2014年10月29日祈り会メッセージ
『宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える』
【エペソ3:7~21】
はじめに
先週から岩上敬人先生が講師のe-ラーニング『パウロの足跡をたどる』が始まりました。まだ始まったばかりですので、今はまだパウロがサウロであった時のことを学んでいます。サウロのことを学びながら、このe-ラーニングのパウロの足跡をたどる学びは、私自身の信仰の足跡をたどる良き機会にもなっていると感じ、感謝に思っています。
「神」としてのイエスとの出会い
既に何度も話したことがありますが、私が初めて高津教会を訪れた日は、藤本満先生によるガラテヤ書の講解説教の第1回目の日でした。この第1回目の説教が興味深かったので、その後、毎週この説教を聞きに高津教会の礼拝に通いました。そして確か第2回目の説教で、パウロが復活したイエス・キリストに出会って回心した話を聞きました。つまり、私は先ず、パウロの回心の話を通じて「神」としてのイエス・キリストに出会いました。多くの人は福音書に描かれている「人」としてのイエスに先ずは出会うと思うのですが、私の場合はそうではありませんでした。このように私のイエス・キリストとの出会い方の順番が一般的なクリスチャンとは異なるということは、私の中での神理解の形成の仕方も、一般のクリスチャンの神理解の順番とは違うということです。そして今、私はe-ラーニングでパウロについて思いを巡らしていて、私のイエス・キリストとの出会い方はパウロの出会い方に近いものであり、神理解の順番についても私はパウロに近いのだろうと感じています。もちろん細かいことについてはパウロとは全く違いますが、大まかな点については似ているところがあります。きょうは、そのパウロと私とで似ている点について話して、私が感じている使命、すなわち私が何のために伝道者として召し出されたのだろうかということについても、お証をさせていただきたいと思います。
パウロはユダヤ人ですから、信仰の土台にあるのは旧約聖書の神です。神は万物を創造しましたから、宇宙サイズの大きな神です。パウロがサウロであった時、十字架に掛かって死んだイエスを宇宙サイズの神と結び付けて考えることなどパウロにはできないことだったでしょう。しかし、ダマスコの途上で復活したイエス・キリストと出会ったパウロは、イエスに宇宙サイズの神の大きさを感じて旧約聖書の神と結び付けることができるようになったのだと思います。
私のイエス理解の経緯の証
一方の教会に通う前の私も、信仰の土台はありませんでしたが、宇宙サイズの大きな神仏に憧れる傾向は持っていました。仏教の宇宙観を表した曼荼羅に興味を持っていたことがありましたし、仏像は修行中の身の菩薩よりも、悟りを開いた後の如来により親しみを感じていました。菩薩は地上にいる感じですが、如来は宇宙にいるといった感じでしょうか。また私は、神社にもよく参拝に行っていましたが、神社に祀っている神に向かって祈るというよりは、その背後にいる大きな存在に向かって祈っているつもりでいました。例えば天満宮には菅原道真が祀られていますが、私が天満宮で祈る時、私は菅原道真に何かお願いをするのではなく、背後の大きな存在に対してお願いをしていました。それはどこの神宮や神社へ行っても同じでした。そして、どこの神宮や神社でも背後にいる大きな存在は共通の同じ存在なのだろうと感じていました。
そんな私がキリスト教会に持っていたイメージというのは、例えるなら、菅原道真を祀っている天満宮のような感じであったと言えるのではないかと思います。教会は菅原道真の代わりにイエス・キリストを祀っている、そんな感じです。そして私は教会の背後には大きな存在を感じてはいませんでしたから、私は教会には何も引かれるものを感じていませんでした。私は大きな存在に引かれていましたから、教会に私が求めているものは無いと思い込んでいました。
しかし、高津教会を訪れてガラテヤ書の講解説教を通じてパウロの回心を学んでから、キリスト教の神とは自分が思っていたよりも、もっと大きな存在であるらしいことに気付きました。それとともに、自分をこれまで守っていてくれていたのは、もしかしてキリスト教の聖書の神様ではないかと感じるようになりました。それまで私は、自分を守ってくれている存在がいることを感じていましたが、それが仏教の仏様なのか、神社の神様なのか、断定する材料が無いので、わからないままでいました。キリスト教に関しては、全く想定外でしたから考えてみたこともありませんでしたが、もしかしたら聖書に私を守ってくれていた存在のことが書かれているのではないかと思うようになりました。
そうして私はキリスト教の聖書に書かれている大きな神様が自分をこれまで守っていてくれた神であったことを確信するようになりました。もし私が福音書を通じてキリスト教を知ったなら信仰を持つに至ったかわかりませんが、パウロを通じてキリスト教を知ったのが良かったのだと思います。しかし、そんな私は一つ重大な問題を抱え込むことになりました。それは、福音書に描かれているイエス・キリストが私にとっては依然として菅原道真ぐらいの大きさのレベルにしか見えていないことでした。その問題は私が高津教会の一般信徒であった時には顕在化していませんでしたが、BTCに入ってから私は大きな問題として感じるようになりました。私はパウロが語る神としての大きなイエス・キリストには魅力を感じるものの、福音書が語る人間サイズのイエス・キリストには魅力を感じていなかったのです。私は大きなものに憧れますから、福音書が語るイエス・キリストは小さく見えて、あまり魅力を感じていませんでした。しかし、それではBTCを卒業してから牧師としてやって行けないだろうと思いました。それで私はもっと福音書に親しむ必要を感じて、2年生の秋からの男子寮での祈祷会での説教では福音書からイエス・キリストについて語ることに決めて、ヨハネの福音書を選びました。そうしてヨハネの福音書の学びを通じて、私はイエス・キリストが菅原道真レベルとは全然違う、宇宙レベルの大きさの存在であることが分かって来ました。
宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える使命
以上のように、私の場合、パウロが語る神としての大きなイエス・キリストと、福音書(特にマタイ・マルコ・ルカの共観福音書)が語る人間サイズのイエス・キリストとのギャップが埋まるのに少なからず時間を要しました。この私自身の信仰の足跡を、今のe-ラーニングの「パウロの足跡をたどる」で思い返しているわけですが、そこで私は私に与えられた使命を改めて再確認しているところです。それは、パウロがエペソ書やコロサイ書に書いたような宇宙サイズの大きな存在のイエス・キリストを、ヨハネの福音書を用いて人々に宣べ伝えることが私の使命であろうということです。
教会に通うようになる前の私にとってのキリスト教会とは、菅原道真の代わりにイエス・キリストを祀っている天満宮のようなものだったという話をしました。そして、聖書を知らない多くの日本人にとっても教会とは、実はそのような存在なのではないかと感じています。そうであれば、日本人は皆、神社に熱心にお参りしていますから、特に教会に行く必要はないわけです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストが菅原道真のレベルではなくて、もっと大きな存在であることを知っていますから、その大きな存在であるイエス・キリストと出会ってもらいたくて熱心に伝道するわけですが、あまり上手く伝わってはいないようです。それはもしかしたら、クリスチャンの多くが、先ずは福音書を通じて人間サイズのイエス・キリストに出会うところから信仰が始まっているからではないかと、私は思うようになって来ています。人間サイズのイエスから語り始めるから、人間サイズのイエスしか伝わらないのではないか。人間サイズのイエス・キリストももちろん大事ですが、それでは日本人が菅原道真をやめてイエス・キリストの方を向くことはないのではないか。或いは平和の問題にしても、人間レベルのイエス・キリストを信仰している間は、平和は訪れないのではないか。宇宙レベルのイエス・キリストを信仰して初めて平和が訪れるのではないか、そんなふうに思うわけです。
人間レベルのイエス・キリストを宣べ伝えることは、もちろんとても重要なことであり、必要なことです。大きなことを考えることが苦手な人々は大勢いますから、そのような方々に寄り添うことは、とても大事なことです。しかし、それと同時に宇宙レベルの大きなイエス・キリストを宣べ伝えることも大事なことだと思います。パウロは、その両方ができた使徒だと思います。
おわりに
きょうの聖書箇所のエペソ書3章は、そのような宇宙レベルの大きさのイエス・キリストの愛を知ることができるようにとパウロが祈っているところです。17節から19節までを交代で読みましょう。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
もう一箇所、コロサイ書1章の15節から17節までも交代で読みましょう(新約聖書p.390)。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
人間サイズのイエス・キリストと共に、今ご一緒に読んだような宇宙サイズのイエス・キリストのことが広く理解されるようになるなら、世界は必ず良い方向に向かうだろうと私は信じています。そのためには多くの工夫が必要であり、その工夫を試行錯誤する過程では沼津教会の皆さんにご忍耐をいただくことにもなると思います。しかし、私の使命である宇宙サイズのイエス・キリストの伝道する道を、私は皆さんと共に開拓して行きたいと願っていますから、今後ともご協力を願えればと思います。
お祈りいたしましょう。
『宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える』
【エペソ3:7~21】
はじめに
先週から岩上敬人先生が講師のe-ラーニング『パウロの足跡をたどる』が始まりました。まだ始まったばかりですので、今はまだパウロがサウロであった時のことを学んでいます。サウロのことを学びながら、このe-ラーニングのパウロの足跡をたどる学びは、私自身の信仰の足跡をたどる良き機会にもなっていると感じ、感謝に思っています。
「神」としてのイエスとの出会い
既に何度も話したことがありますが、私が初めて高津教会を訪れた日は、藤本満先生によるガラテヤ書の講解説教の第1回目の日でした。この第1回目の説教が興味深かったので、その後、毎週この説教を聞きに高津教会の礼拝に通いました。そして確か第2回目の説教で、パウロが復活したイエス・キリストに出会って回心した話を聞きました。つまり、私は先ず、パウロの回心の話を通じて「神」としてのイエス・キリストに出会いました。多くの人は福音書に描かれている「人」としてのイエスに先ずは出会うと思うのですが、私の場合はそうではありませんでした。このように私のイエス・キリストとの出会い方の順番が一般的なクリスチャンとは異なるということは、私の中での神理解の形成の仕方も、一般のクリスチャンの神理解の順番とは違うということです。そして今、私はe-ラーニングでパウロについて思いを巡らしていて、私のイエス・キリストとの出会い方はパウロの出会い方に近いものであり、神理解の順番についても私はパウロに近いのだろうと感じています。もちろん細かいことについてはパウロとは全く違いますが、大まかな点については似ているところがあります。きょうは、そのパウロと私とで似ている点について話して、私が感じている使命、すなわち私が何のために伝道者として召し出されたのだろうかということについても、お証をさせていただきたいと思います。
パウロはユダヤ人ですから、信仰の土台にあるのは旧約聖書の神です。神は万物を創造しましたから、宇宙サイズの大きな神です。パウロがサウロであった時、十字架に掛かって死んだイエスを宇宙サイズの神と結び付けて考えることなどパウロにはできないことだったでしょう。しかし、ダマスコの途上で復活したイエス・キリストと出会ったパウロは、イエスに宇宙サイズの神の大きさを感じて旧約聖書の神と結び付けることができるようになったのだと思います。
私のイエス理解の経緯の証
一方の教会に通う前の私も、信仰の土台はありませんでしたが、宇宙サイズの大きな神仏に憧れる傾向は持っていました。仏教の宇宙観を表した曼荼羅に興味を持っていたことがありましたし、仏像は修行中の身の菩薩よりも、悟りを開いた後の如来により親しみを感じていました。菩薩は地上にいる感じですが、如来は宇宙にいるといった感じでしょうか。また私は、神社にもよく参拝に行っていましたが、神社に祀っている神に向かって祈るというよりは、その背後にいる大きな存在に向かって祈っているつもりでいました。例えば天満宮には菅原道真が祀られていますが、私が天満宮で祈る時、私は菅原道真に何かお願いをするのではなく、背後の大きな存在に対してお願いをしていました。それはどこの神宮や神社へ行っても同じでした。そして、どこの神宮や神社でも背後にいる大きな存在は共通の同じ存在なのだろうと感じていました。
そんな私がキリスト教会に持っていたイメージというのは、例えるなら、菅原道真を祀っている天満宮のような感じであったと言えるのではないかと思います。教会は菅原道真の代わりにイエス・キリストを祀っている、そんな感じです。そして私は教会の背後には大きな存在を感じてはいませんでしたから、私は教会には何も引かれるものを感じていませんでした。私は大きな存在に引かれていましたから、教会に私が求めているものは無いと思い込んでいました。
しかし、高津教会を訪れてガラテヤ書の講解説教を通じてパウロの回心を学んでから、キリスト教の神とは自分が思っていたよりも、もっと大きな存在であるらしいことに気付きました。それとともに、自分をこれまで守っていてくれていたのは、もしかしてキリスト教の聖書の神様ではないかと感じるようになりました。それまで私は、自分を守ってくれている存在がいることを感じていましたが、それが仏教の仏様なのか、神社の神様なのか、断定する材料が無いので、わからないままでいました。キリスト教に関しては、全く想定外でしたから考えてみたこともありませんでしたが、もしかしたら聖書に私を守ってくれていた存在のことが書かれているのではないかと思うようになりました。
そうして私はキリスト教の聖書に書かれている大きな神様が自分をこれまで守っていてくれた神であったことを確信するようになりました。もし私が福音書を通じてキリスト教を知ったなら信仰を持つに至ったかわかりませんが、パウロを通じてキリスト教を知ったのが良かったのだと思います。しかし、そんな私は一つ重大な問題を抱え込むことになりました。それは、福音書に描かれているイエス・キリストが私にとっては依然として菅原道真ぐらいの大きさのレベルにしか見えていないことでした。その問題は私が高津教会の一般信徒であった時には顕在化していませんでしたが、BTCに入ってから私は大きな問題として感じるようになりました。私はパウロが語る神としての大きなイエス・キリストには魅力を感じるものの、福音書が語る人間サイズのイエス・キリストには魅力を感じていなかったのです。私は大きなものに憧れますから、福音書が語るイエス・キリストは小さく見えて、あまり魅力を感じていませんでした。しかし、それではBTCを卒業してから牧師としてやって行けないだろうと思いました。それで私はもっと福音書に親しむ必要を感じて、2年生の秋からの男子寮での祈祷会での説教では福音書からイエス・キリストについて語ることに決めて、ヨハネの福音書を選びました。そうしてヨハネの福音書の学びを通じて、私はイエス・キリストが菅原道真レベルとは全然違う、宇宙レベルの大きさの存在であることが分かって来ました。
宇宙レベルの大きなキリストを宣べ伝える使命
以上のように、私の場合、パウロが語る神としての大きなイエス・キリストと、福音書(特にマタイ・マルコ・ルカの共観福音書)が語る人間サイズのイエス・キリストとのギャップが埋まるのに少なからず時間を要しました。この私自身の信仰の足跡を、今のe-ラーニングの「パウロの足跡をたどる」で思い返しているわけですが、そこで私は私に与えられた使命を改めて再確認しているところです。それは、パウロがエペソ書やコロサイ書に書いたような宇宙サイズの大きな存在のイエス・キリストを、ヨハネの福音書を用いて人々に宣べ伝えることが私の使命であろうということです。
教会に通うようになる前の私にとってのキリスト教会とは、菅原道真の代わりにイエス・キリストを祀っている天満宮のようなものだったという話をしました。そして、聖書を知らない多くの日本人にとっても教会とは、実はそのような存在なのではないかと感じています。そうであれば、日本人は皆、神社に熱心にお参りしていますから、特に教会に行く必要はないわけです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストが菅原道真のレベルではなくて、もっと大きな存在であることを知っていますから、その大きな存在であるイエス・キリストと出会ってもらいたくて熱心に伝道するわけですが、あまり上手く伝わってはいないようです。それはもしかしたら、クリスチャンの多くが、先ずは福音書を通じて人間サイズのイエス・キリストに出会うところから信仰が始まっているからではないかと、私は思うようになって来ています。人間サイズのイエスから語り始めるから、人間サイズのイエスしか伝わらないのではないか。人間サイズのイエス・キリストももちろん大事ですが、それでは日本人が菅原道真をやめてイエス・キリストの方を向くことはないのではないか。或いは平和の問題にしても、人間レベルのイエス・キリストを信仰している間は、平和は訪れないのではないか。宇宙レベルのイエス・キリストを信仰して初めて平和が訪れるのではないか、そんなふうに思うわけです。
人間レベルのイエス・キリストを宣べ伝えることは、もちろんとても重要なことであり、必要なことです。大きなことを考えることが苦手な人々は大勢いますから、そのような方々に寄り添うことは、とても大事なことです。しかし、それと同時に宇宙レベルの大きなイエス・キリストを宣べ伝えることも大事なことだと思います。パウロは、その両方ができた使徒だと思います。
おわりに
きょうの聖書箇所のエペソ書3章は、そのような宇宙レベルの大きさのイエス・キリストの愛を知ることができるようにとパウロが祈っているところです。17節から19節までを交代で読みましょう。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
もう一箇所、コロサイ書1章の15節から17節までも交代で読みましょう(新約聖書p.390)。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
人間サイズのイエス・キリストと共に、今ご一緒に読んだような宇宙サイズのイエス・キリストのことが広く理解されるようになるなら、世界は必ず良い方向に向かうだろうと私は信じています。そのためには多くの工夫が必要であり、その工夫を試行錯誤する過程では沼津教会の皆さんにご忍耐をいただくことにもなると思います。しかし、私の使命である宇宙サイズのイエス・キリストの伝道する道を、私は皆さんと共に開拓して行きたいと願っていますから、今後ともご協力を願えればと思います。
お祈りいたしましょう。