平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える(2014.10.29 祈り会)

2014-10-30 10:34:05 | 祈り会メッセージ
2014年10月29日祈り会メッセージ
『宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える』
【エペソ3:7~21】

はじめに
 先週から岩上敬人先生が講師のe-ラーニング『パウロの足跡をたどる』が始まりました。まだ始まったばかりですので、今はまだパウロがサウロであった時のことを学んでいます。サウロのことを学びながら、このe-ラーニングのパウロの足跡をたどる学びは、私自身の信仰の足跡をたどる良き機会にもなっていると感じ、感謝に思っています。

「神」としてのイエスとの出会い
 既に何度も話したことがありますが、私が初めて高津教会を訪れた日は、藤本満先生によるガラテヤ書の講解説教の第1回目の日でした。この第1回目の説教が興味深かったので、その後、毎週この説教を聞きに高津教会の礼拝に通いました。そして確か第2回目の説教で、パウロが復活したイエス・キリストに出会って回心した話を聞きました。つまり、私は先ず、パウロの回心の話を通じて「神」としてのイエス・キリストに出会いました。多くの人は福音書に描かれている「人」としてのイエスに先ずは出会うと思うのですが、私の場合はそうではありませんでした。このように私のイエス・キリストとの出会い方の順番が一般的なクリスチャンとは異なるということは、私の中での神理解の形成の仕方も、一般のクリスチャンの神理解の順番とは違うということです。そして今、私はe-ラーニングでパウロについて思いを巡らしていて、私のイエス・キリストとの出会い方はパウロの出会い方に近いものであり、神理解の順番についても私はパウロに近いのだろうと感じています。もちろん細かいことについてはパウロとは全く違いますが、大まかな点については似ているところがあります。きょうは、そのパウロと私とで似ている点について話して、私が感じている使命、すなわち私が何のために伝道者として召し出されたのだろうかということについても、お証をさせていただきたいと思います。
 パウロはユダヤ人ですから、信仰の土台にあるのは旧約聖書の神です。神は万物を創造しましたから、宇宙サイズの大きな神です。パウロがサウロであった時、十字架に掛かって死んだイエスを宇宙サイズの神と結び付けて考えることなどパウロにはできないことだったでしょう。しかし、ダマスコの途上で復活したイエス・キリストと出会ったパウロは、イエスに宇宙サイズの神の大きさを感じて旧約聖書の神と結び付けることができるようになったのだと思います。

私のイエス理解の経緯の証
 一方の教会に通う前の私も、信仰の土台はありませんでしたが、宇宙サイズの大きな神仏に憧れる傾向は持っていました。仏教の宇宙観を表した曼荼羅に興味を持っていたことがありましたし、仏像は修行中の身の菩薩よりも、悟りを開いた後の如来により親しみを感じていました。菩薩は地上にいる感じですが、如来は宇宙にいるといった感じでしょうか。また私は、神社にもよく参拝に行っていましたが、神社に祀っている神に向かって祈るというよりは、その背後にいる大きな存在に向かって祈っているつもりでいました。例えば天満宮には菅原道真が祀られていますが、私が天満宮で祈る時、私は菅原道真に何かお願いをするのではなく、背後の大きな存在に対してお願いをしていました。それはどこの神宮や神社へ行っても同じでした。そして、どこの神宮や神社でも背後にいる大きな存在は共通の同じ存在なのだろうと感じていました。
 そんな私がキリスト教会に持っていたイメージというのは、例えるなら、菅原道真を祀っている天満宮のような感じであったと言えるのではないかと思います。教会は菅原道真の代わりにイエス・キリストを祀っている、そんな感じです。そして私は教会の背後には大きな存在を感じてはいませんでしたから、私は教会には何も引かれるものを感じていませんでした。私は大きな存在に引かれていましたから、教会に私が求めているものは無いと思い込んでいました。
 しかし、高津教会を訪れてガラテヤ書の講解説教を通じてパウロの回心を学んでから、キリスト教の神とは自分が思っていたよりも、もっと大きな存在であるらしいことに気付きました。それとともに、自分をこれまで守っていてくれていたのは、もしかしてキリスト教の聖書の神様ではないかと感じるようになりました。それまで私は、自分を守ってくれている存在がいることを感じていましたが、それが仏教の仏様なのか、神社の神様なのか、断定する材料が無いので、わからないままでいました。キリスト教に関しては、全く想定外でしたから考えてみたこともありませんでしたが、もしかしたら聖書に私を守ってくれていた存在のことが書かれているのではないかと思うようになりました。
 そうして私はキリスト教の聖書に書かれている大きな神様が自分をこれまで守っていてくれた神であったことを確信するようになりました。もし私が福音書を通じてキリスト教を知ったなら信仰を持つに至ったかわかりませんが、パウロを通じてキリスト教を知ったのが良かったのだと思います。しかし、そんな私は一つ重大な問題を抱え込むことになりました。それは、福音書に描かれているイエス・キリストが私にとっては依然として菅原道真ぐらいの大きさのレベルにしか見えていないことでした。その問題は私が高津教会の一般信徒であった時には顕在化していませんでしたが、BTCに入ってから私は大きな問題として感じるようになりました。私はパウロが語る神としての大きなイエス・キリストには魅力を感じるものの、福音書が語る人間サイズのイエス・キリストには魅力を感じていなかったのです。私は大きなものに憧れますから、福音書が語るイエス・キリストは小さく見えて、あまり魅力を感じていませんでした。しかし、それではBTCを卒業してから牧師としてやって行けないだろうと思いました。それで私はもっと福音書に親しむ必要を感じて、2年生の秋からの男子寮での祈祷会での説教では福音書からイエス・キリストについて語ることに決めて、ヨハネの福音書を選びました。そうしてヨハネの福音書の学びを通じて、私はイエス・キリストが菅原道真レベルとは全然違う、宇宙レベルの大きさの存在であることが分かって来ました。

宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える使命
 以上のように、私の場合、パウロが語る神としての大きなイエス・キリストと、福音書(特にマタイ・マルコ・ルカの共観福音書)が語る人間サイズのイエス・キリストとのギャップが埋まるのに少なからず時間を要しました。この私自身の信仰の足跡を、今のe-ラーニングの「パウロの足跡をたどる」で思い返しているわけですが、そこで私は私に与えられた使命を改めて再確認しているところです。それは、パウロがエペソ書やコロサイ書に書いたような宇宙サイズの大きな存在のイエス・キリストを、ヨハネの福音書を用いて人々に宣べ伝えることが私の使命であろうということです。
 教会に通うようになる前の私にとってのキリスト教会とは、菅原道真の代わりにイエス・キリストを祀っている天満宮のようなものだったという話をしました。そして、聖書を知らない多くの日本人にとっても教会とは、実はそのような存在なのではないかと感じています。そうであれば、日本人は皆、神社に熱心にお参りしていますから、特に教会に行く必要はないわけです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストが菅原道真のレベルではなくて、もっと大きな存在であることを知っていますから、その大きな存在であるイエス・キリストと出会ってもらいたくて熱心に伝道するわけですが、あまり上手く伝わってはいないようです。それはもしかしたら、クリスチャンの多くが、先ずは福音書を通じて人間サイズのイエス・キリストに出会うところから信仰が始まっているからではないかと、私は思うようになって来ています。人間サイズのイエスから語り始めるから、人間サイズのイエスしか伝わらないのではないか。人間サイズのイエス・キリストももちろん大事ですが、それでは日本人が菅原道真をやめてイエス・キリストの方を向くことはないのではないか。或いは平和の問題にしても、人間レベルのイエス・キリストを信仰している間は、平和は訪れないのではないか。宇宙レベルのイエス・キリストを信仰して初めて平和が訪れるのではないか、そんなふうに思うわけです。
 人間レベルのイエス・キリストを宣べ伝えることは、もちろんとても重要なことであり、必要なことです。大きなことを考えることが苦手な人々は大勢いますから、そのような方々に寄り添うことは、とても大事なことです。しかし、それと同時に宇宙レベルの大きなイエス・キリストを宣べ伝えることも大事なことだと思います。パウロは、その両方ができた使徒だと思います。

おわりに
 きょうの聖書箇所のエペソ書3章は、そのような宇宙レベルの大きさのイエス・キリストの愛を知ることができるようにとパウロが祈っているところです。17節から19節までを交代で読みましょう。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 もう一箇所、コロサイ書1章の15節から17節までも交代で読みましょう(新約聖書p.390)。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 人間サイズのイエス・キリストと共に、今ご一緒に読んだような宇宙サイズのイエス・キリストのことが広く理解されるようになるなら、世界は必ず良い方向に向かうだろうと私は信じています。そのためには多くの工夫が必要であり、その工夫を試行錯誤する過程では沼津教会の皆さんにご忍耐をいただくことにもなると思います。しかし、私の使命である宇宙サイズのイエス・キリストの伝道する道を、私は皆さんと共に開拓して行きたいと願っていますから、今後ともご協力を願えればと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

信仰の芽生えと成長と継承(2014.10.26 礼拝)

2014-10-28 08:47:14 | 礼拝メッセージ
2014年10月26日召天者記念礼拝メッセージ
『信仰の芽生えと成長と継承』
【使徒9:1~9】

はじめに
 きょうは召天者記念礼拝です。
 この世での生涯を既に終えて天に召された信仰の先輩方を偲びつつ、私たちの信仰のこと、そして、この信仰をどのように継承して行くかをも、きょうは考える機会にしたいと願っています。週報の3ページ目にお名前が書いてある方々は、この教会で信仰を育み、既にこの世での生涯を終えた方々です。
 この沼津教会は3年後の2017年に設立50周年になりますから、今年は47年目になります。この47年間に多くの方々が、この教会で信仰を育んで来ました。私自身は13年前に、別の教会で信仰を持ちました。ですから、この教会には、私より先に信仰を持った方もいますし、私より後に信仰を持った方もいます。そして、信仰の深まり方は、人それぞれです。

上のレベルに行くことの可視化の必要性
 信仰に限らず、スポーツでも、外国語の習得でも、音楽の楽器でも、ある時に急に何かコツみたいなものをつかんで、上のレベルに行く時があると思います。その上のレベルに行く経験が無いと、いくら長くやっていても、上達はしません。スポーツや楽器を長くやっている人が上手な人だとは限らないことは、皆さんもよくご存知だと思います。或いはまた、理論を良く知っていても上手になるとは限りません。いわゆる頭デッカチでは、スポーツや楽器や外国語は上手くなりません。習うより慣れろですね。
 信仰も同じです。信仰生活が長い人が信仰が深いとは限りません。そして聖書に書かれていることを隅々まで知っている聖書に詳しい人でも信仰が深いとは限りません。一方、聖書のことをそんなに知らなくても、深い信仰を持っている人もいます。信仰の場合、それらの違いは何によって生じるのでしょうか。
 私は3年前のある時を境にして、新約聖書のヨハネの福音書についての理解がグーンと深まる経験をしました。そして、ヨハネの福音書には、まだ世に知られていない深い世界が描かれていることを知りました。これを、どうしたら人々に理解していただけるか、私はこの3年間、あれこれ考え続けています。3年前の最初の頃は、私が知ったヨハネの福音書の深い世界を、私はすぐに皆さんと共有できると思っていました。すぐにわかってもらえて、聖書の未だ知られざる素晴らしい世界を分かち合うことができると思っていました。しかし、2年ぐらい奮闘努力して、それがとても難しいことであることが良~くわかって来ました。
 それは、恐らく皆が、信仰というものを、とても漠然と捉えているからだと思います。自分は信仰を持っているとか、あまり持っていないとか、ぜんぜん持っていないとか、その程度のことは皆わかっていますが、わかっているのはせいぜいその程度で、とてもフワフワした感じです。そういうフワフワした状態では、いつまで経っても聖書の奥深い領域は分かってもらえないなというのが、ここ1年ぐらい私が感じていることです。もっと、信仰を持つとはどういうことかについて、しっかりと地固めをして準備をしておかないと、聖書の奥深い世界を多くの方々と分かち合うことは難しいようです。

ハシゴのたとえ
 そこで今日は先ず、信仰を持つとはどういうことかを、ハシゴを立てて屋根に上がることに例えてみたいと思います。ハシゴを立てて屋根に上がるには、しっかりと足元を固めて入念に準備する必要があります。信仰も一段高いレベルに上がるには、しっかりとした準備が必要という点で、良く似ていると思います。
 私がこの教会の牧師になったのは、1年半前の4月のことです。そして、この教会の屋根の上に初めて上がったのが、昨年の11月でした。この教会に着任してから半年以上が経っていました。着任した当時は、すぐにでも屋根に上がって屋根の状態を確認したいと思っていました。しかし、どこにどうハシゴを立てたら、安全に上り下りが出来るか、考えあぐねていて、その間に、あっという間に半年が経ってしまいました。
 前任の廣瀬先生は2階のベランダにハシゴを立てて屋根に上がったと聞いていましたから、私も先ずはそうしようと思っていました。しかし、ベランダの床板は踏み抜いてしまいそうなぐらいに弱くなっています。私は廣瀬先生よりも体重が重いですから、廣瀬先生の体重なら大丈夫でも、私の場合は床を踏み抜いてしまう恐れがあります。それで、まずベランダの床を補強するために、カインズホームへ行って厚い板を購入しました。ベランダのサイズを巻尺で計り、一枚の板ではなくて何枚かに分けて、それを互い違いに二重に敷くように寸法を考えてカインズホームの工房でカットしてもらい、私の車で苦労して板を運び、二階のベランダに敷きました。これで床は大丈夫です。それで、今度はハシゴをベランダにどう立てるかを考え始めました。しかし、どう考えてもほぼ垂直にしかハシゴを立てられません。すると、ハシゴがひっくり返る心配があります。廣瀬先生の場合は善子先生にハシゴを抑えていてもらえば良かったかもしれませんが、私は一人ですので、ハシゴがひっくり返らないような対策を考えなければなりません。一番良いのはベランダの手すりにハシゴをくくりつけて固定することですが、手すりも相当に腐食が進行していてボロボロになっていますから、ハシゴをしっかりと固定することはできません。それで私は、2階のベランダから屋根に上がることは断念して、1階から長いハシゴを立てることにしました。それで役員会で7メートルの長いハシゴを購入することを認めてもらって購入しました。
 さて、しかし、今度は、この1階から屋根まで届く長いハシゴを、この狭い敷地の中で、どう固定して安全に上る下りができるようにするかも、難問でした。ハシゴの話が長くなりましたから、ハシゴの話はこれぐらいにしておこうと思いますが、長いハシゴの場合は横に倒れる危険性があります。その横倒れを防ぐには、しっかりとハシゴの足元の地固めをして、またハシゴは上のほうでも、しっかりと固定する必要があります。
 それらの準備をしっかりとしておかないと、決して屋根の上に上がることはできません。同様に、聖書の奥深い世界を理解するのにも、浅い理解と深い理解との間に、しっかりとしたハシゴを立てる必要があります。では、どのようにハシゴを立てたら良いでしょうか。どうやら、このことは今まで、ひどく曖昧なままにされて来たようです。それゆえ、たまたま聖書の深い真理に到達した人がいても、それに続く人がいないので、やがて忘れ去られてしまうということが繰り返されて来たのではないかと思います。

信仰レベルの8段階モデル
 きょう週報に挟ませていただいたA4の半分のサイズの紙には、このようなハシゴを立てたら良いのではないかと私が最近考えていることが書いてあります。ここには8つの表があります。これからしばらくの間、この8つの表について説明して行きます。



 8つの表のうちの8つ目が、私が皆さんと分かち合いたいと願っている奥深い信仰の世界です。いわば、屋根の上です。既に独自の方法で、この屋根の上に上がっていらっしゃる方もいると思いますが、今まではハシゴが立ててありませんでしたから、どうやって屋根の上に上がったら良いか、とまどっていた方も多いことと思います。
 ですから、この8つの表の②~⑦は、地面から屋根の上に上がるまでのハシゴの一段一段のようなものだと思っていただきたいと思います。先ほども言いましたが、このようなハシゴを使わなくても、独自の方法で既に屋根の上に上がっておられる方もいると思います。ですから、このハシゴが唯一の方法ではありません。また、②~⑦の順番も、モデル化したものですから、人によっては、この順番通りでなくてもよいと思いますし、何段かを飛ばして大股で上がることができる人もいることと思います。ですから、これはハシゴの一つのモデルとして見ていただけたらと思います。他のハシゴのモデルも多分あるのだろうと思います。
 さて、これから、この表の見方を説明して行きます。この表は、「私がいる時代」と「イエスがいる時代」との関係を示しています。「私」というのは、聖書の読者のことです。聖書の読者である私は、「現代」にいます。ここにいる私たちにとっての「現代」とは2014年のことであり、100年前の読者にとっては、100年前の1914年が「現代」になります。聖書は2千年にわたって読み継がれて来ていますから、「現代」にもいろいろありますが、私たちにとっては2014年の今が「現代」です。
 次に、この表の①から③までをまとめて説明したいと思いますが、この①~③の三つの表は、私が2014年の現代にいて聖書を読む時に、イエスがどの時代にいると感じているかを表しています。「イエスがいる時代」のうちの「イエス」というのは、二千年前のイエスがこの世にいた時代のことです。イエスは二千年前のクリスマスに母マリヤから生まれ、30歳の頃に十字架に掛かって死にました。イエスという人物が十字架に掛かって死んだことは歴史的な事実です。この表の「イエスのいる時代」の「イエス」というのは、この歴史的に実在したイエスという人物が生まれてから十字架で死ぬまでの期間のことです。そして①の表では、現代にいる私が、「イエスの時代」のイエスを感じながら聖書を読むことを表しています。これはごく一般的な普通の読み方ですね。ですから、ここにいる皆さんの全員にわかっていただけることと思います。
 さて誰でも最初は①の状態で聖書を読みますが、信仰が芽生えて来た人は、もう少し違う読み方をします。それが②の段階です。信仰が芽生えて来た人は、イエスが「イエスの時代」だけでなく、「使徒の時代」にもいることを感じながら聖書を読むようになります。「使徒」というのは、イエスの弟子のペテロやヨハネ、或いはパウロたちのことです。新約聖書は、この使徒たちとその弟子たちとによって書かれました。書かれた時代はイエスが十字架で死んで以降の紀元1世紀です。この十字架以降の新約聖書が書かれた時代が「使徒の時代」です。イエスは十字架で死にましたが、復活して使徒たちの前に現れました。そして使徒たちはイエスの教えを伝道する時、いつもイエスが共にいることを感じていました。使徒たちは、イエスが「使徒の時代」にも生きていることを感じながら伝道活動をして、また新約聖書の記事を書きました。

使徒の証言を信じるか信じないか
 きょうの聖書箇所の使徒の働き9章(新約聖書p.244)も、そのような箇所です。この使徒の働きには、イエスが十字架で死んだ後の、使徒たちの働きが書いてあります。この使徒の働き9章1節に出てくるサウロというのは、後のパウロのことです。この時、サウロはまだイエス・キリストを信じてはおらず、逆にイエスを信じる者たちを迫害していました。そうしてダマスコにいるクリスチャンを捕らえてエルサレムに引いて来ようとしていました。しかし、サウロはダマスコの近くまで来た時に、イエス・キリストと出会いました。3節から5節までをお読みします。

9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 このようにして突然のようにイエスと出会ったサウロは、しばらく目が見えなくなってしまいましたが、イエスは今も生きているとクリスチャンが言っていたことは本当だったのだと分かりました。そしてイエスが突然サウロの前に現れたのは、イエスが自分をキリスト教の伝道者にするためであったことを悟りました。それゆえサウロは目が見えるようになってからは一転して、キリスト教の伝道に励むようになりました。
 このように使徒たちが聖書に書いていることを現代の私たちが読む時、これらの話を信じる人もいれば信じない人もいます。信じて聖書を読む人は②の段階に進み、信じない人は①にとどまっています。②の表には、「使徒の時代」に☆印がありますね。この②の段階の読者は、イエスが「使徒の時代」にもいたことを信じ、「使徒の時代」のイエスを感じながら聖書を読みます。一方、十字架で死んだイエスが「使徒の時代」にも生きていたなんて信じられないという人は、①の段階にとどまり続けて聖書を読むことになります。聖書に詳しい聖書学者でも①の段階で聖書を読んでいる人はたくさんいます。使徒たちが書いたことを信じない人々は、使徒たちは夢の中でイエスと会っていたとか、使徒たちは嘘をついていたのだ、などと考えます。イエスが十字架で死んだ後に復活したイエスに出会ったというのは作り話であって、そういう作り話をでっち上げてキリスト教を広めたのだと考えます。そう考える人は、イエスが「使徒の時代」にもいたことを感じることは決してありませんから、ずっと表の①の状態で聖書を読み続けることになります。

信じる者は次の段階に行く
 一方、使徒たちが聖書に書いたことを信じて読むようになった読者には変化が現れます。それが表の③です。聖書にはイエスが弟子たちに向かって話したことが、いろいろと書かれています。そのイエスの弟子たちへのことばが、まるで自分に向かって話しているかのように感じるようになります。それを表③の☆印で表しています。イエスは「イエスの時代」や「使徒の時代」にいただけでなく、「現代」にもいて私に向かって話掛けて下さっていると感じるようになります。
 ヨハネの福音書の1章から、一箇所だけ、例を見ることにします。あまり、あちこち聖書を見るのは大変ですから、聖書を見るのは、これで最後にします。新約聖書のp.174の39節を見て下さい。ここに、

1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」

とあります。これはイエスが弟子たちに言ったことばです。しかし、聖書に書いてあることを信じて読むようになると、「来なさい。そうすればわかります。」というイエスのことばが、まるで自分に向かって言われたことばのように感じるようになります。このようにして復活したイエス・キリストは「現代」でも生きていて、私に向かって話し掛けて下さっているのだと感じるようになると、信仰を持つようになります。
 さて、ここまでは読者である私は、すべて「現代」にいて聖書を読んでいます。しかし、イエスが現代の私に語り掛けていることを感じるようになると、「イエスの時代」のことをとても身近に感じるようになります。すると、今度は私が「イエスの時代」に入り込んでイエスを感じるようになります。それを表④の☆印で表しています。私自身が「イエスの時代」に入り込めるようになると、マリヤやペテロなどの聖書の人物を、もっと身近に感じるようになります。そうするとイエスがペテロに向かって言ったことが、もっと良く理解できるようになります。そうして私自身が「イエスの時代」だけでなく「使徒の時代」にもいることを感じるようになります。これが表⑤の段階であり、信仰が深まって行きます。
 こうして「使徒の時代」のことまでがわかって来ると、それまでは、イエスが弟子たちに向かって言ったことばの、一部だけが自分の心に響いていたのが、もっと多くのことばが心に響いて来るようになって来ます。そうすると、それまではイエスのことばの一つ一つをバラバラに聞いていたのが、それらが実は絡み合っているのだということがわかって来て、聖書全体の理解が進んで行くようになります。そしてイエスが何のために十字架に掛かったのかの理解も深まります。そして実はイエスは「旧約の時代」にいたのだということをも感じるようになります。それが表⑥の段階です。イエスは2千年前にマリヤから生まれたわけですが、実はその前の「旧約の時代」からいたのだということが分かって来ます。この「旧約の時代」にもいるイエスのことが分かって来ると、信仰は揺るぎないものになるでしょう。そして、さらに理解が深まると、表⑦のように自分が「旧約の時代」に入り込んで、「旧約の時代」のイエスを感じるようになります。こうなると信仰は磐石であると言えるでしょう。もはやそうなれば、「旧約の時代」や「イエスの時代」などの壁は取り払われ、イエスはすべての時代に同時に存在するのだということがわかり、自分自身も聖書を読む時にはイエスと共にすべての時代にいることを感じるようになります。これが⑧の段階です。

継承すべき先輩たちの信仰
 この⑧の段階を感じることができるようになると、素晴らしい心の平安を感じることができるようになります。先に天に召された信仰の先輩方が、この地上生涯にいる間に、どの段階にいたかは、お一人お一人で違うと思いますが、今では、私たちの考えの及ばない、⑧よりももっと素晴らしい所いると思います。地上にいる私たちが行ける場所は、せいぜいがこの会堂の屋根の⑧ぐらいの所ですが、天に召された方々は、私たちの想像を絶する素晴らしい世界にいることでしょう。この地上にいた時には③の段階であったとしても、天に召されれば、④~⑧の段階は軽く超えて、天の御国に行くことができます。ですから、私たちの教会の役目は、地域の方々を少なくとも③の段階にはお導きすることなのだと思います。しかし私は欲張りですから、多くの方々に⑧番まで上がっていただきたいと願っています。それは⑧番の素晴らしい平安を知っている者たちでなければ、平和を作ることができないと思うからです。逆に言えば、多くの方々が⑧番の段階の素晴らしい平安を知るなら、世界は平和に向かって行くのだと思います。
 さて、③に導くにしても、⑧まで導くにしても、教会が存続しないなら、その働きはできません。私たちは信仰を継承して伝道の働きをつないで行かなければなりません。そのためには会堂が古くなったなら、新しい会堂を建てる必要があります。
 最初に話したように昨年私は、屋根に安全に上り下りできるハシゴの立て方を半年間考えて、1年前にようやく屋根の上に上がることができました。そして、屋根の状態を見て、この教会が2017年の50周年の年に新会堂を建てることを目標にしている理由を理解しました。2017年を新会堂の目標にすることは、私が着任する前の2012年から決まっていました。それは、屋根の鋼板の腐食が進行していて、2012年の5年後の2017年がギリギリの限界であるからなのですね。廣瀬先生はそう見ており、私もそのことを1年前に確認しました。2017年が、この会堂の限界でしょう。
 その2017年に献堂式を行うためには、2015年には計画がかなり具体的になっている必要があります。ですから、2015年を前にした、この2014年はとても大切な年であることになります。それゆえ私たちは新会堂のために、もっと祈らなければなりません。それで今年は1月の総会を経て、2月から月に1回、会堂祈祷会を持つようになりました。そうして事態が段々と動いて来ました。梅雨入りを前にした今年の5月、私は半年振りで屋根にまた上がり、以前よりも屋根の状態をもう少し詳しく調べてみました。すると、屋根の鋼板の腐食が思っていた以上に深刻であることがわかりました。それで私はこのことをインマヌエルの静岡教区の先生方やブロックアドバイザーの蔦田先生、さらに教団の会堂委員会の委員長の北田先生、そして代表の藤本先生にも報告しました。そして、私たちの教会でも会堂建設委員会を開いて、新しい会堂の建設に向けて新たな一歩を踏み出すことを確認しました。それは、この会堂の屋根の葺き替えをするのではなく、新しい会堂を建てるということです。新しい会堂を建てる場所は、今のこの場所にするのか、別の場所にするのか、或いは別の場所に中古の物件を購入してそれをリフォームして会堂にするのかは、まだ未定です。しかし、ともかくも今の会堂を、屋根を葺き替えて使い続けることはしないことを決定しました。
 この会堂建設委員会の決定を経て私たちは8月から、月に1回の会堂問題勉強会を始めています。また、今月の始めに台風18号が通過した時には、2階の牧師の居室で雨漏りがありました。神様が少しずつ、私たちの背中を押して下さっているように感じます。ですから、今日この教会に来て下さっている、召天者のご遺族の方々にも、是非この教会の新会堂のために、お祈りいただきたいと思います。

おわりに
 天に召された信仰の先輩方の多くは、この沼津教会で信仰が芽生え、信仰を育んで行かれました。それは、「イエスの時代」だけではないイエス・キリスト、すなわち、現代の私たちの時代にもいて、私たちと共にいて下さるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に歩んだということです。その先輩方の信仰を、この沼津の地で途切れることなく継承して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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すべてを逆にする十字架(2014.10.22 祈り会)

2014-10-23 10:19:30 | 祈り会メッセージ
2014年10月22日祈り会メッセージ
『すべてを逆にする十字架』
【Ⅰコリント1:18~25/イザヤ29:9~16、53:5】

1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

はじめに
 先日の聖日の礼拝説教で私は、平和とは実生活の役に立たない所にあるのではないか、という話をしました。聖書が平和の役に立っていないのは、私たちが聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強いからではないか、と私は最近、考えるようになりました。平和にとっては、役に立たないことが役に立つのです。役に立たないことが役に立つとは逆説的ですが、皆さんがご存知の通り、キリスト教の教えは逆説に満ちています。イエスと共に十字架に付く者が生きて命を得、弱い者こそが強い者であり、低い者は高くされ、後の者が先になります。

十字架はレンズの焦点
 イエス・キリストの十字架は、まるでレンズの焦点のようです。レンズの焦点にはレンズで屈折した光が一点に集まります。私たちが小学生の時、理科の授業で、太陽の光をレンズで集めて、焦点の所で黒く塗った紙を焦げさせる実験をしたことと思います。さて光は、もし紙があればそこで止まりますが、紙が無ければ焦点を通り過ぎて、なお進みます。その光は焦点で交差していますから、焦点の前と後ろとではレンズを通して見える像は180度逆になっています。自分の目とレンズとの距離を焦点距離よりも長くすると、レンズに映る像は、すべて逆さになって見えます。焦点はすべてを逆にしますから、イエス・キリストの十字架は、まるでレンズの焦点のようだと私は思います。
 では、どうして十字架にはそのように全てを逆転させる力があるのか、きょうは先ほど読んだ第一コリントと、後で読むイザヤ書から考えてみたいと思います。
 まず第一コリント1章ですが、私たちは先々週まで伝道者の書を学んでいましたから、19節のカッコの中が目にとまります。

1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

 そして20節、

1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

 伝道者の書の伝道者の悩みも、ここにあったのだろうと思います。神のことは世の知恵によっては知り得ないことです。では、どうして神のことを世の知恵で知ることはできないのか、19節の引用元を下の脚注で見ると、イザヤ29章14節とありますから、今度はイザヤ書をご一緒に見て、さらに考えて行きたいと思います(旧約聖書p.1169)。

物をさかさに考えている私たち
 イザヤ書29章の9節から16節までを、交代で読みましょう。

29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
29:10 【主】が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、
29:12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。
29:13 そこで【主】は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
29:15 ああ。【主】に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。
29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。
 
 先ず分かり易い16節から見て行きましょう。ここに、「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている」とあります。きょうの話の始めで私は、「キリストの十字架はすべてを逆にする」と言いましたが、そもそも私たちの考え方が神から見れば逆なんですね。16節にあるように、私たちは物をさかさに考えているのです。ですからキリストの十字架は、神から見れば逆さである私たちの考え方を、本来の逆さではない方向に戻す作業であると言えます。
 私たちの考え方の何が逆さなのかと言うと、私たちは神に造られた者であるのに、「神は私を造らなかった」と言い、「神はわからずやだ」と言っているのです。そのように傲慢で思い上がっている人間は、自分たちは優れた力を持っていると思い込み、自然でも何でも自分たちの力で制御できると思っています。神はそのように増長している人間を放ってはおきません。9節と10節、

29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
29:10 【主】が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。

 こうして深く眠らされた私たちの霊を起こすために、神はイエス・キリストを十字架に付けたのですね。

十字架が平安をもたらすのは何故か
 今回、私はきょうの第一コリント1章とイザヤ29章の思い巡らしを通じて、イザヤ53章5節のことが、以前よりもわかるようになった気がします。イザヤ書の53章5節を、ご一緒に読みたいと思います。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
   私たちの咎のために砕かれた。
   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
   彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 罪にまみれた私たちではなく、罪の無い神の子であるイエス・キリストが十字架に掛かることで、どうして私たちに平安がもたらされるのか。それは傲慢な私たちが物を逆さに考えていて(イザヤ29:16)、考え方がねじくれていたために平安が無かったのが、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架に掛かり、砕かれたためなのですね。ねじくれて逆さになっていた私たちの心が正され、本来の向きになったために、心の様々なひずみも無くなって、平安が得られると言えるでしょうか。
 弱い者が強い者であり、後の者が先になるというのも、そもそも人間が考えている弱い・強い、或いは後・先のことは、神から見れば逆さなのですね。傲慢な人間は神抜きで弱い・強いを考え、後・先を考えます。しかし、神から見れば神の助けを受け入れる者が強い者であり、先に救われるべき者たちなのですね。

おわりに
 最後にまた、第一コリントの1章に戻りたいと思います(新約聖書p.318)。23節から25節までを交代で読みましょう。25節はご一緒に読みます。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 神を恐れず、神が人間を造ったとは考えない人は、人間のことを賢いと思っていますが、神から見ればそれは逆さの考え方です。キリストの十字架は、人間のその逆さの考え方を本来の方向に戻し、私たちに平安を与えて下さいます。ですから私たちは、23節にあるように、十字架につけられたキリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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時間の空中散歩を楽しもう(2014.10.19 礼拝)

2014-10-20 07:29:40 | 礼拝メッセージ
2014年10月19日礼拝メッセージ
『時間の空中散歩を楽しもう ~永遠を生きるキリストの証人になるために』
【使徒1:8/ヨハネ12:27~33】

はじめに
 きょうの礼拝は教団創立記念礼拝です。私たちのイムマヌエル綜合伝道団は戦後間もない1945年の10月21日に創設されました。来年3月29日の聖日には創立70周年の記念礼拝が青山学院の講堂で持たれることになっていますから、お出掛けになってみては、いかがでしょうか。
 1945年に敗戦するまでの日本は天皇を現人神として崇拝していましたから、天皇を神と認めないキリスト者は迫害され、インマヌエルの創設者の蔦田二雄牧師は二年間を牢獄で過ごしました。そうして戦後まもなく新しい教団を設立した蔦田先生に神が見せた幻はとても大きなものでした。初期のインマヌエル教団は伝道の働きを担う伝道部だけでなく、保育部、医務部、農耕部を備え、まさに綜合伝道を目指すものでした。医務部と農耕部は戦後の医療事情と食料事情の悪さから備えられたものですから、やがてその役割を終えて行きましたが、それらに代わるようにして牧師養成機関の聖宣神学院が設立され、さらには神学生を海外に留学させて、やがて海外宣教にも乗り出して行きました。
 今月の教報10月号ではブロックアドバイザーの蔦田直毅先生が、巻頭言の最後の方で次のように書いています。
 「時代や状況は変わり、創設時と『同じこと』を『同じように』進めることには困難があります。しかし私たちは今、『拡大するヴィジョン』を見ているでしょうか。ただ現状の維持・対処という『守りの姿勢』にいつしか落ち着いていることはないでしょうか。」
 インマヌエル教団に限らず、組織というものは一般に、最初のうちに非常に上手く行った時期があると、それを守ろうとする姿勢に入ってしまい、やがて衰退することになってしまうようです。私は電気製品はソニーの製品を愛用していますから、いまソニーの経営が大変に苦しい状況にあるということを、とても残念に思っています。守りの姿勢とは、外に向かって攻めて行く姿勢が弱いということでから、そういうつもりはなくても、自ずと既存の枠の範囲内に納まってしまうのでしょう。

永遠を生きるキリストの証人になるべき私たち
 きょうの聖書交読では、使徒の働き1章の1節から8節までをご一緒に読みました。特に使徒1章8節は、私たちのインマヌエル教団が旗印にしている聖句です。教団の教報のトップページにも、この聖句が少し短くまとめた形で毎月必ず掲載されています。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、地の果てにまで、わたしの証人となります」

 使徒たちに与えられた、イエス・キリストのこの言葉は、私たちに与えられた言葉でもあります。私たちもまた使徒たちのようにイエス・キリストの証人にならなければなりません。しかし、私たちと使徒たちとでは異なることがあります。それは使徒たちは地上生涯のイエス・キリストと復活したイエス・キリストに出会いましたから、そのことの証人となることが求められましたが、私たちの場合は、地上生涯のイエス・キリストには会っていませんし、復活直後のイエス・キリストにも会っていませんから、私たちは永遠の中を生きるイエス・キリストの証人にならなければなりません。そうして私たちが永遠の中を生きるイエス・キリストの証人になるなら、私たちは平和を作る幸いな者とされるのだと思います。
 しかし残念ながら、これまでの礼拝説教でも語って来ているように、私たちの世界は少しも平和ではありません。私たちが平和を作ることができていないのは、つまるところ、私たちが永遠を生きるイエス・キリストの証人に十分になり得ていないということなのでしょう。それは、きっと私たちが聖書の描く壮大な世界を理解できていないからなのだと思います。では、聖書の壮大な世界を理解するにはどうしたら良いのか、きょうは説教題にあるような「時間の空中散歩を楽しもう」というテーマで話をしたいと思います。

実生活の常識をこえるために活用すべき聖書
 私は聖書が平和の役に立っていないのは、聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強すぎるからではないかと、最近、考えるようになりました。実生活の役に立たせるとは、例えば聖書を日常生活の道徳の規範にすることです。聖書を日常生活の道徳の規範にすることは聖書の正しい用い方ではありますが、これが過ぎると聖書が描く人知を越えた壮大な世界に思いが行かなくなり、却って聖書の読者の視野を狭めることになるのではないかと思います。
 私たちは日常生活を世間の常識の範囲内で営んでいます。私たちが常識の範囲内にとどまっている限り平和を実現するのが困難であることは、これまでの人類の歴史が証明しています。ですから平和の実現のためには常識を超える考え方が必要です。とは言っても、私たちは新しいことを考え出す必要はありません。なぜなら、その常識を超える考え方は、既に聖書によって提供されているからです。しかし残念なことに、これまで私たちはそのことを十分に理解できていなかったのではないかと思います。それは私たちが聖書を私たちの実生活の常識の枠の範囲内に押し込んで理解しようとしているからなのでしょう。そうではなくて聖書とは、私たちの実生活の常識を越えるために、もっと活用すべき書物なのだと思います。
 私がこのように考えるようになったきっかけは、10月7日付の朝日新聞で次のような記事を目にしたことです。これは青色LEDの作製に成功した日本人研究者にノーベル物理学賞が授与されることになったことに対する、小柴昌俊氏(2002年ノーベル物理学賞受賞者)のコメントです。

「私がいちばんうらやましいのが実生活に役立つ発明で受賞されること。私は史上はじめて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことで受賞しましたが、これと言って実生活にお役に立ったという実感がありません。自分の発明で人々が幸せになる。その功績でノーベル賞をいただく。このうえない喜びでしょうね。」

 この記事を読んだ時に私は、「小柴先生の研究は平和の役に立っているのに」と思いました。小柴氏は宇宙の遥か彼方で起きた超新星爆発で発生したニュートリノを観測しました。壮大な宇宙に思いを馳せている時、人は狭い地球上で戦争をすることなど考えないでしょう。それゆえ小柴氏の研究は平和に貢献しているのだと私は思います。

平和は実生活の役に立たない所にある
 飛行機について考えてみましょう。もし飛行機が空中散歩を楽しむだけの乗り物であったなら、戦争には使われなかったでしょう。熱気球やパラグライダーは現代の戦争には使われていません。飛行機は道路が無い場所を高速で移動できるという実生活の役に立つ乗り物になったために、戦争に使われるようになってしまいました。鳥のように大空を飛ぶことは人類の昔からの夢でした。この夢だけを純粋に追い求めていた間は平和でしたが、人間は何でも実生活に役立てようとします。そうして実生活の役に立つものは戦争の道具としてもまた、使われて行きます。
 科学者も、科学の大空の空中散歩を楽しんでいる時が、一番平和な時なのでしょう。核兵器の開発につながった核分裂の発見も、ウランに中性子を当てると、これまでに知られていない新しい現象が起きることがわかった段階では、科学者にはまだまだ真理の探究を楽しむ平和があったことでしょう。しかし、その未知の現象が解明されて原子核が分裂していることが分かり、しかも分裂して生成した二つの原子の質量を足すと分裂前のウラン原子の質量よりも小さいことが分かった時、その減った分のエネルギーを利用した核兵器を開発する道が開けてしまい、平和ではなくなってしまいました。
 これらのことから見えて来ることは、平和とはどうやら実生活の役に立たない所にあるらしい、ということです。紀元前4世紀頃の中国で書かれた『荘子』は九万里の上空を飛翔する雄大な大鵬の話で始まります。大鵬の背は幾千里あるか分からないほど大きいと荘子は描写しました。そんな途方もなく大きな荘子の話を論敵の恵子は材木として使えないコブだらけで曲がりくねった大木に例えて、荘子の話は大きいだけで何の役にも立たないと批判しました。それに対して荘子は、そのような役に立たない大木なら切り倒される心配もないから何も困ることはない、君もその大木の木陰でゆうゆうと昼寝でもしたらどうかねと恵子に言いました。
 さて、聖書の読者の多くも役に立つことばかりを考えている恵子のようなもので、聖書の大空の空中散歩や、聖書の大木の木陰でゆうゆうと昼寝をして楽しむことが下手なのではないでしょうか。聖書のみことばを実生活に役立てることを優先して、役に立たない大きなことにゆったりと思いを巡らすゆとりが不足しているのではないでしょうか。聖書が平和の役に立っていないのはそのためではないでしょうか。私たちは聖書を役に立たない大きなことを考えるための道具としても、もっと活用すべきなのだろうと私は考えます。
 ヨハネの福音書も、私たちの日常生活での【過去→現在→未来】という時間観の中で読んで実生活の役に立たせようとするあまり、永遠の中を生きるイエスの姿がなかなか見えて来ないのだと思います。ですから私たちは熱気球に乗って空中散歩を楽しむようにして、ヨハネの福音書を読むべきなのだと思います。ただしヨハネの福音書の空中散歩の場合は、「空間」の空中散歩ではなくて「時間」の空中散歩です。「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」をまたいだ時間を超越した空中散歩です。私たちは熱気球に乗って空中から地上を眺めるようにして、ヨハネの福音書の中に広がる「永遠」という時間全体の眺めを楽しむべきなのだと思います。

時間の空中散歩を楽しもう
 さて、きょうはヨハネの福音書の全体を眺める時間はありませんが、司会者に読んでいただいた12章の27節からの短い箇所だけでも、時間の広がりを感じることができますから、短い区間ではありますが、ここでの時間の空中散歩を楽しんでみたいと思います。
 まず27節、

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

 これは十字架を目前にしたイエス・キリストの苦悩ですね。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書では、イエスは最後の晩餐の後にゲッセマネの園で悶え苦しんだことが書かれていますが、ヨハネの福音書のイエスは最後の晩餐の前に、このように苦悩の中にありました。続いて28節、

12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

 この父の声の「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」の後ろのほうの、「またもう一度栄光を現そう」はイエス・キリストの十字架のことでしょう。では、前のほうの、すでに現した栄光とは何か、ということになりますが、それはモーセに率いられてエジプトを脱出したことでしょう。或いは、前のほうの栄光が「律法の授与」で、後のほうの栄光が「聖霊の授与」とも考えられます。いずれにしても、前のほうの栄光がモーセの時代のことであることは間違いありません。ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同じような目線で見るなら、この前のほうの栄光を「イエスの時代」から探し求めることになりますが、時間を空中散歩する熱気球からヨハネの福音書を眺めるなら、前のほうの栄光がモーセの時代にあることに気付きます。
 29節、

12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。

 父の声は時間を超越して響き渡りました。父の声が時間の壁を突き破るとき、それは雷のように聞こえるのかもしれません。続いて30節と31節、

12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

 この世を支配する者とは、悪魔のことです。そして、この世を支配する者が追い出されるのは終末の終わりの日です。これはヨハネの黙示録に書かれていますから、確認しておきましょう(新約聖書p.499)。ヨハネの黙示録20章10節、

20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

 悪魔はこのようにして追い出されました。ヨハネの福音書の12章31節に戻ります。ここには、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」とありますから、ヨハネの福音書は終末の終わりの日のことを、今のこととして書いています。そして32節と33節にまた十字架のことが書かれていますから、悪魔を追い出すことと十字架とはワンセットになっているようです。
 このように、この短い区間だけでもモーセの時代のこと、十字架のこと、終わりの日のことを眺め渡すことができます。そして、永遠の中にいるイエス・キリストはこれらのすべての時代に同時に存在します。

役に立たない時間の中にいたマリヤ
 もし私たちが実生活の枠に縛られているなら、この永遠の中にいるイエス・キリストの姿に気付くことがなかなかできませんが、時間の空中散歩という、役に立たないことを楽しむゆとりがあるなら、永遠の中にいるイエス・キリストの姿をハッキリと感じることができ、心の平安を得ることができるでしょう。そして、多くの人々が心の平安を得ることができるなら、それが平和につながって行くのだと思います。このように平和とは、実生活の役に立たないところに存在するものなのでしょう。
 役に立つことを一生懸命に考えることはもちろん大切なことです。しかし、役に立たない時間の中に身を置くことはもっと大事なことではないかと思います。それは、マルタとマリヤの姉妹のことからもわかります(ルカ10:38-42)。もてなしのために一生懸命働いていたマルタは人の役に立つことに一生懸命になり、イエスさまの足元でみことばに聞き入っていたマリヤは役に立たない時間の中にいました。そしてイエスさまは、マリヤは良いほうを選んだのだとおっしゃいました。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)

 私たちもマリヤのようにイエスさまの足元で静まる時を持ち、永遠の中にいるイエスさまを感じることができる者たちでありたいと思います。

おわりに ~すべてを逆にする十字架
 キリスト教は逆説に満ちています。イエス・キリストの十字架はすべてを逆にします。キリストと共に十字架に付いて死ぬ者は生き、弱い者は強く、低い者は高くされ、後の者は先になります。そして平和の役に立つのは実生活の役に立たないことです。聖書の教えはこのような逆説に満ちているからこそ、私たちに平安を与えてくれるのだと思います。マリヤの姉のマルタのように実生活をバタバタと忙しく過ごしているだけでは、この逆説の平安を理解することは難しいでしょう。マリヤのようにイエス・キリストのみことばにじっと聞き入る静かな時を持つことで心の平安を得て、平和をつくる幸いな者とされたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖書はなぜ平和の役に立っていないのか

2014-10-16 14:25:17 | 折々のつぶやき
 聖書が平和を説いているのに、なぜ世界は平和にならないのか。聖書はなぜ平和の役に立っていないのか。このテーマについて、ここ何か月か考えて来たが、当初は全く考えていなかった方向で考えがまとまりつつある。

 聖書が平和の役に立っていないのは、聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強すぎるからではないか。実生活の役とは、例えば日常生活の道徳の規範にすることだ。これは聖書の正しい用い方ではあるが、これが過ぎると聖書が描く壮大な世界に思いが行かなくなり、却って聖書の読者の視野を狭める。

 このように考えるようになったきっかけは、2014年10月8日付の朝日新聞デジタルで次のような記事を目にしたことだ。これは青色LEDの作製に成功した日本人研究者にノーベル物理学賞が授与されることになったことに対する、小柴昌俊氏(2002年ノーベル物理学賞受賞者)のコメントである。

「一番うらやましいのが実生活に役立つ発明で受賞されること。私は史上はじめて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことで受賞しましたが、これと言って実生活にお役に立ったという実感がありません。自分の発明で人々が幸せになる。その功績でノーベル賞をいただく。このうえない喜びでしょうね。」

 この記事を読んだ時に私は、「小柴先生の研究は平和の役に立っているのに」と思った。小柴氏は宇宙の遥か彼方で起きた超新星爆発で発生したニュートリノを観測した。壮大な宇宙に思いを馳せている時、人は狭い地球上で戦争をすることなど考えないであろう。それゆえ小柴氏の研究は平和に貢献しているのだ。

 飛行機のことを考えてみよう。もし飛行機が空中散歩を楽しむだけの乗り物であったなら、戦争には使われなかっただろう。熱気球やパラグライダーは現代の戦争には使われない。飛行機は道路が無い場所を高速で移動できるという実生活の役に立つ乗り物になったために、戦争に使われるようになってしまった。

 科学者は科学の大空の空中散歩を楽しんでいる時が、一番平和な時であろう。核分裂の発見も、既知の学説では説明できない未知の現象であった間は、科学者は真理の探究を楽しむ平和があった。しかし原子核が分裂して質量欠損が生じていると分かった時、核兵器開発への道が開けて平和ではなくなった。

 『荘子』は九万里の上空を飛翔する雄大な大鵬の話で始まるが、恵子は荘子の話は大きいだけで何の役にも立たないと批判した。それに対して荘子は、こぶだらけで曲がりくねった大木は木材として役に立たないので切り倒される心配もない、君もその木陰でゆうゆうと昼寝でもしたら良い、と諭した。

 聖書の読者の多くは、聖書の大空の空中散歩や、聖書の大木の陰でゆうゆうと昼寝をする楽しみ方を知らないのではないか。聖書の言葉を実生活に役立てることを優先して、役に立たない大きなことにゆったりと思いを巡らすゆとりが無いのではないか。聖書が平和の役に立っていないのはそのためではないか。

 実生活の「過去→現在→未来」という時間の流れを離れて聖書を読むなら、過去・現在・未来が一体になった永遠の中を生きるイエス・キリストの姿が見えるようになる。実生活とは違う永遠の中にいる御父と御子と交わる喜びを味わえるようになって初めて、聖書の読者は平和を作る幸いな者になれるのであろう。
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聖書全体とつながるピレモン書(2014.10.15 祈り会)

2014-10-16 11:19:23 | 祈り会メッセージ
2014年10月15日祈り会メッセージ
『聖書全体とつながるピレモン書』
【ピレモン1~25】

はじめに
 きょうは伝道者の書から離れようと思います。伝道者の書から完全に離れるわけではなく、これからは不定期に、時折、忘れ掛けた頃に伝道者の書にまた戻る、というような感じで伝道者の書の学びも続けて行くことができたら幸いかなと思っています。
 伝道者の書にも良いところはあるのですが、新約の時代の聖霊の恵みがあまりにも素晴らしいので、その聖霊の恵みが感じられない伝道者の書のことを、私はついつい厳しい目で見てしまっています。そうやって毎週毎週、伝道者の書の伝道者の批判ばかりしているのは私にとってもつらいことですし、皆さんにとっても良い心持ちはしないと思います。ですから、いったん伝道者の書から離れることにしたいと思います。
 それで、きょうは新約聖書のピレモンへの手紙を開きたいと思います。このピレモンへの手紙は先日、箱根で行われた静岡聖会の一日目の聖会で開かれた書です。聖会でこの書についての説教を聞いて以来、私はこの書について思いを巡らすようになりました。この説教を聞いてからまだ三日しかた経っていませんから、まだ十分な思い巡らしはできていませんが、いま感じていることを、この祈祷会で分かち合いたいと願っています。

ピレモンへの手紙
 まず、ピレモンへの手紙の全文を交代で読みましょう(新約聖書p.422)。

1:1 キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。
1:2 また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。
1:5 それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行いをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。
1:8 私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、
1:9 むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、
1:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
1:11 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
1:12 そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
1:13 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、
1:14 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
1:15 彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
1:17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
1:18 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
1:19 この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います──あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。──
1:20 そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。
1:21 私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。
1:22 それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。
1:23 キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。
1:24 私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。
1:25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

 私はBTC、聖宣神学院のキャンパスで過ごした3年間に、聖書からのメッセージをたくさん聞きました。授業がある火曜日から金曜日の4日間は毎日小礼拝があってBTCへ授業に来て下さっていた先生方によるメッセージがありましたし、寮では週に5回、早天または祈祷会がありました。また朝食の食堂でも聖書が開かれましたし、教会での水曜日の祈祷会と日曜日の礼拝や伝道会ではもちろん聖書が開かれましたから、とにかく聖書漬けの日々でした。そんな私でも、ピレモンへの手紙からのメッセージは聞いた覚えがありません。聖書通読で自分で読んではいましたが、説教でこの箇所が開かれたことは無かったように思います。唯一開かれたのが、5年前の林間聖会の早朝の読書会の時ではなかったかと思います。神学院教会の小川先生がこの書を取り上げて説き明かして下さいましたが、読書会でしたから、説教とはちょっと違います。
 それほど私にとっては馴染みの薄い書でしたから、今回の静岡聖会でピレモンへの手紙が開かれて、非常に新鮮な感動を覚えました。加えて、聖会の講師の工藤先生の説教の中で、ピレモンは放蕩息子の父親になるように招かれているという話があったので、そのことにとても興味を引かれました。ご承知のように私はこの教会での説教ではルカの福音書の放蕩息子の箇所をよく引用しますから、ピレモンへの手紙で放蕩息子の父親のことが語られたことで、益々この書に興味を抱くようになり、思いを巡らすようになりました。
 きょう話すことは、その思いを巡らしたことですが、その前に、このピレモンへの手紙の概要について、ごくごく簡単に説明しておきたいと思います。

ピレモン書の簡単な説明
 このピレモンへの手紙を書いたのは、パウロです。この時、パウロはローマにいました。そして、このローマのパウロのもとにはピレモンの所から逃げて来た奴隷のオネシモがいました。ピレモンはコロサイ(またはラオデキヤ?)で自分の家を教会にしていたパウロの同労者でした。奴隷のオネシモは逃げる時にピレモンの家から金か物かを盗み出したようで、ピレモンに損害を負わせていました。パウロはこのオネシモをピレモンのもとに戻すことにして手紙を書き、ピレモンにオネシモを赦して受け入れるように勧めたのでした。
 このような個人的な用件が書かれている短い手紙が、どうして新約聖書の中に含まれることになったのでしょうか。非常に興味深いことです。そうして思いを巡らすうちに分かって来たことは、このピレモンへの手紙には旧約聖書と新約聖書のエッセンスが濃縮された形で詰まっているということです。聖書は一つ一つのみことばを断片的に読むのでなく、一つのみことばであっても聖書全体とのつながりを思い巡らしながら読むべき書物ですが、このピレモンへの手紙について思いを巡らせば巡らせるほど、聖書全体とネットワークができていることがわかります。そのような書であるからこそ、新約聖書の中に含まれることになったのだろうなと、想像を膨らませているところです。

聖書全体とつながっているピレモン書
 ピレモンへの手紙のどこがどう、聖書全体とつながっているのか、それらを考えるのは非常に楽しい作業です。きょうは、その一部をご紹介したいと思います。

 まずは奴隷のオネシモですが、奴隷ということで、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を思い浮かべることができます。このオネシモはパウロのもとで救われましたが、オネシモが本当に救われるのは、主人ピレモンのもとに帰って赦された時でしょう。そうすると、放蕩息子の帰郷の話との関連も思い浮かべることができます。或いはまたピレモンの家のものを盗んで逃げたオネシモは、神から食べてはならないと言われた木の実を食べてエデンの園を追放されたアダムと重ねることもできると思います。オネシモとはエデンの園を追放されたアダムの子孫の私たちのことであり、私たちは神と和解してエデンの園である神の国に戻った時に始めて、完全なる平安の中に入ることができます。
 また、オネシモを赦して受け入れるようパウロに勧められているピレモンは、聖会の工藤先生の説教でも語られたように、放蕩息子の父親になるように招かれています。放蕩息子の父親のような寛大さで人を赦し、受け入れることは普通に考えるなら、無理なことです。そういう意味で、このピレモンへの手紙は非常に霊的な書であると言えると思います。だからこそ新約聖書の中に入ることになったのでしょう。放蕩息子の父親のように人を赦すことは、聖霊に満たされてキリストのようにされたものでなければ無理なことです。
 私たちが聖霊に満たされて人を赦すことができるようになるためには、まずは自分が神に反逆していた者であったこと、そしてそれにもかかわらず赦された者であるという自覚が必要でしょう。マタイの福音書の七度を七十倍するまで赦しなさいという箇所に書かれているように、私たちの一人一人は、主人に一万タラントもの借金を免除してもらっている者たちです。このことをもっとよく知るには、旧約聖書全体を知る必要があります。ですから、ピレモンへの手紙は旧約聖書全体、福音書の全体ともネットワークを形成しています。そして、この手紙はパウロによって書かれたものですから、パウロの手紙はもちろん、使徒の働きともつながっています。

時空を越えてネットワークを形成する聖書
 このようにピレモンへの手紙は時間と空間を越えて創世記とも出エジプト記とも列王記とも福音書とも有機的につながっています。時間と空間を越えていますから、まさに霊的な書であると言えるでしょう。そういう意味では、ヨハネの福音書と似ているとも言えるかもしれません。ただヨハネの福音書の場合は意図を持ってイエス・キリストの言動を聖書全体と絡ませていますが、ピレモンへの手紙の場合は意図していないにも関わらず、赦しというキリスト教の中心課題が問題になっているために自ずと聖書全体と絡むことになったと言えると思います。いずれにしても、神様は時間と空間を超越して永遠の中におられますから、聖書のそれぞれの書は多かれ少なかれ聖書全体と絡むようになっていることが、ピレモンへの手紙を読むとよくわかります。

おわりに
 最後に、ピレモンへの手紙の15節から17節までを交代で読んで、きょうのメッセージを閉じたいと思います。17節は、ご一緒に読みます。

1:15 彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
1:17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。

 お祈りいたしましょう。
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見ずに信じる者は幸いです(2014.10.12 礼拝)

2014-10-15 06:11:52 | 礼拝メッセージ
2014年10月12日礼拝メッセージ
『見ずに信じる者は幸いです』
【ヨハネ20:24~31】

はじめに
 きょうまた、ヨハネの福音書からのメッセージです。私の礼拝説教はヨハネの福音書からのメッセージが大変多いです。なぜ、ヨハネの福音書からのメッセージが多いのか、ある程度はわかっていただいていると思いますが、ここで改めて理由を説明させていただきたいと思います。
 少し大きな話をしますが、人類には聖書という宝物があり、その宝物である聖書が平和を説いているのに世界は一向に平和にならずに世の中が混乱しているのは一体どういうわけか。私は、それは私たちがヨハネの福音書を理解できていないからだと考えています。ヨハネの福音書は紀元1世紀の末頃に書かれました。これはかなり確かなことです。一方、この福音書がどこで書かれたのかは、はっきりしたことはわかりません。伝統的な説ではエペソで書かれたことになっていますから、ここではエペソで書かれたことにしておきます。
 さて、ヨハネの福音書が書かれた頃、エペソの教会の人々は、ヨハネの福音書の背後に何が隠されているかは説明を受けて知っていたことでしょう。しかし、この福音書が写本によって周辺の地域に広がって行く過程では、写本に書かれている表面的な文字は伝わっても、背後に隠されていることまでは一緒に伝わりませんでした。そうして21世紀の現代に至っています。この間、キリスト教はユダヤ教から完全に分離し、そして西方教会と東方教会とに分裂し、西方教会はまたカトリックとプロテスタントとに分裂し、プロテスタントの教会はさらに多く枝分かれして行きました。またこのようにキリスト教が分裂している間にイスラム教が勃興して勢力を広げて行きました。
 私は、もし人類がヨハネの福音書の豊かな内容を、もっと多く理解できていたなら、キリスト教はこんなにも分裂を繰り返すことは無かったのではないかと考えています。ですから、今からでも、もし私たちがヨハネの福音書の理解を深めることができるなら、分裂の流れはとどめられて、一つになる方向に向かうのではないかと期待しています。そのために私は、どうしたらヨハネの福音書のことを上手く皆さんにお伝えできるだろうかと、日夜、ああでもないこうでもないと考えています。

ホッケの開きの例え
 ヨハネの福音書は、これまでマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同列に並べて読まれて来た経緯があります。聖書の読者はその読み方にすっかり慣れ親しんでしまっています。ですから、そうではない、全く別の観点からの読み方もあることを、どうやったら多くの方々にわかっていただけるのか、私は、とても悩ましく思っています。
 例えば、こんな例えは、どうでしょうか。私は学生時代の10年間を北海道で過ごしました。北海道では魚のホッケの開きが良く食べられていて、私もよくホッケの開きを食べていました。ホッケという魚は背開きにしてあるとカレイやヒラメのような形に見えます。それで私はホッケという魚はヒラメやカレイのような平べったい魚だとばかり思っていました。ところがある日、開いていないホッケが魚屋さんにあり、これがホッケだと言われた時、にわかには信じられませんでした。今でもそうです。私の頭の中ではホッケと言えば開いた姿のものが定着してしまっています。ヨハネの福音書も、そんな感じではないかなと思います。これまでヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同列にして読まれて来たことは、開いた状態のホッケだというわけです。それもまたホッケであることは事実です。しかし開いていないホッケのほうが、ホッケという魚をより豊かに表していると思います。すなわち、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同列にして読むヨハネの福音書のイエスもイエス・キリストの一面を表していることは事実です。しかし、共観福音書と同列にしないヨハネの福音書の読み方のほうが、より豊かにイエス・キリストの姿を表していると言えます。
 マタイ・マルコ・ルカの福音書と同列ではないヨハネの福音書の読み方をどのように伝えたら良いか、私は日夜、様々に思いを巡らしていますので、何か新しいアイデアを思い付くと、礼拝で皆さんに話してみたくなります。そんなわけで、ヨハネの福音書からのメッセージがどうしても多くなってしまいますが、平和のためにヨハネの福音書が果たす役割は極めて大きいと思いますから、どうかお付き合い願えたらと思います。

聖霊を受ける前の読み方と後の読み方
 さて先週、今年のノーベル物理学賞は青色LEDの作製に成功した三人の日本人研究者に贈られることになったという大きなニュースがありましたね。このニュースを受けて、私はまたヨハネの福音書のことを考えました。私は以前から、ヨハネの福音書に描かれている三位一体の神は光の三原色に例えることができるのではないかと考えていました。父・御子・聖霊の三位一体の神は、青色と緑色と赤色の光の三原色に例えると上手く説明できるかもしれないと思っていました。ただし聞く側の人々が光の三原色についてあまり馴染みが無いのであれば、話をややこしくするだけだろうと思い、このアイデアについてもっと考えることはしていませんでした。しかし、今やニュースで、青・緑・赤の三つの光を重ねると白色光になることを盛んにマスコミが報じてくれていますから、これに便乗して三位一体の神を光の三原色に例える試みを推進させてみようと私は考え始めています。このヨハネの福音書に描かれている三位一体の神については、後日また、話す機会があったらと思っています。
 さてでは、きょうは何を話すつもりでいるかと言いますと、今回、三位一体の神について思いを巡らしているうちに気付いた、新たなことです。それは、ヨハネの福音書には読者が聖霊を受ける前の読み方と、聖霊を受けた後の読み方の二種類の読み方があるのだろうということです。読者が聖霊を受ける前の読み方は、恵みにはやや乏しい読み方です。一方、読者が聖霊を受けた後の読み方は、恵みに溢れた読み方です。別の言い方をすると、読者が聖霊を受ける前の恵みにやや乏しい読み方とは、ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同列にして読む読み方です。一方、読者が聖霊を受けた後の恵みに溢れた読み方とは、共観福音書とは同列にしない恵みに溢れた読み方です。少し前まで私は、恵みに溢れた読み方だけが本当の読み方で、共観福音書と同列にした恵みに乏しい読み方は本当の読み方ではないと考えていました。しかし、両方とも本当の読み方らしいことに気付きました。開いたホッケも開いていないホッケも、どちらも本当のホッケであるのと同様に、共観福音書と同列の読み方も同列にはしない読み方も、どちらも本当の読み方なんですね。ヨハネの福音書を初めて読む読者は大抵は、まだ聖霊を受けていませんから、まず聖霊を受けていない者として共観福音書と同列にした読み方をします。そして、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた後には、もっと恵みに溢れた読み方をするように導かれるようになっているのだと思います。
 それでは、これまではどうして共観福音書と同列の読み方しか為されて来なかったのか。聖霊を受けたクリスチャンの読者が無数にいたのにも関わらず、共観福音書と同列にする読み方しかできなかったのか。それは、この読み方があまりに強力に染み付いてしまっているからだと思います。さらに、以前から言っているように、【過去→現在→未来】という「流れる時間」に私たちが強力に囚われているからだと思います。

イエスを信じない人々
 では、ここから今日の本題に入って行きます。私たちはどうすれば、聖霊を受ける前の者から聖霊を受けた後の者へと変わることができるのでしょうか。きょうのメッセージのタイトルは、『見ずに信じる者は幸いです』です。ですから、見ずに信じる者になる必要があります。ヨハネの福音書には、「イエスを信じた」という表現が何度も出て来ます。そして、このイエスを信じることを巡って何種類かの人々が描かれています。この何種類かの人々を見て行くことにしましょう。
 まずイエスを全く信じようとしない人々がいます。これらの人々はイエスの奇跡を見ようが見まいが、とにかくイエスを信じる気は全くありません。それからイエスを信じた人々がいますが、このイエスを信じた人々もまた二種類に分けることができます。イエスの奇跡を見て信じた人々と、奇跡を見ずに信じた人々です。この奇跡を見ずに信じた人々というのは、奇跡を見て信じた人から話を聞いて信じるようになった人々のことです。
 このようにヨハネの福音書にはイエスを信じていない人々と、イエスを信じた人々の両方が描かれていますが、それは私たち読者も同じです。私たち読者もまたイエスを信じていない者たちとイエスを信じた者たちの両方が存在します。ヨハネの福音書は、この両方の読者を意識した書であると言えるでしょう。
 では、ここからは、イエスを信じることを巡る何種類かの人々について、ヨハネの福音書から具体的に見て行くことにします。まずイエスを信じない人々ですが、そのような箇所はたくさんあります。例えば5章18節を見て下さい。

5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

 このユダヤ人たちはイエスを全く信じていませんでしたから、彼らの目にイエスが神として見えることはありませんでした。これは私たち読者にも言えることです。イエスが神の子であると信じない者は、いくら聖書を読んでもイエスが神として見えてくることは、決してありません。

イエスの奇跡を見て信じた人々
 次に、イエスが行う奇跡を実際に見てイエスを信じた者たちについての箇所を見ましょう。代表的なのは、「最初のしるし」と「第二のしるし」の箇所ですね。「最初のしるし」は、2章11節です。

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 イエスは水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。それで、弟子たちはイエスを信じました。これまでの礼拝説教で何度も言っていますが、ヨハネの福音書のこのような「イエスを信じた」という記述は、「使徒の時代」に聖霊が注がれたことと重ねられています。ですから、この「最初のしるし」は、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれたことと重ねられています。
 次に「第二のしるし」は4章54節にありますが、その少し前の48節を見て下さい。ここでイエスは、

4:48 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」

と言っています。その上で、イエスは離れた場所にいた王室の役人の息子を癒しましたから、この王室の役人と家の者はイエスを信じました。53節と54節です。

4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。
4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 この「第二のしるし」は、やはり以前話したことがあるように、「使徒の時代」に異邦人に聖霊が注がれたことと重ねられています。

イエスを見ずに信じた人々
 さて、このように多くの人々はイエスの行う奇跡を見て初めてイエスを信じましたが、イエスの奇跡を見なくても信じた人々もいました。サマリヤ人たちでした。4章39節を見て下さい。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

 このサマリヤ人たちは、イエスに会う前から、女のことばによってイエスを信じました。そして、40節から42節、

4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 ここでヨハネの福音書が何を言おうとしているかというと、サマリヤ人たちはイエスを見る前から39節にあるようにイエスを信じましたから、その時点で彼らに聖霊が注がれました。そうして、聖霊の働きによって実際に霊的にイエスと出会うことができたということです。ここには「使徒の時代」に聖霊が注がれたサマリヤ人たちのことが描かれています。「使徒の時代」ですから、地上生涯のイエスはもう十字架で死んだ後です。ですから「使徒の時代」のサマリヤ人たちは、実際にイエスに出会うことはできませんでしたが、イエスを信じて聖霊が注がれましたから、霊的にイエスに出会うことができました。
 それは、私たち読者も同じことです。私たち読者は地上生涯のイエスに直接出会うことはできませんから、イエスを見ることなしに、福音書や使徒の働きやパウロの手紙などを読んだり聞いたりしてイエスを信じる必要があります。そうしてこれらの書を通じてイエスを信じるなら聖霊が注がれて、霊的にイエス・キリストと出会うことができるようになります。ですから、この4章のサマリヤ人たちと私たちクリスチャンとは同じです。サマリヤ人たちも私たちクリスチャンも直接イエスに会ったことはありませんでしたが、人を通じてイエス・キリストのことを聞いて信じました。そうして信じることで聖霊が注がれて霊的にイエス・キリストに出会うことができるようになりました。つまり、イエス・キリストが十字架で死んでしまって以降の者たちは皆、まずはイエス・キリストを見ずに信じなければ決してイエス・キリストに霊的に出会えるようになりません。ヨハネ20章で、イエスがトマスに「見ずに信じる者は幸いです」と言ったのは、そのためであると言えるでしょう。

見ずに信じる者は幸いです
 では、最後にきょうの聖書箇所のヨハネ20章を簡単に見ましょう。22節でイエスは弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と言いました。聖霊を受けることで初めて、霊的な目が開かれて、恵みに溢れた聖書の世界が見えるようになります。その聖霊を受けるにはイエスを信じる必要がありますが、私たちは、まずは人から話を聞いたり聖書を読んだりして、イエスを信じる必要があります。しかし、トマスは弟子たちの話を聞いただけでは信じることができませんでした。24節と25節、

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

 そんなトマスにイエスは27節で、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。そして、29節で、「見ずに信じる者は幸いです」と言いました。なぜなら、見ずに信じることで聖霊が注がれて、その後に初めて霊的な目が開かれるからです。
 そうして、霊的な目が開かれると、恵みに溢れた聖書の世界を見ることができるようになります。一方、霊的な目が開かれない間は、恵みに乏しい世界しか見ることができません。ヨハネの福音書は、その両方の読者を意識しています。

おわりに
 ヨハネの福音書のイエス・キリストは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」というように、「まことに」を二度繰り返します。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書は、「まことに、あなたがたに告げます」と「まことに」を一度言うだけです。このマタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、人々が聖霊を受ける前の世界のことが書かれています。そして、ヨハネの福音書には、それに重ねて、人々が聖霊を受けた後の世界のことも書かれています。聖霊を受ける前も受けた後も、両方ともどちらも本当の世界です。ヨハネの福音書の「まことに、まことに」という繰り返しは、両方の世界があることを、暗に示しているのではないかと、いま私は考えています。
 20章30節にあるように、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われました。それらはマタイ・マルコ・ルカの共観福音書に多く書かれています。私たちは、それらのしるしを直接見ることはできませんが、福音書の記事を通じて知ることができますから、それらを信じれば良いのです。そうして、信じれば聖霊が注がれて、永遠のいのちが与えられます。31節を、ご一緒に読みましょう。

20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 イエスを信じて聖霊が注がれると永遠の命が与えられ、また霊的な目が開かれますから、恵みに溢れた聖書の世界を見ることができるようになります。この素晴らしい恵みに感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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淡白な伝道者(2014.10.8 祈り会)

2014-10-09 15:07:29 | 祈り会メッセージ
2014年10月8日祈り会メッセージ
『淡白な伝道者』
【伝道者3:11~22】

はじめに
 伝道者の書の学びを続けたいと思います。これまで伝道者の書からのメッセージを続けて来て、私の伝道者への評価は随分と低いなと自分でも感じます。これまでのメッセージで私は伝道者をほとんど評価してきませんでした。きょうもそうです。この点に関して、皆さんの中の伝道者像とは少しズレがあるかもしれません。もしそうであるとしたら、少し申し訳なく思いますが、聖書の学びで大事なことは、お一人お一人が神様との個人的な関係を築くことですから、私のメッセージは参考程度にしておいて、皆さんのそれぞれが神様との関係を深めていただけたらと思います。
 ここ何週間かの伝道者の書の学びで私が強く感じていることは、聖霊が注がれる恵みがいかに素晴らしい恵みであるかということです。イエス・キリストを信じるなら、誰でも聖霊が注がれます。そして聖霊が注がれるということは、私たちの心の中に聖霊が入って下さるということですから、神様との深く交わることができるようになります。一方、聖霊が注がれる前は、神様は神殿の垂れ幕の向こう側にいるような感じです。日本の幕末の時代劇など見ると、天皇が御簾の向こう側に座っているようなシーンがありますね。そんな感じでしょう。
 伝道者の書の伝道者には聖霊が注がれていなかったように見えますから、私には伝道者と神様との間には、このような垂れ幕が挟まっているように見えます。それゆえ伝道者と神様との間には直接的なやり取りがなく、伝道者にはどこかあきらめのようなものが見えます。きょうは、そんな伝道者とは対照的な人物を二箇所から見てみたいと思います。

神と格闘したヤコブ
 まず一箇所は、創世記のヤコブが神様と格闘した場面です。創世記32章の24節から30節までを交代で読みましょう。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

 細かい説明は省きますが、このペヌエルの地でヤコブは神様と格闘しました。24節にあるヤコブと格闘した「ある人」というのは、神様のことです。この時、ヤコブは人生最大のピンチにありました。最悪の場合、ヤコブは兄のエサウによって家族と財産を奪われ、自分の命も奪われる危険性がありました。それでヤコブは必死で神様にくらいつき、祝福を求めました。26節で神様が「わたしを去らせよ」と言っているのに、ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と言って、神様に祝福を求めました。そうして29節に神様が「その場で彼を祝福した」とありますから、ヤコブは祝福を勝ち取ったのでした。
 それに比べると、伝道者の書の伝道者と神様との間には、もっと距離があるように思います。伝道者の書の3章11節、ここは先週も見た箇所ですが、伝道者はこのように言っています。

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

 ここで伝道者は神を崇めています。そのことは伝わって来ますが、神と格闘したヤコブと比べると、私は個人的には少し物足りないものを感じます。

裁判をしつこく要求したやもめ
 次にもう一箇所、ルカの福音書の不正な裁判官の箇所を見てみたいと思います。ルカの福音書18章の1節から8節までを、交代で読みましょう。

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 1節に、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」とありますが、伝道者の書の伝道者は失望ばかりしていて、少しも祈っていないように見えます。それに対して、このルカ18章のやもめは失望しないでしつこく裁判官に裁判を求めました。
 3節にあるように、やもめは裁判官のところにやって来ては、裁判を求めました。そうして、この不正な裁判官の心を動かすことができました。4節にあるように裁判官はしばらくは取り合わないでいましたが、5節、

「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない」

と言って裁判をしてあげることにしました。
 そしてイエスさまは7節で、まして神は夜昼神を呼び求める者を放っておくことはないとおっしゃいました。
 それに比べて伝道者の書の伝道者は、とてもあっさりとしているように見えます。伝道者の書の3章に戻りましょう。3章14節で伝道者はこのように言っています。14節、

3:14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。

 伝道者は、人間の側からの働き掛けで神がすることが変わることはないと考えていましたが、ヤコブの箇所やルカの福音書の不正な裁判官のたとえが教えることは、神様はもし必死で食い下がるなら、考え直して下さるということです。

おわりに ゲッセマネの祈り
 きょうのメッセージの始めのほうで私は、私自身は伝道者の書の伝道者をあまり評価していないと言いましたが、そういう私も、実はあまり神様に食い下がることなく、あっさりとあきらめてしまっている面があることを感じます。
 私たちは御心に委ねることが大事ですが、御心に委ねる前に先ず、必死で祈ることがもっと大事であると言えるでしょう。そう考えていたら、イエスさまのゲッセマネの祈りを思い出しましたから、最後にイエスさまのゲッセマネの祈りをご一緒に読んで終わることにしましょう。マルコの福音書の14章、32節から36節までを交代で読みましょう。

14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 お祈りいたしましょう。
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光の三原色と三位一体の神論

2014-10-08 06:44:26 | 折々のつぶやき
【光の三原色と三位一体の神論】
 便乗とは軽薄だが、この際、青色LEDに便乗して、以前から温めていた三位一体の神を光の三原色に例える試みを、推進させてみようと思う。青・緑・赤の光から白色の光を作り出せることをマスコミが説明してくれているので、今ならわかってもらいやすいのではないかと思う。なお、以下の例えはヨハネの福音書の理解から得られることである。
 父・御子・聖霊の三位一体の神を青・緑・赤からなる白色光に例えてみたい。ふだん我々が感じている神は白色光である。この白色光を分光すると父・御子・聖霊の性質に分かれて見えるのである。ただし、ここまでの例えなら、私だけでなく多くの人が考えることであろう。面白いのはここからだ。
 預言者・イエス・使徒にはフィルターのような働きがあって、白色光の三位一体の神は預言者を通ると父だけが見えるようになる。同様にイエスというフィルターを通ると御子が見え、使徒のフィルターを通ると聖霊が見える(この場合の「見える」とは霊的に見えるという意味である)。
 ヨハネの福音書がわかりづらいのは、イエスが地上生涯のイエスだけでなく、預言者としても、復活後のイエスとしても、或いはまた御使いとしても登場している点にある(御使いというフィルターは預言者のフィルターともまた異なるのでなかなか興味深いが、ここでは深くは追究しない)。
 以上は単なる例え話であるので青・緑・赤の光が父・御子・聖霊のどれに対応するかまで考える必要は無いと思うが、あえて対応させるとすれば、エネルギーが一番高い青色の光が第一の位格の父、次にエネルギーが高い緑色の光が第二の位格の御子、三番目の赤色が第三の位格の聖霊ということになるであろうか。
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生死の境を越えて守られている私たち(2014.10.5 礼拝)

2014-10-05 14:00:58 | 礼拝メッセージ
2014年10月5日礼拝メッセージ
『生死の境を越えて守られている私たち』
【ヨハネ5:24~29、11:38~44、12:1~2】

はじめに
 今週の11日土曜日の、夜7時からの沼津コーストFMの番組「潮風の中で」のメッセージは私が担当します。今回が2回目の担当になります。ぜひ聞いていただけたらと思います。ただ、電波が受信できないエリアにお住まいであったり、様々な用事があったりして、11日の放送をお聞きになれない方もいらっしゃると思いますので、きょうの礼拝メッセージの前半では、この放送原稿の全文を読ませていただくことにします。それで、もしメッセージの中で多少なりとも心に響く箇所があったとお感じになりましたなら、お知り合いに11日の夜7時からのコーストFM76.7MHzの「潮風の中で」を聞いていただけるよう、勧めていただけたらと思います。また、きょうここでメッセージの全文を聞いてしまった皆さんも、11日の放送では私のメッセージの他にも賛美歌や、司会の有野先生の短いトークも入りますから、ぜひ聞いていただけたらと思います。
 これから約15分の放送原稿をお読みします。その後で、残りの時間を使って、この原稿で語ったことの補足説明を、ヨハネの福音書を見ながら行いたいと思います。

放送原稿全文
<2014年10月11日放送「潮風の中で」原稿>
 きょうは私たちの人生を支配している「見えない力」について、私自身の経験を交えてお話をしたいと思います。
 皆さんは、自分が何か「見えない力」によって守られていると感じることはあるでしょうか。或いは「見えない力」に押し流されたり翻弄されたりしていると感じることはあるでしょうか。それとも、そのような「見えない力」などは存在しないとお考えでしょうか。
 まず、今の三つ目の、「見えない力」など存在しない、という考え方について一言述べておきたいと思います。私は、そのような考え方をする人は、日本人にはほとんどいないだろうと思っています。もし私たちの人生を支配する「見えない力」が無いとすれば、すべては偶然が支配していることになります。すると、何かを祈ることは全く意味の無い行為であることになります。すべてが偶然によるのなら、祈りによって何かが変わることはありませんから、私たちが普段よく口にする「何々をお祈りしています」というような言葉も、全く無意味だということになります。しかし、日本人の多くはお正月に神社やお寺に初詣に行って、一年間を無事に過ごすことができますように、などとお祈りしますね。そのように祈るのは「見えない力」があると信じていればこそのことでしょう。このように日本人のほとんどは「見えない力」を信じていると思いますから、今日は、この「見えない力」を信じないことについては、これ以上は触れないことにします。
 では改めて、私たちはどのような「見えない力」に支配されているのかについて、考えて行きたいと思います。私たちは「見えない力」によって守られているのでしょうか、それとも「見えない力」によって押し流され、翻弄されているのでしょうか。結論から先に言えば、両方の力が存在します。私たちを守る力も存在しますし、私たちを翻弄する力も存在します。私自身の経験から言っても、私はキリスト教の教会に通うようになる前から、両方の力を感じていました。そして教会に通うようになってからも、両方の力を変わらずに感じています。ただし、教会に通うようになる前と後とで大きく違うのは、教会に通うようになってからはその力の正体を知り、そのことによって心の平安を得ることができたということです。
 私が教会に通うようになったのは、13年前の41歳の時でした。その頃の私は仕事にもやりがいを感じ、また様々な趣味を持ち、人生を楽しんでいました。しかし、どこかで漠然とした不安をいつも感じていました。時の流れの中を漂流しており、どこに流されて行くのかが分からない不安がいつもどこかにありました。また、当時の私は平穏な生活を送っていたものの、そこまでに至る私の人生はそれほど平坦ではありませんでした。何度か人生の危機とも言える危ない状況の中を通って来ました。それゆえ、いつまた危険な目に遭うか分からないという不安も持っていたと思います。しかし一方で私は、いつも誰かに守られていることもまた感じていました。危ない状況の中を通っても不思議と切り抜けて来られたのは、きっと誰かに守られているからだと思っていました。ただし、自分を守ってくれているのが誰なのかは全くわかりませんでした。神社の神様なのか、お釈迦様や阿弥陀様なのか、ご先祖様の霊なのか、いろいろと候補を考えてみるのですが、それが誰なのかはわからないままでいました。
 そんな私でしたが、13年前に父親の死をきっかけにして教会に行き始めてから、私は自分を守っていてくれた存在が誰なのかを知ることになりました。父の死後、私はクリスチャンの知人に、教会の日曜日の礼拝に連れて行ってもらい、その教会のコーラス隊が歌う美しい賛美歌の合唱を聞いて、とても心が癒されました。ただ、その教会は私の自宅からはだいぶ離れた所にありましたから、その後、私は自宅の近所にあった教会に一人で行ってみました。そして、そこで聞いた礼拝の説教が大変に興味深いものでしたから、その説教の続きが聞きたくて、その近所の教会に続けて通うようになりました。
 その教会は神奈川県川崎市の高津区にあるインマヌエル高津キリスト教会でした。私がこの高津教会を訪れた日はちょうど、牧師の藤本満先生による新約聖書の「ガラテヤ人への手紙」の連続説教シリーズの第1回目の日でした。この第1回目の説教で、信仰は時に熱心になり過ぎると形式主義に陥って、本当の信仰から離れて行くことがあるということを私は知りました。形式主義というのは、例えば毎週日曜日の礼拝には必ず出席しなければならないというような、礼拝出席という形に囚われてしまうことです。本当に大切なことは、出席した礼拝でいかに深く神様とのふれあいを持つかということなのですが、形式主義に陥ると、礼拝に出席したかしないかという表面的な形にだけ囚われてしまうことになります。最初の説教を1回聞いただけで私がそこまで理解できたわけではもちろんありませんが、私はその最初の説教で信仰の世界の奥深さを垣間見たような気がして興味をそそられ、次の説教が聞きたくなり、毎週のように近所の高津教会に通うようになりました。
 そうして何週間か続けて教会に通ううちに、今まで私を守ってくれていたのは、実はキリスト教の聖書の神様だったのだ、ということに私は気付き始めました。それとともに私を不安にしていた、流れる時間の中での漂流感がピタリと無くなりました。それまでは時の流れに流されて漂っていることを感じ、どこに流されて行くのかわからない不安をいつも漠然と感じていました。その漂流感がピタリと治まったのでした。そして、教会こそが自分が心の奥底で慕い求めていた自分の本来の居場所だったのだということに気付きました。

(賛美歌が一曲入る)

 前半で話した通り、私は教会に通うようになって初めて、自分を守ってくれていたのが、キリスト教の聖書の神様であったことに気付きました。それは私にとって全くの想定外のことだったので、大きな驚きでした。それまで私は自分を守ってくれているのは神社の神様なのか仏教の仏様なのか、或いはまたご先祖様の霊なのかいろいろ考えてみてはいましたが、キリスト教の聖書の神様のことは全く想定していませんでした。しかし、聖書の理解が進むに連れて、聖書の神様は私が生まれた時から私を守っていたのだということを深く納得できるようになって行きました。
 そしてその理解は今なお深まっていると私は感じています。神様が私たちを守って下さるという場合、それは「この世」の生死とはあまり関係が無いのだということを私は理解するようになりました。この何年かの間に私たち日本人は、多くの悲しい災害を経験しました。地震や津波で多くの方々が亡くなりました。また突然雷に打たれて亡くなった方々もいますし、歩道を歩いていたのに暴走して来た車に引かれて亡くなった方々もいます。或いは今年の8月の広島の土砂災害のように深夜に突然、土石流に襲われて亡くなった方々も大勢いましたし、つい先日は木曽の御嶽山の噴火で多くの方々が亡くなりました。これらを通して私たちは、自分もいつ何どき、このような災害に遭うかわからないと身に染みて感じるようになりました。このような災害に遭うか遭わないかは、信仰が有るか無いかとは関係がありません。私自身も、いつこのような災害に遭うかわかりません。私は神様がいつも私を守って下さっていることを信じていますが、それでも、もし大規模な災害に巻き込まれるなら、私の命も助からないだろうと思います。しかし、だからこそ私は私を守って下さっている神様を信頼して信仰を整えていたいと思っています。それは、神様が私たちを守って下さるという場合、私たちの生死を越えて守って下さっているからです。つまり、「この世」でも「あの世」でも神様は私たちを守って下さいますから、「この世」と「あの世」の境を越えて、いつ「あの世」に行くのか、それが早いのか遅いのかは、あまり気にしないほうが良いということです。そのことが理解できるようになると、今まで味わったことが無いような、格別に大きな心の平安が得られるようになります。
 旧約聖書の有名な詩篇23篇では、この詩の作者のダビデは次のように自分の心境を綴っています。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

 神様がいつも自分と共にいて下さることを感じているなら、ダビデのように災いを恐れることはありません。たとえ、死と隣り合わせの大きな災いに遭おうとも恐れることがないというダビデのような信仰を、私たちも持つことができるなら幸いだと思います。
 この世には、自然災害のほかにも多くの災いが満ち溢れています。人による人為的な災いもあります。そして、そのような災いをもたらす「見えない力」が存在することもまた確かなことです。そして私たちは災いをもたらす「見えない力」に打たれて悶え苦しんだり命を落としたりもするでしょう。もし、その時に自分を守ってくれているもう一つの「見えない力」の存在が見えていないなら、それは文字通り災いであり、ただひたすら苦しいだけです。しかし幸いなことに私たちには私たちをいつも守っていて下さる、もう一つの「見えない力」が存在するのですから、その「見えない力」を信じ、常に信頼していたいと思います。そうすれば、災いは災いではなくなります。
 私は13年前に教会に通うようになってから、私が生まれてからずっと私を守って下さっていたのが、キリスト教の聖書の神様であったことを知り、心の平安を得ることができました。そして教会こそが、自分が心の奥深い所で無意識のうちに求めていた本来の居場所であったことに気付きました。これは全くの想定外のことでしたから私にとっては本当に驚きでしたが、今ではそのことを深く理解し、納得しています。
 皆さんには、そのような真の平安が得られる本来の居場所があるでしょうか。どのような宗教を信じるのであれ、もし様々な宗教を少しずつつまみ食いをしているようであれば、決して真の平安を得ることは出来ないでしょう。そうではなくて、一つの教えに深く心を寄せるべきです。そして、「ああ、こここそが自分の本来の居場所だったのだ」と心の底から感じる場所にたどり着いた時、人は真の平安を経験することができます。
 皆さんのお一人お一人が、そのような本来の居場所にたどり着くことができますように、お祈りしています。
(以上、放送原稿)

「今」が終末の「終わりの日」
 ここまでが放送原稿の全文です。
 このメッセージの中で私は、神様は私たちの生死を越えて守って下さっているのだと話しました。それはつまり、「この世」でも「あの世」でも神様は私たちを守って下さるから、「この世」と「あの世」の境を越えて、いつ「あの世」に行くのか、それが早いのか遅いのかは、あまり気にしないほうが良いのだ、ということを話しました。どうしてそんなことが言えるのか、きょうの後半の時間を使って、ヨハネの福音書を見ながら、そのことを説明したいと思います。
 先ほど司会者に、きょうの聖書箇所をヨハネの福音書から三箇所、読んでいただきました。ヨハネ5章の箇所は終末の「終わりの時」に関するイエスさまのことばであり、11章と12章のラザロの箇所はヨハネ5章の「終わりの日」のことと密接に関連しています。
 まずヨハネ5章から見て行きましょう。このヨハネ5章から、神様は「この世」でも「あの世」でも私たちを守って下さるとはどういうことなのか、を説明したいと思います。まず、5章の24節から29節を交代で読みましょう。

5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
5:27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 このヨハネの福音書に書かれている終末の「終わりの日」の出来事の記事は、いろいろな点でマタイ・マルコ・ルカの福音書の終わりの日の出来事の記事と異なります。マタイ・マルコ・ルカの福音書の「終わりの日」に関する記事は、イエス・キリストがエルサレムに入京した後の、十字架が目前に迫った時に語られています。しかし、ヨハネの福音書では5章にありますから、かなり早い段階で「終わりの日」のことが語られています。また、マタイ・マルコ・ルカでは「終わりの日」の前兆として戦争やききんや地震のことが語られますが、ヨハネではそれらのことは語られません。そしてマタイ・マルコ・ルカとヨハネが何よりも違うのは、マタイ・マルコ・ルカでは「終わりの日」のことが未来のこととして語られているのに対して、ヨハネでは今のこととして語られている、ということです。
 24節に、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」とありますね。このおしまいの部分の「死からいのちに移っている」の「移っている」は、ギリシャ語の時制では未完了形という時制で書かれており、英語訳の場合には現在完了形で訳されています。英語の現在完了形というのは、例えば「Spring has come」というような文ですね。「Spring has come」は日本語では「春が来た」と訳されますが、もっと現在完了形的に訳すなら、「春が来て、今もまだ春の状態にある」ということになります。ですからヨハネ5章24節の「死からいのちに移っている」というのも、「死からいのちに移り、今もまだ移った状態にある」ということです。英語訳のNIV(New International Version、新国際訳)では、「he has crossed over from death to life」と訳されています。「彼は死から生への境を渡り、今も渡った状態にある」というわけです。
 ここから何が言えるかというと、つまりヨハネの福音書では、終末の「終わりの日」のことが「今」のこととして書かれているということです。「終わりの日」の出来事は未来の出来事ではなく、「今」起こっていることであるというわけです。
 そして次の25節には、「今がその時です」とあります。「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です」。ですから、まさしく「今」がその時なのです。もう少し詳しく説明すると、「死人が神の子の声を聞く時」には、恐らくは二つのことが重ねられていると思います。一つは、魂が眠っていて霊的に死んだ状態であった人が、霊的に覚醒するということです。そしてもう一つは、既に肉体において死んだ人が終末の「終わりの日」の最後の審判のことです。そして、この二つの時のいずれもが「今」なのです。「終わりの日」よりも前に起きる霊的な覚醒も、「終わりの日」にある最後の審判の両方ともが「今」のこととして語られています。
 このようにヨハネの福音書においては、すべてが「今」として語られています。これがヨハネの永遠観です。イエス・キリストは【過去】にも【未来】にもいて、【現在】の私たちとも共にいて下さいますから、すべてのことが「今」になります。イエスさまは永遠の中にいて、私たちの地上生涯の間も共にいて下さいますし、地上生涯を終えた後も、共にいて下さいます。この永遠の中にいるイエスさまを感じることができるようになると、心の平安をいっそう深く感じることができるようになります。

生死を越えて共にいて下さる永遠の中のイエス
 また、このことの理解は11章と12章のラザロと関連付けて読むなら、さらに良く理解できることでしょう。ヨハネ5章28節の、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」は、11章のラザロのよみがえりの場面と密接な関係を持っていますから、この28節の「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」を十分に頭に入れておいて、今度は11章を見ましょう。
 ヨハネ11章43節でイエスが「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ぶと、44節にあるようにラザロは墓から出て来ました。こうしてよみがえったラザロは、12章においても登場します。ヨハネ12章の1節と2節、

12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

 ラザロは一度死んだ人間です。そのラザロがよみがえって食卓に着いていました。ここにいるラザロをどう考えたらよいでしょうか。ラザロは一度、生と死の境を越えて、あちら側に行きました。では、ここにいるラザロは生き返って、こちら側に戻って来たのでしょうか。私はそうではないと思います。ラザロはあちら側で新しい命を受けてイエスさまと共にいると理解すべきだと考えます。ラザロは再びこちら側に戻って来たのではなく、あちら側でイエスさまと同じテーブルに着いているのです。よみがえりとは、こちら側に戻ることではなく、あちら側で新しい命を得ることです。そして、イエスさまは、こちら側においても、あちら側においても私たちと共にいて下さり、私たちを守って下さいます。
 このラザロのよみがえりの場面は、エルサレムの滅亡と復興とも重ねられていることを以前、お話ししました。永遠の中にいるイエス・キリストは、これらのすべてにおいて同時に存在して、私たちと共にいて下さいます。私たちがイエス・キリストを信じると心の平安を得ることができるのは、このように私たちと共にいて下さるイエスさまが永遠の中にいるからです。それゆえイエスさまは私たちの地上生涯の間も、地上生涯を終えた後も、共にいて下さいます。ですから、地上生涯を早く終えるか遅く終えるかということは、私たちはあまり気にしないほうが良いのです。あまり気にせずに全てを神の御手にゆだねていれば良いのだと思います。そのような信仰を持っていれば、災いを恐れることなく、日々を過ごすことができるでしょう。

おわりに
 12章でラザロはイエスさまと同じ食事のテーブルに着いていました。イエスさまは、生死の境のこちら側でもあちら側でも同じ食事のテーブルに着いて下さっています。詩篇23篇にも、食事のことが出て来ますね。最後に詩篇23篇の4節から6節までを交代で読んで、メッセージを締めくくりたいと思います(旧約聖書p.926)。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

 永遠の中にいるイエス・キリストはダビデとも共にいて、5節にあるようにダビデのために食事をととのえました。イエスさまはダビデの地上生涯の間も、ダビデが地上生涯を終えてからも共にいて下さいますから、ダビデもまたそれを感じて6節にあるように「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と思ったのでしょう。このような信仰を、私たちもまた持つことができたら幸いだと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神と伝道者との間の垂れ幕(2014.10.1 祈り会)

2014-10-02 12:05:18 | 祈り会メッセージ
2014年10月1日祈り会メッセージ
『神と伝道者との間の垂れ幕』
【伝道者3:1~11】

はじめに
 きょうも前半から私の担当ですので、この前半の時間は、後半の伝道者の書を理解するための前置きの時間として使わせていただきます。
 ここ何週間か「伝道者の書」を見て来て、私は伝道者と神との間に見えない「壁」のような物を感じていました。そして、どうやらその「壁」とは、「神殿の垂れ幕」らしいことがわかって来たので、きょうは、そのことを話させていただきます。

神殿の垂れ幕というバリア
 前回は伝道者の書の伝道者との比較の対照としてルカの福音書15章の放蕩息子の父親を見ました。放蕩息子の父親には後継者の息子たちへの愛が溢れていましたが、伝道者にはこの愛が欠落しているように見えるという話をしました。聖霊が注がれている新約の時代の私たちは、私たちもまた父親になるよう招かれていますが、旧約の時代の伝道者には、「父親になる」という発想が無いのですね。それがつまり神と伝道者との間にある「壁」であり、「神殿の垂れ幕」であるというわけです。
 さて、きょうは伝道者との比較の対照の人物として、ダビデを取り上げたいと思います。今回私は面白いことに気付きました。神の箱が幕屋の外にあった時には、主はダビデに直接語り掛けていましたが、神の箱が幕屋の中に運び込まれて以降は、主は預言者のナタンを通じてダビデに語り掛けるようになりました。幕屋(或いは神殿)の垂れ幕の存在は、こんな所にも作用しているように見えます。
 まず言葉の説明を簡単にしておきたいと思いますが、幕屋というのはダビデの息子のソロモンが神殿を築く前の、移動式の神殿のことです。神殿が築かれる前は、神の箱はイスラエルの民と共に移動していました。イスラエルの民は移動先で幕屋を組み立てて神の箱をそこに置き、移動する時には幕屋をたたんで運び、次の移動先でまた組み立てて神の箱を納めるということを繰り返していました。神の箱を運び入れる場所は、幕屋の中の至聖所です。至聖所の中と外とは垂れ幕で仕切られていて、この垂れ幕の中に入るのが許されているのは大祭司だけでした。ダビデやソロモンのような王といえども、垂れ幕の内側の至聖所に入ることは許されていなかったのですね。

至聖所の外にあった神の箱
 しかし、ダビデが王になるまでの一時期、神の箱が幕屋の中に置かれていなかった時期がありました。まず、その箇所を確認しておきましょう。詳しい経緯は時間の関係上省いて、神の箱の動きだけを見ておくことにします。まず、第一サムエルの4章を見て下さい(旧約聖書のp.471)。これは、まだダビデが生まれる前のことです。この時、イスラエル人とペリシテ人とは激しく戦っていました。そして4章2節に、イスラエルがペリシテ人に打ち負かされて約4千人が野の陣地で打たれたことが書いてあります。そして3節、

4:3 民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ【主】は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから【主】の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」

 イスラエルの長老たちは、神の箱が戦場に無かったから自分たちが負けたと考えたのですね。それで神の箱を戦場に運び込むことにしました。しかし、このことは逆にペリシテ人たちを奮い立たせることになり、イスラエルは負かされて神の箱は奪われてしまいました。9節から11節までをお読みします。

4:9 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」
4:10 こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。
4:11 神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ。

 さて、それから神の箱はあちこちを転々とすることになりました。6章の1節には、「主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった」とありますから、この7か月間は野ざらしになっていたようですね。そして、7章の1節と2節には次のように書いてあります。

7:1 キルヤテ・エアリムの人々は来て、【主】の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、【主】の箱を守らせた。
7:2 その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。

 1節に神の箱がアビナダブの家に運び込まれたことが書かれています。アビナダブの名は、ここで突然出て来ますので、アビナダブがどのような人物であったのかは、よくわかりません。いずれにしてもアビナダブの家の庭に幕屋が組み立てられたなどということはないと思いますから、神の箱はずっと幕屋の至聖所から外に出たままになっていました。そうして20年が経った頃というのが、ようやくダビデが生まれて少年になった頃でしょう。ですから神の箱はさらに、このアビナダブの家に置き続けられました。
 神の箱がアビナダブの家を出たのはダビデがイスラエルの王になってからでした。第二サムエルの6章を見て下さい(旧約聖書p.533)。6章の2節と3節、

6:2 ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の【主】の名で呼ばれている。
6:3 彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。

 この時はアビナダブの子のウザが神の箱に触れて主が怒ったために、神の箱をエルサレムに運び入れることは中止になりましたが、三か月後に神の箱はエルサレムのダビデの町に入りました。6章の15節と16節にそれが書かれていますが、14節から読みます。

6:14 ダビデは、【主】の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上った。
6:16 【主】の箱はダビデの町に入った。

 このダビデの町では、ちゃんと幕屋が組み立てられていましたから(Ⅱサムエル7:2)、神の箱は至聖所の垂れ幕の内側に置かれました。

ダビデに直接語り掛けていた主
 さて、今回私は面白いことに気付きました。先ほども話しましたが、神の箱が至聖所の外にあった時には主がダビデに直接語り掛けていたのに、垂れ幕の内側の至聖所に入ってからは、主は預言者ナタンを通してダビデに語り掛けるようになりました。第二サムエル5章19節を見て下さい。

5:19 そこで、ダビデは【主】に伺って言った。「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」すると【主】はダビデに仰せられた。「上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」

 23節でもまた、ダビデは主にお伺いを立てています。23節、

5:23 そこで、ダビデが【主】に伺ったところ、【主】は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。

 そうして、この直後の6章で、先ほど見たようにダビデは神の箱をエルサレムに運び入れました。

ナタンを通してダビデに語り掛けた主
 そして7章には、次のようにあります。1節から6節までを交代で読みましょう。

7:1 王が自分の家に住み、【主】が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、
7:2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」
7:3 すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。【主】があなたとともにおられるのですから。」
7:4 その夜のことである。次のような【主】のことばがナタンにあった。
7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。
7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。

 このように、神の箱が幕屋の中に入ってからは、主は預言者ナタンを通してダビデに語り掛けるようになりました。このことを私は大変に興味深く思うことです。

 では、ここで賛美歌を1曲、挟みたいと思います。
(賛美歌)

神との間に垂れ幕があった伝道者
 後半は、伝道者の書の学びです。伝道者の書の3章1~11節を交代で読みましょう。

3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。
3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。



 この伝道者の書3章の箇所、特に1節や11節は良く引用される箇所ですね。ここからは伝道者が神を十分に敬っている様子が見えます。だからこそ、説教などでも良く引用されると思うのですが、私はいつも何かが挟まっているようなモヤモヤを感じていましたので、私はこれまで説教で伝道者の書を積極的に引用したことはありませんでした。その何か挟まっているようなモヤモヤとは何か、それは神殿の垂れ幕なのだな、ということに今回気付いたというわけです。
 この書の記者が誰であれ、この伝道者はソロモンであることが想定されているのは確かです。ソロモンはダビデとバテ・シェバの間の子ですから、ソロモンが生まれた時には神の箱は既に幕屋の至聖所の中にありました。一方、ダビデが王になる前の苦難の中にあった時、神の箱は至聖所の外にありました。このダビデとソロモンとの違いは大きいのかなという気がしています。ソロモンの神に対する態度には、どこかよそよそしさを感じますが、ダビデは神を強く慕っていました。

神を強く慕っていたダビデ
 ダビデは神の箱をエルサレムに運び入れた時、神の箱の前で飛び跳ねて踊ったほどに神である主を慕っていました。またダビデの詩篇からも、主を強く慕っている様子が切々と伝わって来ます。例えば詩篇22篇はどうでしょうか(旧約聖書p.924)。詩篇22篇の1節と2節、

22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。

 ダビデは神を父親のように身近に感じているのに答えて下さいません。ダビデはその苦悩に悶えています。ダビデはこれほどまでに主を慕い求めていました。
 イエス・キリストもまた十字架上で「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫びました。マルコの福音書15章を見てみましょう(新約聖書p.101)。マルコ15章の33節と34節、これはイエス・キリストが十字架に付けられてからの場面です。

15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 ここからイエス・キリストもまた神を強く慕っている様子がわかります。そして、次のページの37節と38節、

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 こうしてイエス・キリストの十字架での死によって神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことで、私たちは神に大胆に近づくことが許されるようになりました。それまでは、神は垂れ幕の向こう側の至聖所にいて、私たちは容易に近づくことができませんでした。しかし、垂れ幕が裂けたことで、私たちはダビデのように神の御前で飛んだり跳ねたり、ダビデの詩篇のように喜怒哀楽を大胆に神にぶつけることもできるようになりました。
 しかし、私たちはどうでしょうか。私たちはダビデのように大胆に神様に近づいているでしょうか。どこか伝道者の書の伝道者のようによそよそしく神に接してはいないでしょうか。神様と私たちの間に神殿の垂れ幕が挟まってはいないでしょうか。
 私たちはもちろん、神様を十分に敬い、崇めています。それは伝道者の書の伝道者も同じです。伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と言っていますから、神を敬い、崇めています。しかし、伝道者と神様との間には神殿の垂れ幕が挟まっているように私には感じます。実際、旧約の時代には、きょう見たようなサムエル期の一時期を除いては、神は常に神殿の垂れ幕の向こう側にいました。

おわりに
 私たち新約の時代を生きる者たちは、神殿の垂れ幕の隔たりが無く、大胆に神に近づくことが許されています。ですから私たちは、この恩恵を大いに享受する者たちでありたいと思います。このことについては、次の礼拝でもまた、別の切り口から話してみたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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