱の前で力の限り跳ね回りました。このダビデの行動について、別の人が「これは民衆の心を掌握するためのダビデのパフォーマンスだ」と説明しているのを聞いたことがあります。その話を聞いた頃、私はまだサムエル記について自分自身でじっくりと思いを巡らしたことがありませんでしたから、「へ~、そうなんだ。パフォーマンスだったんだ。」というぐらいの軽い感想を持っただけでした。

 しかし、その後、第一サムエルと第二サムエルを何度か繰り返し読んで思いを巡らすうちに私自身は、これはパフォーマンスではなくてダビデは心の底から主を愛していて、それで神の箱をダビデの町に運び入れる時に喜びが爆発して跳ね回ったのだと考えるようになりました。今でもそう思っています。

 このように聖書は、同じ箇所を読んでも人によって捉え方は様々です。人によって神様との出会い方が違うからです。皆さんは、この箇所のダビデはどちらだったと思うでしょうか?これはパフォーマンスだったと思う人もいるでしょうし、いやそうではなくてダビデは心の底から神様を愛していたからこそ喜びを爆発させて跳ね回ったのだ、と思う人もいるでしょうね。両方の人がいることでしょう。

神様との出会いの経験を共有している私たち
 同じ教会内の人同士であっても聖書の解釈の仕方は様々です。すると私たちは何を共有することができているでしょうか。少なくとも使徒信条は共有しているはずですが、「じゃあ、これからは使徒信条を熱心に伝道しましょう」という風にはならないですよね。使徒信条はもちろん私たちの根幹にありますが、使徒信条を正直にそのまま熱心に伝えても、周囲には硬い印象を与えるだけでしょう。

 では、私たちは何を共有していて、何を発信したら良でしょうか。

 そこでさらに思いを巡らしていて思ったことは、私たちは神様と出会ったという事実は共有しているだろうということです。人それぞれ違う出会い方を経験しましたが、少なくとも神様と出会ったという事実だけは皆さんが同じように持っていると思います。それが静岡教会の強みだと思います。

 クリスチャンとは名ばかりで、神様と出会ったことがないクリスチャンも世の中にはたくさんいますが、70年記念誌の『御手の中で』を読ませていただくと、静岡教会の皆さんが神様と出会った経験を持っていることがよく分かります。

 繰り返しになりますが、私たちが外に向けて伝道して行く時には、私たちが共有していることを発信しないと、大きなエネルギーにはならないと思います。大きな力を持って伝道するには私たちが共有していることを発信する必要があります。その私たちが共有しているのは、私たちは神様と出会ったという経験です。

イエスの呼び掛けの声に応答した私たち
 ここでヨハネの福音書1章の38節と39節を交代で読みましょう。

1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 38節でイエスさまはついて来た弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。このイエスさまに付いて行った弟子たちのうちの一人とは、実は私たちのことです。

 イエスさまは私たちの一人一人に、「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。そして、「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃいました。そうして私たちは教会に導かれてイエスさまと出会うことができました。そのようにして教会生活を送るようになって分かったことは、私たちが求めていたこととは、イエスさまと本当の意味で出会うことだった、ということではないでしょうか。

 私たちは誰でも、イエスさまから「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります」と声を掛けられています。教会の前の道を行き交う人々も皆がイエスさまから、このように話し掛けられています。歩道を歩く人々も、車で通る人々も、皆がイエスさまから声を掛けられています。しかし、大半の人が素通りをして行きます。

 そんな中、私たちはイエスさまの声に応答して、教会の門をくぐりました。そして、教会生活を過ごすうちにイエスさまがどのようなお方かが分かり、自分が求めていたのはイエスさまとの本当の出会いであったのだということが分かるようになりました。

証しを書き記した弟子とは私たちのこと
 これまで私はこの教会の集会で何度か、聖書の読者はイエスさまを時間に縛り付けていると話して来ました。イエスさまを時間に縛り付けていると、このヨハネの福音書1章のイエスさまは1世紀のイエスさまです。しかしイエスさまを時間から解き放つなら、イエスさまは21世紀の私たちにも「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります」と話し掛けて下さっていることに気付きます。

 すると自分自身も時間から解き放たれて、自分がイエスさまとヨハネの福音書の中を1章から始まって最後の21章まで一緒に旅しているのだと気付くことでしょう。今度は、このヨハネの福音書の最後の21章24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 イエスさまを時間の縛りから解き放ち、私たち自身も時間から解き放たれるなら、このヨハネの福音書の中で証ししているのは、実は私たち自身のことでもあることに気付くでしょう。

 それゆえ証しの一つ一つを書き記すなら、その書かれた書物を収められないとヨハネは書いています。イエスさまが地上生涯で行なったことがどんなに多かったとしても、さすがにその証しだけでは世界を埋め尽くすことはできないでしょう。しかし、21世紀の私たちに至るまでイエスさまと出会った弟子たちのすべてが証しを書物にするなら、世界を埋め尽くすことができるでしょう。

おわりに
 私たちは、このイエスさまとの出会いを、証人として証ししていかなければなりません。有名な使徒の働き1章8節に書いてある通りです。最後に使徒の働き1章8節をご一緒に読んで終わることにします。ヨハネ21章のすぐ次のページにあります。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 イエスさまと出会い、イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けた私たちはイエスさまの証人です。イエスさまは私たちに、「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります。」と話し掛けて下さり、その声に応答してイエスさまに付いて行った私たちに、素晴らしい恵みを与えて下さいました。

 私たちは、そのことを力強く証しして行きたいと思います。そのために具体的に何をすべきかを、これからいろいろと相談して行きたく思います。そのことへの教え導きの声も掛けて下さっていることと思いますから、その御声をさやかに聞くことができますようにも、お祈りしたいと思います。
 お祈り致しましょう。
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今日のつぶやき(2019.5.21)

2019-05-21 14:46:06 | 折々のつぶやき
映画館の数はテレビの登場で大幅に減った。しかしテレビにはない映画の魅力があり、それを追求したからであろう、映画館は生き残った。インターネットの登場もまた映画館には脅威であったろうが、現代的なシネコンに置き換わりつつ観客を多く集めている。数を減らしている教会はどうすべきだろうか。→

→「聖書を量子コンピュータに例える ~重なり合う旧約と新約」を、僕はもっと深めてみたい。伝統的な教会の良さを伝える一方で、今まで知られていない聖書の新しい魅力を発信することもまた必要ではないか。量子のからみ合いに似た旧約と新約の絡み合いを聖書は何千年も前の昔から書き記していた。→

→聖書は紙に印刷した状態では、旧約聖書か新約聖書かのどちらか一方だ。しかし内容的に両者は重なり合っている。旧約と新約のどちらにも父・子・聖霊が始めから終わりまでいる。御子はヘブル語聖書(旧約聖書)にいないと読者によっては考えるかもしれない。しかし御子は創世記から黙示録までいる。→

→量子の重なり合いを保持した量子コンピュータは古典コンピュータより多くの情報量を持つという。聖書も旧約と新約の重なり合いの有無で情報量が大きく異なる。特に『ヨハネの福音書』は創世記から黙示録までいる御子の姿を読み取るか否かで全く異なる。この聖書の新しい魅力を何とかして伝えたい。終
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五旬節に向けた聖霊の学び2(2019.5.19 礼拝)

2019-05-20 12:33:01 | 礼拝メッセージ
2019年5月19日召天者記念礼拝メッセージ
『五旬節に向けての聖霊の学び(2)』
【Ⅰヨハネ1:1~4】

はじめに
 きょうは召天者記念礼拝です。先に天に召された信仰の先輩のことを思いながら、聖霊についても学ぶ時としたいと思います。そうして私たちの信仰についての再確認もできたらと願っています。

 きょう、会堂の前方には多くの先輩方の写真が置かれています。また週報には召天者名簿を折り込みました。私の前任地の沼津の教会でも毎年召天者記念礼拝の日には召天者のリストを週報に含めていましたが、召天者の数は静岡教会ほど多くはありませんでしたから、この教会のこれまでの信仰の歩みの足跡の大きさを改めて感じているところです。

 この召天者名簿に名前が記されている方々の大半と私は直接にはお会いしたことがありません。しかし、同じ聖霊を受けたクリスチャンとして御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられた者としての親しみを感じています。イエスは神の子キリストと信じて聖霊を受けた者同士なら、たとえ地上で会ったことがなくても父・子・聖霊の親しい交わりの中に入れられていることを感じることができますから、本当に感謝に思います。

私たちを雲のように取り巻く信仰の先輩たち
 きょうの聖書交読ではヘブル人への手紙を開きました。週報のp.3にも載せましたが、12章1節にはこのように書かれています。

ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 この12章の前のヘブル書11章には、アダムの子のアベルから始まって、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセなどの先人たちの信仰のことが書かれています。そうしてヘブル書の記者は12章1節で、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と書いています。

 ヘブル書の記者がこの手紙を書いている相手は1世紀のクリスチャンです。1世紀のクリスチャンを、これらの信仰の先輩たちが雲のように取り巻いていました。そして21世紀の私たちも同じ聖霊を受けたクリスチャンですから、やはりアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセなどの信仰の先輩たちが私たちを雲のように取り巻いています。そして同様にしてこの静岡教会の先に天に召された先輩たちもまた、私たちを雲のように取り巻いています。

 こうして私たちは先輩たちが雲のように取り巻く中で一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、忍耐をもって信仰の道を走り続けます。私たちの地上生涯には困難が多くて大変なことも多いですから、もし一人でこの信仰の道を走らなければならないとしたら、苦しいばかりで耐えられないかもしれません。

 しかし、私たちには礼拝に共に集う兄弟姉妹がいます。そうして互いに祈り合って励まし合うことができます。そしてさらには先に天に召された信仰の先輩たちが雲のように私たちを取り巻いています。何とも心強いことだと思います。

 しかも、そこにはイエスさまも共にいて下さって、御父までもがいて下さいます。なぜなら御父とイエスさまとは一つだからです。週報p.3に載せましたが、ヨハネは福音書の10章30節で、

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

と書いています。

受洗後に身近になったクラーク先生

 ここで私が経験したことの証しを一つ挟みたいと思います。それは、私がクリスチャンになって初めて、札幌農学校の初代の教頭のクラーク先生のことを身近に感じるようになったという経験です。

 私は1978年に北海道大学に入学しました。北大は最初は札幌農学校として1876年に開学しました。ですから私が入学した年の2年前に開学100周年記念事業が行われていました。入学した頃はまだ、その100周年事業の余韻が残っていて、大学生協の本屋には北大百年に関する本や初代教頭のクラーク先生に関する本などがたくさん置かれていました。

 ちなみに私は北大百年を2年遅れで逃してしまいましたが、静高百年のほうは1年早く卒業したために逃してしまいました。静高百年は私が卒業した年の1978年に、卒業した後で祝われました。また安東小学校の開校百年が1974年に祝われた時も、私は2年前に卒業してしまっていましたから行事に出席することができませんでした。このように私は1~2年早かったり遅かったりで小学校、高校、大学の開学百年に現役の生徒としてどれにも参加することができませんでしたから、とても残念に思っています。

 さて北大に話を戻すと、私は大学生の頃、クラーク先生のことを百年前の大昔の人だと感じていました。遠い昔の人だと思っていましたから、親しみを感じることもほとんどありませんでした。それが、2001年のクリスマスに高津教会で洗礼を受けて、2003年に学会で北大を訪れた時に、自分がクラーク先生にかなり親しみを感じていることに気付いて、とても不思議な気持ちになりました。

 また単に親しみを感じるだけでなくて、1978年には百年前の大昔の人と感じていたクラーク先生のことを、わずか百年前のつい最近の人だと感じるようになっていました。

 これは正に聖霊の働きによるものでしょう。2003年の当時は、この聖霊の働きについて深く思い巡らすことはありませんでしたが、その後、神学校に入ってから聖霊の働きについて深く思いを巡らすようになり、或いはまた姫路の教会に派遣されて以降にヨハネの福音書は父・子・聖霊が重なる独特の重なりの構造を持っていることが分かって来るにつれて、聖霊にはこのようにとても興味深い働きがあることを私は理解しました。

 つまり、自分が聖霊を受けると、大昔の人であっても同じように聖霊を受けた人なら、とても身近に感じるようになるということです。

聖霊に満たされる喜び
 ここで今日の聖書箇所のヨハネの手紙第一の冒頭の箇所をご一緒に読み、その後に私の経験について改めて考察して、最後に今日の午後に予定している墓前記念会のことにも、少し触れたいとおもいます。
 それでは、ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 まず4節から見て行きます。ヨハネは4節で「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです」と書いています。この喜びとは、聖霊に満たされる喜びです。聖霊に満たされて父・子・聖霊の交わりの中に入れていただくこと、これほど大きな喜びはないでしょう。

 私たちの生活は苦しいことが多いですが、時にはうれしいこともありますね。そのような時に私たちは喜びに溢れます。大人になる前のことで言えば、高校や大学の入学試験に合格することは大きな喜びでしょう。学校で自分が所属したり応援したりしている部活が地方大会や全国大会で良い成績を上げれば、それも大きな喜びでしょう。部活でなくても習い事などが上達することもまた大きな喜びです。

 大人になって仕事で良い働きができたら大きな喜びがありますし、新しい家族ができて子供や孫に恵まれることも大きな喜びでしょう。

 では、これらの人生における喜びと、聖霊に満たされる喜びとを比較するとどうでしょうか。きのう私はメッセージの準備をしながら、このことに思いを巡らしていました。そして示された聖句が、週報p.3に載せたヨハネ16:13と8:32です。

ヨハネ16:13 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」
ヨハネ8:32 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 聖霊に満たされると私たちを真理を知り、真理は私たちを自由にします。この聖霊によって与えられた自由を感じる喜びは、人生の中で味わう入試の合格や新しい家族ができた時の喜びとは一味も二味も違う、魂の領域の深い喜びです。

魂の自由を知る喜び
 先週の礼拝メッセージで私は時間に縛られているイエスさまの話をしました。聖書の読者の多くはイエスさまを紀元30年頃の時間に縛り付けてしまっています。しかしイエスさまは実は時間から自由になっているお方です。

 その時間から自由になっているイエスさまは旧約の時代のエリヤの中にもいて、同時に使徒の働きの時代のピリポやペテロやサマリア人たちの中にもいます。さらにイエスさまは同時にまたモーセの中にもいますし、エリシャの中にもいますし、21世紀の私たちの中にも同時にいます。昔モーセの中にいたイエスさまが何千年か経過した後に今は私たちの中にいる、というのではなくて、イエスさまはモーセの中にも私たちの中にも同時にいます。これが時間から自由になって永遠の中にいるイエスさまです。

 聖霊に満たされて、この時間から自由になった永遠の中のイエスさまとの交わりの中に入れていただくなら、私たちの魂もまた時間から解放されて自由になります。私たちの体は時間に縛られていますが、魂は自由になることができます。

 この魂の自由を知ることは素晴らしい喜びです。この魂の自由を知る喜びを私は多くの方々と分かち合いたいと願っています。そうすれば多くの方々が心の平安を得て、世界は平和へと向かって行くだろうと思います。

イエスと弟子たちとの交わりがあったからこそ
 ただし、これは霊的な領域のことですから、目に見えない霊を感じることは難しいことです。その難しいことを容易にするために、イエスさまはペンテコステの日以降に私たちに聖霊を与える前に、まずは肉体を持って弟子たちと過ごす時を持って下さいました。ヨハネの手紙第一1章1節から3節までにヨハネはそのことを書いています。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

 このヨハネたちによる肉体を持ったイエスさまとの交わりの証しがあるからこそ、21世紀の私たちもまた、イエスさまを信じて聖霊を受けるなら、イエスさまとの交わりをしっかりと感じることができるのですね。本当に感謝なことです。

 先に天に召された信仰の先輩たちは、すでに体の縛りから自由になっていますから、イエスさまと同じように時間の縛りから自由になっていることでしょう。地上にいる私たちの場合には体に縛られていますが、聖霊に満たされるなら先輩たちと同じように父・子・聖霊の交わりの中に入れていただくことができることに感謝したいと思います。

クラーク先生はわずか百年前の最近の人
 話を2003年の私の経験に戻します。この時の私は洗礼を受けてから一年半しか経っていませんでしたから聖霊についての深い理解はありませんでした。しかし聖霊の働きによってクラーク先生のことをわずか百年前のつい最近の人として感じて、親しみを感じていたのだと思います。

 2003年の私は高津教会のメッセージを聞いて旧約聖書の学びも始めていましたから、そのことも大きな助けになっていたと思います。私は2001年に洗礼を受けてからの何年かは自分で聖書を積極的に読むことをしておらず、専ら礼拝のメッセージから聖書を学んでいました。

 高津教会の礼拝メッセージは2001年と2002年は新約聖書が中心でしたが、2003年の1月からは藤本先生の「祈り人びと」のシリーズが始まっていて、アブラハムから順に旧約の時代の人々について学んでいました。旧約の時代は新約の時代からもさらに何千年も前のことです。そのような何千年も前の人々のことを、私は身近に感じるようになっていました。

 クリスチャンになった私は何千年も前の旧約の時代の人々を身近に感じるようになっていましたから、わずか百年ちょっと前のクラーク先生は本当に最近の人です。1978年に北大に入学してから洗礼を受ける2001年まで、私にとってのクラーク先生はずっと大昔の人物でした。北大で学生として過ごしている間も、その印象は変わりませんでした。それがイエスは神の子キリストと信じてクリスチャンになってからはクラーク先生を身近に感じるようになりましたから、それはやはり聖霊の働きによるのだということになるでしょう。

 そういうわけで、私は先に天に召された静岡教会の先輩方のほとんどとお会いしたことはありませんが、クラーク先生と同じように親しみを感じています。そうして先輩方が雲のように取り巻いていることを感じます。私たちがモーセやエリヤ、ペテロやヨハネ、そして、この教会の信仰の先輩方に親しみを感じるのは、時間から自由になっているイエスさまがおられて、イエスさまはその先輩方と共におられるのと同時に私たちにも共におられることを覚えて感謝したいと思います。

墓への埋葬が繰り返されることの感謝
 さて、きょうはお天気が今一つすっきりしませんが、おそらく藤枝霊園に行って墓前記念会を行えるだろうと思っています(雨が降り出せば来週に順延します)。最後に簡単に、墓前記念会で引用する予定の列王記第一の聖句について触れておきたいと思います。

 週報に挟んだ午後の墓前記念会のプログラムに、列王記第一の聖句を載せました。

【 列王記第一2章10節 】
 こうしてダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。
【 列王記第一11章43節 】
 ソロモンは先祖とともに眠りにつき、父ダビデの町に葬られた。
【 列王記第一14章31節 】
 レハブアムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。

 このように、ダビデの子孫たちは王位を受け継いで、亡くなればダビデの町に葬られて行きました。ご承知のように四百年後にエルサレムはバビロン軍に滅ぼされましたが、それまではダビデの子孫たちは王位を受け継いで、亡くなれば葬られることが続いて行きました。エルサレムが滅んだことは残念なことでしたが、形あるものはいつかは滅びますから、滅びる前の時代に、王位が受け継がれて行ったことに目を向けて、神様の御守りに感謝したいと思います。

 この春、沼津教会は働きを終えてシオン教会と合流しました。去年の今頃の合流へと向かっていた時期の私たちの大きな悩みの一つが、沼津教会の墓地をどうするかということでした。しかし不思議な導きによって他の教会に引き継いでいただくことができました。

 先週の礼拝に、その教会の兄弟が参加して下さいましたね。話を聞いたら、つい最近、納骨式があって兄弟も参加したそうです。そのことを聞いて、とても感謝に思いました。信仰の先輩たちの遺骨を納めた墓地が引き継がれていくことにも主の御守りがあることを覚えて、心から感謝に思いました。

 藤枝にある静岡教会の墓地が主によって守られていることもまた、感謝したいと思います。私は初めて訪れますが、きょうはそのことを感じて来たいと願っています。車で行きますから交通の安全のことも祈っていていただきたいと思います。

おわりに
 きょうのメッセージのタイトルは『五旬節に向けての聖霊の学び(2)』でした。ヘブル書12章1節にあるように、信仰の先輩たちが私たちを雲のように取り巻いています。時間から自由になっているイエスさまはその先輩たちと今も共にいて、聖霊を受けた私たちともイエスさまは共にいて下さいますから、私たちは先輩たちと共にヨハネの手紙第一にあるように御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられています。このことを感じながら、イエスさまに心いっぱい感謝したいと思います。

 これらのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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恵みのスリットを全開にしよう(2019.5.16 祈り会)

2019-05-17 10:00:51 | 祈り会メッセージ
2019年5月16日祈り会メッセージ
『恵みのスリットを全開にしよう』
【民数記14:1~11】

はじめに
 私が静岡に引っ越して来てから、1ヶ月と1週間が経ちました。転任に伴ってしなければならなかったことが、ようやく片付いて来て感謝に思っています。

 礼拝と祈り会のメッセージはどの教会にいてもすることですから、準備に時間を掛けることはどこにいても同じですが、転任すると週報のフォーマットが変わりますから、先ずはこのことに適応するのが大変でした。1ページ目と4ページ目は前任の教会とまったく異なります。加えて2ページ目と3ページ目もまったく異なるものとなったら対応できないと思いましたから、2ページ目と3ページ目は前任地と同じスタイルにさせていただきました。

 それから引っ越して来た翌々週に静岡教区の教区会がありました。私は書記ですので、議事録の作成に時間が掛かり、その間、転任事務の作業が少し滞りました。しかし先月までに法務局での代表役員変更の登記申請も終えることができ、先週の水曜日には新しい登記簿の受取りが可能になりましたから、今週はその登記簿を添付した「代表役員変更登記完了届」を静岡県庁の宗教法人の担当部署に行って提出して来ることができました。

 また、併せてこの教会の役員名簿、財産目録、収支計算書の事務所備付書類も提出して来ました。またその際に、教会規則の扱いについても質問することができました。

古いものは新しくして次世代に継承する
 現在の私たちの教会の教会規則の原本は、65年前の昭和29年に手書きで作成されたものです。この教会規則の漢字には旧字や略字が多用されていて読みづらいものです。皆さんのお手元にワープロに打ち直して印刷したものをお配りしました。ワープロの活字になっていますから、読みにくさは感じないかもしれませんが、手書きの原本は読み易くありません。

 そこで次の役員会の議案として、来年1月の教会総会での承認を目指して、教会規則を現代の常用漢字に改めたものを新しい原本にすることを提案したく思います。その際には漢字を改めるだけでなく、現状や現代感覚に合わなくなっていることも変えたらどうかと思います(細かいことは役員会で話します)。

 また、今週は静岡市の担当者が来て、50年前に建てた会堂の電気設備に有害物質が使われていないか調査して回答するようにとのことでした。ちょうど私たちの間でも照明をLEDに変えようかという話が出ていたところですから、良い機会だと思います。このこともまた次の役員会で諮りたいと思います。そうして、規則や設備面において古いものは新しくして、教会を次世代へと継承して行きたいと思います。

 さて、そうして次世代への教会の継承を考えて行く時に、規則や設備ではない信仰面ではどうしたら良いかを今週私は思い巡らしています。その中で示されたことを、きょうはお話ししたいと思います。

恵みのルートを塞いではいないか
 それは、神様が私たちに思いもよらない方法で恵みを与えて下さろうとしていることを、まずは単純に信じるべきだろうということです。神様はいろいろなルートを使って私たちに恵みを与えようとして下さっています。しかし、人間の側がルートを狭めてしまって神様が使えるルートを塞いでいるのではないか、そんな風にも感じます。

 今年は1969年に人類が初めて月面に着陸してから、ちょうど50年になります。7月20日が月着陸の日だそうです。今年の2月に私はアポロ11号の船長ニール・アームストロングが主人公の映画『ファースト・マン』を沼津で観て感銘を受けました。それで原作本を邦訳した文庫本の『ファースト・マン(上・下)』(ハンセン著、日暮・水谷訳、河出文庫 2019)も買いました。ゆっくり読む時間がなかなか取れなくて今週になってようやく読了することができました。その中に、こんな記述が最後のほうにありました。

「残念ながら、この陰謀説が信じられている時代はまだ過ぎ去ってはいない。2016年にイギリスのある全国紙がおこなった世論調査によると、『イギリス人の52%が、月着陸は実際にはおこなわれなかったと信じている』という。」(下巻p.282)

 皆さんは、アポロ11号の陰謀説をご存知でしょうか。アポロ11号の月着陸は実際には行われず、月面を歩く宇宙飛行士や月着陸船の写真は地球上のスタジオで撮影された映像であるというものです。なぜそんなことを信じる人がたくさんいるのか、私には理解できません。月着陸のような偉業が1969年の人類にできたはずがないということなのでしょうか?これは、とても不幸なことだと思います。そんな風にして人間が行った偉業を否定してしまうとしたら、ましてや神様の御業に対しては、もっと否定的になることでしょう。

人知を超えている「光の二重性」
 ここで量子力学の例えを使いたいと思います。量子力学の世界では人知を超えることが起きています。皆さんは光が「波」と「粒子」の両方の性質を持つという話をどこかで聞いたことがないでしょうか。この光が「波」と「粒子」の両方の性質を持つことを「光の二重性」と言います。光は観測している時は「粒子」の性質を示して、観測していない時は「波」のような性質を持ちます。

 例えばカメラであれば光を観測しているのはフィルムの部分です。デジカメで言えば撮像素子です。カメラのフィルムは光が当たった部分が感光して、現像するとその部分が黒くなります。光がフィルムに当たった場所は点として記録されますから、この時、光は「粒子」の性質を示しています。この光の粒を「光子」と言います。

 では、フィルムの手前のレンズを通過している時の光子はどうでしょうか。この時、光子は「波」として広がりを持っているようです。「ようです」と言うのは、観測していないから実際のことは分からないからです。観測してしまうと「粒子」になってしまいます。しかし、観測しないと「波」のような広がりを持っているようです。

 それは二重スリットの実験結果から分かっています。この実験ではレンズの変わりにスリットをフィルムの手前に置きます。スリットというのは光が通る細い隙間です。スリットが一本であれば、光はもちろん、その一本のスリットを通過します。

 ではスリットを二本にしたらどうなるでしょうか。もし光が「粒子」だとしたら、二本のうちの片方の一本しか通らないはずです。しかし、実験結果では光は「波」の性質を示して、一つの光子が同時に二つのスリットを通ったかのような結果を示します。

 一つの光子が二つのスリットを同時に通ることは人間の直感に反することですから、理解するのが困難です。人知を超えているとも言えるでしょう。こういう人知を超えることが量子力学の世界では実際に起きています。スリットが一つであれば人間の知恵の範囲内のことしか起きません。人間の知恵の範囲内のことしか起きていなければ、人はそのほうが安心していられるかもしれませんね。

スリットを全開にしないと見えて来ない神の霊としてのイエス
 これを信仰に置き換えると、せっかく神様が複数のスリットを通して人知を超えた恵みを私たちに与えて下さろうとしているのに、人間の側でスリットを一つにして安心しようとしている気がします。

 先日の礼拝メッセージで話した、ヨハネの福音書の読まれ方も同様です。今のヨハネの福音書の読まれ方は、マタイ・マルコ・ルカの福音書の読まれ方と同じで、読者はイエスさまを紀元30年頃の人間のイエスさまとして読んでいます。これはスリットを一つしか開けていない読み方です。このほうが人間的には安心かもしれませんね。

 しかし、一つだけでなく他のスリットも全開にするなら、旧約の時代の預言者たちの中にいるイエスさまや、使徒の働きの時代のピリポやペテロやサマリア人たちの中にいるイエスさまが、霊的に見えて来ます。

 人間の目で観測できるイエスさまは人間としての地上生涯のイエスさまですから、紀元30年頃にしかいません。しかし観測しない時の神の霊としてのイエスさまは波のように広がっていて旧約の時代にも新約の時代にも同時におられます。

 このようにしてイエスさまは複数のスリットを通して人知を超えた恵みを私たちにもたらそうとして下さっているのに、人間の側で一つのスリットしか開けずに他のスリットを閉じてしまっているのは、何とももったいない話だと思います。スリットを一つしか開けないと紀元30年頃のイエスさましか現れませんから、他のスリットも全開にして旧約の時代と使徒の働きの時代のイエスさまも感じることができるようになりたいと思います。

恵みのスリットをすべて閉じたイスラエル人
 さて、きょうの聖書箇所のイスラエル人たちは、恵みをもたらすスリットをすべて閉じてしまっています。せめて一つだけでも開ければ良いのにと思いますが、すべてのスリットを閉じています。ただしヨシュアとカレブは、スリットを全開にして、神様が素晴らしい恵みを与えて下さると信じていました。民数記14章の7節と8節ですね。二人は言いました。

「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もしが私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。」

 しかし、イスラエル人たちは恵みのスリットを完全に閉じていました。一つぐらいは開けても良さそうなものですが、全部閉じてしまっています。2節、3節、4節、

「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜは、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」

 私たちはヨシュアとカレブのように、スリットを全開にして、神様が不思議な方法で与えて下さろうとしている恵みを待ち望みたいと思います。

おわりに
 隣の土地が与えられたことも、とても不思議なことだと思いますから、神様はすでに私たちに素晴らしい恵みを与えようとして下さっています。ですから神様は私たちが思いもよらない方法で素晴らしいことをして下さるということを単純に信じて待ち望みたいと思います。

 そして、その恵みが与えられるためには私たちが何をすべきなのか、神様の教え導きの声をしっかりと聞き取ることができるように、私たちはもっと霊的に整えられた者たちになりたいと思います。ペンテコステの日に向かって私たちがますます霊的に整えられますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もしが私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。」
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今朝の思い巡らし(2019.5.15)

2019-05-15 08:31:14 | 折々のつぶやき
 駐車場の南側にガラス戸付きの掲示板を設置して、さつま通り(バスも通る比較的交通量の多い通り)の歩道を歩く人に見てもらえるようにしてもらうことを提案していたところ、次の役員会までに見積りを取っておくことを勧められましたから、昨日、看板の業者にお会いして見積りを依頼しました。

 そこで、外に向けてどのような伝道をしたら良いかについて今朝のディボーションの時に改めて思いを巡らしました。以下に子供(12歳ぐらいまで)、若い人(中学生~30歳ぐらいまで)、大人(30歳以上)に分けて、今朝思い巡らしたことを書きます。

 まず大人の方々には、「心の奥底に不安を絶えず感じるのは自分の魂が渇いているから」と気付いていただきたいと思います。そして魂の渇きが癒されるためには、神の霊によって魂に潤いが与えられる必要があることを知っていただきたいと思います。このことのために「詩篇を味わう会(仮称)」を開いたらどうだろうかと思っていますが、継続的に集まってもらうには工夫が必要だと思いますから、いま少し考えてみたいと思います。

 次に若い人には、聖書がいかに魅力に溢れた面白い書物であるかを知ってもらいたいと思います。聖書は古い書物ではありません。聖書を読む時、読者には神からの新しい語り掛けが常にありますから、読むたびに新しい発見があります。そして、もしイエスを時間の縛りから解き放つなら、さらに聖書を楽しむことができます(先日の礼拝メッセージで話したように、聖書の読者はイエスを時間に縛り付けています)。イエスはまるで量子力学の量子のように観測していない時には神として時空の中で波のように広がっており、観測している時には人間として紀元30年頃に存在しています。明日の木曜日の祈り会では、このことを話そうかと思っています。

 そして子供たちに教会に来てもらうためには、親の理解を得ることが必要でしょう。そのためには聖書の学びを「これからますます国際化する社会を生きるために必要な教養」として位置付けたらどうかと思いました。もちろん聖書を信仰書として学んでもらえるならそれが一番だと思いますが、教養書として学んでもらうことにも意味があるのではないかと思いました。聖書は世界で一番読まれている書物だからです。21世紀の現代では静岡にも多くの外国人が来たり住んだりしていますし、子供さんが将来、静岡から出て行って多くの外国人と交流することになるかもしれません。教養として聖書を学んでいれば、交流の深まり方もまた違って来るのではないでしょうか。

 これからも時々、この「牧師のつぶやき」の中でその日に思い巡らしたこと等を書いて行きたく思います。
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五旬節に向けた聖霊の学び1(2019.5.12 礼拝)

2019-05-13 11:51:52 | 礼拝メッセージ
2019年5月12日礼拝メッセージ
『五旬節に向けた聖霊の学び(1)』
【ヨハネ4:1~8、39~42】

はじめに
 きょうの聖書交読ではエレミヤ書20章を開かせていただきました。今の私の気持ちがエレミヤに近いと感じたからです。

 エレミヤは主からことばを与えられて、それをエルサレムの人々に伝える使命が与えられていました。主は人々が悔い改めることなく主に立ち返らないならエルサレムを滅ぼすと警告していました。しかしエルサレムの人々は警告を聞かず、祭司のパシュフルはエレミヤを捕らえて打ち、足かせにつなぎました。それゆえエレミヤは心が折れそうになり、もう主のことばを宣べ伝えまいと思います。しかし、エレミヤは自分に与えられた主のことばを内にしまっておくことができませんでした。エレミヤ20章9節をお読みします。

エレミヤ20:9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。

 私にも主からことばが与えられていて、人々に伝える使命が与えられています。それを伝えるべく努力しましたが、伝え方が悪かったようで上手く伝わりませんでしたから、一時は心が折れました。そして、それからはその使命は私の内にしまっておきました。しかし、その結果、内にしまっておくのに耐えられなくなりました。

 そこできょうは、私に与えられている使命を皆さんにお伝えしようと思います。ただし、前と同じ失敗は繰り返したくありませんから、以前とは伝え方を根本的に変えます。これから話す伝え方で皆さんに伝わることを願ってやみません。

イエスを時間に縛り付けている聖書の読者
 私に与えられている使命とは、次のようなものです。

 いま聖書の読者はイエスさまを時間に縛り付けています。時間に縛り付けられた状態のイエスさまは人々に十分な平安を与えることができないでいます。ですから、私に与えられた使命はイエスさまを時間から解放するように聖書の読者を説得し、それによって人々が平安を得て世界が少しでも平和に向かうようにすることです。

 もちろんイエスさまは時間に縛られるようなお方ではありません。しかし、為されるがままになっています。十字架と同じですね。イエスさまは十字架に付けられるようなお方ではありませんでしたし、抵抗すれば逃れることもできたでしょう。しかしイエスさまは抵抗せずに為されるがままに十字架に付けられました。

 私たちはイエスさまを紀元30年頃という時間の中に縛り付けています。このことを悔い改めてイエスさまを紀元30年頃から解き放てば、私たちは人知を遥かに超えたキリストの大きな愛を理解できるようになり、世界は大きく変わって平和へと向かうと私は確信しています。

 ただし一足飛びに世界が変わるはずがありません。世界が変わるには、まず日本が変わる必要があります。日本が変わるには静岡が変わる必要があります。静岡が変わるには田町が変わる必要があります。田町が変わるためには、まずは私たちがイエスさまを時間に縛り付けていることを自覚して悔い改め、変わる必要があります。悔い改めるなら、これまでに無いくらいにどっぷりと聖霊に満たされるようになり、大きな平安を得ることができることでしょう。

(聖書の読者がイエスを時間に縛リ付けることになってしまった理由を考えると、仕方のない面もあります。1世紀の後半から2世紀に掛けては仮現論のように「イエスの肉の体は単なる見せかけで、イエスは実際には肉の体を有していなかった」という異端が跋扈していました。それゆえ教会はそれらの異端を排除するのに躍起になっていました。そうしてイエスが肉の体を実際に持っていたことを強調するあまり、イエスを紀元30年頃に縛り付ける結果になったと考えます。)

心は重力から解放されつつある私たち
 これまでの礼拝メッセージで話して来たように、私たち大人は日々の糧を得なければなりませんから日々の生活に縛られ、また財産にも縛られています。或いはまたプライドというやっかいなものにも縛られています。プライドはいったん脱ぎ捨てたと思っても、すぐにまたまとわり付いて来るやっかいなものです。これらは私たちが神様と深く交わることを阻みます。ですから、これらの縛りから解き放たれるなら、私たちは神様との深い交わりに入れられるはずです。ところが、私たちは神様との深い交わりの中になかなか入ることができません。なぜでしょうか。

 それはプライド以上にやっかいな問題として、私たちが体に縛られているからです。体に縛られていると私たちは重力と時間に縛られます。

 重力に縛られていると物が落ちる方向が「下」になり、その逆が「上」になります。しかし無重力の国際宇宙ステーションの中では「上」も「下」もないそうです。私たちが認識している空間の捉え方とは随分と違いますね。21世紀に入ってからは国際宇宙ステーションに絶えず人が入れ替わりながら常駐しています。そして、インターネットを通して国際宇宙ステーションで生活する宇宙飛行士の様子も簡単に知ることができるようになりました。地上にいる私たちの体は重力に縛られていますが、心のほうは宇宙飛行士を通じて重力から解放されつつあると言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

時間からも解放されるべき私たち
 すると残された課題は、私たちは時間からも解放されるべきであるということでしょう。体はどうしても時間に縛られます。しかし心は別です。心は時間に縛られません。それは重力と同じです。

 私たちの体は重力に縛られていますが、心は別です。「上」と「下」の区別が存在しない空間のことを地上にいながらにして私たちは不完全ながらも、ある程度は心の中に思い描くことができるようになりました。それと同様に時間に関しても「過去」と「未来」の区別が存在しない、時間に縛られない世界を不完全ながらも思い描くことができます。そうして私たちの心が時間の縛りから解き放たれるなら、イエスさまを時間の縛りから解き放つことができます。

 私たちの体は年とともに老いて行きますから、私たちの体が時間に縛られるのは仕方のないことです。私たちの体は決して若返ることはありません。この一方通行の時間の流れがあるために、私たちの心の中には「過去」と「未来」という概念が形成されてしまっています。

 この「過去」と「未来」の概念が私たちを縛ります。重力があると「上」と「下」という概念が形成されるのと同じと言って良いでしょう。しかし今や私たちの心は重力から解放されて上と下という概念から解放されつつあります。ですから私たちは時間においても「過去」と「未来」という時間の概念から解放されて自由にならなければなりません。なぜなら私たちが時間に縛られているとイエスさまを時間の十字架に付けてしまうからです。

 イエスさまは本来は「過去」も「未来」もない永遠の中におられる自由なお方です。そのイエスさまを私たちは時間の十字架に縛り付けてしまっています。

紀元30年頃のイエスを描いた書として読まれているヨハネの福音書
 私たちがいかにイエスさまを時間に縛り付けてしまっているか、それはヨハネの福音書の読まれ方を考えれば分かります。私たちはヨハネの福音書のイエスさまを、マタイ・マルコ・ルカの福音書のイエスさまと同じように、紀元30年頃のイエスさまとして見てしまっているでしょう。つまりイエスさまを紀元30年頃という時間の十字架に縛り付けてしまっています。

 しかし実はヨハネの福音書のイエスさまは本来は全く時間に縛られていません。そのことを、きょうはヨハネ4章から見て行きますから、ぜひ皆さんは従来の固定観念に縛られないで、きょうのメッセージを聞いていただきたいと思います。

 まずヨハネ4章1節から3節までをお読みします。

4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

 ここでヨハネが描いているイエスさまは、地上生涯のイエスさまではなく、使徒の働きの時代のイエスさまです。使徒の働きの時代、イエスさまは弟子たちの内にいました。弟子たちは聖霊を受けていましたから、イエスさまは弟子たちの内にいました。そうして使徒の働きの時代の弟子たちの内にいたイエスさまが人々にバプテスマを授けていました。

ピリポの内にいたイエス
 そして弟子たちの内にいたイエスさまはヨハネ4章でサマリアに行きましたから、この時のイエスさまはサマリア伝道を行ったピリポの中にいました。週報のp.3にその箇所を貼り付けておきました。

使徒8:5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 ここにいるイエスさまが地上生涯のイエスさまではないことは、ヨハネ4章の34節からも分かります。34節、

4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

 私たちが時間に縛られていなければ、この記述はイエスさまが紀元30年頃にはいないことを表していると分かるでしょう。そうして私たちが時間の縛りから解放されるなら、時間に縛られていないイエスさまを描いたヨハネの福音書の面白さを存分に味わえるようになります。きょうは是非、その面白さを味わっていただきたいと思います。

旧約の時代の預言者エリヤの内にもいたイエス
 次に7節と8節、

4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 ヨハネはここからしばらくの間、旧約聖書のエリヤの時代にいるイエスさまを描いています。8節で弟子たちが町へ出掛けて舞台から退場したのは、弟子たちは使徒の働きの時代に縛られているからです。後でまた弟子たちが戻って来ますから、その時にはまた使徒の働きの時代に戻っています。一方、イエスさまは時間に縛られていませんから、旧約聖書のエリヤの時代にも新約聖書の使徒の働きの時代にもいます。

 さて、イエスさまは7節で「わたしに水を飲ませてください」とサマリアの女に言いました。この時、イエスさまはツァレファテでやもめに出会ったエリヤの中にいました。旧約聖書の預言者にも聖霊が注がれていましたから、イエスさまはエリヤの中にいました。エリヤがやもめに出会って「水を飲ませてください」と頼んだ場面を週報p.3に貼り付けておきました。列王記第一の17章10節です。

列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪(たきぎ)を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 このエリヤの中にはイエスさまがいました。ですから、サマリアの女はツァレファテのやもめです。

不信仰だった北王国の王たち
 エリヤの時代の北王国の王様はアハブ王でした。アハブ王は不信仰な王として有名で、妻のイゼベルもまた不信仰で有名です。北王国の王たちは初代のヤロブアム以来、皆が不信仰な王たちでした。そのような不信仰な王の支配下で暮らさなければならなかった民はとても不幸でした。サマリアの女はそのような不幸な北王国の民たちの代表でもあります。サマリアの女もまた時間に縛られていませんからヤロブアム王からアハブ王までの北王国の民にもなることができます。そのことを表しているのが「五人の夫」という表現です。

 アハブ王の前、北王国には五人の王たちがいました(民が王と認めなかった在位7日間のジムリを除くヤロブアム、ナダブ、バアシャ、エラ、オムリの五人)。ですからイエスさまがヨハネ4章18節で、

ヨハネ4:18 「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

と言った時の五人の夫とは、この五人の王たちのことです。女はやもめでアハブ王はこの女の夫ではありませんから、今一緒にいるのは夫ではないというのは本当のことです。
 私たちが時間に縛られていてイエスさまを時間の十字架に縛り付けてしまうと、サマリアの女のことも紀元30年頃に縛り付けてしまって、紀元30年頃の五人の夫を想像することでしょう。

 しかし私たちが時間から解放されるならサマリアの女のこともまた、時間から解き放つことができます。ただし弟子たちは使徒の働きの時代に縛られていますから、一旦退場していました。その弟子たちが27節に戻って来ましたから、イエスさまとサマリアの女は使徒の働きの時代に戻っていました。

ピリポが種を蒔き、ペテロとヨハネが刈り入れた
 イエスさまは弟子たちに言いました。ヨハネ4章の35節から38節までを交代で読みましょう。

4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
4:38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 37節でイエスさまは「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです」とおっしゃいました。これが何を意味するか、少し丁寧に使徒の働き8章を見ることにします。使徒8章を開いて下さい(新約聖書p.248)。先ほども言いましたが、5節でピリポがサマリアに下って行きました。そして6節でサマリアの人々がピリポの話に関心を持ったとあります。その結果、12節に、

8:12 人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。

とあります。しかし、サマリアの人々はまだ聖霊を受けていませんでした。聖霊を受けたのはペテロとヨハネがサマリアまで行って、彼らの上に手を置いてからでした。14節から17節までを交代で読みましょう。

8:14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
8:15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
8:17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 つまりピリポが種を蒔いて、ペテロとヨハネが刈り入れました。労苦したのはピリポで、ペテロとヨハネはその労苦の実に与りました。このようにヨハネ4章の後半が使徒の働き8章の状況を描いているのは明らかです。この時のイエスさまはピリポの中、そしてさらにペテロとヨハネの中にもいました。

イエスと霊的に出会ったサマリア人たち
 そしてサマリア人たちも聖霊を受けましたから、サマリア人たちの中にもイエスさまは入りました。その状況がヨハネ4章の39節から42節までに書かれています。交代で読みましょう。

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 この42節は非常に重要です。私たちは自分が聖霊を受ける前までは、人の話を聞いてイエスさまを信じるしかありません。聖霊を受けなければイエスさまは内に入って下さらないからです。ですから牧師やクリスチャンの先輩の話を聞いて、イエスさまを信じます。そうしてイエスさまを信じて聖霊を受けるとイエスさまが内に入って下さいますから自分でイエスさまの声を霊的に聞くことができるようになり、42節にあるように、この方が本当に世の救い主だと分かるようになります。

時間から解き放たれたイエスを証言すべき21世紀の私たち
 きょうのメッセージのタイトルは、『五旬節に向けた聖霊の学び(1)』です。6月9日のペンテコステの日に向けて、聖霊について学んで行きたいと願っています。きょう学んだことは、私たちは聖霊を受けるとヨハネ4章42節にあるようにイエスさまと霊的に出会うことができるようになるということです。そして、イエスさまと霊的に出会うなら、イエスさまが時間に縛られていないお方であることが、本当なら分かるはずです。

 しかし、私たちが時間に縛られているためにイエスさまのことも時間に縛り付けてしまっていて、イエスさまが本来は時間に縛られていない方だと気が付くことができないでいます。

 体に縛られている私たちは重力に縛られていますが、21世紀の現代では重力から解放されている国際宇宙ステーションの中に人が常駐しています。その国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士がインターネットを通じて毎日のように情報を発信していますから、私たちの心は重力から解放されつつあります。

 重力の次に私たちが解放されなければならないのは、時間の縛りからです。そうして私たちがイエスさまをも時間に縛り付けてしまっていることに気付き、イエスさまを時間の十字架から解き放つなら、時間に縛られないイエスさまから、これまでにない大きな恵みを受けることができるでしょう。

 週報のp.3に載せましたが、イエスさまはヨハネ20章で3回も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。しかし、クリスチャンに真の平安はなく、キリスト教国と呼ばれる国は戦争ばかりしています。これはクリスチャンが未だに時間に縛られていて、イエスさまを時間の十字架に付けているからです。聖霊を受けたクリスチャンが時間から解放されてイエスさまを時間の縛りから解き放つなら、クリスチャンは人知を遥かに超えたキリストの愛を受けることができるようになり、世界は必ずや平和に向かうと私は確信しています。

 聖霊の力を受けた私たちは、イエスさまとの出会いを証言するイエスさまの証人にならなければなりません。その証人の私たちがイエスさまを時間に縛り付けているとしたら、イエスさまのほんの一部しか証言できません。肉体を持って時間に縛られていた1世紀の初めのイエスさまはイエスさま全体から見ればごく一部でしかないからです。それではいくら一生懸命にイエスさまのことを宣べ伝えても、収穫の実を十分に刈り入れることはできないのではないでしょうか。

 国際宇宙ステーションによって重力から解放されつつある21世紀、今こそ私たちは時間から自由になっているイエスさまを証言すべきでしょう。国際宇宙ステーションに宇宙飛行士が常駐していなかった20世紀までは、従来のイエスさましか証言できなかったのも仕方のないことでした。しかし21世紀の私たちは、少なくとも心のほうは、体の縛りから解き放たれることができます。

おわりに
 きょうのヨハネの福音書4章の学びを通して、私たちの心がいかに時間に縛られているか、気付いていただけましたでしょうか。もしそのことに気付いていただけたなら、私たちがイエスさまのこともまた時間に縛り付けてしまっていることに、気付いていただけたことと思います。

 私たちは若い世代の人たちに、次世代の教会を担って行ってもらいたいと願っています。その若い人たちに向けては、21世紀の伝え方があるのではないでしょうか。これまでの伝道で上手く行っているのなら敢えて変える必要はないでしょう。しかし伝道が行き詰っている今の時代には、21世紀の伝え方を、私たちは真剣に考えるべきでしょう。そのためには、まずは私たち自身が変わらなければならないのではないでしょうか。人に悔い改めを勧める前に、まずは私たちが悔い改めなければならないのではないでしょうか。

 私自身も、主から大切な使命を与えられていながら、十分な働きができていないことを悔い改めなければなりません。そうして皆さんと共に、この田町でイエスさまの証人としての働きに励んで行きたいと願っています。皆さんのお一人お一人も、ぜひ21世紀の伝道について、お考えいただきたいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしたいと思います。
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五旬節に向けて思いを巡らす(2019.5.9 祈り会)

2019-05-10 09:11:47 | 祈り会メッセージ
2019年5月9日祈り会メッセージ
『五旬節に向けて思いを巡らす』
【出エジプト7:19~21、ヨハネ2:1~11、使徒2:1~7】

はじめに
 先日の礼拝のメッセージで私は皆さんに、ヨハネの福音書の記者のヨハネが、なぜイエスさまと預言者エリシャとを重ねたのかに是非思いを巡らしてみていただきたいと話しました。このことによって人知を遥かに超えたイエスさまの大きな愛の恵みを受け取ることができるようになると思うからです。この大きな恵みに与ることができて聖霊の力を得るなら、私たちの伝道にとっても大きな力になるだろうと思います。
 きょうは、このことをもう少し深めて行きたいと思います。

自分で思いを巡らすことで得られる聖書の恩恵
 先日の礼拝の後半で話したことを簡単に復習すると新約聖書のマタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエスさまが五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にした「五千人の給食」の記事があります。また旧約聖書の列王記第二には預言者のエリシャは大麦のパン二十個と新穀一袋で百人を満腹にしました(Ⅱ列王記4:42~44)。そしてヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカが「五つのパン」と書いたのを「大麦のパン五つ」(ヨハネ6:9)と書いてイエスさまとエリシャとを重ねました。
 では、なぜヨハネはイエスさまとエリシャとを重ねたのでしょうか。先日の礼拝では、是非このことに思いを巡らしていただきたいとお願いをしました。聖書の大きな恵みは自分で思いを巡らすことで初めて受け取ることができるようになるからです。
 算数で計算の仕方を教わったなら、必ず練習問題を解きますね。練習問題をたくさん解いて計算を自分でできるようにならないと、計算ができることの恵みを受け取ることはできません。計算ができなければ買い物に行っても二つ以上の物を買うことはできないでしょう。一つなら買えるかもしれませんが、二つ、三つと買いたい時に計算ができないと自分が持っているお金で足りるかが分かりませんから安心して買い物もできません。自分で計算できるようになって初めて買い物ができるなどの、恩恵に与ることができます。
 自転車のような乗り物も同じですね。まだ自転車が無かった200年以上前の昔の時代の人に自転車を見せても、それが何なのかはさっぱり分からないでしょう。そういう昔の人の前で自転車に乗って見せてあげると、なるほど、そういう乗り物なんだ、と一応は分かってもらうことはできるでしょう。しかし、自分で自転車に乗れるようにならなければ自転車の恩恵に与ることはできません。歩いたら時間が掛かる遠い場所でも自転車なら短時間で行けるという自転車の恩恵に与るには自分で乗れるようにならなければなりません。
 聖書も自分で思いを巡らさなければ、その恵みに与ることはできません。特にヨハネの福音書の場合はそのようになっていると思います。ヨハネの福音書はイエスさまとエリシャとを重ねていると耳で聞いても、それだけだと自転車に乗っている人をただ眺めているのと同じで、何の恩恵も受け取れないでしょう。是非、ヨハネはなぜイエスさまとエリシャとを重ねたのかに思いを巡らして神様との交わりの中に入れていただき、イエスさまの愛の大きさを感じ取り、その恩恵に与っていただきたいと思います。

カナの婚礼に出エジプトと五旬節を重ねたヨハネ
 ただしヨハネの福音書はそれほど単純な書ではないので、イエスさまとエリシャとの重なりを思い巡らすだけでは、なかなか、この書の恩恵には与れないかもしれません。イエスさまとエリシャとの重なりを思い巡らすことは、あくまでも第一歩です。自転車に補助輪を付けて走るようなものかもしれません。そこで、きょうはもう少しだけ複雑な重なりにも言及しますから、それについても思いを巡らしていただけたらと思います。そして、次の日曜日の礼拝からは説明を始めたいと願っています。
 では先ず、出エジプト記7章の19~21節を交代で読みましょう(旧約聖書p.110)。

7:19 はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」
7:20 モーセとアロンはが命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。
7:21 ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

 モーセが杖を上げてナイル川の水を打ったら血になったというおなじみの場面ですが、ここで覚えておきたいのは、ナイル川が臭くなったのは血が臭かったわけではなく魚が死んで腐ったから臭くなったということです。血は神殿の聖所の神の箱にも振り掛けますから聖いもので、臭いものではありません。
 さてヨハネは、このナイル川の水を血に変えたモーセを、ヨハネ2章のカナの婚礼できよめの水をぶどう酒に変えたイエスさまと重ねています。ヨハネの福音書2章の1節から11節までを交代で読みましょう。

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ここでヨハネはイエスさまとモーセとを重ねています。ぶどう酒が血に例えられていることは、私たちも聖餐式でぶどう液をイエスさまの血としていただきますから、理解できるだろうと思います。違和感があるとしたら出エジプト記では血に変わったナイル川の水が臭かったことで、良いぶどう酒とは正反対と感じるかもしれませんが、先ほども言ったように、ナイル川が臭かったのは死んだ魚が腐ったためで、血が臭かったわけではありません。
 さて、このヨハネ2章のイエスさまとモーセとの重なりは、ヨハネ6章のイエスさまとエリシャとの重なりと同じようなものです。きょうはもう少し複雑な重なりの話をすると先ほど言いましたから、これからその話をします。
 実はヨハネは、このヨハネ2章のカナの婚礼の場面を、使徒の働き2章の五旬節の日の場面とも重ねています。その箇所も交代で読みましょう。
 使徒の働き2章の1節から7節までを交代で読みます。

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。

 ヨハネの福音書2章のカナの婚礼で結婚式に招待されていたのはガリラヤ人の弟子たちでした。使徒の働き2章で聖霊を受けたのもガリラヤ人の弟子たちでした。そして聖霊は、水ではきよめられない人間の罪をきよめることができます。イエスさまの血も人間の罪をきよめます。聖霊とイエスさまの血はどちらも、水ではきよめられない人間の罪をきよめることができます。ですから、ヨハネ2章でイエスさまがきよめの水をぶどう酒に変えた場面は、使徒の働き2章でガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けた場面と重ねられています。聖霊を受けた者は救われますから、放蕩息子の父親が祝宴を催したように、カナの婚礼の祝宴の場面は救いを祝うという意味でもふさわしい場面だと言えるでしょう。

なぜヨハネはカナの婚礼に出エジプトと五旬節を重ねたのか
 では、なぜヨハネは2章のカナの婚礼の場面で出エジプト記のモーセとイエスさまとを重ね、さらに五旬節の日のガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けた場面とを重ねたのでしょうか。ここから何が見えて来るでしょうか。是非、ご自身で思いを巡らしてみていただきたいと思います。
 繰り返しになりますが、自転車がどのような乗り物かを教わっただけでは自転車の恩恵を受けることはできません。自分で自転車に乗れるようになって初めて自転車の恩恵に与ることができます。聖書も、是非ご自身で思いを巡らしてみていただきたいと思います。
 次の日曜日の礼拝メッセージからは、このことの説明を始めたいと思いますから、できればその前に、ご自分でも思いを巡らしてみていただけたらと思います。
 次聖日からは五旬節に向けて聖霊の学びを始めたいと願っています。なぜヨハネがこれらの重なりを描いたのかについても、聖霊について学ぶ中で段々と迫って行くことができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。

2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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天の支配を感じる幸い

2019-05-07 08:04:22 | 折々のつぶやき
 静岡教会に引っ越して来てから明日の水曜日で4週間になります。
 最初は週報を作ったり祈り会・礼拝のメッセージの準備をするだけで精一杯でしたが、少しずつ周囲を見回すゆとりができて来たように思います。
 昨日はこちらに来て初めて、午後になると教会の玄関の前の道路に十字架の影が見られることに気付きました。





 昨日の十字架の影の写真は午後2時半頃に撮り、下の写真は今朝7時に撮りました。ですから太陽は7時間半を掛けて反対側に回ったことになります。地球の自転を感じ、壮大なスケールの天の支配を感じましたから感謝でした。
 普段の私たちはあまりにも時計に支配されていますから、時には太陽の動きを気に掛けて天の支配を感じることは、とても大切なことだと思います。
 天の支配を感じないで時計に支配され続けるなら、やがて私たちはAIに支配されるようになってしまうかもしれません。
 AIは私たちの生活にとても役に立ちますが、決して支配されてはなりません。
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慰め、励まし、癒して下さるイエス・キリスト(2019.5.5 礼拝)

2019-05-06 09:26:07 | 礼拝メッセージ
2019年5月5日礼拝メッセージ
『慰め、励まし、癒して下さるイエス・キリスト』
【イザヤ40:1~11、マタイ11:28~30】

はじめに
 きょうは子供の日ですが、私たちの教会では先聖日に多くの子供たちがこの教会に集い、一足早く子供の日の恵みをいただき、祝福に満ちた礼拝となりましたから、感謝でした。

 その先聖日の礼拝メッセージでは『子どものように神を受け入れる者』とうタイトルで、なぜ子供のほうが大人よりも神を受け入れやすいのかについて、共に思いを巡らしました。

 子供は自分で食糧を調達することをせず、空の鳥たちが天の父に養われているのと同じように、親に養われています。つまり自分の力で生きておらずに、生かされています。また子供は財産を持っていませんから財産に縛られていません。財産を持っている大人は財産の管理に心を用いなければなりませんから、その分だけ神様に心を向けることができなくなります。

簡単には脱げないプライドの厚い鎧
 それから、やっかいな問題としてプライドの問題があります。多くの大人はプライドの厚い鎧を身に着けています。プライドの鎧を身に着けることで、自分の心を守っています。つまり自分で自分を守っています。神様を受け入れる人は、神様がその人を内から守っていて下さいます。しかしプライドの鎧を着けている人は神様が内に入ることを阻んでいますから、自分で自分を守るしかありません。そのような人物の例として、先週は列王記第二のナアマンの記事をご一緒に読みました。

 ナアマンは軍人としての高いプライドを持つ人物で、病人なのに預言者エリシャの家に戦車で乗りつけるほどでした。そんなナアマンはエリシャの使者に、ヨルダン川に身を浸せば病気が治ると言われました。ヨルダン川に身を浸すには心身ともに裸になる必要がありました。プライドの高いナアマンがそんなことをできるわけがありませんから、ナアマンは激怒して帰ろうとしました。

 しかし部下の進言を聞いてヨルダン川に身を浸すことにしました。この部下による進言の言葉があってからナアマンが実際にヨルダン川に身を浸すまでの間に、ナアマンの心にどれだけの葛藤があったか、聖書は記していません。しかし、相当な葛藤があって、ナアマンがヨルダン川に入るまでにはかなりの時間が掛かったであろうことは容易に想像できます。なぜなら、人はそれほど簡単にはプライドの厚い鎧を脱ぐことができないからです。

 ナアマンが葛藤の末にプライドを脱ぎ捨てて心身共に裸になってヨルダン川に身を浸したからこそ、神様は病気を治して下さいました。ヨルダン川の水が薬のように効いてナアマンの重い皮膚病を治したのではありません。ナアマンがプライドを脱ぎ捨てて神の人エリシャのことばを受け入れたからこそ、全知全能の神様がツァラアトという人間の力では治すことのできない病気を治して下さいました。

私が鎧を脱いだ時の証し
 そして先週のメッセージでは、私自身の経験もごく短く、お証しさせていただきました。私自身はこれまでに二度、プライドの鎧を脱ぐことができた経験をしたと感じています。一度目は神学校の寮で生活するようになってからと、二度目は前任の教会が他教会に吸収合併されることになった時です。きょうは、その二度目にプライドの鎧を脱ぐ経験をした後で味わった素晴らしい恵みについて、お証しをして分かち合いたいと思います。

 吸収合併されることを受け入れるということは、自分たちの教会の財産をすべて合併先の教会に委ねるということです。自分たちの教会の財産と言っても、それらはすべて神様が与えて下さったものですから、本当は「自分たちの教会の財産」と考えるのはおかしなことです。

 しかし、苦労して土地を取得しましたから、ついつい「自分たちの」と思ってしまいます。そして、神様が土地を与えて下さったのは「自分たちの祈りの結果」だとか、「自分たちの信仰の熱心さが神様に認められたのだ」などという勘違いをして、「自分たちの信仰は立派なんじゃない?」などと、余計なプライドをいつの間にか身に着けてしまっていたように思います。

 私は神学校の寮に入った時に一度はプライドの鎧を脱いだはずでした。しかし、牧師になってから再びプライドの鎧を着けるようになってしまっていたようです。吸収合併の出来事は、そういう私のプライドを粉々に打ち砕きました。

エルサレムの民を慰める主
 しかし、プライドが打ち砕かれて初めて、イザヤ書40章の「慰めよ、慰めよ」のメッセージが心に深く届くようになりました。聖書交読でも交代でお読みした箇所ですが、私のほうでもう一度、その一部をお読みします。まずイザヤ書40章1節と2節です(旧約聖書p.1230)。

40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをの手から受けている、と。」

 神様は預言者イザヤに「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と仰せられました。神様が「慰めよ」とおっしゃっている対象の民とは、バビロン捕囚によって深く傷ついたエルサレムの民のことです。紀元前600年頃に南王国のユダはバビロン軍の攻撃を受けて、首都エルサレムの人々は捕らえられて捕囚としてバビロンに引かれて行きました。そうしてエルサレムの神殿や王宮にあった財宝は奪われ、最後には火を付けられて炎上し、城壁も破壊されてエルサレムは滅亡しました。

 エルサレムが滅亡して人々がバビロンに引かれて行く前までは、イスラエルの民族は神に選ばれた民という高いプライドを持っていました。しかし、そのプライドは粉々に打ち砕かれました。イスラエルの民は驕り高ぶっていて、預言者エレミヤの警告も無視して神様がエルサレムを滅ぼすはずが無いと高をくくっていました。そんなイスラエルの民に怒った神様がエルサレムを滅ぼしたため、彼らのプライドは粉々に砕け散りました。

 永遠の中におられる神様には、預言者イザヤの時代から既に彼らの末路が見えていました。そんな彼らを憐れみ、愛しておられる神様はイザヤを通して優しく語り掛けて慰めます。

「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをの手から受けている、と。」

 こうして約70年後にバビロン捕囚の苦役は終わり、エルサレムの民は帰還が許されて、神殿と城壁とを再建することになりました。失意のどん底にいた彼らは神様によって慰められ、廃墟となったエルサレムの再建へ向けての励ましを受けることになりました。

 実を言うと私は吸収合併の受け入れを経験するまでは、このイザヤ書40章の1節と2節とを自分に向けられたメッセージとして読んだことはありませんでした。私以外の失意を経験した他の人々へのメッセージという目線でしか読んだことがありませんでした。しかし吸収合併を受け入れてプライドの鎧を脱いだ時に、この神様の慰めの言葉が深く心に届きました。そうして聖書の神様のことばの恵みをたくさんいただくことができました。

 静岡教会の皆さんはいかがでしょうか。この教会もまた常駐牧師の不在という大変な困難の中を通りました。しかし、憐れみ深く、私たちを愛していて下さる神様は優しく語り掛けて、慰め、そして励まして下さいます。

イエス・キリストが来られるための道の準備
 続いて3節と4節をお読みします。

40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路(おおじ)をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。

 この3節と4節で預言されているのは、イエス・キリストがこの世に来て人々に教えるための道を用意せよということですね。新約聖書の四つの福音書、すなわちマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書はいずれもバプテスマのヨハネが登場する場面で、このイザヤ書40章3節を引用しています。下の脚注の3節①の引照を見るなら、マタイ3:3、マルコ1:3、ルカ3:4、ヨハネ1:23とありますから、お時間のある時に是非ご覧になると良いと思います。

 こうして谷が引き上げられ、山や丘は低くなり、曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになってイエス・キリストが私たちのためにこの世に来て神の国について教えて下さるための道が整えられました。

私たちを慰め、励まし、癒すイエス・キリスト
 イエスさまは時空を超えた宇宙スケールの神様ですが、私たちと同じ人間サイズの方になって下さり、人々に寄り添って下さいました。そうしてイエスさまは人々を慰め、励まし、癒して下さいました。その慰めと励ましと癒しのことばで一番有名なのが、きょうの聖書箇所の中にあるマタイ11:28ではないでしょうか。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 吸収合併を受け入れた時の私に、このイエスさまの言葉もまた、心の中に深く沁み入って来ました。これまで私は、このイエスさまの言葉を自分に向けられた言葉と受けとめたことはありませんでした。しかし、前任の教会を何とか存続させたいと粘り、それが適わないと分かっても、せめて教会の財産は自分たちで処分できるようにと粘り努力しましたが、それも適わずに吸収合併という形で合併先の教会にすべてを委ねることにしました。

 その時の私はすっかり疲れ切っていました。そんな時に、このイエスさまの言葉が優しく響いて来ました。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 そうして私は人間サイズになって私たちに寄り添って下さったイエスさまの恵みの素晴らしさを深く味わうことができ、とても感謝しました。

 ちなみにこのマタイ11:28のイエスさまの言葉には、去年の秋の静岡聖会の講師だった小平牧生先生もまた癒された経験があると、聖会で話しておられました。小平先生は基督兄弟団の西宮の教会でご奉仕をしておられます。兵庫県の西宮ですから24年前の阪神淡路大震災の時には地域一帯が甚大な被害を受けました。

 先生の教会だけでも大変な状況でしたが、先生は地域の教会のネットワークの事務局長も務めておられた関係で、地域の多くの教会の支援や被害状況の調査なども行っていたということです。そういう忙しさの中で、ある時に先生はついに燃え尽きたようになってしまって疲れ果て、被害調査に出掛けた先の教会の前で動けなくなり、座り込んでしまったということです。その時、その教会が掲げていた、このマタイ11:28のみことばが目に入り、これは自分に向けられたイエスさまの言葉であると感じたのだそうです。

 先生はそれまで、この言葉を自分に向けられた言葉として受けとめたことは一度も無かったそうです。しかし、その疲れ果てた状態の中でイエスさまが先生に優しく語り掛けて下さったそうです。その小平先生の証を私が聞いたのは、私が合併問題で同じ経験をした直後でした(吸収合併を受け入れることにしたのは秋の聖会の少し前の夏のことであり、そこから今年1月の教会総会での合併承認の全会一致による決議に向けて準備を始めました)。ですから聖会での小平先生のメッセージには心の底から共感しました。

受け取り損なっている壮大なスケールのイエスの恵み
 私自身がそういう経験をしていますから、マタイ・マルコ・ルカの福音書の中に出てくる、人々に寄り添う人間サイズのイエスさまの素晴らしい恵みを私はよく知っているつもりです。本当に素晴らしい恵みです。しかし(ここで敢えて「しかし」という接続詞を使わせていただきますが)、この人間サイズのイエスさまの恵みがあまりにも素晴らしいが故に、それを遥かに上回る恵み、すなわち壮大なスケールのイエスさまの恵みを、残念なことに多くの方々が受け取り損なってしまっていると私は感じています。

 エペソ人への手紙3章でパウロは書きました(週報p.3)。お読みします。

3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 18節の「広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉から、イエスさまの愛の大きさが宇宙レベルの壮大なスケールであることが読み取れます。人の知恵、人知で分かるのはせいぜい地球レベルの大きさまでです。宇宙レベルの大きさは計り知れません。人知を超えているからです。しかし計り知れませんが、私たちは知ることを諦めずに、できる限り分かるようになりたいと思います。そうして私が知り得たイエスさまのスケールの壮大さを、これから静岡の皆さんと分かち合って行きたいと願っています。

 そのためには、皆さんにも思いを巡らしていただくことが必要だと考えます。これまでも私は、多くの方々に壮大なスケールのイエスさまのことを何とか分かっていただき、その恵みを共有したいと願い、説明の仕方の試行錯誤を繰り返して来ました。そうして分かったことは、どんなに説明しても、聞いて下さっている方が共に思い巡らすことをして下さらないのなら、決して分かっていただけないということです。

 何しろイエスさまの愛の大きさのスケールは人知を遥かに超えていますから、説明して理解できるものではありません。思いを巡らす中で壮大なスケールのイエスさまに出会い、感じなければ到底理解できないものです。

研究者は寝ても覚めても考えている
 話を少しでも分かりやすくするために、まず研究の話をしたいと思います。何でも良いのですが、最近話題になった研究で、ブラックホールの輪郭の撮影に成功したというものがありましたね。或いはまた医学の領域の研究では、昨日NHKが、脊髄を損傷した患者の神経を再生する有力な治療方法を札幌医大のチームが開発したということを報じていました。

 この再生医療の新しい方法については夜の番組でも放送していましたから観ましたが、患者から採取した幹細胞を培養して増やし、再び患者の体に点滴によって戻してあげると、幹細胞が痛んだ神経の再生を促すということでした。

 こうした研究では、研究者はその研究テーマについては寝ても覚めてもと言うのが決して大げさではないほど、そのテーマについて考えています。研究者は寝ている間も考えます。私もかつては研究者の端くれでしたから、それが分かります。

 研究に没頭していると本当に寝ている間でも考えます。ですから、どんな研究テーマであっても、そのテーマについてはその研究者が世界で一番良く分かっていると言って良いでしょう。ただし、そのテーマが重箱の隅にあるものなのか、重箱の真ん中に位置するものなのか、という違いはあります。その重箱もまた小さな重箱から大きな重箱までいろいろとあると思います。そして大半の研究者が、できれば大きな重箱の真ん中に位置するようなテーマの研究をしたいと願っているでしょう。

 ただ、そのテーマが重箱の隅に位置するのか、真ん中に位置するのかは研究を始める時点では分からないことも少なくありません。そこに難しさがあります。また、重箱の真ん中の研究なのに、他の人にそのことをなかなか理解してもらえないということもあります。

 何しろ、そのテーマについては、それを研究している人が世界で一番よく考えていて、他の人はそれほど考えたことがありませんから、分かってもらえないのは仕方がないとも言えます。ですから分かってもらうためには、他の人にもそのテーマについて、よく考えてもらう必要があります。

思い巡らさなければ決して分からない壮大なイエス
 壮大なスケールのイエスさまのことも、似た面があります。スケールの大きなイエスさまのことを私は2011年に姫路教会にインターン実習で派遣されて以来、考え続けています。特に最初の何年間かは本当に寝ても覚めても、寝ている間も考えていました。ですから、壮大なスケールのイエスさまについて理解していただけないのは当たり前のことだと最近は思うようになりました。

 そういうわけで、壮大なスケールのイエスさまについて、皆さんにも是非、ご一緒に思いを巡らしてみていただきたいと思います。なぜなら壮大なスケールのイエスさまは大きな重箱の真ん中に位置しているからです。そうして人間サイズのイエスさまの素晴らしい恵みを遥かに上回る、もっと素晴らしい恵みに共に与りたいと思います。

イエスとエリシャを重ねたヨハネ
 それで、きょうは先ずその思い巡らしの第一歩として、イエスさまと預言者エリシャについて思いを巡らしたいと思います。週報p.3にも載せましたが、ヨハネの福音書の記者のヨハネは6章の「五千人の給食」の記事で、パンを「大麦のパン」と書いています。

ヨハネ6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

 パン五つと魚二匹で五千人を満腹にした「五千人の給食」の記事はヨハネだけでなくマタイ・マルコ・ルカも書いています。つまり「五千人の給食」は四つの福音書のすべてに書かれています。しかし、パンを「大麦のパン」と書いたのはヨハネだけです。

 実はヨハネはこの「五千人の給食」の記事を列王記第二4章のエリシャの記事と重ねています。この重なりは有名で、ヨハネ6章9節の脚注(新約聖書p.188)にも列王記第二4章の引照が記されています。ここには列王記第二4章42節と43節とありますね。週報p.3にはスペースの関係で42節だけしか載せていませんが、42節から44節までを、交代で読みましょう(旧約聖書p.656)。

4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。のことばのとおりであった。

 42節の「神の人」というのは預言者のエリシャのことです。このように、このエリシャが大麦のパン二十個と新穀一袋で百人を満腹にした記事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の「五千人の給食」の記事ととても良く似ています。そしてヨハネはパンを「大麦のパン」とすることで、イエスさまとエリシャとを重ねています。

ヨハネはなぜイエスとエリシャとを重ねたのか
 そこで、皆さんに思いを巡らしていただきたいことは、なぜヨハネはイエスさまとエリシャとを重ねたのか、ということです。ここから何が見えて来るでしょうか。是非、ご自分で思いを巡らしてみて、答えを探ってみていただきたいと思います。

 かつて私は、このテーマについて寝ても覚めても考えていました。そうして辿り着いた結論については、きょうは話さないことにします。話したとしても、ご自分で思いを巡らしていただかないことには、決して理解していただけないことが、これまでの経験でよく分かっているからです。

 なぜヨハネがイエスさまと預言者とを重ねたのかというテーマは、大きな重箱の真ん中に位置するテーマです。なぜなら、このことに思いを巡らすなら父・子・聖霊の三位一体の神について、より深く理解できるようになり、究極の平安を得ることへと結びついて行くからです。多くの人がこの究極の平安を得るに至るなら、世界は必ずや平和になることでしょう。それゆえ、これは大きな重箱の真ん中に位置するテーマです。

 イエスさまは新約の時代を開いて下さったお方です。一方のエリシャは旧約の時代の預言者です。ヨハネはどうして、この異なる時代の二人を重ねたのでしょうか。

おわりに
 エリシャはアラムの将軍のナアマンにヨルダン川に身を浸すように言った預言者でもあります。そうしてナアマンの病気が癒されました。エリシャはまた他にも多くの奇跡を行いました。イエスさまもまた病人の病気を癒し、多くの奇跡を行いました。ヨハネはどうして、この二人を重ねたのでしょうか。是非、思いを巡らしてみていただきたいと思います。
 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。
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これからの伝道について2(2019.5.2 祈り会)

2019-05-04 15:23:23 | 祈り会メッセージ
2019年5月2日祈り会メッセージ
『これからの伝道について2』
【詩篇42篇】

はじめに
 きょうは3週間ぶりでまた詩篇42篇を開きました。詩篇42篇を共に味わいながら、私がこの静岡教会でどのような伝道を行っていきたいかの具体的な提案を、きょうはいよいよして行きたいと思います。

 4月7日の午後の会で、これからのこの教会における伝道をどう考えているか知りたいという、ご意見をいただきました。その時、私はそれは祈り会のメッセージの中で明らかにして行きたいと話しました。

 これはなかなか適切な答えだったなと思います。この教会での伝道をどう行っていくべきか、私は3月初めから考え始めました。前任の教会の教会活動を終わらせるに当たっては3月中にやらなければならないことがたくさんありましたから、そのことだけで手一杯の状況でしたが、それでも私は静岡での伝道についても祈り、考え始めていました。

 しかし、具体的な方法についてはまだほとんどイメージできていませんでした。それが、この3~4週間でかなり具体的なイメージができて来たと感じていますから、きょうは、そのことを話します。やはり、どのように伝道を行うかの具体的なイメージは、実際にここで暮らし始めなければ、なかなか与えられないものだなと感じます。

 この3週間、この地域を徒歩や自転車や車で巡り、また生活をする中で、具体的なイメージが作られて来たと思います。先週の月末の祈り会が各家庭でのものになったのも、少し時間がいただけましたから良かったです。

魂の渇きに気付いていた詩人
 ではまず詩篇42篇に目をとめて、それから具体的な伝道方法の提案をしたいと思います。3週間前にも話しましたが、詩篇が書かれた旧約の時代には、聖霊は預言者たちという、ごく限られた者たちだけにしか注がれていませんでした。誰にでも聖霊が注がれるようになったのは新約の時代のペンテコステの日以降です。ですから、詩篇42篇の詩人は、聖霊を受けていない者の魂の渇きを詩にしています。この詩人本人はもしかしたら聖霊を受けていたかもしれませんが、この詩の中の「私」は聖霊を受けていない者です。

 預言者以外には聖霊が注がれなかったこの旧約の時代には、神の臨在を感じて魂の渇きを癒すことができる場所はエルサレムの神殿だけでした。それゆえ詩人はエルサレムに上京して神殿で礼拝することを渇望していました。しかし、それがなかなかできないでいたために、うなだれて思い乱れていました。

 この詩篇42篇で私がすごいと思うのは、この詩人が何度も「わがたましいよ」と、自分の魂に向かって呼び掛けていることです。つまり詩人は自分の魂を別人格として客観的に観察することができていました。そうして自分の魂が神の霊に渇いていて、霊的な潤いが無いことに気付いています。これはすごいことだと思います。

 この、自分の魂が渇いていると自覚できる能力という点では、聖霊を受けた私たちクリスチャンは退化してしまっているかもしれないと私は感じています。聖霊を受けた私たちの魂は霊的に潤っていますから、激しい渇きを感じることがなくなりました。すると、魂の渇きを感じている人の気持ちに疎くなっているかもしれません。そうであれば魂の潤いを得たい方々のニーズになかなか応えられないということにもなりかねませんから、気を付けるべきでしょう。私たちクリスチャンは自分の魂の渇きに鈍感になっているかもしれないということを覚えておきたいと思います。

現代人の魂もまた渇いている
 どうして、そんなことを考えるのか、最近、昔の友人が四国八十八箇所の霊場を歩いて巡るお遍路さんをしていることをFacebookで知りました。お遍路さんの装束に身を包んだ友人の写真がFacebookに上がっていました。そのお遍路さん姿の友人の写真を見て、きっと彼の内にも魂の渇きがあるのだろうなと思いました。

 そして、かつての教会に辿り着く前の私にも魂の渇きがあったことを思い出しました。ただし、それが魂の渇きであったことが分かったのは、ずっと後になってからでした。私は心の中によく分からない不安があることを自覚していましたが、それが魂の領域の渇きであったことが分かったのは、ずっと後になってからでした。しかし、とにかく、いつも私は自分の心が不安定であることを感じていて、それが教会に通うようになってから、ピタリと治まったのでした。

 詩篇42篇の詩人の場合は、自分が不安定であるのが魂の渇きのせいであるとハッキリと分かっていました。私の場合は分かっていませんでした。そして恐らくお遍路さん姿で四国八十八霊場を巡った友人も自覚はできていないだろうと思いますし、この地域にもそういう方々が多くいらっしゃるのではないかと思います。

 私たちクリスチャンは、神社やお寺に熱心にお参りする人を見ると違和感を覚えるかもしれません。特に私たちの群れではお遍路さんの装束を身に着けた人などを見ると、違和感を覚えるでしょう。

 しかし、そういう外見を見るのではなく、それらの方々の魂の渇きに注目できるようになりたいと思いました。そのように魂の状態を気に掛けることで、多くの方々を霊的な世界にお招きすることができるようになるのではないかと思います。

具体的な提案
 そこで今日は具体的な提案を二つしたいと思います。一つは、駐車場の南側(案)に強化ガラスの扉が付いた掲示板を設置したらどうかと思います。田町四丁目のバス停の前に幼稚園の掲示板がありますね。あんな感じのものです。そして、そこに集会案内に加えて、たとえば詩篇の詩を週替わりで掲示したらどうかと思います。魂の渇きに訴える働きがあるかもしれません。

 そして二つ目の提案は、月に一回か二回、地域の方々向けに「詩篇を味わう会(仮称)」を開催することです。初めのうちは、なかなか来てもらえないかもしれませんが、定期的に開くことで、また広報をすることで来ていただけるようになるかもしれません。何曜日の何時頃に月に何回程度開くことにするかは、皆さんと相談したいと思います。

 この「詩篇を味わう会(仮称)」では、まず何よりも、参加する方々に自分の中の魂が渇いた状態にあることに気付いていただきたいと思います。五月に入って、これから段々と暑くなり、熱中症に気を付けなければならなくなります。熱中症は知らず知らずのうちに自分の体の中の水分が足りなくなっていることに気付かないで補給しないでいると掛かってしまい、重症化すると死に至るという取り返しのつかないことになります。

 魂の渇きも神の霊によって潤いが与えられないと、取り返しの付かないことになります。ですから、「詩篇を味わう会(仮称)」では、まだ聖書を知らずに魂が渇いたままの方々に、自分の魂が渇いていることに、何とか気付いてもらえるようにできたらと思います。

 もし、この「詩篇を味わう会(仮称)」を実際に行うことになったなら、皆さんのお知り合いにも是非声を掛けていただきたいと思います。礼拝には誘いにくくても、この会なら誘えそうだという方もいるかもしれません。そのような方々に来ていただけそうな曜日と時間を皆さんと相談して設定することができたらと思います。

若い人たちへの伝道
 以上、掲示板の設置と「詩篇を味わう会(仮称)」の実施の、二つの具体案を提案しましたが、これらは大人が対象です。その他にも、若い人たちと子どもたちにも伝道したいですね。

 若い方々には、やはり神様として時空を超えて存在するイエスさまのことを伝えたいという気持ちを私は強く持っています。イエスさまは真の人であると同時に真の神でもあります。人としてのイエスさまは肉体に縛られていて1世紀の初めの約30年間しか存在していませんが、神としてのイエスさまは時空を超えて永遠の中にいます。

 この時空を超えたイエスさまのことは若い感性を持った人のほうが感じやすいように思います。年配の方でも柔らかい感性を持っている方は大丈夫だと思いますが、やはり年齢が若い方のほうが感じやすいのではないかと思っています。これら若い方々向けには、主にネットを通じてお伝えして行きたいと思います。

 この時空を超えたイエスさまについて発信する教会のブログへの一日の訪問者数は、今のところ毎日150名前後ですが、200名、300名と増えて行くように努力したいと思います。ツイッターと組み合わせることで増えることが分かっていますから、SNSを利用している方々に魅力的な発信ができるように心掛けたいと思います。

子どもたちへの伝道
 最後に子どもたち向けの伝道ですが、まだこれと言ったアイデアは与えられていません。ですからアイデアが与えられるように祈っていますが、子どもたちへの伝道は教会の皆さんに主体的に考えていただいて私はそれをサポートする形を取るというのでも良いのではないかという気もしています。

 きょう提案した掲示板が子どもたちの親の目にとまるように有効利用することも考えられると思います。そのためには、少し大きめの掲示板を設置したほうが良いかもしれません。少し費用は掛かりますが、駐車場の南側を利用すれば、少し大きめの掲示板でも設置できますから、この地域で子どもを育てているお父さん・お母さんたちにアピールできるようなものを考えるのも良いだろうと思います。

おわりに
 以上のことは、もう少し練ってから改めてまた、皆さんと議論できたらと思います。皆さんからも伝道のアイデアがあれば、いろいろとお聞かせ願いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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